第60話『光の創め3---ドラクラスへようこそ!---』
―――***―――
世の中は、なるようにしかならない。
欲しいものはある。
嫌なものもある。
だが、欲しいものだけを得ることはできないし、嫌なものをすべて避けることはもっとできない。
真理でも何でもない。
マクロでもミクロでも、生きているだけで様々なことが起こるのだからそれはそうだ。
バランスが取れるかどうかは知らないが、プラスもマイナスもない人生なんて、存在しない。
特に人に関われることがあれば、その浮き沈みはより大きくなるだろう。
最たる例は、仕事だ。
「ふっ……!!」
ここは、雨の降らない街だ。
強く地を蹴って駆けていると、誰かがまいた水溜まりの泥がぴしゃりとはねる。
『……ふぅ、これでもう濡れてないかな。……くしゅっ、服着ないと……。……きゃ!? って、床もびちょびちょ。タオルタオル……、……巻いてるのでいいか。すぐにお風呂に戻ろう。……はあ、いきなり連絡来るんだもんなぁ。まあ、お仕事だからしょうがないか。……あっ、替えのタオルが無いっ。洗濯しちゃってたんだったっけ……、えっ、どうしよう』
ジェット=キャットキットは、脇目も振らずに“夜”の中、疾走していた。
ここは住宅街である。
周囲はすっかり暗いが、ほとんどの家屋には明かりが灯っていた。
消えている家も、仕事か夕食に出かかけているのが大半だろう。
空には満点の星々が輝いている。
先ほど通った公園で、酒でも片手に寝そべって見上げれば最高だろう。
星も、家の灯も、そのどちらもマジックアイテムではあるが、文句は言うまい。
「ユフィ、奴ら今でかい2の看板を右に曲がったぞ」
『前にも言ったけど、それは2じゃなくて片翼のマークよ。サブストリートね。……引き返して。さっき犬の石像が並んでいる店があったでしょ、そこの脇道に入って』
「あの先って“川”があるだけじゃなかったか。泳いで追えってか?」
『泳いでもいいけど、飛び越えて。あとはひたすらまっすぐ走って』
ジェットは、声の主には聞こえないように悪態をついて、言われた通りに道を引き返した。
体力には自信があるが、追っている相手も流石にヨーテンガースの南部に来ているだけはあって、なかなか手ごわい。
ジェット自身、こちらの住宅街の方には久々に来たせいで頭の地図が怪しく、難易度を上げているが、そちらは声の主に任せよう。
案内された通りに向かった犬の石像たちは、いくつかが倒されていた。
自分たちのせいかもしれない。
すでに店仕舞いしている暗がりの犬たちを不憫に思い、ジェットは急いで起こして埃を払うと裏道に入った。
『人―――ジ―――』
「ん!? どうした?」
裏道、というより建物と建物の間に入ったジェットは、苛立った声を荒げながら疾走する。
じっとりとした空気の中、雑草を踏み、どこからか漏れ出す料理か何かの湯気を突き破り、愚直に前進すると、記憶通り、幅数メートルほどの“川”が見えてきた。
そのまま速度を上げ、勢いよく跳躍してから、誰かが出しっぱなしにしていた水桶を蹴り飛ばしていたことに気づいた。
申し訳ない気もしてくるが、今度は戻れない。
『ジェット? 聞こえる? もう、なんであなたばかり途切れるのかしら? やっぱり、』
「いいから次はどうする?」
声を届ける魔術は便利だが、用途はある程度限定的らしく、制約も数多くあるらしい。
それなりに高度な魔術らしく、使用できる者は限られているが、そちらの方面には明るくない。
ジェットも限定的には使用できるが、理屈は分かっていなかった。
声の主であるユフィネス=サークには申し訳ないが、よく途切れるらしい自分へのその魔術へのアドバイスはできなそうだ。
魔術についてもっとまじめに学ぶべきだったと、ジェットは心の底からそう思う。
『そのまままっすぐ。大通りまで抜けちゃって。奴ら、どうせそっちに来ることになるから』
「本当だろうな?」
『今日は魔術師隊の定期警邏があるはずよ。私らと違って、そっちは本当に冗談通じないからね』
それなら無駄骨にはならなそうだ。
ジェットは大通りを視界に収めると、身を隠せそうな場所を探した。
住宅街と違って、こちらの方はよく知っている。
大幅なショートカットをした自分の方がずっと早く着いているだろう。
『……あ……、替えのショーツも……無い。え、じゃあ私、…………ふ、ふえ、うわぁんっ、どうしよぅ……ん? わっ、え? はい、いえ、そんなわけないじゃないですか。それに、ちゃんと“閉じましたよ”? そっちじゃないって……、何が……、ってなんで知って……、ひっ』
自分は、いや、自分たちはと言った方がいいだろう。
現在とある犯罪集団を追っている。
ここ最近、たびたび“外”から訪れる行商が被害に遭っており、網を張っていたところ、ジェットの担当していた場所に現れてしまった。
我ながらついていない。
妙に凝った門構えの店の柱の陰に身を隠し、ジェットは、いつものことかと頭を小突いた。
顔だけ出した大通りは、“夜”だというのに大層賑わう商業通りだ。
もっとも、時間的には日が沈んだばかりかその直前くらいだろう。それでも、これ幸いと酒をあおり、買い物袋を膨らませ、肉の焼ける香ばしい匂いが漂う道を、大きく笑う人々が闊歩する。
このドラクラスの“2階”ではよく見る光景だ。
『着いた? じゃあ息を整えて。……それで、聞きそびれたけど人数は結局どうなったの?』
「……最初に言ったときからふたり増えて5人だ」
『素人ね。逃走経路も甘いし、普通散るでしょ。じゃあ、来たら押さえて。裏道に入られてもいいように応援も呼ぶわ』
息を整える時間も必要ない。
応援も無駄になるだろうとジェットは感じた。
奴らにも追われているという自覚があるはずだ。下手に狭い裏道に入らず、人混みに紛れられると考えているだろう。
だが、何人かは顔を覚えている。
極力目立たないようにと、脇目も振らずに歩いてくるだろう。これだけの店が立ち並ぶ道で、その方が目立つとも分からずに。
ジェットは気を落ち着け、目に入った馴染みの店の屋外テーブルに腰かけた。
目立たないように、街に溶け込むように。
どれだけ意識してもし足りない。
「おう坊や、なんだよ挨拶くらいしに来いよ」
「坊やはよせよ。あんたがいつも金の話しかしないからだ」
早速店の親父がジェットを見つけてジョッキを片手に寄って来た。
体格はいいが、清潔感のある短髪で、端正な顔立ちをしている男だ。
その様子が妙に印象的で、この店には来ることが多くなった。
「はっ、人をルックリンの婆さんみたいに言いやがって。ツケの話をするだけじゃねぇか」
「口が悪いな。ルックリンの耳に入ったらどうするんだ」
「今更だ。知ってるだろ、“ゲート”周囲の飲食店街。もうほとんどルックリン嬢が押さえてるらしい。飲食街に限らず、“2階”はほとんど息がかかっている。あの婆さん、まだまだ手を伸ばしてるだろうよ。……はあ、客もそっちに流れちまった。うちもいつまで保つかね」
「潰れてくれたらツケは無くなるのか?」
「お前にだけは絶対に払わせるからな。……ったく、はっ、俺も飲むかね。やってられん」
「止めとけ。あんたも仕事中だろ」
座りかけた店の親父は、ずいとジョッキだけ置いて、拳でジェットの胸を軽く叩いて戻っていった。
察しが良くて助かる。
軽く店内を見渡すと、こちらの様子に気づいている者はいないようだった。
騒がしいテーブルでは、どうやらいつもの賭け事をしているようだ。
今日の内容は、ミルバリー=バッドピットの誤放送が、日付が変わるまでにあと何回起こるからしい。
「ユフィ。聞こえるか?」
『……ええ。来た?』
「まだだ。多分もうそろそろだろうが。…………今日、ミルバリーの連絡、2回あったな? 聞き逃した。2回目は何を言ってたんだ?」
『あの情操教育に悪そうなやつ? あの娘、ちょっとでも下手を打てば刺されるか襲われるかしそうよね。本当に“魔術”に助けられているタイプだわ』
「数少ない友達だろ、助けてやれよ。俺が聞きたいのはそんな雑音の方じゃない」
『いろいろ酷くない? まあ、本題の方よね。私もこっちにかかり切りで、半分聞き流していたけど、今、“入口”に厳戒態勢を引いているから、近寄るな、ってさ。 “1階”は大混雑でしょうね」
「……」
となると外では何か面倒なことが起きているのかもしれない。
外へ出られなくなっていても、自分にとっても、この酒場にいる人々にとっても、あるいはドラクラスの住民にとっても、ほとんど問題ない。
だが、あまりいい予感はしなかった。
この時間でも多少は外に向かう者もいれば、訪れる者もいるだろう。
そこに魔導士隊が押し寄せるともなれば、通行が一気に滞る。物資の支出もままならない。
そうまでするとなると、“よほど”のことが起こった。いや、“よほど”の人間が決定した、ということになる。
そんなことができるのは、この巨大なドラクラスの中でも、ごく数人に限られる。
「ドーナ……さんが何をしてるか分かるか?」
『団長? 見てないわね。……まあ、気になるならとっとと片付けましょう。今“1階”に行くのは反対だけど』
「……!」
道の向こう、製菓店の前を、3人以上の縦並びで歩く男たちが視界に入った。
数歩前には横並びのふたりも見える。
見覚えのある顔だ。
服装は変わっているように見えるが、上着を捨てたか裏返せるタイプの服なのだろう。
「……」
店の親父に視線を送り、迷ったが、一口だけ飲んで、ジョッキを置いた。
またツケになる。
男たちは時折背後の様子を伺っているが、こちらに気づいた様子はまるでなかった。
このまま静かに付けて根城を抑えてもいいが、ユフィの言う通りとっとと片付けた方がいいだろう。
気になることができたのだ。
そのためにも、あんな素人集団はとっとと確保してしまおう。
ジェットは人混みに紛れながら、徐々に距離を詰めていった。
すると。
「……ユフィ。奴ら、“普通”らしい」
『え?』
「散った。……ふたりは花のカフェを曲がりやがった。3人はまっすぐ……、いや、ひとりは引き返してくる。どうする?」
『花のカフェって、水車横の? そっちは行き止まりでしょ? ……と、とりあえずやり過ごして』
無茶を言う。
このまま紛れて直進すれば、引き返してきたひとりにはほんの数秒で鉢合わせだ。
見覚えのある顔のひとりだ。
こちらの顔も見られているだろう。
ジェットは可能な限り自然な動作で視界から逃れようとしたが、歩いてくる男の顔が、僅かに歪んだのを見逃さなかった。
「応援は!?」
『やっ、やり過ごせって言ったでしょ!! まだそっちには着いてない!!』
返答より、駆け出した男を追う方を優先した。
また途方もない鬼ごっこが始まるかと思ったのも束の間、逃げたひとりの男は花のカフェを曲がっていく。
ユフィも言っていたが、あそこは道ではなく、ただのゴミ置き場だ。
多少の広さと奥行きがあるせいで、よく間違えて人が入っては引き返す。
高い壁に囲われて、逃げ場もない。
曲がってみると、案の定、3人の男が奥で壁を背にして立っていた。
「一旦そこに隠しておくつもりだったのか。道を間違えたってわけでもなさそうだな。……そっちの奴以外は」
ジェットが顎で指すと、逃げ込んだ男は、先にいたふたりの男に視線で差された。
この男は、逃げるにしてもここを選ぶべきではなかった。
「やっぱり見ない顔だな。……ドラクラスに来たばかりか? お前らのせいでゆっくり酒も飲めやしない。一緒に来てもらうぞ、魔術師隊じゃないだけありがたく思えよ」
「……?」
男たちは顔を見合わせ、そして僅かばかりの敵意を漏らした。
ふと、背後に気配を感じる。
先に行っていたふたりの男が引き返してきたらしい。
気づけば挟まれていた。
「魔術師隊じゃないらしい」
誰かがそう言った。
それだけで、男たちから僅かばかり緊張が解けたのを感じる。
どうせなら、もっとほぐれてもらおうか。
「ドラクラス警護団のジェット=キャットキットだ。ここ最近、ゲート付近で暴れているのはお前らだな」
警護団というものは、ドラクラスに限らず、他の街にも組織されている。
ほとんど魔術師隊が兼ねていることが多いのだが、大きな街では人手が足りず、民間や有志による面々で構成され、街の治安維持に努める集団だ。
資格が無いだけの魔術師隊と言えば多少聞こえがいいが、資格の有無はもちろん大きく、世に広まる警護団の印象は、要するにボランティア集団だ。
旅の魔術師以上に、自称ですら通じる、という軽い印象を持つものがほとんどだろう。
だから男たちの態度もよく分かる。
ジリ、と男たちがにじり寄ってきた。
『―――ジジ―――、ジェット? どう、聞こえる? また駄目かしら? あーあーあー……!!』
「うるさいな、聞こえている」
『っと、ならすぐ返事をしてよ。は、ミルの気持ちが少し分かったわ……、それで、今どこ? 追跡中?』
「制圧した」
ジェットの足元には息も絶え絶えの5人の男たちが倒れていた。
ドラクラス警護団。
ドラクラスに存在するこの組織は、ヨーテンガースであることを差し引いても、他の街のそれとは規模も戦力も別格だった。
そもそも根本的に、通常他の街では、“魔術師隊”の支部が置かれるだけなのに対し、この街には“魔導士隊”の支部も多数存在する。他の街では考えられないほどの人材の集合体なのだ。
そしてそれは、その魔術師や魔導士を取り巻く環境も同時に質が高いことを示している。
世界各地で名を挙げた猛者が群衆に紛れるヨーテンガースでは、石を投げれば魔導士クラスの魔術師に当たることも少なくない。
もちろん犯罪に手を染める猛者もいるが、共謀にして活発なヨーテンガースの魔物たちに対抗する人員の方が圧倒的に多く、特にヨーテンガースの南部ともなればそれを生業とする者がほとんどである。
そんな“有志”の魔術師たちが集まるドラクラス警護団は、質も規模もドラクラスの最大勢力となっていた。
情報源や人脈も潤沢で、“各階”に根を張り、正式に属さずとも、関った者を数えれば千人以上にもなる。
その戦力、能力は、国や近隣の街に強い影響力を持つグリンプ=カリヴィス7世が管理する魔導士隊とさえ遜色なく、そのふたつの組織はドラクラスの戦力の両翼と称されていた。
規律を守る魔導士隊が組織的な行動で治安を維持し、それだけでは手の届かない部分を警護団が立ち回るドラクラスは、極めて安全な街だと言えた。
内情を知らなければ、だが。
「また左手しか使いませんでしたね」
「……!」
「おっと。バディとのお話し中失礼ですが、魔術を切った方がよいのでは? お疲れでしょう」
大通りに面した花のカフェの角に、ひょろりと背の高い、裾の長いコートの男が立っていた。
茶色い長髪をふち付きの帽子で押さえつけ、細長く見える顔に影を落としている。
柔和な顔つきだが、血色は薄い。病人と言われればそのまま信じるだろう。
ジェットは言われた通りに魔術を切る。
ユフィが何かを言っているが、また魔術がうまく働いていないと思ってくれるだろう。
「……ドーナ、さん。ここで何を?」
「いえ。夕食を考えながら歩いていたら、期待の新人君が目に留まりましてね」
ゆったりとした落ち着いた口調だが、すぐに嘘だと分かる。
ドラクラス護衛団の団長、つまりは、ドラクラスで最高峰の“力”を持つドーナ=サスティバは、ふらついたような足取りで歩み寄ってきた。
ドーナは、薄い唇に長い指の手を当てて周囲を伺った。
その見た目も、その所作も、細く、弱く、力の入れ方を間違えただけで折れてしまいそうに見える男だ。
だが、間違えてはならない。
この男は、ドラクラスにおいて、魔人なのだ。
「ふぅむ。随分と痛めつけましたね」
「事務所に連れていく頃には、誰かひとりくらい口は利けると思いますよ。……あと、新人君は無いでしょう。もう3年になる」
「それは失礼。ですが、まだまだ新人ですよ」
ドーナは、ジェットの足元に倒れた男たちを見下ろすと、やはり細長い手をかざす。
ジェットの背から汗が噴き出した。
また、見ることになるのだろうか。
この魔人の異常を。
「っ、っ、……づ、ぁぁぁあああ……」
ドーナの手から、ぼんやりと、淡い、スカイブルーの光が漏れた。
男たちは呻き出し、恐怖に顔をゆがめ始める。
転げながら見上げた先には、細く弱い男が、静かに見下ろしている。
「……? って、あ、れ……?」
ドーナが施したのは、治癒魔術だ。
下手に麻痺した感覚を戻されて痛みが上ってきたらしいが、少しすればそれも収まったらしい。
立つことはまだできないようだが、ジェットに痛めつけられたままよりはずっとマシな状態になっている。
「部下が失礼しました。さて、あなたたちは何を盗んだのでしょう?」
転がっていた小袋を拾い上げたドーナは、そのままひっくり返した。
中からは、拳大の石が複数個転がり落ちてきた。
「……ほう、これはすごい。魔力の原石ですね」
びくりとジェットの身体が震えた。
魔力の原石は、それなりに希少品だ。
「それが……、8個。ですが、質が悪いものが多い。悪品を掴まされましたね。いくつかは当たりのようですが、5人で成果がこれでは割のいいものではありませんね」
ドーナは肩を落として首を振る。
男たちは、言葉を発さなかった。
彼らからすれば、ドーナは自分たちを治療してくれた恩人だ。
それでも彼らは、たった今自分たちを痛めつけたジェットに助けを求めるような視線を送ってきていた。
盗みは下手でも魔術師としてはそれなりらしい。ドーナから感じる気配に、言い知れぬ不安を覚えているのだろう。
「さて、ジェット君。彼らをどうしましょう?」
「拘束して連行だ。それでいいでしょう?」
だからもう許してやれ。
ジェットは言外にそう語った。
しかしドーナは、出来の悪い生徒を見るように眉を寄せた。
「ジェット君。君は“やりすぎ”なんですよ。何事にも適量というものがあります。多くても駄目、少なくても駄目。そう、“維持”にこそ価値がある。彼らのような人も、ドラクラスの一部なんですよ」
そしてドーナは、ため息を吐き、ぼそりと言った。
心からの言葉のように、言った。
「しかし、新人らしいミスでしたね。ひとり取り逃がすとは」
ドーナはじっと、5人の男たちを見下ろしていた。
男たちは理解できない何かを見上げる。
ひょろりと高い背丈から下ろすドーナの瞳の色は、ジェットには見えない。
見えたとしても、見たくない。
この警護団は、魔術師隊には入れなかったボランティア集団ではない。
「まあ、仕方がない。5人もいれば、“ひとりくらい取り逃がすのが普通です”」
そして、正義の使者では断じてない。
「“さて、どなたが逃げますか”?」
ドーナは、その身体を折りたたむようにしゃがみ、またじっと、男たちを見つめていた。
理解できていない男たちと違い、ジェットは吐き気を抑えるので精いっぱいだった。
この護衛団に入ったばかりの頃、ドーナが語った話を思い出す。
働きアリの法則というものがある。
とある集団は、2割がよく働き、6割が普通で、残る2割は働かないという。
だが、そのよく働く2割だけの集団を作ると、その2割の中で、2割がよく働き、6割が普通で、残る2割は働かない。
集団が生まれると、ある一定の比率でグループが生まれる法則である。
ドーナが見ているのは、ドラクラスのその一定の比率だった。
彼の中でどのような計算がされているのかは定かではないが、善人、一般人、悪人、犯罪者、その“比率”を維持している。
ドーナが言っているのは、“ひとりの悪人が逃げるのが帳尻が合う”、ということだ。
そのために、治療をした。
帳尻合わせに“使う”ために。
眼前の、“調整”の魔人は、ふたつの魔力の原石を小袋に入れて、儀式のように男たちの間に置いた。
そちらも、取り戻せなかった盗品の数として妥当な量、ということだろう。
「時間はあまりありませんよ、警護団としても、そろそろ成果を上げるのもまた普通なのです。4人は確保しなければなりませんので」
ドーナにこう言われた今までの者たちの取る行動は、大きくふたつだった。
ひとつは全員が我先にと逃げ出そうとする集団。
そしてもうひとつは、仲間意識が強く、譲り合いが起きる集団。
短い戦闘だったが、先ほど戦ったジェットの印象は後者だった。
遠路はるばるドラクラスまで辿り着いた彼らは、このヨーテンガースの旅の中で悪人なりに絆を培ったのだろう。
そしてその予想通り、男たちは他者を慮る視線を向け合った。
比較的身体が小さい若手の男に視線が集まったとき、ドーナが、ぐいとその小柄な男の顔を掴んだ。
「ぎっ……、ぃっ、」
「時間がかかるようなので私が決めます。そこの奥のあなた。そう、あなたが逃げてください。盗品を忘れずに」
顔を握り潰された男は必死にドーナの腕をはがそうとする。
だが、細く、弱く、折れそうなその魔人の腕は、微塵にも動かなかった。
「早くしてください。いいですか、これ以上時間をかけると彼の“目を潰します”。あなたが動かなければ、やりますよ」
意を決し、弾かれたように指定された男は駆けていった。
短い悲鳴と、必ず助ける、という小さな声をジェットは拾う。
「……“新人にしては上出来でした”」
ジェットが思わず逃げた男を追おうとした瞬間、細く弱く、しかし無視はできない声で止められた。
ドーナはにっこりと笑っている。
身体中が金縛りにあったような感覚がした。
「大半は確保できましたね」
ジェットは逃げた男を、逃げさせられた男の背を目で追うことしかできなかった。
彼は、ここで捕まえてやるべきだった。
ユフィが手配した警護団の応援が集まってきているだろうから、そちらに期待することしかできない。
「さて、終わりましたね。残る方々は、後で事務所に運ばせましょう。人をよこします」
また、嫌な光景を見てしまった。
このドーナの思想を把握している者はそれほど多くないとジェットは感じていた。
例えば以前、ユフィにさりげなく探りを入れたが、彼女はこの警護団がドラクラスを支える、正義のための組織だと信じている。
なぜ自分には。
ジェットはそう考えようとして、止めた。
それを考えても答えが出ないことを知っていた。
「君に期待しているからですよ」
「……!」
完全に大人しくなった男たちに背を向け、細長い魔人が歩み寄ってくる。
心の中を読まれたような不快感は、この男の全身から感じる不気味さに呑まれて消えてしまった。
「こうした話をするのは、警護団内でさえごく少数です。見込みのある方にしかしていません」
「……何の見込みですか?」
「人によります。例えばジェット君。君はとにかく強い」
「……」
ジェットは唇を噛んだ。
強い? 大きな見込み違いだ。
「そうした方には極力正直に接した方がいいんですよ。そういうものなのです」
それも調整、なのだろうか。
是も非も見えない魔人の行動は、まるで分らない。
この男と話していると、目の前が矛盾だらけになってくる。
「私の言葉を理解し切れとは言いません。君がその類稀なる戦闘能力を警護団のために使ってくれるのであれば、私に文句はありませんよ。まあ、分からなければいつまで経っても新人ですが」
「……そうですか。それじゃあ、新人らしく無責任に、あとは任せました」
適当に話を切り上げ、ジェットは最後に、ドーナ以上に顔色を悪くしている男たちを盗み見てから歩き出した。
不憫に思うが、こちらも仕事だ。団長様の決定には逆らえない。ひとり逃がしたが、ジェット自身もそこまで正義の使者というわけではなかった。
むしろ、彼らの方に気が引かれているほどだった。
仲間を失ったばかりの彼らは、これからどうするのだろう。逃げ出した、“逃げ出させられた”彼は、ひとり、このドラクラスでどうなるのだろう。
ジェットは考えないように歩き出す。
これも仕事だ。
仕事で“ミス”をして、嫌なことがあって。
それでもそれは拒絶するべきものではない。
未だ賑わう大通りに出ると、またどこかから騒ぎ声が聞こえてきた。
誰かは笑い、誰かは泣き、そしてやはり笑う。
しばらくすれば、笑う者が泣き、泣く者が笑うだろう。
世の中はなるようにしかならない。
プラスもあればマイナスもある。
誰もが今まで経験してきている現実だ。
だが、そんな浮き沈みも、作られたものだと感じてしまうと、その景色がずっと遠くに感じる。
今日はミルバリーの連絡の方も賑やかだったらしい。笑う者、何も思わない者、怒る者、嫌悪する者、それも様々で、そしてそれも一定の比率を保つのだろうか。
『―――今度はどう!? ジェット! ジェット!! ち、今度は……』
「……ユフィ。聞こえる」
『あ、よかった……。大丈夫なの? 奴らは?』
「悪い、油断して、ひとり逃がしちまったよ」
『そんなの……、んんっ。な、何やってんの、ほら、早く追って!!』
背中を大きく叩かれたような気がして、ジェットは大きく息を吸った。
人使いが荒い。
彼女のように、目の前のものが作られたものだと知らない者もいる。
そんな者の言葉は、妙に耳に残り、背中を押す。
「……追え、か」
指示系統が混乱しているようだ。ならば最新の指示を信じよう。
これも仕事だ。
「了解」
――――――
おんりーらぶ!?
――――――
外観からして異常だった。
そして、中に入れば、もっと異常だった。
―――ドラクラス。
ヨーテンガースの南部中央付近にあるこの街は、訪れていない者には信じられない、そして、訪れた者にはもっと信じられない、異常な都市だった。
形状としては楕円に近く、高さ約1キロ、半径3キロ超という、規格外の“建造物”である。
ドラクラス自体は鉄のようなもので構成されているが、岩山に埋もれ、土を被り、木々やコケも生え茂っており、近くで見れば自然物に溶け込んでいる。
まるで岩山に擬態しているかのようなドラクラスだが、遠方から見ると、自然界とは明確に違う整ったドーム形状に、むき出しになった部分の鉄のような肌が物々しく、馬車が数台横並びになって通れるほどの巨大な門がついており、流通の多いその周囲は舗装され、“道”ができている、と、自然物ではあり得ないことが容易に分かる。
それだけでもすでに異常な建造物ではあるのだが、ドラクラスが最も異常なのは、“都市である”ということだった。
その門を通った“中身”こそが、遠方では耳を、訪れた者は目を疑う“異常”である。
岩山の中身をごっそりとくり抜いたような中は、街が、“重なっている”のだ。
ドラクラスの門から入り、周囲を見渡すと、建物が所狭しと並んでいる。
建物の合間には、塔とも呼ぶべき十数メートルの太い“柱”が各所に点在しており、天井を支えていた。
塔の高さ、つまりは天井までの高さは、地面から百メートル超と高く、まるで圧迫感がない。
そしてその“空”には照明の役割をする光源が施されており、まさしく実際の朝と夜のように時間によって明度が移り変わるのだ。
原理を理解している者は“もういない”が、その光源だけで生活していても、健康を害することもなく、作物も育つという。
雨だけは降らないが、それは同時に気候の変動による被害を受けないというメリットでもあった。
広い目で密室なのだが見れば何故か空気が澱むこともなく、光源も、衣食住も賄え、“中”にして“外”であるドラクラスは、その中で生まれて外に出ることもなく生涯を終える者も少なくはないほど、生活する上で恵まれた環境だった。
そして、同じものが“上”にもある。
天井を支えるいくつかの柱は内部から登れるようになっており、登り切って辿り着く“2階”でも、同じような光景が広がっているのだ。
取り立てて整備されているわけでもないが、ドラクラスの各階には特徴がある。
入口ということもある1階では、主に交易の都合で、関税や卸を行う商店、宿屋が特に多く、魔導士隊の拠点や役所などの、重要な施設も多い。
ドラクラスの住民のほとんどが住む2階は、民家が多く、小売りや飲食店が並ぶスペースも確保されている。
そして、“その上”。
2階の柱から登った先にあるそこには、外から見れば分かるが、各階と同等以上のスペースがあるはずだった。
そこに何があるのか。
民間であっても、ドラクラスの“噂”を知る者は、口を揃えて口を閉ざす。
ドラクラスは恵まれた環境である。
誰もが下手に藪を突きたくはない。
「ぎっ、……ぐっ、むっむっ、……た、たすけっ、けてっ……!!」
この異世界の魔導士隊や魔術師隊は、元の世界で言うところの警察にも当たる。ヒダマリ=アキラの国で最もイメージが近いのはそれだが、もしかしたら消防や自衛隊、他国では軍隊と呼ばれるものかもしれない。
今、いたいけな少女が生命の危機を感じ、必死に救助を願っているのだが、そんな彼ら彼女が大量にいるというのに、誰も見向きもしていなかった。
「“山の中”には本当に見えないな……」
ヒダマリ=アキラも同様に無視を決め込みながら、改めてドラクラスを見渡して零した。
ありえない光景がそこにあった。
高い夜空、地面には土が敷かれ、少し歩いていけば商店や居住が並ぶ街並みがある。
“そんな当たり前”が山の中にある。
空気も澱んでおらず、どういうわけか時折風すらも吹いているような気がした。
何かの中に入ったという実感がまるでない。
言うなれば巨大な洞窟のような場所のはずなのに、ただの岩壁を通過したかのような光景だった。
今は時間で言えば夜、ということになるのだろう。
天井の“空”は夜に染まり、何らかの仕掛けだろうが星すら見える。
アキラ自身、星座に明るいわけではないが、本物にしか見えなかった。
“外”としか思えないドラクラスの“中”。
命からがらようやく到着できたこの街は、この異世界で出遭ってきた異常の中でもトップクラスだった。
そんな光景を前に、早速声を大にして騒ぎ始めたいたいけな少女、アルティア=ウィン=クーデフォンは、小さな身体を勢いよく“この異常な当たり前”へ溶け込ませようと駆け出したところで、仲間のひとりにとっ捕まった。
それでもなお、陸に挙げられた魚の如く暴れ回ろうとしていたが、がっちりと決まった裸絞に、まさしく陸の魚のように、徐々に痙攣するだけになっていく。
顔が真っ赤から真っ青に変わっていくが、この一見残虐でしかない行為は、彼女が出す騒音を周囲にいる魔導士隊や魔術師隊も認識したようで、大半の人間が音響のボリュームを下げる手法のようなものだと捉えられていそうだった。
「まあそうね、少なくともここにいる奴らもこの街? に住んでいるんだろうし。人口もまあまああるんじゃない?」
かなりの規模になりそうなこの街を、まあまあと言えるのは彼女が世界有数の大都市の生まれであるからだろう。
救援を求める声から命乞いになりつつあるティアを気にもせず、気道を圧迫し続けているエレナ=ファンツェルンがさも鬱陶しそうに返してきた。
彼女はいかにも気だるげな声のまま、周囲の魔導士隊や魔術師隊をぐるりと見渡す。
彼らは今、何か異常事態でも起こっているのか右往左往している。
その数、ざっと見ただけでも百名前後。
ヒダマリ=アキラたちがドラクラスに到着して、最初に見た光景がこれだった。
もう数時間前のことになる。
最早原型を保っていなかったが、疾走する馬車に乗りながら、『剣』のバルダ=ウェズが操っていたと思われる黒煙を纏う魔物の群れに応戦し、ヒダマリ=アキラとその一行はドラクラスに到着した。
いつの間にかバルダ=ウェズがその場を離れていたのが大きいのだろうが、黒煙を纏う魔物たちの勢いは弱まり、街に到着する頃には掃討は終わらせていたのだが、遠方から見てでもしていたのか、到着したドラクラスでは厳戒態勢が引かれていた。
ドラクラスの前では魔術師隊が隊列を組み、巨大な門をくぐった直後も、魔導士隊の制服と、まるで戦争に行くかのような緊張感に身を包んだ者たちに出迎えられた。
そんな者たちに流れるように連れていかれ、つい先ほどまで、尋問のような面接を受けてきたばかりだった。
いつ終わるとも分からないまま、同じような話を何度もし、いよいよエレナが暴れ出しかけたそのとき、共にドラクラスへ到着した魔導士が手を回してくれたのか、ギリギリのところで解放されたのだった。
アキラたちをこの場所まで連れてきた、その魔導士、アラスール=デミオンという女性は今も姿が見えない。
あの右往左往している魔術師隊の群れの中、何らかの報告でもしているのだろうか。
アキラは頭を軽く振った。頭痛がするのは気のせいではないだろう。
一昨日から情報過多だ。
念願の再会、不審な依頼、突然の魔族襲来ときて、今度はこの異常な都市である。
旅の終着地であるヨーテンガースの南部に来た途端にこれだ。
アキラの頭はパンク寸前か、もしくはとっくに壊れていて、そのことに気づいていないかのどちらかだろう。
しかし、それでも。
それ以外にも、いや、恐らく、それ以上に考えなければならないことがある。
「もう見限りましょうよ。街に着いたら自由行動ってことでいいんでしょ? このガキじゃないけど、私もここからとっとと離れたいのよね。鬱陶しいし」
「あいつらも遅いしな……。ここ、宿はあるんだよな?」
このドラクラスでの依頼を請けてくれ。
大まかにはそう頼まれたアキラたちだが、どたばたの中で早速アラスールと離れてしまった。
伝言では、また改めてアラスールから連絡するとのことだったが、長らく旅をしているとはいえ、アキラたちもこんな特殊な都市を訪れたのは初めてである。
右も左も分からぬアキラたちは、せめて最初くらいはアラスールの助力を頼りたかったのだが、現在彼女も想定外だったらしいこの騒動に巻き込まれていた。
結果として仲間のうち数名が宿を探しに行き、残りはそれまでアラスールを入口から少し離れた広場で待ってみるという別行動を取っているのだが、宿探しの面々は未だ戻ってこない。
彼女たちが歩いて行った方向は、見える範囲普通の街並みだが、何しろ異常の中身である。
一応この街に少しは滞在していた者も同行しているから変なことにはならないだろうが、その彼女も彼女で、あまり街を散策はしていなかったらしい。
「ま、なんでも当てにし過ぎるのは良くないってことよ。私、とっととシャワー浴びたいのよね。あいつらと別方向に行けば宿探しの範囲も広がるじゃない」
「……あっ、エレお姉さま、お散歩ですか? でしたらこのあっしが……、ぐっ、むっ、ぐぐぎっ」
「まあ、確かにあいつらも勝手が分からなくて困っているのかもな。よし。じゃあ俺はあいつらの様子を見に行くよ」
ジャキッ、と、鋭い殺気を感じた。
「……動いたら斬る、とでも言いたそうだな?」
「流石は主君様だな、従者のことをよく分かっている」
腰に下げた長刀に手を伸ばしたのはポーズだと信じたい。
この人混みの中でも目立つ赤い衣に身を包んだミツルギ=サクラは、それよりも特徴的だとアキラが思う鋭い眼を主君様に向けてきていた。
「なあ、サク。そうは言っても時間も時間だし、宿探しなら人手もいるだろ。俺も街を見てみたいし」
「この際だから分かりやすく言うが、私の役目はお前たち3人を見張っていることだと思っている」
「え。私も?」
きっぱり言ったサクに、エレナが顔を引きつらせていた。
魔導士や魔術師を鬱陶しがって苛立っているエレナは怒りそうだと思ったのだが、それ以上に、アキラやティアと同列に扱われたことの不快感が勝ったのかもしれない。悲しくなってくる。
だが、この3人がやろうとしていたことを考えると、この場に監督係を残していった彼女たちの采配は正しかったことになる。
「まあ、最悪エレナさんはいい。窃盗だのなんだのをしないのであれば」
「ちょっと。今日はひとまず様子見よ」
「……。だが、アキラ。お前だけは駄目だ」
エレナについては色々と飲み込んだらしいサクだったが、どうやらアキラを見逃す気は微塵にもないらしい。
エレナもこのままだと同列に扱われると思ったのか肩の力を抜いて大人しくなった。
生真面目なサクと、自分の欲望のためなら倫理と他人を犠牲にすることに躊躇いのないエレナの相性はすこぶる悪い。
だが、そんなふたりが、同じような瞳の色でアキラの顔を見つめてきた。
ヒダマリ=アキラは、数奇な運命を引き寄せると言われる日輪属性である。
火種があれば、大小様々な事件となり、旅の中幾度となく面々の前に立ちはだかってきた。
大きな街、大きな依頼ともなれば発生率はほぼ100%である。
そんな運命は、波乱万丈な異世界の旅というものに憧れていたアキラにとっても、今となっては頭を悩ます種である。
本人の意思に寄らず起こってしまうのだが、逃げずに乗り越えようとは思っているも、周りが巻き込まれるとなるとそれなりに考えなければならない。
特に今は、そんな面倒事は避けたいというのが面々の総意だ。
何しろ先ほどまで、街のひとつふたつ容易く消し飛ばすと言われる“魔族”と戦闘していたのだから。
「そういえばアッキー、もうお怪我は大丈夫ですか?」
エレナの絞め技からようやく抜け出せたらしいティアが、とことことアキラに近寄ってくる。
たった今命の危機に瀕していたとは思えない、あどけない表情をしていた。
彼女の方こそ先ほどの魔族戦でも命を落としかけたというのに、大した胆力である。
彼女の手厚い治療で鈍い痛みはあるものの、放っておけば治りそうだ。アキラはアピールで軽く肩を回し、ティアをじっと見た。
その瞳は、ガラス玉のように何の含みも感じられなかった。
なら、彼女は違う。
アキラは、周囲の魔術師隊の様子を伺った。
この話の方向は、都合が良い気がした。
「……そういや、エレナは大丈夫なのか? 魔族の攻撃受けてたみたいだけど」
「! なんと」
「ん? さっきの黒いのの話? 別に何でもないし、止めてよ、さっきまで散々話させられていたんだから。……ええぃっ、寄るなっ、今度は最後まで締め落としてやろうかしら」
ティアの頭をがっちりつかんで距離を取るそのエレナの手は、魔族の攻撃を払い除けたというか握り潰した手でもある。
相変わらずの異常な力を有する彼女は、言葉通り負傷はしていないらしい。あるいはもう治ったのか。
いずれにせよ、異常を超える異常である魔族と同等以上の力を有する彼女なら、もしかしたら。
「エレナから見てどうだったんだ? あの魔族……『剣』のバルダ=ウェズ。かなりやばそうな奴だったけど」
訊いた先のエレナより、隣のサクの方の気配が鋭くなった。
急に襲ってきたバルダ=ウェズは、今から請ける依頼に関わる可能性が高い『光の創め』という魔族集団の構成員である。
僅かにでも情報は欲しい。
サクもアキラと共通認識があるのだろう。
常軌を逸した力を持つ魔族を測るのは、同じ域の力を持つエレナの方が正確なのだ。
常人では理解できない、しようともしないそれを、エレナ=ファンツェルンはほぼ正確に測ることができる。
問題なのは、エレナがそうした説明をするのを大変面倒臭がることなのだが。
「ったく、随分真面目ね。んー……、まあまあ、って感じだったけど、多分本気じゃなかったんじゃない? 急にいなくなりやがったし、ほっときゃいいのよ」
そして説明がざっくりしているのも問題だった。
その上、まあまあと言われても、彼女の基準は高すぎて分からない。
ありがたいことに回答してくれたのだが、結局は『剣』のバルダ=ウェズの力は黒い煙の中だった。
アキラ自身、今までの魔族戦とは毛色の違う戦闘のせいか、直接剣を交えたというのに大してつかめなかったのだから、人のことは言えないが。
ただ、彼女も違う。
「サクはどうだったよ」
「?」
サクが目を細めた。
“不真面目なヒダマリ=アキラ”としては、露骨だったかもしれない。
だがアキラとは違い真面目なサクは、すぐに真剣に記憶を辿った。
「私もエレナさんと似たような印象だ。だが、それより私は奴の狙いの方が気になるな。いったい何のために襲撃してきたのか」
「ドラクラスへ向かう奴の様子見ってことじゃないのか? 今回の依頼、『光の創め』が関わるかもしれないんだろ。というかもう関わってきたけど」
「“それを魔族がやる”、というのがヨーテンガースだというならもう何も言えない。だが、“魔族が襲撃してきたんだぞ”?」
サクの回答は言葉遊びのようなものだったが、その主張は、少ないながらもこの世界の常識に染まってきたアキラには通じた。
“魔族”。
容易く村や町を滅ぼすとされ、無限のような魔力を持ち、人の基準で百度殺そうともせせら笑い、生物として別格の、異次元の化け物と言われている。
そしてアキラは、この旅を通し、そんな絵空事のような空想の存在が、何らそん色ない事実であることも骨身に刻まれていた。
この世界のいたるところで、人間の生活に深刻な被害を出しているのは、ほとんどが魔物である。
そして、その魔物を束ねる存在としても認識されているのが魔族なのだ。
サクが言いたいことはよく分かる。
魔族からすれば、人間の様子見など不要であり、その脅威の力をもって、ただ目的を達すればいいだけなのだ。
それこそ様子見であれば、魔物を送れば事足りる。
「まあ、魔族も変な奴がいるから、ってことでもあるかもな」
「そうだな……」
生返事をするサクは、依然として思考を働かせているようだった。
突如現れ、突如消えたバルダ=ウェズ。
旅の中で出遭った魔族には、他者から見れば妙な行動を取る存在もいた。
バルダ=ウェズも似たようなものかもしれず、その狙いを探るのは不毛かもしれないが、真面目な彼女には捨て置けないものなのかもしれない。
つまり、彼女も違う。
「アッキー、アッキー」
「?」
くいくい、とティアが自分を差していた。
次は自分に聞いてくれるのだと目を輝かせているのを見て、アキラは微笑み返した。
ティアは、僅か首をかしげ、にっこりと笑い返してきてくれる。
こういうとき、目先のことに反射的に行動するのが彼女の美点だと思う。
「あ」
ティアの命が救われたと思った。
恐らくティアに話を聞けば、瞬時に一定以上の音量に達し、そして瞬時にボリュームの調整が執行されていただろう。
事実エレナがピクリと動いたのをアキラは見逃していなかった。
そんな今際の際に立っているとはまるで思っていないティアの能天気な顔の向こう、待ち焦がれた人物が見えた。
自分でもよくすぐに気づけたと思う。
魔導士魔術師がひしめく中、落ち着き払った様子で歩み寄ってきたのは、同じく魔導士の制服に身を包んだホンジョウ=イオリだった。
軽く周囲を伺ったが、来るのは彼女ひとりらしい。
慌てふためき右往左往している魔術師たちを悠々とかわし、ようやくアキラたちのもとに辿り着くと、こちらを一瞥し、凛とした彼女にしては珍しく柔らかい、ほっとしたような笑みを浮かべた。
「やあ、待たせたね。サクラ、本当にありがとう」
「お前今、ここに誰も残っていないと思っていただろ」
「まさか。5割くらいは大丈夫だと思っていたよ」
サクの張り詰めていた気が少しだけ緩んだのを感じた。彼女もここにいる面々がいつ勝手に行動するかとひやひやしていたのだろう。
ホンジョウ=イオリは、アキラと同じ異世界来訪者でありながら、この世界の最高資格であろう魔導士である。
この面々の魔術知識の偏りをアキラたちとは違う意味で大きくしている人物だ。
特異な理由ではあるが、旅の知識すらアキラよりも多いとなると、ひとまず彼女の話を聞いておけば何事も安泰である。
そう思っているのだが、このイオリからしても、どうやらアキラは決して目を離してはいけない存在らしい。
「それで魔導士ちゃん。宿は見つかったのよね?」
「ああ、見つかりはしけど……、ふたりはまだ戻ってきてないか」
「? 見つかりはしたって……、あいつらは? 宿で待ってんだよな?」
イオリはまた後ろを振り返って見渡すと、今度はこちらに視線を走らせた。
何やら値踏みされているような気がした。
「この時間だからなのか、狭い部屋が3部屋しか取れなくてね。一応ふたりには他にも宿を探しに行ってもらったよ。早く休みたいだろうから、とりあえずは、って思って僕だけ戻ってきたんだ」
アキラはイオリが来た方の様子を伺ったが、魔術師たちがごった返す中に、残りのふたりの姿は見えない。
あのふたりも疲れているだろうに申し訳ない気持ちになってくる。
「じゃあ、お前らでその宿使って休んでてくれよ。俺は適当に泊まれるところ探すから」
「わわ、それならあっしもお手伝いしますよ!」
「サクラ」
「ああ」
ぴたりと背後に、アキラが何をやっても逃げ切れないサクが立った。
目を離すつもりはないらしい。
横目で見えるティアは、正面のエレナのどんな表情を見たのかは知らないが、死期を悟った子犬のような表情を浮かべている。
もしかしたらサクだけでなく、エレナも抑制力としてイオリたちに認識され始めているのかもしれない。
改めて見ると、マンツーマンでマークされているような気がしてきた。
そうなると、自分とティアはよほど警戒されていることになる。
不服だった。
ただ、アキラも申し訳ないと思うからこそ行動しようとしていたのだが、と思ったが、もしかしたらこの気持ちが善方向に強く溢れ出すとティアのようになるのかもしれない。
理解を超えた行動を取るティアの思考の一端を感じ取った気がした。
「……ところでイオリ、この騒ぎは何なのか分かったか?」
何を言っても藪蛇だと思い、アキラは話題を変えた。
聞きながら、どちらかと言えばそれは、宿を探してきてくれたイオリではなく、自分たちがやっておくべき情報収集のような気もした。
だが、そのはずなのに、イオリは事も無げに頷いた。
「ついさっき、以前モルオールに来ていた魔導士に偶然出会えてね。少しだけ話を聞けたよ」
ヨーテンガースの魔導士は、時折他の大陸に派遣されることがあるという。
他の大陸の魔術師には厄介事を持ち込まれると揶揄されることもあるそれを、イオリも何度か体験しているらしい。
ただの偶然なのか、あるいはイオリは宿探しを早々に切り上げ、情報収集のためにこの魔術師の群れの中で聞き回っていたのかもしれない。
後者の場合は、なんだかんだで、こちらはある程度放っておいてもよいと考えていたのだろうか。
「詳しい話はもう少し整理してからの方がいいだろうけど、どうやら指示が出たらしい。ドラクラスの防衛を緊急レベルに引き上げる、とかなんとか」
「それは、私たちとあのバルダ=ウェズがここから見えたから、ということか?」
「“いや、そういうわけでもないらしい”」
「?」
「あまり時間は取れなくてね。その辺りの事情はまた詳しく聞いてみる必要がありそうだ。僕もまだ完全に飲み込めているわけじゃない」
そう言って、イオリはアキラをじっと見た。
アキラの脳裏に、先日、“ヨーテンガースの魔導士”から聞いた話が蘇る。
知れば知るほど論理的な魔術という存在。
魔導士とは、その最先端に位置する存在だ。
だが、ヨーテンガースでは、その魔導士たちが、非論理的で不確実にしか思えない指示に基づき行動することがあると。
指示に従う者は、あたかも、魔術の理を外れた魔法のような感覚に陥るらしい。
他の大陸では魔術的。ヨーテンガースでは魔法的。
“彼女”はそう表現していた。
アキラはまた周囲を伺った。
ようやく到着したドラクラス。
ここには、その魔法の最たる例であるかもしれない、『接続者』がいるという。
「じゃああれか、このあとまた何か起こるってことか?」
「なのかな? 僕も具体的に何が起こるかまでは聞けなかったけど、まあ、今の騒ぎはそのせいらしい。気を張って待っていたところに現れたのがボロボロの馬車と僕たちだった、というのが彼らの現状さ」
それが本当だとすると、適当に決めた待ち合わせ場所のここは、入ってきたとき見た光景そのままに魔導士たちが整列しているであろう入口に近すぎる。
その入ってきた当人たちということで見逃されている感はあるが、周囲には民間人と思しき人はいなかった。
余計な騒ぎに巻き込まれる前に、自分たちもここを離れた方がいいかもしれない。
「でも、あれからどれだけ時間経ってると思ってるのよ。これ以上何かあるならとっくに起きてるでしょ。アキラ君がいるのよ?」
「だよな」
自分で言っていて空しくなるが、アキラの有する日輪属性は、トラブルの種の判定機のようなものだ。
しかもその判定機は、地雷の検知をするのではなく踏み抜くタイプである。
「まあ、どの道この騒ぎじゃ聞けない話もある。僕たちはこのドラクラスを知らな過ぎるからね。……アラスールはまだ解放されていないみたいだし、今日は大人しくしているのが賢明そうだ」
アラスール=デミオンの姿は未だ見えない。
しばらく旅に同行してもらった過去もあるとはいえ、アキラは彼女のことをほとんど知らなかった。
報告やら何やらをしているらしいが、終わった後合流できる保証もない。
イオリの言う通り、まずは宿で夜を明かした方がいいだろう。
流石にアキラも疲れている。
「それで、そっちは何の話をしていたのかな?」
「……ああ、さっきの話だよ。バルダ=ウェズの。あいつは一体何をしに来たんだろうな、って」
「それについては僕も頭を悩ましているよ。ある程度の推測はあるけど、真剣に考えるべきだろう。ただ、依頼が本格的に始まるまでは、情報収集も兼ねて街を見回ってみたいかな。色々楽しそうだ」
冗談めかして言ったイオリは、遠方に見える“柱”を眺めた。
あそこから“2階”とやらに登れるらしい。
明日にでも、あの柱の麓へ行ってみたいとアキラは純粋に思っているが、恐らくイオリはそんな観光気分ではなく、魔術師隊の支部やらなにやらに足しげく通うつもりだろう。
ただ、恐らく彼女も、違う。
「ん……?」
そこで、慌ただしい魔術師たちが一層ざわめいた気がした。
先ほどイオリがやってきた方とはまた別の方向から波及しているらしいざわめきは、こちらをまっすぐ目指してくる。
彼女たちが視界に入り、その理由が、ますます分からなくなった。
服装と色合いだけが違うふたりの女性が歩いてきた。
エリサス=アーティと、その双子の妹マリサス=アーティ。
瓜二つの彼女たちが並んで歩いているだけでそもそも目を引くのだが、その上、妹のマリスはイオリと同じ魔導士である。
制服は中に来ているであろうがだぼだぼのマントを纏い、遠目から見ればのんびりと歩いているような姿はイオリとはまた違った落ち着きを感じさせる。
周囲は瓜二つのふたりが歩いているからざわめいているのか、あるいは“数千年にひとりの天才”と言われるマリスの姿に慄いているのか分からないが、隣の姉、魔術師隊に並々ならぬ敬意を持つエリーは、その様子にいつも以上に委縮しながら恐る恐る歩いていた。
ただ、このざわめきが、あの双子が歩いてきたことが原因かと思ったアキラは、違和感を覚える。
なんとなくの挙動だが、道を開ける魔術師たちは、ふたりというよりエリーを避けるように動いているような気がした。
「お待たせ。サクさん、イオリさん、本当にありがとう」
「お前イオリと全く同じこと言っているからな」
「あのねぇ。集合場所に来たらひとりきりのことが多いあたしの気持ちが分かる? 宿を探しているときも気が気じゃなかったんだから」
ほっと息を吐いたエリーに口を挟んだら、遡及して何かを怒られそうになった。
魔術師隊に囲まれていた緊張感が多少は和らいでいるらしい。刺激しない方がいいだろう。
「アラスールさんはまだ報告中なのかな……。あたしで手伝えたらいいんだけど」
「放っておいていいと思うっすよ。アラスールさん、そういうの嫌いとか言っているけど、ひとりでやった方が早いタイプっぽいっすし」
気苦労が絶えない姉の横、同じ顔をした妹が、のんびりと言った。
魔導士のマリスはアラスールと同じ部隊らしい。
その彼女が言っているのなら放っておいた方がいいだろう。
と、気楽に考えるアキラとは違い、エリーは気になるらしい。
ちらちらとアラスールが入っていったと思われる建物に視線を走らせては、小さく息を吐く。
「まあエリサス。多分僕らに手伝えることはないよ。それより宿は見つかったのかな?」
「あ、それなんですけど、いくつか探してみたんですが、どこも埋まっているか受付してなくて……。もっと奥に行けばあるかもしれないんですが……。それで、マリーと相談したんですよ」
「宿じゃないんすけど、一応自分に当てがってくれた部屋があって、もうひとりくらいなら泊まれそうだと思うんすよね」
「なので、あたしがお世話になった方がいいのかな、って。だからサクさん、イオリさん、また、お願いします」
同じ顔が交互に話すのは、正面で見ているとちょっとした感動を覚える。
遠目に見てもそうなのか、周囲の魔術師たちの視線を先ほどまでよりも強く感じた。
話していることは、恐らくアキラにとって不名誉なことのような気もするが。
ただ、恐らくその場合。
「お前、大丈夫なのかよ?」
「え? 何がよ。…………あ。というかあんた、忘れてないわよ、昨日のこと」
「なら、いいけど」
「む」
話を逸らそうとしていると思われたのか、エリーの目つきが厳しくなる。
昨日まさに、彼女を集合場所にひとり置いてけぼりにしたばかりだった。
その後フォローしろと従者様に厳命されていたが、それすらしていないアキラは、サクからも睨まれていることに気づいた。
「ま、決まったならとっとと行きましょうよ。いい加減ここ鬱陶しいわ。案内して」
「こっちです。マリー、あたしたちも同じ?」
「途中までは方向一緒っすね」
周囲から特異な視線を感じながらも、面々は歩き出す。
確かになんにせよ、このドラクラスを知らなければ何を考えても無駄であろうし、疲れたままで考えてもいい結果にはならない。
だから今、これ以上考えるべきことはないはずだった。
「そうそう、さっき話してたんだけど、あのバルダ=ウェズ、一体何のために現れたんだろうな?」
さりげなく先導するエリーとマリスに追いついて、アキラは軽く聞いてみた。また、露骨だったかもしれない。
同じ顔が、同じように眉を寄せる。
先ほどイオリと行動していたふたりも、もしかしたら同じような話をしていたのかもしれない。
「……ああ、あんたが無謀に飛び込んでいったとかしたやつ?」
「棘があるな。反省してるって」
「まあ、何か狙いがあったんでしょうけど、分からないわね。というか、さっきも魔導士の方々に同じ話したじゃない。あたしたちは……、明日考えましょう。もう、考えることが多すぎて……」
内輪でなら話せるような話があるというわけでもないらしい。
エリーもエリーで、この数日で立て続けに起こっている事態に頭がパンクしそうになっているようだ。
彼女の性格的に、アキラよりもずっと深刻かもしれない。早く身体を休めたいのだろう。
だからこそ大丈夫なのかと思ってはいるが。
アキラがマリスに視線を走らせると、彼女もまた、同じ顔で何かを考え込むような表情を浮かべていた。
先ほど全員で魔導士たちに話した、バルダ=ウェズの出現。
特異な運命にある日輪属性のアキラが呼び込んだ騒ぎと言えばそれまでだが、それでも、突如現れ、そしていつの間にかいなくなっていたバルダ=ウェズの狙いは、誰も分からなかった。
「……」
依頼については、アラスールがまた改めて自分たちを訪れるだろう。
ドラクラスについては、明日にでも街を見回ってみればいいだろう。
今はこの疲労を取ることが先決だ。
だから今日はもう休むべきで、これ以上考えるべきことはない。
だが、気づけば足が緩んでいた。
いつの間にか最後尾を歩いていたアキラは、慎重に入口の方を振り返る。
右往左往する魔術師隊に埋め尽くされる、変わらず閉ざされている入口に、アキラはほっと息を吐いた。
「バルダ=ウェズの狙いはこちらの全滅だった」
アキラは、小さく呟く。アキラは、確信していた。
誰もが分からないと言った、バルダ=ウェズの狙いを。
それは、アキラだけが気づき、そして他の皆には味あわせたくない悪寒だった。
バルダ=ウェズは、本気でアキラたちの撃破を狙っていた。
様子見という意味もあるにはあっただろうが、その中で、そのまま撃破できるとバルダ=ウェズは判断していた。
だからこそ、一度撒いた後も追ってきたのだ。
そして、その上で、“止められたのだ”。
「……」
歩く面々の後姿を見つめ、アキラは喉を鳴らす。
さりげなく訪ねてみたが、やはり。
みんな、違う。
“聞いていない”。
「……誰も聞こえなかったのか、あの“聲”が」
―――***―――
「?」
「……、…………、……………………」
アキラは、変なものを見つけた。
翌日。
アラスールからの連絡はなかった。
そもそも自分たちが泊った宿も知らないのだから、用があってもどうしようもない気もするが、それを気にしてばかりいてももっと仕方がない。
異常な都市ドラクラスへ辿り着き、一晩経っただけだが、アキラの感覚は思った以上に落ち着いていた。
街を見もしないのに何がと言われれば確かにその通りなのだが、疲れもあって泥のように眠った宿は、外観も内装も今まで訪れた町や村と特に変わるところはなく、起きた頃にはすっかりいつも通りの朝を迎えられた気がする。
考えることは山ほどある。
念願叶って再会できた仲間のこと。
ドラクラスの“引っ越し”のこと。
“魔王の弟“のこと。
そして、『光の創め』のこと。
だが、とりあえず、このドラクラスのことについては見回ってみれば何とかなると楽観的に捉え始めていた。
そんな感覚は仲間内でも同じようで、皆、特に普段の行動と変わらないように過ごしているようだ。
サクとイオリは情報収集と言って、恐らくは魔術師隊の支部か何かだろうが朝早くいずこかへ出かけ、エレナもいつも通り街へ買い物か何かに出かけ、そしてもっといつも通りティアは消息不明だった。
恐らく誰もがドラクラスという街の様子を見て、夜にでも話して聞かせてくれるだろう。
アキラが感じたことと言えば、宿からの道中というだけではあるが、見た限り、このドラクラスは本当に普通の街と同じだった。
作り物であるはずの空は着色しているのかそうなるような色合いの灯を使っているのか澄み渡るように青く、鳥の囀りは幻聴かと思っていたのだが木々の上に実際に巣作りをしており、さわやかな風が吹き、湧き水なのか川が流れている場所もある。
公園のような広場もあり、世話しなく商品を運ぶ商人やら、子連れの主婦やら、家の野先に座ってのんびりと街並みを眺める老人やらと、住民たちも老若男女と揃っている。
宿で目を覚ましたアキラが、寝ぼけて窓から見上げた空は、紛れもない本物に感じた。
このドラクラスで生まれ育ち、外を知らない者がいても、確かに不自由なく暮らせるだろう。
アキラとは言えば、今日は殊勲にも昨日の解散時の言付け通りに動いていた。
彼女が言うに、本日は、みんなで街を見て回りたい、ということだそうだ。
「……」
目的地に到着すると、広間の中央、噴水らしきものが添えつけられた小さな池を、エリサス=アーティが懸命に髪を撫でつけながら覗き込んでいた。
「よ。マリスは?」
「―――っ」
思わず彼女の背に垂らした1本に束ねた赤毛を掴みかけた。
背後から声をかけた瞬間、エリーはそのまま池に頭から飛び込みかけ、辛うじて後ろからつかめた襟で抑えると、彼女はぐえっ、と蛙が潰れたような声を出した。
本人には言わない方がいいだろう。
息も止まるかというような表情で振り返ったエリーは、胸を抑えていた。
驚かすつもりはなかったのだが、申し訳ないことをした気がしてくる。
「あ、あ、あり、がと。珍しく、は、早いじゃない……、ふ、ふふ」
「……どうしたよ? ……ひとりか?」
不気味に笑うエリーの周囲、同じ顔のマリスを探すがやはり見当たらない。
エリーを見ると、彼女は視線を外して、さりげなく髪を撫でつけていた。
「……ふ、ふふ。そう、いっつもひとりよ……。……って、え。……マリーはなんかアラスールさんに呼ばれてどこかへ行っちゃったんだけど、そっちこそ、みんなは?」
「サクとイオリは謝ってたよ。エレナは何か用? って顔で見てきた。ティアは知らない」
「…………」
放心間際といった表情を浮かべたエリーは、じっと何やら考えたように目を細め、すると何か思い至ったように、またさりげなく髪を撫でつけた。
以前エレナも似たようなことをしていたが、アキラの目には何が変わっているのか分からない。
「珍しいじゃない。あんただけで来られるなんて」
「子供扱いされている……」
「おー、よしよし」
こちらを撫でる真似をするエリーは、得意げに笑っていた。
先ほど思考のすべてを放棄したような表情を浮かべていたとは思えない。
「で、どうすんだ? ふたりしかいないけど」
「せっかく……、珍しくあんたが来たんだもの。活かさなきゃ」
ふん、と息を入れたエリーは妙に気合が入っているように見えた。
彼女はアキラのひとつ年下である。
この面々の中の常識人ということもあり、いつも気苦労の絶えない彼女だが、時折、こうした様子を見せることがあり、そんな表情を見ると、アキラも肩の力が抜けるような感覚を覚えていた。
「とにかく、あたしたちには情報が足りないわ。依頼のこともそうだけど、何よりこのドラクラスね。それに、昨日のこと。相談しないといけないことが山積みよ」
「とは言っても、俺じゃなあ」
「自信満々に後ろ向きね。まあ、あたしも期待してないけど。……そうね、ふふ、相談しないといけないの……、いけなかった、のよ」
自虐をしたのはアキラだが、エリーも得意げに残酷なことを言ってくる。
いっそ解散してやろうかと思ったが、いじける彼女が不憫だし、何よりそうすると、彼女への待ち合わせに関する信用の借金がまた増えるような気がした。
アキラが今日ここへひとりになってでも来たのは、従者様のありがたいお説教の結果であるということは言わない方がいいだろう。
ただ、エリーが言っていることはもっともでもある。
依頼を抜きにしても、ここはヨーテンガースの南部。
魔王の牙城は目前だというのも大きいが、そもそも世界的に見ても危険地帯なのだ。
昨夜魔族に襲撃に遭うという異常事態に見舞われたが、もしかしたらそれすらここらでは日常の一部という可能性すらある。
そんなことをエリーも思っているのか、また、よく見る、気苦労の絶えない表情を浮かべていた。
恐らくまともに眠れていなかっただろう。もしかしたら、アキラも人のことは言えないが、ここ数日そうである可能性すらある。
それでも彼女は、今日も骨身を削って、みんなのために駆けずり回る気でいるのだろう。
「依頼のこと。ドラクラスのこと。昨日の『光の創め』のこと。もっと言えば、ヨーテンガースの南部のこと。お祭り状態ね、楽しくなってきたわ。さあ、踊りましょうか」
心労で壊れかけたエリーが不憫に思えてくる。
「まあ、なるようにしかならないだろ。一辺には無理だ。何でもひとつずつ片付けていくしかない」
「そうよね……、そうなのよね……ふふ」
そして、そんなときに猫の手程度にしかならないアキラしかいないのが本当に申し訳なくなってくる。
そもそも、東の大陸から世界を周る旅を共に始めた彼女にとっても、今この場所まで来たという事実は重い。
その上で、エリーが言っていることはすべて我が身に降りかかってきている問題だ。
アキラですら、様々なことが立て続けに起きて混乱している。
依頼、ドラクラス、『光の創め』。再開したマリスのこともそうだ。
まだまだある。
そして。
「……」
間もなく、この長い旅は終わる。
根が真面目な彼女の心労は、きっとアキラとは比べ物にならないかもしれない。
そして、この旅の終点。
エリーは知らない。
ヒダマリ=アキラにとって、この旅は、結末を知ってから始まっている。
「…………いっそさぼるか」
ぽつりとアキラは呟いた。思わず口から出た言葉だった。
沈み始めていたエリーは表情を変えずに見返してくる。
「みんな好き勝手やってるみたいだしさ」
「あの」
「何にも考えず適当に街を散策すればいいんだって。とりあえずドラクラスを知りたいんだろ?」
彼女のことだからイオリに倣って魔術師隊の支部へ向かおうと言い出しかねない。
ただ、様子を見るに、彼女は疲れている。
身体を休めるのは抵抗が強いだろうが、仕事を抜きにして街を回るのは精神的には多少楽になるだろう。
彼女の視線が、ちらりと遠くに見える“柱”に走ったのをアキラは見逃さなかった。
エリーは、むっ、と押し黙り、何やら考え始める。
彼女のことだから今日も情報収集にいそしむサクやイオリに後ろめたい気持ちが沸き上がっているのだろう。
アキラの言葉は悪魔の囁きのようなものだ。
しばしして、エリーは短く息を吸った。
そしてアキラをじっと見て、意を決するように口を開いた。
「……一緒に、よね?」
「ああ。そのつもりだよ」
ここで、別行動を取るつもりだった、と言ったら何を言われるか。
そんなからかうような言葉が頭を過ったが、アキラは思考の隅に追いやった。
多分、言うべきではない。言ってはいけない。
何しろ本心でもない。
旅は間もなく終わる。
だからきっと、アキラは答えを出さなければならない。
「行こう」
「え、ええ」
エリーの気晴らしに付き合うべく、当てがあるわけでもないが、とりあえず、遠目に見える巨大な柱を目指した。
広場を抜けると、住宅街と思しき道に入った。
入口から離れていくルートだ。
ドラクラスの奥へ行けば行くほどのどかな空間が広がっているのだろうか。
エリーは僅かに申し訳ないような表情を浮かべていた。
気の持ちようが違うだけなのに、彼女にとって情報収集と散策は違うもののようだ。
だがそれも徐々に薄まっていったようで、隣の彼女の横顔は、晴れて見えた。
「そういえば。そっちはどうだったの? よく眠れた?」
「まあ、ほどほどにな。多分、お前よりはよく眠れた」
「うっ」
エリーが顔をそむけた。
注視すると気づく程度だが、エリーの目に、隈ができているような気がする。
必死に髪を整えていたのも、あまり朝時間が取れなかったからなのだろう。
「分かる、ほど? あんまり見ないで……」
「だから大丈夫かって聞いたんだよ。マリスが泊っている部屋って、つまり魔導士隊の人たちもいるような場所だろ?」
「あたしも後で気づいたわ……、分かってたなら止めてよ」
止めたつもりだったのだが、それを言うと色々と蒸し返されそうな気がしたので口を噤んだ。
エリーは、目指しているだけはあり、魔導士や魔術師に対して並々ならぬ敬意を持っている。
そんな彼女にとって、妹と共にいるとはいえ、そんな場所で気を緩めるのは難しいだろう。
長時間の移動と戦闘の直後で溜まった疲労は、彼女の目と少しだけ乱れた髪に浮かび上がっていた。
「アラスールには会えたのか?」
「会えたというか、マリーと同じ部屋に泊まってたのよ……。あたしたちが部屋についてからしばらくして戻ってきたわ。なんか、召喚獣でドラクラスに接近したことを問題視されたとかでめちゃくちゃ機嫌悪かったわ。仕方ないのにね? ……ま、とりあえず問題なくなったみたい。とりあえず、あのとき言ってたまま。また連絡するってさ。自由行動ってこと」
「じゃあ俺たち合ってんじゃん」
「……ふ」
「なんだよ?」
「あんたも疲れた顔してるから」
「俺にも目の隈と寝癖があるのか?」
「え。……うぅー。やっぱり分かる……? ……さいあく。よりによって……」
彼女の視線がちらりと民家の窓ガラスに走ったのを感じたが、アキラは気づかないふりをした。
彼女が満足する身だしなみを整えるまでどこかへ行っていた方がいいかと思ったが、また目を離すとうんたらと言われる気がしたので、大人しく同行することにした。
教育というものの基本は繰り返すことらしい。身をもって学んだ気がした。
「まあ、それでもまた早朝からまたお仕事に行ったアラスールさんよりましかもね。……疲れているところ悪かったけど、昨夜も色々教えてもらえたわ。マリーの同僚の、他の魔導士の方々にも話が聞けた。少しはドラクラスに詳しくなれたかも」
「おお、よかったな。代償を払っただけはある」
顔を見てそう言うと、ほとんど反射のように顔を背けられた。
経験値からか、彼女の顔はそのあと怒りを浮かべてこちらを向くだろうなと思ったら、その通りになった。
「冗談だって。そんなに分からないし」
「……ほんと? 言い方は気になるけど。……はあ……、鏡欲しい」
「お前は考えること多いだろうしなぁ」
そう言うと、エリーはまた少し睨んで、しかし諦めたように息を吐いた。
「そうなのよ。この数日、情報量が多すぎて、机にでも向かって整理しなきゃ頭ぐちゃぐちゃになりそう。……って、やめやめ」
それでその寝癖になったのか、という返答を思いついたが、それを言うと拳を見舞われても文句は言えないような気がしたので自重した。
そしてこれを言うともっと怒られそうな気がしているので言わないが、アキラの目から、エリーの容姿は、疲れている様子は見て取れるが、いつもとほとんど変わっていないように見えている。
「とりあえず今はいいわ。あの柱の方が気になって気になって」
「お、珍しいな」
「もうたまにはいいかなって思ってきたわ。何も考えず人への迷惑も考えず、自分が思うままのんびり散歩するあんたみたいな生き方をするのも」
「……寝癖」
「えっ、どっ、どこっ!?」
何とか痛み分けに持ち込めた気がした。
からから笑うと、からかわれていることに気づいたエリーは表情豊かに恨みがましく睨み、怒り、笑った。
民家が続く通りは、時折小さな道が枝分かれしている。
それらを横目に、極力大通りを通るようにしているアキラたちの目指す先には、住宅街とは違う毛色の派手派手しい建物がずらりと並んでいるようだった。
あの辺りから商業街なのだろう。
昨夜も遅くになっても向こうの方から光が漏れていたような気がする。
「そういやお前、大きな街慣れてないんだっけ? 前にシリスティアではしゃいでたとき言ってたような気が」
「え? ……あー、言ったような気もするけど、今更よ。今までいくつの街に行ったと思ってるの」
「数えてみるのも面白いかもな。まずは……、ええと」
「ふん、しょうがいないわね。ええと……アイルークは、」
真面目に思い起こそうとして、アキラがそもそも言っただけで考えようともしていなかったことに気づき、エリーは微笑んだまま軽く肘を入れてきた。
何も考えないということはこういうことだと言って見せると、彼女はにっこりとして、強めに肘を入れてきた。
住宅街を抜けかけたのか、所々に小さな店が見え始めてきた。
徐々に柱に近づくと、また活気を感じ始める。
アキラがドラクラスの街並みをざっくりと思い描くと、入口と柱の周囲が商業街であり、その他が住宅街というような都市設計になっているようだ。
歩きながら、とりとめのない会話を続けて、アキラは再認識した。
エリサス=アーティという女性は、感情と表情が密接に連なる。
あるいは、大きい感情の起伏がそうさせるのかもしれない。
嬉しいときは笑うし、悲しいときは分かりやすく沈んでいるし、怒っているときは目つきが強くなる。
真に怒りが上ると無表情になるが、その被害の最たる例のアキラは、話していると、その中にも優しさが感じることができる。
彼女にもきっと思うところはあるだろう。
だがその表情が、微笑みが、心からのものであるとアキラには感じられるのだ。
商業街は、遠目からの印象よりは賑わっていなかった。
それなりに人は多かったが、開いている店は数軒置き程度で、そういう場所なのか何らかの企業のものか、背の高い建物が多く見える。
時間も昼前。中で働いている人が多いのかもしれない。
早めの昼食をと店に立ち寄って、時間が外れているからとおまけしてくれたときも、最初は断念した手鏡を、2件目の店で安く売っているのを見つけたときも、彼女は小さな幸せを噛みしめているように微笑んでいた。
楽しいと感じてくれていることが、すぐに伝わる。
数分後には、何の話をしていたか思い出せない。
それでも、そんな彼女が隣にいて楽しかったという想いは残る。
そう思うと、アキラの胸は未だ、鈍い痛みを発する。
それが多少は和らいだのは、時間のお陰だけではないと感じていた。
アキラは、あれだけ遠くに見えた柱に到着して、空を貫いているかのような光景を見上げて息を吐いた。
自分は、彼女の故郷で、似たような高さの塔からこの異世界に現れた。
「ありがとな」
エリーの息抜きに付き合っていたはずのアキラから、自然に言葉が漏れた。
聞こえなくても構わないし、きっと彼女もそうかもしれない。
だがエリーには届いたらしく、少しだけ迷って、得意げな表情を浮かべた。
彼女は根が真面目だ。
自分のためだけに、何も考えず人への迷惑も考えず、自分が思うままのんびり散歩するのは、むしろ難しい。
「気晴らしになってるなら、よかったわ」
エリーの言葉は呟くようだったが、アキラにはしっかりと聞き取れた。
彼女の言葉であり、自分の言葉でもある。
柱は、近づいてみると想像以上に巨大だった。
丸みを帯びており、円とすれば直径十数メートルはあるだろう。
遠目から見た印象はグレーに近い白だったが、麓付近では塗装が剥げ、実際は土色のようだ。
ここをどうにかして上ると、“2階”とやらに着くらしい。
突発的に駆け上りたいような激情にかられるが、同時に、彼女とふたり、のんびりと見上げていてもいいような気もした。
ひとつずつ片付けていくしかない。
これも、自分の言葉だった。
「そういやはっきり言ってなかったな。……悪い、リリルの勧誘、失敗した」
「そ。じゃあ、目いっぱい反省して。あたしも一緒に反省してあげるから」
彼女はそれだけを言った。
これ以上はお互い何も言うべきではないだろうとアキラは思い、そして、エリーもそう思っているとも感じた。
「……ん?」
そこで、周囲のざわめきを感じた。
「あれ。なんで……、人が……?」
思わずといった様子でエリーが歩み寄ってきて、アキラも思わず庇うように立ってしまった。
気づけばいつしか、民間人と思われる数十人が周囲におり、中には大きな荷台のようなものを引いている者もいくらかいる。
眉をひそめて様子を伺うと、彼ら彼女らは、アキラたちの様子を気にもせず、まるでかつて神のいる街で見た信仰者のように巨大な柱を見上げていた。
「なんだ……?」
「ん? 何か聞こえない?」
音は、柱から漏れているようだった。
重々しい何かが擦れるような音と共に振動が届き、それも徐々に大きくなっていく。
より一層警戒したいところだったが、周囲の人々は慣れた様子で、地面に下ろした荷物をのんびりと担ぎ上げている者たちもいた。
「……あ、そういうことなのか?」
「なに。なによ」
音が、より一層の振動と共に柱の麓で止まった。
するとしばしの間のあと、ぴしりという音がするかのように柱に数メートルの亀裂が縦に入った。
どうやら柱には巨大な扉がついていたらしい。
亀裂からゆっくりと柱が開くと、中からは今この場所にいるのと同数程度の人や荷台が現れた。
「え。あの人たちは……?」
「多分、“2階”とやらから来たんだろ」
「へ?」
この柱で2階に行けると聞いて、アキラは中が螺旋階段のような構造になっていると想像していた。
だが、実際は元の世界のエレベーターのようなものだったらしい。貨物用としてもいささか巨大ではあるが、このドラクラスの“柱”の太さを考えれば妥当だろう。
もちろん仕組みはさっぱり分からないが、この世界の魔力という動力を使えば実現可能らしい。
今まで見たことはなかったが、もしかしたらどこかの街の高い建物にも似たような仕組みのものがあったかもしれない。
どうやらこの柱は、時間で決まって上と下を往復しているようだ。
“2階”は諦めようかと考えていたところだったが、ここに到着してほどなくして定刻になったとなると何か得をした気分になれる。
慣れた様子で柱から出てくる人々と、行儀よく待つ周囲の人々の中、アキラと柱の人々を見比べて赤毛を揺らしているエリーが妙に面白く見え、アキラは落ち着きのないエリーの様子に、とりあえず気づかないふりをしてみた。
「ねえ。ねえ」
「……あれ。お前が知らないってことは、この世界には…………ん?」
ピリ、と視線を感じた。
周囲を見渡すが、誰のものかは分からない。
こういうことは珍しい。
ヒダマリ=アキラの有する日輪属性の力の一部に、言ってしまえば目立つ、というものがある。
旅の中、たびたび人と目が合うのもその影響で、こうした街の中に紛れても、大体は誰かしらに見られることが多かった。
そのせいで人の視線に妙に敏感になっている気もする。
ただその場合、大抵は自分を見た人物と目が合うのだ。
しかし今、視線の正体が分からない。
群衆に紛れてしまったのだろうか。
いや、どちらかというと、その群衆そのものから見られているような気もした。
そしてそれも徐々に派生するように、今まで周囲にいた人々からも点々とした視線を感じるようになった。
「ねえ、ちょっと、なによ」
本当に表情がころころ変わる。
いよいよむくれたように袖を引っ張り始めたエリーは、アキラ以上に視線を集めているように見えた。
もしかしたらこれが原因かもしれない。
深くは考えず、アキラはエリーを連れて、周囲の人々と共に空になった柱に向かった。
柱の中は、柱より一回りほど小さいようだが、それでも十分すぎるほどのスペースが確保されていた。
それ以上にアキラが驚いたのは照明だった。
やや高い天井から照らされているようで、光量は多く、それでいて目が疲れるほどでもない。
柱の中の壁は、外のはげた塗装が見せてくれたように、土色をしているようだが、匂いはむしろ鉄製のものが混ざっている。
だが、空気も澱んでおらず、まさにドラクラスに訪れたときに感じた、中なのに外、という印象だった。
「ちょっと、これ、入っちゃったけど、何なのよ」
そんな感動よりも、理解できないものが目の前にあることが許せないらしい。
彼女が騒いでいるせいか、共に乗り込んだ人々も自分たちからやや距離を取っている気がする。
しばしして、グ、と地面が揺れた。
先ほどの周囲を擦るような音が聞こえると、エリーはふと、騒ぎを止めた。
「そうそう、この世界って無いのか? エレベーター。なんて言うかな、上に登る地面? とか言えばいいのか?」
「……え。あ、に、似たようなの、き、聞いたことはあるけど、え。でもあれって、ちょっとよ、ちょっと」
「ちょっと?」
「1階から2階、とか、え、何。じゃあ今あたしたち、あの高い柱を、昇って……?」
現実が呑み込めていないようだが、身体を襲う浮遊感は現実だと訴えているだろう。
アキラも感じているが、思った以上に速い。
この様子なら“2階”とやらにはすぐに着くだろう。
やや青い顔をして、エリーはアキラを見上げてきた。
「お前、高いところ別に怖くないだろ」
「は、はは、き、気づいた? そ、そうよ、冗談よ……。怖いわけ、ないでしょう」
からかい半分に乗せたのが申し訳なくなってくるほどエリーの顔が青くなっていく。
「お前イオリの召喚獣に散々乗っておいて」
「だ、だだだってイオリさんでしょう?」
「…………。これも、ヨーテンガースの魔導士が手掛けてるんじゃないのか?」
「……そ。そうね。そう。グリンプさんが関わっているかもしれないし」
「グリンプ?」
エリーが口走った恐らくは人名と思われるそれは聞き覚えがなかったが、思った以上に効果のある説得材料だったらしい。
あわや震え始めるかというところで、エリーは押し留まった。
それでも襲い続ける浮遊感と戦い続けるエリーは、落ち着かない様子で周囲の様子を伺い続けていた。
「あんたはなんともないの?」
「多少慣れてるってのもあるけど、俺はほら、最悪逃げられるし」
「ぐ」
元の世界ではこの柱の高さすら超える建物が大量にそびえているのだ。
当然これより長いエレベーターも存在する。
そこまで乗りなれていないとはいえ、過剰な恐怖は覚えない。
その上、いざとなれば、壁を壊してでも脱出し、足場生成の魔術を使えばいいアキラが今やることは、挙動不審なエリーを見て楽しむことだけだった。
周りの民間人は落ち着いているのが輪をかけて面白い。
「……ってそうよ。あんたがいれば生き残れるじゃない」
「お前の落ち着く基準がまじで分からないな……。お前を俺の世界に連れていったらどうなるか見てみたくなる」
「!」
エリーの背筋がピンと伸びたと同時に、速度が緩くなったのを感じた。
間もなく2階に着くらしい。
短い間だったが、どうせなら柱も透明にしてもらい、待ちを空から見下ろしたかった。
というより、その状況でのエリーの挙動の方に興味があったが。
2階は、聞いた話だけでは同じような景色が広がっているらしい。
ドラクラスは異質だが、周ってしまえばいつもの町や村と変わらなかった。
だが恐らく。
表情豊かな彼女と共になら、飽きないだろうとも思えた。
―――***―――
「! マ、マリサス、さん……?」
マリサス=アーティは、無表情とよく言われる。
その天賦の才により僅か数年でヨーテンガースの魔導士となり、魔力だけなら恐らくすべての魔導士の頂点に立つほどの能力を持ち、“禁忌の地”深部の調査という異例の仕事をこなしているほどだった。
魔道を進む者たちの夢の先にいるようなマリス自身、自信もあるし、自負もある。
だがその反面、言われるように無表情で、淡々と魔物を撃破するマリスは、他者から見て畏怖の対象であろうという自覚もあった。
とはいえ、そこらの他人にそう思われたところで、多少は気になるものの、積極的に解消しようとは思わない。
そうしたところが、無表情と言われるところにつながるのではないかと考えたこともあったが、性分なのだろうからある程度は仕方ないのだろう。
それに、多少のメリットもある。
特に戦闘において、相手に内情を察されないというのは大きなアドバンテージだ。
一部の人間には伝わるようだし、それで十分。
だから気にすることはないし、めげもしない。
「え。あ、はは、ようこそ?」
ただ、察されることもあるようで、尋ねた魔術師隊の支部の受付が、マリスの顔を見るなり顔を引きつらせていた。
「届け物っす」
「は、はい、ありがとうございました。……、ええと、なにかあったの……?」
「なにか?」
「い、いや……、はは」
しどろもどろになった受付に背を向けると、今度は様子を伺っていた他の魔術師たちが視線を合わせずにさっと歩き去っていく。
ここにもいないとなると、用はない。
次の行き先は街の西部だ。
マリスはずかずかと支部を出ると、いっそ飛んでやろうかと空を見上げた。
「な、なに。マリーちゃん、支部でも襲ってたの……?」
そこで、目を丸くしたアラスール=デミオンに出くわした。
ただの偶然ではないだろう。
アラスールが恐る恐るマリスの顔を覗き込んでくるのを見て、マリスは両手を頬に当てた。
ほんの少しだけ、何らかの表情を浮かべていたらしい。
「アラスールさんは何をしてるんすか?」
「何って、街の見回りよ。……まあ、色々押し付けられた雑用の中でマシそうなのを選んだだけだけど」
アラスールは朝早くから各所を渡り歩いている。
マリスも途中、報告という体で呼び出さされたついでに仕事やら何やらを頼まれ、そのうちアラスールも別所へ向かってしまった。
今やっている宅配のような仕事もその一環である。
渡されたこのいくつかの小包に何が入っているのかは知らないが、面倒な取り決めがあるらしく、魔導士や認証された業者などの特定の人間しか持ち運んではいけないらしい。
ドラクラスの魔導士隊も、他の街の例にもれず、人材不足だ。いや、人員と言った方がいいかもしれない。
所属がドラクラスではない自分たちも、時たまこうして雑務を頼まれるのだ。
「マリーちゃんもそんな感じでしょう。というか、他の支部の仕事なんか知るかって感じなんだから、手伝えるのはこれくらいだもの」
小さく頷き、マリスが歩き出すと、アラスールもついてくる。
何だかんだでそれなりの付き合いをした結果か、彼女もマリスの表情から何かを察することができる人物だ。
「で、マリーちゃん。何をそんなに怒っているの?」
そして、こういうことを、あっさりと言う。
「別に、怒ってなんかいないっすよ」
「え、あんなに不機嫌そうにしてたのに? 支部の人、何も言わなかった?」
「別に何も」
「それはそれは。かのマリサス=アーティ嬢が爆発寸前、って感じなのに、由々しき危機管理能力ね。ドラクラスの魔術師隊も底が知れるわ」
「……」
じっと見ると、アラスールは軽々しく笑った。
こういうところが、少しだけ、彼を思い出させ、そしてまた、眉が寄っていくのを感じた。
「アラスールさんはいいんすか? 自分についてきて」
「見回りは大体終わっているわ。残りの仕事は、フェッチが何とかしてくれてるでしょう。お疲れーって感じね」
一応責務は果たしているようで、アラスールはのんびりとした口調で言った。
だがマリスは知っている。
彼女のその口から、突如として依頼の話が出てきてもおかしくないことを。
日常にも戦場にも、彼女はどちらにもいる。
数年付き合ったが、彼女のことを理解できた気がしない。
向こうはこちらを見透かすような瞳を浮かべるのが、少し面白くなかった。
「フェッチさん大丈夫なんすか? 自分たちが離れてたときも忙しかったらしいっすよ」
「あいつはお酒でも奢れば上機嫌になるわ。残せばいいのに給料ほとんど奥さんへの仕送りにしちゃってて年中すっからかん。というか本人もそれが狙いよ。私もあいつも、そういう奴、ってわけ」
アラスールの部隊には、当然マリス以外にもメンバーはいる。
いずれも“禁忌の地”に乗り込める精鋭揃いだ。
その中のひとり、アラスールの後輩らしく、彼女とそう歳も変わらないフェッチという男がいる。
もし副隊長というポストがあれば彼が収まっているだろう。
マリスの目から見ても優秀な上、年上の男性から受ける印象としてはいささか失礼かもしれないが、妙な人懐こさというか、親しみやすさがある。
その上で、アラスールからの信頼が厚いという印象を受けていた。
ただ、そんな彼に、マリスは不憫という印象も受けていた。
あの死地からせっかく生還したというのに、別の仕事でこの街に訪れる羽目になったことは勿論として、色々と器用なことが災いしてか雑用以外の様々な仕事を頼まれている。
難しくもなく準備も要らない雑用で済んでいるマリスはまだ幸運だと自分に言い聞かせた。
「ま、そんなわけで部下のメンタルケアは上司の仕事よん。マリーちゃん、どうしたの?」
「……だから、別に」
「…………そういえば、街を見回ったら何人か見かけたわ」
「…………」
アラスールは答えが分かっているようなことを言ってきた。
またマリスの機嫌が悪くなる。
だが子供っぽいと自分に言い聞かせ、努めて建設的な話をしようとした。
「……この依頼が終わったら、ヒダマリ=アキラの勇者一行について行っていいっすよね?」
「ええ、もちろん。何なら依頼が終わらなくても。“しきたり”には逆らえないわ」
あっさり答えが返ってきて、マリスは小さく息を吐いた。
安堵はしたが、大きくはない。
アラスールならそう言うと思っていた。
「ま、そうなったら私の部隊がどうなるか知らないけど、もし変わらないなら、どうせ行き先同じだし、タイミングが合えばあっさり会えたりするかもね」
彼女の言う、行き先とは、“禁忌の地”のことを言っているようにも、そこで命を落とした先のあの世のことを言っているようにも聞こえた。
どちらの可能性もフラットに考え、震えもせずに言葉を発する彼女は、やはり異質だ。
「じゃあ、そういうわけなんすけど、自分、あんまり話せてないんすよ」
「それかー……」
適当に言葉を選んだつもりだが、アラスールの反応を見るに、確信に迫ったものだったらしい。
アラスールの反応で自分の心情を探っていることに気づき、マリスは自虐に気味に笑った。
「マリーちゃんはどうしたいの?」
「自分も仕事があるし、向こうもここに着いたばかりでどたばたしてるだろうし、仕方ないっすよ」
「……はあ。普段の凛々しいマリーちゃんはどこへ行ってしまったのかしら?」
アラスールが頭を抱え始めたが、仕方ないのだ。
そもそも今日、彼らがどこで何をしているのかも分からない。
そう、色々と、分からない。
自分の感情も、そして、彼らのことも。
最初から知っていたはずだった。
彼と、彼らと正常な出逢いをすると、マリサス=アーティという人物は、彼らの関係性の輪が出来上がったあとに現れる存在だ。
長い旅を通して育んだものは存在せず、完成したパーティに参入したお助けキャラのようなものである。
マリスは頭を振った。
彼ならそう考えそうだと思い至ったが、同時に余計な思考のような気もした。
自分は、ヒダマリ=アキラのことを知らない。
胸が重くなったような気がするが、それは事実である。
3度目の旅を経て、彼がどういう人物になったかを、マリサス=アーティは知らないのだ。
彼なら自分の知っているままであるような気もするが、そうでない可能性の方がもちろん高い。
姉の手紙で知れた旅の様子からだけでは分からない。
ようやく再会できたのに、この騒ぎに巻き込まれて彼とまともに話せていないのだ。
再会して受けた印象では、変わっていないようにも思えたが、それは希望的観測のような気もしてくる。
それならば隙を伺って話をしにいこう、と思ったのだが、そこで思考がぴたりと止まる。
何を、何のために、話すのか。
彼らは完成された円の中にいる。
外にいる自分が何を話しに行くというのか。
話せていない。
そう自分は言ったが、それは正確だろうか。
もしかしたら、話に行く理由が思いつかない、が正しいのかもしれない。
それでも姿を探してしまうのだから、自分のことながら始末に負えない。
「ところでマリーちゃん。気になってたんだけど、あの勇者様のこと知ってたの?」
「……有名な人っすしね。ねーさんの手紙でも話は聞いてたっす」
「ふぅん」
アラスールの方を見もせずに返した。
こうすれば、彼女は余計な詮索をしないことを知っている。
だが同時に、彼女はこちらの言葉が正確でないと悟ってしまうことも知っていた。
ただ、言葉自体は事実だ。
自分はヒダマリ=アキラのことを、そこらの民間人でも知っている噂と、姉の手紙でしか知らないのだ。
事実である以上、嘘ではない。
所詮自分は、勇者様御一行にとってオブザーバーに過ぎない。
完成された関係の円の外で、彼ら彼女らに力を貸す登場人物でしかないのだ。
あれだけ好き勝手にした、してしまった“二週目”の教訓を胸に、自分はその役割に準じようと決めたのだ。
だが、その志を思い出すと、同時に、どくりと心臓が高鳴る。
昨日、姉に同じ質問をされたとき、つい自分は、言ってはならないことを言った。
「まあ、巻き込んじゃってあれだけど、この依頼はいい機会かもね。彼らのことを知れるし、彼らにマリーちゃんのことを知ってもらえる」
「アラスールさんにしては珍しいっすね、そんなこと言うなんて」
「あら? 私がそんなに薄情に見える?」
そう言う彼女は、いつも通り、日常と戦場が混ざり合った空気で笑みを浮かべていた。
あの死地の調査を担う自分たちは、当然死と隣り合わせの生活をしている。
仲良しこよしであの死地に向かっても、無駄死にするだけだ。
「……ま、そうかもね。絆パワーで奇跡が起きる! なぁんて甘いこと言っている奴は私自ら砂に埋めるわ」
そして同じくその場所を目指す勇者様御一行も、甘さは命取りになる。
個々に求められるのは、価値だ。
あの死地でも発揮できる価値を有する者だけが、踏み込むことが許される。
つまりは、自分も、彼らにとって価値がなければならない。
それならあると答えられるが、妙に虚しく感じてしまう。
「私はね、“それだけじゃ駄目”、って思っているだけなのよ。理屈とか、感情とか、絆とか、価値とか、力とか。何が大切かじゃないわ。全部よ。全部要るの。その上で、自分が何を重視するかってこと思うわ」
「……」
マリスも所属するアラスールの部隊は、先述の通りあの死地の調査を行う特異な魔導士隊だ。
構成員はいずれも、魔術師隊に務めていれば1度は名を聞いたことがあるような精鋭である。
ただそれでも、大半の予想ではその半数が命を落とすと思われていた。
だが結果、2度3度と進行し、今まで死者は出ていない。
それはマリサス=アーティという存在も大きいのだろうが、あの場所は、それだけで生き残れるような場所ではない。
「だからね。理屈で動くのもそう。でも、感情でも動けなきゃ駄目よ。自分がやりたいことができないのは、多分何かが足りていないの」
「何かって……、何っすか?」
「ふふ。ごめんね。人から伝えられるのは理屈だけよ。感情は自分で見つけなさい。そうしなきゃ、きっとどこかで歪みが出るわ」
歪みという言葉には、胸を突かれた気がした。
昨夜の姉との会話が脳裏を過る。
「で。最初の質問に戻るけど、マリーちゃんはどうしたいの?」
アラスールはマリスを優しく見つめてきた。
姉にも昔、いやあるいは今も、こういう視線を向けられることがある。
視線を背けると、アラスールが短く息を吐いたのが聞こえた。
「もし、不足を感じているものがあるなら埋めなさい。彼らにとって、あなたの存在は現状でも価値はある。でも、それだけじゃ駄目。親睦を深めるという行為は、意味がある」
「……」
世界で類を見ない部隊を率いる上司の言葉は、本心かどうかは分からない。
だが、彼らの輪の中に入ろうとする建前を用意されているような気がした。
他者が用意できるのは理屈だけ。
だが、背中を、心ごと押されている、気がした。
アラスールは、さりげない動作で、マリスが持っていた小包を奪った。
「じゃ、行ってらっしゃいな。……ええと、げ。結構遠いわね」
「自分の仕事っすよ」
「気まぐれよ気まぐれ。どうせ雑用だし。良ければこの騒動が落ち着くまでは手伝って欲しいけど、今日はそれより重要な仕事があるでしょう。世界のためよ」
「……ありがとう、ございます」
アラスールは鼻歌交じりにそのまま歩みを早め、街の雑踏に消えていった。
マリスは、自分が酷く情けなくなってきた。
だがここまでされて動かないわけにもいかない。
理屈はアラスールが用意してくれた。
今はそれに乗るべきだろうか。
あるいは、はっきりと、自分の感情で動くべきだろうか。
答えを見つけるより早く、足は動いていた。
―――***―――
「ほら」
「……ありがと」
買ってきた飲み物を手渡してやると、エリーは両手で包んで胸に抱えた。
ドラクラスのエレベーターに乗り、“2階”に到着したアキラは、挙動不審となったエリーを近場の広場のベンチに座らせた。
あの急発進と急停止を繰り返す“内回りの船”を耐えているのだ、酔っているわけでもないだろう。
それでもエリーは、妙に落ち着かない様子だった。
辿り着いた“2階”は、拍子抜けするほど想像通りだった。
やや小高い広場から見えるのは、変わらぬ街並み。
空は青く、同じように数か所に柱が立ち、空気ももちろん澱んでいない。
強いて言えば、1階と比べて背の低い建物が多い気がした。
遠目には賑わっていそうなエリアがあるようだが、居住区が多めなのかもしれない。
そして、アキラたちが上ってきた柱の周辺。
そこにはエレベーターに乗るわけでもない民間人が常に数人立っている。
何度か開かれている柱の中に視線を走らせているから、誰かを待っているだけなのだろうと最初は思ったが、妙に身のこなしがしっかりとしているような気がした。
魔力で動いているのだろうから、その機器か何かの故障に備えている魔術師か何かだろうか。
アキラはふと、その柱を追って空を見上げる。
1階と同じような構造になっているとすれば、あの柱も上に登ることができるかもしれない。
話には出なかったが、このドラクラスには、3階もあるのだろうか。
「やっぱ体調きついか? なんか悪かったな」
「いや、いいわ、いいわよ。自分でも情緒不安定な感じしてたし……。ティアほどじゃないけど」
多少の余裕は取り戻したようだが、顔色はやや悪い。
色々考えることが立て続けに起きて、彼女も混乱していると言っていた。
それに加えて寝不足で、体調不良。頭も僅かに揺れている。
そんな彼女を半ば強引にエレベーターに乗せたのはアキラだ。悪いことをした。
エリーは時折、足場を確認するように地面を足でさすっている。
エレベーターが軽くトラウマになったのか、ここが2階ということもあり、微妙に抵抗があるのだろう。
「ま、うん。大丈夫、大丈夫。ふぅ、あたしがしっかりしてないと、あんたの詠唱が崩壊するとかなんとか、なんて話があったわよね」
「また懐かしい話を……」
以前、南の大陸の大都市で、そんなようなことを話した記憶がある。
詠唱とは、魔術をより正確に発揮させるための名前だ。
ヒダマリ=アキラの魔術は、彼女たちの力の模倣である。
冗談めかしてそんなようなことを言ったが、よく覚えていたものだ。
「……そういえばさ、あんた、詠唱ってどうやって思いついたの?」
「は?」
多少は顔色が良くなったエリーが、ふと、今アキラに気づいたような表情を浮かべた。
だが、その直後、目が細まった。
何かを諦めたような表情だ。
詠唱。
過去、アキラにとってなかなかの難題になった問題だ。
何しろ日輪属性は謎に包まれており、前例がほとんどない。
自分で魔術に納得できる名前を付けるというのがどれほど困難だったのか、未だに覚えている。
「俺は……、ふと思い浮かんだ、って感じだな。……あのとき」
「……………………。う」
「どうしたよ」
「待って、また情緒が」
「なんだなんだ何が起きてんだ」
エリーがまた顔を伏せた。
旅の中の度重なる心労で、いよいよ精神が参ってしまったのかと本気で心配しかけたとき、エリーは何とか持ち応えたのか渡した飲み物を一口飲んで息を吐いた。
「で、詠唱がどうしたって?」
「いや、あんまり期待させても、って感じだからあれだけど、ちょっと試していることがあって」
「え、なんか新しい魔術でも覚えようとしているのか? 殴る以外の?」
「…………あ、分かった。あたしの情緒が変なことになるの、あんたのせいだ。最初から、分かっていたけど」
今度は顔から表情が消えかかっていた。
エリーの危険信号である。
「落ち着け落ち着け」
「むぅ。……で、まあ、似たような魔術はきっとあるって思って色々調べているんだけど、探し方が悪いのかしら」
「それでいっそ自分で名前を付けようってか?」
「詠唱って、付けることに意味がある、ってものでしょう。けど、やっぱりなんかしっくりこなくて」
エリーはアキラと違い、きちんと本で学ぶタイプだ。
自分で何かを生み出すというものは難しいのかもしれない。そっちの方はアキラも同じだが。
「で、今思い出したわけよ。詠唱を自分で決めて、それで上手くいっている奴が目の前にいる、って」
「つっても、アドバイスなんてできないぞ」
「そう、それも思い出したのよ。あんたに訊いて、果たして意味があるのだろうか、と」
「……」
苛立ったが、事実であることが、その憤りを虚しさに変えた。
「……お前が言ってたろ。詠唱なんて、しっくりくるか、しか条件がないって」
「そうなのよ。そうならないから困ってるの」
「何となく感覚で決めればいいだろ」
「……まあ、そうなのかなぁ……。ああ、止め止め」
エリーはため息を吐き、身体を強引に立たせた。
両手で顔を軽く張ると、ドラクラスの街並みを眺める。
そして。
「今日はもう何も考えないんだった。そうしよう。せっかくのデートだし」
「……」
「…………」
エリーが、生命活動を止めたように静止した。
聞こえなかったふりは、多分できない。
周りの景色がすっと遠く離れていく。
アキラの胸の奥に、ひんやりとした波紋が広がった。
それと同時、暖かな何かも感じる。アキラも情緒不安定を患ってしまったかもしれない。
今自分は何を言うべきか。
波紋から逃れるべく考えようとしたが、理屈に頼る問題ではないと感じてしまう。
ならば、考える、いや、感じることは、何を言いたいか、伝えたいか、なのだろうか。
「……マリー?」
身体中が硬直する中、エリーが呟いた。
びくりとして、反射的に視線を追えば、遠く、見えなくなっていた景色の中、確かに、ひとりの女性が立っていた。
彼女を中心に世界の色が戻る。
彼女は、エリーと色彩だけが違う女性は、マリスは、無表情にこちらを見ていた。
硬直していると思ったのもつかの間、何事もないように歩み寄ってくる。
乾ききった喉が張り付く。
口が開けない。
何か、気まずく、悪戯がばれたような感覚に陥った。
「お。やっと見つけた。……あれ? お疲れ。マリーも隊長に?」
その第三者の声に救われたような気持になった。
固まり切った身体を過剰に動かし、マリスの向こう、声の主の姿を追う。
こちらに歩み寄ってくる魔導士の制服を纏った男がいた。
マリスも併せると、自分たちをふたりが同時に訪ねてきたことになる。
日輪属性の周囲は様々なイベントが乱立することもある。
もしかしたらこの散策も終わりかもしれない。
「お疲れさまっす。どうしてここに?」
エリーと同じような動作に見えた。マリスは機敏に後ろから歩み寄ってくる男に向き合う。
アキラは、無表情のはずのマリスから、一瞬、自分と同じ、救われたような安堵を感じた。
「そっちは頼まれたわけじゃないのか」
はきはきとした声に、日に焼けた肌が健康的な印象を与える、フランクな態度の男だった。
魔導士の制服も着崩しているが、粗雑な印象を受けない。
着こなしている、あるいは、着慣れている、という表現が正しいだろう。
昨日、それなりの数の魔術師や魔導士を見たが、彼を見ると、服に着せられていたと思える者が多かったように思えさえする。
「こ、こんにちはフェッチさん。昨日はありがとうございました」
早口でまくし立てて頭を下げたエリーを見て、彼が誰のかおおよその予想が立つ。
彼はきっと、昨日エリーが話したという、マリスと同じ部隊の魔導士のひとりなのだろう。
となると、あの死地に入ったことがある人物だ。
「いいっていいって。マリーの姉上様だ、丁重にもてなすさ。むしろ疲れているところ話に付き合わせて悪かった。……なあ、マリー。隊長見なかったか? そっちも探していてね」
「多分まだ1階で、届け物をしてくれているんじゃないっすかね」
「ううん。一応1階の支部は周ったんだけど、いなかったんだよな」
そして、匂い。
アラスールよりはかなりマシのようだが、日常と戦場が入り混じった気配がする男だった。
一方、応答する、同部隊のはずのマリスからは、改めて見てもそういう気配を感じ取れなかった。
アキラは自分が、人の所作に敏感になったような気がしていたが、それは誤りなのかもしれない。
あるいは。
昨日も思った通り、自分はマリスのことを、何も知らないだけなのかもしれない。
「散策はおしまい、ね」
マリスとフェッチの話を伺いながら、エリーが、後ろ髪引かれているような小声で呟いた。
魔導士に並々ならぬ尊敬を持つ彼女にしては珍しい。
授業中に雑談する隣席の学友のような様子の彼女に、アキラも自然と笑みが零れ、小声で返した。
アキラも、名残惜しくないと言えば、嘘になる。
「また、遊ぼう」
精々それしか言えない自分に、彼女は小さく頷いてくれた。
「おっと、失礼。“勇者様”」
マリスとの話が終わったのか、フェッチという男は、じっとアキラを見据えてきた。
敵意も感じないし、親しみやすさすら覚えるが、直感的に、アキラは押されたような印象を受けた。
威圧というより、芯はしっかりしている、というのが正しい感想かもしれない。
やはり今日の散策は終わりらしい。
何事もひとつずつ。
魔導士が来たということは、次は依頼の話だろう。
「2階に上がったばかりのところにいてくれてよかったよ。俺はフェッチ=ドッガー。マリサス=アーティさんの同僚です。お忙しいところすみませんが、“勇者様”にご足労いただきたいところがありまして」
「あ、ああ。わ、分かった」
好印象を与える芯を感じる声色に、アキラは思わずあっさりと頷いてしまった。
「フェッチさん。にーさんたちをどこへ?」
「ああ。……グリンプさんが話をしたいとのことだ」
「!」
エリーの背筋がピンと伸び、マリスの気配が鋭くなる。
グリンプ。
その名は、先ほどエリーが口走ったような気がした。
「本当は隊長当ての通達だったんだけど、その場で手が空いてたのが俺しかいなくてね。そのせいで、俺は隊長も君らも探し回る羽目になったよ。いやいやまったく…………ん? はは、エリーさん。昨日は脅かし過ぎたかな」
「じょ、冗談、だったんですか?」
エリーの顔はやや青ざめていた。
体調が悪いせいかと思ったが、これはどちらかというと、いつもの極度の緊張を味わっているときのものだ。
「いいや、“本当だよ”。ドラクラスの『三魔人』の話は。グリンプ=カリヴィス7世はそのひとりだ」
「ぅぅ……。あ」
エリーは、アキラがまったく話についてきていないことをすぐに悟ってくれた。
『三魔人』。
彼女が多少詳しくなったというドラクラスに、そんな言葉があるらしい。
「あのね。ドラクラスには、」
エリーが何かを言おうとしたところで、アキラは視界の隅に妙なものを拾った。
マリス、フェッチと現れたこの広場に、また、誰かが近づいてくる。
最初、その女性の最大の特徴は、服装だと思った。
皺ひとつ無い給仕服。
だが、こちらに歩み寄ってくるその間、艶やかな黒髪から覗く、片時も崩れないにっこりとした笑顔が目に焼き付いた。
その笑みに、何故か、感情を感じない。
あるいはマリス以上に無表情と言えるのかもしれなかった。
「失礼します。ヒダマリ=アキラ様ですね。ルックリン=ナーシャ氏が訊きたいことがあるとのことです。ご足労願います」
透き通るような美しい声なのに、まるで抑揚が無い。人間が目の前にいるのに、人と話している気がしない。フェッチも、そしてエリーやマリスも固まっている。
フェッチと同じようなことを言われたのだとアキラがようやく理解できるまでの間も、現れた女性はそのにっこりとした笑みを微塵にも変えなかった。
「詳細については申し付かっておりません。ご本人にお尋ねください。オプションになりますが、報酬などの交渉を承りましょうか?」
「そ、その前に、ルックリン、っていうのは?」
アキラが口に出すと、エリーが我に返ったようにびくりとしてアキラに視線を投げた。
この旅の道中、何度も感じた視線だ。
何をしでかした、と。
心当たりはまるでない。
「悪いがこっちが先でいいか。先に見つけていたのは俺だ」
言ったのはフェッチだと思った。
しかし、先ほどの女性と反対方向から、今度は別の男が歩いてきた。
いつからいたのか。
群衆の中から溶けるように抜け出してきたその男は、しかしその存在を認識した瞬間、不思議と目が離せなくなった。
フェッチと同じかそれより若いくらいだろう。
服装もアキラに近く、機能性もある普段着のような様子だが、体格が良く、魔導士隊の制服に身を包むフェッチより力強く感じる。
乱雑に短く切った黒髪で、目つきは悪く、一般人か、ともすればその辺りのチンピラのように見えもするのに、それでいて、その瞳の奥がまったく覗けない。
ドラクラスに溶け込んでいるように見えるのに、給仕服の女性以上の忌避感を覚えた。
形容しがたい、直感的部分で、嫌な匂い、嫌な気配がする。
アキラは自然と、エリーとマリスを庇うように立ってしまった。
「ああ。……ああ。……お前が様子を見ろって言ったんだろ。……分かっている」
その男は何かを呟きながら、力強く歩み寄ってくる。
「ドラクラス警護団のジェット=キャットキットだ。様子を見てたら先を越されそうになった。3人とも俺についてきて欲しい。団長……ドーナ=サスティバが呼んでいる」
またエリーに見られた。
その瞳はいよいよ信じられないものを見る目に変わっている。
それぞれ誰かの遣いのようだ。
ドラクラスの三魔人。
他人事に聞こえていた言葉が、何故か頭を過り、確信に近づく。
フェッチ。
給仕服の女性。
ジェット。
アキラは、こちらを探していたらしい3人の人物を見比べて、小声で愚痴った。
「ひとつずつって話だったんじゃないのかよ」




