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おんりーらぶ!?【第二部】  作者: コー
中央の大陸『ヨーテンガース』 ドラクラス編
60/68

第65話『光の創め8---口は---』

―――***―――


『時間です。やります』


『…………』


『…………ふう。ようし。やるぞやるぞー、できるできる。…………あれ? ユフィ? ……うん、聞こえてるよ? なになに激励? えっへっへー、大丈夫大丈夫。前も上手くいったし、結構自信あるんだー。……あれ? どうしたの黙り込んじゃって』


『ユフィ? ……おーい、おーい。……なんでそんな酷いこと言うの。黙れって、連絡してきたのユフィでしょう? そんなこと言うならもうやけ酒付き合わないよ? この間なんて、ぷっぷー、ひとりの夜は寂しいよーって赤ちゃんみたいにわあわあ泣いてたのに。かぁいいとこ……、ひぃっ、そんなに怒らなくても……。……え、なに? ……ひゃうっ!?』


『…………』


『…………ユフィ? まだつないでる? ごめん。ごめんて……、許してよ。今度お詫びに……、……ん? ひっ、はいっ、ちゃんとやります!』


『…………』


『…………んんっ』


『ドラクラス管理本部からのお知らせです。閉門の確認が完了しました。定刻になりましたので、ドラクラスの移動を開始します』


『繰り返します』


『ただ今より、ドラクラスの移動を開始します』


――――――


 おんりーらぶ!?


――――――


 マリサス=アーティは、薄ぼんやりと銀に灯された視界の中、荒い呼吸を繰り返していた。


 全身がどっぷりと濡れ、纏ったマントは水を吸って鉛のように重い。

 岩陰で、マントごと服をすべて脱ぎ、可能な限り力を込めて絞ると、マリスの体重分以上の泥水が絞り出される。

 手早くまた身に着けたが、未だ少し重く、じっとりとした感触が気持ち悪い。非力な自分では不十分だったようだ。

 魔法を使おうかと一瞬考えたが、裸になってこれ以上光を放つのはためらってしまう。


 濁流にのまれた衝撃に身体は痺れ、徐々に取り戻し始めた感覚が、今度は水温と気温の低さに、やはり痺れ始めた。


 哨戒というより最早ただの調査のために入った洞窟は、ヨーテンガース南部の依頼としても規格外だった。

 魔導士隊の事前調査が行われているというのに、洞窟内の形状にしても出現する魔物にしても、報告内容がまるで嚙み合わない。

 マリスは魔導士となって、それなりに魔導士という職についての理解は深まった。

 流石に世界最高峰の資格と言われるだけはあり、彼らは優秀だ。魔力の高さは言うに及ばず、知見と経験のどちらも備えている。玉石混交ではあるものの、石の水準自体が高いのだ。

 そんな魔導士が、ここまで不正確な情報を上げてきているとなると、洞窟の方を疑うことになる。

 事実、事前調査した魔導士は、何らかの異変を感じ取っていたのか、報告が誤っている可能性があると一文添えて報告書を上げてきたそうだ。


 不正確な報告など世に溢れ返っている。魔導士といえども人間だ。当然ミスもする。

 だが、今回些細なことだと済ませられないのは、出現した魔物。この世界の終点―――“ファクトル”の魔物が出現したのだ。

 この洞窟は、ファクトルとの距離は大分あるはずだが、一体何が起きているのか。もしかしたら“あれ”が近いことによる影響なのかもしれない。だとしても、納得できるものでもないが。


 事前調査もしてある上に、一流の魔導士が3人もついていたのに、状況の把握もままならないし、あっという間に面々は散り散りになってしまった。

 安全面は過剰なほどだったというのに、何ひとつ上手くいかない。分かっていたはずだが、“矛盾”のヨーテンガースとはここまでか。


 あるいは。

 事件の“種”を芽吹かせる日輪属性の運命が、強力過ぎるのか。


「……ふう」


 小さく息を吐き、身なりを整え、マリスは岩陰を出た。

 臭いも気になるが、流石にそこまでこだわっている場合ではない。


 警戒レベルは常に最上位。

 この場所は、ファクトルそのものだと考えた方がいいのだろうから。


「っ、くしっ」


 強張りかけていた表情が緩んだ。

 自分の感情を表現するのは苦手なのかもしれないが、それが呆れによるものだということにマリスはすぐに気づいた。


 マリスも準備に時間はかけたつもりはなかったのだが、手際がいいというより適当にやったのだろう、ヒダマリ=アキラが水気を絞って皺になった服を纏い、緊張感のないくしゃみをしていた。


「……よし。行くか」


 自分の呆れ顔も見えただろうか。

 転ばせていた剣を拾い上げ、アキラが周囲をオレンジの光で照らす。


 自分たちは、川をどう下ったのか分からないが、先ほどまでと似たような空洞にいた。

 大分下流に流されただろう。上流を見ても細い道が続いており、まるで距離感は分からない。

 だが感覚的には、大分地下の方まで流されたような気がした。


 幸い洞窟自体は崩れていないようだが、いつ崩壊が始まることか。

 逸れた他の面々は、今頃どうしているだろう。

 辛うじて身を守れるような魔術を展開してみたが、トッグスライムたちの爆発、あるいは暴れ狂った激流を完全に遮断できたかと言われると自信は無い。


「? にーさん?」


 水気が鬱陶しいのか犬のように頭を振っていたアキラが、こちらの様子をじっと見てきた。

 不穏なものを感じ一歩引くと、彼は笑いを堪えるような表情を浮かべていた。


「いや、マリスっていつもだぼだぼのマント着てるイメージあったから」

「急ぐっすよ」


 自分のものとは思えぬほど低い声が出た。

 湿ったマントは身体にぴったりというかべっちょりと張り付き、いつもよりもずっと動きにくい感じは確かにする。

 確かに自分は、ゆったりとした服が好みだが、表現は考えろ。


「あれ。マリス、こっちだろ?」


 早足で歩き始めると、アキラの焦ったような声が洞窟に響いた。

 川を辿って元いた上流を目指し、この洞窟から脱出するつもりだったのだが、アキラは反対方向に身体を向けている。


「何を」

「何って、他の奴ら探さなきゃ。もっと流されたかもしれないだろ」

「にーさん。フェッチさんが言ってたこと、忘れてたりするんすか?」


 感情の起伏が乏しいと言っても、こうしたことには流石に自制が必要だ。

 マリスもアキラの言葉の意図は分かるが、冷静な自分に歯止めをかけさせる。


 この洞窟に入る前、というより、この依頼で各所の調査をする際、必ず決めていることがある。

 もし仮に、何らかの事故で逸れることになったら、それぞれが自分を第一に考え、出口を目指すというものだ。


 他者を気にするのは自分の余裕ができてから。

 こうしたイレギュラーが起こったとき、まず考えるべきは身の安全が保障された者たちが合流し、安全な集団を作ることだ。

 戻ってこられない者は、そのあと万全の状態で探せばいい。

 結果として、それが全員の生存率を高める。


 局所局所では冷徹な考え方のように思えるが、それぞれがそういう意識があることにこそ意味がある。

 各々が実力者であることが前提だが、実際のファクトル調査でも、各自が自分の身を守ることを第一優先で考えていたことも死傷者が出ていない要因だ。


 だがアキラの表情は渋かった。フェッチの言葉を思い出してはいるらしい。


「フェッチさんたちなら大丈夫っすよ。もしかしたら自分たちよりも上流にみんないるかもしれないし」

「下流にいるかもしれないだろ。少しくらいは見に行かないと。かなり寒いし、怪我して動けなかったりしたら凍えちまうよ」


 遭難時はポジティブに。探索はネガティブに。

 こういう行動を取らないと、あっという間に自分の方が命を落とす。

 そういう考え方をマリスは持っているが、この男は、自分が危機に瀕しているときにこそ、他の者のもしもを考えてしまっている。


 魔導士として強く発言すべきかと思ったが、寒さで身体を震わせながら落ち着かない様子で下流を見るアキラを見ていると、咎める気がなくなってくる。


「……危なくなったらとにかく離脱。それでいいっすよね」

「もともと危ない場所だろ」


 適当にはぐらかされた。

 ずっしりと重いシューズを持ち上げるように歩くアキラの隣に並ぶ。


 マリスは周囲の気配を探った。

 一気に水位が上がった直後ゆえに、天井や壁にも川に削られた跡が残っている。

 あの激流で、この辺りに元々いた魔物もまとめて流されただろう。

 周囲に魔物の気配はない。

 同時に人の気配もないが、川はまだまだ流れていっている。

 確かに流されている者がいてもおかしくはない。


「……寒くないか?」

「自分は大丈夫っすけど、にーさんが寒いなら自分が、」

「いや、一応温存しておいてくれ。正直いつ崩れるか気が気じゃない」

「そのくらい別に何の影響もないんすけど」

「そうなのか?」


 震えながら歩く彼は、辛抱溜まらずといった声色で言った。

 明らかに我慢していた顔に、マリスの方が我慢できなくなる。


 静かにふたりの身体に魔力を纏わせると、ひんやりとした空気が心地よく感じるほどに収まる。

 洞窟の崩落を気にしてマリスの魔力を温存させようと考えていたようだが、このくらい訳はない。

 むしろ崩落を気にするなら、今すぐにでも出口を目指すべきなのだが、彼に言っても聞く耳を持たないような気がした。


 魔物の気配は依然として無い。

 だが、ファクトルの魔物であるトッグスライムの出現で、万一にも油断できない洞窟であることは間違いない。

 だが、ふと、面白くないという感情が浮かぶ。

 神経を尖らせ、気配を消している魔物がいるのではないかと探り続けているマリスからすると、ほぼ無警戒に、銀の魔術で快適な環境になったアキラがすいすいと歩いていくのは、大層面白くなかった。


 だが。

 懐かしい、と感じてしまう。

 前もこうして、彼は呑気に歩き、隣の自分だけが気を揉んで警戒し、損をしているような気分にさせられたことがある。


 そのときだ。

 自分は、人生で一番の怒りを覚えた記憶がある。

 記憶が一部無いようなことを言っていたが、自分が怒鳴りつけたことを彼は覚えているだろうか。


 自分はよく覚えている。

 今覚えている感情も、あのときときっと同じだ。

 会話がないまま進んでいくのに、居心地の悪さを覚えてしまう。

 彼と再会し、その後もあまり話せていなかったのも、その寂しさとも言える感情に拍車をかけているのかもしれない。


 あれから、記憶を失っている期間も合わせると、随分と年月が経っている。

 彼にもきっと、成長という名の変化が訪れているだろう。

 その彼の成長を、自分は断片的に人伝で聞いただけだった。


 未だに思い起こす、あのときの彼は、隣にいる彼と同一人物だろうか。

 自分のことを、覚えてくれているだろうか。


 横目で彼の様子を窺う。

 落ち着かない様子で目を泳がせ、それでも何かを考えている様子だった。


「なあ。マリスは何が苦手なんだ?」

「はい?」


 何やら考え込んでいると思ったら、出力される言葉がそれなのか。

 苦手なこと。

 今答えるならば、目の前の男が何を考えているのかを見抜くことが苦手だった。


「ん? なんか変だな、いやでも、うん。……特技は?」

「にーさん。1から話してもらっていいっすか?」


 大体3くらいの段階の質問を受けている気がする。

 もう少しましだったような気もするが、適当な会話も彼の特徴だった。

 それに抵抗なく付き合おうとしてしまうことが、自分の特技、というか悪癖なのかもしれない。


「俺今まで、とにかく会おうってことばかり考えてたんだけど、よくよく考えるとマリスのこと知らなくてさ。さっき、色々忙しかっただろ? マリスが何ができて、何ができないのか知りたくて」

「……できないことは、無いっすよ」


 自信満々に答えた。目は逸らしたが。


 自分にできることは、すべてだ。

 それこそ時間を巻き戻すことすらできる。


 あえて言うならば、できないことを答えることが、できない。

 というより定義できていない、が正しいかもしれない。


 例えば先ほど、自分は全員の身体を浮かせ、トッグスライムたちを防ぐ盾を展開した。

 そこからそのまま離脱しようと試みたが、発動している魔法のバランスというか、右手と左手で別のリズムを刻まされているというか、難しいと感じるときがある。

 アキラに言われて盾を不要としたあのときは助かったが、その後、全員を浮かせて逃げた先、アキラとジェットが自らマリスの魔法から外れたときは、特に何も変わらなかった。


 数もそうだが操れる人間自体少ない月輪属性。不可能を可能にする属性。

 魔法を操る月輪の力を、マリスは完全に支配下に置いている。

 そう思っていたのだが、やったことが無かったり、ほとんど定義も無いが難易度が上がれば上がったりするほど、できるできないの判断は直感的になることが多い。


 崩壊する山を支えながら魔族とすら戦闘することもできる。

 効果の違う魔法を同時に発動することもできる。

 だがそれも、どの規模の山ならできるのか、いくつまでの魔法を同時に操れるのか。


 答えはやってみようとしないと分からない、だった。


「ほう……、面白いな」


 自信満々に言ってみたが、アキラの表情が変わらず、白状するようにそんな話をすると、アキラはまた笑いを堪えたような表情を浮かべていた。

 自分のことになると説明能力が低くなるのは自覚している。

 ただ、やってみようと思ったから分かった。今なら姉のように、拳を握って突き出すことはできそうだった。


「じゃあ、出来ないときは出来ないって言ってくれれば大丈夫か」

「……」


 同じ魔法を操る日輪属性なら、そういう話は理解できるのだろう。

 だが、彼と話していると日輪の力はまるで関係ないように、適当に聞き流されたような感覚にすら陥る。


 怒りに似た感情を覚えたが、ぐっと堪えた。


 最悪それでもいい。

 自分のことを知らないと言われたとき、少しだけむっとしたが、それも何度も思い返した自分の記憶の方が鮮明なだけである。


 出来ないと言わなければいいし、その認識で問題ない。

 今までもそうだ。

 マリサス=アーティにとって、不可能など存在しないのだから、自分こそ何を言われても平然と聞き流せばいいのだ。


「あ。でも、ひとつ分かったよ。苦手なこと」

「なんすか?」

「泳げなかったんだな」


 マリスは、ごほんと強めの咳払いをした。


「あんな流れの中、着衣だったんすよ? にーさんも気にしていたし、流れてくる岩も気にしなきゃいけない。方向だってある程度把握しながらだったし、そう、川に吞まれたのも、みんなに魔法を付与した直後だった。第一、川から強引にでも離脱できたのは、自分が魔法で飛び出したからだったじゃないっすか」

「そ、その節は……、助かりました」

「それに、そもそも自分は飛べるし、水の中で息が出来るようにすることもできる。それなのに、出来ないって話にはならないんじゃないっすかね」

「まだ来るじゃん。分かった分かったって」

「ぐ」


 泳ぎは得意というわけでもないが、苦手でもない。水の中に入ることに抵抗もないし、魔法を使わずとも数メートルは前へ進める。

 結果として不可能が無ければそれでいいのだ。

 彼は理解しているのかしていないのか、今度こそ堪えもせずに笑っていた。


 何度も何度も、思い出してしまう。

 彼と話していると、いつもこうして、気分を害されたり、呆れさせられたりして、それでもいつも、時間の進みが早い。


 魔法の力で乾き始めたマントについた泥を払い、マリスはまた索敵する。

 魔物は出ないでくれていた。


「じゃあ……、あ、そうだ。マリスは機嫌悪いのか?」

「そうっすね」


 今度は5くらいの段階の質問だった気がしたが、マリスははっきり肯定した。

 順調にそうなっている。


「やっば。直接聞くつもりなかったのに……。ううん……と。マリス。魔導士隊、大変か?」

「最初にそれなら、ここまで機嫌悪くはならなかったと思うんすけどね」

「ええとだな……」


 今度は何だ。どういう方向から攻撃してくるつもりなのか。

 また言葉を選ぼうとしているのか、アキラは何かを考えていた。だが、こんな洞窟の中で遭難しているのだから仕方ないだろうが、傍から見てもまるで集中力がないように見える。まともに考えられていないだろう。

 彼がどういう成長をして、自分が彼らにとってどのように助けになるかが分からないマリスだが、少なくとも今、余計なことを考えない方がまだマシだという助言は出来そうだった。


 自分は、他者から無口だという印象を受けている。自覚もしているし、特に気にもしていない。

 口は災いの元という。

 感情をそのまま吐き出したり行動したりすると、大体の場合、後悔するのだ。

 自分もそうだ。大体は冷静な自分が止めてくれるのだが、感情が高ぶり過ぎるとそうなるのか、時折、冷静な自分があっさりと裏切り、背中を突き飛ばすことがある。

 夜に思い出すとベッドの中で悶えるようなことばかりだ。


 それなのに、この男は、そもそも冷静な自分がいないように、いつでも思いつくまま話続けているように思える。彼も存分に、夜にでも後悔するといい。

 ただ、発される言葉は打算が無いことが多く、人並みに嘘も吐くが、ほとんどの場合見透かすことができる。

 知っている、通りだった。


「いやな。アラスールから聞いたんだよ。マリスが欲求不満? みたいな」

「本当にそう言っていたってことでいいっすか?」


 本当にすごい人だと思った。これで喧嘩を売るつもりがないのだから大したものだ。


「ええと、機嫌が悪いって聞いてて。それで、何とかしろって」

「……へえ」


 白状するように種を明かしたアキラに、マリスは自分の表情が変わっていないのが分かった。

 確かに最近、彼らとのこともあるが魔導士隊の方の活動も賑やかになっていた。

 ほとんどアラスールやフェッチが手を回してくれたものの、不遜ではあるがファクトルにいたときの方が平穏だったかもしれない。

 アラスールの方がずっと大変な目に遭っているようだったが気を回してくれているらしい。

 つくづく世話になっている身で申し訳ないが、そういうことを見抜かれるのはむず痒かった。


「悪かったって。だから何とか機嫌を治してもらおうとしていてさ。こんなことにもなっちまったし」


 謝り慣れている人だと思った。

 自分の機嫌が仮に悪かったとして、それはアキラのせいではない。いや、なかった、が正しいが。


「大体、魔導士はめちゃくちゃ忙しいらしいのに、一緒に魔王を目指すって頼むってのも急すぎ」

「は?」


 強い声で言葉を遮ってしまった。

 自分の機嫌。それが過去一番悪くなったのを感じた。

 同時、魔法に守られているはずの身体が冷えた。


 彼にとっては言葉の綾だったのかもしれない。

 だが、マリスはその意味を、どうしても悲観的に感じてしまう。


 自分はとっくに、“勇者様御一行”のつもりだった。

 周囲にも認識されているだろう。だが、そんな周囲の認識などよりも、ずっと前だ。

 彼がこの世界に三度落とされる前から、彼らと共に魔王を目指すことを決めていた。

 姉よりもずっと早く、そのつもりだった。


 だが彼の言葉は、まるで今初めてこのヨーテンガースで出会った相手に対するようにも聞こえる。

 自分がこれほどまでに切望していた瞬間は、彼にとっては、最初のときと同じものでしかないというのか。


「……悪い。そういうつもりじゃなかった」


 マリスの様子を察したらしく、彼はまた謝った。


「さっきも言ったけど、俺はマリスのことをよく知らなかったからさ。というか、知らなかったと思い知った、っていうか……。この“三週目”でよく分かったよ。今もまだまだなんだろうけど、“二週目”の俺は、マリスのことをちゃんと見ていなかったんだってさ」


 視線を逸らして呟くアキラは、照れくさそうな表情を浮かべていた。

 震えた背筋が少しだけ収まった気がした。


「今回こそは、ちゃんと知りたいって思って。マリスは何が得意で、苦手で、どんなことで機嫌が良くなったり、悪くなったり、とか。だから、頼ってばかりだった“二週目”の流れでなあなあになるのが嫌でさ……、上手く説明できてるかこれ」

「……そういうことなら、少し機嫌が良くなったっすよ」

「よかった。なら俺も多少はマシになってるのかな。俺なりに、他の皆にもちゃんと向き合ってきたつもりだから」


 今機嫌が少し悪くなった。今こそ謝ってもらいたい。


 自分には最初から、彼らに対する仲間意識がある。

 アキラもそうであろうし、より多くの記憶を持つホンジョウ=イオリは一層だろう。

 それが伝わらない歯がゆさはずっと払拭されないものだと思っていが、記憶を持つというのは大きなアドバンテージでもある。


 だが彼は、それに頼るのが不誠実なように感じているらしい。

 前のときと“同じだったから”。

 “決まっているから”。

 そういうことに全体重を乗せるのに抵抗があるのかもしれない。


 もしかしたら旅の途中、記憶に頼り切って痛い目を見た経験からも来ているのかもしれないが、妙なところで律儀な男だ。本当に生きにくいと思う。


 もし彼が、他に月輪の魔術を見つけていたら。

 もし彼が、自分を拒絶していたら。


 そんなネガティブな思考に陥ることもあったが、彼との再会ばかりを考えていて、思考の隅に追いやっていた自分が恐くなった。

 この辺りは自己評価の差なのかもしれない。


 こちらの気持ちを知ってか知らずか、彼は安心したように、ファクトルの魔物が出現した異常空間を足早に歩いていく。

 改めて見ると、前のときより、足取りがしっかりしているように感じる。

 流石に世界を3周した勇者様だ。相変わらずの命知らずだが、それなりの裏打ちがある行動なのだろうと好意的に解釈してこう。

 彼の言うところの“二週目”。

 彼が持つ記憶の大分部はその冒険に締められていると言っていた。

 そのときと比べてしまえば、今はずっと多くの経験をして、こうした状況にも慣れているのだろう。


 そう考えると、ますます彼にとっての自分の価値を見失いそうになるのだが。


「……にーさん。そろそろ」

「もう少しくらい大丈夫だろ」


 大分進んできてしまった。

 すでに川の勢いも収まりつつある。“洗い流した”場所の終点が近い。そろそろ魔物が出るだろう。最悪、ファクトルの魔物が出るかもしれない。

 たとえ本当にここまで流された者がいたとしても、一旦は出口へ向かって合流するべきだろう。

 そんなことは流石に彼でも分かるだろうが、彼は適当にはぐらかし、彼の足取りは変わらない。


 軽薄な会話はなりを潜めたが、彼は傍から見れば呑気に歩いている。

 これほど危険な場所だというのに、むしろ足が早まっているような気さえした。


 最初の彼との出逢いを思い出す。

 妙な怖さを感じた。魔物にではない。彼に。


「! あれ」


 マリスが何かの気配を拾ったと同時、光源を見つけた。

 狭い川沿いの道。削り取られたのか窪んだ岩壁から、ライトグリーンの色が漏れている。


「っ、シャロッテか!?」


 一応魔物の可能性も考慮して慎重になろうとしたが、アキラの大声が洞窟にごわんと響き、台無しになった。

 水を撥ねて駆け出したアキラを追い、岩陰を覗くと。


「あっ、っ、ぅ、……、ア、アキラ氏、マリサス嬢、ま、魔物かと思っ……、ぎゃあああっ!?」


 運動能力は極めて普通だが、反射神経には自信がある。

 その反射神経が、思わずアキラを遠くに吹き飛ばしかけた魔法を止めた。


 岩陰にへたり込んでいたシャロッテ=ヴィンテージは、服を一切身に着けていなかった。

 身体を縮こまらせ、局所は見えていないが、アキラも流石に視線を外している。

 彼女が着ていたはずの衣服は岩に干されていた。


「アキラ氏!! マリサス嬢!! 回れ右!!」


 ごわん、とかすれた声が洞窟内に響いた。

 マリスも言われた通り後ろを向き、アキラとシャロッテの間に割って入った。


「シャロッテ、その、良かった。無事だったんだな」

「あ、ありがとうございます。まさかもう来るとは思わなかったので」


 だからまず、魔力でも当てて服を乾かすところから始めていたのだろう。

 彼女の行動は正しいのだが、なんというか間が悪い。

 まさかと思いながら目の前の、そうした運命を引き寄せる男を見ると、肩の力が抜けているよう思えた。

 遭難していたものを見つけて、溜飲が下がったのかもしれない。


「シャロッテさん。とりあえずもう着て大丈夫っすよ。自分が何とかするんで」

「助かります。非常時の道具もどこかへ行ってしまって、このままだと凍えていました」


 またかすれ声。

 自分はいいだろうと振り返ると、シャロッテが手早く服を身に着けていた。

 いくつかの衣服が見当たらないような気がするが、それ以上にシャロッテの唇が紫色になっているのが気になった。


「靴下……、は、いえ、ひとつでも無いよりまし。ジャケットは、まだ乾いて……、あ。あったか……、マリサス嬢ありがとうございます。もう着てしまっても……、うえ、気持ち悪い」

「シャロッテさん。もしかして、流されながら脱いだんすか?」

「え、ええ、着衣で流されては命がいくつあっても足りません。ただ、靴を失ったのは痛いですね。片方は一緒に漂流してくれましたが。くぅ、下し立てだったのに」

「それは災難だったな……。俺らは着たまま流されてたけど、脱いだ方が良かったのか」

「女性の会話に入ってこないでくれますか」


 シャロッテの口調は刺々しかった。

 彼は悪くないはずなのだが、シャロッテは裸を見られたのだ。心中は察する。

 シャロッテもそうだが、彼の間の悪さは群を抜いているように思えた。


「……お待たせしました」


 立ち上がったシャロッテは、なんというか、独特な姿をしていた。

 片方に靴下、片方に靴。上のインナーは流されたのか、普段開けているジャケットの前を首まで止め、もじもじと足をすり合わせている。

 ぺったりと張り付く髪が鬱陶しかったのか、長い前髪は横に流し、彼女の童顔も大きな瞳も相まって、一層若く、悪く言えば幼く、子供が無理して大人の服を着ているように見えた。


 くれぐれもアキラが余計なことを言わないようにと目を光らせると、彼は、自分のマントを笑ったときとは違い、心の底から安堵したような表情を浮かべていた。

 この野郎。


「肩、貸すよ」

「……い。いえ。お気になさらず」


 丈夫な靴を片方だけ履いていては歩きにくいだろう。

 こちらに一歩近づくだけでよたよたとしたシャロッテは、一瞬びくりとしてまっすぐ立った。


「じゃあにーさん。シャロッテさんも見つかったし、戻るっすよ」

「あとは、ジェットとフェッチたちか」

「にーさん」

「……分かってる。シャロッテを外に連れて行くのが先だ」


 アキラはシャロッテの顔色を伺うように見ていた。

 今は魔法で覆われているが、自分たちが来るまで濡れた身体で凍えていたのだ。

 多少は魔力で熱を生み出していたのだろうが、早めにちゃんとした暖を取るに越したことはない。


 それに、とマリスは川の更なる下流を見る。

 流石にここまでは流されていないだろうし、逸れているのは、フェッチ、ケディア、ジェットだ。

 よく知る魔導士ふたりは自分たちより早く川から脱出していてもおかしくないし、ジェットの方は何が起きていても生還するだろと思えた。彼の防御能力は尋常ではない。


「……おふたりは、出口に行ってないんですか?」


 歩きにくいシャロッテを気遣ってか、ゆっくり歩くアキラに続いて出口を目指す。

 マリスの隣を歩くシャロッテが、自分たちの様子を窺いながら怪訝な表情を浮かべ、恐る恐るといった声色を出していた。

 シャロッテの足取りは重い。

 マリスのやや後ろに位置取っているのは、歩きにくさだけでないような気がした。


「悪いな、一回外出て色々持ってきてたらよかったんだけど、俺らも絶賛遭難中だ」


 前を行く男は自信満々に情けないことを言い、また謝った。

 自分も同じ立場だが、彼のようには振る舞えない。

 魔物にも遭遇せず、シャロッテが見つかったからよかったものの、ただの結果オーライ。下手をすれば二次被害三次被害の行動だ。


「フェッチ氏が言っていませんでしたか? こういう場合のこと」

「……自分も止めたんすけど、にーさんが」


 口に出すと、自分が大層冷たいことを言っているような気がしてくる。

 だがシャロッテも、訝しんだ様子でアキラを見ていた。

 彼と話していると自信がなくなってくるが、『智の賢帝』が味方に付くと安心する。

 例え愚策だとしても、集団行動の際の取り決めを破ることはそれを上回ったデメリットがあるのだ。


「……それなのに、私を」


 まずい気がした。

 こうしたことには疎いと思い込んでいたが、姉しかり、今の彼女しかり、彼を見る目の色が変わったような気がしてきた。

 何とか話を逸らそうと、頭をフル回転させようとしたが、魔物の索敵と並行してやるのは至難の業だ。また、出来ないことを見つけた気がする。


「ふっふふ。アキラ氏。助けてもらった身で言うのも妙ですが、次からは気を付けてくださいね」

「助けたのはマリスだよ」

「でも、アキラ氏が探そうと言ったのでしょう?」


 咎めるようで、シャロッテの声が弾んでいる。

 この数日感じていた違和感だ。

 この依頼中、ふたりはあまり関わりのないはずだったが、知らないところで何かが進んでいる気がした。

 本心は分からないが、彼の方はそっけない態度を取っているようにも見える。

 彼は注目を引く日輪属性だ。黄色い声とやらにも慣れているのかもしれない。

 旅の道中姉が味わったであろう気苦労を、今自分が感じている気がした。

 貧乏くじを引かされた気分を、姉も同じように感じたのだろうか。


「本当言うと、こわ……、ひとりでは危険だと判断していまして。救援を待つかどうするか、なかなか判断つかなかったところだったんです」

「ますます良かったよ。魔物も危険なんだよな」

「ええ。命の恩人、というのも決して大げさではないかもしれません」


 自分を挟んで弾んだ会話をするなと思ったが、いつの間にかシャロッテが自分より前に出ている。

 成り行きを見守るしかないマリスは、順調に機嫌が悪くなっていくのを感じた。

 自分の心は想像以上に狭いのかもしれない。


 そんなことを考えていたからか、シャロッテの口が必要以上に軽くなっているのを見逃した。


「報告とまるで違う洞窟。ファクトルの魔物の出現。激流で流されたからですが、想像以上に深くもあります。これは本格的に魔導士隊を編成して調査しなければならなそうですね」

「よくそんなことに気が回るな。俺はここから出るので精いっぱいだよ」

「ふっふっふ。……んんっ、いえ。考える時間はいくらでもありましたから。このあとの魔導士隊の動きもシミュレートしていますよ。まあ、後日の調査はどうなるか分かりませんね、日輪属性はいないでしょうし」


 ぐ、と。アキラが手を握ったのが分かった。

 連動するように、マリスは目を見開く。

 シャロッテの元へ向う途中でマリスが覚えた違和感が、目の前に突然形となって表れた気がした。


 事件の種を芽吹かせる日輪属性は、こうした不明瞭な部分が多い調査には大いに役立つ。

 だがそれは、日輪属性本人から見た場合はどうか。

 芽吹かせた事件が周囲の人を傷つけたとき、仕方ないで済ませられるのか。


「……あ、の。アキラ氏。わ、私、そんなつもりじゃ」


 口は災いの元である。

 シャロッテもアキラの様子を感じ取ったのか、もしくは己の失言に気づいたのか、先ほどよりもずっと震えた声を出した。

 聡明なシャロッテは自然と、この立て続けに起こった異常事態を、事件の種を芽吹かせる日輪属性と結びつけて考えていただろう。

 アキラが現れたとき、より一層の厄災を瞬時に連想したかもしれない。


 日輪属性は心を開かせる。思っていることを隠すのは、意識していなければ無理だ。

 言わされる側にしてみれば迷惑なことかもしれないが、やはり日輪属性本人から見れば、どんな言葉でも浴びせられる辛い特徴となる。


「いや。悪かったな、巻き込んで」

「にーさん」


 また謝った。謝りやがった。声色は、いつも通り軽薄な気がした。

 だからマリスは、声を荒げた。


「洞窟の調査不足は魔導士隊のせい。ここまで流されたのはトッグスライムのせい。にーさんは関係ないじゃないっすか」

「そう、そうです」

「関係ないことないだろ。それが起こるのが日輪属性だ」


 日輪属性は事件の種では決してない。その種を芽吹かせてしまうだけだ。


「一応それなりに旅してきて、みんな気を遣ってくれるけどさ。事件の種を芽吹かせる……ただそれだけだって? ……“それで十分危険だろ”。事件の種なんてどこにでも存在する」


 魔導士隊が調査不足を金輪際しないか。

 ファクトルの魔物がファクトル以外で出現することはあり得ないか。


 無いとは言い切れない。それどころかいつか必ず起こりはするだろう。世界はあらゆる可能性を秘めている。

 そんな世界を旅してきた彼は、下手をすれば自分よりずっと多くの悪しき可能性を見てきたはずだ。

 それゆえに、日輪属性の事件の種を芽吹かせる特徴は、彼にとって、事件の発生そのものと直接結びつく。


「でもま、日輪属性になっちまったもんは仕方ない。日輪属性にはかなり助けられてるし、この力が無かった俺はとっくにどこかで死んでいる。じゃあもう付き合うしかないからさ。今日のこともきっと俺のせいで、でも、だからこそ何とかしないと、って思ってる」


 アキラはゆっくり振り返った。


「いや、大丈夫。気にするな。迷惑かけちまうのはもう慣れてる。……あれ? 変なこと言ってるな」


 精一杯笑おうとしている顔だった。

 人の機微に疎いマリスですら分かる。

 まるで慣れていない。いや、“慣れようとしていない”。


 きっと彼は旅を続け、その数奇な運命に正面から向き合おうとし、向き合い続けている。

 “まるで慣れてはならないとばかりに”。


 何が起きても、常に自分の属性を疑いながら立ち向かってきたのだ。


 だから彼は、シャロッテを見つけて、心から安堵したのだろう。

 マリスと話しながらも頭の中は、“自分の被害者”を出さないことでいっぱいだったのだろうか。

 今もまだ、次に起こるかもしれない何かに備えて神経をすり減らしているのだろうか。

 それが日輪属性の義務だとでも言うように。


 自らの運命に立ち向かう姿。それを立派だと遠くの人は言うだろう。

 だが間近で見るマリスは、そんなことは言えなかった。


 彼を一端でも知っているマリスは思う。

 もともと彼はそんな責任感がある人間じゃない。強い意志がある人間じゃない。

 状況に流されるし、嫌なこと、危険なことからは逃げ出すような、どこにでもいる、普通の人間だった。

 それを成長という言葉で片づけることなどできはしない。


 本当に機嫌が悪くなる。

 何故、彼の前には、彼にまったく向いていないことしか立ち塞がらないのか。


「少し急ごう。俺がいるんだ、次に何が起こるか分かったもんじゃないからな」


 笑おうとして、笑わせようとして、失敗したのが分かった。

 アキラはそう言いながらも、またゆっくり歩き出した。

 シャロッテの歩幅を気遣ってだろうが、マリスには、まるで傷だらけの身体を引きずっているように見えた。


 全力で魔法を発動し、今すぐに彼と共にこの洞窟から外に出たい衝動に駆られる。

 これ以上何か起こったら、また彼はそれを受け止めてしまうだろう。


 マリスは考える。

 彼にとっての自分の価値。それは分からない。

 だけど、彼にしてあげたいことは、ぼんやりと見えた気がした。


―――***―――


「はぁい、状況は?」


 フェッチ=ドッガーは、樹木に突撃するかの勢いで突っ込んできた馬車の窓からの声色に、自分の想定と事態がそこまで乖離していないことを再確認できた。


 ここは“謎”の洞窟前。アキラたちと認識合わせをした場所である。


 先ほど、洞窟内でファクトルの魔物と交戦し、川にのみ込まれたものの、ケディアの近くにいたのが良かった。

 自覚のないまま体力が削り取られる水中でも、彼女が溺れたように踊り、“魔法”を発動してくれたおかげで、近くにいたフェッチは常に最善の状態で行動できたのだ。


 ケディアと共に川から上がり、当初の予定通りまずは出口を目指し、フェッチは馬車に戻るなり早速異常を知らせる信号弾を上げた。


 停めていた自分たちの馬車で身支度を整えていると、どういう速度で飛んできたのかドラクラスの経由ポイントにいたアラスール=デミオンが早速現れた。


「状況も何も、洞窟の形状は報告とはまるで違うし、中では未報告のトッグスライムと交戦。地下水の激流にのまれてみんなばらばら。俺たちは命からがら逃げ出してきましたよ」

「わお」


 馬車から降り立つなり、木に干してある魔導士隊のローブを横目に、アラスールは大げさに頭を抱えた。


 事態は深刻だ。

 ファクトルの魔物が出現した上に、この洞窟は最早未知の空間。

 仲間とは逸れたし、中には他にも危険な魔物がいる可能性がある。


 まったくもって、いつも通りだった。


「じゃあ隊長もきたし、俺はそろそろ戻っていいですよね? ケディア、細かい報告は頼んだ」

「えー! 行くなら私じゃない? 誰か怪我しているかもなんだし!」


 こうした絶望的な状況のとき、ケディアの声は元気をくれる。

 怪我人がいることを望んでいるような気がしてしまうのだけ我慢できればもっと頼りになるのだが。

 ついでに言うなら、助かりはしたものの、先ほど暴れる川の中、間近でパワフルに踊られたせいで、ケディアの肘がフェッチの鼻の頭を強激したことを謝ってもらっていない。

 激流にのまれたとき以上に、故郷に残してきた妻や子供の顔が鮮明に浮かんだ。

 その踊りで治ったからいいという話ではないのだ。


「今はだーめ。それより私の話を聞いてもらえるかしら?」


 フェッチもケディアもぴたりと無駄口を止めた。

 アラスール=デミオン。自分たちが所属する部隊の隊長。

 水曜属性だが、ケディアのように魔法は使えず、しかし、最も異常な女性。


 特異なことをするわけではない。

 最高水準の魔力を持っているが、ヨーテンガースの魔導士は、そもそもほとんどがそうだ。

 自分のことを棚に上げて言うなれば、アラスールの力は確かに上積みだが、精々120点。十分に天才と言われる領域ではあるが、100点とそれほど変わらない。

 マリスたちのように、200点は持っていない。


 部隊の取りまとめ、指揮、メンタルケア、本人は嫌っているが、管理者としての行動に、その他数多の雑務。昨今では、ドラクラスの方針を定める魔導士としては業務外の会議にも参加させられている。

 それらもそつなくこなすが、フェッチは他に、そのそれぞれの分野で彼女より優れている魔導士や専門家を見たことがある。

 単純な魔力や戦闘力で言えば、マリスは勿論、先ほどフェッチが直に見た勇者様たちの方が高いだろう。

 よく言えば万能。悪く言えば器用貧乏である。


 いや、“貧乏ではない”。

 アラスール=デミオンは、器用だった。

 向き不向き。得手不得手。人間に当たり前にあるはずのそれらが存在しない。

 彼女は、本人が口でなんと言っていようが、ありとあらゆる分野で120点を出す。

 そんな人間を、“異常”と言わずになんと言う。


 “数千年にひとりの天才”マリサス=アーティ。

 “水曜の魔法使い”ケディア=レンダー。


 彼女の異常性は、“その異常者たちの力を最大限発揮させる”という未知の分野でも、結果を出しているという事実が裏付けている。

 彼女は“間違えない”。


「ねえ、ニーガさん。来てもらえる?」


 アラスールが声をかけると、馬車から、表情が険しく眼鏡をかけた、気難しそうな年配の男が降りてきた。

 魔導士隊のローブを羽織っている。ドラクラスの経由ポイントで待機していた魔導士だろう。

 見覚えは無いが、その名前には覚えがある。


 フェッチが取り出していた紙に目を落とそうとすると、アラスールは流れるようにニーガに渡した。


「あ、ちょっと……。で、どういうことか説明してもらえます?」

「信号弾を見て、どうせこうなってるだろうっていう見通し通りのことが起こってただけね。出てこられたのがふたりだけってのは予想外だけど、マリーちゃんがまだ中にいるなら最悪の事態は回避できそうね」

「こっちの報告聞く気あります?」

「フェッチ。あんたがここでぼんやりしてたのはそういうことでしょう」

「隊長を待ってたんでしょうが」


 一目ですべて見抜いたとまでは言わないが、考えていることは大体同じらしい。

 この洞窟の調査についてはフェッチに一任されている。事実そうだが、それなりの見通しは立てていると思ってくれているのだろう。


 元々の報告からして、この洞窟内では何が起こるか分からないというのが当初の想定だ。

 その“何か”を芽吹かせる日輪属性がいれば、逸れるような事態に陥ってもおかしくはない。

 だが、何が起きても跳ね返せるマリサス=アーティがいるとなれば、始まる前からこの依頼の成功は決まっていた。


 万一にも油断はしていないが、事実としてそうなのだから過剰に心配するより、別のことを考えていた方が建設的だ。

 今現在、逸れた彼らも難を逃れ、出口を目指しているだろう。彼らの力は並大抵ではない。こんなことは彼らにとって“危機ですらない”。ならば今すべきは慌てふためくことではなく、状況整理だ。

 流石にトッグスライムの出現は予想外だが、やはりあの面々であれば対応可能な範囲だろう。


「一応色々準備してきたわよ。でも最優先なのは多分彼。たまたま会えてラッキーだったわ。ねえ、ニーガさん。その報告書どうかしら?」


 ニーガというのは、報告書に記されていた報告者の名前だ。

 たまたまドラクラスの経由ポイントの担当にもなっていたのだろう。


 ニーガは眼鏡を持ち上げ、真剣な様子で報告書を睨んでいる。

 話しかけるのも憚れる状況に、ケディアがそわそわし始めた。洞窟内の様子が気になるらしい。今にも飛び出していきそうだ。


「なんだこれは。……う、ぷ」


 ニーガが声を漏らした。

 ついでに嗚咽も漏れる。気難しい表情をしているように見えたが、アラスールがとばした馬車で酔っているだけなのかもしれない。

 だが、聞き逃せないことを言った。


「なんだって……、あなたが書いたものでしょう」


 フェッチがニーガの様子に眉をひそめ、アラスールに視線を送ると、彼女は舌打ちした。

 その様子に、フェッチも嫌な予感が脳裏を過る。


 この洞窟“自体”の問題は、恐らく解決するだろう。

 調査不足だろうが何だろうが、マリサス=アーティがいる。

 いや、安心材料は彼女だけではない。


 ヒダマリ=アキラ。

 ジェット=キャットキット。

 この数日行動を共にし、傍で見てはっきり分かった。あのふたりも“異常者”だ。

 シャロッテ=ヴィンテージも、逸れたところで、この危険な洞窟から無事に出られるであろう実力者である。


 だから、そんな“些細”な問題が気にならないほどの悪寒を、目の前のニーガから感じた。


「これは私が書いたものではない。……写しか? いや、要約するにもこうはならんだろう」

「え! でもニーガさんの名前あるよ?」

「確かにあるが……、これをどこで? 私の報告書はどこへいった」

「……思い出してもらえますか。この洞窟、何があったんですか」


 様々な悪寒を放り投げ、フェッチはニーガに詰め寄った。

 悪寒の方は、あるいは最初から懸念していたのか、今アラスールが考えている。


「まず形状だが、……いや、待て、言えないな。私も報告をまとめてすぐに次の仕事へ向かったのだ、詳しくは覚えていない。だが、かなり深く、妙な生活痕があった。“言葉持ち”がいる可能性が高かったが、発見には至らず、調査し切れなかったと報告した覚えはある。確かあれは、時間制限を設けての調査だったか」

「……報告内容に誤りがあることを前提に、とありますが、そのことですか?」

「それなら覚えている。この部分は私が書いたものだ。調査をし切る前となれば、私が見つけたものも誤った解釈をしている可能性があるからな。もともと、私も事前に聞いていた報告内容とは違ったのだから、すべてを疑ってかかっていた」


 話を聞く限り、慎重な魔導士のようだ。確たることしか口にせず、すべてがクリアになるまで、すべてを不確定として捉えるタイプらしい。

 その前の報告内容との相違に苦しめられた反動かもしれないが。


 となるとこれはよく聞く伝達齟齬、とはならないのをアラスールの表情が語っていた。


 ドラクラスでは殺人的な量の仕事をこなす魔導士だが、ここまでの誤りは流石に起こらない。

 “言葉持ち”の可能性を示唆する報告が消えるなど、伝達齟齬では済ませられない。


 ならば、考えられることは。


「……ケディア。仕事だな。ここは隊長たちに任せて、俺たちは再調査だ」

「え? う、うん! マリーちゃんたち無事かなー?」


 フェッチはアラスールに視線を送って、小さく頷く。

 最後にニーガにお辞儀をして、ケディアを連れて足早に洞窟へ向かった。


 引き留めておいてなんだが、“そういうこと”なら隠し事が出来ないケディアはここから離した方がいいとアラスールも思っているだろう。

 ニーガの方は、アラスールが丸め込むはずだ。


 直接話してみて、ニーガという魔導士はそれなりに信用できそうだった。

 ベテランのようだし、違うものは違うとはっきり言える人物だろう。


 彼が職務怠慢を起こしたとは考えにくい。

 むしろ起こしてくれていた方が嬉しいことをフェッチは考えてしまった。


 ニーガが上げた報告。その内容を―――“書き換えた奴がいる”。


 ドラクラスの依頼。魔導士隊の調査報告は伝言ゲームだ。

 フェッチがまとめた報告も、まずは上司のアラスールが目を通し、その後しかるべきルートで幾人かを通り、ドラクラス上層部に伝わる。


 “容疑者が多すぎる”。


 どこにいるか分からない悪意のある内部犯というのは、あるいは魔族などより、役割を分けて行動する組織としては致命的である。

 他者の仕事成果を前提として行動するのが組織だ。影響を受ける人数は計り知れない。

 アラスールが馬車をとばして事実確認しに来るわけだ。もともとその可能性も疑っていたのかもしれない。

 これはドラクラスの魔導士隊そのものの体制に関わる重大な問題だ。

 軽々しく公にすることはできない。ただでさえ業務に忙殺されている魔導士たちに、隣人を疑う余力はない。

 フェッチもそうだ。


 だが、それでも一瞬だけ、脳裏を過ってしまった。

 ひとつの推測に過ぎないし、仮に思いついたとしても、誰もが口に出すべきではないと考える可能性。


 “魔王の弟”はドラクラス内部にいる。


―――***―――


「ア、アキラ氏。寒くないですか?」

「マリスのお陰で大丈夫だけど……」

「で、では、外に出たら、温かいお茶をお淹れしますよ。そうだ、シリスティア産のお茶請けもあります。保存の利く優れものでして」

「あ、ありがとう?」

「そうだ。ドラクラスに戻ったら、お食事などいかがでしょう。個室でゆっくりできるお店をいくつか知っています」


 気を遣わせてしまっているのが物凄く申し訳なく感じる。


 ヒダマリ=アキラは、マリス、シャロッテと共に洞窟の出口を目指していた。

 ファクトルの魔物が出現し、この洞窟の危険度はヨーテンガースの中でも最上位だろう。

 依頼でそうしたダンジョンを引き当てたのは、我ながら、だが、塞ぎ込んでいても仕方がない。

 決して楽観視は出来ない状況でも、今のアキラにできることは、とにかく犠牲を出さないように必死になることだけだった。


 この旅で、そういうことをひとりで軽はずみに考えるなと再三怒られているような気もするが、今回、特にシャロッテは完全に巻き込まれた側だ。

 アキラにとっては、彼女に何かあれば仕方ないでは済ませられない。


 だがそんな自分の姿を見ると、人によっては逆にアキラを気遣うようになることもある。

 つまりは、誰かを案じると、それを厚意と捉え、逆に案じてくれる者もいるのだ。


 依然はそういう風に、問題をひとりで抱え込むのも格好がいいとふざけたことを考えていたものだが、実際に経験してみると、自分が悪いのに人に気遣われるというのはむず痒いし、申し訳ない。


 現に今、あたかも人の地雷を踏んでしまった償いのようにあれやこれやと話しかけてくるシャロッテに、まともに目を合わせられない。

 実際気にしているし、厚意は素直に嬉しいが、それを真正面から受け止められるほどアキラは人間が出来ていなかった。


 そう考えると。と、アキラは浅く笑った。


 たびたび考えることだ。過去、自分が逢ってきた“勇者様”たち。

 羨望も責任も意に介さない、独善的なあの男。

 羨望も責任も一身に受ける、献身的な彼女。


 やはり自分は、そのどちらとも違うらしいと、改めて実感した。


「!」


 シャロッテに適当に応答しつつ進んでいくと、川が太くなった。

 Y字のように、川下からだが、二股に分かれた川が合流している。

 自分たちは同じ方向へ流されたようだが、折り返すように進めば別の下流へと進めるだろう。

 アキラとマリスが川から上がった地点はとうに過ぎ、随分と歩いてきたが、川の上流の先はまだまだ見えなかった。


 相談しようと振り返ろうとしたが、シャロッテの姿が目に留まり、アキラは諦めた。


 自分たちと別方向へ流された者もいるかもしれない。

 少しくらいは別の下流へ進んでみたいと感じたが、今はシャロッテを無事に外へ連れていくことが先決だろう。

 ならば。


「にーさん」


 歩みを止めたアキラに、マリスから、冷たい声が聞こえた。

 考えていたことがばれたような気がした。


 最悪シャロッテをマリスに任せようと思ったが、流石にアキラもこの洞窟をひとりで探索するのは無策すぎると思っている。


 逸れているのは、フェッチ、ケディア、そしてジェット。

 シャロッテを侮るわけでもないが、彼らなら自力で出口を目指していてもおかしくはない。


 だが、それでも。


「……ジェットはどうしていると思う?」


 日輪属性の責任や義務。そういうものをぼんやりとは感じているアキラだが、このときばかりは自分のそれを放り出して、真剣に考えた。


 人に言うのは憚れるが、ジェットは事件の種を芽吹かせる、アキラと同じ日輪属性だ。

 そんな男が、こんな危険な洞窟にいるのだ。

 激流にのみ込まれたこと自体は乗り切っているだろうが、それ以上の余計なことが起こっている悪寒がする。

 旅の道中、アキラが他の面々に散々思われていたであろうことだ。

 ジェットは相当な実力者だろうが、どうしても、厄介事の種として見ざるを得ない。厚意からでも、人を傷つける感情が生まれてしまう。最悪の気分だ。


「ジェット氏は……、そうですね。うん、……その」


 先ほど口を滑らせたことを気にしているようで、シャロッテは口ごもった。

 だが、アキラの言わんとすることは伝わっているらしい。


「……どの道、今は出口を目指すしかないっすよ。いつ危険な魔物が出るか分からないし」


 先ほどの激流で流されたおかげか、今のところ魔物の出現も気配もない。

 あの勢いだ。川に殺された魔物もいるだろう。だがもしそれらが生きていたとすれば下流に、もっと言えば他の面々が流された先に集まってしまっていることになる。

 と、そこまで考えたが、マリスの言う通り、いずれにせよ、今の自分たちがすべきことは洞窟からの脱出である。

 後ろ髪を引かれる思いを振り切り、アキラは頷いて歩き出した。


 そのとき。

 幸いにも、最悪なことに、前方から物音が響いてきた。

 慎重に気配を探り続けると、しばらくして、今度は爆発音。小規模ではあったが、洞窟が崩れないかとひやりとした。

 これは、戦闘音だろう。


「! 行く、でいいか?」

「……ぐ。……え、ええ」


 いずれにせよ自分たちの進行方向から聞こえてきたのだ。逃げることなどできはしない。

 アキラは駆け出そうとし、ふとシャロッテを見る。彼女は無理をしなければ走れない。


「マリス。シャロッテを、」

「何を言ってるんすか、にーさん」


 ふわり、と。

 シャロッテを託そうとしたマリスが、いつものように、なんてことの無いように、全員の身体を浮かせていた。

 極力温存しようとしていたマリスの力だが、彼女自身は、そんな凡人の考えた尺度で測ることなど許さないと言わんばかりに、涼しい顔をして超常現象を起こしている。


「行く。で、いいんすよね?」

「ああ。頼むマリス」


 アキラが口を挟む余地などなかった。

 川の脇を延々と歩いてきたアキラたちは次の瞬間、川の上を飛ばされた。

 宙を浮いて初めて、思った以上に天井が高いことに気づいた。影に隠れて見えなかった天井に急に近づき、魔物が潜んでいないかとびくりとしたが、自分たちの身体は世界一信頼できる銀の光に守られている。

 歩いていたのが馬鹿らしくなるほどの爽快感だった。


 何のかんの言っていても、結局自分は、頭の奥で、マリサス=アーティという存在がいることを前提に行動していたのかもしれない。

 彼女がいれば、どれほど危険なことをしても、難局など存在しない。不可能などない。

 それが彼女の負担になるのであれば控えるべき思考かもしれないが、彼女の力は、そんな凡夫の考えなど圧し掛かったところで何の影響もない。


「ちょ、ちょっと!」

「っ―――」


 ぐん、とマリスが川すれすれに高度を落とした。

 アキラにも見えた。前方の天井に、何か巨大なタコのような姿の影が張り付いていた。


 あれが何という魔物かは知らないが、この洞窟の魔物だ、訊いたところで吉報ではないだろう。

 銀に輝き飛ぶ自分たちは大層目立つだろう。流されずに済んだ洞窟内の魔物たちも、激流の衝撃が収まり、そろそろ活発になってくる頃かもしれない。


 彼女もそうしたことを気にして歩いていたのかもしれないが、目指す場所が明確ならば問題にならないだろう。

 洞窟の影に見えた数多の危険を、ものともせずに飛んでいく。

 視界に入ったそれらをアキラの脳が処理し切る前に、今もまた爆発音の聞こえた地点へ到着した。


「今度はいいよな?」


 到達したのは、また同じようなY字の道の股だった。

 川は洞窟内で無数に枝分かれして流れているのかもしれない。

 そう考えると、シャロッテと同じ枝先に流れたのは単なる幸運だったのだろう。勝手に1本の川だと思い込んで川下を探した自分の浅慮に戦慄した。

 こういうことがあるから、まずは出口で合流することを考えるべきなのだろう。


 音が聞こえるのは、アキラたちが来たのとは違う道の川下だった。

 先ほど踏み出そうとした不確定な推測ではなく、間違いなく何かが起きている音が響いている。

 魔物同士の抗争でもなければ、逸れた誰かがいる可能性が高い。


「え、でも、どこに……?」


 シャロッテがすべてを察したように震えた声を出した。

 彼女も異変を感じ取っただろう。

 音が聞こえる道は、奇妙なことに、壁の至る所に人がひとりかふたり通れるほどの穴が開いている。

 自然にできたようには見えない。

 まるで宿の廊下のように、ある程度一定の間隔で壁が削られ、小さな洞窟がずらりと並んでいる。この場合は部屋と言った方が的確だろうか。

 そしてその部屋は、見える限りでも、10や20では収まらない。


 川沿いに並ぶ奇妙な部屋。

 その妙な文明感を覚えるその光景に、そのまま踏み込む度胸は無い。


 マリスも下手に飛び込まず、真剣な表情で気配を探っていた。

 振動は、どこかの部屋から響いてくるようだ。

 音は響けど、反響して、おおよその位置も分からない。


「誰かいるのか!?」


 こちらの存在が目立つのを覚悟でアキラは叫んだ。もともと銀の光を纏っているのだ、誤差の範囲でしかないだろう。

 自然の洞窟にしては異質な光景だが、呑まれてばかりはいられない。


「……にーさん。ここは一旦引くっすよ。流石にこれは、今の自分たちの手に負える問題じゃない」

「わ、私も賛成です。体制を整えることを優先しましょう」


 頭の回転が早いふたりは即座に離脱を提案してきた。

 アキラも、この自然の洞窟の中、不自然に整然と並ぶ部屋たちからは嫌な予感を強く感じる。

 悪寒を押し退けて、部屋を睨むように見た。


 この洞窟は、魔物の住処だ。

 そんな場所に、これだけの数、まるで宿の部屋が並ぶようなエリアがあったのだ。


 魔物が作り出した巣。旧人類の遺物。

 考えられることはいくつもあるだろうが、魔物の巣の場合、より人間に近い思考を持っている可能性が高い。

 つまりは“知恵持ち”。あるいはそれ以上の、“言葉持ち”。

 それが部屋の数分いるとなれば、いつ崩れるか分からない洞窟の中、魔物のテリトリーで不用意に戦うことになる。

 避けられるなら避けるべきだろう。

 そして、旧人類の遺物となれば、それこそアキラたちは門外漢だ。


 響く振動は気になるが、いずれにせよ、アキラたちがやすやすと手を出していい領域ではない。


「あ……?」


 流石に離脱に同意しようと口を開こうとしたら、空気が漏れた。

 ずらりと並ぶ部屋に意識を奪われていたが、部屋が並ぶ向こう、さらに下流で、何かが光った。


 一瞬のことで、銀の光越しに見たゆえの見間違いでなければ、色は―――オレンジ。

 どくりとアキラの心臓が跳ねた。


「あれ……、ジェットか!?」


 ふたりを見ると、彼女たちは部屋が並ぶ道からの離脱ばかりを考えていて、見逃したらしい。

 もしあの光がジェットのものなら、部屋からの振動はフェッチたちだろうか。


「マリス、ここにみんないるかもしれない!! 合流した方が良くないか!?」

「え? なにを……、!」


 今度はマリスたちも見えたらしい。やはり下流の遠くに、オレンジの光がぼんやりと見えた。

 遠目で分かりにくいが、洞窟の壁が光っているように見える。どこかから反射しているのだろうか。

 アキラもそれをまじまじと見て、今度は背筋にひやりとしたものが走る。


 立て続けに異常事態が起こり、動揺しているのかもしれない。

 先ほどから嫌な予感が頭から離れなかった。


「……誰かいるのか?」


 部屋からの振動は、いつの間にか止まっていた。

 その声を聞いて、アキラの混乱は、いよいよ極まった。


 アキラが当たりを付けていた場所から幾分離れた部屋から、“オレンジの光”が漏れ始める。

 部屋の中は入り組んでいたのだろうか、出口に近づき、光源が漏れ出した部屋から、まるで何事もなかったかのように、“ジェット=キャットキットが現れた”。


「……は?」

「お前たちか。良かった、お互い無事だったみたいだな」


 乾きかけの髪をかき上げながら、現れたジェットはこちらの顔を見ると、安堵したような表情を浮かべた。

 そこまで強く心配していたわけでもなかったが、彼もあの激流を無事に乗り切ったらしい。


「どうした? ん? ……他の魔導士たちは見つかっていないのか?」


 じっとしている自分たちの様子を窺うジェットは、自分たちが見ているものが見えていなかった。


 彼とも行動を共にしていなかったフェッチとケディアの安否はどうなのか。

 彼は今、このずらりと並ぶ部屋の中で何をしていたのか。

 そもそもこの部屋は何か。

 気になることは山ほどある。


 だが今、自分たちの眼前にあるのは、そんな問題が頭の外に放り出される光景だった。


「……、」


 こちらの視線に気づいたジェットは、鋭い目つきをさらに強めた。

 自然と仕込みトンファーを取り出し、ゆっくりと振り返る。


 川の下流の先。

 洞窟の壁が光っている。だがそれは、反射ではなかった。


 暗がりの洞窟の中、光は徐々に広がり、色濃くなっていく。

 次の瞬間、幻想的なことが起きた。


 音もなく。振動もなく。光に染め上げられた壁が溶けるように消失した。

 まるで最初からそこに岩壁などなかったように、巨大な洞穴が生み出される。


 そして、その洞穴から、それは現れた。


「……っ」


 自然と声を殺した。同時、目を疑った。


 穴から出たそれは、ゆったりとした動作でこちらへ向かってくる。

 その巨体で悠々と風を切り、どういう理屈か宙を浮いているようで、川をまるで地面のように踏みしめて歩く―――“オレンジに輝く巨獣”。


 貌や形状、たなびく鬣から、形状はライオンのように見えるが、その体毛は洞窟内では不自然なほど、汚れひとつ無い純白だった。


 全長は測れないが、4足歩行の背が遠目からでも天井に付きそうだ。

 だが、窮屈には見えない。


 威風堂々と歩くそれは、川に沈み飛び出た岩石も、天井から生えた鍾乳石も、己の進む道の障害を気にもしていないようだった。

 数多の障害物が、その獣の身体に触れるだけで、先ほどの壁のように、最初から存在しなかったように消失する。


 “道そのものを作りながら歩いていた”。


 心臓がまた早鐘のようになる。

 異質なものからは目が離せない。だが、ここでぼんやりと見ている場合ではないと、頭の片隅に残った冷静な自分が怒鳴りつけてきた。


「……―――中へ入れ」


 ジェットが声を潜めて、自分が出てきた部屋へいざなった。

 アキラたちは息を殺してそれに続く。


 オレンジの獣はこちらに気づいていないのだろうか。

 暗がりで、銀の光を纏っていたのだ。目視は出来ているだろう。

 だが、意識を向けられたという感覚は無かった。


「声は出すなよ」


 かすれ声のような小さな声で、ジェットは誰もが守っていることを、念を押すように言った。

 洞窟という名の部屋に入ると、いきなりほぼ直角に通路が曲がった。

 何度か曲がっていくと、硝煙のような匂いに混ざって鼻を突く異臭がする。

 臭いからして、この部屋のような小さな洞窟は、やはり、魔物の巣だったのだろう。


 曲がりくねった通路を進み、最後の角を曲がると、一辺数メートル程度の四角い小部屋に到着する。

 何かを形作っていたと思われる石がそこらに散乱し、部屋の中央の地面は、白く焦げた、真新しい、砕かれた跡があった。

 この痕跡は、恐らく戦闘不能の爆発だろう。


「……」


 誰もが沈黙し、外の様子を探る。

 寒いはずの洞窟内。マリスの魔法によって多少は調整されてはいるが、額に浮かんだ汗は気温のせいではなさそうだ。


「!」


 アキラは部屋の入り口脇の壁に、窓のような穴を見つけた。

 ぼんやりと、オレンジの光が灯っている。

 見れば見るほど背筋が寒くなるそれは、先ほどの獣が纏っていたものに感じた。


 息を殺してからどれほどの時間が経ったのか、睨みながらそれを見ていると、光は徐々に弱くなり、次第に消えていった。


「……行った、ってことでいいのか?」


 たまらず声が漏れた。

 シャロッテも九死に一生を得たように、息の塊を吐き出す。

 ジェットだと思ったオレンジの光の主の姿は、この場にいる全員が見ているだろう。


「さあな。だが、来るつもりならとっくにこの穴に入ってきてる頃だろう」


 ジェットは鋭い目つきをアキラが見ていた窓のような穴から、なんとも頼りない入口に向けた。

 曲がりくねってはいたものの、それぞれの壁は薄く、アキラですら自力で破壊できるだろう。


「ジェット。お前、“あれ”が何なのか分かるのか?」

「いや、知らない。……が、“ここにいた奴らが言っていた”、気がする。知らない言葉も混ざっていたが、騒ぎを起こすならすぐに出て行け、と言っていたような……」

「……?」


 理解が遅れた。ジェットもそれに気づいたのか、整理するように頭を押さえた。


「俺はこの近くに流されてな。出口を目指して歩いていたら、この妙な場所に辿り着いたんだ。洞窟内で、明らかに加工された、いくつも洞穴が開いている……魔物の巣に」


 やはりここは魔物の巣らしい。

 そしてジェットの言葉から、“何”がここにいたのかも想像できた。


「……“言葉持ち”がここにいたのか」

「ああ。正確にはその群れだ。すべて討伐した、とは思うが」


 ジェットは深刻な表情で頷いた。

 つまりこの男は、ここで複数の“言葉持ち”と戦闘を行っていたということか。


「二足歩行の、シーフゴブリンみたいな小型の魔物だった。数はかなり少なかったがな。大方、さっきの激流で大半が被害を受けたんだろう」


 事態が事態だけに神妙な顔つきをしているが、ジェットは、“そのこと自体”は事も無げに話していた。

 アキラも旅の道中、“言葉持ち”には遭遇している。

 その戦闘能力は、決して涼しい顔をして話せる相手ではなかった。


「下手に持ち上げるなよ。ここにいたのはどちらかと言うと、知性が高く、生存することを目的としていたような魔物たちだった。水害もプラスになった。ほとんど奇襲だったからな」

「は、はあ」


 ジェットはそう言うが、相当な戦闘力を感じさせた。

 アキラは同意を求めるようにマリスを見ると、彼女も深刻な表情を浮かべている。

 だが、アキラの視線に気づくと、その意味に気づいたのか、ふるふると首を振った。


「にーさん。稀にっすけど、こういう、魔物のコミュニティみたいなものが出来上がることがあるんすよ。魔物の巣と言えば巣なんすけど、“言葉持ち”でも下手に知性を持ったせいで、生活することを目的とする魔物たちの群れってだけではあるんす。“単純な戦闘力”なら知性の低い魔物の巣の方がずっと危険だったりする」


 つまりは外観からアキラが想像した通り、ここは魔物の巣、というより住居だったのかもしれない。

 過去、“言葉持ち”は“知恵持ち”と比べ、高い知能の代わりに、獰猛な本能が抑えられているというようなことを聞いた覚えがある。

 ここにいた魔物たちは、アキラが遭遇した“言葉持ち”よりも一層そうした本能が抑えられ、より人間のような知性のある存在に近かったのだろう。

 それでも凄いことではあるが、ジェットがそれほど偉ぶっていないのも、戦闘力という意味においては低い“言葉持ち”の群れだったようだ。

 そう考えると、この洞窟の奥でつつましく暮らしていたはずなのに、突然川が暴れて生活がめちゃくちゃになり、ジェットに根絶やしにされた魔物たちが不憫に思えてきた。


「でも、ジェットさん。魔導士として、よく討伐してくれました、って言った方がいいっすよね。見逃していたと思うとぞっとする」

「自分の身を守った結果だ。別にいい」


 そんなアキラの心情は、ふたりの様子を見るに的外れのような気がしてきた。

 胸を撫で下ろすマリスの様子は、事態の深刻さを語っているような気がした。

 マリスは、当然アキラが話についてきていないのを察しているらしく、小さい声のまま部屋のような空間を見渡した。


「“言葉持ち”の巣……つまり集団。戦闘力はともあれ、“存在しているだけで”魔導士隊の最警戒対象なんすよ。下手をすれば、単独行動する魔族なんかよりも」

「は?」

「ここを見るに、知性は相当高かったみたいっすね。そんな魔物の集団が、生活をし、数を増やし、計画的に行動する。戦闘力が低いと言っても、“言葉持ち”は並みの魔術師よりはずっと強いし獰猛っす。例えば1度でも町や村を制圧されれば、人間が取り返すのに10年20年はかかるかもしれない、いや、取り返せないかもしれない」

「……」

「そんな風にして生活圏を広げ続けられたら、もう手が付けられない。だから、小さいうちに潰さないと、人間界の支配者になりかねないんすよ」


 マリスが言っているのは、目先の戦闘などというミクロなものではなく、マクロな視点、ということだろう。

 人間が強いのは、力があり、賢く、数が多い動物だからだ。

 つまり人類より獰猛で、力があり、賢い集団が生まれ、規模が拡大されていくと、長期的には人類が根絶やしにされる可能性があるということだろうか。

 にわかには信じがたいが、少なくとも魔導士隊の中ではそう考えられているらしい。


 アキラは改めて背筋を震わせた。

 となると、“魔族の集団”ともなれば、人類にとってより一層致命的な存在とも言える。


「そろそろ目先の話をした方がいいだろうな。俺が来たとき、“その賢い集団”は、お前が騒ぎを起こしたのか、すぐに出ていけ、って感じで、相当な慌てぶりだった」


 ジェットの方は、その“言葉持ち”の集団を見逃すわけにはいかなかったのだろうが、“言葉持ち”の方は、自分たちの生活をめちゃくちゃにしたジェットを前に、構っている場合ではないと言わんばかりの態度だったらしい。

 その理由は、おおよそ分かった。


 先ほどアキラが見ていた窓のような穴は恐らく、この部屋に閉じこもりながら外の様子を探るためのものだ。

 穴の中は入口のように屈折しているのだろうが、鏡でも仕込んでいるのか、外の光がぼんやりと視認できる。

 ただそれだけの仕組みだ。


 “言葉持ち”の方は備えがあったのかもしれないが、自然な光源などない洞窟の中、獰猛で賢い集団が、外の光を気にする理由。

 いや、“その色”を気にする理由。


「つまりこの洞窟には“何か”がいる。嫌な予感はしていたが、あれだろうな。流石に外に出たら早速出くわすとは思っていなかった。今思えばこの部屋にいた“言葉持ち”も、その窓みたいな穴をしきりに気にしていたようだった」

「……オレロトン」


 シャロッテが、声を絞り出した。

 額に皺をよせ、考え続けていたのか憔悴した様子の彼女は、ごくりと喉を鳴らした。


「シャロッテ。さっきの魔物のことか? 知っているのか?」

「……い、え。知っている、というのは、違うかもしれません」


 シャロッテの知識でも先ほどの魔物のことは分からないらしい。

 それならばとマリスに視線を向けると、彼女はシャロッテをじっと見ていた。


「マリスは知っているか?」

「いや、知らないんすよ」

「は? マリスがか?」


 つい言ってしまうと、マリスはむくれたような表情を浮かべた。

 マリスが知らないことなどこの世に存在していないと思っていたが、こうなると、いよいよ『智の賢帝』シャロッテ=ヴィンテージの知識頼りになる。


「シャロッテさん。あの魔物、オレロトン、っていうんすか? ……シャロッテさん?」

「……マリサス嬢が知らないのも無理はありません。私も半信半疑です。肉食獣のような巨大な体躯に白い体毛。……“子供の絵本に登場する魔物”ですから」


 珍しいものを見た。

 シャロッテの言葉に、マリスの半分閉じた眼が点になったような気がした。

 もしかしたらアキラも同じ表情を浮かべているかもしれない。


「何を言っているんだ?」

「わ、私だって変なことを言っていると自覚しています。でも、私が知る限り、類似する魔物が他にいなかったんですよ。子供のときにマ……、母に読んでもらった本に出てきたんです」


 シャロッテは少しでも情報を絞り出そうとした結果、子供のときの記憶まで掘り返す羽目になっていたらしい。

 それを覚えているとは流石に聡明だが、そこまで記憶を深堀した結果随分と消耗している。

 だがその対価を払い、手にしたのは絵本の内容らしい。


「なあシャロッテ。きっと疲れているんだよ。俺が何とかするから、ここでしばらく休んでいてくれ」

「ちょ、あの。名誉のために言っておきますが、ふざけているわけではありませんよ?」


 労わったつもりだが、気に障ったらしい。

 シャロッテは大きな瞳に力を籠めて睨み返してきた。改めて正面から見ると、背伸びをしている子供のような表情だった。


「ヴィンテージ家の当主は代々世界中の逸話のコレクターです。家にあった絵本も祖父が集めたものでした。それに登場する魔物ということは、ある程度は元になった魔物がいたはずです」


 思ったよりは説得力のある推察をしていたらしい。

 つまり、ヴィンテージ家にあった絵本に登場したオレロトンという魔物の元ネタは、先ほど見たあの魔物の可能性がある。

 マリスも知らなかった魔物ということは、魔導士隊ですら確認できていない新種だろう。


 だがそれでも、情報の精度はあまり期待できない。

 マリスもどうしたものかと考えており、助けを求めるようにジェットに視線を送ると、意外にも彼は真剣にシャロッテを見据えていた。


「ジェット。お前はどう思う。その絵本を知っているのか?」

「……いや。知らない、と思う。だが、絵本、か。無い話じゃない」


 ジェットの方はシャロッテの話に信憑性を感じているらしい。

 ヨーテンガースの文化か何かだろうか。

 となるとシャロッテの話を真剣に聞いた方がいいかもしれない。


 なにしろ。

 あの魔物はこの場にいた“言葉持ち”たちが警戒した、“日輪属性の魔物”なのだから。


「シャロッテ。その絵本だと、オレロトンって魔物はどんな魔物なんだ」

「絵本自体、魔物の内容というわけではありませんでしたが……。確か。『地底の王様』。そんな風なタイトルだったような気がします」


 シャロッテは記憶の奥の奥を掘り進めるように、眉間にしわを寄せていた。


「むかしむかし、勇敢な者が、山で悪さをしていた白い巨獣を懲らしめました。なんて始まり方だったような。……でもそれから、近くの村や町で地震が頻発するようになり、主人公たちは再びその地を訪れます。主人公たちとの戦いから逃げのびた獣は、日の当たる地上ではなく、地中を掘り進み、いつしか地下に、巨大な王国を作り上げ、復讐を企てていました。しかし地中を掘っていたせいで地震が起こり、企みがばれてしまいます。主人公はその巨大な王国へ挑み、配下を破り、見事地底の王、オレロトンを討伐したのです。……みたいな、そんな感じの話だったと思います」


 絵本の表現は全体的にもっと子供っぽいのかもしれないが、話の概要は分かった。

 要は、討伐から逃れた魔物が地中でまた力を蓄えようとしたところで、主人公たちが苦難の末に再び討伐するという話なのだろう。

 どこでも悪事はばれるというものと、先ほどの“言葉持ち”の集団を見過ごしてはならないという教訓にもなっているのかもしれない。


 絵本の話だ。そもそもあの魔物がそのオレロトンの元になっていると決まったわけでもないし、仮に真実が含まれていたとして、どこまでが本当で、どこまでが脚色された部分なのか分からない。


 だが。


「もしそれに真実が含まれているとしたら、気になるのはまさにタイトルだな。『地底の王様』……“地中を掘り進む”魔物。規模からして、“地中に巨大な空間を作れる”魔物と言った方がいいかもしれないが」

「でも、討伐されたんだろ?」

「別の個体かもしれないし、そもそも絵本だろ。“討伐されたこと”が脚色されたものかもしれない」


 無くはない話ではある。

 討伐したこと自体まるっきり嘘か、オレロトンはまた逃げ出したのかもしれない。

 あの獣はオレロトンではないかもしれないが、それを否定する材料もなかった。


 今思うと、あの獣は、まさに王様のように、洞窟の中を悠々と歩いていただけに見える。

 自分が作った空洞に巣くう魔物を、まるで臣下を労うように見回っていただけなのかもしれない。少なくともここの“言葉持ち”は、こんな窓のような仕掛けまで作って、遭遇しないようにしていたようだが。


 アキラは苦笑した。感情移入する相手ではない。

 そもそもの話、シャロッテの幼い頃の記憶頼りである上、元の情報が絵本だ。

 真剣に深く考察しても不毛だろう。


 だが、その絵本のニュアンスだけをもとに考えると、この洞窟自体、オレロトンが掘り進んだものかもしれない。

 この洞窟の全部がそうではないだろうが、“地中を掘り進む魔物”というのはあり得る話だ。


 洞窟というのは土を掘っていけば生まれるものではないということはアキラも分かる。

 詳しくは知らないが、通常何らかの自然現象で生まれるものだ。


 洞窟を掘るという行為はかなり困難だ。同じ距離、空を飛ぶより地下へ進む方が何倍も労力がかかる。

 そもそも掘ること自体の労力もそうだが、掘れば掘るほど、掘り進めた石や土を外に出さなければ物理的に空間は生まれない。

 オレロトンの身体はそれなりに大きかったが、洞窟を掘るという大仕事からすればアキラたちと大して変わらない。つまりは不可能だ。


 だが、それをあり得る話と感じてしまう理由がある。

 あの獣は、不可能を可能にする色を宿していたのだ。


 事実、アキラの見間違いでなければ、あの魔物は身体に触れた障害を消失させていた。

 出現したときは壁を掘り進んでいるようにも見えた。

 あの魔物自身に掘り進んでいるという自覚があるかは不明だが、歩くだけで壁だろうが地中だろうが“道”を作れる能力を持っているのかもしれない。


「仮に。あの獣がシャロッテの言う通りオレロトンって魔物で、地中を掘り進められるとしてもだ」


 絵本の内容を詳細に分析することと、日輪属性の謎を追うこと。

 そのどちらも、それこそ不可能である。

 アキラは過程を置いて、マリスを見た。

 今はやるべきことを定め必要がある。


「マリス。流石の俺でも分かるけど、あれはやすやすと手を出していい相手じゃないよな?」

「……そうっすね」


 マリスも同意見らしい。

 彼女もオレロトンと思われる魔物のことを知らないと言っていた。魔導士隊も存在を確認していない、世界でただ1体の異常種かもしれない。


 日輪属性の魔物。

 世界中を回ったアキラですら、そんな異常事態にはほとんど出くわしていない。

 だが、それでも分かる。日輪属性の魔物は、倒せる倒せないの問題ではないのだ。


 思い起こせるのは、モルオールで遭遇した『沈まぬ太陽』。

 あのときも、戦闘力とは別の軸の異変が起こった。


  “何が起こるか分からない”のが、日輪属性の最大の問題だ。

 下手に手を出して起こる“何か”は、同じ日輪属性のアキラやジェットでも対処しきれない可能性がある。


 いずれは討伐しなければならない相手だろう。だが、今優先すべきは、逸れたフェッチとケディアを探し、この洞窟から脱出することだ。

 マリスたちに言わせれば、最優先は自分たちだけでも脱出し、準備を整えてからの捜索が正解だろうが、どの道、自分たちだけで“あれ”を相手にするのは避けるべきである。


 先ほどのように戦闘音でも聞こえれば、アキラは自分を抑える自信がないが、今のところ洞窟内は静寂に包まれていた。

 もしかしたら、オレロトンというこの洞窟の王が闊歩し、他の魔物も息を殺しているのかもしれない。

 洞窟内で逸れたフェッチとケディアがあれに出くわしてしまったらと考えると身体が震えるが、ここにいたらしい“言葉持ち”や、自分たちがやり過ごせているのだ。魔導士の彼らならより上手く対処できるであろう。


 自分の勝手な行動に、散々迷惑をかけていたのだ。彼女たちの主張通り、やはり今はこの洞窟から無事に出ることを優先すべきだろう。


 問題は、このままオレロトンに遭遇せずに外に出られるかである。

 しばらくこの部屋でフェッチたちの無事を祈りながら、様子を見ていた方がいいかもしれない。


「ま、待ってください。地中を進む……、トッグスライム……、まさか、ですが」


 シャロッテの震えた声に、マリスの表情が曇ったのを見逃さなかった。

 オレロトンと思われる獣を見てから、未だに収まらない動機が、思考の邪魔をしていたのかもしれない。

 嫌な予感は、未だに頭の中に残っている。


「シャロッテ? どうした」

「……」


 シャロッテはアキラの顔を見て、口を結んだ。

 だが、観念したように、息を吐いた。重い、息だった。


「……トッグスライム。ファクトルの魔物が何故ここにいたのか。私はそればかりをずっと考えていました。“あれ”が近いからか、何かがかみ合って発生した、とも考えましたが、それだけが理由なら同じような場所だらけになって、この周囲はファクトルそのものになっています」


 “あれ“とは。

 フェッチも何かを危惧するようなことを言っていた。そのことだろうか。

 だが、シャロッテの本題はそこではない。


「距離はまだかなりあるはずですが、ここはヨーテンガースの“生きている大地”の最南部と言ってもいいです。その距離を、“オレロトンが掘り進められたとしたら”? 地下の道がずっと続いているとしたら? あの川が流れつく先は……ファクトルなのかもしれません」

「……」


 ぞっとした。

 アキラが呑気に歩いていた川下が、“禁忌の地”に繋がっている可能性がある。

 万全の準備を整えてもまるで届かないあの領域に、不用意に飛び込んだら何が起こるかなど子供でも分かる。

 ヨーテンガースは“そういうこと”が起こるから、脱出を最優先に考えるのが正しいのかもしれない。

 シャロッテも、自分が裸になって服を乾かしていたのが地獄の入口だった可能性があることに震え始めているようだった。


「なら、やっぱマリスたちが言ってた通り急いで出るべきだったのか。魔導士隊に連絡して、この洞窟を封鎖しないととんでもないことになる。それともいっそ、俺たちで崩してから脱出するか?」

「それは止めた方がいいだろうな。危険は危険だが、さっきの入口付近まで来ていたトッグスライムたちの例もある。専門家が改めて調査しないと、“すでに洞窟の外に出てしまった”ファクトルの魔物がいるかもしれないのに、種類も足取りも追えなくなる。……俺も、戦闘は控えた方がよかったか」


 ジェットも事の深刻さが分かったのか、洞窟が崩れる危険があった戦闘をしたのを後悔しているようだった。

 “言葉持ち”の群れは長期的には恐ろしく危険らしいが、それ以上に、ファクトルとの直通ルートなど目の前に存在する明確な危機だ。


 その上この場所は、やや離れているとはいえドラクラスの経由ポイントに近い。

 移動後、ドラクラスではまた周囲の哨戒やら討伐やらの依頼が数多く出るだろう。そんな中に、突発的にファクトルの魔物など現れたらどうなるか。


「……?」


 そこで、アキラの脳裏に何かが掠めた。

 ゆっくり顔を上げると、ジェットも同じような表情を浮かべている。

 何かが引っかかる。


 マリスとシャロッテを見て、アキラは、この嫌な予感が正しいと確信した。

 彼女たちは、何か口ごもっているようだった。

 ファクトルへ続いているかもしれないこの洞窟、最早地下通路だが、それ以外にも気になることがあるように見える。

 ぼんやりと、アキラにも分かった気がした。


「マリス。シャロッテ。まさか、なんだが」


 悪寒を抱きながらも、目の前に答えがあるような、怖いもの見たさの感覚を味わう。


「……そうだな。オレロトンは、地中をどれくらいの速度で掘れるんだ?」


 ジェットも同じことを思いついたのかもしれない。

 オレロトンが地中を掘る速度。

 それ次第では、今目の前に大きな問題が発生する。


「ドラクラスの経由ポイント。“今現在の地盤の調査”は済んでいるだろうが、ここからだと、“ファクトルなんかよりずっと近いぞ”」


 最初の哨戒を思い出す。

 アキラは見る機会がなかったが、あのときも、樹海の中、モグラのような地中を進む魔物がいたことは大きな問題になったらしい。


「“オレロトンがドラクラスの地中を掘る可能性がある”。さっき見たように、進むだけで掘り進められるなら……、もうドラクラスは出発しているんだよな?」


 ドラクラスがいくら堅牢でも、地面が沈んだらどうしようもない。


 この洞窟は、影響が薄いとみられる調査エリア外だが、地下にここまでの空間を作り出す魔物がいるとなると話は違う。

 ましてや日輪属性だ。何をしても影響がない距離、なんて言い訳は何の防波堤にもならない。


 もし、あのオレロトンが、ドラクラス方面へ“進んでいったら”、地盤がガタガタだ。

 ドラクラスがどれほど丈夫なのかは知らないが、もし横転したら何が起こるか。ドラクラスに住む者たちが、千人単位で命を落とす。

 そしてその中には。


「……」


 アキラは皆の顔を見渡した。

 この面々ならいっそ、と考え、アキラは首を振った。

 失敗すれば被害は甚大だ。先ほどのように自分勝手に行動することは許されない。

 アキラは歯を食いしばった。


「……経由ポイントに向かわれたら一発アウトかもしれない。最低限でも、注意を引くことは出来そうか?」


 たまたまオレロトンがこの辺りに残り続けてくれるならばいいが、魔物の気分次第だ。数千人の命を賭けるギャンブルをすることはできない。

 下手をすればドラクラスが接近してくる振動にでも反応し、“様子を見に行ってしまうかもしれない”。

 先ほどここを通ったのも、トッグスライムの爆発に反応したからと考えると、あり得る話だ。


 過程に過程を重ねている推測だが、当たっていた場合、失うものが大き過ぎる。

 そして、往々にして、日輪属性がいる場合、そうした最悪の仮説は当たってしまう。


「誘導するにしても、魔導士隊への連絡は必須になる。俺たちが誘導に失敗したら後がない」


 ジェットの意見にはアキラも賛成できた。

 展開によってはオロトンがドラクラスの経由ポイントの地下を掘ってしまうかもしれない。

 魔導士隊の手配で、最悪ドラクラスの移動を中断できるようにしなければ大惨事だ。


 ただ、いずれにせよ、決まっていることがある。


「どの道ここで時間を潰している場合じゃないな。さっきアキラも言っていたが、ドラクラスはすでに移動中。もうかなり近くまで来ているだろう。悠長にしている時間は無い」


 ドラクラスの移動がこの依頼中に始まるのは、移動日を秘匿にしているからだ。

 そもそもこの依頼はただの念押しで、調査エリアはすでに制圧済みである。

 この依頼が出た時点で感づいた者もいるほどなのだから、この依頼の完全完了を待つことはしていない。

 魔族を警戒して、スケジュールを詰めたのが、ここにきて足を引っ張っている。

 誰もが、まさか最終日の大詰めで、こんな離れた場所から、ドラクラスの移動先を脅かす存在が発見されるとは思っていなかっただろう。


 オレロトンの誘導。魔導士隊への通報。

 どちらをするにしても、自分たちはこの部屋に閉じこもっている場合ではなく、出口、つまりは、“先ほどオレロトンが向かっていった方向”へ向かうことになる。


 そして道中オレロトンと遭遇してしまえば、ただ出口へ逃げるというわけにもいかない。

 オレロトンが追ってきてしまう可能性がある。

 洞窟内の方向感覚はとっくに無いが、自分たちは川に流されてここまで来た。

 この洞窟の地下水の川は大運河が流れ込んでいると聞いた気がする。つまり川を上れば、そちらの方がドラクラスの経由地方面のはずだ。


 ならば、とまた考え、やはり抑え込んだ。

 中途半端が一番まずい。オレロトンの誘導と魔導士隊への連絡に的を絞って、安全策を取る必要がある。

 今考えるべきは、オレロトンとの遭遇時、どうやり過ごす方法だろう。

 遭遇したら誘導役と連絡役で二手に分かれることを考えておいた方がいいだろう。

 ただでさえ少ない戦力で別れるとなると、やはり頭に浮かんだことは無謀過ぎる。


「じゃあ……」


 アキラは青い顔をしているシャロッテを見た。


 結果がどうなるにせよ、この部屋から出てオレロトンの方へ進むことになる。はっきり言って、自分たちはとてつもなく危険なことをしようとしている。

 未知の日輪属性の魔物。

 身の安全を考えるなら、オレロトンがドラクラス方面へ向かわない可能性に賭け、この場所で救援を待つことが最善だ。

 シャロッテは完全に被害者だ。これ以上付き合わせるわけにもいかない。


 そんなアキラの視線に気づいたのか、シャロッテは、青い顔のまま、笑った。


「舐めないでもらえますか」


 今は子供のような風貌なのに、シャロッテが大きく見えた。


「そ、そもそも一番オロトンを知っているのは私のようです。ち、『智の賢帝』シャロッテ=ヴィンテージの助力なく行動するのは、それこそ無謀でしょう」


 それでも、やせ我慢をしていることは分かった。

 身体は震え、唇まで真っ青に染まっている。


 アキラもとてつもない恐怖を感じている。

 未知の日輪属性。ファクトルに繋がっているかもしれない洞窟。

 すでに、“オロトンですら問題にならない魔物”が生息している可能性すらある。

 頭からは嫌な予感が離れない。

 シャロッテは、そんなアキラの直感などとは違い、もっと具体的な危険をリアルに想定できているだろう。


 だが今のシャロッテのそれは、きっと自分が周りに強いてきてしまっているものなのかもしれなかった。

 張った虚勢に付き合わないのは、野暮というものなのかもしれない。


「……頼む。力貸してくれ」

「ふ、お、お任せください。ここまで来たら、腹くくるしかない」


 シャロッテをぐっと力を込めて拳を握った。

 これ以上、彼女に言えることは何もない。あとはアキラの問題だ。

 その意志に、報いることができるのか。


「まずは川を上っていこう。オレロトンに遭遇したら、まずは川下へ誘導する。その間に誰か上手く抜けて、すぐに魔導士隊へ連絡だ」

「それなら俺は誘導役になろうか。役割は最初に決めておいた方がいいだろう」

「……分かった。ならマリス、シャロッテ。連絡は任せた。俺とジェットで引き付ける」


 何の抵抗もなく危険な役割を請け負うジェットには戦慄したが、ジェットが言わなければ自分がやろうと思っていた。

 日輪属性の魔物だ。何が起こるか分からない以上、日輪属性が相手をした方がまだ安全だろう。

 だが、役割が決まったことで、ますます制約が強くなる。


「くれぐれも、……“オレロトンを倒すなよ”。マリスがいなきゃ、洞窟が崩れたら終わりだ」

「それはむしろお前に言いたいことだがな」


 ジェットが呆れたようにアキラを見ていた。彼も分かってくれている。

 マリスと別行動になるとすると、状況によっては洞窟を支えることが出来ないかもしれない。


 となればこちらの誘導方法もかなり厳しいものになるだろう。

 オレロトンの戦闘力は未知数だが、それゆえに、蓄えている魔力も不明。

 だが、この洞窟が本当にファクトルに繋がっているとしたら、悠々と歩いていたオレロトンもファクトルクラス、あるいはそれ以上の力を持つ可能性もある。

 戦闘不能の爆発の規模すらまるで分らない。


 ゆえに、危険ということだけが分かっている、未知数の敵を前に、こちらは強力な攻撃を封じられたまま誘導することになる。


「……行くか」


 無理難題のように思えるが、やるしかない。

 方針は決まった。時間が惜しい。


 それでいいかとマリスを見ると、彼女は、じっとこちらを見てきていた。

 相変わらずの無表情。

 一瞬怒っているのかと思ったが、彼女の顔からは、やはり、何も感じない。


 彼女は、大きく息を吸って、吐き出した。それでも、シャロッテとは違い、その息は、ただの呼吸だったように、重くは感じない。

 次にこちらを向いた半分閉じた眼を見て、アキラは、自分の悪寒が晴れたような気がした。


「もういいっすよ、にーさん」


 マリスの声は、静かで、耳にも残らない。

 何の変哲もない声色だった。

 しかし、時間が惜しい中、それでも時が止まったような感覚がした。

 彼女といると、どれだけの恐怖を前にしても、いつも、すっと焦りが収まっていく。


「自分としては極力避けたかったんすけど、やっぱりにーさんは、みんなの危険の“種”を自分で摘みたいんすよね」


 彼女もシャロッテ同様、オレロトンがドラクラスにとって危険な存在である可能性には気づいていただろう。

 気づいてしまったのなら仕方ないというように、マリスは僅かにほほ笑んだ。

 アキラが考えそうなことまで彼女は予想していたのだろう。


「シャロッテさんじゃないっすけど、自分も決めた。だから、もういいっすよ。大丈夫」

「な、何が」


 いつも通りの、のんびりとした声。


「にーさんがやりたいようにしていいってことっすよ。連絡とか報告とかもそうだろうけど、あんな異常をやり過ごすなんてこと、きっと苦手なんすよね」


 当然のようにそこにあり、当然のように異常を起こす彼女は、言った。

 顔に出ていただのだろう。彼女はアキラの願いを見透かしているようだった。


「ここには―――“マリサス=アーティがいる”。だから、にーさんの願いはどんなことでも叶えられる」


 自分はいつの間にか、魔人のランプを擦っていたらしい。


 足止め。連絡。そして人任せ。

 自分が引き寄せておいて、正直なところそんなことはしたくなかった。

 だが賭かっているものが大き過ぎて、より一層安全な方法があるなら、それを選ばざるを得ない。


 それでも。

 どれほど危険で、アキラが最も嫌う、犠牲を払いかねないことでも、彼女が大丈夫と言うだけで、それは危険でもギャンブルでも何でもない。


「……やっぱ無しだ。最速で元凶を取り除こうか。……ころころ意見変えて悪いけど」


 自然と、願いが口から出た。


「―――オレロトンを討伐する。協力してくれるか」


 マリスは、当たり前のようにそこにいて。


「了解っす」


 本当になんてことはないように、いつものような無表情で、こくりと頷いた。


「分かりやすくなったな。どの道急いだ方がいいのは変わらない。行こうか」


 ジェットはちらりと先ほどの窓を見て光が漏れてこないことを確認すると、力強い足取りで外へ向かった。

 ジェットも、どれだけ危険なことでも、すんなりと受け入れるものだ。

 アキラが心の中で強く謝っている、震えながら改めて拳を握るシャロッテとは違い、表情ひとつ変わらない。


 アキラも倣って窓を確認しながらジェットに続く。

 彼の大きな背を追いながら、アキラはふと思う。


 ジェット=キャットキット。

 アキラと同じ、日輪属性。

 詳しくは聞いていないが、大枠としては“勇者様”と世界から認識されるその属性を宿しているのに、彼はあくまで元旅の魔術師であり、今はドラクラス警護団に勤めている。


 彼にも事情はあるのだろうが、日輪属性が日常を送ることはできるのだろうか。

 芽吹かせた事件で周囲を傷つけかねない日輪属性に、そんな日常があるのだろうか。

 あるいは異常な日常を乗り越える術があるのだろうか。


 そんな救いが本当に、あるのだろうか。


 漠然とそんなことを思うと、やはり彼の単独行動は、傷つけかねない周囲から距離を取るためのようにも見えてくる。

 この洞窟の事件は、自分か彼か、あるいはその両方が芽吹かせたものだろう。

 だからオレロトンの誘導だろうが討伐だろうが、危険なことを躊躇なく受け入れられるのかもしれない。


 そうだとすると、それはアキラと同じだった。

 自分のように、内心震えているかどうかは分からないが、果たすべき義務と捉えているのかもしれない。


 だが、そんな重圧を、アキラは今ほとんど感じていない。

 無責任のようで、良くないことだと思いながらも、本来の自分が、仕方ないことだと言い訳をした。


  “数千年にひとりの天才”は、ただの散歩のように、とぼとぼと後ろに続いてくる。


 その言い訳には、はっきりとした理由があるのだ。


―――***―――


「……急がないとまずいな」


 先行するジェットが珍しく、焦ったような声を出した。

 普段から落ち着いている彼だが、それを意外に思う者はここには誰もいない。


 他の面々は、彼以上にずっと焦りを覚えていた。


 アキラたちは、“言葉持ち”の巣だった穴から出て、ひたすらに川の脇の道を歩き続けていた。

 自分たちは想像以上に流されていたらしく、未だにトッグスライムたちと戦った場所まで戻れていない。

 地形は勿論覚えていないが、川上にあるはずの元の場所は少なくともトッグスライムが塞ぎ、大爆発やら激流で吹き飛んだ大穴があるはずだ。


 問題なのは、その長い道中、見つかった別の痕跡。いや、見つかり続けている痕跡だった。


「……今度はよろめいた? 何かを避けた? なら速度はそれほど……、いえ、駆けた跡もありますね」


 シャロッテが真剣な表情で、岩壁の窪みを見つめていた。


 ここまでの道中、オレロトンの“痕跡”をアキラ自身、何度も見てきている。

 魔物の習性を読み解くというのは専門家の知識が必要らしいが、こんなものはアキラでも分かる。


 オレロトンが通ったと思われる場所は、まさしく“道”が出来ていた。

 曲がりくねっていたと思われる道の角はまっすぐに消え去り、低かったと思われる天井は削り取られ、狭かったと思われる穴は巨獣のサイズにくり抜かれていた。


 ここまで歩いてきたアキラたちにしてみれば、あの巨獣が丁度通れるほどの道が出来ていたのだ、かなり助かったのだが、今目指しているのはその道を作った怪物である。


 ここまでの道中、特に大きな音は聞こえなかった。攻撃によって開いた道ではない。

 一瞬だけ見たオレロトンの姿を思い起こすと、あの魔物自身、“ただ進んでいるだけ”なのだろう。

 今シャロッテが見ている窪みも、オレロトンの身体が“当たってしまった”から出来上がったらしい。


 オレロトンがどれほど長くこの場所にいたのかは知らないが、あの魔物の“散歩”で、幾度も道が削られて、徐々に広まっていったのがこの洞窟なのかもしれない。


 音もなく、洞窟の岩を、“触れるだけで消失させている”。


「大分急いでいたつもりだが、いつまで経っても追いつかない。この痕跡を見るに、悠々と歩いているだけじゃないみたいだな」


 ジェットの言う通り、いつ出くわすかと冷や冷やしていたが、一向に追いつけない。しかし、オレロトンが作り出した道の中、その痕跡に、焦燥感だけが増していく。


「溶かしている……? でも熱は? 残骸は? ……く。考えろ……、考えなさい、シャロッテ。いったいどういう魔術なら……。この私が分からないなんてこと、許されないでしょう……」


 シャロッテが必死になっているが、アキラは期待していなかった。

 彼女を侮っているわけではない。むしろその知識には尊敬している。

 それゆえに確信できる。オレロトンは、シャロッテが辿り着けない答え、つまりは、非論理の力を有している。


 掘り進んでいるらしいのに、砕かれた岩の残骸すら残っていない。

 それはつまり、アキラが考えた洞窟を掘る上で労力がかなりかかる、掘った土を運び出すことを必要としていないということになる。


 日輪属性。非論理の領域。

 それを前に、考えるべきことは、何故起こせるかではない。

 何をしているかだ。


 答えは目の前にある。

 オレロトンは、やすやすと地中に道を作る。


「マリス。飛んでいけるか?」

「……奇襲は諦めるか」


 アキラが言うと、ジェットは肩を落とした。

 慎重に歩いて接近したのは、不意打ちすることを期待してのものだった。

 もしオレロトンが歩き続けていたと仮定すれば、こちらは後ろから迫ることができる。

 だが流石に銀に輝く飛行物体が接近してくれば、背後から迫ってもオレロトンは察知してしまうだろう。


 それでも、これまでの痕跡から、全員の頭にある悪寒が楽な道を許さない。


 オレロトンの移動速度は思ったよりも早く、歩いていても追いつけない。

 そして、その速度自体も問題だった。

 方向としては、オレロトンはドラクラスの経由ポイントの“下”へ進んでいる。

 もしかしたらすでに、ドラクラスが停止する場所に影響が出るほど地下が掘られているかもしれないのだ。

 事は一刻を争う。


「フリオール」


 マリスが呟けば、全員に纏わせてくれていた銀の光が、さらに強くなる。

 全員の身体がふわりと浮き、再び川の真上を飛んでいった。


 自分で頼んでおいてとは思うが、改めて考えてもマリサス=アーティの力は凄まじい。

 敵に追いつけないから急いで飛んでいきたいなど、マリスの前以外では使えない言葉だろう。


 シャロッテの速度に合わせていたときとは雲泥の差で、全員が高速で洞窟内を飛ぶ。

 オレロトンが通ったおかげか、天井の鍾乳石も削り取られていて先ほどよりもずっと飛びやすい。

 周囲に魔物は見当たらなかった。

 本当にあのオレロトンはこの洞窟の主のような存在で、他の魔物は巨獣の闊歩を前に姿を隠すことしかできないのかもしれない。


「! いた」


 遠方。銀の光越しに、ぼんやりとオレンジの光が見えた。

 しばらく飛んでようやく見えたそれは、思った以上の距離があったらしい。

 オレンジの光はこちらを認識したように、一瞬強く輝き、そして。


 ぐん、と遠ざかっていく。


「逃がすな!!」


 “オレロトンが駆け出した”。

 止むを得なかったとはいえ最悪のケースかもしれない。


 オレロトンが好戦的にこちらに向かってくれれば御の字だったのだが、逃げられたとなるとさらなる川上、つまりはドラクラス方面に向かってしまう。

 辛うじて追跡できているが、オレロトンのオレンジの光は、曲がりくねっているだろう洞窟の道を、“本当にまっすぐ”駆けていく。


 また、“道”を作っている。


「ちょっと不安定になるかもしれないっすけど、いいっすよね……!」


 隣を飛ぶマリスの、半分閉じた眼が鋭くなった。

 飛びながら両手を掲げて振りかぶると、アキラたちの身体が僅かに揺れ、その両手が一層煌々と輝く。


「レイディー!!」


 マリスが腕を振りぬくと、銀の凶弾が射出された。

 オレロトンがまっすぐに掘り進んでいく道を、それ以上の速度で走っていく。

 マリスが放ったのは月輪属性の初級魔術のようなものだとも認識しているが、込めた力によって威力が変わるのだろうか、オレロトンよりもずっと危険に思える破壊光線が唸りを上げてオレロトンを撃つ。


「ひっ!?」


 被弾と同時、ゴッ、と洞窟が揺さぶられた。

 そこら中で落石が起こり、オレンジの光が巻き上がる土埃に隠される。

 彼女のやることだ、文句は言えない。

 この洞窟が崩れようとも、彼女はそれを支えられるのだから。


 落石を縫いながら、銀の破壊光線の軌跡を追うように、アキラたちの身体はオレロトンへ向かっていく。


「効いたのか!?」

「……」

「マリス?」

「外し……、よけられたっすね」

「マリス?」


 文句は言えないが、マリスの顔を見るに、流石に遠距離過ぎて外したらしい。

 オレロトンより洞窟に、ひいては地盤に致命的なダメージを与えたマリスは、今度は軽く手を振った。

 風のようなものが前方に展開したようで、巻き上がった土埃を晴らしていくが、風圧は八つ当たりのような強さだった。

 どこかで本当に同じ顔を見たような記憶がある。


「……いや。本当に回避されたのかもな」


 先ほどのマリスの攻撃が着弾した地点まで来ると、上ってきた川は一層広くなった。

 脇の道もたった今消失し、川がまた暴れている。

 だが、そんな爆撃されたような広い空間の中、川上とは違う方向に、真新しく“壁が消え去った”大穴があった。


「ここ、トッグスライムたちが塞いでいた場所です……!」


 シャロッテが何かの目印を覚えていたのか、天井を見上げながら叫んだ。

 ここからならばすぐに外へ出られる。

 一瞬頭に過ったが、シャロッテはそれ以上に表情を明るくさせていた。


「や、やりました。方向……、オレロトンが向かったの、経由ポイントから離れています!」


 ここまでくればシャロッテは方向が分かるらしい。

 そしてオレロトンはドラクラス方面には逃げなかったようだ。


「一旦下ろすっすよ」


 マリスは全員を川の上に落ちた大岩に下ろした。

 そして安堵の息を吐く。


 最悪の事態は回避できたのだろうか。

 だがそれでも、オレロトンがいつまたドラクラス方面に向かうとも限らない。

 しかし、このオレロトンの“身体のサイズそのものの穴”にいきなり飛び込むのは流石に危険だ。巨獣とはいえ、通るとなると窮屈な大きさだ。穴の中で迎え撃たれたらこちらの方は動きが取れない。

 ならば、多少の猶予があると捉え、いっそ外へ出るべきか。

 方針をあれこれ変えるのは愚策だが、様々なことがアキラの頭を過る。


 しかし幸運なことに、そんな思考は必要なかった。


「全員下がれ!!」


 全員が目を引かされていた、真新しい大穴。

 その、“真逆”。


 音もなく、岩壁が消失した。


「アーク―――グレー!!」

「キャラ・イエロー!!」


 ジェットに突き飛ばされたと同時、アキラは咄嗟にマリスとシャロッテを抱きかかえて“空”を蹴った。


 消えた岩壁から現れたのは、煌々とオレンジに輝く白の巨獣。岩壁を掘り進み、どういうルートを通ってきたのかは知らないが、後ろから迫ってきたらしい。

 通るだけで岩を削り取るオレロトンが、ジェットに向かって突撃していた。


「ジェット!!」

「ち―――」


 オレロトンの突撃と、ジェットが身体中に展開した防御魔術が衝突する。

 一瞬拮抗。

 しかし、オレロトンは、その防御魔術を“掘り進む”。


「フリオール!!」


 ジェットが引いたのとマリスの魔法は同時だった。

 アキラたちも飛ばしたマリスが、寸でのところでジェットを引き寄せる。


 眼下には、目の前から獲物が消えたとでも思っているのか、じっとこちら見上げるオレロトンが川の上に立っていた。


「ジェット、無事か!?」

「危ないところ、だったのかもな。助かった」


 ジェットがオレロトンに向けた左腕の裾が、ほんの少し消失している。

 奇跡的なタイミングだったらしい。


 ジェットの防御魔術も、オレロトンの攻撃も、そのどちらも仕組みは分からない。

 唯一分かったことは、オレロトンがジェットの防御魔術を突破できるということだった。


「さて。討伐するんだったな」


 たった今命の危機を迎えたばかりだったというのに、ジェット本人はいつものように涼しい顔をしてオレロトンを見下ろしていた。

 どういう精神力なのかは知らないが、頼もしくはある。


 眼下。

 ようやくまともに見えたオレロトンの全貌は、美麗だった。


 逆立つ鬣も体毛も、洞窟内なのに土埃ひとつない純白のライオン。

 行儀よく座り、こちらに貌を向けている。

 瞳は黒ずんでいて、おぼろげに見えた。目はあまり見えていないのかもしれない。その分別の感覚が優れているのか、耳をピクリと動かし、鼻をすんすんと鳴らている。

 川の上を地面のように扱って座っている所作も、人の理を超えた幻想的な美しさがあった。

 オレロトンが、細く長い尻尾でびたびたと川の上を叩き、ほんの少しだけ、首を傾げた。

 巨大な体躯なのに、その様も、遊びをねだる子犬のように見えた。


「……やるぞ。キャラ・イエロー!!」


 アキラは思考を放り投げ、身体中に魔力を発動した。

 剣には変換前の魔力を蓄える。


 オレロトンの力が何であるにせよ、短期決戦。

 アキラはマリスの魔法から外れると、“空”を蹴って急降下する。


「キャラ・スカーレット!!」

「―――、」


 剣を振り下ろすと、オレロトンから動揺を感じた。そして身を縮こまらせ、“川を蹴って”離脱する。

 そのままの勢いで飛び込んだアキラの剣は、オレロトンが立っていた川に直撃し、トッグスライムの爆発とも見紛う爆撃をもたらした。


「づ―――、フリオール!!」


 川に飛び込んだアキラは直前、マリスの叫びを聞いた。

 その衝撃にとうとう洞窟でも崩れ始めたのだろうか。


 だが、洞窟を犠牲にしてでもアキラは大きな情報を得られた。

 オレロトンは見た限り、身体に魔術を発動させて周囲を削り取っているようだ。

 だが、アキラの攻撃を回避したということは、削り取れないものも存在するということになる。

 日輪の魔術攻撃は、オレロトンに通用する。


「アーク・イエロー」

「!」


 川が割れ、川底に降り立ったアキラは、今度はジェットの声を拾った。

 直後、ドンッ、と衝突音が響く。

 彼もまたマリスの制御から外れ、オレロトンに向かったらしい。


 空を蹴って川から出ると、巻き上がる水しぶきの中、オレロトンの脳天に、ジェットがトンファーを振り下ろしていた。


「“こっちか”。日輪は分かりにくいな」


 先ほど防御魔術を消失させられたというのに、彼は魔術を切り替えてオレロトンに接近している。

 オレロトンもジェットに応戦したようだが、先ほどのようにジェットの魔術を消失できていない。

 ジェットの魔術の仕組みは未だ分からない。だが、もし彼の詠唱をそのまま信じるならば、ジェットの魔術を突破できない以上、オレロトンの魔術は、物理的な攻撃に分類されるのかもしれない。


「―――、」


 音が響く洞窟内でも聞き取りにくいほど、かすかにオレロトンの聲が漏れた。

 その巨躯でジェットを押し返し、“川を蹴って”離脱する。


「ロイズン」


 その、飛んだオレロトンに、ライトグリーンの光が走った。

 マリスの隣、シャロッテが、親指を下げて腕を付き出している。

 あの魔術は、シャロッテの弱化付与だ。


 しかし、捉えられた瞬間、オレロトンが“空中に立ち”、水洗いされた犬のように身体を震わすと、シャロッテのライトグリーンの魔術は四散した。


「……ヴィティカル」


 自己の魔術が弾かれても、シャロッテに動揺は見えなかった。

 何事もなかったように、もう片方の手を今度は人差し指を上に向けて付き出す。


 強化付与の対象はジェットのようだ。

 川に落ちた岩石に着地したジェットは、そのまま弾かれるように跳躍し、オレロトンを追撃する。


 ふたりがやろうとしていることは分かった。

 自分たちは、オレロトンを壁に近づけてはならない。

 もし壁を突っ切って離脱されれば追うのが困難な上、どこへ向かうか分かったものではない。

 そう考えると、偶然だったが川の上というのは理想的な戦場かもしれない。

 どんな理由かは知らないが、オレロトンは川の上に立つ。地面に潜られる心配がないのであれば、壁にだけ気を払って挟撃し続ければいい。


 今アキラがすべきことは、ジェットとは逆方向からオレロトンを攻めることだ。


「アキラ氏!! そんなに力むと想像以上に跳びますからね!! ―――ヴィティカル!!」


 アキラがジェットと同じように岩に降り、身体能力強化の魔術を発動させると、今度はアキラにシャロッテからの強化付与がもたらされる。


 こちらが込めた力が分かっているようなシャロッテの言葉に、それでもアキラは力いっぱい跳びかかろうとして、賢人の言葉は信用すべきだと心の底から思った。


「ぃ―――」


 一瞬で目の前が白い巨獣の身体で埋まった。まともに剣を構えられていない。

 前に強化付与を受けたときよりもずっと力が跳ね上がっている。


 力んでいたのはアキラか、シャロッテか。

 走馬灯のようなものが見えたが、もうこうなれば、あとは“魔法”に任せるしかなかった。


「キャラ・ブレイド!!」


 思考が一瞬で殺意に染まる。

 敵を討つことだけに思考が支配され、普段取り得ない行動を選択した。

 開き気味だった身体をそのままオレロトンを抱き着くように衝突させ、その反動で剣を握った腕を振り下ろす。


「ひっ」


 シャロッテの悲鳴が聞こえた。が、同時、ザンッ、とオレロトンの肩に斬撃が走った。

 オレロトンを蹴って距離を取り、魔法を解いたアキラは、戦慄した。

 身体に多少は魔力を纏わせていたとはいえ、岩を消失させ、ジェットの防御魔術をも破ったオレロトンに抱き着き、剣を見舞ったのだ。

 直感的な判断は正しかったのかもしれないが、一歩間違えればこの身体が消失していたかもしれない。


 だが、これくらいしなければ早期撃破は望めないだろう。

 魔法の影響の残滓か、鋭くなった感覚が、オレロトンへの有効打と、アキラの無茶な行動に、殺気交じりに天井付近から見下ろしてくるマリスの視線を感じた。


「レイディー!!」


 その殺気は、幸いにもオレロトンへ向かってくれたらしい。

 アキラが離れたオレロトンが、銀の破壊光線に貫かれる。

 カッ、と迸る閃光。洞窟内がアキラやジェット、オレロトンのオレンジの光すら塗り替え、銀一色に染まる。


 だが。


「は?」


 今度は近くに岩は見つからなかったが、マリスがアキラの身体を浮かせてくれたらしい。

 空中に漂うアキラは、銀の閃光が晴れた先を注視していた。


 オレロトンが、“変わった”。

 あれだけ純白だった鬣が、体毛が、黒一色に染まっている。


 だがその見た目の変化より、アキラは敏感に、それ以上の異常を感じた。

 マリサス=アーティの魔術を受けて、オレロトンは、“まるで損傷を負っていなかった”。


「キャラ・イエロー!!」


 魔術の連続使用で魔力は限界に近いが、先ほど魔法で勝手に回復した分も絞り出し、考えるよりも早くオレロトンに跳ぶ。


 剣に魔力を込められるだけ込め、オレロトンに振り下ろすが、黒の巨獣は、“宙に座り込み”、じっとこちらを見ているだけだった。


「キャラ・スカーレット!!」


 ガギン! と、およそ生物から聞こえたものとは思えない音が響いた。

 先ほどオレロトンを斬り割けた剣は、物理的な硬さに阻まれ弾かれる。

 魔族戦ですら防がれることはあれど押し負けることはなかった攻撃が、アキラの腕にだけ強い衝撃を残す。


「いっでっ、……なっ、なんだ!?」

「アキラ下がれ!! 来るぞ!!」


 黒い岩石のようなオレロトンが“宙を蹴り”、突撃してきた。

 一瞬、オレロトンの瞳が目に入る。反転するように白くなったその瞳には、怒りのような感情が見えた。


「―――ぐぇ!?」

「アーク・イエロー!!」


 アキラの襟を強く引き、オレロトンとの間にジェットが割って入った。

 また甲高い金属音が鳴り響く。


 空中での衝突は、当然のようにオレロトンに軍配が上がった。

 その突撃に、ジェットごと“轢かれた”アキラの身体は宙を舞う。

 手の痺れなど可愛く思える、身体中が砕かれたような衝撃に、一瞬意識が飛んだ。


「キャッ、キャラ・スカイブルー!!」


 アキラが思わず発動した治癒魔術と同時、ドンッ、と洞窟を過去最大の衝撃が襲った。

 アキラたちに突撃したオレロトンは、そのままの勢いで岩壁に激突する。


 岩からしてみれば、消失した方が救いはあっただろう。

 爆撃のような突撃に、岩壁は大きく抉れ、辺り一面にひびが走った。


「……は。分かりやすくなったじゃないか」

「おいどうすんだあれ!?」


 ちゃっかり自分は身を守っていた隣のジェットに思わず怒鳴ってしまった。

 黒くなったオレロトンは、僅かに交戦しただけで、硬度も攻撃力も桁違いのものになったのが分かる。

 アキラやマリスの攻撃ですら無傷なのだ。同じ日輪属性のアキラからすれば、まだ何をするか分からない日輪属性の力を使われていた方が安全に見える。


 今のオレロトンは見た目そのままに、鋼鉄の巨獣だ。

 対抗策を立てる余地のある絡め手でくる相手より、絶対的な力を持ち、それをそのまま使う相手が最も危険だということは、今までの旅でアキラは深く学んでいた。


 こちらの決定打が存在しない。

 破壊の威力にはそれなりに自信のあったアキラだが、先ほどのように中途半端に攻撃してもオレロトンに効果はない。

 あの姿であれば洞窟を異常な力で掘り進むことは出来ないようだが、こうなると、今度は眼下の川がこちらの足枷になる。

 アキラが最高火力を出すには、火曜と木曜の再現に全力を注がなければならない。


「マリス!! オレロトンをまだ撃てるか!?」

「白いときから何度も撃ってるっすよ!!」


 アキラが気づいていなかっただけなのか、マリスは攻撃を繰り返していたらしい。

 そもそもアキラとジェットだけでオレロトンが壁に逃げないようにできていると思っていたが、マリスのフォローが前提だったのだろう。


 シャロッテの魔術も弾かれていた。

 もしかしたらと考えて、しかしそれはすぐに確信に変わる。


 そもそもヒダマリ=アキラという存在は、英雄になれるほどの人間ではない。

 それがここまで旅を続けてこられているのは、この身に宿る日輪属性の力のお陰だ。


 それは日常の心を開く能力や、注目を引くものだけではなく、単純に、戦闘面でも他の属性と比べて圧倒的に優遇されている。

 目立つのは環境への耐性や負傷の治りが早い治癒能力だが、それ以外にも、戦闘に直結するものがある。

 他の属性にはある、有利な属性や不利な属性。

 だが日輪は、その他すべての属性に有利に働く傾向があるのだ。


 つまりはアキラが普通に戦うだけで、敵に攻撃は通りやすいし、逆に敵の攻撃は効きにくい。

 そして当然、そんな力はヒダマリ=アキラだからこそのものではなく、日輪属性がそうした強力過ぎる力を持っているのだ。


 オレロトンは日輪属性だ。

 その時点で、他の属性は不利な戦いを強いられていることになる。

 月輪ならあるいはと思ったが、マリスの様子を見るに、日輪に対しては他の属性と同じようだ。

 マリスの魔力からすればそんな不利すら跳ね返せるだろうが、今は全員に注意を払って宙に浮かせ、もしかしたら洞窟、最低限このフロアの崩壊を防いでいる。

 ヒダマリ=アキラを勇者にしているほどの特性だ。片手間で相手にできるほど、日輪属性は甘くない。


「っ、俺らでやるしかない。ジェット、なんか手は無いのか!?」


 オレロトンはこちらを見上げている。

 何を考えているかは分からないが、陽動としては大成功だ。

 問題は、ドラクラスが横転するよりも早く自分たちが命を落としそうなことくらいである。


 焦るアキラが怒鳴るようにジェットに叫ぶと、ジェットは、いつも通り、冷静な顔つきでオレロトンを見下ろしていた。


「あるにはある。……が、もっといい方法を思いついた」

「は!? じゃあすぐやってくれ!!」

「決めるのはお前だ。事が済んだら攻撃しろよ」

「? あ、ああ」


 ジェットは、初めて見る、何かを諦めたような表情を浮かべていた。


「ただし……、“失敗しても驚くなよ”」

「……は?」


 この男は、何を言っている。

 そこで。


「みんなー!! 頑張れー!!」


 アキラの、消耗して重くなった身体に、力が漲った。

 オレロトンもびくりとして声の方に貌を向ける。


 元気な声にアキラも思わず目を向けると、川上のわき道で、ケディア=レンダーが元気に踊っていた。


「マリー!! 報告はあとでいい!! そいつを倒せばいいんだな!?」

「フェッチさん!! 絶対に逃がさないで!!」


 フェッチ=ドッガーが現れるなり声を張り上げた。

 鋭く周囲に視線を走らせると、即座に臨戦態勢を取る。


 フェッチとケディアは無事だったらしい。

 来た方向からすると、もしかしたらすでに洞窟の外に出て、自分たちの救助に来てくれたのかもしれない。


 こちらの体制は万全となった。

 あとはマリスの言う通り、オレロトンを逃がさず討伐するだけだ。


「……」

「ジェット?」

「いや、なんでもない。やるぞ」


 ジェットは、マリスの魔法の制御から外れ、眼下の岩に降り立った。

 川に落とされた巨大な岩。しかし、人からすれば、ひとりしか立てないほど、小さく見える。

 そこでジェットは、砕けた石を拾い、振りかぶる。


「こっちだ、来いよ」


 なんの魔術も使わず、投擲した石は、こつんとオレロトンに命中する。

 ただ注意を引くためだけの攻撃、いや、いたずらは成功したようで、オレロトンはジェットに向かって突撃の姿勢を取った。


「お、おい!?」


 オレロトンが突撃した。

 白い異質な消失の突撃ではなく、黒く苛烈な巨獣の突撃が、川を走ってジェットへ向かう。

 だがジェットは、身動きせず、じっとオレロトンを睨み続けていた。

 彼は魔術を―――発動していない。


「っ、ジェット!!」


 ジェットはトンファーを取り出し、身体だけは構えを取っていた。


 何かを狙っていることは分かる。

 だが、金曜属性の再現をせず、あの突撃を受ければ、日輪属性といえども即死しかねない。


 それでもジェットは、静かにオレロトンを睨み続けていた。


「―――アーク・ライトグリーン」


 目を覆いたくなるような突撃の瞬間、ジェットがトンファーに光を宿した。

 せめて衝撃を抑えようとしたのか引くように飛ぶと、また、こつりとオレロトンの額にトンファーが当たる。


「ジェ―――」


 衝撃が流せたのかまるで分らない。

 ジェットはオレロトンに川へ向かって跳ね飛ばされ、水しぶきを上げる。その刹那、こちらを睨むジェットの顔が見えた。

 こちらを見ている場合ではない。その瞳がそう語っていた。

 決めるのはお前だと、ジェットは言っていた。


 アキラが視線を走らせると、ジェットが宿したオレンジの光が、オレロトンの額に付着するように残っているのが見えた。


「っ―――、キャラ・イエロー!!」


 何をしたのかは分からない。だが考えるよりも早く身体を動かした。

 “空”を強く蹴り、オレロトンへ突撃する。


「―――、―――!!」


 ジェットを轢いたオレロトンはそのまま、今度は反対側の壁に激突する。

 しかし、今度は岩壁は砕かれるほどの勢いではなかった。

 逆に、強固な身体の方が、その程度の激突に耐えられなかったように、オレロトンが苦悶する。


 頭を打ってよたりと立つオレロトンは、白い瞳を澱ませている。

 そして、額に残る、ジェットのオレンジの光がまた見えた。

 アキラが傷ひとつ付けられなかったオレロトンの額が、その付着するオレンジの光の中、岩壁に飛び込んだ衝撃に、ひび割れていた。


「―――タガイン!!」


 蠢いたオレロトンへ、イエローの光が走る。

 フェッチの攻撃は、しかし、オレロトンには直撃せず、その周囲の地面を打った。


 オレロトンがびくりとして身を縮こまらせる。

 もしかしたらオレロトンは、地底にいるだけはあり、光よりも音や匂いに敏感なのかもしれない。

 直接狙うより、近くで音を立てた方が足止めになるのだろうか。


 結果、アキラが“空”を蹴って進む先、オレロトンが身動きを取らなくなっていた。


 問題は、オレロトンにアキラの攻撃が通じるかだが、アキラは不安なくジェットのオレンジの光へ向かった。


 きっとあの光は、“弱化付与”だ。

 オレロトンの硬度は今、岩壁より劣っている。

 ジェットが命知らずな行動を取ったのは、シャロッテのように遠距離では放てないためだったのだろう。


 オレロトンの額で、別種のオレンジの光が蠢き続ける。

 シャロッテの魔術は弾かれたが、“日輪属性の弱化付与”は、まさしく“何が起こるか分からない”。

 魔力や硬度の減衰だけでなく、それ以外にも強い毒素のように悪影響があるかもしれない“何か”は、同じ日輪属性のオレロトンにも通用している。


 ここまでお膳立てされれば、ヒダマリ=アキラだって決められる。


「キャラ―――」


 オレロトンは、その巨躯を縮こまらせて、こちらを見上げていた。


 アキラはふと思う。


 オレロトンは、さほど獰猛な魔物ではなかった。

 白の消失や黒の突撃は脅威だったが、積極的にこちらを攻めてはこなかった。

 オレロトンも攻撃しなかったわけではないが、最初に攻撃を仕掛けたのはこちらだ。誰でも攻撃されれば怒るだろう。

 最初に遭遇したときも、こちらが避ければ気にもせずに歩いていた。


 オレロトンは、ただ単に、散歩のように歩き回っていただけで、結果として巨大な空洞を作り上げてしまっただけなのかもしれない。

 それがたまたま、人間にとって害となってしまっただけだ。

 こんな暗がりで、ひっそりと、ジェットが倒したという“言葉持ち”の群れのように、生き続けていたかっただけなのかもしれない。


 『地底の王様』。

 そんな風に言われた日輪属性の魔物。だが、絵本通りなら、明るい外の世界にいた。


 もしアキラが感じていることが正しければ。

 オレロトンは、日輪属性の数奇な運命のせいで、長い年月の果て、誰にも見つからないように、誰にも迷惑がかからないように、日の当たる場所を避けて生きることを選ばざるを得なかったのだろうか。


 同種も見つかっていない、新種の魔物。口を閉ざした、黙した獣。

 助けを求める悲鳴すら上げないその獣は、その力のせいで、魔物からすら避けられていたのかもしれない。

 延々と孤独を味わい続けてきたのかもしれない。


 そして今、ようやく訪れた来訪者たちに、住処を蹂躙されて討伐される。

 オレロトンの瞳に、悲しみが写っているように見えたのは、気のせいでは無いのかもしれない。


「―――スカーレット」


 剣はオレロトンの額を捉えた。

 やはりジェットの魔術の影響で、先ほど弾かれたのが噓のように、剣は脳天からオレロトンを斬り割いていく。


 決定打だった。

 オレロトンは悲鳴も上げずに、倒れていく。


 ジェットも無事だったようで、川から命からがら岩へ上っていた。

 あとはマリスが爆発を防ぎ、全員で外へ出れば依頼は完了だ。


 アキラはその前に、自分が命を奪った、バチバチとオレンジの光を漏らすオレロトンを前に、剣を納めて呟いた。


「……悪いな」


―――***―――


「マリスは怒られた?」

「小言は言われたっすけど、いつものことっすからね」


 外に出ると、日はとうに落ち、洞窟の中のように薄暗かった。

 生憎今日も曇りである。

 雲の隙間から僅かに覗く月や星は輝いているが、影でかえって明暗が強くて物寂しい。


 今頃、あの洞窟の入口には、現在魔導士たちが集まっているだろう。

 ドラクラスの経由ポイントの警護から数人回されたらしい。

 この緊急事態に、フェチやケディアも目を回していた。


 アキラたちの長い哨戒依頼と、同じくらい長く感じた洞窟の哨戒はようやく終わった。

 報告ではなくオレロトンの討伐を優先した自分たちの行動は、特に魔導士が同行していた分問題になりかけていたが、マリスは結果で黙り込ませたようだ。いつものことだそうだが。


 だがそれでも、魔導士たちにとってはこれからが戦いだ。

 マリスの報告から、あの洞窟がファクトルに繋がっている可能性があるともなれば、経由ポイントから離れていても無視はできない。

 少人数ながらも周囲の哨戒をしつつ、本格的な調査はドラクラスが到着してから大人数で行うという。

 またドラクラスの魔導士隊の仕事が増えたようだ。


「フェッチたちはしょうがないとして……、シャロッテは? それに、ジェットも。あいつ大丈夫なのか? もろに喰らってたように見えたけど」

「シャロッテさんはさっき魔導士隊に呼び止められてたっすけど、ジェットさんなら周囲の調査をしてくるって言ってたっすよ。上手くいなせたのか、怪我も大してしてなかったみたいっすね」


 相変わらずというかなんというか。

 防御魔術を使わずにオレロトンに轢かれたときはひやりとしたが、彼は変わらず単独行動で働いているらしい。

 上手くいなしても相当な衝撃があったはずだ。

 すぐに働き出すとは、ケディアの力もあったのだろうが、流石の日輪属性の治癒力と言わざるを得ない。


「早く来ないと、見逃すかもしれないのにな」


 アキラは今、大冒険のあった洞窟から離れた小高い丘の上にいた。

 シャロッテが教えてくれたこの場所は、ドラクラスの経由ポイントの近くにある、ネーシス大運河を一望できる隠れスポットらしい。


 遠方に、大きな山がそびえている。

 遠方で、山から大きな川が流れている。


 観光名所でもあるらしい絶景を前に、そんな稚拙な感想しか出てこないのは仕方のないことだった。


 アキラは長時間、この場に座り続けているのだ。

 最初に到着したときは、山から滝のように流れ落ちる巨大な川が、ここまで音が響いてくるほどの勢いで流れる様に目を奪われたが、流石に見飽きてくる。

 アキラたちが調査した洞窟の中の川も、あの運河から流れ込んだものらしい。そう考えると、あの川を一日中見ていたことにもなる。


 だが、もうすぐネーシス大運河以上に目を奪われる光景が見えるだろう。

 この場所からなら、ドラクラスが移動している姿を見ることができそうだった。


 ただ。

 哨戒依頼の打ち上げの意味合いもあり、ここを集合場所と決めて別行動を取ることになり、珍しくアキラが最初に到着したのだが、待てど暮らせど他の者が来ない。


 みんな何をしているのだと思ったが、フェッチとケディアは魔導士としての職務に励み、旅の魔術師枠だと言い張ったマリスとシャロッテはそれでも質問攻めにあい、ジェットはいつの間にか勤勉に働いているらしい。

 何をしているのだと言われるのは、何の助力もできそうにないアキラの方かもしれない。

 せめてジェットに付き合っていれば、この無能感は隠せただろうか。


「でもよかった、かもしれないっすね。にーさんに、話したいことあったし」

「……そうだな。ようやく落ち着いた場所に来れたしな」


 マリスはアキラの隣にゆっくり座った。

 すっかり着替え、だぼだぼのマントを纏っている。

 そう言ったら、彼女はまたむくれるのだろうか。


 無表情で無口。

 そんな風に言われるマリス。

 アキラも同じ感想を持っている。


 だがそれと同じくらい、彼女の表情を見て、声を聞いている。


 長い旅の果て、ようやく辿り着いた彼女の元。

 あれから随分と経った。

 彼女は、アキラの記憶の中の彼女から、変わった部分もあるだろう。

 だがそれと同じくらい、変わっていない部分もあって欲しいと思ってしまうのは、傲慢だろうか。


「ところで、にーさんは今まで何を?」

「止めろマリス。それは訊くな」


 あなたは今まで何をしていましたか。


 この言葉を苦手とするのは自分に自信のない人間なのかもしれない。

 実際に今、皆があくせく働いている中、座り込んでいただけのアキラには向けて欲しくない質問だった。


「にーさん。いい機会っすから、訊きたいっすね。―――今までも、あんな危険なことを?」

「……そう見えたか? そう、だな。自覚はしている」


 瞳の力は強いのに、柔らかく感じる。そんな表情のマリスを前に、アキラは正直に話した。

 こういう表情のときはみな、大体アキラを咎めている。

 自分の行動は、ありがたくも自分を案じてくれている人にとっては、気が気ではない。

 旅の中で幾度となく言われてきたことだ。


「でもさ、言ったろ。仕方ない、じゃあ済まないって。……つっても、今回もほとんどマリス頼りだったけどな。人任せで何言ってんだ、って感じだろうけど」

「にーさんが倒したんじゃないっすか」

「トッグスライムが現れて、川にのまれて、洞窟だって結局一部は崩れて、オレロトンが爆発して……、何回死んだか分からないようなことが起きたのに、それでも全員生還した。マリスがいたからだろ」


 マリサス=アーティがいなければ実現できない、不可能が並んだ冒険だった。

 そもそも崩壊を気にしてマリス個人の魔力を温存するという選択肢があること自体、改めて考えると狂っている。

 オレロトンを討伐したのはアキラだが、シャロッテがいなければそもそもオレロトンの本当の危険性に気づけなかったし、ジェットの魔術が無ければ攻撃は通せなかった。

 何もしていないとまで自分を卑下はしていないが、改めて、自分は誰かの力が無ければ事を成せないと感じる。


 日輪属性の事件を芽吹かせる特性。

 これに向き合い続けるには、まだまだ課題は山積みのようだ。


「じゃあ、にーさんのお陰っすよ。そう願ったんだから」

「?」


 それでも。

 マリスは静かに言った。

 話したいことがあると、彼女は言っていた。


「にーさんって、ずっとこうやって、誰かに迷惑かけて旅してきたんすよね」

「俺自身どうしようもないとは思っているが、人に言われると腹が立つ」


 事実だとしても、器も小さいのだ。腹が立つのこそ仕方ない。

 珍しく嘲るように笑うマリスは、その半分閉じた眼をこちらに向けると、また、改めて笑った。


「どうした今度は嘲笑か?」

「……いや、その。前回のにーさんを思い出して」

「じゃあ嘲笑じゃん」


 “二週目“。

 それはアキラの記憶にも残っている。

 意思も覚悟も想いも無く、ただ“力”だけがあった旅。

 そんな力を有していたにも関わらず、マリスに頼りきりだったように思う。


 そう考えると、自信がなくなってくる。


「……は。変わってないのかもな。多少は成長したと思っていたのに、今日もマリスに頼りきりだった。やっぱマリスがいないと駄目なのかもな」

「それは、きっと理想が高くなっただけっすよ」

「そう、か?」


 “二週目”にも感じた、自分自身への物足りなさ。

 それをこの“三週目”もずっと感じている。


 それは自分がやりたいことが増えているからなのだろうか。

 実感は無いが、あり得るだろう。

 欲も悩みも尽きることはない。


「にーさん。覚えてるかどうか分からないっすけど、もうにーさんは特別な存在になっている。昔のにーさんがなりたかった自分になっている」


 特別な存在になりたい。


 自分はマリスに、そんな恥ずかしい話をしただろうか。

 そんな気もするし、マリスの記憶違いかもしれない。

 だが彼女の言葉は、自分の胸の奥をくすぐった。

 記憶がおぼろげな“一週目”に言ったのだろうか、自分の言葉のように思えた。


「でも、もっと特別なことをしたいんすよね。いつでも今に満足できないからこそ、ここまでこられたとも言えるかもしれないっすね」

「……随分持ち上げるな」


 照れくさいが、嬉しくはなった。

 マリスの言葉は信じられる。


 だがそれゆえに、自分はまだまだ何かをしなければならない。


「でもこの先は、きっともっと辛くなる。成長すればするほど、壁は高くなる。……自分はよく分からないんすけど、そういうものなんすよね?」

「天才様の言葉だなぁ」


 歩く道に壁など存在しないマリサス=アーティの金言だった。

 マリスはむっとしたような表情を作っていた。


「実は自分、にーさんと一緒に行くことになって、何ができるか考えてたんすよ」

「何でもできるじゃん」

「そうなんすけど」


 マリスはさらりと返してきた。

 事実だが、何か腑に落ちない。天才の悩みなどアキラには全く分からない。


「それが、今日少しだけ分かった気がする。だから、それでいいかを確かめたくて」

「俺を持ち上げて気分を良くすることか?」


 マリスは一瞬悩んだような表情を浮かべ、次に睨んできた。

 外れを引いたらしい。


「にーさんに我慢をさせないこと」


 マリスの言葉は、何気ないことのように、耳を通り抜けた。


「は? なに? ええと、甘やかしてくれるって?」

「む。……まあ、そういうことかもしれないっすね」


 適当に言ってみたら、マリスは肯定した。


「“二週目”の再来だぞ。俺を堕落させたいのか」

「言ったじゃないっすか。もうにーさんは、特別な存在だって」


 マリスは呆れたように笑い、それでも、言葉は強く感じた。


「だからきっと、望むことも特別になっている。責任も付き纏うし、簡単には選べない」


 今日、自分がオレロトンを前にして、考えたこと、選択せざるを得なかったことが頭に浮かぶ。

 過去の自分なら、安々と、勇者の仕事だと適当なことをぬかして、賭けているものの重さにも気づかず、すぐに討伐しようと言い出していたかもしれない。


 悩んだ末に、結局辿り着いた結論は同じなのは笑えないかもしれないが、あのときは、確たる根拠があった。


「“自分が簡単に選ばせてみせる”」


 それは、世界中で、彼女しか口にできない言葉だった。


 エリーには共に踏み出され、サクには律され、ティアには共感され、エレナには引きずられ、イオリには考慮され、その上で、アキラが選ぶもの。


 マリサス=アーティは、そんな事情を超越し、アキラの望みを叶えてみせると言い切った。


「だからにーさん。自分は、“この世界の代償”だって踏み倒してみせる」

「……」


 この“三週目”の代償。

 その事実は、アキラをこの夢のような冒険から、現実に引き戻す。

 だが戻された現実でも、マリスはそこにいてくれるような気がした。

 それを思い出しても、身体が震えないのは初めてだった。


「にーさんにとっての自分の価値は、そんなのでどうっすかね?」


 言いたいことを言い切ったようなマリスの表情は、いつもと変わらなかった。

 無表情のようで、それでも微笑んでくれていて、当たり前のように、アキラの願いを叶えるなどという不可能を口にする。


 彼女について、気になることはまだまだある。

 シャロッテから聞いた、『プロジェクト:アーティ』という謎の“何か”もそうだ。

 だがそんな悪寒も、彼女を前にするだけで、すべてが後回しでいいと感じてしまうほどの魅力があった。


 それはまったくもって、“二週目”と同じだった。

 無力な自分が縋りつく、世界一信頼できる彼女。

 自分と彼女は、あのときの関係のまま、ここにいた。


 それでも多少は、彼女に近づけているだろうか。

 アキラの方はそのときに比べて、彼女からすれば些細だろうが、自分の成長を見せられているだろうか。

 その魅力に、見合うだけのものがあるだろうか。


「価値、なんて」


 アキラは、ぼんやりと空を見上げた。

 そんな言葉では、言い表せない。


「そんなこと気にしなくても、俺にとって―――」


 マリスがぴくりと動いた。

 その拍子に、言葉が頭から抜けていく。


「……いや、なんでもない」

「いやいやいや。何、何を言おうとしたんすか?」

「どうしたどうした」


 マリスをなだめて、アキラはまた空を見上げた。

 相変わらずの曇り空。

 ぼんやりと見える月は、時折光を漏らしてくれる。

 同じように霞んだ“一週目”の記憶は、戻るときが来るのだろうか。


「……マリスとゆっくり話せてよかったよ。気も、楽になった」

「それはよかったっすね」


 マリサス=アーティ嬢がいつの間にか不機嫌になっていた。最後にこれでは、またアラスールに懇願という名の脅迫を受けてしまうかもしれない。


「まあ、色々あったっすけど、いい機会だったと思ってる。ドラクラスに戻ったら、またあんまり話せないかもしれなかったし」

「やっぱ、宿違うと会いにくいよな。他の宿も空いてないし」

「まあ、仕方ないっすけど……、その分こうやって話せたのも新鮮な感じがしたし……、……その、楽しかった」


 思わずどきりとした。

 頭を振って邪念を払う。


「じゃ、じゃあ大丈夫そうか」

「? 何のことっすか?」


 早口で言うと、マリスが顔を向けてきた。

 自分の表情が分からないアキラは、つい背けてしまう。


「いや、ルックリンさんに勧められてたんだけど、ドラクラスで家を買わないかって。高い買い物だけど、みんなで泊まれるし、依頼の期間からして宿代考えれば悪くないらしい。でも今のままでも何とかなってるし、次ここにいつ来るかも分からないから、やっぱ断ろうかな、って……」

「それっすね」


 口早な声にマリスを見ると、半分閉じた眼が座っていた。


「マリス?」

「それっす」

「……資金がなあ。サクが管理してくれてるやつもかなりあるらしいけど、どんくらいかかるか想像もできないし」

「自分も出せば大丈夫っすよ。危険給やら特別賞与やらなにやらで、貯金はあり得ない額あるし」


 マリスが相当な勢いで喰いついてきた。


「わ、分かったけど、極力こっちの共有財産で何とかする。ちゃんと将来のためにとっとくんだぞ?」

「にーさん。あり得ない額っていうのは、本当にあり得ないからそう言うんすよ」

「ルックリンさんみたいなもんか……?」

「ルックリンさんの方は、聞いたことのない数字が聞ける」


 アキラは数学に明るくない。聞いたことのない数字もあるだろう。

 深く考えようとすると、頭が痛くなった。


 どうやら、ファクトルという危険地帯の調査を仕事でやっていた人間の財力は本当にあり得ないらしい。

 経済を統べる『三魔人』の方は、金額というか数字としてあり得ないらしいが。


「でも。……そうか、家。……もっと早く気づいていたら……」


 肝心な抜けがあったように後悔しているマリスを見て、アキラはつい笑ってしまった。


 フェッチが言っていた。

 ファクトルに向かうと、人は、狂うと。


 だが目の前のマリスは、厳格な魔導士ではなく、年相応の女の子に見える。

 僅か数年で大金を手にしても、宿が不便だから家を買うという発想が出てこなかった辺り、金銭感覚も狂ってはいないらしい。


 あとは皆の説得が問題で、特にエリーやサクは厳しいかもしれない。

 エレナも面倒がりそうだし、イオリも安々と高い買い物をするのは渋るだろう。

 間違いなく仲間にできるのが、大はしゃぎが容易に想像できるティアくらいしかいなさそうだった。


「そろそろドラクラスが来る頃っすかね」


 待ちきれないように、マリスは立ち上がった。

 子供っぽいところもあると思ったが、アキラ自身、家を買うと決めてしまうと期待が膨らむのを感じていた。


 雲の切れ間から、月の光が漏れてマリスを照らした。

 ようやくはっきり見えた。今日は満月だったようだ。


「すっげえ久しぶりな感じがする。やっとみんなに会えるな」


 マリスが振り返って、アキラを見下ろした。

 また、少しだけ不機嫌に見える。


 その光景が、記憶をくすぐった。

 あれは、確か。


「……ハーレムがいいとかって願いはまだあるんすか?」

「止めろ。口に出すのは、止めろ」


 ランプの魔人も同じことを思い出したのだろうか。


 “二週目”。

 この“三週目”でマリスと再会したあの街のあの場所で、月下、彼女とそんな話をした記憶がある。


 そういえばあのとき、マリスは。


「にーさん。その……、自分が言ったこと、忘れてないっすよね」

「……忘れた方がいいんだろうな」


 マリスの顔は、赤くなっているように見えた。

 アキラは小さく呟いて視線を落とした。


 彼女はあのとき、願いを言ったのだ。

 太陽は月だけを見て欲しい。

 その意味がまるで分からなかったと言えば嘘になる。


 だがそれは、田舎町で閉じ籠っていた、魔導士でなかったマリサス=アーティの言葉だ。


「世界的に認められた魔導士。あと、財力もあり得ないらしい。ついでに、俺の願いも叶えてくれるって?」


 自惚れでなければ、仮にも勇者様だ、彼女からの信頼は感じられている。

 だが好意は。そんなものが今なお、本当に存在するのだろうか。


「マリスは世界を知っただろう。そんな奴が、どうしようもない奴に向ける言葉じゃない」

「こ、この人は……」


 マリスが軽く地面を蹴った。苛立っているように感じる。

 またこの口は災いを呼んだらしい。

 口にした願いを叶える魔人様の前だ。気を付けるべきだろう。


 アキラだって分かっている。

 そういうことは、頭を使う問題ではない。

 好意というものは、理屈ではない。

 それにマリスが囚われるのは申し訳ないとも思うが、同時に、もしそうだとしたら、素直に、嬉しくも思ってしまう。

 この旅で、出逢いと別れを経験したゆえなのか、幼少期のトラウマのようなものが疼いてなお、胸に暖かなものが生まれるような感覚に陥る。


 マリサス=アーティ。

 世界を何度めぐっても、ヒダマリ=アキラは必ず彼女を頼っている。そして彼女は、本当に、どんなことでも叶えられる。


 彼女は無表情で、無口で、無音な、世界最高の魔導士だ。

 それでもアキラは知っている。

 彼女はきちんと、笑ったり、呆れたり、むきになったり、拗ねたり、怒ったりする、素敵な女の子だ。

 アキラは彼女に、言葉を尽くしても表し切れない感情を抱いている。

 では、そんな素敵な彼女からして、広い世界を知ってなお、ヒダマリ=アキラへ好意を向けることがあり得るのだろうか。

 理屈でないと思いながらも、身に余り過ぎて、過去の言葉は忘れた方がいいと思ってしまう。


「……じゃ。じゃあ。た、試していいっすか」

「何を、」


 アキラが見上げると、マリスの顔が目の前にあった。

 そして。

 そのまま、吸い込まれるように。


 唇が重なった。


「―――、」


 時間が止まった。


 身体が震える。それは自分だけではないような気がしたが、何も考えられない。

 そういうものは理屈ではない、らしい。


「……」


 意識を失っていたような気さえした。

 いつの間にか目の前に、大きく開いた眼を潤ませ、真っ赤になったマリスの顔があった。

 初めて見る顔だった。


「これで伝わらなかったら、本当にどうしようもないと思う」


 遠方で、広く整備された場所が誘導するように光っている。

 遠方で、そこへ向かって巨大な山が動いている。


 超常現象とも言える絶景を前に、そんな稚拙な感想しか出てこないのは、仕方のないことだった。


「……な、何をぼんやりしているの、シャロッテ。何食わぬ顔で行けばいいだけでしょう。……ひ、人のああいうところ、今までだって見たことはあるじゃない……。そう、そうよ。マリサス嬢の好意なんて、最初からまる分かりだったでしょう。驚くことなんて何ひとつない。動揺なんてしていない。ショックなんて受けて……で、でもア、アキラ氏は、私を、……あ、あのときの失言のせいで……? いえ、そんな、そ、そもそもこちらは、彼のことなんて気にもしてない、でしょう? ほ、ほら、い、行きなさいシャロッテ。ほら、依頼が終わったから、み、みんなで頑張ったねって言うために、ち、違う、そうじゃなくて……。……恋人欲しい」


―――***―――


 入るときは鉛のように重く、出るときは羽のように軽くなる。


 アラスール=デミオンは、自分の足がそう調教されているような気がしていたが、どうやら不足があったらしい。

 蹴破るばかりの勢いで、大嫌いな部屋に入った。


 ドラクラスが経由ポイントに到着したのはつい先ほど。

 そこから土地との結合だのインフラの整備だのをやり始めた者たちを押し退けて、アラスールはドラクラスへ帰還した。


 時間は深夜。

 移動直後ということもあり、いつもは閑散としている住宅街も賑やかで、商店街では移動にかこつけて祭りのようなものが催されている。


 “外”から見た、ドラクラスの移動は壮絶、だったと思う。

 移動はゆったりしているように見えたが、それはドラクラスの大きさからくる錯覚で、馬車などよりずっと早く、あれより早く動けるものなどこの世界に数えるほどしかない。

 岩や樹木、いや、土地そのものを砕きなぎ倒し、巨大な“道”の痕跡を残しながら進むその様は、ファクトルを闊歩する“魔王の牙城”を連想させた。

 ただ、近づくたびに、大気を、大地を震撼させ、天と地がひっくり返ったような当たり前の振動に、無音で移動する魔王の牙城の不気味さがかえって際立ちはしたが。


 移動中、“中”はどうなっていたのだろう。

 あの衝撃は、ドラクラス内の建物という建物が倒壊していてもおかしくはない。

 だが、古びた家屋を囲む人が押せば倒れそうな不安定な柵も、錆びた鎖で垂らされた店の看板も、そこの酒屋のシンボルとして屋根に置かれているジョッキのイミテーションも、不気味なほどそのままで、ドラクラスの中はいつも通りだった。


 アラスール自身、ドラクラスの移動を見たのは初めてで、魔導士としてこの“具現化”には強い関心がある。


 だが、今はそんな些細なことを気にしている余裕はない。長い依頼が終わったという開放感も覚えられない。

 これ幸いと歌い踊り騒ぐ群衆の中を突っ切り、アラスールはドラクラスの奥を目指した。

 漂う肉やアルコールの匂いに後ろ髪を引かれたが、今は早急にやるべきことがある。


 一際大きな建物に着くと、いつもはこの時間いない、門番のような魔導士が立っていた。

 非常時だったのが幸いだ。

 アラスールは怒鳴りつけるようにグリンプ=カリヴィス7世への面通しを訴えた。


 そして、思ったよりもすんなりと通されたアラスールは、その大嫌いな部屋。

 重要会議やらなにやらで散々呼び出された、グリンプの会議室に到着した。


「アラスール。ご苦労だった。ドラクラスの移動は完了した。外からはどう見えたかね」

「ええ、壮観でしたよ。危なく轢かれそうになるくらいの特等席でしたからね」


 部屋に入ると、長い外の旅を経て、今日も雨や土埃やらで身体中が汚れたアラスールと比べ、びしっと決めた軍服がピカピカと光っているようにも見えるグリンプ=カリヴィス7世が、埃ひとつない肩を払いながら座っていた。


 物理的な移動が終わっても、やることはまだまだある。

 実際そうなのだが、ドラクラスの移動計画を実行し、成功させたのは、まるで自分ひとりの力だとも言わんばかりの得意げな顔だった。

 だが、やることはまだまだ山のようにあり、外で魔導士隊や専門家があくせく働いている。

 流石にドラクラスの最初の大移動だからか、配下に任せきりにしていたわけではなく、仕事はしていたらしい。

 寝間着姿で現れやがったら殴りかかっていたかもしれないが、これはこれで腹が立つ。


「ふん。まあ、そんなことはどうでもよろしい。有事だからあまり時間は無い。手短に頼むよ」


 1回殴ってから話を始めたい衝動にかられたが、散々彼に逆らうなと言ってきた、アラスールが一時期お世話になった先輩の顔を思い出し、強引に堪えた。


「報告します。ドラクラスの移動と並行した哨戒依頼。その最終日の今日、調査不足が指摘されていた洞窟で問題が発生しました。この件、覚えています?」

「なんだやはりそれか、つまらん些事だ、気にせず業務に戻りなさい。報告書をまとめる必要もあるだろう。明日からは君にもこの地への定着化を進めてもらうことになる。“別件”も並行して進める必要があるのだ。遅くも朝8時には会議を始めたい」


 グリンプは本当につまらなそうな表情でまくし立て、また肩を払った。

 覚えていたのは意外だったが、もしかしたらアラスールが汚いと言いたいのかもしれない。


 いつの間にか明日の業務が増えていたようで、殴るどころか殺してやろうかと思ったが、ふと、いつもグリンプの背後にいる、付き人のような、あるいは置物のような魔導士たちがいないことに今さらながらに気づく。

 時間も時間だからか、あるいは彼らも駆り出されているのだろうか。

 どの道好都合だ。


「グリンプ氏。調査結果の最終報告者に確認を取りました。報告内容は誤りでしたが、本人はその報告をした覚えはないと。……その報告書が“書き換えられた”可能性があります」


 頭は回るようだから、そういうだけで事の重大さは伝わるだろう。

 その報告書が流れるルート、あるいは魔導士隊の中に、報告内容を操作した者がいる。


 だがグリンプは、短く息を吐き、眉を寄せ、アラスールをいつものように人を小ばかにするような、腹立たしい表情を浮かべただけだった。


「それで。その報告者や担当した旅の魔術師たちにはそれを直接伝えたのか?」

「っ、……いえ。ただ、本人たちは気づいたかもしれません。推測の段階で他人に話せることじゃないとは思いますけど」

「多少漏れるのは致し方ない。それでよろしい」


 アラスールは久しぶりに恐怖を覚えた。

 目の前の魔人は、あらかじめそれを知っていたかのように、やはりつまらなそうな顔を浮かべている。


 この可能性は重大な問題で、その上、広めるわけにはいかない。

 そのために、アラスールは嫌悪感を振り切って、早急にグリンプの元を訪ねたのだ。


 アラスールが話したニーガという報告者は慎重な性格のようだった。それだけで信用するわけでもないが、それなりに気を逸らしたつもりだし、いたずらにこの件を広めたりする可能性は高くない。

 実際に洞窟の中を見ている旅の魔術師枠のヒダマリ=アキラたちには不安が残るが、“幸いにも”何が起こるか分からない日輪属性の魔物が出現してくれた、という材料をもとに、フェッチが上手くうやむやにしていた。


 アラスールの部下のフェッチという男は、便利だ。

 彼を卑下しているつもりはない。

 突出した力は無いが、飄々としているようで統制力があり、頭も切れ、臨機応変という言葉が嵌る。アラスール同様、万能型だ。

 便利というのは誉め言葉である。

 ああいう男がいないと大小問わず部隊はまとまらない。具体的に言えばアラスールが好き勝手出来なかっただろう。


 だがそんな風に、部外者の自分たちが、ドラクラスの体制に強い危機感を持ち、奔走したというのに、その組織の終点に立つ魔人は、ついてもいない肩の埃の方が気になるらしい。


「グリンプ氏。これはドラクラス魔導士隊の体制に関わる問題だと思いますが? それどころか、調査不足の洞窟では、日輪属性の魔物の新種が確認されました。“ドラクラス自体”が被害に遭う可能性が高かったように思えますが?」

「“だからじゃないか”。何のために日輪を優遇者にしたと思っている」


 グリンプは、言葉に詰まったアラスールに、ふんと鼻を鳴らした。


「ヒダマリ=アキラ。ジェット=キャットキット。そして、魔導士隊が誇るマリサス=アーティ。彼らは事件の種を芽吹かせ……、“解決する”。魔導士隊の報告の不備などという小石、ドラクラスの移動のように踏み越えてくれただろう」


 声色は、いつものように嫌みったらしいものでしかなかった。

 だから、それが信頼と聞き取ることはできなかった。


 アラスールは御免被りたいが、グリンプと直接話せる立場の者は、恐ろしく少ない。いかに優秀な魔導士でも、“駒ですらない”。

 グリンプはアキラたちとも直接話をしたらしい。

 それはつまり、彼の頭の中、重要視している“駒”ということになる。


 数奇な運命を引き寄せる日輪属性。

 それは事件の種を芽吹かせる。だが彼らはこれまで、事件を芽吹かせて、“解決してきている”。

  “そこまでが”その駒の役割であるのだと、グリンプはロジックとして落とし込んでいるようだった。

 ゆえに不確定の情報でも、危険でも、そこへ放り込めば丸く収まる、裏技のようなものだ。


 そして“事実そうなった”。


 新種の日輪属性の魔物は被害が拡大する前に討伐され、洞窟は課題を残しながらも安定。

 そしてその洞窟はファクトルに繋がっている可能性があることまで推測が進み、ドラクラス以外の街や村にも警戒を促す通達がすぐにでも届くだろう。

 報告の改ざんの原因を探り、体制を組み、石橋を叩いた慎重な進行をするよりも、ずっと早く、ずっと安全な結果が目の前にあった。


「グリンプ氏。報告の改ざんの方は、いかがするおつもりで?」

「そちらの方はすでに調査を始めている。なに。じきに原因が特定できるだろう」


 最初から知っていたなら教えろ、と言いたくなったが、逆の立場なら一介の魔導士に伝えることがどれほど危険かは分かる。

 彼が、あるいは彼に言われた誰かが、すでに秘密裏に調査を開始しているらしい。


 ドラクラスの魔導士隊を手足のように使う、小奇麗なグリンプは、眉を寄せて咳払いをした。

 ここまで駆け込んできた熱気が引き、アラスールも自分の汚れた風貌が気になってくる。

 重大な問題だと考えてグリンプの元へ駆けてきたが、大海に小石を投げ込んだだけのようなもの悲しい気持ちを味わった。


「だがアラスール。よく最初に私に伝えようとした。評価しよう」

「……どーも」

「明日は遅れないように」


 アラスールは最低限頭を下げて、部屋から出た。

 これ以上余計なことを言わないように、聞かないように、疲れ切った足を強引に動かす。今度は羽にしては重い。


 久々に宿舎に戻り、早くシャワーを浴びて、酒でも煽って、温かいベッドで横になりたいが、その前に報告書やらなにやらをまとめる必要がある。

 そしてどうやら自分は、数時間後にここにいることにもなっているらしい。

 最初の経由ポイントでの“最大の問題”。それが計画されているのだから、止むを得ないのだが。


 せめてもの慰めで、グリンプを殴り飛ばさなかった右手へ愛情を込めてキスを送り、気合を入れて業務へ向かった。

 祭りにはしゃぐ人たちを尻目に、無理をして、命を削って、彼らを守るお仕事である。


 国仕えの悲しき性だ。


―――***―――


 数日後。


 魔導士隊や各種専門家にとっては業務で、民間人にとっては祭りで、移動直後の慌ただしいドラクラスの中、とある放送が響いた。


 ミルバリー=バッドピットにしては会心の出来の、珍しい放送だったが、悲しいことに拙くとも、“その者たち”の名を言うだけで、僅かにでも世事に明るい者であれば事足りる内容だった。


『絶対間違えない絶対間違えない絶対間違えない、間違えたら一日中お説教間違えたら一日中お説教間違えたら一日中お説教、お祭り行けなくなるお祭り行けなくなるお祭り行けなくなる……。よし!』


『…………んんっ』


『魔導士隊からのお知らせです。明日より、指定A、指定Bの方がいる依頼の受付が開始されます』


『本依頼は、参加した指定Aの優遇者全員が参加することを条件に有効となります』


『また、本依頼は、指定Aの条件を満たした上で、参加した指定Bの優遇者が、指定人数以上を満たすことを条件に有効となります』


『その他諸条件等、詳細は、依頼所で改めてご確認ください』


『指定Aの優遇者は、次に読み上げる2名となります』


『スライク=キース=ガイロード。エリサス=アーティ』


 その“奇跡”は、世界で僅か2回しか確認されていない。


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