第64話『光の創め7---念には念を---』
―――***―――
欲というものは尽きることが無いのだと感じる。
自分の場合、事実をそのまま言うと、嫌みったらしく、人によっては信じない絵空事とも捉えられるのだが。
マリサス=アーティという人物は、数千年にひとりの天才であり、世界最強の魔導士であり、世界中の希望である。
その才能は常識を覆し、魔導士隊による“禁断の地”深部の調査を実現させた。
その地に向かわせられるというと、死罪とすら捉えられることすらあるが、マリサス=アーティという存在にとっては難易度の高い任務でしかない。
当初の、そしておおよその期待をいい方向に大きく裏切り、指定エリアの制圧、および死傷者無しという誰もが予想していなかった成果を上げ、そして上げ続けている。
もちろんひとりで実現できたわけではなく、同じ部隊の仲間たちの力も大いに評価されるべきだが、それでもマリサス=アーティの功績は誰の目にも強烈に映っているだろう。
恐らく、魔道というものの終点に自分はいる。
だから選ばれるし認められるし称えられる。
今現在、魔術師を志す少年少女から見ても、辿り着きたい夢の先に自分はいるのだ。
そんな、説明すればするほど嫌味に聞こえる自己評価は、僻んだ者にとっては残念なことに事実であるが、忘れないで欲しいのは、マリサス=アーティも人間であるということだ。
傍から見れば、この世のすべてを持つと思われるマリサス=アーティは、その手に乗っていないものに焦がれている。
世界の希望。別次元の存在。魔導士の終点。
他者が言葉を尽くし、いくら称しても、マリサス=アーティは、自分の価値が分からない。
何をどうするわけでもなく、ただ普通に、目の前の道を歩いていたら辿り着いた現在地に、首を傾げ続けている。
だから、欲しいものを手に入れる方法が分からない。
こう言ってもふざけているとしか思われないだろうが、努力とは、何なのか。
こう言っても嫌味としか思われないだろうが、それをできる人は、マリサス=アーティから見て、自分などよりもずっときらきらと輝いている。
自分の目の前にある道以外を歩ける人の、途方もないほどの勇気は、一体どうしたら生み出せるのか。
魔導士隊の中にいて、参考になる人はきっと幾人も見てきたはずだった。
もちろん才能と呼ばれるものもあっただろうが、マリサス=アーティにはできない努力をして、目の前に立っているのだから。
そんなことを考えると、自分は本当に、他者への関心が薄い人物なのだと思い知らされる。
参考になるはずの、立派な彼ら彼女らを思い起こそうとすると、自分が見ようともしていなかったことを思い知らされるだけなのだから。
自分にはできない何かをまた見つけた気がする。
何事にも無関心。
そのせいだろうか。自分は感情の起伏が少ない。
この際だから、“あの事情”のせいにしておこう、幼少期から、感じることよりも考えることを優先せざるを得なかったせいかもしれない。
だから、自分から何かを求めることが出来なくて、とぼとぼと、姉の後ろをついていくことしかできなかった。
もしかしたら感情の起伏というものが、勇気を出すために必要なものなのだろうか。
自分にそれができないと自覚までしまっている自分には、どうしようもないものなのだろうか。
そして。
欲しいものは、多分、そんな自分では手に入らないということも、分かってしまっている。
そんな自分が、七曜の魔術師として彼らの仲間になって、一体何ができるのか。
そのことばかりを考えて、考え尽くして、しかし結局、自分の価値が分からない自分は、答えに辿り着けないという答えに辿り着く。
自分の価値。できること。
例えばこの魔術の才能を活かして、たんたんと魔物を倒すことはできる。
シンプルだ。分かりやすい価値である。
しかし、散々感情の起伏がどうのと言っておいて今更だが、そういうのは、嫌だった。
姉の気持ちがよく分かる。
嫌だと感じたときの、言葉で説明できないときの自分は酷いものだ。大体の場合、衝動的に言ったこと、やったことを後悔する。
どれほど魔物を倒しても、自分が子供なのだと思い知らされるのもまた情けない。
魔導士隊に入り、姉の庇護の元を離れてから、そんな子供っぽさはなりを潜めていたはずなのだが、最近また再発しているような気がした。
原因は、はっきり言って、彼だ。
自分の価値を改めて考えることになったのも、衝動的に余計なことを言ったりしてしまうのも、全部、彼のせいだ。
そして、欲しいものに焦がれるようになったのも、だ。
彼。
知名度という意味では、恐らく自分よりも世界の希望と認識されている百代目勇者様候補。
目の前どころか正反対にある道を選ぶことになり、それでも後悔しないで苦しみながらでも進む人物。
マリサス=アーティの対極で、そして、姉の婚約者。
思い起こすと思考が鈍る。
自分が使っていなかった脳の部分、あるいは心の部分が、ギシギシと音を立てて稼働している。進捗は芳しくない。
もしかしたら自分は今、生まれて初めて努力というものをしているのかもしれない。
そう思うと、ほんの少しの好奇心が気分を軽くした。
それ以外は、とんでもなく苦しいが。
だが恐らく、今足を止めることはするべきではないし、したくはなかった。
この先に答えがあるかは分からない。実を結ぶかも分からないことをしている。
いや、実を結ぶ可能性は限りなく低いだろう。なにしろ自分は、姉を、心の底から慕っているのだから。
これは、マリサス=アーティという人物が、初めて思ったことかもしれない。
頑張る。
――――――
おんりーらぶ!?
――――――
「どうした」
「目ぇ離せってのが無理な話だろ」
ヒダマリ=アキラは、腕を組んで木に背を預けて立つジェット=キャットキットを睨みつけていた。
最初の樹海を抜けた合流地点。
現在は、昨日から今日にかけ、複数個の小隊に分かれ、距離を取って樹海を直進するという哨戒依頼の1回目の調査が終わったばかりだった。
他の小隊も、間もなくここから離れた場所で樹海から出るだろう。
昨日から続く雨はやや衰えているものの小雨が止まず、まばらになった木々からじっとりとした匂いが漏れる。
水を含んだ足場はぬかるみ、履き替えたばかりのシューズがずっしりと重い。
昨日の夕方、樹海の中での探索中断時、デオグラフという魔物が突如として襲撃してきた。
驚いたとはいえ、襲撃自体は、流石に魔導士が配属されているだけはあり、他の小隊も含めて死傷者は出ず、精々被害に遭ったアキラたちのテントが張り直しになった程度しか被害は出なかった。
だが、その戦闘の最中、アキラは知ったのだ。
目の前のジェット=キャットキットが、自分と同じ、日輪属性だということを。
「哨戒中も睨みつけてきていたな。知らなかったのがそんなに気に入らなかったのか?」
「……睨んでいたわけじゃない。放っておくと勝手に散策しにいくだろう」
心に引っかかるものが無いと言えば嘘になる。
だが、自分も日輪属性のアキラだからこそ、別の懸念もあるのだ。
この依頼が始まってから、ジェットは単独行動を取りたがる。いや、依頼中だからというわけでもなく、もともとそういう行動を好むのだろう。
協調性がまるで無いというわけでもないが、少しでも暇ができると周囲の見回りにひとりで行こうとしてしまうのだ。
本日の調査でも、先行するようにずんずんと進み、アキラは気が気ではなかった。
今までは落ち着きのない男という印象で済ましていたが、少し歩けば厄介事を拾ってくる日輪属性となると話は違う。
「そりゃあ、まあ、悪いな。じっとしていると落ち着かないってのは本当だ」
「雨も降ってるし、ケディアたちも見回ってくれているんだ。今くらいは大人しくしておいてくれよ」
「ふ。お前も旅で、仲間に同じようなことを言われたのか?」
「だったら何だよ」
「気分を害したならすまなかった。他意は無い。分かった、今は大人しくしておく。この樹海も再調査されるだろうからな」
日輪属性と聞いても、ジェットから受ける印象は変わらなかった。
目つきは鋭いが、器量を感じ、話しやすい。
それはジェットが日輪属性であるがゆえなのかは分かりかねるが、思い起こす“もうひとりの日輪属性の男”よりはずっと話が通じる。
だが、そうは言っても人は人。
嘘を吐いているとまでは言わないが、大人しくしているとは言っても何の気なしに樹海に足を踏み入れかねない。
ジェットの言う通りだった。
何を引き寄せるか分からない日輪属性。
自分は、彼女たちに、いつもこんな心労を課してしまっていたらしい。
「にーさん、そこだと濡れるっすよ」
自分とジェットの間に険悪なものを感じたのか、合流した馬車の傍に立っていたマリスが割って入ってきた。
彼女は自分たちより先にドラクラスにいたらしく、護衛団のジェットとも最低限の交流があったらしい。
そのとき知ったのか、ジェットが日輪属性ということもあらかじめ知っていたようだ。
というより、少なくともこの小隊の面々は、自分以外それを知っていたらしい。
自分の器の小ささに嫌気が差すが、それもまた面白くなかった。
「……そう、だな。……ジェ……、いや」
マリスに連れられ、アキラも馬車の方へ向かう。
一瞬ジェットを気遣ったが、マリスの声が聞こえないふりをしているのか、腕を組んで樹木に背を預けたままだった。
「にーさん。これ」
「ありがとう」
木の下にいたジェットとは違い、いつの間にかアキラは頭からびっしょりと濡れていた。
マリスに手渡されたタオルを被り、そのまま馬車の近くに展開した雨よけのシートの下に入り込む。
雨が降っているのに気温はむしろ高く、むっとするような湿気を感じた。
「ジェットさんもこっちに来ればいいのに」
「……いや、いいだろ。放っておこう」
アキラは呟くようにマリスを引き留めた。
まだ感情が整理できない。
「それよりマリス。今日はひとまず調査したけど、この先の依頼はどうなるんだ? この樹海に入り直しか?」
今さらながらに、この依頼に集中するべきだと感じたアキラは、つい先ほど自分たちが出てきた樹海を睨むように見据えた。
デオグラフという魔物が群れを成して出現した昨日。
難を逃れ、その後も特に何も起こらなかったとはいえ、事前に聞いていた内容と大分違う。
すでにこの辺り、というよりアキラたちがこの後も調べる場所も含め、事前に哨戒依頼が行われているらしい。
それだというのに、あの数の魔物が早速出現したのだ。
日輪属性が引き寄せたのだと考えてしまえば楽だが、そこで思考を止めるわけにもいくまい。
この樹海の調査は済ませたが、前提が崩れた今、今後の進行がどうなるのかは不明だ。
「自分たちがやることに変わりはないはずっすよ。ドラクラスに伝令が着いたら、この樹海の再調査と、デオグラフの討伐が別の依頼として出るんじゃないっすかね。ここから北の方にデオグラフの巣があるらしいんすけど、あの魔物の移動範囲はかなり広いんす。この樹海も縄張りってことだろうし」
そんなようなことを昨日誰かが言っていたような気がした。
改めて思うと、アキラは自分にどれほど魔物の知識がないのかと感じさせられる。
「事前の哨戒のときは、タイミングが合わなかったのか、デオグラフの報告はなかったらしいっすけど」
「まあ、ある意味依頼は大成功か? こういうことをドラクラスの移動前に潰しておくのが目的だしな」
この依頼においては、石橋を叩くのが日輪属性の“使い方”だ。
アキラも今さら文句を言うつもりもないことだが、マリスはアキラを気遣うためではなく、首を振った。
「フェッチさんとも話したんすけど、これは前の依頼の調査不足っすね。日輪属性が引き寄せたこと“ですらない”」
そのフェッチは今、他の小隊の元へ向かっている。
恐らくは、彼らの隊長であるアラスールとの相談事があるのだろう。
アキラたちにこの場に待機するように指示した彼の様子は、やや苛立っているように感じた。
いや、彼だけではなかったかもしれない。
昨日の一件があってから、魔導士たちからピリピリとした空気をアキラは感じ取っていた。
アキラの目から見て、報告や調査の誤りなんかよりジェットの方が異常事態なのだが、彼ら彼女らはそうではないらしい。
ケディアは自分たちのルートの哨戒が終わるなり、またすぐ樹海を引き返して調査をしに行ってしまった。
フェッチは、マリスは旅の魔術師枠で参加しているのだと認識したと言っておきながら、今日はこの場をマリスに任せている。
言ったことを忘れたわけではあるまい。それほどのことなのだろうか。
この小隊のもうひとりも、危機感を覚えたのかケディアに付き合って見回りに行った。
口ではあとは馬車に乗って移動するだけだと言っていたのに勤勉なことだ。
「ケディアさんたちも見てくれているけど、この樹海は改めて再調査。流石に抜けすぎっすね」
「マリスも調査不足だと思っているのか?」
マリスも、むっとしているような様子に見えた。
昨日、マリスの方でも問題が発生したらしい。
詳しくはよく分からなかったが、何やら報告に無い魔物が出現したのだとか。
マリスに応対した時点でその魔物の運命など定まってしまうのだが、調査報告との食い違いがこの依頼の前提を揺るがしてしまうことが問題らしい。
「でもドラクラスの依頼って、ヨーテンガースの魔導士がついているんだろ? そんなポカするのか?」
「魔導士って言っても人間っすよ。疲労もすれば、間違うこともあるし、能力差もある。旅の魔術師の人数が多過ぎると管理で精一杯になることだってあるんじゃないっすか」
「へえ。まあ、そりゃそうか」
「それでも今回のは酷い、って感じっすけど。…………なんすか?」
「いや、マリスも立派な社会人なんだな、って思っていた」
「…………」
この男にまともにものを教えても無駄だと思われたのか、マリスは半開きの眼を逸らした。
仕事に真剣に向き合っているような印象を受けて、称えたつもりだったのだが、煽っているように聞こえてしまったのかもしれない。
だがマリスの言葉は理解できる。
実際に被害を受けた自分たちからすれば憤るべきことだろうが、ドラクラスに集まった旅の魔術師、そして出される依頼の量は未だかつてないほどだ。
人数が集まればできることも増えるが、その分混乱も生まれる。
事前に行われたというこの樹海の調査は、その弊害を受けたひとつということなのかもしれない。
「まあ、そんな感じで後ろを気にしなくていいなら俺らは前に進むだけか。……というか、ドラクラスはここをどうやって通るんだ?」
アキラはジェットを視界に収めつつ、ケディアたちが見に行った樹海を外から眺める。
土の栄養素がどれだけ高ければこうなるのか、太い幹の木々が密集し、昨日今日と歩いてきた限り距離もあった。
まさかとは思うが。
「ドラクラスにとっては別に大した問題じゃないらしいっすよ。全部押し潰して進むだけっすから」
「自然破壊……」
マリスのなんてことないような言葉に、アキラは辟易した。
ドラクラスの移動と共に、この樹海は更地になるらしい。
実際に動いているところを見たことは無いが、ドラクラスは、あの山は、戦車のように進んでくるのだろう。
「……あれ。じゃあデオグラフって魔物、何匹いようがドラクラスの移動に関係あるのか?」
鋭利な嘴と翼を持ち、容易く大木や人間を両断するデオグラフたちだが、相手はドラクラス。つまり山である。
アキラの懸念が分かっているようで、マリスはふるふると首を振った。
「そっちはそっちなんすけど、自分たちが問題にしているのはデオグラフじゃなくて、」
「―――ぎゃぁぁぁあああーーーっ!?」
しっとりと振る小雨の中、樹海の中で醜い悲鳴が響いた。
アキラとマリスは身構え、ジェットは弾かれたように樹海へ駆け出す。
遅れて駆け出したアキラたちは、水たまりを蹴り上げて、一目散に悲鳴の元へ向かった。
今の声は、ケディアと共に周辺の調査に向かったシャロッテ=ヴィンテージのものだ。
樹海へ足を踏み入れた直後、向かう先から、魔物の戦闘不能の爆発音のようなものが聞こえた。
「うっ」
その場に辿り着き、立ち尽くしていたジェットを追い越したアキラは、同じく足を止めて呆然とした。
目の前には、頭の上から足まで泥を被った人の形をした何かがあった。
「シャロッテちゃん! 大丈夫? ごめん、まさか木の上から泥が落ちてくるとは思わなくて……、きっと跳ね上げられていたのね。さっきのは小型だったから、やっぱり大型がいるのかも」
「…………」
「で、でも! きっともう時間ね、さ、馬車には簡易シャワーがある! も、戻りましょう!」
大柄なケディアが珍しくうろたえ、包み込むように、あやすように、声をかけ続ける、人の形をした何かがぷるぷると震えていた。
その上を見ると、大木の幹が密集して絡み合っている。あの上に泥でも溜まっていたのだろうか。
「い……、いいんです、よ。ぜ、ぜんっ、ぜん、気にして、ません……、そ、そりゃあ樹海の中、では魔術が、き、木々を捉えることもある、でしょうし、……お、お気に、入りの、服を着ているとき、もあり、ます」
泥の中からシャロッテの声が聞こえる。どうやら無事らしい。
「……なんだ? やっぱり魔物がまだいるのか」
「昨日魔導士たちが言っていたやつだろうな」
呟くと、ジェット肩を落として引き返そうとしていた。
殊勲にも、アキラの言ったことを守ってくれるらしい。
「なんだよそれ。俺が理解できなかった話か?」
「ん? いや、お前が聞いている話じゃない。たまたま俺が盗み聞いてしまっただけだ。夜に話していたよ。この樹海にモードレイルがいたってな」
それだけ言って、ジェットは歩いて去っていく。
目を離さないように追いつつ、アキラが眉をひそめると、マリスが隣に並んできた。
「一応混乱防止で伏せていたんすけど、昨日、自分とケディアさんで調査したとき、モードレイルに遭遇したんすよ。モードレイルっていうのは、まあ……、モグラ? と言えばいいんすかね。かなり大きいのもいるんすけど」
「モグラ? 色々いるな、この樹海」
「そうなんす。そしてモードレイルは、まあ、想像通り、土の中を進む。自分たちが見つけた最初の痕跡も大穴だったっすね」
アキラは足元に視線を走らせたが、泥の溜まった水たまりしかなかった。
「魔物自体は問題じゃないんすけど、モードレイルのせいで地盤が緩んで、ドラクラスが進むのが滞る可能性がある。デオグラフなんかより、そっちの方がずっと問題だったんす」
フェッチたちがピリピリしていたのは、昨日のデオグラフというより、その間にマリスたちが見つけていたモードレイルとやらのせいだったらしい。
ドラクラスが山のような戦車だとしても、足場が不安定となれば懸念は残る。
「なんにせよ、前の哨戒依頼は穴だらけ。この樹海の調査はかなり不足しているってことっすね」
「モグラのせいで樹海も穴だらけだしな」
「……にーさん」
「ちなみに、それ知らなかったのも俺だけだよなこれ」
マリスからピリとした空気を感じたが、アキラは押し返した。
ジェットは夜の話を盗み聞いたらしいし、シャロッテは夜の番をしている。
なんなら、『智の賢帝』と呼ばれているらしい彼女の意見を求めて直接話をしたかもしれない。
マリスを見ると、気まずそうに視線を外していた。
そういう知識面で、ヒダマリ=アキラはまるで当てにならないと思われているのは間違いないらしい。
まったくもって正しかった。
モードレイルとやらは、ドラクラスから別の依頼を請けた者たちが討伐し、この樹海も綿密な再調査がされるだろう。
デオグラフたちの巣は、またそれとは違う依頼で討伐されることになるだろう。
自分の知らないところでも何かが起こり、そして解決の方向性も決まっている。
一抹の不安、あるいは物足りなさを覚えるが、頼もしさこそ覚えるべきものだと自分を震わせ、アキラは馬車へ急いだ。
振り続ける小雨は、今にも途切れそうなのに、止む気配はなかった。
―――***―――
「けしからんことですな」
右に倣えと言われて、迷わず右を向く人はどれほどいるだろう。
勤続年数25年の魔導士の男は、首だけではなく、身体ごと向けるだろう。
若かりし頃は才気があり、将来を期待された“数多くの中”のひとりである男は、かつて交際していた女性に唯一褒められた姿勢を正し、貫録のある声を出した。
魔導士と言うと、多くの人は魔術に精通し、魔物を討伐する、英雄のような人物を想像するだろう。
だが、それでは組織というものは回らない。
第一線で活躍する魔導士ももちろん数多い。
指定エリアの警邏、綿密な事件の事後調査など、絵本では書ききれないタスクも存在するが、大衆の想像通り、やることは魔術師の延長線上にある。
だが、魔導士に限らず、組織というものは、そもそも全体の方針を定める意思決定者が必要で、資金繰りに人事労務、経理業務に法務などなど、やることが山積みである。
魔術師や魔導士の資格を持たない者でも所属する部門も含まれるが、実際のところ、そうした裏方の仕事になる者のほとんどは魔導士だ。
年齢と共に一線から退き、表舞台を支える道を選ぶ者も多い。
この男が表舞台から去ったのは、20代で魔導士となった数年後だった。
大して珍しい話でもない。たまたま配属されるはずだった新設する支部が水害で不要となり、たまたま殉職率が低い状況が数年ほど続き、たまたま総務の人材が足りていなかった。
そこから自分の魔導士としてのキャリアは、下手に有能だったせいなのか、裏方仕事で積み上げられた。
男には確かに、前線で通用する才能があった。当時の男より一枚二枚落ちる魔導士が、天才奇才ともてはやされていることが多い。
だが、時の運というものは、そういうものなのだ。
それに。
裏方仕事と言うが、表舞台より優れているわけでもなければ劣っているわけでもない。
どちらも存在しなければならないパーツでしかなく、組織人は、さらにそのパーツであるだけだった。
「対象エリアの調査依頼。調査は完了となっていたようですが」
「担当者に確認したところ、伝達齟齬が起こったそうです。魔物討伐の報告を、調査完了と取り違えられたそうで」
姿勢を正す男に合わせるように、目の前の女性の魔導士も背筋を伸ばしていた。
女性は20代後半だろう。かなり若い。
口調ははっきりしているが、目を泳がせ、呼吸はやや粗く、冷や汗をかいているように身体を震わせている。
利発そうな顔立ちだが、細い眼鏡の淵に隠れた隈がある。
上司に嫌な業務を押し付けられ続けている若手という印象だった。
ドラクラスの魔導士隊の会議室。
“会議室とは名ばかりの”この場で、男は席にもつかず、応対する魔導士の女性をじっと睨み続ける。
緊急で持ち込まれ、問題となっているのは、このドラクラスの進行予定ルート上にある樹海の調査報告だった。
現在、石橋を叩き切ったと思われたエリアの最終確認の依頼が行われているのだが、早速、現地の魔導士から調査不足を指摘する報告が上がってきたのだ。
女性の魔導士は、分からない程度に、左拳を握り、唇を噛んでいた。
言いたいことはいくらでもあるだろう。
現在このドラクラスで発生している依頼の数は異常だ。
大方針により、この“引っ越し騒動”の中、発生する依頼はごく少数の例外を除いてすべて魔導士が監督することになっている。
旅の魔術師に限らず魔導士も、ヨーテンガース中から招集をかけているのだが、圧倒的に数が足りない。
不眠不休で働き続けない者もいれば、すでに過労で倒れた者も多い。
調査の不備は伝達齟齬ということらしいが、つい眠り込んでいて不備を見過ごしましたと説明されても、処遇はともかく信じただろう。
目の間の女性の配属は、確か港町のクラストラスだったはずだ。
決して楽な仕事とは言えないが、それでも現在のドラクラスでの業務量は殺人的で、とてもではないが比較にもならないだろう。
突然招集されて混乱の中、慣れない土地で慣れない業務に忙殺されれば、いかに魔導士といえど不備は出る。
今回は重要視している依頼がゆえに大きな問題のように取り扱っているが、大人数が集まっているのだ、こうしたミスは数多い。
魔導士とて人間なのだ。だが、残念ながら、パーツである。
魔導士の女性は何を思っているだろう。
報告を押し付けられ、自分のミスでもないのに頭を下げ、なじられる。
悲しみか、怒りか。
散々こき使っておいて、少しでもミスがあればこの仕打ちではやっていられないと思っているかもしれない。
「それでは仕方ない、とはならないことはご存じでしょう。時間がありません。早急にその伝達齟齬の原因を確認する必要があります。調査依頼では、書式に則った報告書を使用しましたか?」
男は淡々と告げた。
彼女の心情が理解できないわけでもない。
人をいたぶる趣味が男にあるわけでもない。
彼女が憎いわけでもない。
もちろん好いているわけでもないが、“そういうもの”なのだ。
「あの」
女性は、渦巻く感情を飲み込んだように、俯きかけていた顔を上げた。
歯を食いしばり、目尻には涙が浮かんでいる。
「担当者は現在休職中となっておりますので、彼女に変わり、私自身がこれから再調査を行います。先ほどの報告書にもあります通り、早急に解消すべき事案だと認識しています。再発防止も含めた詳細な報告書は後日改めて提出とさせていただき、まずは現地に向かわせていただけませんか」
女性はまっすぐな瞳を男に向けてきた。怒りにも似た色が映っているような気がする。
要約すると、『話ならあとでしてやるから、さっさと現場へ向かわせろ。こんな無駄話している時間は無いだろうが』といったところだろう。
彼女は表舞台にいる魔導士だ。実務優先の思考をしているように見える。
こういうタイプはふたつにひとつ。
実務が好きなタイプか、報告などの雑務が嫌いなタイプか。
後者は話にならないが、前者ならまだ立派である。ただ、いずれの場合にせよ、残念ながら彼女の思惑通りにはできない。
彼女が、そして男自身が、本当にそれで解決できると思ったとしても、他に、それでは解決しないと思う者も当然いるのだ。
どれだけ心を入れ替え、真剣に職務に励もうとしていたとしても、“他者からは”再発しないことが分からない。
ゆえに何らかのミスがある場合、報告、そして再発防止と、“納得させる材料”を揃えなければ許されないのだ。
実務優先の者にとって足枷のようなそれは大層鬱陶しいだろう。
「この状況で許可できるとお思いですか」
「っ」
女性から、噛みつくように睨みつけられた。
その辺りの歯がゆさはよく分かる。だが、彼女の心情だけではなく、組織としての在り方も男は知っていた。
男は別に、自分の方が視野が広いのだと思っているわけではない。
パーツはパーツごとに、ロールがある。
自分と彼女の役割は違う。軋轢が生じるのは当然だ。
そして往々にして、そうした場合、優先されるのは、組織の方である。
何故か。
男は、彼女に分かりやすい理由から詳細な理由まで説明できるが、そうしたことは大変労力を使うし、彼女も頭では理解しているだろう。
ゆえに男は、“そういうもの”としか捉えないようになり、わざわざ口にすることをしない。
「君」
今にも掴みかかってきそうな女性の顔が一瞬で蒼白になった。
男の姿勢も僅か崩れる。
現在会議室にはそうそうたる顔ぶれが並んでいる。
現場主義の彼女には馴染みは無いだろうが、財政責任者に調査部隊の調整官、物流主任に魔物研究の最高権威であるオブザーバと、彼らの誰かが一言でも不服を漏らしたら、組織の中でその意味が何倍にも膨れ上がり、十人単位で職を失う組織人にとっての殿上人だ。
そんな人間たちが、一言も発さず、事の成り行きを見守っている。
魔導士の彼女にとっては職務における不備は深刻な問題でまるでこの世の終わりだとでも感じるほど辛く苦しいものであろうが、彼らにとっては、高が魔導士隊の現場で発生した問題など、指先に虫が止まった程度の些事である。
そんなことで会議を中断されている現状に憤っている者もいるだろう。
だが彼らが言葉を発しないのは、それとはまた別の問題である。
部屋の最奥。
大層な装飾の付いた立派な椅子に深々と座り、ずらりと権力者が並んだ重厚な会議テーブルに肘を付き、先ほど提出した女性の報告書に目を落とすその男は、グリンプ=カリヴィス7世。
このドラクラスの魔導士隊を、いや、ドラクラス自体を統べる、魔人のひとりだ。
「この件は早々に決着させる必要がある。早速再調査させなさい」
魔導士の女性の顔色が変わった。
どうだ見たことかと男に一瞬視線を送り、救世主のようにグリンプを見つめる。
グリンプは、女性の報告書をぱさりとテーブルに置き、視線をこちらに向けてきた。
女性から受け取り、グリンプに渡すまでの僅かな間、簡単に目を通したが、報告書とは名ばかりの、拙い文章が羅列されていた一枚ぺらの紙だった。
あまりこうした業務には慣れていないのだろう。それでも、すぐにでも解決したいという意志が感じられるいい報告だった。
「グ、グリンプ氏。この度は本当に申し訳ございませんでした。今すぐ……、……? グリンプ氏?」
グリンプは、女性の言葉を聞いていないようだった。
報告書にはもう目もくれず、瞳を閉じて顎を引いている。
男は、先ほどの言葉を自分に向けたものだと勘違いしていた女性に、心から同情した。
「……承知しました。君。早々の決着を期待します」
「え、は、はい」
組織としてのあるべき行動というものは、再発を防げるという安全性を確かめた上での再調査だが、グリンプの指示である。男は右を向いた。
裏方でキャリアを積み、それが評価されてか、ドラクラスに配属されてから管理者のような仕事を任されている男だが、積み上げたそのキャリアがまるで役に立たないこともある。
グリンプ=カリヴィス7世の鶴の一声で、今までの方針が覆ることがあるのだ。
男は女性に同情しているが、自分に同情してくれる者など誰もいない。
「待ちなさい。そのまま行かせるつもりかね」
言葉通りすぐにでも現地へ向かおうとした女性を、グリンプの声が止めた。
女性が振り返り、眉を寄せる。グリンプの視線が、自分を向いていないことに気づいたらしい。
「……失礼しました。君。いつまでに終わる予定なのかを定めなさい」
女性がグリンプに向ける視線が、救世主からいけ好かない上司に向けるようなものに変わった。
彼女ももう気がついただろう。
『三魔人』グリンプ=カリヴィス7世は、女性と会話をしていない。
より詳細に言えば、グリンプは、一介の魔導士”ごとき”に意識を向けていない。
「……ま、まずは現地を確認させてください。私もその地方には行ったことがなく、実際に目で見てみないと……。ですが必ず、」
男は、もっともなことを言う女性“ではなく”、グリンプの様子を窺った。
グリンプ=カリヴィス7世という人物は、自ら指揮を執りたがるタイプの支配者だ。
そのせいか会議が多く、ドラクラスの主要人物は頻繁に呼び出されるせいで辟易している者も多い。
この場に並んだ者たちの中にも、平静さを装って、欠伸をかみ殺している者がいるかもしれない。
だが、そもそも主要と認識していない者に対しての態度は冷徹だ。
ヨーテンガースの魔導士であっても、所詮北部の街に配属されているレベルの者など、グリンプにとっては直接言葉を交わしたり感情を見せたりする相手ですらない。
意外だったのは、この件を耳に入れ、グリンプがこの部屋でやり取りをするようにと指示したときだった。
目の前の女性にとっては、この部屋に通されるなど分不相応なことである。
例えば彼女が世間的にその名を轟かすような功績を上げたとして、彼女の上司に伝わり、その上司から各所への報告があり、評価者が似たような報告を取りまとめ、早ければその数日後、グリンプの間にずらりと並んだ同様のリストの一端に乗る。
どれだけ彼女が歓喜しても、グリンプにはまさに一端程度のことでしかない。
グリンプ=カリヴィス7世。
ドラクラスの魔導士隊の指揮を執るが、厳密には、彼は魔導士隊そのものとは関りがない。
魔導士隊を率いる『三魔人』と認識されているが、誤りでもあり事実でもある。
ドラクラスの保全上、政治や軍事に関わる“全て”の決定権、命令権を持っているのだ。
民衆から見れば分かりやすいドラクラス魔導士隊への命令権が目立つだけで、彼が持つ力の全貌からすれば、魔導士隊の管理などほんの一部でしかない。
魔導士としてキャリアを積み、どれだけ上り詰めても、絶対的な権力者である彼の指先に辿り着けるかどうかである。
それゆえに男は、直接会わずとも、経済や裏社会を統べる他の『三魔人』も、そんなグリンプと肩を並べていると言われる時点で、“想像もできない力を持つことが想像できる”。
一介の旅の魔術師からでは、仮に直接会って話ができたとしても、彼らの本質など何ひとつ分からないだろう。
そんな、組織人からは見るだけで目が潰れるようなグリンプが、彼女をこの部屋に通したのだ。
男は、耳を疑いながらも、彼女が社会的に殺されるのではと考えたほどだった。
目の前の彼女に限らず、直接会うことすら隊長格であっても珍しい。
最近では、異常者と言わざるを得ないマリサス=アーティがグリンプに気に入られ、また、同様に評価されているのかアラスール=デミオンは重要会議に招集されているようだが、例外中の例外である。
男も、自分もこの場に呼ばれたのは、ただの通訳のような立ち位置で用意されたのでしかないと理解していた。
グリンプの態度に不服を持つ者も少なくはない。憤慨している者もいるだろう。
だが、日の当たるところに生きる者にとって、グリンプ=カリヴィス7世の言葉は絶対である。
自分たちが所属する魔導士隊の上層部。いや、最上層部。魔導士の全体指揮を執る者たちからも支持されたグリンプ=カリヴィス7世は、ドラクラスの組織人にとって絶対的な決定権を持つ。
ドラクラスにおいてグリンプという男は、魔人は、逆らう逆らわないの次元ではない人物なのだ。
男は自分が、この魔導士の女性への対応に私情を挟んでいたことを自覚した。
グリンプのこうした面を見ると、自分は所詮パーツでしかないと認識してしまう。
男にとっては、“そういうもの”なのだと認識しているが、他者にとっては憤慨、悲哀と持つ感情は様々だが、前向きなものではない。
自分は、彼女はそういうことに今はまだ気づかないまま退出させてやりたいと考えていたらしい。
「……明確に期限を定める必要がありますな」
まだ何か言っていた彼女の言葉を遮って、男はグリンプに向き合った。
この場は話し合いの場ではない。
自分たちが新たに何かを考えるのではなく、グリンプが要求している答えを言葉にする儀式なのだ。
男は、グリンプの顔色を伺いながら、口を開こうとした。
だが、グリンプの小さな咳払いが聞こえて、姿勢を正すだけにした。
「現場の彼らはよくやってくれていることを知っている。有能な彼らなら、明日の正午には完了するだろう」
「ちょ、」
「君。明日の正午前に、報告を上げなさい。報告書を確認する必要もある」
グリンプの決定に口を挟もうとした女性を遮って、男は冷徹に言った。
無茶なことを言っているのは、この場にいる誰でも分かるだろう。
調査対象の樹海まで移動だけで半日近く。
到着するだけでも本日の夕方頃。そこからとんぼ返りでも明日の未明だ。
調査自体に使える時間は半日程度だろう。
魔導士隊の能力をもってすれば、半日でも樹海の調査は完遂できるかもしれないが、そこから詳細に報告をまとめる必要もある。
ここはヨーテンガースだ。万全の状態で依頼に挑んでも、命の保証はない。
神経をすり減らし、連日まともな睡眠も取れないほど多忙な魔導士がとる行動とは思えなかった。
だが、例えそうでも、トップの決定である。
どうやって実現するのか。それは現場の人間が考えることなのだ。
これも決して誤りではない。
特に害を被る者にとっては憤ることしかできないだろう。
しかし組織はそういう形でなければ成り立たない。
組織が成り立たなければ、そこに所属する人の生活も守れない。
ゆえに組織が優先される。
それが組織の在り方の、唯一の答えとは言わない。
例えばドラクラス警護団は、組織よりも個人に重きを置き、成り立っている。
だがグリンプが発言した以上、ドラクラスの魔導士隊においては唯一の正解だ。
魔導士隊とドラクラス警護団。
男は、そのふたつの組織に優劣をつけていない。
一見魅力的に思える警護団だが、隣の芝生は青く見えるだけなのだと男は知っていた。
「……失礼します」
女性は言葉をぐっと飲み込んで、小走りで部屋を出ていった。
これ以上ここにいたら何を言われるか分かったものではないといったところか。
結局のところ、彼女は明日の正午までに、報告書作成まで含めたすべての業務を完了させなければならなくなったらしい。
男は、彼女の行動に自分を重ねた。
もし自分なら、最初に準備のかかる馬車の手配をし、方々に躊躇なく頭を下げ、人員を確保してから調査に向かうだろう。
彼女のあの勢いで向かっていったら、下手をすれば彼女は無謀にもひとりで調査に向かってしまうかもしれない。
組織にいる以上、デメリットもあればメリットもある。
迷わず人を頼れるか。精神的に追い詰められた人ほど難しいが、その垣根を越えられるかが組織の恩恵を実感できるかの境界線なのだ。
結局事態は、また現場が涙を呑む形で決着した。
グリンプがこの部屋でやり取りをするようにと言ったのは、一体何のためだったのか。
ドラクラスの移動を目前に控えているだけに慎重だったのか、あるいはここに並ぶ権力者にこうした光景を見せ、何かのアピールをしたかったのか。
いずれにせよ確かめようもないし、知る必要もない。
あの魔導士の彼女も、所詮パーツ。
そして、その彼女に偉そうに指示を出した自分も、当然そうだ。
「君。いつまでいる気だ。下がりなさい」
グリンプの言葉に、男は何も感じず、一礼して部屋を出た。
出際に、部屋の中から軽快な声が聞こえた。
「さあて諸君。余計な邪魔が入ったが、再開しようじゃあないか」
―――***―――
「はい!」
「おおっとびっくりした! シャロッテちゃん、今日も元気いっぱいね!」
ヒダマリ=アキラは、大分慣れ始めた野営の準備を進めつつ、シャロッテ=ヴィンテージとケディア=レンダーのやり取りを横目で盗み見ていた。
この依頼も今日で一週間。
中盤を乗り越えた一行は、今日も今日とて、いくつ目かの樹海の調査を実施していた。
初日にこそ色々あったものの、その後の依頼は、不謹慎だが肩透かしだった。
流石に調査が事前に行われていただけはあり、ヨーテンガースだというのに魔物がほとんどいない。
魔道のプロである魔導士に行われた哨戒というものはやはり高水準らしい。
アキラたちは調査エリア間を馬車で移動しながら進行しているのだが、その移動中の道ですら、調査や討伐が完了しているようだった。
どうやら哨戒というのは、特定エリアの制圧をしていくようなものらしい。
アキラたちは進行しながら該当エリアについたら、魔物の調査や討伐をし、時折、魔導士たちが街などに備わる魔物除けの設備を仕掛けていた。
それでも、事前の調査が完了していることもあり、すでに大掛かりな設備が組み立てられていた場所も多い。
都市計画でも立てているかのように見えたが、どうやらそれらは、すぐにドラクラスの移動に伴って踏み潰されるという。
今回の依頼で魔導士たちが仕掛けたものも同じ運命を辿ることになる。
貧乏性なのか、勿体なさを覚えながらも、この騒動の大きさを再認識させられた。
自分がやったことが間もなく潰されることが分かっているのに、彼らは抵抗なく、むしろ神経質なほど気を遣って設備を組み立てていた。
まったく手伝えないアキラは、この依頼の初日に言われたことの意味が分かった。
今回の依頼は、特定の人間にとってはただの散歩らしい。
日輪属性のことを言っているのかと思ったが、どうやらそれだけでなく、そうしたことに明るくない者にとっては、“餌”役にしかなれないという意味でもあったのだろうと考え直し、心の中でひっそりと泣いた。
そもそも魔導士でもなればあんな設営はできない。他の旅の魔術にも似たような境遇の者がいるだろうと思い込み、持ち直そうとしているが。
今回の哨戒は初日同様、日をまたぐ予定の樹海の探索だ。
とはいえこのエリアを担当した魔導士も優秀だったのか、事前に仕掛けられていた設備にも異常は見つからなかったらしく、危険な魔物もいない。たまに見かける自然動物すら事前に聞いていた内容そのままだった。
明日の午前中に残りの探索を終え、また長い馬車移動となる。
キャンプ気分というのもよくないだろうが、移動時間ばかりのこの依頼では、面々とゆっくり話ができるいい機会でもある。
「ケディア嬢。調査であれば私も同行しましょう。皆さんはここで夜の準備を進めていてください」
「まあ嬉しいっ! マリーちゃんとふたりきりのデートもいいけど、シャロッテちゃんも来てくれるならもっとハッピー!」
この小隊も、適宜変更があるかと思っていたがそうではなかったらしい。
他の小隊も含め、初日のグループのまま行動していた。
日中ほとんど一緒に行動してきたお陰で、各人の性格も大分分かってきた。
今、大げさなほどのガッツポーズをしたシャロッテ=ヴィンテージは優等生で仕事熱心だ。
今も暇を見つけては、“正当な手順を踏み”、周囲の調査に勤しもうとしている。
『智の賢帝』と呼ばれだけはあり、発見した魔物の痕跡と過去の報告書との突き合せも早く、知識量だけであれば同行している魔導士たちを上回っているかもしれない。
魔導士たちですら彼女に意見を求めることが多く見える。
依頼の調査のみならず、拠点設営の知識も豊富で、様子を窺っているだけで自分も試してみたいと思うことが多数見つかった。
シャロッテに向かい合っているケディア=レンダーという魔導士は、とにかく元気がいい。
大雨の中鬱蒼と生え茂る草原を歩くときも、樹海の中密集した蜘蛛の巣やら蚊柱やらを突き進むときも、彼女の声を聞くと足が軽くなる。
面々は自然と、彼女を中心とした陣形を取ることが多かった。
そのケディアと同僚の魔導士、フェッチ=ドッガーは、思った以上に思慮深い男だった。
話しかけると応対は軽く、魔導士という肩書を感じさせないほどフレンドリーだが、依頼に関わる判断をするときは氷のように冷静になる。
この依頼中、選択肢が並んだら、誰もが自然と彼に指示を求める。
“間違い”は引かないという信頼感を面々から持たれていた。
魔導士が複数人いるこの小隊だが、実質的な隊長は彼だろう。
もうひとりの魔導士、マリサス=アーティ。
元からアキラも知る彼女だが、完全にジョーカー扱いだった。
報告漏れのあった魔物だろうが、進行が困難な崖だろうが、マリスが行動すればすべてが解決する。
知っているだけでそれなのだ。他にも、別行動で調査をすると、時折マリスが何かを討伐してきたと言うことがある。
そのたびにフェッチやケディアが別の小隊にいる魔導士もに報告する騒ぎになっているのをアキラもよく見ていた。
そして。
「随分上手くなってきたな。手際がいい」
「そりゃどうも」
「教え方が良かったのかもな」
ジェット=キャットキット。
この依頼に参加している、アキラ以外の“日輪属性”。
目つきは鋭く、ともすれば殺気すら放っているように見えるが、話してみると良識人と言うことが分かる。
シャロッテ同様仕事熱心ではあるのだが、ひと声かける程度で、ひとりで調査をするなど単独行動が目立つ。ただそれも、全体に迷惑をかけるようなものでもなかった。
仕事も早く、今も自分が担当したテントを手際よく組み立て、他に仕事がないかとアキラの元に来たらしい。
同じ日輪属性のアキラとしては少々複雑だが、魔導士の面々からもその手際の良さを信頼されている男だった。
「……独り言の癖は治ったのか?」
「おかげさまでな。お前の方もこの依頼、引きこもっていた分いい機会だろう」
「マジな話、あれって誰かとやり取りしているんだろ? まさかミルバリー=バッドピットか?」
「ミルバリーはドラクラスの“機能”を使って全体への放送をしているだけらしい。個人間はそういう魔術を使う奴が他にもいる。警護団のバックアップメンバーだ」
話しやすい男だった。こちらも言葉に詰まらず流暢になる。
ジェット自身の対応もそうなのだろうが、日輪属性の力も働いているのかもしれない。
アキラは改めて、自分にも宿る日輪属性という力への恩恵と畏怖を感じた。
「便利だな。ジェットも使えるんだよな。俺も使えるか?」
「日輪なんだから当然使えるだろうが、俺も人には説明できない。機会があったらユフィを紹介するから聞いてみるといい」
「そのユフィってのが独り言の相手か?」
「ああ、俺とやり取りすることが多い。ユフィネス=サークは特定個人に言葉を届けられるし、同じ魔術を使った相手の魔術に干渉して、距離が遠くても言葉を拾う。理屈が分かっていない俺ができているのもユフィのお陰かもな。事前準備が色々いるみたいだが、俺はドラクラスの中ならどこにいても、ユフィとのやり取りができる」
自分が言った通り便利な魔術だった。
元の世界の電話のような魔術という認識だが、この世界においてはそうした通信手段は存在しない。
全員が当たり前のように街中で散り散りになる自分たちの仲間に必要な魔術に思えた。その被害を一身に受けているエリサス=アーティにとっては垂涎ものの魔術だろう。
そして、この依頼の初日のように、イレギュラーが起こったときも活用したいだろう。
「この世界ではその魔術、使う奴多いのか?」
「使える奴はかなり少ないな。必死に練習する奴がいるほどには便利だが、できない奴の方が多い。まあ、声を届けられる距離が離れれば離れるほど“しきたり”に抵触するらしいな。ドラクラスの中限定ってことで見過ごされているらしいが、ユフィたちもぎりぎりかアウトだろう」
「久々に聞いたなそれ」
神が定めた“しきたり”。この世界のルールであり、“そういうもの”。
アキラが旅を始めたきっかけもそれに由来する。
アキラは異世界来訪者であることもあり、神に心酔しているわけではなく、自分に関わったしきたり以外はほとんど知らないし、実のところあまり興味もない。
だがジェットの言葉も、同じく執着している者のそれではなかった。
「じゃあ、―――……“魔王の弟”の調査は捗っているのか?」
別の場所でテントを組み立てていたフェッチとの距離が開いた瞬間のことだった。あそこからなら流石に声は拾えない。
てきぱきと作業を進めるジェットを見ながら、アキラは囁くように言った。
ジェットもフェッチの様子は把握していたらしく、改めて様子を窺うことも無く返してきた。
「お前に話した翌日、いくらか大きい旅の魔術師の集団がドラクラスに入った。結果は空振り。気になったのはひとりふたりいたが、それはどこの集団でも同じことだ」
“魔王の弟”。
『接続者』の身柄を押さえるという犯行予告を出した者は、ドラクラス内部にいる可能性があるという。
ジェットはその調査でドラクラス中を回っているらしいが、大した成果は得られていないらしい。
「こんな依頼を請けてたら、調査なんかできないんじゃないか」
「まあな。だが同じ筋からの依頼でもある。一応この依頼を請けた奴らを洗ってはいるが、今のところめぼしい奴がいない。いなさ過ぎて逆にお前が一番怪しいと思えるくらいだ」
「確実に全員白だな」
アキラは立ち上がって伸びをした。
組み立ても終わった。
ジェットが手伝ってくれた分、今日はフェッチより早く終わったようだ。
「この話はフェッチたちは知らないんだよな」
「そのはずだ。不用意に話すなよ?」
「でも全員白なんだろ?」
「白でも混乱はするし、その白が黒とつながっていないとも限らない。お前はその辺分かっていると思っていたが」
「分かっているよ。ただの確認だ、忘れてくれ」
アキラはここ数日を共に過ごし、過剰な仲間意識を持ち始めていることを自覚した。
ジェットはそれが危険なことだと分かっているように、各員から一定以上の距離を取っている。
その辺りの線引きは、自分にはまだ難しいのだとアキラは思った。
「……マリサス=アーティには言ってしまったか?」
「ん? いや、誰にも言っていないよ」
「なら極力そうしてくれ」
「……マリスを疑っているのか?」
「“魔導士を”、が正しいが、……」
「?」
アキラが振り返ると、ジェットは足を箒のように使ってテントの入口の雑草を掃いていた。
フェッチが準備を終えて歩み寄ってくる。
ジェットとの話は終わりのようだ。
「やあ勇者様。随分手際が良くなったな」
「同じこと言ってくれるな」
「撤去作業でもその手腕を発揮してくれると助かるね。まあ、彼女たちが戻ってくるまでしばらく待機だ。ゆっくり親睦でも深めようか」
「見回りに行くのは相変わらず駄目か?」
「朝は見逃してあげただろう。隊長に睨まれてる俺の身にもなってくれ」
ジェットの単独行動癖は、この小隊の調整をしているフェッチにとっては困り種だろう。フェッチ本人も見回りをしたいのを抑えているというのもあるが、定期的に別の小隊を担当している彼の所属する部隊の隊長、アラスール=デミオンへ報告に行っており、そのたびに釘を刺されているらしい。
「そういやアラスールは……元気、だよな?」
「なんだそりゃ。隊長は元気も元気さ。会議続きだった鬱憤はある程度晴れているらしい。その憂さ晴らしの一環か、俺への釘刺しがきつい」
アラスールは魔導士で、そして当然人間だ。
依頼の初日、アキラも圧のある“お願い”をされたが、昨日か一昨日遠目で見たときは、気まぐれだろうが指で輪を作りウィンクしてきた。
現場仕事で彼女の機嫌も直ったらしい。
「それで、さっきふたりは何の内緒話をしていたんだ? 面白い話かな?」
「つまらない話さ」
「なんだ、じゃあいいや」
ジェットは下手に誤魔化さず、フェッチの方も追及してこなかった。
フェッチも他者と適切な距離感を取る男で、こちらも話していて気分を害されたことがない。
秘密なら秘密。だがそのまま言うと、話しても聞いても角が立つ。
その辺りの会話が上手いような気がした。色々諦めたアキラとは雲泥の差である。
そして、こうなるとアキラの方がひとりでも探索に向かいたくなった。
フェッチがにやりとした視線をアキラに向けてくる。
「さて勇者様。我らがアラスール=デミオンからの伝言を聞きたいかね?」
「この場で言うってことはいい予感はしないな」
「とんでもない。むしろケディアなら両手を広げてファンファーレを鳴らしているようなことさ。……そのまま読み上げます」
真摯な表情になったフェッチは、咳ばらいをすると、持ってもいないのに手元に紙でもあるように視線を落とした。
「『勇者様。マリーちゃんの機嫌は治りつつあるみたい。私を“しきたり”違反者にしなかったこと、心より感謝します。でもね、違う、そうじゃない。これただの自然療法でしょうが。私が言っていること理解してる? 依頼が終わったら、また私とお話してくださりますか? ちなみにそれが終わってもまだ半分です』とのことだ」
フェッチの新たな能力を見つけた。記憶力か創作力だ。
そして今は不在のケディアの一面も知れた。彼女は入ってくる情報に、一部でも喜ばしいことが含まれているとファンファーレを鳴らすらしい。
だが半分の意味がよく分かるアキラは、どの道アラスールが似たようなことを言ったことは分かった。
そもそも、マリスの機嫌が悪いというアラスールの言葉自体、アキラにはよく分かっていなかった。
時たま話しても普通に見えるし、当たり前のように頼りになる。
そんなマリスの機嫌は、開放感のある依頼のお陰か、自然に治りつつあるという。
どこかで話したいとは思っているのだが、自賛するほど依頼に集中しているアキラは、あまりマリスとの時間が取れていない。
各々が自然に行動すると、何故か今のようにいつの間にか男性陣と女性陣に分かれていることの方が多かった。
どうせならと、むしろ貴重な機会だと捉え、フェッチから魔導士としてのマリスの話を聞かせてもらっていた。
話の種を集めた方が、マリスとの会話も弾むだろう。
そして。
そんな経緯もあるのだが、そもそも、彼女を前にするとどうしても脳裏を過ることがあり、そちらが気になってしまうのだ。
「随分とユニークな隊長だな。アラスール=デミオン。退屈しないだろう」
「怒ると鬼だ、そりゃあ刺激的さ」
珍しくジェットが乗っていた。
少し離れて立ち、腕を組んでいるジェットの姿はよく見るが、そもそも人との会話が嫌いではないらしい。
もしかしたら、そういう方向の話題に苦手意識のあるアキラへの助け舟のつもりで話題を逸らしてくれたのかもしれないが、アキラこそ珍しく、話題を元に戻した。
「なあジェット。あんたはマリスを元々知っていたのか?」
「有名人だ。ヨーテンガースにいれば名前くらいは聞いたことがあるだろう」
「……聞き直す。マリサス=“アーティ”を知っていたか?」
ジェットが僅かに目を細めた。
許可を取るような言い方をしたが、様子からするに、“魔王の弟”ほどタブーというわけでもないらしい。
そもそもその言葉を意味深にアキラに言ったのはジェットだ。フェッチの手前、よほど不都合なら、“魔王の弟”のように口止めをしているだろう。
「ん? そういえばそうだな、ジェット。それに勇者様。“アーティ”について何か知っているのか?」
フェッチも当然、その言葉に違和感を持っていたらしい。
現在ドラクラスに、知っているだけで3人、その姓を持つ人間がいる。
七曜の魔術師である、エリサス=アーティ。
同じく七曜の魔術師であり、魔導士でもある“数千年にひとりの天才”、マリサス=アーティ。
そして、『接続者』と唯一接触できる『代弁者』である、フェシリア=アーティ。
エリーとマリスは姉妹だが、フェシリアは血縁関係ではないようだ。少なくともエリーはフェシリアのことを知らない様子だった。
単なる偶然と思うには、それぞれの肩書が許さなかった。
「俺も気になって調べてみたことあるけど、何も分からなかったよ」
フェッチは簡単に言うが、実力派の魔導士が調べたというのだ、ホンジョウ=イオリのように、アキラの想像の何倍もの調査をしているかもしれない。
そしてその彼が分からないということは、アキラには絶対に辿り着けないだろう。
マリスに直接聞いてみようと思ったが、やはり家柄というのはデリケートな問題だ。
アキラも最近知ったのだが、この世界では孤児だとミドルネームがある場合があるというし、元の世界よりも名前の意味の重さが違うのかもしれない。
やすやすと他人が深入りしていい領域の話ではないだろう。
そんなことばかりが気になって、マリスとの話はあまり頭に入ってこなかった。
「話しちゃまずいことだったか?」
「口を滑らせたのは俺だ、非難するつもりはない。……そもそも俺が知っているのも噂話だ。軽々しくする話でもないし、深入りしない方がいいがな。特に、魔導士のあんたの方は」
「ほう……。じゃあ、そうだな、聞こうかな? 耳を塞ごうかな?」
ジェットに軽はずみに口にしたことを咎められたのかと思ったが、どうやらただの本心によるフェッチへの忠告らしい。
フェッチはきな臭いものを感じたのか、迷っているふりをして聞かないことにしようとしているようだ。
アキラは、拳を握ったままジェットに向き合った。
魔導士が調査しても分からないことを、この男は知っている。
マリスに、そしてエリーに関わることだ。知っておきたい。
「……少なくとも本人がいる場所でする話じゃないな」
ジェットが顎を上げた。
見れば木々の隙間から、ケディアの身体が見える。
彼女たちの散策は終わったらしい。
「ああ、そうしよう。さ、飯の準備か。今日は誰が担当だ?」
「勇者様にお手を煩わせるわけにはいかないでしょう、シャロッテさんに頼もうか」
「前もシャロッテがやってなかったか? いいのかよ」
「あの場所は最適な者を使い倒さなければ生き残れない。そういう環境だった」
フェッチは真剣な表情で語った。
思い起こしているのはあの死地ではなく、携帯食料を簡単に味付けするだけなのに微妙になったアキラの料理と、得意と自分で言うだけはあって同条件で別格のものになったシャロッテの料理だろう。
この小隊は食事面でも随分と充実している。
どこか満足気で戻ってきたシャロッテが早速料理に取り掛かった。
マリスも手際が良く、それに合わせて準備を進めている。
そんなマリスを眺めながら、アキラはじっと考えた。
ジェットの言うように、やはり“アーティ”の話は本人にするような話ではないらしい。
マリスも孤児だ。もしトラウマでも刺激したらどれだけ頭を下げても許されないだろう。
強い興味を持っているし、もし何らかの問題を抱えているのなら助けになりたい。
だが、魔導士のフェッチが調べても分からないことではアキラは手も足も出ないだろう。
ジェット曰く、そもそも魔導士は知らない方がいいらしい。これはアキラの失敗だ。
この依頼中にジェットから聞き出すしかないだろう。
だが、ジェットも言い渋っていたし、そもそも噂話しか知らない風なことを言っていた。
他の伝手は。
「……」
アキラはじっと、何かいいことでもあったのか、鼻歌を奏でながら調理に勤しむ『智の賢帝』シャロッテ=ヴィンテージを眺めた。
彼女なら、あるいは。
―――***―――
シャロッテ=ヴィンテージは馬車の奥の席に深々と座り込み、にやりと笑った。
日をまたぐ樹海の調査を終え、次の調査エリアまでまた馬車で移動することになる。
出発時間までまだあるだろう。
他の面々は長時間の移動に備えて外の空気を吸っているが、今のシャロッテはどこにいても晴れ晴れしい気分でいられる。
自分の判断は正しかった。
この依頼、初日こそ災難に見舞われたものの、進行自体は至って順調だ。
というより、そもそも事前に綿密な調査が行われ、その上で、魔導士同伴で念押しの調査をしているだけなのだ。
下手をすれば他の大陸の依頼よりもずっと楽な仕事かもしれない。
当初懸念していた問題も、そこまで深刻ではなかった。
ヒダマリ=アキラやジェット=キャットキットと同行することになり、リスクはあったが、この『智の賢帝』にすれば些細なことだ。
実際にさほど大きな問題が起こらなかったのも大きい。
初日デオグラフと遭遇したときはどうなるかと思ったが、その後の依頼は何事もなく進行している。
日輪属性が事件を引き寄せるとはいえ、事件の種自体が存在しなければ何も起こらないのだ。
同じ小隊といえど、それなりに距離を取った立ち回りなど容易く、安全圏でやり過ごすことができた。
さりげなく男性と女性で別れるように誘導したのが良かったのかもしれない。
その中でも大きい発見は、マリサス=アーティ。
トラブルを引き寄せる気質はあるものの、それは日輪属性と違い、“見逃さない”から問題事が起こるに過ぎず、シャロッテ同様、この依頼の“適任者枠”でしかない。
彼女が察知した異変は、シャロッテももちろん看破している。つまり、彼女がいなくてもその問題事はシャロッテの前に立ち塞がっていたのだ。
そう考えると、彼女という存在は、予測もできない事象を引き寄せる日輪属性の奴らとは違い、その問題事を確実に排除できる切り札でしかなかった。
そんなマリサス=アーティと同行する機会が増えた今の自分は、この依頼で最も安全な場所にいると言えた。
期間はおよそ10日。
すでに半分以上が過ぎている。
移動時間を考えれば次の調査エリアがラストかラス前だろう。
自然の中で過ごし、ドラクラスの中とは違った疲労やストレスが溜まり始めているが、むしろそんなことの方が気になるほど脅威は無い。
あとはこれまで通り、マリサス=アーティの近くを維持しつつ、ヒダマリ=アキラやジェット=キャットキットと一定の距離を保ち続ければ、依頼料ががっぽり手に入るだけだ。
「お疲れ。隣いいか?」
「なんでこうなる」
顔を上げると、件のヒダマリ=アキラがのんびりとした表情で見下ろしてきていた。
眺めの前髪の中、自分の瞳は何色を浮かべているだろう。
シャロッテが固まっていると、アキラは、気落ちした表情を浮かべた。
「悪い。なんか邪魔しちゃったか?」
「いえ。アキラ氏のせいでは。……どうぞ」
恐れることがあるものか。
シャロッテは小さく咳払いをしてアキラを隣に促した。下手に刺激して必要以上の興味を持たれても困る。
長椅子が左右に縦並びになった馬車の中は閑散としている。
曇り空で照明も付けておらず、薄暗い馬車の中、わざわざ奥まで入ってきたアキラには違和感があるが、一応は同じ小隊。角の立つことをするのは愚かでしかない。
アキラは隣に深々と座り、気を抜いたようにほうっと息を吐いた。
ヒダマリ=アキラは“勇者様候補”だ。
最大限の敬意を払えと“しきたり”にもあるが、最大限の定義は人それぞれだ。
シャロッテとしては、失礼になりさえしなければいいと思っている。
ただ、この数日、日輪属性に嫌でも目を引かれたせいで見ていた彼の様子は、そもそも“勇者様”らしくはない。
見るといつも能天気そうな様子で、しかし依頼に集中していないわけでもなく、緊張しているわけでもなく、かといって落ち着いているというわけでもなく、ともかく、捉えどころのない男だった。
ならば何が勇者なのかと聞かれても、答えられないのだが。
「私に何か御用ですか?」
「そうだな……、ちょっと話をしてみたくて。ほら、この依頼も長いけど、終わりが見えてきたからさ」
可能な限り避けようとしている相手にそんなことを言われ、シャロッテの明晰な頭脳が警鐘を鳴らした。
アキラの意図は分からないが、どの道向かう先がどうにもきな臭い。
とはいえ“しきたり”の手前、無下に扱うのも憚れる。
「私で良ければ構いませんよ」
「よかった。じゃあ、……そうだな、ううん」
「……」
話をしたかったからと言っていた割に、何も考えていなかったらしい。
シャロッテがいぶかしみながらアキラの様子を探ると、彼は話題を探そうとしているのか視線を泳がせ、ふと気づいたように口を開いた。
「シャロッテって、ひとり旅なのか?」
「ええ。私はひとりで旅をしています。……まあ、参加する依頼は今回のように大人数のことが多いですが」
「へえ。それなのに色々服持っているのか」
「!」
シャロッテは背筋をピンと伸ばした。
収納個所と機能性を気にしつつも仕込んでいる防具で着ぶくれしないオーダーメイドの茶色のジャケットに、白のインナーに薄い茶色のロングホットパンツ。アクセントとしてあえて選んだ太い黒のベルトと物々しい茶色のハイキングシューズは、シャロッテが厳選したこの依頼用のファッションである。
好きな服は他にもあるが、この依頼の特性を鑑み、涙を呑んでドラクラスに残してきたのだ。せめてカラーバリエーションだけでもと依頼中は同じ服装で統一しつつ、毎日変化をつけるためにあれやこれやと頭を悩ませていた。
「……いえ。同じような服の色違いですよ」
「そうなのか、分からなかったよ。悪い、気づかなくて。毎日新鮮な感じですげえなって思ってたんだけど」
「わあ! 誰も気にしていないものかと! ……ん、んんっ」
シャロッテは強い咳払いをした。
見ている人は見ているものだ。
胸をぐっと抑えつつ、ちらりとアキラの顔を横目で窺う。
一体彼は何のつもりで自分と話に来たのだろうか。
同じ小隊とはいえ自分の働きによって、調査中はともかくほとんど交流は無かった。
それなのに突然馬車の中まで押しかけてきて、席も空いているのに隣に座るなど。
この『智の賢帝』に何か訊きたいこともあるのだろうか。
こうしたことは今まで幾度かあったが、大体の場合それなら訊くべきことをまとめてくる者がほとんどだ。
噂に聞く、日輪属性の特性とやらのせいか、話していて思ったより不快ではないが、彼の意図が読み切れない。こんなことは初めてだ。
服装を褒められたときは正直どきりとした。
何故この人はこんなに嬉しいことを言ってくれたのだろう。
「……!」
「?」
シャロッテは長い前髪の中、目を見開いた。
故郷の両親から。旅の中で出会った友人たちから。散々と忠告されたことがある。
世の中には、旅の魔術師と称して異性を漁るのが目的の者たちもいるのだと。
そういう者たちは実に巧妙らしい。相手の気分を良くし、毒牙にかける。
友人たちが言うには、シャロッテは絶対に引っかかるから注意しろとのことだ。
彼ら彼女らの言葉が正しいなら、この『智の賢帝』とまで呼ばれた自分すら欺けるということになる。
今まで、何を馬鹿なと思いつつも、一応は気にして集団依頼でも他者と一定以上の距離を取ってきたが、今回はなかなかの長期間で同じ時間を過ごすことが多い依頼だ。
つまり自分は今、初めてナンパというものを受けているのかもしれない。
「なあシャロッテ」
「は、はい! 何でしょう?」
「ん? ……もしかして具合悪かったか? 悪い、今度にした方がよさそうだな」
「……いいえ。ただしゃっくりが出ただけです。もう治りました」
「すげえなそれは」
くだらない嘘を吐いてしまったが、アキラは感心交じりの視線を向けてくる。
よく謝る男だと思った。
自分に自信がないことの表れだろうか。
思い返せば依頼のときも、自分が何かを教えるたびに目を輝かせて驚いたりしていた。
警戒していた相手であっても、頼られるのは悪い気はしない。
だが、もしかしたらそういう“手口”なのかもしれない。
多少喜んでいた自分を恥じ、シャロッテは唇を強く結んだ。
騙されてなるものか。それならそれで、そういう備えをするだけである。
過去、自分に注意をした両親や友人たちを鼻で笑う。
確かに気分は悪くないが、自分はいたって冷静で、分析も正確。引っかかりようにも引っかからない。
追い返すのは容易い。だが、何事も経験だ。
人と話すのは嫌いではないのだが、自分の通称が重荷になるのかこうして軽々しく話しかけてくれる人も多くはない。
素直に言えば、誰かに気さくに話しかけられると嬉しくなる。
彼と少し話すくらい、自分に利益はあれど不利益は無いのだ。
むしろこういうことを正面から乗り切ってこそ自分の糧となる。
となると何を話そうか。せっかく話しかけてくれたのだから、こちらも話題を考える必要がありそうだ。
そもそもナンパといえど、他者からの好意ではある。きちんと向かい合わないと失礼だ。
そう考えるとどきどきしてきた。
「じゃあ、ええとお大事に。また話聞かせてくれると助かる」
「ちょっと!」
腰を浮かせかけたアキラはびくりとして動きを止めた。
「大丈夫だと言っていますよね?」
「そうは言っても…………なんか、挙動不審だし」
シャロッテは目を逸らした。
なかなかにやる。
こちらが狙いを看過し、備えを取ったことを感じ取るとは。
そういえばヒダマリ=アキラは、七曜の魔術師と旅をしている。仲間はすべて女性らしい。
こうした駆け引きも得意なのだろう。
だがその彼の目をもってしても、シャロッテ手強しと判断されたのだ。
一層気分が良くなってきた。
初めてのことですら、自分の方が主導権を握れるのだ。
「まあそう言わずに。そうだ。前に話したとき、アキラ氏はあまり野営が得意ではないようなことを言っていましたよね?」
「そうだけど、言ったっけ? ……言ったな」
「ええ。その話をしましょう」
「ここで?」
狭い馬車の中には道具などない。道具などないが、自分の豊かな想像力なら、詳しく説明ができる。
だが、彼の方はそうでもないようで、困り顔を浮かべていた。
ついでに腰も浮きかけている。
「な、なら、料理! 料理はどうです?」
「怖い怖い怖い。今何が起こっているんだ……?」
アキラがジト目になり、こちらをじっと見てきた。
人に見つめられていると不思議な気分になってくる。
「……そういえば初日、だっけ。なんか色々できるとか言ってたな」
「そうそうそれです。私が知らないことはありません」
「すげ。断言できるのもかっこいいな」
シャロッテはまた背筋を伸ばした。
『智の賢帝』を前に、何を当然のことを。
人に褒められるのは、些細なことだが、とても、ものすごく、その、悪い気はしない。
彼のように、大げさでも本心から言っているような声色で言われると、思わず口元が緩む。
いっぱい勉強していて偉いねと、母に撫でられたことを思い出すのだ。
「じゃあ……、そうだな」
アキラが、少し口ごもった。
まったく、こちらをナンパしてきておいて、話題も考えてこなかったとは。
だがシャロッテの明晰な頭脳が、そこから違和感を拾った。
ナンパの割には明らかに準備不足。
だが、世には頭で考えるより先に、感情に従って行動してしまう愚かしい者たちがいることを知っていた。
もしかしたら彼は、話に聞く、誰かれ構わずちょっかいをかける軽薄な男というわけではなく、このシャロッテ=ヴィンテージを前に反射的に行動してしまっただけなのかもしれない。
これほどあからさまに好意を向けられるとなると、こちらも真摯に対応しなければならないような気がしてきた。
そうした方が彼も喜んでくれるだろう。
「シャロッテは、今までマリスと一緒にいること多かっただろ?」
「んんっ」
「?」
聞いたことがある。異性との会話中に、他の異性の話を出すのは減点対象らしい。経験してよく分かる。少し面白くない気持ちになった。
シャロッテは目を細め、しかし言葉を飲み込んだ。
もしかしたら、旅の仲間が女性ばかりとはいえ、彼もこうしたことに慣れていないのかもしれない。
むしろ仲間意識の方が強く、旅の仲間は異性として認識し辛くなっていた可能性が高い。いや、そうとしか考えられない。
そんな中で彼が不器用ながらも自分にアプローチを仕掛けてきたともなると、ほんの少しだけ愛おしく見えてくる。
相手は勇者様だ。最大限の敬意を払うのは当然のことである。
「マリサス嬢のことですか。とても頼りになりますね」
シャロッテは努めて優しい声色で言った。
マリサス=アーティは、ヒダマリ=アキラの仲間である。そんな彼女のことを悪く言うのはそれこそNGだし、そもそも事実である。
そんなシャロッテの気遣いからか、アキラが柔らかく笑った。
初めて見た表情だった。
「そうだよな。それで、そのマリスのことなんだけど、シャロッテって前から知っていたのか?」
「知らない人の方が珍しいでしょう。世界最強と言われる魔導士です」
優しい声色を続けたが、そろそろ別の話題に変えたかった。
シャロッテはさりげなく外の天気を見た。
この依頼中は天気に恵まれず、今日も曇り空だが、辛うじて雨は降っていない。
馬車の中で難しいなら、今からでも外へ行ってテントの張り方やら何やらをレクチャーするのもいいかもしれない。
もしくは彼がより一層苦手らしい、魔物対策の設備の方がいいだろか。
依頼中、魔導士たちや自分が準備を進めているとき、感心しながらも寂しそうな目で見ていた気がする。
「そりゃそうか、皆そう言うな」
「あとですね」
アキラの言葉に、シャロッテは反射的に返した。
せっかくアキラが考えてくれた話題である。この『智の賢帝』の答えが、他の人間と同じまま終わるなどあってはならない。
「“禁忌の地”の調査をしていたそうです」
「そうだな」
「魔術師隊にはスカウトされていたらしいですが、きちんと試験を受けたとか」
「根は真面目なんだよな」
「……出身は、アイルーク大陸のリビリスアーク」
「そうそう、孤児院で育ったんだよな」
「双子の妹で、姉は……あ」
「そっちの方がむしろよく知っている」
「…………ぐ、ぐぅぅぅ……」
「おい、どうした?」
シャロッテは唸った。脳をフル回転させるが、そもそもアキラは、マリスの姉と長らく旅をしているのだ。
ヨーテンガースでは話の種になるはずのマリスの出生や事情など、彼にとっては当然既知であろう。
こんなことなら依頼中、深い話を根掘り葉掘り訊くべきだった。
それでも何とか絞り出そうと、シャロッテは目をきつく閉じる。
「おい? やっぱ具合悪いのか? 悪かったな、変なこと訊いて。……はあ、やっぱ“アーティ”についてはジェットに訊くしかないか……」
「?」
シャロッテはすっと顔を上げた。
思い出した。思い出したのだが、いつものような身体が跳ねる感覚がない。
これは、自分の整理された頭の中、未分類のまま定着していない知識だ。
「シャロッテ?」
「“アーティ”。そうか、マリサス=“アーティ”、ですね。じゃあ、……え?」
「どうした、何か知っているのか?」
アキラが明るい顔で見つめてくる。
いつもなら嬉しい視線だが、自信をもって返せる答えがない。
むしろ不正確な情報だ。『智の賢帝』として、人に話すのは恥ずかしすぎる。
「よかった、シャロッテなら知っていると思っていたよ。流石だな」
「もちろんですよ」
口が勝手なことを言ったせいで、シャロッテは押し進んだ。
「私が知っている……、いや、聞いたことがある、ですねこれは。“アーティ”という言葉には聞き覚えがあります。マリサス嬢に関わるものかどうかすら分かりませんが」
「それでも凄いよ、助かる」
シャロッテは、今回ばかりは、そう言われても嬉しいとは感じなかった。
本当に、ただ言葉を知っているだけだ。
それが何を意味するのか知らない。
だが、『智の賢帝』シャロッテ=ヴィンテージの知識ゆえか、あるいは、人がそもそも持っている感性ゆえか、それが決して軽はずみに口にするものではないと感じていた。
アキラの表情が、少しだけ切実に見えた。
だからシャロッテは、軽はずみではなく、重々しく言うことにした。
「『プロジェクト:アーティ』」
アキラが険しい表情を浮かべたのが分かった。
きっと自分も同じ表情を浮かべているだろう。
もし仮に、マリサス=アーティと関りがあったとしたら、日輪属性の運命など以上に、きな臭さを感じる言葉だ。
「意味も、内容も、いつのことかも分かりませんが、かつてそんな名のついた“何か”があったそうです。私も旅のどこかで聞いて、それきり調べることもできませんでしたが」
―――***―――
「いよいよ依頼も大詰めだ」
「だからどうしたって話だろう」
本日の空模様もやはり曇り。
昨日馬車で山を越えたあたりから急に気温が下がり、漏れる息も白かった。
長かった哨戒依頼も最終版となり、次の調査エリアが最後らしい。
ドラクラスの引っ越しによる経由地ポイントもこの辺りであろうという、まさに最後に相応しい仕事だが、心構えは最初から変わらない。
檄を飛ばしたフェッチの言葉にジェットから皮肉が返ってきたが、全員の、当然だとでも言わんばかりの顔付きに、フェッチは満足そうに笑った。
「なあ。他の奴らは別の場所担当なのか?」
ヒダマリ=アキラは、自分たちの眼前の岩山を見上げた。
それなりに険しいが、小高い丘程度のその山だが、異質なのは目の前の洞窟。
自然にできたようにも見えるが、やや色の違う岩が支柱のように支えている個所もあり、自然さを装っているような違和感があった。
そんな洞窟の前に今、自分たちの小隊の6人が立っている。
この依頼は他にも参加者がいるはずで、彼ら彼女らは馬車の姿すら周囲には見当たらない。
今まで同じ樹海などを調査する際、一旦は全員で集まったりしていたはずなのだが、今日は朝から彼らの姿を見ていなかった。
「ああ。彼らは別の場所の調査……、まあ、もう言ってもいいか。ドラクラスの経由ポイントの最終哨戒をしてもらっている」
「経由ポイント、ねえ。結局どこなんだよ」
公には伏せているらしいが、すでに依頼も最終版。ドラクラスの移動も始まっているかもしれない。
マリスが勘のいい人なら行先は分かるだろうと言っていた。
今さらという気もするが、ドラクラスの移動がどういう計画なのかまるで知らないアキラは、また自分だけが取り残されているようで面白くなかった。
「ネーシス大運河の近辺でしょう? まあ、最初から気づいていましたが」
「大運河?」
「ええ、ヨーテンガース中腹から南にかけて流れる、海のように巨大な川です。壮観ですよ。指折りの観光名所とされていますね」
シャロッテが、ふふん、と得意げに言った。シャロッテは勘のいい人らしい。
フェッチは別段驚きもせずに頷いた。
またこの世界の知識が欠けている様が浮き彫りになったような気がしたが、シャロッテの知識には素直に感心できる。
「ここから北に15,6キロ程度か。ネーシス大運河の西3キロ前後の位置にドラクラスが移動してくる、ことになっている。もう出発しているだろうな、ここからは時間との勝負ってわけだ」
「なら俺らはこんなところで油を売ってていいのか? ドラクラスの移動先の方が重要だろう」
ここまでの哨戒はドラクラスの移動ルートの安全性を高めるために行ってきた。
ヨーテンガースの地形などまるで詳しくないが、進行ルートから逸れているようにも感じる。
「ヨーテンガースを少しでも知っている身としては口にしにくいことだが、移動先ははっきり言って万全だ。あれで駄目なら何をしても駄目だろう。設備も過剰だし、念押しに投下する戦力じゃない」
フェッチが呆れ顔で言った。
実際に現地を見ていないアキラは想像もできないが、流石に移動先は綿密な調査と準備が行われているらしい。
口ぶりから、依頼の参加者だけではなく、先行して待機していた魔導士隊もいるのだろう。
フェッチたちの部隊の隊長、アラスール=デミオンもそちらに向かっている。
少なくともアキラが気にできるほどの脆弱性は存在しないと思っていいのだろう。
「むしろ、唯一の懸念がここだ」
フェッチは後ろの洞窟に視線を走らせた。
飄々としている男が時たま見せる、鋭い目つきだった。
「今までやっていたのは徹底的な事前調査済みのエリアの探索。だが、ここはどうしても調査しきれなかったエリアだ。なにせ、入るたびに違う種類の魔物が出て、洞窟内の形状も変わっているとかなんとか」
「はあ?」
フェッチの説明を聞いても、彼が何を言いたいのか分からなかった。
アキラの目には、多少の違和感はあるとはいえ、普通の洞窟に見える。
「つまり俺たちは、この依頼唯一の、ゼロベースの哨戒を実行する。一応調査自体は完了となっているが、報告者も、“報告内容に誤りがあることを前提”に報告してきたらしい。調査し尽くすのは不可能である、と。だから」
「俺たちが選ばれたわけか」
ジェットが鼻を鳴らした。不快と思っているわけでもないらしいが、投げやり感がする。
アキラには彼の心情がよく分かった。
「“何があるか分からないまま”、“何かを起こす”。日輪の使い方が上手いな」
「それはかのグリンプ閣下に言ってくれ。この依頼は恐れ多くも彼の手配らしい。―――だが、この面々なら問題ないだろう?」
フェッチが笑うと、ジェットも同意するように腕を解いて手を上げた。
お世辞でもあるだろうが、フェッチの声色には嫌味に感じないものがあった。
「さてケディア。最終報告はどうなっていた?」
「うん! 入ると不思議と直線が続くらしいわ! 傾斜から、多分地下に入っていく感じね。そこからとぐろを巻くように降りていくみたい。幅は結構あって、最下層部は広いホール……、自然にできたものではなさそうね!」
魔導士たちは当然この場所の調査資料を読み漁っているだろう。
質問のようで、ケディア=レンダーの元気な声で再周知させたかっただけのように思える。
「そして出現した魔物は統一感が無い。最初の討伐完了後、再調査のときは揉めたらしいな。制圧したはずのエリアなのに当たり前のように魔物が出たんだから。魔物対策の装置も、いつの間にかなくなってたとか。そんな感じで人間と魔物とで制圧を繰り返しているらしい」
「聞いている限り、めちゃくちゃやばそうな場所なんだが、ドラクラスが移動してきて大丈夫なのかこれ」
「ヨーテンガースのこういう場所は数えてもきりがない。そもそもここは、距離が離れているエリアでしかないからな。物販ルートからも大きく外れているし、もともとは調査範囲外だからそれほどリソースを割けない。普通は気にもしない距離だったが、念のために調査範囲を広げたらここが見つかった……、まあ、見つかっちまった、てとこだろう。士気を下げたいわけでもないが、念押しの念押し。俺たちの調査も、結局いたちごっこになるだけで終わるかもな」
フェッチはそう言うが、そのいたちごっこに終止符を打つために日輪属性が指定されているのだろう。
要するにこの洞窟は、念には念を入れて、石橋を叩き続けていたら、叩き続けると壊れることが分かったから、無視するわけにもいかなくなった、という場所のようだ。
不可解な現象が起こるこの洞窟。つまり事件の種。
それをいっそ芽吹かせてしまおうというのは、もともとこの依頼の趣旨だ。
「今さらの話だが、“知恵持ち”や“言葉持ち”は見つかったのか?」
「“知恵持ち”は討伐記録にあった。だが、他にもいるだろうな。最下層のホールも調査済みらしいのに、何故か“奥”から魔物が出てくる、とか。何らかの仕掛けがあるのか、あるいは姿や気配を隠せるのか。まあ、“あれ”がそこそこ近いからか、不思議なことが起こっても違和感がない」
ジェットの目つきが鋭くなった。
楽観的に見えるケディアの気配も鋭くなったように感じる。
“あれ”、とは。
訊こうとも思ったが、どうせろくな話ではないと気にしないことにした。
「じゃあ俺たちは、とりあえず一番下まで降りていけばいいってことか? で、魔物が出たら討伐する」
「アキラ氏。やるべきことは他にも……、……。いえ。そうです。アキラ氏はそちらの方を担当してください」
「ん? 分かった、けど。そうか、みんな色々やってるもんな。頼りっきりになっててなんか悪いな」
「ふっふふ……、んんっ、私にしてみれば些末なことですから。いい機会ですから、レクチャーしましょうか?」
シャロッテは随分と気合を入れているらしい。
最後と聞くと、どうしてもそういうものになってしまうのだろう。
数日前にシャロッテに教えてもらった言葉も気になっているが、まずは依頼を無事終えてからだ。
今回は今までの調査のように甘くは無いだろう。
これ以上ないほど警戒していたつもりだが、再度気合を入れ直した方がいいかもしれない。
何しろ、この場には日輪属性がふたりもいる。
何かが起きる。嫌な予感がしたときの的中率は百パーセントだ。
だが。
それでもアキラは、自分が思った以上に落ち着いていることに気づいた。
日輪属性が引き寄せる数奇な運命。芽吹かせる事件の種。
それらをこの身に浴び続けてきた経験もあるにはあるだろうが、落ち着いて依頼に臨める明確な理由がある。
「……。……マリス、寒いのか?」
「別に」
その理由に目を向けると、その半分の眼がじっとアキラを捉えていたことに気づいた。
冷たい声。何かを訴えているような瞳で、しかしいつもより無表情。
もし仮に、双子は同じ感情のとき、同じ表情をするのだとすると、大変まずい。これは怒っていることになる。
今のマリスは機嫌が悪くなっているのかもしれない。
このまま調査を終え、アラスールと合流したら、彼女が“しきたり”違反をする姿を最前列で見ることになるかもしれない。
「じゃあ行こうか。夜までには切り上げたい。上手くいけば、移動中のドラクラスを最前列で見ることができるかもな」
フェッチの声に従って、面々は洞窟に足を踏み入れた。
まずはまっすぐ降りていくらしい。
―――***―――
「嘘ばっかり!」
事前調査報告との差異が出た。
今回の哨戒でやることは討伐以外にも当然あって、その中のひとつが事前報告の突き合せなのだが、こんな違いはアキラでも分かる。
まず、入って少し進んだだけで、まっすぐ緩やかに降りるらしい道は、傾斜の激しい登りと下りを繰り返し、うねった道が枝分かれしていた。
調査不足どころか嘘を吐かれているような気分にもなる。
何が起きてもマリサス=アーティがいる以上回避できると判断して進行していたが、見逃すはずもない、大運河とやらが流れ込んでいるらしい、地下水の広い川がある鍾乳洞のような空間に入り、川上も川下もまだまだ深く続いていた。
そして、当然報告書には全く載っていなかったらしい球体の魔物の戦闘不能の爆発のせいで、どっぷりと泥水を被ったシャロッテ=ヴィンテージがいよいよ声を荒げた。
「初日のミスが可愛く思えるほどまるで報告と違う。洞窟の形状が変わっている? そんな魔法が存在するのか?」
「私は知らないなぁ。マリーちゃんどう? こういうことってできるのかしら?」
「ううん……、できないことは無いとは思うんすけど、流石にここまでとなると誰かしら察知できるんじゃないっすか? 洞窟そのものが生きているとかも考えたんすけど、やっぱりただの岩っすよねこれ」
魔導士たちが集まって、何か話している。
マリスは壁に手を当てて眉を寄せ、フェッチとケディアはじろじろと周囲の様子を窺っているが、やいやいと話す彼らが妙に楽しそうに見え、魔導士という職が恐くなってくる。
アキラは、不運にも泥だらけになったシャロッテに水筒で濡らしたタオルを渡しながら、見よう見まねで周囲の様子を窺う。
この世界は、ファンタジーな異世界だ。
魔術も魔王も魔物も存在する。
だが、長らく過ごしたアキラは、それらには当然制約があり、ロジックに縛られるものだと理解していた。
しかし今のこの洞窟は、なんでもありの、本当のファンタジーのような空間らしい。
そうした原因で思いつくのは、論理に縛られたこの世界の、抜け道も言える存在。
つまりは“魔法”である。
「……ジェット。どう思う?」
「どうも何も、俺は事前の報告をまともに見ていない。だが、魔導士たちの顔色を見るに的外れな報告が上がってきていたらしいな」
アキラと同じく、“魔法”を操る日輪属性の男は、さほど深刻な様子も見せずにそう答えた。
アキラもジェットも、事前の報告を細かく見ていない。
この洞窟の光景にここまでのショックを受けられるのは、勤勉な魔導士たちとシャロッテくらいだろう。
魔導士たちはそうした未知のものに目が無いらしく、シャロッテの方はタオルで塞がれていて大きな瞳は見えなかった。
「で、どうするんだ?」
まさしくこういうことを調査するのが今回の依頼内容だ。
答えは半ば分かっていたが、念を押すようにアキラは魔導士たちに声をかけた。
ドラクラスの経由ポイントから大分離れ、さほど重要ではない念押しの調査ではあるが、今までのエリアとは毛色が違い過ぎる。
「先に進めるなら行くべきだ。安全第一だが、まだまだ全然だろう?」
フェッチは報告不備に不満があるように溜め息を吐いたが、目がやや輝いているように見える。
ケディアもうんうんと頷き、マリスもきな臭いものを感じてはいるようだが、異論を挟まなかった。
流石に世界で最も危険な実務を続けられるだけはある。未知との遭遇にやや興奮しているのもあるだろうが、聞いていたことと違うと不平不満を並べ立てるより、今自分たちが仕事を完遂することを優先して考えているらしい。
フェッチはイエローの光を灯らせた手のひらを奥へ向けた。
地下水の川は太いが、脇に数人横並びで歩けるような道がある。まだまだ奥へは進めそうだ。
なまじ事前情報があるから不穏に思えるが、向かってくる脅威自体はさほどでもない。
この面々であればまだまだ安全は脅かされていないということだろう。
彼らの要求する基準は分からないが、アキラも同意見だった。
赤毛の少女から散々魔導士たちの素晴らしさを洗脳するように言われ続けていたせいか、そんな魔導士が報告不備をするに至った“何か”があるなら気にもなる。
加えて、もしそれが自分の、いや、今は自分“たち”の、だろう、数奇な運命が引き寄せたものだとしたら、なおさらここから尻尾を撒いて帰ることはできない。
さらに言えば。
「おっと。また違う種族だ。……レオアキア、か? それにしちゃ随分泥色だな」
フェッチが照らした先、でっぷりと太った泥の塊が数体近寄ってくる。
まるで雪だるまが溶解しているかのような姿のそれらは、肥大化した右手で這うように進み、目があるのかないのか分からない顔をこちらに向けているようだった。
「フェッチ! レオアキアって水曜属性だよね? なんであんなに汚いの?」
「さあな。ここの環境の影響を受けているだけのようには見えるが……。いずれにせよ、討伐だ」
先ほども、この面々で戦闘したのだ。
要領が分かっているアキラは、即座に行動を開始した。
「キャラ・ライトグリーン」
アキラは剣を抜くと、身体能力を高めて突撃する。
同時、同じように横をオレンジの光が走った。
「アーク・イエロー」
アキラが剣をレオアキアとやらに見舞った隣、いや、“さらに奥”、オレンジの光に包まれた男が魔物を討つ。
ジェット=キャットキットが操る武具は、黒褐色の仕込みトンファーだ。
その武器自体についてアキラは詳しくは無いが、分かり切ったことに、剣よりもずっと射程が短い。
敵に攻撃を見舞うためには、アキラ以上に接近する必要があるのだが、ジェットは躊躇せずに泥の塊の魔物に突撃する。ほとんど肉弾戦だった。
日輪属性の操る魔術など、誰も知らない。だが見たところ、ジェットも他の属性の力を操るらしい。
現在発動しているのは、恐らく金曜属性の再現だろう。
アキラの金曜の模倣とは違い、再現しているのは金曜属性最大の特徴の“硬度”。
ジェットはその魔術をバリアのように展開し、身体中を覆っている。
別のレオアキアが振るった肥大化した右腕は、ジェットに直撃するも、身体の前で弾かれた。
「タガイン」
アキラが次に狙おうとしたレオアキアの、“その邪魔になる位置”のレオアキアを、イエローの魔術が打ち抜いた。
先ほどの戦闘では意識していなかったが、やはり彼は視野が広く、全体の取りまとめが上手い。
魔術も一級品なのだろう。
初日も見た、フェッチ=ドッガーの指弾から放たれる魔術。
ひとつひとつの威力は“世界レベルの基準”でやや控えめだが、それが“連射”できるとなると話はもっと違う。
金曜の硬度のある魔術は、銃弾のようなものだ。
フェッチが指を弾けば面白いようにイエローの光がレオアキアの泥の身体にぬめり込み、動きを止めれば蜂の巣にされている。
ジェットとフェッチの金曜の力を見て、アキラはつくづく、自分とミツルギ=サクラが金曜の枠外の魔術を使っているのだと再認識した。
「―――ヴィティカル」
気づかぬうちに、ジェットに引っ張られるように前に出すぎていた。レオアキアとの距離が近すぎることに気づいたが、アキラは構わず目の前の敵に剣を振るい続けた。
火曜の再現すらせずに振るった剣は、応戦しようと突き出されたレオアキアの太い右腕を捉え、容易く両断する。
木曜の再現で強化されていた身体能力が、さらに引き上がっていた。
泥だらけの姿で、それでも有事には気にもせず、シャロッテ=ヴィンテージは右手を人差し指を立てて突き出していた。
そこから漏れるライトグリーンの魔術は、敵ではなくアキラたちに放たれる。
前衛のアキラとジェットに“強化付与”が発動した。
この段階ですでに十全だが、シャロッテは次に左手を、親指を下に向けて同じように突き出す。
「ロイズン」
アキラとジェットの周囲、いよいよ後がなくなり、いきり立ったレオアキアが、しかし動きを鈍らせる。
シャロッテの左手から放たれた、“弱化付与”。
ライトグリーンの光に捉えられた瞬間、まるで身体中の力を奪われるようにへたり込んだレオアキアを、アキラとジェットは苦も無く撃破する。
アキラの金曜属性の再現も異質なのだろうが、異質さならばシャロッテはそれを超える。
身体能力を司る木曜属性。
だがそれを、自分ではなく他者に付与するのが彼女の魔術だった。
木曜属性は身体能力向上だけでも、他の属性の追随を許さない。
だが他にも、対象の力を奪い取るという“強力過ぎる特徴”もあった。
シャロッテは、木曜属性の真価を存分に発揮し、味方の強化と敵の弱体化を同時に発動させていた。
彼女もフェッチと同じく、いや、それ以上かもしれないが、状況把握能力が抜きん出ている。
アキラ自身が出来ないのでよく分かるが、目の前の敵を攻撃すればいいだけの前衛より、支援をする後衛というのは難易度が跳ね上がる。
誰を強化し、そして何を弱体化すればいいのか。敵の行動は勿論、前衛の思考も読み、息も合わせる必要がある。めぐるましく変わる戦況の中、彼女は選択を誤ることなく、魔術を適宜発動し続けていた。
攻撃としての魔術も習得しているようだが、彼女の真価はこの2種の魔術なのだろう。魔術の発動よりも、“使いこなせる”というのが本当の真価かもしれない。
前衛が揃っている以上、シャロッテのようなサポートがいればより一層盤石となる。
そして。
「みんなー! 頑張れー!」
流石に分からな過ぎて、先ほどは戦闘中なのに訊いてしまった。
ケディア=レンダーは、大きな身体で元気いっぱいに両手を振り、ときには腕をくるくると回し、笑顔でエールを送ってくれていた。
彼女が何をしているのか。
それを聞いたとき、背筋が少し寒くなったのを覚えている。
“誰も分からない”。
魔導士がこれだけ揃っていても分からないそれは、しかし、とある“事象”を引き起こす。
フェッチとシャロッテのサポートで、魔物を圧倒していても、流石に多少は被弾する。
そんなかすり傷程度、日輪属性の治癒能力をもってすれば、戦闘が終わる頃には気にもならない程度になるであろう。
だが、ケディアの“何か”は、そんな悠長なことを言わない。
多少負傷をした瞬間、シャロッテの力とは違う何かが、身体中から活力を沸かせる。
どれだけ長く剣を振り続けていても、まるで疲労を覚えない。
“常時全体回復”。
それは、アルティア=ウィン=クーデフォンのような、瞬間的、爆発的回復力を誇る治癒とは違う、常に最適な状況を作り続ける力だった。
ただ、アキラの背筋を冷やしたのはそれではない。
“そんな魔術はこの世界に無い”。
この世界で最も数が多いという、水曜属性。それゆえに最も研究が進み、最も魔術が解析されている属性。
しかし、彼女のこの治癒は、“魔術ではないのだ“。
声を出し、身体を踊らせ、今なおエールを送ってくれるケディアの一挙手一投足は、“条件”を整えるという。
彼女自身、何がどこまで意味があるか分かっていないらしい。それでも、同じ効果を再現し続ける。
平凡たる水曜属性の、ケディア=レンダー。
“禁忌の地”の調査で、死者を出さない部隊の治癒担当。
彼女は、“魔法”を操る異常な水曜属性だった。
「……、にーさん!」
「っと、下がるぞジェット!」
後衛に控えるマリスの声で、アキラとジェットはレオアキアたちから離脱した。
といってもすでにほぼすべてが討伐済みで、戦闘不能の爆発を今か今かと待っている。
戦闘に夢中で気づかなかったが、相当な数がいたらしい。
洞窟の中、爆発物と化したかのようにバチバチと魔力を漏らす死骸は、しかし銀の光に包まれる。
マリスは浮かせた生死不明も含むレオアキアの死骸を、川の下流に放り投げるように飛ばした。
直後、鈍い振動と共に川が僅かに乱れる。
先ほどのシャロッテの例もあり、今度はマリスも気にして強く抑え込んだらしい。
マリサス=アーティに関しては、語ることも無いほどだった。
こうした異常事態であるがゆえに極力温存をしたいというのは面々の暗黙の了解になっているが、そもそも魔力がほぼ無限な上、彼女が力を振るえば自体はすべて丸く収まる。
マリスがいるお陰で、洞窟内での一斉爆発を避けるために分散させて倒す必要すらない。
ともあれ未報告の魔物が出現しようとも、洞窟内はまた何事もなかったように川の音だけが響き始めた。
この依頼中、全員で同時に戦闘をする機会がほとんどなかったが、思った以上に相性がいい。
前衛のアキラとジェット。
サポートに全体指揮もできるフェッチと支援行動ができるシャロッテ。
後衛には治癒担当のケディアと不測の事態に対応できるマリス。
わりと適当に決めていたように思えたが、そうした相性も多少は考慮して定めた小隊だったのだろうか。
傍から見ると、ふたりが馬鹿か命知らずのように突っ込み、最後方では魔物の群れを前に明るく踊っている変な人がいる集団ではあるのだが。
「みんな、お疲れー!」
ケディアがぶんぶんと腕を振っている。
話を聞いたあとだと、あれも何らかの意味がある動きなのではと勘ぐってしまう。
ティア以外の治癒に慣れていないというのもあるだろうが、あれだけ暴れ回ったのに息も切れていない自分に、改めてケディアの力が恐くなった。
感謝はしているのだが、怖い。ティアにもそういう感想を持つ者がいるのだが、そういうことを言う者の気持ちが少しだけ分かった気がした。
「……敵の攻撃に無警戒なのはその魔術があるからか?」
「? そう見えるか?」
ケディアから目を逸らした先、見つけたジェットに、アキラは皮肉のように言った。
彼も同じく息も切らしていないが、そもそもこの男が疲弊しているのを見た記憶はない。
この依頼中、たまに遭遇した魔物にも、躊躇なく突撃し、何事もなかったようにけろっとして戻ってくる。
武器の違いもあるのだろうが、あれだけ魔物に近づくジェットの戦い方も、傍から見ていて怖かった。
だがそれは、彼の金曜属性の魔術の再現があれば、まだまだ安全圏なのかもしれない。
事実彼も、アキラの言葉を皮肉と捉えず、まるで意識していなかったかのように首をかしげただけだった。
「じゃあ、進むか」
フェッチの言葉に、みな感想もなく足を進める。
安全第一は前提だが、この程度の魔物群れ、あと数段強くてもこの面々なら“安全”だろう。
前進の判断は間違っていない。
アキラはちらりと面々を見渡した。
ヨーテンガース南部の魔導士、そして旅の魔術師。他の依頼でもそうだったが、想像以上に実力が高い。
他の大陸やヨーテンガース北部での冒険を卑下するつもりは無いが、明確に要求される水準が高まっていると感じる。
アキラは短く息を吸った。
この異世界に落とされて、特別な力を持っていたがゆえに、魔王を倒すと大見得を切っていた自分が懐かしく、愚かしい。
世界は強く、速く、広い。
振り落とされないように、アキラは強く足を踏み出した。
「……!」
川沿いにしばらく進んだのち、尖らせていた気配が、進んだ先にまた魔物たちの気配を拾った。
その魔物たちの縄張りなのか、川の横の細道が膨らんだようなスペースは広く、連なるように歩いていた面々は自然と横並びになる。
その魔物たちは、先ほどみた泥色の魔物に近かった。
どす黒く、身体中が溶解している。だが、先ほどの魔物と違うのは、特徴らしい特徴が無いことだった。
不定形で、こちらを認識しているようなのに、どこを向いているのか分からない。
魔物の縄張りのように見えるが、魔物の巣特有の異臭はせず、代わりに油のような匂いが漂っている。
魔物の種類など全く分からない。
だが、アキラの知識では、あれらはスライムだ。
この世界に来た当初、自分が軽視していたその魔物は、今の知識から言うところの“無機物型”。
ヨーテンガースの魔物なのだ。
当然油断はしない。
「にーさん下がって!!」
剣を抜いて構えたアキラに、マリスが吠えた。
初めて聞いたようなその声色に、前へ踏み出したアキラもジェットも動きを止める。
反射的に牽制しつつ下がると、マリスだけでなく、フェッチもケディアも、目の前の魔物たちに目を見開いていた。
「なんだ?」
事態が飲み込めていないのはジェットも同様らしい。
だがアキラもジェットも、魔導士たちの様子に、ただ事ではないということだけが分かった。
「……トッグスライム」
ギリ、と、フェッチの歯ぎしりが聞こえた。
目の前のスライムたちは、動きは遅いが、徐々にこちらに近づいてくる。
奥を探ると、ぞっとするほどの数がいた。
“いや”。“量”がいた。
その黒い身体たちが融合しているように一体となり、黒い波が押し寄せてくる。
フェッチが、その黒い波を前に、拳を震わせ、苦々しげに呟いた。
「おい、ふざけるなよ。……なんで“ファクトルの魔物”がここにいる……!?」
ファクトル。
それは、平常時では口に出すのも憚れる、“禁忌の地”。
「囲まれています!!」
シャロッテが叫んだ。
その叫びと同時、洞窟内をシルバーの光が満たす。
自分たちが今しがた通ってきた川横の細道を遮断するように展開した銀の盾は、しかし一瞬でどす黒いスライムたちに群がられた。
退路は無い。
「キャラ・ライトグリーン!!」
「アーク・イエロー」
後手に回れば詰む。
頭が情報を処理し切る前に、直感的にそう感じたアキラとジェットは目の前のトッグスライムの“波”に突撃した。
動きが鈍いと思っていたトッグスライムたちは、まさに波のように一斉に引いていく。
鈍く見えていたのは緩急をつけていただけなのか。
一面を埋め尽くしていたはずのどす黒いスライムたちは、一瞬で影の中に消えていった。
そして。
「キャラ・イエロー!!」
引いた波はまた一瞬で押し寄せる。
アキラが直前までいた位置に、黒い波が群がった。
跳んで回避できるアキラでなければ、成すすべなく飲み込まれていただろう。
共に突撃したジェットはどうなったのか。
分からない。
アキラも空中での体勢を整えるので精いっぱいだった。
「アーク・グレー」
声の聞こえた方で、オレンジの光が漏れた。
どす黒い波の中、人ほどの大きさの盛り上がりが見える。
その盛り上がりが蠢くと、纏わりついていたトッグスライムたちが吹き飛ばされた。
「―――キャラ・グレー」
着地した先、一瞬だけジェットと目が合った。
その場にいたトッグスライムに剣を見舞うと、アキラは改めて周囲の様子を窺う。
ジェットの方は気にする必要はないらしい。
防御力には絶対の自信があるのか、今までの魔物たちとの戦闘と変わらず、前線に立ち続けている。
ただ、気になるのはトッグスライムという魔物だ。
最初はこのスペースが巣なのかと思ったが、背後にもいたとなると獲物を誘い込んで逃がさない“狩場”のような場所なのかもしれない。
フェッチが言うには、トッグスライムは“ファクトルの魔物”。つまりは魔物という存在の終点。
トッグスライムとやらの特徴や属性すら分からないが、アキラが認識しているすべての魔物の力を超えている可能性があるし、そう思うべきだとも言えた。
現に今、アキラが放った攻撃は、敵を捉えはしたものの、決定打には至らず、またこの群れが一体となったような黒い波に飲み込まれていった。
「!」
イエローの指弾が跳んできた。
アキラは方向感覚を失いかけていたが、後衛の位置を確認できた。
黒い波の中漏れるシルバーの光は、後衛を守っているようだ。
反面、その銀の盾に群がられているせいで、こちらからもあちらからも互いが視認できない。
援護はあまり期待できないかもしれない。
「アキラ、ジェット!! 退路ができた!! 牽制しつつこっちに走れ!!」
やはりこちらの位置を見失っているのか、シルバーの光の中からイエローの光が天井へ放たれた。
フェッチたちはファクトルに入り、このトッグスライムたちを知っている。
彼らがそう判断するなら、今は撤退するのがベストなのだろう。
「キャラ・スカーレット!!」
応えは魔術で返した。
前を塞いでいたトッグスライムたちを強引に斬り飛ばすと、黒い波が一気に割れる。
アキラが使用できる魔術の中で、無機物型相手であれば土曜の再現の方が効果が高いだろうが、こうしてまとめて斬り飛ばし、強引にどかせるのであれば火曜の再現の方に軍配が上がる。
万全な面々の中、急に頭を使わされる状況に陥ったが、思った以上に冷静な頭にアキラ自身驚いていた。
「……おい!!」
「らぁっ!! ……ん?」
同じくフェッチの方向へ走るジェットと合流したとき、アキラは背筋が冷えた。
ジェットはオレンジの光を纏い、しかし肩にも頭にもトッグスライムに群がられている。トッグスライムがどのように危険な魔物なのかは知らないが、少なくとも常人なら絶命必死の状態に、ジェットは身体を震わせて追い払っただけだった。
アキラが見たジェットの魔術は、防御性能の高いものばかりだ。
彼の魔術がどれほどのものかは定かではないが、万が一を考えると、見ていて不安になる。
「こっちっす!!」
シルバーの光がより一層強くなった。
群がっていたトッグスライムたちは弾き飛ばされ、アキラたちの眼前にシルバーの魔力の壁が広がる。
中には、傍目からは相変わらずのんびりとしているようにしか見えないマリスがいた。
見ていて不安になるのは、彼女もそうだった。
「引くのか!? どっちに!?」
一瞬だけ躊躇したが、トッグスライムたちを完全に遮断していたシルバーの魔力に身体を向かわせると、あっさりと中に入れる。
仕組みのまるで分らないマリスの防御魔法。
気になることは山ほどあるが、今はこの黒い波をどうするかが先決だ。
「来た道を戻る!! アキラ、ジェット!! トッグスライムを何体倒した!?」
「は?」
見ればシャロッテとケディアが、退路の道を埋め尽くすトッグスライムたちをけん制していた。
先ほど歩いてきた細道の“高さ”が腰ほどまで上がっている。いつの間にあれほどの数が集まったのか。
一瞬意識が持っていかれたせいなのか、フェッチの質問が飲み込めない。
マリス以外の様子は、明確な焦りが見える。
戦った限りそこまでの脅威ではなかったが数が数だ。引くのは賛成だが、それ以上に緊迫した様子が気になった。
「俺は10体前後だ。だからどうした?」
あっさり答えるジェットに、アキラも同じようなものだというように頷いた。
正確には数えていない。
アキラが剣を見舞ったトッグスライムは、撃破したのかどうか分からないまま黒の波に飲み込まれていったのだ。
「20……、いや、こっちも合わせて30前後……。マリー!! 急いでくれ!!」
ジェットの問いかけに答えず、フェッチが吠えた。
マリスは即座に全員に銀の光をもたらす。フェッチとケディアは競うように天井を這い始めたトッグスライムたちを狙撃し始めた。地面を埋め尽くすトッグスライムと洞窟の天井の隙間を飛んでいくつもりなのだろうか。
「アキラ氏、ジェット氏。ト、トッグスライムは、土曜属性の無機物型で……、私も見るのは初めてですが、危険度は他のスライムの比ではないです。そもそもの戦闘力もそうですが、何より問題なのは“戦闘不能の爆発”」
「!」
シャロッテが周囲の様子を恐る恐る窺いながら口を開いた。
周囲は、泥だらけになったシャロッテよりもずっと汚れた波が蠢いている。
「“その専門家”ほどではないとはいえ、想像される威力ではありません。トッグスライムたちには“個”という意識がないそうです。集団で目的を達成する魔物で、“群”を生かすために、個が自害することすらあります。群は土曜の力で守りを固め、個は戦闘不能の爆発という“攻撃”を当たり前のようにする。そんな魔物が、こんな洞窟内で―――」
「フリオール!!」
シャロッテの言葉は遮られたが、言わんとすることはすべて伝わった。
全員の身体がマリスによって宙を浮く。
蠢くトッグスライムの波の中、一体何体が戦闘不能になっているか。
「行くっすよ!! ―――!」
マリスが腕を振りかけたその瞬間、耳を覆いたくなるような爆撃音が響いた。洞窟ごと骨髄が揺さぶられる。
まさに向かおうとした天井とトッグスライムの隙間に、地面からどす黒い魔力が突き上がった。
爆撃を受けたはずのトッグスライムたちの波は、未だ勢いが収まらない。そもそも強い耐性があるのだろうが、それすら利用して“爆弾”を増やしている可能性すらある。
「きゃあああ―――っ!?」
次いで、爆音。
今度は川が弾け飛んだ。
不運にも、マリスが方向を切り替えようとした先に、トッグスライムの死骸があったらしい。
“いや、不運ではない”。
マリスたちだって退路を考えて攻撃していたはずだ。
つまりこの黒い波の中、トッグスライムの死骸は“移動させられている”。
トッグスライムは間違いなく“知恵持ち”だ。
この群は、危険で巨大なひとつの個とすら考えられる。
爆破の威力も、上級魔術ほどはあるだろう。土曜属性の爆発で、空気中が痺れて魔力の流れも鈍くなる。個体自体には下手に攻撃の意志がない分、察知し辛いのも問題だった。
アキラとジェットが倒した死骸も、いつの間にかこちらに運び込まれているだろう。
周囲をすべて覆った黒の波の中、いつどこでどれほどの爆発が起こるか分かったものではない。
「―――まずい、崩れるぞ!!」
トッグスライムのみならず、洞窟内のいたるところで落石が始まった。
流れる川に雪崩れ込むように岩が落ち、水柱が随所で上がる。
ますますトッグスライムの死骸の位置を把握できなくなった。
アキラは反射的にマリスを見た。
今、この洞窟は崩れようとしている。
だがマリスがいれば、過去見たように、“この洞窟ごと支えられる”。
しかし、マリスは歯噛みしながらなんとか離脱できるルートを探り続けていた。
トッグスライムの爆発と落石。離脱は一気に難易度が上がっている。
彼女の表情には焦りが見えた。
アキラは目を細める。
彼女ができること。できないこと。
それを自分は理解していない。
ゆえに、今彼女にとって何が問題なのか分からない。
「マリス!! 離脱に集中してくれ!! 周りの相手は俺がする!!」
それでも思考は止めない。
彼女なら、負担が少しでも減れば必ず解決してくれる。
今、マリスがやっていることは大きくふたつある。
離脱のために発動した、全員を飛ばせる魔法。
周囲のトッグスライムたちから全員を守る盾の展開。
その上で、洞窟全体が崩れることも考慮して余力を残さざるを得ないのだ。
どれひとつとっても、この世界の魔導士が幾人も集まって実現できるかどうかの力だろう。
常識で測れないマリスだが、多少はこの世界の常識を知ったアキラは、負担になりそうなことには当たりが付けられる。
もし、“自分たちがいること”が彼女の制約だというなら、それを取り除くことが生存に繋がる。
「っ―――、了解っす!!」
「ちょっと!?」
一瞬だけ弾けるように銀の盾が強い光を帯びると、溶けるように消えていく。
押し返されたトッグスライムたちは警戒するように波を引かせ、しかしまた津波のように向かってくる。
構えていたのに、最も早く反応したのはアキラではなくフェッチだった。
なりふり構わず両手で指弾を撃ちまくり、黒い波にイエローの弾丸を叩き込む。
ケディアも合わせ、スカイブルーの魔術を放った。今は治癒よりこの波を止めるのが最優先であろう。
マリスの行動に反射的についてこられる魔導士たちに合わせ、アキラも力いっぱい剣を振るう。
だが、360度黒い波に囲まれているのだ。こちらの個が何をしても、群には届かない。
今度は何体が戦闘不能になったのか。そしてその死骸は、どれほどこの近くまで運ばれてきているのか。
ほど近い未来、このエリアが消滅するほどの威力の爆発が起こるかもしれない。
だがアキラは、冷静だった。
自分たちがしたのは、ほんの少しの時間稼ぎ。
それでも、“数千年にひとりの天才”には十分過ぎた。
「フリオール!!」
強制的に全員が飛ばされた。
暗がりの洞窟を、黒い波の上を、鮮やかなシルバーの閃光が走る。
天井から出るむき出しの岩に直撃するかと思いきや、すれすれを縫うように進んでいく。
急激に遠ざかっていく黒い波は、最早見えない。
九死に一生を得たような感覚に、ほっと息を―――吐かせないのがファクトルの魔物だった。
「止まれマリー!! 道がない!!」
飛んだ先、洞窟が完全に崩れていた。
流れる川がせき止められ、湖のように溜まっている。
先ほどの戦闘で崩れたのか。一瞬そう思ったが、ここまで飛んできた中、離れた場所はそこまでの被害はなかった。
たまたまここが崩れやすかったのだと信じたかったが、せき止められた川の上、うようよと、先ほどの集団とは別行動をしていたトッグスライムたちが浮かんでいる。
この群は、獲物の退路を断つことから始めていた。
「上よ!!」
マリスがトッグスライムたちに振りかぶって魔術を放とうとした直前、ケディアが叫んだ。
もともとここに誘導するつもりだったのか、天井にもびっしりと黒い波が蠢いている。
湖の上に、天井に、トッグスライムが敷き詰められ、銀に輝く全員が、完全に挟まれていた。
また、マリスが同時にこなさなければならないことができてしまった。
盾と飛翔。
しかもこんな空中では、今度はどちらも途切れさせるわけにはいかない。
「定員オーバーか? なら俺は俺で何とかする。―――アーク・グレー」
ジェットがオレンジの光を纏った。
マリスが施した銀の光が四散する。
重力を思い出したジェットの身体は、眼下のトッグスライムの渦に飲み込まれていった。
「―――マリス、俺もいい!! キャラ・イエロー!!」
「まっ、にーさん!!」
相変わらずのジェットの様子に唖然としたが、それがマリス負担を軽減する方法ならばアキラも迷わず協力する。
ジェットとは対称的に、空を蹴って天井のトッグスライムたちへ向かっていった。
忘れているわけではない。
トッグスライムは、“撃破すればするほど危険な魔物”だ。
だが、それ以外の攻撃能力は未知数。
何より“知恵持ち”ともなれば、様子見している時間が惜しい。
「キャラ・スカーレット!!」
剣を振るい、トッグスライムをなぎ倒す。
同時、ずきりと頭が痛んだ。
先ほどから消費の大きい魔術を連続して使用し過ぎている。
だがそれでも、今確保すべきはマリスの猶予だ。
頭が割れようが何が起ころうが、この状況を打破しなければならない。
「―――ケディア!! 腹くくれよ!!」
「いつもそうよー!!」
シルバーに輝く光の中、指弾を放っていたフェッチが吠えた。
応えるケディアも同時、マリスに視線を送る。
「マリー!! 勇者様たちに続こうか!! 俺らは無視してトッグスライムをぶっ飛ばせ!!」
「―――了解っす!!」
「私は了承してませんけど!?」
シルバーの光が急速に引いていった。
これを機と捉えたのかトッグスライムたちの波が大きく蠢く。
だが、離れているアキラも分かった。
すでに手遅れだが、トッグスライムのそれぞれが今すべきことは、群を犠牲にしようが何をしようが、死に物狂いでこの場から逃げ出すことだった。
「―――レディクロス!!」
引いていったはずの銀の光が洞窟内を埋め尽くす。
マリスが両手を交差するように薙いだ瞬間、時空が歪んだように、宙に十字の“爪痕”が残った。
そして。
その爪痕から、おびただしい魔力が溢れ、銀の矢がこの場すべてを刺し貫く。
「ぃ―――」
流石のアキラも驚愕した。
なまじ自分たちが被弾しないだけに一層の恐怖を覚える。
目の前でアキラに降り注ごうとしていたどす黒い波が、ジェットを飲み込むように群がった渦が、自分たちを追従してきた激流が、ファクトルの魔物が、豪雨のように降り注いだ銀の矢に貫かれていく。
子供の絵空事のような光景だった。
その一瞬の出来事で、アキラは明確に、トッグスライムたちの命の息吹が消えたのを感じる。
ただの穢れた泥の塊になった死骸は、まるで最初から生命など宿っていなかったように川の中へ落ちていった。
その中に、フェッチたちも混ざっているのだろう。
マリスも落下しながら腕を振るい、彼らに銀の光を纏わせた。
再び浮かせることはできないようだが、あれは恐らく、盾の魔術。
今から来るトッグスライムたちの大爆破に備えた救済処置だろうが、はたして抑え込めるだろうか。
「―――!? マリス!! キャラ・イエロー!!」
その選択が、何のためだったのかアキラには分からなかった。
この異常な洞窟の中、一刻も早く、マリサス=アーティの傍という安全地帯に行くためか。
他者に魔術を施し、無防備に落下していくマリスを案じてのことか。
いずれにせよ、アキラが反射で動いたのは、トッグスライムたちの爆発の前、自分たちが飛んできた方向で起こっていることが視界に入ったからだった。
爆音に次ぐ爆音の中、アキラはマリスの手を取った。
マリスも気づいている。
自分たちが通ってきた道から、ダムの決壊のように、川が怒涛のように押し寄せてきていた。
「ぶ―――」
聴覚は狂ったのか、何も聞こえない。
視覚は度重なる光に焼かれ、ほとんど見えなくなってきた。
捕まえたマリスを抱きしめるように反射的に庇い、アキラたちは濁流にのみ込まれる。
水温は低いようだが、馬車にでもはねられたような衝撃に、全身の感覚が一瞬で奪われた。
上下も分からぬ、暴れ狂う濁流。
今は爆発を待つばかりのトッグスライムたちが何かを企てていたのだろう。異常なまでの川の勢いが岩盤を砕き、身体が千切れるような衝撃を受けながらどこかへ運ばれていく。
強引にこじ開けた目は、同じようにこの川にのみ込まれた者を誰ひとり捉えられない。
目の前にいるはずの、腕の中のマリスすら見えなかった。
だがそれでも、やはり自分は勇者の器ではないと思ってしまう。
他の面々も危機に瀕しているというのに、同じようにアキラにしがみついてくるマリスが無事であることに、心の底から安堵してしまっているのだから。




