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おんりーらぶ!?【第二部】  作者: コー
中央の大陸『ヨーテンガース』 ドラクラス編
67/68

第71話『光の創め14---選択者たち---』

“――――――”


 大切な宝物はありますか?


 ……どうしたんだい変な顔をして。

 退屈だから話でもしようと言っていたのは君たちじゃないか。


 いいアイディアだと思ったよ。

 山の天気は変わりやすいって聞いたことがある。

 おしゃべりでもしていればすぐに雨も止むだろう。


 僕? 僕はただの旅行者さ。


 アイディアのお礼に、僕から話そうと思ってね。

 ……僕が経験した恐怖体験だ。


 大切な宝物。


 ああいや、大切だから宝物だし、宝物なら大切だ。

 そういう話じゃない。


 なんというか、ただ単に宝物と言うと物足りなくて、言葉を足したくなるんだよ。


 大切な宝物、とね。


 いや、見せないよ。

 僕は、見せびらかしたりしない。

 そんなものは宝物じゃないよ。


 宝物を誰かに自慢をしたいって人もいるけど、僕とは友達になれそうにないね。


 綺麗な箱を用意して、しっかり鍵をかけて、誰の目にも触れさせない。

 自分の宝物なんだ、自分だけで楽しむもんだ。


 もちろん大変さ。

 だってその宝物は、自分が全責任を負うんだよ。

 楽しむだけってのは、宝物のことを分かっていない。


 傷は勿論つけないし、毎日磨くし、ちゃんと面倒をみてこそ自分だけの宝物さ。


 君たちはどう?

 そういう覚悟がちゃんとある?


 ……え? 見たいって言われても……、もう見せられない。そもそも人には見せたくないしね。

 だから、話だけさ。


 大切な宝物。

 僕の場合は人だった。


 芯が通っていて、気高く、賢くて、美しい。

 燃えるような真っ赤な瞳がいつでも輝いている。

 正義感に溢れ、優しく、勇敢で、強かった。


 本当に素敵な女性だ。


 もちろんそうさ、恋をしたよ。


 ……え?

 なんだよ、ちゃんと話を聞いていたのか?


 ちゃんと箱を用意して、鍵をかけて、自分だけで楽しんでいたさ。

 おいおい、なめてもらっちゃ困るよ。

 慣れているからね、お世話に抜かりはないさ。彼女も幸せだったに違いない。


 ……そうそう。

 僕は今ブルーでね。


 いくらか前、記憶があいまいなんだけど、宝物を楽しんでいたと思ったら、気づいたら自分のベッドで寝ていたんだ。

 流石にびっくりしてね、寝起きなのに目が冴えて、すぐに宝物を見にいったよ。


 そしたらいつも通り箱には鍵がかかっていた。


 はっは、夢じゃないさ。ここからが僕の恐怖体験だよ。


 不思議も不思議。

 箱の中、宝物が無かったんだ。


 ……いやいや、そんな甘っちょろい箱じゃないよ。

 僕の家の地下は広くてね。

 箱から出ても、僕と一緒じゃなきゃ外になんか出られない。念のために宝物に出逢った場所を探しに行ったりもしたけど、手掛かりすら見つからない。

 自分の手腕が裏目に出たと後悔したよ。


 ぞっとしたね。だから覚えた感情は、きっと恐怖というものなんだろう。


 夢と言うなら、彼女に出逢ったときから夢だったと言われた方が現実的さ。

 最初からいなかったかのように、彼女は忽然と消えてしまったんだ。

 それから何をやっても身が入らないというか、ぼうっとしてしまうことが増えたよ。


 初めてだからショックだった。僕は今までの宝物にはちゃんと別れを告げられていたから。

 失って初めて気づくなんて月並みな表現だけど、大切なものはそういうものだという教訓を得たね。


 まあそんなわけで、これでも僕は忙しいんだ。

 雨に降られるなんてついていない。

 早く新しい宝物を探さなくちゃいけないのに。


 さ、僕の話には満足してくれたかい?

 じゃあ次は僕が話を聞きたい。時計回りかな? 君の番だ。


 ……ん?

 だから瞳は赤だって。

 きらきらとした、綺麗な瞳だ。


 ……おや、僕の顔に何かついているのかい?


―――猟奇殺人犯の怪談より。


――――――


 おんりーらぶ!?


――――――


 『智の賢帝』シャロッテ=ヴィンテージは、その聡明なる頭脳で現状分析に勤めていた。


 現在ドラクラスは、海と見紛うほどのネーシス大運河を水源としている。


 何人駆り出されたかは知らないが、運河の側面の大地を掘り返して巨大な湖が作られており、その周囲はずらりとろ過装置と設備が並んでいる。

 もともと雨水などをドラクラス自体でろ過する仕組みはあるらしいが、この辺りの降水量は極めて低い。

 昨今の引っ越し騒動で人口が爆発的に増えたこともあり、現在地では大運河からの水の確保に、ドラクラスは昼夜を問わず水の運搬に馬車が行き来していた。


 大運河の活用方法はそれだけではない。

 巨大な湖からは、堰を建ててさらに水が引かれており、川下には、農作物を確保するための、かなりの規模の畑を管理する村が造り上げられている。

 永住できそうなほど整えられた環境で、しかし、あくまで一時的なものだった。

 ドラクラスが次に移動した際は、不要な廃村になるのだ。


 ドラクラスが移動するためだけに、湖を作り、川を生み出し、村を作る。

 動く人や金、そしてものの規模が、現実離れしていた。

 “街の引っ越し”というこの騒動では、常識を覆す現象が、現実のものとして目の前で実現されていた。


 シャロッテはと言えば、そうした環境作りに必要な設備の点検に協力していた。


 元は技術者たちの護衛依頼という名目であったが、博識な『智の賢帝』がその役割で収まらないのは自然の摂理というものだろう。


 魔物対策を仕切るドラクラスの魔導士隊と、拠点構築を仕切るタイローン大樹海の民族が協力して環境を作り上げたとはいえ、その維持にはその両方に見識のある人物が不可欠である。

 一介の旅の魔術師の身でありながら、その役を担えるのはこの騒動で集まった大量の人間の中でもほんの一握りであろう。


 そのせいで少々過剰な労働を強いられたような気もするが、この『智の賢帝』にとっては些細なことだ。

 結果、シャロッテは旅の魔術師の枠を超え、この拠点の管理者を代行するまでに至っていた。

 そのせいで口外できない危険な話も知ることになったが、それほど重要な地位につくのも、知らないことが無いのもいつも通りだ。


 要するに、ここはシャロッテのホームグラウンドである。

 ほとんどすべてのものがそうだが、特にこの場所では知らないことは無いと言い切れる。


 そんなシャロッテは、この場にいると、いつも以上に自信が漲ってくる。

 自分ひとりの力ではないが、この拠点は、シャロッテにとって宝物だ。


 そうした余裕と生まれた優しさから、久々の休日であったとしても、他人の仕事の面倒も見ることもできた。

 シャロッテとしても、一層の資金も稼げ、言うことはない。


 ついでに、ほんの些細なことではあるが、仕事仲間を、自分が携わったこの“作品”を隅々まで案内しながら、失われた休日の代わりに、村を満喫するのも悪くないようなことも考えた。

 ドラクラスで準備するとき、急ぎながらもいくらか服を厳選したのも、カラーコーディネートが気に入らないと馴染みの店に駆け込んだのも、常人以上の思考を凝らす『智の賢帝』としては当然のことだ。


 だから、村の設備の点検ではなく、遠方の堰の点検になったことや、ちょっとした手違いから、組み合わせ自体が分かれてしまったことなど、まるで気にしていない。


「……シャロッテ。大丈夫? ……もちろん大丈夫よね。どんなことだって乗り越えてきたのだもの。ちょっと躓いただけのことで、大局を見失ったりしない。むしろチャンスと捉えているわよね? こんな些細な向かい風で、より高みを目指せるんだもの」

「……、…………」


 イスカ=ウェリッドは有り余る恐怖を目の前の人物から感じていた。

 何やら俯き加減で歩き、呪詛のような言葉が漏れている。

 自分は耳がいいようだが、あまりいい思い出は無い。今回も、聞こえてしまうと、呪いをそのまま受けているような悪寒がした。


 民間の職を希望していたイスカでも、『智の賢帝』の噂は聞いたことがある。

 悪名高い『雪だるま』よりはマシだが、彼女が現れるのはその場に危機が迫っているからだという。

 起こってみて初めて分かるような危機を検知しているように、不可解な事件の渦中に彼女はいる。


 そう聞くと、彼女の存在は何らかの予兆のように思われるが、もちろん彼女が原因ではない。

 彼女がいるから起こる、ではなく、彼女がいたからこそ危機を凌ぐことができるのだという評価が大半で、基本的には歓迎され、旅の魔術師でも指折りの有名人だ。

 幼い頃にイスカが憧れた、旅の魔術師という夢の体現者である。


 そんな『智の賢帝』シャロッテ=ヴィンテージを見ていると、卑屈かもしれないが、羨望より嫉妬が生まれてしまう。

 今は旅の魔術師ではないイスカからすると関係ないはずだが、感情は簡単には割り切れない。

 なんとも中途半端な自分にまた嫌気が差し、それを揉み消すように、また他人を妬んでしまう。


 そもそも会ったときから、少し、嫌な感じはしていた。

 なんか睨まれるし。


「イスカ嬢。あの小屋を超えたらまたしばらく設備はありません。魔術師隊の管理外になりますので、十分な警戒を」

「ええ。分かったわ」

「何故顔を隠す」


 イスカとシャロッテのふたりは、ネーシス大運河から引いた川沿いの道を歩いていた。

 荒野に近い大自然の中引かれた川辺は、伐採と踏み荒らされた地面のせいで、視野は広く、歩きやすい。

 運河からさらに引いた川は、それでも思い切り石を投げても向こう岸に届かないほど幅広かった。


 この川を上っていくと、自分たちの目的地であるネーシス大運河の付近に作った“湖”に辿り着くそうだ。

 その湖は貯水槽の役割をしているらしく、堰で水の流れを調節しているらしい。


 イスカ自身の依頼は、天気が崩れる前に、その堰の点検を行うシャロッテの護衛である。

 と言っても、護衛相手は『智の賢帝』。

 その上一定の距離で魔術師隊が管理する小屋があり、さほど危険な魔物もいないともなればやる前から結果は見える。


 川の途中にも、2,3キロ離れて2か所ほど川の流れを抑える小さな堰の仕掛けがあり、魔術師隊か警護団から駆り出された人員かは知らないが、その施設の警護をしているらしい。

 あちらの仕掛けの点検はアキラたちが担当するとのことで、自分たちはとにかく歩いているだけだ。


 はっきり言ってやることがない。

 イスカが気にするのは、あの小屋に、たまたま様子を見に来た魔導士だか魔術師がいるかかどうかだけだ。


「……イスカ嬢。少々お話をうかがっても?」


 周囲を警戒しながら、シャロッテがじとりと睨んできた。

 また睨まれた、が、今回はこちらの挙動のせいであろう。


「は、話? なにかしら」

「……。その前に言わせてもらいたいんですが。小屋を通りながら挨拶している後ろで、スーツで顔を包む同行者といる私の気持ちが分かります?」


 眼を逸らしたが、視線が強い。

 先ほど挨拶していたときも、にこやかに振っていた手が震えていたような気もする。

 機嫌も悪いのかもしれない。


「……別に、いいでしょう。そういう気分だったの」


 機嫌が悪いのはこちらもそうではある。

 今日は散々な目に遭った。自分のせいではあるが。


 とはいえ、あまり好ましくない相手だとしても、仕事を紹介してもらった相手でもある。

 ここは大人の対応で、ぐっと堪えて辛うじて笑みを作った。


 しかし、ふっとシャロッテは肩の力を抜いた。


「『雪だるま』。その辺りに何かご事情がありそうですね」


 その名を聞いて、びくりとしなかったのは初めてだったかもしれない。

 眺めの前髪に隠れた瞳が、静かな色をしていた。


「……やっぱり知っていたのね」

「私が知らないことはありません。先ほどアキラ氏には聞きそびれてしまいましたが、特異なご事情があるなら依頼の前に聞いておいた方がいいと思ったんです」


 シャロッテは、辺りに気を配りながら歩き続ける。

 イスカより小柄な彼女だが、元名家の娘の目から見ても優雅で、目を離せない存在感があった。


「わ、私が怖くはないの?」

「怖い? よからぬことでも考えているんですか?」


 落ち着き払った声だった。

 イスカに背を向けているのに、先ほどのようには震えていない。


 どこに行っても腫物扱いの危険人物『雪だるま』。

 確かに、すべての人に拒絶されたわけではない。中には受け入れてくれた者もいた。

 だが、そんな人たちでも、最低限、イスカから目を離そうとはしなかった。


 彼女のこれは、きっと信頼ではない。

 ただ彼女は、普通に接しているだけだ。


 噂からの恐怖でもない。力への羨望でもない。強がりでもないだろう。

 『雪だるま』を知っていてなお、ただひとりの人間に対して彼女は接している。


「話したくなければ構いませんが、ここは私の顔が利きます。お困りのことがあれば言っていただければ、と。その代わりしっかり働いてもらいますが」


 嫌な感じがしたのは気のせいで、やっぱりいい人だ。

 イスカは目を輝かせ、離れかけたシャロッテを早足で追いかける。

 その間も、シャロッテは警戒する素振りすら見せず、優雅に歩いていた。


「イ、イスカ嬢? どうしたんです?」

「……え、あ、涙……? ごめんなさい。最近は特に、人間扱いされていなかったから」

「は?」


 頬を伝う涙を拭うと、シャロッテがぎょっとした表情でイスカを見つめてきた。


「ああ、宿の従業員のトレーニングという名の虐待で酷い目に。今日はようやくの休日だったのだけど、その、酷い目に」

「な、なんだ。ええと、何か壊れたとかアキラ氏が言っていましたね。…………そういえば、民間のお仕事をご希望されているんですか?」

「ええ。べ、別にいいでしょう?」

「誤解無きよう。中傷ではないですよ。何事も量や難易度の違いがあるだけで、優劣自体はないですから」


 知らないことは無いと豪語する彼女だからこそ、本当の意味でそう言えるのかもしれない。


 イスカとしては、昔は旅の魔術師が最も優れた職だと思っていた。

 自分だけではないだろう。魔導士隊は強い自負を持っているし、自由な旅の魔術師は我が道こそが史上であると思う者もいる。

 民間の仕事でも、職種によって優劣があると考える人もいるだろう。

 口では何と言っても、現実に優劣というものはある。


 だが賢人の言葉は、そうした様々な思考よりも高い次元から俯瞰的に見ているように聞こえた。


「……そう、そうよシャロッテ。ちょっとした手違いで魔術師隊になれなかったのだって些細なこと。優劣なんかない。そんなこと思っちゃ駄目。何をしていても私は私だもの……」

「シャロッテ?」


 自己暗示だったのかもしれない。優劣は無くても好みはあるのだろう。

 震えるシャロッテを刺激しないように距離を取ると、遠目に小屋が見えた。

 シャロッテを信じるならば、今度は顔を隠して通る必要もないのかもしれない。


「……あ。もう見えてきましたね。珍しく魔物が出ませんでした。この分だとすぐにおわ……、そうか。すぐに終わらせれば」


 自己暗示から解放されたシャロッテが、瞳を細めた。


「……。…………。イスカ嬢。聞きたいことが」

「わ、私の話を聞いてくれるのかしら?」

「? い、いえ。ご事情があるなら話したくなるまで結構ですよ? 私が聞こうとしていたのは、……。……アキラ氏のことで」


 シャロッテならば自分の話を最後まで聞いてくれるような希望を抱いたが、残念ながら、自分の話を最後まで聞いてくれた男の話をしたいらしい。


 散々周囲に気を配っていたシャロッテが、今まで以上に周囲を警戒し出した。

 先ほど呪詛を漏らしていた以上に、挙動不審に見える。


「ご存じだったら知りたいのですが。…………アキラ氏は、今どなたかと交際されていますか?」


 『雪だるま』が凍り付いた。

 賢人が、依頼中にアホなことを言い出したような気がした。


「い、いえ、す、少し前にアプローチを受けまして、きちんとお返事をできていない、ので、その、」

「はあ?」


 賢人の言葉なので素直に受け取るべきかもしれないが、イスカの口からは強い疑問符が出た。


「誠意に対して何もしないのは不義理でしょう。なので、その、多少は気遣いをせねばと」

「……」


 これでも一応、イスカは世界を旅している。

 そういう色恋沙汰の話を聞かなかったわけではない。

 だが、そうした感情は、イスカにとってはトラブルの元でしかなかった。

 もちろん上手くいっている人たちも見たことはあるが、周囲が善意的に捉えている風を装い、配置換えや退職を勧めるなどして、仕事に影響が出ないように計らわれることもあるのだ。

 明日どころか今日の食い扶持すら怪しいイスカにとっては生死に関わるものである。


「お恥ずかしい話ですが、その辺りの経験はほんの少し浅く。……ま、まあ、もちろん知識は持ち合わせていますが」


 さっき彼女が大きく見えていたのは気のせいだったかもしれない。

 声も掠れるようだ。何でも知っているとは何だったのか。

 だが、知らないことは恥をかいてでも知ろうとするからこそ『智の賢帝』なのかもしれない。


 ヒダマリ=アキラのこととなると、彼女は最初から自分に目を付けていたのだろう。

 イスカは彼の経営する宿の従業員である。

 近すぎず、遠すぎず、彼の様子を知る相手としてイスカは適任と思ったのだろう。


 深読みし過ぎているかもしれないが、相手は『智の賢帝』である。考え過ぎということは無いだろう。

 イスカの認識としても最適解に近い。

 その先はノープランのように見えるが。


「……。彼を傷つけずにお断りする方法を知りたいと?」

「え。…………。ま、まあ、遠からず近からず、と申しますか。て、展開次第にはなるでしょうかね」

「……」


 シャロッテを好意的に思っていたイスカだが、恐ろしく面倒なことに巻き込まれかけているような気がした。

 頭がいいのが関係あるのかもしれないが、彼女の答えはシンプルに見え、しかしありとあらゆる思考を凝らしてしまっているように思える。


 とはいえ今のシャロッテは職を紹介してくれた存在である。

 好意云々は別にしても、少し前のイスカであれば神にも等しい存在として扱っていただろう。

 邪険に扱うのも阻まれる。


「……止めた方がいいわ」


 “だからこそ、イスカは冷たく言い放った”。

 短い付き合いだが、感覚的に、ヒダマリ=アキラがどういう人間なのか分かったような気がする。

 旅の途中、そういう人を幾度か見たこともあった。


 シャロッテは、彼がアプローチを仕掛けたと言うが、その感覚に従えば、それはあり得ない。


「……なにかご存じなのですか? もしや、噂で聞く、婚約者のお話は本当に……?」


 イスカの言葉を聞いて、シャロッテは眉を寄せて考え始めた。イスカが想像もできない速度で彼女の思考は進んでいっているのだろう。


 ヒダマリ=アキラとその仲間たちは七曜の魔術師と呼ばれている。

 イスカと同郷のエレナ=ファンツェルンもそのうちのひとりだ。

 話題の勇者様には婚約者がいるという話もどこかで聞いたことがあった。

 だが、それ自体は、特にエレナがそうな気もするが、周囲は気にしていないよう思える。


 問題は、外堀ではない。


 イスカは、今は魔門破壊の依頼でドラクラスを離れているそのエレナから、強く言いつけられていることがあった。


 ヒダマリ=アキラの姿を毎日必ず視界に収めること。


 イスカが地獄のようなトレーニングから、命からがら逃げていたのは、保身のためだけではない。

 人間観察はそれなりにできる。

 言われたときは分からなかったが、彼の様子を見ていて、徐々に理解できてきた。


 彼は。

 一般的な思考と感性を持ち、中途半端な自分に自己嫌悪。

 凄いものは凄いと素直に感心するし、嫌なものは嫌なものだと顔に出し、表情は上手く隠せない。

 意見もころころ変わるし、頼りない印象を受けることもある。

 本人は、何事もきちんと考えているつもりだろうし、真摯に向き合っているつもりだろう。

 それでも上手くいかなくて、時折奇行に走ると周囲からは見えているかもしれない。

 気が大きくなれば軽薄な言葉が出てくるし、誤解を生むことに気づかないほど浅慮だ。

 先程ドラクラスでも感じたが、シャロッテが誤解したのも、ああいういい加減な彼の気質のせいだろう。


 だがそれは、彼の表面上のものだ。

 本人も意識しているわけではないだろう。


彼が中途半端な根本的な原因は―――特定のこと以外、“そもそもどうでもいいから”である。


「彼は、仲間のことと、そうじゃないことの見方の差が大きいみたい。腹立たしいことに私が相手にされていないのもそうなのかも……。要は、そうじゃない人に何をされても、ちょっといい気になるかもしれないけど、上手くいくとは思えないわ」


 本当の意味で意識向けられるものは成功し、その逆はほとんどの場合失敗する。

 そのギャップで悩む人は幾度か見たことがあった。

 何より深刻なのは、本人がそれに気づいていない場合だ。


 自己評価が低いと、失敗というものを綺麗に分析できない。

 自分の意識が向いているものの失敗は、やったことを振り返るべきで、そうでないものは、枝葉の問題ではなく意識の問題だと整理すべきである。

 しかし両方やったことを振り返ってしまうせいで、理由が分からない失敗経験が積み重なっていってしまうのだ。

 そしてそのせいで、また自己評価を下げてしまう。


 彼の場合は一層そうだろう。

 何より大切な仲間という軸があるのに、普通の感性で、その他のことでもばっさりと切り捨てることが出来ず、つい手を伸ばしてしまうから、理由の分からない失敗経験が増えていく。


 そういう意味ではイスカにとって理想的な職場であった。

 ヒダマリ=アキラの意識は、根本的に彼女たちに向いている。

 トラブルは所詮第三者のイスカには無縁だろう。

 あまり考えたくはないが、もし自分が彼の仲間のエレナと友人でなければ、今後のご活躍をお祈り申し上げられていたかもしれない。


「……なるほど。今は機でないと。では、まずは親交を深めていくところからですか」


 賢人が真剣な顔で何か言っていた。凄まじく前向きな姿勢だ。

 高速回転しているであろう思考に口を挟むと巻き込まれそうなので、イスカは押し黙った。


 だが確かにそういうことではある。

 外からは適当な性格をしているように見えるせいで、いきなりアタックしやすく思える彼だが、きちんと前段を整えなければ彼は本当の意味で意識を向けない。

 紆余曲折あっても、結局まずはお友達からという普通の結論になるのが、彼が普通と言われる所以なのかもしれなかった。


「ではそうですね。……色々聞いてすみませんが、彼の好み、……例えば、してもらうと嬉しいことなど知っていますか?」


 体裁はどこに行ったのか、いつの間にやらシンプルに恋愛相談になっている気がしたが、それはむしろこちらが聞きたいことである。

 アキラが時折、イスカに聞くと色々出てくると言うが、無い袖は勿論振れなかった。

 彼を見返す、いや、恩を形にして返す方法が分かっていれば、恐らく自分はこんな場所に来ていない。

 旅の魔術師の依頼など請けることも無く、もっと別の方法で、彼が喜ぶ何かをしていただろう。


 と、考えると、賢人と同じ道を進みかけていたことに気づいた。


「……。知らないことは無いんじゃなかったかしら?」

「そ、そういうことは別……、ぐ。ま、まあ、もちろん多少は心当たりがありますが、確認のためです」


 彼女には妙な地雷がある気がした。

 焦りから冷たく返したが、すでにシャロッテは自分たちに仕事を斡旋してくれている。

 イスカの感性ではそれで十分好感度は稼げているような気もしたが、シャロッテはまだまだ物足りないように思っているらしい。

 献身的なその姿が妙に可愛らしく見え、最近散々虐められ続けたイスカの嗜虐心を煽った。


「心当たりって何かしら? 実は私も知りたくて」

「……、え、ええと」


 ついそう言うと、彼女はまた必死に考え始める。

 追い詰められた人間がする仕草だが、彼女の場合は本当に頭の中に答えがあるのだろう。


 ふたりで歩く川沿いの、上り道の先、木々が開けていた。

 あの先に、湖と、この川の流れを調節する大元の堰があるのだろう。


 今日は散々な一日だ。

 旅の魔術師の依頼で、あまり好ましくない現状ではある。

 だが、久々にまともに接してくれる人と普通の会話ができ、イスカの気分は晴れやかだった。

 もしかしたらシャロッテは貴重な友人になってくれるかもしれない。

 イスカは微笑みながら目を輝かせた。


「あ、ああそう、アキラ氏は知りたいことがあると言っていましたね。……もう着きましたか。おかしいですね、ここまで魔物が出ないとは」


 この時間も帰りまでお預けだろう。

 下手に報酬を減らされぬよう、シャロッテが点検する際にはおしゃべりは禁じるべきだ。

 イスカは息を吸って胸を張った。

 何でもそつなくこなす、理想の自分になるときだ。


 だが最後に、シャロッテが必死になって思い出した話が気になった。


「彼が知りたいこと? なにかしら」

「まあ、ただの言葉です。あまり、いい予感はしませんが」

「?」


 シャロッテは神妙な顔をしていた。

 言い辛いことなのかもしれない。

 ここまで追い込んでしまったイスカがいたたまれない気持ちでいると、シャロッテは、索敵していたとき以上に、周囲を窺って言った。


「『プロジェクト:アーティ』。……この私が調べても、何も分からない“何か”について、知りたいようです」

「……」


 イスカは、首を、傾げた。


「え? 『プロジェクト:アーティ』って、“あの”?」


―――***―――


「一体何が、」

「それをこれから聞くところ。……スライク。悪いがお前も、聞いちまった以上は話がまとまるまでここにいてくれ」

「はっ、随分手際のいい当たり屋だなあ、おい」


 エリサス=アーティは、つい先ほどまで自分たちがいた洞穴に招集をかけられていた。

 最初、エリーとしては偶然に入り込んだ洞穴だったが、それなりに奥が深く、広い。

 今もせっせと民間人たちが拠点を構築している場所からやや離れており、急遽この場は魔導士隊による会議場として定められたようだった。


 最奥の窪みに腰かけた魔導士のアラスール=デミオンを、スライク=キース=ガイロードが鬱陶しそうに睨む。

 彼女の言葉を聞いた者たちは、民間人たちに過剰な混乱を招かぬよう、この洞穴に連れ込まれている。


「くれぐれも、他言無用にお願いね」


 アラスールが慎重に声を発した。

 アラスールの隣には、彼女の部下であるフェッチ=ドッガーとケディア=レンダーがおり、さらにその隣にはエリーの妹であるマリサス=アーティ、そして魔導士隊に協力しているホンジョウ=イオリまでいた。

 大人数の依頼でなかなか一緒の時間が取れない、最愛の妹と敬愛する相手であるが、今はにこやかに笑いかけることはできなかった。


「クレインちゃん、だったかしら。もう一度報告をしてもらいたいんだけど、いいかしら?」

「……」


 4人の魔導士の前、ひとりの若い魔導士が自分の身体を抱きしめながら頷いた。

 悪天候の中、単身馬をとばしてきたらしく、魔導士隊のローブは泥まみれで異臭を発し、元は束ねていたと思われる長い黒髪は暴れ回っている。

 アラスールの言葉が本当ならば、エリーの夢のその先である魔導士が、それほど必死になるのも頷ける。


 彼女は言ったのだ。


 拠点を構築しながら進行する魔門破壊計画。

 『名前のない荒野』へ侵入してから僅か2日。

 最初の拠点が、壊滅したという。


「私たちの班は、『名前のない荒野』の外の作戦本部と第1拠点の物販警護を担当しています」


 クレインというらしい女性は、歯噛みしながらしっかりと言った。

 風貌は悲惨なことになっているが、気は強い女性のようだ。


「そして本日、第1拠点を訪れたところ、滞在しているはずの約50名が、忽然と姿を消していました」


 声が漏れそうになった。

 魔導士隊の報告を傍から聞いていると、エリーにとっては緊張感がある。

 だが、その報告内容は、荒唐無稽なものだった。


「急遽周辺捜索を行いましたが、誰ひとり確認できませんでした。拠点の一部設備に破損も確認され、何らかの魔物の被害にも見えましたが、無人になった事後の破損かは分かりません」


 口を挟みたくなったが、アラスールはじっとクレインの言葉を待つ。

 動揺しているのは彼女も同じはずだ。

 クレインが言っていることは、魔導士隊に並々ならぬ敬意を持つエリーですら、真偽を掴めない。


「急なことで人手が足らず、本部への連絡と、探索班に分かれ、私は、先行する皆さんに報告をしにきました。……以上、です」


 そして悪天候の中、単身馬を飛ばして駆けてきてくれたのだろう。


 エリーは頭を抑えた。

 どういう事態になっているのか、分からないことが分かった。


「……事実確認をしてから、になるわね」


 アラスールは、頭を抱えながらマルド=サダル=ソーグに視線を投げた。


「ええ。カイラなら……数時間もあれば行って戻ってこれる。同行した魔導士隊次第だけど、万が一の場合、いくらかの物資も運んでこれるはずです」

「ありがと。調査になってもほどほどにって言ってあるわ、私たちとしては物資確保が最優先だもの。……バディだし、あなたも行ってもよかったのよ?」

「はは、手早く済ますならひとりでも少ない方がいいでしょう」


 荒唐無稽な話の中、マルドの落ち着きが無いような気はしていた。

 いや、マルド以外もだろう。

 必死になって報告しに来てくれたクレインには悪いが、今この場で、皆が思っていることは共通しているだろう。


「クレイン。悪いけど、……信じられない。あの大人数が消えた? 設備はそのままで?」


 イオリが言いにくいことを言ってくれた。


「わ、分かっていますよ、私だってそう。……作戦の共有不備で、全員ここにきてしまっているのではと思いたかったくらいです……!」

「齟齬が無いように言っておくけど、僕たちは確かに第1拠点に人を残してきた。それも大人数だ。問題なく作戦通りさ。報告も届いているだろうけど、初日は魔物の出現すらなかったんだ」


 イオリも糾弾したいわけではないだろう。

 大雨の中、死に物狂いで報告を届けてくれた彼女に対し、正確な情報を引き出すために酷な追及をしているのだ。

 嫌な役を買って出てくれているように思えた。


 様子を窺うに、クレインは確かに本当のことを言っているように思えた。

 イオリもそう判断したのか、表情が曇る。

 そうなると、カイラが連れて行った魔導士隊による事実確認を待っている場合ではない。


「“何が起きた”?」


 アラスールの隣、フェッチが苦々しげに言った。

 普段は明るく思えた彼だが、流石に表情は険しい。


「残ったのは民間人だけじゃない。旅の魔術師や魔導士隊だって人数かけて拠点の維持にあたっていた。それが全員、消えた? “何が起きたらゴーストタウンが出来るんだ”?」


 クレインの話だけでは信じられない。だが話は進まない。

 魔導士たちは、その不確かさを必死に踏み閉めようと足を踏み出していた。


「魔物の襲撃で設備ごとぶっ潰されたならまだ分かる。けど、……、いや、何度も聞くようだが、死体を見たか?」

「見つけていたら、どれほどよかったことか」


 フェッチの不謹慎な質問に、クレインが、一線を越えた言葉を絞り出した。彼女の様子は発狂寸前で、辛うじて魔導士としての責任にしがみつけているようにさえ見える。


 一時的に全員どこかに逃げていましたというオチなら万々歳だ。

 だがここは『名前のない荒野』という危険地帯である。

 “何かの被害に遭った”という想像が最初に来てしまう。


 だがそうだとすれば、その何かは、設備をほとんどそのままで、人だけ消したことになる。

 フェッチの言葉も、不謹慎だが分かってしまう。

 どれほどの危機でも、理由が分かれば対処できる。


 だが、分からないは、恐怖だ。


「……ケディア。マリーちゃん。話だけだと厳しいだろうけど、そういう“魔法”に心当たりは?」


 そしてこの世界には、その“分からない”を操る者もいる。


「うーん、私は分からないわ。マリーちゃんはどう?」

「そうっすね……。可能性があるのはいくつかあるんすけど、情報が」


 妹は半開きの眼を申し訳なさそうにさらに細め、クレインを見た。

 もちろん自慢だが、妹の次元の違う才能は、“分からない”を起こす選択肢が多過ぎる。

 人伝で聞いた話だけでは、あらゆる可能性を列挙するだけになってしまうだろう。


「どんな手段にせよ、襲撃の形跡が乏しいなら、やっぱり“自分たちから出て行った”、が濃厚ね。……イオリちゃん」

「ああ、念のために民間人たちがふらふら“誘拐”されないようには手配しているよ」

「ありがと」


 以前エリーも、“人がいなくなる”という事象に遭遇している。

 モルオールで経験した『沈まぬ太陽』の誘拐事件。

 類似の問題かはさておき、その話を知っているイオリはすでに手を打っていたようだ。

 魔導士としての仕事の早さに感心するが、その魔導士がこれだけ集まっても答えに辿り着けない。


「……どの道今答えは出なさそうね。ケディア、マリーちゃん、あとで私に色々教えて。少なくともここにいる人たちには、夜までに全部の対策を用意するわ。……フェッチ」

「うっす。了解です」

「僕も手伝うよ」


 ドラクラスの魔導士もいるが、基本的に現場の指揮はアラスールが取っているらしい。

 『名前のない荒野』に入った経験のある彼女がそうしてくれるのは助かるが、その分負担も多いだろう。

 やつれた顔をしているような気もする。

 だが、それでも彼女は、ふっと力を抜いてクレインに向き合った。


「さ。そうと決まったら休んじゃいましょう。クレインちゃん、ありがとね」

「で、でも私、」

「だーめ。とっとと休む。ふらふらじゃない。……ケディア」

「はーい」


 休みもせずに伝令を届けたクレインに、大柄なケディアがにこにこと近づいていく。

 ティアのような労わりの心を持った行為だろうが、疲弊し切って小さく見えるクレインからは恐怖なのかもしれない。

 エリーも疲れているのかもしれない。ふたりに大変失礼だが、ティアが小柄でよかったとぼんやり思ってしまった。


「じゃあカイラたちが戻ってくるまで休める人は休んでおこう。俺も民間人の数は短いスパンで数えておきますよ」

「あらありがとう。じゃあ解散。再三言うけど、他言無用よ」

「さあクレインちゃん! まずはお風呂行きましょう!」


 結局何ひとつ解決しないまま、話が終わった。


 重要な外とのパイプである最初の拠点の壊滅。いや、“人の消失”。

 進行僅か2日目で、致命的な問題が発生したのだ。


 だが、今はカイラたちの調査を待つことしかできない。

 聞いただけの話だ。未だに杞憂であって欲しいと誰もが思っているだろう。


 しかし、今にも疲弊でケディアに倒れ込みそうなクレインは、すでにその、致命的な問題を自分の目で見たのだ。


 彼女のあの、綺麗な赤い瞳で。


「―――ディセル!!」

「きゃ!?」

「―――ちっ!!」


 一瞬で、様々な事態が発生した。


 クレインが―――“スライクの大剣に脳天から斬り割かれた”。

 その直前には、ケディアの前に、マルドが銀の盾を展開していた。


 それもすべて。

 クレインがケディアの胸に、“隠し持っていたナイフを突き出した”ことから始まった。


「―――っ、ケディア、無事!?」

「ってて……、きゃあ!?」


 魔術の衝撃で尻餅を付いたケディアの眼前で、鮮血が舞う。

 躊躇無くクレインを斬り割いた男は、金色の眼光で、命を奪った獲物を睨んでいた。


「なっ、なに、が」


 脳の理解が追い付かない。

 スライクが殺人を犯した。いや、クレインはナイフを突き出していた。ならば正当防衛か。

 ではクレインは魔物なのか。しかし人としか思えない血飛沫が舞っている。


 反射的に身構えたエリーは、事態の把握に必死になるが追いつかない。

 そして、追いつかぬまま、次の事態が起こっていた。


「……あん?」


 スライクが斬り割いたクレインの肉塊が、“光となって溶けていく”。

 “シルバー”の粒子となったそれは漂い、エリーの方へ向かってきた。


 得体の知れない粒子を汚物のように避けると、その粒子は、エリーを通り過ぎて、“徐々に固まっていく”。


「……はっ、最近、どこかのうぜぇのがやってたな。……あん?」


 粒子は固まり、徐々に形を成していく。

 心当たりがあるのか、過剰なまでの殺気を放って睨んでいたスライクが、眉を寄せた。

 形を成した粒子は、魔導士のローブを羽織った、“男になった”。


「……つい我慢できなかったよ。“被りたかったな”。大柄な女性は僕の好みなのに、惜しかった」

「―――、」


 赤い眼の“何か”が言葉を発した。


 “言葉持ち”。

 エリーがそう判断した瞬間―――“その男の首が飛ぶ”。


 エリーの近くにいたカタリナの刀が、狭い洞穴の中、狂い無く人体の急所を捉えた。

 再び舞う鮮血。

 そして再び、“シルバーに漂う粒子となる”。


「逃がすな!! 仕留めろ!!」


 フェッチが吠えた。

 シルバーの粒子は、また形を成し、“今度は別の男となる”。


 フェッチの声に瞬時に間を詰めたサクが、カタリナのように首を撥ねた。

 しかしそれは繰り返される。


「っ―――」


 狭い洞穴では取り囲めない。下手に一斉に動いたせいで動きが鈍る。


 シルバーの粒子が、あるいは形を成した人が、洞穴の外へ向かっていく。

 辛うじて届いた者が攻撃を見舞い、そのたびに鮮血が舞い、しかし“それ”は外へ出た。

 遅れてエリーたちも、競い合うように外へ飛び出した。


「―――くっ、どこ行った!? ちょっと、そこの!!」

「……え?」


 雨は、いつの間にかまた降り出していた。


 ずぶ濡れになりながら、アラスールが近くで屋根だけ建てて話し込んでいるふたり組の魔導士に怒鳴りつける。

 イオリが手配したらしい見張りの魔導士だろうか。


「今ここから誰か出たでしょ!! どこ行った!?」


 アラスールの剣幕に委縮しながら、魔導士のふたりはちらりと馬車を停めた方を見る。

 見れば馬1頭分のスペースが開いていた。

 視界は悪く、広大な大地なのに、まるで見通せない。


 大雨の中、“何か”は消えた。


「ちょっと、アラスールさん、どうしたんですか? さっきの、“ドラクラスの魔導士ですよね”? また何かうるさいこと言われたんですか?」

「……あんたたち。一旦ここはいいわ。今すぐ民間人の警護強化。それと依頼参加者全員の点呼。……大至急!!」

「はっ、はい!」


 アラスールの怒号に弾かれたように魔導士のふたりは駆けていく。

 事態にまるで追いつけない。

 エリーは衝撃を強引に抑え込み、隣で爪を強く嚙んでいるイオリに恐る恐る聞いた。


「イ、イオリさん、さっきの、クレインさんって人は、……いや、魔物、だったんですか……?」

「……だろうね。だがおかしい。あのクレインって魔導士は、ドラクラスでも見たことがある。だったら最初から……? いや、“彼女だけじゃない”。そのあとの人たちも、見覚えがあるんだ。あれは“擬態”なんてものじゃない。ただの“擬態”ならドラクラスは検知するはずだ」


 エリーも旅の途中で遭遇した。

 極少数だが、人間の姿に化ける“擬態”を使う魔物もいる。


 だがそれでも答えには届かない。


混乱の極みにあるのはイオリも同じようだ。

 彼女ならばこの依頼参加者どころかドラクラス中の魔導士を把握しているかもしれない。


 イオリはマルドを睨むように見た。

 マルドは力強く頷く。彼もイオリ同様、ドラクラスの魔導士を把握しているのだろう。


「いくら人不足でも、こんな場所の伝令がひとりってのが気になって様子を細かく見てたけど、……俺が甘いのかな。あの直前まで、“確かに人間だった”。……スライク。お前は分かったか?」

「さあな。……“急に魔物の気配がしたから斬っただけだ”。だが、逃げやがった。殺しても死なねえ奴に最近会ったが、どうやらあれとも違うらしい」


 誰も何も分かっていないことが分かった。

 魔物かどうかすら確証が持てない。

 流石の事態にアラスールも馬が空いたスペースを睨みつけながら、忌々しく泥を蹴り上げていた。


「……擬態じゃない……、死んだら別人になる……、赤い目……、“月輪属性”……!」


 雨の中、妹の声が聞こえた。

 全員の視線が鋭く走る。


 アラスールは、ぶつぶつと呟くマリスに慎重に歩み寄った。


「まさ、か」

「マリーちゃん? 何か知ってるの?」


 マリスは、はっと顔を上げた。

 普段無表情に近い妹は、初めて見るほどの、深刻な表情を浮かべていた。


「……前に依頼で一緒だった人。ほら、シャロッテさんっす。『地底の王様』なんて異常種が出たから、他のも知っておいた方がいいかもと思って、彼女の家から世界中の逸話の写しを送ってもらったんすよ」


 妹が読んでいた絵本はその一部だったのだろう。

 教えてもらった覚えがある。以前の依頼で、逸話の世界にしか登場しない魔物が出現したと。


「全部読み切れたわけじゃないけど、それでもその中に、可能性のある“逸話”があった。太古から、“殺した相手を被り続け”、そのものに成り代わる。死者の意識も操れて、“被られていることにも気づかせない”。そして……、殺されると前に戻る……”脱皮する”―――寄生型の魔物」


 マリスは、大雨の中、最早何も見通せない、暗雲に覆われた広大な大地を睨んだ。


「『最古の蛇』」


―――***―――


「結局降らなかったな」

「……お気づきになりましたか」


 ほんの少し憧れていた、異性を背後から驚かすスキンシップを企てていたが、意外にもあっさりばれた。

 そして同時に、気分が重くなる。

 自分ははっきりと、落胆したようだった。


 『智の賢帝』シャロッテ=ヴィンテージは村近く、小高い丘で座り込んでいた男に大人しく近づいた。

 岩山からこぼれたような大きな岩に足をだらんと延ばして村を見下ろしていたヒダマリ=アキラは、その視線を、のんびりとネーシス大運河を生み出す滝に向ける。


「お隣よろしいですか?」

「ああ、歓迎するよ」


 間もなく日が落ちる。そうなれば、この辺りはどっぷりと闇に包まれ、カトールの民が整備している眼下の村が、ぼんやりとした光を灯し始めるだろう。

 腰を下ろすと、アキラは力を抜いたように笑う。


 『智の賢帝』と呼ばれているゆえか、こうした肩肘張らない相手は旅の中でもごく少数だ。

 多くの人には頭を下げられ、もてはやされる。


 今までも、たまたま関係を育むことができた友人もいたが、旅の魔術師という仕事の都合で、その後会う機会はほとんどない。

 だから、気軽に笑いかけられると素直に嬉しいし、嬉しいと、何かを返さなければならないような気がしてくる。


 以前も彼と同じ依頼でそんな気分になった覚えがあった。

 といっても相手も『日輪の勇者』。

 話しているとまるでそう感じないが、そうした態度を取るに相応しい人物である。


 常識離れした実績もある上、“しきたり”までも味方しているとなれば、少なくともこの村程度では彼に逆らえる人物は存在しないであろう。

 ゆえに、『智の賢帝』に、過剰な敬意を持たないのは、彼からすれば当然だ。


 事実そうだが、そもそも彼は、自分の力を誇示しない。配慮も遠慮も持ち合わせている。

 自分の力というものを過小評価している部分もあるだろうが、根本的に温厚な性格なのだろう。

 あるいは、なんらか大きな失敗からそういう性格になったのだろうか。


 特定の人間にここまで意識を向けたのはもしかしたら初めてかもしれない。

 だがそうすると、シャロッテには常人以上のものが見えてくる。

 イスカの言葉と照らし合わせれば決定的だ。


 確かに、と。


「く、あ」

「……眠そうですね。お疲れのようで」

「シャロッテほどじゃないよ。最近寝不足で。……あれ、イスカは?」

「村で裁縫するとか。服が破けていたことに気づいてしまって」

「一張羅とか言ってたな……」


 彼は、同情と呆れが入り混じった表情を浮かべた。

 シャロッテも思わず苦笑しかけたが、しかし、それ以上の喪失感を味わう。


「そういやそっちはどうだった? 川の途中の設備は問題なかったとか。俺は見ていても分かんなかったけど」

「同じですよ。肩透かしなくらい。流石ドラクラスとカトールの民、と言った方がいいかもしれませんね」

「シャロッテもだろ? 流石だよな、手伝ってたんだから」

「……ええ」

「そうそう、道中あのカルドって人から色々聞いたよ、シャロッテ、マジでこの辺りの管理者みたいな立場なんだな」


 感心し切って話し続けるアキラに、シャロッテは上手く相槌を打った。


 気づいてしまえば、心は弾まなかった。

 彼は素直に言ってくれている。

 声色を聞くだけで、一瞬口元が緩みかけるほどだ。間違いなく本心だろう。


 斜に構えているのは自分で、彼は何も悪くない。

 だが、シャロッテの頭脳は、答えに辿り着いてしまうのだ。


 以前彼と請けた、依頼のことを思い出す。

 普段、のんびりとしているように思えていたのに、ドラクラスの致命的な危機に対し、彼は“勇者”になったのだ。


 確かに、彼は自分の大切なものとその他に向ける熱が全く違う。


「でも、意外と危ないとこなんだな、やたら魔物が出たし」

「え、ええ。そのために魔導士隊が出張ってきているほどですし。……アキラ氏の方は、魔物が出たのですか?」


 彼の話を途中から聞いていなかった。

 シャロッテは顔を震わせ邪念を払う。


 ここに来たのは、依頼が早く済み、仕事を紹介してあげたとはいえ、協力してくれたアキラに村の案内でもしてあげようと思ったからだ。

 村への報告をさっさと済ませ、アキラの場所を聞き出し、呼び止められる前に自分にあてがわれた建物へ向かい、結局絞り切れずにいくつも持ってきたお気に入りの服を厳選していたとき、認めよう、自分の気分は高揚していた。


 この『智の賢帝』が思い描いた計画通りになるのは流石としか言いようがないと不敵に笑い、この場所に急いだ。

 だが、シャロッテは、今日1日のことなど鮮明に思い出せる。

 彼と再会したときの衝撃や憤り、先ほど堰を確認したときの集中力も、目の前のことのように蘇らせることができた。


 そんな整理された頭の中には、依頼中のイスカとの会話も一言一句違わず収納されている。

 あのときは気分が多少高揚して、さほど気にしていなかったが、頭が勝手に、可能性を探してしまうのだ。


 もしかしたら彼は、シャロッテのことを、気にしていないのではないか、と。


「え? ちょいちょい邪魔しに来たぞ? そっちはそんなだったのか。……でもあの族長、戦えるって言ってたんだけど、マジだったな。結構楽できた」

「カルド氏は普段タイローン大樹海で生活していますからね。そこらの旅の魔術師以上の実力者です」

「確かにそうだったかも。……そういや前に、ドラクラスの依頼で樹海に行ったとき、縄張りに入ったらしくてどっかの民族に襲われかけたことがあったよ。あの人たちも強そうだった」

「こ、好戦的な方々もいますからね……」


 その可能性に辿り着き、火照っていた身体がすっと冷めていくのを感じた。

 そして彼と話して、その可能性が正しいことを、感じ取ってしまった。


 隣にいると、のんびりとできて、しかし時折、ぎょっとするようなことを言う。

 話しているだけで、様々な感情が動く。

 自然体で接してくれるだけでシャロッテにとっては心地よい相手なのだが、きっと、彼は誰に対してもそうなのだ。


 見えてしまう。

 目の前の彼の態度から、あらゆる情報が読み取れてしまう。


 彼はシャロッテをぞんざいに扱っているつもりは無いだろう。

 だが彼は、シャロッテを見ていない。

 シャロッテに向ける視線は、例えばあのマリサス=アーティを見る目と明らかに違うのだ。


 だからやはり、彼はシャロッテを気にしていないのだ。


「ん? 流石にシャロッテも疲れたか? 結構歩いただろうし」

「いいえ、この程度、些細なことですよ」


 沈んでいく自分の心に、シャロッテは苦笑した。

 『智の賢帝』だ。自分の感情も頭で理解できてしまう。


 自分へ好意を向けてくれたと思い込み、都合のいい解釈をして、勝手に浮かれて、まったく、滑稽だ。

 恋は脳の錯覚だという。

 脳の理性が、今までの自分を鼻で笑っていた。


「やっぱ凄いなあ」


 シャロッテはゆっくりと目を瞑った。


 だから笑うな。褒めるな。

 理性がはっきりと苛立っているのを感じた。

 今のも適当に言っているだけだ。段々とこの男のことが分かってきた。


 シャロッテは眼下の村を見下ろし、ゆっくりと目を閉じる。

 見ずとも正確に思い描ける。自分が造り上げた作品だ。

 その話をすれば、彼はきっと何度でも、心からの声色で、しかし適当に感心するのだろう。


「……アキラ氏。勇者について伺っても?」

「は?」


 話を逸らす意味も込め、自分の気持ちに決着を付けたシャロッテは。ゆっくりと目を開いた。

 物事を残酷なまでに正確に見通す目だ。

 常に情報を追ってしまう目でもあった。


 彼と話していると、いつの間にか忘れてしまう。

 彼は勇者で、情報の塊だ。

 『智の賢帝』が今まで見落としていたとは、本当に盲目だった。


「いえ。魔王の討伐は世界中の悲願ですが、実際にどうなのか興味がありまして」


 多少の誤解があったとはいえ、結果として、シャロッテは世界中の希望となる勇者様と交流ができた。

 それだけを、事実として、好機として、捉えるべきだ。

 物寂しさが胸の奥に生まれる気がしたが、得意の理性で抑え込んだ。


「勇者、ねえ。凄いよなあ」

「……」


 『智の賢帝』は文字通り、知力こそが最大の特徴である。

 同じ時期、武力で名を上げたという『武の剣帝』と異なり、頭で解決できない問題はない。


 そんなシャロッテの頭脳は、今、目の前の男の頭をひっぱたけと命令を発しかけた。


「俺は異世界来訪者だから、この世界の常識とか分かってないのかもしれないけど、今まで99人、魔王を倒した勇者がいたんだろ? 相手は魔族だぜ。よくやろうと思えるよな」

「……」


 心より、いつ暴れるか分からない手を必死に理性で抑えていると、また適当なことを抜かしながら、アキラは村の様子を静かに見渡していた。

 捉えどころが無く、やはり、いつものようにペースが握れない。


 だが、好意的に解釈すれば、彼の言ったことは、シャロッテの思考に近かった。


 魔王の存在は世界中の魔物を活性化させるという。

 どういう成り立ちでそうなるのかシャロッテですら知らないが、魔王直属の魔族も同様の“特性”を持っているらしい。

 だが、言ってしまえばそれだけなのだ。

 酷く自己中心的な考え方であるのかもしれないが、活性化しただけの魔物に対抗できる力があれば、魔王がいようがいまいが問題ない。旅の魔術師という生業は、不謹慎過ぎるが、むしろ“稼ぎ時”であえる。

 歴代魔王の中には好戦的に、世界中を戦場にするような危険な存在もいたようだが、今期、百代目魔王は本体の活動が比較的大人しいようで、旅の魔術師という職としては望ましい状況とも言えた。

 つまりは危険とはいえ、一定以上の力がある旅の魔術師は、身の丈に合ったことだけをしていれば何不自由なく生活できるのだ。


 そんな中、もちろん安全圏をこよなく愛するシャロッテとしては、魔王は元より、今魔門破壊計画が進行中の、『名前のない荒野』にも近寄ることすらしたくない。

 魔物の被害を受ける者たちのことを思うと胸が痛いが、自己犠牲にも限度がある。

 もちろん目の前の問題は対処するが、世界規模の問題に手は伸びないのだ。


 そういう意味では、彼の言葉は同意できる。

 それを言ったのが勇者候補でなければだが。


「……。それなら。アキラ氏は、何故魔王を倒そうと?」

「……ぁ、……」


 アキラが、眉をひそめて小さく唸った。

 口元を抑え、記憶を辿るように目が遠くなる。


 先ほど気にされていないと思ったとき以上に、彼が遠くに感じた。


「アキラ氏?」

「……前にも同じように聞かれた気がして。……、いや、実はよく聞かれてんのか」


 仲間だろう。

 彼の表情を見て、頭より先に感じた気がした。


 イスカ=ウェリッドの言葉が正しいなら、彼の本当の動機はすべて仲間にある。

 あのマリサス=アーティもそのひとりだ。


 曖昧で、あやふやな返答をし、ともすれば頼りなく見える彼だが、きっと、大切なものは何かと聞かれたら、気恥ずかしそうにしながらも、即答するだろう。

 ヒダマリ=アキラとはそういう人物のような気がした。


「いくつかあるんだけど、そうだな。……シャロッテが知ってるやつもある」

「ぅ」


 自分の頭脳が恨めしい。

 彼の言葉の先を読み取って、悪しき記憶が蘇った。


「日輪属性。事件を引き寄せる。身も蓋もないけど、俺は、それに流されてる。勇者は大体日輪属性なんだろ? 周囲の事件に巻き込まれて、気づいたら魔王に辿り着いていた、なんて奴もいたんじゃ……。は、俺だけか、そんなんは」

「アキラ氏。前にも言いましたが、アキラ氏のせいではないです」

「俺も前に言ったけど、俺は俺のせいだと思っているよ」


 自分の言葉が否定されたのは久方ぶりだった。

 日輪属性は事件の種を芽吹かせる。直接の原因でなくとも、本人からすれば自分が原因であることには変わりない。

 それでも彼は、自分が失態をした以前の依頼のときのように、嘆きながらも、投げ出そうとは思わないようだ。

 それがどれほど辛いかは分かる。


「では、少し私の話をしましょう。私も少々、……各方面で煙たがれることがあります」

「シャロッテが?」


 彼は本当に意外そうな表情を浮かべた。

 世界中の人が彼のようだったら、そういうことも無かっただろう。


「ええ。……まあ、私は人が見落とすものを見つけます」

「いいことじゃないか?」

「根本的にはそうでしょう。ですが、見つけた以上は対処しなければ“ならなくなる”。……意味、お分かりですよね?」

「……要は、“起こらないかもしれないこと”が問題になる、ってことか」


 話がすぐに通じた。

 彼も似たような経験はあるだろう。


 例えば眼下の村。

 シャロッテの意見で設備点検の動線を変え、その結果、異状があるろ過装置の発見につながった。

 傍から聞けば万々歳だが、異常のあったその設備は、機能しなかったわけではない。機能していたが、放っておいても、もしかしたらドラクラスが次の引っ越しをするまで動き続けていたかもしれない。

 その可能性の発見は、寝る間も惜しんで働く羽目になっている人々にとっては不運でしかない。

 もっと言えば、他の設備も手厚く点検すべしと方針が変わり、大人数が右往左往することにもなったのだ。


 人は問題に対してだけでなく、問題の可能性にも動くのだ。


 そうしたことはドラクラスに来る前も頻繁にあった。

 商業都市では入口の魔物対策の仕掛けの破損に気づき、魔物の襲来の可能性を未然に防いだ裏で、行き交う場所は大渋滞を巻き起こしていた。

 たまたま寄った飲食店で食材の状態が悪いことに気づき、客が食中毒になる可能性を未然に防いだ裏で、その店は営業停止となった。


 もちろん被害が発生したらそれ以上の大問題だが、“起こらないかもしれない”という幸運のチャンスを奪うことにもなる。


 もしかしたら天気が崩れるのを感じていたカルドも同じ感覚を持っているかもしれない。

 彼も、雨が降らないかもしれないという幸運を奪い、必要以上に人に労力をかけることになるのだから。


 真実を見抜き、悪しき可能性を指摘する『智の賢帝』。


 各方面で煙たがれるのも分かる。


 『智の賢帝』シャロッテ=ヴィンテージが訪れれば、幸運は訪れない。


 自分の行動は、彼を取り巻く環境に近しい。

 シャロッテは事件の可能性を、彼は事件そのものを露にする。

 危険度は彼の方が圧倒的に上だろうが、ふたりとも、起こらないかもしれないことを起こすのだ。


「ですが私は、気にしていません。いずれ芽吹くかもしれない事件の種。起こらないかもしれないとはいえ、それを放っておくのは間違いだと思いますから」


 そう。気にしていない。

 そうした歪みを放置すれば、今その場所にいる者たちは平穏に過ごせるかもしれないが、いつか、どこかで、無関係の誰かに被害が出るのだ。

 世界はそういう風にできている。

 自分は正しいことをした。


 村の設備に近づけば見張りの者が慌ただしく近づき曖昧な笑みを浮かべながら追い払って来たり、同じ村の別の飲食店に立ち寄ったときもさりげなく入店を断られたり、滲んだ景色の裏路地で買ってきた質素なパンを頬張っているとき、自分を邪険に扱った男たちが休憩しながら、生意気な小娘が口うるさい上司のように振る舞うのが気に入らないと愚痴をこぼしていたのをたまたま聞いたりしてしまったが、まったく、微塵にも、気にしていない。


「シャロッテも苦労しているな」

「……アキラ氏。話を聞いていましたか?」

「聞いてたけど、キツいときもあるだろ。いいことしてんのに、そんな感じじゃ」


 彼自身、特に意識した言葉ではないだろう。適当に言っているのかもしれない。

 だが、素直に受け取ると、頷きそうになった。


 言葉の重みというのは何を言うかでは決まらない。誰が言うかだ。

 自分と近しい境遇の彼の言葉には、軽薄さは感じなかった。


 彼はまたぼんやりと、村を見下ろしていた。

 ここからは村が一望できる。

 こんな話をしていたからか、彼の目が、事件の種を探っているように見えてきた。


「……ここではドラクラスの管理ということもあり、歓迎されましたよ。管理者受けはいいので」

「そりゃよかったな。でもそれだけ厳しい管理、ってことか」

「ええ。重要拠点の、悪しき可能性の可能性を見つけるのは望ましいことですから。……まあ、訪れると口元を歪ませる方々もいますが」

「協力してんのにそれじゃ腹立つだろ」

「……ですよね」


 思わず愚痴を零してしまった。

 いつの間にかこちらの悩みを打ち明けているような気がした。


「ま、まあ、感情は思考を鈍らせます。ぐっと堪えて、嫌な顔をされても私は私の仕事をします」

「立派だな。俺も似たようなもんだよ。“しきたり”とやらに守られてなかったら、多分それ以上に面倒な顔をされてたと思う。つっても、勇者って名乗らないと、俺がそうだってことに誰も気づかないんだけどな」


 思わず笑ってしまった。感情は思考を鈍らせる。


「まあ、俺が勇者の理由のひとつはそんな感じかな。シャロッテとは違って、単に流されやすいだけかもしれないけど、何かあるなら放っておけない。迷惑かけちまうのは分かっているけど、この世界で起こることは、全部何とかしたいと思う。そのひとつが魔王討伐ってだけなのかもしれない。……こんなこと、“最初”は考えてなかったな」


 気づけば自分の口から出てきた言葉が答えだったらしい。

 他の理由にも興味があるが、穏やかに村を眺める彼を見て、言葉を返せなかった。

 異世界来訪者らしいが、この世界そのものに随分と愛着があるようだ。


 悪しき可能性を見つけると、放っておけない。

 旅の中、彼の中で育まれた理由のひとつは、つまりそういうことなのだろう。


 魔王討伐などと比較されると恥ずかしくなってくるが、自分のやっていることと、彼のやっていることはやはり近しい。


 ふと思う。

 もっと早く彼と会って、共に旅をしていたら、自分の考えも変わっていただろうか。


「……そうだ、シャロッテ。悩みがある。オーラを出すにはどうすればいい?」

「は?」


 驚いた。まさか『智の賢帝』の思考を止めてみせるとは。

 アキラはいつしか何かを思い出したように眉を細めている。


「言ってて思い出したんだけど、俺って勇者って名乗らないと気づかれなくて」

「……。…………。気づかれない方がいいって方向の話をしていませんでした?」

「いや、それはそれでいいんだけど、まるで気にされないってのも悔しいし」

「…………」


 シャロッテは思考を凝らした。

 もしかしたらこの男の思考回路を読もうとしていたこと自体が誤りだったのかもしれない。

 『智の賢帝』に分からないことはないが、進むべきか止まるべきかも判断してこそ賢人である。


「むしろ私が知りたいくらいですね、オーラとやらの消し方を。どうしても普段から滲み出てしまうものですから」

「え? ……。…………。そ、そりゃ、シャロッテほどじゃなくていいよ。それなりの要人に見えれば」


 何故か意外そうな顔をしたアキラだったが、何かを飲み込んだように言葉を続けた。

 こちらの顔を見て、よからぬことを考えたような気配がしたが、この男の思考を読むのは無駄だと結論を下したばかりだ。


「てか、やっぱシャロッテもあんまり気づかれたくないってときもあるんだな」

「……まあ、少々名を上げ過ぎましたかね。ドラクラスはそういう方が多いので比較的平穏ですが、いくらか騒ぎになることもあるので、その、もう少し、気さくに話しかけられても、悪い気は、しません」


 つい口から零れてしまった。

 心を開かせる日輪属性の噂はどうやら本物らしい。


 ほんの少し。ほんっっっとに少しだけだ。

 『智の賢帝』を前には、肩肘張る者が多い。

 何気なく話しかけただけで、直立されることもある。

 気分がいい反面、昨今特に感じる、人恋しさというか、一抹の寂しさを感じるのだ。


「う、ううん……」


 だが、アキラは自分が出した悩みなど忘れているように、真剣に考え始めている。

 やはりいつの間にかこちらの悩み事を聞いてもらっているようになっていた。

 仲間の優先順位が高いらしい彼だが、それ以上に、彼は自分自身の優先順位が低いのかもしれない。

 また適当に話していただけかもしれないが。


「ア、アキラ氏。そこまで考えてくれなくとも、私もそれなりの立ち回りは習得していますよ」

「そう、か? まあ、他人事とは思えないし。……う、ん……」


 自分は彼の思考を読むのを放棄したが、彼の方は、まるでシャロッテが考えていることが分かるかのように考え続ける。

 確かにまた、自分も、彼と似たようなことで悩んでいるような気もしてきた。


 一方、シャロッテも感じたことがあった。

 きっと彼は、答えに辿り着かない。

 考えて、考えて、それでもきっと、どうにもならない。

 脳内会議の議題はオーラとやらの出し方、あるいは消し方だ。議長も匙を投げるだろう。

 そもそも彼が答えを持っていないからこその悩みだ。


 だが、そのことに気づかず、いや、あるいは気づいても、彼は彼なりに真剣に考えてくれる。


 その姿は賢人から見ると滑稽で、しかし目が離せなかった。

 穏やかに彼を見つめていると、彼は、小休止するように息を吐き、申し訳なさそうな顔を浮かべた。


「悪い、もう少し時間くれると助かる」

「随分真剣に考えてくれますね」

「まあ、変わる方法が分からないってのは、共感出来てさ」

「……ふ、う、ん」


 思考を追うことを放棄したはずなのに、シャロッテは彼のことが分かった気がした。


 曖昧で、あやふやな返答をし、ともすれば頼りなく見える彼。


 きっと彼に悩みを言ったところで、解決してくれないだろう。

 だが何となく、我がことのように、何時間でも同じように悩んでくれる。そんな気がした。


「……っ」

「? アキラ氏?」

「い、いや。ちょっとまた別のこと思い出して……。悪い。やっぱまた後で考えるよ」


 やっぱりよく謝る人だ。

 それだけ自分のことのように、考えてくれる。


「ええ、期待しています。……さて。そろそろ戻りましょうか」


 妙に気分が軽くなり、シャロッテは勢い良く立ち上がった。

 随分と話し込んでしまったように思える。


 そもそも自分は何をしにここへ来たのだろうか。

 整理したはずの頭の中が乱れているような気がする。


 勇者の情報を本人から聞き出そうと思ったはずなのに、自分にしては珍しく、時間を無駄にしてしまった。

 だが、やはり妙に、気分はいいのだ。


「そうだな、……諦めるか」

「? 何をです? ……というより、アキラ氏はこちらで何を?」


 あっさり立ち上がったアキラは、また、申し訳なさそうな表情を浮かべた。


「あ。……俺の勘違いだったかも。シャロッテを待ってたんだよ。村、案内してくれるとか言ってたから」

「わ」

「?」


 アキラの残念そうな顔を見て、シャロッテの記憶が鮮明に蘇る。

 確かにそんなことを言った。


 彼はあんな僅かな一言を今も覚えていて、こんな場所で待っていたというのだろうか。

 この丘は村を一望できるが、登りである分、来るには少々手間だ。

 なんとなく散歩して辿り着いたわけでもあるまい。

 ここにいたのは、馬車に乗っていたときのように、村を見下ろしながらしたシャロッテの説明を心待ちにしていたからなのだろう。

 それほど馬車での会話が楽しかったのだろうか。


 シャロッテ=ヴィンテージは深く考える。


 これで好意が無いなんてことがあり得るのだろうか。


「ま、シャロッテも疲れてるだろうし、今日は大人しく、」

「ちょ、ちょっと待ってください。……。…………」

「なんかたまに読み込み時間みたいなの入るな……」


 手を突き出し、アキラを止め、シャロッテは目を細める。


 カラーバス効果というものがある。

 特定のものに意識を向けると、それに関連した情報ばかりが目に止まる現象だ。


 仲間以外のことがどうでもいいらしい彼。

 だがその出自はイスカ=ウェリッドであり、彼女はそもそも彼と付き合いが短い。

 彼女自身嘘を吐いたつもりは無いだろうが、彼女自身が彼を計り損ねている可能性もあるのだ。

 彼女の言葉が本当かどうかを吟味し切れたとは言い難い。


 実際に彼と話し、対応や、意識の向け方から、確かにそんな雰囲気を感じ取った。

 しかしそれはその情報があったがゆえに目に付いたのかもしれない。


 流石に『雪だるま』。この『智の賢帝』に先入観を与えるとは。


 恐る恐るアキラを盗み見ると、首を傾げながら、口を押さえて欠伸をかみ殺している。


 そういえば眠いと言っていた。

 対応が薄い気がしたのは、単純に疲れていただけかもしれない。

 そんな疲れを押して自分を待っていたとなっては、いよいよ新説の方の信憑性が増してくる。


 理性の方が何かを言っている気がしたが、あとで聞くとして。


「……アキラ氏。そ、そういうことなら、今からご案内しましょう」

「え? シャロッテ疲れてるんじゃないか?」

「誠意には誠意で返すものです。問題ありません」

「? 話繋がってるか?」


 確かに疲れていたような気がしたが、身体は妙に軽い。

 シャロッテは眼下の村に視線を這わせた。

 馬車の窓でもそうしたように、ここからでも十分に説明できるが、実際に間近で見た方が楽しめるだろう。

 一時的な村なだけに、見回るようなものは少ないが、ふたりで、ゆっくりと村を歩くのは、とても合理的に思えてきた。


「ではアキラ氏。こちらからよりも村を歩きながらでいかがでしょう」

「あ、そうだな。なんとなくここに来たけど、下で待ってた方がよかったか」

「ふ」


 『智の賢帝』を前に小賢しい。こういうものを駆け引きというのだろう。

 まあ、依頼は日を跨ぐ。それほど村を一望しながらの案内が楽しかったのなら、明日以降も時間を作ることにやぶさかではない。


「じゃあ、頼むよ」

「ええ。任されました」


 彼は笑いながら、大きく伸びをした。

 その緊張感の無さに、ほんの少しだけ高揚していた気分が乱れる。


 だが、シャロッテも釣られて身体を伸ばすと、血行が良くなった気がした。


 冷静な思考が、浮かれた気分を精査し始める。

 彼の真意は、正確には、不明だ。

 イスカ=ウェリッドの言葉は正しくて、本当は相手にされていないかもしれない。

 だが、あくまでそれは、彼側の話だ。


 『智の賢帝』は、シャロッテ=ヴィンテージは可能性を考える。


 自分の明晰な頭脳は、彼に錯覚を起こしたがっているのかもしれない。


 情報の塊の勇者としてだけではなく、彼自身を知りたいと思ってしまったこと自体が、きっとそういうことなのだろう。


 本当に珍しく、すぐに答えは出ない。

 だが、この『智の賢帝』ですら表現できぬ、言いようのない、この暖かな感情と素直に向き合いたいと、思った。


 彼のこと。そして、自分のこと。

 この先は、知らないことだらけだ。


 だた、いずれにせよ、彼から今日感じたものは正しいのだろう。


 彼は。


「そういやシャロッテ。気になってたんだけど」


 隣にいると、のんびりとできて。


「ここと同じような村―――全部でいくつあるんだ?」


 しかし時折、ぎょっとするようなことを言う。


―――***―――


「『最古の蛇』」


 事態は深刻である。


 最も重要な基盤である最初の拠点の壊滅。

 その知らせを届けた魔導士の凶行。


 大雨に振られて避難した岩山で、凶行に及んだ魔導士の狂言かと一縷の希望を持って待機していたが、調査に向かったカイラ=キッド=ウルグスたちの報告により、最初の拠点の壊滅は事実であると裏付けが取れてしまっていた。


 時刻は深夜。

 カイラの召喚獣による移動能力は優れたもので、当日中に事態が把握できたのは不幸中の幸いだった。

 最初の拠点では現在、『名前のない荒野』の外から物資を運び込み、再構築を始めているという。


 招集がかけられた、あのときあの場にいた者が集まる最奥の洞穴の中、神妙な表情を浮かべたマリスの声が響く。


 妹の隣に座るアラスールとフェッチの表情は曇っていた。

 最初の拠点の壊滅に対する対応に加え、突如として発生した“事象”の原因を探るべく、今の今までマリスが持ち込んだ世界中の逸話とやらに目を通す羽目になっていたのだ。心労計り知れない。


「それが、さっき魔導士隊の方に……化けて? いた魔物、……魔物、なの?」


 張り詰めた空気。全員がじっと“数千年にひとりの天才”の言葉を待つ中、マリスが自分だけを見るように、エリーは可能な限り柔らかく声を出した。

 自慢の妹は、魔導士として立派な姿になったが、全員の視線が突き刺さり、僅かに緊張しているようだ。

 だが、その試みも虚しく、口から出たのは、自分でもまるで整理できていない言葉の羅列だった。


「あくまで仮説というのは念頭に置いて欲しいんすけど、そういう“魔物”がいるらしいんす」


 緊張を差し引いても、表現が曖昧になるのは致し方ない。

 可能性として挙げられたのは、マリスが知人から写しを貰ったという子供向けの絵本の登場キャラクターである。

 何を馬鹿なと思いもするが、その所有者は、その物語をもとに、『地底の王様』というドラクラスの最初の引っ越しで問題となった未知の魔物の正体に辿り着いたという。


「人間界に溶け込む寄生型、と思しき魔物。成り代わると、“当人になる”。操られなければ生き続けているのと同じで、当人ですら気づけない。判別方法は、その“属性”と、“赤く染まる瞳”」


 エリーは突如ケディアを襲った魔導士を思い出す。

 確かに、彼女の瞳も赤かった。

 だが、凶行に及ぶまで、この場にいた全員が彼女を人間だと思い込んでいたのだ。

 エリーもその話を聞いてなお、彼女が人間ではなかったと信じられない。


 寄生型の魔物の情報は、ほとんど世に出回ることがない。

 その存在自体が希少というのもあるが、人間の中に魔物が紛れ込むというのは社会的に致命的な問題なのだ。

  “いるかもしれない”というだけで混乱や迫害に繋がってしまう。

 以前遭遇した、人の心を操る魔族と同種の問題を孕んでいる。


 そして、そもそも。

 そんな社会的な問題以前に背筋が凍る。


「この推測が合っているなら、さっきのクレインさん。あの人は、この場所まで自分の意思で来て、自分の意思で報告していたつもりだったんじゃないっすかね。……もちろん。“自分が死んだときの記憶は消されていた”」


 自分とは何か。

 記憶や知識、そして性格は、脳の機能によるものだ。

 今エリーが魔導士たちに追いつこうと必死に動かしているのも脳である。

 それを疑えば、鏡に映る自分の瞳の色さえも信用できない。視覚情報を処理するのも、結局脳なのだ。


 その脳を含む、身体すべてを支配されているとしたら、“自分が乗っ取られていないとどうやって分かるのか”。


「そ、そんなのが、子供向けの絵本に書いてあったの?」

「送ってもらった逸話には、何かの調査レポートとか、ちょっとした小噺もあったりしたんすけど、元の話は絵本だったっすね。自分もほとんど読み飛ばしてたんすけど。この話、子供を脅かすだけのものだと思ってたんす。例えば寝不足で目が充血するようなことが無いようにする、とか」


 話だけ聞くとそうだろう。

 子供向けの絵本など、基本的には子供の精神の育成か、生活態度を改めるためにある。

 世に在る害に理由を付けるのが絵本や逸話などの創作物だ。

 だが、世界中にある無数の物語の中には、“真実”が紛れ込んでいる可能性もある。


「でも、頭の中には残っていたんすかね、気になっていて。他の話にも時々、“赤い瞳”の存在が出てくるものがあったんす。特に、猟奇的な事件に多い印象だったっすね」


 マリスの目の前の机のような岩に、一抱えほどの紙束が置いてある。

 すべて持ってくるわけにはいかず、依頼には一部しか持ってこられていないらしい。

 エリーも少し見せてもらったが、子供向けの絵本だけでなく、支離滅裂な文章の羅列や、短編小説なども含まれていた。


 少し読んだだけでエリーは音を上げそうになったが、自慢の妹はそれでも読み進め、その上で、複数の物語を横軸でも見ていたらしい。


「……で? そのサイ、コロ? だっけ。なに? 適当にこの辺の奴ら皆殺しにすればいいってこと?」


 深刻な空気の中、可愛く欠伸をかみ殺しながら、エレナ=ファンツェルンが恐ろしく物騒な言葉を発した。

 指定Bである彼女は別枠で呼んだのだが、当たり前のように無視をしようとしたのを連れてきたのは骨が折れた。

 “敵”の出現には最も頼りになる彼女との情報共有は自分たちの必須事項だ。

 ティアを起こすと脅したのが良かったのかもしれない。


 そんな不機嫌さ全開のエレナだが、投げやりになるのも仕方がないだろう。

 彼女は先ほどの騒ぎの際におらず、状況を把握していない。言動はどうあれ、エリーがエレナの立場でも似たような態度になっていたかもしれない。

 大雨に降られ、状況も分からず待機し続けさせられ、深夜に呼び出されて絵本の話を聞かされているのだ。


 エレナが座る岩の後ろでは、彼女のバディらしい強面のシーン=アーチという男が睨みを利かせて直立していた。

 彼はカイラや魔導士たちと共に最初の拠点の確認に向かっていたようだが、戻ってくるなりエレナの背後に控えている。

 彼女のファンクラブとやらの一員らしいが、エレナから片時も目を離さぬようぎろりと睨んでいた。

 そういう顔付きなだけなのかもしれないが、バディというより監視者にも見える。エレナは勿論煙たがっていたようで、いよいよ意識すら向けなくなっていた。


「エレねー。そもそも論外なんすけど、事はそう単純じゃないんすよ」


 エレナに罪は無い、とは言い切れない気がしたが、実際に目で見ていないなら仕方がない。

 寄生型の魔物は脅威だが、これだけ実力派の魔導士が揃っているのだ。

 対処自体は可能だろう―――“ただの寄生型の魔物であれば”。

 あの場にいた面々は自らの目で見ているのだ。“事象”としか表現できない、異常事態を。


「『最古の蛇』が特殊なのはここからなんす。『最古の蛇』に寄生された人も……“寄生能力を身に付ける”。寄生し続けるんすよ―――“まるで皮を被るように”。そして、ねーさんたちも見た通り、寄生主が死亡すると“ひとつ前に戻る”」


 “脱皮”、する。

 マリスがあのとき呟いた言葉は、エリーの脳裏に焼き付いていた。


「自分たちは見たんす。“彼女は確かに死んだ”。なのに次の瞬間には、別の人間になったんす。それも、何度も」

「……へ、え」


 エレナの気配が僅かに鋭くなった。


 スライクたちが出現した“脅威”に一斉に動き出し、エリーもこの目で確かな“決着”を見ている。

 だが、彼らが斬り割いた死体すら、次の瞬間には消えていたのだ。


 あれは、まるで。


「まあ、エレナちゃんの不満も分かるわ。私たちも情報が無さすぎるの。でも、この目で見たものに理由を付けるなら現状確率が一番高いのは『最古の蛇』ってこと」


 背筋の凍る追憶の淵、アラスールの声で我に返った。

 空気を和ませるためか、いつも通りの口調で言うも、表情はやややつれている。

 彼女はこの作戦の指揮を任されているのだ。かかる負担は魔導士隊の中でも群を抜いているだろう。


「……私がこの目で見たことも改めて言っておくわね。“人間”が、ケディアを殺そうとした。“人間”が、死んだ。でも“それ”は、別の姿になって生きていた。……我ながら訳分かんないことを言っているわ。でも、はっきり見たわね、“シルバーの魔力”の粒子を」


 魔導士でも原理が分からない“事象”が眼前で起きたのは明白だった。

 そしてそれは、この世界の理外に位置する力が引き起こす。


「寄生型の“言葉持ち”……すら、分からないわね。“被った相手が言葉を使うってだけかもしれない”。でも、『最古の蛇』は月輪属性の魔物らしい―――“魔法の領域の敵”よ」


 魔術は学問だ。使用するため、学ぶためのロジックが存在する。

 だが同時に、それを超越した魔法もまた存在するのだ。

 学ぶこともできないそれは、物理法則すら超越する。


 何もかもが分からない。

 漫然とものを見ないように心掛けていたエリーも、あのときの事象ばかりは、不思議なことが起きた、と、まさしく子供のような説明しかできなかった。


「まだ可能性、としか言えないが」


 アラスールと同じく絵本に目を通したらしいフェッチが、苦々しい顔を浮かべていた。

 目の前に机があったら、握った拳をそのまま振り下ろしかねない。


「仮に。マリーの言うように本当に『最古の蛇』が出現したとすれば、最初の拠点で起こったことは想像できる。“あの野郎、クレインに嘘を吐かせなかった”。……シーン=アーチ。最初の拠点は、閑散としていたんだろう?」

「ああ。生物は魔物すらいなかった」


 威圧するような太い声が響いた。

 実際に目で現場を見た人間はこの場に彼しかいない。

 カイラには今、再び別の魔導士たちを連れて最初の拠点へ向かってもらっている。

 『最古の蛇』が出現した可能性により、現地の調査と『名前のない荒野』の外への応援を行っている魔導士たちに、緊急で伝令に向かってもらったのだ。


 特徴が絵本由来の赤い目というのが心細い中、希少な月輪属性であることが確定しているのは不幸中の幸いかもしれない。

 いずれにせよ寄生型の魔物の出現とあっては、単独行動は厳禁であると全体に共有する必要がある。


「魔導士隊の奴らも、拠点にいた人たちも不意を突かれたんだろう。……全員“被られた”可能性も高い。だが、一体いつから紛れ込んでいた?」

「そのことだけど。……アラスール、改めて確認したいことがある。ドラクラスでは寄生型の魔物でも、検知はできるんだよね?」


 深刻に眉を顰め、黙考していたホンジョウ=イオリが口を挟んだ。

 多くの街や村では魔物が近づかないように、魔物対策の設備や罠が仕掛けられている。

 だが、世に広まっている多くの設備は、より高度の魔物、例えば“知恵持ち”や“言葉持ち”には効果が薄い。

 近づいた魔物を直接排除するような強力な効果の罠を仕掛けをしようとすれば莫大な費用が掛かるのだ。例えばエリーの育った田舎など、何となく魔物が避けたがる仕掛け程度しかなく、ヨーテンガースどころか他の大陸の魔物なら素通りできそうなほどだ。

 そして、さらにその中でも異常種である“寄生型”や“擬態”を操る魔物に対しては、その希少性もあって、ほとんどの村や町でほぼノーガードだ。


 だが、異常な都市であるドラクラスでは、その対策が行われているという。

 エリーも仕組みはさっぱり分からないが。


「ええ。私も詳しくは知らないけど、ほら、例のミルバリー=バッドピット。ドラクラスの仕組みで、異常な魔力を検知すると彼女が気づくらしいの。すぐに警護団がどうにかするらしいわ」

「人力か。まあ、その辺りは警護団を信用するとして。……となると『最古の蛇』は、ドラクラスに潜んでいたんじゃなく、この依頼、もっと言えば『名前のない荒野』で出現したと考えられる。……それとも誰か、『名前のない荒野』に着くまでの移動中に赤い瞳の人を見た記憶のある人はいる?」


 イオリは必死に記憶を掘り返しながら、僅かでも情報を求めて周囲を見渡した。

 だが、流石にアラスールをはじめとした魔導士たちも、同じく考え込んでいるマルド=サダル=ソーグも表情は優れない。

 大量の参加者がいるこの依頼で、特に親しくもない相手の容姿など細かく覚えてはいられないのだ。

 クラインと対面していたアラスールたちも、瞳の色など意識していなかった。言われてみればという程度だろう。


 恐らくこの場で最も参加者の様子を細かく窺っていたのは、魔導士隊の方々を含めてもイオリとマルドだろう。

 ふたりはドラクラスからの移動中も小まめに周囲の様子を窺っていた。

 その彼女に心当たりが無ければそれが答えだ。


 イオリは、諦めたように息を吐いた。


「……“誰か”の姿をしていた『最古の蛇』は、最初の拠点を訪れた。この大人数だ、顔なんて細かく覚えている人はさほどいない。魔導士隊か魔術師隊を装っていたかもしれないし、民間人を装っていたのかもしれない。そして、残っていた人たちをひとりずつ“被り”……次第に全滅させた。あとは身を隠して魔導士隊の到着を待っていたんだろう。今度は調査で散り散りになった魔導士たちを、また、ひとりずつ、“被った”」


 イオリが立てた仮説は、本人も分かっているだろうが、まるっきり正しいわけではないだろう。だが、それに近しいことが起きた可能性は高い。

 となると先ほど報告に来た彼女、クラインという魔導士は、最後の被害者だったということにある。


 ふわ、とエレナの可愛げな欠伸が聞こえた。

 断じて彼女と一緒でないと信じたかったが、エリーも話についていけていなかった。

 仮説に次ぐ仮説だ。イオリ自身も強く爪を噛んで考え込んでいる。

 イオリから妙な焦りを感じた。


「あの……、イオリさん。何か気になることでも?」

「……いや。仮説に仮説を重ね過ぎてもあれだけど、僕が気になっていたのは『最古の蛇』が、なんでこんな場所にいたのかってことだ。……マリサス」


 イオリが視線を向けると、マリスも眉をひそめた。


「僕が読んだ中だと、『最古の蛇』は猟奇的な行動を取る魔物だ。思考は読めない。けど、ケディアを狙ったときみたいに、人間に対して執着している魔物という印象だった。それが、人間が寄り付かない、『名前のない荒野』に生息していた、なんてことある?」

「……分からないっす、ね。出来るかどうか知らないっすけど、魔物を“被って”たまたまここにいたってこともあり得る。……けど、もし人間を被り続けていたとしたら、ここは選ばない。何しろ何もないんすから」

「そう。……ドラクラスの計画が漏れて、それに合わせて訪れていた可能性もあるけど、『名前のない荒野』に人間が近づいたら周囲を囲う魔導士たちが何らか気づいている。なら、“どこから”『名前のない荒野』に現れたんだ?」

「……」


 エリーは、疲労しかけていた脳が活性化したような気がした。


 この依頼では、『最古の蛇』を意識していたわけではないだろうが、移動中も集団行動で、部屋割りなどをするときも点呼や身分の確認も取られていた。

 依頼に参加する人としない人を選別したらしいのが主な理由だろう。

 そうした措置を取らないと、あの、“何をしでかすか分からない男”が紛れ込みかねないと思われていたのかもしれない。

 危険は勿論あるが、話題性も高い依頼だ。あの男に限らず、魔門破壊に興味を持った者が物見遊山で紛れ込みかねない。

 魔導士たちに限らず、イオリやマルドも参加者の様子を探るために目を光らせていたのだ。


 イオリの言う通り、最初から依頼に紛れていたのではなく、『名前のない荒野』にいた『最古の蛇』が最初の拠点を訪れたというのは信憑性が高い。


 だが、絵本やレポートなどを見る限り、『最古の蛇』はこんな場所を拠点に選ばないではないかというのがイオリの疑問だ。

 依頼に紛れたわけでもなく、周囲に支部を建てた魔導士たちに見つからずに訪れるのも厳しいとなると、ひとつ、別の可能性が出てくる。


 『名前のない荒野』は“禁忌の地”に劣るとはいえ劣悪な環境だ。

 幸い今日まで魔物に襲われることなく進行しているが、移動だけで大幅に体力は削られている。

 だが、自分たちの敵は環境ではない。


 この依頼の目的は。


「『最古の蛇』は魔門が“召喚”したというのは考えられないかな」


 イオリは小さく呟いた。

 未だ可能性の可能性だ。彼女の頭の中では他の可能性も浮上しているのだろう。

 だが、エリーは、目の前のそれに飛びつきたくなった。


「前に僕らがやった魔門破壊。そのとき、現れた魔族からいくらか話を聞けてね。魔門は自らの危機が迫ると、自分を守る存在を“召喚”するらしい。『最古の蛇』は、魔門に選ばれた“現象”の可能性がある」


 イオリの言葉に、思案顔のアラスールが目頭を押さえた。


「……ねえ、イオリちゃん。そうだとしたら、つまりそういうことよね。魔界にいた『最古の蛇』は……、いえ、召喚って要は転移でしょう。最早魔門は魔界とだけ繋がっているとは限らないわね。まあいいわ、“どこか”にいた『最古の蛇』がこのタイミングで魔門に召喚されたとすると、」

「ああ」


 イオリは息を吐き出した。

 その可能性を追うことは、つまり。


「魔門はすでに僕らを認識していることになる」


 まずはただの移動を繰り返し、検知されないギリギリから攻め込むという作戦すら、根本から破綻している可能性を示唆していた。


「随分“都合のいい展開”だなあ、おい」


 最奥、岩壁に背を預けて黙していたスライクが歩き出した。

 即座にサクが動き、道を塞ぐ。だが、スライクは気にせずそのまま歩き続けた。


「剣の勇者様。待ってくれないかしら。こうなった場合は即時撤退することになっているの。ここを無事に出るまでは、」

「あん? 撤退だ?」


 あわやぶつかるかと思った直前、立ち止まったスライクから殺気に似た空気が漏れたが、アラスールは表情ひとつ崩さず見つめ返す。

 スライクは息を吐き、ちらりとエリーを見ると、最後にマルドに視線を投げた。

 値踏みされたような気がして顔をしかめたが、彼はすでにこちらに意識を向けていなかった。


「スライク。言いたいことは分かる。だが、流石にこの状況での単独行動は見逃せない」

「はっ、また魔導士隊の真似事か。……何が見逃せないだ。“お前はお前の都合で言っているだけだろう”」

「……」


 マルドから鋭い空気が漏れたような気がした。

 一瞬険しい表情を浮かべたマルドは、それを隠すように顔を伏せる。

 苛立った様子のスライクは、ざっと周囲に視線を投げた。

 そして、アラスールを見ると、さも下らなそうに呟いた。


「今ここを出る? 正気かよ。……魔門に気づかれた? 魔物が呼ばれた? 昨日みたいに、“都合が良すぎるから警戒してんのか”?」

「何ですって?」


 アラスールが怪訝な顔をした。

 今、様々な可能性があり、そして仮定を積み重ねた推測は、魔門破壊計画の根本を揺るがしている。


「魔門がうぜえのを呼んだかもしれねえってのは分かった。だがつまり、魔門を潰せばそいつも消えるってことだろう。面倒事が増えたと思ったら、やること変わってねえじゃねえか」


 スライクの言葉に、エレナが心底嫌そうな顔で天井を仰いだのが見えた。似たようなことを考えていたのかもしれない。


 言葉の重みというのは何を言うかでは決まらない。誰が言うかだ。

 それは、魔門破壊という奇跡を、現実のものとして落とし込んでいる者の言葉だった。


「……魔門に気づかれているのよ。民間人もいるし、全員を危険にさらせないわ」

「ならそっちはそっちで帰らせりゃいい。それに、また都合のいい話が出たな。“魔門が危険を感じたから”こそ、現象とやらが起こったんだろうが」


 “つまりこの面々で破壊可能である”。

 スライクの言わんとすることが分かったアラスールが、頭痛を抑えるように頭を抑えた。


 彼女はこの作戦を預かる身として重い立場にあるのだろう。

 敬愛する魔導士であるアラスールには悪いが、エリーは静かに拳を握った。


 言って欲しいことを全部言ってくれる。


「イオリちゃん、意見を聞きたいわ。その仮説、どれほど確率が高いと思う」


 アラスールが助けを求めるようにイオリを見ると、彼女は思案顔で、しかし気まずそうに呟く。


「それなりに、としか。……ただ、アラスールには悪いけど、僕も彼寄りの意見を持っている」


 そこで、アラスールが諦めたような表情を浮かべた。

 彼女もスライクの言っていることには気づいてはいたのだろう。

 そして、今この場にいるのが、危険を前に背を向ける者たちではないことも理解してくれているらしい。


「魔門が『最古の蛇』を召喚したとして、だ。それは守るための行動だろう。僕たちを“攻撃”するつもりだったら、手が早すぎる。被害に遭ったのは昨日作ったばかりの最初の拠点。全滅狙いなら、僕ならもう少し進ませたところで順々に拠点を堕とす。荒野の中で孤立させてからの方が確実だ」


 イオリがたまに怖くなるのはこういうところだ。

 魔導士はそもそも、未知の存在であっても自分なりの解釈が出来る。

 だがイオリの解釈は、自分のことすら外から見ているような冷徹さがあるのだ。


「確かに魔門がこれ以上何もしない保証はない。いやむしろ、他に“何か”をする可能性は高い。だけど、出鼻をくじかれたぐらいでいちいち撤退していたら何度やっても届かないだろう」


 最初であり唯一の拠点の壊滅。

 つまりそれは、ドラクラスの作戦が1度も成功していないということだ。

 被害に遭った者たちのことを思うと胸が痛いが、それでも、あえて言おう。

 最初に“ケチ”が付いたからといって撤退していたら、いつになっても魔門に辿り着けない。


 だが、少し意外だった。

 イオリは保守的な考えをするタイプだ。

 即座に撤退を提案してもおかしくはないと思っていた。


「その点については俺も彼女に同意見だ。確かに痛いが、ここで引いたら次来たときこそ何が起きるか分からない。むしろ“事象”に推測が立った今の方が次よりマシ。作戦継続に一票だ。……スライク。作戦継続なら、単独行動がそもそも不要なんだから、今はここにいてくれないか」


 マルドがスライクを宥めるような言い回しをしたが、エリーはまた、違和感を覚えた。

 マルドもイオリ同様の判断をするタイプだと思っていた。


 イオリもマルドを訝しむような表情を浮かべている。

 ふたりの頭の中は覗けない。


「……ちっ」


 アラスールが舌打ちした。

 腹を決めたような表情だった。


「……フェッチ。魔導士隊全員に通達。民間人含む依頼参加者全員にきちんとした説明。混乱防止とか言って情報を伏せるのも駄目。正直に、起こっている可能性の話をして」

「マジですか、隊長」

「その上でちゃんと自分で判断してもらって。今以上に命を危険にさらしても、作戦を継続してくれるかどうか。……並行して、大至急最初の拠点の復旧。ドラクラスにも連絡して、すぐに増員してもらうわ。……ねえ、カイラちゃんをしばらく貸してくれないかしら? 資材の運搬に協力して欲しくて」

「そりゃカイラに聞いて欲しいですけど、……そうか、痛いな」


 投げやりというわけでもなく、アラスールは手早くやるべきことを並べ立てた。

 実際のところ、ドラクラスの作戦自体は悪くない。

 『最古の蛇』に対抗しながら、魔門に向かうとしても、セーフポイントはあればあるだけいい。

 だがそのためには、移動に関しては群を抜いているカイラ=キッド=ウルグスの力が不可欠だ。人数も減る可能性が高いとなれば、より一層彼女の出番は増える。

 だが、その力は前線にも欲しいものだった。

 マルドも渋い顔をしている。


「……その上で、“あなたちにも”、聞いて欲しいことがある」


 早速指示通り駆け出そうとしたフェッチが、ぎょっとした顔でアラスールを見た。

 マルドがピクリと動く。


 重い声を出したアラスールは、重すぎる荷物を下ろすように、肩をゆっくりとすくめた。


「いい? 今から私は、とても大事な話をするわ。作戦の指揮を預かる身としては、士気を下げる最低の発言よ」

「隊長。……本当に言う気ですか」


 マリスとケディアは、ふたりのやり取りに怪訝な顔つきで視線を送る。

 隊長格しか知らないような話なのだろうか。


「これが私の判断。……全部聞いて、知った上で、改めて判断して欲しい。この魔門破壊計画はね―――“サブプラン”なの」


 敬愛する魔導士の話だが、意味がなかった。

 この場にいる者たちの答えは、変わらなかった。


―――***―――


「20? こんな村が、20もあるのか?」


 凄い、という感想より先に、何故、という悪寒が脳裏を過った。


 ヒダマリ=アキラは『智の賢帝』シャロッテ=ヴィンテージが見下ろす先、カトールの民が苦心して作り上げたであろう村を見渡した。

 夕日に輝く水路が整えられたそれなりの規模の村は、高いところから見るとより一層美麗に見え、傑作に思える。

 だが、先ほどまでより、ずっと小さく見えてきた。


「アキラ氏。……何故知っていたんです? カルド氏から聞いたのですか?」

「い、や。なんとなく、だ」


 言葉通りだ。

 シャロッテとの話やカトールの民のやり取りで、言葉尻というか、ほんの少し気になっていただけである。

 シャロッテがここばかりにいたわけではないようだったり、カトールの民以外にもタイローン大樹海の民族が参加していたりするような、そんな小さな違和感の積み重ねの先、ぼんやりと思っていたに過ぎない。


 ドラクラスは膨大な規模の計画を現実のものとして実行する。

 アキラが目を丸くするような事象ですら、その全貌のほんの一部でしか無いような気がしただけだ。


 そして、出てきた答えは約20。

 この規模の村や畑が、ネーシス大運河の近辺に、20はあるという。


 だが。

 なんとなく気になっただけであったのに、シャロッテの反応から、悪寒を拾った。


「なあシャロッテ。ドラクラスってそんなに物資が足りていないのか? マジで大人数集まってるんだな」


 強引に答えさせたようで気が引けたアキラは誤魔化すようにそう言った。

 だがシャロッテは、アキラの懐疑心を容易く見抜いているようで、静かな表情を浮かべていた。


「アキラ氏。この後どうします?」

「どうって、村を案内してくれるんだろ?」

「その後です。何をするつもりですか?」


 冷静な口調だった。

 シャロッテは、自分の反応からアキラが何かを感じ取ったことを察している。

 日輪属性の事件の種を芽吹かせる力は彼女も体験済みだ。

 目を離すと何をするか分からないと思われているらしい。


「……物資が足りないだけってんなら同じ場所に集まって作業するだろ。なんでそこまで分けて村を作っているのかは気になっている」


 依頼の合間に、他の村の様子も見に行こうとしたかもしれない。


 諦めてそう言うと、シャロッテの口が僅かに蠢いた。

 不穏な様子に、彼女をじっと見つめていると、シャロッテは、一瞬、周囲の気配を伺った。


「……他言無用でお願いします」


 追求してしまったような後ろめたさはある。

 彼女なら、アキラ相手ならいくらでも誤魔化せるだろう。

 だが、彼女の様子には、誠意を感じた。


「先に約束してください。今から何を聞いても、私の目の届くところにいると」

「……分かった」


 誠意には誠意で応じるべきだろう。

 散々念を押したシャロッテは、アキラを逃がさないためか、僅かに歩み寄った。

 何を聞かされるのか。

 そう身構えたアキラの耳に、シャロッテの静かな声が、通って抜けた。


「複数の村は、次の引っ越しのために作られました」


 シャロッテが何を言ったのか、すぐには理解できなかった。

 次の引っ越し。当然ドラクラスのことであろう。

 だが、目下、アキラを悩ますとある依頼が連動して思い起こされた。


「次の引っ越し? ……それは、“魔門破壊”のこと、だろう」


 アキラは改めて村を見下ろした。


 思考がクリアになっていく。

 ネーシス大運河から引かれた水路を造り上げたカトールの民。

 アキラはそこまで行かなかったが、上流にも施設が建設されているらしい。

 開拓したエリアを含めれば、アキラなど米粒にも満たない巨大な施設が、あと約20はあるという。


 すると、何ができるのか。


「ドラクラスの計画は、大運河を渡ることです」


 アキラの理解が追い付く前に、シャロッテは端的に言った。


 シャロッテたちが点検してきた堰は、川の流れをせき止める。

 川の上流には、ダムのようなものが出来ているのだろう。

 そして、ネーシス大運河の周囲に同じような村がいくつもあるという。


「“作り出した村の堰を一斉に解放する”。川の勢いを分散させて弱め、ここより下流、ドラクラスはネーシス大運河を渡る。移動ポイントの地盤調査も、並行して行われているそうです」


 そんなことをすればこの村は、水害などと言うのも生易しい被害に遭う。

 ダムの決壊が起これば、暴走するような勢いの川がなだれ込み、建物や畑など吹き飛ぶだろう。

 ここら一体が運河となる。


「そ、そんなことが可能なのか? 川、というか海ってレベルだって聞いてるぞ。ええと、いや、」


 シャロッテの言葉を疑うのは誤りなのだろう。

 だが、頭には多くの疑問が浮かび続け、しかし口からはたどたどしい言葉しか出ない。


 要するに、ネーシス大運河の周囲に建てたダムを決壊させ、川の勢いを分散させることで、下流をドラクラスが移動可能な状態にするということなのだろう。

 一時的な処置なのかどうかは知らないが、自然そのものを人工的に捻じ曲げようとしているということになる。

 村の数が20と聞いて驚いたが、そう聞くと、逆にそれで足りるのかとすら感じてしまう。

 ドラクラスの移動ポイントもだ。いつから流れている川かは知らないが、川の勢いが弱まったとしても、今まで海だった場所を通過できるとは思えない。


 だが、このドラクラスでは常人が想像できないほどの計画が、現実のものとして行われている。

 移動するのが馬車ならば不可能だろうが、ドラクラスは“具現化”だ。

 ほとんど魔法の領域にあるその力ならば、川の勢いが弱まりさえすれば通過可能なのかもしれない。


 様々な混乱が頭に浮かび、しかしその奥、感じ続けていた悪寒の正体がアキラの目の前に現れた。


 とある前提が、崩壊している。


「……シャロッテ。ドラクラスがこの場所に留まっているのは……、大運河を渡れないから、だったよな。“だから魔門破壊が必要だった”」


 シャロッテが拳を握った。

 案の定、とでも言いたそうな表情をしている。

 目の前の賢人は、アキラが辿り着く答えなど、とっくに見えていたのだろう。


「“こちらがメインプランです”。……ですが、タイローン大樹海の民族の手腕に大きく依存する計画のため、念のために魔門破壊の計画が立てられたそうです」

「……念のため、だって?」


 つい口から出た言葉は、自分でもぞっとするほど冷えていた。

 シャロッテが後ずさる。


「“念のためで、あいつらは命を懸けてんのか”?」


 言葉とは逆に、身体の底から熱が湧いてきた。

 タールを煮詰めたような、毒々しいその熱に侵され、目の前の誰かの姿すら分からなくなる。


「ア、アキラ氏。こ、言葉が悪かったです。ど、どちらか先に成功した方のルートになる、というのが正しいですね。決して、主副のあるものでは、」

「レース気分かよ。ドラクラスはイカレてんのか……!!」


 アキラはぎろりと“どこか”を睨んだ。

 睨んだ先は、ドラクラスなのか、『名前のない荒野』なのか、方向など分からない。

 だが何かに激情をぶつけたい衝動にかられた。


 魔門破壊。

 自分たちが過去経験したあの地獄のような出来事も、このドラクラス引っ越しに繋がっていた。

 あのときも、自分のわがままで彼女たちを巻き込んだのだ。

 だがそれでも、“何か”の意味があるのは前提だった。結果として得たものは大きかったが、彼女たちを無駄に危険に晒すために挑んだわけではない。


 しかし、蓋を開けてみれば枝葉の枝葉。

 未知の魔門に挑まずとも、引っ越しが可能な計画がすでに進行していたのだ。


 彼女たちが向かった魔門破壊は、埃ひとつ無い清潔な部屋で、偉そうに座る者たちが、ほんの思い付きで、もうひとつくらい何か案を出そうとした程度の些事でしかなかった。


 そしてその些事で、彼女たちは大勢の人間と共に、命懸けで未開の『名前のない荒野』へ向かうこととなっている。


「……くっそ」


 アキラは歯を食いしばって震えた。

 覚えている感情を整理ができなかった。

 怒りに近しいが、最も覚えているのは自分への失望なのかもしれない。


 ただでさえ魔王の討伐に彼女たちを巻き込んでいるのだ。その上で、このドラクラスに来たのも自分のわがままだ。

 その結果、また命を懸けさせている。ただのサブプランにだ。

 自分は彼女たちのことを、物か何かだとでも思っているのか。


「っ、……、っ」


 そこで、えずくような声が聞こえた。


「……、シャ、シャロッテ?」


 ぼやけたような視界が僅かに晴れると、目の前に、直立したまま震えるシャロッテがいた。

 彼女は、瞳を潤ませ、肩を震わせていた。


「あ、へ。あ、あれ? な、なんでも、無いです。きゅ、急に、その、す、少し、驚い、た、だけ、と、いう、か……、なん、でも」

「わ、悪い、俺……、シャロッテのせいじゃないよな」


 自分が何を言ったか覚えていない。

 だが、自分の声色がドスの利いたものであったことは分かった。

 目の前でいきなりそんな真似をされたら誰だって慄く。


「騙すような真似をしたのは、す、すみません……、でも、だって……、ふ、ふえ」

「だ、だからシャロッテが決めたことじゃないだろ」

「そ、そうだけ、ど。でも、だって、私だって、が、頑張って、」


 目の前で泣いている女性に、アキラが打てる手は狼狽えること以外存在しない。

 激情がなりを潜め、アキラはただただ困り果てた。

 日輪属性の余計な力が働いているような気もして、一層自責の念に囚われる。


「むしろシャロッテには感謝している。本当のこと、話してくれたんだから」

「ほ、ほんとうに……?」


 本心からそう言った。

 本当のことを話してくれたのは、彼女の誠意だ。

 シャロッテではない誰かに聞いていたら、自分はきっとすぐにでも魔門へ向かっていただろう。

 魔導士隊を強引にでも捕まえ、勇者の権限でも何でも使って中止を訴え、暴れ回っていたかもしれない。


「で、でも、わ、わた、し、魔門破壊、なんて。絶対に嫌で、行くなんて、あり得ないって、思ったり、して、どうせ、無駄になる、って、」

「そんなん俺でもあり得ないって思うよ。シャロッテからすりゃそうだろう。『智の賢帝』が失敗なんてしないんだから」

「そ、そう、です、か……? で、でも、だって、」

「だっても何も……、そう思えるってのは、優しさだろう」


 賢人らしからぬ支離滅裂な言葉に、アキラは必死で相槌を打った。

 徐々に収まりつつあるシャロッテの様子だが、彼女も彼女で色々と溜まっていたのだろう。

 本筋の計画を進行していた彼女からすれば、サブプランでしかない魔門破壊など正気の沙汰ではない。

 心のどこかで、保険に命を懸けるものを侮ってしまうのも無理は無いだろう。

 しかしそれでも、そう思ってしまう自分を彼女は戒めていたのかもしれない。

 それは立派な優しさだ。


「シャロッテは凄いよ。ドラクラスの本筋の計画を責任持ってやってるんだから。シャロッテが頑張ってくれたから、多くの人が救われるんだろ?」

「でも、アキラ氏、に、き、嫌われ、た、でしょう、し」

「嫌う? 俺がシャロッテを? あり得ないだろ」


 言葉を尽くして、何とか宥めて、アキラはゆっくりとシャロッテを岩に座らせた。

 色々と最悪の気分になる。

 視線を泳がし、引っ越しと共に運河に沈む村をざっと流し見てから、アキラは途方に暮れて遠方の山を眺めた。

 ネーシス大運河を作り出す途方もなく高い岩山からの滝。その上空を覆っていた分厚い雲が、先ほどよりも少しだけ散っているように見えた。

 あの雲が完全に移動するまでここで呆けていたら、もろもろ解決してくれたりはしないだろうか。


「……約束は守る。シャロッテの傍にいるよ」


 逃げそうになった自分の思考をつなぎ止め、アキラははっきりと言った。

 自分が何をするか分からないほど不安定な感情を、言葉で律する。


 魔門破壊はあくまでサブプラン。

 失敗しても、ドラクラスの引っ越しに致命的な問題が出るものではない。


 それを知らない彼女たちは、全身全霊で依頼に挑んでいるのだろう。

 いや、知ったところで、彼女たちの選択は変わらない気がした。

 矮小な自分などと違って彼女たちは立派に使命を果たす。

 そういう彼女たちだからこそ、この愚者と共に、魔王の討伐を目指してくれているのだ。


 背後のシャロッテから未だ鼻をすする音が聞こえる。

 落ち着き始めてくれたようだが、きっと日輪属性が影響を与えてしまったのであろう感情の乱れは、一筋縄では抑えられないだろう。


 これを言うことになるとは思わなかった。腹立たしい。


「それに。魔門破壊は危険だけど、……多分、大丈夫だ。だからシャロッテが気に病まなくていい―――“あっちも成功する”」


 アキラは、このときばかりは彼女たちの境遇やシャロッテへの申し訳なさを放り出していた。

 心配と信頼。その狭間を不安定に行き来するアキラは、彼女たちを想い続ける。

 彼女たちは紛れもなく強い。だがアキラは、想うあまりの不安を覚えてしまう。


 しかしその向こう、そうした問題と離れた“根拠”が、気づけばはっきりと見えていた。

 だからアキラは、面白くない、事実を言った。


「ア、アキラ氏……? 魔門破壊は、もう、やり方を確立しているんですか?」

「いいや。何が起こるか分からないよ。もう一度やれって言われても、俺じゃどうなるか」


 それでも。はっきりしていることがある。


「でも、依頼の参加者にいるだろ。……俺、色んな奴の真似をしてここまで生き残ってきたんだけど、ちょっと前に、そのオリジナルと共闘したんだよ。で、隣で戦って、よく分かった―――“真似にすら到達していなかった”って」


 彼女たちのことは死ぬほど心配だ。

 しかし、魔門が起こす事象など、物の数にも入らない。


「スライク=キース=ガイロードは、化け物だ」


―――***―――


「むにー」

「……」


 急ごしらえの拠点でも、洞穴で待機していたばかりで経過を見ていないエリーにとっては、魔法のような出来事だった。

 岩山に挟まれたような空間にはいつの間にか、中央に十分な広さを確保した通路とし、両脇に、魔導士隊の方々の詰め所や、救急スペースや宿泊用の建物など、各施設が“建物”が敷き詰められている。

 乱雑に配置されているようでもなく、大雨の中作業をしたとは思えないほど丁寧で、都市設計をしたかのような計画性を感じられた。


 この見事な仕事をした民間人たちは、今何が起こっているのかまだ知らない。

 先ほど聞いたアラスールの言葉通りなら、明日以降、この頼もしい彼ら彼女らは現実を知り、そして決断を迫られることになる。


 困惑と不安が混ざり合うまま、エリーは食事を済ませたのち、とにかく身体を休めようと、あてがわれた建物へ向かう途中、妙なものを見つけた。

 民間人の中に外観にこだわる者もいるようで、建物などの他、水場として設けられたエリアに、洒落た姿見が置かれている。


 時刻は深夜。

 何が起きているか分からないほとんどの者は眠りにつき、閑散としている空間で、自らの両頬に手を当ててその鏡を覗き込んでいるカタリナ=クーオンを見つけた。


 彼女も『最古の蛇』の話をした場にはおり、いつの間にか姿が見えなくなっていたと思っていたのだが、思わぬ発見にエリーはぴたりと足を止めた。


 暗がりで、怪しげな行動を取る彼女に声をかけるのを躊躇うも、そもそも不要なような気もした。

 今日、時刻としては昨日になるが、彼女と行動して分かったことがある。

 彼女はエリーがどこにいても、死角など存在しないように、すぐに察するのだ。

 とっくに自分に気づいていてもおかしくない。


「……カタリナ? 何してるの?」

「っ―――!?」


 一瞬でエリーに殺気が突き刺さった。

 反射的に距離を取ったエリーは、その刹那、彼女の瞳が氷のように冷え切っていたのを見た。

 何事かと思わず臨戦態勢に入りかけたが、気づくと、いつの間にかカタリナはまた、にへらと笑って間抜け面を晒していた。


「……エリにゃん。今日はお疲れさまー」

「う、うん、た、大変なことになった、わね」


 手を当てていた彼女の頬は赤くなっていた。

 『最古の蛇』の特徴は瞳の方が赤いらしいので関係ないはずだが、挙動不審なバディを発見したら即魔導士隊に連絡することが決まった気もする。

 どうしたものかと思案したが、気を落ち着かせるように胸に手を当てるカタリナに罪悪感を覚え、エリーは忘れることにした。


「ごめん。驚かせちゃった?」

「……。う、うん、ちょっとびっくりした、かも」


 カタリナは、またちらりと鏡を見て、口元を蠢かせた。

 身なりでも整えていたのだろうか。妙に集中していたような気もするが、カタリナは最後に両手で頬を抑えると、ふらふらと歩み寄ってきた。

 触れない方がいいのかもしれない。


「エリにゃんはもう寝るの? そういえば私、どこで寝るか聞いてないや」

「そうしようかなと思ってたところ。カタリナもまたあたしと一緒。……って、カタリナ、ご飯食べたの? あたしはそこで聞いたけど」

「……。あ」


 また、ティアでよく見る挙動をした。

 行動を決定する大部分を興味や感情に支配されていると、前提となる部分がおろそかになりがちだ。


 はっきり言ってしまえば子供に向けるような不安を覚えてしまうのだが、今日、エリーは彼女の戦闘を直接見ている。

 『武の剣帝』と呼ばれる彼女は、その名に相応しい戦闘能力を持っていたが、最も記憶に残るのは、あのときの、背筋が凍るような冷たい瞳だ。


 氷のような瞳の彼女と、今の彼女。

 どちらが本当のカタリナ=クーオンなのだろう。


「まだ人はいると思うから、一緒に行く? 点呼とかもしてたと思うけど」

「うーん、明日、にする。ちょっと今日は、疲れているのかも」


 ご飯はきちんと食べなさい、と口から出そうになったがぐっと堪えた。

 彼女も大人だ。自分で判断できるだろう。


 そしてその判断で、彼女も『最古の蛇』が出現した今でもなお、魔門を目指すと言っていた。


「……ねえカタリナ。魔門破壊、本当に継続でいいの?」


 自分のことを棚に上げている自覚はあった。


 魔門破壊は、魔導士隊の方々が昼夜を問わず働き回り、実行にこぎ着けた計画である。

 だが、大義があると思っていたこの依頼、アラスールによると“サブプラン”だそうだ。

 本筋の計画は自分たちの預かり知らぬところで進行中しており、成否はドラクラスの人々にとって大きな影響はないということになる。

 それだというのに、危険の度合いは過去類を見ない。

 その上、『最古の蛇』などという、絵本頼りの未知の危険も出現しているのだ。


 あの場にいた面々は、作戦の継続を選択した。

 だが、自分たちとスライク=キース=ガイロードの一派という特異な面々である。

 ティアとキュールは『最古の蛇』に遭遇しなかったこともあり呼ばれなかったが、きっと彼女たちも同じ選択をするだろうという予感があった。


 しかし、カタリナは、この依頼に参加しただけのいち旅の魔術師に過ぎない。

 同調圧力をかけてしまったような負い目がある。


「……」


 そこまで考え、エリーは棚に上げた自分が落ちてきたような感覚に陥った。

 そもそも自分たちを特異と言うが、何をもってそう感じるのか。

 自分たちの目的は魔王討伐だ。

 この依頼、もっと言えばドラクラスの問題は直接関係が無い。

 目指すものが大きすぎるがゆえに、目の前の問題を避けるわけにはいかないのだが、そもそも大儀も無いようなことに命を懸ける筋合いは無いのだ。


 確かに、自分はこの依頼の前提の指定Aである。魔導士隊の方々の努力を無駄にするなどもっての他だ。

 後から考えるとそういう理由が付けられるのだが、あのとき、首を縦に振った自分は、“そんなこと”を考えていただろうか。

 途方もない恐怖と、理解不可能な事象を前に、それでも妙に気が急いた感覚があった気がする。


 そんな困惑を覚えたエリーの目の前に、カタリナの大きな瞳があった。

 透き通るようでいて、しかしその奥に、小さな、そしてあのときの、氷のような冷たさを感じた。


「頑張るって決めたから」

「……は、い?」


 カタリナの声は静かで、少しだけ大人びて感じた。

 彼女は小さく拳を握る。


「正直私、魔門がどういうものかもよく分かってない。さっきだって、話の半分も分からなかった。でも、頑張るって決めたから、引けない」


 カタリナの言葉は要領を得なかった。

 しかし彼女は真剣に言う。


「きっと私は、足りてない。“だから駄目だった”って思うんだ。……引いたら、もっと遠のく」


 やはり意味の分からない言葉だった。

 だがカタリナは、悔しそうな表情を浮かべている。


 彼女は過去、何か“失敗”をしたのだろうか。

 詮索するのも憚れる、悲痛な表情に、エリーは何も言えなかった。


 サクに対する態度についてもどこかで聞こうと思っていたのに、彼女の透き通る、そして氷のように冷たくなる瞳を見ていると、口から彼女を詮索するような言葉が出てこない。


 嫌いな人がいる。

 カタリナがそう言っていたのが、鮮明に記憶に残っていた。


「……あれ。シッチーだ」

「え?」


 また意味不明な言葉が飛び出した。

 しかし長い旅の中養われた感覚が、その言葉の意味を正確に拾う。


 カタリナの視線の先、暗がりの向こう、ぼんやりと、遠のいていくひとりの男の影が見える。

 どういう視力をしているのだろう。

 カタリナの言葉と結びつけると、もしかしたらあれは、エレナのバディのシーン=アーチだろうか。


「どうしたのかしら。拠点の外に行こうとしている?」


 すでにエリーの視力では姿が捉えられない。だが、宿泊用の建物の真逆な上、彼が向かっていった方は何も無いはずだ。


「……ねえカタリナ。彼のこと知ってる?」

「知っているよ。怖い顔をしている人。でもティアにゃんも話したことはあんまりないって言ってた」


 情報は一切増えなかった。そしてその程度の仲で意味不明のあだ名をつけるとは流石である。


 イオリが言うに、よからぬ噂の絶えない人物らしい。

 彼もあの場にいて、作戦の継続に同意している。同調圧力に屈したというより、妙な意思を感じた。


 エレナのバディということもあって気になっていたが、彼からは違和感を覚えていた。

 そもそも、あの場にいた、『最古の蛇』に遭遇していないのはエレナと彼だけだ。

 最初の拠点の調査にも向かったというし、挙動にも不審な点がある。


「つける?」

「……、そ、うね。単独行動は厳禁って言ってたし。様子は見た方がいいかも」

「スニーキング・ミッションだね……!」


 ばれてもいいのだが。

 そう思ったが、気合を入れたカタリナがふんすと鼻を鳴らし、目を輝かせた。空回りした末路はティアでよく見ている。


 しかしカタリナは、物音ひとつ立てずに歩き始めた。

 目の前にいるエリーですら、気配を感じない。

 ティアも似たような特技があるが、彼女なら転ぶか何かに激突するかで台無しになっているであろう。

 カタリナの見事な身のこなしに敬意を表し、エリーもひとまずは気配を殺してカタリナに続いた。


「……し」


 拠点の外に差し掛かった頃、カタリナが口に指を当てた。

 エリーは一層息を殺す。

 岩陰に隠れたカタリナの背中越しに見ると、シーンの向こう、ぼんやりと、もうひとりの人影が見えた。


 暗がりで顔が見えないと思ったのも束の間、イエローとスカーレットの光が一瞬だけ姿を照らす。

 スカーレットの光を灯したシーンの向こう、ちらりと見えたのは、魔導士のフェッチ=ドッガーだった。


「これで証明になったか?」

「絵本の話だろう。気休め程度だ」


 肩を落とすフェッチに、シーンが毒づいた。

 今のは『最古の蛇』を警戒しての確認だろうか。


 エリーも念のため自分とカタリナの魔力の色も確認したくなったが、ふたりの空気が重々しく、そのまま息を殺した。


「シーン=アーチ。改めて聞いておく。この依頼を継続するんだな?」

「当然だ。ドラクラスの本筋の計画にも、そして魔門にも興味は無いが、最も重要な依頼を請けている」

「は、随分飼いならされてるな、あの婆さんにいくら借りがあるんだ?」

「……アラスール=デミオン。随分と慎重派じゃないか。迷わず突撃するようなタイプだと聞いていたが」

「民間人の命が懸かっちゃ話は違う。気楽な俺とは違うってだけだ」


 ふたりの様子はぼんやりとしか分からない。


「……無い腹探り合ってもしょうがない。話を聞かせてくれ」

「話?」

「おいおい、何のためにあんたを調査に向かわせたと思ってるんだ」

「……ふん。確かに時間の無駄だな」


 隣のカタリナが、首を傾げた。

 必死に話を理解しようと頑張っているように見えるが、エリーも何の話か分からない。


「“見つけた”、と思う」

「!」


 だが、シーンの言葉に、フェッチの雰囲気が変わったのは分かった。


「現地で見つけて俺が気になったのは、スケジュール表だ。破れてほとんど読めなかったが、一定間隔で、魔導士隊警護の元、物資の運搬が行われる。これは計画上正しいでいいんだな?」

「……ああ。物資の移動に伴って、魔導士隊の確認作業が入る手はずだ。それがどうした?」

「これで合っているか?」


 シーンがフェッチに何かを見せたようだ。

 小さな光源も見えるが、こちらからは分からない。


 だが、盗み聞ぎしてはならない話のような気がしてきた。

 シーンはもしかしたら、イオリのように魔導士隊の協力者として活動している参加者なのかもしれない。

 イオリと違い、旅の魔術師のエレナと組んでいるというのは気になるが、旅の魔術師として参加しているエリーに聞かせたくない話もあるだろう。

 だが、イオリのことを思い出したからか、離れる気が薄れた。

 自分の知らないところで、いつも何かをやってくれているイオリ。

 魔導士隊の意思を尊重し、こうしたものを知らないままでいるのは、もしかしたら甘えなのだろうか。


「……合っている、はずだ。それがどうした?」

「俺も最初はそう思った。よく見た上でそうか?」

「……。…………。現場での調整か? 民間人含めて人数が12人。8人ずつで3回、だった記憶がある。…………。現場に物資は、“何回来ていた”?」

「時間も押していた。正確には分からない。だが、人数が微調整された結果、“回数が減った可能性がある”。8人の3回ではなく、12人の2回に。『名前のない荒野』を警戒している割には無防備だと訝しんだが、やはりか―――“空白の時間が長い”」

「っ……」


 フェッチが足元を蹴った。

 まったく分からない話の中、フェッチから強い焦りを感じる。


「誤解しやすい人数だが、その調整は現場判断じゃ許されない。人数が変わったことで、大元の計画の意味が変わっちまってる。こいつは現場のミスか? なんで人数を変えた?」

「分かっているだろう。理由はともあれ、やった可能性のある奴はいる。……お前の依頼通りだ」


 どうやら最初の拠点の話をしているらしい。

 何らかのミスがあり、拠点の見回りが必要な回数に達していなかったということだろうか。


 シーンは、重く、太い声で言った。


「最初の拠点の壊滅には、“魔王の弟”が介入した可能性がある」


 エリーは思わず声が出かけた口を押さえた。


 魔王の弟。

 ドラクラスにいる『接続者』を狙う魔族、と思われる存在。

 エリーの認識はそうなのだが、何やらふたりの様子がおかしい。


「この計画はドラクラスで立てられたはずだ。そこから刷られて配られた。だが、実際に物資の運搬をするのはお前たちのように計画の本筋を知る魔導士じゃない。もともと謎だらけのドラクラスだ、民間人含め、配られた資料を愚直に信じるだろう。大元の計画の意図を読み切るのは困難だ。知っている者がいて違和感を覚えたとしても、実際に移動する側としては、人数は多い方がいい。“自分にとって”都合のいい情報を信じるだろう」

「……『最古の蛇』との関連性は?」

「そこまでは分からない。だがこれだけでも、『名前のない荒野』で空白の時間が多く生まれることにはなる」

「失敗の可能性は高まる、ってことかよクソが」


 フェッチが毒づき、額を拳で抑えたような影が見えた。


 そしてエリーは、聞いてはならないことを聞いたと確信した。

 ふたりの口ぶりはまるで、魔王の弟が、ドラクラス内部にいるかのようではないか。


「依頼は終わりでいいか。今の推測であれば、魔王の弟はこの依頼の参加者にはいない。自らも危険に晒すだけだ」

「ああ。だが終わりじゃない。お前がまるっきり嘘を吐いていたら、魔王の弟が依頼参加者に……、目の前にいることになるからな」

「いい推理だ」


 また、険悪な気配を感じた。

 カタリナを見ると、彼女は目をきつく閉じ、必死に考え続けているようで、今にも眠りに落ちそうだった。

 ここで舟を漕いだ彼女が倒れたら、フェッチたちに何を言われるか。


「いずれにせよ、魔門はもとより『最古の蛇』、そして魔王の弟の妨害。まだまだ“何か”が起こる可能性も高い。……さっきは侮るようなことを言ったが、アラスール=デミオンの判断は正しい。計画倒れだ」

「そこまで分かっていて依頼に残ったのはお前だけだな」

「もともと前に出るつもりがないからだ。精々疑うといい。俺もお前を信用しているわけではない。仕事だから貴重な時間を割いているだけだ」


 険悪で、そして疑心暗鬼なふたりの男は、しばし沈黙した。

 暗がりの影で、表情は見えない。


 エリーは、この場から離れることを決めた。

 これ以上盗み聞いても、不安が煽られるだけであろう。

 それよりも考えを整理したかった。


 “魔王の弟”。

 ドラクラスの問題として認識していたが、エリーにとっては音沙汰のない存在であり、素直に言えば忘れかけていた。


 だが、フェッチの様子は深刻だった。

 聞き取れた話によると、魔王の弟はドラクラスの依頼の妨害工作を行っているらしい。

 それも秘密裏に活動しているとなると、エリーが参加していた今までの依頼にも、何らかの影響を与えていたかもしれない。


 エリーは、たとえ簡単であっても、ドラクラスの依頼には今まで以上に身を引き締めて臨んでいる。

 魔導士隊の方々が強く介入している依頼だ、ミスは許されない。

 妄信していると思われ、実際にややその傾向もあるかもしれないが、そもそも魔導士は規格外の戦闘力を有し、頭脳明晰な超人なのだ。

 そんな超人たちが立てた計画は、成功と安全が絶対的に保証されている。

 それを破るのは、自分だけではなく、他の依頼の参加者の安全を脅かすのだ。


 だが、彼らの話していることは、その根本を覆す。

 計画そのものに悪意ある第三者が介入すれば、前提は崩壊するのだ。

 そして、魔導士隊の看板があるゆえの思考停止を手痛く突かれることになる。


 だが、気にし過ぎれば、“介入がなかった場合”、今度は魔導士隊の計画に則れず、自分たちの首を絞めることになる。

 考えずに罠にかかるか、考え過ぎて自滅するか。


 物事の裏表。メリットとデメリット。思考のバランス。

 考慮すべきことは多いが、何をしてもトレードオフが存在する。

 こうしたときは大抵、結果論になるのだ。


 物事は常に選択を迫られる。

 結果論と言えば、先ほど魔門破壊の継続を選択した自分たちもそうだ。


 何かを成すまで、自分たちは“選択者”でしかない。

 重要なのは、正解を引けるかどうか。つまりは“正答者”になれるかどうかだ。


「……魔王の弟の狙いは何だと思う」


 また勘ぐりなのか、それともただの疑問か、エリーがカタリナと共に静かに立ち去ろうとしたとき、表情の見えないフェッチがぼそりと言った。


「噂通りなら、今回の横槍は引っ越しの妨害、と言ったところか。そもそも魔導士隊は魔王の弟についてどこまで抑えている」

「噂レベルと大差ないだろうな。警護団が調査を進めているらしい。魔導士隊の協力者、という形を取っているらしいが、実態は奴ら主導だろう」

「信用していない割りには簡単に話すな」

「嘘かもしれないぞ? まあ、それでいいか。お互い釘を差し合っていた方が健全だ」

「違いない。……だが、そうか。狙いが引っ越しの妨害だとしたら、」


 彼らも彼らで思考を止めず、考察を進めているらしい。

 気が引かれる話ではあったが、気にし過ぎて信用すべき相手を失ってしまってはかえって相手の思うつぼだ。

 考察の方はフェッチをはじめとした魔導士隊に委ね、実行部隊である自分たちは魔門破壊そのものに集中した方が正解の場合もある。


 最低限の警戒は必要だろうが、ただでさえ最近注意力が散漫気味だ。何にでも首を突っ込んでいてはそもそも依頼達成自体が出来なくなってしまう。

 また彼女の負担を増やすことになるかもしれないが、明日にでもイオリに相談しながら方針を定めたい。


 しかし、耳が、余計な言葉を拾った。


「“ドラクラスがまずいことになる”」


 シーンの声が重く響いた。

 エリーは、胸の奥に抑え込んでいた何かが漏れ出すような感覚に襲われた。


「魔門破壊はサブプランなのだろう。妨害が目的なら、こっちにちょっかい出して、メインプランに手を出さないことはあり得るか?」

「……推測の上の話でしかないが、本当にそうなら、魔王の弟が“何か”をするかもしれない」


 暗がりの向こう、ふたりの男を注視した。

 ぼんやりと見えていたはずの男たちの姿が、今まで以上に見えなくなる。

 音が出ぬように身体を支え合っていたカタリナの体温も、何ひとつ感じなくなってきた。


「……。ドラクラスは万全か?」

「警護団もいるし、もちろん戦力的には相当だ。だがどちらかと言えば、メインプランを実直に遂行するだけの、“頭のいい魔導士”が多いな。応援要請されたような実働部隊はこっちに多い」

「手薄、ではあるか。……随分軽いな。応援要請された魔導士にとってはそんなものか」

「魔導士を舐めるなよ、やるべきことはやり切るさ。まあ、あっちは何が起きても大丈夫だろう」


 フェッチは、彼特有の、奥に芯を感じさせる、しかし軽い口調で言った。


「体制も万全だろうし、その上で、ドラクラスにもきちんと“異常者”がいる。問題ないさ。……恐れ多くもご協力いただいている勇者様、ヒダマリ=アキラがいるんだから」


 また、気が散らされた。


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