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おんりーらぶ!?【第二部】  作者: コー
中央の大陸『ヨーテンガース』 ドラクラス編
64/68

第68話『光の創め11---幕間-起こっていたこと---』②

―――***―――


 自分の中に渦巻く感情を、イスカ=ウェリッドは言語化できない。


 『雪だるま』の事故。いや、事件のことはよく覚えていなかった。

 イスカにとって、目を背け続けたい許されざる行為であるからだ。


 世間一般に広まっている噂についても避け続けているが、概要は知っている。

 あの事件は、正当防衛として処理されているらしい。

 だが、汚物に振れるように固く閉ざしたあの日を振り返ると、イスカ=ウェリッドは何度でもこう答える。


 『雪だるま』イスカ=ウェリッドは、意志を持って人を殺したと。


 今ではまっぴら御免だが、幼少期、イスカは旅の魔術師として世界中を周るのが夢だった。


 今振り返れば家庭環境が影響していたのかもしれない。

 母は他界し、父は仕事で年中家を空け、何かしらの事情があったらく、親戚との関りも希薄。幼きイスカは、入れ替わりの激しい教育係や使用人とのみ言葉を交わし、自分だけが住む家の窓から見える外の景色が、きらきらと輝いているように感じていた。

 そんな狭い世界の中、時折気まぐれに買いに走った漫画や小説などの娯楽の本の登場人物を、当時認めていなかった寂しさを埋めるように真似て遊んでいた覚えがある。


 そしてそのついでに、適当に選んだ魔術の文献も真似てみて、上手くできると、ひとり悦に入っていた。

 ほとんど誰にも教わっていない魔術も難なく習得でき、ときには応用し、独自にアレンジまで加えられ、イスカにとっては広すぎる家の中、もしかしたら自分には才能があるのではないかと少し調子に乗っていたかもしれない。


 雇われの使用人は当然イエスマンだ。家に自分を理解しようとする者はいない。

 末は魔導士とまで言われたが、イスカの冷めた部分がその賛美を素直に受け取れず、むしろ窮屈に感じた。

 その結果、今では喉から手が出るほど欲しいが、安定した仕事である魔術師隊より、世界中を相手に大冒険をする旅の魔術師というものが、窓の外の景色と重なり、やはり、きらきらと輝いて見えていたのだ。


 そんな折、父はイスカが旅の魔術師になるのは反対である、と、使用人の伝手で聞いた。

 直接言われていたら何かが変わっていたのかもしれない。

 あまり口出ししてこなかったのも手伝って、イスカは依頼所で依頼を請け、見て見ぬふりをする使用人の監視をかいくぐり、小さな冒険を積み重ねていった。

 何不自由なく生活しながらも、子供の頃から大人と同じように仕事をする自分だけの冒険は、思い描いていた通り、輝いたものだった。


 父であるヴァリス=ウェリッドは多忙な研究者で、イスカは彼のことをほとんど知らない。

 本能的に恐怖を覚えていたのか、時折、ファンツェルン家の催しに同行するときも、自分の将来について語ることもできなかった。


 そんな日々を過ごし続けた先にあった、“あの日”。

 イスカは理解したことがある。

 使用人からも、他の旅の魔術師からも、貴族の娘だったお陰で、ちやほやと持て囃された、自分にある魔術の才能。


 それは、紛れもなく“本物”であったのだと。


 それは父から、旅の魔術師としての依頼が来たのがきっかけだった。

 以前イスカが旅の魔術師になることを反対していると言っていたらしいが、それを伝えてくれた使用人はもういない。

 心境の変化か、依頼をこなすイスカを認めてくれたのか、その真意は分からない。

 複数人の旅の魔術師と共に、父の、いや、“ヴァリス=ウェリッド”の護衛を依頼されたのだ。

 久方ぶりに見た彼の顔を前に、イスカは、嬉しさも、気恥ずかしさも、そして後ろめたさも覚えなかった。


 依頼内容は、ヴァリスが普段滞在していたらしい、シリスティアの僻地にある別荘のような場所への同行、およびフィールドワークの警護だ。

 森林の中に立つ、研究所とは名ばかりのロッジのような建物で、他の面々が流石は貴族様だとくつろぐ中、自分がまるで知らなかった快適なその空間で、イスカは小さな怒りを覚えた、“覚えることができた”記憶がある。


 そして夜。ヴァリスから個別に“指示”を請け、イスカは森の中、別荘から離れた洞穴まで連れていかれた。

 嫌な感覚はそのときからしていた。

 自然物とも人工物とも取れない、奇妙な洞穴は、腹の内に漆黒の闇を蓄えた獰猛な巨獣の口のようにも見え、しかしその中に、ヴァリスは躊躇なく入っていく。

 思わず呼び止めようとしながらも、言葉が見つからなかったイスカは、指示通り、洞穴の前で待機していた。


 それからどれほど時間が経ったのか。

 恐らくここがヴァリス=ウェリッドの本命の研究所であるという考えに至ったイスカが、ぼんやりと夜空を見上げていると、洞穴の巨獣が雄たけびを上げたように、地獄の底から響き渡るような叫びが轟いた。


 弾かれるように洞穴に入り、僅かばかりうねった道を貫くように進むと、見たことのない機材や書類が乱雑に散らばる奥の開けた空間が、かっと燃えるような熱い空気で満たされていた。

 やはり研究所だったらしいその空間の中央にうずくまるヴァリスは、悶え、もがき苦しみ、

聞いたことも無い声色で呻き続けていた。


 中の景色はほとんど覚えていない。

 彼がそこで何をしていたのかも知らない。

 自分が何を考えていたのかも覚えていない。


 だが、切り取られたようにはっきりと見える、悶え苦しむヴァリスに、イスカが咄嗟に駆け寄ると、腕を払われた。


 それだけで、“腕がひしゃげた”。


 激痛すら感じぬ僅かな動揺の隙に、ヴァリスに押し倒された。

 研究職の民間人とは思えない、万力のような力で組み敷かれ、“そういう意図”があったのかは知らないが、紙切れのように防具入りの服が破かれた。

 そして馬乗りになったヴァリスが、叩きつけるように腕を振り下ろしてくる。


 すべて、はっきりと、見えていた。

 獰猛な獣のように、相手の腕を折り、組み敷き、本能の歓喜に歪む、ヴァリスの顔―――“高がこれだけのことだというのに”。


 そしてイスカは世界を“凍らせた”。


 どういう魔術なのかは知らない。

 イスカ=ウェリッドは、希少な土曜属性である。

 その希少さゆえに、土曜属性の者が参考にできる文献は数少ない。

 例えば子供が、何の気なしに向かった本屋に詳しい資料があることなどほとんどない。


 幼きイスカが参考にしたのは、世界で最も多い水曜属性の文献だった。

 その人数ゆえに、魔術という分野の最先端を突き進む水曜属性の書物は、そのせいで一層他の属性の書物の取り扱いが少なくなるほど、他の属性にとっても大いに参考になる。


 だが当時、学ぶためにというよりは、趣味の範疇の興味本位で手に取ったイスカにとっては、どの属性であろうが関係なかったかもしれない。

 専門的な資料よりも、荒唐無稽な魔術の理論を綴った、挿絵の多い本に目を輝かせていた。


 それはほとんど絵本だったが、“それが出来た”。


 難しい理論など理解せず、感覚に頼って再現できたのは、水曜の魔術師が研究を進めた“他属性の模倣”。

 物理的な耐性に優れる金曜と、魔術的な耐性に優れる土曜の力を“同時”に模倣すると、どうやら“凍結”という事象を引き起こすらしい。

 他属性の再現というのは、細かな制御は特に困難で、使い物にならないほど魔力を消費する。

 資料の筆者ですらさじを投げた夢物語の魔術が、イスカの目の前で発生する。


 酷く非効率なその大規模魔術は、それでも、今まで出遭ったすべての敵を封殺したイスカ=ウェリッドの切り札だ。


 その魔術でヴァリスの胸を撃ったイスカは、即座に立ち上がり、“それ”と対峙する。

 必殺の一撃を受けたヴァリスは、身体を凍り付かせながらも、しかし、立ち上がっていた。

 洞穴に詰まった熱すら奪い去り、粉々に吹き飛ばしたというのに、彼自身は、粉々になっていなかった。


 イスカは自分が動揺していることは自覚していた。

 突然ヴァリスが襲ってきたからか、腕を折られたからか、服を引きちぎられたからか、それとも、自分の魔術を受けて動いている生物を始めて見たからか。

 それは分からない。

 そのときのヴァリスの表情は覚えていない。

 自分がどんな表情を浮かべていたのかも、覚えていない。


 だが、はっきりと覚えているのは、“自覚できる程度の動揺だったことだ”。


 ヴァリスは動いてはいるが、ただ生きているだけ。

 恐怖も動揺の奥で抑え込まれ、粉雪のように舞う洞穴や研究資料の残骸が、星明りの下に舞う光景もはっきりと見えた。


 腕が、鋭い痛みを発した。

 目の前には、“敵”がいた。


 自分が考えたこと、思ったことが、言語化できない。


 その敵が、詰め寄ろうとした。

 だから、足を砕いた。


 その敵が、掴みかかろうとした。

 だから、腕をもいだ。


 それが何故かは説明できない。

 淡々とした脳の命令を、身体が実直に遂行する。

 恐ろしく簡単だった。


 その敵の顔が、その自分と同じ青い瞳は、いつの間にか恐怖に染まっていた。


 騒ぎを聞きつけたのか、誰かの声が聞こえる。


 見られることに抵抗があったのか。

 もしかしたら多少は気が高ぶっていたのか。

 自分を突如襲った“敵”が許せなかったのか。


 そこで、故意にだ。

 粉雪の舞う夜、目の前の、その雪だるまの、首を撥ねた。


 記憶の中、場面は飛んだ。


 深夜にもかかわらず魔術師隊が詰めかけ、至る所を蟻のようにはいずり回っている。

 誰もが粉々に吹き飛んだ洞穴に絶句する。

 想像を絶する力を持っていると動揺する。

 魔術に精通する魔術師の誰もが、イスカ=ウェリッドが紛れもない化け物だと認識する。


 気分は、最悪だ。


 治療を受けながら座り込んでいたイスカは、漠然と思った。

 ヴァリスには特に思い入れは無い。

 研究者でしかないはずの彼が不可解にも暴走し、突如としてイスカを襲った動機についても、解き明かしたいと思わないほど、彼は他人だった。

 だからそのとき、イスカが思っていたのは、ひとつだった。


 人を、殺した。


 そうでなければ殺されていた、“わけではない”。

 たかが民間の研究者だ。戦闘で“化け物”と渡り合えるわけがない。

 無力化した時点で、完全に決着はついていたはずだったのだ。


 だが、世間知らずで旅の魔術を気取っていた自分は止め時も分からず、“つい”人を殺した。


 イスカは動揺したまま、魔術師隊の質問に、包み隠さず真実を話した。

 質問は事件のことだけではなく、イスカが知らないヴァリスの普段の様子や活動範囲にまで及び、何度も何度も繰り返されていると、イスカにようやく、“父”を殺したという実感が沸いてきた。


 その場では家に帰されたイスカはひとり、朝日の差し込める窓をぼんやりと眺めた。くすんだ窓の向こうには、泥のような濁った世界が見える。

 悲しみも、衝撃も、動揺も、後悔も、あらゆる感情が混ざり合い、打ち消し合ったように、何も感じず、何も覚えられない。

 ただ、成長して身体も大きくなったと思っていたのに、家が広いとは感じた。


 そんな灰色の世界の中、後日、魔導士だか魔術師だかが調査報告をしにきたとき、麻痺した心が動いた気がした。

 漫画や小説の物語の人物たちのように、潔く覚悟を決めたと思っていたのに、殺人犯に下される処罰を前に、今すぐにでも逃げ出したいと思ってしまった。

 正直に話した自分を後悔した。

 自業自得だと言うのに、足元に縋りついてでも許しを乞おうと思ってしまった。


 事故と処理されると聞いて、イスカは心の底から安堵した。してしまった。

 伝達齟齬か、調査不足か。魔術師隊がミスをした。そう感じ、これ幸いと慌てて旅に出て、行方をくらまそうとした。


 イスカ=ウェリッドは知っている。

 あれは正当防衛ではない―――“過剰防衛”だ。

 旅の魔術師と民間人など、戦闘力では大人と赤子ほども差がある。

 赤子に抱き着かれただけで、大人が赤子を投げ飛ばしたら、それは正当防衛とは決して言えない。


 イスカ=ウェリッドは知っている。

 人をつい殺し、いざ罰されそうになると醜悪な心が最初に顔を出し、相手のミスに付け込んで逃げ出すような人間は、きらきらと輝いているとは決して言えない。

 そして、今からでも罰されてでも取り返そうとは、醜悪な自分は思わない。

 自分は、魔術師たちが探していても、正直に話したのに事故と処理したのはそちらでしょうと言い訳を用意して、逃げ続ける狡い人間だ。


 誤りを犯しても、真正面から受け止め、それでも前へ進む。

 自分は、そんな立派で輝いた人間ではない。

 自分は自分の憧れた旅の魔術師にはなれる存在ではなかった。


 いかに魔術の才能があろうが、いかに化け物だろうが、何の心構えもできていない自分には、何の価値も無い。

 ぼんやりと、目標も無く、民間の職に就こうと決めた。


 そんな日々の中、大きな家と使用人に囲まれた生活をしていたイスカ=ウェリッドが、方々で働き、分かったことがある。


 父はまるで家におらず、イスカにもほとんど無関心のようだった。

 それでもイスカに、何不自由ない生活をさせてくれていた。


 “それがどれほど大変なことだったのか”。


 自分で殺してしまった肉親に、尊敬も、愛も、今さら覚えない。覚える資格は自分には無い。

 それでもイスカには、夢が出来た。


 あの件は、噂では『雪だるま』の凄惨たる殺人となっているが、正式には、ヴァリス=ウェリッドが暴走した末の正当防衛として処理されているらしい。

 ウェリッド家は貴族としても、その地位を永遠に失った。


 今さら父の汚名を漱ごうと言えるほど面の皮は厚くないが、“本当は自分が終わらせた”ウェリッド家をそのまま放ってはおけない。

 だから自分が稼ぎ、名を上げ、どういう形になるかはまだまだ見えないが、ウェリッド家を新たに形作りたいと思うのだ。


 自分の中に渦巻く感情を、イスカ=ウェリッドは言語化できない。


 あのとき父を何故殺したのか。

 危害が加えられて実は頭に血が上っていた。娘を放り、時に利用し、快適な自分の居場所を作っていた父に対する当時の恨みがそうさせた。実は父の愛を本能的には求めていて、襲い掛かられたことに裏切られたような気持になった。

 どれでもあるとも言えるし、どれでもないとも言え、もう確かめようもない。


 旅の魔術師にならないのは自分の力を振るうことに対するトラウマなのか。きらきらと輝いた存在に対する潔癖さとも言える禊なのか。

 どれでもあるとも言えるし、どれでもないとも言え、もう確かめようとも思わない。


 旅の魔術師である自分を否定しつつ、旅の道中、何故依頼を請けたのか。

 生活に貧窮したからか。醜く狡い自分の心が、自分の魔術の力に依存したくなったからか。

 どれでもあるとも言えるし、どれでもないとも言え、今はもう二度とやろうとは思わない。


 殺人を犯した自覚はある。

 それが罪だと認識している。

 だが、罪を償おうとすると、足が震える。

 逃げてはならないことだと理解しているから、人に聞かれたらはっきりと自分が殺したと言うのに、自分を捕まえようとする相手の前では尻尾を撒いて逃げてしまう。


 すべてが中途半端で、曖昧で、自分に都合のいいことばかり選ぶ自分は、やはり輝いてはいない。

 読んだ漫画や小説は、もっと、一言で表せられるような、熱い意志や感情を持っていたというのに。


 自分の意志や、感情は、他人に説明できるものではない。

 だから理解を得られない。

 では自分はずっとひとりなのか。

 口に出さない感情を、人に察することを要求するのは傲慢ですらなく、不可能だ。


 ゆっくりとでも、吐き出さなければ、自分の理解者はついぞ現れないことになる。


 だから、もしかしたら自分に渦巻く感情を、ひとつだけ言語化すれば。


 誰かに話を聞いてもらいたい。

 それだけを思っているのかもしれない。


―――***―――


「ここまで集まるとは思わなかった。ルックリンが気合でも入れたか?」


 アキラたちはドラクラス中央、ゲートと言われる柱の近辺を訪れていた。


 ドラクラスの最初の引っ越しにかこつけて始まったらしい祭りは期間として1週間超は続いており、本日が最終日。

 連日騒ぐ民衆も流石に飽き、下火になっていくかと思っていたが、この街には経済を統べる魔人がいる。

 稼ぎ時は逃さないとばかりに方々の商店が順繰りに出店し、日々違った出店が並んでいた。


 経済を統べる『三魔人』ルックリン=ナーシャが、祭りという火種に薪をくべ続け、この最終日は、今まで日ごとに分けられていた店がほとんど出店しているドラクラスの祭りの集大成のようだ。

 商魂逞しい“多数”精鋭の出店の面々は屋台を道という道に敷き詰め、声を張り上げ客を呼ぶ。


 ゲートの方では何かイベントでもやっているのか、人が長蛇の列を作り、出店で立ち止まっては押し合い、徐々に流れていく。

 むわっとした熱気と騒音の中、ドラクラス中の民衆が集う光景に、アキラはおぼろげに、元の世界の初詣での混雑具合を想像した。

 最後尾にいる自分たちが目的のゲートまで近づけていないのも、その想像に拍車をかける。


「で、どうすんだよ」

「突っ込む以外ないだろう。このまま順番待ちしていてもな」


 ジェットが人の隙間を探り、何度も諦める仕草をしていた。

 これだけ混雑していれば警護団ご自慢の監視もまともに機能していないだろう。

 だが、この混みようであれば、“物”を運ぶ必要がある強盗犯の方も動きが取り辛いはずだ。

 集まった人が想像以上で、先ほど使おうとした物販路の方も浸食されるように民間人で溢れていた。

 だが逆に言えば、この祭りのどこかに、これほど集まった民間人を脅かす大量の魔力の原石がある可能性があるのだ。


「はー、そんなに前に行きたいなら望みを叶えてやろうかしらこいつら」


 雑踏に紛れ、どすの利いた声が聞こえた。

 振り返れば、エレナが困ったように頬に顔を当て、唇を尖らせている。

 声が聞こえたアキラからすると、あまりの混みように不機嫌になったエレナが人を放り投げかねないと戦慄する光景なのだが、民衆には祭りで友人と逸れ、心細く困り果てている姿に見えるらしい。

 いつしかアキラたちの後ろからも集まってきた人々が時折立ち止まり、渋滞を悪化させていた。


 そしてその隣、エレナに言われ、より一層目を離さないようにしているイスカ=ウェリッドは、エレナ同様、凛とした佇まいながらも、その青い瞳で出店の串焼きをちらちらと落ち着かない様子で見ていた。

 危険人物の居る可能性のあるこの祭りで、意図せず逸れかねないという意味では、彼女も戦慄する対象である。


「……ユフィ。祭りに到着した。交通整理はどうなっている?」


 ジェットの声が騒音に紛れて聞こえた。彼は仲間と連絡を取り合っているらしい。

 こうした騒ぎになるのであれば、警護団も活動しているだろう。

 元の世界でも、祭りの裏方で働いて、怪我やトラブルを防止してくれる人たちがいた。


 だが、アキラたちの目的は祭りを楽しむことでは無い。

 この場に大量の原石があるのはあくまで可能性だが、当たっていた場合、危険が及ぶ人間が多すぎる。

 大して進めていない現状に焦りながらも、出店している店や道に、不審な箱や袋が無いか目を配らせていた。


『……はあ……はあ……はあ……、』


 そこで、どこからともなく艶めかしい声が聞こえた。

 騒音の中でも、よく声が通る“機能”である。

 視界の隅で、子供連れの女性が、機敏に察知し、子供の耳を塞ぐべきか思案している姿を拾った。

 ドラクラスではよく見る光景だ。


『えー、今大変混んでいますので、変更します』


「……ユフィ。……分かったこっちはいい。ミルバリーとやり取りしてくれ」


 ジェットがはっきりと苛立っていた。

 もしその魔術が電話なら、地面に叩きつけていたかもしれない。


『……はあ。あ、違う、これ読めって言われた気がする。……。えー、ドラクラス警護団からのお知らせです。現在1階中央ゲートで実施予定のイベントですが、混雑状況の緩和のため、開催の日程が変更となります。本日中止となるイベントを次に読み上げます。抽選くじ、……えっ、これもそうなの……? 楽しみだったのに……。あ、ええと、変更日につきましては明日以降、お近くの伝言掲示板にてお知らせします。ご不明点がございましたら、お近くの警護団員までお問い合わせください。……よし。ふう、急に呼び出すんだもんなあ……。ふんふふー、お祭りに戻……、ん? あれ、ユフィ? ……ええ!? 今日はここにいろって……、あ、』


 ブ、という音と共に、ミルバリー=バッドピットの放送が終了した。

 何やら企画されていたイベントの日程変更になるらしい。

 ごちゃごちゃしていて要点が分からないと思っていたところで、再度放送が流れる。

 今度こそまともに流れた放送が、ゲート付近で企画されていたらしい、くじ引きと、演劇と、余計な感想を言うせいでやっぱり何かよく分からなかったいくつかの何かが、本日中止となったらしい。


 だが、列を形成していた幾人かが、軽く肩を落として引き返してくる。

 イベントのみが目当ての者はこの祭りから離れるだろう。それでも祭りを楽しもうとする者は減らないが、多少は混雑緩和になっただろうか。


「焼け石に水ってところだな。だがそれでも、同じ時間俺らが前へ進む分よりは効果があったらしい」

「ジェット。連絡先は何だって?」

「交通規制はしているが、西側が地獄らしい。むしろこっちは健全なんだとさ。救護隊が行き来してないだろうってよ」

「凶悪犯より問題起きてるじゃねえか。ドラクラスの治安はどうなってんだ」

「この騒ぎはルックリンが掌握している案件だ。むしろあの婆さん相手にイベントを潰した警護団はよくやっている」

「そりゃ事態が事態だから首を縦に振るだろうよ」

「……」


 このドラクラスにいる『三魔人』は、それぞれ別の目的で動いている。

 薄々は感じていたことだが、治安を守る警護団と、経済を回すルックリンでは対立することもあるのだろう。

 ルックリン=ナーシャという人物は、アキラが最も関わった『三魔人』である。

 非道というわけではないと思いたいが、同時に、この混雑の被害が多少なら、自分で来たんだから自己責任、ドラクラスとしてもむしろ医療費が流れるだろうと言い出してもおかしくは無い。


 だが、この中に野放しの凶悪犯と魔力の原石があるとなれば話は別だろう。

 ジェットを見ると、彼からひしひしと焦りを感じた。


「少し様子を見れば人は減るんだよな?」

「多分な。だが、そうだな。……まずいかもしれない」

「は?」


 呑気に混雑緩和を見守っている場合でもないが、ジェットの視線がさらに鋭くなり、落ち着きなく周囲を睨みつけるように探っていた。


「イベントを潰した決め手の交渉材料は、さっきの俺らの推測だったらしい」


 下手に口に出すわけにもいかない推測。

 しかし、やや声量を落としていても、ジェットの声はアキラにはよく聞こえた。


「ルックリンに限らず『三魔人』はただの可能性じゃ動かない。魔導士隊が言おうが警護団が言おうが、ただの噂や思いつきに右往左往するような連中じゃないんだ。確信……、もしくはせめてそれに近い状態にならなきゃ聞く耳すら持たないだろうよ」

「交渉に応じてくれたんだからいいことじゃないか。……いや、“悪いことなのか”」


 ジェットは苦々しく食いしばった。

 自分たちは、あくまで推測をもとに行動している。

 だがその推測をもとに、ドラクラスの『三魔人』が動いたのだ。


 つまり。

 ルックリンの視点から、この祭りに紛れた凶悪犯がいるというのは、“信憑性がある”ことになる。


 ルックリンは経済、そして情報の魔人だ。

 このドラクラスの中に限っただけでも、ドラクラスを庭とする警護団とそん色ないほどの情報を集めている。

 手段は知らないが、彼女はもしかしたら、何らかの伝手で、魔導士隊や警護団の調査結果すらすべて把握しているのかもしれない。

 そんな彼女が、信憑性があると判断した可能性。

 何を材料にしたかは分からないが、調査範囲や、不審人物の目撃証言、盗品を運ぶ手段や経路など、複合的に考えて、ルックリンはこの祭りの中に盗品がある可能性が高いと判断している。


 アキラも思わずジェットのように視線を鋭くして周囲を探った。

 祭り全体が調査範囲だ。凶悪犯が盗品をすでに運び始めている可能性もある。

 行き交う人々、並ぶ屋台。だが、がやがやと耳障りの群衆の中、誰もが不審人物に見え、あらゆるものが不審物に見えてくる。

 推測しようにも物量が多すぎて手も足も出なかった。


 やはり本命はゲート付近だろうか。

 2階から降りてすぐのあの場所は、アキラが今日降りてきたときもごちゃごちゃと木箱やら資材やらが置かれていた。

 商品以外にも、イベントで使うつもりだったものが含まれていたのだろう。

 あの場所なら隠すことは容易だ。


 だが、もしそこにあるならと考えると、背筋が冷えた。

 あの場所は、自分たちの家から降りてすぐだ。

 約束の時間はとっくに過ぎている。少なくともエリーとサクは降りてきているだろう。


「……?」


 アキラの視界の隅に、妙なものを拾った。

 サクのことを思い出したからだろうか。

 以前アイルークで、街中に魔物が出現し、民衆がパニックに陥り、今と同じように大混雑したことがある。

 そんなとき、サクは屋根伝いに快適に移動していた。


「ジェット!!」

「どうした!?」


 不審物を探すために視線を落としていたジェットに、アキラは何気なく見た屋根に視線を向けたまま叫んだ。

 アキラを見て、ジェットも即座に察したらしい。

 ジェットが鋭い目つきを向けた先、また、屋根と屋根の間を“誰か”が通った。


「賢い馬鹿だなこの野郎!!」


 酷い悪態と共に人混みをかき分け走り出したジェットをアキラは追った。向かう先は近くの3階建ての建物らしい。ドラクラス中にあるという警護団の支部か何かなのだろうか、あそこから屋上に出られるのかもしれない。


 視線を送ると、さも面倒そうな表情を浮かべたエレナと、祭りの誘惑に囚われながらも勇者と警護団から離れないことを最優先とするイスカの鋭い視線を感じる。

 イスカはともかく、エレナのこういうときのこの表情は実は信頼できる。

 “出来る”が前提としてあるから、自分が手を動かすことになると思ったときの表情だ。


「は……!? っ、」


 案の定、人混みを駆けるアキラをエレナがあっさりと抜き去った。

 敏捷性からしてものが違うと分かっていたが、突如目の前で披露されるといつでも衝撃を受ける。

 意外と小柄な彼女は、突如として駆け出した自分たちを見て動きを鈍らせた人々の間を猫が縫うように進んでいった。

 アキラも負けじと彼女の後を追うが、精々大柄で動きを鈍らせるジェットに追いつくのに精いっぱいだった。


「ジェット!! あれが犯人か!?」

「さあな。だが、どこかで見た顔だ……!!」


 あの一瞬で顔を見たのだろうか。

 ジェットの表情から、それがいい出会いでなかったことだけが分かる。


 駆けた先の建物で、鍵がかかっていたと思われる両開きの扉はエレナによってすでに蹴破られていた。

 ジェットも足を止めずにそのまま建物に飛び込む。

 台風に襲われたように事務机や椅子が散乱した部屋の奥で、エレナがまた躊躇なく非常階段と思われる分厚い扉をぶち抜いていた。


「ユフィ!! 不審人物が屋根伝いに移動している!! ゲート付近は今どうなっている!? ……ちっ、ミルバリーのお守り中か!!」

「お、い……!? づっ」


 叫びながら息も切らさず階段を駆け上るジェットを必死で追うアキラは、より一層力を込めた。

 以前一緒に参加した依頼で、彼の力は実際に見ている。警護団どころかドラクラスでも指折りの実力者と言われている通り、ヨーテンガースの旅の魔術師の基準を大幅に上回っているだろう。

 だが、混雑した人混みを進んだときと違い、今の速度は先頭を走るエレナに匹敵する。

 魔術の使用まではしていないとはいえ、魔力によって身体能力を最大まで強化しているのに、アキラは引き離されないようするので精いっぱいだった。


「遅いわよあんたら。で。あれ、殺していいの?」

「これ以上警護団の仕事を増やさないでくれ。確保だ」


 今度は蹴破らなかったらしい扉を通り、屋上に出ると、エレナが息も切らさず、早速獲物の位置を捕捉していた。

 自分たちが上る間に、不審人物はすでにゲート付近の建物の屋根まで移動している。

 エレナやジェットほどではないとはいえ、あちらの動きも早かった。


 運び出す算段が出来たのか、あるいはイベントの中止の騒ぎをチャンスと思ったのか。

 あの人物が犯人なら、魔力の原石はやはりゲート付近にある可能性が高い。


「あいつは振り返ったか?」

「さあ。気づいていても気づいていなくてもおかしくないって感じじゃない?」


 対象の位置を捕捉したふたりは、屋上の淵に身を隠すように屈んでいた。

 アキラも同じように身を隠す。

 エレナが屋上の扉を蹴破らなかったときからなんとなく察していた。

 見失うのは最悪だが、距離がある分、下手に刺激する方が問題だ。

 ゲート付近に魔力の原石があるとしたら、到着するのは流石に相手の方が早い。

 この混雑の中でそんなものを持った相手を追い込むと、何をし出すか分からない。


「顔は覚えたんだろ? 俺たちは騒ぎを起こさず追う以外にないんじゃないか?」

「まあ、そうだな。俺とお前は特に気を付けようか」


 追うつもりで前を見ると、屋根伝いとはいえルートを考える必要がありそうだった。

 高さが近い屋上のある建物はまだいいが、いびつな形の屋根に背の高い建物にはさまれた空き地や家屋、そしてその逆。飛び移るにしても限度がある。

 下手な意地を張っていないで魔術による空中移動か身体能力強化をすべきかもしれない。

 そうでなければ、屋上からの景色を何の問題にも感じていないようなエレナやジェットに取り残される気がした。


「……って、!?」

「わっ、な、なにか?」


 頭から抜け落ちていたことを思い出し、慌てて振り返ると、大きな青い瞳が背後にあった。

 かなりの速度でここまで駆けてきたはずなのだが、イスカ=ウェリッドも身を屈ませ、アキラとジェットに交互に視線を走らせている。


「あ。ちゃ、ちゃんとついていきますので、お気になさらず」


 青い瞳が、見捨てられかねないと思っているかのように揺らいだ。

 少なくともこの速度についてきている時点で、魔力による身体能力強化は相当以上ということなのだろう。

 気にかけると決めたばかりなのに、頭から抜け落ちる自分を呪う。


 だが、エレナに言われてから一層感じるが、やはり優先順位が歪に見える。


「イスカ。流石にここにいた方がいい。これからはマジで危険だぞ」

「で、でも、私、あなたたちと離れたら……!」


 凶悪犯と思しき人物を見つけ、いよいよ祭り会場は危険地帯になった。

 だが、イスカは自分たちから離れる方が危険と思っているらしい。

 自分ではどうしようもないと感じたアキラは、返答に困り、ジェットを見ると、彼も頭を抱えていた。


「ドラクラス住民を守る警護団としてビシッと言ってやってくれ。言い合いしている場合でもないし」

「はあ。……言い合いしている場合じゃないってのだけは間違いない。だが、ドラクラスの住民は基本的に自由意志だ」

「緊急時にそれでいいのか警護団」


 苛立つが、ジェットも苦心しているのが分かった。

 もしかしたら彼も、イスカの歪さには気づいているのかもしれない。

 イスカは命の危機を感じ取れない、いや、エレナの勘が当たっているとしたら、“感じ取る必要が無かった”せいで、今も魔導士隊に捕まらない方を優先している。


 アキラは大きく息を吸った。

 関わると決めたばかりにこの非常時で、アキラの方も優先順位がばらばらになっている気がする。

 今優先すべきは何か。ヒダマリ=アキラがするべきことは何か。


「え……?」


 そこで、イスカがぎょっとして身を固めた。

 自分たちが出てきた塔屋から、新たにふたりほど屋上に出てくる。

 エレナの深いため息と、ジェットの舌打ちがはっきりと聞こえた。


「下の散らかり具合はお前たちのせいか?」

「またお前らか。……ここは警護団の支部だ。模様替えだよ」


 現れたのは、エリーなら迷わず背筋を正して直立する、魔導士隊の制服を纏った男たちだった。

 野太い声の男は自分たちが身を屈めていた理由を気にもせずに歩み寄り、背の高い男は強い眼力でジェットを睨んでいる。


 イスカはすっとアキラの背後に身を隠す。

 何故ここに魔導士隊が来たのか、と一瞬考えたが、イスカ云々の前に、エレナが扉を破壊して突っ込んだ上、爆弾でも投げ込んだように建物内をめちゃくちゃにしていたのを思い出す。周囲で騒ぎも起きただろう。

 当の本人は、当然のようにそんなことは忘れているようで、道で黒猫にでも横切られたかのような不運と考えていそうだった。


 屋根の向こう、不審人物の姿はもう見えない。すでに下に降りてしまったようだ。

 まずい。


「立て込んでいてな。時間も無いし、あんたらの出る幕はもっと無い。さっさと職場に戻ったらどうだ? ただでさえ祭りは混雑中。人が減ってくれた方がドラクラスとしても助かる」

「これは。ご無沙汰しております、勇者様」


 皮肉を言うジェットを無視し、ふたりの魔導士は軽く会釈してきた。

 アキラは彼らに会った記憶が無いのだが、自分が目立つのはいつものことである。


「お忙しいところ失礼ですが、そちらの彼女に用がありまして。少々お時間をいただきたく」

「懲りない奴らだな。イスカは勇者様とデート中だ。邪魔しようってのか?」

「私は今勇者様にお話ししているところだ」


 煽りともとられかねないジェットの適当な言葉に、魔導士たちははっきりと苛立った。

 魔導士たちはイスカが民間人ということは知っているだろう。

 下手をすればイスカがアキラと特に関りが無い人物であることも知っているかもしれない。

 ヒダマリ=アキラと関わる民間人として最低限の表現に、アキラはいたずらに異論を挟まなかった。


「……イスカに何の用だ?」


 アキラが口を開くと、魔導士たちは申し訳なさそうな顔をする。用意してきた顔に思えた。


「失礼。実は今朝がた、ドラクラスで事件が起きまして。ご存じでしょうか? 勇者様のご自宅の近くです。放火と、殺人が」

「……悪いがその話ならとっくに調べている。今、その犯人かもしれない奴が屋根伝いに逃げていったんだ」

「え? ……ほう」

「だから問答している時間は無いんだ。すぐに追わないと」


 強く言い切ったのだが、魔導士たちの表情は、むしろ都合がいいとでも言わんばかりに歪んだ。


「では、すぐに追わなければ。魔導士隊でも手配を始めます。民間人の保護はお任せください。心苦しいのですが、お力を貸していただけますでしょうか? 犯人を追ってください」

「悪巧みならもう少し分かりにくくしろよ。マナーだろ」


 ガン、と屋根の縁を蹴りながらジェットが睨んだ。

 警護団と魔導士隊の仲は良好というわけではなさそうだが、流石にアキラもこの苛立ち具合は異常に見える。

 一刻も早く犯人を追いたい自分たちからすれば当然だが、ジェットから確かな怒りを感じた。


「アキラ。この“グリンプのお付き”たちの狙いはイスカだ。いや、“イスカだけ”だ。魔人の依頼でしか動かない」

「我々は“ドラクラス魔導士隊”だと何度言えば分かる。勇者様にでたらめを吹き込むのは止めてもらいたい。それよりいいのか。勇者様の御手を煩わせず、こういうときこそ治安のために迷わず犯人を追ってもらいたいな」

「魔導士隊を名乗るなら、とっととのその強引さを活かして祭りの騒ぎを抑えてみろ。治癒魔術くらい使えるだろ? 西側に人が足りてないらしいぞ」

「治安を守ると言っていてその体たらく。そんな警護団の話に耳を持てと?」


 ふざけるな、という声をアキラは辛うじて飲み込んだ。

 現れた魔導士隊だけにではない。ジェットにもだ。

 これだけの人が集まった中に、危険物を持った危険人物がいるというのに、やっていることは低俗な言い合いでしかない。


 このふたりの魔導士は、どうやら最初にイスカを捕まえようとした者たちらしい。

 となるとグリンプの指示で動いているのだろう。

 であれば確かに簡単には引かないだろう。

 だが、それに応答するジェットも、彼らを邪魔することに固執しているように感じた。


 アキラの優先順位からすれば、このふたりがいくら気に食わなかろうが、イスカを保護してもらい、自分たちは犯人を追った方がいいと感じる。

 そんな風に勇者様が不快感を露にしているというのに、ふたつの勢力の無駄な意地はぶつかり続けていた。


「……これ以上は時間の無駄だ。勇者様。実はそのイスカ=ウェリッドは重要参考人でして。火事現場の従業員に、殺人事件の被害者の知人。魔導士隊としては、どうしても話を聞かなければならない相手なのです」

「最初と話が違うな。グリンプの指示か? それとも困り果てて自分たちで作ってみた理由か? 思い付きで行動しているのが透けて見えるぞ。だがついてなかったな、今度は勇者様のデートを邪魔するに足りる理由じゃなきゃまずいぞ?」

「何度黙れと言えば分かる?」


 言い合いを聞いているだけで気持ちが悪くなる。


「ジェット=キャットキット。いい加減に立場を弁えろ。魔導士隊が、警護団が率先して守るべき治安維持に協力しているんだぞ。イスカ=ウェリッドには嫌疑がある。ふたつの凶悪事件の参考人だ。勇者様にご迷惑をかけるが、理由としては十分だろう」


 イスカの手がアキラの服の裾を強く握った。

 ジェットの言うところの、彼らが作ってみた理由。客観的に聞けば、確かにイスカは放置できない相手だろう。

 だが、これ以上言い合いが続くようなら、正直どちらも見限って、エレナとイスカと共に犯人を追いたくなってきた。

 この大勢の人間が被害に遭うかもしれない今、やるべきことは、絶対にこれではない。


「お前ら、」

「それでこの大勢が集まる中、イスカを魔導士隊の制服着込んだ男がふたり、挟んで歩いていくってのか?」


 怒鳴りつけようとしたアキラの言葉を遮って、ジェットが冷たい声を出した。

 先ほどまでの魔導士隊との言い合いより、ずっと強い怒りを感じた。


「彼女を連れていくなら気を遣え。引っ越し騒ぎで麻痺しているのか? お前ら魔導士隊は、自分たちが動くことがどういうことか本当に分かってないのか?」

「我々は平等だ」

「思考停止の間違いだろうが。そのあと彼女がどうなると思う」


 この騒ぎの中、魔導士隊が、連行するように『雪だるま』を連れていったら、大衆からイスカ=ウェリッドはどう見えるか。

 目の前の魔導士隊の行動に反発する理由で、ジェットが最も強く執着しているものが、見えた気がした。


「火災現場の従業員? 殺人事件の被害者の知人?」


 それが、完全に理解できるとは思えない。

 イスカもそうだが、アキラと他者の優先順位は異なる。

 だが、少なくとも今、ジェット=キャットキットという人物の優先順位は見えた気がした。


「“不十分だ”」


 凶悪犯が大人数を脅かす現状も、イスカ=ウェリッドという個人の今後の人生が閉ざされることも、彼にとっては、大きな違いが無い。


「善良なドラクラス住民の生活を脅かすのに、不十分な理由だって言ってんだよ」


 ならば、自分が優先すべきは何か。

 今度こそ、はっきりと、言葉を出せるように、誰もが気づくほど、大きく、アキラはまた、息を吸った。


「なあ、あんたら」


 じろりとこちらを見てきた魔導士隊に、アキラは怯まないように意識した。

 勇者様だどうの言っていても、結局このふたりは“しきたり”に従っているだけで、アキラ個人への敬意はそこまで厚くない。

 むしろイスカを捕まえに来て、アキラがいたことに大いに面倒なことになったと内心嘆いただろう。

 ならばもっと、面倒なことになってもらいたい。


 アキラの優先事項は、世界平和を望む勇者様とはかけ離れ、自分の周囲の人間に被害が及ばないようにすることだ。

 そしてそれは、関わろうと決めたイスカも例外ではない。


「なんかごちゃごちゃ話しているけど、結局イスカに―――うちの従業員に何の用なんだ?」


 初めて意識して使った勇者の特権とやらは、人を大いに不快にさせるものらしい。

 舌打ちしかねないほど歪んだ魔導士隊たちの顔が、痛快だった。

 自らを戒めねばならぬことである。


「急ぐぞジェット」


 頭の良さでも口喧嘩でも魔導士相手では戦いにならない。

 怯んだ魔導士たちが口を開く前に、アキラはジェットに鋭く声をかける。

 散々色々考えていたが、少なくとも分かっていることは、この屋上で、犯人を追わなければならないと思っているのはアキラとジェットだけだ。


 心の底から軽蔑しかけた魔導士たちだが、彼らの身の安全を守るためでもある。

 長い問答を鬱陶しがっていたエレナが、さりげなく魔導士たちの後ろに回ろうとしていたのを見逃していなかった。


「右からだ!! ゲートまで跳び移りやすい!!」


 時間を食ったせいで、犯人の姿がなくなった屋上の動きに最早制約は無い。

 ジェットが先導し、アキラたちはそのすぐ後を跳ぶ。


 やや遠回りだが、高度を維持しつつ、次の同じような高さの建物へ移っていく。

 屋根を移動する理由なら魔導士隊に伝えてある。

 勇者様の自分なら、緊急時であると問題にはしないであろう。

 こういう無茶を見逃されてきたのも、勇者様の特権だったのかもしれない。


 ゲートへ向かうアキラははっと我に返り、背後を確認する。

 先ほどは見逃したが、イスカは苦も無くついてきていた。

 エレナの言葉を聞いてから、意識を割き続けるつもりでいるのに、突発的に行動すると頭から彼女が消える。

 彼女を軽んじているわけではないと思うのだが、つい、自分が出来ることは、彼女も出来るだろうと反射的に感じてしまうからなのかもしれない。


 アキラとジェットを視界に収め続ける、青い瞳が、目に焼き付いた。


「また遅いわよあんたら。……なんか変なことやってるけど?」


 ゲート付近の屋上。

 到着すると、イスカ以上にアキラの意識から消えていたエレナ=ファンツェルンが苛立った声を出した。

 ジェットが誘導したコースを無視してほぼ一直線に進んでいったエレナは、ぐいと親指で眼下を差している。


 ゲート付近は、2階への移動手段ということもあり、先ほどまで歩いていた道よりずっと整備されていた。

 柱の周囲は円形の広場のようになっており、柱の移動時間の待合席や、普段は待ち合わせ所としてのシンボルのつもりか東西南北に獣やら龍やらを模した石像が配置されている。

 今は物言わぬシンボルは祭りの邪魔なのか撤去されているらしく、代わりにステージのような舞台がいくつか設置されており、アキラたちから見える場所では、どこかの劇でも始まるのか、登壇した男がひとり、愉快そうに何かを語っている。

 その裏、祭りの管理本部のような役割なのか、大きな屋台のようなものが組み立てられ、複数人が酒を片手に何やら話し込んでいた。

 舞台で足を止める者や人の入れ替わりは激しいが、それでも、今までの道の混雑よりも大人しくなっていた。

 自分たちが跳んできた道のどこかで、人数制限でもかけていたのかもしれない。


「どこのことだ?」


 上から見下ろしていたアキラも、大して変わらぬ喧騒の様子に、エレナが何を指差しているのか分からなかった。

 見渡しながらエレナが捉えた異変を探る。

 しばらく見ていると、管理本部のような屋台の反対に、一層慌ただしく動く者たちを見つけた。

 中止となったイベントの対応だろうか、手際よく資材を片付けている姿が見える。

 だが、上から見ていてようやく分かる程度に、その周囲を、先ほどから複数人の同じ集団が回るように歩いていた。


「おい、あれ」

「まずいな」


 ジェットが苦々しく呟いた。

 彼がちらりと見たのは、この屋上の壊された塔屋だった。

 犯人もここから下に降りたらしい。


「あれは警護団か? 荷物置き場のような場所を見回っている」

「警護団の奴らじゃないな。だが、警護団傘下の奴らかもしれない」

「じゃあ俺らと同じで原石を探してくれているのか?」


 ジェットが連絡した先で、またこの街の誰かに依頼が飛んだのかもしれない。

 だがそれでも、事態が好転していないことはジェットの表情が語っていた。


「助かるな。“ここから丸見えだってこと以外は”」


 下の彼らの様子からするに、盗品の発見には至っていない。

 ありそうな場所に当たりをつけて、その周囲の不審者を探しているようだった。

 そこにあるかは定かではないが、ゲートの出入り口にも近く、イベントで使うつもりの資材や業者の商品が積まれていて、所有者不明のあの場所は、確かに物を隠すならうってつけだろう。

 だが、人混みに揉まれる下からなら分からないだろうが、犯人がこの場所からあそこを見下ろしたなら、不審な動きをしている集団が目に止まっただろう。

 今さらながらに、魔導士隊の横やりで流れた時間が悔やまれる。

 そんな猶予を与えずに力ずくで確保できたというのに。


「犯人は? 引いてくれたか?」

「だといいがな」


 見失った以上、下手な刺激は出来ない。

 自分たちの動きに犯人が気づいていないというアドバンテージが失われた可能性がある今、この混雑の中ではドラクラスの住民がより一層危険にさらされている。

 こうなれば、犯人がこちらを警戒し、盗品を諦めて去ってくれていることを祈るばかりだ。


 だが、嫌な予感がしてしまった。

 魔力の原石を盗み、店に火をつけ、人を殺すような凶悪犯が、手を伸ばせば届く距離にある盗品を前に、自らの欲を抑え込めるだろうか。


「! 見つけ―――」


 ジェットが鋭く叫んだと同時、ゲート付近、アキラたちの立つ屋上ほどの高さで、バンッ! と何かが弾けた。

 スカイブルーの閃光が花火のように打ち上がり、悲鳴と共に群衆の視線が自然と上に向く。


 鋭く打ち上げ場を目で追うと、ゲートからやや離れた人の密集地帯、ざわめく人々を押しのけて、走り去ろうとしている男がいた。


 誰しもが、この祭りの催しか何かと捉え、次第に笑い、人によっては盛大に手を叩いている。

 しかし、巡回していた警護団傘下と思われる面々は、警戒心をむき出しに、複数名で混雑に向かって突撃を開始した。


 屋上から見下ろしていたアキラには、ゲート付近のすべての動きが見えた。

 舞台上で祭りをなお盛り上げようとする者、未だに上空の破裂音に周囲を警戒する者、それらを押しのけ犯人へ向かう者、そして人混みに紛れ姿を消そうとする犯人、弾かれるように屋上から飛び降り、犯人へ一直線に向かっていくジェット=キャットキット。


 そして。


「ねえ。私にくれるなら生かしてあげるけど?」

「貰うのも殺すのも駄目だからな」


 警護団傘下の面々が当たりをつけていた箇所から僅か離れた資材置き場。

 置き場に溢れた少量の積み荷が乱雑に置かれた箇所で、アキラとエレナは男の前に立ち塞がった。


 ジェットが追った者とは別の、ドラクラスの民間人にしか見えない、私服のパーカーを着たその男は、騒ぎが起きてからまっすぐにその場とは逆方向に駆け出していた。


「あんたが、いや、あんたらが窃盗犯ってことでいいんだよな? 仲間の方はジェット……、警護団が捕まえてた。これは本心からなんだが、命が惜しかったら大人しくしていてくれ」

「あらアキラ君。ワイルドね」

「……ヒ、ヒダマリ=アキラ……!?」


 エレナを無視し、心から懇願すると、パーカーの男はアキラの顔をじろじろと見てきた。

 やはり自分の顔と名前は売れているらしい。

 相手が相手だけにいつも以上に嬉しくないが、抑止力としては悪くない。


 こちらの動きに気づいたようで、警護団傘下の面々もこちらに向かって走っていている。

 もう身動きは取れないだろう。


 動揺からか、あるいははっきりと伝わるエレナからの殺気のせいか、パーカーの男は目を泳がせ、ついといった様子で、口走った。


「き、聞いてない、なんでこんなのが“釣れるんだ”……!!」

「……は?」


 ゴッ!! と爆音が響いた。

 先ほどの破裂音など比較にもならないスカイブルーの稲光が、手薄になった本命の資材置き場から上がる。

 爆撃されたような衝撃がここまで届き、どこかからまた悲鳴が上がる。


 アキラには犯罪者の思考は読めない。

 目の前の男も知らない。


 アキラにとって所詮彼は―――彼らは、“その他大勢”だ。


「っ、おっ、おい!! お前の他、何人いる!?」

「な、なにを、わ、私は、」

「今さら無関係で通るとでも思ってんのか!?」


 パーカーの男の胸ぐらを掴み、アキラは怒鳴った。

 しかし、自分の凄味など可愛いものなのか、パーカーの男は太々しく笑う。


「はっ、い、いいの、か?」

「あん?」

「この人数だ。お互い騒ぎが起きない方がいいだろう……!?」


 開き直ったようなその様子に、アキラは何が起きたのかおぼろげに察した。

 犯人は複数いた。最低でも3人だ。

 ジェットが確保した男と、目の前のパーカーの男。

そして、今、恐らく魔力の原石の隠し場所に到達し、爆音を上げた人物。


 盗品がこの場にあると気づかれたことを悟った犯人たちは、諦めることをせず、無関係を装いながら陽動する係と、盗品に向かう係で分かれたのだろう。

 こちらの動きが追い付き、陽動側は抑えられたが本命は盗品側だ。


 この混雑の中、爆音ですでに周囲はパニック状態になっている。

 魔導士隊やヨーテンガースの旅の魔術師がどれだけいようが、大量の民間人が入り混じる中、大量の魔力の原石を有する相手に、すべてを守り切ることはできない。


 “そこまで気づけるだろう”と男の目は語っていた。

 つまりは、人質を取られている。


「ま、まあ、ここじゃない場所でゆっくりやろうや。お互いここでやり合うのはな?」

「そっちはそっちでなんか考えてんだろ。……それに、俺はちゃんと忠告はした」

「は……?」


 腹立たしい表情を浮かべていたパーカーの男の首に、優しく手が添えられた。

 アキラの隣に顔を並べたエレナが、にっこりと笑っている。

 横目で見ると、至近距離に、我を忘れそうになるほどの美女がいた。


 だが、伊達にヨーテンガースを旅してきていない。

 アキラも、パーカーの男も、明確な殺気を感じていた。


「あれで最後かって聞いているのよ。首を縦か横に振るか、別れを告げるか選びなさい」

「……、さ、最後、で、す……」


 アキラはそれが遺言でないことだけを祈った。

 喉の奥から空気が漏れ、糸の切れた操り人形のようにパーカーの男は倒れ込んだ。

 汚物を触ったように手を払いながら、エレナは先ほど爆音が上がった場所を睨む。


「あっちのも落とせば終わりってことらしいけど、面倒そうね」


 先ほどの爆音で、広場は混乱の極致にあった。

 屋台の店主やイベント管理本部、怪我人が搬送されている救護エリアや舞台の催しに集まっていた人々が一斉に逃げ惑い、それでも、人の波の動きは詰まっているようで鈍い。

 まともに近づける状況ではなかった。

 事情を把握しているアキラたちですら翻弄されているのだ、何も知らずに至近距離で爆発が起きた人々の恐怖や混乱はいよいよピークだろう。

 人の隙間からたまに見える資材置き場は、未だに煙が上がっていて、何が起きているのか分からない。


 もうこうなれば、この場は市街ではなく、戦場である。


「エレナはここを頼む!! キャラ・イエロー!!」


 逃げ惑う人々の頭上へ跳び出したアキラは、資材置き場を睨む。

 所々横転した者が出て、またそのせいで混雑が加速する。

 民間人には大怪我をした者もいるだろう。最悪死人も出るかもしれない。


 先ほどの男の言っていた通りでもある。この場でやり合うこと自体が危険だ。

 だが、それが分かっていてなお、資材置き場に向かったであろう犯人は、この爆音を上げたのだ。

 ここに集まった者たちの安全など何ひとつ考えていない。

 そんな人物が、大量の魔力を保有したままドラクラスの街に消えれば、いよいよ何が起こるか分かりはしない。


「!」


 土煙の中、黒煙が混ざった。どこかから出火している。

 アキラが上空から目を凝らして周囲を探ると、その黒い煙の中から、ジャケット姿の男が飛び出してきた。

 手には、頭陀袋を持っている。

 箱から取り出して入れ替えたのかもしれない。


 瞬時にそこまで考えついた自分の脳を褒めたいところだったが、最悪なことが起きた。

 日輪属性はとにかく目立つ。

 平常時ですらそうなのに、今オレンジの足場を生成して宙を行くアキラは、ひた走る男と目が合ってしまった。


「いっ!?」


 ほとんど反射だったのかもしれない。

 ジャケットの男からスカイブルーの閃光が走った。

 慌てて打ったのかまるで的を捉えられない閃光は、避けたり防いだりするまでも無くアキラの遥か上空を通過する。


 だが、アキラが戦慄したのはそれではない。

 男から放たれたのは、“砲撃”だった。


 直径にして5メートル前後。

 轟音響かせドラクラス1階の上空で四散する。


 敵を注視していたアキラは、思わず動きを止めた男から動揺を感じた。


 混乱しているのはこちらばかりではない。

 男もまた、自己の放った魔術に驚愕しているようだった。


 もし、意図しない“威力”だったとしたら、あの男は、ここから離脱するために“魔力の原石”を使用している。

 想像以上にこちらの動きが早く、一部だけでも持って逃げることにしたのかもしれない。

 そしてその中の原石を使用し、強化された魔力を確認もせずに使って面食らっているのかもしれない。


「もう他の奴らは捕まってるぞ!!」


 怒鳴るようにアキラは叫んだ。

 敵の動揺は付け入る隙ではあるが、ジャケットの男とはまだ距離がある。

 周囲には民間人がいるともなれば、冷静であって欲しいくらいだ。


「くっ、来るな!!」


 恐怖、いや、高揚。そして敵意と闘志を感じた。

 動揺しているのかあるいはそういう構えなのか、ジャケットの男が腕を縮こまらせて向けた手のひらは、アキラを捉えているようで、まるで照準が定まっていないようにも見える。


 それが攻撃意思の表示なのか脅迫なのかは定かではないが、この人の群れの中、原石で強化された魔術を放てばどうなるかなど彼も分かっているだろう。

 いかに犯罪者だろうが、彼は“ヨーテンガースの魔術師”だ。すでに魔力の原石の使用方法と強化幅は感覚的にでも掴んでしまっただろう。

 アキラは直接原石の魔力を使用したことは無いが、一般的な魔術師からはまるで全能の力を手に入れたような感覚に陥るらしい。


「っ、キャラ・イエロー!!」


 危険と頭で分かっていながらも、アキラは頭ごと身体を下へ向け、落下するように空を蹴った。

 突撃してでもあの男の攻撃をこちらへ向けないと、民間人に被害が出る。


「シュロート!!」


 “最悪だった”。

 アキラの決死の特攻に、動揺したジャケットの男が魔術を放つ。


 決死なのは向こうもそうだ。

 だがその動揺のせいで、魔術を放つ腕をアキラへ向け切れていない。


 過去、ごく近く、アキラが自分の手元で見たように、爆音と反動で男は軽く吹き飛び、暴発するように射出されたスカイブルーの凶弾が、明後日の方向へ飛んでいく。

 それはつまり、アキラが何をしても届かない位置。


 向かう先は、未だ人がまごついている、柱付近の舞台である。


「にげっ―――」


 思考も出来ない一瞬で、反射的に叫んでも何も起こせない。

 迂闊に飛び込んだ後悔も、ジャケットの男への怒りも、住民に被害を出す恐怖も、何ひとつ感じられない一瞬。

 吸い込まれるように走るスカイブルーの魔術が、逃げ惑う人々の混乱の中、親と逸れ逃げ遅れたのか小さな女の子へ向かっていく。


「―――あ」


 そこで。

 アキラの心臓が、どくりと撥ねた。


「間に合った」


 凶悪な魔術が、小さな女の子に直撃した。

 鈍い爆発音が響く。

 その衝撃に、周囲の人々すらドミノ倒しのように倒れ込んだ。


 すべてが見えていたアキラは、その目を背けたくなる光景から、動揺したまま視線を切った。

 頭が上手く働かない。何ひとつ整理できないまま、しかしアキラは眼下のジャケットの男のことだけを考えた。


 おぼろげに思ったことはひとつ。

 自分たちが奔走しているその裏では、また別の誰かも動いているという、当たり前のことだった。


「うっ、うぉぉぉおおおっ、キュッ、キュルルン!! 流石です!! お怪我はありませんか!? 皆さんも大丈夫ですか!! お怪我をした人はこちらでーす!! あっしがかんっぺきに、」

「耳元で大きな声出さないでよっ……! みんなとにかくわたしの後ろへ逃げて!!」


 砲撃の被爆地で、子供がふたり騒いでいる。

 一刻も早く凶行を止めるべき今、安全地帯へ向ける注意は無くていい。


「―――キャラ・グレー!!」


 男への突撃を一旦止め、アキラは即座に眼下に落下した。

 何も分かっていない男はまた構わず魔術を放つ。

 今度は捉えられた男の魔術は、アキラの腕に衝撃を残す。


 一級品とは言えないまでも、民間人の密集へ連発されれば十人単位で命を落とすだろう。

 多少は動揺から落ちつけたアキラは、はっきりと、アキラを防衛に回し、逃げる算段が出来たと笑うジャケットの男へ怒りを抱いた。


「何も上手くいってねぇよ―――キャラ・ライトグリーン!!」


 そこから起こったことの全貌を把握できた者は極めて少ないだろう。


 逃げる男へ突撃するアキラに対し、被害を広めてアキラの接近を防ごうと放たれる魔術。

 慌てたせいで転び、転がり、でたらめに乱射される凶弾は一層危険に広場を襲うも、あるところではイエローの盾に阻まれ、あるところではライトグリーンの光に吸い込まれ、あるところではグレーの光に封殺される。


 どこかで何かが起こり続ける。

 広場は祭りの終幕を飾るように爆音と多種の色が混ざり合うが、その中に、ジャケットの男の仲間は誰ひとりいないことをアキラは察した。

 ヨーテンガースの住民や、旅の魔術師でも不意を突かれればひとたまりも無いだろうが、自分の知らない裏側に、この事件を予見して備えた者がいるらしい。


 そしてそれは、恐らく。


「ぐっ、がぁぁぁあああ―――!!」

「!!」


 死に物狂いで柱付近まで逃げた男が雄たけびを上げた。

 自分のかく乱攻撃が成功していないことを察したのか、単純にアキラの接近が止まらないことに危機感を覚えたのか、“何か”をしたらしい。


 成功したか失敗したか分からないそれに、追いついたアキラは警戒して構えを取る。

 ここまで接近できれば最早無作為な攻撃はすべてアキラが止められるだろう。


 柱を背にして立つ、完全に追い詰められたはずの男は、見える肌をすべて真っ赤にして、激痛に悶えながら、しかし、嗤った。


「あれ、は……」


 男を注視し過ぎていたせいで、彼の上空に伸びるスカイブルーの光を見落としていた。

 粒子のような光を纏い、ドラクラスの巨大な柱を這うように伸びる光は、徐々に“何か”を形作っていく。

 魔力の原石で強化されたジャケットの男の膨大な魔力は、あの男が経験したことも無いほどの規模で展開されたらしい。


「は、は、ははっ、」


 作り出されたのは、青白い光を纏う大蛇だった。


 全長数十メートル。太さは最大5メートル前後。

 ぶつぶつとした鱗のような斑点が全身に浮かび上がり、貌と思われる部分は口のつもりなのか上部から割かれるように開いていた。

 眼も付いていない。太さも均一ではなく、所々が腐り落ちたように欠け、不格好に崩れていた。

 増幅した魔力を制御できずに、子供が手慰みに粘土で形作ったような、不出来で見てもいられないような存在だった。


「……召喚獣」

「はー、はー、はっ、ひ、ひ、はははっ」


 悔しさを浮かべて呟いたアキラに、男は狂ったように笑う。

 混乱と魔力の反動も相まって、男も自分が自分で何をしているのか分かっていないのかもしれない。

 この召喚獣が切り札なのだろう。

 心のよりどころが現出し、多少の余裕を取り戻せているようだ。

 こんな人の群れの中であの巨大を操れるということは、大量の人質を確保できたようなものだ。

 “勇者様”相手には相当なアドバンテージだと考えているのかもしれない。


「こ、これ以上近寄るな!! お前にとっちゃこれくらいどうでもいいだろう!?」


 脅迫と懇願。男は盗品を握り絞める。

 広場は混乱を極め、無数の怪我人が出ているだろう。

 ただ祭りを楽しみに来た人々は、突如として起こった戦闘に、成すすべなく逃げ惑う羽目になった。

 人が人を押し潰し、屋台は砕かれ、一部の建物すら損壊している。きっとアキラが見たり想像したりしている以上の被害が出ているだろう。


 この男は自分がしでかしたことがどれほどのことなのか本当の意味で分かっていないのかもしれない。

 アキラは必死に訴える男の顔を、しかし乾いた瞳で見つめた。


 同じ高さで対面した男から感じたものは、極めて普通の男という感想だった。


 金目のものに目を血走らせるのも、心のよりどころが出て安堵するのもそう。

 たった今民衆に危害を加えたのも、パニックに陥った結果であろう。最初からそのつもりだったわけではないはずだ。

 アキラたちや警護団の手が回っていなければ、誰にも危害を加えず、もっと穏便に盗品を回収してこの場を去るつもりだったのだろう。

 この騒ぎはきっと、色々な歯車が狂った結果だ。


 ジャケットはよく見れば、至る所が擦り切れ、泥のような染みが柄のように付着し、袖や首元はほつれていた。

 妙に着ぶくれしているところ見ると、寒さを凌ぐことだけを考えて、中には幾重にも服を着込んでいるようだ。

 どこかの浮浪者か何かかもしれない。


 魔力の原石が高価な物品だということは知っている。

 具体的な金額は分からないが、目の前の男やその仲間たちにとってはこんな騒ぎを起こす羽目になっても盗み出す価値のあるものなのかもしれない。


「お前にだって事情はあるだろう」


 どれほど独善的で、どれほど低俗でも、彼は彼の事情と優先順位で動いている。

 この異世界に来て、金銭面で困ったことがほとんどないアキラにとっては、彼の価値観は分からない。


「だけど、お前のは聞く気にもならない」

「っ」

「それと」


 男は力を込めたようだった。召喚獣を本格的に操るつもりだろう。

 不出来とはいえ、この大蛇が横転するだけでも確実に死者が出る。

 民衆を盾に脅迫する男にアキラは、やはり乾いた眼を向けるだけだった。


「命乞いなら俺にじゃないな」


 先ほどアキラが悔しそうに呟いたのは、男の光の大蛇を見たからではなかった。

 ジャケットの男が現出させた大蛇の、さらに上空。


 男の不出来なそれとは比較にならない、美麗な青の巨竜が旋回していた。


「―――ッハ!!」


 巨竜から“決着”が射出された。

 見上げるほどの高さから迷うことなく飛び降りたその男は、巨大な白蛇目掛けて突撃する。

 剣を振るい、その口とも言えない裂け目に咥えさせると、そのままの勢いで落下してきた。

 嘘のように、魔法のように、現出した大蛇は、『剣』の軌道に合わせてまっすぐに、真っ二つに割かれていく。


 見上げたジャケットの男は状況をまるで理解できていなかった。

 自身のよりどころの巨大な召喚獣が、成すすべなく斬り割かれ、上空からスカイブルーの粒子となって空に溶けていく。

 彼も、その上に跳ぶ青の巨竜と、この事件の幕が引かれたことに今さらながらに気づいたようだった。


「っ―――」


 ザッ、と、アキラと男の中間に、ついでのように大蛇を仕留めた大男が着地した。

 遥か上空からの落下直後に何事もなかったように立ち、完全な白髪をかき上げ、猫のように鋭い金色の眼で獲物を睨む。


「はっ、祭りか何か知らねぇが、随分浮かれてんなあ、おい。……で、だ。面倒なことしやがったのはお前か?」


 彼の言葉は、アキラに向けたものかもしれないが、無視をした。

 ジャケットの男は混乱の中、己の命運を本能レベルで悟ったのか、今度は引きつり笑いを浮かべている。


 引きつり笑いを浮かべたいのはこちらの方だ。

 か細い推測からここまで駆け続け、ようやく捉えた犯人を前にして、アキラの活躍の機会は、理不尽なほどの力によって失われたらしい。

 現れた巨大な召喚獣すら、その登場の余波のようなものだけに消滅させられたのだ。

 ジャケットの男が魔力の原石による強化で、どれほど膨大な魔力を有していたとしても、この事件のオチはついた。


 あの間合いで、スライク=キース=ガイロードを前に何かができる生物は地上に存在しない。


「……そっちは依頼でも請けてたのか?」

「あん? ……まあ似たようなもんだ。お前は……、はっ、相変わらずか」

「悪かったな」


 巻き込まれて、流されてここにいる。

 このドラクラスで初めて見たスライクは、歯をむいて苦々しく返したアキラに何も言わず、暴れるジャケットの男の胸ぐらを掴み、物のように釣り上げて運んでいった。

 そのまま意識を失いつつある男は、魔力も、体躯も、生物としての格の差がはっきりと分かったのか、諦めているようだ。

 アキラに捕まっていた方が幸せだったであろう彼の処遇がどうなるかは知らないが、今この場で殺されなかっただけ儲けものだろう。


 だがとりあえず、結局また美味しいところを持っていかれたらしい。


「……ったく。……う、酷いな」


 仕事であるらしいスライクにこの場を預け、アキラは広場を見渡した。

 目の前で他人に決着を付けられた悔しさを、目の前の被害で押し潰そうとする自分は酷く醜悪に思える。

 事態の鎮静化の喜びで、美味しいところを持っていかれた不満を揉み消し、気を紛らわせるように救助のことを考える。


 火災が広がったのか黒煙が上る箇所が目立ち、祭りの設備はほとんど原型を留めていなかった。

 ジャケットの男が乱雑に放った魔術はほとんどが封殺されたようだが、それでも集まっていた民衆は、逃げ切れなかったのか頼りない残骸の隠れており、身を伏せて動きが取れない者が目立つ。


 どこへ向かおうかと周囲を見渡していると、民衆から、事態が鎮火したことを感じ取った空気を感じた。

 恐怖一色だった多くの瞳が、驚愕と安堵の色を浮かべている。

 アキラは感覚が麻痺しているが、あの大蛇をいともたやすく真っ二つにした超人が犯人を抑えたのだ。

 彼らに活力があれば、この広場は歓声で包まれていたかもしれない。

 いや、その歓声も、混乱ごと力ずくでねじ伏せられたような光景だった。


 そして、不思議と音が遠くなった空間で、ひとりの男が目に止まる。

 怪我人の救助をしているらしい向こうもこちらに気づくと、ゆっくりと、近づいてきた。


「……マルド」

「やあ勇者様。……“久しぶり”」


 山吹色のローブに長い杖。

 マルド=サダル=ソーグは、不敵に見える笑みを浮かべ、アキラの瞳を覗き込むように見てきた。

 アキラは渋い顔をした。


「……あんたらも盗品を探してたのか」

「盗品? ……ああ、そういえばそういうことになるのか。俺たちの方は別件の依頼を請けて色々調べているうちにここに、って感じだ」


 今スライクが連れて行った男は、別のどこかで別の何かをしでかしていたのだろうか。

 つまりは火事でも殺人でもない何かから、この場で何かが起こることを察知していたらしい。

 人には人の事情がある。先ほどの男の事情よりは興味があるが、今さら聞こうとは思わなかった。


「注意を引いてくれたのは助かったよ」

「は、勝手にオチ付けやがったことは別にいいよ。あんたらのやり方には多少慣れてる」

「刺々しいな、久々の再会だっていうのに」

「…………そこまで念押ししなくていい。まあ今は、感動の再会を喜ぶよりも、怪我人の手当てが先だ」

「違いない」


 マルドは軽く手を振って、怪我人の救護に戻っていく。

 その後ろ姿を見張るように眺め、アキラは首を振って大きく息を吐いた。


 マルド=サダル=ソーグ。

 彼とは、久々の再会なのだと、思い込む。


 大人数が集まった広場での事件で、被害が収まったのは彼が何らかの手を打っていたからでもあるだろう。


 だが、あの男にも事情があり、そして、彼の優先順位で動いている。


 ジャケットの男やその仲間たちの事情聴取次第ではあるが、事件は解決した。

 自分たちが奔走し、犯人を追いつめたのだと思っても、結局見えていない場所で他の誰かが同じように奔走している。

 最後の一歩をかっさらわれてすっきりしない終わり方だが、一線級が集うこのドラクラスではそういうこともあるだろう。被害を考えれば解決速度が最優先だ。

 自分だけが出来ることなどほとんど無い。自分が成したことですら、きっと他の誰かの方がもっと上手くやれるだろう。


 この感覚は、ヒダマリ=アキラにずっと付き纏う。付き合い続けるしかない劣等感だ。

 大蛇を容易く一刀両断にしたあの男に会うたびに、より一層強く感じるものでもある。

 自分ではない存在は、自分よりもずっと優れているのだ。


 だが、だからと言って、自分自身を根底から諦めることは違うと感じる。感じるように、なれた。

 自分も自分の事情で、自分がやるべきだと思うことをすればいい。


「……ん?」


 歩き出そうとしたアキラの足に、こつりと小石のようなものが当たった。

 転がるそれを見ていると、銀の小さな指輪のようだ。

 この騒ぎで誰かが落としたのだろうか。

 ふと思い出したのは、先ほどこの場で転び、今、スライクによっていずこかへ連れていかれた男のことだった。


「あ、あれ? それ、どうしてここに?」

「!」


アキラが拾い上げると、背後から声をかけられた。

 そういえば、すっかり忘れていた。


「イスカ。良かった、無事だったか」

「え、ええ。……ええと?」


 振り返るとイスカ=ウェリッドがシャツをはだけさせて胸ぐらを探っている。

 思わず目を逸らしたアキラが何気なくイスカを残してきた建物屋上を見上げると、先ほどの魔術の被害を受けたのか、最上階が屋上ごと吹き飛び、雪のように土煙が降り注いでいた。

 イスカはその前にあそこから離れていたのだろう。あれほどの被害も広場付近の惨状の一部でしかないが、あれが人を捉えていたらと思うとぞっとする。


 胸を探っていたイスカは、ペンダントのようにしているらしいチェーン付きの指輪を取り出した。


「それ、これと同じなのか?」

「ええ、多分ですけど。私が落としたのかと思いました。前にシリスティアで参加した世界平和活動の参加者に配られたやつで……って、ひっ!」

「本当に聞けば色々出てくるな……」


 胸をはだけていたことに気づいたイスカが機敏にシャツを閉じた。

 邪な意味ではなくイスカに視線を向けたアキラは、大きく溜め息を吐いた。


「ま、まあ、今はお手伝い、ですね。何人も怪我をしているようですし」

「ああ。行こう」


 下手に探ると地雷が起爆する彼女の話は後回しだ。

 この惨状の中、怪我ひとつ負っていない、普段と変わらぬ彼女の様子はやはり歪に見えるが、それでも先ほど覚えたジャケットの男への嫌悪感とは比べ物にならない。


 異常の中に、普通にいる。

 その姿が、やはり見知ったものに思えた。だから無関係だと思えなかったのだろう。

 彼女自身に向き合っていないようで悪いが、ヒダマリ=アキラという人間は、博愛主義者の完璧な存在ではないのだ。


「と、ところで勇者様。あの、先ほどの話ですが」


 彼女にも彼女の事情と優先順位がある。

 足早に歩きながら、イスカがおずおずと切り出した。

 そういえば、魔導士隊を前に苛立って言ってしまったことがあった。


「ほ、本当に、わ、私を、雇っていただける、と」

「悪いそれ、やっぱ待ってくれるか」


 隣のイスカの血の気が引いたのが分かった。


 人に白も黒も無い。

 アキラも、イスカも、そして先ほどスライクが捕まえた男すらも、白い部分も黒い部分もあるのだろう。

 人自体に、善人と悪人の境目は無い。境界線など存在しない。人が成した何かが白くなったり黒くなったりするだけだ。


 過去、殺人を犯したという彼女。彼女の事情。

 彼女を知らないアキラからすれば、未だに多少なりは忌避感を覚える。

 だが、アキラは博愛主義者でもないが、潔癖主義者でもない。


「イオリとエレナに言われてるんだ。面接くらいはしろってさ」

「……ぇ」


 そんな中途半端な自分はこの先、何度だって迷うし、何度だって裏切られたような気分を味わい、何度だって自分の器の小ささに嫌気が差すだろう。

 だが、それがヒダマリ=アキラの人との向き合い方なのかもしれない。


 目の前の人間を信じるか信じないか。善と見るか悪と見るか。どうでもいいと放り投げる度量はアキラには無い。


 見えるはずもない境界線を、見つからないと分かっていても探し続けることになる。

 傍から見れば愚かだが、ヒダマリ=アキラには丁度いい。


 誰もが持つ、事情や優先順位は、当然、アキラにもある。

 何を信じて、何をするか。

 決めるのは、結局のところ、自分がどうありたいかということなのだろう。


「後で話、聞かせてもらえるか」


―――***―――


「そっちは今まで仕事だったのか?」

「そんなところだ」


 ヒダマリ=アキラが外の空気を吸いに扉を開けると、庭の先、ジェット=キャットキットを門の前で見つけた。

 すでにドラクラスの日はとっくに落ち、頼りない街灯が庭の極数か所を照らしている。

 その明かりを飛び移るように、歩くと、門に辿り着く前に行き止まりになった。

 ここが宿になるのであれば、その辺りの照明も整えることになるだろう。またルックリン頼りになりそうだ。


「今結構な人数で飲み食いしてるぞ。お前もどうだ」

「いや。今日は迷惑をかけたと伝えに来ただけだ」


 アキラが歩み寄ると、ジェットは門の壁に背を預けた。

 丁度影になる場所だった。


 背後の白い建物からは騒ぎが聞こえる。

 散々な騒ぎが起こった祭りだったが、引っ越し祝いは何とか決行できた。

 むしろ祭りの中で救護活動やらに精を出した結果、今までドラクラスで関わった者たちともたまたま会え、どうせならと引っ越し祝いに招待した結果、なかなかに豪勢な催しになってしまったような気がする。

 当然のようにあの大男はいないのだが。


 救護が一通り落ち着き、アキラたちはその場を去ったのだが、警護団としての仕事はまだまだあったのだろう。

 魔導士隊も似たようなもののはずなのだが、招待した者の中に、魔導士も幾人かいた気がする。

 もしかしたらその辺りのしわ寄せが警護団に、ひいては目の前の男にいったのかもしれない。


「捕まえた奴ら、どうなったんだ?」

「……処分はまだ決まってない。拘留して取り調べ中だが……、最初に気にするのがそれか」


 ジェットは呆れたような表情を浮かべていた。

 アキラも言わんとすることは分かる。自分は余計なことに首を突っ込みがちだ。


「まあ、事情くらいは知りたくてな。結局スライクたちが何をしていたのかも俺は知らないままだし。何が起こっていたのか、ってな」


 適当に返したが、それが自分の本心ではないような気がした。

 正確に言えば、好奇心を向けているだけだ。

 きっとこれは、野次馬根性とでも言うべき、低俗なものなのだろう。聞いておいて、恥ずかしくなる。


「俺も詳しくは知らない。原石でゲート付近を滅茶苦茶にした奴と商店から原石を盗んだ奴は、ドラクラスに来てからの知り合いらしくてな。まあ、もともと傷害窃盗上等の犯罪者だ。もうひとりいたが、似たようなもんだ。盗品の話を聞いて、協力して回収しに来たらしい」

「そんな奴らがドラクラスにいたのかよ」

「あいつらだけじゃない。そういう奴らはまだまだいるだろうし、ドラクラスに限らずどこにでもいる。そしてそういう奴らは行動や生活が似るのか、知らないうちに交流ができるもんだ。そもそも奴らが最初に会ったのは……、いや、まあ、この話はいいか」

「?」


 ジェットは言葉を濁した。

 アキラも彼らの運命的な出逢いとやらには興味は無い。


 そもそもゲート付近を滅茶苦茶にしたあの3人は、それぞれ別のどこかで罪を犯し、そしてやはり、それぞれ誰かに追われていたらしい。

 そうした流れの中、日輪属性が介入したともなれば、騒ぎが大きくなることもあるだろう。


「そういう奴らがいれば、その中からそういうことをする奴が生まれる。まあ、結局のところ、起こったことは、……は。そういうもの、なんだろうな」

「……」


 あの騒ぎで出た負傷者のことを考えると、軽々しく口に出せる言葉ではない。

 ジェットもそれが分かっているように、眉間の皺を深くしていた。

 犯罪の火種があって、そういう人がいればいつか何かが起こる。

 忌避すべきことであっても、起こるものは起こるのだ。


 だから人は、火種を必要以上に警戒する。

 いや、いつかどこかで被害が出る以上、必要以上などという言葉も軽々しく使えはしないだろう。


 しかしそれは、善悪の境界線の引き上げでもある。

 火種の火種は悪だろうか。可能性の可能性は罪だろうか。


 少なくとも、“そういう人”と烙印を押された者は、どこまで行っても可能性は消えない。


「……それで。イスカはここで雇うのか?」


 アキラもぼんやりと脳裏に浮かべたことだった。

 アキラはちらりと背後の家を見る。

 こちらが招待した集団の中に、彼女もいる。あの騒ぎのせいで色々と曖昧になって、あれから彼女とは深く話せていない。


 だが。

 『雪だるま』イスカ=ウェリッドは、人を殺しているという。


「話は聞かせてもらうよ。……だが、まあ、ルックリンさんには一応言っておいた。何しろ警護団様のお気に入りだ」

「そんな覚えは無いがな」

「は。魔導士隊にあんだけ啖呵切っておいてか」


 ジェットは、鼻で笑った。

 アキラが言ったことは的外れだろう。

 アキラは相変わらず勢いに流されただけだが、あのとき、ジェット=キャットキットという人間が執着を見せたものは確かに感じた。


「別に。どこ行っても受け入れられないってのは、辛いもんだからな」

「……」


 暗がりに潜む、ジェットの表情は見えなかった。

 ジェット=キャットキットは、最初、このドラクラスに旅の魔術師として訪れたらしい。

 誰にも事情がある。

 “とある目的”があってドラクラスに来たと言っていたが、それ以前の彼のことはまるで知らない。


 アキラは“勇者様”として、もてはやされ、順風満帆、とは言い難いが、順調に旅を続けてこられた。

 きっとそれよりも長い期間、ジェットは旅をしていたのだろう。


 同じ日輪属性だ。

 そんな彼の旅は、聞かずとも、どういうことが起こるのか想像できる。

 トラブルの種を芽吹かせる日輪属性は、悪しき可能性を呼び寄せる災厄と考える者も多いだろう。


 彼は旅の中、何を見てきたのだろうか。


「勇者様も啖呵を切ってくれて、良かったよ」

「はん」


 同じことをやり返されたので、アキラも鼻で笑ってやった。

 こちらもこちらで、自分の事情でやったのだ。


「魔導士隊にイラついたってのもあるけど、俺も俺で反省しなきゃいけなくてな。イスカを見ていた限り、危険人物には思えなかった。けど、人を殺したって聞いて、見る目を変えたから。ちゃんと話聞いてから考えるべきだった」

「そのこと自体はまずくないだろう」

「……は?」

「下手に達観するなよ。悪い奴には石を投げるもんだろう」

「善良なドラクラス住民じゃなかったのか?」

「俺からすればってだけだ」


 過激な物言いをしたジェットだが、表情は穏やかだった。

 こういうとき、ジェットからは見た目の年齢以上の経験を感じる。


「自分が悪いと思ったんなら悪いでいいだろう。達観して自分の感性を否定したり、どうでもいいと思ったりするもんじゃない。興味持って首を突っ込んだり、悪いもんに嫌な顔をしたりするのは当たり前の感性だ」

「事情を聞いて悪くなかったらどうすんだ」

「手のひら返せばいいだけのことだ。石を投げていたら誠心誠意謝ればいい」

「あんたは達観しているように見えるが?」

「俺は手遅れ側だ。感性ってのは消耗品だ。達観している奴が自分の前や上にいるもんだとは思うなよ。格好がいいように見えているだけだ」


 そう言われると、ますます自分が格好悪い気がしてくる。

 だが、彼が言っているのは、自分が悪だと思ったこと自体は否定するなということだろう。


 事情というものはどこにでもある。物事には二面性が必ずある。

 だから事情を聞いてから、なんて思ったら、目の前のことから何も感じられない。この世のあらゆるものに事情と二面性があるのだから。


 きっとそこで達観しようとするのは、間違えることを恐れるからだ。

 手のひらを反すことを恐れ、自分の感性を縛り付ける。確かにいつもそんなことをしていたら、感性というものは摩耗する。


 信じていい。騙されていい。

 合っていたら喜び、間違っていたら反省する。

 そんな足元もおぼつかない、不安定な存在は、自他共から見て格好が付かない。


 だが、ヒダマリ=アキラという人間は、この先もずっとそうなのだろう。

 そしてジェットが言うには、それは当たり前のことらしい。


「……ん? ああ、聞こえている。……、……いや、大丈夫だ。……ああ、分かった」

「……おい?」


 ジェットが口早に呟き、幾度か周囲を伺うと、小さく溜め息を吐いた。


「また仕事かよ」

「そんなところだ。邪魔したな」


 以前、ドラクラス警護団に一時的にでも入れば懐が潤うのではと考えたが、目の前の男を見ていると、仕事というものを知らないアキラの浅慮だったらしい。

 もっとも、やたらと働き続けるこの男が例外中の例外なのだろうが。


「イスカの件。個人的にだが、いい結果になってよかった」

「……たまには会いに来てやれよ」

「タイミングが合えばな」


 相変わらず足早に、ジェット=キャットキットは去っていく。

 去り際があっさりとしているあの男は、このあとも、善良なるドラクラスの住民のために働くのだろう。


 ジェットもアキラと同じだ。

 イスカ自身に強く固執していたわけではない。

 執着していたわけではなく、さりとて軽視しているわけでは決してなく、正しく向き合っているという熱を感じた。

 アキラから見て、その辺りのバランスが整っているような、そんな気がした。


 あの男も、旅の魔術師としてこのドラクラスを訪れたという。

 流れに流れてドラクラスに辿り着いたイスカに同調したのか、あるいは単に、ドラクラス住民への執着か。

 答えは分からないが、あの男も、彼の事情と優先順位で生きている。

 それでも、善良なる住民からは頼りになる男のようだ。


「ドラクラス警護団、か」


 アキラが今まで関わってこなかった警護団という組織は、どうやら住民として信用できるらしい。

 ずんずんと離れていくジェットの背から視線を切って、アキラは自分の事情と優先順位に向き合った。


 今日は随分な騒ぎになったが、これがドラクラスの日常でないと信じたい。これについては裏切られたくはない。


 こうしている間にも着々とどこかで何かが起こっているかもしれないが、住民として、警護団が何とかしてくれると信じていよう。


 自分の世界の裏側で起こっている問題は、それこそ遠視でもしなければ分からない。

 ならばせめて、自分の目の前には向き合おう。


 フェシリアの実験の協力、『名前のない荒野』についての調べもの。そして、アキラが参加できるか怪しいという魔門破壊。

 ついでに言えば、近々にエリーの掃除に付き合うことにもなりそうだ、

 だが、まずは宴会。そして明日、『雪だるま』イスカ=ウェリッドの面接だ。


 盗まれた魔力の原石の問題も解決し、それが理由で魔導士隊に呼ばれていたイスカもとりあえずは生活が安定するだろう。


 やることはごちゃごちゃで、山積みだ。

 感性が摩耗するらしいから、ものによっては素直に面倒くさいと思いながらやってみようか。


「……?」


 そこで、ふと、アキラの胸に小さな違和感が生まれた。


 あのとき屋上で会った、イスカを連れ去ろうとした魔導士たち。

 頭に血が上っていて気づかなかったが、もともとグリンプがイスカを呼ぼうとしたのは、魔門破壊に利用する原石を扱う商店の従業員だったからのはずだ。


 あのタイミングでは、すでに事件の調査は各方面で進み、イスカは魔門破壊計画と何ら関係の無い立場にあったはずだ。

 それなのに何故、魔導士という立場の人間がふたりもイスカを探していたのか。

 情報伝達が上手くいっていなかったのだろうか。


 答えの出ない違和感は、我が家の扉を開けたときに溶けていった。


―――***―――


「邪魔するよ。まったく、なんだいなんだい、この忙しいときにっ。怪我人の治療に病室の手配、ゲートの補修に商店街も全店耐久性の再調査さ。人がいくらいても足りやしないよ。“こんな稼ぎ時”だってのに……おっとドーナもいたのかい」

「ええ。ご無沙汰しております」

「はっはあ、ついこの前も会っただろう。あんたはそればっかだねえ」

「着きたまえ」

「はいはいどうしたどうした、グリンプの坊や。私らを呼びつけてさ」


 グリンプ=カリヴィス7世は組んだ指に顎を乗せたまま、入室してきた快活な老婆をじろりと睨んだ。

 時間は深夜、場所はグリンプが愛用する会議室である。

 いつもなら背後に控えさせている魔導士隊の者たちは下がらせており、この部屋には、グリンプを含め3人しかいない。


 軍事を担う、グリンプ=カリヴィス7世。

 経済を担う、ルックリン=ナーシャ。

 治安を担う、ドーナ=サスティバ。


 巷では『三魔人』と呼ばれる、ドラクラスの支配者たちである。

 民衆から出はそれぞれが持つ力と同様、そしてそれぞれの関係値も見えてはいないであろう。

 このうち誰かが決めたことが、末端の末端の末端に伝わり、そして民衆の前に形として現れる。


 それぞれ相反する指示が出ることから、『三魔人』は対立しあっていると噂する者も多い。

 席を同じくして話すことなどあり得ないと思う者もいるだろう。


 だが当然、ドラクラスのために、こうして三者が集まって話すことはままある。

 今回の騒動の発端となっている引っ越し騒ぎは勿論として、ドラクラスの『接続者』に関わる問題など、重要な問題や根本的なものは、末端の人間が無意味に対立することはそれぞれ望んではいない。

 そして、魔人は絶大な力を持つがゆえに、意図せぬところで別の魔人の介入があると、歯車が大いに狂ってしまう。

 グリンプも、勝手に動かぬように釘を差すときなどは、このふたりを呼び出すのだ。


 とはいえ、噂も真実である。

 『三魔人』はドラクラスのために活動する協力者ではあるが、志を同じにする者では決してない。


 それゆえ、こうして付き人もつけずに話すことは、まずありえない。


 噂には、真実と虚偽が混ざり合う。

 そしてどれが真実なのか、どれが虚偽なのか、噂の枠を出ない以上見分けはつかない。


 この部屋で起こっていたことなど、誰にも分かりはしないのだ。


「今日の出来事についてだ。齟齬があってはならない。改めて確認したいことがある」


 グリンプは、不気味に笑う老婆に厳格に言った。


 本日、ドラクラスでは大事件が発生した。

 ルックリン=ナーシャの息のかかった者たちが主催した、初回の引っ越しの成功を祝う祭りで、犯罪者が騒ぎを起こしたのだ。


 1階中央ゲート付近の被害状況は目を覆いたくなるほど酷く、被害者も多い。

 祭りも強制的に中止し、魔導士隊や魔術師隊、医療従事者や警護団も総動員し、被害者の救護活動に当たった。

 その場に居合わせた有志の協力もあり、一通りの落ち着きは取り戻せたが、まだまだ課題は山積みである。

 怪我人の搬送に病室の確保、医療器具や薬の補充。損壊した建物の補修など、それぞれの役割を持った者たちは、ここ数日は眠る暇もないであろう。


 そんな目を覆いたくなるような被害の一因は、集まった人の数、つまりは祭りの規模によるものである。


 その祭りの主催者であるルックリンにも責任はあるのだが、やはり老婆は軽快に笑っていた。


 経済と情報の魔人。ルックリン=ナーシャ。


 この老婆は、全貌をグリンプですら把握していないほど、あらゆる商会に手をかけているという。

 大きな祭りが台無しになろうが、人が傷つけば医療関係者が儲かり、建物が倒壊すれば土木事業や建築事業が儲かる。

 手がける規模が巨大な結果、常に両掛けのポートフォリオが形成されているのだ。


 彼女にとって問題になるのは、“何も起こらない”ことだけである。

 ルックリン=ナーシャにとっては、祭りが成功を収めても、大事件が起きて街がめちゃくちゃになろうとも、同じことだ。

 この引っ越し騒動で、この街は今、必ず“何か”が起こり続けている。ルックリンにとっては面白くて仕方がない状況だろう。


 結果、この事件で割を食ったのは魔術師隊や魔導士隊、そして警護団だ。

 民衆は突発的に犯罪が起こること自体には寛容だが、理解が及びやすい、それを未然に防げたかの予見性や、発生したときに被害をどこまで抑えられたかを追及する。

 大規模な祭り自体、ルックリンの仕切りであっても、魔導士隊や警護団が事前に口を挟んで規模の縮小や調整が出来たのではと考える者も多いだろう。


 どうしたって分かりやすく見えやすい力を持った組織に非難が集まるのは当然だ。

 民衆に、ドラクラスを守る組織への不信感が募ったのは間違いない。この先も似たような事件が起きるたび、この事件のことを掘り返されるだろう。


 だが、グリンプにとってはその程度の不信感が生まれることは些事であり、そしてルックリンは“稼ぎ方”が変わっただけである。

 グリンプも、そして不気味に笑うルックリンも、祭りで出た被害など、すでに、いや、もともと気にしていなかった。

 ゆえにルックリンは、呼ばれた理由を忌々しくも察しているらしく、やはりじろじろとこちらの顔を見て、笑うのだ。


 今日の出来事。起こっていたこと。

 それはグリンプにとって、祭りの事件や、あるいは、“魔門破壊などよりも重大な問題だった”。


「まあ、呼び出した理由は察しがつくけどね。はっはあ、私の耳にも届いているよ、下手を打ったねえグリンプの坊や。私から情報を買っといて、上手く使えないんじゃ持ち腐れだ。女ひとり口説くこともできないなんてさ」

「……魔導士隊のミスだ」

「あんたにとってはそうだろうねえ。自分が出来ることを他人も出来るとつい思っちまうのは悪い癖だよ。まあ、ツキも無かったか。日輪が絡まなきゃ―――“イスカ=ウェリッドの取り調べなんて簡単なことだった”」


 グリンプは歯を食いしばった。

 ツキが無かった。

 そう言われてしまえばそれまでだが、忌避する言葉だった。


 物事はすべて計算の上に成り立つ。


 この引っ越し騒動でもそうだ。

 移動ルート上に位置する町や村を移動させたときの住民たち反発は、経済的な理由だけではない。自分が生まれ育った町を愛し、ドラクラスに踏み潰されてでも移動しないと豪語した者たちも多かった。

 だが、彼らへの説得材料も想定した通りに準備でき、想定した通りに移動をさせた。


 物理的なものは当然とし、人の心の機微に大衆の動向、感情が絡むことですら、それらすべてを読み切り、綿密な計画を立てられるのだ。


 物理、感情、論理、そしてあるいは運すらも、そのすべてはパズルのピースでしかなく、目的の絵を生み出すためにはめ込むことが出来るのだ。

 確かに、不確定要素というものはどうしたって存在する。

 だが、グリンプの目には、その振れ幅がはっきりと見えていた。


 その不確定要素すべてが下振れたとしても、目的を達成するものを、グリンプは計画と呼ぶ。


 それゆえ、たったひとつの運という要素が、すべてを覆すことなど許されない。


 だが今、グリンプはっきりと、自らの不運を呪っていた。


 日輪属性。

 グリンプは、日輪属性というものを、理解し切っているとは言わないが、理解しているつもりだった。

 確かに、今までグリンプが知り得る中で、最も振れ幅の大きいピースである。


 今日の出来事はすべてが下振れたと言っていい。

 イスカ=ウェリッドの職場で火災が発生したタイミング、遣いに出した魔導士隊の対応や機転の不足。

 それらもさることながら、最大に下振れたのは日輪属性の影響力だ。


 何の問題も無いただの日常に日輪属性が介入しただけで、ドラクラス中を巻き込む事件に発展し、結果、イスカ=ウェリッドは正規の組織にとって最も手が出し辛い存在となってしまった。

 それが無ければ、今頃グリンプは、祭りの事件の騒ぎに奔走する者たちに指示を出し、魔門破壊の計画に専念出来ていたというのに。


 そして、そもそもの発端は。


「ルックリン。改めて確認する。あの話は正確なんだろうな」

「なんだいなんだい、大慌てで呼び出したのは、私の“商品”を疑っていたからかい? ……間違いないよ―――“エレナ=ファンツェルンのファンクラブからの情報だ”。勇者様御一行の木曜の魔術師は、シリスティアのファンツェルン家のご令嬢で間違いない。生きていたんだねえ」


 ぐ、とグリンプは唸った。商売に関してはこの老婆を疑うのは誤りだろう。


「噂ではない、でいいんだな」

「しつこいねえ、私が何のためにファンクラブに遣いを出していると思っているんだい。ヒダマリ=アキラの一派の確定情報を手に入れるためだよ」


 半分祈るように聞いたが、残念ながら間違いがないらしい。


 ドラクラスは世界中の情報を集めているが、当然抜け漏れはある。

 世間を騒がせる傑物たちであっても、その内情を知る者は多くない。広まるのは、あくまで噂話でしかないのだ。

 そんなものに右往左往されるのは愚かでしかない。


 ヒダマリ=アキラの一派も同様だ。

 魔導士としての活動歴があるホンジョウ=イオリやマリサス=アーティ、そして、魔術師隊の質問に必要以上のことまで応えるアルティア=ウィン=クーデフォンの“確定情報”は多いが、その他の面々は実のところ情報の粒度が荒い。

 そしてその中でも、魔術師隊に応答せず、逃げ回り、ともすれば実力行使で魔術師隊を黙らせるエレナ=ファンツェルンは、謎の人物である。

 有名なファンツェルンの姓を持ち、噂は立っていたが、有名なだけに騙りやすい名前でもあるのだ。


 だが、好意から生まれたファンクラブとやらとのやり取りでは口も軽くなるのか、そうしたコミュニティでは情報が洗練されるのか、確定情報が出てきている。


 彼女が、“誘拐”されたファンツェルン家の娘であることが確定した。


 そして、そこからがグリンプとしての大問題に発展する。

 その“誘拐事件”の顛末。

 そして以前、魔門破壊の際のエレナ=ファンツェルンの“力”について、アラスール=デミオンから報告を受けている。


「“ヴァリス=アーティ”……、ああいや、貴族様になってヴァリス=ウェリッドか。ウェリッド家とファンツェルン家に付き合いがあったらなら、“可能性は極めて高い”―――『プロジェクト:アーティ』が続いていたかもしれないってね」

「ルックリン……!!」

「おっと怖い怖い、誰も聞いちゃいないさ、びくびくしなさんな」


 グリンプは、恐ろしく冷淡な視線をルックリンに向けた。

 鼓動がやや早くなる。

 たとえこの面子だとしても、軽々しく口にしていいことでは無い。


「で、どうすんのさ。あんたが下手打った結果、イスカ=ウェリッドは勇者様の庇護下にある。あんたにとっちゃ手を出し辛いだろう」

「そのためにお前を呼んだ。イスカ=ウェリッドに監視を付けろ」

「はいはい毎度あり、言い値でいいね?」


 グリンプは鼻を鳴らすだけで返した。

 状況は最悪だ。

 イスカ=ウェリッドが何も知らない可能性はある。

 ヒダマリ=アキラが彼女を雇い、ごく近くで生活をしても、“その話”に及ばない可能性もある。

 たとえ及んだとしても、グリンプが想定する最悪の事態にはならない可能性も高い。


 可能性の可能性だ。

 だが、その不確定要素が下振れることは許されない。

 そして下振れる要素はすでにある。

 ヒダマリ=アキラは、エリサス=アーティと長く旅をし、マリサス=アーティと出会い、そして、フェシリア=アーティとも交流を持ってしまった。

 いかに愚鈍であろうが、興味を持たない方が難しい。すでに行動に移していてもおかしくは無い。


 だが、強い影響力を持つ勇者であるヒダマリ=アキラには、絶対に『プロジェクト:アーティ』を知られるわけにはいかない。


 後悔先に立たず。

 グリンプは今さらながらに、イスカ=ウェリッドがドラクラスを訪れたときから行動を起こすべきだと後悔した。

 ただの民間人として過ごすのであればと見逃した当時の判断自体に誤りはないだろう。

 だが、あのとき見た下振れは、日輪属性の介入で更新されてしまったのかもしれない。


 グリンプは、そのイスカ=ウェリッドに最初に接触し、彼女は民間の職に就くと伝えてきた男を睨んだ。


「おっと、途中参加の私が邪魔したね。ドーナ、あんたは何しにきたんだい?」

「いえいえ。おふたりのお話がお済みになってからで結構ですよ。私はただ、グリンプ氏の依頼のご報告に来ただけですので」


 存在すら希薄な、細い、崩れ落ちそうな枯れ木から、ちょうど耳に届く音が出てきた。


 ドラクラス警護団を率いるドーナ=サスティバ。

 この男もまた、グリンプのように、不確定要素の振れ幅が見える男だろう。

 しかしそれは、グリンプとはまた軸の違う幅である。


「私の商売はここいらで手打ちさ。で、どうしたって? “魔門破壊反対派の話”だろう」

「お耳が早い」


 また金になるかと目をぎらつかせ、勝手に話を進めるルックリンに、ドーナは落ち着き払って応じた。


 経済、そして情報を司るルックリン=ナーシャ。

 その情報は民衆から出ることがほとんどだ。

 そしてその民衆に多大な影響があるドーナ=サスティバと、ときとして同じようなことを考える。

 だが、ふたりの異常性の本質は異なるのだ。


「グリンプ氏。魔門破壊の障害は軽減されたようです」


 あっさりと言うドーナを、グリンプはぎろりと睨んだ。

 ルックリンは、また目をぎらつかせて言葉を待つ。


 民衆の活動である魔門破壊反対派は、思想の問題だ。正規な組織では弾圧できない。

 裏仕事になると判断し、そのままドーナに依頼したのだが、この男は、想像通り、グリンプの立場ではできないことを実行した。


「今日、魔門破壊に使用する魔力の原石の盗難、そして付随した殺人。および多くの被害者が出た傷害事件が起こりました。……痛ましいものです」

「おいおい。犯人は、……魔門破壊反対派の奴らじゃなかったんだろう?」


 ルックリンがにやりと笑う。

 言いながら彼女もドーナの言葉の意味を察したらしく、またグリンプに視線を向けてきた。


 魔人はそれぞれ、異常性が異なる。

 常人では夢物語の計画すら実現するグリンプ=カリヴィス7世。

 常人すべての動向を己の財とするルックリン=ナーシャ。


 そして、ドーナ=サスティバという魔人の異常性。


 この魔人は、常人が受け入れる、“真実を創り出す”。


「たとえそうでも……、“魔門破壊計画が滞る物損が出たのでしょう?”。少なくとも、魔導士隊で、怪しげな活動に探りを入れる必要があるのではないでしょうか」


 魔門破壊反対派が魔術師隊や魔導士隊にとって手を出し辛かった最大の問題は、彼らが真摯な活動をしていたからである。


 演説も事前に許可を取り、集団での活動も交通を阻害せず、至ってまっとうな民間の活動だった。

 そうした活動に魔術師隊が不当に介入すると、それを目にする民間人からすら煙たがられ、かえって民衆の活動である反対派が活性化してしまう。

 魔門破壊反対派は、ただの烏合の衆ではない。そうした活動のノウハウを持った者たちも参加している。

 それゆえ、魔術師隊も彼らの活動に文句を言えず、精々、道行く際に偶然を装って呼び止め、さりげなく正当に問題にできる埃が出るよう叩くくらいしかできなかった。


 だが今日の祭りの事件。

 魔門破壊計画で使用する魔力の原石が盗まれ、数多くの民間人の中、その力を振るわれるという大事件が勃発した。

 民間の活動のような形の無いものではなく、具体的かつ物理的な事件の発生は、魔術師隊が街の警備のレベルを上げるに足る客観的な事象だ。


 そして当然、その事件と、魔門破壊計画と対立している反対派の活動との関連性を“疑ってもおかしくはない”。

 反対派への職質に力を入れても、先日発生した事件の関係で警備を強化しているとでも言えば、一定の理解は得られる。


 つまりは、本日の事件で、魔術師隊が民間の魔門破壊反対派へ強く介入する大義名分が出来ていた。


「ひっひ、そんなに上手くいくもんかねえ? あいつらなかなか手練れだよ。普通に叩いたって埃なんてほとんど出やしないだろうね」

「解散や活動停止命令などはそもそも不要でしょう。問題なのは、彼らの今の勢いだけ。それが弱まりさえすればよかったのでは?」


 ドーナがその血色の悪そうな顔を向けてきた。

 グリンプは強く奥歯を噛みしめる。


 ドーナの言う通り、問題なのは魔門破壊反対派が存在することでは無い。

 目の前に魔門破壊が迫り、当然活性化するその勢いだけが問題だった。

 民間の活動というのは馬鹿にならない。特に一時的に熱が高まったときの勢いは短絡的かつ過激だ。

 商売事ですら魔門破壊に関わるならとボイコットするような活動にすらなりかねない。

 資材調達のひとつとっても滞れば、いかに精鋭を集めたところでどうしようもないのだ。その下振れは許容できない。


 だが、一時的にでも水を撒ければ、たとえ地下で燻っていても、再び燃え上がる頃には魔門破壊計画は完遂している。


 グリンプは、一瞬だけ面白くなさそうな顔をしたルックリンを盗み見た。儲け損ねたとでも考えているのだろう。

 もともと、魔門破壊反対派の問題は、このふたりのどちらかを働かせようと考えていた問題だった。

 ルックリンに依頼すれば、大方、魔術師隊が叩いても埃の出ない反対派から、ゴミ山を見つけてくるようなやり方だったであろう。

 この情報の魔人は、清廉潔白な人間からすら黒く塗り潰せるだけの汚点を見つけ出す。

 様子からするに、グリンプから依頼が来る可能性を考え、すでに掴んでいたのかもしれない。

 そちらの方は、今さら興味は無い。


 だが、“叩く理由を創り出した”ドーナには、はっきりと確認すべきことがあった。


「ドーナ。私の聞き間違いか? “お前が事件を起こしたような口ぶりだ”」


 グリンプは魔術師隊や魔導士隊など、ドラクラスの正規の組織を管理監督している。

 ドーナの態度は、最高指揮官として見過ごせないものだ。


「……」


 枯れ木のような男は、揺らぎ、首を傾げた。

 ぞっとするような虚ろな瞳は、ただただ静かに、グリンプを捉えていた。


「ああ。いえいえ、言葉足らずですみません。私が言いたかったのは、あの事件が起きたのは、ひとえにドラクラスの治安の問題だったということです。警護団として、お恥ずかしい限りですね。ああいう方たちがいれば、事件はどうしても起こってしまいますので」

「……」


 プロバビリティの犯罪というものがある。


 例えば殺人。

 故意に刃物で相手を刺せば当然事件だ。

 だが偶然、高いところから刃物が落ち、相手に刺さってしまったら、事故となることもある。

 ではその刃物を、相手が“来るかもしれない”場所に“置き忘れていたら”、事件だろうか、事故だろうか。


 置き忘れたのは偶然だし、相手が来なければただ刃物がそこにあるだけである。

 可能性の可能性は悪ではない。

 さらに、相手が稀に表れる場所に置き忘れることもある、と、相手に刃物が刺さる確率を下げていけば、予見性すら希薄になり、そこに悪意は存在しない、ことになる。


 その犯罪は、“そうした罠を複数設ける”。

 海難事故の恐れがあるものの海釣りへ誘い、遭難の可能性があるものの山へ誘い、場所に限らず、食中毒の恐れがあるもののやや古くなった食材で料理を振る舞う。

 直接危害を加えるわけではない。ただ、あくまで日常の範囲の行動で、対象が死亡する確率が上がってしまうだけだ。


 それぞれの発生確率は極めて低い。だが成功すれば、犯人不在の“事故”となるのだ。


 そして。

 この引っ越し騒ぎで、ドラクラスには善人悪人問わず人が多く集まっている。

 その悪人がすべて事件を起こすとは限らない。だが、起こす可能性は秘めている。


 では。

 そうした民間を抑えるこのドラクラス警護団の団長は果たしてどうか。


 ドラクラス警護団が根を張る街には、いくつもの“種”が存在する。

 ひとつの“偶然”で済む殺人と異なり、それらはまるでドミノ倒しのように不安定に安定し、他の誰にも見えない起点が倒されると、連動して倒れ、何かの絵を生み出す。

 どこに連鎖が始まる装置が存在しているのかは、その種を設けた者にしか分からない。


 ドーナ=サスティバは、ドラクラスの平穏を守っているのではない。

 治安を、支配しているのだ。


「ああ、“言葉を間違えていましたね”。ご依頼の報告ではなく、謝罪に来たのでした。この件は、治安の悪さが生み出してしまった……私の不手際によるものとも言えますので」


 本音と建前。

 それらを露骨に口に出すドーナに、グリンプは表情を変えなかった。

 ドーナの言う通り、今日、あの犯人たちが、あの事件を起こしたこと自体は偶然だろう。


 しかし、同じような“種”はこのドラクラスにいくつ仕込まれているのか。

 定かではないが、ひとつだけ分かることがある。


 すべては偶然から生み出されるものでしかない。彼を罪に問うことは不可能だ。


 もっとも、それらの種が芽吹いたのが、グリンプが魔門破壊反対派の抑制を依頼した直後というのは流石に出来過ぎである。


 だが、グリンプには察しがついていた。

 この男は、偶然を必然にするカードを使ったのだ。


「ただ……、不幸中の幸いとでも言いましょうか。魔門破壊計画も民衆に理解されやすくなったかもしれません―――スライク=キース=ガイロードの理外の力を見た方も多いでしょう」


 日輪属性が介入すれば、散り散りになった点は線になる。


 そして、今回の騒動の“効果”はそれだけではない。


 魔力の原石の使用者が暴走し、阿鼻叫喚の地獄絵図となった祭りの会場。

 誰もが次の悲劇に怯える中、駄目押しとばかりに現れた大蛇の召喚獣。

 しかしそれは、突如現れた救世主によって瞬時に討伐された。


 魔門破壊に対する街の評価はグリンプも知っている。

 いかにヨーテンガースといえども民間人は民間人。旅の魔術師の力や活躍などを知る者は少ない。

 大きな事件のたびに上げられる偉人超人も、彼らにとっては裏の世界の住人だ。

 そんなどこの馬の骨とも知らぬ、現実感のない存在が魔門に手を出すとなれば反対派の心情も分かる。

 魔門すら縁遠い彼らだが、ネガティブな情報は不正確でも肥大化するものだ。いや、むしろ不正確な方がより一層危険な想像を駆り立てられるだろう。民衆というのはそういうものだ。


 だが魔門破壊に参加する、その救世主の力を間近で見たとなれば少しは評価を改めるだろう。

 目の前にある希望を愚直に信じるのもまた民衆の特徴だ。

 魔門破壊の重要性と安全性を、講演や演説で訴えたところで疑念は払拭しない。

 この男は、さりげなく、スライク=キース=ガイロードが実際の大事件を解決する様を見せつけたのだ。

 その結果、民衆には多大な被害が出た。


 これが今日、この男が創り出した“真実”である。


「……ふん」


 グリンプは、鼻を鳴らしてドーナを睨んだ。

 淡く、薄く、頼りない風貌の男は、ゆったりと、立ち上がった。


「ではご報告……謝罪も終わりましたので、私はこれで。また何かございましたらご用命を。今回はあまりお力になれませんでしたが」

「待ちなドーナ」


 ルックリンの声に、ふらりとドーナが振り返った。

 彼女に向ける目すら、虚ろで、弱々しく、どこを見ているのか分からない。


「いかがいたしましたか?」

「なあにただの雑談さね。さっきの話さ。私にとっちゃ都合が良かったけど、ファンクラブなんてもんが、随分タイミングよくできたと思わないかい?」


 ドーナは、細い指で顎をさすり、やつれたような顔を笑わせた。


「ルックリン氏の日頃の行いがいいからでしょう。そもそも、エレナ=ファンツェルンをはじめ、ああした魅力のある方にはそういうものが勝手にできる。そういうものなのです。……まあ、そうした活動の始め方が分からない方に手を差し伸べるのは、警護団の仕事とも言えますが」

「やっかみのつもりじゃないよ。言ったろ雑談さ。次に起きる“偶然”はなんだろうね、って話さね」

「……それは、あなたの方がお詳しいでしょう」


 ドーナの目に、僅かばかり力が籠った。

 ルックリンは軽々しく笑いながらもドーナを探るように見ていた。

 このふたりの異常性は異なる。

 だがそれを考えるのは、計画が終わった今ではない。


「ああ、私も言い忘れていたことがありました」


 ドーナは、僅かな力が籠った瞳をそのままグリンプへ向けてきた。


「本日私が手配した、……いや、手配したと思い込んでいたスライク=キース=ガイロードへの依頼。つい興味本位で出所を調べてみたのですが、犯人が以前起こした事件は魔術師隊がご担当されていたそうで」

「……何が言いたい」

「いえいえ。ただのお礼です。……もう一手くらい打ちたいと思っていたところに、渡りに船でしたので」


 この男は、偶然を必然にするカードを使った。

 だが、そのカードを用意したのはこの男ではない。


「ふん。日頃の行いとやらだろう」

「これはこれは。……まあ、もしグリンプ氏の御手を煩わせてしまったのであれば申し訳ないと思っていただけです。ご記憶に無いようですが、とても有り難かった。もし無ければ、もうひとつふたつ、“偶然”が必要だったかもしれません」


 どうやら余計なことをするなと言いたいらしい。

 そのままよたよたと部屋を出ていくドーナを、グリンプは表情ひとつ変えず見送った。


「下振れを引かん男だ」


 ドアがゆっくりと締まり、グリンプは、また、鼻を鳴らした。


「いいねえいいねえどんどんやり合いな。あんたたちが吠えれば吠えるほど“何か”が起きる。さ、私もお暇させてもらうよ、祭りの事後処理に勇者様からのご依頼もある。笑いが止まらないねえ」


 ルックリンが快活に笑いながら立ち上がった。

 今、この老婆に顔を向ける気にはなれない。


 魔門破壊計画の障害は順調に排除されている。

 ドラクラスの引っ越し自体も、微修正や調整をしつつ、大枠の計画自体は変更が無い。

 だが、それだけに、今日の落ち度は自分を許せない。


「……ま。今日のことは運が悪かったと開き直ってどんと構えときな。ドーナが介入した火事のせいで七面倒臭いことになったのさ。おっと、“偶然”起こったんだったね」


 顔を合わせられないルックリンの視線が、子供をあやすような不快な温かみを帯びているような気がした。


 ルックリンの言う通り、魔人同士が意図しないところで衝突してしまったのだろう。


 放火事件という“偶然”が起きたのがイスカ=ウェリッドの職場でなければ。

 魔導士隊が向かった先にジェット=キャットキットがいなければ。

 そして、ヒダマリ=アキラが介入していなければ。


 確かに不運は言い出したらきりがない。

 だが、グリンプ=カリヴィス7世は、そんな言い訳を許さない。

 求めるのは結果だけだ。


 つい慌てて、簡単なことだと思ってやったら、そこに不運が重なった。こんなことになるとは思わなかった。

 まるで新人のような無様な言い訳だ。


 徹底的に分析し、問題の解消と金輪際の再発の防止をしなければならない。

 そこに偶然性はあってはならない。

 そういうものと、言っても思ってもならない。


 指を汲んだまま奥歯を噛みしめ、グリンプは、偶然を許容し操る男が出ていった扉を睨んだ。

 扉の前、ルックリン=ナーシャが、呆れたような様子でこちらを見つめていた。


「……いつまでいる気だ。下がりなさい」

「ひっひ、怖い怖い。ま、年長者からのアドバイスさ。酒でもかっ喰らって寝ちまいな。頼まれた件はやっとくよ。それじゃあお休み、グリンプの坊や」


 ルックリンが去り、ひとり残されたグリンプは、それでもじっと扉を睨み続けていた。


 酒など飲んでいる暇はない。

 本日ようやく魔門破壊の参加者が決定したが、計画の進捗は反対派の活動の影響分のロスがある。

 業者選定も峠を迎え、魔門破壊の依頼中のドラクラス警護計画も十全とは言い難い。


 計画には完全性が求められる。

 ほんの僅かにでも綻びがあるものは許されない。

 当然、不測の事態というものはあるだろう。

 だが、穢れひとつ無い完璧な計画を用意する者だけが、不測の事態という言葉を使ってもよいのだ。


 ゆえに、それだけに。


「……っ」


 グリンプは強く頭を振った。

 自分らしからぬ、今日の浅慮な行動の後悔は、しばらく引きずってしまうかもしれない。


 それでも、思考を鈍らせるこの感情を制御しなければならない。

 魔導士隊が下手を打とうが構わない。当然考慮した計画を立案している。

 だが、自分は下振れを引いてはならないのだ。


 そんな風に自己を整えようとすると、いつも思考の中、笑う老婆の姿が邪魔をする。

 まるで気難しく考えている姿が滑稽だとでも言うように、暖かな視線を向けてくるのだ。


 グリンプは、気を落ち着けるように大きく息を吸い、ゆっくりと吐き出した。

 机に拳を置いて、頭を抱えて項垂れる。


「俺はまだまだ坊やですか。……ルックリンさん」


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