第61話『光の創め4---ドラクラスの三魔人---』
―――***―――
ヨーテンガース南部に望んで訪れる者は、どこかが壊れている。
他の大陸からすれば謎多き、“中央の大陸”―――ヨーテンガース。
その南部は、ヨーテンガース内部から見てさえ、より一層の靄の中にあった。
そもそも人の主な生活区として知られているのはヨーテンガース北部であり、南部は“例の死地”が存在することから栄えようにも栄えられず、魔導士隊や魔術師の本拠や、精々、それを拠り所とした商業を中心にした街や村が細々とあるのみだった。
それが外から見た共通認識であり、まともな神経を持つものであれば、余程のことがない限り、あるいは、余程のことがあろうが、ヨーテンガース南部には近づかないし関わらない。
だが、どこかが壊れている者たちはこう言う。
ヨーテンガースの南部には、世界のすべてが詰まっている。
魔術。
他の大陸で普及する魔術の延長線上の最先端が、当たり前のものとして、自然に普及していた。
それに留まらず、現状広く普及している魔術には存在しない手法、到達しえない領域の結果が、この地には乱雑に入り混じる。
数多くの部族を筆頭に、独自に編み出されたそれらは、この地では“儀式”と呼ばれて認識されているものの、使用者自身も到底解明できぬそれは、魔法の領域であった。
魔物。
世に広まる魔物の種別など、ヨーテンガース南部に生息する種からみればほんの一握りだった。
危険度の高さに加え、習性すら特異なものも数え切れぬほどである。
ヨーテンガースの南部の未確認事項のひとつに過ぎないが、人と共生する魔物すら存在すると噂されていた。
過去の英雄。
他の大陸で名を上げ、我こそはとヨーテンガースを訪れた者たちは、世に流れる死亡説など意にも介さず、さらなる飛躍を遂げ、広まり難い数多くの神話を打ち立て続けていた。
そうした魔術師や研究者からすれば垂涎もののすべてが、死と隣り合わせのその地にある。
探求心や好奇心に脳を焼かれた者たちが、こぞって訪れ、その技術の結晶を遺し、そしてまた多くの謎を増やし続けていた。
そして。
ヨーテンガース南部には、そんな狂った者たちが、その衝動にかられるがゆえに、決して見逃せない都市がある。
ドラクラス。
謎多きヨーテンガース南部に位置し、特異な構造を持つこの巨大都市は、その実、他の謎と比すると毛色が違う。
ドラクラスの謎は、“人工的”なものだった。
まず、ドラクラスは世界各所に根を張る魔導士隊や魔術師隊という組織に強い影響力を持つとされている。
魔導士隊や魔術師隊は組織図としてそもそも複雑なものであるが、無関係のはずの、所謂民間とされるドラクラスが、何故か干渉できるのだ。
その干渉は、魔導士隊や魔術師隊だけに留まらない。
大手の商会や学会、旅の魔術師の連合体や依頼所など、数多の重要組織にドラクラスの息がかかっているとされている。
それが各組織の上層部との太いパイプ故なのか、あるいは、ドラクラス自体が“それそのもの”なのかは不明瞭であるが、例えば、魔導士隊への干渉は一番目立つ。
現場の判断を飛び越えて、不要と思われた魔物討伐や突発的な世界各所への遠征などを定めることもしばしばあるほどだった。
その上、現場の反発から時折“決定事項”と揶揄されるそれらの成果すら明かされることは稀であり、論理と研鑽の果てに座す、頭脳明瞭で実務経験豊富な魔導士隊魔術師隊の者たちからであっても、まるで靄に囚われているような錯覚を起こすほどだった。
一部、タンガタンザという西の大陸でも魔導士隊を筆頭に、旅の魔術師や民間すら指揮する組織があるという構図が取られているが、事情を踏まえた例外中の例外であり、一定以上の理解を得ていることから黙認している、あるいは、黙認せざるを得ない状況となっている。
だが、ドラクラスはすべてを明かさない。
そもそも理解を求めていない。
そんなドラクラスは、あらゆる町や村の各組織に張った根を“使い”、徹底的な情報封鎖を敷いていた。
そもそもヨーテンガース南部に訪れる者たちは稀である上、ドラクラスは自給率もそれなりに高く、他の街からの物資の補給等であってもドラクラスの名を使うことは稀である。
他の大陸は元より、ヨーテンガース北部の者たちであっても、もしかしたら南部で生活を営む者たちあっても、ドラクラスという大都市の存在を知る者はほんの一握りほどであった。
そして、そうした支持は魔導士隊や魔術師隊という職業に対するものに留まらないこともある。
依頼所を通して旅の魔術師へ、果ては自治体を通して民間へ、突発的な指示が及ぶこともあり、その指示は、時には衣食住に及ぶほどだった。
何のために、何をして、何が起こったか。
人は得たい結果のために行動するという前提を飛び越えて、あるいは押し潰して、ドラクラスは行動のみを強いる。
その結果すら伝えない、傍若無人とも言える指示に強い反発を持つ者も少なくなく、その指示がドラクラスのものであることを知ることはもっと少ない。
しかし。
歴史の中には、ドラクラスの“決定事項”に反発し、ヨーテンガースに新たな都市を栄えさせようとする者もいたが、“何故か”必ず失敗するのだ。
ヨーテンガース南部での発展ということ自体がそもそも不可能に近いこともあるが、ドラクラスが何らかの手を回したのではないかという黒い噂すら流れたこともある。
だが、歴史の中、人は、徐々に理解していく。
生活は、営みは、成功は、無数の選択肢の先に存在する。
生存こそ、その証明。
意図の読めぬもの、意に反するものであっても、ドラクラスは、“正解”を引き続けているだけなのだと。
それでも噂は漏れるもの。
そんな異常を耳にした、脳を焼かれた者たちは、抑えきれぬ衝動にかられ、その謎に包まれた大陸の、謎に包まれた大都市の門戸を叩く。
歴史ある大都市には、その好奇心を満たす情報が集まるというのは、この地でも変わりはしない。
その結果、ドラクラスはより一層、重要度と安全性を増し、ヨーテンガース、あるいは世界で最も価値のある都市とされていた。
突発的な指示があること以外を除けば、いや、例えそうだとしても、それを超えて余りある価値を享受できるドラクラスの魅力には、壊れた者たちは抗えなかった。
だが街を訪れた者たちすら、ドラクラスが何故それほど力を持つのかは分からない。
ドラクラスを訪れた、英知、力、金、権力、名声を欲しいがままにする豪傑たちすら、ドラクラスの深淵を覗けた者はほとんどいなかった。
その深淵の前には、立っているのだ。
ドラクラスの番人とも言える、最高権力者たちが。
魔導士隊や魔術師隊などをはじめとする正規な組織を指揮し、ドラクラスの統制を担うグリンプ=カリヴィス7世。
世界規模であらゆる商会を掌握し、情報と財を収集する、ドラクラスの経済を担うルックリン=ナーシャ。
そんなすべてが集う異常都市の中、民間から裏社会まで支配する、ドラクラスの治安を担うドーナ=サスティバ。
ドラクラスの『三魔人』。
――――――
おんりーらぶ!?
――――――
「よく来た。私がグリンプ=カリヴィス7世だ。早速だが掛けたまえ、予定が詰まっている。使える時間はあまり多くないのだ。まずは、ようこそドラクラスへ、と言うべきだろう。君がヒダマリ=アキラという勇者だな。そしてエリサス=アーティ。おお、マリサスも来ていたか。今後は一時的にでも街から離れるのであれば私に一報入れるようにしなさい。さて。早速だがこのドラクラスが直面している課題についての説明をしよう。アラスールからある程度聞いているのであろうが、伝達に齟齬があっては適わない。なに、気にすることはない。ドラクラスの本作戦の総指揮を執る身としては当然の仕事なのだから」
ヒダマリ=アキラは、確信した。
目の前の男が、絶対に自分とは相性の悪い人間であると。
そして、心の底からこう思う。
今この場に、アルティア=ウィン=クーデフォンやエレナ=ファンツェルンがいなくてよかったと。
天井が高く、柱や床は茶を基調とした潔癖さすら覚える光沢を放つ広い部屋で、最初からセリフが決まっていたように一気にまくし立てた男が、さも偉そうに、顎を上げて聞こえるように鼻で息を吐いた。
整然とした室内の奥には、イミテーションかもしれないが、レンガ造りの暖炉すら見える。
“演出された”妙に重々しい空気、という印象を受けた。
中央にダン、と置かれた、埃ひとつ落ちていない漆塗りの会議机は細長く、その最奥の上座に、指を組んでまさしく司令官のように座っている男が、グリンプ=カリヴィス7世。
ここに来る道中に教えてもらった、ドラクラスの魔人のひとり、ということらしい。
煌びやかな軍服を纏い、胸には、その機能性を損なうようにしか見えない、いくつかの勲章のような帯が輝き垂れている。
装飾の一部とでもいうように、グリンプの背後には魔導士隊の制服に身を包んだ、いかにも屈強な男が2名、一言も発さず、異常なほど姿勢を正して控えていた。
それなりの年齢であろうグリンプ自体の顔立ちは端正でそれを感じさせず、体躯もアキラとさほど変わらない。
だが、口調や言葉選びから、どうにも偉ぶったという印象を受ける。
そういう人物は、おおむねウケが悪い、というのが通説だが、アキラが苦手意識を持つのは別の理由もある。
アキラの経験上、偉ぶっている人間は、実際偉い場合がほとんどで、偉いということは自分などよりよっぽど多くの人間に評価されてきたということで、そういう場合は大体仕事ができる人物で、つまりはアキラと相性が悪いのだ。
そしてそれゆえに、結局好感が持てないという悪循環に陥ることにもなる。
そして同じく、隣に恐る恐るといった様子で座ったエリサス=アーティとの相性も最悪だろう。
アキラのようにねじ曲がったことを考えず、彼女らしくその威光を正面から受け止め、羨望の眼差しと共に気絶しかけている。
ここに来る際、少しでも正装をしたいと騒ぎ宿に戻りかけた彼女を強引に連れてきたが、あのまま見送ったら緊張とストレスで不調に陥り、戻ってこられなかったかもしれない。
グリンプ=カリヴィス7世は、ドラクラスの魔導士隊や魔術師隊を統制している。
エリーにとっては直接言葉を交わすことすら震える相手であろう。
「グリンプさん。にーさんへの用って依頼の説明だけっすかね。自分たち、他の人たちにも呼ばれてるんすけど」
「!」
グリンプが、やや驚いたような表情を浮かべた。
ヒュ、とエリーの喉から声が漏れる。椅子から崩れ落ちそうな気配すらした。
支えようかと思ったが、倒れたら倒れたですぐにこの場を離れられそうな気がしたので、彼女には悪いがアキラは成り行きを見守ることにした。
厳粛な空気の中、のんびりとした声を出したのは同じ顔のマリサス=アーティ。
先ほど合流し、共にこの場に来てくれた彼女は、慣れた様子で澄ましている。
彼女は半分閉じた眠たげな眼で、ちらりとアキラに視線を走らせた。
それだけで、アキラは少し落ち着けたような気がした。
久々だった。マリスといるときに、すっと気が楽になっていくような感覚を覚えることがある。
もしそれが何らかの魔法なら、今にも泡を吹きそうな姉にもかけて上げて欲しい。
「……マリサス。それは聞いている。ルックリンとドーナだろう。ルックリンは解せないが、ドーナの方は大方街の保全についてだろう。諸君らの選択は正しい。待たせていてよろしい」
グリンプから、ふん、と満足げな鼻息が聞こえた。
最初にここを訪れたことを評価されているようだ。
ドラクラスの三魔人と称されているが、魔人間の関係値はもしかしたらそこまで高くないのかもしれない。
アキラたちは、昨日このドラクラスを訪れたばかりだ。
それだというのに、その翌日、つまりは今日、とある3名から呼び出しを受けている。
ドラクラスの『三魔人』。
ここまでの道中で、エリーやマリスからその存在を簡単にながら教えてもらった言葉だ。
すでに記憶がおぼろげだが、要するに、この街の最高権力者が3人いるということらしい。
魔導士隊に属するマリス、そしてその同僚でここまで連れ添ってくれたフェッチという男の顔を立て、まずはこの統制を担うというグリンプ=カリヴィス7世の元を訪れていた。
つまりは事実上、今回のような魔導士隊が介入する依頼の最高指揮官に等しい。
訪れたのは、ドラクラスの1階の奥にある、一際大きい荘厳な建物だった。
随分と金がかかっていそうな広く整備された庭に、立派な門が供えられ、その入り口には、今グリンプの背後に控えているように、同じく魔導士の制服を纏った者が2名ほど立っていた。
魔導士というのは、エリーが散々言う通り、魔道の最高峰とされる職業だ。
村や町に留まらず、地域レベルでの保全を担当することもあるという存在が、町の入口付近ならまだしも、有事など起こりようもないドラクラスの最奥で門兵をしていること自体、エリーにとっては眩暈がする事態らしい。
アキラ自身、以前訪れた“神門”ですら、そこまで厳重ではなかったと記憶している。
そうした様々な要因を目の当たりにし、その際奥に座すグリンプ=カリヴィス7世を前に、本日体調不良なエリーは、いよいよ限界を迎えようとしているのかもしれない。
先に他の魔人に会い、エリーの気をある程度落ち着かせてからここへ来るべきだったろうか。
その場合、口ぶりからしてグリンプは大いに不機嫌になりそうではあるが。
フェッチと同じくアキラたちを呼び出した他の魔人とやらの遣いは、今もあの門の前で待っているのだろう。
ここだけでお腹一杯になりそうなので、待ちくたびれて日を改めてくれたりはしないだろうか。
「そんなことよりも、まず諸君らに説明することがある。このドラクラスは現在、大きな課題に直面している。この難壁を前に、特に諸君らのような者たちとは認識をすり合わせる必要があるだろう。さて、まずはこのドラクラスにいる特異な存在。『接続者』の話から始めようか」
長い前置きから、グリンプがぐいと身を乗り出した。
その話はアラスールから聞いているが、口を挟める雰囲気ではなかった。
マリスをちらりと見ると、短く頷く。大人しくしていた方が話は早く終わるらしい。
そういえば、ここまで案内してくれたあのフェッチという男は同席してくれなかった。逃げたのだろうか。
とはいえ、今回の依頼、アキラも人に説明できるほど理解していたわけではないし、なんなら昨日の件で頭から吹き飛んだかもしれない。
復習も兼ね、今回自分たちが関わるドラクラスの依頼について、大人しくグリンプの話を聞くべきだろう。
このドラクラスのどこかに、あらゆる過去現在未来の情報を得られる存在である『接続者』が住んでいる。
その『接続者』と唯一コンタクトが取れる『代弁者』が言うには、昨日アキラたちも馬車を走らせた山々が近い未来噴火するとのことだった。
被害を避けるべく、『接続者』はこのドラクラスを離れようとしている。
だが、そんな折、“魔王の弟”を名乗る存在から、『接続者』の身柄を抑えるという犯行予告が届き、その上で『光の創め』が介入することを宣言した。
この依頼内容は、その『接続者』の引っ越しを、ふたつの勢力から守り抜く護衛となる。
グリンプの話からはそれほど新しい情報は出てこなかったが、整理した上でアキラは思う。
個人的に恨みのある『光の創め』に釣られてふたつ返事で依頼を請けたが、改めて客観的に聞くと、未知の力を持つ『接続者』に、それを狙う魔族や魔族集団。
そんな場所に飛び込むなど、自覚はなかったが、自分には自殺志願でもあるのだろうか。
ついてきてくれた彼女たちに申し訳なくなってくる。
今更撤回する気はないが。
「……“魔王の弟”については、何か分かっているのか?」
グリンプが簡単に説明を終え、満足げに顎を上げたところで、アキラは口を挟んだ。
グリンプへの反発心からか、思ったよりも強い声が出る。
『光の創め』に気を取られてばかりいたが、 “魔王の弟”は、この引っ越しが大規模な騒動になった一端だ。
だが、昨日早速接触を受けた『光の創め』と違い、何の情報も得ていない。
グリンプは、脇腹でも突かれたような不快な表情を浮かべた。
「ひとまず気にすることはない。なに、そういった揺さぶりや悪戯はドラクラスにとっては日常茶飯事だ」
「……」
「だが、この有事に余計な混乱を起こそうとする輩は厳重に罰せねばならん。じきに特定されるだろう。時間が解決する」
“魔王の弟”についての新たな情報は特にないらしい。
アラスールからは重い問題のように聞いていただけに、グリンプの様子は気にかかった。
ただ、少なくとも、旅の魔術師ごときが要らぬ詮索をするなと言っているようには聞こえた。
「あ、あの」
そこで、アキラとは違い、エリーが恐る恐るといった様子で手を上げた。
彼女も依頼のこととなると委縮してばかりでは進まないことは分かっているのだろう。
それでも極力失礼の無いよう、グリンプが視線を向けるまでは待っていた。
「『接続者』って人のことなんですけど、どこにいるんですか? 引っ越しの護衛というと、街の中でもですよね? 行き先も聞かないと護衛できないですが、あたしたちに教えてもらえるんですか?」
グリンプが小さく笑ったのが分かった。
嘲りのものではない。聞かれたいことを言わせたような表情だった。
アキラも、アラスールから話を聞いたとき、依頼のことは何も分からなかった。
エリーと全く同じ疑問を持っていた。
引っ越しの護衛なのだから、引っ越し先は勿論、引っ越し元も知らなければならない。
それなのに、その辺りの詳細はまるで聞けていない。
それに付随して発生する依頼を請けて欲しいとだけ言われていたような気がする。
アラスールから説明を受けたときもそうだったが、特にトップシークレットの『接続者』についての情報はまるでなかったと言っていい。
だが昨夜、ドラクラスの外観を見たアキラは、直感的に察していた。
この街の、どこにいるかも分からない『接続者』。
だが、“分からないまま”で、この依頼は成立するのだ。
「その疑問に答えるために、依頼の詳細に入ろうか。これ以上勿体つけても仕方あるまい。じきにヨーテンガース中にも広まることでもある」
勿体をつけているようにしか聞こえてこないのだが、グリンプは指を立て、どこかの方向を差した。
「移動先は、トリオニクス地方。ヨーテンガース東部になる。ここから東に向かえば到着するだろう。一部大きく迂回するがね」
指しているのは東なのだろう。
その指を軽く追ったアキラは、視界の隅にマリスを拾った。
気のせいか。彼女の半開きの眼が、より一層細く鋭くなったように見えた。
そんなことに気を取られていたせいで、グリンプの渾身のセリフは、エリーにだけ刺さった。
「そして移動するのは―――“このドラクラス自体”だ」
何を言っているのか分からなかったようなエリーの反応は、グリンプには好感触だったらしい。
残念ながらアキラは、その言葉に驚愕してあげることができなかった。
それどころか、アキラは脳の奥から、黒く苦い、毒々しい何かが噴き出たような不快感を覚える。
やはり、そうだった。
このドラクラスは。
「そうか。諸君らは魔王と遭遇したのだったな。ルシルを知っているのか」
「!」
模範的な行動を取るエリーに気を取られていると思っていたのに、グリンプはいつの間にかアキラの顔を見据えていた。
あまり周りを見ないような立ち振る舞いをしていたグリンプが、その視線を鋭く突き刺してきたような痛みを覚える。
アキラが何を考えているのか、一瞬で抉り取られたような悪寒がした。
「……っ、……」
何か言おうとしたアキラは、喉の奥が張り付いて口が開けない。
そして、“ルシル”。
現代の魔王が操る、規格外の召喚獣―――“巨大生物移動要塞”。
グリンプの口から、さらりと出てきた言葉が、アキラの喉をさらに乾かせた。
「まあ、それでもきちんと説明しておくべきだろう。正確性が重要だ」
少しだけ面白くなさそうな表情を浮かべ、また前置きをまくし立てたグリンプの視線からは、先ほどの痛みを覚えなかった。
「夢物語のような話だが、順序立てた説明をしよう。まず、この山のように巨大なドラクラスだが、自然物ではない。建造物でもない。そして、召喚獣でもない。その正体は―――“具現化”だ」
「……!」
今度はアキラも、グリンプの気に入るリアクションが取れただろうか。
エリーと同じく、一瞬、何を言っているのか分からなかった。
「歴史を古く語る意味もない。簡単に説明すると、このドラクラス―――“巨大要塞”ドラクラスは、太古、初代勇者一行の者が現出したとされる“具現化”なのだ」
「……は?」
思わずアキラは声を漏らした。
初代勇者一行。
遡っても遡って到達しえない、原初の勇者一行だ。
「ちょっと待ってくれ。具現化だって? それに、初代勇者一行? まさかまだ生きてるとか、」
「にーさん」
聞きたいことがまとまらないアキラに、グリンプが開こうとしたところで、マリスののんびりとした声が聞こえた。
グリンプがやれやれと言った様子で押し黙る。
「具現化についてなんすけど」
彼女の視線がちらりとアキラの右手に走った。
具現化。
それは、かつてこの手にも宿っていた、特別な力だ。
魔道を極めた者ですら、その多くが手に入れることは叶わないという奇跡。
銃、杖、槍、腕輪。
旅の途中で出逢った、あるいは出遭った存在が操る具現化を思い起こせば起こすほど、このドラクラスと結びつかない。
「具現化が、何故奇跡と言われるのか。それは“その力自体”もそうなんすけど、そもそも、“魔力による物体生成”ということ自体が奇跡なんすよ」
マリスが今度は自分の手のひらを見つめ、アキラもそれを追う。
彼女も、“その力を有している”。
「持ち主が生み出し、持ち主の意志で消える。でも壊れもするし、直りもする。本当に、“物体”なんすよ。だから、」
「……具現化は、消さなければ残り続ける、ってこと、なのか……?」
アキラは自分の脳が活性化していくのを感じた。
自分でも操ったことがあるというのに、必殺な武器程度の認識しかしていなかったことを改めて理解する。
未だに自分の理解として落とし込めていないが、言うなれば、このドラクラスは、“戦車”の具現化ということなのだろう。
サイズが規格外すぎて、自分がかつて持っていた力と並列に考えるのは難しいが。
「つまりこのドラクラスは、大昔の具現化で、それが今も遺り続けている……ってことか」
「それが、“巨大要塞”ドラクラス。理由は知らないっすけど、持ち主が“消さなかったから”遺っていたこの要塞に、土を、資材を運び込み、都市として作り替えたらしいっすね」
それにはどれだけの年月が必要だろう。百年二百年では収まらないかもしれない。
だが、都市にしたのが誰かは知らないが、それほどまでにドラクラスの存在はありがたかったかもしれない。
具現化ということは、何らかの魔術、魔法的な力を有しているだろう。
これほど巨大で、そして要塞となれば、このヨーテンガースの南部に山ひとつ分の完全な安全地帯が生まれたようなものだ。
「その辺りでいいだろう。興味があるなら近くに大きな資料館がある。そこで調べてみるといい」
グリンプは、これ以上の話の脱線を防ぐような言い回しをしたが、目を丸くするアキラの様子には満足しているらしい。
「そして、ドラクラスは、この具現化を操ることができる人物を押さえている。血筋なのか才能なのかは知らんがな」
だが、補足のように投げやりのように付け足したグリンプは、一瞬面白くなさそうな表情を浮かべた。
不躾なところがあっただろうか。
かなり重要な話のように聞こえたが、期待を裏切られたような気分になって、アキラは言葉を返せなかった。
聞きたいことはまだあった。
本当にこの太古の具現化が動くのか。そのとき街はどうなってしまうのか。試運転をしたのか。移動距離はどれくらいなのか。速度はどうか。目的地に到着できるのか。
だが、グリンプの様子を見るに、その辺りの根回しはすでにやったかやらせたかしているようだ。
不遜、というか事実偉いのだろうが、それを隠しもしない態度のグリンプからこれ以上話を聞くのも躊躇われる。
街で話を聞き回れば、試運転をしたときのことを覚えている者もいるだろう。
そして、このドラクラスには、『接続者』と『代弁者』の他にも役割を与えられている者がいるらしい。
このドラクラスを操ることができるとなると、下手をすれば『接続者』以上に重要な人物であろう。
いずれにせよ、そんなまさしく魔法のような方法で、ドラクラスは“街ごと引っ越し”をするらしい。
だから、『接続者』が街のどこにいようが関係ない。知る必要もない。
それでも、ヨーテンガースの広大な大陸を、この巨大な山が動くとは信じがたかった。
もしあの死地で、“あの存在”が闊歩する様を見て居なければ、アキラも、今のエリーのように、目が点になったまま虚空を眺めていただろう。
「……待てよ。この街ごと移動するんだよな。じゃあ俺たちは、何のために呼ばれたんだ?」
ドラクラスが具現化で、それがこのまま動くとなると、当然自分たちも中にいるまま移動することになる。
ドラクラスがどれほどの力を持つかは分からないが、具現化ということは、それなりに強固であろう。
まさかとは思うが、自分たちに、ドラクラスをぐるりと囲うように外に出て歩き、自分たちよりもずっと堅牢に思えるこのドラクラスを守れとでも言うつもりだろうか。
そこで、グリンプがにやりと笑った。
今度は満点だったのかもしれない。
「ドラクラスがこのまま移動するとはいえ、進行ルートにはいくつも障害がある。山、森林、川や湖は勿論、町や村もある。まあ、その辺りは私の指揮のもと、秘密裏に、迅速に、ドラクラスに先んじて“引っ越し”をさせているが」
言い方は鼻に付くが、客観的には異常なことをこの男はしている。
これだけ巨大なドラクラスが移動するルートにあるそれらは、パズルのように外して嵌め直せるような規模のものではない。
ある程度は漏れただろうが、情報を伏せながらとなるとなおさらだ。
動いた金や人は、アキラに計算できる領域ではなかった。
「それなりに自給率の高いドラクラスだが、物資の補給も必要だ。そちらも確保する算段が立っている」
グリンプには悪いが、アキラは話のオチが、つまりは自分たちがしなければならないことが分かってきた。
アラスールが言っていた、引っ越しに伴ってドラクラスで大量に発生するという依頼。
個人の移動の割には大げさな話をすると思っていたが、これだけ巨大なドラクラス自体が動くとなると大事だ。
進行ルートだけを考えても、無数の障害がある。
常識外れだが話の通じる村や町は、申し訳ないが移動してもらうしかない。
だが、山や森、川や湖、その辺りの自然物は勿論そうもいかず、物理的にルートは限られるだろう。
無理やり押し潰して進むなど、避けて通るより、より一層の労力、あるいは危険があるのだから論外だ。
その分移動距離も伸びることになるであろう。そして伸びた道中には当然、“ヨーテンガースの魔物”が数多く生息しているのだ。
下手を打てば、火山の噴火よりも危険な自然環境や、大量の魔物に囲まれた場所で、物資の補給もままならないまま動きが取れなくなることすら考えられる。
ドラクラスには数多くの人が住んでいる。突っ込んでみて駄目でした、なんてことは許されない。
そして残る問題。
話の通じない中でも、最大の障害がある。
「残る問題は、」
「……“魔門”」
グリンプの機嫌を損ねるだろうが、思わずアキラは呟いてしまった。
東の大陸に、アラスール=デミオンが訪れた理由。
彼女は、あの魔門破壊が、“実験”だと言っていた。
つまり。
あの灼熱の地獄を味わったあの依頼は、このドラクラスの移動の事前準備に過ぎなかった。
「……それもあるな。だが所詮、ルート上での避けれらぬ問題のひとつに過ぎん。他にも大型魔物の巣や、接近するまで調査が困難な未開の地もある」
分かりやすく機嫌を損ねたらしいグリンプは口早に付け足すと、ちらりと時計を見た。
「次が控えているな。最後に、諸君らがこのドラクラスで何をするか、だが。それはドラクラスの依頼に伴って発生する、そうした細々とした問題を解消することだ」
全容を聞いた後だと、引っ越しに付随して発生する依頼とやらは、細々としたものとはまるで思えなかった。
そんなアキラの表情を読んだのか、グリンプは得意げに鼻を鳴らした。
「なに。さほど心配することもない。問題の解消はそれぞれ旅の魔術師への依頼という形で出すことになり、依頼内容は魔物の討伐や調査、哨戒、物資運搬の護衛など多岐に渡るが、基本的にはどの依頼にも魔導士隊に介入させている。ドラクラスで待機しつつ、どの依頼を請けるかは諸君らが判断すればいい」
やること自体はいつもと同じだ。
路銀に困っていた頃は、どこかの街に腰を据えて、資金集めをすることもあった。
だが、魔導士隊が常に介入するとなると話は重い。
アキラ自身、魔導士隊が参加するような異常な依頼などほとんど請けたことはなく、請けたものは大体ろくなことが起こっていない。
「ただ」
その前兆のように、グリンプは付け足した。
「一部依頼では、参加者が一部指定されることがある。参加自由ではあるが、指定した者の報酬はかなり優遇されるという形になる」
グリンプがじろりとアキラを見てきた気がした。
旅の魔術師はあくまで自由意志という一線を、“公には”超えるつもりはないとわざわざ言っている。
裏を返せば、特にアキラは、つまり日輪属性は、指示に従えと伝えたいのだろう。
だが、前も思ったが、それならそれで、ドラクラスの移動が終わるまで、徹頭徹尾、依頼という形でアキラたちを囲い続ければいいと思うのだが、そうしない理由が何かあるのだろうか。
「すでに多くの依頼が各所の依頼所に出ていることだろう。慣らしでいくつか請けてみるといい。では時間だ。退出したまえ」
しっかりとお辞儀をしたのはエリーだけだった。
呼び出したのに追い払うような言い回しをされると、いくら偉くても流石にむっと来る。
軽く会釈するだけをしたアキラは、しかしそれとは別に、頭を抱えた。
このドラクラスが移動する。
そのことについて、ぼんやりとは思い描いていたとはいえ、“それが前提で進む話”についていくのはそれなりに精神を摩耗したような気がした。
ただ、情報は多かったが、概ねやることは見えてきたような気がする。
自分たちはこれからドラクラスに滞在しながら発生する依頼をこなしていけばいい。
時折、誰かが指定メンバーとして呼び出されることになるのだろうが、それはそれで報酬が優遇されるらしいのだから問題ない。恐らくは自分のような気もするが。
何日、あるいは何年かかるか分からない大仕事だが、むしろアキラにとっては“好都合”なのかもしれなかった。
どの道、自分たちはしばらく、このグリンプの息が大いにかかった依頼を請け続けることになる。
普段とやることは大きく変わらないとはいえ、少しだけ憂鬱だった。
エリーに大いに協力してもらうことになるだろうが、特に仲間の説得が胃を痛くする。
少なくとも、仲間のうち数名は、グリンプに引き合わせることを避けなければならない。
「……」
音を立てないように扉を閉めつつ、最後にアキラは、隙間から、机の奥でふんぞり返っているであろうグリンプを盗み見た。
しかしドラクラスの魔人は、自らの背後に立つ魔導士に視線を走らせ、何かを囁くように伝えている。
次の予定とやらが詰まっていた焦りか、扉が閉まり切ったゆえの油断か、それともアキラなど気にもしていなかったのか、その直前に、風に紛れるようなグリンプの声が聞こえた気がした。
“3人ともだ”。
―――***―――
「結局俺たちは、しばらく暇潰していればいいってことだよな?」
「依頼は請けるってことだったじゃないっすか」
「じゃあ、あってるじゃないか」
「にーさんは……。ヨーテンガースの依頼っすよ?」
「わ、分かってるよ。でも、魔導士がいるってことは大体は大丈夫だろ」
「魔導士が関わるってことがどういうことなのか、ってことなんすけど」
「分かってる。ある程度は覚悟してるって」
グリンプに招かれた部屋から出た先は、来るときも通った、質素ながらもこだわりが見える廊下が続いている。
等間隔で飾られた絵画や、さりげなく置かれた花瓶をひとつでも傷つけたりすれば、一生この建物内でただ働きする羽目になるかもしれない。
来るときは慎重に歩いたものだが、先ほどのグリンプの会話の後、自分では気づかないほどの重圧を感じていたようで、アキラは身体も口も軽くなっていた。
見た目では分からないマリスも同じなのか、いつもより抑揚のある気がする声色で、アキラの隣をとぼとぼと歩いている。
ああだこうだと意味もないような会話をしながら、身体が軽いアキラは、しかし、わざとゆっくりと歩いていた。マリスもそれに付き合ってくれているらしい。
この廊下を進めば中庭があり、それを横切るとまた同じような廊下が続き、庭に出て、外に行くと、恐らく自分たちを待っている他の魔人たちの使者がいる。
正直グリンプとの謁見で、今日は大満足だった。
少しでも焦らして、彼らが諦めてくれるならやる価値はある。
「ね、ねえ」
もうひとり。重圧を感じていたどころか押し潰されていたエリーが後ろから声をかけてきた。
朝から一緒にいたというのに、今日初めて声を聞いたような気さえした。
「あ、あれ? ええと、何がどうするって……?」
「? ねーさん?」
「ああ、こいつ、今日調子悪いんだよ」
目が泳いでいるように見えるエリーは、とうとう頭がクラッシュしたのかもしれない。
ただでさえアキラなどより心労の多いエリーだ。
せっかくリフレッシュできていたのにまた情報が頭に大量に入ったせいで、混乱の極致にあるのだろう。
「じゃあ、他の人たちは自分たちで行った方がいいんすかね」
「そうかもな……。休んだ方がいいだろ。マリスは他の奴らに会ったことあるのか?」
「うーん、まあ。会ったこともある人もいると言えばいるんすけど、」
「そうじゃなくて」
思わず、といった様子の強い声がエリーから出た。
彼女の瞳は、自分たちに向いているのに、何も見えていないような気がした。
「なに、え。アラスールさんから聞いてたの? このドラクラスの話。移動、え、具現化って……、なんでふたりはそんな……、あたしがおかしいの?」
エリーのその瞳の色を、アキラは過去、見たことがある気がした。
強い疑いを持つとき、彼女が浮かべる瞳の色だ。
久々に向けられた気がするそれに、アキラは心が冷えるのを感じた。
先ほどのグリンプの話は、傍から聞けば、子供の絵空事だ。
エリーの立場からすれば、いかに魔導士隊を指揮する者だとして、口だけで言われたことを当たり前のように信じる自分たちが異常に見えるのだろう。
ただでさえ常識的な思考を持つ彼女だ。
マリスは違うだろうが、アキラにおいては理解が早いのではない。
アキラはただ、“知っている”だけだ。
その絵空事が現実に起こりえるのだということを。
「……ええと、ほら、」
アキラは開いた口を、閉じた。
出てくるのが言い訳でしかないことが先に分かってしまった。
『お前にも話しただろう、あの港町で、魔王が規格外の召喚獣で襲ってきたんだ。だから、大きなものが動くのは実際見てるから、あまり驚いていないんだ』
そんな言葉を作って言えば、彼女はきっと“納得したふり”をしてくれる。
だがそれに何の意味があるのか。
そこで、マリスが静かに言った。
「……そうっすよ。悪いとは思ったんすけど、機密事項だからって、アラスールさんから口止めされていて」
マリスが嘘を吐いたと分かった。
事実を知っているからではない。
本当に時たま、アキラはこう感じることがあった。
そしてそんなマリスの様子を、双子の姉が見逃すはずがなかった。
「……ま、まあ、それならしょうがない、わね。でも、ええ……、本当に? グリンプさんを疑うわけじゃないけど、揺れとか大丈夫なのよね? 結構怖いんだけど」
「自分も居合わせたわけじゃないんすけど、実験はしたらしいっすよ」
妹の嘘に、姉が騙されてあげている光景を見た気がした。
言葉だけ聞けば微笑ましいのだろう。歯車が狂っている光景に、アキラは目を背けた。
自分がマリスに吐かせてしまった嘘だ。何も言えない。
「まあ、でもそうね。うん。……まあ、あたしたちはいつも通り依頼を請けにいけばいいのよね。……そういえば参加者が指定される依頼もあるって言ってたけど、依頼所に通わないといけないのかな? 宿の場所とか教えてないし」
「あんまり指定されたくはないけどな……、俺らとは限らないだろうし、呼び出しってこともないだろ。やっぱり依頼所で分かるんじゃないか? 宿いっぱいだったらしいし、この街、かなりの数の旅の魔術師が待機しているんだろ?」
「限らない? 面白い冗談ね」
「……まあ、俺はなんか巻き込まれそうな気がしているけど」
狂った歯車は強引に回せばそのうち慣れる。
アキラは話を進め、頭を抱える仕草をした。
だが事実、エリーが言っている通りだろう。
ドラクラスの依頼は自由参加。だが時折、特定の者は参加を要請されるらしい。
そうした抽選には十中八九アキラは当たる。
そして大体、“妙なこと”が起きるのだ。
「提案だけど、あんたが指定された依頼、あたしたち全員で請けましょう。人数制限があるかどうか知らないけど、そっちの方がよっぽど安全よ」
「それだと、いつあるか分からないのに全員待機が続く、ってことにならないか?」
「む。そうね……」
驚くべきことに自分の方が頭が回っている。エリーにはまだ、頭になのか、心になのか、しこりがあるような様子が見えた。
ぼんやりとした方針を立てつつ歩き続けると、中庭が見えてきた。
煙のようにくすぶる嫌な空気は、外の空気に紛れて消えてくれはしないだろうか。
アキラには、エリーに話していないことがある。
隠し事。彼女をそう言いくるめてこの地まで来た。
自分も同じだ。
彼女は、騙されたふりをしてくれる。
それが彼女の優しさであり、そして同時に、もたれかかってはならないものでもある。
「!」
中庭はアキラたちが足を踏み入れた中央の小道から、シンメトリーに整備されていた。
左右それぞれにある、人間都合で切り揃えられた草花や、小綺麗な噴水の存在も、たびたびドラクラスが大自然のような山の中にあるということを忘れがちになる。
そんな中央の小道に入った途端、隣のマリスが鋭く視線を投げた。
視線を追うと、小道の向こうから、ひとりの若い女性が歩いてくる。
年の頃はアキラと同じか少し上かもしれない。
金の長い髪を束ねて垂らした小柄なその女性は、こちらを認めるとぴたりと歩みを止めた。
服装から魔導士なのかと思ったが、よくよく見ると僅かに薄手で、隣のマリスと比べて色も淡く見える。
この建物にいるということは民間人ではないのだろうが、散々魔導士に囲まれていたからか、彼女からはとげとげしい気配を感じない。
遠目からでも肌の色は薄く、線の細さが儚げなどこぞの令嬢のように思えるが、俯きがちな様子の方が印象的だった。
こちらが歩み寄るまで、その女性は動かず、さりげなく垂らした髪を前に持ってきて触り始めた。
「マリサス、さん。こんにちは」
「……こんにちはっす。グリンプさんに呼ばれたんすか?」
「え、ええ」
聲は透き通るように美しい、と思いたかったが、全体的な印象から消えゆくように聞こえた。
彼女はマリスの知り合いらしい。
どこかおどおどとした様子で応答する女性は、遠慮がちにアキラとエリーに視線を投げた。
「こんにちは。俺はヒダマリ=アキラ。ええと、」
「こちらはフェシリアさんっす」
自分の名前はそれなりに広まっているのだろう。
女性が目を見開いた一瞬の隙に、マリスが紹介してくれた。マリスにしては珍しい。外の空気を吸ってより一層口が軽くなったのだろうか。
フェシリアというらしい彼女は口を開きかけたが、代わりにじっとアキラを見据えてきた。
麗しい女性から視線を投げられるのは素直に嬉しいのだが、旅を通し、色んな意味でいい思い出につながったことが少ない。
いい身分になったものだと思いながらも、アキラは彼女を見返した。
髪と同じ、金の瞳は、そんな不遜なことを考えていたからだろうか、こちらを探るような色にも見えてきた。
「……こんにちは。ええと、初めまして、ですね。私は、」
「フェシリアさん。『接続者』から何かあったんすか?」
少しだけ声量を落としたマリスの言葉に、思わず身体がぴくりと動いた。
また珍しく人の言葉を遮ったマリスだったが、アキラも彼女の立場なら同じく、話を急がせたかもしれない。
『接続者』。
ドラクラスで最も重要な役割を持つその人物の様子を窺われる彼女の立場に、即座に思い至った。
「彼女が『代弁者』、なのか?」
フェシリアが遠慮がちに頷いた。
上目遣いになった彼女は、改めて見ても一般人にしか思えない。
だが、『接続者』と唯一コンタクトを取れる『代弁者』、つまりは、このドラクラスの大規模な依頼の発端とも言える存在だった。
マリスの様子も頷ける。
『接続者』の伝言だろうが、彼女の言葉ひとつで、三魔人も含めたドラクラス中の人間の行動が、命が、未来が、定まるのだ。
「いえ。変わらず『接続者』からの発言はありません。誰もが見えている障害を取り除いてから、ということでしょう。グリンプ氏にも同じことを言うことになります」
フェシリアの声色が強くなった。
『代弁者』としての発言がそうさせるのだろう。
やや気圧されたアキラは、彼女が視線を投げた道を譲った。
今から彼女はグリンプに会いに行くらしい。『代弁者』となると色々と調整事項があるのだろう。
グリンプにも彼女にも、極力関わらないでドラクラスの日々を過ごした方がいいかもしれない。
「引き留めて申し訳なかったっすね。グリンプさんのところに急いだ方がいいっすよ。時間に追われると、自分たちみたいに追い出されるから」
「は、はい。そうします……あ」
元の様子に戻って足早に去ろうとしたフェシリアは、最後にくるりと振り返った。
先ほどの『代弁者』としての振る舞いの名残だろうか、おどおどとしていたはずの瞳が、深い色になっていた。
「“勇者様”。もしかしたら近いうちに、お話を伺うことがあるかもしれません」
「へ?」
アキラの間抜けな声を背に受け、フェシリアは小走りで去っていく。
『代弁者』というドラクラスの重要人物。
いくらアキラが関わらないようにしたところで、結局こうなるような気もしていたが、とりあえず今はエリーの方を見ないことにした。
「……なあマリス。何の用だと思う?」
言い訳のように、マリスに訊くと、彼女は緊張が解けたように、小さく息を吐いた。
「さあ。そこまで構えなくてもいいとは思うっすけどね。『代弁者』とはいえ普通の人のはずだから。魔導士隊もそれほど構えて接してないっすよ」
「そうなのか? 結構危ないだろ、身の安全とか。見張りとかつけてるんじゃないのか?」
ドラクラスの重要な存在の『接続者』。
それにコンタクトを取れる、つまりは『接続者』の居場所を知っている『代弁者』も、同様に身の危険が迫ることもあるだろう。
よからぬことを考えるのは、魔族だけとは限らない。
「その辺りはドラクラスの誰かしらが適度に手を回しているはずっすよ。でも、そこまで肩入れしてないはずっす。あくまで重要なのは『接続者』。実際、魔導士の自分もフェシリアさんがどこに住んでいて、どうやって『接続者』に会っているのか知らないっすし。大体、それを言い出したら、にーさんだって気を付けておく必要があるじゃないっすか」
「……そう、なのか?」
普段よりも多弁な気がするマリスは、フェシリアが去っていった方を見ようともしていなかった。
『代弁者』とはいえ所詮は有名人という程度なのだろうか。
アキラには自分が著名な人物という実感はあまりないが、旅の途中、自分が勇者であることを利用してきた者がいなかったわけではない。
だがその程度は、所謂有名税程度のものでしかないだろう。
フェシリアも同じく、不自由のない生活を送れているのだろうか。
「だから」
アキラがそう納得しても、マリスは言葉を続けていた。
「『代弁者』を気にかける必要なんてない」
また、嘘を吐いたと思った。
―――***―――
「お待たせしましたね……。ご足労いただいてありがとうございます」
三魔人のひとり、グリンプ=カリヴィス7世。
フェシリアという『代弁者』。
立て続けにドラクラスの重要人物たちと出会ったアキラたちが次に訪れたのは、枯れ木のような男の元だった。
消え入りそうで、しかし耳にぴたりと届く調整をされたような声量で、僅かばかり高い。
ひょろりと背が高く、樹洞のような堀の深い瞳は、ぎょろりとした爬虫類のような印象を受ける。
日に焼けたような色褪せた茶色のローブは年季を感じさせ、上等なもののようだが、枯れ木にぼろ切れが絡まっているように見えた。
そんな印象からか、年齢は分からない。
その瞳の奥、何を考えているかは、もっと分からない。
「ドーナ=サスティバといいます。ドラクラス警護団の団長を務めています」
ドラクラスの三魔人のひとり。ドーナ=サスティバ。
旅の中で、アキラはあまり関わることがなかったが、今まで立ち寄った街の多くにも存在自体はしていた、街の警護団という組織の長。
活力漲るようなグリンプに会った直後だからだろうか、彼からはまるでそうした威を感じなかった。
いや、威を感じない、ではない。
彼からは、何も感じない。
「……ヒダマリ=アキラ。勇者をやっている」
吹けば飛ぶような男を推し量るように言うも、小さく頷いただけのドーナからは、やはり何も感じなかった。
アキラたちが次に訪れたのは、“1階”にあるドラクラス警護団の支部だった。
支部と言っても名ばかりで、住宅街の通りを進んでいけば、横並びにぽつんと姿を現す、民家と比べても背の低い小屋でしかなかった。
やはり民家のような扉を開けて入ると、足場が軋む短い廊下の先、アキラたちが今いる、天井が近く、グリンプのときの半分もない広さの応接間に到着する。
その応接間も名ばかりなのか、中央に大人がふたりも座れば窮屈なソファーが丸テーブルを挟んでふたつ向き合っているだけで、奥には事務室も兼ねているのか、すたびれた机が数個並んでいる。
窓からさわやかな風が吹き込んでは来るが、部屋の隅には埃も溜まっていそうで、アキラたちは何気なく立ったままドーナを待っていた。そして、当の本人も現れてから丸テーブルを一瞥もせず立ったままアキラたちと向かい合っている。
三魔人とまで言われている者の呼び出しとの不釣り合いさに、アキラは最初、ここまで案内してくれたジェットという男が何かよからぬことを考えているのではないかと警戒していたくらいだった。
「ジェット君」
「はい?」
部屋の壁に背を預けていたジェットが、投げやりに聞き返した。
「彼らを連れてきてくれてありがとうございます。随分と早かったですね、いい手際です」
「……どーも」
褒められているのであろう言葉に、ジェットはまた投げやりに返した。
警護団という組織がどういうものなのかは知らないが、少なくともグリンプたちのような厳格な組織ではないのだろうか。
姿勢を正して微動だにしなかったグリンプの背後にいた魔導士たちと違い、ジェットは腕を組み、じろりとこちらを、そしてあるいはドーナすらも睨むように眺めていた。
当然、『三魔人』とまで呼ばれるのであれば、それぞれ違った形でドラクラスでの重要な役割を果たしているのだろう。
だが、自分以外を目に入れないような態度のグリンプと異なり、枯れ木のようなドーナと、体格のいいジェットを同時に視界に収めると、ドーナの姿が消えるような錯覚さえ起こした。
「少しお話をしたくて、お呼びしました」
そんな、消えた空間から、ぴたりと耳に届く声が現れた。
「先述の通り、私はドラクラス警護団を率いています。いえ、やっていることはそれほど特別なことではありません。……ただ、つまり私は、ドラクラスの街の保全を行う必要があるのですよ」
「……それは」
ドーナの瞳が、アキラたちを捉えてきたような気がした。
その瞳の奥には、何の色も見当たらない。
だが、言わんとしていることは想像できた。
「俺が、何か問題を起こすと思っているのか?」
顎をつまむように指を当て、表情ひとつ変えないドーナが何を考えているのか分からない。
正面にいる彼より、背後にいるエリーの方が何を考えているのか分かるほどだった。
ヒダマリ=アキラは勇者であるが、基本的に各街は不干渉である。
それでも、旅の中、立ち寄った街で幾度かこうしたことはあった。
挨拶と称してアキラたちに接触するのは、魔術師隊の支部の責任者か警護団の関係者である。
彼ら彼女らは、挨拶と称して、それとなく、トラブルの火種になりそうなものに釘を刺しに来るのだ。
これもその一環だろう。
「ええ」
何の色も持たない肯定の言葉が耳にぴたりと届いた。
そこまでストレートに言われたのは初めてだ。
「あの」
苛立った声を出したのはエリーだった。
ドーナの眉がピクリと動く。
「話は……、終わり、ですか?あたしたちも長く旅をしています。迷惑をおかけするかもしれませんが、“そういう話”ならある程度心得ていますけど」
魔導士隊の重圧のあとだから気分が高揚しやすいのだろうか。
きっと彼女は怒ってくれている。
数奇な運命を纏うヒダマリ=アキラのために。
勇者という存在を腫れ物扱いにする相手は幾度となく見てきたゆえに、アキラ自身は多少慣れてしまっているが、彼女からすれば仲間が気にしているかもしれないことを突かれたと感じるのだろう。
それが分かるから口を挟めないが、それゆえに申し訳ない気持ちにもなるのだ。
不快感を露にするエリーを前に、ドーナは、ぎょろりとエリーを見ていた。
睨んでいるわけではない。
見ているだけ、だった。
感情を高ぶらせる相手を前にしていても、ドーナが何を考えているのか分からない。
「本題はこれからですよ」
ドーナは先ほどまでとまるで変わらない声色で言った。
「それと、誤解があるようですね。日輪属性が芽吹かせる数奇な事件。“それ自体は構いません”、そういうものなのです」
声色が変わらないせいか、理解が遅れた。
この男は、何を言っている。
ドーナは、表情を変えず、勢いを殺されたようなエリーをまたじっと見た。
「日輪属性のことは私も多少知っています。何かを引き付ける運命を持つ。それは人であったり、事件であったり。それは日輪属性が原因とは言えませんし、逆に原因と言ってもいいほどです。いずれにせよ、必ず“何か”が起こるでしょう。ドラクラスの“引っ越し”は、彼も理解しているでしょうが、グリンプ氏が描いた絵通りには絶対にならない。……ですから私は、それが起こることを前提とした話をしたいだけなのです」
そういうものなのだから。
ドーナの言葉に、ほんの少しだけ気が楽になったような気がし、それと同時、僅かばかりの戦慄を覚えた。
希少で、解明されていない、不確かな存在である日輪属性。
この男が言っているのは、それを不明のまま、前提として踏みしめ、先の話をしたいということだ。
まるで不確かな足場を前に、吹けば飛びそうな、枯れ木のような男は、眉ひとつ動かさずに歩み出している。
「……本題、というのは?」
ドーナの様子に毒気が抜かれたエリーを庇うように前に出て、アキラはドーナを見返した。
彼の目は、日輪属性の話をしているのに、アキラを捉えていないようにすら思えた。
「はい。あなたたちに“お願い”があるのですよ」
「依頼を?」
「いいえ。それをすることに意味はないでしょう。ドラクラスで日々を過ごす日輪属性の影響は、依頼の中だけでは済みません。あなたも分かっているでしょう」
日輪属性であるアキラの前を、不確かな足場の中、すいすいと歩き続ける男がいた。
ここまで来て、初めてアキラは、グリンプと話していた時間が恋しくなった。
この何も感じない男と話していると、危機感もないまま、いつの間にか引き返せないところまで歩かされるような寒気がした。
「もちろん、あなたたちが請ける依頼の方でも多少は優遇させていただきます。ドラクラスの依頼は、護衛団から出るものも数多くありますからね。ご協力の感謝の印として」
「……“お願い”ってのは何なんだ?」
このまま話が進むことが恐くなってきたアキラは、前を歩く枯れ木を掴もうとした。
だがその手には、何の感触も残らない。
「本当に大したことではありません。簡単な流れからの説明になりますが、このドラクラス警護団、正式な構成員はさほど多くなくてですね」
ドーナがちらりとジェットを見た。
彼もその団員と言っていた。
アキラは眉をひそめた。
この巨大な都市の警護団の人数が、さほど多くないと言う。
さほどの尺度が分からないが、『三魔人』と言われるほどの組織であるはずの警護団の規模が本当に小さいのだろうか。
アキラの疑問を気にもせず、ドーナは続けた。
「その分、人材の宝庫ではあるのです。そして、その中でも特別な役割のある者がいます。……お願いというのは、その人物に出逢ってしまっても……“深く関わらないようにしていただきたい“というものです」
「……は?」
何を言っているのか分からず頭から零れ落ちていったこと今までもあったが、今度は言葉の意味が分かった上で口から声が漏れた。
ドラクラス警護団のとある人物と、深く関わるな。
快諾はできないが、深く関われと言われた方が、まだ意味が分かった。
「その人物なのですが、……そろそろ時間ですかね」
「……?」
そこで、ブ、と妙な音が部屋に響いた。
わずか遅れ、アキラの背中がびくりと跳ねる。
懐かしい、聞き慣れたそれは、まるで元の世界の、校内放送か何かの音源かのようだった。
『ぁー、ぁー。……ぇー、ミルバリー=バッドピッ……、違う、みなさま間もなく日没となりま……、あ、こっちじゃない……。ええと、ええと……ブッ』
「……なん、だ……?」
慌ただしい女性の声が突如響き、そして消えた。
幻聴かと疑い振り返ると、エリーは眉をひそめて周囲を見渡し、マリスは小さく溜め息を吐いた。
何かを知っているらしい。
「マリス、今のは……?」
「そうか……。にーさんたち、初めてなんすね。このドラクラスの放送」
言葉は知っているし、むしろアキラの方が詳しいそれを、マリスはやや呆れたように呟いた。
「ドラクラスにはこういう仕組みもあるんすよ。ほら、他の街でも、時間で魔術師隊の人たちが警邏しながら日没だとか戸締りの注意を促していることあるじゃないっすか。ミルバリーさんは、街中に声を届かせられることができるんすよ」
この“具現化”には随分と便利な機能が備わっているらしい。
先ほどは何らかの放送事故があったようだが、そうしたことができるだけでも、元の世界のようにインターネットや電話がないこの世界では価値がある。
「……そう、とても価値のある方です。良くも悪くも、できるだけでも、なのですが」
ドーナが長い指で顎を摘まみながら漏らした言葉に、びくりとした。
『っし、これで、いい、よね? はい、お待たせしまし、た? 違うか。……こほん。みなさま、都市整備のためのご依頼です。明日、明後日は2階の3番商業区への外出はお控えください。……ええと、……ルックリンさん……、からだっけ……、…………あ、やっぱりそうだ、やった! ルックリンさんからです! ……………………。あ。く、繰り返します!』
心が読まれたようなアキラの悪寒は、先ほどよりも大きい放送にもみ消された。
ミルバリーというらしい女性の声は、時折マイクに息を吹きかけたようなどもり声になり、2度目を聞いてようやく何を言いたいのかが伝わってくる。
またブ、と音が時切れる前には、何かの紙束を地面にぶちまけたような音と、悲哀に満ちた断末魔の声が響いていた。
「…………ミルバリー=バッドピット」
水を差されたような放送の後、ドーナが呟いた。
「ドラクラス警護団の一員でしてね。先ほど言った、特別な役割がある者です」
今度は事前に、心が読まれるであろうことが分かった。
アキラは素直に、他に適任がいるのでは、と顔に浮かべた。
「言ったでしょう。“できるだけでも”、だと。……グリンプ氏から聞いているでしょう。このドラクラスは、初代勇者一行にゆかりのある“具現化”だと」
「!」
その言葉を聞いて思い至った。
“具現化”。
その神秘の存在は、物体であるが、魔具である。
そう簡単に他者が扱えるものではない。
先ほどの放送は、このドラクラスという“具現化”の能力の一部だ。
グリンプも言っていた。
このドラクラスを操れる者を押さえていると。
「彼女は唯一、このドラクラスを操ることができる。つまり、このドラクラスの引っ越しは、彼女の存在が前提となります」
このドラクラスを操る存在。
目の前のドーナや、先ほど会ったグリンプという魔人、『代弁者』であるフェシリア、あるいは『接続者』よりもずっと重要な人物かもしれない。
所詮個人である彼ら彼女らと違い、ミルバリーという人物は、このドラクラスという街を存続させる存在なのだ。
「そして、“日輪属性がそんな人物と出逢いを避けられますか”?」
ドーナの声色は変わらない。
だが、とてつもなく重要なことを言っているのだと理解した。
「いいですか。彼女は普段から自衛をしてはいますが、聞いての通り油断の多い方です。なので、彼女と出逢ったら、“深く関わろうとしないでください”。存在が目立てば、魔族に限らず、良からぬことを考える者はいますからね。もし誰かに身柄を押さえられようものなら、ドラクラスは全面的に要求を飲むことになるでしょう」
未来が見えるだけの『接続者』などよりもずっと重要な存在だった。
ドーナがわざわざ呼びつけて、ヒダマリ=アキラに釘を刺した理由も分かった。
もしいつもの調子で彼女とどこかで出逢い、そしていつもの調子で事件でも引き寄せようものなら、彼女が狙われる事態が起こってしまうかもしれない。
いや、ドーナはそれが、“起こる”と言っている。
「ご了承いただけますか?」
首を縦に振る以外の選択肢はなかった。
アキラだって、ドラクラスに住むすべての人間の命運を握る存在に近づきたいとは思わない。
仮に出逢ってしまったとしても、すぐに距離を取るべきだろう。
「ありがとうございます。……では、ジェット君。私はこれからミルバリーさんとお話をしてきます。グリンプ氏に呼び出される前に、ね。後は頼みましたよ」
ふらふらと、よたよたと、しかし倒れることなく進む枯れ木は、作り笑いを浮かべてアキラたちに会釈した。
そして振り返ることもなく、部屋を去っていく。
何も感じない、感じさせない魔人の背中には、誰も声を掛けられなかった。
一方、部屋に残った男がひとり。
ドーナと異なり、控えていただけでも妙に存在感のある男だった。
男は、ぎろりとこちらを睨むように見ている。
先ほどドーナと話しているときもそうだった。
「ルックリンのところのメイドが来てるよな。俺の案内は必要そうか?」
ドーナが去ったドアを見ながらそう言った。
アキラたちは、このジェットという男と、給仕服の女性と共にこの場を訪れている。
外で待つあの給仕服の女性は、アキラたちがこの事務所に入る際も、グリンプのとき同様、敷地外でぴたりと動きを止めていた。
最後の三魔人の使者である彼女とは出会ったばかりだが、彼女が今何をしているのか何となく分かる。別れたときと同じように、外に出たら1ミリの誤差もなく同じ場所に立っているような気がした。
「いや、大丈夫だ。……、こうしてあのドーナって人に呼び出されるのは俺らが初めてか?」
睨まれたままなのが妙に気に入らず、逃げるようにそのまま出ていく気にはなれなかった。
ジェットは腕を組んだまま、記憶を探るように眉を寄せた。
「いや、……たまにあるが、日輪に限らないこともあったな。悪いが俺も、あの人が何を考えているのか分からないんだ」
思ったよりも柔らかい声に聞こえた。
睨まれていると思っていたのはアキラの思い違いで、もしかしたら単純に、もともとそういう顔付きなだけかもしれない。
「とはいえ、さっき話していたことについては俺も同意見だな。ミルバリーには深く関わらない方がいい。そういう言い方をしているのは、関わるなって言うと、関わったとき、どうせなら、なんて思って深く関わることになるからだろうな」
「……つっても、どういう人なのか知らなきゃ避けようがないんだが」
話自体はアキラも同意見だ。
だが、避けろと言われて避けられるなら苦労はしない。
避けられないから日輪属性なのだ。
その上ノーヒントともなれば、アキラは地雷を容易く踏み抜いてしまう。
「そのことなら多分大丈夫じゃないっすかね。ミルバリーさんに関わり続けるのはそもそも相当難しいっすよ」
ジェットが口を開こうとしたところで、マリスがぼんやりとしたような声で言った。
ジェットの眉が寄る。
今日は珍しい。基本的には無言のマリスが人の話を遮るのをまた見るとは。
「ミルバリーさん、あの放送のせいで有名っすけど、街のどこに住んでいて、どういう生活をしているかは謎なんす。というのも、とある魔術が得意らしくて」
「魔術? そういやさっき自衛をしてるって言ってたけど、それが?」
マリスがこくりと頷いた。
ミルバリー=バッドピットという人物は、このドラクラスという規格外の具現化を操るほどだ。
身柄を押さえられることを危惧されていたが、相当な熟練者であってもおかしくはない。
「戦闘面はどうかは知らないっすけど、噂だと、ミルバリーさんは“姿を変えられる”」
「は? ……はあ」
一瞬驚いた、いや、驚こうとしたが、今更だった。
このドラクラスという巨大な山が動く以上、最早何があってもおかしくはない。
「多分声も変えて生活しているんじゃないっすかね。認識を変えているのか、あるいは本当に変えられるのかは知らない。……たまに私生活がドラクラス中に流れることはあるんすけど、意外と何もかもが不明なんす」
このドラクラスの人口は知らないが、少なくとも2階を合わせれば今までの大都市の倍の広さである。
ミルバリーが姿を変えられるとすれば、群衆に紛れることはできるだろう。
ころころと変えていれば不審に思う者も出るかもしれないが、適時ならば特定はされ辛いのかもしれない。
ただ、まともな生活は送りにくいであろう。
そして、そこまでしているとなると、先ほどの放送。
妙なノイズや何らかのミスをしたような声が混ざっていたが、それすら演技の可能性すらある。
謎多きミルバリー=バッドピット。
確かにアキラが深追いしなければ、自ら姿を消してくれはするのだろう。
「むしろ『接続者』に必要そうな能力だな」
「望んだ人に望んだ能力が与えられるとは限らない、ってことだ。それと同時に、向いていないのに能力だけがあることもある……」
ジェットが頭を抱えるような仕草をした。
先ほどの放送のことを思い出しているらしい。
どうやらマリスの話は噂ではなく事実らしいが、本気で頭を抱えているらしいジェットを見ると、あれは演技ではなさそうな気がしてきた。
そう考えると、そんな人物にこのドラクラスの命運が握られているという事実に、背筋が少しだけ冷えた。
考えないように頭を振る。
今はミルバリーに深く関わらないことだけを考えよう。
「あんたはミルバリーって人に会ったことはあるんだよな?」
「一応同じ所属だからな。“会ってしまった”ことはあるが、俺も深く関わろうとはしていない。……って、おいおい。早速深追いしているぞ?」
ジェットは短く息を吐いた。
優しい説教のような声色に、アキラも肩を落とす。
思っていた以上に話しやすい男だった。
意地のようなものを張っていたのが恥ずかしくなってくる。
「あ、あの」
そこで、エリーが軽く頭を下げて呟いた。
「す、すみません。そういう事情があるのに、さっき、あたし勘違いしてたみたいで……。ドーナさんに謝っておきたいんですけど」
恐らくは自分のためにエリーが不快感を露にしたときのことだろう。
ドーナ本人は、見たところ露ほども気にもしていなかったようだが、心の中は分からない。
「別にいい」
ジェットは、じろりとエリーを見て、端的にそれだけを返した。
先ほどまでと違い、刺々しく感じる。
今までのやり取りでドラクラス警護団はそこまで階級が厳しくはない組織に思えたが、一応ジェットはドーナの部下ではあるのだから、もしかしたエリーの態度には思うところがあったのかもしれない。
そんな様子にエリーが押し黙ると、ジェットは壁掛けの時計に視線を走らせた。
「悪いがそろそろ次の仕事の時間だ。同じ依頼を請けることがあるかもしれないし、聞きたいことが他にもあるならそのときにしてくれ」
アキラを見据えたあと、ジェットは足早に歩き出した。
時間がかなり迫っているのだろうか。そのままアキラたちの様子を窺うこともなく、ドアを開けて外を目指す。
慌てて追うと、ジェットはすでに外に出て、やはり微動だにしていなかった給仕服の女性を通り過ぎて歩いてく。
「お、おい! ここ、鍵は?」
「そのままでいい。大したもんはない」
それだけ言って、ジェットはあっという間に街の角に消えていく。
最後は随分慌ただしかったが、ふたり目の魔人との邂逅は終わったらしい。
「……やっぱり、怒ってたのかな?」
事務所の前、ジェットの行動の早さにぽかんとしていると、ぽつりとエリーが呟いた。
「ああ、もう、なんか今日、色々駄目だ……。最後なんか、もう話もしたくない、って感じに睨まれた気がするし……」
「それが理由で出ていったわけじゃないだろ」
「そう、かな? でもやっぱり怒ってた気がするのよね……。はあ、あたしはなんでこう……」
「もう気にすんな……、しないでくれ」
エリーの行動は、いわばアキラが原因だ。
ただ、そうだとしたら腑に落ちない。
いくらエリーに憤りを覚えていたところで、睨んで外に出ていくなど、流石に子供っぽ過ぎる。
「いや、多分本当に次の仕事が迫ってたんじゃないっすか?」
「それだけで事務所の鍵も閉めずに出ていくの?」
意気消沈のエリーが縋るようにマリスを見ると、彼女は今出てきたドラクラス警護団の事務所を眺めた。
やはり、民家に紛れるほどの大きさしかない。
「言ってた通りっすよ。この事務所に大したものはない。というより、ドラクラス警護団に喧嘩を売ってまで得たいものはない、ってことっすかね」
「……だといいけど」
納得し切れていない様子のエリーに、マリスは周囲を見渡して続けた。
「ドラクラス警護団の事務所、他にもあるんすよ。ここは拠点のひとつでしかない」
「……そうなの? 2階とかにもあるのかな?」
「2階にももちろんあるっすよ。まあ、数だけで言えば、多分全部で50以上は」
「50?」
アキラは思わず口を挟んでしまった。
「そんなに人数……、いや、ドーナって人が、大して多くはないとか言ってなかったか?」
マリスはふるふると首を振った。
半分閉じた眼が少しだけ大きくなっている気がした。
「とんでもないっすよ。正規の警護団のメンバーは確かにそうかもしれないっすけど、ドラクラスにある民間組織は大きさ問わず、ほとんどすべて警護団に関連している。旅の魔術師と言いつつ、ドラクラスに常在して、警護団の依頼を専門で請ける人もかなり多いくらいで、総数は魔導士隊をゆうに超えているらしいっすよ」
あの枯れ木のようなドーナという男は、それを率いているということにもなる。
職業差別というわけでもないが、警護団と聞いて、魔導士隊よりも随分と格下のイメージを持っていたアキラは小さく身体を震わせた。
見た目だけなら吹けば飛びそうだったあの男。
その細枝のような指先ひとつで、ドラクラス中を動かすことができるということだろうか。
総合力を考えれば、魔導士隊を率いるグリンプかそれ以上の力を持っていることにもなる。
「それだけに、グリンプさんはドーナさんを煙たがっているってアラスールさんが言ってたっすね。依頼ひとつとっても、魔導士隊がしっかりと統制したいのに、別の指示系統の警護団の人員が多すぎる。烏合の衆ならまだしも、ヨーテンガースの魔術師たちの集団ともなればなおさらって感じに」
統制するために魔導士隊で押さえつけたいグリンプに、その魔導士隊でさえ押さえつけられえない警護団。
構図としてはそういう形なのだろう。
「だからグリンプさん、ミルバリーさんのことは気に入らないんじゃないっすかね。ミルバリーさん自身というより、ドラクラスを操れる人物が警護団に属している、ってところが面白くないだろうし」
「そりゃ災難だな」
実際に他人事なのでそう言って、アキラは改めて心に誓う。
その話が本当なら、グリンプの機嫌を損ねる要因にもなるミルバリーには本当に関わらない方がいいだろう。
ともあれ、ドーナの話はよく理解できた。
グリンプの話はやたらと情報量が多く、次が控えていることが憂鬱だったが、ドーナの話は、ドラクラスの日々の中の、特に日輪属性の者への注意事項のようなもので、終わってみればありがたかった。
皆にも共有すべきだろう。
彼女らも今日、ドラクラスを周っているはずだ。
向こうの話も聞いてみたい。
「……じゃあ」
「……」
「……っすね」
さて。
流石にそろそろ、見て見ぬふりをするのが難しくなってきた。
「……次は」
「お待ちしておりました」
かぶり気味に抑揚のない声が響いた。
眩いばかりの笑顔で、そして無表情な給仕服の女性。
最後の魔人の遣い。
「ルックリン=ナーシャ氏の元へお連れします。オプションになりますが、道中、ドラクラスの観光案内などいかがでしょうか?」
―――***―――
「こっちだこっち、早く入ってきな! まったくどれだけ待たせるんだいっ。さっ、帰った帰ったっ、聞きたいことは聞き終えただろう、もう店仕舞いだよ。……ほら、何をぼうっと突っ立ってるんだいっ、そこに座りな。おーい! 受付さん、お客様がお帰りだ!」
最後の三魔人と呼ばれるルックリン=ナーシャの第一印象は、快活な老婆だった。
歴史を刻んだ年齢に見えるが、立ち振る舞いがそう感じさせない。
薄暗い部屋の中、マリスのようなだぼだぼな薄紅色のローブを纏い、見た目だけなら神秘的、あるいは胡散臭い占い師のような佇まいなだけに、直前まで話をしていたであろう客を追い返し、手を広げてアキラたちを呼び込むような仕草をしているところを見ると、親戚か近所の世話焼きおばちゃんのようで、裏切られた気分になる。
笑顔で無表情な給仕服の女性に連れられてきたのは、ドラクラスの“2階”の商業区と思われる道の路地裏だった。
ドラクラスは、日が沈むのを演出するように夜には照明が落とされるらしい。
時間からして随分と早かったように思うが、アキラたちが2階に上がった頃にはすっかりと“日が落ちていた”。
その分家屋や店の明かりが灯り、昨日ドラクラスに到着したときの夜の景色になる。
2階の商業区は、その中でもずっと明るく、悪く言えば派手派手しい区画のようだった。
その商業区は人混みの雑踏に、叫びのような歌が響き、ネオンが輝き、人々は周囲を気にせず自分のことだけを考えて先を急ぐ。
治安の悪い大都市が丸ごと詰め込まれたような空間を、ゴミが散らばる通りを進んでいくと、空間が削り取られたようなに、シンとした裏道があった。
誰も見向きもしないその裏道を進んだ先、さびれた喫茶店のような木製の扉の先が、三魔人の呼び出した場所だった。
中は、本当に喫茶店のようだった。
低い天井ではシーリングファンが規則的な軋み音を発しながら回っている。
狭い店内の奥にはカウンターがあり、小さなテーブルが2,3置かれていた。
ここまで案内してくれた給仕服の女性は、この建物に入るなり、まっすぐにカウンターの向こうに回り、パズルのようにぴたりとはまる。
どうぞ、と手のひらで案内された奥の暖簾のような短いカーテンをくぐると、短い廊下の先には、机と椅子、そして机の上の水晶玉以外何も置かれていない、照明が暗い面談席のような個室があった。
趣味でやっている喫茶店で、ついでに占いでもしているような建物は、ドーナのとき以上に、三魔人とまで呼ばれている者に相応しいとは思えなかった。
もしかしたら最初がグリンプだったせいで、三魔人に対して妙な先入観を持っていただけなのかもしれない。
追い返されて出ていく客と狭い廊下で半身になってすれ違い、アキラたちは言われた通りに椅子に座った。
横長の椅子は思った以上に狭く、隣のエリーやマリスと肩が触れるほどで、そしてそれ以上に、目の前のルックリンとの距離が近い。
机の上に置かれた綺麗な水晶の全面に、アキラの顔が映り込んでいた。
「ささっ、早速話を聞かせてもらおうじゃないか。昨日、何があった?」
「? え、と。それはどういう意味、ですか?」
目上の親戚のような態度にかえって委縮し、アキラの喉から自然とか細い声が出た。
ルックリンからは、グリンプやドーナと違い、どうにも慌ただしい印象を受ける。
油断していたからか、自己紹介もなく、ルックリンがいきなり入った本題にアキラは眉を寄せた。
「……ルックリンさん、ですよね? あたしたち、特に何も聞いていないんです。どのような御用でしょう?」
一方エリーは、職業差別というわけではないだろうが、魔導士隊を率いるグリンプや、ドラクラス最大規模の警護団の長を務めるドーナのときよりは余裕が見える。
それともここに来るまでに、いよいよ腹をくくったのだろうか。
ドーナのときのミスを挽回しようとしているのかもしれない。
「なんだいなんだい、何も聞いてないのかい。グリンプの坊やのところに先に行ったみたいだから、話が出てると思ったのにねえ」
そういえばグリンプは、アキラたちをルックリンが呼ぶのは解せないと言っていたような気がする。
グリンプに分からないのなら、ドラクラス新米の自分たちに分かるはずもない。
ルックリンは毒々しい色で塗られた爪で水晶をコツコツと叩くと、どこから説明したものかと思案するように顔を歪めた。
「ま、しょうがないか、仕方ない。勇者に“アーティ”ふたり、自分の話で一杯一杯か。私も順を追って話すかねえ」
「ん?」
思わずふたりの様子を見ると、エリーは眉を寄せ、マリスは無表情でルックリンを見ていた。
「ふん、なんだい、そういう感じかい」
「そういう感じって……、え? 今、アーティって」
「知らない知らないっ、巻き込まれたくないんでね」
ルックリンが、本当に多い口数のせいで余計なことを言ったおばちゃんのように手を払った。
見逃すことはできない言葉が出たが、アキラが視線を向けてもルックリンは鼻を鳴らすだけだった。
この距離だとよく分かる。彼女は何を聞こうが答える気がない。
「まったく、こうも続けて外すとなると、占い稼業も廃業かね」
「……やっぱり占い師を?」
直接聞くより口を滑らせた方が答えが分かりそうな気がした。最悪あとでふたりに訊けばいい。
「そうさね」
ひっひという笑い声が聞こえるようだった。
占い師という職業に理解が深いわけではないが、彼女の姿は思い描く占い師通りのものだ。
ルックリンは皺だらけの顔を更に歪めて笑う。
ルックリンという人物について、アキラが知っていることは極めて少ない。
三魔人のひとりということ。
そして。
このドラクラスどころか世界中のあらゆる商業に手をかけている、とんでもない富豪だということ。
「金になるのさ」
廃れた店構えに、こじんまりとしたこの部屋。
まるでそうとは思えないが、ルックリンの背後の壁に、押し扉のような亀裂が見えた。
奥に何があるのか考えようとすると、妙な居心地の悪さを感じた。
「……ドラクラスには『接続者』がいるんだよな。儲かるんですか?」
「なあに言ってんだい。だから儲かるんだよ。『接続者』の噂を聞きつけてやってきても、グリンプの坊やがほとんど門前払いするんだ」
そうなると、その弾かれた者たちはどうするか。
ルックリンが暖簾を垂らしているのはそういうことなのだろう。
探るように言ってみたが、ルックリンは事も無げに返した。
この女性が『接続者』というわけでもないらしい。
「物珍しさの奴もいるだろうが、『接続者』頼りの奴らは、大なり小なりそういう問題を抱えている。むしろ供給過多さね。なあ嬢ちゃん」
ルックリンがマリスを見た。
マリスは無表情を浮かべている。だが、あの給仕服の女性よりは分かりやすく、強張っているように見えた。
「マリスはここに来たことあるのか?」
「……まあ、その、」
「ああっ、もういいもういい、私が悪かったっ。ったく、日輪ってのは本当に面倒だね、余計なことが口から洩れる。月輪だとなおさらだあね」
また、何かの前提を飛び越えるような言葉を聞いた。
ルックリンが苛立ちながら水晶玉を爪で弾く。
「月輪属性、なのか……?」
「そりゃそうだろうよ。だから占いで稼いでるんじゃないか。ま、手をかけてる商会の方に比べればびびたるもんだが」
ルックリンは当然のように異常を口にする。
エリーではないが、アキラも頭が痛くなってきた。
やはり、このドラクラスは“進み過ぎている”。
会話のレベルや、前提が、今までアキラたちが長い時間をかけ、旅の中でおぼろげながらに掴んできたものを超えている。
ヨーテンガース南部のドラクラス。
旅の終点の目前であるこの街は、順序立てる魔術ではなく、まるで魔法のようだった。
「さ、私の話は別にいいんだよ。いや、それでいいのか、つまり私は本物の占い師。人生相談ならその辺の石ころにでもしておきな。“未来を当ててやる”」
「……」
未来が分かる。
どういう風にそれができるのかは当然知らないし、知る意味がないことを知っていた。
月輪が操ると言われる予知は、すなわち“魔法”ということだ。
そうなると、逆に『接続者』の方の意味が薄れるような気さえした。
「はっ、『接続者』は別物だよ。私はこの街のナンバー2さ。たまに成功するってところだあね。視られると視ることもある、は大きな違いだ」
アキラが言いそうなことは予想がついたのか、ルックリンはそう言って、水晶を皺だらけの手で鷲摑みにした。
精度の問題だということだろうか。
アキラが今まで触れたことのない、未知の話に必死に思考を追いつかせていると、ルックリンがじろりと睨むように見てきていた。
背筋が冷えた。
「そんな数少ない私の“成功”。あんた、台無しにしたね?」
「……俺、が?」
ルックリンの指に力が込められているのが分かった。
「……やっぱり順を追って話した方がよさそうだね。昨日は調子が良くてね、たまにあるのさ、別に何をしたわけでもなく、ふっと未来が“降りてくる”ことが。で、だ。そこで起こった。ドラクラスの入口付近は昨日、“阿鼻叫喚の地獄絵図になるはずだった”」
言葉と表情が合っていない。
些末なことのように、この老婆は未来、今にしては過去を、語る。
「そしてあんたたちは昨日、その地獄を何事もないように通ってドラクラスにやってきた。昨日見たろう? ドラクラスに入った瞬間、大量の魔導士に囲まれたはずだよ」
「あ、ああ。あれは、そのために?」
「ったく、グリンプの坊やに借りが出来ちまったよ。結局何も起こらなかったんだから。おまけに儲け損ねちまった。どうしてくれるんだい」
「ええ……」
エリーから声が漏れた。
この老婆が言っているのは、自分の占いが外れたことの不満だ。
「それ、あたしたち関係あります?」
「あるんだよ」
ルックリンは苦々し気に口を動かす。
アキラは、いつの間にか拳を握っていた。
まさか。
「あたしたち、確かに昨日魔族に襲われましたけど、そのことでは? まあ、運よく山の方で撒けたみたいですけど」
「はっ、その話は聞いている。だから私は、“つまりそういうことだと思ったね”」
ルックリンは、意地の悪そうな顔でアキラを見つめてきた。
アキラの顔色を見て、にやりと笑う。
「昨日の私が外すなんてあり得ない。だから魔導士隊に通報した。だからグリンプの坊やもそれを前提に話を進めた。だが、唯一外れる可能性がある。それがあんたさ」
「……日輪属性、か」
思わずそう呟いていた。
直感的な言葉だった。
アキラの背筋が、また、昨日の悪寒を思い出す。
「そうさ。嬢ちゃんは分かるかい? 未来が視えても、塗り替えられるような……、ああ、予知はやってないんだっけ、そう言ってたね」
マリスは無言で、小さく頷いた。
やはりマリスはルックリンの元を訪れたことがあるらしい。
「そんな言い方だと、魔族を引き連れてここまで来た方が良かったって聞こえるんですけど」
「そうじゃない、そうじゃないさ」
エリーがまたむっとするように言った。
だがルックリンは、落ち着かせるように手をぱたぱたと振ると、やはりアキラを見た。
表情豊かに思えていた老婆は今、探るようにアキラの瞳を覗き込んでいる。
「あんたを呼んだのは、訊きたかっただけさ。……“何を変えた”? どこで、どういうときに」
鼓動が早くなっているのを感じる。
隣のエリーが、慮るような視線を向けてきていた。
予知の通りにならなかったなどという超常的な話だ。一笑に付しても誰も文句は言わないだろう。
だがそれでも、ルックリンの話を前提とすると、昨日、“起こるはずだったこと”は、バルダ=ウェズの追跡がドラクラスまで続いたことによる、魔族の討伐という大事件だ。
「…………俺じゃない」
責任逃れではない。
口から漏れた。
ルックリンが言う“何かを変えた”者。
それは、ヒダマリ=アキラではない。
エリーもマリスも、じっとアキラを見つめてくる。
誰も気づいていないならと蓋をしようとしたあの出来事。
ようやく分かった。
ルックリン=ナーシャが察し、訊いてきているのは、それだった。
「なに。どう、したの?」
エリーの恐る恐ると言った様子に、アキラはごくりと喉を鳴らす。
ここで誤魔化し口を塞げるほど、アキラの心は強くない。
「……悪い。言ってなかったことがある。昨日、馬車ごと崖から飛び降りたときのことだ」
マリスも神妙な表情でアキラを見ていた。
あるいはと思っていたのだが、やはりマリスも知らなかったらしい。
「あのとき、バルダ=ウェズの真下にいた俺は、……感じたんだ。あいつが今から“何か”をするのを。だが、それは起こらなかった。……その直前で、“聲”が聞こえたんだ」
話すつもりのなかったことは、まるで整理できていなかった。
それゆえか、あのときの悪寒がリアルに蘇ってくる。
狭い部屋の景色が遠くなる。
あのときのことを思い起こそうとするのを身体が拒絶しているようだった。
「誰のものか分からない。だけど、“そいつ”は言った。多分、バルダ=ウェズに対して。……『それ以上日輪を刺激するな』、って」
口にすると、少しだけ気が楽になった。
抱え込んでいた反動だろうか。
たどたどしいアキラの言葉を、ルックリンは黙って聞いていた。
「そしたら、多分そのときだ。バルダ=ウェズがいなくなったのは。……あとは、みんな知ってる通りだ」
「……は?」
気が楽になったからか、狭い部屋の景色がクリアになってくる。
すると、ほぼ無表情のエリーから声が漏れた。
おかしい。背筋の冷えが変わらない。
「なんっ、…………、こほん。それ、ちゃんと報告しないといけない話じゃない」
「いや、聞こえたのが俺だけだったみたいだし、気のせいだって思いたかったのは本当だ」
ここが人前でなければ怒鳴りつけられていただろう。
エリーは身体で軽く当たってきた。
昨日魔導士隊への説明に不備があったなど、エリーにとっては由々しき事態なのかもしれない。
単に心配してくれているのかもしれないが、目つきは恐い。
「にーさん」
「ん?」
「にーさん」
「…………」
この双子の見分けは、色合い以外でもつけているつもりだったが、まったく同じ顔がアキラに向いていた。
マリスも口元をひくつかせ、ジト目でアキラを見つめてくる。
「だ、だってよ、みんな疲れてたし、余計なこと言って心労増やすのもな、って思ったりもして、」
「あたし、“それ”を止めろって何度も言ってないっけ?」
ぐうの根も出ない。
今までの旅の中、何度も楔を打ち込まれていた気がする。
「にーさん。それ、本当なら相当なことが起こってるっすよ。バルダ=ウェズに何かを言った存在。つまりそれは『光の創め』で、」
「……“ジャバック”に干渉されたのかい」
「!」
ルックリンが、深刻な表情を浮かべていた。
アキラが最初に期待した、不気味な本物の占い師のような佇まいに見えた。
「ジャバック? そいつは……『光の創め』なのか?」
「そうだろうねえ。……まあ、知ってる奴なんてほとんどいない。なんならグリンプの坊やも知らないだろうね」
老婆が水晶を握っている手に、さらなる力が入っているのが分かった。
「私はね、ヨーテンガースに限らず、世界各地、至る所に網を張ってる。よく名前を聞いたあんたらのことも初対面とは思えないほどにね。そんなでかく細かい網でも、掠めるようにしか引っかからない“魔族”がいる。……『光の創め』の構成員、いや、あるいはそいつが率いているのかもしれない―――『召喚』のジャバック」
老婆の表情は読めなかった。
「『光の創め』は歴史の裏でこそこそしていた連中だったのに、随分とアウトドアになったじゃないか。お陰で多少は噂が広まった。いや、“魔族様の立場からすれば”、潜む必要がなくなった、が正しいのかね」
何かを思案し、目を細める。
そしてまた、コツコツと水晶玉を指でつついた。
「ああ嬢ちゃんたち。あんたたちからの報告は不要だよ。私がそろそろまとめてグリンプの坊やに高く売りつけるからね。しかもおまけつきだ。そこの勇者様の話が確かなら確定する。『召喚』のジャバックは“日輪属性”だ」
「……」
あやふやな予想が確信に変わったような気がした。
アキラが感じた強い悪寒。
あの全能の瞬間に割り込まれたような嫌悪。
それができる相手は、やはり、日輪属性なのだろう。
「まあ、聞きたいことは聞けたさね。私はこれからひと稼ぎだ。そんな奴らがこの“引っ越し”にちょっかい出してくるなんて、まったく、なんて“稼ぎ時なんだい”。おーい、受付さん! お帰りだよ!」
「……」
アキラの心に毒のように落ちた情報も、この老婆には商品扱いなのだろうか。
声を張り上げるルックリンの表情は、いつの間にか明るく見えた。
「なに不満そうな顔をしているんだい」
そんな顔を浮かべていたのはアキラだろうか、それともエリーだろうか。
少なくともアキラは、たった今話したことを他人に金で売ると聞いて、にこやかな顔は浮かべられなかった。
「大丈夫。“あんたは正解を引いた”。私の占いを台無しにしたときはどうしてやろうかと思っていたが、でかい魚が釣れた気分さ。その話を最初にここでしたのは正解だよ」
「……正解? 何が」
ルックリンはにやりと笑った。
「この私に貸しを作ったことさ」
いつの間にか、背後に笑顔の無表情が浮いていた。
話は終わりだろう。
窮屈な椅子から3人で立ち上がると、ブリキのように給仕服の女性がくるりと背を向ける。
エリーとマリスを先に通すと、アキラの背後でルックリンが笑いながら言った。
「ドラクラスで生活する以上、必ず私を頼ることになる。何かあったらすぐ来るといい。ドラクラスで日輪の勇者が占い師に頼るなんて洒落が効いているけどねえ」
「ん?」
振り返ると、ルックリンと目が合った。
「なんだい。誰かから聞いただろう。このドラクラスが初代土曜の魔術師の具現化だって」
「……ああ、その話か。土曜の魔術師、ってとこは初めて聞きましたけど。……洒落?」
アキラが首をかしげると、ルックリンは目を丸くした。
この視線は良く感じることがある。
無知だと思われているときのものだ。
「なんだい。あんた七曜の勇者だってのに知らないのかい。初代土曜の魔術師。生業は占い師だったって話」
「そう、なんですか? 俺、異世界来訪者で、」
「それは知っているよ。調べもしてないのか。やっぱり直接会うと色々知れるね」
ちょっとだけ脳が疲れを忘れたような気がした。
初代勇者一行。
旅の道中、ちょくちょく話には出て、興味を持ったことはあるが、結局調べたことはない。
エリーとの雑談で聞いたこともあるが、彼女もよく知らないのか機嫌悪そうにしながらはぐらかされた。
「じゃあ、初代勇者ってどんな人だったかも知ってます?」
後ろの廊下を抜けた先で、エリーとマリスが、給仕服の女性と何やら話している。オプションがどうのと聞こえてきて、戻ってくる様子はない。
待たせていないならどうせならと、ほんの軽い気持ちで聞いてみると、ルックリンはじっとアキラを見た。
「……なかなか難しい話をするね」
「?」
同じくはぐらかされるのかと思った。
だがルックリンは、ゆっくりと目を瞑り、言葉を考えているようだった。
初代勇者。
子供向けの本なら、エリーの実家である孤児院で見たことがあるが、分かりやす過ぎるほどの内容で、勇者が悪さを働いた魔王を倒しました、と数ページに渡って書かれていたに過ぎない。
最速で魔王を倒した、『剣』そのものと言われた二代目勇者、ラグリオ=フォルス=ゴード。
世界が粛清にさらされる中、ひとりで旅を続けた三代目勇者、レミリア=ニギル。
自分と同じ系統の勇者は、それらと違う何かのはずだが、アキラはまるで知らなかった。
「“知らない”」
アキラが思ったことと同じことを、ルックリンは言った。
「……と、言いたいところだが、多少はサービスしようかね。“過去参照”をしたことがある私に訊くとは、やっぱりあんた、“正解”を引けるね」
月輪属性は、予知以外にも、時間を超えて何かを視ることがあるらしい。
ときには過去の事象が“降りてくる”こともある。
ルックリンは、初代勇者の過去を視たことがあるのだろうか。
「……初代勇者。多くの文献に残っているが、どれもその勇者を捉えていない。……言い表せていない、いや、“言い表せない”と言った方がいいだろう」
ルックリンの表情は、それでも必死に言葉を絞り出そうとしているように見えた。
雑談のつもりだったのに、思った以上に真摯に答えようとしてくれているらしい。
あとで料金を請求されたりしないだろうか。
「最も強いのは誰か? 最も清いのは誰か? 歴代勇者をはじめとし、歴史上の人物を並べた、そんな話はごまんとある。だが初代勇者はきっと、どの話にも挙がらないだろうね」
そんなに影の薄い人物だったのだろうか。
豪快な逸話を持つ二代目や、たったひとりで必死に世界を救おうとした三代目と比べると、自分と同じ系統の勇者なだけに悲しくなってくる。
「まあ、私がひとつ挙げるとすれば、……“異常者”、かね。なに、危険人物というわけじゃない。異世界来訪者ということを除けば、どこにでもいるような人間だった」
ルックリンは、アキラの目を、また、しっかりと見据えた。
彼女の瞳の色が、先ほどまでと変わっているように見えた。
「“その男は”」
ルックリンの声色は、透き通るように感じた。
何も感じないのに、しかし意味を持つその音は、アキラの胸に直接届くようだった。
「初代でありながら―――“自分が初代の勇者であることを知っていた”。どこにでもいるような、当たり前の人間。それだけのはずなのに、集いし世界最高峰の魔術師たち、その誰もが、その男を中心に回っていた」
七曜の魔術師は、各属性の最高峰の魔術師だったという。
そんな人物たちを率いた初代の、根源の勇者。
「あらゆる困難、あらゆる絶望、あらゆる難敵を前に、それでも、不思議と勝利を引き寄せた。現実や論理を乗り越えて、子供向けの絵本のような奇跡が、彼の周りで描かれた。―――その男は、」
ざわりと、アキラの脳の奥で、何かが蠢いた。
「ルーツ。―――そう名乗っていた」




