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おんりーらぶ!?【第二部】  作者: コー
中央の大陸『ヨーテンガース』 ドラクラス編
61/68

第66話『光の創め9---幕間-起こるかもしれないこと---』

―――***―――


 ミツルギ=サクラは言った。


「は? 戻ってくるなり何を言い出すかと思えば。……ま、まあ、お前が決めたことなら、私に文句はない。そもそもお前宛ての献品でもある。ただ、そういうものはもう少し慎重に考えるべきだろう。あるように見えて、運用しない資金というのはあっという間になくなる。私も以前、痛い目を見たことがあるよ。無駄遣いとまでは言わないが、もし今の宿への不満からの意欲なら、冷静になった方がいい。我慢できないほど悪いものではないだろう。隣の芝生は青く見えるだけだ。……希望? ……。特には無い。あれこれやるより節約することを考えた方がいいだろう。どうせ大して使わないわけだから。……いや、強く賛同しているわけでもないが、否定しているわけでもない。私も旅は長い。もしかしたらそういうことにはそもそも関心が薄いのかもしれないな」


 アルティア=ウィン=クーデフォンは言った。


「ありますありますめっちゃ希望ありますよ!! わわわ、夢のようです!! できればおっきな本棚が欲しいですねぇ。ほら、アイルークのあっしの部屋みたいに漫画とかでいっぱいにしたいです! 買いたい本がたくさんありまして。あとはみんなでのんびりできるリビングに、お食事もできるキッチンに、おっきなお風呂に、へへへ、お庭とかもあったりします? あっし、お庭でのバーベキューとかに憧れてまして。昔お母さんたちにご馳走しようと道端でやったら、火事になりかけて、ちょっとトラウマになるレベルで怒られました。……いや、風のせいですよ。風のせいで、炭がぶわってなって。ええ。それが面白くてあっしがお母さんたちを急いで呼びに行こうとしたら転んで焚き火台をひっくり返したんで、風のせいです。今こそリベンジです! ……え? お部屋? みんな一緒でもいいですよー! ……あ、アッキーは別ですよ!」


 エレナ=ファンツェルンは言った。


「へえ。まあ、別にどこでも変わらないし、どうでもいいんじゃない? ……希望? 希望なんてないわ、どこを買っても最低限はあるでしょ。普段使いの部屋にドレッシングルームに寝室に厨房にワインセラーに……、ああ、エントランスは広めの方がいいかもね。じゃあ、準備が出来たら教えて。様子くらい見に行ってあげるから。 ……私? え。私も手伝えって? ふふ、何も知らないのね。そういうことのために執事長がいるのでしょう。これから世話もさせるわけだから、面接くらいはしておきなさいよね。それからメイドに料理長に庭師に……、ああ、そういう面接を手伝って欲しいってこと? いやよ、面倒だし。執事長に採用もやらせたら? 気に入らなかったら変えればいいしね。……あら? アキラ君? 話は終わってないわよ?」


 ホンジョウ=イオリは言った。


「いやいや、大変だったろう。お疲れさま。ドラクラスの外での生活はどうだったかな? ……それで、ホームシックにでもなったのかな。……悪くはない、とは思う。少々やり過ぎだけど。……ただ、何だろうね。君はどうしてそういうことを決めた後に言うのかな、っていうイラつき……、いや、疑問が出てきただけだ。……希望? 希望も何もないよ。まあ、個室はあるとありがたいけど、ほとんど寝泊まりするだけだろう、今と同じでも事足りているかな。みんなもそうじゃないかと思うよ。そもそも宿でももぬけの殻の面々なんだから。そんなことより、“あの放送”を聞いたよね。そっちの方が問題だ。彼女とも話したんだろう?」


 全員の意見を踏襲しつつ悩みに悩んで購入してみた家を前に、エリサス=アーティが言った。


「……宿!?」


――――――


 おんりーらぶ!?


――――――


「ちょっと!! なんであんたが私のソファの隣に陣取ってるの!? そこはアキラ君を置くつもりの場所よ!!」

「ふへっへっへ。エレお姉さま、こういうのは早い者勝ちなのです。お部屋のときはお譲りしたじゃないですか」

「私の部屋に入り込もうとしたあんたを放り出したのを譲ったと言い張る気……!? ……あ。厨房に近いし向こうがいいかも。日当たりもまあまあね」

「……はっ! 待ってくださいエレお姉さま!! そういうことは話し合いで決めましょう!」


 ヒダマリ=アキラは、早速始まっている陣地取りを微笑ましく眺めていた。

 自分が家具のような扱いを受けている気もするが。


 みんなが乗る気でない中、それでも頑張って聞き回り、資金の運用とか庭とかエントランスとか今と同じようなとか、頭の中がごちゃごちゃした結果、辿り着いたのは宿泊施設として建てられた、イメージする家とはかなり離れた建物だった。


 最初から勧められた候補の中にはあったものの、一番高く、流石に例外過ぎて当て馬のように捉えていたのだが、人に聞いたりもろもろ考え続けていたりしていると、悪くないように思えてきてしまった。

 迷走の末辿り着く結果とはこういうものである。


 まず、正門から入ると、広い庭があり、目の前に二股に分かれたレンガ造りの道がある。

 その道をそれぞれ辿ると、向かって左には白い西館、右には黒い東館があり、それぞれ3階建ての建物だった。

 西館と東館は距離が離れているが、1階の通行口でつながっており、ドラクラスには不要であるのに雨よけの屋根までついている。外観に凝った作りのようだ。


 アキラたちの居住スペースは西館にした。

 正面の扉から入ると、エントランスが広がり、正面にはホテルのようなフロントが構えられている。

 向かって右にはバーか喫茶店のような店構えの厨房があり、小テーブルもいくつか置かれていた。

 中央のフロントの奥には、大部屋が広がり、中央に悠々と10人は座れる大テーブルを運び込んだものの、部屋にはまだまだ余力があり、ティアとエレナが早速陣地取り合戦を繰り広げていた。


 エントランス向かって左にある大きな階段は、アキラたちの自室に繋がっていた。

 2階、3階には個人で使うには十分な個室がそれぞれ6部屋ほどあり、簡易なバスユニットや水面台もついている。


 もともとはこの家、というか施設は、見た目や内装そのままに、ドラクラスで宿泊業を始めようとしたどこぞの富豪の宿だったらしい。

 ドラクラス2階のゲートと呼ばれる、1階へ移動するための太い柱のひとつに近く、立地も悪くない。

 だが、その富豪の単なる酔狂だったのか、あるいはその富豪が知らなかった、このドラクラスで商売を始めるための“禊”でもあったのか、開店前に計画は頓挫。そのままドラクラスの経済を統べる『三魔人』、ルックリン=ナーシャの手に渡ったそうだ。

 現在のドラクラスの宿需要に合わせ、開店の計画を立てていたそうだが、中途半端に高級志向の造りのせいか、他の計画の後回しになっていたとのことで、遊休資産になっていたらしい。


 東館も西館と似たような構造ではあったが、アキラたちにとっては無用の長物である。まずは住む予定の白い西館の清掃や改装を優先した結果、東館は未だ廃墟で、誰も訪れようともしていなかった。

 買うときは、そこで宿泊業でも始めれば資産運用にもなるとそそのかされ、その気になっていたが、いざ目の前に置かれると、具体的に何も考えていなかったことを思い知らされた。


 ともあれ、ドラクラスに家を買う、という目的のために奔走したこの数日。

 アキラの目の前には、自分たちのものである、白と黒の巨大な建物が建っている。


「ひっひ。毎度あり」


 庭に出ると、皺くちゃな老婆がさらに顔を歪ませていた。


 『三魔人』ルックリン=ナーシャ。


 こんな巨大な資産を僅か数日で手にするとはアキラは夢にも思っていなかった。

 資金もそうだったが、内見やら手続きやらと、恐ろしいほどの手際で必要なことがアキラの前に並び立ち、ほとんど首を縦か横に振るだけで進行したのは、この老婆の“力”によるものだった。


「なんだいなんだい放心して。ほら、一国一城の主様だ、もっとしゃんとしな」

「……は、はは。……ま、まあ、正直やり過ぎたと思っていて……。それに主って言っても、ほとんどみんなの金やマリスのお陰だったし」

「は、金ってのは誰のもんでも同じさ。だからいいんじゃないか。誰のもんでも重いと思えるなら、大事にできるだろうよ」


 こんな異常な家を買うことになったのは、さんざん悩んだ結果の迷走というのもあるが、ルックリンからの“条件”もあった。

 条件ついては、アキラは忘却の彼方に押し込もうと心に決めたが、その結果として、内装やクリーニング、庭の整備、家財の準備、その他もろもろと、下手をすれば建物と同等かそれ以上金のかかる資金はルックリンが援助してくれたのだ。

 こっそり教えてくれた、というかアキラが内見に来たときに知ってしまったのだが、こうした大きな空き物件は、ドラクラスにもいるらしい、浮浪者が宿として勝手に利用していることが多いらしい。

 無法者とはいえ、住処を追い出してしまったようで気が引けるが、そのせいで特にクリーニングや修繕は費用が掛かったらしく、しかしかえって新品そのものになったそうだ。


 ただ、そんな費用を負担してもらい、総合的に格安にしてくれたとはいえ、この建物自体の値引きはほとんどしていないという。

 この土地や建物の価格すら、ルックリンにとっては米粒のようなものである。

 それでもそれは、恐らくルックリンの信条か、あるいはアキラへの優しさか。


 この老婆は以前言っていた。

 買い手に得をさせられるからこそ、誰もが自分から買うのだと。


 仮に二束三文で譲り渡されていたりしたら、この胸を打つ達成感も感動もなく、きっと何の愛着も湧かなかっただろう。


「それで、あんた。東館の方はどうするんだい。もう少し待てば、同じように綺麗になるよ」

「かんっぜんにノープランですよ。というか、そもそも宿ってどうすりゃいいのか分かってなくて」

「ははあん。それなら私に貸さないかい? あっという間に稼げる宿にしてやるよ」

「いいんですか?」

「私を誰だと思ってるんだい。“勇者様”がいる宿。客寄せにしちゃあ上等だ。それじゃああんたもまずは存分に自分が買った家ってのを味わいな。嬢ちゃんたちなんて大はしゃぎじゃないか。準備が出来たら連絡するよ、明日までは祭りの方で稼がなきゃね。……ほら、いくよ受付さん! 何をぼさっとしてるんだい。……分かった、分かったから、よく頑張ってくれたねえ、さあ、もうひと稼ぎだよ!」


 ルックリンが、いつも彼女についている、にっこりとした無表情の給仕服姿の女性を引きずるように連れていった。

 異常なほど早く準備が整ったのも、あの名も知らない受付さんという女性が機械のように迅速に仕事をさばいてくれた結果だということは知っている。

 アキラの目からは、整い過ぎている姿勢もにっこりとした無表情もまるで変わらないように見えたが、庭の隅で停止ボタンを押されたように、より一層微動だにしなくなっていた彼女も、疲弊していたのかもしれない。


「……」


 そんなふたりを見送って、アキラは改めて自分たちの家を見上げた。


 荘厳たる門構え。広く整備された庭。美しくも巨大な建物がふたつ並ぶ。

 目の前の立派な建物は、自分たちのものなのだ。


 いやたとえ、庭もなく、ボロボロで、人が数人も入れば窮屈になる、家とは名ばかりの小屋であったとしても、胸を打つ感動は変わらなかっただろう。

 大半の資金は援助があったとはいえ、自分たちが稼いだもので手に入れた大きな資産は、一層輝いて見えた。


 問題は、乗る気でなかった他の面々。

 蓄えていた旅の資金は一発で消し飛んだ上に、使いこなせもしない東館。ルックリンが何とかしてくれるようだが、今から何を言われるか。

 今のところ仲間になってくれそうなのは、最初からこちらサイドに立っていたアルティア=ウィン=クーデフォンと、目の前にある巨大な建物を前にしてさえ、まあまあね、と呟いた名家のご令嬢であるエレナ=ファンツェルン。

 目の前のものに何も考えずにとりあえず飛びつく者と、資産というものへの金銭感覚が元からいかれている者であり、他の面々への説得に関しては、役に立たない者と、協力してもらえない者である。


 ドラクラスの引っ越しよりは一層小規模だが、ここへ移り住むための準備やなにやらで、面々も世話しなく働いてくれたが、落ち着きつつある今、良識ある面々から、はたして何を言われるか。

 感動の我が家を前に、改めて思う。


 かんっぜんに、やり過ぎた。


「アキラ様」

「お、おう。サクは準備終わったか?」


 長身で赤い衣が目立つミツルギ=サクラが、庭の向こうにある小屋から出てくるなり、すっと近づいてきた。

 立派な佇まいの彼女は、なんとヒダマリ=アキラの従者である。

 あるのだが、アキラ様と呼ばれるとき、大抵ろくなことがなかった記憶がある。

 この建物を買うのに消し飛んだ自分たちの資産を、延々と大切に管理してもらってきた人物でもあった。


「ま、まあ、ちょっとだけ大きくなったけど、ほら、サクが教えてくれたから。俺らがここを離れても、宿として資産運用、というか。い、今もあっちの建物は準備中だけど、あ、そう、ルックリンさんが何とかしてくれるって、」

「あれは、わたしの?」


 取り繕うようにまくし立てたが、サクは、自分が出てきた庭の小屋を指さした。

 門から入って左、白い西館の扉の前、敷地の隅に、煙突の付いた小屋が建っている。

 白い建物の方で手いっぱいで、あまり手を付けられなかったそうだが、もともとこの建物を建てた富豪がガラスを使った工芸品でも作ろうとしていたらしく、大きな炉がついていた。

 サクなら興味があるかもと、片付けごと半ば押し付けるように好きにしていいと伝えておいたのだが、さっそく彼女は中に入り、小屋の中を検めたらしい。


「そ、そうだよ、そう。あ、あれ、汚かったかな? 俺も中見たけど、埃だらけだったし、ま、まあ、俺も片づけ手伝うからさ、」

「いい。いいよ。わたしがやる」


 どういう怒り方をしてくるかばかりが気になっていたサクの様子がおかしいことに気づいた。

 いつもは切れ長の美しく凛々しい表情が、緩んできらきらした瞳を携えている。

 たびたび忘れるが、アキラの剣の師でもある彼女は、いくつか年下だ。

 だがそれを思い出すまでもなく、幼く見えた。


 サクはアキラに向かい合うと、身体を震わせ手を握ってきた。

 まっすぐな視線を向けられる。

 改めて見ても、息を呑むほど美麗な顔が目の前にあった。


「私は今日ほど、お前が主君でよかったと思ったことは無い。……やった。やったぁ」

「お、おう。ありが、とう?」

「掃除なんて私にお任せください。アキラ様は部屋でおくつろぎを」


 いつも冷静で、鋭く、厳しいサクは、頬を緩ませ意気揚々と小屋へ向かっていった。

 手間はかかるだろうが、あの小屋は、改造すれば鍛冶場になるだろう。

 そういうことに興味があるとは知っていたが、随分と気に入ってくれたらしい。


 彼女は真面目で、素直だ。喜んでくれるとこちらまで嬉しくなる。

 ずきりと胸が痛んだが、ああして目の前のものに目を輝かせている彼女を見ると、迷走してでも悩んで選んだ甲斐がある。


 購入の明細書を見せたら何を言われるか分かったものではないが、ひとまず、アキラが想定していた説教をする人はひとり減ったらしい。


 そんなサクを見送ると、門から大荷物を抱えたホンジョウ=イオリが入ってきた。

 アキラと同じ異世界来訪者であり、魔導士の資格を有する。

 このドラクラスでは、いつも着ている魔導士隊の制服は脱いでいることが多く、元の世界の学生服のようなものを纏っていた。

 あるいはサク以上に冷静で、思慮深く、見た目以上に仲間想いで、聡明な彼女だが、ある事情もあり、年齢の話をすると、本気で怒られる。


 この家を選んだのは、彼女が宿のようなものでいいと、そんなようなことを言っていたのも理由だった。

 それをそのまま伝えると、それでどうしてそうなるんだと、それこそ本気で怒られそうな気がしたが。


 彼女はこちらに気づくと、ふう、と息を吐き、首を振った。


「やあアキラ。うん、改めて見ても立派な建物だね。大変だったろう、お疲れさま。ありがとう、とも言っておいた方がいいかな。僕じゃ絶対に出てこない発想だ」


 思うところはあるようだが、ひとまず文句は飲み込んでくれているらしい。

 イオリは、余裕を持った笑みを浮かべ、白と黒の建物を見比べている。

 規格外の買い物だが、彼女の瞳はいつも通り冷静なものだった。


「イオリ。出かけてたのか。どうした?」

「いや、みんなは家の準備で忙しいだろうから、僕は食料や日用品を買ってこようと思ってね。家、だろう? いつものように飲食店に行くだけじゃなく、多少は買い込んでおかないと、せっかくのスペースを活かせない」

「それなら言ってくれれば手伝ったのに」

「いいさ。君もそうだけど、今はみんな、いい気分に浸りたいだろうと思ってね」


 イオリはさらりと言う。彼女が運んできた大荷物が目に留まった。

 早速自分専用のソファをいずこかから運んできた、否、見知らぬ誰かに運ばせてきたエレナ=ファンツェルンとは雲泥の差である。

 アキラはまるで頭が回っていなかった、こうした部分の気配りができるところは流石であるが、彼女はやや沈んだ表情を浮かべた。


「どうしたよ?」

「ああ、そのつもりだったんだけど、少し困ったことが起こっていてね」


 イオリは肩を落とし、指で門の方を差した。


「あの道をまっすぐ行くと、食料店や日用品を買う店がいくつかあったんだけど、どこも品薄品切れでね。前からだけど、もうしばらくはこんな状況らしい」

「そうなのか?」

「え? ……ああそうか、ドラクラスの移動中、君はいなかったからね」


 このドラクラスという都市は現在、アキラが最初に訪れた場所から移動している。

 その移動中、アキラはドラクラスの外で依頼を請けていた。その間、ドラクラスの中がどのような状態だったのかは知らないのだ。


「イメージとしては、元の世界の台風前だ。コンビニやらスーパーやら、一気に商品が消えて陳列棚が閑散とするだろう? そんな日が何日も続いていてね。僕もある程度備えていたつもりだけど、流石に一般家庭用の食料の方はそこまで本腰をいれてなかったからね」


 都市が移動する。

 そうした超常現象を前に、住民たちの行動は有事に備えた買い込みだったらしい。

 確かに移動中、物理的に外部からの物資輸入は行えない。

 その上、現在も移動直後で物資ルートの整備やら何やらで、魔導士隊や専門家があくせく働いているそうだ。

 経由ポイントのひとつであろうとも、一旦は住民たちの生活を安定させることが必要となる。

 そうした定着化と呼ばれる作業で、知り合いの魔導士たちは悲鳴を上げていた。


 イオリもそれを見越して日用品の買い溜めをしていたそうだが、まさか家を買うことになるとは思っておらず、家庭用の食料店はあまり見ていなかったらしい。


「次はもう少し足を延ばしてみようと思っているよ。そのときは手伝ってもらえるかな」

「……あれ。じゃあそれは何なんだ?」


 買い物は空振りだったらしいイオリが、足元にどさりと置いた大荷物を改めて見る。

 茶色い小包がいくつか入った袋に、梱包材がはみ出した小箱がいくつかあった。


「いや、これは大したものじゃない。売れ残っていたものを買ってきてみただけだから」

「一応は売っていたのか」

「ま、まあ、そうとも言うね。乾物は急を要さないから残っていることが多いんだよ」

「?」

「いやなに。ほら、1階に厨房があっただろう。喫茶店みたいな。放っておくとエレナがアルコール一色に染めそうだから、その前に、みんなが飲めるお茶とかコーヒーとか用意した方がいいと思ってね。ネーシス大運河が近いお陰で、水も大分安くなってきているから」


 やや早口で言うイオリが買ってきたのは、どうやら茶葉や豆らしい。

 となると小箱の方はコーヒーメイカーなどの器具だろう。

 そう思って改めて見ると、随分と量が多い。それこそ買い占めてきたのかと思えるほどである。

 そういえば以前、趣味にしていたことがあるとか言っていた。


「イオリ」

「なにか?」

「いや、これは親切心から言うんだが、今家の中では、ティアとエレナが共用スペースの陣地取り合戦をしている。急がないと、」

「じゃあアキラ。僕も家の中をゆっくり見てみたいから、ここで」


 アキラが手伝いを申し出る前に、イオリが手早く荷物を拾い上げると、足早に白い建物へ向かっていった。

 今家の中がどうなっているかは知らないが、イオリはあの喫茶店みたいな厨房に目をつけていたらしい。

 どうやらイオリもこの家をお気に召してくれたようだ。


 あと様子の分からないのは、あの双子。

 片方は出資者でもあるから理解を示してくれているが、もう片方はどうなるか。

 最初にこの建物を見たときに、目を回していたが。


「ひろーいっ!!」


 白い西館のさらに西にある大きめの建物から、大きな声が聞こえた。

 1階の階段に向かって左にある通行口から進むと、この異世界であまり見ることのなかった日本の銭湯のような大浴場へつながる。

 流石に元宿泊施設。何でも揃っていた。


 どうやら彼女も気に入ってくれたらしい。


 アキラは、西館の扉の前へ向かった。

 イオリが慌てて入ったせいか、扉の前にひとつ落ちていた小包を拾い上げ、ごくりと喉を鳴らす。

 これからの生活は、この場所が、自分たちの家になるのだ。


 中からは、早速誰かと誰かの言い合いが聞こえる。笑い声も、聞こえる。

 一緒に住むということは、そういうことだ。


 アキラは、僅かばかりの緊張と共に、扉を開けた。


「ただいま」


―――***―――


「掃除当番を決めます」


 赤毛の少女が、パン、と手を叩いた。


 一通りこの大きな建物の散策も済み、部屋の割り振りも片付いた頃にはとっくの昔にドラクラスの“夜”を迎えていた。

 そういう取り決めなのか、あるいはこのドラクラスという具現化を唯一操れるミルバリー=バッドピットの裁量なのかは定かではないが、このドラクラスの日没は、外の世界よりも幾分早い。

 ただ、その早い日没に関係なく、時間にしては深夜に近い。

 明日もまだまだやることはあるが、ひとまず、赤毛の少女、エリサス=アーティ念願の全体会議が1階の大広間で実施された。


「正妻ちゃん。そういうのは店の人が勝手にやるでしょう」

「エレナ。何度も言うようだけど、こいつは家なんだ」

「あら、そうだったわね。じゃあ使用人がやるでしょう」

「エレナ。前に誤解を解かなかった俺が悪いのかもしれないけど、通常家と使用人は別売りなんだ」


 中央のテーブルにもつかず、早速自分用のソファを窓際に設置し、優雅に座るエレナ=ファンツェルンが首を傾げた。

 きょとんとした仕草がやはり愛らしい。そのソファも、値の張りそうな小テーブルも、どこかの誰かに運ばせていたものだ。主体的な行動を取る彼女だが、雑用というものへの感度が恐ろしく鈍い。


 そして、どういう交渉をしたのか、エレナの隣、そのソファに存在を許されたアルティア=ウィン=クーデフォンが、にこにこして窓の外を眺めていた。

 裏庭もそれなりに面積があるが、すぐそこには塀もある。それでも変わらずにこやかな彼女の頭の中では、話していたバーベキューとやらを想像しているのだろうか。目を光らせていないと建物が全焼してもおかしくはない。


 そんな風に、ふたりを見ていると、エリーの心情を察した。

 この建物を前に、目を輝かせ、至る所を周り、大はしゃぎしていたが、苦労人の彼女は、日も沈む前からこの大きすぎる建物の問題に気づいてしまっていたらしい。

 もっと言うと、さらに先。この面々の問題にも気づいているようだ。


「各自の部屋は自己責任として、この談話室に、厨房、エントランス、浴場、各階の廊下に広い庭。庭の小屋も見ないといけないし、ただでさえ7人。そこからさらに間引かれる。ちゃんと考えて動かないと、あっという間にゴミ屋敷よ」

「……一応聞きたいんだが、俺はどっちに分類している?」

「お願いします……、協力してください……」


 なんとエリーがこういうことでアキラを頼っていた。

 ソファに座る問題外たちから目を背け、瞳には涙が浮かんでいる。


 相談した、というか早い者勝ちで部屋を取っていった結果、2階は女性陣の部屋、3階はアキラと物置部屋となっている。

 少なくとも3階はアキラが担当することになるだろうと思っていたが、様子を見るに、どうやらそれだけに留まらなさそうだった。


「エリサスの言うことももっともだね。みんな依頼もあるだろうし、家のことはみんなで上手く時間を作って分担していかないと、末路は見えている」

「うう、イオリさん……、ありがとうございます……」


 つい先ほど来たばかりのイオリも状況を察したらしい。

 エリーが敬愛の眼差しを浮かべているが、早速小さいところからでもとゴミ箱の設置や掃除道具の確認などを始めていたエリーと違い、喫茶店のようなエリアを自分色に染め続けることにこの一日を使っていたように思える。

 同じように炉のある小屋にこもっていたサクは視線を外しているというのに、エリーの魔導士への目の曇り具合か、イオリの胆力かは、流石という他なかった。


「でもでもエリにゃんにイオリン! まずはお引っ越し祝いじゃないですか!」


 頭の中の妄想がある程度形になったのか、ティアが立ち上がって震えた。隣のエレナに無言でぐいと引かれて座り込み、また震える。

 涙目になったティアだったが、まだちらちらと庭を見ていた。


 よくよく思い返すと、この家はティアの意見がふんだんに盛り込まれている。

 希望を聞き回ったとき、唯一過剰なほど乗る気で、色々と妄想とも言える意見を出したからだ。

 そんな彼女の夢や期待は、他の面々より一層大きく、邪険にするのも憚れる。


「……まあ、そうだな。ぱあっといこう。まずはそれを考えようか」

「おお、アッキー! 分かってますね! よぅし今日はみんなでパーティだー!」

「だからあんたはそっちサイドに行かないでって!」

「まあしばらくはいいじゃん。今日は遅いから、明日にでもここでみんなでなんか食べようぜ。1階でやってる祭りでなんか買い込んできてさ。明日までだっけ?」

「……くぅ」


 余程魅力的な提案だったのか、エリーが矛を収めた。

 現実的には、この建物の維持を真っ先に考える必要があるだろう。

 アキラも頭では分かっているが、家を買うなど初めてのことだ。もしかしたら自分も自分で思っている以上にはしゃいでいるのかもしれない。

 この家を買うにあたり奔走し、アキラもドラクラスの祭りというのも楽しめていない。

 準備に奔走している中、近くの柱から降りた直後の1階でやっているせいで、夕方頃から人がごった返す祭りはやたらと目についた。

 傍から見たところ、出店が並び、劇だか踊りだかの催しがあるなど、形式自体は他の街ともさして変わらないようだったが、このドラクラスは世界各地から多く輸入しているだけはあり、品揃えを見て周るだけでも楽しめそうだ。

 その祭りが派生でもしているのか、たまに柱以外のところでも人だかりができているのを横目で見て、少しだけ寂しい気分を味わっていた。

 明日はいよいよ最終日らしい。諦めかけていたのだが、ぎりぎり間に合ったようだ。

 人も増えるだろうが、適当に見て回り、買い込んでくるならこの家を有効に活用することもできる。


 また、そもそも、せっかく買った家でそういうことをするならば、今が好機ではある。

 今現在、ドラクラスではアキラたちが今まで主に請けてきた、魔物討伐などの依頼が少なくなっていた。

 ドラクラスの最初の経由ポイントは、事前に過剰なほど調査やら哨戒やらがされており、それがいつまで保つかは知らないが、ここしばらくは魔物討伐などの分かりやすい依頼は大した数出ないらしい。

 例の定着化もあり、魔導士隊やらは街の中でも外でも大慌てらしいが、特にアキラが出来そうなのは、物販ルートなどの警備のような依頼くらいしかなかった。


 そのせいか、例の依頼優遇者は、依頼所で名前を見る限り、魔導士隊のサポートが可能なイオリや、前に同じ依頼を請けた『智の賢帝』シャロッテ=ヴィンテージなど、知見のある者が多く指定されているようだった。

 彼女たちならば、ようやく激務から解放されたティアのように、加減知らずで働き続けることも無いだろう。

 ティアは不服そうだが、どうせしばらくしたら、同じように危険な依頼が出るようになる。

 しばらくはこの家で休養しておいてもらいたい。ボヤを起こさなければだが。


 ともあれ、ドラクラスではないが、引っ越しのタイミングは今が丁度良かったらしい。

 面々もある程度ドラクラスに慣れ、イオリの計らいらしいが、ドラクラスの移動前にある程度は貯えをしていたお陰で、普段使いの所持金は最低限ある。

 持っていたはずの大金がごっそりとなくなっているのは何か怖いものを感じるが、それはそれだ。


「……と、してだ」


 家を購入し、こうしてみんなであれやこれやと話しているのは、素直に楽しいし、嬉しい。

 明日の食事会や掃除当番の検討すらも、胸が躍るようである。

 時間も遅く、それぞれ部屋に戻って、自分の部屋を楽しみたい気持ちもあるだろう。


 だがそれでも、これはきっと自分が言うべきだろう、そんな気分を台無しにしても、自分たちは、話さなければならないことがある。


「前に放送された、指定Aの依頼。“魔物討伐”なんてぼかしているけど、俺たちだけじゃなく、ドラクラス中が分かっているだろう―――“魔門破壊”だ」


 前の依頼の放送のときは分かっていなかったが、今回は流石のアキラでも分かった。

 ミルバリー=バッドピットが、優遇者全員が参加しなければ依頼自体が再考となる、指定Aの依頼を放送した。

 その指定Aメンバーふたりの“共通点”は、情報に明るいヨーテンガースの者たちでなくとも、即座に気づけるだろう。


 そのうちのひとりを見ると、気合を入れるように拳を握っていた。


「なあ、そっちはなんか話が出たのか? なんかB以上の優遇者は最初に説明があるんだろ?」

「え? まあ、あたしが行ったときは依頼所もまだ混雑してて、混乱中、って感じだったから、後で連絡します、って。……あ。こっちに引っ越したって話、伝えに行かないと」


 ドラクラスに来て、初めて優遇者に指定されたエリサス=アーティは、“そんなこと”が気になっているらしい。

 待ち構えているものの重さは理解しているだろうが、その様子に胸が締め付けられるほどの不安を覚える。


 “魔門破壊”。

 世界で僅か2回しか確認されていないその奇跡は、家や優遇者に指定されたことで浮かれている場合ではない。

 アキラの視線に気づいたのか、エリーは重そうに頷いたが、余裕がありそうに見える。

 今まで優遇者に指定されていないことに気を揉んでいたようだから、浮かれているようにしか見えないが。


「じゃあエレナの方だ。確かBに名前があっただろ?」

「え? ああ、そういやあったかしら」


 エレナ=ファンツェルンも指定Bの優遇者だった。

 自分たちが行った魔門破壊。

 アキラは魔門とは別の問題に向き合っていたため、魔門の方の様子は人伝でしか聞いていない。

 だが、魔門を殴り壊したのはエリーだそうだが、エレナがいなければ魔門から現れた“脅威”に対抗できなかったらしい。

 しかし彼女は特に気にもしていないのか、可愛らしく手で口を押さえて欠伸をした。その手で現れた魔族をタコ殴りにしたと聞いているが。


「エレナ、申し込んでいないのか?」

「あらー? どうだったかしら」

「そだそだ、エレお姉さま。結局あのあと請けたんですか? 色んな人に泣きつかれていましたけど」


 エレナが鬱陶しそうな表情を浮かべた。

 ティアに視線を向けると、彼女は、ふんすと胸を張り、にんまりと笑った。


「ふっふっふ。アッキーたちはご存じないかもしれないですが、エレお姉さまにはお友達がたくさんできたんですよ」

「お友達?」

「エレお姉さまは依頼でも大活躍! 危ない魔物もばっさばっさとなぎ倒すその美しいお姿に、ファンクラブが出来ているんです」

「ファンクラブだと」

「ですです。メンバーは一緒に依頼を請けた旅の魔術師の方たちが多いですね。それだけじゃなく、魔導士隊や魔術師隊の方にもエレお姉さまにご興味をお持ちの方が多くて、エレお姉さまにはよく人だかりができています」


 エレナの表情から気苦労が見え隠れした。

 ただでさえ単独行動を好む彼女だ。特に魔導士隊や魔術師隊は毛嫌いしている節がある。

 今までの街でも、時折彼らに話しかけられている様を見るが、追い返しているというか脅迫しているというか、適当にあしらっていたのをよく見かける。

 彼ら彼女らに並々ならぬ敬意を持つエリーが見たら卒倒ものだろう。

 もっともエレナの場合、魔術師隊に話しかけられる心当たりは後ろ暗いことが最初に浮かぶのだが。


「エレお姉さまはお優しいですが、お友達とあんまりお話ししないじゃないですか。でもそこがいいって人もいましたよ。めっちゃかっこいい謎の美女。エレお姉さまが大人気になるのは、自然の摂理というものです」

「うっざ」

「でで、エレお姉さまはあの依頼、お請けしたんですか? その方々も気になっていたみたいです。エレお姉さまがいれば百人力だ! って」


 ティアがはしゃいでいる様子に、エレナが心底嫌そうな表情を浮かべていた。

 エレナもあまり構われるのが好きではない。ファンクラブという言葉が本当のものなのか、ティアが作り上げた言葉なのかは知らないが、実際今、ドラクラスではエレナに注目が集まっているようだ。

 もしかしたら彼女らが座っているソファを運んできたのもそのメンバーなのかもしれない。都合よく使っておいて煙たがるのはあんまりだとは思うが。


 長く同じ場所にいるという旅の魔術師には馴染みのない行動で、今まで経験してこなかったことが起こり始めているらしい。

 他の旅の魔術師と依頼を請ける機会が多いこのドラクラスでは、ティアの言葉ではないが、力ある者がそうなるのは確かに自然の摂理なのだろう。


 アキラとしても、エレナが依頼にいるかいないかでは安心感に大きな差がある。

 ティアと同じようにエレナを見つめると、彼女はぷうと頬を膨らませた。愛らしい。ファンクラブとやらに入りたくなってきた。


「……なによ。大丈夫、申し込んどいたわ。小遣い稼ぎくらいにはなりそうだったし。でも、それだけ。特に話は聞いてないわ。ま、でもどうせ私らのときみたいに秘石だか原石だかでどーんって感じでしょう。……あの鬱陶しい奴らも参加するの?」

「ありがとうございます! ではあっし、早速明日にでも皆さんにお話してきますね。ファンクラブ創立者として皆さんにいいニュースをお届けしなければ!」

「お前のせいか」


 がっちりと頭を掴まれたティアが蠢いた。

 目の錯覚でなければ、ティアの頭が歪んでいるように見える。


「いだだだっ」

「最近やたらと絡まれると思ったら……、で、何? 頭を潰せばファンクラブとやらは消えるの?」

「わわわっ、悪気はないんですっ、あっし、エレお姉さまにご興味お持ちの方々を集めてみただけなんですよっ、そしたらいつの間にかファンクラブを作ろうって話になっていって」

「何をしてくれてんの……。あんた、他に余計なことしてないでしょうね?」

「しっ、してないですっ、精々エレお姉さまのことをよく聞かれるから、あることないことしか言ってないですっ」

「あることないことって全通りじゃない。他に何が残っているのか教えてちょうだいよ」


 今度はティアの頬が餅のように見えている。

 皆とあまり会えない間、それぞれこのドラクラスで色々な経験をしていたらしい。

 ただ、ファンクラブはともあれ、エレナも依頼のことは聞かされていないらしい。

 久々に見た、ティアが命の危機に瀕する光景に、アキラは懐かしさを感じながら、イオリに向き直った。


「俺も優遇者じゃなかったけど、申し込んどいたよ。でも、やっぱり後日連絡します、とか。わざわざ放送までしてんのに、情報がまるで出てないぞ?」

「まあ、それだけの規模の計画、ってことさ」


 イオリが口を開くと、もうひとりの魔導士もぴくりと動いた。

 彼女たちはその資格を活かした独自の情報ルートをドラクラス内に構築しているのかもしれない。


「日程やら編成やら何から、申し込みをした旅の魔術師たちをもとに、詳細な計画を詰めようとしているんだろう。詳細が決まってから放送したんじゃドラクラス側にとっては遅い。だからまずは人集め、ってところじゃないかな」


 ホンジョウ=イオリもエレナと同じく指定Bである。

 それでもやはり、ある程度の情報は知っているような口ぶりだった。


 アキラたちからすれば情報が出てこないことに不満があるが、ドラクラス側が始めているのは情報の吸い上げだ。

 引っ越し直後でドラクラス中が慌ただしい中、それでも手早く事前告知を行い、並行して計画しているらしい。

 依頼を請ける側としては不安だが、ドラクラス側がすべきは、使える“駒”を机の上に置いて、魔門破壊の詳細計画をすぐにでも定めることである。


「まだまだ人は集めているようだし、僕たち全員で請けられるかもしれないね。……もっとも、ピクニック気分じゃ済まないけど」


 面々を見渡すと、全員申し込みはしてきているらしい。

 このドラクラスの引っ越し騒動につながっていたらしいアイルークのときは、その場の実力者を集めた急場の“実験”だった。

 最悪逃げても済む内容ではあったが、今回ばかりはそうもいかない。


 現在ドラクラスは、ネーシス大運河という海のように広い川の近辺に停まっている。

 魔門の場所から何から詳しくは知らないが、その運河を避けると、魔門の影響範囲内をどうしても通らざるを得ないらしい。


 もともとは、破壊ではなく、魔門の力を弱める“魔門流し”が計画されていたそうだが、“とある男”が魔門は破壊できるという概念を生み出し、そして自分たちが駄目押しとばかりに再現性があることを証明してしまった。


 詳細は不明とはいえ、実施内容はエレナの推測通りではあるだろう。

 魔門を破壊するとなると、出てくるであろう障害も勿論問題だが、そもそも魔門を破壊するためにはどうしたって強い魔力が必要となる。

 魔力の原石、あるいは、ほぼ近しい意味だが魔力の秘石という魔力リソースを用いての作戦となることだけは間違いないだろう。

 事実自分たちのときも、当初の作戦自体は似たようなものだった。


 今回の依頼は、自分たちにも大きく関わる。

 エリーもやる気が漲っているようだし、請けないわけにもいかないだろう。


「ところで、マリサスの方は何か知っていることは無いかな」


 真剣に思考を進めていたアキラはどきりとした。

 イオリが同じ魔導士の、マリサス=アーティに意見を求める。エリーと全く同じ姿かたちの、双子の妹。

 彼女はヨーテンガースの魔導士であり、加えて最近は旅の魔術師枠としても活動している。最もドラクラスの事情に詳しいだろう。

 そして、この家の出資者でもあり、家の購入を最初に相談した相手であり、そのときドラクラスの外での依頼を共に請けていた仲間でもあり、その、まあ。


 マリスは、アキラの心情を知ってか知らずか、いつものように無表情ながら、やや俯いていた。

 昼に見た受付さんと比べると、表情豊かと言った方がいいかもしれないが。


「……そうっすね。ここなら聞き耳立てている人もいないだろうし、自分が知っていることは話しておいた方がいいっすね。くれぐれも、他言無用で」

「だってさ。ほら、出ていきなさい」

「ひぅ……、頬がひりひりします…………、あれ? もしかしてあっしに言ってます?」


 ヨーテンガースの魔導士であるマリスの発言は、噂や推測ではない、“確定事項”だ。

 それだけに、漏れたらどのような影響があるか分かったものではない。

 事の重大さは分かっているだろうが、口を開けばあらゆる言葉が飛び出すティアがいると不安が残る。

 とはいえ、彼女も大切な仲間だ。省くわけにもいかないだろう。

 それに、エレナもついている。


「もし口外したら?」

「舌を噛み切ります……」


 エレナに睨まれ、真っ赤な頬をさすってカタカタ震えながら、魔門破壊に挑むよりもずっと深刻な表情をティアが浮かべていた。

 どうやら彼女が話を漏らすと、ドラクラスの致命的な問題になりかねない上に、大切な仲間をひとり失うらしい。

 デメリットしかない気がしたが、もう色々と信じるしかなかった。


「まあ、一応さっきイオリさんが言ってた通りなんで、そこまでってほどではないんすけど」


 ティアの命を守るためか、マリスが断りを入れて、言葉を続けた。

 やはりイオリはただ推測している、というだけではなく、確かな情報筋も手に入れているらしい。


「自分が聞いているのは、依頼を請ける人だけじゃなく、“誰に依頼を請けさせないか”も考えている、ってことっすね」

「は?」

「ええと……、ヨーテンガースの魔門破壊。成功するかも分からないんすけど、いや、それだからこそ、全戦力を投下するわけにはいかなくて」


 このドラクラスに集まった旅の魔術師たちは実力者揃いだ。

 決して楽観視はしていないとはいえ、僅か8名で向かったアイルークのときよりは戦力は圧倒的に多いゆえに、アキラ自身、精神的な余裕があった。


「どういうことだ?」

「いや、その、」

「なるほどね……。“ドラクラスを手薄にするわけにはいかない”、ってことか」


 思わず詰め寄ってしまったマリスに変わり、イオリが爪を噛んで苦々しげに呟いた。


「今何人が手を上げているかは知らないけど、いずれも腕に覚えがある者ばかりだろう。魔導士隊も、精鋭を揃えることになる。だが、そんな人たち全員が魔門へ向かったら、“ドラクラスは誰が守るんだ”? ただでさえ、“魔王の弟”や『光の創め』の問題もあるんだから」


 このドラクラスの総戦力を考えれば、魔門破壊自体は現実的なものになっている。

 だが、そのすべてのリソースを魔門破壊に割いてしまったとき、別口から襲撃を仕掛けられたらドラクラスを守れない。

 アキラたち自身もそうなったが、ドラクラスに住む善良なる民間人は数多く、それぞれの生活をしている。


 マリスは、言いたいことを言ってもらえたように頷くと、より一層深刻になった。


「ドラクラスは堅牢っすけど、それはこの“具現化”が頑丈だからってだけじゃない。魔導士隊や警護団の活動もあるからこそ、最も安全な都市なんす。移動してからしかできなかったのは、遠方にリソースを割くことがそもそも出来ない、するべきではなかった、というのが魔導士隊、というかグリンプさんの計画なんすよ」


 『三魔人』グリンプ=カリヴィス7世は、このドラクラスの全魔導士隊を統制している。

 この魔門破壊も当然彼の計画らしい。


 彼の計画による依頼をアキラも請けことがあるが、酷い目に遭ったような気もする。

 だが、結果としては成功したのだから、ある程度は信用できるだろう。


「だから、依頼希望者の旅の魔術師たちも同じ。今は申し込ませるだけ申し込ませて、編成も、“誰をドラクラスの守りに残すか”も、併せて検討中。もしかしたら、自分たちの誰かもここに残ることになるかもしれない」


 そこで、マリスが面々を見渡し、口を尖らせた。

 もしかしたらここからが、内々の事情というやつなのかもしれない。


「で、ちょっとおもしろくない話なんすけど、ドラクラスに残る人。それは、“依頼”じゃないんすよ」

「ん?」

「要するに、魔門破壊の依頼の選考漏れ、というだけなんす。漏れた人は、つまりドラクラスに残ることになって、結果としてドラクラスが守られる」

「はあ? じゃあ勝手に出歩かれるぞ?」

「やれるもんなら」


 現在ドラクラスは、経由ポイントのひとつにいる。

 それでも大都市計画以上の整備がされているが、他の街からは大分距離があり、はっきり言えば、ドラクラスから外に出ると路頭に迷うことになる。路ですらないが。


「随分卑怯なやり方だな」


 サクが顔をしかめた。


「自分たちが住んでいる場所が襲われたら、関わりたくない人だろうが、立ち向かわざるを得ないだろう。気に入らなくても別の街へ向かうわけにもいかない。退路を断って強要をするなんて……、いや、まあいい。話を続けてくれ」


 こういうとき、彼女が口を挟むのは珍しい。

 誠実さを好む彼女からすると気に入らないのは分かるが、何か思うところがあったのだろうか。

 と、考えて、ふと、アキラの脳裏に、彼女の“父親”の顔が浮かんだ。

 さりげなく退路を断ち、強制的に参加させる。しかもコストがかからない。彼女の父親も、目的のためならそういう手段を取っていたのだろうか。

 大衆の操り方というのはどこも同じなのかもしれない。


「まあ、卑怯と言えば卑怯っすけど、やる側からすれば都合がいいみたいっすね。魔門破壊中、襲ってくるのも“かもしれない”でしかない。そんな不確定な依頼を出さずとも、同じ効果が得られるんすから」


 アキラが呆れていると、イオリが苦笑した。


「……このドラクラスの依頼を散々受けて、大体分かってきたよ。『三魔人』グリンプ=カリヴィス7世。彼の大衆の操り方が。そもそもこのドラクラスの依頼が、こうして自由参加という形にしているのも、大衆というものを知っているからだろうね」


 ドラクラスの引っ越しは長期間にわたる。だが、引っ越しそのものの依頼は存在しない。

 アキラたちはあくまでこのドラクラスに滞在し、発生の都度依頼を請けているに過ぎない。実行可能かはどうかとして、今すぐにでもこのドラクラスから離れて問題ないのだ。

 資金繰りの問題かと思っていたが、イオリの口ぶりからするにそうではないらしい。


「長期間雇い、固定給を払うとする。そうすると、人はどうしても、今の環境に甘えてしまう。何もしなくてもお金が入るなら、例え取り分が少なくなっても、固定給で十分、誰かに任せてしまった方がいい、と思う人も多い。魔術師隊や魔導士隊ですら、そういう人はいた」


 イオリも魔導士だ。組織の枠組みの中で色々な人を見てきただろう。


「組織人の魔導士隊は多少マシだけど、特に旅の魔術師は、その辺りのバランスに慣れていない。だから都度、成果給だけが出た方がパフォーマンスは高くなると踏んでいるらしい」

「つまりはモチベーション管理だと?」

「だろうね。総合的なコストも下がる上に、事実旅の魔術師は、ドラクラスの物価の高さも影響して、目をギラギラさせて働いているじゃないか」


 イオリがちらりと見たのは、目をギラギラさせて依頼を請けまくっていたティアだった。

 報酬とは別件なので、彼女はいい方の例外なのだろうが。いや、悪い方かもしれない。


 人の管理など、アキラにはまるで分らない。

 サクは面白くなさそうな表情を浮かべている。思い出したもののせいかもしれないが、真面目な彼女からすると、固定給があろうがなかろうが、出すパフォーマンスは変わらないから、その辺りの理解はしつつも納得できないのだろう。


 この街に来たばかりの頃、イオリが無茶な要求をする可能性がある魔導士隊には気をつけろと忠告してくれた記憶がある。

 当時はドラクラスの生活に慣れるので精いっぱいだったし、魔導士隊から何かを強要されたことは無かったから忘れかけていたが、知らぬうちに何らかの“管理”を受けていたのかもしれない。


 旅の魔術師たちを取り巻く、ドラクラスの交通の便、自由参加の依頼、優遇者制度、という仕組み。そして、これは先の話だが、魔門破壊中のドラクラス防衛を強制的にさせられることにもなる。

 あくまで旅の魔術師は民間であるとして、指示系統に踏み込んでこないが、気づかぬうちに外堀は埋められているらしい。


 真面目さで言えばサクの対極にいるアキラには必要な処置だと思うのが悲しいが。


「まあ、話を戻すけど、マリサスの話だと、魔門破壊に“参加させない”人も考慮されるってことだ。それだけではなく、魔門破壊の依頼自体も、後方支援や伝令など、役割を分けた編成になるだろう。僕らが揃って一緒の場所にいる、というのはあまり期待しない方がいいかもね」


 ともあれ、一応魔門破壊を成し遂げた自分たちの中でも、その一部しか優遇者に指定されていないのはそういうからくりらしい。

 となると、今参加できることが決まっているのは、指定されているエリー、イオリ、エレナだけということになる。

 いや、下手をすればB指定のイオリやエレナですら不確定だ。他のB指定の集まりが良ければ、“結果としての防衛側”に割り振られる可能性すらある。


 となると一気に不安になってきた。


「なあ、俺は大丈夫だよな? 参加できるよな?」


 イオリとマリスを見ると、なんとも微妙な顔をした。


「ううん……。どうだろうね。本当に読めない。マリサスは実は知っているなんてことある?」

「いや、自分も大枠しか聞いてなくて、具体的にどうなるかは」


 この異世界では、大体の場合、そういうことの白羽の矢は自分に降り注いでくるのだが、ことこのドラクラスにおいては分からない。

 数奇な運命を引き寄せるアキラの日輪属性。

 “それすらもロジック”として落とし込まれているこのドラクラスでは、日輪属性の“使いどころ”が考えられている。

 無作為にサイコロを振ればアキラの面が出るが、ドラクラスはサイコロを振らないのだ。


「もし君の力が必要だと判断されているなら、優遇者として指定されているだろう。だけど、エリサスがA指定されているから、わざわざ指定せずともどうせ請けると思われている可能性もある。本当に何とも言えないね」

「イオリとエレナは指定されてるじゃないか」

「自分のことだからあまり言いたくはないけど、こういう場合、何をするか分からない奴と思われているのかもね。名指しで警告を受けている気分だ」


 イオリはこういう風に、依頼の裏や細かな意図を考える。

 それにそのまま従ってくれるならいいのだが、別の方法を思いつくと、多くの実力者が参加する魔門破壊は任せ、ドラクラスに残り、何か別軸の行動を取ることもあるかもしれない。


 もしドラクラス側がそう認識しているのなら、優遇者として指定することで、イオリの行動を誘導しようとしているのかもしれない。

 優遇者は強制ではないが、数少ない、ドラクラス側の意図を旅の魔術師側に伝える方法でもある。

 そう考えると優遇者にイオリを指定したのは、まさに名指しで、現場で力を貸してくれというドラクラス側の訴えだ。


 そしてエレナは、その、まあ。


「まあ、そういうわけで、アキラがどうなるか読めない。もともと生半可な依頼じゃないけど、すでに“彼”が指定されている以上、計画上は日輪属性がひとりはいるんだ」


 アキラは拳を握った。

 そう。事件の種を芽吹かせる日輪属性。

 この依頼には、すでにひとり、依頼の前提としての指定Aに日輪属性が指定されている。


 数日前にやった、日輪属性が事件の種を芽吹かせることを前提とした依頼とは違う。

 魔門破壊はそれだけで大事だ。欲しいのは新たな事件ではない。

 “あの男”がいる時点で手遅れな気もするが、これ以上不安要素を増やさないことを優先されると、アキラはこの依頼に参加できなくなるかもしれない。


 アキラは窓から外を見た。

 高い塀の向こうには、ドラクラスの街並みが広がっている。

 会えてはいないが、“あの男”も、この街のどこかにいる。


「……例え抽選漏れになっても、せめて当日、いつでも行けるようにはしておきたい。いや、自由だってんなら、ついていくとかもできるよな?」

「はあ。なに心配してんの。大丈夫だって」


 そこで、エリーが呆れたようにぽんぽんと手を叩いた。

 指定Aとなったエリーは、そのはずなのに、なんてことのないような表情を浮かべている。


「今回は少人数じゃないんでしょ? それに、魔導士隊の方々も数多く参加する。依頼参加者でもない、計画外の人がいた方が迷惑になるじゃない。案外魔門の方も大人しくて、肩透かしで終わるかもしれないし」

「お前、本当にそう思ってんのか?」

「まあ、なんかあっても、何とかなるんじゃない?」

「おい」

「……嘘。絶対なんか起こるでしょうね。で、分かった? あたしがいっつも言ってること」


 エリーはしてやったりという表情を浮かべている。

 だがそれで引くわけにもいかないと、アキラが口を開こうとしたら、追撃が来た。


「あんただっていつもこんな感じよ。何か起こるかも……、ううん、必ず何か起こるのに、平気な顔して飛び込んで」

「そんな、……こと、ないだろ」

「いつも……、“そう見せようとしている”じゃない」

「……」


 自分が意識していない部分を指摘されると実感が無いはずなのだが、痛いところを突かれたような感覚に陥った。


 だが、そう言うということは、エリーも今まさに、平気な様子を装っているのだろうか。

 本心は、不安で押し潰されそうなのかもしれない。


 魔門破壊を達成したとはいえ、綱渡りだった。

 同じことをもう一度やれと言われても、再現できる保証はない。


 特にエリーは、この依頼の“前提”である指定Aだ。

 考えるまでもなく、最も危険な役目である。

 そして、イオリやエレナも優遇者ということは、やはりある程度安全な後方支援というわけにもいかないだろう。

 以前よりはずっとマシな状況とはいえ、自分が参加できるかも分からない魔門破壊に、彼女たちを向かわせるのは強い抵抗がある。


 いっそエリーが辞退してくれたら、作戦自体が再考になる。

 魔導士隊がどれほどの騒ぎになるかは知らないが、それすら考えたくなってくるほどだった。


「……心配しちゃ悪いかよ」

「……ええと。そうね。良いか悪いかで言えば……、良い。もっとやる気出てきたかも」

「おい」

「ちょっとよ、ちょっと」

「ご、ほ、ん」


 そこで、イオリが苛立ったように咳払いした。

 エリーもびくりとして姿勢を正す。話が脱線し過ぎていたかもしれない。


「まあ、どの道、参加者も、作戦の詳細が分かるのも後日だ。あまり多く考えすぎていても仕方ない。参加するかどうか分からないアキラの気持ちも分かるけど、今だと立てられる仮説が多すぎる。情報が出るたびに集まるなりしてまた話す、でどうかな?」


 エリーがこくこくと頷いている。念願の話し合いが計画されるのは彼女も嬉しいだろう。

 アキラも異議はなかった。


 皆そろそろ休まりたいだろう。

 重要な話だが、エリーやイオリの振る舞いから、これ以上は選考漏れしそうな自分が駄々をこねているようにも感じてくる。

 あえてそう振る舞っているようにも思えるが。


 だが、その詳細とやらが分かるまで、打つ手がないというのも落ち着かない。

 明日からでも、今までの依頼で会った魔導士たちや参加しそうな人を探して、少しずつでも情報収集をした方がいいかもしれない。


「……なあ、最後にひとつだけいいか。そもそも魔門はどこにあるんだ? この近くってことなんだよな?」


 エリーがまた何か言いそうになったが、視線で制した。

 話を聞くくらいはいいだろう。こっそりとでもついてくと言わなければ。


「一応伏せられてはいるけど……、推測はできるかな。公然の秘密、って感じだ。マリサス、どう?」

「ええと……、まあ、いいっすかね。本当に公然の秘密だし、魔導士隊ですら平気で話す人もいるくらいっす」


 他の4大陸の魔門の場所は、混乱や要らぬ事故を防ぐため、公には伏せられているらしい。

 だが、このヨーテンガース南部となると、情報は活発に交換されるし、そもそも魔門の危険性を理解しない者などいない、というか、理解してもいないのに南部に来るものなどいない、という捉え方をされているのかもしれない。

 そう考えると、今さらながらに大して調べもせずにヨーテンガースに踏み入れた“二週目”の自分が恐ろしくなる。あのときは、例え魔門だろうが何だろうが一瞬で消し飛ばせたのだが。


「『名前のない荒野』。そういう場所があるんす」


 それがヨーテンガースの魔門破壊計画の現場らしい。

 マリスの表情は深刻そうに見えた。

 彼女は実際に見たことがあるのだろうか。


「魔門の影響で荒野になっているとも言えるから……、『魔門の荒野』というのが、“付けるべき名前”っすね。自分も実際見たことはあって、あの場所は、……いや、まあ、そんな場所っす」


 マリスは言葉を飲み込んだらしい。

 こういうときは、大体は、アキラが余計なことを言い出しそうだと思ったときだ。

 それが彼女の気遣いなら、今日くらいはアキラも言葉を飲み込もうと思った。

 言葉は知れた。別口で調べ回る手掛かりにはなる。


「場所は近いのか?」

「……そうっすね、ええと」


 思い返そうとしているマリスに、エリーやイオリが咎めるような視線を送った。

 彼女たちもマリスの口ぶりから、何かを感じ取ったらしい。つまりはこれ以上、余計なことをアキラに話すなと考えているようだ。

 下手をすれば魔門破壊実施前に向かいかねないとすら思われているかもしれない。

 そんなふたりをあえて無視し、アキラはマリスの言葉を待った。


 日輪属性は心を開かせるという。

 具体的にどういう風に発動するのかは知らないが、念を送って、アキラは少しでも情報を引き出そうとした。


 それが成功したのか、失敗した。


「ここからだと結構遠いっすね。ネーシス大運河を下っていって……、ああほら、自分たちがドラクラスの移動を見た場所からずっとみな、み、に……」


 “数千年にひとりの天才”マリサス=アーティが、追憶と共に静止した。

 天才でそれなのだ。凡人のヒダマリ=アキラもぴたりと動きを止める。


 やや熱くなっていた身体が、すっと冷えてきた。


「ねえ、もういいんじゃない? 要は今ここでぐちぐち話しててもしょうがないってことでしょう」

「あ、ああ!」

「ふあっ!? あれっ、あっし、あれ!?」

「ちょっとアキラ君、大声出すから面倒なことになったでしょ!」


 舟を漕いでいたか意識を奪われていたからしいティアを、エレナが頭から抑えた。

 救われたらしい。


「じゃ、じゃあエレナの言う通り、解散にしようか。みんな自分の部屋で休まろう」

「はい! むっふっふぅ、楽しみですねえ、エレお姉さま」

「……私の部屋に入ってきてごらんなさい。あんたの寝床は庭の土の下よ」


 本当に面倒なことになっているエレナには同情と感謝を込めた念を送り、お休みとだけ言い残してアキラは立ち上がった。

 何やらいくつかの視線を背中に感じたが、前の依頼で行動を共にした男の去り際を真似し、せわしなく、足早に、自室がある3階へ向かう。


 その、まあ。


―――***―――


 やらかした。


 購入した家に用意されている個室は、流石に元宿泊施設なだけはあり、ひと通りのものが揃っている。

 入ってすぐ脇には小さめだがクローゼットや、洗面台、お手洗いがあり、手狭だが、簡易なシャワーもついている。


 2階階段上がってすぐ左の一室が、マリサス=アーティがこれから住む部屋だ。


 窓はひとつだが照明具は揃っており、部屋の奥にはベッド、その脇には小物置と、この辺りはルックリンの手配で用意されたものだが、十分どころか過剰な設備だ。

 他の部屋も左右の差はあるものの、それぞれ同等である。

 ベッドの反対側はぽっかりとスペースが開いており、この辺りが部屋の持ち主の色が出る部分だろう。


 今は整理もそこそこに、空いたスペースに運んだ自分の荷物を運んできたまま置いている。

 今日中に荷ほどきしようと考えていた荷物たちを尻目に、マリスはベッドに頭から倒れ込だ。


 やらかした。


 ここまで巨大な家、というか宿泊施設の購入に至ったのは、まあいい。

 蓄えは異常なほどあるつもりだったが、一応、自分の魔力と違い、無限ではなかったのだという実感も持てた。

 全額負担でもなく、まるっきりなくなったわけでもないが、湯水のように大金を使うという感触は、確かに恐ろしい。

 同じような感覚は、アイルークの故郷へ寄付したときも味わったが、目の前に形となって表れると、より一層、街並みを見る目が変わりそうだった。

 家自体にはまるで文句はないし、何より不自由なく全員で泊まれる。そう考えると悪い買い物ではなかったのだろう。


 マリスの同僚の、フェッチ=ドッガーという男も、故郷に残す家族のため、給料の前借分もつぎ込んで大豪邸を建てたらしい。

 “あの領域”に入るゆえの形見のつもりだったらしいが、時折、機嫌良さそうに話しているところを見ると、彼も彼でいい買い物をしたようだ。


 だから、家は、いい。

 ただ、進行自体は、ルックリンたちの助力が大いにあったとはいえ、意外にもアキラがしっかりやっていたので、マリス自身は資金を出した以外の実感が無い。

 というか、家の購入の際、というより、この数日、あまり、記憶がない。


「やらかしたやらかしたやらかした」


 ふーっ、と枕に顔をうずめ、息を強く吐き出す。

 今までは相部屋で、力ずくで抑え込んでいたが、いよいよ個室になり、連日のルーティンになってしまうかもしれない。


 思い出すだけで顔から火が出そうだった。


 原因は数日間。

 アキラと共に、このドラクラスの外で依頼を請けたときのことだ。

 依頼自体は、多少、というか予想通り大いにトラブルに巻き込まれたが、それを乗り越え、大成功に終わっている。

 そして、宿も違い、ドラクラスでの業務に忙殺されていて、なかなか話せなかった彼と、しっかり話が出来たのも大きい。


 そしてその最終日。その、大変月が綺麗でした。


 ああいうとき、普段は冷静な自分が待ったをかけるはずだったのだが、思い返すと、あいつは背中を突き飛ばしやがった。


「……ぅぐ」


 枕から顔を上げ、じっと、特に何もない真新しい壁紙を睨む。

 自分は無表情らしいが、今鏡を見る気は起こらない。


 彼が悪い。

 あの勇者様は、自分と同程度、いや、他の大陸での知名度も合わせれば、それ以上の世界中の希望であるというのに、あの自己評価の低さはいかがなものか。

 口で何を言っても分からないとなれば、もう行動で示すしかないのだ。

 その行動には、口を使ったのだが。


「……ぎゃぁ」


 変な音が漏れた。

 自分は、世界中から羨望されている人物らしい。

 彼ら彼女らはきっと、夜に奇声を上げる人間だとは思っていないだろう。


 日中は、彼と話すときでさえ、極力思考を逸らし、それなりにいつも通り振る舞えているとは思っている。

 時折地雷を踏み抜くが、それは大抵、彼の日輪属性の力が働いて思わず口から漏れるときだ。

 やっぱり彼が悪い。


 彼の方はどうだろう。時折、自分と同じように思い出しているな、と感じることがある。

 そんなときは、やってやったと思ってしまう。


 だが、いきなりあんな真似をして、迷惑だったろうか、と考えると胸がきゅっと締め付けられる。

 彼の自己評価の低さがうつったのかもしれない。


 ただ、悶えるような羞恥が頻繁に襲ってくるも、後悔はしていないと思ってしまうのが、いよいよ手遅れであるような気もする。


「……マリー、いる?」

「!?」


 ノックの音に、ベッドから力いっぱい立ち上がった。

 頭に血が上り過ぎていたのか、軽い眩暈を覚えるも、念のため、洗面台の鏡に向かい合った。

 まずい。悶えていると思っていた自分の顔が、にやけている。

 焼け石に水だが両手で表情筋を抑え込み、大きく深呼吸をした。


 初めてかもしれない。

 訪ねてきた人を、今一番会いたくない相手だと思ってしまったのは。


「……ねーさん?」

「休んでた? ごめん、明日でいいや」

「いや、大丈夫っすよ」


 今さら出てきた冷静な自分が腕で大きなバツを作っていたが、大切な姉である。

 錆びた鉄のような身体を強引に動かし、ドアを開けると、髪を下ろしたエリーがいた。

 普段はその赤毛を1本にまとめているが、一緒に生活していると時折こういう姿を見る。

 こうなると、他者からは自分たちの区別はいよいよ色でしか付けられなくなるだろう。


 赤い方が、ヒダマリ=アキラの婚約者様だ。


「あれ?」

「……ちょっと顔を洗っていて」

「え、何? いや、荷ほどきまだだったんだなって」


 冷静な自分が、やはり通すべきではなかったろうと、せせら笑って挑発してきているような気がした。

 このままいくと解離性同一症か自虐癖に目覚めるかもしれない。

 これ以上墓穴を掘る前に、マリスは部屋の奥に姉を促す。


 ひとつだけある椅子に姉を座らせ、マリスはベッドに座り込んだ。

 同じ顔が正面で向かい合う。

 姉はこちらの顔を見て、ようやく怪訝な表情を浮かべた。

 さっきのセリフは今言うべきだったらしい。


「急ぎってわけじゃなかったんだけど、ちゃんと伝えたくて。ありがとね。この家、マリーも協力してくれたんでしょ?」

「それは別にいいんすよ。気に入ってくれたなら」

「もう大満足よ。その、まあ、うん。ほら、大きなお風呂もあったし」


 規格外すぎて、自分と同じ感性を持っているなら、姉も思うところはあるだろう。

 正直やり過ぎではある。7人しか住まないとなるとなおさらだ。姉も気にしている掃除やら何やらを考えると、エレナではないが、それこそ人を雇った方がいいレベルの規模だ。

 だが、今日くらい、文句は飲み込んでおきたいだろう。

 色々と苦労は思い浮かぶが、旅の魔術師としては憧れの自宅だし、自分のも相手のも、いい気分を壊したくはない。


「……で、それとは別の話もあるんだけど」


 マリスは背筋を冷やした。

 姉は、特に自分の機微に聡い。隠し事が上手くいった試しはほとんどない。

 加えて、あの男を見抜く力にも優れている。


「ねえマリー。さっきの話なんだけどさ」

「ぁいや、ええと」

「? やっぱり、魔導士隊としては秘密のこと? さっき言いかけてたこと訊きたくてさ。『名前のない荒野』って、どんな場所なのか、って話」

「はい?」


 姉の視線が、不審なものに変わった。

 落ち着け落ち着けとマリスは胸に手を当てた。

 やましいことなんてない、というわけでもないが、気にしすぎては姉でなくとも不審に思う。


 だが落ち着くために自己分析しようにも、自分が抱えている感情が整理できない。

 幸福、羞恥、罪悪感、そして多分、劣等感。

 感情がごちゃ混ぜになり、まるで制御できそうにない。

 昔から、そういうときは姉と話すと整理できたりするのだが、姉にだけは相談するわけにはいかない。


「……やっぱり、明日にしましょうか。あたしも荷ほどきまだだったわ」

「いや、大丈夫っすよ」


 後ろ暗さから、腰を浮かせた姉を引き留めた。

 姉は自分のことを分かってくれるが、自分だって、同じ時間、いやそれ以上、姉を見てきている。

 彼女は、人の心を尊重する。

 きっと姉は、自分の様子を見て、ひとりの時間を作った方がいいと思ってくれたのだろう。


 大いにそうであろうが、姉は真剣な話をしにきたのだ。

 このまま行かせたら、良心の呵責やらで、隣の部屋の姉に聞こえぬよう声を押し殺して悶えることになる。


「ねーさんは、……いや」


 大丈夫なのか、と言おうとして、口を噤んだ。

 魔門破壊。ドラクラスの最初の経由ポイントでの最大の問題だ。

 依頼を請けるかは任意となっているが、ドラクラスで生活していく者たちにとっては、指定B以上のものはほとんど強制の意味合いが強い。この辺りが、『三魔人』グリンプ=カリヴィス7世の手腕なのだろう。


 そんな危険な依頼に、彼女はAで指定されている。

 一般常識からすれば、それはほとんど死刑宣告だ。


 だがそれでも、姉は即座に行動を起こし、依頼を請けることにした。

 そこに口を挟むのは、姉妹だとはいえ、不躾だろう。いや、もしかしたら、“自分たち姉妹だからこそ”、なのかもしれない。


「……『名前のない荒野』。そこには自分も行ったことがあるんすけど、……分からなかった」


 ならば自分は、知っていることを答えよう。

 それがどれほど彼女を不安にさせるかは計り知れないが、彼女に降りかかる問題だ。口を噤むことはむしろ危険であろう。


 仲間内でも共有すべきであろうが、先ほどの場では口にはできなかった。

 何しろ、姉以上に、不安で胸が押し潰されそうになっていた男がいたのだ。

 姉が挑もうとする厄災を前に、彼のあんな様子を見て、正直、胸は痛んだ。

 だが、この痛みには、この先もずっと付き合い続けることになるだろうとも思っていた。


「分からなかったって、マリーが?」

「ええと、まあ、そうなんすけど……。分からなかったというのは、何も起こらなかったというわけじゃなくて、なんというか、」

「……?」


 言いたいことがまとまらない。

 姉も珍しく、こちらの意図を読み取ってくれなかった。

 それもそうだろう。たとえ魔導士隊だろうが、言語化することがそもそも出来ない感覚だ。


「自分がそこへ行ったのは、魔導士隊に入ってしばらくしたとき。禁忌の地の――― “ファクトルの深淵調査部隊”が結成されたときの演習でなんす。流石に、魔門の近辺には行かなかったっすけど」


 だからマリスは、そのまま、知っていることを伝えた。


「ヨーテンガースの『名前のない荒野』……『魔門の荒野』。ヨーテンガース南部にぽつりとあるその場所は―――“仮想ファクトル”」


 そしてここからが、マリスが感じたことである。


「その後、実際にファクトルに入って分かった。演習現場としては最適だったって。ファクトルも、『名前のない荒野』も、目で見て感じて、“分からないことが分かった”。規模はずっと小さいけど、あの場所は―――ファクトルそのものだった」


―――***―――


 善人と悪人の境目は、どこにあるのか。

 恐らくそれは、それに線を引こうとする者には見つけられない。

 そして、誰にでも善の部分も悪の部分もあると、達観したようなことを言う者にはもっと見えない。

 だが、ならばと探そうとすらしなかったり、どうでもいいと言ったりする者は、影すら見えないだろう。

 全通り出尽くしたように思える。


 つまり、人というものの中に、境界線を引こうとすることそのものが、答えのないものなのかもしれない。

 思考し過ぎることも、思考を放棄することも許されない。


 善悪限らず、人が関わると何事もそうだ。

 表の顔、裏の顔。理想と現実。本当の自分。

 その境界の答えはどこにもない。


 もしどうしても答えが欲しいなら、自分で作り出すしかない。


 つまりは、自分がどうありたいかだ。


「……い、いや。ここでの2度寝は……、ま……、ず……い……」


 薄暗がりの狭い部屋で、決意か寝言かが漏れた。

 蠢き、1度目を覚ましたときに見た時計を見ると、意識はずっとあったように思えるのに、何故か1時間も過ぎている。


「っ!」


 掛け布団を跳ね上げ、そのままの勢いでベッドから跳ね起きると、転がり落ちるように強引に身体を動かし、無理やり身体を覚醒させた。

 ごつんとベッド脇のテーブルに頭がぶつかったが、時間が時間だ、気にはしていられない。


 最悪の一日になるかもしれない。


 イスカ=ウェリッドという女性は、最近はドラクラスで民間の仕事についている。

 特に今は稼ぎ時のようで、仕事が山積みだ。上司も先輩も忙しさにピリピリしている。新人だから助力も大してできないし、つまらない遅刻は火種になってしまう。

 爪に火を点すような思いで街中を駆けずり回り、何とか手にした仕事をここで手放すわけにはいかない。


 カーテンを開け、朝の景色を楽しむ間を惜しんで寝間着を脱ぎ捨て、眠気眼で“水”を温め、流れるように洗面台に向かう。最近は特に水が安くて助かる。

 口をゆすぎ、顔を洗い、髪をとかすと、鏡には、覚醒し切る前の自分がいる。

 きめ細かい色白の肌は小さな自慢だが、ススキ色の短髪と合わさると一層色合いが薄い。だがそれが、深い青色の大きな瞳を際立たせ、そしてそれこそイスカの最大の自慢である綺麗な瞳だった。

 簡単にメイクをし、自分の青い瞳と向き合い続けると、身が引き締まってくる。

 本当はシャワーも浴びたいところだが、流石に時間が許してくれはしなさそうだった。


 身体を伸ばし、大きく深呼吸をすると、ようやくイスカ=ウェリッドの朝が始まり、目の前の現実がはっきりと青い瞳に映る。


 ベッドとテーブルを置くだけでいっぱいになる奥の寝室に、玄関と洗面所を合わせたこぢんまりとした一室。洗面台の隣に申し訳程度にあるシャワーユニットはガラスが透明で、布で隠しているものの、入浴時には玄関の鍵を何度も確認することになる。


 この、ドラクラス1階にある集合住宅の、2階の最奥からひとつ手前にある部屋が、今のイスカの城である。

 平均以下の賃料らしいが、財布へのダメージが大きい。

 それでも、女性しか入居できないことと、壁にクローゼットが埋められ、意外と収納スペースには困らないところが気に入っていた。


 廊下もエントランスも清掃員が清潔に保ってくれるお陰で、部屋は狭いがひとりで住むだけなら快適だ。

 賃料のトラブルで管理を任せられているらしい代理人との仲は決していいとは言えないが、オーナー自体の方は事情を汲んでくれているらしく、友好な関係を築けているお陰で、資金面の融通もある程度効かせてもらっている。


 その恩に報いるためにも、このドラクラスで稼ぎまくり、商人として名を上げることがイスカの当面の目標だ。


 イスカは温めていたお湯を飲み切ると、クローゼットから一張羅のスーツを取り出し、勢いよく身に付けた。

 襟元を正し、再び鏡の前に立てば、長身でプロポーションがいいのも相まって、びしっとした仕事のできる女がそこにいる。


 鏡の横に置いている指輪があしらわれたペンダントを首から下げた。

 目を瞑り、指輪に口づけをして、シャツにしまう。

 これで最低限、朝のルーティンは終わった。


「さっすが私」


 手早く身支度を整え、時間にむしろ余裕が出たことにイスカは笑みをこぼすと、はっとして頬を張る。

 服に着られないように、緩んだ頬を改めて引き締めた。

 気を抜くと緩む口元を意識して結ぶと、切れ長の瞳のお陰で、クールで洗練されたキャリアウーマンにしか見えない。


 これがなりたい自分だ。


 肩掛けの鞄を手に取り、表情が崩れないように玄関へ向かう。

 狭い玄関で、選択肢の無い靴を選び、再度襟元を正し、ドアを開ける。


 ドラクラスの空はまがい物で、いつでも晴れている。

 だが、それでもその朝の陽ざしを感じながら、イスカは晴れ晴れとした気持ちで息を吸って吐いた。


「いってきます」


 今日はいいことがあるかもしれない。


―――***―――


「ご無沙汰しています。勇者様」

「い、いらっしゃい。……フェシリア」


 住まいを移した翌日。

 固定の拠点を構えても同じか、面々はドラクラスのどこかで思い思いに過ごしていることだろう。

 そんな中、ヒダマリ=アキラも例にもれず出かけようとしていると、3階の自室の窓から、金の髪が目立つ小柄な女性が門をくぐってくるのが見えた。

 彼女は白と黒の建物に分かれる道で止まると、何かのまじないなのか、あるいは戯れか、指を立てて振り、見事アキラたちが住む白い建物へ歩いてきた。


 この建物には呼び鈴のようなものが無い。

 元は宿泊施設だったゆえの欠点だが、ドア鈴がついたエントランスの扉を開かれない限り、来訪者には気づきにくいのだ。

 防音の仕組みもそれなりにあるらしく、扉をノックされても2階以上の自室にいたら音が届かず、誰も応対に向かえないだろう。


 アキラはやや急かされるような気持になって、3階から慌てて降りてきて、扉を開けると、ノックでもしたのか、彼女は広い庭の様子を朗らかに眺めながら待っていた。


 ドラクラスのどこかにいる、すべての情報を得ることができるという『接続者』。

 彼女は、その『接続者』と唯一コンタクトを取ることができる『代弁者』である。


 そして、その名は、フェシリア=“アーティ”。


「ええと。いらっしゃい。よくここが分かったな」

「ふふ、ドラクラスの世辞には明るいもので。……すみませんね、お引越しの直後に押しかけてしまって」

「いや、いいけど……。っと、どうぞ」

「はい。お邪魔します」


 エントランスに通し、アキラは迷ったが、右奥の喫茶店のようなスペースへフェシリアを案内した。

 ルックリンが気を遣ってくれた、持て余しているテーブル席に招くと、フェシリアは一礼して柔らかく座る。


「ええと。……何か飲むか。ちょっと待ってくれ」

「お構いなく」


 気を利かせると、定型文の返答があった。

 傍から見ると、おどおどとし、警戒心を持った小動物のように見えるが、話すと意外に神経が太いことが分かる。

 そんな印象を受ける彼女は、広いエントランスでも特に気負った様子はなかった。


 イオリが作り置きしてくれた茶を慣れない手つきでコップに入れて運ぶと、彼女はじっとコップの柄を見る。

 自分のではない。ついでに持ってきた、アキラのコップの柄を見ていた。


「フェシリア。今日は何を?」

「はい。お引っ越し祝いを」


 フェシリアはわざわざ立ち上がり、持ってきていた紙袋を両手で丁重に差し出された。正面ではなく、ややアキラの右手に向けられている。

 恐る恐るアキラも断って受け取ると、彼女はくすりと笑っていた。


「急ごしらえで恐縮ですが、お茶請けです。ご笑納ください」

「フェシリアが作ってくれたのか? 助かるよ、ありがとう」


 丁重にプレゼントを受け取り、テーブルに置くと、フェシリアはじっとその様子を窺っていた。

 アキラはフェシリアに気づかれないように軽く頭を振る。

 礼儀作法がこれで正しいのかアキラには分からないが、それとはまた違った緊張を覚えていた。


 フェシリア=アーティ。

 ドラクラスの『代弁者』。『接続者』に選ばれた存在。

 『接続者』の影響がそれほど強いのか、『三魔人』のひとりが行っているらしい、魔導士隊の定例にも参加するほどの、ドラクラスの重要人物である。

 アキラもそれほど交流のある相手ではないが、彼女について教えてくれた男の話によると、フェシリア=アーティはただ運よく『代弁者』に選ばれたわけではない。


 『代弁者』に選ばれる前、彼女は“儀式”を専攻していたらしい。

 儀式とは、彼女によれば、現在解明されていない“魔法”の条件を特定し、誰もが使える“魔術”に落とし込むプロセスのようなものである。


 人、物、場所など、特定の“条件”を整えることで発動する儀式、つまり魔法は、解明されていないがゆえに、意図せず条件を満たしていても誰にも分からない。


 フェシリア=アーティはそんな儀式のスペシャリスト。つまりは、魔法のスペシャリストだという。

 そんなことを考え出すと、フェシリアの一挙手一投足が、アキラには分からない何らかの“条件”を満たしている可能性があると思えてしまう。


 だが、アキラも思わずそんなことを考えてしまうが、フェシリアという人間と向き合っている中、そんな不躾なことを考えるのは、それこそ礼を失するだろう。


「それで、今日は?」


 言いながら、アキラはフェシリアに負い目を感じた。

 アキラは以前、フェシリアから相談を受けている。


 そもそも、引っ越し祝いというのはありがたいが、フェシリアはそれほど交流のある相手ではない。

 今日来たのは、その件かもしれなかった。


 ドラクラスのどこかにいる、すべてを知ることができる『接続者』が不調に陥っている可能性があり、フェシリアはその解決の糸口に、日輪属性という希少な存在であるアキラという“人”に、協力を依頼してきたのだ。

 邪推すると、実験動物になってくださいと言われているようなもので、あまり積極的に関わりたいとは思わないのだが、協力の約束はしてしまった。


 だが、そんな感情とは別に、その直後からドラクラスを半月ほど離れた上、戻ってきたら家の購入という大仕事に忙殺され、フェシリアへの協力どころかほとんど会ってすらいない。

 そのせいで、フェシリアからはむしろ避けられているような印象を持たれているかもしれない。

 そんな中、アキラがフェシリアに今日は何をしに来たと訊くのは厚顔無恥のように思えた。


「ふふ。お引っ越し祝いというのは本当ですよ。あとは、少し心配になりまして」

「?」

「あら。ご存じないですか? 今朝がた、この辺りで火事があったのを」

「なんだって?」

「最近物騒ですよね」


 無恥というより無知だった。

 昨日晴れてこのドラクラスの住民となったというのに、見晴らしのいい3階にいて、近所の火事ことすら知らなかった。

 そういえば早朝、誰かが訪ねてきて、誰ぞかと慌ただしく出かけていったような物音を聞いたが、もしかしたら魔導士と通じるイオリかマリスだったのかもしれない。

 早速近所でバーベキューとやらを始めたティアが連行されていったわけではないと信じたかった。


「ご無事で何よりです。……まあ、それと、敵城視察、ですかね」

「はい?」


 フェシリアはエントランスを眺めていた。

 元は高級趣向の宿を目指しただけはあり、天井は高く、天窓のお陰で光量もある。

 だが実際に住むアキラとしては、天窓の掃除や天井の照明具の交換の不便さに、2階に行く階段の長さやらの欠点に思えてくる。

 しかしフェシリアは、うっとりとしたように頬に手を当てていた。


「実は私、集合住宅を経営していまして。……と言っても、あまり参考にはならないでしょうね。こちらほど立派なものではないですから」

「フェシリアが?」

「ええ。……ふふ、『代弁者』が、という意味ですよね。意外でしょうか」


 アキラが返答に困っていると、フェシリアはくすりと笑った。


「私は役割の都合上、ドラクラスから出られません。勝手に出ようとしようものなら即座に魔導士隊か警護団に取り押さえられるでしょうね。それなのに、『接続者』の一言でこの役割を失います。将来のためには資産運用もしなければなりません」


 決して笑って話すことでは無い気がした。

 『代弁者』は『接続者』が選定するという。

 具体的にどういう取り決めがあるのかは知らないが、イニチアチブはあくまで『接続者』が持っている関係だ。

 そう考えると、このドラクラスの重要人物であるフェシリア=アーティは、非常に弱い立場とも言えた。


「ドラクラスに来てから、生活が一変しました。十分なお給金をいただけてはいますが、やることはただの伝言ゲーム。それなりに自由にさせてもらってはいましたが、『接続者』の状況をグリンプ氏へ報告する移動時間だけでも、結構馬鹿にならなくて、それだけで1日が終わることもしばしば」

「……フェシリアは、いつから『代弁者』になったんだ」

「そう、ですね……。もう、6、7年? くらいでしょうか。それなりに儀式には詳しかったつもりですが、きっともう錆びついていますね」


 彼女が専攻していたという“儀式”。

 どういう学問なのかは知らないが、ヨーテンガースでは儀式が盛んだという。進歩も早いだろう。

 そんな進歩の中、彼女はそれだけの年数、伝言ゲームだけをやっていた。

 本来、儀式の最先端にいられたはずの彼女は、『代弁者』に選ばれた瞬間、取り残されることになったのだろう。


「『代弁者』に選ばれたとき、私の夢は終わりました。いや、“夢から覚めた”、が正しいでしょうね」

「覚め、た?」

「ええ。……私が『代弁者』になったのは、『接続者』が選んだからです。だから私にとって、『代弁者』としての自分の方が現実だった、ということでしょう」

「……」


 アキラは閉口せざるを得なかった。


 未来の情報すら得ることのできる『接続者』。

 その存在の予知は、つまり確定した未来であり、現実だ。

 フェシリアが『代弁者』に選ばれたということは、フェシリアの未来はあらかじめ決まっていて、選定される前に彼女が目指していたものがあったとしても、それは所詮夢でしかないということなのだろう。


「私はこの先、ドラクラスに骨を埋めることになるでしょうか? お役御免となった『代弁者』がどう扱われるのか。そればかりは教えてもらえないんです」


 フェシリアと話していて最初に浮かんだ感情は、同情ではなく呆然だった。

 歳もそれほど変わらないであろうフェシリアは、話しているだけで、見ている未来のスケールが違う。

 将来。骨を埋める。

 アキラにとってまるで現実感の無い言葉であり、同時に、現実にすぐそこにあるのに、アキラが目を背け続けてきたこの世界の代償でもあった。


「とと。私から始めてしまいましたが、こんな話、止めましょう。お気になさらず、というのも違うでしょうが、少なくとも頭を使わずに歩いていればお金を貰える職業です。世間の多くの方からは垂涎ものの仕事でしょう」

「……でも、フェシリアはそれを望んでいるのか?」

「まあ、言いたいことは多々ありますが、……楽して稼げるな、とは。集合住宅の方も雇った管理人に任せていますし」

「はは」


 日輪属性は相手の心を開かせる。最後までが本心だと願いながら、フェシリアの言葉に付き合って、アキラは笑った。


「……なあ。前に俺、協力するって話をしたよな。待たせて悪かったけど、何をすればいいんだ?」


 彼女の話に対する同情もあったのかもしれない。

 アキラは、申し訳なささに負けて、実験動物になるようなことを自ら言い出した。


 フェシリアの口元が小さく笑った気がする。

 そうなって、アキラは初めてフェシリアがどのような表情で『代弁者』としての自分を語っていたのか思い出せなくなった。


「ああ。そういうつもりではなかったんですが、お言葉に甘えさせてください」


 彼女は淡々と言った。

 フェシリアの行動を邪推することはしたくなかったが、今回ばかりは嘘のような気がした。


「勇者様にご協力いただきたいのはですね、……何にしましょうか」


 今度はフェシリアの表情がよく見えるような気がした。

 やや顔を明るくし、周囲を伺いながら様々なことを考えている。

 儀式、ひいては魔法に好奇心が強いのは、どうやら間違いなさそうだった。


「簡単に言ってしまうとですね、やろうとしていることは、勇者様に魔法を使っていただきたいのです。何でもいいんですが」

「魔法を?」


 そう言われて反射的に魔力の感触を探ったが、ふと、アキラは自分が使える魔法が使い物にならないことを思い出した。

 そもそも、アキラが使える魔法や魔術は、ほとんどが戦闘用だ。


「あ、お気になさらず。私が使わせてみせますので」


 そんなアキラの様子に気づいたのか、フェシリアは、傍から聞くと信じられないことをさらりと言う。

 いや、正面から聞いても、理解できなかった。

 他人に魔法を使わせる。

 そんな言葉が存在するとは思わなかった。


 儀式は“条件”を整えることで発生するという。

 ヒダマリ=アキラという日輪属性の人間に加え、彼女が他の“条件”を整えるという意味なのだろう。


「ただ、そうですね。……勇者様。何かしたいことはありますか?」

「なん、だろうな?」


 したいことはいくらかあるが、彼女が言っているのは魔法としてやってみたいことはあるかという意味だろう。そう訊かれると返答に困る。


「そもそも俺、魔法って何ができるかよく分かってないんだよ」

「何でもできます。さあ、お望みを」


 最近そんなことを別の人物に言われたが、少しだけ鼻息が荒くなったフェシリアを前に、そのときのような高揚感ではなく、無力感を味わった。


 魔法とは何でもできる。では何がしたいか。

 願いを決めもせずにランプを擦ったような焦りが生まれる。


「難しく考えなくても大丈夫ですよ。魔法と言っても、所詮いずれは魔術に落とし込まれるものでしかありません。なんとなくやってみたいことを試してみるだけでいいです」

「……例えば?」

「そうですね……、飛行に転移、もちろん予知も。疑似物体の生成……は、敷居が高いですが、変わったところでは、催眠や洗脳なんてのもあります」

「こ、怖いな……」

「なかなか面白いですよね。他者を意のままに操るなんて」


 フェシリアの声色は、低俗な欲にかられた者のものではなく、単純な興味があるものだった。

 研究者とはそういうものなのだろうか。

 出遭ったことのある月輪属性の魔族が似たような魔法を使用していたことを話したら、彼女の瞳はもっと輝くかもしれない。口にもしたくない魔族の話だが。


「あとは……、そう、例えば……。ああ、参照、なんてのもいいかもしれませんね」


 瞬間。

 フェシリアの笑みに、違和感を覚えた。


「……参照っていうのは?」

「ええ、過去参照など。調べ物などがはかどります」

「……」

「?」

「……いや」


 アキラはフェシリアから視線を外した。

 調べ物と言われて、ふと思いついたのは、彼女の“名前”に関するものだ。


 『プロジェクト:アーティ』―――かつてあったという“何か”。

 それについて知りたいと言えば知りたいが、本人の前でするような話ではないだろう。


 ではと考え、アキラは自分が出かけようとしていたことを思い出した。


「そう……、だな。俺、ちょっと調べ物しようとしていたんだけど、そういうのもできるのか?」

「もちろん大丈夫ですよ。ちなみに何をお調べに?」

「ええと、『名前のない荒野』って場所のことなんだけど」


 今日、方々をめぐって誰かに訊いてみようと思っていたことだ。

 エリーたちが指定された依頼の現場である『名前のない荒野』という場所。

 調べたからなんだという話ではないが、依頼の詳細が出るまでじっとしているのも耐えられない。


「なる……ほど。勇者様、やはり噂は漏れているみたいですね」

「あ。いや、なんとなく、だよ」


 アキラはまずいことになるかもしれないと思い、取り繕った。

 フェシリアは魔導士隊の定例に参加している。魔門破壊の依頼の話も上がるだろう。

 だが現在、公式には、その依頼が魔門破壊であるということは確定していない。あくまで指定Aのいる依頼が出されただけだ。魔門の場所も、公然のものではあるが、一応秘密らしい。

 所詮民間のアキラが確定していることを前提に話せば、その情報源が、アキラの仲間の魔導士だと思うだろう。

 教えてくれたマリスに迷惑がかかるかもしれない。


「いえ、お気になさらず。大丈夫ですよ、魔導士隊も漏れていることを前提に行動していますから。その辺りを歩いている方に直接訊いても答えてくれるでしょう」


 アキラが気にしたことが分かっているのか、フェシリアは微笑んだ。

 気を遣い過ぎているだけかもしれないが、立場のある仲間のことを考えると、もう少し発言には気を付けた方がいいかもしれない。


「では、そうですね。直接見てみるのもいいでしょう。……“遠視”、をやってみましょうか」

「そんなことも……、って今さらか。……というかいいのか? 俺がやりたいことで。そっちこそ今さらだけど」

「ええ。私たちで何らか魔法を成功させて、“条件”を探り、それを他の人にも当てはまるかを試していく、というのが大まかな手順になります」


 言葉はぼやかしていたが、その他の人というのが不調だという『接続者』だろう。


「ではまず、調べるのは、勇者様がそもそも遠視をできるかですね」

「ん? 人によっては出来ないってやっぱあるのか」

「いえ。そういう意味ではありません。そもそも日輪属性ですから、その辺りの制約は無いでしょう。“すでにできるか”、という意味です」

「できないけど……」

「それはどうでしょうね。例えば、予感が当たる、なんてことありませんか?」


 指を立てたフェシリアは、やや得意げな顔になっていた。

 もしかしたら研究者だったらしい彼女の何かを刺激したのかもしれない。

 また以前と同じように、授業のように教えてくれるのだろうか。


「いい予感でも、悪い予感でも。ふっと“何か”が起こる情景が浮かんで、実際それが起こったことがありませんか?」

「それは未来予知じゃないのか?」

「近しいですよ。そもそも、参照は過去、遠視は現在、予知は未来、ということがありますが、それらの境界線なんて無いようなもの……、おっと」


 フェシリアは思わず口を押さえた。

 怪訝な表情を向けると、フェシリアは小さく咳ばらいをする。


「失礼しました。訂正します。過去も現在も未来も近しい。これは私の主観ですね。過去現在と未来、過去と現在未来、もちろん、過去と現在と未来でそれぞれ境界線を引く方もいます」


 専門家としてのプライドだろうか。

 フェシリアは機械的にまくし立てた。


 過去と現在。

 現在と未来。

 確かに境界線はあいまいだ。


 アキラとしては、どれも同じだと言ってしまうフェシリアの気持ちが分かった。

 その誰ぞかのように崇高な思考ではないだろうが。


「ですが、今は境界線は無いものとして進めさせてください。……話が逸れましたが、勇者様は予感が当たることが多いですか?」

「当たったり……、当たらなかったり、まあ、当たる場合は大体嫌な予感の方だけど。これって予知なのか?」

「立派な予知ですね。嫌な予感ばかりと言いますが、それは心理的にそういうものが記憶に残りやすいだけで、良い予感も当たっているのでは?」


 そう言われると自信がなくなる。

 だが、予知をしているという自信の方がもっとない。

 フェシリアは興奮気味に身を乗り出し、アキラの眼をじっと覗き込んできていた。

 彼女は一瞬、瞳を左右に振った。それに釣られてアキラの瞳も動く。

 もしかしたらもうすでに“何か”を始めているのかもしれない。


「それは本当に予知なのか? 例えば経験則とかから悪いことが起こりそうって思っていて、実際に起こるのは、誰でもあるんじゃないか?」

「それはやや複雑な話になりますが、気づいていないだけで、予知の可能性もありますね。“思ったことが未来と一致”したのでしょう?」


 フェシリアの言葉は説得力があるようで、やや胡散臭く感じた。

 例えばフェシリアがテーブルに乗り出したせいでずれたコップ。

 まだ大丈夫そうだが、そのうち何かのはずみでテーブルから落ちて割れるかもしれない。

 そんなことが、アキラが思った通りに起きれば“予知成功”であり、落ちなければ“予知失敗”ということになる。


「過去も現在も同じです。“起こっただろう”と思ったことが実際に起きていれば参照ですし、“起こっているだろうな”と思ったことが起きていれば遠視です」

「それは本当に魔法なのか? やっぱり、誰でもあることだろう?」

「ええ。だから重要なのは、“再現性”なんです」


 フェシリアは乗り出した身を引いた。コップは無事そうだ。どうやらアキラの未来予知は失敗したらしい。


「脳の機能で、そういう想像は誰しもがするでしょう。知識や経験に基づいて先のことをぴたりと当てる方ももちろんいます。そういう方々は勿論優秀ですが、時折、そうした知識や経験という言葉では言い表せない“何か”で未来を当てる方もいる」

「勘、ってやつか」

「勘というのは多くが知識や経験から来ますので、魔法よりもずっと論理的ですよ。運の方が近いですね」

「この話、本当に学問なんだよな?」

「……ふふふ。この幸運を呼び込むコップ、お買い求めになりますか?」


 隅にずれていたコップを持ち、フェシリアは怪しく笑った。

 悪戯めいた表情が、可愛らしく見える。

 その姿に、むしろアキラの失言めいた言葉を上手く流せる大人の態度を見た気がした。


「まあ、そんなわけで、確認したかったことは出来ました」

「え? 俺の予感が当たるかどうかってやつか?」

「ええ。というより、知りたかったのは、勇者様の予感……予知が、“ロジックとして落とし込まれてしまっている”かどうかでした。それだと、実験するのに多少敷居が上がってしまいますので。極端にネガティブだったり、逆に自信満々だったりしないので、どうやらフラットのようですね」


 会話の中で、いつの間にかアキラの思考パターンを読んでいたらしい。

 流石に専門家、と思うと同時に、フェシリアが少し怖くなった。

 以前、フェシリアについて話してくれた男の言葉が蘇る。

 彼女は強引なところがあるらしい。

 気づかぬうちに、先の見えない坂を下らされているような感覚に陥る。

 この感覚は、このドラクラスでも、確か、以前に。


「では勇者様。早速やってみましょうか」


 フェシリアが小さく手を叩いた。彼女の顔が見えない。表情が、分からない。

 だが音は、耳には心地よく残る。

 追憶しようとしていたせいだろうか。妙に集中している自分に気づいた。


「日輪属性に出来ないことはありません。ふと思いついた妄想のようなものが事実と一致することは大いにあります」

「? つまり、なにか想像しろってことか?」

「ええ。良し悪しに関係なく、“それが当たれば”成功です。過去のことなら参照、現在なら遠視。そして未来な予知です」


 無限の猿のような思考実験をしてみようということだろうか。

 何も分からぬ猿でも、タイプライターを無限に叩き続ければ、いつかは名作を生み出すという。

 “それを意図して起こさせる”のが魔法だ。


「なにか、そうですね。例えば、“ここではないどこか”を想像してみてください。『名前のない荒野』……ううん、いきなり遠方、というのはイメージし辛いでしょうから、そうですね、例えばドラクラスの街並みなどいかがです?」


 言われた通り、アキラはぼんやりとこの家の外を思い起こす。いや、フェシリアの言葉通りなら、思い描く、だろうか。


「……つっても」

「何でもいいんですよ。そう、荒唐無稽なことを考えたっていいくらいです」

「う……ううん……」

「大丈夫です。適当に散歩しているところを想像してみるとか。家を出て、道を歩いて、深くは考えず、そうですね、中央ゲートに向かっていくような想像など」

「……じゃあ、やってみるけど」


 気恥ずかしいが、協力すると言った手前、真摯に取り組むべきだろう。妙に周りの音が遠く、自分の集中力が何故か高まっているのを感じる。

 家の一瞬だけ扉の方を見て、あそこから庭までの流れを思い描いた。そこから先はあいまいだが、可能な限り思い出そうと努力した。


 空想の中のアキラは、この大きな屋敷から出た。

 この家の外は、静かな民家に混ざって、個人商店と思われる店が並んでいる。

 誰が住んでいるのか、何を売っているのか、記憶に残っていないものはぼやけていた。


 しかし、ふと気づくと、ぽつぽつと個人商店が並ぶ道が、左右に屋台が敷き詰められた大通りに変わる。

 余計なことを思い出してしまって、空想の中移動してしまったらしい。今、ドラクラスの1階のゲート付近では連日行われる祭りで、ゲートを中心として蜘蛛の巣上に伸びる道に、活気のいい露店がずらりと並んでいる。

 今は祭りの時間ではない。がらりとした露店の道を進み、アキラは2階に戻るためにゲートへ向かった。

 決まった時間でエレベーターのように1階と2階を行き来するゲートの柱に着くと、曖昧な記憶ゆえか一瞬で2階に戻る。

 散らばった思考は、昇ったばかりの2階のゲートに着くと、何気なく、さらに柱を見上げようとする。


 すると、上げようとした頭を、“何か”に抑え込まれた。

 鼻孔を臭いではない何かがくすぐった。


「もっと、もっと思い描いてください」


 空想の中、隣に、いつの間にかフェシリアが立っていた。

 彼女も同じことを言う。

 記憶を辿っていたはずなのに、集中力が切れてきたような、いや、“より一層落ちていくような”感覚を味わった。


 気づくと柱の麓ではなく、また街中に戻されている。今度は2階に留まってくれているようだ。

 あまり見慣れない景色の中、柱から少し離れた通りに並ぶ、おぼろげな民家と商店の一か所が、何故か黒く塗り潰されていた。


 その絵の具を塗ったような光景に強い違和感を抱くと、いつの間にかアキラは、そんな街並みが描かれた絵を両手に持っていた。

 どうやら自分が歩いていたと思っていたドラクラスの街は、この絵の中だったらしい。

 いつの間にかフェシリアもいない。

 妄想にしても恥ずかしくなってくる。


「そのままでいいです。そのまま」


 その絵画を落としてしまった。

 拾おうとするが、落としたはずの絵画は無くなっていて、ふと顔を上げると、先ほどまで手元にあったはずの絵画が台車に乗せられ、放浪する絵芝居の演者ように誰かがゴロゴロと押していく。最近見かける、祭りの物販か何かだろうか。

 思わず追いかけようとすると、目の前を柱が塞いだ。

 どうやら自分は、まだ柱の近くにいたらしい。

 柱から距離を取ろうとすると、次の瞬間には公園に立っていた。さっきの絵は、この公園で拾った絵だったものだったかもしれない。


 公園のベンチに、赤毛の女性が項垂れて座っていた。

 顔も青く、具合が悪そうだ。

 そういえばここは、と思い起こし、一瞬周囲を見渡すと、目の前の光景が色褪せていく。

 色彩を失いつつある世界で、赤毛の女性はいつの間にか姿を変えていた。

 ススキ色の髪に、ぴっしりとしたスーツを纏い、しかし先ほどの赤毛の女性と同じように項垂れている。

 何かあったのかと歩み寄ろうとすると。


―――街が、吹き飛んだ。


「……は?」

「す、すみませんっ」


 エントランスに、コップが割れた音が響いた。

 現実に引き戻されると、フェシリアが慌ててコップに手を伸ばしていた。


「ご、ごめんなさい、私、なんてこと」

「いや、いい、いいよ。危ないから俺やるって」


 跳ね起きたように立ち上がると、アキラは奥に箒とちり取りを探しにいった。

 先ほどまで眠っていたように頭が重い。

 もしかしたら考えていたというのはアキラがそう思い込んでいるだけで、いつしか眠ってしまっていたのだろうか。


 手早く戻ってきて、所在なさげに立ったままのフェシリアの足元を片付けると、彼女は暗い顔のまま腰を下ろした。


「すみません、ちょっと色々試していたら、不注意で……」

「試すって、何を……、いや、いいか。怪我はないよな?」

「はい。……それより、勇者様の邪魔をしてしまったことが……、ぐ。……コップも、本当にすみません」


 フェシリアは本気で悔しがっていた。

 唇を嚙みしめているようにすら見える彼女の様子に、アキラの方も申し訳なくなってくる。


「……それで勇者様、いかがでした? 何か見えましたか?」


 口惜しそうにしながらも、何かの成果を期待するフェシリアには申し訳ないが、アキラが想像したのは空想とすら言えない妄想だった。

 話すかどうか迷ったが、掻い摘んで言うと、街が吹き飛んだところで彼女も吹き出したので、後悔した。


「でも、要領は悪くないですね。むしろ好調かもしれません。想像というのは途切れやすく、長いものは稀です。そこまで想像できるなら、むしろ得意と言えるでしょう」


 あなたは妄想することに優れていますと言われて、アキラはどう反応しようか迷った。

 フェシリアは好意で言っているのだろうが、正直嬉しくはない。


「で、続きやるのか?」

「……いえ。今日は止めましょう」


 正直、人前で妄想し、それを話すという恥ずかしいことを遠慮したかっただけに、フェシリアの返答はありがたかった。


「すぐに再開しても、先ほどの想像に引きずられてしまうでしょうし、日を改めた方がいいです。先ほど見えたものも、確かめるのは難しいことでしたし」

「そ、か。……役には立てたのか?」

「ええ、とっても。大変参考になりました」


 アキラが想像している間に、何かを試していたという彼女には、何らかの成果があったのだろうか。

 ただそうは言っても、先ほどの失敗が尾を引いているのか、フェシリアはまだ悔しそうな顔をしていた。

 アキラの方も、もともとの目的である『名前のない荒野』のことについては知れなかったが、期待していたわけでもない。


「貴重なお時間をいただきありがとうございました。そろそろお暇させていただきます。……次も、同じように試してみていいでしょうか?」

「……あ、ああ」

「ご協力いただいている身ですが、次は『名前のない荒野』を想像できるといいですね」

「想像……、ま、まあ、そっちはそっちで調べはするけど」

「心配ですものね」


 フェシリアは柔らかく微笑み、好奇心に染まった瞳を惜しむことなくさらし、ふん、と気合を入れるように、言った。


「当日には遠視を実現させてみせます。……ふふ。腕が鳴ります」

「……え?」


 立ち上がりながらフェシリアが零した言葉に反応すると、フェシリアは、はっとして口を押さえた。

 当日の遠視。

 その言葉に覚えた違和感が、彼女の様子で裏打ちされる。

 これは予知ではない。


「待った。フェシリア。当日……、魔門破壊の当日? それで遠視って、俺は『名前のない荒野』にいるかもしれないんだぞ?」

「……え、ええ、そうですね。私ったら、なんて抜けているのかしら」

「……」


 誤魔化せていないとアキラは瞳で訴えた。

 フェシリア=アーティ。この『代弁者』というドラクラスの重要人物は、魔導士隊の定例にも参加している。いや、それだけではないだろう。

 魔導士隊の情報どころか、ドラクラスの根幹に関わるような話を知り得る存在だ。


「フェシリア。魔門破壊の計画、どこまで進んでいる?」

「……あら、勇者様。そんな機密事項、知ったら後悔しますよ?」

「やっぱり知っているんだな?」

「……っ」


 フェシリアが、また悔しそうな顔を浮かべた。

 余裕ぶった表情が消え、やはり癖なのか、金の髪を触り始める。

 動揺に付け込んでいるようで気が引けるが、アキラはさりげなく、フェシリアを逃がさないように立ち位置を変えた。


「フェシリア。もし知っていることがあるなら教えてくれ。あいつらが指定されている危険な依頼なんだ」

「……」


 閑散としたエントランスで、ぐ、とフェシリアの喉が鳴る音が聞こえた。

 そして彼女は観念したように、大きく息を吐いた。


「私が知っているのは、大枠の方針だけです。指定Aがいる依頼……“魔門破壊”。参加させる人と、参加させるわけにはいかない人」

「それだ。それはつまり、」

「最初に決まったのは4名です。必須参加者は、魔門破壊の実績がある、スライク=キース=ガイロード、エリサス=アーティ」

「残りのふたりは、やっぱり」

「……はい。……万全を喫するため、“それ以上の混乱は避ける”ため。参加させない方は……、日輪属性の、ヒダマリ=アキラ、ジェット=キャットキット」

「……っ」


 息が詰まった。

 昨日話を聞いて、恐れていたことが現実になっている。


「マリスはそんなこと言ってなかった」

「魔導士隊の定例の話ではないですから……」


 気まずそうにフェシリアは呟いた。

 やはり彼女は、魔導士隊以上に、ドラクラスの深い事情を知り得る人物らしい。


 日輪属性は数奇な運命にある。事件の種を芽吹かせてしまう。

 アキラも、そしてジェット=キャットキットもそれを乗り越えてきているのではあろうが、今回求められているのは魔門破壊という結果だけだ。

 ただでさえ日輪属性がひとり指定されているこの依頼、これ以上の“何か”はそもそも不要なのだろう。


「で、でも!」


 ギリと歯を食いしばったアキラに、フェシリアが慌てたように言った。


「これは当初の方針、です。もしかしたら変わっているかも、」

「変わるも何も、フェシリアが知っていることが全部だろう……」


 その方針とやらは恐らく『三魔人』グリンプ=カリヴィス7世が立てているのだろうが、フェシリアはその方針を知ることができる人間だ。

 たとえ当初でも、その方針が変わればそれこそフェシリアは知っている。

 つまり、方針は現在も変わっておらず、ヒダマリ=アキラは魔門破壊に参加できない。

 だからこそフェシリアは、アキラが当日ドラクラスにいることを前提に口を滑らせたのだ。


「……その、あまり期待をさせるのもどうかと思いますが、ほら、魔門破壊反対派の活動もありますし、もしかしたら方針も練り直しになるかもしれません」


 慰めのつもりか、フェシリアが慌てて付け足した言葉にアキラは眉をひそめた。


「ん? なんだそれ」

「ご存じなかったですか?」


 自分には常識が無いとよく言われる。実感する機会は多い。

 一瞬きょとんとしたフェシリアは、小さく微笑む。少し余裕を取り戻したようだ。


「魔門破壊に賛成でない人たちが集まった民間の活動です。たまに街頭で演説などしていますよ?」


 先ほどの魔法ではないが、ドラクラスの街並みを思い出すと、確かにたまにどこかで何らかの催しが行われていたような気がする。

 と言っても、似たようなイベントは色々起こっていて、アキラが覚えているそれが魔門破壊反対派やらのものかは分からない。

 そもそもアキラは、昨今色々な事情で街並みをゆっくり見る機会も無かった。


「魔門破壊反対って、……なんで? というか、そんなこと言っても、結局やるんだろ? あのグリンプって人が推進しているんだろうから」

「まあ、多分、そうでしょうね」

「じゃあ、何も変わらないよな……」

「そ、そんなことありませんよ。魔導士隊では対処しきれないので、結局……、あ」

「ん?」


 また落ち込みかけたアキラが視線を向けると、フェシリアは咳払いをした。


「勇者様。ここで聞いたことはお忘れになってください」


 至極真面目な表情になって、フェシリアは言い切った。

 今度こそ、はっきりとした失言だったのかもしれない。


「コップ、本当にすみませんでした。またよろしくお願いいたします」


 フェシリアはいそいそとアキラの隣を通り抜け、扉へ向かった。

 最後にくるりと振り返ると、凛とした表情でアキラを見据えてきた。

 ペースを戻してしまったらしい。これ以上何かを訊ける様子ではなかった。


「お邪魔しました」


―――***―――


『ジェット? ジェット? 聞こえる? 現場の状況はどうだったの?』

「ああ、聞こえている。……てんやわんやだ。周辺被害の確認を優先していた。現場の方は検分中らしいが、魔術師隊からでも数日中には連絡が行くはずだろう」

『それを待てないって奴らにつつかれてるのよ。ルックリン氏の傘下の解体屋ね。現場保存なんてことにならないかどうかでヤキモキしてるみたい』

「随分せっつくな。酷いもんだったが、現場を見ただけだだと素人目じゃ分からない。……あまり人はつかまらなかったが、周辺の聞き込みの方はどうする? まとめるのはこれからだが」

『それは後でいいわ。魔導士隊の方も賑やかだし、最近こんなのばっか。今日はあんまり頭使いたくないのよ』


 ジェット=キャットキットはドラクラス2階の裏道を足早に歩いていた。


 今日も今日とて仕事である。

 数日前にあった、自分が指定されるような依頼はしばらくなさそうだ。そうなると、本業に精を出した方が稼ぎはでかい。


 ドラクラス警護団としてのジェットの、本日の職務内容は聞き込みだ。


 早朝、このドラクラス2階であった火災だ。

 被害が著しかったのは、火元と思われる、歴史あるドラクラスの中でも老舗の雑貨屋である。


 雑貨屋とはいえ、高級趣向の店だった。

 規模はさほど大きくなかったが、並びの建物を工場のように改造しているらしく、職人までかかえ、独自のブランドまで持っていた気がする。

 ジェットも以前、仕事の付き合いか何かで入ったことがあった。


 売店の方はフォーマルな佇まいの初老の男がふたり奥に立っており、ふたりともかどちらかが店主だったのだろう。

 面積の大きい店で、清潔な店内に、いくつかはショーケースに飾られており、外観と内装の雰囲気とのギャップに圧倒されたような気がする。

 販売員も複数人常在し、いずれも教育の行き届いた対応で、居心地の悪さは覚えず、退屈な買い物の付き合いだったのに、多少なりとも気分が良くなった覚えがある。


 最初、火事は火の不始末、ないし機材の故障か何かと思われたが、詳しいことは先ほど現場で右往左往していた専門家や魔術師隊が導き出すだろう。


 不幸中の幸いと言うべきか、火が広まるのを第一に防いだ結果、近辺への被害は軽微だそうだが、今のところ死傷者は不明。

 あの雑貨店の2階は恐らくは店主の家だったろう。時間も早朝だったらしい。それで不明ということは、犠牲になってしまったのかもしれない。


 そんな中、ジェットに依頼されたのは、こうした事故が起こるたびのことだが、事件性の確認である。

 最初の引っ越し直後だから、いや、あるいはその前から予兆はあったが、特に最近こんな仕事ばかりだ。ユフィが愚痴りたくなる気持ちも分かる。


 現場の確認は、そうしたことに詳しい護衛団の他の面々や、魔術師隊が行うことがほとんどだが、現場の周囲に聞き込みを行い、別角度からも事故を見る必要がある。

 魔術師隊相手だと形式ばった聞き込みになり、口を閉ざす者が多いが、警護団には警戒を緩めるのか、ふと思い出したようなことも教えてくれる。

 この辺りの情報収集は魔術師隊、ひいては魔導士隊よりも警護団に軍配が上がり、そして警護団の中でもジェットは適任だった。


 日輪属性。

 ジェット=キャットキットに宿るその力は、人の心を開く特性を持つ。

 上手く使われている気もするが、今さらである。


 そして、その力が働いたのかは分からないが、聞き込みをした結果。


「ユフィ。悪いが頭を使ってもらうことになる。お前をつついている解体屋には残念なお報せだ。出火は建物1階の裏口付近。今朝がた、現場付近で不審な物音を聞いた奴が何人かいた―――“放火の可能性がある”」

『……現場は保全ね。了解。早朝の現場付近、洗ってみるわね』


 ここにはいないどこかの声が、機敏に反応した。

 ジェットと声を届ける魔術でやり取りをすることの多い女性、ユフィネス=サークは、ドラクラス警護団の中でも稀有な立場にいる。


『不審な物音っていうのは?』

「それなりに重いものを落としただかぶつけたような衝撃音らしいが、時間も時間だし、具体的には分からない。それとユフィ。調べるなら店の詳細もだ。何人か雇っていたはずだが、現場には誰も来ていなかった。帰っちまったんだろうが、話は聞いた方がいいだろう」

『オーケー。中央の柱付近の公園に行って。資料を届けさせるわ』


 ユフィはドラクラスの中にいる特定の相手に声を届け、声を拾うことができる。

 そうした相手はジェットに限らず、警護団の他のメンバーや、参加の組織の幾人かともやり取りできるのだ。

 そんな圧倒的な利便性を持つ彼女は顔も広い。有名な老舗の従業員はもちろん、今にも潰れそうな家主が趣味でやっている喫茶店の売り上げすら調べ上げてくれるだろう。


 だが、顔が広いと言っても、このドラクラスという“具現化”を操るミルバリー=バッドピットという人物と並び、彼女と直接会ったことがある人間は数えるほどもいないだろう。

 有名で、誰もがよく知る人物だが、彼女たちはほとんどの人間にとってサウンド・オンリーだ。


「……!」


 時間にして数分。

 柱付近の公園に着くと、隅のベンチに、見知った黒い書類入れが置いてあるのが見えた。

 ドラクラス警護団の支部のどこかで、入荷数を間違えたとかでうず高く積まれていたのを思い出す。

 届けたと思われる人間は周囲にはいない。資料だけ置いていった誰かはユフィの指示に従ったのだろう。

 流石に仕事が早く、有能なユフィだが、この警護団の仕事を正義のための仕事だと思いつつ、何か格好つけようとしている感じが時折する。

 エージェントのようにさりげなくしたかったのかもしれないが、もちろん極秘任務でもないし、むしろ商店の詳細を、自分が来る前に誰かが持っていったらどうするつもりだったのかとジェットは頭を抱えた。


「……」

「ん?」


 書類入れに気を取られていたせいで、その隣のベンチに座り込んでいた女性の存在に今さらながらに気づいた。


 ススキ色の髪で、プロポーションの良さが際立つスーツをびしっと身にまとい、姿勢を正してまっすぐに正面を見ながら、凛として座っている、と姿だけなら思った。

 しかし、目を引く青い眼いっぱいに涙を溜め、ふるふると震えている。

 立派な大人のはずなのだが、迷子になって途方に暮れている子供か仔犬のようだった。

 哀愁すら感じるその様子に、存在感すらなく、透けているようにすら見えた。


「……」


 ジェットは見てはならないものを避け、改めて視線を書類入れだけに向けた。

 日輪属性は人の注意を引く特性もある。

 長年付き合ってきているこの属性は、関わらないという強い意志を持たないと、例えばだが、日中からスーツ姿で、公園でほろほろと泣いている人間に絡まれるという、余計なことに巻き込まれかねない。


 ユフィの遣いが置いていったと思われる封筒を持ち上げると、思ったよりも分厚かった。

 適当に引き出して目を通すと、あの店というよりその近辺の店や民家のリストもある。

 情報は早ければ早いほどいい。精査をせずに、関連しそうなものを手あたり次第持ってきてくれたようだ。

 その分精査するのはこちら側になるのだが。


「……それ。先ほど帽子をかぶった方が置いていったものですけど、お友達ですか?」

「!」


 震えたか細い声に絡まれた。ジェットは自分の迂闊さを呪う。

 両手を膝に置き、行儀正しい姿勢の女性が、まっすぐにこちらを見てくる。

 ルックリンの付き人のように振る舞う、受付さんと呼ばれる女性を思い起こさせる挙動だが、浮かべているのは不動のにっこりとした無表情ではなく、その瞳に涙を滲ませ吹けば飛びそうなほど弱々しい泣き顔であり、精神状態がよく伝わってくる。


 そんな状態だとしても、彼女はここにずっといたのだろう。となるとユフィの遣いがここに書類を置いたのも見ていることになる。

 忘れ物かと放置していたのだろうが、別人が拾い上げたら気にもなるだろう。


「……ああ。そんなところだ」

「そうでしたか、すみません。いいですね、……お友達がいて」


 虚を突かれた適当な物言いが、不用意な刺激を与えてえしまったらしい。

 舌打ちしかけたが、自虐気味に引きつった笑いを見せた彼女の顔と正面から向き合い、ジェットは眉を寄せた。

 改めて見て、ジェットは歯噛みした。ほとんど一方的にだが、見覚えのある顔だ。

 確か。


「……何かあったのか」


 また元のように姿勢を正し、前を見ているようで何も見えていない涙目の女性に、ジェットは慎重に話しかけた。

 無視して歩き出そうかを真剣に考えたが、ここで放置できるほど神経は太くない。

 資料の精査は一旦諦め、ジェットはベンチに腰を下ろした。

 座った彼女を見下ろしていると、落ち込み過ぎていて、溶けて消えいってしまいそうな感覚がした。


「私、夢があったんです」

「……」


 ドラクラスには様々な人間がいる。

 華々しい活躍をする魔術師隊や魔導士隊、旅の魔術師を筆頭に、民間の企業に勤める社会人や個人経営主、そして、通例に則らない、いわゆる裏社会と言われるものに属する者たち。

 この街は、世界の縮図だ。

 ドラクラスに来て数年、ジェットはその様々な人間たちを見てきた。


「まずはその最初のステップ。商人として名を上げて、お金を稼いで、……そのはず、だったんですけど。ふ……ふ……」


 だが、見ず知らずの人間に夢を語るほど精神が参っている人間はあまり見たことがない。

 十人十色。人それぞれだが、傲慢にも彼女という人間を分類すると、追い込まれて自殺か犯罪行為を起こす一歩手前の人間となる。


「……辛いかもしれないが、詳しく聞いていいか?」


 そしてジェットの仕事はというと、ドラクラスの治安を守る警護団である。

 得意ではないが、こうした人間へのフォローを怠るのは職務怠慢だろう。

 何か飲み物でも買ってくれば格好がつくかもしれないが、彼女から目を離すと何をしでかすか分かったものではない。

 日輪属性というのも手伝ってしまっているのかもしれないが、見ず知らずの相手に身の上を語らなければならないほど精神が不安定だ。

 吐き出せるものを吐き出させないと、身動きが取れない。


「私、長く旅をしていたんです。シリスティア中を周って……、モルオールにすら行って。でも、どこへ行っても駄目。流れに流れてヨーテンガース……ついにドラクラスまで辿り着いて、ようやくツキがまわってきたと思ったら、これですよ」


 聞きたかったのは、その“これ”とやらだったのだが、口を挟めなかった。

 そっちは聞き覚えのある話だ。


「ついさっき、失業しました」

「仕事が? そりゃ……、ついてない、な」

「ああ、なるほど。謎が解けました。お友達も貯金も仕事も無いだけかと思っていたら、……運もないからこうなるんだ」

「いや、なんというか、その」


 確信した。

 何が地雷になるか分からない女性を前に、ジェットが打てる手は多くない、というか少ない、いや、無い。

 ユフィに委ねた方がいいかもしれない。彼女のせいというのも違うかもしれないが、書類を手渡しするようにしてもらえれば彼女に絡まれることも無かった。


「……なんでそうなった?」

「店主が大怪我をしまして。診療所にお見舞いに行ったのだけれど、治療中で。その場でみんな、代理の方に無期限の休職を取らされたんです。……勤め先が、全焼して」

「!」


 ジェットは手元の資料に目を落とした。

 書類入れの中、件の雑貨店の従業員のリストを探し、目を通す。


 そして見つけた。

 彼女は数か月前からあの店に勤めている。


「あの?」

「イスカ=ウェリッド、で合っているよな。……チャイム雑貨店勤務」


 名を言うと、彼女の青い瞳がより深くなった。

 強い怯えが見えた。そのまま逃げ出しかねないほど動揺している。

 ジェットは下手に動かず、口早に言った。


「他意はない。俺はドラクラス警護団のジェット=キャットキットだ。実は今、その火事について調べているところでな」


 人助けはするものだ。思わぬところで貴重な情報源を手に入れられた。

 従業員の上、彼女は店主に会ったという。

 現場付近に店主の姿は見つからず、悲観的なことを考えていたが、どうやら命はつないだらしく、どこぞかの診療所にいるらしい。

 ジェットの聞き込みがあまり捗らなかったのは、事情を詳しく知っている者たちが、出勤してきた従業員を引き連れ、お見舞いに行ってしまっていたからかもしれない。


 今から引き返せば事情を知る者が戻ってきているだろうか。いや、店主がいるという診療所が先かもしれない。

 いずれは魔術師隊へも連絡が行くだろうし、容体に依存するとはいえ、混雑する前に話を聞きに行けるのは大きい。

 そんなアドバンテージを早速活かそうとしていると、涙が溜まっていたイスカの青い瞳がきらきらと輝いていた。

 怪訝な表情を向けると、彼女は上品に口を押さえた。スーツ姿では異質に見える所作だった。


「あの、ええと、……。…………」


 そして彼女は、機敏に立ち上がった。

 大きく息を吸うと、青い瞳がジェットをまっすぐに捉える。

 胸に手を当て、恭しく一礼してきた。


「ふふ。ご挨拶が遅れて大変失礼しました。私、イスカ=ウェリッドと申します。よくお見かけする方だと思いましたが、警護団の方だったとは」

「……」


 先ほどまで存在自体すすけていたのが嘘のように、芯の通った声だった。

 ジェットはしばし思考する。


 品を感じる所作に、はっきりした口調、好意的な微笑と、態度の印象は悪くないが、直前の様子を見ていると多重人格を疑いたくなる。

 だが、唯一落ち着きなく、眩いばかりにきらきらと輝いている瞳が心情を強烈過ぎるほど訴えてきた。

 彼女が考えていることが分かる。


「火事のことでしたらなんでもお訊ねください。……ただ、実は私今、少々困ったことになっていまして」

「……悪いが、俺はそっちの方はあまり得意じゃない」


 回りくどく話していても仕方がない。

 ジェットは先に結論だけ話した。

 イスカは凛とした表情のままだが、ぴたりと動きを止め、きらきらと輝いていた瞳がすん、と座っていく。

 ただでさえ目を引く青い瞳が、心をそのまま映しているようで、残念ながら彼女の所作が響いてこない。


「職の斡旋、だろう。確かチャイム雑貨店にはパールの伝手で、だったか? 頼むならそっちにしてくれないか」

「パールさんには、次は無いと言われていまして」


 イスカが目を逸らした。

 目を背けられると急に心情が分かり辛くなるが、後ろ暗いことがあるのは動作通りらしい。


「なので、できれば、その。ご助力いただけませんか?」


 イスカ=ウェリッドという人物がこのドラクラスにいること自体は、ジェットは以前から知っていた。

 彼女がドラクラスを訪れた際、最初に接触したのは警護団だったのだ。


 ドラクラスでの就職を希望する彼女を、警護団のパールという人物が担当し、職を斡旋していた。

 ジェットも報告書か何かを流し読みした記憶がある。


 このこと自体はさほど珍しくない。

 ドラクラスの民間と警護団は密接に絡み合っているのだ。

 ドラクラスの治安を維持するために、個人商店のケツ持ちのようなこともしているし、彼女のように就職を希望する者の補助もすることもある。


 ジェットはそうした方面には明るくなく、主に足か腕っぷしを使う仕事がユフィを通して依頼されるのがほとんどだ。

 実際就職というのはなかなかに敷居が高い。それなりの企業となるとなおさらだ。


 聞きかじった話では、イスカ=ウェリッドの就職はなかなかに困難で、安請け合いした同僚のパールが昼夜を問わず奔走していたと聞いた覚えがある。

 次は無いと言われたのはそのときだろう。


 専任というわけでもないが、多くは無い正規の警護団の面々の中で、役割はある程度分かれている。

 だが、目の前のイスカにとってはそんな違いなど分かるはずもなく、ジェットが、すべてを失ったときに舞い降りた神のように見えているらしい。


 日輪属性の性というやつだろうか。

 今、とんでもなく面倒なことに巻き込まれようとしている。


「念願叶って就職できた矢先、まさかこんなことになるとは思いもしませんでした。でも、ここで警護団の方に出会えたのも何かの縁。なんとかお願いできませんでしょうか」

「悪いが今立て込んでいてな。こっちの都合ばかりで悪いが、話だけ聞かせてもらえないか」

「こちらも急いでいるんです。ただでさえ滞納気味なのに、今月も家賃が払えなくなるところでして。あそこを放り出されたら、私は路頭に迷って主食はその辺りの雑草に」

「終わっていたのは夢どころか、生活だったみたいだな」

「ふふ。ジェットさんは変わった趣味をお持ちですね。往来で成人女性が泣きわめく様を見たいとは」

「失言だった」


 本当にしかねないほど、青い眼に一瞬で涙が溜まった。

 表情や所作から心情が分かりにくいが、彼女自身、生活面も精神面も相当追い詰められているのは間違いない。


 それなりに距離を取りつつ、何とかして火災の被害に遭った主人がいる場所を聞き出したいところだったが、こうなると、可哀そうだが彼女を適当にあしらってから、心当たりのある近場の診療所を周った方がいい気がしてきた。


 ドラクラス警護団は職の斡旋などのサポートをするが、その専門ではない。頼り切られても困るのだ。

 今回は事故ということもあり、事情を汲んでやりたい気持ちもあるが、誰しも多かれ少なかれ事情はある。

 ドラクラスに来たばかりの者には支援をすることがあるが、その後のフォローはそこまで手厚くない。


 というのも、ドラクラス内で、警護団の力は相当以上に強力である。こと民間に対しては魔術師隊や魔導士隊よりも働きかける力が強いのだ。

 やろうと思えば、それこそ野良の犬や猫ですら、大企業だろうが潰れかけの個人商店だろうが好待遇で就職させられるらしい。

 目的は治安維持のため、極力波風立てないように、一般的なサポートをしているつもりだが、ドラクラス警護団の名を出せば、雇用主は考えざるを得ないだろう。

 そんなドラクラス警護団の力を直接見れば、それに頼りたくなる気持ちも分かる。


 その状況で同僚のパールを苦心させたイスカを考えると頭が痛むが、そもそもそうした事情があり、深く介入することは控えている。

 警護団が守るのはあくまでドラクラスの治安なのだ。


 警護団の傘下には、まっとうな職の斡旋所もある。

 彼女が頼るべきはそちらだろう。


「よろしくお願いします。何卒……、なにとぞぉ……」

「……悪いが警護団は、……!」


 深々と頭を下げたイスカをジェットが現実に引き戻そうとすると、その向こう、魔導士隊の制服を着たふたりの男が歩いてきていた。

 ジェットは属性柄、目立つ。

 怪訝な顔つきで頭を下げているイスカを見て、ふたり顔を見合わせて頷いた。


「……? っ、魔導士隊っ」

「堂々としていろ。不審な挙動をするから目を引くんだ」


 びくりとイスカが肩を震わせた。

 ジェットは鋭く呟くと、こちらに向かう魔導士を睨み返した。

 自分の目つきは悪いらしいが、幸いにもこの顔はドラクラス中に知られている。

 婦女暴行の現場でないとは思ってくれるだろう。


 だが。


「……?」


 近づいてくる魔導士隊もまた、見知った顔だった。


 ひとりは背が高く、ひとりは中肉中背。取り立てて特徴が無い者たちだが、眉間に刻まれた皺が印象的な魔導士たち。

 背の低い方の男が、威圧するつもりか、野太い声で言った。


「ジェット=キャットキット。ここで何をしている」

「警護団はドラクラス中が仕事場だ。そっちこそ何の用だ。あんたらは魔人の背後が現場だろう」

「我々は“ドラクラス魔導士隊”、だ」


 そうは言っていてもそうでないことをジェットは知っていた。

 名前はうろ覚えだが、この魔導士たちは『三魔人』グリンプ=カリヴィス7世の“協力者”だ。

 建前上、魔導士隊を直接指揮しているわけではないグリンプだが、魔導士の上層部、そして現場の幾人かと “協力関係”を結ぶという形を取っているらしい。

 この男たちはその現場担当。警護団や民間、あるいは魔導士隊の中でも、“グリンプのお付き”と揶揄されることがある、グリンプの息がふんだんにかかった魔導士たちだ。

 ドラクラスの事件のほとんどに関わるジェットですら、現場で会ったことは数えるほどもないが、グリンプの影響か、融通の利かなさゆえに、現れれば毎度のように警護団と揉め事を起こしている。


 現れたこのふたりは、前のときも鼻に付く態度だった覚えがある。

 グリンプの威をそのまま借りているように顎を上げて話していた。

 背の高い男はジェット以上の眼力で睨みつけてきている。


「そこにいるのはイスカ=ウェリッドだな? 探したぞ。来てもらおう」

「? 彼女を? ……。警護団を前には筋は通してもらう。こっちが先着だ。並んでもらおうか」


 イスカを庇うように立ちながらも、きな臭いものを感じた。

 もしかしたら魔導士隊も火災のあった雑貨店にイスカが勤めていたことを突き止めたのかもしれない。


 だがそれで、“彼ら”が動くのだろうか。


 その意味は二重にある。

 ひとつ、通常こうした事故の始末は警護団、そして“魔術師隊”の仕事だ。

 魔道の真髄を極めんとする魔導士は、ヨーテンガースでは履いて捨てるほどいるとはいえ、民間で起こった事故や事件に首を突っ込んでくるほど暇ではない。

 彼らは魔導士隊に属していたはずだ。異常なドラクラスとはいえ、そんなことはあり得ない。


 そしてふたつ。

 万が一魔導士が動くことになったとしても、彼らは、もっぱらグリンプの背後で護衛のように立っている、“グリンプのお付き”だ。

 魔導士隊は今、それほど人員不足なのだろうか。


「警護団だろう。治安のために、魔導士隊を立ててもらいたいものだね」

「下手なナンパを見逃すほど落ちぶれてなくてな。なんのつもりだ? 火事のことで何か分かったのか?」

「ん?」


 魔導士のふたりは、一瞬顔を見合わせた。

 余裕ぶった顔が崩れて少しだけ気分が良くなる。

 だが、ジェットはますます訳が分からなくなった。このふたりは、火事のことを知らないのだろうか。


「……ふん、まあいい。早く来てもらおう。グリンプ氏が呼んでいる。待たせていい相手ではないだろう」

「なんだって?」


 今度はジェットが虚を突かれた。耳を疑う。

 “グリンプのお付き”が動いていても、そこに結び付けるのはドラクラスを知る者としては当然だった。

 動揺したジェットを見て、ふたりの魔導士は機嫌よさげに頷いた。


「待て。グリンプが? ……理由はなんだ。なんの用がある?」

「“グリンプ氏からの依頼”だ。これ以外に何か理由が必要か?」

「親の名前を出していいなら、こっちはドーナ=サスティバの庇護にある」

「同格だとでも思っているのか?」

「その言葉はそのまま返すぞ」


 下らない口喧嘩をしながらも、ジェットは思考を進めていた。

 情報は思った以上に引き出せているが、引き出せば引き出すほど訳が分からなくなってきた。


 『三魔人』グリンプ=カリヴィス7世。

 このドラクラスで絶対的な権力を持ち、数多くの権力者すら従える支配者である。

 同じく『三魔人』とされるドラクラス警護団の団長、ドーナ=サスティバと同じく、“異常者”だ。

 口では引かないが、並び称されるだけはあり、同格だろう。というより異常の“質”が違う。常人に比較できるほど理解が及ぶとは思えない存在たちだ。


 だがそれでも、そんな異常者が、イスカという個人を探しているというのは、常人でも異常だと分かる。

 こんなことはめったにない。いや、“あり得ない”が正しいだろう。

 昨今ではこの引っ越し騒動で、ヒダマリ=アキラをはじめとする、まさしく例外中の例外が立て続けに起こっているせいで麻痺しているが、グリンプに会うことすら多くの者は叶わないのだ。


「……」


 ぎゅ、と、裾を掴まれた。

 振り返るまでもない。

 突然魔導士が現れ、蛇に睨まれた蛙のように動けなくなったイスカの手は、震えていた。


 ジェットは思考を進める。

 このまま押し問答していてもらちが明かない。いや、分が悪い。

 同じく『三魔人』を擁している組織同士とはいえ、こっちは通常業務だが、魔人から直接指示を受けている魔導士たちは絶対に引かないだろう。

 応援を呼ばれたらそれこそ手が付けられない。


 イスカに肩入れするつもりはなかったが、特にこんな連中にこのまま連れていかれるのはまずいだろう。

 警護団との関係値は良くないとはいえ、魔導士隊とは敵対しているわけでもない。だが、彼女はあくまでドラクラスの住人だ。“特に彼女の場合”、魔導士隊に連行されながら街を歩いたら、どんな噂が立つかも分からない。

 そしてそれ以上に、嫌な予感がした。


 ジェットはちらりと、背後の、公園から出た先、長く伸びる道に視線を走らせた。


 ユフィと連絡し、状況を調べてもらい、それを確認する。

 そのためには目の前の魔導士たちも、そしてあるいはイスカも邪魔だった。

何にせよ時間が欲しい。


 新しい切り札を使うことになる。

 ジェットは、心の中で謝った。


「イスカ」

「は、はい?」


 魔導士たちに聞こえてもいいが、ジェットは小声でイスカに囁いた。


「後ろの道。まっすぐ行くと、道が分かれる。そこを左だ。少し進めば白と黒のでかい建物が並んだ家が見える。そこを訪ねろ。ジェット=キャットキットがそのうち来ると言え」

「え?」


 聞こえたらしい。目の前の魔導士たちの顔色が変わった。当然向こうも知っていることだったのだろう。

 由緒正しい正規の組織には、越えられない壁がある。


「っ、」

「お、おいっ」

「おっと。彼女は用があるらしい。……で、なんだ? 捕縛して連行でもするつもりか? グリンプに確認しなくていいのか?」


 駆け出したイスカを追おうとした魔導士の前に立ち、痛いところを突いてやった。

 必要以上に威圧的な様子を見るに、このふたりは大した情報を持っていない。グリンプの意図は読めないが、彼らにはどうせ連れて来いとしか言っていないのだろう。

 普通ならそれで十分過ぎるほどだ。グリンプの名を出して首を横に振れるものなどドラクラスに存在しないと考えていい。

 相手がたまたま警護団だったのが不運としか言いようがないだけである。


 ふたりの様子は彼女の勤務先を目指してここを通りかかったといったところだ。様子を見るに、別の魔導士が待機しているということも無さそうだ。

 用があると言っていた。彼らにしてみれば、もし客人として招きたいとグリンプが思っていたと考えれば手荒に扱うわけにもいくまい。

 使い走りでは判断できない。今から確認しようにも、その頃イスカは、できたばかりの“セーフエリア”に入っている。


「まあいい。場所は知れた。……だがジェット=キャットキット。このことはグリンプ氏に報告するぞ。しかるべき連絡が警護団へいくだろう」

「使い走りの限界だな。グリンプの小言はミルバリーで慣れている。今更だろうよ」

「散々迷惑行為をしておいてよくも言えたな」

「それに目を瞑ってでも利益があるからあんたらも依頼しているんだろう。喉元過ぎたらケチを付けるのは幼稚だろうが」


 イスカの姿が見えなくなるまで互いに言い合い、捨て台詞を吐き合って、この場は痛み分けで終わった。

 苛立たし気に歩き去るふたりの魔導士を見送って、ジェットはイスカを向かわせた“家”へ向かう。


「……ユフィ。聞こえるか? ……ユフィ? くそ、取り込み中か」


 ジェットはイスカの後を追って、しかし裏道に入った。

 イスカは何事も無ければあの家に到着しているだろう。道は複雑だが、こちらの方が近道だ。


 手に持った書類入れに視線を落とすと、必要以上に手に力を込めていたことを知った。


 最初に連絡を受けたとき、ただのボヤ騒ぎだと思った自分の浅はかさを呪った。

 雑貨店は全焼した上、放火の可能性がある事件に、従業員として雇われていたのは“あの”イスカ=ウェリッド。

 そして、そのイスカを『三魔人』グリンプ=カリヴィス7世が探しているという。それも、火事の件とは別件の様子だった。


 ドラクラスの最初の移動が終わり、新天地での定着化やら魔門破壊の進行やらで慌ただしかった日々の中、それでも多少は落ち着きを取り戻してきていたと思っていたのだが、甘かった。


 そして。

 問題は出尽くしたと思ったのも、甘かった。


『……ジェット! ジェット! 聞こえる?』

「! ユフィ。ついさっき連絡しようとしていたところだ。頼みたいことが、」

『よかった、まだその辺りにいるのね』


 魔術で連絡を取った時点で、こちらの位置はおおよそ把握できているだろう。

 彼女の胸を撫で下ろすような声に、頼みごとを遮られたジェットは逆に、嫌な予感と、そしてそれが当たるという確信が同時に芽生えた。

 以前、とある女性の“実験”に付き合わされたときにやった“予知”を思い出すが、これはきっと経験則だろう。


「おい、今色々と問題が起きているんだ。これ以上の厄介事は後回しにしてもらえるか」

『悪いけど先送りにはできないわ。近くですぐに動けるのがあなたしかいないの』


 先ほどの仕返しかもしれないが、後回しにはできないらしい。

 ジェットは裏道で周囲を伺い、誰も聞いていないことを確認する。


『こっちも暇じゃないが、分かった。何をすればいい?』

「現場付近での聞き込みよ」

『なんだよ。さっきの報告の催促か? それはすぐにまとめる。だが、まさに今、もっといい情報源が、』

「いいえ。“別の事件”のよ。さっきのチャイム雑貨店からゲートの方へ向かう……、ほら、分かる? 裏道にある小さな墓所」

「……分かりはするが」


 思わずその方向へ振り返ったジェットの耳に届くユフィの声は、少しだけ震えて聞こえた。


「……何が起きた?」


 それは人によっては恐怖によるものにも聞こえるだろうが、ジェットはそれが、怒りによるものだと感じた。

 そして彼女は、その出来事を、汚物のように吐き出した。


『殺人事件よ』


―――***―――


「……?」


 今日は出かけて『名前のない荒野』について調べるつもりだったのだが、そんな気は失せてしまった。


 ヒダマリ=アキラは、フェシリアを見送ったあと、言いようのない感覚に苛まれながら、自宅の庭で木刀を振っていた。

 当然かもしれないが、門の近くの庭にいると、よく人が通る。


 フェシリアと入れ替わるようにサクが帰ってきて、早速管理を任せた小屋にこもったし、つい先ほどもイオリがなにやら荷物を抱えて帰ってきたところだ。

 どちらにも軽い挨拶程度しかしなかったが、こちらの様子を察したかのように、余計なことを聞いてこず、そっとしておいてくれた。ありがたい気遣いだ。


 だがそれを、他人の来訪者に求めるというのは酷なものだろう。


 見知らぬ女性が門をくぐって入ってきた。


 一応、この庭も敷地内なのだが、この外観で、しかも門が開かれているとなると、そういう認識は薄れるだろう。


 ススキ色の髪をしたスーツ姿で、青い瞳が特徴的なその女性は、恐る恐るといった様子で道順通りに進み、左右の建物への分岐路で足を止めた。

 フェシリアのように指は振らず、ほう、と息を吐いたのが分かった。


 彼女は庭を見渡し、改めて、ふたつの建物を見上げた。

 傍から見ていてこちらが幸せになりそうなほど、青い瞳がきらきらと輝いている。

 アキラの脳裏に、最初にこの家を訪れたティアの姿が浮かんだ。両手を上げて駆け出したりはしないだろうが。


「? ええと?」

「……あら失礼」


 女性は一瞬、アキラの相手をするのを迷ったようだった。

 建物の方に気を取られているようだが、目に止まった日輪属性を無視するのは難しい。


 アキラと言えば、トレーニングウェアを着るのも面倒で、ラフな私服で木刀を振っていた。

 気位の高そうな声色だが、スーツを着こなす彼女からしては当然の反応のようにも思える。

 この建物は、外観からして宿にしか見えない。

 彼女はアキラを宿泊客か何かと思っているようだった。


 どう説明しようかとアキラが言葉を選んでいると、その女性はつかつかと歩み寄ってくる。

 そんなつもりは毛頭ないとはいえ、木刀を持っている男に無警戒に接近してくる彼女に、むしろアキラの方が木刀を慌てて下げる羽目になった。


 歳は近そうだが、凛とした容姿にスーツ姿がよく似合っている。

 だが、アキラの背後の建物が気になるのか時折見上げ、小さく口を押さえる所作に別種の上品さが見えた。


 妙な既視感を覚える。


 なんにせよ、フェシリアの話を聞いて気力を失っていた矢先にこれとはいえ、適当に相手をするのも申し訳ない。

 アキラは深く深呼吸をして、現れた女性に向かい合った。


「こんにちは。私、イスカ=ウェリッドと申します。警護団のジェットという方に、こちらに来るように言われまして」

「ジェットが?」


 アキラが目を丸くすると、イスカは優雅に頷き、しかしその青い瞳を泳がせていた。

 ちらちらと、白と黒の建物を見ている。

 同じように建物を眺めたアキラは、何となく、事情を察した。


「それってもしかして、宿の仕事のか?」

「やっぱり!」


 なんとなく口にすると、イスカは手を叩いて青い目を輝かせた。

 警護団という組織はドラクラス中の組織に関連するそうだ。

 黒い建物はルックリンに任せたが、警護団経由で彼女に依頼が行ったのかもしれない。


「やった、やった……! 建物を見たときからもしかしたらと思っていたけど、いきなり就職先をご紹介いただけるなんて……、あ、ご、ほ、ん」


 強い咳払いに誤魔化されるどころか気圧されたアキラが一歩引くと、イスカと名乗った女性は胸に手を当て深呼吸した。

 そして、すっとアキラと向かい合う。


「失礼。少々取り乱しました」


 もしかしたらさっきの様子は幻覚か何かだったのかと思うほど様変わりした。

 礼儀正しくお辞儀したイスカという女性は、余裕たっぷりの笑みを浮かべている。


 いかにも作られた表情だが、姿勢を正したぴっしりとしたスーツ姿も相まって、様になっていた。

 同じように礼儀正しい、最近顔を合わせていた、完璧な笑顔を浮かべる受付さんに比べると、人間味のある愛嬌がある。


 妙なセールスか宗教の勧誘か何かと警戒していたが、着々と準備は進めているらしい。

 白い建物の方を僅か数日で人が住めるようにした手腕は流石だった。忙しそうなことを言っていたはずなのだが手が早い。


「ええと。……俺って何かした方がいいのか?」

「? いいえ。お客様の手を煩わせるわけには。ただ、受付がどちらか教えていただけると助かります」

「お客って……、ん? 受付?」

「私も先ほどこちらへ向かうように言われたばかりで、事情を知らなくて」

「宿ってことなら、向こうの黒い方だけど……」


 はきはきとした物言いに呑まれたアキラが指差すと、イスカは深々と頭を下げてきた。


「ご親切にありがとうございます。では後ほど。お困りのことがありましたらお気軽にお声がけください」

「え」


 イスカは澄まし顔で笑みを浮かべ、まっすぐに黒い建物へ向かっていった。

 やはりこの建物の外観は余計な誤解を生むらしい。

 彼女の頭の中で何がどういう風に形作られたかは定かではないが、想像通りなら、きっと今から良くないことが起こる。


 自分の住む場所なのだから自信満々に案内できればよかったのだが、今日、黒い建物の中は見ていない。

 音は聞こえなかったから清掃やらなにやらしてないとは思っているが、あのルックリンや受付さんの手腕となると今どうなっているか分からなかった。


 もしかしたら鍵がかかっているかもしれないとアキラが記憶を辿っていると、杞憂だったようで、黒い建物の扉はイスカによって開かれた。


 一瞬硬直。そして静かに扉を閉め、大きく息を吸って吐いた。

 アキラが最後に見た中の様子は、壁紙も破れ、誰が運び込んだか分からない木箱やゴミが散乱した、埃まみれの空間だったが、彼女の目の前に広がった光景は何か。

 イスカの挙動を観察していたアキラは、彼女が漫画のように目を擦ってもう一度扉を開け、そして崩れるように座り込んだ様子を見て、中の様子が自分の記憶通りだったことを確信した。


「……どういうことなの」

「それは俺の方も知りたいけど……」


 崩れ落ちて四つん這いになっていたイスカは、背後から近づいてきたアキラに震えた声を返してきた。

 一方アキラは手に木刀を持ち、構図がかなり危ういのだが、彼女の頭は建物の中の光景で一杯らしい。

 アキラは恐る恐る回り込み、彼女の前にしゃがみ込むと、乾き切った青い瞳をこちらに向けてきた。


「ここは宿と言いましたよね?」

「多分俺のせいだろうから、申し訳ない気持ちでいっぱいだ」


 期待を裏切るというのはなかなかに罪悪感のあることだ。

 その期待を与えたのが自分自身だとなおさらである。


 とりあえず分かったことは、自分で言っていた通り、彼女はこの家の事情を知らないらしい。

 ルックリンに任せた手前、宿の準備も経営もまるっきり素人であるアキラが口を挟むのは控えた方がいいだろうが、自分の家の敷地内で不審人物でしかない女性を放置するわけにもいかなかった。


「ええと、そのうち宿になるというか、多分だけど」

「……」


 イスカの青い目から、僅かに敵意を感じた。

 外観が宿にしか見えない建物を住居として選んだのはアキラで、外面ばかり取り繕った廃墟を宿と言ったのもアキラで、今曖昧なことを言ったのもアキラである。

 勘違いしたのは彼女だが、無関係と言い張るのも微妙に申し訳ない。


「ええと、だな。この黒い建物、今宿にしようとしているところらし……、ところなんだ。で、今準備中。詳しい話はルックリンさんに聞いた方がいい」


 これ以上彼女を弄ばないように、アキラは可能な限り曖昧な言い方を避けて事情を説明した。

 乾き切った青い目がじっとアキラの様子を窺っていると思ったら、徐々に水気を帯びてくる。

 ようやく生気が戻ったと思ったら、次は目がはっきりと動揺の色を浮かべていた。


「……ルックリン? ルックリンと言うと、あのルックリン=ナーシャ氏ですか? こちらは彼女の管理している建物なのですか?」

「……ま、まあ、いちお……、いや、そう。ルックリンさんが稼げる宿にするって息巻いてた」


 言葉にすればするほど自分もほとんど事情を知らないことに気づかされた。

 白い建物の方もルックリンに任せっきりで、清掃やら改装やらの手はずなどまるで知らない。宿経営となるとなおさらである。

 だが、そんなあやふやなアキラの知識でも、目の前の人は救えるらしい。

 先ほどの引き締まった表情を見ていると情緒不安定を疑いたくなるが、イスカの目が輝き、口元は緩んで震えていた。

 やはり、見ているだけで幸せになれそうな表情だった。


「……まあ、多分、今日は様子見ってとこなんじゃないか? ルックリンさんなら、多分一週間もあれば宿として改装できると思うし」


 少し気を良くしたアキラが自分の家の方で体験したことを言うと、イスカの機嫌はそれ以上によくなっていく。

 彼女はゆっくりと立ち上がり、上品に膝を払った。

 ふとした所作が、妙に目を引く。


「……そ、そういう、こと、ですか。……はあ、良かったです。……ほ、ほんと、う、に……」


 俯いた彼女の目から、ほろりと何かが伝った。

 泣くほど喜んでくれるのはありがたいが、アキラはあくまで推測でしか話していない。

 だが、違うかもしれないけどとは今更言えなかった。


 人を疑うことを知らないのだろうか。

 たまたま出会った男の言葉でここまで感情を沸かせるのは一種の才能のような気もした。

 これで違ったら彼女はどうなってしまうのか。強い責任感を覚えた。

 騙すつもりは毛頭ないが、無知ゆえに人を傷つけることはあるのだ。


「ええと。仕事が欲しい、のか?」

「……ぐ。ま、まあ、そうですね」


 失礼な言い方をした自覚はあるが、イスカは渋々頷いた。

 彼女の事情を探り、予防線を張りたくなってくる。

 アキラの推測が外れていた場合、彼女はどうなってしまうのか。


「……実はたまたま今日、失業してしまいまして」

「今日?」


 思わず強く聞き返すと、イスカの瞳が澱んだ。

 少しだけ彼女のことが分かってきた。澄まし顔に見えるが、彼女の心情は、その青い瞳にはっきりと映るらしい。


「じゃ、じゃあ、タイミングが良かった? のかな。宿ってのも昨日とかに決まったから」

「まあ! 私、実は運が良かったのかも。危ない危ない……。流石にそろそろお腹も減ってきてますし……」

「……ん? 話繋がってるよな?」


 目を逸らすイスカを、アキラは注視した。

 日輪属性の人の心を開く、つまりは口を軽くする力が働いてしまっているのだろうが、出てくる言葉から不穏なものを感じる。


「ええと、ま、まあ、仕事って生活かかっているもんな」

「……。……ええ」


 間を置かないで苦笑してもらいたかったのだが、彼女はしんみりと頷いた。

 アキラの表情に気づいたのか、イスカの瞳が暗くなった。


「……お恥ずかしい話、かなり生活が苦しくて……。そんな矢先に失業してしまい、もう、本当にどうしたらいいか分からなかったんです……」


 凛とした様子だった彼女は、多少は心を許してくれたのか、か細い声で呟いた。

 アキラの胃が物凄く痛くなる。

 どうやら、アキラの推測が違った場合、彼女は窮地に立たされるらしい。


「でも、早速ご紹介いただけるなんて……、ああ、なんて感謝したらいいか。もし少しでも歯車がずれていたら、私は野外で……」

「な、なあ! ジェットは他に何か言ってたか?」


 これ以上自分の推測に全体重を乗せられることに強い危機感を覚えたアキラは、イスカの言葉を遮った。

 彼女と話していると、知りたくない話が飛び出し、より一層胃が痛くなりそうな気がする。


「特には……。ただ、そのうち来ると伝えろと言っていました」

「来てくれるのか」


 アキラは強い念を門へ送った。

 今すぐにでもここにイスカを送り込んだジェットにすべてを擦り付け、自分の部屋で耳を塞いでいたくなる。

 推測が当たっていれば万々歳だが、違った場合は自責の念でアキラの方が窮地に立たされる。


 アキラをはじめとする旅の魔術師は、民間人に関わることはあれど、その事情に詳しくは無い。

 ただでさえ、元の世界でも学生に過ぎなかったアキラは未だ社会を知らなかった。

 この異世界ではどれくらいの年から働くのかほとんど知らないが、イスカは立派な社会人なのだろう。

 そして、職を失うということがどういうことなのかもぴんと来ないアキラからすると、ものすごく個人のデリケートな部分をいたずらに弄んでしまったような気まずさを覚えた。


 しかし民間、とは。

 ドラクラスで家を買い、一応民間ということにもなるアキラだが、その本質は旅の魔術師である。

 前述の通り、今まで関わりが薄い相手だ。

 依頼で関わることは勿論あるが、ほとんど依頼の話になり、プライベートな部分で言葉を交わす機会などほとんどない。

 自分たちが特別というのも違うのだが、普通の相手というのは新鮮だった。

 住民となったことで、こうした相手と関わる機会も増えていくのだろう。

 別に緊張を覚えるというわけでもないが、自分の異世界での生活も幅が広がっていると考えると感慨深い。

 彼女が敷地内で働くことになれば、という願望も入った感慨だが。


 そんな申し訳なさも混じった好奇の目を失礼にも向けてしまっていたのか、イスカは視線がくすぐったそうに身をよじった。

 じろじろ見過ぎていたかもしれない。

 アキラが慌てて目を逸らそうとすると、イスカは、ふと、今アキラに気づいたようにこちらを見てきた。


「今さらですが、あなたは? ……ここで何を?」

「あ、俺? 俺は、……身体動かしてた」

「そういうことではなくてですね」


 冷ややかな瞳と声だった。

 彼女から見ればアキラこそ廃墟の庭に勝手に入って運動している不審人物である。

 隠していたわけでもないが、こういうことを切り出すタイミングが自分は本当に下手だと自覚している。


「俺は、その、こっちの建物に住んでいるんだよ。まあ、昨日からだけど」

「……?」


 この旅で、よく経験した視線を向けられた。

 自分には、勇者様どころかそれなりの人物が持ち合わせているというオーラというものがどうやら無いらしい。

 正体を隠しているつもりが無くとも、下手をするとその辺りの民間人にすら見えるようだ。

 日輪属性の話しやすさというのも関係するのか、自然な会話の方が先行し、しばらく時間が経ってようやくアキラ自身に気づく者もままいる。

 以前はそんな風に振る舞うのがかえって恰好が付くと思っていたものだが、何度も経験しているうちに、それは大層な時間の無駄であることが分かってきた。


「え、ええと、まさか、」

「白い方は人が住める場所になっている」


 ちらりと黒い方に視線を送ったイスカに、名誉のために言うと、彼女の青い瞳が白い建物へ向き、最後にアキラへ向いた。

 はっきり説明するのも気後れするが、これ以上彼女を弄ぶ方がまずいだろう。


「この建物、両方とも俺たちの所有物、って言い方でいいのか? まあ、そういうことなんだよ。で、白い方に住んで、黒い方は宿にして資産運用、というか。俺、よく分かんなくて、ルックリンさんに経営をお願いしたんだ」

「ぎゃあっ!」

「!?」


 鋭い悲鳴に怯むと、イスカはかたかたと震え、青い瞳が白目を剝きかけている。

 アキラが気まずさで視線を逸らそうとすると、そんなアキラの小さな瞳の動きに合わせてイスカが正面に回ってきた。


「わ、私としたことがなんてこと……! た、大変失礼しましたっ。ま、まさか旦那様だとは……!!」


 そういう感じになるのも嫌で自分のことを話すのが苦手なのだが、彼女のリアクションはこの旅で出会ってきた中でも群を抜いていた。

 これで自分が勇者だと言ったら彼女は気を失ってしまうかもしれない。


 自分のオーラの無さに泣けてくるが、正直なことを言うと、少しだけいい気分になってしまった。

 侮られていた相手に見返されると覚えるこの感情に、何らか名前はついているだろうか。


 ただ、オーバー過ぎるほど大いに狼狽えるイスカを前に、しかしこれ以上隠し事をするのも憚れると思い、慎重に言葉を探っていると、白い方の建物の扉が開いた。

 お茶でも淹れてくれたのか、中からエプロン姿のイオリが現れ、歩み寄ってくる。


 イスカがぴくりと姿勢を正し、イオリの姿をじっと見た。

 彼女も思いっきりオフの服装なのだが、改めて遠目から見ても、アキラには無いオーラのようなものがある気がする。

 いい気分が劣等感に変わったような気もした。


「アキラ。そろそろ休憩でもどうかな。……で。そちらは?」

「ああ、ええと、隣の宿の……、関係者、だって。ジェットがそう言ってたらしい」


 別の言葉を選ぶ羽目になったが、極力当たり障りなく、ジェットに罪を擦り付ける言い回しが出来た気がする。

 しかし、胸に手を当て動機を抑えているイスカは聞いてすらいないようで、現れたイオリを前に、僅かにも失礼にならないように異常なほど姿勢を正していた。


「ジェット? ……例の彼か」

「……あ、ああ」


 イオリが、一瞬だけ不審な目をイスカへ向けたのが分かった。

 今さらながらに、彼女が危惧したことをアキラも気づく。


 ドラクラス警護団のジェット=キャットキットは“日輪属性”だ。

 イオリから見て、イスカという人物は、すでにふたりの日輪属性に関わっていることになる。

 ジェットは警護団員で、ドラクラス中が仕事場なのだからそういうこともあるだろうが、まともな神経なら多かれ少なかれ警戒するだろう。


 そんなイオリを前にすると、アキラも現実に引き戻されるように、異常を感じてしまうのだが、そういう目で人を見るのは控えたい気持ちがある。

 彼女は職を求める民間人でしかないはずだ。


「え、ええと、お、奥方様でしょうか……?」

「ん?」


 震えたイスカの声に、イオリが虚を突かれたような表情を浮かべた。アキラは思わず目を逸らす。

 今イスカはパニックの極みである。

 彼女の頭の中では自分たちは大層な資産家か何かになっているかもしれない。

 アキラのせいというのも違うが、いい気分になった後ろめたさもあり、この迷える民間人を救いたい気持ちが出てくる。

 イオリはしばし沈黙し、小さく咳払いした。


「こんにちは。こんなところでは何ですから、ひとまずこちらでお話でもいかがですか。お茶を淹れたところです」


 優しい声色だった。

 イオリもイスカが想像以上に事情を知らないのを把握したようで、アキラがかぎ取った警戒心を微塵にも感じさせず、にこやかに言った。

 気の利かないアキラと違い、この辺りの対応は流石である。この辺りがオーラに関わるのかもしれない。


「僕はホンジョウ=イオリといいます。お名前は?」

「は、はい。イスカ=ウェリッドと申します。よろしくお願いします」


 がちがちに固まりながら頭を下げたイスカは、そこで、それ以上に硬直してぴたりと止まった。

 そして、ゆっくりと頭を上げたイスカは、記憶を辿るように青い瞳を泳がせていた。


「イオリ……? ホンジョウ……、え。いや。まさかそんな。…………あの、またまたすみませんが、あなたは……?」

「ん? あー、お、俺は、……ヒダマリ=アキラ、です」

「っ、ゆうっ……!」


 案の定のリアクションだが目の前で見ると、自分の覚えてしまったいい気分とやらが、大層悪しき感情に思えてきた。

 刺激しないように言ったつもりたが、イスカの呼吸が止まりかけた。度重なるショックでとうとう失神しそうな彼女は今のうちに白い建物へ運び込んだ方がいいかもしれない。

 膝が笑い、後ずさる彼女とのやりとりをイオリが知ったら、また大切なことを先に言わないと怒鳴りつけられるかもしれない。


 恐る恐るイオリを見ると、しかし、彼女もまた、記憶を辿るように眉を寄せていた。


「……イオリ?」

「違うかもしれないけど」


 イオリが、ぽつりと声を漏らした。


「君が『雪だるま』イスカ=ウェリッド。……で合っているかな?」


 侮っていた相手を見返したときの感情に、彼女なら何と名前をつけるだろう。

 アキラに対してそう感じるはずのイスカの、警戒心剝き出しで向けてくる青い瞳からは、いい感情は読み取れなかった。


 どうやら今日は、本当に出かけている場合ではなかったらしい。


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