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おんりーらぶ!?【第二部】  作者: コー
東の大陸『アイルーク』編
6/64

第18話『弱くてニューゲーム』

―――***―――


 物語は無数にある。


 ときに数多の人生が、ときに数多の作品が、この世界を物語で満たしていく。


 それが形をなすための媒体は様々だ。

 本で、テレビで、映画で、インターネットで。

 思考で、感情で、想いで、魂で。


 物語は紡がれていく。


 そしてそのどれもが、キラキラと輝いて、そこに在る。


 また、

 ときには、そのストーリーに惹きつけられ。

 ときには、その登場人物に惹きつけられ。


 人の眼も、キラキラと輝いていく。

 世界は、光で満ちているのだ。


 純粋無垢な子供に限らず、その、美しい物語たちは、ページをめくられるたび、人の心を躍らせ、人に、何かの意味を持たせる。


 そうやって、世界を輝かせ続けるのだ。


 だから世界は、優しくできている。


―――では、何故。


 “影”という存在もまたあるのだろう。


 決まっている。

 その光を受ける、“何か”があるからだ。


 しかし、その“何か”を、否定することはできない。

 その“何か”が―――その光を受ける者がいなければ、世界もまた、輝きを失ってしまうのだから。


 そして受けた光は、その者の中に、想いを創る。

 そしてその想いは、世界に光を与えるのだ。


 世界はそうして、影と共に輝きを増す。


 表裏一体の存在。

 あるいは、結果と対価の存在。


 光があるから影があり、影があるから光は強くなる。


 だが、もし、そうだとするのなら。


 世界を輝かすために、何かが陰らなければならないのだろうか―――


「……、」


 ―――そして。


 その“対価”ともいうべきものを払った存在が、ここにいる。


「……っ、」


 彼―――ヒダマリ=アキラは知っている。

 これまで起こったことを。


 “よくできた下らない話”。

 自分はまるでネット小説のように、選ばれた者―――“勇者様”となって、これまた現実離れした存在―――“魔王”を討った。

 大切なものを失って。


 彼―――ヒダマリ=アキラは知っている。

 これから起こることを。


 “よくできた下らない話”を、破壊する。

 自分はまるでネット小説のように、選ばれた者―――“勇者様”となって、これまた現実離れした存在―――“魔王”を討つのだ。

 大切なものを失わずに。


 キラキラと輝き、最期に大きく黒ずんだ、過去。

 今から始まるのは、まっさらな状態から書きつづられる、未来。


 過去は確定事項として、未来はそれを覆すために、それぞれの場所に在る。


 ただ。

 “スタート地点”は、本当に、まっさらだった。


「っ……、っ、」


 腕が痺れる、指先が痛い。

 なびく風は、アキラの命を刈り取る死神と化し、びゅうびゅうと吹きつけてくる。

 僅かに顔を動かせば、広大な大自然が目に飛び込んできた。

 “眼下”の町並みも、アキラの出身地―――いわゆる“元の世界”とは乖離した、時代錯誤の廃れた村。


 ここをアキラは知っている。

 ここは、この“異世界”。


 総ての始まり地、リビリスアーク。


「づ……、う、そ……、だろ……、」


 黒いシャツに、ジーンズ。そして簡易な青い上着。

 頭も軽く整えられ、冒険心半分の茶が若干入った色に“戻っている”。

 そんな風情のアキラは、しかし、そんなどうでもいいことを確認している余裕はなかった。

 瞳には力を込め、身体を支える四肢にはそれ以上の力を込め、奥歯を強く強く噛みしめる。


 無限のようにも、瞬く間の出来事のようにも思えた、“とある魔法”の結果が、“ここ”だ。


 “魔法”など、そんな非現実的なそれを、心の底からアキラは信じているわけではない。

 いや、なかった。

 確かに、夢は見ていた。だがそれは、あればいいな、程度のもので、根底には常識的な何かが根付いていたはずだ。


 だが、“これまでの出来事”はそんな常識を、あっさりと覆した。

 この世界では、それは当然に在り、また、当然のように認められている。


 その、異常。


 魔法の存在や、それを用いての戦闘。

 総てが常識として捉えられる、長い長い旅路。


 その、異常


 満月の下、総てが陰った、モノクロの世界。

 テキストを適当に読み飛ばすようにあっさりと終了した、“魔王”との戦闘という最終局面。


 その、異常。


 そこから、アキラは、


「こ……、ここ、……、ここ、から……!?」


 “必然的に”、高度数百メートルはあろうかという塔に張り付いていた。


――――――


 おんりーらぶ!?


――――――


 結論から言って、“不可能を可能にする少女”の魔法は成功したのだろう。

 アキラはそれだけは確信を持てた。


 そうでなければ、自分がここにいるはずはない。


 永遠のようにも、されど一瞬のようにも思える一間、アキラは意識を手放した。

 目を覚ましたときには、あの最終局面から昼夜は逆転し、太陽は天高く昇っていたのだ。

 吹きつける風も、砂埃の匂いがまるでしない、爽やかなそれ。

 殺風景な岩山ばかりの景色も、若葉萌える緑一色に変わっている。


 成功なのだ。

 自分がここにいるということは。


 だが、そうは言っても、流石に容易に容認できることではない。

 僅かにでも意識を手放せば、自分は間違いなく、落下する。


「っ、」

 この高さは知っている。

 村どころか近隣の山や村まで視界に映るのだ。

 こんな場所から落下するわけにはいかない。


 燃え上がっていた激情も今はなりを潜め、アキラはプルプルと身体を震わせる。

 だが、今は助かることだけを考えなければならない。

 そんな目前に迫る恐怖が、アキラを異常なまでに冷静にさせていた。


「―――、」


 状況の確認をしなければ。

 ここが、まっさらなスタート地点であることは間違いがない。


 ならば、助かる方法があるはずである。

 自分は、“勇者様”なのだから。


 結果論から導き出されるその強引な答え。

 ポジティブどころかパラノイアの域の考えだが、結局はそれを信じるしかないのだ。

 ついでに言うなら、アキラの四肢は予想より早く限界を迎えている。


「……、信じ……、てるぞ……、」


 傍から見れば、正気の沙汰ではなかっただろう。

 アキラはついぞ諦め、塔の壁にねじ込んでいた指を引き抜いた。


「づ―――、――――――」


 当然襲う、猛烈な浮遊感。

 身体中に暴風が叩きつけられ、眼下の景色に高速で接近していく。


 見えてくる、塔を囲う緑。

 そして、そこに用意された白い式壇。


「―――、」

 アキラは目を、こじ開けていた。

 瞳が潰れるほどの風を受けてなお、しっかりと。


 見える。

 確かに見えるのだ。

 儀式用の花嫁衣装のような服に身を包んだ、赤毛の少女が。


「……、」

 目を開けていてよかった、と思った。

 身体中から、先ほどなりを潜めていた激情が湧き上がる。

 自分が戻ってきた最大の理由を、確認できたのだから。


 さあ、あとは、“頼む”―――


「―――、……?」


 おかしい。

 完全な落下物体と化したアキラの背筋を、冷たい何かが撫でる。


 あのときは意識を手放したからおぼろげだが、自分は、“もっと前に助かっていなかっただろうか”。


 あの高さだ。

 落下すれば、アキラなど叫び声を上げる余裕すらなく、死亡する。

 いや、アキラでなくとも、人間では助かるはずもない。

 それは、必然。


 だから、“不可能を可能にする少女”の力がここで絶対に必要のはずだ。


「っ―――、」


―――“しかし、来ない”。


 地面は高速で、なおも速力を増し、迫ってくる。

 聴覚が風で遮断され、羽織った上着は暴れ回っている。

 眼下の彼女は、もう完全に表情まで視認できる。


 しかし、アキラは止まらなかった。


 このままでは、彼女を巻き込んで―――


「っ、」


 身体中から嫌な汗が噴き出す。

 早く、早く、早く。

 アキラは祈るように、訴えかけた。


 早く、“不可能を可能にしてくれ”―――


「っ、っ、――――、」


―――“しかし、来ない”。


 あの、世界で何よりも信頼できる、銀の光が。


「……?」


―――“しかし、来た”。


 “花嫁”―――白を基盤とし橙色のラインが入ったドレスを纏う赤毛の少女は、目を閉じて僅かに顔を上げる。

 儀式に集まった村人や、漆黒のローブを頭からかぶった魔術師たちが、焦り出している。

 誰かが叫び声を上げている。


―――そんな中。


 アキラには、“焦る余裕ができていた”。


「―――、」


 この感覚は知っていた。


 これは、“待っている”。


 世界が、自分の“応え”を―――


―――***―――


 夢を見ていた。

 それも、不思議な。


 右目を閉じれば、自分は柔らかいソファーに座り、低い視点からにこやかに笑う女性と遊んでいた。

 左目を閉じれば、自分は剣を振りかざし、高い視点から仲間と共に強大な敵と戦っていた。


 これは、夢だ。確認が早い。

 明晰夢とでも言うべきか。

 最近、よく見るような気がする。

 だが何故か、両目を同時に閉じることはできなかった。


 両目の映像は進んでいく。

 そしてほぼ、同じタイミングで、自分の中に嫌悪感が上ってきた。


 今は、両方とも、キラキラと輝いている。

 今は、両方とも、自分の好きな世界だ。


 今は。


 だから、その先を。


 自分に、視せないでくれ―――


「っ、ゃめ……、」

 叫びながら目が覚めたのは、恐らく初めてだ。

 身体はうっすらと汗ばみ、頭はズシリと重い。


 アキラはぼんやりと光る暗い室内の中、天井を見上げていた。


「はあ……、はあ……、」

 狂ったように口を開き、アキラは寝転んだまま空気の塊を吐き出した。

 アキラの身体の動きに呼応するようにベッドは軋み、アキラの脳を覚まし始める。


 暗さに慣れた眼が、ぼんやりとした光に手伝われ捉えた天井は、木造ペンションのような荒い茶色。

 ぶら下がっているのは、裸に近い豆電球のような―――マジックアイテム。

 周囲は、木造の壁に囲まれていた。


 ここは、知っている。

 自分が半月ほどお世話になった、リビリスアークの孤児院。

 アキラの自室だ。


「戻った……、のか、」

 夢に描き回された脳を落ち着かせ、アキラは身体を起こし、額に手を当てる。

 嫌な汗が浮かんでいた。


 未だ現実感がない。

 先ほど塔の上で確認したばかりのことも含め、総てが夢だったかのように思える。

 今襲いくるのは、倦怠感。

 だが、自分が今、見知った元の世界の自分の部屋ではなく、この孤児院にいる辺り、異世界の件は現実のようだ。


「……ご気分はいかがですか?」

「っ!?」

 突如、誰かの声。

 布団から這い出そうとしたアキラは、身体を瞬時にのけぞらせた。

 ほとんど反射で睨むように声の主に向き合う。


 最初からそこにいたというのだろうか。

 そこには、ベッドの脇に備え付けられた淡い光の隣、鋭い眼鏡をかけた女性が椅子に座っていた。


「え? え……!?」

「混乱されるのも分かりますが、ひとまず落ち着いて下さい」

「……え、あ、は、はい」

 歳は、二十ほとだろうか。

 つややかな黒髪をトップで纏め、給仕係のような格好をしている。

 膝の上には、今まで読んでいたのか分厚い本。

 ベッドの上、身体だけ起こしたアキラにどこか冷たい瞳を向け、その女性は眼鏡の縁に手をかけた。


「え、あ、あの、えっと、誰……、ですか……?」

「……、セレン=リンダ=ソーグと申します。あなたは?」

「え、は、ヒダマリ=アキラです……、」

「随分お休みしていたようですね。もう日は沈みましたよ」

「は、はあ、」


 セレンと名乗ったその女性の凛とした態度に、アキラは詰まりながらも言葉を返す。

 セレンはその様子に小さく頷くと、持っていた本を閉じ、隣の机に置いた。


「私からも聞きたいことはありますが……、とりあえず、ここは孤児院です。あなたは“入隊の儀”に突如現れて、ここで保護を。覚えていらっしゃらないのですか?」

「え、え……?」

「未だ混乱されていますね……。もう少し、横になられていた方が、」

「あ、はい」


 セレンに促され、アキラは渋々背をベッドの頭に預けた。

 それで一応は満足したのか、セレンは再び眼鏡の縁に手をかけ、くいと上げる。

 見た目そのままに、凛としたメイドのように感じられた。


「本来ならここは夜間男子禁制なのですが、手厚く看病をするように言い付かっておりますので」

「は、はあ……、」


 事情を聞いても、アキラは未だ理解できていなかった。

 ここは、本当にリビリスアークの孤児院なのだろうか。


 しかし、この部屋のレイアウトは、情けないことに長々居座ったせいで、よく覚えている。

 それなのに、目の前のセレンのことは、どうしても思い出せない。

 こんな女性は、この孤児院には、


「……?」


 アキラは自分が下そうとした結論に、眉を寄せた。

 違う。

 自分は、この女性を“知っているはずだ”。

 伝聞ではなく、確かに出会った。


 では、どこで。


「……あの、セレンさん?」

「はい」

 無機質な機械のような声が返ってくる。

 暗がりでも分かる、彼女の鉄面皮とでも言うべき表情。

 本来なら、このような女性に看病してもらっていたことはアキラにとって歓喜物のイベントのはずなのだが、今はどこか不気味なだけだった。


「俺は……、今、じゃない。ここは、どこですか?」

「ですから孤児院です。リビリスアークの。私はここでお手伝いをしております」


 一縷の望みを託した質問も、アキラの予想通りの答えが返ってきた。

 やはりここは、リビリスアークの孤児院。

 だが、彼女の存在は、


「……っ、」

「どこか痛むのですか?」


 痛むことは、痛む。

 指先やつま先から、塔の壁に押し込んでいたせいでジンジンと痛みが上ってきている。

 身体は異常なまでに重い。

 だが、それよりも酷いのは、頭。

 頭の奥が痛み、それを取り出そうとしても混乱が邪魔をするのだから始末に負えない。


「い、いや、大丈夫……、です」

 一体何だというのか、この違和感は。

 自分は、彼女を知らない。

 だが、それなのに、彼女を“知っている”。


「大丈夫ならば、私の質問に答えていただけますか?」

「……ええ」


 もう駄目だ。

 セレンに質問をしても、アキラの霧は晴れないだろう。

 まさか、ここにいないはずですよね、などと聞けるわけもない。


 ならば、とにかく会話をして、情報を集めなければ。


「あなたは……、アキラさん、でしたっけ? 塔の上にいたんですよね?」

「……、」

 メイドのわりに、どこか棘のあるセレンの口調に、アキラは委縮した。


「……いや、記憶が、なくて、」

「……、」

 本当のことなど、話しても通じないであろう。

 結局アキラは、曖昧な言い訳をセレンに返した。


「記憶喪失ですか?」

「……え、ええ」

「ですが、魔術師ですよね?」

「……、い、いや、それも、」

「……、」

 尋問のような問答を繰り返すうち、当然のことだがセレンの眼鏡の奥の瞳が鋭さを増した。

 初対面のはずなのに、彼女から敵意のようなものを感じるのは何故だろう。


「しかし、私は、アキラさんが魔術を使うのを見たのですが」

「…………え?」

 セレンの瞳は、それだけで、アキラを射抜くようだった。

 しかし、それよりもセレンの言葉。


 魔術?

 一体自分が、いつそれを。


「……!」

「?」


 『どうかされましたか?』

 そのセレンの言葉を、アキラは聞き流した。


 聞いた。

 “過去”に、聞いたのだ、その言葉は。


 そして、もう一つ、気づいたこと。

 自分は、気を失う直前、塔からの落下の最中、いつまで経っても来ない銀の光を諦めた。

 その、あと、


「……、そう、か、」

 そうだった。

 思い出した。

 自分は、“自力で助かったのだ”。


 火事場の馬鹿力とでも言うべきか、それともご都合主義とでもいうべきか。

 “不可能を可能にできるもう一つの属性”―――自分の、日輪属性の力で。


「……まさか、異世界から来た、などとは言わないですよね?」

「っ!?」

 動きを止めて思考を進めていたアキラに、セレンの冷えた―――それでいて、的を射た言葉が届いた。


「いっ、“異世界”?」

「……失礼ですが、この辺りではあまり見ない服装ですよね?」

 セレンの瞳は、部屋の隅にかかったアキラの上着に向いた。

 その青い上着は、確かにアキラもこの世界ではあまり見なかったものだ。


「……いや、その、多分、そうです」

「?」


 どうする。

 正直、ここでセレンに自分の境遇も、自分の違和感もこの場でぶちまけたい衝動に駆られている。

 だが、何故か妙な敵意を向けてくるセレンにそんな言葉を吐き出す勇気は湧かない。


「……どうやらまだ、本調子でないようですね。私はそろそろ、お暇させていただきます」

「……、え、ああ、ありがとうございます」

 何とか紡いだアキラのこの場を背に受け、セレンは本を掴んで部屋のドアに向き合った。


「できれば夜間は、出歩かないようにお願いいたします。必要なものはそちらに置いてあると思いますので」


 僅かに振り返ったセレンは、アキラの枕もとに置いてあったコップと水差しに視線を向け、ドアに手をかけた。


「こちらの部屋を使用して結構です。明日また、事情をお聞かせ願いたいのですが」

「…………はい」

 退室するなという注意が先。

 やはり、彼女は、“アキラに心を開いていない”。

 ドアが閉まるまで、アキラはそのままの体勢でいた。


「……、」

 さて、どうすべきか。

 セレンには悪いが、アキラにはそのままじっとしている気はまるでなかった。


 まず、状況が分からない。

 そもそもここは、本当に自分が知っているリビリスアークだろうか。

 セレンなどという女性は、知らない。

 そして、それだけならまだしも、自分は彼女を知っているような気がするという矛盾を抱えている。


 矛盾は混乱を生み、混乱はアキラの頭をかき回す。

 これは、激情に任せてしまった結果だろうか。

 何もかも不明瞭だ。


「……、」

 アキラはわきに置いてある自分の靴を見つけ、ベッドから降り立った。

 身体はギシギシと痛み、頭はそれ以上。

 乱暴にコップに水を差し、カラカラな喉を潤しても、無機質に食道を通るだけだった。


 だが、どの道、このままでは眠ることができない。


 自分は、何をすれば―――


「……!」


 そうだ。

 “その案”を思い浮かべただけで、アキラの身体に活力が湧いた。


 別にいい。

 この混乱は、“自分が考える必要はない”のだ。


 現状把握の完全な方法。

 それは、まず、“彼女”に逢うことだ。


「っ、」


 いても立ってもいられず、アキラはドアを開けた。

 一応セレンに見つからないように慎重に外の様子を覗い、そろりそろりと部屋から出る。

 ただ、閉じるときは、大げさな音になってしまった。


 だが、それでもいい。


 “彼女”にさえ逢えれば、それで総てが解決する―――


「……、」


 アキラは見慣れた孤児院を進み、迷うことなく階段に足をかけた。

 三階に上り、なおも階段に足をかける。


「……、」


 慎重に、ゆっくりと。

 しかし、大股で。


 階段を上りきり、その正面のドアに手をかける。


「……?」


 その扉は、ぴったりと閉じられていた。


「……、」


 そこで、アキラの身体は今まで以上に震えた。

 あるいはあの塔の頂上に張り付いていたときの恐怖さえ凌駕し、ドアノブをひねることができない。


 そうだ。

 もうこの時間なら、“彼女の瞳のように”ここは半開きになっていなければならない。

 もうこの時間なら、とっくに“透き通るそれ”は聞こえていなければならない。


 そしてそもそも、自分は、あの塔で自分の力を使う必要などなかった。

 自分などよりも遥かに早く、“彼女”は状況を把握し、アキラを救えたのだから。


「……、」


 階段を上っていたときの高揚は一気に冷め、アキラは機械的な表情でドアノブをひねった。


 頬をくすぐる、外気。

 雄大な自然に、すっと広がる町並み。

 高い塔。


 その屋上では、満月と星が世界を満たしている。


「……、」

 だがアキラは、そんな絶景を僅かほども視界に入れていなかった。

 見ているのは、屋上の縁、ただ一点。


―――そこは、無人だった。


「……そ、そう、だった……」


 ドアに手を当てたまま、アキラは小さく呟く。


 ようやく思い出した。

 その事実に。


「っ、マリス……、」


 “不可能を可能にする少女”―――マリサス=アーティは、ここにはいない。


―――***―――


 状況の整理は、あまりに簡単だった。

 自分の混乱も、セレンの正体も、アキラは即座に理解する。


 自分の中には、二つの記憶が内在しているのだ。

 “一週目”の記憶と、“二週目”の記憶。


 自分が今、確かに覚えているのは“二週目”の記憶だ。

 その世界では、マリサス=アーティはこのリビリスアークに存在し、自分と共に旅に出た。

 そしてその規格外の力を、存分に振るってくれたのだ。


 だが、“一週目”は違った。

 彼女が仲間になったのは、ここではない。

 なったのは、ずっとあと。

 そうだったのだと、“思う”。


「……、」

 屋上の壁に背を預け、アキラは“あのとき”とは違い、たった一人でそこに座り込んでいた。


 “一週目”の記憶。

 それは、おぼろげだった。

 というより、封がされているといった感じか。

 マリサス=アーティがいないという衝撃で、アキラの中のその封の一部がはじけ飛ぶ。


 こちらが開封されるのは、特定の“刻”を刻んだときだけなのかもしれない。

 “二週目”の最期、僅かに取り戻したとはいえ一度は対価に差し出した“時間”だ。

 流石に完全な状態で“三週目”に持ち込むことはできなかったのかもしれない。


 だが、漏れ出した記憶は、確かに役に立った。

 まず、セレンの存在。

 彼女は、マリサス=アーティがこの場にいないゆえに、この孤児院に雇われた女性だ。

 それは、“一週目”の記憶。

 自分と彼女は、確かにあの場で出会っている。


 思えば“二週目”、自分たちが旅立ったあと、雇われていたかもしれない。


「……、」

 状況は整理できた。

 だがそれでも、アキラの背筋は冷えていく。


 正直、マリサス=アーティの存在を頼りにしていた。

 この“三週目”の旅路に、彼女がいることを前提に考えていた節がある。


 “二週目”、マリサス=アーティがこの場にいた理由は分からないが、ともあれ現状、彼女はいない。


「……、っ、」

 アキラは拳を握り絞め、軋む身体を強引に立たせた。

 そして、ドアの前に立ち、最後に一瞬振り返る。


 満天の星空の下、やはり彼女はいなかった。


「……、」

 階段を、ゆっくりと降りる。

 アキラの頭の中、混乱の一部は晴れたが、その代償は、あまりに大きい。

 そして体は、やはり重かった。


『―――、』

『……、―――、』


 ほとんど生気の抜けたような表情のアキラが二階まで降りると、どこかの部屋から誰かの声が聞こえた。


 いや、誰かではない。

 その声を、自分は知っている。


 そうだ。

 そもそも自分は、そのためにここにいるのだった。


「……、」

 だが、何故だろう。

 それが最大の目的のはずなのに、何となく、気が進まなかった。


「……、」

 いや、気のせいだ。

 アキラは足を引きずり、いくつも並ぶドアの一つに歩み寄る。

 ここは、“彼女”の部屋だ。


 話を、しなければ。


『嘘……、ですよね?』

『エリサス、落ち着いて』


 その名を聞いて、やはり、どくん、と身体が跳ねた。

 ノックしようとした腕が、そのまま止まる。

 どうやら先ほどのセレンもいるらしい。

 だが、よかった。

 “彼女”は、いる。


『で、でも、じ、事故での中断ですよ?』

『確かにそれなら大丈夫なんだろうけど……、問題はそこじゃないの』


 空気は、穏便ではなかった。

 ドアから聞こえる二人の声。

 どこか子供をあやすようなやり取りにも聞こえた。


『い、言って下さい』

『だから、今日は止めときましょう? ほら、もう遅いし』

『……お願いします。そうじゃなきゃ、眠れない』

『……』


 二人のやり取りが、どういうものかアキラには分かってしまった。


 自分はまた、“彼女”の邪魔をしたのだ。


『ねえエリサス、聞いて。明日私が、いろいろ調べてみる。だから、そのあとじゃ駄目かしら?』

『それならそれで……、今、聞いておきたいんです』

『エリサス』

『お願いします……!!』


 それ以上、アキラは聞いていられなかった。

 気取られぬようにドアから離れ、廊下をとぼとぼと歩く。


 階段を降り、一階に向かい、そのまま外に出た。


 “一週目”も、そんなことをしたはずだ。

 きっと彼女は、あのあと、泣くのだろう。


 いつものように喚いてではなく、度重なるショックを一度に受け、しんしんと。

 そんな声を聞きたくなくて、自分はここを離れたのだ。


 念願の入隊を流され、その上で、見知らぬ男との婚姻。

 原因は、嘘の許されない場で婚約をしてしまった、という、下らない“しきたり”に準じるもの。


 それで、錯乱状態の彼女は、まだ見ぬアキラに対し―――いや、自分の運命に対し、呪詛のような言葉を口にするのだ。

 セレンがなだめなければ、心が壊れていたかもしれない。


 ここでの彼女は、“そう”なのだ。

 それを、思い出した。


「……、」


 単なる格好つけ。

 あのときの自分も、この場所に留まることを意識的に避けた。

 セレンも“彼女”をなだめていても、アキラに対し、好意的なことは言わなかった気がする。


 この孤児院において、自分は害悪なのだ。

 だからせめて、自分は遠くに。


 過去の自分も、それを選択した。


「……、」


 孤児院の扉を開け、庭を歩き、門の横に座り込む。

 現在、村長の家でアキラの処遇について話しているであろうこの孤児院の主は、裏口から入る。

 むしろここは朝まで、見つからない場所だ。


「なんだってんだよ……、マジで」

 きっと、あのときも、自分は同じ言葉を口にした。

 度重なる混乱と共に、アキラは目を閉じる。


 今日はもう、何も考えたくない。

 もう、どうにでもなれ。


―――***―――


 目覚めは、あまりに深いまどろみの中だった。

 夢ではない。

 早朝の空気を感じるし、小鳥の声が遠くに聞こえる。


 そしてアキラの頭に浮かぶ、数々の思考。

 自分の脳は、どうやら寝ている間に分析を進めてくれるほど優秀になったらしい。


 だが、それは、あまり気持ちのいい時間ではなかった。


 まず、当然に、“彼女”は自分のことを覚えていない。

 それは、昨日の盗み聞きした会話から明らかだ。

 そして今、人生の大きな転機に、心を痛めている。


 そして、マリサス=アーティは、いない。

 あの屋上で、透き通るような“唄”は響いていなかった。

 彼女が今どこにいるのかすらも、アキラには分からない。


 ここは、総てがまっさら。

 唯一あるのは、自分の想いだけ。

 “三週目”という言葉に意味を持っているのは、自分だけだ。


「……、」


 現状を把握し終えたアキラの脳は、しかし、動け、という指令を与えてこなかった。

 身体を虚脱感と倦怠感が襲う。


 こんな当然のことすら、考えていなかった。


 “総てが巻き戻った”今、自分のこの想いは、役に立つのだろうか。

 少なくとも、これがなければ、もっと、自分は楽ができたはずなのだ。


 何も知らない、あの頃の自分でいられたというのに。

 自分は、何をやっているのだろう。


―――その想いを持ち込む対価まで払って。


「…………俺、本当に死ぬのかな……?」


 おぼろげに“夢”から覚め、アキラは右をかざして見た。

 眩しい朝日にかざしたそれは、今は何の力もない。

 本当に、透き通るように冷えていた。


 “それ”を失い、自分は対価を払ってまでも“想い”を持ち込んだ。


 未だ現実感が湧かない。


 “あのとき”。


 『魔王を倒す“刻”をもって、俺はいなくなる』


 という問いかけに、彼女は、


『今は激情に任せているだけで、いつか後悔する』


 と、応えた。


 確かにそうだ。

 あのときは、ただひたすらに、その光景を受け止められなかったゆえに、自分は暴走し、それを望んだのだ。


 だが今、アキラには、その後悔さえ浮かんでいなかった。

 現実感がまるでない。

 本当に、あれの冒険が夢だったようだ。


 今あるのは、そんな夢から覚めた、無気力感。

 自分は一体、これからどうすればいいのだろう。


「……?」

 身体を覚醒させ、アキラは気づいた。

 自分は“あのとき”と同様、毛布にくるまれている。


 これは、まさか、


「お目覚めですか?」

「っ、」


 アキラの愚かな期待は、門から出てきた愛想のない女性に打ち砕かれた。


「おはようございます」

「……、はい、おはようございます」


 “同じ無表情”でも、セレンのそれには、アキラは好感を持てなかった。

 マネキンに眼鏡をかけただけのようなセレンの様子は、人が本来持つ温かみも欠如しているようにも見える。


「そちらでお眠りになるようでしたら、お申し付け下されば、毛布以外にもお持ちできたのですが」

「……、っ、いや、ごほっ、ごほっ、」

「おや、風邪ですか?」


 あるいは昨晩以上に、セレンはアキラに敵意を向けているようだった。

 爽やかな朝の空気に混じった不純物。

 どうみても、セレンはアキラを嫌っている。


「毛布、ありがとうございました……、ごほっ、ごほっ、」

「いえ、務めですから。中に入っていただけますか? お話があります」


 あからさまな態度に、アキラはむっとしながらも立ち上がる。

 立ってみて分かったことは、セレンの背丈は思ったより小柄だということと、身体を襲う悪寒だった。


「……、」

 門をくぐり、庭を歩きながら、アキラは周囲を見渡した。

 アキラが子供たちに話を聞かせていた木も、簡単に用意されている児戯具も、見覚えがある。


 それなのに、ここは全く別の空間のような気がした。


「……セレンさん、俺、入って大丈夫ですか?」


 だから、だろうか。

 アキラはかすれ声で、セレンの背に問いかけた。


「……正直、私は少し、あなたを見直しました」


 アキラの言葉をどう取ったのか、セレンは足を止め、振り返った。

 しかし言葉とは裏腹に、表情は相も変わらぬ鉄面皮。

 やはりアキラは、この女性が苦手だ。


「あなた、もしかして、昨日の話をお聞きになっていたのでは?」

「……、え、それは、」

「夜間の出歩きや盗み聞きは褒められることではありませんが、それはいいでしょう」


 アキラの詰まった言葉をあっさりと読み取り、セレンは冷ややかな声で続ける。


「大方の事情は聞いたでしょう。でなければ、外で寝ようなどとは思いませんものね」


 “一週目”。

 そんなセレンの言葉に、アキラはどこか震えていたのを覚えている。

 未だ仕事の手際を見ていないのに、セレンが、総てを推測するほど能力の高いメイドのように感じた。

 そのご都合主義的キャラクターを前に、異世界来訪という歓喜。

 それらが、入り混じっていたのだ。


 そして、“彼女”の言葉を聞き、アキラはいたたまれなくなって外に出た。

 そこまでセレンに推測されているようで、そして、評価されているようで、アキラはどこか嬉しくなったのだ。

 だが今は、まるで心が躍らない。


「正直、エリサスは今回の試験に賭けていましてね」

「……、」

「昨日は、錯乱していたのでしょう。感情制御が下手になっていて……。昨日の言葉は、話半分に聞いておいて下さい」


 その言葉は、アキラは“今回”聞いていない。

 だが、おそらく“一週目”と同じ内容だ。


 自分の悲運。

 世界の冷酷さ。

 そして、嗚咽。


 それはかつて見た、“神”に祈りを捧げていた群衆のような“弱々しさだった”。


 封が取れた“一週目”の記憶は、アキラの頭の中に、僅かな“黒い思考”を積もらせる。


「……私と入れ違いに孤児院を離れた方の話ですが、」

「……、……!」

 セレンは立ち止まったまま、小さく呟いた。

 アキラも閉じかけていた瞳を、こじ開ける。


 セレンの言葉。

 恐らくこれは、日輪属性のスキルとは関係ない。

 セレンは孤児院に入る前に、“彼女”の心情を察するよう、アキラに事情を説明するつもりだったのだろう。


「エリサスの双子の妹です。聞いた話では去年魔術師隊に配属されて、もうすでに激戦区の魔道士隊で務めています。異例の早さでね」


 “一週目”。

 アキラは何の話をしているか分からなかった記憶がある。

 だが、今は分かった。

 これは、あの、“不可能を可能にする少女”の話だ。

 そうでなければ、そんな偉業は達成できないだろう。


 未だ記憶の封は解けない。

 それでも、身体が震える。

 もっと、その話を、


「…………、えっと、それは……?」


 しかし、アキラは眉を寄せるだけに留めた。

 自分は、“事情を知っていてはならない”。

 ここで下手な言葉を紡げば、セレンから完全に危険人物扱いされ、“ヒダマリ=アキラは異世界来訪者”という図式が成り立たなくなる。


「……本当にご存じないようですね。まあとにかく、優秀な妹がいるのですよ。エリサスには」

「はあ……」


 これは、中々辛かった。

 どうすれば、怪しまれずに突っ込んだ話ができるのだろう。

 アキラが思考を進めている間、話はすでに、“彼女”の現在地から離れていた。


「去年、エリサスと共に“とある試験”を受けたのですが……、」


 セレンはアキラが事情を知らないことをついぞ認め、専門用語を避けて解説し出した。

 もしかしたら今まで、鎌をかけられていたのかもしれない。


「まあ、結果はエリサスだけがここにいることから、分かりますよね?」

「……、」

 アキラは無言を返した。


 そのときのエリサスの心情は、察するまでもない。

 あのマリサス=アーティだ。

 きっと、年齢制限うんぬん以前に、とっくに魔術師隊から誘いが来ていたのだろう。

 それを、姉と共にあえて受けた。


 結果は、妹だけが、受かるという無情なもの。

 それだけに、エリサスは今年に賭けていた。


 自分がご都合主義だとかぬかしていたあの事故は、それほどまでに、重かったのだろう。


「私はこの孤児院に努めていますが、正直なところエリサスの魔術の教師としても雇われたのです」

「……、セレンさん、詳しいんですか?」

「ええ。弟が優秀で……、まあ、弟の方は魔術師試験を受けず、旅をしていますが」


 アキラは目を閉じ、過去の記憶を反芻した。

 確かに、彼女と全く同じ会話をここでしたのだ。

 そして同じように、自分はここで胸を締め付けられた。


「身内自慢になってしまいましたね……。まあそれより、本題です。昨日聞いたでしょう? あなたたちの境遇を」

「……、」

 “一週目”では、夢だと思って聞き返したのを思い出した。

 だが、今はそれをする必要は、ない。


 “それ”は、これから始まる旅路の、“前提条件”だ。


「あなたは“それ”を、望んでいますか?」

「……いえ。望んでいません」

 アキラは小さく返した。

 自分がこう言わなければ、始まらないのだ。


「……それを聞いて安心しました。では、とりあえずこちらへ」


 ようやく、セレンの敵意が分かった。

 彼女は、やはり、自分を嫌っている。

 自分が教鞭をとった生徒の晴れ舞台を、アキラはぶち壊したのだ。


 だからこそ、彼女は、アキラに愛想を見せない。


 セレンに促されるまま、アキラは孤児院の扉に向かう。

 頭は割れそうに痛み、身体は軋む。


 そして心は、壊れそうだった。


―――***―――


「どうも……、エリサス=アーティです……」

「……ああ、ヒダマリ=アキラです」


 まず驚いたのは、自分がその少女を見て、ほとんど心が湧かなかったことだった。


 セレンに通された、応接間のような部屋。

 椅子に座り、机の向こう側に生気の抜けた表情でいるのは、エリサス=アーティ。

 赤毛も、今は力のない大きな瞳も、アキラの記憶と完全に一致している。


 ついに、正面からきちんと捉えた“彼女”。

 それなのに、自分はただ、それを“出会い”と認識してしまっている。


 身体に悪寒が走った。


「あの……、…………エリサスさん?」

「……エリーでいいです」

「あ、ああ、」


 アキラの問いかけにも、エリーは無表情のまま言葉を吐き出しただけだった。

 口調もよそよそしい。

 やはり彼女は当然に、自分のことを知らないのだ。


「エリサス、飲みなさい」

「だからエリーで……、……? ああ、セレンさん」

 目の前にお茶を置かれて、ようやくエリーはセレンの存在に気づいたようだった。

 もしかしたら、エリーはアキラのことにも気づいておらず、機械的な反応をしているだけなのかもしれない。


「……アキラさん。とりあえず、お聞きしたいことがあるのですが」

「……はい」


 アキラも、セレンに機械的に反応した。

 ここで“生きている”のは、セレンだけのように思える。


「あなたは、異世界から来た、と申しましたね?」


 セレンの質問は、気分的に、尋問のようにアキラは感じた。


 まず異世界の文化や環境を聞かれ、異世界からどのようにここに来たかを聞かれ、そして反復させられる。


 文化や環境は、思ったよりも簡単に答えられた。

 旅の道中、みなに話して聞かせていたものだ。

 それどころか、かつて、全く同じような会話をここでセレンとしたのだ。


 科学的な自分の世界と、魔術的なこちらの世界。

 信仰にはあまり執着が見られない自分の状況と、信仰が強いこちらの状況。

 学力が主として求められる自分の環境と、魔力が主として求められるこちらの環境。


 “その差異を認識していないように”、適当に話していく。


 そして、ここに来た手段は、やはり分からないとしか答えられなかった。


 “自分は、気づいたら塔の上に張り付いていたのだ”。


 最後の反復でも同じ答えを返し、今度こそ僅かにでも信用したのか、セレンは小さく頷いた。


 自分は、一体いつから嘘を吐くのがこんなに上手くなったのだろう。

 アキラの心は乾き、ただひたすらに“演じる”。


 その間、エリーは口を挟まず、アキラもそちらを見なかった。

 かつても、昨日の彼女の様子から、触れぬようにしていたのを思い出す。


「……セレンさん、婚約解消する方法はありませんか?」


 ようやくセレンの“尋問”が終わり、アキラは意を決して口を開く。

 “その言葉でようやくエリーは顔を僅かに上げた”。


 なんて“弱々しいのだろう”。


 彼女の関心を惹く事柄は、きっと、今はそれだけなのだ。


「……実は、正確なことは分かりませんが……、一つ、いや、これは、」

「あの、話して下さい」

 エリーが口を開く。

 どこかすがりつくようなその様子を、アキラはぼうっと眺めていた。


「“魔王討伐”、です」

「……!」


 エリーの顔色が変わる。

 一方アキラは、その“規定事項”に、さしたる感情も持てなかった。


「昨日の今日で私も調べ切れたわけではないのだけど、エリサス、聞いたことがあるでしょう? “特権”を」

「え、それは、えっと、どこかで、で、でも、」


 エリーが信じられないといったような顔で、言葉を漏らし続ける。

 あのときの彼女は、“そのこと”について、そこまでの動揺をしていなかったはずだ。


 “いつもは”強気な瞳も萎れ、身体にも活力がない。


 一体何故、彼女は、弱々しいのだろう。


 “彼女”なら、この場面でも、もっと―――


「……、ぁ……、」

「? アキラさん?」


 セレンが眉をひそめる。


だがそれに視線一つ配らず。


 総てが崩れていくのを感じていた。


 そう、だったのだ。


 ようやくアキラは理解した。

 いや、してしまった。


 ずっと、心にあった、黒い悪寒。


「……、ぁぁ……、」

「……?」


 アキラから漏れる声にも、恐る恐るといった表情を彼女は浮かべる。


 理解、した。


―――このエリーは、自分の知っている“エリサス=アーティ”ではない。


「……、」

「あ、あの、どうし……、たんですか?」


 アキラの様子に、エリーがようやく言葉をかけてくる。

 だが、その他人行儀な言葉は、認識することすらできなかった。


 “二週目”。

 エリーは、気丈だった。

 それこそ、怒鳴るように叫べるほどに。


 何故なら彼女には、最愛の双子の妹―――マリサス=アーティがいたのだから。

 その、“守るべき対象”。

 その存在の代わりにいるのは、逆にエリーの姉のように凛としたセレン。

 彼女は“頼られる存在”ではない。


 “不可能を可能にする少女”―――マリサス=アーティの存在は、エリーに“不可能”という概念をあやふやにさせていたのだろう。


 マリサス=アーティの存在は、エリーに、妹を守るという“義務感”と、不可能をあやふやにさせる“夢”という矛盾した二つの要素を与えていた。


 守る存在で、守られる存在。

 その分、彼女は妹にコンプレックスを覚えていたが、それで“二週目のエリサス=アーティ”だったのだ。


 “一週目”の彼女を思い出せない。

 だが、記憶に残った“二週目”の彼女とのギャップ。


 それが、この悪寒の正体だった。


 ならば、この、想いは―――


「……、」

「ね、ねえ、顔色悪い、ですよ……? 何を、」


―――ここには、繋がっていない。


「…………俺さ、夢があったんだ……、」


 全身から力が抜けていく。


「最近見つけたばっかだけどさ……、資格、一つ取ろうと思ってたんだよ」

「……?」


 口からは、持ってきた想いが、魂ごと抜けていった。

 紡ぐ言葉は、誰にも、届かないだろう。


「俺馬鹿だから……。すっげぇ難しいらしくてさ……、それで、教えてくれって頼んだんだよ。“師匠”に」


 俯いて、目を閉じた。

 何を自分は、“清算するようなこと”を口にしているのだろう。


「でも多分、そんな資格なんて、どうでもよかったんだ」


 アキラの手のひらは、額を抑えた。

 ずっと、総てを蹂躙してきたその右手。

 それは、アキラに何も与えてくれなかった。


「そいつとさ、一緒にいられれば、って。……そんだけ」


 そしてそれはもう、叶わない。


 時間を巻き戻すという大罪。

 そしてその対価―――自分の未来の喪失。


 それは、総ての世界を閉ざしていた。


「……、ま、まあ、とにかく。アキラさんも、エリサスとの婚姻には納得していないんですよね?」

「……ああ」


 セレンには、異常なまでに冷たい言葉を返していた。

 それを受けて、僅かにセレンも雰囲気を変える。


 ただの同情だろう。

 “元の世界から異世界に来て”、総てが壊れたのがエリサスだけではないと気づいただけの。


 そして自分は、その同情すら受け取る資格がない。

 ここを選択したのは、他ならぬ自分だ。


「あ、あの、」

「……、」


 エリーの言葉が聞こえても、アキラは顔を上げなかった。

 耳鳴りの向こう、エリーが何かを言っている。

 だがそれも、“同情”だった。


「……悪い。続けて下さい。セレンさん、婚約破棄の方法を、」

「は、はい、」


 塞ぎ込んでいても仕方がない。

 ただアキラは、“規定事項”を淡々と進めるべく、顔をゆっくりと上げた。


「私もそちらの方は詳しくないので……、まず、“ヘヴンズゲート”に行って“神族”の方に確認をした方が、」

「あ、あんな所まで行くんですか……?」

「ええ、そこでなら、詳しい人もいるでしょう」


 目の前で物語が進んでいく。

 本来そこに嗅ぎ取るはずの高揚は、アキラには全く湧かなかった。

 ただ、無敵のデータバンク―――マリサス=アーティがいなければ、その確証を得るために、あそこに行く必要性があるのか、という程度だ。


 ヘヴンズゲートには、“神界に繋がる門”がある。

 そこに行けば、“神族”に逢って確認できるかもしれない。


「でも、ヘヴンズゲートに行っても、“神族”の方に逢うなんて、」

「いえ、それが、」


 セレンの視線がアキラに向く。

 エリーもそれに倣い、二人の視線が集まったアキラは、“何のことか分からない顔を作った”。


「アキラさん。心中お察ししますが、元気を出して下さい。あなたは、“勇者様”に選ばれたそうです」


 とても栄誉あることのようにセレンが発した言葉。


 それに対して、驚いた“演技”までは流石にできなかった。


―――***―――


「分かってたはずだろ……、んなことは……」


 アキラは自室に戻り、そのままベッドに突っ伏した。

 頭はずきずきと痛み、身体は鉛のように重い。

 そして体を襲うのは、これ以上ない倦怠感。


「……、」


 人とは、一体どういう風に形作られるものなのだろう。


 先天的なものと、後天的なもの。


 その二つの要素で決定していくと聞いたことがある。


 あらゆる経験を先天的なものが受け取り、後天的に蓄積されていく。


 つまり、全く同じ経験をしても、先天的なものが違えば同一人物にはならない。

 そして、全く同じ“器”があったとしても、後天的なものが違えば同一人物にはならない。


「……、」


 分かり切っていたことだ、それは。

 だが“あのとき”、自分はそんなことを全く考えていなかった。


 ここはただの“続編”。

 続く日々が、戻ってくると思っていただけだった。


 何故、“マリサス=アーティ”はいてくれないのだろう。

 彼女がいれば、“エリサス=アーティ”は“エリサス=アーティ”のままで、こんな混乱はしなかった。


 いや、だが。

 この“三週目”は“一週目”に準拠している。


 ならば、これが、“世界のあるべき姿”なのだろうか。


「…………、関係ない……、」


 アキラは枕に突っ伏したまま、くぐもった声を漏らした。


 そうだ、関係ない。


 ここは旅の始まりの地。

 そんな場所で、いじいじとしている場合ではないのだ。


「そうだ……、そうだ……、」


 僅かにでも気を抜けば、頭の隅から押し寄せる黒い世界。

 それを振り払うために、アキラは何度も呟いた。


 “彼女”が自分を覚えていない。

 “彼女”が“彼女”ではない。


 だからなんだというのだ。


 すっかり萎えてしまったが、あの激情。

 それだけは、確かに覚えている。


 自分は総てを捨ててでも、運命を塗り替えたいと思ったではないだろうか。


「……、」


 アキラは起き上がり、ベッドに深々と座り込む。


 落ち着け。

 自分に今必要なのは、落ち着くことだ。


 この世界に来たことを、“後悔することは許されない”。


 “責任感”からか、それとも“罪悪感”からか。

 アキラは、心を麻痺させた。


「……、」


 状況を整理しなくては。

 考えるまでもなく、さくさくと進んだ“二週目”とは違う。

 ここでは総てがまっさら。


 “自分”が、考えて進まなければ。


 “マリサス=アーティ”がいない以上、いや、“例えいたとしても”、それを“言い訳”に考えることを放棄することは許されない。


 人任せチート任せの“二週目”とは、まるで状況が違うのだ。

 考えることが苦手だろうがなんだろうが、関係ない。


 “自分が調べ”、“自分が考え”、“自分が動き”、“自分が評価する”。


 そう在らなければならないのだ。

 そしてそれだけの決意を、自分は“二週目”から持ってきたのではないのか。


「……、」


 状況整理となすべきことを考える。

 アキラはそれを、何度も頭の中で繰り返した。


 今は、“三週目”の世界。

 エリーは自分を覚えておらず、マリスも何故かいない。

 そして自分は“リビリスアークの勇者様”に認定され、旅に出る。


 目指す先は、“神族”のいる“ヘヴンズゲート”。

 目的は、“婚約破棄”の確認だ。


 実際、“今行っても入れない”のだが、“それを自分は知らない”。


「……、」

 頭を軽く小突き、アキラは目を強く閉じた。


 頭の中で何度も、どうする、どうする、と反芻し続ける。


 ここで彼女たちに自分が“繰り返していること”を伝えても、訳の分からない話として処理されるだけだ。

 最悪危険人物として追い出され、魔王討伐に旅立てなくなるかもしれない。


 ならば、今は、


「……なぞるか。“一週目”を」


 未だ記憶に封がされている“一週目”。

 結末は黒く濁っていたが、それ以外は正常だったはずだ。


 総てに抗っていては、目的が達せられない可能性すらある。

 運命を捻じ曲げるのは、必要最小限であるべきだ。

 余計な動きは、世界を侵食する“バグ”を作ってしまう。


 そして、最後だけ―――結末だけを、自分は変える。


「……、っし、」


 方針は決まった。


 自分は、無垢な“勇者様”。

 キラキラと輝いていた世界を、満喫する存在。


 ただ、必要なことを、必要な分だけ、変える。

 それで、いい。


「……!」


 アキラが結論を出したところで、ノックの音が響いた。


「あの……、いますか?」

「っ、」

 顔を向けたドアの向こうから、聞き慣れた声が届いた。

 アキラは身体を硬直させ、喉をつまらせる。


「……あの?」

「……、あ、ああ、開いてるよ」


 ゆっくりと開いたドアの向こう、立っていたのはアキラが今一番会いたくない相手だった。

 恐る恐る立つその赤毛の少女は、ドアを開くだけで部屋に入ろうとしない。


「いいよ、入ってくれ」

「……お邪魔します」


 ベッドに座り込んだままエリーを迎えたアキラは、そこでようやくエリーの髪が長いことに気づいた。


 ああそうか。

 “切っていない”のだから当然だった。


「あの、お食事の準備ができました」


 部屋の隅に立って恭しく口にしたエリーは、“勇者様”に接していた。


「悪い、今、なんか食欲ないんだ」

「え、でも、」

「マジ、今は、……悪いな」


 アキラは“笑って”応答した。


 昨晩から水程度しか飲んでいないが、実際アキラの胃は何も求めていなかった。

 心では分かっていても、流石に身体はまだついて来ない。


「あの、やっぱり具合が、」

「大丈夫……、大丈夫だから。戻ってくれ。……悪い」


 違う。

 言ったあと、アキラはうずくまったまま目を見開いた。

 自分の部屋を来訪してきた美少女を追い返す男ではないのだ、“ヒダマリ=アキラ”は。


 もしかしたら“一週目”も同じことが起こったかもしれない。


 確か、自分は、確か、


「あの、」


 しかし、エリーは出て行かなかった。


「元気、出して下さい」


 なるほど、彼女に自分はそう見えているのか。

 自分はふっ切ったつもりでも、他者から見ればまだまだなのだろう。


「“勇者様”にいきなりなれなんて……、そんなのはやっぱり辛いですよね?」


 一番辛いのは、そんな“どうでもいいこと”ではない。

 アキラはとうとう笑うのを諦め、顔を伏せた。


「……あの、元気、」

「……なあ」

「?」


 とりあえず、自分はすでに“バグ”を作っている。


 “一週目”。

 覚えている限りでは、自分は相変わらず馬鹿をやり、エリーに同情されるようなことを言っていなかった。


「元気出すから……、その、もっと楽に話してくれ」

「え?」


 まずは、関係の修復。

 アキラの頭は機械的に動いていた。


 エリーの口調は、“そう”ではないのだ。


 エリーに罪はない。

 つい先日まで、彼女は魔術師試験の勉強を行っていたのだ。


 『“勇者様”へは最大限の敬意を』


 そんな下らない“しきたり”関係も、試験範囲に含まれていると聞いた。


 エリーが自分に、最大限の敬意を向ける。


 それは、ない。

 そして、そんなことをされたら、自分があまりにみじめではないか。


「……元の世界に、戻りたいんで……、も、戻りたいの……?」

「いや、違う」

「?」

「俺は、そう、勇者で……、」


 違う。

 自分の口調も、もっと、


「ほら、俺、“勇者様”だろ? だから、魔王なんて速攻で倒せんだろ?」


 確か、こうだ。


「……へ?」

「ちょろいちょろい。そんなのとっとと終わらせればいいし」


 エリーの瞳が、徐々に不審の色を帯びてきている。

 一般人の思考からしてみれば当然だろう。

 あの激戦区の魔道士たちですら、“魔王の牙城”の動きに慌てふためいていたのだから。

 こんな場所にいては、魔王の存在など絵空事だ。

 ここには“不可能を可能にする少女”が見せる“夢”もない。


「ずっとこんな世界に憧れてた。ほら、俺の世界って、戦いとかないって言ったろ?」

「い、いや、“魔王”は、」

「冷静になって考えてみ? 異世界からわざわざ来たんだぜ? そりゃもう魔王倒せってことじゃないか」


 エリーは一瞬止まり、そして瞳に別の色が入り始める。

 呆れ、だろうか。

 だが奇しくも、“彼女”はいつもそうやって自分を見ていた気がする。


「全部、上手くいく」


 楽天的に、どうしようもないほど楽観的に。

 それが、きっと、“ヒダマリ=アキラ”だ。


「魔王討伐も、俺らの“婚約破棄”も、全部、全部だ」


 そうだ。

 かつてそこに行った、“ヒダマリ=アキラ”なら、


「全部、上手くいく」


 その、はずだ。


「……、その、じゃあ、朝食、食べませんか?」

「……あのさ、俺、元気出したじゃん」

「だ、だったら、あたしは楽に話すから、食べましょう? 元気に」

「……、」


 ようやく笑ったエリーを見ながら、アキラはため息を吐いた。

 こういう部分は、先天的なのかもしれない。


「はあ……、分かった。行こう」

「え、ええ。“異世界”の話、聞かせてくだ……、き、聞かせてくれると嬉しいかな」

「……ああ」


 アキラは立ち上がり、エリーを追い抜く。

 ようやく“彼女”と会話できた気がする。


 やはり、自分が“そう”あれば、世界は上手く回っていくのだ。

 自分が馬鹿で、物事を深追いしなければ、世界は輝く。


 きっとそうだ、とアキラは念じ続ける。


「…………元気、出してね……?」


 後ろから届いたその言葉は、聞こえないふりをした。


―――***―――


「おおっ、神よ!! この出逢いに感謝いたします」


 パンを一かじりする程度という形だけの朝食を終えたあと、アキラの全身に初めて喪失感以外のものが湧き上がってきた。


 玄関先でかち合ったその“死神”―――村長ファリッツは、従者を二人連れて恭しく頭を下げる。


 そう、だった。

 楽天的な、異世界来訪者の“ヒダマリ=アキラ”の自分。


 その自分には、本日刻まなければならない“刻”があるのだ。


「この日を今か今かと待ちわびて降りました。昨夜はお疲れであろうと挨拶をご遠慮させていただきましたが、不詳わたくし、今後はご協力を惜しみません!!」

「村長、お声が大きいです……!!」


 先ほどの朝食でようやく出会えた恰幅のいい女性―――エルラシアが、ファリッツをたしなめる。

 彼女が玄関先で問答しているのが聞こえ、夏の虫のように寄っていってみればこれだ。


「自己紹介が遅れました。村長のリゼル=ファリッツと申します」

「……ヒダマリ=アキラです……」

「おやっ、ご気分でも?」

 アキラの沈んだ声に、ファリッツは眉をひそめる。

 背が低く、それでいて恰幅のいいファリッツの様子は、一々オーバーだった。


「いや、大丈夫……、ごほっ、ごほっ、」

「っ、いかがいたしました!? “勇者様”!!」


 ファリッツの大声は、アキラの頭に、ずきずきと響く。


 だが本当に、どうしよう。


「っ、エルラシア!! セレン!!」

 アキラの体調が優れないことを感じ取ったファリッツが、隣のエルラシアと、奥の部屋で子供たちの相手をしていたセレンを呼びつけた。

 二人とも、うんざりとした表情を浮かべている。


「これはいったいどういう了見だ!? “勇者様”がっ、」

「いっ、いやっ、大丈夫ですから!!」

 演技がかったようにも、されど本気で激怒しているようにも見えるファリッツの怒声を、アキラは声を張って止めた。

 これ以上頭が潰れそうな大声を止めたかった方が本音かもしれない。

 だが、身体の方も、もうすぐぺしゃんこだ。


「アキラさん、やはり……、」


 エルラシアがファリッツの向こうで申し訳なさそうな顔をしている。

 だが、結局のところ、この不調は自業自得だ。

 アキラは首を振り、視線で大丈夫と合図を送る。


「ご都合が良いようでしたら……、実は最近困ったことがありまして、」


 アキラは頷いた。

 いや、思わず頷いてしまった。


「ねえ、本当に大丈夫です……大丈夫?」

「だいじょばない」

「へ?」

「いや、大丈夫」


 顔を覗き込んできたエリーに、アキラは微笑を返した。

 本当に、どうすべきか。


「そうだ、エリサス。私などよりも、彼女から説明を受けた方がよろしいかと」

「! あ、あたし、ですか!?」

「親睦を深めなくては、ね。では、こちらにどうぞ」

 いやらしく笑いながら、ファリッツはアキラを外に促す。

 アキラはそれに、執行現場にあるく死刑囚の気分を味わいながら続いた。

 “意味不明な理由”で断ることができない。


「こちらです」


 だが、ファリッツにかけるべき言葉も見つからず、アキラは建物の外に出る。


 建物を出てすぐの庭には、やはり、台車が停めてあった。

 茶色い畳のようなカバーも、重さを象徴するように庭に刻まれた車輪の傷跡も、アキラの記憶とぴったり一致。

 せめて何か差異がないかと視線を走らせても、何一つ現状を打破できる存在は見つからなかった。


「どうぞ」


 目の前の台車の前が指差された。

 それを無表情で眺め、ファリッツの指示通りに荷物番がカバーを剥がすと、


「まあ、詳細はともかく、お願いしたいのは、そのモンスターの討伐なのです。ぜひ、“勇者様”のお力をお貸しいただければ幸いなのですが……」

「……ほら」


 やはり現れた数多の武具に、アキラは小さく頷いた。


 ファリッツたちは、異世界というものを誤認しているのかもしれなかった。

 その異世界は、この世界と違いこそはすれ、戦闘というものが存在している、と。

 だが、実質、そうではない。

 少なくともアキラがいた日本という国は、こんな武具とは無縁な平和な世界だ。


 だから何の迷いもなく、魔物討伐などと言い出せるのだろう。


「ね、ねえ、…………大丈夫なの?」

「……ああ」


 先ほどからそれを繰り返すエリーに、アキラは何度もそう答える。

 自分の顔色は、今一体どうなっているだろう。


「……なんで……、」

「?」

「なんで大事なところが違うのに……、ここは同じなんだよ……!?」

「へ?」


 エリーを責めても何の意味もない。

 ファリッツの暴挙を止められる存在は、この村ではエルラシアくらいだろう。

 だがそのエルラシアも、この状況を“いつものこと”と諦めている。


 ああいっそ、鉛のように重い身体に任せ、この場で倒れ込んでみようか。


「……!」


 そこで、アキラの脳裏に何かが掠めた。

 それはこの“刻”を刻んだからだろうか。

 記憶の封が、一つ解けた。


 “一週目”。

 自分は具合が悪いとは言えなかった。

 今は聞き流したが、『“勇者様”への不届きは重罪』という“しきたり”。

 自分が勝手に外に出て具合が悪くなったのだが、その言葉にどこか重いものを感じ、自分は元気に振舞って外に出たのだ。


 本当に、ただ、具合が悪いのを押して魔物討伐に出るのは格好いいなどと見栄を張りたくなって。


 先ほど、アキラがせき込んだだけで、ファリッツはあの剣幕になった。


 頭に流れる淡々とした説明文は、アキラから退路を奪い去る。


「……、あたしも、行きます」

「おおっ、エリサスも言ってくれるか!!」

「……駄目だ」


 アキラの口からは自然と言葉が出た。

 エリーはその強い口調に眉を寄せる。


 彼女は何も分かっていない。

 今から行く、その目的地。


 そこに、どういった存在が立ちはだかっているのか。


「お前正気か? 死ぬぞ……!?」

「……、あなた、あたしのこと馬鹿にしている?」

「いや、そういうわけじゃ、」

「討伐対象だって知らないんでしょ? 一人でなんて行けるわけない」


 知っている、と言いたいところだったが、それは叶わない。

 そしてエリーには、一応自信があるのだ。

 魔術師試験を突破しているのだから。


 だが、例え魔道士だとしても、あの敵は―――


「……?」


 そこで、アキラは気づいた。

 “一週目”。

 確かに自分はこの“刻”を刻んでいる。


 では何故、自分の旅は続いたのだろう。


 ここには総てを蹂躙するあの銃も、宙を飛び交い敵を討つ天才少女もいない。

 しかし、自分たちは“続いた”。


 記憶の封は未だ解けない。

 だが、きっと、何か。


「あたし、準備してくるから選んでて」

「…………いや、マジで聞いてくれ、」


 建物に戻ろうとしたエリーをアキラは一瞬遅れて止めた。

 駄目だ。


 何とかなったから、何とかなった。


 ポジティブな考えだが、流石に賭けるものが大きすぎる。

 そこまで達観してはいられない。


「なに?」

「……えっと、その、えっと、」

「……、」


 アキラは言葉を紡ごうとするも、やはり途切れてしまう。


 こういうとき、どう言えばいいのだろう。

 このままでは、二人揃って大惨事だ。


「……大体、あなた戦いのない世界から来たって言ってたでしょ? それじゃ危ないし、」

 エリーはアキラに詰め寄り、ぼそぼそと呟く。

 アキラの体面を気にしてくれるのはありがたいが、彼女には決定的に理解が不足している。


「……それとも、具合、やっぱり、」

「いや、だから、」

「……無理しなくていいわよ? 気持ちだけで、」

「……大丈夫だ」


 彼女も、“しきたり”関連のことには気づいているようだ。


 実際、アキラの具合は最悪だ。

 だがエリーにしてみれば、“あの程度の魔物”病人一人いたところで問題ない。

 “その先に待つ存在”など、想像もしていないだろう。


 アキラは言葉に出さずとも、視線でエリーにSOS信号を送っていた。


「……ま、まあ、もし何かあっても、自分の身くらいは守れるでしょ?」


 アキラの視線をエリーのみへの懸念と取ったのか、エリーはどこか拗ねたように言葉を紡いだ。

 彼女は自分一人でも依頼を達成できると自信を持っている。

 だからアキラの不調さえも、そこまで問題とは考えていないのだ。


「っ、」


 もう駄目だ。

 今ここで総てを暴露してもいい。


「だって、あなた、」


 このファリッツの暴挙を止めるには、それしかない。


 問題は、信じてくれるかだが―――


「“スライムくらいなら楽勝”なんでしょ?」


 アキラの身体が停止するのと、エリーが駆け出すのは同時だった。


―――***―――


「グランドマイアンドロスガーディックス~~(略)~~ギガミュータントマーチュ」

「グランドマイアンドロスガーディックス~~(略)~~ギガミュータントマーチューーーッ(叫)!!!!―――ごほごほっ、」


 村から出て、すぐに広がる大自然。

 アキラのかすれた叫び声が響き渡った。


 一縷の望みを託して聞いてみても、彼女から戻ってきたのはその正式名称。

 やはり、今回も討伐対象は、“それ”で間違いないらしい。


「通称、マーチュ。よく一回で覚えられたわね……」

「帰ろう」

「え? ここまできて?」

「はあ……、」


 身体に吸いつくような上下連なったアンダーウェアに、胸やすねの急所に簡単な防具。

 ハーフパンツのようなズボンも、動きを阻害しない程度の羽織った半袖のローブも、実に機動的な服装だ。

 長い赤毛をポニーテールに結び、背に垂らしている。


 アキラがよく知るエリーの戦闘服だ。

 そこは、変わっていない。

 そして、この先に待つ存在も“二週目”と変わっていない。


 だが、“そんなことよりも”。


「……、」

 アキラは隣を病人に付き添うように歩くエリーを、横目で盗み見ていた。


 彼女は先ほど、なんと言ったのか。


 自分はこの“三週目”、“その言葉”を発した記憶がない。

 なにしろアキラの中で、“スライム”は、決して“くらい”と称する存在ではないのだから。


 熱に浮かされた頭が痛む。

 もしかしたら記憶にないだけで、ポロっと漏らしていたのかもしれない。


 いや、だが、それでも。


 何かと何かが、繋がったような、


「あ、ほら、そろそろ注意しないと……。そろそろ魔物、出てくるわよ?」

「……え?」

 しばし、反応が遅れた。

 思考の渦から這い出たアキラの口は、かすれたうめき声を漏らす。


 エリーは何を言っているのだろう。

 マーチュが出現するのは、ここではない。


 の、はず、だが、


「……!」


 アキラは思考を中断した。

 背筋を何かが撫で、鼻孔を何かがくすぐり、身体が何かを受け止める。


 視覚情報に頼らない、形容しがたい空気。


 “二週目”、アキラは、誰かが何かを察すると、『気でも感じるのか』と呆れながら言った記憶がある。

 もしかしたら、こんな感覚なのかもしれない。


 “戦闘の匂いがする”。


「……!」


 アキラが足を止め、身構えたと同時。

 踏みならされた草原の道に、わきの草薮から、ぴょこ、っと小さな生物が姿を現した。


 仔犬ほどの背丈。

 アキラの膝ほどにも満たないサイズの、狐色のリスのようなその存在。

 くるっ、と丸い瞳に、渦巻きの模様か身体についている。

 後ろに見える尻尾も、ふぁっさふぁさの毛で覆われていた。

 その、愛らしい生物は、たった一体で、必死に二足で立ち、プルプルと震えてアキラたちを見上げている。


「……マーチュよ。さ、さあ、」

「……あ、ああ、」


 今度は流石に断らなかった。

 あの愛らしい生物の攻撃力は知っている。


 自分の第六感が目覚めたのかと感じるも、その歓喜を仕舞い込んだ。


 これは、戦闘なのだ。


 そうだった。

 そもそも、魔物は“普通に出現するのだ”。

 “魔物さえも恐れる存在”と共に旅をしていない限りは。


「……、」

 アキラは剣を抜き、一歩前に出て構える。

 とりあえず、疑念は置いておこう。


 今は、戦闘だ。


「―――、」

 すっ、と音が遠くなった。


 渦巻く思考や、沈んだ心。

 それら総てが消え去り、感覚は鋭くなっていく。


 身体が、魔物を倒す機械になる感覚。

 戦闘への切り替え。


 これは、記憶を持ち込んだ恩恵だろうか。


 身体は鉛のように重い。

 だが、ようやく、“三週目”初の戦闘。


 今はとりあえず、それを終えよう。


「きゅう?」

「……、」


 久しぶりのマーチュの姿に、良心は確かに痛む。

 だがアキラは、脇を締めてそれを瞳で捉える。


 “つい先日前”まで、自分は、この愛らしい生物より遥かに強大な存在と戦っていたのだ。

 心は冷静、視線は逸らさずに。

 しかし周囲にも気を配る。


 ただただ、集中して―――


「キューッ!!」


 アキラの瞳は、マーチュが跳んだのを確かに捉えた。


 “自分は、戦い方を知っている”。


「―――!?」

 マーチュの突撃を迎え撃とうとして、アキラは気づいた。


 戦闘の中、身体の現在の情報が頭に浮かぶ。


 やはり身体が、異常なまでに重い。

 ずっと具合が悪いせいだと思っていた、この不具合。


 これは、そんなものではない。


「―――っ、」


 戸惑うアキラの視線の先、マーチュが渦巻き模様のついた頭を向けてくる。


 まずい。

 今は、とにかく、“回避”だ。


「っ!!」


 倒れ込むように、マーチュの突撃を回避。

 身体を地面に打ち付け、仕込んだ防具が軋む。

 それすらも、異常に重い。


「っ、」

「きゅう?」


 起き上って振り返れば、攻撃を外して戸惑うマーチュと、その向こう側にいてアキラの戦いを眺めているエリーが見えた。

 エリーの姿を頭から追い出し、再び集中。


 今は、マーチュ相手にも予断は許されない。


「っ、」


 アキラは剣を再び構える。

 日常から切り離されて、ようやく気づけた。


 そうだ。

 エリーも、“違った”。


 だが、違うのはそこだけではない。

 自分もまた、“違う”。


 これは、“自分の身体ではないのだ”。


 もしかしたらエリーたちが自分の具合を気にかけていたのも、アキラの顔色以上に、動きの方に不自然さを見出していたからかもしれない。


 それはそうだ。

 つい先日前まで激戦区にいたアキラの精神と、つい先日前まで平和に日本で暮らしていたアキラの身体。


 それらはまだ、一致していない。


「キューッ!!」

「っ、」

 マーチュの突撃を、アキラは再び転がって回避。


 しかしやはり、動きは鈍い。


「……、」


 アキラはマーチュと対峙しつつ、大きく息を吸い、それを吐き出す。


 身体は機械。

 ただ敵を倒すためだけに、必要なことだけが頭に浮かび続ける。


 慣れなければ。

 今はとにかく、この身体に。


 そして、倒さなければ。

 今はとにかく、目の前の敵を。


 身体は鈍い。

 だが、鈍いときの戦い方を自分は習った。


 相手はマーチュ。

 動きはそこまで速くない。


 あとは、隙を作れば。


「キューッ!!」

「―――、」


 ワンパターンの攻撃を、今度は大げさに回避しなかった。

 マーチュが地を蹴る瞬間のみに集中し、身体をルートから外す。

 そして剣を振り上げた。


「―――、」


 襲いかかったマーチュが、アキラの隣を通過する。


 あとは、振り下ろす―――


「っ、」

「き、きゅう?」


 僅かに遅れた。

 マーチュは剣が振り下ろされる直前に通過し、無事に着地している。


 身体が意識について来ない。

 もう少し、早く、だ。


「……、ふー、」

 息を吸って吐く。


 戦闘の中にあって、アキラは初めて解放感を覚えていた。


 ここでは、“演じる”必要がない。


 集中の仕方。

 剣の使い方。

 そして魔力の流し方。


 全部同じだ。

 これは、間違いなく、自分の身体なのだから。


 戦闘は、必要なものを総て吐き出せる。


 あとは、“ずれ”。

 それを、修正していく。


 それだけで、自分は、“勇者様”に―――


「キューッ!!」


―――決まる。


 スローモーションのような光景の中、アキラは自分の剣の軌道が見えた。

 この一刀は、間違いなくマーチュを両断する。


「―――、」


 回避、そして攻撃。

 ほんの僅かに動きの不自然さが薄れ、そしてそれを読み、マーチュに剣を振り下ろす―――


「ギュウッ!?」

「―――!?」


 カッ、と光が爆ぜた。

 微弱な、それでいて、煌々としたその光。


 それは、オレンジ。


 やはり、同じだ。


「はあ……、はあ……、」


 アキラが一歩のけ反ったところで、マーチュが爆ぜた。

 戦闘不能の、爆発。


 思えばこれが―――始まりだった。


「―――はあ……、はあ……、」

 腕が痺れ、ほとんど杖のように剣を地面に突き刺す。


 身体と精神の“ずれ”は、未だ上手く掴めない。

 これならば、まだこの世界に来たばかりの頃の方が動けただろう。


 だが、ともあれ、自分は敵を倒した。


「か……、勝ったぁっ!!」


 身体が震える。

 戦闘の熱気を確かに感じた。

 心地良い。


 “三週目”の世界の中、初めて自分が自分になった気がした。


「……し……、真剣……!?」


 そこで、エリーの声が届いた。

 彼女の瞳には、小動物と形容しても差し支えのない脆弱な魔物に全力を尽くしていたアキラが映っている。


「……なんだよ、お前も手伝ってくれよ」

「い、いや、ものすごく近寄りがたい空気だったから……、え、てか、やっぱり“日輪属性”なの?」

「…………、なんだ、それ?」


 戦闘が終われば、“知らない自分”。

 アキラの高揚は萎み、“そういう”顔を作った。


「魔術の属性の一つよ。『“勇者様”の証』」

「……、」


 アキラは、訂正しなかった。


「ま、まあいいわ。それよりあなた、戦いのない世界から来たとか言ってなかった……?」

「……、」

「なんで、そんなに、なんか、雰囲気、とか、」


 完全に素人なはずの人物が剣を使い、魔力での攻撃をしたのは不自然なのだろう。

 アキラは視線を逸らし、剣を仕舞った。


 止めてくれ。

 アキラは心の中で念じた。

 これ以上“制約”が増えたら、今度こそ、“自分が自分でいられる場所”がなくなってしまう。


「行こうぜ」

「ちょ、ちょっと、」


 アキラはふらつく足取りで、前へ進む。

 エリーが追いつき口を開く直前、くるりと顔を向け、はっきりと返した。


「“ご都合主義”だよ。勇者の血が目覚めたんだ」

「は、はあ……?」


 ああなんて、便利な言葉だろう。


―――***―――


「っ、」

 剣の一撃が、魔物を両断する。


「ふっ、」

 その背後、スカーレットの光が爆ぜたと思えば鈍い打撃音と呻き声。


「―――、」

 最後に視界の隅に捉えた敵から退き、コンパクトに剣を振れば、オレンジの色が爆ぜ、辺りは爆発音を残すのみとなった。


「……よし、帰ろう」

「ちょ、ちょっと!! 戦闘終わるたびに何でそんなに帰りたがるのよ!?」


 エリーの声は、魔物の爆発音にも勝った。

 ここまでの道中、魔物との戦闘は何度目だろう。

 ときおり、マーチュとは違う犬のような魔物も出現し、いい加減にアキラの腕も痛み出している。

 その上、未だ身体に違和感を覚え、動き辛い。


 だがそれより遥かに問題なのは、その状態でもさくさくと進んでしまっていることなのだが。


「いやだって、どこまで行く気だよ?」

「ここまではただの道。あたしたちが行くのは、ほら、あの洞窟」

「……、」


 流石に洞窟の外観を覚えていたわけではないが、エリーが指したのは間違いなく“マーチュの巣”だろう。


 木々に囲まれて薄暗いその洞窟は、もう目と鼻の先だ。


「ほ、ほら、ここまで来たんだから」


 エリーの口調が軽くなったのは幸いだが、現状、そんなことはどうでもよかった。

 問題なのは、この先に待つ圧倒的な存在。


 本当に、“一週目”の自分は一体どうやって解決したというのか。

 しかしここまで来ても、記憶の封は解けない。


「あそこ。まあ、あたしも入ったことないんだけど、奥まで行けば大丈夫よ。そりゃあ全滅させることはできないと思うけど、」

「いや、俺らが全滅する」

「えっ、相手はマーチュよ……!?」


 もどかしい。

 どう伝えればいいのか。

 というより、ここまで断っている“勇者様”に、何故エリーは強行させようとしているのか。


「……お腹痛い」

「何を言い出し始めてんのよ……」

「……頭痛い。いや、マジで」

「“勇者様”でしょ?」

「お前、“勇者様”は敬えよ」

「それを今言う?」


 駄目だ。

 この山に来ることは、“確定事項”だとでもいうのだろうか。

 だがこの洞窟を抜けた先、あの存在が“餌”を今か今かと待ちわびているのだ。


 アキラの全身は重く沈み、仕込んだ防具さえも煩わしく感じる。


 やはり、言うべきなのだろうか。

 しかし、今さら、とも思う。


「……分かった。じゃあ、お前はここで待っててくれ」

「へ?」


 もう、これしかない。

 自分だけが中に入り、奥まで行く。

 そして、“出口が塞がる前”に全力で逃げ返る。


 流石にそこまですれば、彼女も納得するだろう。


「駄目よ」


 しかし、それは通らなかった。


「大体あなた、大口叩いてたわりに……、その、」

「いや、はっきり言ってくれ。もう全部言っているようなもんだ」

「じゃ、じゃあ、その……、弱い……し……、」

「……、」


 仕方がないだろう。

 この身体は、そういうものなのだから。


 アキラが視線で送った言葉は、エリーには届かなかった。


「一人で行ったら、マーチュ相手でも危険だし、ね?」

「…………落ち着いて聞いてくれよ?」


 アキラは息を吸い、大きく吐き出した。

 もうここは、嘘でも何でもいい。


「この山から不穏な空気を感じる。ものすごく、危険な場所だ」

「……えっ、今度は何を言い出してんのよ?」

「いや、じゃ、じゃあ聞いたことないか? なんか、この山の噂とか」

「……、」


 エリーは目を閉じ、記憶を反芻し始めた。


「えっと……、あたしも最近勉強ばかりだったから……、あ、向こうの山なら、聞いたことあるわよ?」

「……?」


 エリーが指したのは、遠くにそびえる高い山。

 確かに、アキラには、あの山に関して妙な“替え唄”を聞いた記憶がある。


 だが、それはどうでもいい。


「違う、この山だ。マーチュの巣窟だろ? なにか、禍々しい噂を、」

「どっ、どんだけマーチュを過大評価してるのよ……!?」

「おまっ、マーチュなめんなよ!?」

「えっ、あたし怒られてんの……!?」


 やはり伝わらない。

 何を、言えば。

 アキラの頭がずんと重くなる。


 いや、実際、割れそうに痛み続けていた。


「じゃ、じゃあれだ、あれ」

「あれって何よ?」

「ほら、あれ」

「?」


 エリーの足はもうほとんど洞窟に向いていた。

 今すぐにでも歩き出しそうだ。


 もういい。

 とにかく、何か。

 “繰り返している”とは信じてもらえないかもしれないが、自分が“情報”を持っていることを信じてもらえるような、言葉を。


「わっ、分かるんだ、ここはまずい。お前を、守れない、し」

「……言いにくいんだけど、あたしの方が、」

「っ、い、いや、違う、でも、分かるんだ、」


 現在、エリーよりアキラの方が弱いことなど分かり切っている。

 だが、アキラは、とにかく、彼女を守らなければならないのだ。


 何か、何か、


「とにかく分かるんだ、ここだけは、入っちゃいけない」

「はあ……、何で分かるのよ? また不穏な気配がどうのこうの言い出したら、」


 何か、“言い訳”を、


「よっ、“予知能力”!!」


 口に出した瞬間、アキラの脳裏に何かがかすめた。


「…………は?」


 長い沈黙ののち、エリーが今度こそ呆れ返って口に出した言葉は、アキラの耳には届かなかった。


 彼女の反応は、もっともだ。

 “予知能力”が使えるなどと言い出したら、アキラだってその人物とは距離を置きたい。


 だが、


「―――、」


 かつて、そんな“言い訳”をしている人物に逢った気がして―――


「俺は……、未来を……、視……、た……?」

「ね、ねえ……?」


 視線を合わせようとしたアキラの視界で、心配顔のエリーが歪んでいった。


 呼吸が荒い。

 天地が逆さまになる。

 そして身体は、熱くて寒い。


 思い出した、“一週目”。


「ねえ、ちょ、ちょっと……!?」


 身体に何かの衝撃があった。

 きっと自分は今、仰向けに倒れている。

 だがそれすらも、エリーが上から覗き込んできて初めて分かった。

 エリーの声も、遠くなっていく。


 そうだったのだ。


 “一週目”。


 アキラたちはこの洞窟に、入れなかった。


―――***―――


 まどろみの中、アキラの脳は、初めて喜びを覚えていた。


 全部上手くいく世界。


 到着した“三週目”。

 自分は一人ではなかった。


 マリスも夜の屋上で歌声を響かせ、自分の登場に『待っていたっすよ』と声をかける。

 そしてエリーは、『またやってくれたわね』と儀式の件で怒鳴りつけてくる。


 そんな、世界。


 だが、最近の“これ”は、残酷だ。


 まるで、この物語はフィクションです、などと注意書きがされているよう。


 最近の夢は、最初から夢だと分かり切っている―――


「ぅ……、ぁ……?」


 まどろみの中、アキラが最初に覚えたのは頬を撫でる涼風だった。

 木々の匂いと、土の匂い。

 それらが鼻孔をくすぐり、心地よかった。


 最近、意識を失うごとに何かを視ている。

 これは、頭が混乱の極みにあるからだろうか。


「……?」

 次に気づいたのは、額に乗る何か。

 天高く昇る太陽を遮るように、瞼にも僅かにかかっている。

 それも、どこか心地よい。


 朦朧とした意識の中、ようやくアキラは思い出した。


 自分は、風邪で倒れたのだ。


「あ、起きた……?」

「……?」


 視線を顔ごと動かして右を向けば、エリーが座り込んでいた。

 どうやら洞窟傍の木の下で、二人並んでいるようだ。


「普通……、膝枕とか……、」

「え? なに?」

「……、いや、」


 聞こえてなかったのは幸いだったのだろう。

 アキラは視線を逸らし、額に手を当てる。

 そこには、水で濡らしたタオルが乗っていた。


「一応持って来たんだけどね……、こういう風に役に立つとは思わなかったわ」

「……助かる」


 エリーはどこか呆れ、しかし僅かに笑っていた。

 それをアキラは呆然と眺める。


 この“刻”を刻んだ今、“一週目”のこの場所での記憶が蘇った。


 自分の具合は、絶不調だったのだ。

 それこそ、途端倒れるほどに。


 “二週目”は、もしかしたらあの銃の恩恵を授かっていたのかもしれない。

 あの日輪属性の具現化は、アキラの中である種燃料のような役割を果たし、気づかない程度にはアキラの調子を維持していてくれたのだろう。

 加えて、ここまでの道中の戦闘もない。

 だから、自分が倒れるのを、ギリギリまで“ずらせた”のだ。


 そして、だから、今は、


「あのさ、本当は具合、最悪なんでしょ?」

「……超情けない」

「い、いや、あなたが一応庇ってくれたのは分かってるし……、その、ね?」

「マジ、情けない……」


 本当に、情けなかった。


 何を自分は、“あの存在”との戦いばかり危惧していたのだろう。

 “そもそも自分はそんな敵と戦うことすらできなかった”というのに。


 弱くてニューゲーム。


 そんなところだろうか。

 そして、本当に、“ニューゲーム”なのだ。


「ごめん……。ただ行きたくなかっただけなのよね? こんな調子じゃ」

「違う……、そっちは、分かってなかった」

「?」


 本当にそうなのだ。

 自分の精神と身体のずれと、風邪での不調を一緒くたにしていた。


 だからこんなにも情けなく、自分は倒れている。


「でもさ、あたしもちょっと無理矢理過ぎたみたい」

「……、」

「あたしさ、あの村から出たこと、ほとんどなかったのよね」


 エリーは申し訳なさそうに笑い、洞窟を適当に眺めていた。


「でさ、昨日のあれでしょ? ちょっと色々動きたくなっちゃって……、」


 そういえば、マーチュを攻撃していたときのエリーは気合が入っていたような気がする。

 アキラはおぼろげに、太陽の下映えたスカーレットの光を思い出す。

 彼女も色々、溜め込んでいたのだろう。


「悪かった、本当に」

「え、あ、そういう意味で言ったんじゃ、」

「悪かった」

「だ、だから、」

「悪かった」

「え、何回言うつもりよ……?」

「“三回”だ……。ものすごく、大切なことだから」

「……?」


 僅かに眉を寄せながら、呆れたようにため息を吐くエリー。

 その仕草は、アキラも知っているものだった。


「……もうここまででいいと思う。村長も、具体的に何をする、とか言ってなかったし」

「……ああ、そうだな」


 あの巣窟に入らないことが確定した今、しかしアキラはかえって後ろ髪を引かれた。

 エリーに無理だから止めろと言われるのは、やはり、面白くない。

 だが、行ったところで、何の意味もないのだ。

 “こんな自分”では。


「ねえ、寝心地、どう?」

「いいわけないだろ……、防具も仕込んであるし」

「っ、さ、流石にそれを外すのは、」

「いや、いいよ……。このままで大丈夫。ちょっと休めば、な」


 横に転ばされている剣を発見し、なんとなく指先で撫でながらアキラは空を見上げていた。


 何もかもが違う世界。

 頭は痛み、身体は軋む。


 だが、こんな空気は、悪くない。


「……ねえ、そういえば、誰かに習ってたの? 戦い方とか」

「……?」

「いや、なんか、素人にしては、だけど、なんか、」

「……習ってた」


 無気力な身体のまま、アキラは言葉を吐き出した。

 病魔に侵されているときとは、ある意味楽かもしれない。

 余計なことを考えず、口を開ける。


「“師匠”、って人に?」

「……ああ」


 その“師匠”は、もういない。

 わざわざ思い浮かべなくてもいいことを、アキラの脳は掘り返した。

 それを考えてしまえば、せっかく“一週目”をなぞると決めたのに、心が折れてしまう。


 エリーは小さく、ふぅん、と口にし、視線を泳がせた。


「……じゃあ、そんなに無理するのも、師匠の受け売り?」

「?」

「熱。すごい高いわよ」


 おそらく、半分ほどは受け売りだ。

 純粋な自分の行動ではなかったとはいえ、“彼女”は命を懸けたことがあるのだから。

 だが、もう半分は、“一週目”と同じ、格好つけかもしれない。

 ここに来ることを拒絶する口ぶりをしていても、結局自分はエリーの隣を歩いてここに来たのだから。


「あなたを運びながら魔物が出現したらまずいから、ここにいるけど……、すぐに養生しないと、」

「死ぬ?」

「……かもね」


 アキラはその事実を、思った以上に冷静に受け止められた。

 今のは冗談に近いだろうが、どの道その結末は、“冗談ではなくなる”。


 だがそれでも、それを受け入れてしまってもよいとさえ思っていた。


「……あ~、駄目だ……。俺今、超弱気」

「? 病気のせいよ」

「いや、口に出さないとなんか塞ぎ込んじまいそうで……」

「ああ、あるわよね、そういうの」


 赤毛がサラサラと風になびく。

 くすりと笑ったエリーの表情を見上げて、アキラは風邪とは別に心拍数が上がった。


「……、」

 “一週目”、この横顔に、自分がどきりとしたのを思い出した。

 病魔に侵されていても、この爽やかな空気の中。


 彼女を、いいな、と思ったのだ。


 少しだけ、安心した。

 彼女は自分の知っているエリーではないが、ちゃんと、“エリサス=アーティ”だ。


「ねえ、さっきの、“師匠”って人」

「ん?」

「恋人、とか?」

「……は?」

「いや、なんか、そういう感じに見えて、ね」

「……違う」

「……ふぅん」


 エリーの瞳が、どこか面白そうにアキラを捉えた。

 アキラは顔を背け、瞳を閉じる。


「でも、元の世界には戻りたいんでしょ?」

「…………いや、どうだろ?」

「ほら、“夢”とか、」

「……、」


 静かな会話だ。

 エリーにとっては。

 だが、自分にとっては、触れて欲しくない部分だった。


「……ねえ、今言うのもなんだけど……、少しだけ、聞いてくれる?」

「? ああ」

「……あたしさ、正直、あなたのこと、嫌い」

「……だよな」

「い、いや、そういう感じの話じゃなくて、」

「?」


 エリーは額に手を当て、何かをぶつぶつと呟いた。

 慎重に、言葉を選んでいるのかもしれない。


「……だってさ、あたしの人生、変わっちゃったのよ? 思いっ切り」


 困ったように呟くエリーからは、何故か怒気が感じられなかった。


「あたしね、双子の妹がいてさ……。もうあの子、魔道士よ。あ、魔道士っていうのは、」

「……セレンさんから聞いたよ」

「あ、ああ、そう」


 エリーの表情は僅かに曇った。


「でさ、昨日、やっと追いかけられる、って思ってたの」

「……本当に、」

「聞いたわよ、三回も」

「ああ、そうだった」


 アキラがエリーの瞳を見上げると、彼女の泳いでいた視線もアキラを捉えた。


「そこで、あなたよ」


 一瞬、アキラは睨まれたかと思った。

 だが、エリーは瞳を閉じ、再び視線を泳がせる。


「……それだけ。ま、まあ、ごめん。これから一緒に旅するなら、今のうちに吐き出しとこうと思っただけだし」

「いや、影で恨まれ続けられるよりずっといい」


 今思うと、“二週目”のエリーは、うっぷんを溜めこんでいたかもしれない。

 ただそれも、騒いで解消していったのかもしれないが。


「あなたもさ、あたしに不満とかあるでしょ? 今のうちに言ってくれた方が助かるわ」

「……、ああ、でも、いいさ」

「よくないわよ」

「伝え切れない。それに俺、言葉選ぶの下手だから」


 そう呟きながら、アキラは何とか身体を起こし、木に背を預ける。

 頭痛は変わらないが、少しだけ身体が軽くなってきた。

 もしかしたら、日輪属性の力が、病魔を浄化してくれているのかもしれない。

 本当に、便利な属性だ。


「できれば、はっきりして欲しいんだけどね」

「悪いな、煮え切れなくて」


 静かな時間だ。

 制約に縛られた“三週目”、こんな時間があるとは思っていなかった。


 アキラは呆然と、大自然を見渡す。

 元の世界には存在しない広大な景色。


 自分はこの世界に来なかったらどうなっていただろう。

 普通に大学生活を満喫し、普通に社会人になっていただろうか。

 少なくとも、子供に分類される自分の未来は、ずっと遠くに続いてはいただろうが。


「……あたしさ、決めたわ」

「?」


 “一週目”、“二週目”にはなかった望郷の念を思い浮かべていたからだろうか。

 エリーはアキラの表情を見ながら、こんなことを呟いた。


「“神族”への願い。“勇者様”の特権。あなたを、元の世界に戻すことにする」

「え……?」

「だって、そうすれば婚約破棄は自動的に起こるでしょ? あなたも、夢が叶うじゃない」

「……、」


 アキラは無言を返した。

 ただ、穏やかな表情を浮かべて。


 “叶うはずのない願い”。

 だが、喪失感より、アキラはエリーの労わるような言葉が、素直に嬉しかった。


 彼女は自分を、許してくれているのだろうか。


「なんでか分からないけど、あなたの夢、協力したくなったのよ。聞いてたら、あたし何となく―――魔術の教師になりたいとか思って」

「え、」

「何となくよ何となく。だから、あなたの世界の“師匠”に、生徒を返してあげたくて」

「―――、」


 小さく笑うエリーを見ながら、アキラはおぼろげに、小さな期待をしていた。


 “二週目”、いや、“一週目”も、彼女はそんなことを口にしていないはずだ。

 彼女の夢は、ずっと孤児院の経営者。

 魔術の教師とは、差がある。


 確かに、エリーは“違う”。

 だが、総てがまっさらというわけではないのかもしれない。

 自分に、対価に差し出したはずの“一週目”の記憶が残っているように。

 “二週目”、自分が戦い方をおぼろげにも知っていたように。


 この世界とあの世界は、僅かにでも繋がっているのだろうか―――


「俺に……、」

「?」

「俺に、魔術、教えてくれるか?」


 急かされるように、アキラは口にした。

 自分の表情は分からない。

 ただ、エリーは一瞬目を開いて、小さく微笑む。


 そして、


「ええ、いいわよ」


 たった一つだけ、繋がった。


「…………助かる……、ありがとう」

「な、なによ、そこまで感激しなくても、」

「いや、マジ……、いろいろ渦巻いてんだよ」

「? ま、まあ、ビシバシいくわよ? 剣のことは分からないけど……、まあ、まずは体力からね」


 ただそれだけで、救われた。


 途切れてしまったもの。

 だが、本当に、この想いを持ってきてよかった。


「……そろそろ行けそうだ」

「……、って、ふらついてんじゃない」


 立ち上がったアキラは即座に木に手をつく羽目になった。

 心が回復しても身体の方はまだらしい。


 だが今は、一刻も早く動きたかった。


 アキラは自分のことをまだ信用できない。

 だから、このやる気が萎える前に、とにかく進みたかった。


「でも、途中で倒れたりしたら、」


 アキラはエリーを見下ろしながら、笑った。


 大丈夫だ。

 今度は演技ではない。


 だから、はっきり言える。


「何とかなる。“ご都合―――」

「―――そこで何をしている?」


 アキラが口にしようとした言葉は、よく通る声に阻まれた。

 エリーはアキラの後方に視線を向け、立ち上がる。


 だがアキラは、背後から聞こえた声に目を見開いていた。

 何となく決めようとしていたときに中断されたのは面白くないが、それ以上の衝撃が身体を走る。


 今の、声は、


「あ、ああ、突然すまないが……、マーチュの巣窟はここでいいのか?」


 終わると思ったこの一日は、どうやらまだまだ続くらしい。


 アキラが振り返った先、そこには―――紅い着物を羽織った少女が立っていた。


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