第69話『光の創め12---緊急事態---』
“――――――”
昔々、とある村に、力自慢の男がいました。
村の川が暴れれば大岩を投げ込んでせき止め、日照りが続けば森から大木を担いできてみんなのために屋根を作ります。
村のみんなは、何かあれば男を頼り、お礼に美味しいご飯をご馳走してくれました。
そうして日が経ち、男は、次第に調子に乗るようになっていきました。
男しかできない仕事をしているのに、ご飯が少ないと思うようになったのです。
そんなとき、村に旅人が来ます。
旅人は、世界中を周り、格闘技の選手を探しているというのです。
旅人に認められた男は、不満を持っていた村を去り、大きな街の格闘技の大会へ向かいます。
あっという間に優勝した男は、街のみんなに褒められ、村よりずっとたくさんの、美味しいご飯が食べられるようになりました。
男は村にはもう戻る気はありません。
男はまた調子に乗っていきました。
一番強い自分に誰もが頭を下げて従い、美味しいご飯もいくらでも手に入ります。
歩いている人やお店に迷惑をかけても、男がいるだけで許されるのです。
生まれた村では気づかなかった自分の価値を、ようやく男は見つけたのだと思いました。
そんな風に街で過ごしていた男は、また、別の旅人に出会います。
もっと大きい遠くの街で、もっと大きな格闘技の大会があるというのです。
男は、もっとたくさんのご飯がもらえると聞いて、街を去ることにしました。
もっと大きな格闘技の大会でも、男は大活躍でした。
またあっという間に、決勝戦まで進み、いよいよ前回のチャンピオンとの戦いです。
それでも男は強く、相手の前回チャンピオンを倒しました。
調子に乗った男は、多くの人に自分の強さを見てもらおうとしました。
参った参ったという相手に聞く耳を持たず、攻撃し続けます。
強い自分は何をやっても許されると思っていました。
そこで、“男は死んでしまいました”。
男を止めた、自分よりもずっと力のある審判の拳で、首の骨が折れてしまったのです。
男は、村にいた方が幸せだったかもしれません。
強い人より強い人は、いくらでもいるのです。
男を誘った旅人たちは、口々に、例え強くても迷惑をかけてはいけません、と言いました。
―――これは男が知ることは無い話。
その大規模な大会の主催者は、過去、あらゆる大会で優勝を飾った無敗の格闘家だった。
巨大な体躯に経験値。どこへ向かっても勝負になる相手が見つからず、稼ぎに稼いだ賞金で、自ら非合法な大会を幾度となく開いているのだという。
そして。
出場者が自らの相手に足る者かどうか、試合の最前列で、見定めているのであった。
――――――
おんりーらぶ!?
――――――
「……?」
ヒダマリ=アキラは緩やかに覚醒した。
最近夢見が悪い。今日も妙な夢を見ていた気がする。
鈍い頭痛と共にまだ見慣れ切っていない自室の天井をしばらく見つめ、蠢きながら身体を起こすと、買ってきてもらった趣味のいいカーテンに手を伸ばす。
窓の外、早朝のドラクラスの街並みは、いつもと何も変わらない。
欠伸ひとつし、アキラはのそのそと部屋から出た。
先日購入したこの自宅は、元は宿のために建てられたらしく、アキラの部屋は3階にある。
階段を降り、女性陣が陣取る2階を通ると、意外と上手いイラスト付きの立て看板があり、『アッキーは立ち入り禁止ですよー!』の文字の隣で、青い髪のミニキャラが両手でバッテンを作っていた。
そのまま階段を降り、1階へ着くと、エントランスが広がっている。
朝のひんやりとした空気が身体に厳しく、まずは暖かい物でもと、エントランスの隅にある喫茶店のようなスペースにアキラは向かった。
すると。
「?」
「だっ、だっ、だっ……!」
ダンダンダンと、通行口の扉が強くノックされる音がエントランスに響いた。
アキラたちが購入したこの宿のような家は、建物がふたつあり、アキラたちが住む白い建物と隣接する黒い建物は通行口のような道が繋がっている。
普段出入りする正面の扉と異なり、あまり使わないのだが、アキラはふと、隣の黒い建物の状況を思い出した。
しっかり施錠していたことを思い出し、アキラが恐る恐る扉の鍵を開けると、まるで雪崩のように、ひとりの女性が飛び込んできた。
「だっ、だっ、旦那様!! よかった、いた、いてくれた……!」
「……ええと、おはよう。どうした?」
ススキ色の髪に映える特徴的な青い瞳。
現れたのは、イスカ=ウェリッドという女性だった。
隣の黒い建物は、宿として資産運用しようとしている。
このイスカは、先日、とある縁があり、その宿の従業員として雇うことになった人物だ。
彼女について知っていることは多くない。
民間の仕事を希望するも、とある事情で各地を転々とすることになり、このドラクラスに流れに流れて辿り着いた不幸な女性。
そして、『雪だるま』という別称が付くほど有名な旅の魔術師でもある。
その実力のせいか、彼女は本質的に危機感というものが欠如しているようだと仲間のひとりが言っていた。
そのあと、アキラ自身も実際に感じたことである。自分の命を粗雑に扱うわけでもないが、通常生命の危機を覚えるべき状況でも、彼女は他のことが気になってしまうように思えた。
「たっ、助けっ、助けてください、こっ、ころっ、殺されるっ……!!」
だが、そんな彼女が、顔を瞳のように真っ青にし、生命の危機を訴えていた。
「お、おいおい、何が……、って、あれ。どうしたその服」
転がり込んだまま身体を震わすイスカは、給仕服を着ていた。
一張羅だと言っていたスーツ姿以外を見たことが無かった。
イスカ=ウェリッドは、元はシリスティアのお嬢様らしい。
タイトな服とはまるで違うも、その容姿やスタイルから、よく似合って見えた。
「……ああ、そういえば今日からなんかやるって言ってたな」
「あの、旦那様。私がこれほどまでに無様に震えているというのに、何故そんなに悠長に」
「ちょっと話は聞いていて。とりあえず手を出すなって」
「まっ、待ってください。旦那様は開店間近の宿で成人女性の変死体が発見されるニュースを本当に聞きたいと?」
イスカの緊迫具合は宿の経営に多大な影響を及ぼすらしい。
だが、その宿の共同経営者、ということになる老婆、ルックリン=ナーシャから簡単な説明を受けていた。
イスカは過去、各地を転々としていた際も民間の仕事に就いていたそうだが、小料理屋の皿洗いやら軽食の屋台の店番やら喫茶店のウェイトレスやらと様々な職に就いていたらしい。
アキラは彼女の職歴を聞き、賄が出やすい飲食店に偏っているような印象を受けはしたものの、随分な経験を積んでいると思ったのだが、ルックリンの目は誤魔化されなかった。
多芸のように見えるも、キャリアとしては散らかり過ぎており、言ってしまえば何をやらせても能力値としては物足りないそうだ。
彼女の事情も汲みたいところだが、ルックリンの方は金が絡むと冗談が通じない。
だがアキラの顔を立ててくれたのか、彼女に教育を施し、即戦力にしてみせると軽快に笑っていた。
現在、宿で使う建物の改装と併せ、急ピッチでイスカのトレーニングをしているらしい。
その際、イスカは渡りに船だと青い眼をきらきらと輝かせていたのを覚えている。
しかしその際、ルックリンが、トレーニングには口を挟まない方が身のためだと、笑いながら冗談交じりを装って、視線を外して言っていた。
アキラには経営などまるで分らない。だがぼんやりとは、従業員の質は売り上げに直結するものだとは分かる。
イスカのことを頼んだアキラとしては、そのとき感じた恐怖もあり、それだけは守ろうと思っている。
そしてそのトレーニングだが。
「おはようございます」
「ひっ、ひぃっ、でっ、出た……!」
先ほどイスカが飛び込んできた通行口に、気配も無く、にっこりとした給仕服の女性が立っていた。
艶やかな黒髪に、皺ひとつない給仕服。服はイスカも似合っていたが、彼女の場合、身体そのもののような一体感を覚える。
そして、それ以上の特徴である片時も崩れぬ完璧な笑顔。
共同経営者が教育係として遣わせている、この、名も知らない受付さんと呼ばれる女性が、イスカの教育係であるらしい。
「お、おう。おはよう、受付さん」
「お邪魔いたします。イスカ=ウェリッド氏をお迎えに上がりました」
イスカに視線を向けると、青い目を潤ませ、野良犬のようにぶんぶんと首を振っていた。
しかしすでに受付さんはイスカを、その笑顔の無表情でしっかりとロックオンしていた。
「あ、ああ、頑張ってくれてるんだな。……そ、その、どうだろう、イスカの様子は」
「はい。現在進捗は1割程度となっております。ですがご安心ください。明後日の未明には、完品をご提供いたします」
「……」
この人は何かを作っているのだろうか。
口を挟むなと言われているが、何か、倫理的にとてもまずいことが起こっているような気がしてきた。
イスカが、野良犬どころか生物としての扱いを受けていないように聞こえる。
「け、結構大変、なんだ、な。宿の従業員ってやること多そうだし……」
「いえ。技術的なものは本日正午から着手の予定です。イスカ氏は理想の自分というものをお持ちの方でして。仕事をそつなくこなす自分を理想としているようです」
「わ、私にだって羞恥心があるんですけど……」
「ですので、現在はそちらの抹消を実施しております。従業員に個性は不要ですので」
「私の尊厳は!?」
受付さんは、震えるイスカに機械のようにまっすぐ接近し、イスカの手を取った。
傍からは、優しそうに手を差し伸べているようには見えた。
「いだっ、いだだだっ、ちっ、力強いこの人!!」
「戻りましょう。少々お時間が押しております。ルックリン氏よりフルオプションでのトレーニングを承っておりますので。いえ、ご安心ください。まっさらになれば、新たな技術の習得は容易です」
「こっ、壊されるっ、私という人間がっ、完膚なきまでにっ……!!」
「その言い回しは余裕がありそうだな」
「問題ございません。間もなく、そんな恐怖も余裕も感じとることもない、新しい自分をご提供いたします」
「それは本当に私なの!? いっ、嫌っ、だっ、旦那様っ、たっ、助けっ……」
バタン、と、通行口の扉が閉まった。
受付さんに引きずられていったイスカの声が聞こえなくなる。遮音性が高いか、あるいは声すら出なくなったか。
あれだけ職に執着していたイスカがあの様子とは。
興味はあるが、何をしているのかは見たくない。
だが、ルックリン=ナーシャという、経済を統べる『三魔人』が手をかけているのだ。悪いようにはならないだろう。きっと、だが。
イスカにとっては正念場だろうが、隣の宿の準備は順調らしい。
アキラは、軽く身体を伸ばし、喧噪が去ったエントランスを見渡した。
7人で住むにはやはり広い。
妙な寒さを感じ、温かい息を吐いてみたが、白くはならなかった。それなりに常温らしい。
それでも温かい飲み物でも用意するかと喫茶スペースに視線を向けてみたが、妙にやる気が出なかった。
「……今日からひとりか」
この家に共に住む6名は、現在とある依頼で遠出している。
―――***―――
魔術のプロセスとして、詠唱というものがある。
発動した魔術に命名し、魔力の流し方やその量を特定することで、再現性を高めたり過去との比較によって力を増したりすることができる便利なものだ。
その効果だけを得たい場合、自分で納得できる名前であれば何でもいいのだが、魔術を学問として見た場合は、その名前を統一することで後世にも伝えやすくなるという面もある。
つまり、名前というものには大いに意味があるのだ。
そのことは理解したつもりだが、自分で付けるとなると難易度は高い。
数多の魔術に名前を付けた魔術の先駆者たちには頭が下がる。
「わわわっ、ホワワンにパッキーじゃないですか、お久しぶりです! おやおやっ、レッカンとお知り合いだったんですか!? なんだなんだ言って下さいよー! そだそだこの前はごめんなさいっ。あっし、すぐに行くつもりだったんですけど、…………あれ。その後の記憶が……?」
エリサス=アーティは、本当に区別できているのか疑わしいあだ名をつけ回っているアルティア=ウィン=クーデフォンの様子を、尊敬の眼差しのつもりの白い目で眺めていた。
もしかしたらキツめに叱った方がいいのではないかと思案したが、ティアは容量の多くなさそうな頭で記憶を探り、禁断の扉を開けてしまったのか顔面蒼白になって震え出し、一時大人しくなる。
賑やかなのは彼女だけではないと、一応見逃すことにした。
“魔門破壊”。
本日から開始した、ドラクラスの引っ越しの根幹に関わるその依頼に、エリーたちは参加していた。
依頼は長期。
ドラクラスの現在地から遥か南部に位置する『名前のない荒野』に、目標である魔門があるという。
現在エリーたちがいるのは、山岳地帯の麓、右方には木々生い茂る樹海、左方には巨大な川が山を斬り割くように流れる、人の手の入っていない川辺だった。
目的地への途中の休憩ポイントであるが、見事なまでに何もない。
すでに荒野とも言える光景が広がっているが、残念ながらのどかな大自然は味わえなかった。
何しろ、現在この場では、目に付くだけで4、50人の依頼参加者が右往左往している。
今回の依頼は、参加者がとにかく多い。
少し離れた樹海にも向かった者たちもいたはずで、実際にいるのはそれ以上だろう。
魔導士隊をはじめ、依頼に参加した旅の魔術師だけでなく、“現場”で支援活動をしてくれる民間の者もいるのだ。
というのも、『名前のない荒野』はヨーテンガース南部に開けた広大な土地らしく、エリア内に入っても、詳細な目的地である中央付近へ辿り着くにも日を跨ぐという。
馬車か何かで寝泊まりしながら移動するようなイメージを持っていたエリーだったが、事前の説明では、適宜“拠点”を構築して進行していくらしい。
作戦では、哨戒、拠点構築、進軍、哨戒してまた拠点構築と繰り返し、各拠点に人を残しながら目的地まで進んでいく。
計画では2,3拠点となるであろうということだが、足跡のように構築する拠点たちは、エリア外から最前線まで食料や資材の運搬を行う、パイプのような役割を果たすことになる。
そうなると、関わる人数、というより、関わる人間の種類が通常の依頼と大きく異なる。
魔物の対応をする魔導士隊や旅の魔術師以上に、拠点の構築を担当する技術者や整備士、食料調達の業者、各拠点を移動する輸送業者など、民間の協力者が多く参加しているのだ。
旅の魔術師だけで50名近く参加しているそうだが、民間の協力者はその5倍超。
移動も大苦労で、『名前のない荒野』へは複数の馬車に時間差で分かれていた。
この場に停まっている馬車は、現在大型中型併せて7台。ドラクラスを出たときには数倍見た気がするので、後続の馬車はまだまだ来るだろう。
旅の魔術師は休憩と言われたが、そうした民間の者たちはそれぞれ仕事があるようで、馬車の整備や積み荷の点検など慌ただしく、時折誰かがミスをしたのか怒鳴り声すら響いてくる。
こんな辺鄙な場所で、ティアの騒ぎが可愛く思えるほどの喧騒が、街中のように起こっていた。
ぶるりと身体が震える。
「ん? さっき、飲み物を出しているところがあったよ。暖かい物でも貰ってきたらどうかな」
「……あ、いえ。ティアの口をどう塞ごうか考えていただけですから」
優しい声色に、下らない嘘を吐いてしまった。
こちらを心配そうに見てくるのはホンジョウ=イオリ。
魔導士の資格を持った、エリーが尊敬し敬愛する仲間である。
「はは。アルティアも流石だね、もしかしたらドラクラス中で一番知り合いが多いんじゃないかな。よく見る光景だ」
冗談だとは思うが、無くは無い話である。
あの人懐こさだ。
このドラクラスに来てから気を違えているとしか思えないほど数多の依頼に参加したティアは、どの依頼でも似たように知り合いを増やしていったのだろう。
「あれ?」
ざっと周囲を見渡していると、民間人たちがあくせく働く向こう、整備の終わったらしい馬車の影に、仲間のエレナ=ファンツェルンの姿を見つけた。
馬車に背を預け、腕を組んでいるだけなのに、いつものように様になっている絶世の美女は、エリーからすると見慣れた不機嫌そうな表情を浮かべている。
彼女の前には旅の魔術師と思われる3人の男女が妙に姿勢を正して立っており、奥の筋肉質の男は強面の顔を険しくしていた。
これも時折見かけて妙な悔しさを覚える、彼女の本性を知らぬ被害者たちのナンパか何かと様子を窺っていると、エレナが鬱陶しそうに手を払って歩き去った。
残された男女は、樹海の方へ向かう彼女をそのまま見送ると、今度は3人で何かを話し始める。
エレナに何か心を抉られるようなことでも言われたのかと危ぶんだが、その話す様が、妙に俗っぽくなったことから、あれが噂に聞くエレナ=ファンツェルンのファンクラブの者ではないかとエリーは感じ取った。
一方通行でこの言葉を使っていいのかは不明だが、ティアだけでなく、エレナにも交流ができているらしい。
他人を財布か労働力としか見ていないような彼女を、ぞんざいに扱われながらも慕う者がティア以外にいることに少しだけ感動を覚えた。
「……エレナさんも、……ん?」
イオリに話しかけながら、エレナに置き去りにされたように見える者たちを眺めていると、男のひとりとしっかり目が合ってしまった。
ファンクラブというのは誤解なのだろうか。スキンヘッドの強面で、未だに和気あいあいと話しているふたりの男女と違い、不釣り合いなほど表情は険しく、眉間にしわを寄せてこちらを睨みつけているように見える。
しかし、エリーが会釈する間もなく、視線を外された。
こちらを盗み見ていたのだろうか。だが、エリーは訝しむことも無く肩を落とした。
この休憩ポイントに来てからも散々感じているそうした視線には心当たりがあるのだ。
エリーの目からはティアの周囲が最も賑やかで目立つように見えるが、周囲から最も目立つのは自分たちだろう。
もともと有名な魔導士でもあるホンジョウ=イオリがいるというのもそうだが、もうひとり、エリーにとっての自慢の魔導士もいるのだ。
「……そういえばマリー。それ、何読んでいるの?」
手ごろな岩に腰かけて、手元の紙束に目を落としていた妹が、その半開きの眼をゆっくりと上げた。
マリサス=アーティ。
ヨーテンガースの魔導士であり、“数千年にひとりの天才”と言われる、エリサス=アーティ最大の自慢の妹である。
彼女に対する世界の評価は凄まじく、世界最強の魔導士とさえ評されているが、エリーから見ると、どこか危なっかしい、可愛くて仕方がない妹でもある。
のんびりしているようにしか見えない表情のマリスは、自分が手元の資料に没頭していたことにたった今気づいたように短く視線を走らせると、それを気とられないように自然に、冷静さを装って、手に持った資料をエリーに見えるように差し出してきた。
本当に可愛くて仕方がない。
「あ、ごめん。あたしが見ていいやつ? ……。あ。だ、大丈夫。マリーが読み終わってからでいいから」
「ねーさん。誤解しないで欲しいんすけど」
差し出された資料をちらりと見ると、子供向けの絵が描かれていた。
魔導士用の仕事の資料かと思っていたが、どうやら絵本らしい。
趣向品だったようだ。マリスは子供のときから、時折こうした絵本を読んでいた記憶がある。
と、そこまで思いつき、可能な限り優しい声色で言ったが、マリスの方はやや頬を膨らませていた。
他の人から見れば無表情なのだろうが、エリーにははっきりと分かる。
「絵本は絵本なんすけど、ちょっと特別なやつで……。前に依頼で一緒になった人に頼んで写しを送ってもらったんすけど、なんていうか、世界中の逸話? のような話を集めているとかで」
「……そういう話、マリーは好きだもんね?」
「……」
絵本に没頭していた頭が切り換えられていないらしく、説明もたどたどしい。
マリスから、説明を諦めたくなっている様子を感じ取った。
エリーが微笑むと、案の定説明を諦めたマリスは絵本を仕舞い、岩から立ち上がる。
同じ目線になると、色だけが違う自分が目の前にいた。
イオリやマリスの知名度もあるが、仮にそれが無かったとしても、造詣が全く同じな自分とマリスが一緒にいると、いつでも誰かの視線が飛んでくる。
「それがそうなのか。マリサス、あとで僕にも見せてもらえる?」
「いいっすけど、どこまで正しいのか分からないっすよ?」
「そのときはただの娯楽ってことにするよ」
「……その話流行っているんですか?」
「ええ、と。……あとで僕の方でまとめて説明するよ」
「……は、い。お、お願いしますね?」
イオリからも諦めたような様子を感じ取り、エリーはまた抑え込むべき胸の奥の燻りを感じた。
このふたりが揃って遊んでいるわけは無いので、あの絵本には何かがあるのだろう。
だがイオリは、今話してもエリーが理解し切ると思っていないらしい。
そして悲しいことに、イオリのそうした判断は正しいのだ。
エリーの夢の、その先にある魔導士という職業。
目の前のふたりは、エリーのずっと先にいる存在だ。
旅の魔術師として活動しているが、魔導士隊の内情を知るふたりは、エリーよりもずっと情報収集に長けている。
説明を控えたのは、きっと彼女の厚意だろう。
だが、言い表せないもどかしさも同時に覚えてしまう。
蚊帳の外とまでは言わないが、ティア然り、エレナ然り、エリーの知らないところで何かが進んでいくような、漠然とした不安を感じるのだ。
「……あれ? もしかしたらあたしだけ知り合いいない?」
そこで、ふと気づいた。いや、気づいていたが、きっと見ないふりをしていたのかもしれない。
「エリサス?」
「あっ、いやっ、ティアみたいなことを言っているわけじゃなくて。これだけ人が集まっているのにほとんど知らないな、って思っただけで」
「ねーさん。自分も知らない人は多いっすよ?」
「マリーは魔導士隊の方々に知り合いが多いでしょう」
言っていて情けなくなってくるが、蚊帳の外どころか孤立しているような気がしてくる。
ティアは比較にすらならないとしてあのエレナですら交流が出来ているのだ。
妹はドラクラスで魔導士としての仕事もしているし、イオリに至っては旅の魔術師と魔導士隊、それどころかもしかしたら民間の方にも明るいだろう。
この依頼、ほんの少しケチは付いたとはいえ、エリーにとって念願の仲間たちとの依頼であるのだが、そう思っているのは自分だけかもしれない。
卑しくも同類を求めて視線を走らせたが、仲間のもうひとりは後続の馬車に乗るそうでこの場にはいない。
依頼は決して遊びではないのだが、妹の前で友達がいないと言っているような情けなさがこみ上げてきた。
エリーとしても言い訳はある。
このドラクラスに来てからというもの、宿の枯渇問題や依頼優遇制度の影響を大いに受け、エリーは依頼で仲間と共に行動することはほとんど無かった。
それどころか今まで依頼で優遇者に指定されなかったエリーは依頼を選べる立場になく、資金繰りにも苦労し、いつ魔物が襲ってくるか分からない物販ルートにひとりでぽつんと立ったり、酷いときにはドラクラスの外観のために周囲の清掃をしたりと、不人気な依頼ばかり請ける羽目になり、こんな魔門破壊に参加できるような人間、つまりは依頼を選べる立場の人間との交流などまるでないのだ。
結局それも情けない理由なので、やはり言い訳に過ぎないのだが。
「……。それなら僕の手伝いをしてくれないかな。参加者の様子を一緒に見てくれると嬉しい」
「あ……、はい、お、お願いします」
明らかに気を遣われたことが分かったが、ものを言える立場ではない。
イオリの視線を追うと、大はしゃぎしているティアが最初に目に止まった。その奥に、やや年上と思われる男女がいる。
「あそこ。アルティアと一緒にいる男女は、ホワーグ=ヘッジとパイン=キューマ。モルオールで活動していた魔導士隊お抱えの旅の魔術師だね」
改めて見ると、にこにこしているティアを見る目が、娘を見るような柔らかさを持っていることに気づいた。
「魔導士隊お抱え、というと?」
「声を大にしては言えないけどね。……魔導士隊も人手が足りなければ旅の魔術師に依頼を出すだろう? 一応公には公平に依頼所を通して募集とするけど、重要な依頼になればなるほど誰でもいいというわけじゃない。信頼できる旅の魔術師とはあらかじめパイプをつないでおくんだ。彼らは若くしてその筆頭だった」
つまり、今ドラクラスにある依頼優遇者という仕組みは、形こそ違えどどこにでもあるらしい。
ドラクラスも旅の魔術師がどの依頼を請けるかは任意となっているが、旅の魔術師が合理的な行動を取れば、当然自身が指定されている依頼を請けることになり、結局のところ、優遇者を指定することでどの依頼に誰を向かわせるかの割り振りを行っていることになる。
あの男女は、ドラクラス風に言えば、モルオールにとって指定Bの旅の魔術師ということなのだろう。
「特に治癒魔術については魔導士以上に信頼されていたらしい。ヨーテンガースに足を踏み入れても健在みたいだ、よく依頼所でアルティアとどの依頼を誰が請けるか相談している姿を見かけるよ」
あのふたりはティアと同じく治癒担当者として指定されることが多いようだ。
主にティアのせいで緩んだ空気になっているが、あの場にいる面々は、全員の命綱でもあるらしい。
「で、あっち。……ほら、馬車のところで話している3人の、奥の方の男性。多分、だけど、シーン=アーチ、だったかな」
次にイオリが差したのは先ほどエレナが置き去りにしたように見えた、3人の男女だった。
奥の方の男性と言うと、先ほどこちらを窺っていた強面の男性である。
手前のふたりは和気あいあいと話しているが、シーンというらしい強面の男も、そして、イオリの表情も険しかった。
「イオリさん?」
「いや。あまりいい噂を聞いた相手じゃなくてね。聞いた話じゃ暴行に恐喝なんて当たり前、なんて感じだ。……まあ、最近噂はあくまで噂に過ぎないと再認識したばかりだけど」
エリーもイオリと同じ人物を思い浮かべているだろう。
だが、だからと言って、無警戒になるわけにもいかない。
「でも、腕は立つらしい。このヨーテンガースでも広範囲の未開の地の調査を請け負って、数か月は魔物ひしめく危険地帯で過ごしたらしい」
人間性は分からないが、サバイバル能力は高いらしい。今回の依頼では適任者なのだろう。
聞いている限り、この依頼の参加者はそれ相応の力と実績を有しているのだ。
「それと、……ああ、彼は知っているか。魔導士だけど」
「ええ。フェッチさん、ですよね」
あえてエリーの知り合いの話にしたと考えるのは卑屈になり過ぎだろうか。
周囲を見渡しめぼしい魔術師を探していたイオリが、ひとりの魔導士で目を止めた。
各所で周囲を警戒してくれている魔導士たちに駆け寄っていく男が見える。
彼は、妹の同僚のフェッチ=ドッガーという魔導士だ。
柔和ながらも芯を感じさせる男で、依頼で行動を共にしたことはなかったが、魔導士としてだけではなく、人間としても信頼できそうな印象を持っていた。
このドラクラスに来てからの宿の枯渇問題で、魔導士隊の宿舎で世話になっていたこともあり、魔導士相手では大きく気後れするエリーにとっても多少は気易い相手でもある。
「そして……、あれ、そういえばいないな。後発の馬車なのかな」
「?」
他にもめぼしい者がいるのだろう。
イオリが誰かを探している間に、エリーも見様見真似で周囲の様子を窺ってみた。
すると、こうした話をしているのは、自分たちに限らず、複数個所で、同じように周囲の様子を窺っている者たちが多いことに気づく。
ひとたび気にすると、イオリも、周囲の者たちも、野次馬根性でこちらに視線を投げていただけでなく、探るような目つきをしていることに気づいた。
各々休憩や作業をしながらも、魔導士隊、旅の魔術師はおろか、参加している民間人も、互いが互いを探り合っている。
疑心暗鬼というわけではない。
この、ヨーテンガースの人々は、情報に飢えている。
見る場所は人によって違うだろうが、共に依頼を請ける者たちの状態は、身の安全に直結することを理解しているのだろう。
イオリとマリスがいるこの場所、そして治癒担当者が集まるティアの場所により多くの探るような視線が集まるのは、ただの話題性に乗せられたものではなく、彼ら彼女らにとっては当然の情報収集なのかもしれない。
改めて、自分が取り残されているような感覚に陥った。
「……イオリさん、ありがとうございます。もう大丈夫です」
「え? そう?」
自分に気を回してくれているのはありがたいが、これ以上イオリの手間を取らせるのは心苦しい。彼女の情報収集を邪魔しているような気もしたし、このままだとより一層彼女に頼り切りになりそうだった。
せっかくの休憩時間なのだから、自分の足を動かして、イオリに教えてもらったティアと語らう男女に挨拶くらいは出来る。
そろそろ無制限に音量の上がるティアの口を塞ぐ意味も込め、エリーが歩き出そうとしたところで、ピリ、と空気が変わった気がした。
「!」
ぼんやりと、そして次第にはっきりと。
遠方に上がる土煙の中、2台の馬車が、競い合うように近づいてくる。
次の馬車が到着するらしい。
「乗っているかもね。……彼が」
もしそうなら、あちらの方の紹介は、必要ない。
エリーに限らず、その場の面々の多くが馬車の接近に気づくと、気配を殺すように口を閉じ、じっとその様子を窺い続ける。
ヨーテンガースの魔導士隊に、旅の魔術師たち。そして危険な依頼に同行する民間人。生き抜き、勝ち抜いてきた彼らは、何をしていようが、呼吸をするように警戒を怠らず、身の安全につながる情報に飢えている。
飛び込むように停止した2台の馬車を気に留めない者は、この場にはいない。
「修道女! その女を黙らせとけ」
馬車から聞こえたその怒鳴るような声に、エリーは目が覚めたような気がした。
巨躯の男が機嫌悪そうに馬車から荒々しく飛び出してくる。
完全な白髪に猫のような金色の鋭い眼。
恐らくこの依頼で最も注目されているであろうその大男は、軽く周囲の様子を探ると、気にもせずに樹海の方へ歩いていった。
スライク=キース=ガイロード。
エリーがよく知る男とは違う、現在世間を騒がしている日輪属性の、“もうひとり”。
そもそも魔門が破壊可能という概念を生み出した、この依頼の前提の男だ。
彼の様子を探るべく、さりげなく樹海に向かう者たちも随所にいる。
嵐のように過ぎ去った男の様子に、満足した者とそうでない者がうかがい知れた。
自分の足で情報収集をすると決めたばかりだが、エリーは足をぴたりと止めた。
見聞きする限り、機嫌がいいときはほぼないらしいが、彼のことをエリーはよく知らない。
よく知らないのだが、同じく機嫌が悪そうだったエレナが歩いて行った方向へ向かっていくのは、とてもまずいことになるような気がした。
その彼を、エリーが一時期お世話になっていた修道院の女性、カイラ=キッド=ウルグスが不満げに何か言いながら追いかけていくのが輪をかけて不安を煽る。
極力樹海の方を見ないようにしていると、周囲の目が、残った馬車の方へ向いていることに気づいた。
また絵本を読んでいたらしいマリスがのんびりと立ち上がると、馬車の中から、エリーも知る魔導士、アラスール=デミオンが現れる。
この依頼ではマリスを含め、彼女の部隊も参加するらしい。こちらに気づいてにこやかに手を振ったアラスールは、共に現れた大柄な女性、ケディア=レンダーと何かを話し始めた。ケディアもフェッチ同様、エリーが間借りしていた宿舎で話した覚えがある。
現在。
こんな辺鄙場所に、相当な情報が詰め込まれるように密集している。
エリーはそれでも情報を処理し、自分の頭を働かせ、ぼんやりと思っていた疑問を口に出した。
「イオリさん。……これ、本当にドラクラス側の防衛も考えられてます?」
「ううん……」
自分が無知なだけかと思いたかったが、イオリは渋い顔をした。
今回の依頼。
エリーが知る世界の中で、事実上の世界最高戦力が結集している。
七曜の魔術師である自分たちに、スライク=キース=ガイロードの一派。そして、マリスも所属する“禁忌の地”の深淵調査を行うアラスール=デミオンの部隊。
イオリが教えてくれた他の実力者を足さずとも、自分たちが参加したアイルークの魔門破壊のときとは比較にならない戦力だ。
妹から聞いた話だが、この依頼、大掛かりなゆえに、別の軸でも編成が検討されているという。
目的である魔門は、当然、多くの民間人が住むドラクラスから大きく離れた地点にある。
ただでさえヨーテンガースである上、ドラクラスは移動したばかりで街周囲の防衛策からなにから安定し切っていない。
魔門破壊に戦力を大きく割けば、その分ドラクラスの戦力が低下し、数多くの人が危機にさらされてしまう。
そこで、参加者を募ったこの魔門破壊では、依頼達成のための人員のみならず、“参加させない人”も併せて検討されたというのだ。
その話を聞いたとき、何となく、民間人の命に関わる以上、ドラクラスの防衛に回す方に比重が傾いて選出されるような気がしていたし、実際に計画を立てる立場になればそうするだろう。
つまり、この場にいる者は、ドラクラスに残す戦力を先に検討した上で選出されているはずなのだ。
だが、エリーの目からは、ドラクラスが持つチップをそのまま雑に、魔門破壊へオールインしたようにしか見えない。
交流の少ない自分の狭い世界からの光景かと思うも、信頼するイオリの表情も曇っていた。
「僕もよく似た感想だよ。この引っ越し騒ぎで集まった僕たちやアラスール、そして“彼ら”を除いてなお、防衛側に回すかもと思っていた人たちも多い。魔導士隊の中にもだ」
やり過ぎなほどの戦力を前に感じることはイオリも同じのようだ。
ドラクラス側の意図は読めないが、もちろん無策というわけでもないだろう。
堅牢なドラクラスの守りは比較的容易で、エリーが想像していた以上に魔門破壊にリソースを割いても問題ないのかもしれない。
「ふたりとも。待たせたか?」
「……あ。サクさん」
そこで、スライクが現れたのとは別の馬車から、見知った顔が普段と変わらぬ様子で歩み寄ってきた。
ミツルギ=サクラ。
依頼には真摯に参加しているつもりのエリーだが、彼女を見ていると自分の態度を改めようと何度でも思わせてくれる。
この依頼に参加している最後の仲間を確認したということもあるが、スライクのような威圧感も、マリスのような姉としての不安も覚えず、凛と澄ました彼女の様子はいつでもエリーの気を正しく引き締めてくれるような気がした。
自分たちとは別の、後続の馬車に乗ってきたサクは、いつも通り目立つ赤い衣をまとっており、また、周囲の視線が集まるのを感じる。
「出かけにトラブルとか言ってたけど、大丈夫だったの?」
「ああ。恥ずかしい話だが忘れ物に気づいてな。武器の整備器具の予備を家の小屋に置き忘れていて」
「ま、まあ、何事もなかったなら」
真面目な彼女らしく心底悔しそうに言ったが、エリーは違和感を覚えた。
家という環境が生まれたことでリズムが崩れただけかもしれないが、エリーの知る限り、サクが武器関連で手を抜いたことなど一度も無い。
エリーの感性から言えば、後続の馬車だろうが間に合っているのだから問題ないのだが、彼女はその程度でも自分が許せないほどだ。
「……そうそう、馬車、結構スピード出てたみたいだけど、大丈夫だった?」
「それなりに揺れたが、間に合わせるためだ、仕方がない」
気を紛らわせるように話題を変えると、サクは表情を正し、下手に嘘は吐かず、それが当然のこととのように言った。
この辺りをエリーは尊敬しており、特に余計なことばかり考えてしまう今は見習うべき精神なのかもしれない。
「間に合わせる、ね。やっぱりトラブルが?」
「らしいな。私は知らないが、前を走っていた馬車の方で何かあったらしい。魔物の襲撃か何かだろうか。私たちの馬車が追い付いたときには収拾がついていたようだが、ルートの変更をすることになった」
前の馬車というとスライクが乗っていた馬車であろう。
流石の日輪属性。もうひとりを良く知る身としては、案の定としか言いようがない。
「ところでエレナさんは?」
「まあ、今は休憩中だから」
サクの視線がやや鋭くなったのを見て、エリーはさりげなくフォローした。
自分にも他者にも等しく厳しいサクと、他者には興味が無く自分には甘いエレナとの相性は恐ろしく悪い。
今までみんなで依頼を請けたときにも、自由奔放なエレナとよく衝突しているのを見かける。
だが性格的な問題はさておき、エレナの力の強大さは自分たちの共通認識でもある。
自分たちの中では、異次元の戦闘力を持つエレナ=ファンツェルンの存在も前提だ。
スライクが向かったエレナのいる樹海から、鳥の群れが一斉に飛び立ったような気がした。
性格的な問題はさておきなので、気づかないふりをした。
だがふと気づく。
当然サクもそれは理解しているはずだが、いつにも増して目つきが鋭い気がした。
忘れ物が尾を引いているのか。妙な怒りを感じる。
サクも旅は長く依頼の経験も豊富だ。休憩の意味も重要性も理解していないわけではないはずだ。
「しかし、流石の面々が揃っているようだな」
気を落ち着かせるためか大きく息を吸って吐き、サクが周囲を見渡して呟いた。
「サクさんも知っている人たち?」
「ん? ああ。知らない人も多いが、同じ依頼を請けた人もいる。信頼できる人もいるな」
「サクラから見てもそうなら、心強いことこの上ないよ」
サクの視線を追って、周囲を見渡したイオリがにこやかに言った。
案の定だがやはり自分の交流が一番狭いらしい。
サクも彼らのことを知っているらしく、その上厳しい彼女の目からの評価も上々のようだ。
誰から見ても、この場にいる者たちはそうそうたる顔ぶれらしい。
だが、イオリの目が少しだけ遠くなっているのをエリーは見逃さなかった。
同じようなことを考えているのかもしれない。だがそれを口に出すと、また別の問題が顔を覗かせてしまうのだ。
「ふうむ。アッキーだけいないのはなんか変な感じしますね?」
エリーは、ゆっくりと振り返った。
声を出されるまで察知できない上、突如として大声を上げるアルティア=ウィン=クーデフォンが、散々の言いつけ通り、大人しい声を出したので、頭をぐりぐりと撫でてあげた。
「いだっ、いだだだっ!? エリにゃん!?」
「ほーら大人しくしなさい。ちゃんと休まないと、到着する前に疲れちゃうでしょう」
「あはは、実はさっきホワワンたちにもそう言われまして。大人しくお休みに来ました。……あ、サッキュン! そちらの馬車はどうでした? あっし、キュルルンとかお話ししたい人まだまだいるんですよー! あ、なーんだなんだ、すみませんっ。もちろんサッキュンともいっぱいお話し……ふへっ!?」
サクから、ピリとした空気を感じた。
エリーは、まったく休むつもりのなさそうなティアの頭を強く抑える。ティアを制御可能なエレナ直伝の、力技という名のテクニックだ。
それでもティアは輝かんばかりの瞳で馬車を見つめている。
スライクが出てから幾人かが降りて行ったように思えるが、ティアと仲のいい小柄な少女の姿は見ていない。
やはりあまり交流の無い少女だが、傍から見て賢そうに思えるキュール=マグウェルという少女は、この騒ぎを予見して馬車から出ないことを選んでいてもおかしくない気がした。
そう考えて馬車の様子を探り、エリーはふと思い出した。
いないといえば、だが。
「あれ、そういえば」
自分の呟きと同時に、イオリからも同じ言葉が漏れたような気がする。
「エリサス、どうかした?」
「イオリさんこそ。……いえ、マルドさんもあの馬車にいると思ってたのに、降りてきてないような気がして」
今の自分が知人を見逃したとは思えない。
マルド=サダル=ソーグという、スライクの一派の中でも最も常識人と認識している長い杖を持つ男は、イオリと同種の行動を取る印象がある。
こうした休憩時間すら、馬車の中で身体を休めることなどまずなく、方々を周り、参加者や周囲の様子を探るだろう。
「マルドさんなら、ドラクラスを出るときに見かけたな。最後の馬車に乗るとか言っていたが」
「あ、そうなんだ」
「参加者を全員見るためだろうか、馬車の駐車場にいたよ」
「……、へ、へえ」
エリーがとりあえずは移動だと馬車に乗ったときから、マルドはその場で周囲の様子を探っていたのだろうか。
確かにこうして分かれて移動する以上、全員を漏れなく見られるのは出発地点か目的地だ。
イオリと同じく、マルドにはそういう情報収集面では太刀打ちできないと思ってしまっているが、やはり悔しくなってくる。
「じゃあ、しょうがない、か。……イオリさんもマルドさんを?」
「ん? ……まあ、それもあったと言えばあったけど、もうひとり、特に様子を見たい人がいて」
案の定、イオリはまだまだ情報収集に勤しむつもりらしい。
後発の馬車から降りてきた他の人を見渡して、イオリはまた馬車に視線を向ける。
イオリはこの依頼の参加者の名前には目を通しているのだろう。
エリーも見たが、知らない人だらけで特に得られた情報は多くない。
「まあ、いないなら仕方ない。もっと後続の馬車なのかな。現地に着いてからまた探してみよう」
「あたしたちはそろそろ出発ですかね? エレナさん呼びに行きます?」
「それは魔導士隊に任せよう。僕は今、樹海に近づきたくない」
イオリから、何の感情も籠っていない言葉が出てきた。
単なる事実でしかないそれに、エリーも大人しく同意する。
イオリの言う通りだ。
いないなら、仕方ない。
「あ! ティアにゃん。やっほー」
そこで、気の抜けた声が聞こえた。
またティアの知り合いだろう。
交流を広げようと思っていたエリーだが、無視しようかとぎりぎりまで迷った。
しかし、先程スライクが出てきた馬車から出てきた、髪の長い女性と目が合ってしまう。
歳はエリーと同じくらいだろう。
瞳がくっきりと開いた、美しい女性だった。
スライクと同じく白髪だが、手入れを良くしていることが分かる艶があり、美しく輝いて見え、小さな赤の花飾りが映えていた。
髪と同じくふんわりとした白の生地の薄い上着を羽織り、中は上下に分かれた紺のボディスーツを着込んでいる。
腹部から健康色の肌を覗かせているが、遠目に見ると全身が白く、透き通って見え、紺のインナーが強弱をつけた姿は美麗だった。
正面から見て、強い違和感に苛まれる。
身なりも整い、背丈もエリーよりはある。嫉妬心を出さずに言うならば、身体つきも立派で、素敵な女性だ。
恐らく遠くから見ていれば、どこかの由緒ある人物なのだと思っていただろう。だが、そんな女性が、にまにまとした間抜け面で、ふりふりと手を振って歩み寄ってくるのだ。
ついでに言うなら、ティアを彼女自身が主張する、いかれた愛称で呼ぶ者など、ごり押しされたらしいキュール=マグウェル以外にいないと思っていた。
「わー! カタリン! 探しましたよ! 一緒の馬車が良かったです!」
「嬉しいなあ。私も一緒が良かったよー! うんうん。ティアにゃん見てると元気になるからねー」
どうやら彼女は自然とその愛称で呼んでいる様子だった。
聖人か被害者かを見定めようとしていたが、もしかしたら狂人に分類されるかもしれない。
「それより聞いて聞いて。すっごい大きな剣を持った人がいてさ。見せてってお願いしたら怒られちゃった。……あ、そっか。あれがスライクって人だ。そう呼ばれてた気がする!」
「あっらら。それはお可哀そうに。今度あっしも一緒にお願いしてみます!」
やはり狂人のようだった。
どうやら先ほどのスライクの様子は彼女が原因だったらしい。
誰もが様子を窺うに留めたスライクに絡んでいったとなると、ティアレベルの度胸の持ち主だ。目を離してはいけないタイプの人間である。
そして、この場にいて、スライク=キース=ガイロードを知らないようなのが、輪をかけて不安を煽った。
「ティア、お知り合い? ……って聞くのも今更だけど」
「何言ってるんですか! カタリンですよ! ほら、よくあっしと一緒に……、一緒に……、あ。エリにゃんはご一緒していないときだったですかね?」
決してキャパシティの多くなさそうな頭で記憶を辿り、唸り始めたティアは、エリーの心の傷を抉ったことに気づいていないようだった。
ティアにとってこの依頼の参加者の多くは見知った者なのだろうが、エリーにとってはそうではない。
カタリンと呼ばれた女性に視線を向けると、首を傾げ、それでもにへらと笑って見せ、ふりふりと手を振っていた。
見られると反射的に好意的な行動を取るのはティアでよく見る習性だ。
見た目はまるで違うが、ティアと特に波長が合ってしまうのかもしれない。
その相乗効果が起こす騒ぎに、情報云々関係なく、周囲の視線が強くなっているような気がした。
十人十色。世の中には様々な人がいる。そしてこのドラクラスでは今、そうした様々な人が大量に集まっているのだ。
これはあくまでエリーの感性が訴えているものなのだが、出会ってはいけない者同士が出会ってしまったように思えた。
「ええとですね、あれは、どなたと一緒のときだったでしょうか……。ああもうどうでもいいです! あっしと仲良しさんです!」
「仲良しだもんねー!」
「ねー!」
ふたりで両手を合わせてきゃっきゃと笑う様子を見て、エリーはどうこの場を離脱しようか考え始めた。
助けを求めてサクを見ると、きっと自分と同じような表情で、ふたりに増えたティアを見据えている。
先程も気になったが、サクの機嫌が妙に悪いような気がしていた。そして今、より一層そうなった気もする。
「……あれ?」
そのままふたりで踊り出しかねないと思っていたところで、カタリンと呼ばれた女性がサクの顔をじっと見つめた。
ふたりの顔を見比べたエリーは、また違和感に苛まれる。
鋭く凛々しいサクの表情と、緩く柔らかいその女性の表情は、それぞれ一層際立ったように感じるのだが、感覚的に、近しい顔立ちのような気がした。
「……ねえティアにゃん。こちらの方々は?」
「何言ってるんですかっ、エリにゃんにサッキュンにイオリンですよ! 前にご一緒……、あれ? あ、エリにゃんたちが知らないってことはそりゃそうですね。すみません。エリにゃんたちは、あっしの大切なお仲間なのです!」
「……あ、れ?」
ふふんと胸を張ったティアに、その女性は何やら思案顔になった。
間の抜けていそうなその表情はティアがよく浮かべるような気がしたが、脳の方はティアよりは高性能なようで、ずっと短い時間で、閃いたように目を見開いた。
「……じゃあ、あなたが」
一瞬、サクに向けた彼女の瞳が鋭くなった気がした。
サクが首を傾げる間もなく、その瞳は次第に子供が不満を抱えているような色になり、ついにはぷいと顔を背けた。
「……あ。ご挨拶忘れてた。じゃあティアにゃん。私、他のみんなにも会ってくるよー」
「? あ、はい! またお話しましょー!」
「うん! またねー!」
訳も分からないまま彼女の方から離脱してくれた。
余程仲がいいのか未だに手をぶんぶんと振っているティアを取り押さえ、サクの様子を見る。
「……サクさん。知り合い?」
「いや、記憶にない」
短いが、回答としては十分だった。会えば記憶に残っている。
エリーは暴れるティアを抑えながら、大きく息を吸って吐き出した。
「行きましょう。サクさん、またね」
「ああ。また」
ここで切り替えられないのならばティアと旅は出来ない。
隙を見てはまた別の知り合いの元へ駆け出そうとするティアの手をしっかり握り、エリーは離れて立つイオリに歩み寄った。
いつの間にか安全圏へ逃げていたらしい。
「イオリさん、お待たせしました。行きましょう。それとも様子を見たい人がいるって言ってましたけど、探します?」
「いや、今会ったよ」
イオリは、ティアのようにまた別の知り合いに声をかけてにこやかに笑っている先ほどの女性を盗み見ていた。
また、探るような視線に見える。
肩の力が抜かれるような女性だったが、イオリの様子に、エリーも改めて彼女を見据えた。
「さっきの……。あの人も有名なんですか?」
「……ああ。彼女は僕やエレナ同様、指定Bの優遇者だ。でも、例えば魔導士隊との連携を期待されているだろう僕と違い、エレナ寄りの理由での指定だね―――明確に“戦闘力”として計算されている」
彼女の様子を窺う者が多くいることに気づいた。
彼らは情報に飢えている。
自分たち、スライク、アラスールと続いた彼らの視線は今、にこやかに手を振って、また別の誰かに会いに行く彼女に向いていた。
「『武の剣帝』カタリナ=クーオン」
イオリは小さく呟いて、そして、より一層声を落とした。
「近くで様子を見たのは初めてだ。聞いていた話と大分違う。……まさかアルティアくらい酷いなんて」
「イオリン。言いたいことがめっちゃあります」
「今はいいかな」
「ふかーっ!!」
―――***―――
生きているだけで素晴らしいことだと気づいている人間は、どれほどいるだろう。
「……ふ、ふふふ、……はっ!? ひっ」
イスカ=ウェリッドは自分が生きているという幸せに思わず漏れた笑みを強引に抑え込み、周囲を警戒した。
あの、気配も察知できぬ、受付さんと呼ばれる女性に見つかれば、何をされるか分かったものではない。
早朝。
ここはイスカの就職先予定の宿の庭である。
現在業者によって改装されているが、それも間もなく完了するらしく、正式オープンが目前に迫っている。
改装と並行し、従業員としてのトレーニングを受け続けたイスカは、大幅なスキルアップ、をしたかは不明ではあるものの、何とか自我を保てていることにむせび泣いていた。
「……?」
喜びを全身で感じているはずなのに、妙に身体が堅い。
いや、決まった動作以外をしようとすると身体が強制的に怯えて縮こまるようになっている気がした。
恐る恐る顔に触れると、口角が硬直している気もする。
普段意識して正している背筋を、あえて崩そうとしてみると、強烈な違和感が全身を襲う。
過剰なまでに整った歩き方も、それに歯向かおうとすると、普段自分がどうやって足を前に出していたか思い出せない。
まるで、定められたこと以外の行動など、最初からイスカ=ウェリッドに存在しなかったかのように。
「―――ひっ」
どうしようもない恐怖にかられ、表情筋を目いっぱいほぐし、身体を強引に暴れさせると、纏わりついていた違和感が徐々に無くなっていく。
じんわりと感じる自分という存在を、必死につかみ続けた。
あのまま身を委ねていたら、戻れなかったかもしれない。
だが、先ほどの決まった動きは頭に叩き込んでおいた。
受付さんのトレーニングを忘れるわけにはいかない。再教育なんてことになったら、今度こそイスカは自分が破壊されると確信していた。
そんな比喩なく命が懸かったトレーニングを経てではあるが、この職は破格の待遇である。
1階の倉庫のような場所を先に改装してもらい、住み込みで働けるというのがかなり大きく、家賃の滞納で揉めることが無いだけでもイスカにとっては大きな前進だった。
厨房の改装は終わっていないが、営業開始後はまかないも出るらしく、夢のようだ。
地獄のトレーニングも終わり、今は開店を待つばかりである。
庭に出て見上げると、宿として改装中の黒の大きな建物が輝いて見えた。
朝から工事の音が響いているが、隣の、イスカにとっては雇用主が住む白い建物は静まり返っている。住人の大半が、数日前から大きな依頼で留守にしているらしい。自分の友人も同じくだ。
一抹の寂しさを覚えつつも、ようやく地に足着いたこの職場での生活が間もなく始まる。
トレーニングなのか調教なのか拷問なのか分からない最後の難関を超えた今、広く整った庭の光景が、一層光輝いて見えた。
今日はいいことがありそうだ。
「……あ。こんにちはイスカさん」
「フェシリア様。いらっしゃいませ」
「?」
「……いえ、こんにちは、フェシリアさん」
反射的に、自分が知らない声色が口から出て、知らない動作で頭を下げていた。
からくりのような動作を揉み消しながら顔を上げると、以前イスカがお世話になっていたフェシリア=アーティが朗らかに笑いながら歩み寄ってくる。
イスカはドラクラスに来てからつい先日まで、フェシリアが経営していた集合住宅に住まわせてもらっていた。
イスカにとってフェシリアは単なる住まいのオーナーというだけではなく、入居の際にあった面接でこちらの事情も把握してくれていたり、家賃を滞納していたイスカと代理人との衝突に便宜を図ってくれたりした大恩人である。
滞納した家賃をまだ払っていない上、挨拶も出来ずに別の場所に移り住んだイスカとしては気まずいのだが、フェシリアの方は気にもしていないようだった。
「フェリシアさんは、こちらに私がいることを?」
「ええ、代理人に聞きました。お元気そうで。手際よくお引越しされましたね。ご挨拶に伺おうとしたら、部屋がもぬけの殻で驚きましたよ」
「ええ。……一刻を争いましたので。その、もうすぐお支払いできるかと」
「え? ……ああ、お家賃のことですか。いいですよ、ご無理のないタイミングで。……え」
「……ぁ。……き、気にしないでください」
「は、はあ」
フェシリアがぎょっとしてこちらを見たので、イスカは頬に触れてみると、涙が伝っていた。
やはりフェシリアはいい人だ。
涙が流れたのが、人間の温かみというものを感じられたからか、それを感じ取れる部分が自分の心に残っていてくれたからかは分からないが。
「と、ところでイスカさん。今日はおひとりですか?」
「え、ええ。やっと。……やっと。ところで、フェシリアさんは?」
「……ま、まあ、イスカさんのご様子も見たかったので」
気を遣われたのは分かったが、心が弱っているのか目頭が熱くなった。
「そ、それにしても、ご立派な宿ですね。私ももう少しくらい無理をすればよかった。イスカさんもこちらに住むんですよね?」
「はい、そうなります」
「あら……? でも、中はまだ改装中ですか? 工事の音が」
「え、ええ、近々終わるそうです。……私の部屋だけ優先してもらったりしたのもありますが」
「まあ素敵。宿の一室を? 見晴らしもよさそうですしね」
「……1階の、倉庫のような場所です」
「……。……え、ええと、快適に働きやすい、ですね」
「…………ありがとうございます」
明らかなお世辞だろうが、イスカはひとまず素直に飲み込むことにした。
数少ない知人に会え、会話も弾むのではと期待していたが、基本的にイスカの話になると場が重くなる。
これ以上お互いに火傷しないために、イスカは咳払いをしてちらりと白い方の建物を見た。
イスカでも、フェシリアがこの場所に来ることがどういうことかは分かる。
このイスカの新たな就職先は、ドラクラスにおいても大いに意味のある場所なのだ。
開店前の宿、いや、例え開店していたとしても、この場所の主役は黒ではなく、白の建物、つまりはヒダマリ=アキラ一派の家である。
フェシリアは、ドラクラスでは『代弁者』という立場であるらしい。
民間人であるイスカにとっては元住んでいた場所のオーナーでしかないのだが、ドラクラスの管理本部や魔導士隊からはアキラもフェシリアも重要人物、ということになる。
「フェシリアさんは旦那様をお尋ねになったんですよね? 残念ながら、朝早くからお出かけしておりまして」
「ふふ」
そんな重要人物なのだが、フェシリアは含み笑いをした。
何度か話したことは今までもあったが、フェシリアは、噂に聞く『三魔人』グリンプ=カリヴィス7世のように、力を誇示しない。
「どうしました?」
「いえ、お気に障ったならすみません。旦那様、ですか。先ほどから妙にかしこまっているな、と」
面白そうに微笑むフェシリアに、イスカは表情を顔に出さないようにした。
ポーカーフェイスはもともと得意だが、受付さんのトレーニングがそれをより強固にしたように思える。
「雇い主様ですからね。もちろん言葉遣いには気を付けますよ」
「あら。でも勇者様、そういうことをあまり気にする方ではないように思いましたが」
「いえ、だからですよ」
イスカの雇い主であるヒダマリ=アキラ。
フェシリアもそうだが、イスカの認識上、彼は態度と力が最も乖離した人物だ。
元来物腰が低いという部分もあるのだろうが、そもそも自分がどういう存在なのかの認識が薄いように思える。
付き合いは短いが、話していると、つい、目の前の人間が世界の希望を背負う勇者様であることを忘れてしまうほど、どこにでもいるような普通の人だ。
「油断すると失礼なことをしてしまいかねませんからね。自分を律する意味でも気を付けないと」
「は、はあ」
フェシリアの様子で、失言だったことに気づいた。
裏を返せば、気を付けなければならないほど、敬っていないことになってしまう。
そこまでの意味で言ったのではないが、自分の心の緩みに心当たりはあった。
仕事なのだから固執し過ぎるわけでもないが、一応彼は自分より年下だ。
異世界来訪者らしく、この世界の一般常識にも偏りがある。彼も旅は長いそうだが、方々で働き、方々でクビになった自分の方が旅は長い。
「か、感謝はしています、よ?」
「え、ええ。……少々見えにくくても、そのお気持ちだけでも素敵なことです。イスカさんの問題を解決してくれた方ですしね」
言い訳のように付け足すと、フェシリアは失言を見逃してくれたように黒い建物に視線を向けた。
「……そう、ですね」
イスカは、フェシリアの視線を追って自分の職場を見上げた。中からは、時折改装工事の喧噪が聞こえてくる。
イスカの生活が組み立てられていく音に聞こえた。
言ったのは、本心だ。彼には感謝してもし足りない。
とある事情で、魔導士隊や魔術師隊に追い掛け回され、方々の職場で敬遠されたイスカは、家賃はおろか食事もまともに取れないほど、まともな定職に就けなかった。
このドラクラスでも、必死の思いで手に入れた仕事も火事で失い、途方に暮れる羽目になった。
今でもあのときの、視界すべてが真っ黒に染まった恐怖は夢に見るほどだ。
そんな中、ヒダマリ=アキラが自分を従業員として雇ってくれたのだ。
“しきたり”の手前、そうした組織が最も手を出し辛い、勇者様の庇護下にあるここは、イスカにとって聖域である。
今はオープン前ではあるが、あの経済の魔人ルックリン=ナーシャが手掛ける宿ともなれば、潰れる心配も無いだろう。
どこにいても何をしていても、地に足がついていないような慢性的な不安が襲っていた日々から、初めて解放されたような気がしていた。
そんな胸いっぱいの感謝を抱いているはずのイスカなのだが、その相手であるアキラと接していると妙にノイズが混ざる。
明日の夜露も凌げるか分からない過去から別れを告げ、生活に余裕が出てきた今だから余計に感じるのかもしれない。
話していると感じる、いや、感じない勇者様としての尊厳が、雲の上の人という印象を抱かせない。
いっそ太々しい態度であれば、イスカも割り切れたような気がする。
「本当に良かったです。イスカさんの今までのご苦労が報われているんですよ。苦労は必ず報われるものです。勇者様に出逢えるなんて、きっと運命が味方しているんですよ」
「ふ。……運命、なんて言葉。軽薄なナンパでしか聞いたことありませんよ」
気恥ずかしさもあり、イスカは思わず反発した。
普段なら素直にそう思っていたかもしれないが、相手がそんな相手な上、イスカには胸の奥に引っかかる負い目がある。
心から彼に感謝はしているのだが、逆に、彼からイスカへの印象も良くなさそうだ。
親しい関係性を築くにしても、付き合いが短いのだから仕方が無いのだが、彼の仲間の同郷のエレナに向ける頼もしさを感じている目と自分へ向ける目は大分違う。
受付さんに抹消されかけたが、イスカは何でもそつなくこなす立派な人間を理想としている。
だが、ふと彼を思い出すと、まーた死にかけてるとでも思っていそうな視線が最初に浮かび、下手をすればその辺りの野良犬と同じレベルでしか見られていない気がした。
屈辱を押し込めば、イスカとしては深い恩を感じている。
フェシリアが言うにはそれだけでもいいらしいが、そう言われると逆に、何か形として返さなければならない気がしてくる。
気持ちだけ持っていても当然伝わらず、そもそも彼から頼りにされていないような気がするのが面白くない。
というより、舐められている気がしているのだ。
友人のエレナとの待遇の違いを思い浮かべると、見返さなければ気が済まない。
もしかしたら受付さんが察知して排除しようとした従業員に不要なものとは、こういうプライドのことなのかもしれなかった。
「フェシリアさん。旦那様のことで何かご存じです? お困りになっていることとか」
ふと思い出した。
このトレーニング期間、受付さんから逃げ出した自分を、時折アキラがかくまってくれたことがある。
時折彼は、心配そうに見てくれることもあった。じんわりと心が温まったのを覚えている。
自分と違い、彼は感情が顔に出やすいようで、呆れているときも分かりやすく、恩人に対して大層失礼だが、正直苛立ったのも覚えている。
だが、頼りにされていないのが面白くないとはいえ、よくよく考えると、泣き腫らし、命からがら、死に物狂いで逃げ出し、そして結局は家畜のように受付さんに連れ戻される自分を見て、この人を頼ろうと思うことは無いだろう。
そのときも、年下の異性に散々醜態を晒した羞恥心を強引に抑え込み、なんとか彼を見返してやろうと感じた覚えがある。
時間が出来た今がいい機会だ。
受付さんのトレーニングで自分の能力も上がっているだろう。
開店してからはまた忙しくなるだろうし、今のうちに、何らか彼の手助けをして、イスカ=ウェリッドはできる人間なのだと認識させたい。
「ううん、と。お困り……、ううん……。旅の魔術師の方のことは私には……。むしろイスカさんの方がお詳しいのでは? ……ああ、すみません」
「……」
フェシリアは困ったように目を伏せた。
こちらの事情を知っているフェシリアは、そうした分野はイスカにとってデリケートな部分だと理解してくれている。
だが、旅の魔術師としての悩みというのは悪くない。
「別に話題としてなら気にしませんよ。……それを生業とするのに抵抗があるだけで」
労わってくれるのはありがたいことだ。
だが、それ自体より、腫れ物のように扱われる方が堪えた。
確かにイスカは民間の職を強く希望している。
旅の魔術師という職を強く忌避するわけではないが、嫌な思い出しか無いこともあり、旅の魔術師としての自分に強い抵抗があるのだ。
だが、手段を選んでいられない、どうしようもない事態に陥ったとき、自分の中途半端な部分が、旅の魔術師としての依頼を請けることを選んでしまったこともある。
奥の手、という感覚とは違う。過去罪を犯した自分は、切り札のように扱うことは許していない。
その甘えを断つために、中らない野草の食べ方は多少詳しくなった。
緊急事態の最終手段。最後の最後。生きるか死ぬかまでいったときと決めている。
とはいえ、一応は経験者だし、幼い頃は目指していたものだ。
彼の方が請けた依頼は多いかもしれないが、単純な歴は自分の方が長い。話を聞くくらいのことはできる。
イスカはチャンスに目をきらめかせた。
「では、それならいっそ、」
「あれ? フェシリア。いらっしゃい」
フェシリアが口を開くと同時、間延びした声が聞こえた。
身体がびくりと震える反射と、受付さんに叩き込まれた頭を下げて用意された言葉を口から出す反射がかち合って、イスカは身体中が痙攣した。
気づけばイスカの雇い主、ヒダマリ=アキラが手を上げながら門から近づいてくる。
「お邪魔しています勇者様」
「ああ。イスカも。今日は元気そうだな」
「……おかえりなさいませ」
一瞬だけ、また面白そうな目を向けられた。
今日は珍しく死にかけていないんだなと思っているような気がする。
ぐっとこらえて作られた笑顔を浮かべると、アキラはフェシリアに向き合った。
「今日は……、だな。というか、俺が頼んでいるようなもんだな」
「いえ。あくまで私がご協力してもらっているので」
「細かな予定知らないんだけど、……今日なのか?」
「私もそこまでは。ですが、距離と人数を考えると、少なくとも実施には至ってないのではないでしょうか」
彼の登場で、あっという間に蚊帳の外になった。
何やら共通認識があるらしい両名が、時折深刻そうな表情を浮かべて話している。
なにやらフェシリアに頼んでいるのだろうか。
イスカにとってずばり欲しい情報だったが、フェシリアは話さなかった。
自分には話せないことなのだろう。
無性に気になるが、こういうとき、余計な首を突っ込まないのが出来る人間である。
イスカが姿勢を正して控えていると、ふとこちらを見たアキラがぎょっとした。
「わ、悪い。邪魔しちゃったな。ふたりは何を話していたんだ?」
自分はポーカーフェイスだが、疎外感を覚えたり、内心悲しんだりしていると、何故か気を利かせてもらえることがある。
きっとアキラが鋭いのだろう。自分の感情が外に出にくいのは、悲しいが、絶望の淵にいても、気にも留めずに無視をすることが多い、数少ない友人のエレナで実証済みだ。
「実は丁度、旦那様の話をしていたんですよ。お困りごとが無いかと思いまして」
イスカはより姿勢を正して努めてクールに言った。
彼の悩みを知っていて言わなかったフェシリアに対する反発が若干あったかもしれない。
フェシリアの様子はあえて見なかった。
すると、自分と違って顔に出やすい雇い主は、分かりやすく今困った。
「勇者様。お話してもいいですよ? 実は私の趣味に付き合っていただいていて。現在魔法に分類される遠視を、日輪属性の勇者様が使えるかどうか、と」
「ああそう。で、この数日でやってみようって話になっててさ」
何か含みがあるような感じがしたが、深追いするのも野暮だろう。
イスカには関係のない話だというニュアンスが含まれているのは分かったが、なめてもらっては困る。
イスカにとって彼を見返すチャンスのような気がした。
それなりに世界を旅した経験は伊達ではない。
「遠視、ですか。モルオールに特化した研究機関があった覚えがあります」
「え」
「一時期そちらの社員食堂に勤めていたことがありまして。時折小話など耳に入りました」
「マジで聞けばいろいろ出てくるな。それで、そこでは遠視は成功したのか?」
「……突然経費削減が決まったとかで、ひと月ほどで自主退職をするようにと」
「聞くんじゃなかった。闇も感じる……」
散々魔導士隊に邪魔され続けた仕事の中、割と上手くいった方のいい思い出だったのだが、自分の職歴はすべてバッドエンドだ。
口を挟んで恥の上塗りをしてしまった気がする。
彼から向けられる同情の視線が痛い。
悔しい。何かで汚名返上しないと、彼からの評価はこの先もずっと変わらない気がした。
「で、ですが、もし遠視をしたいなら、何かお役に立てるかもしれませんよ?」
「ええと、フェシリア、どう、なんだ?」
「……ま、まあ、そうですね……、ちなみにイスカさんは、遠視……、とはいかずとも、そうですね、例えば予知夢などを見たことはありますか?」
「ない、とは思います。……よく悪夢は見ますが」
「それは予知じゃないか?」
「っ……、ち、がい、ます。そ、そりゃあ今まで碌なことはありませんでしたが……。そ、そもそも私、魔術はひとつしか使えません」
「え、そうなのか?」
意外といった顔付きをしたアキラに、また無性に悔しさがこみ上げてきた。
一応過去、旅の魔術師を目指していた際、様々な魔術を色々と実験をしていたが、長年使っていないせいでうろ覚えである。
現役の旅の魔術師であるアキラと張り合う必要は無いのだが、ひとつしか使えないの? と言われているようにも思えた。
自分が卑屈なのはある程度自覚しているが、彼は思ったことがそのまま顔から出るようで、あまり好きになれない。
「そういや俺、イスカの魔術を見たことないな」
「……そうでしたっけ?」
「ああ。その、凄いとは聞いてるけど」
彼が遠慮がちに言ったのは、彼もこちらの事情を理解しているからだ。
彼と出会い、彼に話を聞いてもらったあの日のことは、ここ数日の地獄のせいで、ぼんやりとしか覚えていない。
ただ、従業員の面接としてだったはずが、妙に話しやすく、自分の夢も、自分の中途半端さも、色々なものを吐き出した覚えがある。
そういえばあのときからだ。すべて吐き出し、すっきりした、というわけでもないが、自分の心の中、淀みが詰まっていた部分に穴を開けられたように、徐々に気が楽になってきている。定職に就けたからだけかもしれないが。
「先ほどフェシリアさんにも言いましたけど、そんなに気にしなくていいですよ」
彼の態度は、理想の話し相手というわけではなかったのだろう。
心のどこかで憧れていた、自分の背負った業を優しく包み込んでくれるような相手ではなかった。
イスカの失敗には忌避し、しかしイスカの苦悩には同情する。それでも、そうした普通の反応をし続けながらも、最後まで話を聞き続けてくれたことに、強い安堵を覚えたのだ。
彼との話を思い出すと、受付さんに抹消されかけた自分というものが一層戻ってくるのを感じた。
もう、大丈夫だ。
「そう、か? まあ、だったらイスカの魔術、ちょっと見てみたかったりするんだけど」
「……!」
彼の目が、今までよりはイスカを捉えているような気がした。
これはチャンスかもしれない。
だが。
「え、ええと……」
「まあ無理にとは言わないけどさ」
「む、むう」
彼も旅の魔術師だ。魔術関連のことに興味があるのは分かる。
思った以上に釣れてしまった魚に、視線を彷徨わせると、こちらをじっと見るフェシリアと目が合った。
困ったように前に垂らした髪を撫でている。彼女の癖だ。
話の邪魔をしたばかりかアキラとの時間を妨害しているようなものである。
普通に迷惑しているのが分かったが、ここは引けない。
「ふふ。勇者様。勉強熱心ですね」
「……え? いや、なんとなく。最近色んな奴らと依頼請けてるからさ。結構びっくりする魔術とか使う人もいて。俺より長く旅している人だらけだし」
「旅というだけであれば、確かにイスカさんの方が長くされていたようですね」
明らかに話を合わせているだけの様子のフェシリアに、アキラは頷いていた。
自分も勉強熱心になったものだとでも考えていそうな遠い目をしている。
「まあ、そういう先輩だらけの世界だってのも、分かり切ってることだけどさ」
自嘲気味にアキラが呟いた言葉に、イスカの背筋がピンと伸びた。
先輩。
言って欲しい言葉を言われたような気がした。
「……勇者様。イスカさんもお困りのようですし、また日を改めてはいかがでしょう? 彼女も彼女の事情がありますし」
「そうだな、悪かった。……じゃあ、遠視の方を始めるか。つってもどうすりゃいいか分からないけど、フェシリア、こっちに、」
「あの」
イスカは手を突き出してアキラの動きを止めた。
話が切り上げられそうになり、踏ん切りがついた。
これは逃してはいけないチャンスな気がする。
この世界の、そして旅の先輩として、今こそ彼を見返すときだ。
「イスカ?」
「私の魔術、ご覧になりたいそうですね。お、お見せしましょう」
「いや、無理にとは言わないって」
「お見せしましょう」
「お、おお」
何とか押し込んで、フェシリアも目で制した。
これ以上ふたりの邪魔をするつもりは無いが、時間はかからない。
自分の魔術はそれなりに派手な結果にはなる。彼も自分を見る目が変わるだろう。
イスカは建物を背にし、庭へゆっくりと歩み出した。
背後で見守る後輩に、綺麗に正した背筋を見せる。
遠方の門の方へ向かい、優雅に両手を向けた。
「い、いきますよ……?」
「? ああ」
妙に緊張した。
大きく息を吸って吐く。
こんなこと、普段魔術を使うときにはしない。
だが、多分できる。これだけ広い庭なら大丈夫、だろう。
イスカは身体中に魔力を張り巡らせた。
問題は、力加減だ。
「え、えいっ」
そっと、餅雪に触れるように、優しく、魔術を放った。
すると。
「―――っい!?」
ド、バ、ンッ!! と眼前が灰に染まった。
緑の芝生が引かれた庭、レンガで綺麗に伸びた道、そしてその先の門。
規模にして十数メートル。
イスカが手を付き出した先からその距離分のすべてが“凍り付き”、魔術の弊害で生まれた暴風が容易く世界を粉々に砕き切った。
粉々に砕かれた残骸は立ち上った暴風に巻き上げられ、粉雪のように惨状と化した庭に降り注いでくる。
旅の魔術師『雪だるま』イスカ=ウェリッドが操る唯一の魔術。
“それ以外の存在価値が無いゆえに唯一”のそれは、討伐依頼であれば難易度に関わらず、瞬時に決着させてきた必殺の一撃である。
「……あ、……あ、……あ」
「けっ、怪我人はいないよな!? ……いっ、いや!! 何でもないから来なくていい!! ただ遊んでただけだ!! フェシリアも無事だよな!?」
イスカのモノクロの世界でアキラが瞬時に動き出した。
彼の家の周囲には、魔導士隊やら警護団やらの見張りが護衛と称して滞在している。
門が庭ごと吹き飛ぶという大事件に、流石の早さで到着した彼らをアキラが追い返していた。
ぺたりと座り込んだイスカは、身体中が氷のように冷え切っていくことを感じていた。
力は抜いた。そのはずだった。
凍結という事象になったのは偶然だが、昔、知識が乏しい中、手探りで、いくつかの魔術を効率も考えずに強引に組み合わせた魔術師である。
調整は困難を極めるのだ。
結果、数多の魔術が乱暴に混ざり合った、庭など安々と吹き飛ばす、凶悪な旅の魔術師『雪だるま』の魔術がヒダマリ=アキラの家の庭を襲った。
「イ、イスカ、イスカ!? だ、大丈夫だよな?」
「だ、だ、だい、だいじょうぶ、じゃない、わ。な、な、なんて、こと」
まさか開店前に雇い主の庭を破壊するとは。
クビを切られるのは当然の上、損害賠償沙汰である。貯金は勿論無い。
イスカは目の前が真っ暗になっていった。
「ど、どうしよう……!? どうすりゃいい!? あいつら帰ってくる前に気づかれないようにしないと……!」
視界が一瞬クリアになった。
気づくと目の前に、自分以上に狼狽えている男がいた。
そしてまっとうに問題と向き合おうとしていた自分と違い、隠蔽する方向で思考が進んでいるように見えた。
「た、大変すばらしい魔術でしたよ、イスカさん。えーと。すみません勇者様。私、予定があることを思い出しまして。失礼しますね」
一方、この騒ぎが面倒なことになると確信したらしいフェシリアは、そそくさとこの場を去っていった。
彼女の判断は正しく、先ほどアキラが追い返した第一波のあと、突如響いた轟音に何事かと集まってきた野次馬が恐る恐る、門、だった場所の向こうでこちらの様子を窺い始めていた。
背後の黒い建物からも、工事中だった職人が血相を変えて飛び出してきている。
先ほど彼が追い返した魔導士隊や警護団も勿論応援を呼んで引き返してくるだろう。
間もなくこの場は大層な騒ぎになる。
だが、アキラはそんなものには目をくれず、ガシガシと頭をかきながら、庭の状態に目を配っていた。
「広さ……、いや、分からん、どうする、ルックリンさんに言えばいいのか? はっ!! サ、サクの小屋……、は、無事、だよな? は、はは、良かった……。で、ど、どうすんだこれ。イ、イスカ! 何してんだよ!?」
「ごっ、ごめんなさいーっ!!」
座り込んだまま頭を下げ切って、綺麗な土下座を披露する羽目になった。
だが、思った以上に落ち着いてきた。
目の前で、親の留守中に花瓶を割り、怒られないことだけを考えている子供のように狼狽えている男のお陰でもある。
そしてそんな相手に、自分は今、深々と頭を下げていた。自業自得だが。
「私、なんてお詫びしたら」
「最悪イスカにすべての罪を擦り付けるしかない」
「あの。そりゃあ私が悪いんですけど、言い方ってものが」
「だけどもし俺が魔術を見せてくれって頼んだことがばれたら、こっちにも火の手が来る可能性が……」
「……」
ぶつぶつと呟きながら考えているアキラを傍から見て、碌なことを考えていないことが分かった。
当然だろうがイスカを庇おうとするつもりもどうやらさほどないらしく、保身に走り始めている。
純然たる加害者である立場で言うのもあれだが、散々職場に迷惑をかけてきたイスカにはやるべきことは見えていた。
「旦那様。とにかく庭を直さないと。どこか業者を探しましょう」
「ルックリンさん一択だ。たとえ割高になっても仕方ない。あいつらが帰ってくる前に綺麗に直せるのはあの人だけだ」
「ご、御費用ですが、その、私が、」
「イスカの貯金は無いんだろ。ルックリンさんに借りを作ったら何が起こるか分からないから俺が出す。だが、手持ちは大して無いし、共通費に手を付けたらそっちの筋でばれちまう」
「……」
考え続けるアキラにイスカは戦慄した。こういうところで頭が回るのは怖くなってくる。彼の将来が。
「働きまくるしかない。いくらかかるか分からないけど、一刻を争う。イスカはルックリンさんに、庭の修理を依頼しておいてくれ。とにかく速度だ」
邪な目的でも気合を入れたアキラの目に迷いはなかった。
どうやら、叩き出されても文句は言えないイスカのことを今この場でどうこうする気はないらしい。
イスカはごくりと喉を鳴らした。
上手くやり過ごせれば何事も無く彼が解決するかもしれない。
だが、これで彼に頼り切ったら、今度こそ彼は自分のことを相手にしなくなりそうな気がした。
巻き上がった残骸が雪のように降り注ぐ中、情けなさやら罪悪感に襲われたイスカは、滲んだ涙を乱暴に拭い、アキラに向かい合った。
「私も、資金調達します」
緊急事態だ。
―――***―――
日をまたいだ大移動の結果、魔門破壊依頼を請けた面々は、『名前のない荒野』の北西部の“入り口”に到着していた。
その入り口の眼前には広大な砂地が広がっており、隆起した岩や、砂地獄とも見紛う大地の窪みが劣悪な環境を訴えてくるようだった。
もっとも、背後にも開けた荒れ地が広がっており、自然の景色だけ見ていても『名前のない荒野』との境界線は分からない。
ほぼ唯一の目印として、支部とは名ばかりの、小屋のような魔導士隊の支部が建っていた。
こうした光景は、この場所よりもずっと南、“禁忌の地”でも同様である。
『名前のない荒野』は、ヨーテンガース南部に開けた、500キロメートル近い直径を持つ円形のエリアらしく、その境界線を示すように、荒野を囲む形で魔導士隊の支部が存在する。
“禁忌の地”ほどではないが、そのエリアはヨーテンガースの魔物も近寄ることはなく、もちろん人間も居を構えるわけもなく、その周囲は、結局だだっ広い荒野が広がっていた。
“禁忌の地”以外に、ヨーテンガースの南部にいつからそんな場所があったのかは歴史を紐解いても分からない。
根本的に、この周囲は禁足地帯であり、まともな調査など捗らず、分かっていることはふたつだけ。
ひとつは、その荒野が、過去の英雄が命がけの調査の結果発見した、その中央付近にある“魔門”によって生み出されているであろうこと。
そしてもうひとつ。
過去の測量と比較するに、“荒野が徐々に拡大しているということ”。
真綿に水が染みるように、あるいは空気を取り込み燃える炎のように、蠢き拡大するそのエリアには、ヨーテンガース南部の魔物すら近づかない。
こうした特性も、 “禁忌の地”と非常に近しい。
荒野を囲うように魔導士隊の支部が点在するのは、その拡大を食い止める意味もあるのだ。
いずれも地獄のような職場環境だが、しかし、『名前のない荒野』を担当する魔導士たちの表情は明るい。
まず、荒野の外に出てこようとする魔物もまず見ない上、比較対象に重大な欠陥があるが、“禁忌の地”のそれと比べれば魔物の質も一枚二枚落ちるという。
そして、荒野の拡大に関しては、定期的に他の大陸で行っている魔門の規模を縮小させる“魔門流し”を、荒野の隅から行うだけでいいとされていた。
そんな遠方からの魔門流しが荒野の拡大の抑制に何故効果があるのか、魔術を極めんとする魔導士ですら分からないが、ヨーテンガースではよくあることである。
ゆえに、危険地帯とはいえ、周囲に魔物はおらず、下手をすれば他の大陸よりずっと安全な場所から魔門流しさえしていればいいその職場環境は非常に恵まれており、最前線から離れた、にこやかな中高年の魔導士たちがのんびりと過ごす空間にもなっていた。
そしてその、優しい中高年の魔導士たちは。
荒野の中に入ろうとする者には鬼の形相に変わる。
「……ふ、う」
エリサス=アーティは、眼前の光景を前に、大きく深呼吸をした。
この依頼は天気に恵まれ、日が落ちても、余計な光の無い空では眩しいほど星が瞬いている。
天候の確認や事前準備を兼ね、最低でも明日まではここで野宿することになるらしい。
要は自由時間ということらしいが、場所が場所だけに、依頼はすでに始まっていると考えた方がいいだろう。
長時間の移動で疲労は溜まっているが、そんなことは言っていられない。
移動中のように余計なことを考えず、精神を研ぎ澄ませ、いつ『名前のない荒野』に入ることになってもいいように、集中力を高めておく必要がある。
「まあ! ティアちゃんもカタリナちゃんも元気いっぱいね! みんな楽しそうでとってもハッピー!」
「うんうん、元気があるのはいいことだよー。頑張ろうねー!」
「もっちろんですよ! おー!」
「おー!」
「おー!」
「お……、終わった」
『名前のない荒野』の周囲に点在するうちのひとつの魔導士隊の支部の付近。
とっくに日が落ちたそこでは、今までの休憩ポイントとは比較にならない騒音が響いていた。
現地には入らない者も含め、全体の人数は500名にも上るだろう。
辺鄙な荒野にぽつんとある支部に大所帯が押し寄せても寝泊まりは出来ない。
そこで、今回の作戦のリハーサルも兼ね、魔導士隊の支部からやや離れた広大な荒野で、全員が泊まれる“拠点”を作成するという大工事が進行していた。
“拠点”というのは、エリーが想像していたものとまるで違う。
ただ寝泊まりするだけのテントが出来るのではなく、焚火やタープテント、そして、複数の“建物”を組み立てるのだという。
折り畳まれるようにまとめられる屋根や壁、丸められる床、回すだけで何段階も長短が調整できる柱と、それらの“運べる建物”は、重さを考えなければ玩具を組み立てるように実際に家を作れる。
到着するなり騒音と共に始まった大工事だが、進捗は順調のようで、見えるだけでログハウスのような建物がすでに10は作成されており、見る見る内に、まるで“村”のような拠点が作り出されていく。
リハーサルだろうが民間の業者である彼らは真剣に手早く“村”を生み出していき、時折、監督者なのか時間を測っているらしい者から怒号が飛んでいた。
最初は耳を塞ぎたくなるほどの騒音だったが、それも徐々に慣れてきた。
むしろ魔導士隊の方々や旅の魔術師である自分たちのために働いてくれる彼らに感謝の念を込め、その働きに応えられるように気を持ち直したところで、騒音に慣れたエリーの耳が、別の騒音を拾ってしまった。
「そうそう。私、さっきお散歩しようと思って荒野に入ったら、魔導士のおじさんたちに思いっきり怒られちゃった。怖かったぁ、殴られるかと思ったよー」
「まあカタリナちゃん泣かないで! ご機嫌斜めな人もいるみたいね。元気がもったいないけれど、もうすぐ入れるから我慢我慢!」
「わわカタリン、チャレンジャーですねえ。実はあっしもちこっと様子を見にいこうとした……、気が、するんですが、……? きお、くが……?」
我らがアルティア=ウィン=クーデフォン。
妹の同僚である大柄な女性の魔導士、ケディア=レンダー。
そして、『武の剣帝』と称されるらしい、カタリナ=クーオン。
エリーの耳が優れているのか彼女らの声量が壊れているのか、騒音の中でも気にせず元気に話し続けるその3人に、エリーの集中力は見事に削がれていった。
護衛の仕事をしていたのであろうケディアに、にこにこしながらティアとカタリナが近づいて行ったときから嫌な予感はしていたが、自分が知らなかっただけで、彼女らはもともと知り合いだったのかもしれない。
無視を決め込もうと思ったのだが、時折ティアから出る、本気で叱りつけた方がいいような言葉にどきりとさせられ、そしてそのオチに心底同情させられる。
エレナに頼り切ってしまっている結果、そろそろティアが脳障害を患いそうな気もしてきた。
だが、騒いでいるとはいえ、羨ましくも感じる。
話し相手もいない中、それでもめげずに、エリーはひとり、この移動中でも見様見真似で試みていた情報収集の時間に充てていた。
設営や食事の準備を手伝おうにも、プロの仕事に太刀打ちできないのは家の掃除で実感してしまっている。
余計なノイズが入った光景から目を背け、周囲を伺い続けると、やはり信じがたい速度でログハウスや焚火の準備が整っていく。
自分が何もせずに環境が整っていく様は、より一層取り残されるような感覚に陥り、自分の存在が消えていくような悪寒がした。
自分がいなくとも世界は回る。そういう思考は危険だ。
世界には先駆者がいて、自分の長所ですら上回る者がゴロゴロいる。
それは残酷な事実ではあるが、だからといって自分が何もしないのはまた違うだろう。
「?」
周囲の様子を窺うと、反対に、民間人や他の旅の魔術師たちからの視線も感じた。
今までも目が合うことが多く、つい逸らしていたが、今日こそはと見続けると、相手の方がびくりとした様子で顔を背けていた。
「あ」
それなりの混雑をしている喧噪の中、見続けたその向こう、見知った顔が目に止まる。
ざっと周囲を眺めていたときは気づかなかったが、目立たないように建設済みの建物の隅に座り込み、大人しくしているのはキュール=マグウェルだった。
「キュールちゃん? よろしくね」
「……キュールでいいよ。よろしく願いします」
知り合いを見つけてつい声をかけにいくと、お辞儀をされた。
ただ、この『盾』の少女とは面識がないわけではないが、あまり話した記憶が無い。元はシリスティアの孤児、というのは覚えている。
旅の中での経験か、はたまた同行者の教育か、礼儀正しい所作を身に付けたらしいキュールだが、表情ははっきりと不満を浮かべていた。
「ええと。カイラさんたちと逸れちゃった?」
「子供扱いしないでよ。わたしはひとりでも大丈夫」
不満を顔に出さないところまでが大人というものかもしれない。
口を尖らせいるキュールの子供らしい所作が、エリーには可愛く見えてきた。ティアと違って静かだし。
「そうだ。この前、お祝いに呼んでくれてありがとう」
「う、ううん。あたしたちも来てくれて嬉しかったよ」
自分たちの引っ越し祝いに呼んだ、というかティアが連れてきたときのことを言っているのだろう。
またぺこりと頭を下げてきたキュールに、エリーは胸が締め付けられそうになった。故郷の孤児院の子供たちが、こういう大切な部分で礼儀正しくできた光景は、何度見ても頬が緩む。
だが、そんなエリーの視線に気づいたのか、子供扱いされていると思ったらしく、またキュールの機嫌が悪くなった。
まずい。可愛い。
魔導士隊の方々が指揮する大切な依頼であるというのに、至る所にエリーの気を散らすものが散りばめられている。
なんとか気を保ち、キュールの視線を追うと、話の種が尽きない様子のにぎやかな3人が目に入った。
「……ティア、忙しいみたいね。一緒に話してきたら?」
「っ、だから子供扱いしないでって。マルドから言われているの」
仲のいい友達が取られて拗ねているのかもしれないと感じたエリーの様子を機敏に察し、キュールはまたむっとした表情を浮かべる。
それも可愛らしい所作だったが、気を保った成果か、エリーは眉を顰めた。
マルド=サダル=ソーグ。
彼らの一派の中でもエリーと縁がある方の、思慮深い男だ。
「……マルドさんから? 何を?」
「アルティア=ウィン=クーデフォンから目を離すなって。わたしの仕事」
自分の声色が変わっていたことには気づいた。子供扱いしていたときには出なかったであろう。
キュールも満足したようで、やや得意げに言った。また子供扱いしてしまいそうだ。
「ティアを? ま、まあ、何となく分かるけど」
「治癒担当者の中でも戦闘力が低い人。だからこの依頼中、彼女はわたしが守る」
「あり、がとう。そうね、心強い。ティアにもその話をしとこうかしら」
「今はやめてね?」
『盾』である彼女の力は知っている。
そんな彼女が優秀な治癒担当者を守るとなれば、結果として全体の生存率が上がるだろう。
この依頼、ティアとキュールは共に行動すべきだ。
だが、ティアにそんなことを伝えようものなら、感動やら感謝やら騒音やらを一身に浴び、キュールは今日を生きて乗り切れない。
遠目で見ていたときは孤立していたように見えていたキュールだが、彼女は彼女の考えで、この依頼に臨んでいるようだ。
また取り残されているような感覚を味わう羽目になった。
「……ところで、あなたは誰と組むの?」
「え? あ。まさかそれも?」
思った以上に取り残されていたのかもしれない。
一瞬キュールの言葉の意味が分からなかった。
だが、この依頼が開始した際、“拠点”の進行などの説明があった事前ミーティングで、その話は知っていた。
見渡す限り何もない『名前のない荒野』。
明日かどうかは天候次第だろうが、そこを大人数で移動するのだ。
今は日も落ち、肌寒いくらいだが、日中は照り付ける太陽の下、延々と進んでいくことになる。
危険なのは出現する魔物だけではない。脱水症状や熱中症など、人間としての体調不良が予想される。
魔導士隊の方々はしっかり管理してくれるだろうが、人数が人数だけに細かな部分は難しいだろう。
そこで、依頼中、依頼参加者内で特定の相手とペアのバディを組み、お互いに体調面を気にし、水分補給や馬車での休憩を促し合っていくらしい。
運命共同体とまでは言わないが、こうした細かな試みもこの依頼には図られている。
「……って、ちょっと待って。ティアとキュールが組むの?」
「なに?」
エリーが言わんとすることをまた察された気がした。
お互いを見守るとなると、子供同士では、と思ったが、キュールの冷たい視線にエリーは押し黙る。
キュールもそうだがティアも旅は長い。問題ないはずだ。
これは心配なのか信用の無さなのか、エリーは判断が付かなかった。
「ご、ごめん。よろしくね?」
「うん。任せて」
納得し切ったわけではないようだったが、キュールは頼もしく返事をした。
失礼なことだったかもしれない。
エリーは頭を振った。気になりはするが、彼女たちも依頼に向き合っている。
そんなことばかりに気なっている自分よりもずっと真剣なのだろう。
「……そういえば。ちなみにそれ、誰から聞いたの? あたし、誰と組むんだろ」
周囲を見渡したが、案の定と言うべきか、我が頼もしい仲間たちは、ひとりを除きどこにも見当たらない。
「わたしはマルドから聞いたけど、あなたのは知らない。マルドは魔導士隊から聞いたって言ってたけど」
マルドの情報源はともかく、魔導士隊の中ではすでに決まっているのだろう。
妹のマリスか、イオリ辺りかもしれないが、彼女たちは魔導士として扱われ、旅の魔術師であるエリーとは組まないかもしれない。
今も彼女たちは決して広くない魔導士隊の支部で何やら話しているようだ。
となるとサクかエレナだろうか、と、何気なくマルドの姿を探したが、彼の姿も見当たらなかった。
彼は今もどこかで何かをやっているに違いない。
やっぱり取り残されていると感じる。
自分の知らないところで、自分に関係あるのに、自分の知らない何かが進んでいく。
気づけば騒音を立てていた“拠点”の構築は、佳境に入っていた。
「!」
そこで、妙な気配を拾った。
キュールもはっとして空を見上げる。
星明りの遥か上空に、美麗な青に輝く巨竜が飛んでいた。
「え」
一瞬で警戒態勢に入った民間人たちを尻目に、エリーは降りてくるその召喚獣の着陸を待った。
旋回しながらやや離れた地点へ降り立ったその青い召喚獣は、ほどなくして、粒子のような光になって溶けていく。
そこから人影が歩み寄ってきた。
キュールが、さっとエリーの背後に回る。
「カ、カイラさん? と、マルドさんも。どこに行ってたんですか?」
「驚かせてしまいましたね。エリサスさん、お疲れさまです。周囲の警戒を依頼されまして。キュールも、……、! ちょっと。防具はきちんとつけるようにと言いましたよね!」
ふるふるとキュールが首を振って後ずさるも、修道服の女性があっという間に詰め寄った。
『召喚』の力を操るカイラ=キッド=ウルグスは、エリーが一時期お世話になった女性で、キュールに、というより子供に対してはなかなか厳しい思想を持っているようだった。
その騒ぎでティアもキュールの存在を思い出してしまったらしく、召喚獣の騒ぎに負けない声で突撃していった。
キュールのことはあまり知らないのだが、不幸な子だったような気はする。
よく見る光景から視線を逸らし、そんな様子を遠目に眺める男に向き合った。
「マルドさん、お疲れさまです。周囲の警戒って……まさか中に?」
「いいや、俺たちが通ってきた方だよ。魔導士隊に頼まれてね。だたっ広いだけで目ぼしいものはなかった」
山吹色のローブに長い杖。
現れたマルド=サダル=ソーグは、スライク=キース=ガイロードの一派の『杖』だ。
最後尾の馬車に乗っていたらしい彼をこの依頼では始めて見たが、見回りの直後だからか、妙に気配が鋭く感じた。
上空の寒さを思い出すようにローブを羽織り直し、彼もまた、周囲を探るように見る。
「そういやスライクは見かけた?」
「……ぅ。そういえば見かけませんでしたけど」
エリーは情報収集にすら勤しめていなかったことに気づかされた。
あの大男がいないことに気づいていなかったほどとは。
いれば必ず目に付くはずの相手だ。記憶を辿っても、この場所についてからあの大男を見た覚えがない。
エリーの脳裏に嫌な予感が過る。
同じ日輪属性の男を良く知る身として、目を離すとろくなことにならない経験則だろう。
「ふうん。俺たちも見てないし……、入っちまったかな」
「へ。まさかですけど、『名前のない荒野』に……?」
「ああ」
戦々恐々として言うと、しかしマルドは何事も無いように肯定する。
エリーが反射的に動こうとすると、マルドは口に当てて声を出さないような仕草をした。
「ちょ、い、いいんですか?」
「いいも何も、様子見か何かだろ。手ぶらで入るような場所じゃない。放っておいたら戻ってくるさ。騒ぎになった方が問題だ」
「そ、そんなこと言っている場合じゃないんじゃ……」
エリーたちはこの場に来てから、散々言われたことがあった。
目前に見える『名前のない荒野』。
確かな境界線は無いが、魔導士隊の支部より向こう、広がる砂漠のような大地に、一切近づくなと厳命されているのだ。
エリーとしては魔導士隊が言ったことであればほぼすべて従うが、所詮言付け。破る者も出るだろう。
事実それを破ろうとし、厳重に注意され、それでも賑やかに語らっている者たちがいた気もするが、そもそも『名前のない荒野』は魔導士隊からそれだけ危険地帯と認識されているのだ。
「お、お仲間ですよね……? だ、大丈夫なんですか?」
「あいつが勝手にやったことなんて知らないよ。何かあっても自分で始末は付けるだろ」
恐ろしくドライな言葉だった。
もし仮に、自分の仲間の誰かの姿が見えなければ、少なくともエリーなら心の底から心配し、魔導士隊に頭を下げ、捜索を願い出る。仲間の身の安全が第一だ。
だがマルドは、変わらず周囲を探るような眼で見ているだけだった。
「……まあ、気にしなくていいよ。俺らにとっちゃいつものことだ。仲間ってのも微妙かな、一緒にいることも多いけど」
「でも、こんな場所でそんな勝手してたら危ないんじゃ……」
「問題ないさ。……スライクがただの自己中で集団行動に向かないだけの馬鹿なら殺してでも止めている」
「え、と」
「ああいや、マイナスの意味で言ったんじゃない。……まあ、要するに、スライクはスライクの判断で行動していて……“結果を出す”、ってことだ」
言葉が強い。マルドはやはり気が立っているようだ。
だが、最終的に出てきた言葉が、最も強く感じた。
エリーの考える信頼とも違うのだろう。
ただの事実でしかないことであり、そしてそれだけのことでしかないかのように、マルドは言うのだ。
あるいは。それ自体が絶大な信頼とも言えるのかもしれない。
「言葉を選ばずに言うなら、はっきり言ってスライクは輪を乱す。魔導士隊も頭を抱えているだろう。集団行動に計り知れないデメリットがあるってね。だが、“何故か”結果が付いてくる。物の考え方の軸が違うのかもな、そのデメリットを上回るメリットを出す奴だ」
もしかしたら日輪属性という存在が、そういうものなのかもしれない。
マルドも、自分たち同様、日輪属性と旅をしている人物だ。
言葉は違えど、エリーも似たようなことを感じたことがある。
集団の取り決めを破ることは大問題だ。
集団行動の余りある恩恵を受けられなくなるどころか、集団の崩壊にもつながるだろう。
だからこそ集団を維持する規律というものは最重要視される。
人数が集まる以上、不確定要素は排除する必要があり、合理的な規律を作り、遵守することで、集団というものは成り立つのだ。
そうして世界は回っている。
だがそもそも、集団というものは、“目的”に対する“手段”でしかない。
目的に辿り着ける“個”が存在するのであれば、前提は崩壊する。
比べるものでもないだろうが、方法論と結果論の違いだ。
エリーのよく知る日輪属性は、時折信じられないことをしでかしやがるが、少なくともここまで旅を続けてこられているのだから結果を出してはいると言える。
必死に考えてくれて出した選択も、愚かに思える選択も、痛い目を見たり、誰かに迷惑をかけたりするが、結局のところ結果に繋がっているということだ。
彼の努力は知っているが、冷静に振り返れば確かに“何故か”としか言えない。
もっとも彼の場合、そういうものを超越し、本当にただのポカの場合があるから目が離せないのだが。
「っと、そうだ、マルドさん」
思わず余計なことを思い浮かべかけ、緩みかけた頬を引き締めた。
今は依頼中である。
「さっきキュールに聞いたんですけど、ティアを守ってくれるって」
「治療担当は最優先で守ってもらいたくてね。民間人より優先だ」
自覚している挙動不審さに何か言われるかと思ったが、マルドからはあっさりとした答えが返ってくる。
マルドは頭も回るし頼りになるが、こうした冷静過ぎる部分を感じることがあった。
ティア以上に戦う術を持たない民間人も荒野に入ることになるのだが、そちらの守りをおろそかにしてでも治療者を守るべきと断言している。
依頼中のマルドはこういう人間なのだろう。
最初に彼と会ったときのことを思い出す。
港町に魔族が出現した大事件だったが、その騒動の中、感情的な行動を是としなかった。
優先すべきこと以外ははっきりと切り捨てる人間だ。
民間人の誰も、死ぬどころか怪我もしたくないと思っているだろう。民間人どころか誰でもそうだ。
だがマルド=サダル=ソーグは、怪我人が出る確率を下げるより、それを上げてでも死者が出る確率を下げることを躊躇なく選ぶ。
キュールがティアを守るのと、民間人を守るのを比べた場合、ティアを守った方が、怪我人は多く出るが、“生き残る人数は多い”、という計算をしているのだろう。
スライクの思考はまるで分らないが、マルドの思考は多少分かった。
先ほどのスライクとは違い、方法論の思考なのだろう、マルドは合理的にモノを考える。
だが、こちらも極端に感じた。
正しいのだろうが、感情的な部分で、その思考が恐ろしくなる。
エリーはちらりと、キュールに対してあれやこれやと口を出しているカイラを盗み見た。
エリーの認識上、一番の常識人はマルドだと考えていたが、キュールやカイラの方が普通の感性を持っているような気さえしてくる。
「……? あ、れ?」
そこで、エリーは違和感を拾った。
言葉になる前に表情に出て、そして、それより早くマルドの表情が曇った。
「マルドさん。キュールがティアを守ってくれるのって、魔導士隊の方が決めたんですよね?」
ティアとキュールが組むことを、まるでマルドが決めたような口ぶりだったのが気にかかった。
この魔門破壊の依頼は『三魔人』グリンプ=カリヴィス7世が計画したものである。
つまり、依頼の現場の計画は彼が指示した魔導士隊が立てているのだ。
「……。ああ。まあ、うちの面々はあんなのばかりだから、内情を話したのは俺で、一応意見は出しておいたってだけだけど。そっちは? あのイオリって子が話したのかな?」
「ああ、なんだ」
マルドが苦笑した。イオリでもたまに見る表情だ。
ドラクラスの噂の精度は高いとはいえ、魔導士隊の方々も編成を組む際、本人に話を聞けるならそれに越したことは無い。
魔導士隊の誰かが自分たちのところにも話を聞きに来たのだろう。
マルドの言う通り、知らないところでイオリが対応してくれたのかもしれない。
また、胸に靄が生まれた気がしたが、エリーは抑え込むように胸に手を当てた。
「……ところでマルドさん。魔導士隊の方々の作戦って知っています? あたし、大まかにしか把握していなくて。誰が誰と組むとか」
マルドはエリーと話しながら周囲の様子を窺っているようだった。
こちらに気とられぬように振る舞うイオリと違い、マルドは特に隠す様子もないが、情報収集に勤しんでいるのだろう。
邪魔になるかもしれないが、エリーだって依頼の当事者だ。
特に情報を持っていそうなマルドと話すことは有益である。
「……」
断られる覚悟で聞いてみると、マルドは、小さく息を吐いた。
気が立っているようだったので、鬱陶しがって溜め息でも吐いたのかと思ったが、彼は苦笑していただけだった。
「なんです……?」
「ああ、ごめん。悪気があったわけじゃないんだ。いや、君らは過ごしやすい関係なんだろうと思ってさ」
「え?」
「依頼の話。君の妹やあのイオリって子はよく知っているはずだから」
「……」
思ったよりも明るく返してきて胸を撫で下ろしたのも束の間、胸の靄が蠢く。
そんなことは知っていた。ふたりとも魔導士だ。
だが、この依頼に魔導士として参加して忙しいマリスはともかく、イオリに聞いても、まともに答えてはくれなかった。
エリーを邪険に扱ったわけではない。
彼女は言ってくれるのだ。
後でまとめてから話す、と。
「色々まとめておくのも手間でさ。……うちの面々はそれをやるのが俺だけだから」
冗談めかして言ったマルドは、今度は苦労人のため息を吐いた。案外本気で言っているのかもしれない。
仲間とも違うと言っていたが、結局どこもそういう役どころは生まれるのだろう。
そして、頭を下げるしかないが、こちらのその担当であろうイオリは、先にすべてを把握した上で、自分たちが理解できるタイミングまで計ってくれる。
それは純然たる彼女の善意なのだろう。
「まあ、俺もある程度は把握しているよ」
「……それなら、聞かせてもらえますか?」
イオリの善意に背く行為だとは思った。
だが、エリーはマルドを見据えた。自分がどういう表情を浮かべているかは分からない。
聞いておいて、判断を人に委ねた。
幸いマルドは聡く、そして機嫌は悪そうだ。単なる好奇心なら、エリーも控えるべきだろうし、マルドも気づいてお茶を濁すだろう。
「……分かった。魔導士隊の説明は全体宛てだったから、ぼかしていた部分もある。俺ははっきりっておくよ。拠点を作りながらの進行。状況に応じて拠点に人を残していく、なんて話だったと思うけど、“具体的にどうなるかは分かるだろう”」
「……」
少し考えれば分かることだ。というより、エリーは自覚した上でこの依頼に参加している。
イオリたちの気遣いだろう、要らぬプレッシャーを感じぬように、ぼんやりとしか思い描けないようにしてもらっていたものを、マルド=サダル=ソーグは言葉にする。
「当然、魔門に行く人間は事前に決まっている。……“魔門を破壊できる奴”だ。サポートで他にも人はいくけど、所詮モブ。魔門を破壊できる人間を―――指定Aのスライク=キース=ガイロードとエリサス=アーティを、無事に魔門に到達させるのがここにいる全員の仕事だ」
大人数が参加する依頼。
運べる建物の利用や多数の魔導士隊や実力派の旅の魔術師の参加など、進行に関する計画は万全だろう。
だが、それは所詮手段でしかない。
この依頼は、どれだけ人がいようが、どれだけ資材が潤沢だろうが、結局目的は“魔門破壊”なのだ。
周囲では、あっという間に村と見紛うような建物が設置されていた。
「これだけの大規模な準備が意味を成すかは、スライク=キース=ガイロードとエリサス=アーティのどちらかが魔門を破壊できるかにかかっている」
重い責任が目の前に存在する。
魔導士隊の方々の前では、エリーはつい失礼なことをしないようにと考えてしまうが、この依頼で要求されているのはそんな次元ではない。
間違いを犯さないことを求められているのではなく、成果を求められているのだ。
「っと、流石に言い過ぎだった。悪かったね」
「いいえ」
マルドははっとして顔を上げた。やはり機嫌が悪かったのか、口を滑らせ過ぎてしまったと思ったのだろう。
だがエリーはそうは思わなかった。彼が言ったのは事実でしかない。
自分の心拍数が上がっているのが分かった。
散々集中しようとしていたのに、熱に浮かされるようになった頭は、冷静にならない。
普段なら自分を戒めるほどの落ち着きのない感覚に陥り、目の前のものが遠くなる。
「謝るなら、別のことですよ」
だが、何故か、口からは強い言葉が出た。
「どちらかじゃない。魔門を破壊するのはエリサス=アーティです」
自分の表情は分からない。それを見たマルドの顔も、見えなかった。
「……そうかもね」
静かに、そう返したマルドに、ようやくエリーの視界がクリアになっていった。
今自分は何を口走ったのか。
浮かされた頭から出てきた言葉をすぐには思い出せない。
もしかしたら想像以上に依頼に真摯に向き合えていないのかもしれない。
先ほどの礼で言えば、自分はきっと方法論の人間だろう。
計画に沿って、着実に依頼を遂行するのが魔導士隊から見ても望ましいはずだ。
恥ずかしくなってくる。
しかし、そんなエリーを見ても、マルドは笑ってはいなかった。いや、表情を崩していない、が正しいだろう。
エリーの言葉を、ただの雑音のように聞き流しただけだった。
胸の奥にもや、ではなく、熱が生まれるような感覚に陥る。
マルドは、それがただの事実のように、確信しているのだ。
魔門を破壊するのは、スライク=キース=ガイロードだと。
「……ま、実際どうあれ、目的さえ完遂できれば文句は無い。……それに、スライクのことだ、何をするかも分からないし、……本当にどうなるんだろな」
張り詰めた空気を緩和するためか、苦笑し、エリーが知るマルドの雰囲気に戻ったような気がした。
エリーも愛想笑いを浮かべる。
「すみません、頭の中ごちゃごちゃしているのかも……、同じ依頼の参加者なんだから勝負でも何でもないですし」
「まあ、いいんじゃない? それくらいの気構えの方が上手くいきそうだ」
「……ぅぅ」
思わず言ってしまった言葉をフォローされるとここまで恥ずかしくなってくるのか。
エリーは顔を背けた。
だが、言葉を撤回しようとは思わなかった。
妙な感覚だ。
集中できておらず、ものの考え方もまとまらないほど混乱していて、油断すれば脳の奥に必死に押し込んでいる諸々の事情が噴き出してきそうな悪寒がするのに、妙に気力が湧く。
昨今の環境の変化やこの依頼のプレッシャーで、自分の情緒がもともと壊れてしまっていたのかもしれない。
だが、マルドの話は、エリーが自覚しておかなければならないことだ。
魔門破壊を行う自分たちのために、これだけの人間が動いている。
心のどこかで、自分はただの村娘だと思っていたのかもしれない。
自分は、七曜の魔術師エリサス=アーティであり、魔門を破壊した実績がある。
イオリは善意で、自分のことを気遣ってくれている。
だが、その善意に甘えてばかりはいられない。
混乱も、重圧も、受け止めなければならないのだと改めて自覚すべきだ。
第三者的な立場のマルドと話せてよかった。
「まあ、サポートは変な贔屓なんてするつもりはないから、やりたいようにやってくれればいいし、いつでも相談してくれ。……それにしても、少し面白いね」
「何がです?」
「いや、からかうわけじゃないけど、この依頼の注目度は高くてね。そもそもスライクとエリサスさんのどちらが魔門を破壊するかって賭けの話を聞いたことがあってさ」
流石に顔をしかめた。
旅の魔術師と縁遠い民間人からはそういう発想も出るだろう。
彼らに悪意は無いだろうが、マルドの言うように面白くは感じない。
当事者の特権だ。
「あ……。お話ありがとうございます。お時間取らせちゃってすみません」
そこまで気分を害されたわけでもないが、そろそろ潮時だろう。
離れた場所で、旅の魔術師への部屋割りを説明している者がいる。
先ほど生まれた妙な感覚は心の奥に押し込めて、依頼に備えて身体を休めた方がいいだろう。
「いいや? 俺も君と話したかったからね」
マルドからまた、少しだけ、事実を事実としてしか見ない視線を感じた。
時折周囲の様子を探っているような気がしていたが、マルドが最も様子を見たかったのは、指定Aの自分だったのかもしれない。
こういう視線にも慣れていくべきなのだろう。
マルドはちらりと、魔導士隊の支部を見た。
中で話をしていたアラスールたちが出てくる。
横から見るとよく分かる。彼の目はまた、探るようなものになっていた。
アラスールも、そして同行していた自分の妹やイオリも、様子を確認したい相手であろう。
「……じゃあここらで」
「はい。依頼、よろしくお願いします」
「こちらこそ。……じゃあ楽しみにしているよ。レースじゃないけれど、巷で噂の『剣の勇者』に『破壊の魔術師』。そのどちらが魔門を破壊するのかをね」
「え」
「おっと。流石の人気だなアラスール=デミオン。急がないと順番待ちになりそうだ。それじゃ」
事実を事実として言う男が、駆け足で去っていった。
先程押し込んだはずの胸の奥の熱が、よくない形で上がっていくのを感じる。
「……はい?」
―――***―――
「ふ。ふふふ。……まあ、ざっとこんなものですよ」
独り言が零れ、口に手を当てる。
思わず思ったことが口から出るのは精神の防衛本能。疲労かストレスのサインだ。
成功とは余裕から、余裕とは身の安全から生み出されるもので、そして安全とは自分のコンディションを自覚することから始まる。
やはり今日は大人しく身体を休めているべきであろう。
『智の賢帝』シャロッテ=ヴィンテージはドラクラスの街並みを歩いていた。
気になる目の隈を隠すべく、いつも以上に前髪を下ろして大きな瞳を覆う。
ここ最近のドラクラスでは、移動先であるこの場所への定着化を目的とした依頼が大量発生している。
計画上最終目的地は先であり、この地に永住するわけではないのだが、“街”を一時的にでも成り立たせるには莫大な資源の安定した供給が必須だ。
他の街と連携を取る物販ルートもそうだが、シャロッテがここ最近担当していたのは自然からの物資調達である。
それが理由でこの場所を選んだのだろうが、ネーシス大運河という海とも見紛う巨大な川の近くであるこの場所は、水は勿論、魚や自然繁殖する植物も食用として活用できる。
そればかりかドラクラスの力の入れようは想像以上、シャロッテにとっては想定通りで、豊富な水源をもとに畑さえ作り出されていた。
最初の引っ越しの前から育てられていたというそれらの様子は、この地に永住するつもりなのかと疑うほど大規模で、高度から見下ろすと整い青々とした食物が大地いっぱいに広がり、壮観の一言に尽きた。
そんな中、シャロッテが請けた依頼は、最も重要であるネーシス大運河周囲の安全に関するものだった。
現場では、シャロッテですらいくらかかかるのか計算しようと思わない巨大なろ過装置や作物を管理する施設がいくつも設置されている。
そことドラクラスを、ろ過された水や天産物の運搬で延々と往復する大型馬車の列を尻目に、各種装置や設備の点検に勤しむ専門家の護衛が依頼の主な内容だ。
ヨーテンガースとはいえ人が多数いる安全圏の依頼に、シャロッテは大層気を良くし、いつも以上に集中力を研ぎ澄ませていると、護衛と並行して装置の点検そのものにも参加することになった。
ろ過装置や設備の点検は専門家が、そしてそれらを守る魔物避けの装置は魔導士隊が担当するが、シャロッテはその双方の異常が検知できる。
流石に故障原因の特定や修理は一流の技術者には一歩及ばないまでも、一定程度の推測はできるのだ。
助手としては十分すぎる活躍に、シャロッテは気づけば各チームから引っ張りだこの、依頼にとって欠かせない存在となっていた。
まったくもって、いつものことだ。
しかし少々調子に乗った自覚はある。ここ数日、心安らかに眠った記憶が無い。
大変よろしくない。睡眠不足は思考を妨げるのだ。
そしてそれは感情の制御も狂わせてしまう。
だから。
自分が寝る間も惜しんで働いていた時期、ドラクラス中が楽しんだ祭りとやらに、何とかして時間を作って参加しようとした最終日、駆けつけるなり事件が起こって中止になったことを、未だに気にしているわけではない。
頬を両手で挟んで表情筋をほぐしながら街を進む。
依頼はようやくひと段落だ。
別の業務に回っていた者たちも集まり始め、少数精鋭でやらざるを得なかった当時から比べて随分と余裕ができた。
これからはシャロッテ抜きでも現場は回るだろう。
やり切ったという達成感と共に、疲労が一気に襲ってきた。
『智の賢帝』は鈍りかけた思考を研ぎ澄まし、さらに働かせる。
しばらくは身体を休めることに終始すべきだ。
自分のパフォーマンスの低下はドラクラスにとってもよろしくない。
依頼のお陰で資金は潤沢。新しい服も買いたいし、宿の部屋に飾るインテリアも気になるものが懇意の店で入荷予定となっていた。
ショッピングを堪能しつつ、あとは糖分接種。
お洒落な喫茶店にでも行って、この『智の賢帝』にあるまじき、甘さと量だけを追求した頭の悪いデザートでティータイムを満喫するのが最善であろう。
上々とした気分のまま、前々から気になっていた、2階のゲート付近の喫茶店へ向かう。
表通りに面しているのに小ぢんまりとしつつ、店先には客が座るわけでもない一組のテーブルと椅子が供えられ、少し大きい犬と猫のぬいぐるみが座っている。
収益を考えるなら無駄なスペースだが、そこにシャロッテは気が引かれた。趣味でやっている店の可能性は高く、たまに土方系と思われる業種のガタイのいい男が入っている姿を見かけたことから、量の方も期待できるだろう。店先のメニューでデザートがあることは確認済みで、金額も妙に切りのいい数字だ。恐らくはメニューの融通も効く穴場の店であろう。あと猫の方のぬいぐるみが特に可愛い。
一瞬頭を過った妙な思考を、しかし払うのも億劫で、巨大な飴玉に吸い寄せられる蟻のように喫茶店へ近づき、そしてシャロッテは我に返った。
その喫茶店の様子が窓から見えた。時間を外したお陰で中は閑散としていたようだが、最奥、4人席のようなのに、同じ側に座って語らう男女が見えてしまった。
シャロッテは、思わず漏れたため息と共に店から離れる。
ここ数日、寝つき自体はいい。ほとんど意識を失うようにベッドに倒れ込むのは、シャロッテにとって幸運だった。
業務に忙殺されていないと、ふとしたとき、あの依頼の記憶が蘇る。
“禁忌の地”に繋がっている可能性のある洞窟。
出現した日輪属性の魔物。
そしてその討伐。
世の中のすべてを知り尽くしたこの『智の賢帝』にとってすら、絵本の中から飛び出してきたような物語が眼前で繰り広げられた。
だが振り返ると、最も記憶が蘇るのは。
自分が、異性から明確なアプローチを受けたことだった。
ヒダマリ=アキラという世界中が認識する勇者様。
彼もきっと、思わず、といったところだったのだろう。長い依頼の中、共に時間を過ごしたシャロッテを目で追っていて、気にかけていたらしい。
正直に言ってしまえば、その、悪い気はしなかった。
それゆえに、シャロッテは強い後悔に襲われている。
彼のアプローチに対し、自分には落ち度があったのだろう。
過去、自分の両親や友人が忠告したせいで、そういうことから距離を置いていた自分には、そういう経験が乏しかったと認めざるを得ない。
別に両親や友人を責めるつもりは無いが、事前にある程度把握さえしていれば、自分はもっと上手くやれた気がする。
後悔ばかりしていても始まらない。ゆえにシャロッテは、彼との記憶を呼び覚まし、どこに何の落ち度があったのかと考え続け、そして最後、彼に対してアプローチを仕掛けた女性を思い出して思考が停止する。
そうすると、言語化できない、物寂しい気持ちを味わうのだ。
ドラクラスの街並みは、ふと気づけば、男女がよく歩いている。
彼らは仲睦まじく、しかし時折どちらかが機嫌悪そうにして、それでも共に進んでいく。
自分が知らなかったのは、恐らくああいう光景なのだろう。
漠然とそう感じ、胸に小さな痛みと、そして暖かな気持ちが残る。
自分も誰かと共に歩きたいと感じた。
『智の賢帝』と呼ばれ、常人を超越した自分にとって、共に歩ける者は多くない。
それでもそう感じるようになったのは、あの経験があるからであろう。
恋というのは、言ってしまえば脳の錯覚とのことだ。
だが、それを理解してでもなお、それを求めることも悪くないと感じられたのは、彼のお陰だ。
彼はきっと、あの女性と共に歩いていくのだろう。彼女は素敵な女性だ。あの彼女が相手であれば、仕方ないと感じる部分もある。
シャロッテは小さく笑った。
悔しくて、悲しくて、それでもきっと、素敵な出来事だったと言える日が来るかもしれない。
遠い未来、ふとしたときにまた彼らと出会い、笑える自分になっていることが目標だ。
苦い経験を宿題に変え、シャロッテは大きく息を吸った。
「話が違うっ!!」
「うおっ!? ん? ……って、あ。シャロッテ? シャロッテじゃないか! 久しぶり」
事は一刻を争う。
とにかく依頼所へ、と、ドラクラス2階の依頼所を目指していたアキラは、突如として響いた金切り声に足を止めた。
振り返れば以前依頼で行動を共にした『智の賢帝』シャロッテ=ヴィンテージが両拳を握ってこちらを睨んでいるのを見つけた。
長めの前髪のせいで大きな瞳が半分隠れているが、目尻にきらりと光る何かを見つける。
気崩したジャケットとハーフパンツで決めており、相変わらず身なりに気を遣っているようだが、顔を見ると少しやつれているように見えた。
「お、お久しぶりですね、アキラ氏」
「あ、ああ。シャロッテも元気そうで……、いや、疲れてないか? 最近依頼、めちゃめちゃ請けてそうだったけど、そのせいか?」
「わ。まさか依頼所で私の名前を気にして?」
「よくすぐ分かるな、そうそう。結構指定されてたから」
「ま、まあ、多少高度な依頼が多かったですからね。私には少々退屈なくらいでしたが」
「相変わらず凄いな、指定されるのも納得だよ。心配してたけど、大丈夫そうでよかった」
「えっへへ……、んっ、んんっ。ま、まあ、ご心配おかけしたようで」
最初は疲れているのかと思ったが、話してみるとシャロッテからは気の強さを感じた。
流石『智の賢帝』の通称が付いているほどの魔術師である。
そして彼女はその大きな瞳を、アキラの背後にゆっくりと向けてきた。彼女の気配が鋭さを増した気がする。
「ところでアキラ氏。……そちらは?」
アキラと共に歩いていたイスカ=ウェリッドが警戒しながらシャロッテと向き合った。
大通りの人混みに入ろうとした途端、魔導士隊を警戒し、アキラから離れぬようぴったりと張り付くように歩いていたイスカは、シャロッテがどういう立場の人間か見定めているらしい。
「イスカ、シャロッテはいい人だから。ほら、怖くないって」
「……私を何かと勘違いしてませんか?」
警戒する犬のように扱われたのが不服らしい。
イスカは今、最近見慣れてきた給仕服ではなく、出会ったときのタイトなスーツを身に付けていた。
依頼を請けにいくと言っているのに不釣り合いな格好だが、下手に聞いて、まともな外出着がこれしかないという返答でまた火傷をした。
「私のことはお気になさらず。しかし旦那様。お話し中失礼ですが、ご予定の方は?」
「え? あ」
どうやらイスカは一歩引いて、自分たちの話を待っていただけらしい。
妙なところで律儀である。
だがその律義さに救われた。
「悪いシャロッテ。俺たち急いでいて」
「だ、旦那様……? あ、ああ、従業員の方でしたか。なるほど、買い出しですかね。宿を購入されたそうで」
「なあシャロッテ。俺の個人情報って、ドラクラス中の常識になってんのか?」
魔導士隊に警護団に『智の賢帝』と、話している相手が特殊なだけかもしれないが、自分の身の回りで起こったことがドラクラスにはあっという間に広まっているような気がする。
顔を合わせていなかったシャロッテが当たり前のように話してくると、自分の朝食のメニューすら広まっていそうで怖くなってきた。
「そういうわけではないでしょうが、私も私の情報筋を持っていまして。脚色された情報もありますが、ま、まあ、多少は知った仲ですし、取捨選択は容易ですかね」
「そうか。じゃあその情報筋からもうすぐ、俺の家が襲撃されたって来るかもしれないけど、嘘だからな」
「は?」
イスカが青い瞳を泳がせ震え始めた。
そしてアキラも目を細める。
問題がもうひとつあることに気づいてしまった。
今、アキラの家は門が吹き飛んでいる。
その場に居合わせた職人たちに無理を言って、応急処置はしてもらったが、本格的な修理はやはりそれなりの業者を呼ばなければ不可能らしい。
金を集め、仲間たちが戻ってくるまでに門を直せばいいと依頼所へ急いでいたのだが、ドラクラスでの噂は物理的なものではないだけに対処しようがない。
戻ってきた彼女たちの耳に入ろうものなら、何を言われるか。
「なあシャロッテ。このドラクラスで、噂を消すにはどうすればいいかな?」
「……アキラ氏。何をしたんですか」
流石に『智の賢帝』。完璧な危機管理能力である。
自分が良からぬことに巻き込まれかねないのを機敏に察知していた。
彼女は賢人に相応しく合理的な行動を取る人物だ。彼女を口説くのはそれこそ合理的ではない。
となれば門と庭の修理だけでなく、噂の方も、金さえ積めば常人にとっての不可能すら実現する、情報の魔人を頼ることになる。
だがそのためにははたしていくら必要なのか。
「いや、悪かった、巻き込もうとして。近日中に多分大金が必要でさ」
「……」
「依頼で稼ぐつもりだからな?」
シャロッテが、一歩後ずさった。心の距離もさっきよりずっと離れた気がする。
「? って、依頼? 宿の買い出しではなく?」
「あ、ああ。ちょっと複雑な事情で」
「旦那様、旦那様」
くいくいと裾を引かれ振り返ると、イスカが暗い顔でシャロッテを警戒しながら囁いた。
「依頼所へ急ぎましょう。……なんか、あの人に、睨まれている気が」
そんな馬鹿なとシャロッテを見ると、睨むとは言わないまでも、何故か不満げな表情を浮かべている。
『智の賢帝』だ。アキラと話しながらも難しいことを考えているのかもしれない。
だがその様子が、慣れていないイスカには異質に見えるのか、シャロッテから一定の距離を取り続けている。
いやもしかしたらと、アキラは改めてイスカの顔を見た。
綺麗な青い瞳が、視界いっぱいに広がる。
見惚れかけたが、この特徴的な青い瞳は目立つ。シャロッテのことだ。『雪だるま』イスカ=ウェリッドを知っていてもおかしくはない。
イスカは視線に敏感だ。シャロッテの視線に何か感じているのだろう。
「アキラ氏。……く、口を挟むのもどうかと思いますが、そういう態度はマリサス嬢がいい思いをしないのでは?」
「え? マリス? マリスがなんだって?」
「……へ」
刺々しく何かを言われたが、別の角度からの言葉な上、マリスの名前が出て、アキラは思考停止した。
だがそれと同時、シャロッテが本当に珍しく、思考停止したかのようにぽかんとした。
口に手を当て、しばらくすると、瞳にはっきりとした動揺が浮かぶ。
「だ、だって、……あ、れ、え。ま、まさか、そ、そこまでは……? そんなことが、あり、える……?」
「?」
また何かを考え始める。
何でも人任せのアキラと違い、自分で考えて自分で正しい結論を下せる人物だ。
そんな彼女の様子を見ていると、アキラも反省すべき部分なのだろうが、案の定、心のどこかで、目の前の賢人に頼る甘えが出てきてしまった。
またイスカから裾を引かれたが、アキラはなだめるように強く頷いた。
ひとつ思いついたことがある。
これから自分たちは依頼所へ行って割のいい仕事を探すことになり、1秒でも時間は惜しい。
しかし、修理以外にも金がかかる可能性がある今、ドラクラスの暴力的な依頼数を前に割のいい仕事を探すなどそれだけでタイムオーバーになってしまうかもしれない。
ゆえに。
「シャロッテ」
「は、はいっ?」
「? いや、シャロッテと会えてよかったって思って」
「え。え。そ、そ、それは、どう、いう……?」
「さっきも言ったけど、入り用でさ。シャロッテの目利きで、割のいい依頼を探すのを手伝ってもらえないか?」
「……」
依頼で忙しくしている彼女に頼るのも心苦しいが、有事である。
あらゆる物量が他の街の規模と違うドラクラスでは情報が物を言う。
『智の賢帝』であるシャロッテ=ヴィンテージは、アキラの想像を超えた知力を持つのだ。
その知力は、アキラと旅の魔術師の依頼の経験が浅いイスカでは数日かかる作業を一瞬に短縮してみせるだろう。
イスカからまた裾を引かれる。
だが、ここはイスカに折れてもらうしかない。
「イスカ。俺たちだけで何とかしようとしてもどこかで限界が来る。シャロッテに協力してもらうのが、俺たちが生き残る唯一の道だ」
「私の場合比喩なくそうなのが笑えないんですけど、わ、分かりました」
「あの、アキラ氏。何を企んでいるんです?」
イスカが渋々頷き、そしてシャロッテの表現は一層刺々しくなった。
彼女の警戒心が最大級になったのを感じる。
自分の頭を働かせていないアキラは彼女からすれば滑稽だろう。本当に悲しくなってくる。
「……駄目、そうか? ま、まあ、そうだよな。く。仕方ない、か。時間取らせて悪かった。まあ、俺らが請けられるような依頼なんて知るわけないか」
「知らないとは言っていませんが?」
シャロッテが間髪入れずに反論した。何やら禁句を言ったような感覚に陥る。
シャロッテが請けるような高度な依頼はアキラやイスカには無理だと思い直したのだが、彼女の頭の中には自分たち凡人向けの依頼もリストアップされているのかもしれない。
「私が最近請けている依頼ですが、一応」
「え? でもシャロッテが請けるような依頼だろ? めちゃくちゃ頭よくなきゃ無理なんじゃ?」
「ふ、ふふ。ん、んんっ。いえアキラ氏。そんなことを言うものではないですよ。ま、まあ、多少そういう面もありますが。場所はネーシス大運河近辺。内容自体は設備点検の護衛です。重要な設備なので、報酬はそれなり。募集は乏しくなりつつありますが、私の推薦があればひとりやふたり参加可能でしょう。ただ、1日2日は泊りになるかもしれませんが」
「うわ、マジかよ助かる。それくらいなら泊りでもいいよ、ふたりお願いできるか? 本当にシャロッテに会えてよかった。やっぱ凄いな」
「ふ、ふ、も、もう、そうやって持ち上げても何も出ませんよ?」
「お世辞じゃないって」
持ち上げていたつもりはややあったし、割のいい依頼は出てきたのだが、実際アキラはシャロッテに感心し切っていた。
まさかドラクラスの依頼に口出しできるほどの信頼を勝ち取っているとは。
泊りとなるとフェシリアにはあとで謝る必要があるが、事態が事態だ。
そして、遠視の方は。
「―――、」
アキラの視界が一瞬揺らいだ。何かを言ったシャロッテの声がぼやけて聞こえる。
魔門破壊の遠視を、何故か、“問題ではないと思った”。
「アキラ氏?」
「……え? 何か言ったか? 悪い、聞きそびれた」
「? ですから、ふたりと言いましたか?」
「あ、ああ、俺と彼女を。駄目そうか?」
「いえ、別に構わないですが、……アキラ氏。その前に」
シャロッテがこほりと咳払いし、またちらりとイスカを見た。
「そちらの彼女。アキラ氏にとって、ただの従業員、なのですよね?」
「ただの? あ。……た、ただの民間の従業員、だぞ?」
また警戒し出したイスカを隠すように立って頷くと、今度はアキラをじとりと見てきた。
やはり何か感づいているのか、悟られぬようにさらりと返すと、シャロッテはまた何かを考えるように目を細める。
「ま、まあ、従業員と言っても、一応旅の魔術師の依頼は経験したことある。……さっきも聞いたけど、依頼、請けていいのか?」
「え、ええ。今回ばかりは完全に私が悪いです……」
濡れた仔犬のように項垂れるイスカを見ていると、彼女の言う通り彼女が原因なのだが、見捨てる気にはなれない。
依頼を請けるのは彼女にとって忌避する行為であるらしいが、今回は事情が事情だ。本人が言い出した以上、アキラも強くは止めるつもりはなかった。
「まあ、言っちゃうと、彼女がちょっと宿の方で物壊しちゃってさ。その弁償代稼ぎたいんだよ。俺にも原因が無いとは言えなくて」
「……ふうむ」
下手な隠し事をしても彼女の前では通じないらしい。
イスカの詳細は伏せたが、諦めて手持ちのカードを少し千切ってすべて切ると、シャロッテはようやく得心のいった顔で頷いてくれた。
「ふ。ふふ。……アキラ氏。相変わらずのようですね。分かりました、ご紹介しましょう」
「やった、助かる。な、イスカもお礼言ってくれ」
「ありがとうございます……!」
シャロッテを警戒していたイスカだが、話が通ると、まるで救世主を見たような輝いた瞳で見つめ始めた。
たまに感じるが、彼女は優しくされるとすぐに人を見る目が変わる。将来が不安になった。
「じゃあ、シャロッテ、疲れているところ悪いけど、紹介だけお願いできるか」
「ええ。分かりまし……、……いえ。私も依頼にご同行します」
「え?」
シャロッテは、こほりと咳払いした。
「私も懐事情がありまして」
「あれ。でも依頼で稼ぎまくってるんじゃ」
「……ちょ、貯蓄を考えますともうひと稼ぎ欲しいところだったんです。実は今日もこのあと依頼を請けようかと思っていたところでした」
「そうだったのか、ますますすごい偶然だな。……っし、シャロッテに会えたのは運命だったのかもしれない……!」
「……」
たまたま予定が同じだったらしいシャロッテに会えたのはまさしく奇跡だ。
輝いた顔でイスカに視線を送ると、彼女はふと気づいたようにシャロッテを見つめ、そしてぎょっとしたような青い瞳をアキラに向けてくる。
「で、ではあちらの依頼所で落ち合いましょう、か。身支度を整えてから集合ということで」
「ああ分かった。マジで助かったよ、シャロッテがいるなら心強い。本当に会えて良かった」
「っぅ……」
少しだも機嫌を取ろうと、言葉を尽くして精いっぱいの感謝の気持ちを伝えたが、それでもシャロッテは背筋を凛と伸ばし、冷静な所作で離れていく。
彼女の宿も2階なのだろうか。
最初に見たときは疲れ果てていたように見えたのにまだ稼ぐとは。ヨーテンガースの旅の魔術師はやはりタフさが違う。
「九死に一生を得たな。シャロッテも依頼に行こうとしてたなんて。俺たちツキが回ってきた。来てるってやつかもしれない」
シャロッテに感心しながら、生まれた余裕で、イスカが言いそうなことを冗談交じりに言うと、イスカが先ほどから向けてきていたいつも綺麗な青い瞳が、やや濁っていることに気づいた。
「……私、あなたのことが少しだけ分かってきたわ」
「はい?」
―――***―――
―――出迎えご苦労とでも言われると思ったか?
―――酷いな、『剣の勇者』様にとっちゃ散歩気分の砂場でも、俺にとっちゃ生きるか死ぬかの場所だ。待ってる間、生きた心地がしなかったよ。
―――下らねえ呼び方に下らねぇ冗談だな。で、なんだ?
―――魔導士隊からの伝言だ。お前がここに入らないように見ておいてくれって。何人かはもう入っていることに気づいてただろうが、その場合は釘差しってことだろう。
―――また魔導士隊の真似事か。それをこの場に来てまで言うってのは大した勤務態度だなあ、おい。他にもあんのか?
―――……ああ。明日出発らしい。もっと様子を窺うつもりだったけど、天気が安定しているとさ。
―――安定? ……はっ。まあいい。荷物も来るなら多少は楽が出来るか。“俺についてこれるならな”。
―――それならお望み通りの奴とバディだ。……まあ、お前が何をしてようと俺は知ったこっちゃない。魔門を破壊してくれりゃ文句は無いよ。エリサス=アーティは気合入ってたぞ?
―――ならあの赤毛がやんだろ。下らねぇレースだ。
―――レース気分じゃ本当にエリサス=アーティがやるかもな。
―――そっちじゃねぇよ。ここと、“川の方”だ。
―――……どこで分かった。
―――お前がちょろちょろしてんのが目に付いただけだ。……まあ、茶番は茶番でも、お前より鬱陶しい奴らをついでに潰せるか。
―――酷い言い草だが、……そうだ。十中八九出てくるだろう―――『光の創め』が。“だからこそ”、俺は魔門破壊の方に力を入れる。
―――……はっ。お前が何をしようとしているのかは興味もねえが、“ここも踏み台か”。
―――……頼んだぞ。
―――依頼は依頼だ。仕事はしてやる―――俺が飽きるまでだがな。




