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おんりーらぶ!?【第二部】  作者: コー
中央の大陸『ヨーテンガース』 ドラクラス編
54/68

第59話『光の創め2---チェイス!---』

―――***―――


『ぁー、ぁー。……ぇー、みなさま間もなく日没となりま……、ぁー、ぁー、ぁー、あー、音量下げられたかな。……こほん。日没となります。外出および活動の自粛については、連日ご協力いただいております通り、本日も―――、』


「上がってんだよバカ女!! まったく、やかましいったらありゃしない!!」


 ひとりの老婆が机を蹴飛ばすと、対面に座った身なりの良い旅人は苦笑いを浮かべた。“それっぽく”置かれている占い用の水晶玉が台座から外れてごろりと転がる。

 薄汚れているようにも見える水晶玉は何を映したというのだろう。指紋がつくこともいとわず水晶玉を手でつかんだ老婆は、そのまま乱暴に台座に戻した。だっぽりと羽織った薄紅色のローブから除くその手の爪は、毒々しいという言葉が適切な深い色で染められている。


「まったくこっちは仕事中だっていうのに、悪いね客人。だが、ドラクラスっていうのはこういう場所だと諦めとくれ」


 老婆の顔はよく見えないが、時折覗く皺くちゃな頬や、しがれた声からはまさしく“占い師”の貫録を感じさせる。

 最初にここに入ったときは雰囲気に押されたものだが、今の様子を見て、旅人は緊張を解いた。

 薄暗く狭いふたりだけの部屋の中で、目の前の老婆を憤慨させた、ここにはいない誰かの声が今も響いている。

 そういう魔術があると知ってはいるが、今まで見てきたそれと違い、妙な違和感を覚える。


「随分騒がしいですね」

「なに、ドラクラスの仕組みのひとつさ。街中に声が届く。私んとこだけ省いてくれて構わないってのに、そういう“制御”はできないらしい」

「は、はあ」

「まあいい、今しばらくの辛抱さね。事情があってここ最近は毎日流れてくるが、普段は使うような“機能”じゃない」


 今まで多くの町や村を訪れてきた旅人だったが、このドラクラスは異質だった。

 “外観”もそうだったが、町の人々とかわす言葉の中に、時折理解できない単語が混ざる。

 同じ言葉を話しているはずなのに、一向に話がかみ合わないのは、旅人の経験値の高さがゆえに、妙な恐怖を覚えた。


『―――以上、ミルバリー=バッドピットでし……、あ、違う、魔導士隊からの連絡でした。……と、よし、終わった。…………んん~~~、ミルちゃん今日も一日お疲れさまでした、っと。……じゃ、お風呂お風呂~♪………………、あれ、停止できてるんだよねこれ?……ひっ、』


「便利なもんだろう。でも使うのがあの鳥頭じゃ騒音さ。そうそう、そういえばあんた、宝を探しているだって?」


 ブッ、という音とともに、今度こそ騒音は聞こえなくなった。

 老婆は慣れた様子で旅人に向き合うと、水晶玉に指を置いた。

 ずさんな扱いを続けているのを見ると、占いの道具というより、手慰みのおもちゃのように思えてくる。


「宝、というか、金儲けですね。そろそろ落ち着いて路銀を稼ぎたいと思っていて。そういう話、何か知りませんか?」


 旅人は、半分出まかせを言い、話の方向性を定めた。懐事情が厳しいのは本当だ。


 旅人がドラクラスを訪ねたのは、“とある噂”を聞いたからだ。

 ドラクラスで、近々“大きなこと”が起こると。

 具体性があるわけではない。秘密というのは漏れるものだが、よほど秘匿されているのだろう、旅慣れている自分でも、話の端々しか捕まえられなかった。

 そもそもドラクラス自体の情報も、ほんの一握りしか外部に出回っていないのだ。

 むしろそうだからこそ関心が惹かれた面もあるが、そういう“大きなこと”には必ずと言っていいほど儲け話がついて回るし、大体の場合人手が必要になる。


 そんなつもりでドラクラスへ到着してから、酒場へ行き、依頼所へ行き、最後はこのすたれた喫茶店のような占いの店だ。

 今までろくな情報がない。よほど情報の統制がされているのか、単に当たりが引けていないのか。

 ここも空振りなら、どこかの宿にしばらく泊まって、細々と探りを入れていくことになるだろう。

 “育ちがよさそうな人々”では口を割らないとなると、裏社会を探ることから始めることになるが。


「あー、そうさね。止めときな」

「……」


 老婆はつまらなそうに水晶玉をいじっている。

 そんな言葉でも、旅人は喜んだ。この老婆は“何か”を知っているということだ。


 ようやく出てきた情報に内心舌なめずりをして、旅人は憤慨している様子を装った。


「それは私には無理だからですかね?」

「? ……ああ、そういうことになるね」

「はは、それは危なそうだ。でも私は、一応“ヨーテンガースの旅人”ですよ?」


 慎重に言葉を選んで耳に意識を傾ける。

 この老婆はきっと“当たり”だ。世間知らずな若者を装えば、まだまだ情報が出てくるだろう。


「いやいや、仕事だからちゃんと質問に答えているんだよ。質問は、『宝探しのように大金が手に入る話がドラクラスにあるか?』 だろう。答えは『パリーズ=レイドルは一銭も手に入れられない』、だ」

「……っ」


 突如名前を言われ、旅人は思わず立ち上がりそうになった。

 失敗だとは気づいた。カマをかけてきただけかもしれないのに。


「私のことをご存じで?」

「そうさねぇ、最近方々の町で詐欺まがいのことをして荒稼ぎしてる若造とか。まあそれはいいんだ、私に金を払うなら相手は誰だって構いやしない」


 目の前には老婆がひとり。荒事には慣れている。簡単に始末できそうだった。

 だが直感的に、多少は腹を割って話した方が建設的だと感じた。


「詳しく聞いていいですか?」

「んん? 一問一答じゃなくていいのかい? なら何さ、何を聞きたい?」

「このドラクラスで起こっていることですよ」


 老婆は、ふあと欠伸をした。

 フードから覗いた皺だらけの顔は、さも退屈そうな色を浮かべていた。


「“関わらないのに”知りたいとは。詐欺師っていうのは随分暇なんだねぇ。でも聞かれたからには答えよう。“引っ越し”さ。そのせいで、あの鳥頭が余計な“機能”を動かしやがった」

「引っ越し? 何が、……あなたがですか?」

「いいや、“ドラクラスが”だよ」


 旅人はまた同じ感覚を味わった。

 ここまでの情報収集でも、話ができているのに時折ノイズのようにかみ合わないことがある。

 いや、もしかすると、自分がノイズとして処理していたのはノイズではなかったのかもしれない。

 根本的に、“前提”が違うのだろうか。


 旅人はドラクラスの“外観”を、そしてその街の周囲を思い出す。

 まさか、“引っ越し”とは。


「一応使えそうかあんたを“街に誘ってやった”が、駄目そうだね。悪いことは言わないよ、とっととこの町を離れるんだね」

「…………」


 旅人は無言を返した。

 この老婆がどこまで自分のことを知っているのか分からない。

 言葉の節々に背筋が冷えた。

 自分が今ここにいるのは、定められていたかのような老婆の様子に、妙な信憑性を覚えてしまった。


「聞きたいことはもう無いかい?」

「……ええ」


 旅人は今すぐこの町を離れるべきと感じ始めた。

 ただでさえ魔導士隊が常在しているような街だ。

 下手につつかれればいくらでも埃が出てくる身としては、日没間近なヨーテンガースといえどもこの町を離れた方が旅人にとってはむしろ安全だった。


「なら、おーい!! 受付さん!! お帰りだよ!!」

「はい。ご利用ありがとうございました」


 声が聞こえるまで背後の気配に気づけなかった。

 機敏に振り返ると、老婆の顔とは違い、皺ひとつ無い給仕服をまとった艶やかな黒髪の女性が、にっこりと笑顔を浮かべていた。

 入り口でも見た彼女だが、その貼り付けたような笑顔は未だに脳裏に刻まれている。


 受付さんは、高級そうな伝票ホルダーを両手で掴み、機械的に突き出してきた。


「……っ、ちょ、ちょっと、これ」

「なにさ。お断りがあっただろう、一問一答以外は追加料金が発生します、って。さっきも確認しただろう」

「ふ、ふざけるな、こんな金、」

「受付さん」


 相手は老婆と女性。ならばいくらでも、と頭を回す前に、旅人の両肩に受付さんの手が乗った

 そしてそのまま、とてつもない力でぐいと元座っていた椅子に座り込まされる。

 受付さんは、にっこりとした笑顔のまま改めて伝票ホルダーを旅人の前の机に置いた。


「お肩が凝っているご様子ですね。オプションになりますが、マッサージなどいかがでしょうか?」

「けっ、結構だっ!!」


 このヨーテンガースを生き抜く上で必要なのは、力などよりも危機管理能力だ。

 旅人はそれなりに腕にも覚えはあるが、少なくとも今、一刻も早く再び肩に手を置いた受付さんとやらから距離を取りたかった。


「私の前に座れるのは、力か金がある奴だけだ。あんたは運がいい。さ、お会計の時間だよ」


 フードを取った老婆は、予想通り白髪交じりで、皺だらけの顔を、にっこりとさらに歪ませる。

 瞳の奥は、いっそ清々しいほど欲望一色に染まっていた。


「……は、払えるわけない。懐が厳しいって言っただろう」

「何言ってんのさ。カバンの中の“ぬいぐるみ”に頼めばいいだろう」


 旅人の手荷物には、たまたま出先で見つけた、朝機嫌を損ねた娘に渡す“風”の玩具が入っている。

 旅人は口元を歪ませた。自分の金の隠し場所まで知られている。

 どういう手段を用いたのか、目の前の老婆の情報収集に抜かりはないらしい。


 そしてようやく、旅人は理解した。

 自分が今まで人にそうしてきたように、自分は嵌められた。

 もしかしたら、いや、老婆の口ぶりからして事実そうなのかもしれないが、ドラクラスの噂話も、自分のような金を持った者を釣る餌だったのかもしれない。

 それも、こんなぼったくりをされても魔術師隊や魔導士隊に泣きつけない、脛に傷を持つ者たちを。


「それに、あんたの遊ぶ金にしちゃ懐が寂しいってだけだろうに。ここで吐き出してきな」


 ひひっ、と老婆は笑う。

 老婆だけなら何とでもなりそうだが、未だ背後でにっこりとした笑顔を張り付けたまま、信じられないほどの力で押さえつけてくる受付さんがいる限り、旅人に選択肢はなかった。


「……いつからこんなことを?」

「んん? なんだい。何が?」


 旅人がぬいぐるみを割いて出した金を、老婆は機嫌よさそうに数えていた。


「ドラクラスでこういう詐欺をしているのがですよ」

「詐欺? 失礼だね。あんた、自分が嵌められたとでも思っているんだろう。そうじゃない。私はちゃんと、追加の質問にはそれ相応の金額を請求しただけさ。あんたは今、ドラクラスの機密情報を知ったんだ。まあ、近々無価値になるけどねぇ。それはそれだ」

「…………」


 ドラクラスの“引っ越し”。

 もし自分の想像が正しければ、確かに間もなく無価値になるのだろう。


 老婆は金を数え終わると、水晶玉を払いのけ、深々と頭を下げてきた。

 あくまで客として接してくれているらしい。挑発のようにも取れたが、構っていられない。旅人は今すぐにでもドラクラスから外に出たかった。多少は“元”を取らなければ。


「お客様。オプションになりますが、町の外までご案内しましょうか?」

「……結構だ」


 受付さんの言葉に短く返し、旅人は今度こそ席を立った。

 追加でいくら請求されるか分かったものではない。

 先ほどの“騒音”通り、間もなく日が沈む。だが、目の前に自分の正体を知る者がいる以上は、高い金を払って夜に馬車を飛ばすことになろうとも、この町を離れるべきだった。


 最後に老婆を一瞥し、ぎりぎりのところで頭を下げた。

 感情的になるのは得策ではない。

 腹立たしいが、これ以上関りを持った方が不利益だと判断すべきなのだろう。


 老婆は、再びゆっくりとローブを被った。

 そして、手のひらを、額に当てる。

 そこで、老婆が、少しだけ痙攣したように見えた。


「…………なああんた。あんたの命はいくらだい?」

「は?」


 立ち去ろうとした旅人は、思わず振り返った。


「これ以上何を搾り取るおつもりで?」


 今回の一件は迂闊に金儲けの話につられた自分のミスだ。

 お互いここらで止めておくのが落としどころだろう。


「そう警戒するんじゃないよ。これはちょっとしたサービスさ。あんたは今日、この町から出ることができない」

「…………」


 話を聞かないことが、詐欺にかからない常套手段だ。

 だがその老婆の声色は、その道に染まっている旅人ですら、聞くべきだと感じてしまう。


「この“占い”を聞かず、“出た場合どうなるか”。この未来、買うかい?」

「……それはつまり、命の危険がある未来があると?」


 自分の声色が苛立っているのが分かった。

 ヨーテンガースだ。夜間ひとりでこの山道を行けば、確かに何が起こるか分からないだろう。

 だがそれは誰しもが予想できることで、それゆえに、思わせぶりに言えば、金が搾り取れると老婆なら当然心得ているだろう。


「そうさね、賭けでもどうだい? 今日、間もなく、誰の目で見ても明らかなほどの、ドラクラスから外へ向かうべきではない出来事が起こる。それが起こったらどうする? あんたは」

「…………流石にくだらない。成立しない。私が何も起こらないことに賭けて外へ出たとする。そうすると賭け金の回収ができないでしょう。もう二度と、ここへ来たくはないのでね」

「ひひっ、ならどうだい。私があんたの宿泊費、全額負担してやろう。魔導士隊にも手は出させない。今日の夜に何が起こるのか、お互い確認して、明日清算だ。私が負けたら今日の占い料を色付けて返してやるよ。あんたが負けたら、宿代の返金は当然として、私が見積もったあんたの命の金額を払ってもらう」

「……」


 この老婆、魔導士隊ともコネクションがあるのだろうか。

 もし老婆の言葉がすべて本当なら、馬車に夜道をとばさせるよりずっと安全だ。

 だが、先ほど自分は騙されたばかりである。また老婆の何かの罠だろうか。

 呑気に寝入っているところを魔導士隊に引き渡されるのかといぶかしんだが、それならば自分はとっくの昔に捕まっているだろう。


「…………面白い提案ですが、あいにく玩具が壊れてしまいましてね。それとも命でも賭けろと?」

「命なんかいらないよ、金だ金。私の見積もりだと、そうさね、大丈夫さ。あんたの背を高くしている“靴底”で賄える」

「…………」


 旅人は、話の途中から、結論を出していた。


「……賭けには乗りません。ですが、今日はもう日も落ちる。どこかに泊まることになるでしょうな」


 損得を抜きにしても、この老婆の言葉には魅力がある。

 リスクを冒しても、その“占い”の結果を確かめたいと思ってしまった。


「ひひっ、賢いね、引き際を知っている。……ち、無駄口叩いたな。受付さん」

「はい」

「グリンプの坊やに商売の話だ。“視えちまった”。それと、“警護団”にも言っとくれ。呑気にシャワー浴びているミルバリーの馬鹿のケツをひっぱたけって。“客”が来る。代金は“2階”のドードー看板の酒場の権利書。半年だ。倍儲かる店にして返してやるって言えば渋々でも頷くだろう」

「はい、少々お待ちください。オプションになりますが、交渉の議事録をお取りしましょうか?」

「私からもふんだくろうとすんじゃないよ、さっさとお行き、受付さん」


 受付さんは、笑顔のまま、表情ひとつ変えずに部屋の外へ出て行った。

 再び老婆とふたり取り残された旅人だが、机の上の金は視界に入らない。


 グリンプという名前は聞いたことがある。

 このドラクラスでもトップクラスの権力者。魔導士隊を総括している、グリンプ=カリヴィス7世のことだろうか。

 旅人としては、是非ともお近づきになりたくない相手である。

 だが、何故かそれ以上に旅人の耳に残った言葉があった。


 “視えた”。


 旅の道中集めた中にあった、ドラクラスの“とある噂話”が旅人の脳裏に過る。

 すべての情報を有する存在が、この町にいるのだと。


 深々と座る老婆は、立ったまま動かない旅人を見やると、ローブの中でにやりと笑った。

 受付さんとやらがこの場から離れ、旅人とふたりきりになっているというのに、老婆は危機感を覚えていない。

 ここは彼女のテリトリー。何手あるか分かりはしない。

 高が占いと準備もせずに飛び込んだ時点で、そもそも旅人にはどうすることもできなかったのだ。


「そうだ、あんた。一気に金を稼ぐ方法はないけれど、近々ドラクラスを離れるんだろう。私の『耳』になれば多少は稼げるんだが、どうする?」

「……それこそ明日を待ちましょう」

「ひひっ、『耳』が何か気にならないのかい」


 旅人は背を向けた。概ね想像できるし、これ以上思わせぶりな言葉に反応していたら、それこそ“襟の裏”まで取られかねない。


――――――


 おんりーらぶ!?


――――――


 そこは夢の世界だった。

 疾風のように駆ける馬車。

 その馬車を包み込む銀の光と、夕日の朱が混ざり合い、柔らかな桜の花びらが舞い踊っているとすら思える、絶景だった。

 桜の軌跡を残して疾走する馬車の後部の扉を開くと、その絶景が眼前に展開される。

 疾走する馬車の扉を開けたというのに、身体は放り出されることはなかった。

 まるでこの光景を見せるためだけのように、荒れた山道も、高低差の激しい坂道も、あるいは重力すら忘れた馬車は、まさしく夢の世界の乗り物だった。


「……あれが」


 その夢の世界に影が迫る。


 桜の軌跡を塗り潰すように、漆黒の影が追走してくる。

 馬のような何かにまたがり、高速で過ぎていく景色の中、この夢の世界の乗り物以上の速度で迫りくるそれは。


 あるいはヒダマリ=アキラにとって、この馬車以上に夢にまで見た存在かもしれない。


「『剣』のバルダ=ウェズ……!!」


 正面に捉えたその存在は、未だ“不明”と言わざるを得なかった。

 桜色の空間を黒く濁すそれは、窓から覗いていたときの印象同様、影としか形容できない。

 漆黒に乗り潰された騎手や馬のような何かからは黒い靄が立ち上り、全貌が覆い隠されている。

 高速の世界でも晴れないところを見ると、あれは何らかの魔術なのだろうか。


 正体が何であれ、そんな不可解なものを近づかせるわけにはいかない。


「ふ、う」


 傍から見れば自殺にしか見えなかっただろう。

 アキラは高速で流れる地面へ向かってゆっくりと足を踏み出した。


 銀の光の中、踏み出した足が、全身が、浮遊感で包まれる。

 踏ん張ろうとすると足は沈み、しかし力を抜くとその場に留まる。まるで水の中にいるような感覚だった。

 周囲が妙に静かに思える。音もある程度制限されているのだろうか。

 とうとう全身が馬車から出ても、アキラの身体は銀の光でつながれているように浮かび、馬車の速度で移動していた。


 移動中の馬車から飛び降りたとき、数秒後の自分との速度差は何になるか。風圧は身体に均等に届くのか。姿勢による差は生まれるのか。考慮するべき物理法則は他に何があるのか。

 アキラには何もかもが分からない。だが、些細なことなのかもしれなかった。アキラはもとより、この世界の誰も、“魔法”を前には論理的な回答は用意できない。

 しかしアキラは、懐かしさを覚えていた。彼女の力には幾度となく救われている。


 感触を確かめながら、アキラはまっすぐに後方の“影”を見据えた。

 マリスが範囲を広げてくれたようで、銀の光はバルダ=ウェズの眼前まで展開されている。

 あそこが、アキラが馬車と同速で宙に浮いていられる限界ラインということだろう。


 バルダ=ウェズを睨みながら、アキラは大きく息を吸う。


 過去、あるいは未来、この魔法が展開されたとき、アキラの身体はあくまで彼女の制御下にあった。

 ある程度の空中移動はできたはずだが、自由自在に宙を舞うことなどできず、ましてや戦闘の速度などアキラの意志では出すことができない。


 だが今は、それができる。


「キャラ・イエロー!!」


 不安定な足場は強固な大地へ変貌した。

 漂うばかりだったアキラはその場で弾かれたように“駆け出し”、一直線に影を目指す。


 空中にすら足場を生成するこの魔術を用いれば、たとえ水中の中でも推進力を得ることができる。

 すべてが未知の魔法の中、発生した物理現象は、アキラの身体を影へと運ぶ。


「―――、」


 あっという間に距離を詰めたアキラは目を細める。

 この距離まで近づいても、影は、依然として影のままだった。

 握った剣に力が籠る。


 『剣』のバルダ=ウェズ。

 多少は名の知れた魔族らしいが、アキラが集められた情報はほとんどない。

 精々、魔力の属性は土曜属性らしいということ。


 そして―――彼女たちに被害をもたらした『光の創め』の構成員。


「―――ヒダマリ=アキラの一行か」

「……!」


 ややくぐもった中性的な声が聞こえた。目の前の影が、バルダ=ウェズが発したのだろう。

 その存在は、未だ影としか認識できない。

 一瞬、アキラの頭の中で何かが蠢くように鈍い警告を発した。


「キャラ―――」


 アキラは剣に魔力を滾らせる。

 巨大な馬のような“何か”にまたがったバルダ=ウェズは、馬車を追うように疾走しているも、同速で動くアキラにしてみれば、棒立ちしているようなものだ。

 アキラは止まっている的に目掛けて跳躍すると、剣を力強く振り下ろした。

 影が、蠢いた。


「スカーレット!! ―――」


 甲高い金属音が鳴り響く。

 これで決められるとは全く思っていなかったアキラは、オレンジの迸る光の中、目を見開き続けていた。

 ほぼ一瞬だけ見えたのは、バルダ=ウェズの全貌だった。


 闇。

 黒煙のような影の中は、すべてが黒かった。

 中世の甲冑のような鎧を頭から足まで全身に纏い、分かりやすいほどの騎士の姿形をしている。だがそれは、想像しやすい銀ではなく、何もかもが黒く塗り潰されていた。

 甲冑のせいで分かり辛いが、今まで出遭ってきた魔族の中では体躯は小さい。

 だがそれでも、アキラが真上から脳天めがけて振り下ろした剣は、バルダ=ウェズが掲げた細身の漆黒の剣に軽々と防がれていた。


「……!」


 閃光が晴れ、また銀と朱の世界に戻っていく世界で、甲冑から、あるいはバルダ=ウェズの身体から、黒い煙が再び噴き出すように現れた。

 危機を察知して離脱したアキラは、その黒い煙のような何かが再びバルダ=ウェズの身体に纏っていくのを見届けると、歯噛みして馬車へ向かって空を蹴る。


 多少はバルダ=ウェズの速度を落とせたのだろう、距離を離した馬車に飛び乗ると、アキラは小さく息を吐いた。


「おい」

「ぐぇっ」


 口を開こうとしたら胸ぐらを掴まれた。

 逆らう気力の起きないほどの力で締め付けられ、アキラがされるがままにしていると、目の前に、絶世の美女の殺意が宿った瞳が現れた。


「アキラ君。ねえアキラ君。なんであいつに斬りかかったのかしら?」

「だ、だから、止めないでくれ、って」

「追っ手を撒くならいいって言ってんのよ。狙うなら足でしょう」


 エレナ=ファンツェルンが親指で地面を差した。

 アキラに向けて死ねと言っているわけではないと信じたい。

 アキラは襟もとを正すと、小さく咳払いをした。


「いやさ、剣で防がれて」

「…………向いてないわよ、そういうの」


 エレナが冷たく呟いた。

 迷わず脳天から剣を振り下ろしたアキラは、視線を外すことしかできなかった。


「で、どうすんのあれ。とりあえず少しは離れたみたいだけど」

『ちょっと!! そっちで何かしたの!? マリーちゃん、距離は!?』

「今にーさんが交戦して戻ってきたところで、距離は、」

『―――ちょっとあんた何やってんの!?』


 アキラの身体がびくりと跳ねた。

 マリスの言葉を遮った怒鳴り声に、思わず息をひそめる。

 アラスールが声を届かなくしたのかそれきり追撃はこなかったが、向こうの馬車の中の様子を想像し、アキラは短く息を吸って吐いた。

 すると、細目になってじっとこちらを見つめてくるエレナと目が合った。


「……分かったよ。今だけは逃げるのが優先だ」


 何かを言われる前に頭を振って気を落ち着かせた。

 心の中でくすぶっていた妙な感覚を強引に抑え込む。得意なことだった。

 『光の創め』は心の底から憎んでいるが、魔族はそれだけで討伐できるような相手ではないということもアキラは理解している。

 何故自分は、理解しているのに、理に叶わない行動をとったのか。珍しくもアキラは、その答えがすぐに分かった気がした。それゆえに、申し訳ない。


「―――距離は追いつかれるまで……5、いや、3分程度っす!! やっぱり向こうの方がまだ速い!! もう少し速度を上げるっすよ!!」

「こ、これ以上って、……大丈夫なのかよ? 運転手さんたちとか」

「“それを含めて上げるんすよ”」


 マリスが短く息を吸い、力を籠めるような仕草をした。

 ほんの少しだけ銀の色が濃くなったような気がする。

 マリスは馬車の速度を上げることに注力しつつ、アキラへの補助を行っていたらしい。


 この高速で移動する馬車は、現在マリスの制御下にある。

 それは当然、馬車を引く馬も、それを操る運転手もマリスの魔法によって影響を受けているということだ。

 一本道ならまだしも、うねるように続く山道を進むには、それらの認識能力向上をはじめとする複合的な魔法や魔術を幾重にもかける必要があるだろう。


 実感はあまり無いが、一応自分たちはそこらの一般人たちよりは身体も、そして魔力も圧倒的に強いだろう。

 “そうではない相手”に過剰なほどのパフォーマンスを発揮させているのだ。

 マリスの魔法の仕組みは分からないが、それでも自分が実現できない力の代償をアキラは身をもって知っている。

 だがマリスの様子を見るに、その運転手や馬が受けるべき代償すら制御しているのかもしれない。

 それにはどれだけの力が必要なのか。


 そう考えて、はたと、アキラはマリスの様子を眺めた。

 汗ひとつかかず、半開きの眼で、傍から見ればのんびりとしている様子のマリスは、周囲を覆う銀の魔法を展開し、馬車の速度を上げ、いや、運転手や馬の認識能力から何から、“上げるために必要なものをそれぞれ補い”、範囲もアキラが外に出れば調整してくれている。


 ここまでの旅を通し、“二週目”よりはずっとこの世界に慣れ親しんだアキラは、説明できないまでもそれがどれほど異常なことかを感じ取れる。


 それがどれだけ彼女の負荷になるのか。

 “数千年にひとりの天才”と言われるマリスだが、当然彼女も人間。得手不得手はあるはずだ。

 この超常現象が、彼女にとって容易なことなのか、無理をして実現しているのか、アキラの目からはまるで分らない。


 “二週目”では、マリスのことを単純に、凄い、としか把握していなかった。

 だが、あるいはそのとき以上に、今この“三週目”の自分も、マリサス=アーティという人物をまるで知らないのだとアキラは感じた。


 今、後方から迫るバルダ=ウェズ。

 それに対して、マリスが取り得る選択肢が、分からない。


「天才ちゃん。一応聞くけど、あれ狙撃できないの?」


 そんなアキラの懸念を知ってか知らずか、エレナがぐいとバルダ=ウェズを親指で差した。

 今マリスに下手なことをさせれば、自分たちはともかく運転手や馬が魔法に耐え切れなくなる可能性もある。


「できないことはないっすけど、」

『バルダ=ウェズは土曜属性らしいわ。効かないことはないだろうけど、それより馬車の方……特に馬と運転手席に集中して!! 私が向かうわ!!』


 再び向こうから魔術を使ったようで、アラスールが割って入った。

 アラスールもアキラと同意見らしい。


 土曜属性は、魔術に対して強い耐性を持つ。

 操る相手が魔族ともなれば、本腰を入れて対抗しないと焼け石に水になる可能性が高いということなのだろう。


 そんなやり取りをしている間にも時間は過ぎていく。

 バルダ=ウェズも上げた馬車の速度に追従するように加速し、徐々に迫ってきていた。

 下手をしたらマリスの目算よりもずっと早く追いつかれる。


 とはいえ、ひとたび冷静になってしまうと、アキラは自分の中から熱のようなものが引いていくのを感じていた。

 斬りかかったことで多少は発散できたような気もするが、『光の創め』に対する怒りはまだまだある。

 戦闘は確かに始まっているし、魔族が背後から迫ってくるという恐怖ももちろんあるはずだが、しかし、マリスの制御下の馬車の中は安定していて、あと数分程度で交戦が始まるという実感が無い。

 遠方の、近づいてきているであろう黒い影は、あまりに黙々としている。

 乗り物で移動しながらの戦闘というのは慣れないが、こういうものなのだろうか。


 危機感の欠如というものはヨーテンガースでは命取りなのだろう。

 だがアキラは、先ほどバルダ=ウェズに斬りかかったとき、怒りでも危機感でもない、べっとりとした何かが胸の奥にこびり付いたような、違和感を味わっただけだった。

 言ってしまえば、嫌な予感がした。たった、それだけ。


 影は、迫ってくる。


「マリにゃんがお忙しいなら、仕方ありません。ここはあっしが、」

「……今度は大丈夫だ。俺がもう1回行ってくる。マリス、また頼めるか?」

「あの……」

「問題ないっすよ」

「駄目よ。前から来る魔導士に任せなさい。大体さっきので分かったわ。片手間に相手するのは面倒そうね。…………それと」


 マリスの力抜きでも飛び出しそうだと思われたのか、エレナはアキラを遮るように立つと、目を細めてバルダ=ウェズを睨んだ。


「天才ちゃん、あんた魔導士でしょう。さっき、あいつの足見てた?」


 マリスは頷き、バルダ=ウェズを眺めて眉をひそめた。

 その反応で、エレナもさも面倒そうな表情を浮かべる。

 というより、不可解な表情、の方が正しいかもしれない。


 アキラも視線を向けるが、バルダ=ウェズが乗る何かはすでに黒い靄に覆われて何も判別できない。

 バルダ=ウェズばかりに気を取られていたアキラと違い、ふたりはあのオレンジの閃光の中、全貌を把握していたようだ。


「なんだよ。どうしたんだ?」

「私が知らないだけならいいんだけど、あれ、どっかで見たことあるのよね」

「足って言ってるのは、あいつが乗ってる魔物みたいな奴のことだよな。召喚獣、とかなのか? 見覚えあるのかよ」

「召喚獣? そうなのかしらね? まあ、私のは、見覚えっていうか、本当に、どっかで見たことある、なのよね」

「だからどこでだよ」

「言っているでしょう。どっかよ。別の言い方をすれば―――“そこら”、よ」


 エレナはそう言って、腰を落とした。

 バルダ=ウェズは今なお徐々に接近してくる。相手の出方が分からない以上、すでに射程範囲に入っている可能性もあった。


「そこらって、」

「あれは多分、ファリオベラっていう“魔物”っすね。あんな感じの、馬のような魔物。……群れのボスなのか、まあまあ身体が大きいけど、エレねーの言う通り、あれくらいならそこら中にいる魔物っす」

「は?」


 聞いたことがあるかもしれないし、ないかもしれない。

 魔物に明るくないアキラには、マリスの言葉は完全には理解できなかった。

 だが、また、嫌な感覚だけは味わえた。


 バルダ=ウェズは接近してくる。

 『光の創め』を前に、アキラは未だ頭に血が上っていたことを改めて自覚した。

 それらを一旦強引に飲み込み、頭を振って眼前の光景を冷静に眺めてみる。


 銀と朱の世界。黒く澱んだ影の急接近。高速で流れる山道。

 そこでアキラは、改めて、バルダ=ウェズの乗る“何か”-――フォリオベラというらしい、どこにでもいるという魔物を睨んだ。


「ならなんで……、高が魔物が、“マリスについてこれるんだ”……?」


 バルダ=ウェズは接近してくる。


「―――、」

「!」


 睨んでいたバルダ=ウェズが、煙が立ち込めているような黒い棒を掲げた。先ほどの細身の剣だろう。


 そしてバルダ=ウェズは、きっと、“何か”をした。


「……?」


 その異変は、即座には分からなかった。

 鮮やかな魔力色を蝕む、バルダ=ウェズの黒い影。

 アキラはその挙動に身構えつつも注視していると、ようやく“変化”に気づけた。


『―――っ、そっち行けなくなったわ!!』


 アラスールの怒鳴り声が届いた。

 まさか前方も同じことになっているのだろうか。


 バルダ=ウェズの黒い影が、徐々に膨張するように広がっていく。

 “いや”。

 黒い影が、わらわらと、わらわらと、“増えている”。


「ぎゃーっ!! ちょちょちょっ!! ちょっとちょっとちょっと!!!! なんかいろいろやばいですってこれ!!」


 馬車の運転席の方まで下がっていたのか、言葉からは何も伝わってこないティアの悲鳴が前方から届く。

 どうやらこの2台の馬車の周囲は、アキラが見るバルダ=ウェズの周囲と同じ状況らしい。


 バルダ=ウェズの乗る、エレナの言うところのそこらにいる魔物。

 それが、いつしか十数体現れ、まるでひとつの影の塊のように、バルダ=ウェズと共に向かってきている。


『12……、っ、進行方向20前後、右方30超、左方の崖の上にも“影”を確認!! 飛行種も見えるわ!! “魔物の群れ”よ!! 応戦して!!』


 銀に輝く馬車の周囲、そのすべてが、漆黒に染まっていた。

 どこから現れたのかバルダ=ウェズが乗るファリオベラと同種と“思われる”魔物や、かつて見たゴリラのような姿のガンガコングと“思われる”魔物、他にも鳥を模したと“思われる”魔物も確認できる。どれもこれも、確かにそこらで見たような気もする魔物たちだ。

 それでもすべてが不確かなのは、その魔物すべてがバルダ=ウェズと同じように黒い靄に覆われ正確に視認できないからだ。

 現れた影たちは獲物を追い立てる猟犬のように、バルダ=ウェズに並走、あるいは追い越すように疾走し、馬車の側面や前方にも展開している。

 バルダ=ウェズ同様に影に包まれた魔物たちはひとつの塊のようにも見え、アキラには正確な数など数えることもできない。

 ヨーテンガースにはもちろん危険な魔物も、そして魔物の群れも存在する。

 襲撃も同様だ。日常茶飯事と言ってもいいかもしれない。


 だが今、はっきりと分かっている “異常”がある。


 その魔物すべてが―――“マリサス=アーティ”に追従してくること。


「シュッ、シュロート!!」

「レイディー!!」


 カッ、と光が散った。辺鄙な山脈に戦場のような轟音が響き渡る。

 至る所から魔術が放たれらしい。

 ティアもマリスも、あるいは前方のアラスールも馬車の壁を気にもせずに魔術を放ったようで、銀に包まれた木片が吹き飛ぶ。

 アキラが目で追えた魔術の先、側面から馬車に襲い掛かろうとしていたらしい魔物が数匹は吹き飛んだらしいが、密集した影に吸い込まれたようにしか見えなかった。

 前方でもアラスールたちが魔物を蹴散らしているのだろうが、気づけば銀に輝く馬車が、黒い影に飲み込まれようとしているほどだった。


「この、黒い煙の影響か……!?」


 あっという間に周囲の影と、それを撃つ色とりどりの魔術に景色が染まった。

 辺鄙な山道だった旅路が、爆音と閃光に埋め尽くされ、響く振動に骨髄が揺さぶられる。


 この魔物たちは一体何なのか。

 バルダ=ウェズが“何か”をしたのか、あるいはそもそもヨーテンガースにいる危険な魔物の群れがたまたま現れただけなのか。

 九分九厘前者だろう、バルダ=ウェズがこの魔術らしき影を展開し、“そこらの魔物”たちの速度を爆発的に上げているということだろうか。

 当然アキラにはバルダ=ウェズが何をしたのか当然分からないが、何度目かの妙な感覚を味わった。


 今まで出遭ってきた魔族たちは、いずれも強大な力を持つが、その多くは単騎で現れていた。

 しかし影の奥のバルダ=ウェズは、今までの魔族たちの印象と重ならない。まるで魔物たちと一体となったかのように迫り来る。


 だが、多くの影を従え、迫りくるバルダ=ウェズの姿こそが、もしかしたらアキラがこの世界に染まる前に想像できた、不気味な配下を従え、世界を闇に包まんとする、分かりやすい『悪』の姿なのかもしれない。


「どっ、どうすんだこれ!! このままドラクラスに行けんのか!?」


 思考を強引に進め、アキラは誰にともなく叫んだ。


 馬車が向かう先はドラクラスである。

 この馬車を囲んでいるということは、影に包まれた魔物たちの速度はこの馬車より上だ。


 こんな大軍を連れて街に飛び込めば、それこそ被害など想像もできない。

 馬車の運転手たちには気の毒だが、いっそどこかへ誘導して、運転手を守りつつ全滅させてからドラクラスへ向かうべきであろう。


 そしてそのためには、当然、あのバルダ=ウェズも討伐することとなる。


『マリサス!! これ、聞こえているのか……!? マリサス!!』

「聞こえてるっす!!」


 声が前の馬車にいるイオリに変わった。


『アラスールは今応戦中だ、伝言を預かっている。とにかく思いっきり飛ばしてくれ!! ドラクラスに着けさえすれば問題ないらしい!!』


 馬車が半壊していく。至る所から爆撃音が鳴り響く。


「おいイオリ!! 正気かよ!? このまま街なんかに行っていいのか!?」

『アキラか!? 今は指示に従ってくれ!!』


 アラスールの言付けだろう。イオリも方針を変える気が無いようだった。

 疾走する馬車は、外から見れば中から放たれる数多の魔術のせいで爆発しているように見えるかもしれない。

 何か考えがあるのかもしれないが、こんな状態で町へ向かうなどドラクラスの住人たちにとってはたまったものではないだろう。


「……っ」


 アキラは剣を抜いて構えてみたものの、移動中の馬車に四方八方から飛び掛かろうとする魔物に対してはただのポーズにしかならなかった。

 周囲の魔物は大量で、黒い影に包まれているせいで、まともに捉えるのも困難である。

 馬車の後方は影で覆われはじめ、今にもその影が馬車の中へ雪崩れ込んできそうにも見えた。

 そんな場所に、先ほどのように不慣れな空中移動で飛び込めば、あっという間に影に飲み込まれてしまうだろう。

 近接担当ではできることが限られる。


 こちらで遠距離攻撃可能なのは、前方の馬車にイオリとアラスール、アキラの乗るこの馬車にはティアとマリスの4名しかいない。

 ドラクラスまで逃げるにも、迎撃の手が圧倒的に足りないように思えた。

 ならば。


『……全員よく聞いてくれ!! ……“無茶する気なら先に僕に言ってくれ”。すぐにラッキーでフォローできるようにする』


 アキラは思わず声のする馬車の天井を見上げた。

 こちらの様子、主に自分が何をしでかそうとしているのか見透かされているような気がする。

 ここにいる面子は止めろと言ってもやり兼ねないと思われているらしく、そしてそれがまったくもって正しい評価だった。

 召喚獣を有するイオリがいざというときに備えてくれるのならば、取れる選択肢も増えてくるだろう。

 アラスールがどう思うかは知らないが、イオリはイオリでこの面々の行動を予想した策を立ててくれている。


 アキラが小さく笑って息を吐くと、エレナが、じっとこちらを見ていた。


「……ちっ。めんどくさいわね」


 エレナがため息ひとつ、緩慢に馬車の後方に近づいていった。


 馬車の後方に迫った魔物を冷徹に見下ろしたエレナは、アキラがそうしたように馬車から慎重に降りると、今にも襲い掛かろうとしていた影に向かって拳を振り下ろした。

 何らかの短い悲鳴が聞こえたと思えば、エレナはその息絶えたらしい“影”を拾い上げ、振りかぶり、今度は目に見えない速度で腕を振り切る。

 一瞬の閃光と共に、馬車の後方まで迫っていた影の浸食が晴れた。

 高速で死骸が直撃し、魔物たちは失速、あるいは戦闘不能の爆発を起こさせたエレナの攻撃は、アキラの目に、ようやく戦果らしい戦果として映った。


「どう? アキラ君。…………あ? これでビビんないの? やっぱりめんどくさいわね」


 緩慢な動作で馬車に戻ってきたエレナが振り返り、肩を落とした。

 エレナが払った影は、あっという間に別の影に埋め尽くされている。

 彼女の言う通り、仲間の死にも、つまりはエレナ=ファンツェルンという脅威を前にも、魔物の群れは躊躇なく馬車へ駆け続ける。


 気だるげだったエレナの目が、すっと細くなった。


「……それと」


 アキラがエレナの真似をしようと慎重に近づいていくと、エレナがそれを遮った。

 彼女は、やはり、さも面倒そうな表情を浮かべていた。


「そこのガキ、もう攻撃するな!! 無駄よ!! アキラ君も下手に魔力は使わないで。こいつら―――“ついてきているだけはあるわ”」


 エレナが先ほど振り下ろした手を軽く振った。

 痛めたわけではないだろうが、ほんの少し感触を確かめているようなその仕草に、アキラはまた外の魔物たちを睨んだ。


「―――ディセル!!」


 より強い振動が馬車を揺さぶった。

 半壊した馬車の穴から見えた、影の世界は、その浸食をマリスが展開した盾のような魔術に阻まれる。

 黒い影の接近で距離感は鈍っていたアキラとは違い、周囲に展開している銀の魔法の恩恵か、マリスは全方位の接近を正確につかんでいるのかもしれない。

 馬車は、屋根は吹き飛びかけ、壁は穴だらけになり、未だに動いていることに違和感を覚えるほど、辛うじて形を保っているだけの惨状になっている。

 そんな被爆地のような惨状の中、馬や、馬車の運転席だけは新品のように形状を保っていた。もしかしたら運転手や馬車は外で何が起きているかすら気づいていないかもしれない。

 後部は吹き飛び、見晴らしだけはいい馬車の残骸が疾走しているのも、あるいはマリスがあえてそういう制御をしているのだろう。


「この魔物たち、随分“ちゃんとしている”みたいね」

「レイディー!!」


 マリスの銀の魔術が走った。

 再び影に飲み込まれるも、確かに走る魔物を捉えている。

 僅かに晴れた影の中、吹き飛んだ魔物が高速の世界から置き去りにされるも、戦闘不能の爆発は確認できない。

 効いていないわけではないだろうが、牽制レベルの攻撃では、マリスの魔術ですら決め切れていなかった。


 この魔物たちは、速度だけではないということだろうか。

 少なくとも、ティアの魔術では焼け石に水なのかもしれない。


 だがそれでも、今のところ魔物はこの馬車を囲んでいるだけだ。前の馬車がどうなっているかは分からないが、魔物たちはマリスやエレナに阻まれ攻撃らしい攻撃ができていない。

 そもそもこのふたりがいる時点で、たとえ魔物に囲まれていようが、この世界で最も安全な場所のような気もしてくる。

 ドラクラスへの到着を第一とするアラスールの指示も何か意味があるのだろう。

 そう考えると、自分ができることが少ないだけで、このまま大人しくしていれば問題なく切り抜けられる可能性が高い。


 アキラは、影の群れの向こう、もはや見えなくなったバルダ=ウェズを見透かすように眺めた。


「…………やっぱり行ってくる」


 アキラは呟いた。

 どこかで響いた魔術の爆発音に紛れ、エレナの舌打ちが聞こえる。


 自分でも驚くほど早く結論に辿り着いた。


 根拠はほとんど自分の直感だ。

 確かに大人しくしていた方が無難なのかもしれない。

 だが、バルダ=ウェズに対面したときに覚えた、あの妙な感覚が頭から離れなかった。


 そして、周囲を囲う影たちの力はやはり未知数だ。速度も影たちの方が速い。

 対してこちらの馬車からの攻撃手段は手薄な上に、それなりの威力を伴わなければ効果がない。


 分かっているのは、この状況を作り出したこの影が、“何か”であること。

 その“何か”が、魔物たちの力を上げているのであろうこと。

 そしてその影は、バルダ=ウェズが展開している可能性が高いこと。


 あやふやなことの多い推測だが、これはバルダ=ウェズの“攻撃”だと考えるのが妥当だろう。

 そして、バルダ=ウェズは“魔族”なのだ。


 野良の魔物の襲撃ならアキラも大人しくしていたかもしれないが、相手が魔族となればそうはいかない。


 相手が魔族ならば大人しくしているべき、というのは全くの逆だ。

 刺激しない方がいい。下手なことをしない方がいい。

 そんなものは通用しない。

 唯一の真実は、“何もしなくて助かるわけがない”、だ。


 現状だけを言えば、敵の攻撃は完全にはこちらに通用していない。

 だがそれは、魔族は間違いなく次の手を打ってくる、という意味になる。


「今度は間違えないよ。このままバルダ=ウェズに好き勝手させていたら何をしてくるか分からない。そうだろう」


 今更ながらに、最初にバルダ=ウェズに斬りかかったのを後悔した。

 あのときバルダ=ウェズではなく、奴の乗る魔物を攻撃していたら、こんな膨大な影に囲まれることはなかったかもしれない。


 そして、今からその膨大な影に、飛び込まなくても済んだかもしれない。


「アキラ君、大丈夫なのね?」

「ああ、大丈夫だ。……あ。俺が下手打ってマリスの魔法の外に出て取り残されたら、後で迎えに来てくれよ?」

「まあ、その場合は多分アキラ君、地面に激突してぐっちゃぐちゃになってるんだろうけど」

「……」


 行く気が失せた。

 それでも冷酷な事実を告げたエレナは、何の焦りもない、いつもの表情を浮かべていた。

 だからアキラは、眼前に迫る影の世界を、まっすぐに見据えた。見据えられた。


「大丈夫そうね」

「行ってくる」


 マリスに視線を送ると、周囲の影たちをけん制しつつ、小さく頷いてくれた。

 馬車の後方の銀の光が僅かに広がる。

 これ以上はあの影たちを払わなければ展開できないのだろう。

 最初に展開していたほどの、つまりはバルダ=ウェズに到達するほどの規模にするには、この影の魔物たちを払っていかなければならない。


「イオリ!! “無茶するぞ”!! キャラ・イエロー!!」

『―――え!? 君も今!?』


 イオリが何かを叫んだ。止められそうな気がしたのを振り切って、アキラは再び馬車から飛び出す。

 後で文句を言われるかもしれないが、言われた通りに報告したのだから大目に見て欲しい。


「―――おらぁっ!!」


 道標のように、エレナがどこかから捕まえた魔物の死骸を後方へ投げてくれた。

 一瞬だけ晴れた影の先、より一層深い影を纏った存在がちらりと見える。

 最初の時よりもずっと遠く、そしてずっと近くに感じた。


「キャラ・スカーレット!!」


 エレナが開いた道が埋まりそうになる直前、アキラは横なぎに剣を振るう。

 無理な態勢で強引に振るった剣は、鈍い衝撃と共に何体かの魔物を弾き飛ばすも、やはり重く、撃破しきれた気がしない。

 エレナの言う通り、中途半端な攻撃が通用するような魔物ではないようだ。

 だがそれでも十分だった。

 今のアキラに必要なのは、また一瞬だけ見えたバルダ=ウェズまでのルートの確保だ。


「―――、」


 後方から魔物が投げ飛ばされてくる。

 エレナが再三魔物を投げ込み、周囲の影を払ってくれているらしい。

 銀の光の中は水中のような不安定さを伴う。腕だけを振るうような無理な体勢でこの魔物たちを容易く葬っているエレナには相変わらず驚かされる。


「づ―――、キャラ・イエロー!! キャラ・スカーレット!!」


 眼前は影。影。影。

 一瞬だけ晴れ、そしてまたバルダ=ウェズの姿は見えなくなる。

 ほんの僅かにでも影を払い、銀の魔法の有効範囲を広げ続けるが、足場の生成と破壊の剣の連続使用で、魔力が目に見えて減っていた。

 頭の中が重く、酸欠を起こしたように視界が揺らぐ。

 だが、背後から届く援護が強引に意識を覚醒させてくれた。


「……ぐ」


 思った以上に前へ進めない。

 不慣れな戦い方のせいもあるが、それ以上に、それぞれの魔物が思った以上に強力で、簡単には跳ね退けられないのが問題だった。

 そして、攻撃も重要だが、それ以上に神経を割かなければならない足場の魔術の魔力の消費がかなり大きい。


 この影の向こう、バルダ=ウェズは何を考えているだろう。

 展開した魔物たちに埋もれながらも、こちらの状況は把握しているのだろうか。

 それともこの影の魔物たちに任せ、何も気にせず駆け続けているだけなのだろうか。


 そう考えるとますます腹が立ってくる。

 そして、アキラは、思った。


「キャラ・スカーレット!!」


 激しい魔力の消費で、熱に浮かされたようになったアキラの頭は、もう幾度かの魔術を放ったとき、きっと、壊れていたのかもしれないと。


「――――――、」


 何かを間違えた。だが、それが唯一の正解だったのかもしれない。


 縦に振るった剣で魔物を斬り飛ばしたとき、ふと、高速で流れる足元が目に入った。

 展開した足場に乗る足より、ほんの少し先、銀に輝く光の向こう、振り下ろした剣の切っ先があった。


 高速で流れる山道の先、バルダ=ウェズがいる。

 そうおぼろげに思って、剣を、ほんの少しだけ、地面に当てた。


「――――――ぎぃぃぃぃぃぃっ!?」


 剣を手放さなかったのは奇跡なのか本能なのか。


 腕がもげたかと錯覚した。

 地面に僅かに触れた剣は一瞬で視界から消え、認識できないまま身体がぐるりと回転していた。

 アキラの視界は銀と黒が悪夢のように混ざり合い、鼓膜が吹き飛んだような高い耳鳴りが響く。


 マリスの魔法はまさにアキラの望みを叶えていた。

 彼女の魔法の範囲では、アキラは銀に輝く高速の馬車の移動速度に追従できる。

 だが、彼女の言う通り、戦うとなると攻撃した相手には干渉できなければならず、ひいては相手からの干渉も受けられなければならない。

 今、アキラが干渉したのは、いかにマリスといえども動かせない、というより動かそうと思わない、不動の大地である。


 結果、アキラの身体は、一瞬、“馬車の移動速度から取り残された”。


「!!」


 人身事故とも言える事態は、アキラの身体を後続のバルダ=ウェズに高速接近させた。

 正しくは向こうから接近しているのだが、バルダ=ウェズまでのルートを埋め尽くしていた影たちは直前に払われ、アキラの身体は黒の煙の切れ目を吹き飛んでいく。


「キャッ、キャラ・イエロー!!」


 障害もなく高速でバルダ=ウェズに向かうアキラは、自分がどういう状況に置かれているのかを反射的に理解し、叫んだ。

 今自分は、衝撃できりもみしながら、前も後ろも分からないような状況で、“魔族”に接近している。

 自分が生存する可能性が高いのは、無防備に魔族に接近することか、あるいは高速で壁に激突することか。


「―――バッ!?」


 おそらく飛んでいると思われる方向に展開した“足場”に、べちゃりという音が響いた。

 何かが折れたか潰れたか。

 影とは別に、アキラの視界が真っ黒に染まる。


 ここからはもう反射だった。

 バルダ=ウェズにしてみれば何をしているのか分かりもしないだろう。


 勝手に馬車から飛び出してきた男が、勝手に吹き飛び、勝手に死にかけ、


「ギャッ、ギ、キャラ・スカイブルー!!」


 無様に魔術を乱発し、


「キャラ―――」


 突如として斬りかかってくる。


「スカーレット!!」


 ギンッ!! と金属音が響く。

 バルダ=ウェズとの位置関係など分かりもせずに剣を暴れさせただけだったのだが、どうやら目指していた場所には辿り着けたようだ。


「キャラ・イエロー」


 エレナとの約束通り、バルダ=ウェズの乗る魔物を狙いたかったのだが、流石に許してもらいたい。

 奇しくも最初と同じく脳天からの斬り下ろしになってしまったが、今度はアキラは慌てず一定の距離をとる。


 身体中の感覚は未だ無い。だが、ショックで痛みが無いのは救いなのかもしれなかった。

 先ほどの治癒魔術は絶命だけを避けるために発動したに過ぎず、恐らく足場に激突した頬と足のどちらかの骨は折れている。

 視界が暗いのは周囲を囲う影だけのせいではないだろう。

 念願叶ってようやく辿り着けたバルダ=ウェズの眼前だが、今すぐにでも馬車に戻ってまっとうな治療をしなければ冗談抜きで死ぬかもしれない。


 満身創痍で、魔力もほとんど使い果たし、目の前にいるのは魔族である。

 バルダ=ウェズから見て、目の前の男はどう見えるだろうか。

 とても正気とは思えないだろう。何しろ本人がそう思っている。


 だが、生存さえしていれば―――“斬り殺せる”。


「キャラ・ブレイド!!」


 アキラの身体からオレンジの色がより強く漏れる。

 脳震盪を起こしていた頭や感覚のまるでない体躯は殺意一色に染まり、目の前の敵に噴き出すような殺気を叩きつけた。


 危険にも並走する魔物を足場として踏み砕き、本体に流されかける殺意を辛うじてバルダ=ウェズの乗る魔物に向け、アキラは剣を振り上げた。


「……―――、……」


 影の騎士は、斬りかかってくるアキラを前に、淡々と駆け続けていた。

 殺意一色のはずのアキラの脳裏に、ノイズのような違和感が蘇る。


「……―――、……」


 時が止まっているような感覚がした。

 影の騎士に接近するたびに生まれるノイズが、頭の奥でくすぶり続けている。


 この違和感は何だ。分からない。だが知る必要はない。殺せばいい。だが。

 魔法に操られるアキラの身体はその意志に従うまま突撃するも、心のどこか、覚えた違和感は消え切らなかった。


 そして、目の前のここまで迫った今、その正体を、ほんの少しかぎ取ってしまった。


 敵は魔族。

 決して侮っているわけではない。その危険性は骨髄に刻まれている。

 『光の創め』への怒りはあるが、例えそうだとしても強く警戒すべき敵だ。


 だが、アキラが感じたことは。


 “この魔族が、恐くない”。


「……―――、……」


 剣が甲高い音を上げる。

 アキラが放った斬撃は、読まれていたのかバルダ=ウェズが容易く防いでくる。

 反動を利用して距離をとったアキラは、しかしすぐさま突撃した。悠長にしている時間は無かった。背後の退路を魔物たちが塞いでしまったら、マリスの魔法の範囲外になりかねない。


「……―――、……」


 ブツブツ、とバルダ=ウェズが何かを呟いているような気がした。

 バルダ=ウェズの黒い鉄仮面からは、当然ながら表情は読み取れない。

 三度斬りかかったアキラは、しかしその挙動から、ようやく、はっきりと、自分の違和感の正体が分かった気がした。


 バルダ=ウェズはヒダマリ=アキラを確かに認識している。

 攻撃を放てば防ぐし、その構えには斬りかかれる隙も無い。

 侮られているわけではないだろう。


 アキラの背中から汗が噴き出した。

 この異世界で、これを経験したのは、あのタンガタンザでの戦争のときだった。

 存在を認識された上で、侮られているわけでもなく。


 バルダ=ウェズは、ヒダマリ=アキラを、“見ていなかった”。


「―――“ヒダマリ=アキラとは、戦わない”」

「!?」


 念願叶ってバルダ=ウェズの乗る魔物に一太刀浴びせた瞬間、バルダ=ウェズが跳躍した。

 一瞬で移動速度から取り残されたファリオベラというらしい魔物は、黒い煙にくすぶる身体を大地に叩きつけて遥か彼方に消える。

 だがその騎手。

 アキラの頭上を軽々と跳んだバルダ=ウェズは、黒い霧をまき散らし、馬車に追う他の魔物の背を蹴り進んでいく。


 バルダ=ウェズが銀の世界に侵入した。

 アキラがここにいるから解除しないでくれているようで、マリスの魔法は展開されたままである。

 その中で恩恵を受けるのはバルダ=ウェズも同じのようで、銀の世界の中をアキラがそうしたように黒い騎士が進撃していく。


 向かう先は。


「づ―――、エレナ!!」

「は? なんか来たけど」


 アキラが叫ぶと、魔物を投げて道を作り続けていたエレナが面倒そうに新たな魔物を振りかぶる。

 バルダ=ウェズは高く跳躍し、剣を掲げた。

 その剣から、おびただしいほどの黒い煙が噴き出し始める。


「シ・ベアト」


 ブ、と。バルダ=ウェズが剣を振るった。

 その瞬間、アキラの位置から見ても分かるほど、くっきりとした横なぎの斬撃が、黒い煙を纏って射出される。


「―――ぃ」


 ドッッッ!! と、映画のような光景が眼前に広がった。

 巨大な黒の刃が馬車の方へ到達するや否や、銀の世界が黒く歪み、その衝撃で山道がベニヤのフローリングのようにめくれ上がる。

 まるで隕石が落下したかのような爆発は、黒煙を立ち上らせ、アキラの視界を真っ黒に染めた。

 高速で動く銀の世界はその惨状を一瞬で置き去りにし、アキラが気づいたときには、ふたつの銀に輝く馬車は遥か上空に吹き飛ばされていた。


 思わず目を覆いそうになった。

 あの馬車には、彼女たちも馬車の運転手も乗っているのだ。


「っ、マリス!! 聞こえるか!? そっちは!!」

『……大丈夫っす。外れたみたいで、地面が割れたせいで跳ね上がったみたいっすね。エレねーは、めちゃくちゃ怒ってるんすけど』


 胸が潰れるような思いをして叫んだのだが、応答はのんびりとしたいつもの声だった。衝撃に逆らわずあえて空に跳ね上げさせたのかもしれない


 アキラの周囲には銀の光が依然として展開されている。

 馬車が跳ね上がったせいか、その上空から大地まで、眼前すべてが膨大な銀の光に包まれていた。

 相変わらずぞっとするほどの魔力だった。


 馬車は、木片をまき散らし、残骸と化したぼろぼろの物体となり、銀の光に包まれながらゆっくりと降りてくる。

 そこに一緒に上空まで跳ね飛ばされ、冷徹な瞳でこちらを見下ろすエレナの姿も見えた。

 前方の馬車は、アラスールだろうスカイブルーの魔力が確認できる。

 外から見た光景とは違い、中の様子は平穏無事なのかもしれない。

 だが、胸を撫で下ろすのはまだ早い。


「マリス!! そのまま飛んでいけないのか!?」


 バルダ=ウェズからの違和感は、悪寒は拭えない。

 先ほどの交戦で、それが一層強くなる。

 バルダ=ウェズを最初に見たときのように冷静な判断ができていないわけではないが、いっそ自分を残してそのまま逃げて欲しいとさえ感じた。

 アキラが見ているものとまるで違うものを見ているような感覚が、身体の奥底を揺さぶり続ける。


『全員運ぶとなると距離が長すぎるんす!! せめてもう少し……』


 まただ。アキラは唇を嚙んだ。

 マリサス=アーティが出来ることと出来ないこと。

 論理の先にいる彼女の制限が分からない。

今のアキラにできることは思いつくまま喚き散らし、彼女が何かを思いつくのを祈ることだけだった。


「なっ、なら、イオリと協力すればできないか!? 」

『そうだ、イオリさん!! 召喚獣と自分とで全員運べないっすかね!? 最悪運転手さんたちだけでも…………。イオリさん? イオリさん!?』


 マリスが叫ぶが、アキラの耳には応答が聞こえなかった。

 何かあったのかと危ぶむも、破片をまき散らして宙を舞っているのは異常とはいえ、前方の馬車も後方同様、無事に見える。

 だが、前の馬車と後ろの馬車をつなぐ銀の光に、どす黒い煙が付着しているのが見えた。

 先ほどのバルダ=ウェズの斬撃は、前の馬車と後ろの馬車の中間を割いていたようだった。


「―――“ホンジョウ=イオリとは、連携させない”」

「キャラ・イエロー!!」


 アキラはバルダ=ウェズ目掛けて跳躍した。

 だが、バルダ=ウェズも魔物を足蹴に突き進み、一切振り返ろうとしない。

 嫌な感覚が拭えない。


 前の馬車は無事なのに、イオリやアラスールの声は一切聞こえなくなっている。

 バルダ=ウェズの先ほどの攻撃で、マリスやアラスールが発動していた声を届けたり、拾ったりする魔術が狂ってしまったのだろうか。


 舞い上がった馬車が、銀の光を纏いながら、まるで何事もなかったかのように落下してくる。

 そこに、冷徹な瞳で見下ろす女性が見えた。

 バルダ=ウェズは剣を構え、再びどす黒い煙を剣から放出し始める。


「-――おい。覚悟はできてんだよな?」

「シ・ベアト」


 共に落下してきたエレナが文字通り馬車を踏み砕き、弾かれたように落下しながら突撃してきた。

 バルダ=ウェズが今度は剣を振り上げて、真一文字に黒い斬撃を放つ。


「あん……?」


 一瞬、アキラも、そして恐らくエレナも、何か異質な匂いを感じ取った。


「……キュトリム」


 やはりバルダ=ウェズが纏う黒い煙は魔力であるらしい。

 避ければ馬車ごと斬り割かれるであろう黒の一閃を、エレナの右手が掴み取る。


 先ほど山道を襲った爆撃のような斬撃は、一瞬でライトグリーンに輝くエレナの手のひらに消えていった。


「っ、痛った!! やっろ!!」


 魔族の斬撃を前には流石に無傷ではなかったのかもしれない。

 魔力は消せても衝撃は残ったのか、右手を下げ、代わりに左拳を振り上げたエレナは、しかし変わらずバルダ=ウェズに突撃する。


 バルダ=ウェズは突撃してくるエレナを前に、反射的に再び剣を構え、しかし、何かを思い出したようにぴたりと止めた。


「―――“エレナ=ファンツェルンは、追い詰めすぎない”」

「ちょっ」


 バルダ=ウェズがまた魔物を蹴り、空中で方向を強引に変えた。

 アキラは、ほぼ直角に回避したバルダ=ウェズを睨みながら、エレナの落下位置に急ぎ、足場を展開する。あの勢いで落下したら、アキラのように地面に接触してしまうかもしれない。


「エレナ!! 無事か!?」


 軽々と“着地”したエレナは、即座に自分をやり過ごしたバルダ=ウェズを睨む。

 いつもの軽口は聞こえなかった。

 アキラもすぐに口を閉じ、足場を展開してエレナと共に宙を蹴った。


 アキラが感じた悪寒など、敏感なエレナなら即座に感じ取っただろう。

 奴は、自分たちが見ていないものを見ている違和感があるのだ。

 ふたりして言葉も交わさず、魔物を足蹴に馬車へ向かうバルダ=ウェズを追う。


「―――、」


 そしてアキラは、その瞬間、バルダ=ウェズが見ているものが、見えたような気がした。


 ようやく馬車が落下した。

 壁は破損し、車輪は至る所にひびが入ったガラクタが、しかしなんの異常もなく常軌を逸した速度で走り続ける。

 だが、それでも馬車は、すべての被害を忘れたように走り続ける。辛うじて見えた馬は、パニックすら起こしていないように見えた。

 マリスの魔法の限界や制約はまるで分らないが、それだけのことを実現している今、マリスも他のことに気を回している余裕はないと考えるべきだろう。


 “今は信じるしかない”。


「づっ、そいつを止めてくれ!! ―――“サク”ッ!!」


 アキラが叫んだ瞬間、魔物を“跳び交う”バルダ=ウェズの背後から、イエローの閃光が走った。

 黒い煙に紛れて魔物たちを迎撃していた赤い衣の少女が、この場の誰よりも最も速く宙を跳ぶ。

 アキラが銀の世界で移動していた方法は、何しろ彼女が本家本元だ。

 先ほどイオリが思わず叫んだ言葉から想像していた通り、サクもアキラと同じく馬車の外にいてくれた。

 まるで最初からそう言われるのが分かっていたように、サクはこちらを見ることもなくバルダ=ウェズの背後に迫る。

 鋭く放った一刀は、アキラが先ほど無様に繰り出した攻撃など比較するのもおこがましいほど、美しかった。


 が。


「―――“ミツルギ=サクラの位置は、常に把握する”」


 甲高い金属音が響いた。

 完全に不意を突いたはずのサクの刀は漆黒の剣に阻まれ、直後、剣からどす黒い煙が噴き出す。

 衝撃があったのか、サクは吹き飛ばされかけ、即座に足場を作って上空へ離脱した。


 やはり、やはり、やはり。

 アキラの頭の中に存在した、違和感や悪寒が確かな形になっていく。


 バルダ=ウェズは、ヒダマリ=アキラを、そしてアキラたちを“知っている”。

 “知っている上で、戦闘をしている”。


 もし仮に、アキラが、自分たちと戦うとしたら、何をするか。

 何を最初にすべきか。

 それが、今この瞬間になって、初めて分かった。


 自分たちと戦うのなら、まず、やるべきことは。


「―――そして」


 バルダ=ウェズが、いよいよ後方の馬車に足をかけた。


「―――“最初に落とすのは、アルティア=ウィン=クーデフォン”」


 バルダ=ウェズが、剣を、掲げた。


「―――そこまで来てくれるなら、馬車を操作してても問題ないっすよ?」


 また映画のような光景が展開された。

 漆黒のバルダ=ウェズが、馬車から放たれた膨大な光の中に掻き消えた。

 その破壊の光線がアキラたちの頭上を通ってくれたのは偶然ではないと信じたい。

 その光の中、黒い何かが通過した。

 目を焼かれたアキラはそれでも何とか目をこじ開け、バルダ=ウェズの姿が消えた馬車へ向かって跳躍する。

 ようやく久方ぶりに魔術ではない足場を確認できた。

 上手く馬車に追いつけたらしい。もしかしたらそれも、彼女が運んでくれただけなのかもしれないが。


「は……、はぁっ!? べっ、別に怖くなんてなかったでですすけど!!」

「分かった、分かったから」


 安堵と共に座り込むと、ティアが涙目で、震えながら治癒魔術を浴びせてきた。

 身体中の激痛が今になって強くなってきたが、それ以上に、大きな安堵が体中から力を奪った。

 ティアの治療を受けながら、アキラは遠い昔のことのように思えるバルダ=ウェズとの交戦を思い起こした。


 バルダ=ウェズは、ヒダマリ=アキラを見ていない。


 “いや、そうではない”。


 有する魔力も、身体能力も、経験も、そのすべてが人間とは比較にならない、規格外の化け物である、魔族。

 旅の道中で出遭ってきた魔族たちは、確かにその通りの怪物たちだった。


 だからこそ人々は策を練り、必死にその魔族たちに対抗してきた。

 それでも、“その存在である”ということがそのまま圧倒的で、決定的なアドバンテージである魔族は、そのほとんどを嘲笑っているという。


 アキラの身体に、ようやく魔族と相対したときの恐怖が浮かび上がってきた。

 いや、これは初めて経験したことだ。


「なんなんだあいつ……。魔族が人間を“攻略”しようとしていた」


 ティアの治療もそこそこに、アキラは強引に立ち上がった。

 アキラたちの乗る馬車には壁はなく、最早足場の板に車輪がついて動いているだけのような状態である。

 代わりに銀の光が周囲を纏い、暴風も何も感じなかった。

 大層見晴らしのいいこの馬車は、たった今、その危険な魔族を吹き飛ばした少女に操られている。


「マリス、大丈夫だったか?」

「問題ないっす。あれこれやってても、目の前にいたら流石にどうにでもできる」


 必死に魔術を乱発し、死に物狂いでバルダ=ウェズに到達し、それでもまともに攻撃できなかったアキラは、見ようによってはこの場に座ってのんびりしながら吹き飛ばした少女を見つめて、悲しくなってきた。


 周囲を伺うと、先ほどの交戦で散ったのか、黒の煙を纏った魔物の群れは遥か後方に見える。

 未だにこちらを追い続けているのだろうか。


「マリス、さっきので倒せてたりするのか?」

「いや、多分無事っすね。……吹き飛ばされた、というか、自分から吹き飛んでいった、って感じだったっす」


 マリスも腑に落ちない表情を浮かべた。アキラやエレナが覚えた違和感と同じものをかぎ取ったのだろう。

 アキラは目を凝らして後方を睨む。


 『剣』のバルダ=ウェズ。影の騎士。

 奴は、こちらのことを知っていた。

 アキラだけではなく、他の面々も把握していた。

 世界的に有名らしい自分たちの情報は、情報が容易く集まるヨーテンガースにいればいくらでも入ってくるのかもしれない。


 となると。


「……」


 遥か後方の黒い煙を眺め、アキラは眉を寄せた。

 マリスが追い返したバルダ=ウェズ。

 だがそれは同時に、噂話ではない、“自分たちの実際の情報”を持ち帰らせてしまったとも考えられる。


『……こえる!? マリーちゃん聞こえる!?』

「! 聞こえるっすよ」

『そっち何が起きてるの!? バルダ=ウェズは!?』


 前方の馬車はこちら以上に何が起きているか分かっていないだろう。

 マリスが維持しているのであろう、この馬車で唯一形状を保っている運転手席の向こう、多少は馬車の形状を保っている前方の馬車との間の銀の光に付着していた、黒い煙が消えているのが確認できた。

 やはりバルダ=ウェズの最初の斬撃は、この魔術を阻害するために放たれていたようだ。

 最早、行こうと思えば運転席を乗り越えてしまえば容易に前の馬車にも行けそうになってはいるが。


「ええと、アラスールさん、聞こえるか? 先ほど上から見た限りでは、黒い魔物たちはまだこちらに駆けていたが、距離は大分取れたみたいだ。バルダ=ウェズの姿までは見えなかった」


 突如サクの肉声が聞こえて視線を向けると、平然とした顔でサクがアラスールとやり取りをしていた。

 彼女はこちらの馬車に着地、というより着陸したらしい。


『サクちゃん? そっちにいるのね? ありがと、ならこのままとばしていきましょう。敵との距離は逐一報告してねん』

「……随分呑気に言うな」


 アラスールの声の調子にアキラは小さくぼやいた。

 たった今正体不明の魔物たちに囲まれ、魔族に襲撃され、自業自得だがアキラは死にかけた。

 そんな異常が立て続けに起こったというのに、それが過ぎればその余韻もなく、いつも通りの様子に戻る。

 アラスールは、戦場と日常が混ざり合った匂いのする女性だ。

 その感覚は正しいのだと、アキラは改めて認識できた気がした。


「なあサク。上から見て、魔物の数は分かったか?」

「お前も外にいたから分かるだろうが、正確に視認するのは不可能だ。だが多さだけなら、最初にアラスールさんが言ったときからほとんど変わっていないか増えていた、と思う」


 歴戦の魔導士であるアラスールの様子は落ち着いたものだったが、バルダ=ウェズに足を掛けられた後部の馬車の様子は緊迫していた。

 あと数分で追いつかれると言われていた先ほどとは違い、今は、黒い影はほとんど視認できない。だがそれでも、付きまとっていた悪寒や違和感は形を成し、先ほどとは別次元の危機感をアキラは覚えていた。


「そうだマリス。さっき言いかけてたやつ。イオリと協力して、もうラッキーでドラクラスまで飛んでいけないか? これ以上付きまとわれたら何されるか分からねぇぞ」

「そうっすね。イオリさん」

『……いや、極力避けたいわ』


 返答がアラスールからあった。

 元の世界の電話のようなこの魔術だが、それより精度は高いようで、妙に感情が伝わってくる。

 その感情が、声色が、神妙に聞こえた。


『そろそろ“ドラクラスのエリア”に入るわ。今、馬車以外の移動は“申請”できないの。……ったく、状況によるでしょうに……』

「は?」


 何やらごちゃごちゃと声がくぐもった。

 首をかしげてマリスを見ると、しばしじっと見つめ返してきたあと、口が小さく開いた。

 何かを思い出したらしい。


「……なあマリス。そろそろ教えてくれないか。さっきもそうだ、魔物を引き連れてでも街に行こうなんて言っていた。見た方が早いとか言ってたけど、俺たちが向かうドラクラス。そこは一体、何なんだ」

「……。そうっすね。“にーさんなら”、見なくても信じられるかも」


 マリスがちらりと面々に視線を走らせた。

 何やら、“記憶絡み”のことを言おうとしていることが察せられた。


「ドラクラスは、」


 山道は徐々に日も落ち始め、銀に光るこの馬車だけが、存在を強く主張している。

 見晴らしの良くなったボロ馬車は、上っているのか下っているのか分からない荒れた道を、大きな山を迂回して、鬱蒼と生え茂った樹海を眼下に突き進む。


「わ、わ、わ、何ですかあれっ、山……? なんか、変な山があります!!」


 マリスが口を開こうとしたとき、ティアが叫んだ。直近に命の危機があったばかりだというのに元気なものだ。

 また何かよからぬことでも起きたのかと身構えるが、マリスが手間が省けたとばかりに口を閉じたのを見て、アキラはゆっくりと、ティアの視線を追った。


「……は?」


 代り映えのない曲がりくねった山道を進み続け、視界が晴れた山と山の合間、眼下には鬱蒼と生え茂る樹海が広がっている。

 その向こう、その樹海が切り取られたように、妙にならされた砂地がぽっかりと開いていた。

 山々と樹海に囲まれた、広大な自然が作り出すその空間は、しかし、その中央に、夕日を浴びた巨大な黒い“何か”が座していた。


 迎え入れるようにと感じたのは、迎え撃つかのように、が正しかったかもしれない。


「あれが、ドラクラスっすよ」


 マリスがそう呼称した“それ”は、断じて街ではなかった。


 今のように高い山の中腹あたりから見下ろさなければ分からないだろうが、楕円形で、上部の方はやや丸みを帯びており、ドームのような形状をしている。

 自然の中にあり、明確に建造物だと分かるが、一方で、明確に否定できる根拠がある。


 巨大すぎる。


 距離感がつかめてくると、注視しているそれが、ずっと近くに存在していることが分かった。

 幅は十数キロ、高さも数百メートルはあり、切り立った山々に囲まれていると、山脈の一部としか思えない。


 しかし、黒く、巨大で、山々に囲まれたそれは、見れば見るほど鉄製のような硬度が見て取れるのだ。


 自然物と建造物のどちらとも思え、そしてそのどちらとも思えない。

 だが、その鉄製の姿から、攻撃的な印象を受けたアキラは、小さく呟いた。


「要塞……?」


 実際にイメージできる人がどれほどいるかは知らないが、元の世界で、東京ドームいくつ分のサイズという表現がある。

 この世界でも似たような表現はあるかもしれないが、目の前の、まさしくそのドームが肥大化したような形状の、自然物としても建造物としてもあり得ない何かは、物差しとしては使い物にならないだろう。


 もしかしたら前の馬車のイオリも似たようなことを考えているかもしれない。

 だが、ざわめく面々の中、アキラだけは、その背に、じっとりとした汗を浮かべていた。


 あまりに巨大な建造物―――ドラクラス。

 だがそれを作り出す技術が、この世界にあるとは思えない。

 つまり、非論理な存在。


 この世界に存在を許されないかのようなそれは、しかし何食わぬ顔で、確かに眼前にそびえている。

 そんな経験を、恐怖を、アキラは確かに、覚えている。

 その巨大なドラクラスを前に、アキラの視線は、ドラクラスの“麓”周辺の、妙にならされた大地に映った。


「マリス。まさかとは思うが、あれは」

「……そうっすよ。依頼の内容は、」


 アキラには、やっと意味が分かった。

 確かに、見なければ、この感覚が呼び覚まされなければ、信じられなかったかもしれない。

 アキラは、アラスールが散々言っていた言葉の意味をようやく理解できた。


 ドラクラスのどこにいるかも分からない『接続者』。

だが、成立するという。


「“引っ越し”、か」


 つまり、あのドラクラスは。


「……?」


 アキラがマリスに言葉を続けようとしたとき、彼女は、そしてアキラも、何かの気配を拾った。


「上だ!! 伏せてろ!!」

「ぐぇっ!?」


 エレナが鋭く叫び、ドラクラスに見入っていたティアの首根っこを掴んで床に頭から叩きつけた。

 下手をすれば眼前で人が死ぬ瞬間を見ることになりかけたが、エレナは構わず腕を掲げる。

 バジッ!! と肉の焼けた音が響いたと思えば、黒い煙が、ライトグリーンに輝くエレナの左手に吸い込まれていた。


 見上げれば、そこには、当然のように。


「バルダ=ウェズだ!! 飛んでる!!」


 慌てて叫んだアキラは剣を抜き放った。

 見上げた先、夜の帳が現れ始めた上空に、巨大な黒い煙にまたがった影の騎士がこちらを見下ろしていた。

 その黒い煙は羽ばたいているようにも見える。

 鳥類を模したようなそれは、また、“そこらの魔物”なのだろうか。

 先ほどまで以上に闇に紛れたその魔物は、魔物たちは、バルダ=ウェズに従うように群れを成し、いつの間にか上空を制圧していた。


「ちっ、アラスール!! バルダ=ウェズが出た!! 今度は空路だ!!」


 未だ声を届ける魔術が有効かも確かめず、アキラはそれだけ叫んで構えた。

 今、エレナだけが反応できた何かは、先ほど見た黒い斬撃だったのだろうか。

 また迷わずティアを狙ってきたのかもしれない。


「―――、っ」


 応戦しようとしたマリスが、ぴたりと動きを止め、馬車にかかる銀の魔法を強くしたように感じた。

 上空を抑えるバルダ=ウェズに対し、今は守りを固めるべきと判断したのかもしれない。


「―――“マリサス=アーティには、認識させない”」


 いや、そうではない。

 “バルダ=ウェズが捕捉できなかった”。


 上空の煙が膨張した。高さにして数十メートル。

 それが煙だけなのか、それともまた“そこら”から集まった魔物が密集しているのか、まるで暗雲のような黒々とした煙は、走る2台の馬車の上空を覆い尽くす。

 その煙の“どこか”に、バルダ=ウェズがいる。

 稲光のような魔力の波動が随所で迸り、今にも落雷がアキラたちを襲い掛かろうとしているようにも見えた。


「ティア、とにかく伏せてろ!! キャラ・イエロー!!」


 稲妻が迸る雷雲へ、アキラは“空”を蹴った。このまま見上げていたら末路は見えている。


 勢いよく駆け出したが、アキラは自分が向かう方向が正しいか分からなかった。

 眼前いっぱいに広がるのは、稲光を纏う巨大な暗雲。

 黒い煙を纏う魔物の集合体なのだろう、所々が蠢き、だが、まるで一個の存在のように漂っている。

 その中にどれだけの魔物がいるのか、そしてどこにバルダ=ウェズがいるのか。


 膨大な雲を目掛けて駆け出しても、果たしてどこへ向かえばいいのか。


「シ・ベアト」

「キャラ・スカーレット!!」


 “どこか”から、黒い落雷があった。

 唯一頼れる聴覚を鋭く発揮し、敵の詠唱と同時にアキラは慌てて剣を振るう。


「づ―――」


 辛うじて剣を合わせられたらしいが、両腕を稲妻に貫かれたような衝撃が襲った。

 感覚の失せた手をそれでも強引に握り、アキラはまた当てもない空への進軍を続ける。


 『剣』のバルダ=ウェズ。

 土曜属性の魔族だという。


 土曜属性の本分は、魔術的な影響を受けにくい属性であることらしい。

 魔力というものには、血液のように流れが存在する。

 だが土曜属性は、他の属性にとっては異物のような働きをし、その動きを鈍化させるというのだ。

 現にアキラの両腕には、剣で防いだにも関わらず骨が揺れているような痛みが未だにまとわりついていた。


 そしてその本分。

 眼前に広がる暗雲は、つまりは、土曜属性の魔力の流れを鈍化させる特性を持つ。

 視認は元より、たった今攻撃されたばかりだというのに、魔力の気配も追い切れず、攻撃の出所を推測すらできない。


 だが、アキラは進撃を続けた。馬車が狙われるよりはずっといい。

 敵の狙いであるティア、馬車の移動を担うマリスを何としてでも守り切る必要がある。

 自然現象の落雷のように予想もできない脅威に、アキラは身をさらす。


『っ、もう知るかっ、イオリちゃん、マリーちゃん!! 正面の崖、まっすぐ行くわ!!』


 アラスールの声にアキラは視線を走らせた。

 現在馬車はそれなりに大きな山の中腹を走っている。

 ある程度ならされた迂回道なのだろうが、切り立った崖の下は、あまりの高度と薄暗さで鬱蒼と生え茂っているはずの森すら見えなかった。

 その先に向かうと、道は大きく曲がっていた。薄ぼんやりとした空がよく見える。


 アラスールが言っているのは。


『ドラクラスへまっすぐ行くわ!! そこから飛んでいけばあっという間よ!!』


 可能な限り軽い言葉を選ぼうとしているのが察せられた。

 山道はまだまだ迂回する必要があったようだが、マリスの力をイオリの召喚獣と組み合わせればショートカットできるのかもしれない。

 アラスールの方がマリスが可能なことを察せられているのだろう。


 だがそれは、つまり、迂回道を使って確実に下っていくのではなく、その崖から落ちろということだ。

 あっという間なのはドラクラスへのことなのか、あるいはあの世へのことなのか。


 信じるしかないが、これで。


「……!」


 馬車が速度をさらに上げたとき、異変を感じ、アキラは思わず暗雲を見上げた。

 雲は、その速度に追従しながらも、徐々に縮小傾向にあった。

 違和感を覚える。

 こちらの動きを暗雲の中のバルダ=ウェズが察したのか、奴もまた、新たな手を打ってこようとしているのかもしれない。


「―――、」


 崖はもうすぐだった。

 時間にして数秒程度。


 そこに到着できれば、ドラクラスにはすぐに辿りつけるだろう。

 イオリの召喚獣とマリスの魔法の組み合わせは経験している。

 バルダ=ウェズが何をしたところで、“そこらの魔物”にはどうすることもできない速度が出るだろう。


 崖から落ちるというのは紛れもない大事故だが、イオリとマリスを信用することだけしていればいいと思えばアキラにとっては簡単だ。

 そして、そのドラクラスに到着できればどうにかなると、アラスールは判断している。

 それ自体に今さら異議は無い。


 つまりは、あと数秒でバルダ=ウェズを撒けることになる。


「―――、」


 そこで、その数秒が、無限のように感じた。

 もしかしたらこれは、“刻”なのかもしれない。


 初めてかもしれない。

 この“刻”は、今まで、アキラの目の前にある危機を乗り越えるために訪れていた。

 バルダ=ウェズの襲来に危機を覚えていないわけではないが、今までのように首に鎌がかけられたような、明確な危機ではなかった。

 それなのに、“刻”が訪れた。


 “いや”。


 チリ、と暗雲がいなないた。


「―――、」


 “今、明確な危機を迎えていると、アキラが確信しているだけだった”。


 バルダ=ウェズが姿を隠す暗雲の中、“何か”が起こっている。


 敵の位置は分からない。

 有効な攻撃手段も思いつかない。

 今のアキラには、その数秒でできることなど、それしかない。

 イオリやマリスの負担を減らすためにも、大人しくしているべきだ。


「“それだけは無い”」


 アキラは目を見開いた。

 眠っている感覚のすべてを叩き起こし、暗雲を睨みつける。


 チリ、と暗雲が、またいなないた。


 ヨーテンガースを、『光の創め』を、信用しよう。

 前提を置いていい。


 “ほんの数秒だとしても、何もしないで助かるわけがない”。


『―――おおっと、止めだ止め』

「―――……?」


 アラスールのものではない、男と思われる軽い口調が頭の中に響いた。

 暗雲の中、“何か”をしていたバルダ=ウェズと、それに対して“何か”をしそうだったアキラの動きがぴたりと止まる。


『はっはー、分かった分かった。勇者候補様、悪かったよ。バルダ、ちょっかい出すのは終わりだ終わり。撤収だ。日輪はそれ以上刺激しちゃまずい』


 頭に響く声に、周囲を見渡す。

 肉声でないがゆえに、音源は分からない。


 だが、その声だけで、いなないていた暗雲から感じていた、むせ返るような“何か”の気配が急速に引いていく。

 それと同時、アキラが叩き起こした“何か”の感覚も、薄れていく。


 無限と思われる数秒の中、分からないものが、分からないまま、消えていく。

 いや、“消された”。


 馬車の面々は、止まったような時間の中、前の崖を目指して疾走していた。

 聞こえたのは、自分だけなのだろうか。


 あの、聲が。


「……!」


 暗雲から、ひとつの塊が飛び出し、舞い上がっていった。

 暗い空に紛れ、あっという間に消えていく。


 残る黒煙は依然として自分たちを追ってくる。

 だがアキラは、そんなものは目に入らず、今なお迷子のように周囲を伺い続ける。


 聲の主は、見つからない。


「―――ラッキー!!」


 念願の崖に到着したのか。

 落下事故と同時に銀の世界の中で、イオリが召喚獣を繰り出した。

 流れるようにマリスが召喚獣の背の上に銀の光を展開する。

 半壊どころか全壊した馬車は、面々ごと銀の光に包まれた。

 暴風すら届かない。静かな夜の空だった。

 どういう仕組みかはもちろん分からないが、ラッキーの積み荷は銀の光だけで、その中にふわふわと浮いている馬車や馬、そして自分たちの重量は感じていないのかもしれない。


『見えた!! ドラクラスよ!! マリーちゃん、バルダ=ウェズとの距離は測り続けて!!』


 ドラクラスがぐんぐんと近づいてくる。

 樹海にそびえる、非現実的な巨大な黒い箱が、さらに巨大になっていく。


 それでもマリスはアラスールの指示通り暗雲に鋭く視線を走らせていた。

 サクも、ティアも、エレナも、今なお追ってくる暗雲を警戒し、臨戦態勢を取り続けていた。

 緊急事態に崖から飛んだ馬車は、魔法の力に支配され、今なお緊迫した空気に支配されていた。


 誰も、気づいていない。知らない。


 そんな中、アキラは形だけ剣を構えた。

 流石に召喚獣とマリスの力の組み合わせで、あっという間に距離をとれたが、黒煙の魔物たちはまだこちらを追ってきている。

 ドラクラスに到着したら、まずはあの“残党”の処理から始めることになるだろう。

 あの謎の、いや、“そこらの魔物”たちは脅威だが、決定的な脅威の方はこの場を去っていることを、アキラは知っていた。


 それは、バルダ=ウェズのことなのか。

 あるいは、あの、聲の主のことなのか。


「……」


 アキラはまた、迷子になったように、周囲を伺った。

 夕焼けと夜の帳が交わる空にも、自分たちが疾走してきた山道も、目前に迫る古墳のようなドラクラスの周囲にも、何も見えない。


 誰も、気づいていない。知らない。


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[一言] おんりーらぶのこの形の見えない焦燥感の中で日輪が輝く流れすこ
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