第58話『光の創め1---終わりの始まり---』
―――***―――
「……むぅ」
口から変な音が出た。
静まり返った自分の部屋は、明かりを付けていても薄暗く感じる。
当番制という訳ではないが、いつもの同室の娘は、本日は別の仲間の部屋かどこかに転がり込んでいる。騒ぎが聞こえないから、およそ行先は検討が付くが。
エリサス=アーティは久しぶりにひとりで宿屋の部屋で身体を休めていた。
自分の育ったアイルークの村を模したらしいこのカーバックルという村は、見回ったところ、望郷の念を呼び覚ますほど類似していないようだ。シンボルの高い塔はしばらく見上げていたものの、残念ながら誰も落ちてはこなかった。
ベッドにだらんと身体を預けていると行儀が悪いような気がしてくるが、ひとりなのだから目を瞑って欲しい。
このヨーテンガースに辿り着いてからというもの災難続きで、ほとんどひとりの時間というものを取った記憶が無かった。
だがこうしていると、出てきたような気がした疲れが引っ込み、どこかへ出歩きたくなってくる。
落ち着きが無いわけではないと思いたい。もしかしたら自分はひとりというものが嫌いなのかもしれない。
人は多かれ少なかれそうかもしれないが、それでも割と、ひとりでも平気な様子の人は、少なくとも仲間にも数人いる。旅の資金に余裕が出来てきた今、部屋が空いていればみんな基本的にひとり部屋を選ぶのだから。
だが、自分は駄目だ。
シンと静まり返った自室にいると、無性に外に出たり、誰かと話したくなったりしてくる。
寂しがりなのだろうか。そう自己分析してみると恥ずかしくなってくる。
もし自分がこんなことを考えていることを知られようものなら、それこそ四六時中一緒にいてくれそうな人物に思い至ったが、今日は同室ではないので助かった。
それなら他はと、ぼんやりとしたことを考えると、彼に思い当たった。
笑われそうな気がしたが、こんなくだらないことでも、真面目に聞いてくれそうな気もする。
「……むぅ」
また口から変な音が出た。
答えに辿り着けないこの感情の方は、自己分析のしようもない。
数日前だ。
ちょっとした問題が発生した。
リリル=サース=ロングトン。
その名前は、出会う前からエリーが何度も目にしていた人物だ。
たったひとりで世界各地の問題を解決し、並々ならぬ活動力と、噂に違わぬ実力を持った、世界の希望である勇者様のひとり。
そんな生きる伝説とでも言うべき人物と、なんと自分たちはしばらくの間行動を共にしていた。
文字でしか知らなかった彼女に実際に会ってみても、その評価は変わらない。何に対しても真剣で、誠実で、真摯に取り組むその様は、何の事前情報無しで思い描く勇者という存在そのものだった。
女性のエリーから見ても、文句のつけようのない、素敵な女性だった。
そんな彼女は、今、自分たちから離れ、ヨーテンガースのどこかへ向かっていってしまった。
そしてその日から、“彼”の様子が少しおかしい。
というか、元気が無い。
彼女の離脱の理由をエリーは知らない。
喧嘩でもしたのだろうか。思い浮かべてもしっくりこず、聞こうと思っても、聞いてはならないとでも言われている絶妙な空気が漂っていることに気づいてしまった。
気になる。
だが、知ることができない。
その上、“彼”の様子がおかしいと言っても、自分の見立てでは時間が解決するように思えるのだ。誰かが上手くフォローしてくれたのかもしれない。
そうなってくると、エリーには打つ手がない。
自分が介入する前に、概ね解決してしまっているような状態だった。
だからずっと、自分は悶々としているしかない。
“彼”は、リリルのことをどう想っていたのだろう。
あるいはリリルは、“彼”のことをどう想っていたのだろう。
そう考えると胸の奥に鷲掴みにされるような感覚が襲う。
あまり考えたくはないが、おそらく正解のような気がしている答えがあり、そしてそれが答えなら、何故彼女は離脱したのかという疑問にぶつかる。
そしてその手の話なら、出遅れて部外者になりつつある自分が出来ることは何があるだろうか。答えが見つかる気がしなかった。
やはりひとりでいるより誰かといる方が好きだ。
話でもしていれば気も紛らわせるかもしれないのに。
「…………それだ」
とりあえず、話でもすれば彼の気も紛れるかもしれない。
エリーは嫌な予感を振り払うように勢いよく立ち上がった。
すると。
「……?」
そこで、エリーの耳が聞き慣れた音を拾った。
理解が一瞬追いつかなくなる。
外を見ると、月が、高い塔の影を落としていた。強い既視感にかられる。
エリーはこの旋律を崩さないように、静かに部屋を後にした。
――――――
おんりーらぶ!?
――――――
月が高い夜だった。
それでも、手に届きそうな距離に見えた。
遠くにあるものと、近くにあるものが混ざり合い、星が薄くなった雲を突き破って輝きを増し、今にも降ってきそうに思えた。
身体中が浮かび上がったような浮遊感を覚え、それでも足は確かに踏みしめている。
現実感の無い夢のようなその世界で、静かに足を踏み出した。
「……久しぶり」
ヒダマリ=アキラは、彼女の作り出したこの世界を壊さないように、慎重に言葉を選んだ。
すると彼女も同じように、慎重に歩み寄ってきてくれた。
「待ってたっすよ、にーさん」
共に旅するエリサス=アーティの双子の妹。
姉とほぼ唯一の違いである銀の長い髪と、色彩のやや薄い瞳を半分ほど閉じている。
古くは姉と共にアイルークで育ち、現在はここヨーテンガースで魔導士を務める―――この物語の終点と始点。
マリサス=アーティが、そこにいた。
「やっと……、辿り着けたよ。マリス」
思わず言葉が漏れた。
頭を悩ませ、多くの言葉を用意していたはずだったのに、何も思い出せない。
自分がこの“三週目”に落とされて、真っ先に探した人物が、目の前にいる。
触れたら壊れてしまいそうな、気づいたら覚めてしまいそうな夢の住人が、目の前にいる。
どこで命を落としていてもおかしくない長い旅の先、ようやく出逢えた彼女は、自分が何度も思い描いていた通りの姿をしていた。
想像を絶する感動にアキラが身動き取れずにいると、彼女は、ゆっくりと、いつものようにとぼとぼと、歩み寄ってきてくれて。
ぺたりと座り込んだ。
「お、おい?」
「……立てない」
「どうした? 大丈夫か? ま、待ってろ、今誰か呼んでくる」
「いや、……具合は悪くないっす」
蹲ったまま首をふるふると振られた。
下手に手を貸すと壊れてしまいそうなほど小さい背中にどうしようもなくうろたえていると、彼女は今しがたアキラが登ってきた塔屋を指差した。
恐る恐る手を出すと、彼女は弱々しく手を預けてくる。
とりあえず彼女の示す通り連れていき、ゆっくりと背を預けさせた。
体調が悪そうに見えたが、この時間ではどうすることもできない。
アキラも同じように隣に腰を下ろした。
そういえば。
“二週目”。自分がこの世界に落とされたときも、そしてこの村でも、彼女とここでこうしていた気がする。
「……覚えて、いるんだよな」
アキラはそう切り出した。
この物語の前提だ。
ヒダマリ=アキラは、このマリサス=アーティの操る魔法で、時を遡った。
彼女には自分のわがままを通してもらい、世界を何度も塗り替えたのだ。
その術者のマリサス=アーティですら、“二週目”では記憶を失っていた。
なんの根拠もない感覚だったが、うずくまったまま頷くだけで返した彼女を見て、しかしアキラは安堵と共に納得した。
「……言葉もないな……。いや、言いたいことはあるんだ。なんだろう、その、ありがとう、とか、助かった、とか」
マリスが大きく息を吸うのが分かった。
ずっと離れ離れになっていたマリサス=アーティという人物を、自分はどこまで把握しているのだろう。
少なくとも自分は、絶句するほど感極まっているのだが、マリスの方はどうだろうか。
現在、彼女はこの最後の大陸ヨーテンガースで立派に魔導士を務めているらしい。
長い間その想像もできない激務をこなしていたマリスは、どこまで自分のことを覚えているのだろうか。
あのホンジョウ=イオリと再会したときのことを思い出す。
あのとき自分は、彼女は怒っていると思っていて、むしろそのことについて後から怒られた記憶がある。過剰な謙遜は、相手の目には卑屈な態度に映り、失礼なことなのだとおぼろげに思った。
もしこの自分に、少しでも価値があると信じるならば。
「待っていて、くれたのか?」
「…………そうっすよ」
今度こそ、彼女は顔を上げてくれた。
先ほどより、やや無表情になっているように思え、アキラの脳裏に、妙な焦りが生まれた。
この顔の無表情には、あまりいい記憶が無い。
「遅いっすよ、本当に。聞いていた話と全然違うこともしてたみたいだし、一体何がどうなったらそうなるんすか」
「それは悪かったって。だけど、思った以上に思った通りにならなくて……、そうか、やっぱ色々間違えてたのか」
案の定、マリサス=アーティ嬢はご立腹だった。
確かに、世界を悠長に回っていたアキラを待っている間の時間、あの“死地”に入り続けることになるなど正気の沙汰ではない。
マリスの身に降りかかった災難はアキラには想像もつかないが、少なくとも、自分ではとっくの昔に犬死していただろう。
「……あれ。にーさんは、最初の記憶は無いんすか?」
「ああ、ほとんど無い……というか、マリスはあるのか?」
遠慮がちに、弱く頷かれた。
アキラは目を細める。
あの“二週目”の最期。
自分の記憶は完全開放された、はずだ。
曖昧にしか言えないのは、現在の自分が持っている確かな記憶は、“二週目”以降の記憶のみだからだ。
記憶の封は、日々の中、“刻”と表現している事件が訪れると順次解放されていくようで、旅の中で助けられたり足を引っ張られたりした覚えがある。
一度は失った記憶だ。この“三週目”には、封をされたような、ちょっとした既視感くらいしか持ってくることが出来なかったのかと深く考えなかったが、今更ながら、ひとつ気になることがある。
“二週目”のことだ。
自分は確か、軽い記憶障害を患っていた。
自分の生まれ育ちは把握しているのに、この異世界の入口に足を踏み入れたという事件とも言うべきことは、まるで思い出せなかったのだ。
結末に辿り着き、この逆行魔法の副作用のようなものだったように捉えていたのだが、そうなると、この“三週目”の最初に、“異世界に来たときの記憶の封”が解放されていても良さそうなものだ。
となると、もしかしたら。
その記憶障害は、自分は“一週目”のときも患っていたものなのだろうか。
「じゃあ、にーさんはここでのことも思い出してないんすか?」
「……え」
少しだけひやりとした空気に我に返った。
マリスはこちらを探るように半分閉じた眼を向けてきていた。
「……あ、そうだよな。最初もマリスがここにいた気がしないでもない」
「……。……。そうっすよ。じろじろ顔を見られた記憶があるし」
「それは悪かったけど、流石に許してくれよ。……風が強かったな」
「……感じ方の問題かもしれないっすけど、むしろ今日の方がある気が」
「天気は、少し崩れていたか」
「…………、いや、晴れていた気が」
「よく覚えてるな」
マリスはまた無表情になった。
特に深く考えずに話していると、段々と思い出してきた。
わざとやっているわけではないが、彼女との会話は、こんな感じだったような気がする。
そしてそのたびに、自分はマリスの知識や記憶力に感心し、マリスの機嫌が悪くなるのだ。
「それで、マリスはまた休暇でここにいるのか?」
「……覚えているじゃないっすか」
むぅ、と唸りそうな表情を浮かべた。
覚えているというのは正確ではない。単なる既視感がこの口から出ていくだけなのだから。
その漠然とした感覚はどうやら信頼が置けるようだが、少なくともイオリやマリスの確たる記憶とは異なるのだ。
頭がくらりとする。
駄目だ。マリスとの再会の衝撃も手伝って、頭が上手く働かない。
自分を取り巻く様々な疑問が解けそうで解けないような、妙な浮遊感を覚える感覚にアキラは苛まれ始めた。
自分は変わっているのだろう。目の前の出来事に執着して思考を凝らす癖が出来てきている。
その良し悪しは、分からないのだが。
「にーさん?」
一方マリスはどうやら変わりないようで、相変わらず表情の読めない半分閉じた眼を向けてくる。
彼女が辿り着かせてくれたこの“三週目”の世界は、彼女にとってはどうだったのだろう。
自分は多少なりとも変わっているつもりだが、マリスは、アキラの目には“二週目”の姿とそっくりそのまま重なって見えた。
超常的な力を持つ彼女にとっては、アキラにとっては理外のことでも、日常の延長に過ぎないのだろうか。
そう考えるとこれ以上取り乱すのも恥ずかしいような気がしてくる。彼女にとってはアキラの感動すら大げさなことなのかもしれないのだから。
「……いや、大丈夫。大丈夫だ。それで、何でここにいるんだ?」
冷静を装って話を戻すと、マリスはまた半分の眼でじっとこちらを見つめてくる。
表情を崩さずにいると、彼女は諦めたように視線を逸らした。
「……今回は休暇じゃないんすよ。…………後で、話があるんす」
「? 今でもいいけど……、ああ、みんなにも話した方がいいってことか」
「……そうっす。だから、それは明日とかで」
「分かった、集めておくよ。マリスもここに泊まっているのか? それじゃ明日、受付のとこに行けばいいよな」
そう言って立ち上がったが、マリスは動かなかった。
見下ろすように振り返ると、彼女はじっと見上げてくる。
「もう少し、ここで」
ゆっくりと彼女は言った。
あるいは彼女の顔を見たとき以上に、妙な懐かしさを感じた。
「あれ。前にもあったっけ、こんなこと」
マリスが笑ったような気がした。無表情のままのときでも、たまにそう感じることがある。
答えを隠されているように見えたのが妙に悔しくて、アキラは腰を下ろし、記憶を呼び覚ました。
しかし、結局思い当たらず、精々おぼろげな記憶の匂いだけしか探り当てられなかった。
ただ、マリスとこうして並んでいると、今までのようなもどかしさは、何故か感じない。
ぼんやりと見上げた先の月は、やはりぼんやりと浮かんでいた。
「……にーさ、」
「はっ、えうっ!?」
マリスが何かを言いかけたとき、奇声が聞こえた。
目の前のマリスの眼が大きくなる。
恐る恐る振り返ると、それより大きな眼が同じ顔に浮かんでいた。
「え……は、え?」
信じられないものを見るような顔で口をパクパクと動かしていたのはエリサス=アーティ。アキラと共に旅するマリスの双子の姉だ。
アキラは驚きこそすれ、さほど困惑はしなかった。
彼女もまた、唄声に導かれてきたのだろう。
「……ちょ、ちょっと待って。え、なに。マリー? マリーだ、マリーがいる。あれ? あの、あたしはこっち」
「なにを言ってんだ?」
「あたしも分かんない……。情報量が多すぎて……」
エリーは、未だ整理の付かない顔で大きく息を吸って吐くと、恐る恐る立ち上がったマリスに歩み寄ってきた。
同じように立ち上がって身を引いたとき、アキラの脳裏に何かがかすめる。
確かにこんなことが、前にもあったような気がした。
「ええと、」
マリスが鋭く視線を投げてきた。
意図に気づいてアキラは小さく首を振る。
その視線の意味はきっと、“話しているか”、だろう。
「……。……やっぱりねーさんだったんすね」
落ち着き払ったマリスの声だけを聞いて、アキラは少し驚いた。マリサス=アーティは器用な嘘を吐けるような人物だったろうか。
「この人と一緒に旅しているっていうのは」
「……ああ、そう、そうよ。え、マリー。マリーよね。……こ、この町にいたの?」
「少し用事があって来てたんすよ」
同じ姿で同じ顔で、せわしなく表情を変える姉と、物静かに応答する妹の様子が妙に面白くて見比べていると、マリスは目配せしてきた。
話を合わせろということだろう。
「……すげぇな。本当にそっくりだ。唄が聞こえて来てみたらびっくりしたよ。ちょっと感動してる」
「……え。ああ、そうでしょうそうでしょう。そうね、うん。紹介するわ」
ようやく落ち着きを取り戻せたようで、エリーは胸に手を当てて、しかし今度はどちらをどちらに紹介するのかを悩み始めたようだった。
しばし待つと、ようやく決めたのかマリスの横に立つ。
“二週目”で見慣れたと思っていたのだが、このふたりが並んで立つと流石に壮観だった。
「何度か話したことあったと思うけど、あたしの妹。ほら、マリー」
「マリサス=アーティ。マリーっす」
事情を知らないエリーには悪いが、茶番のように思える。
「俺はヒダマリ=アキラ」
だがアキラは付き合うと決めた。
逆行魔法の特権だ。またこの出逢いを味わえるのだから。
「よろしく、マリス」
―――***―――
「いっった!?」
「そんなに強く叩いてないよ。魔力は使ってないんだから」
「この世界の法律とかに詳しくないけど、仮に使ったらそれって事件沙汰なんじゃないか」
翌日。
アキラは早朝からご機嫌斜めな女性に背中を叩かれながら宿屋の廊下を歩いていた。
初代勇者が現れた村であるリビリスアークを模したというこの町は思いの外広い。初代勇者が、そしてこのヒダマリ=アキラ自身が現れた高い塔を中心に、一定程度の賑わいを見せている。
アキラの記憶しているリビリスアークよりは活気づいているような気もするが、その高い塔以外は特に特徴もないこの町が栄えているのは妙に面白くないような感覚にとらわれた。
それはおそらく自分の贔屓なのだろう。住めば都とも言う。住民たちにとっては良いところは沢山あるのだろう。
アキラたちが泊っているこの宿屋も外観の割には広く、内装も余計な置物も無くさっぱりとしていた。
旅の疲れを取るだけなら適しているだろう。落ち着いた雰囲気のあるこの宿屋には居心地の良さを覚えた。
その長い廊下で、どうやら気を落ち着けられなかったらしい彼女は、またぺしぺしと馬に鞭をくれるようにアキラの背中を叩いてくる。
ホンジョウ=イオリ。
モルオールで魔導士を務め、現在は休職中の旅の仲間だ。
彼女とアキラの共通点はいくつかある。
同じ異世界来訪者で、そしておそらく同一の異世界から訪れており、国や地域も同じだろう。
だが、共通点の中でも今特に重要なのは、彼女もアキラと同じく、自分たちが逆行した世界の中にいると認識している人物だということだ。
「言っておいたよね。彼女を見つけたら、いつ何時でも呼んでくれって」
「唄が聞こえたらお前も来るって思ってたんだよ。夜だったし、寝てるのかもしれないって思っててさ」
「昨日は魔術師隊の支部に行っていたんだよ。もし前々回と同じようにここで逢うなら情報が出ているかもしれないって思っていて。……油断した。お忍びで来ているくらいじゃ魔王出現の噂に塗り潰されるか……」
イオリは爪を噛んで不機嫌さを隠そうともしていなかった。
「いいじゃないか。これから行くんだし」
「それはそうだけど、みんなに会う前に訊いておきたいことがあったんだよ。……いや、すぐにでも、か。書置きくらいはして欲しかった」
「俺はこの世界の字が書けない」
「なおさら都合がいいじゃないか。僕らだけが分かる言語でドアの前にでも貼っておいてくれれば」
「お。頭いいな」
またパン、と背中を叩かれた。
「そんなに気になってたならこの町着いたときにでも言っておいてくれよ」
「それは君が、……いや、何でもない」
イオリは言い淀み、今度は背中に手を当ててきた。
振り返えるとしたら、イオリはっと気を吐くだけを返してきた。
同じく逆行の認識があるホンジョウ=イオリは、しかしアキラと根本的に違う部分がある。
アキラは逆行の加害者で、イオリは逆行の被害者だ。
この“三週目”でアキラと出逢うまで、この事象を引き起こした存在もその理由も分からなったとなれば、その混乱などアキラの比ではない。
イオリは、アキラの自分勝手な願いに巻き込まれたに過ぎず、気の狂うような思いをしたこともあっただろう。
それだけに、この逆行魔法の術者に逢いたい気持ちは強いようだ。
そう思って朝早く伝えに言ったつもりだったのだが、それでも彼女にとっては遅かったらしい。
「彼女は受付で待つと言っていたんだよね?」
「受付で集合って言っただけだよ。まだ早いかもしれない」
「それならそれでいいさ。いなかったら食事でも済ませておこう」
イオリらしからぬ非効率な行動だ。
随分と気持ちが先行している。というより、妙に焦っているように見えた。
普段冷静な彼女がこうしている様子を見れば見るほど、いよいよ申し訳なくなってくる。
「悪かったって」
「……いいよ、もう。それより、彼女と何か話したのかな?」
「ああ。風が強いな、とか、晴れてるな、とか」
「なにそのつまらなさそうな会話」
イオリはジト目で睨むと、肩の力を抜いた。
「それで。彼女は記憶はあるの?」
「ああ、あるみたいだ。……何となく、そんな気はしてた」
「ふぅん。じゃあ僕のことも知っているのか」
「……あ、そうだな。言うの忘れてた」
先ほどより強く背中を叩かれた。
振り返ることも許されずイオリは勢いよくアキラを抜いていった。
一向に機嫌が治らないイオリに恐る恐る並ぶと、彼女は強く口を結んで眉間にしわを寄せていた。
これはもうどうしようもないような気がして、アキラは話題を変えることにした。
「なあイオリ。マリスに訊きたいことって何なんだ?」
「……『世界のもうひとつ』」
イオリから渋々といった様子で出てきた言葉に、アキラの歩みは緩まった。
どうやらイオリの目的は、久々の再会に親睦を深めたいという穏やかな話では決してないようだ。
その言葉には、それだけの意味がある。
「……興味あるのか」
「あるね、あるさ。話を聞くだけですら非論理の存在だから、僕の、というより人間の理解が及ぶとは思っていない。だけど、月輪属性の彼女なら、多少なりとも知っているかもしれない」
早口でまくしたて、イオリは勢いよく階段を下っていく。
『世界のもうひとつ』
旅の途中で仕入れた情報で、最も謎に包まれたそれは、未だにアキラの理外にある。
分からないものは分からない。
そう割り切ってしまっているアキラと違い、イオリはそれを強く追い求めているようだった。
学者肌というやつだろうか。
最早必死に見える彼女の様子を見て、それだけではないような気もするが。
「……俺、日輪属性だぜ? 教えようか?」
てっきり、当てにならないとでも言われてばっさり切り捨てられると思っていた。
だが、階段の踊り場で足を止めて、彼女は振り返った。
綺麗な黒い瞳が、少しだけ見開いたように見えた。
「……君より、彼女の方が丁寧に教えてくれそうだからね」
その僅かな間に、妙な違和感を覚えた。
だが、気づかないふりをした。
彼女がこうした態度をとるときは、深掘りして欲しくないときだからだ。
だからアキラはむっとした顔を作った。
「……なんだよ。俺だって少しは知ってるぜ? ……たまに、そんな感じの感覚があるっていうか」
アキラの演技などイオリにはすぐに分かったようだ。
だから彼女は申し訳なさそうな顔をして、笑った。
「なんでもいいぞ。訊いてみてくれ」
「じゃあ、―――、―――、――――――?」
おかしい。
アキラはこの異世界の言語も文字も知らない。
だが、普通に会話が出来るのは、世界の優しさとやらの力で知らない言葉でも分かるからだ。
だがイオリが発した言葉は、何らかの専門用語が並んでいたように思える程度で、頭に何も入ってこなかった。10秒くらい、イオリが未知の言語を話していたような気さえする。
もちろんからかわれていることは分かったので、抗議の視線を送ってみた。彼女はやっと笑ってくれた。嘲笑のようだが。
「……少し勉強した方がいいかもね。そうだ、手始めにこの世界の文字なんてのも覚えてみるのはどうかな…………分かりやすく渋い顔をするね」
「嫌な言葉だ。勉強」
「ふ。僕に教えてくれるんだろ? じゃあ多少なりとも、かみ砕いて説明できるようになってもらわないと」
悪ふざけ半分だが、イオリに頼み事をされるのは珍しい。
日頃の恩を返す貴重な機会だ。
「…………。分かったよ」
「嫌々だなぁ……。じゃあ僕が教えようか」
「ああ、そしたら俺が教える」
「……何だろう。異文化交流しているみたいだ。同じ異世界来訪者なのに」
イオリはくすくすと笑った。
いつの間にか機嫌も多少は治ったようだ。受付に向かう足も先ほどよりは緩やかになった。
「そうなったら、分かる範囲で話してみるよ―――『世界のもうひとつ』について」
「あーら。話が早いわね」
階段を下りて、右手正面がこの宿屋の受付だ。
曲がりきる直前、聞き覚えのある声を拾った瞬間、アキラは日常と異常が自然に混ざり合う、不思議な感覚を味わった。覚えがある。
アキラは少し後悔した。
どうやらマリスとの再会の感慨にふけられるのは随分先になってしまうかもしれない。
昨日の夜は、貴重なチャンスだったようだ。
「こんなに早く再会するとは思ってなかったわ。……なんて。それなりの確率でこの町に寄ると思っていた」
「……俺たちを待っていたのか?」
挨拶もなく、アキラは自然にそう切り出した。
昨日のエリーとは違い、情報量が多くても、この感覚の中、思考を止めることは許されない。
アラスール=デミオン。
縁あってこのヨーテンガースまでの船を手配してくれた魔導士だ。
「アラスール。何故ここに?」
ピリとした空気を出したのはイオリだった。
険悪な関係という訳でもないが、彼女が絡むとロクなことにならないと身をもって知っている。あまり顔を合わせたくない相手でもあった。
以前イオリがヨーテンガースの魔導士というのは他の大陸の魔導士や魔術師に無理難題を押し付けるせいで、受けが悪いと言っていたのも本心だったのかもしれない。
「ちょっと。そんなに不機嫌そうにすることないじゃない。私だって傷つくのよ?」
自分たちの不信感を正しく感じ取ったらしいアラスールは、子供のように口を突き出し不満そうに唸ると、しかし、特に気にした様子もなく微笑んだ。
日常の中にあって、しかし日常の住人ではない彼女を見ていると、遠近感というものが狂いそうだった。
「でもまあ、正しいと言えば正しいわね。それなりのことだから。ちょっとあなたたちにお願いがあったりするのよ」
そこでようやく、アキラはアラスールの後ろにマリスがいることに気づいた。このふたりは知り合いだったのだろうか。
相変わらず無表情に見えるが、珍しくマリスが瞳に悪戯が親にばれたときの子供のような色を浮かべているのをアキラは見逃さなかった。
「ねえ勇者様。私の手紙は見てくれた?」
「……ああ。でも、行くかどうかは迷っていたよ」
このヨーテンガースに着いた直後、去り際のアラスールから受け取った手紙がある。
イオリにも見せたが、あれは手紙というより地図という方が相応しい。
それだけ記されたその地図は、どこだか知らないが、ヨーテンガース南側のある地点の場所を記していた。
「他のみんなはまだ部屋にいるのかしら? ごめんなさいね、デートの邪魔しちゃって」
「軽口をたたいている場合じゃないんだろう? 一応、話だけは聞かせてもらおうかな」
この様子のアラスールから逃げるのは難しい。それをよく知るイオリは肩を落として頭を抱えた。
アキラも正直あまりいい予感はしていないが、マリスがそこにいるとなると話くらいは聞くべきかもしれない。
「再会を祝して、食事でもしない? ここの料理もいいけど魔術師隊の支部を借りてるわ。そっちの方がゆっくりできそう」
明らかに食事に誘われているわけではなかった。
だがそれでもこの場の誰も異論はなさそうだ。
彼女がいるということは、どうせ碌なことにならず、そしてそれがほぼ決定しているようなことなのだろうから。
「詳しい話はあとでするけど、概要だけ伝えると―――」
アラスールは機嫌良さそうに、あるいは、悪そうに、港町でアキラに言った言葉を呟いた。
「―――“引っ越し”よ」
―――***―――
昨夜もイオリが訪れたという魔術師隊の支部は、宿屋の向かいのわき道を突っ切って、大通りを超えた先にあった。
その間アラスールはまだ開ききっていない店の前で不服そうな顔をしたり、いい匂いの漂っているパン屋に立ち寄ったりと、朝の散歩でもしているように振る舞っていた。
いや、振る舞っているのではなく、それも彼女の一面なのだろう。
そうなってくると、こちらだけが重苦しく歩くのも面白くない。
アキラもその日常に混ざるように振る舞った。
マリスと深い知り合いだったのか、アラスールが手を引いてあれこれと世話を焼いている姿を見て、親子のようだと言ったときにはイオリもようやく笑ってくれ、アラスールにはほとんど本気で蹴りかけられた。散々人に若いだ何だの言っているくせに、言われるのは嫌らしい。
魔術師隊の支部に着いたときには腹ごしらえも終え、穏やかな気持ちに慣れていたと思う。
少々不安だったが、大丈夫そうだ。
支部の奥の会議室のドアが閉まったとき、ちゃんと、日常に別れを告げられた。
「これから話すことはくれぐれも内密にお願いね」
最奥に座ったアラスールは、彼女だけその日常の表情のまま、そう切り出した。
軽々とした口調ではあった。
だが日常と異常が混ざり合う不思議な気配が彼女から、いや、この部屋からもそもそも感じている。
ヨーテンガース南部に辿り着いた自分たちには、もうとっくに、日常というものは存在しないのかもしれない。
「一応信頼している、というところかしら。参加してくれるかどうかも分からないうちから事情を説明するんだから。でも、参加しない場合も口外厳禁よ」
アキラは思わず鼻を鳴らしてしまった。
「今更だろ。大体、魔門のときだって同じようなもんじゃないか。何で急に勿体付けるんだよ」
もっともな疑問を出したと思ったのだが、イオリも、そしてマリスも賛同している様子はなかった。
どうやらこの場で楽観的なのは自分だけらしい。
「魔門のときはそもそもある程度噂が漏れていたからね」
隣に座る険しい表情のままイオリが口を開いた。
「それに計画自体を知っても魔門の場所さえ知られなきゃどうとでもなる、ってところだったのかな。……でも、僕もアキラと同意見だ、アラスール。勿体付けても仕方がない。口外しないと約束するから、事情を説明してくれないか?」
「ふふ。ありがとうイオリちゃん」
アキラも感覚的に理解していた。
あのアラスールが妙に勿体付けるのだ。あるいは魔門破壊以上に面倒なことに巻き込まれようとしている、と。
「ドラクラスという都市を知っているかしら?」
聞いたことが無いはずなのに、妙な既視感にかられた。
「この町から東に……馬車で1日くらいかかる距離にある、巨大都市よ。ここからずっと東に向かっていくと山岳地帯になっていくから、あんまり乗り心地は良くないわね」
既視感は、思い当たってしまえばなんのことはない。アラスールからの手紙だ。記された地図に、そんな名が書いてあったように思うが、あれは都市名だったらしい。
「そんな山に囲まれたドラクラスには、ある重要な施設があるの。言ったことあったと思うけど、もうすぐ“引っ越し”をするのよ。これは魔導士隊から旅の魔術師への依頼、ということになるのかしら? そのイベントに伴う依頼よ」
アラスールの言い回しは気になったが、傍から聞くと、その仕事は最も自分たちに向いていない。
重要施設の引っ越しとなると、何を運び出すかは知らないが、取扱注意のイメージしかなかった。そんな場所に自分たちが行こうものなら、またイオリの心労を増やすことになる。
だから当然、話は終わってはいない。
「その施設ってのはなんなんだ? そんなことに魔導士隊が出張ってるってよっぽどのことなんだろ?」
「……『世界のもうひとつ』」
アラスールが微笑んで口を開こうとしたとき、聞き心地の良い、ひんやりとした声が答えてくれた。
アラスールの横に座るマリスが発したその言葉に、イオリの方がぴくりと揺れた。
「にーさんたちは、旅の途中でこんな噂を聞いたことはないっすか? この世界のどこかに、膨大な情報が保管されている場所があるって」
アキラはもちろん心当たりがなかったので、イオリに視線を送ると、彼女は小さく頷いていた。
「それがそこってことなのか? ……図書館、みたいな感じなのか?」
「詳しいことは分からないっすけど、そういう噂も流れてるらしいっすね。でも、実際はどうなんすかね?」
マリスは小さく首を傾げた。彼女ですら行ったことはないらしい。
ドラクラスの街並みを思い起こそうとしてくれているらしいマリスには悪いが、その施設とやらの外観よりも聞き逃せない言葉をマリスは言った。
「『世界のもうひとつ』。その言葉がどう関係しているんだ」
『世界のもうひとつ』。
思い出したくもないが忘れられない旅の記憶。
まさにこのヨーテンガースで、自分はその名を聞いたのだ。
アキラの知っている範囲で言えば、この世界に留まらず、自分たちがいた異世界などすべての世界の情報を持つ絶対領域。ありとあらゆる世界に重なるように存在する、“たったひとつのもうひとつ”。
理外の領域であるその世界の気配を、アキラは旅の道中何度も感じたことがある。
「……まさか、“その施設が『世界のもうひとつ』なのか”?」
言うと、マリスも、そしてアラスールも微妙な表情を浮かべた。
「そうね……。知っているなら話が早いと思ったけど、逆に面倒になったわね。ごめんなさい、とりあえず私が知っていることを話すわ」
アラスールは記憶を掘り返すように頭に手を当てると、小さく咳払いをした。
彼女のこうした様子はあまり見ない。
「詳しい時期は知らないけど、大昔、ドラクラスにひとりの人物が訪れたの。とても人当たりがいい性格だったらしくて、あっという間に町に溶け込めたみたい。その人物は大層博識で、あらゆる魔術や、果ては魔法にまで精通していて、街の人々はこぞってその人物に教えを乞いにいったそうよ」
急に昔話になった。
どうにも曖昧な話に聞こえる。
「だけど、聞かれたらなんでも答えていたその人物は、ある日、失言、というべきかしら、失敗をした。たまたま訪れた旅人との会話の中、その町に留まっていては知る由も無い事実を口走ったそうなの。……“その人物が先に知っていた”。その旅人の故郷に残してきた妻の訃報を」
昔話にケチをつけても始まらないが、アキラも流石にきな臭さは感じ取った。
「その旅人に届いた手紙で確認が取れると、一気に噂が広まったそうよ。そうなってくるともう知力の領域じゃない。妻の訃報を言われて怒ったらしいその旅人には気の毒だったでしょうけど、それまでよりもずっと多くの数その人物のもとに尋ねてくる人が増えたそうよ。そんな大忙しの日々の中、その人物はこう漏らしたらしいわ」
話しているアラスール自体、信じているのは半々程度なのだろう。
机にだらりと腕を投げ出していた。
「『私は賢いわけではない。過去、現在、そして未来のすべてを知ることが出来るだけだ』ってね」
「…………そいつは日輪属性……、いや、月輪属性か何かだったのか?」
アキラの言葉に、アラスールがピクリと反応した。
ちらりとマリスに視線を走らせ、結局ため息を吐き出す。
アラスールは水曜属性だ。このヨーテンガースの魔導士とはいえ、その領域の話には明るくないのだろう。
「知らないわ。でも、その後どうなったかは聞いた。日頃の行いが“良過ぎた”んでしょう。その人物が言い出したそんな荒唐無稽な言葉でも、裏があると探る人がいないほど、“信憑性があり過ぎてしまった”。今まで以上に彼に教えを乞いに来る人が増えて、増え続けて……、時には命の危機にも晒されたその人物は、ドラクラスの“どこか”……自分の家に閉じこもってしまったそうよ」
「……そんなことになるなら、それすらもそいつは知っていたことになるんじゃないか?」
「そう。それが私が話半分にこの話を聞いた理由のひとつ。そんなまさに神様みたいな人間がいるなんて思えないもの」
もし仮に、未来の事柄を含めて全知の存在がいたとしたら、そいつは失敗を犯さない。
何故なら失敗する未来すら既知のものであるのだから、それを避けてしまえばいいのだ。
アキラには想像もできないことではあるが、漠然とそう思う。
そう考えていると、少し嫌なことを思い出した。
すべてが既知になったと言う存在と、数日前に相まみえたのだ。
自分たちの旅は、その存在を打倒することにある。
失敗してもらわなければ困るのだ。
「でも半分信じたのは、その人物の言葉よ。『知ることが出来る』。つまり知っているわけじゃないってことね。知ろうと思わなければ、知ることはできない、ってことかしら?」
曖昧な昔話のはずなのに、そんな小さな言葉尻をつかまえて信憑性を感じるとは。
違和感を覚えたが、アラスールは特に気にもしていないようだった。アキラが気づく程度のことなら気づきそうなものなのに。
「で、それからというもの、その人物に会うことはドラクラスの住民でも安々とはできなくなったそうよ。だけど、相変わらず街を訪れる者は増え続けていく。だからその人物は家に閉じこもりながら、代役を立てたそうよ。その人物と町の住民のやり取りを制限するための代役を」
その人物は人当たりがいい性格だと言っていた。
だけど町の住民たちがその能力に惹かれて無遠慮に押し迫った結果、その人物とやらは人と距離を取るようになったようだ。
人間の嫌なところが出ているようで、聞いていて気分のいい話ではなかった。
「その人物の家が、その施設。その人物は自分を『接続者』。その代役を『代弁者』と名付け、質問や回答……もはや、予知、ね。それを大きく制限したの。それが事の始まりらしいわ」
「……まさかとは思うが、その人物ってのがまだ生きてるとかじゃないだろうな」
「まさか、よ。でも仮にそうなら終わりが見える話で話は早かったわ。ただ、ここからが私も知っていた話なの」
アラスールの表情がようやく少し引き締まった。
やっと曖昧な昔話から抜け出せるようだ。
「その人物の、その力……“全知”の力。それはどうやら譲渡できるようなのよ」
「譲渡?」
「そう。その譲渡の方法こそ知らないけど、その家……、施設に閉じこもっていたその人物は、寿命を迎える前、『代弁者』に人を連れてこさせたらしいの。選定基準も分からないし、それこそ全知の存在が考えることだもの、理解できるとは思えないわ。そして、その人物の死後も、依頼に対しての回答は無くならなかった。その後も、『代弁者』も何度も同じような方法で代替わりしている。つまり、“役割”自体は生き続けている」
つまり。
その施設とやらに閉じこもる『接続者』。
その『接続者』と唯一やり取りできる『代弁者』。
それらは大昔に作られたシステムで、それは現代も引き継がれているということなのだろうか。
「中でどういうやり取りがあるのかは知らない。だけど、『接続者』は決して外に出てこないわ。質問も、回答も、食事も、『代弁者』がすべて運ぶ。世話人みたいなものね。昔話が本当か嘘か分からないけど、少なくとも、その仕組みは今もある。だからね、その施設は、“膨大な情報が保管されている場所”なのよ」
アラスールは肩を落とした。
「正直、そんな昔話、あんまり信じたくはないんだけどね。だけど事実、ドラクラスという都市自体が、ヨーテンガースの魔導士たちによって厳重に警護されている。昔私が配属されそうになったときにはよく知らなかったけど、断って正解。危なく棒立ちしているだけの仕事に就く羽目になるところだった」
魔導士に警護されているとなると、確かに妙な信憑性がある。
イオリに視線を向けると、彼女は険しい顔のまま小さく首を振った。4大陸最強と言われるモルオールの魔導士ですら知らない話だったらしい。
そしてそれを信じるならば。
これは、“一週目”には無かった出来事だ。
「定期的に、魔導士隊や民間からの重要依頼が『代弁者』に渡され、『接続者』が回答する。全部答えてもらえるわけじゃないみたいだけどね。今はとりあえずそんなところで落ち着いているけど、その精度はかなりのもののようね。他の大陸でも月輪属性に予知の依頼をする施設があるらしいけど、このドラクラスの予知はほぼ確実。ある意味、ヨーテンガースで最も重要な場所、ね」
言いながら、アラスールは嫌なことでも思い出したような渋い顔をした。
一気に話して、流石に彼女も疲れたようだ。雲をつかむような話ならなおさらだろう。
おぼろげにだが、話が見えてきた。水曜属性のアラスールより、アキラはずっと信憑性を感じていた。
『接続者』と名乗るくらいだ。おそらく過去、この世界には、『世界のもうひとつ』との完全な接続を果たした人物がいた。
アキラも感じたことがあるが、その領域の力は僅か一端でも覚えると、自我を保てるのか不安になるほどの全能感が全身を満たす。
それを能動的に扱えるとなればまさに神に等しい知識を持つことになる。
過去その人物に付きまとった住民たちの気持ちも分かる。その力は世界中の人間が躍起になって手に入れようとしかねない。
そしてその接続方法は、譲渡できる。
アキラの背筋が冷えた。
「……ならこの依頼は」
悪寒を振り払うようにアキラは机に手を置きながら顔を上げた。
「その施設から『接続者』とやらが移動するのを護衛する、ってことなのか? 確かにただの荷物と違うけど、なんで引っ越しなんかしないといけないんだ。建物が崩れ始めているとか?」
「ああもう、私のせいかもしれないけど、“そういうスケールじゃない”のよ、この話は」
曖昧な説明をし続けていたからだろう、アラスールはついに頭を抱え始めた。
こんな様子の彼女は初めて見た。それほど説明しにくいことなのか。
それとも、“水曜属性の彼女”では説明がしにくい、ということなのだろうか。
「そもそも移動先は、都市の中じゃないんすよ」
どうしたものかと視線を泳がせていると、目が合ったマリスがゆっくりと言った。
アラスールは助け船が来たとでも思ったのか肩の力を抜いて微笑んだ。
「少し前、現代の『代弁者』の人が『接続者』の人が言ったって言ったらしいんす」
「わざとだよな?」
むっとしたマリスに睨まれた。これはこちらが悪いとは思いたくはない。
だが、分かりにくいが、言っていることは分かっていた。
ため息ひとつ吐くと、マリスは神妙な顔付きになった。
「近々、ドラクラスの近くの山が噴火する、って」
流石にアキラも眉をひそめた。
『代弁者』、ひいては『接続者』の言葉だ。
その予知は、確実に起こる。
「ドラクラスは山岳地帯にあって、その周囲にある山は、今でも噴火する可能性が高いんすよ。もし噴火したら、ドラクラスが灰に埋まる。そうなったらその施設もただでは済まない。だからその場所よりずっと遠くに引っ越ししないといけなくなったんす」
もし近くの山が噴火したら、灰がどうとか言っていられない事態になるはずなのだが、とりあえず、その引っ越しとやらをしないといけないことは分かった。
「なるほどな……。要するにその引っ越し、別の町に行く必要があるってことか。だから道中、護衛が必要になるってことか」
「…………おおまかには、そうっす」
「じゃあ、他の町の人たちはどうすんだよ? もうとっくに移動しているのか?」
「…………まだっすけど、大丈夫」
マリスから、説明を諦めたような空気を感じ取った。
すでにアキラの頭は情報で埋め尽くされているから、これ以上は受け取れない。
その好意に甘えることにして、とりあえず自分を納得させた。
「とりあえず、“引っ越し”自体はあんまり気にしなくて大丈夫。ただそのイベントに伴って、ドラクラスにはこれから、いえ、もうすでに今も、多くの依頼が発生している。みんなにお願いしたいのは、ドラクラスで発生する大量の依頼を少しでも請けてもらいたい、ってところね」
「? 随分大げさだな。引っ越しだろ? やることそんなに多いのか?」
「多い、わね。いっそまとめてひとつの依頼にした方がいいと思うけど、こういう形をとる方針らしいわ。状況に応じて依頼をするから、それを適時解消してもらいたい、ってことね」
アラスールの言い方からすると、同じような形式で他の旅の魔術師にも話がいっているのだろう。
まずはドラクラスに向かい、その引っ越しに関連する依頼を請ければいい、ということだろうか。
引っ越しルートを先行しての魔物討伐、などがイメージしやすい。
もしくはその施設とやらが本当に大規模な図書館で、荷物運びに大量の頭数が必要だったりするのだろうか。
やはり後者の方は絶対に自分たちに声をかけるべきではないが。
そういうことならアラスールの言う通り、そういう回りくどい依頼にするより、引っ越しが終わるまでのひとつの依頼にすればいいと思うのだが、必要に応じてのみ依頼をするとなると、資金繰りでも厳しいのだろうか。
ただ、引っ越しとなると、伴って発生する依頼がいくらあろうが、本筋はその『接続者』とやらの護衛になるだろう。
どこの町へ移動するかは分からないが、ヨーテンガースの魔導士が日頃から護衛しているような相手だ。アラスールが口外厳禁と念押しするのも頷ける。
護衛の仕事は何度かやっているし、面倒そうだが、まあ仕方がない。
「……ひとついいかな」
アキラが思考を放棄しかけたが、当然イオリは未だ険しい表情のままだった。
一応アキラも感じてはいたが、イオリはより敏感に、この依頼のきな臭さを感じ取っているらしい。
「その引っ越しが重要なことということは分かった。もしアラスールの話が事実だとしたら、確かにあらゆる外敵が存在するだろう」
護衛依頼だとすると、アキラがイメージした、いわゆる敵は、魔物だけでなく、人間も含まれた。
過去のドラクラスの住民は、まさしくその『接続者』にとって敵だったのだろうから。
「なら何故僕たちに依頼する? いや、僕たちに限らず、ヨーテンガース中から人を集めているんだろう? 信頼の証と言われるのは悪い気はしないけど、それだけで納得できるほど素直じゃなくてね。何故僕たちに、……“所詮部外者の僕たち”にそんな重要な依頼をするんだ?」
ヨーテンガースの魔導士にとってみれば、いや、『接続者』にとってみれば、自分の持つ力を狙う存在など数えきれないほどだろう。
その引っ越しが大移動を伴うとしても、秘密裏に、ごく少数で実施した方が安全に思える。
話を漏らすつもりは毛頭ないのだが、少なくとも今アラスールがこの話をしたことで、『接続者』の移動を知ってしまった人間がふたり増えたことになる。
「そこなのよ」
イオリの疑問に、アラスールがようやく本題に入れるとばかりに姿勢を正した。
どうやら彼女は、分かりにくい昔話と違い、分かりやすいことを言ってくれるようだ。
つまり、そんなことを言っている場合じゃない、ということだ。
「察しがついていると思うけど、『接続者』を狙うのは人間だけじゃないの」
もちろんそうだろう。
そしてこの世界では、敵と聞けば、最初に思い浮かべる存在がいる。
「『接続者』の“引っ越し”が決まったあと、ご丁寧に“犯行予告”の手紙が届いたのよ。送り主は―――“魔王の弟”を名乗っていた」
「―――、」
アキラの脳裏に、様々な悪寒が過った。
アラスールは、ほんの少しだけ眉を寄せて続けた。
「内容は、『接続者』の身柄を押さえるというものらしいわ。言ってしまえば誘拐ね」
「ちょっと待て。それ、本当に?」
「犯行予告“自体”は本物よ。一応私も実物を改めたわ」
“魔王の弟”。
世界的にも説明不要の言葉なのであろう。
魔王は、世界を脅かす諸悪の根源である。
そして、直近にその魔王と遭遇したヒダマリ=アキラにとっては、あるいはそれ以上に意味のある言葉だった。
“あの”ジゴエイルの―――弟。
だが、アキラの硬直は、目の前のアラスールの言葉で和らいだ。
彼女自身、その言葉を鵜呑みにしているわけではないらしい。
アラスールは手を開いて、姿勢を崩した。
「ま、正直なところ、“本物”かは分からないわ。魔族に肉親がいるかなんて知らないし。正直、悪戯の確率の方が高いと私も思っちゃっている。それに、本当に魔族だってんなら、よく手紙なんて書いたわね、とか。犯行予告なんて何のために出したんだ、とか」
聞いている限り、ドラクラスの『接続者』を狙う者は多そうだ。
人間然り、魔族然り、そういう“未来”の情報はあらゆるものに活用できるであろう。
もしかしたら良からぬ人間が、何らかの謀を思いつき、犯行予告の手紙を書いたのかもしれない。
そもそも犯行予告なんて、出す側のメリットは全く無い。
そういう意味でも、アラスールの言う通り、悪戯の確率が高いかもしれない。
だが、アキラの脳裏に、妙な悪寒がまだ残っていた。
「でも、その無視されてもおかしく無いような手紙が届いてから、『接続者』が依頼を大幅に制限したそうなのよ。『代弁者』との交流さえも減少。口も閉ざしちゃったらしいわ。言ってしまえば、より一層引きこもりになっちゃったってわけ」
「……それはつまり、“本物”かもしれない、ということかな?」
イオリも神妙な顔つきになっていた。
“魔王の弟”。そんな存在を名乗られても、ほとんどの人間、たとえ魔術師や魔導士だとしても、戯言だと思うだろう。
だが、それを受けて、様子が変わった人物がいる。
他ならぬ、“すべての情報を得ることが出来る人物”が。
「『接続者』は“何かを視た”可能性がある。それが手紙通り、魔王の弟なのかまでは分からないけど、少なくとも“魔族”が介入している可能性がある。ドラクラスの魔導士隊もそう判断したそうよ」
可能性。可能性。
仮説の上に仮説を乗せる、妙に不安定な話だとアキラは感じた。
そこまで『接続者』に接触することは許されないのだろうか。
アキラも魔導士には今までの旅で出会ってきている。
そんな人物たちが、そんな仮説や『接続者』の様子に振り回されているとは。
ドラクラスの『接続者』というのは、それほどの存在なのだろうか。
「ま、私も最近まで噂程度にしかドラクラスの“予知”は知らなかったし、魔導士隊が本格的に関わっていることなんてもっと知らなかった。だからその“予知”が滞ることくらい大したことじゃないと思ってるわ。だけど、上の慌てぶりを見るにどうやら深刻な問題らしくてね。“引っ越し自体も大事だし”、部外者の私たちも召集されたってわけ」
ちらりとマリスを見ると、半開きの眼が、さらに小さくなっているような気がした。
マリスも、そしてそのマリスと交流のあるアラスールも、この話を信じていて半分、という感じなのかもしれない。
魔導士は職業だ。今回の“引っ越し”は、仕事だからと割り切らないといけない部分も多いのだろう。
そんな様子を見せる辺り、アラスールは自分たちを多少は信用してくれているのかもしれない。
だがアキラは、やはり悪寒に苛まれていた。
魔王の弟。
そして―――“犯行予告”。
アキラにとっては、どちらも碌な思い出が無い。
「……まあとにかく。俺たちはドラクラスに行けばいいんだな。で、そのうち“そいつ”から『接続者』を守れ、っていう依頼が出る、ってことでいいのか?」
「ざっくりはそんな感じね」
「で、引きこもった『接続者』はそのときには出てきてくれるんだよな?」
「うーん、望み薄かもね。まあ、“引っ越し”には影響ないでしょう」
「は?」
「……ああ、駄目ね。上手く説明し切れる自信が無いわ。“そっちの方”も私自身まだ半信半疑だし」
とりあえず分かりやすい明確な敵を定め、アキラの脳にようやく血が回ってきたというのに、今度はアラスールの方が説明を放棄した。彼女にしては珍しい。
マリスを見ると、彼女もどう説明したらいいかと思案しているように見えた。
聡明な彼女たちは、アキラでは理解できないと諦めているのかと邪推したが、隣にはイオリもいるから違うのだと信じたい。
とはいえ、色々と不可解なこともあるが、依頼の概要はおおよそ掴めた。
『接続者』とやらの“引っ越し”。
つまりは―――“護衛依頼”。
“魔王の弟”を名乗る“何か”から、『接続者』を守り抜けばいいということだろう。
ただ、単純とはいえ、魔導士が出張ってくるとなると、大掛かりな依頼ということになる。自分たちを含めたヨーテンガースの旅の魔術師を呼び込んでいるとなればなおさらだ。
過去、南のシリスティアで請けた大規模な依頼を思い出す。
シリスティアのときはひとつの依頼という形であったが、あのときも近場の街に滞在し、依頼が始まるまで別の依頼を請けていた。今思えば本命の依頼に付随した依頼も含まれていたのであろう。
あの依頼は計画よりもずっと短期で終わったが、今度もそうとは限らない。
ここはもうヨーテンガース南部。さらに南下すれば“あの死地”に入る。
この旅で、最後に請ける依頼になるかもしれない。
「あとは、そうね。今ここで説明できそうなことは……、そうだ」
おぼろげに旅の終点を考えていたアキラは、不意を突かれたせいもあり、自分が嫌な顔を浮かべてしまったのが分かった。
元の世界で、休み時間になったのに、先生が授業で言い忘れた何かを思い出したような仕草をしたときに味わった感覚だ。
授業よりはずっと真面目に話を聞いていたアキラの脳はもう限界を迎えようとしていた。
これ以上情報を増やされても零れ落ちるだけのような気がする。
「“引っ越し”とも“魔王の弟”とも別に、“もっと面倒なこと”が起こりそうなの。……あなたたちが知っているのは、むしろそっちの方ね」
もう入らないと思ったアキラの頭が少しだけ働いた。
アラスールの表情が曇り、一方で、アキラの表情は明るくなっていく。
『接続者』というわけでもないが、アラスールの言葉の先が、分かった気がしたからだ。
随分と授業の上手い先生だ。最後に生徒の気を引くことが言えるとは。
「この引っ越しというイベント。ヨーテンガース中の戦力を集結させろというお達しよ。……私も大賛成。ただでさえ面倒なのに、私と、そう、エリーちゃんは、“とある勢力”も参戦すると聞いている―――アイルークの魔門破壊のときにね」
「……まさか」
「私もあれから“そいつら”について調べに調べ尽くす羽目になったわ。あんなに面と向かって『接続者』の“争奪戦”に参戦するなんて言われちゃね」
アラスールが姿勢を正した。
アキラは震える拳を抑え付けた。
「ヨーテンガースの全戦力、“魔王の弟”、そして―――『光の創め』。ドラクラスで三つ巴の戦いが発生します。ご協力願えますか?」
―――***―――
「……あれ。もしかしてエリにゃん、泣いてます?」
「…………うん。泣いてる」
「ははは、逆に元気そうですね。…………あれ。もしかして逆の逆のやつですか」
ティアの顔が青ざめていく。
そんなに今の自分は惨めに見えるだろうか。
エリサス=アーティは宿の受付前の席にゆったりと座り込み、往来する客たちを呆然と眺めていた。
そこに朝から何がそんなに楽しいのかアルティア=ウィン=クーデフォンがにこにこ笑いながら現れて、今に至る。
朝食もとらずにずっと座っていたエリーだが、丁度朝の賑わいからひと通り落ち着き、受付ががらんとしても、まったく食欲が湧いていなかった。
宿の受付の係員からも不審な目で見られ続け、少し前にここを通った仲間のはずのエレナ=ファンツェルンから憐れんだ瞳の一瞥をもらい、とうとうお人好しのティアに話しかけられるまで、ふたりもいる望みの人物のどちらにも会えていなかった。
「あの……、よろしければご一緒していましょうか? ……正直何をしているのか全く分かっていないですが」
「……うん。お願い。話し相手になって……」
「うわお……。言っておいてなんですが、エリにゃんじゃなかったりします?」
手が出そうにもならない。それほど自分が気落ちしているのを自覚した。
“そういう勘違いをしかねない相手”が、気が弱っている原因だったりする。あと、いつものあの男。
「後で紹介するけど、実はさ。昨日、あたしの妹に会ってさ」
「……へ? ここでですか?」
きょとんとしたティアは受付を見渡し始めた。受付ではなく屋上だったのだが、訂正するのも面倒だった。
「わあ。凄い偶然ですね! ……あれ、エリにゃんのご家族って、えっと、ああ、そうですよ。魔導士なんですよね、ヨーテンガースの。この町にお勤めしているんでしたっけ?」
「違うけど……、たまたま来ていたみたい。昨日は時間も時間だったから明日話しましょう、って言ってさ。ここで会うことになってたんだけど、もしかして秒単位で指定しなきゃまずかったかな」
「ははは、アッキーじゃあるまいし」
ゆっくりティアの顔を見たら、彼女の顔が凍り付いた。
正直今、この感情を制御できる気がしない。
「……まさかとは思いますが、アッキーも一緒にですかね」
「そう……。あいつもいてさ。そう言ったの。あたし、ちゃんと言ったの。なのにさ、だあれもいない。だあれも来ない。あはははは」
「おおぅ」
あの唄が聞こえてきてから、ずっと情報過多だ。頭がまともに働かない。
妹がこの町にいたこともそう。
我先にと向かった先に、すでにあの男がいたこともそう。
そして。
「悲しいですね……。まだお休みになっているんでしょうか。アッキーのお部屋には行ってみましたか?」
「朝ね。もういなかったから、先に行ってるんだと思ったのよ。一応イオリさんの部屋にもサクさんの部屋にも行ってみたけど、ふたりとも出かけてた……。ふふっ、いつものことね……」
「あれ。あっしとエレお姉様のお部屋には来なかったんですか?」
「そこにいたら騒ぎが起きてる」
断言すると、ティアは難しい顔をして何かを言おうとしたが、反論材料が浮かばなかったようだ。
「……もしかしたらもうお出かけしちゃったのかもしれませんね」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれないから、あたしはここで待っているのよ」
ここまで待って、行き違いでもしたらそれこそ滑稽だ。
より一層自分が惨めになる。
もう約束を守る気が無いと確信できるほどの時間が過ぎているが、街へ探しに出かける気力が湧かない。心がとっくに折れていた。
待っている間、色々と考えて、色々と気になってしまうことが出てきてしまっているのが、心の倒壊に拍車をかける。
昨日、妹に再会できて、自分は心から喜べた。
ヨーテンガースの魔導士である彼女の身を案じ、旅の途中、幾度となく手紙を交わすほどだ。手紙が途切れると、胸が潰れるほど苦しくなった。
だが妹にとっては、自分との再会はそうではないのだろうか。
数年離れていた自分の半身は、変わってしまったのかもしれないという漠然とした恐怖を覚える。
だが、それ以上に胸の奥を鷲掴みにされるような感覚を、その恐怖が塗り潰されるほど強く感じた。
昨日、自分が屋上に上がったとき、すでに“彼”がいた。
ちらりと見ただけだが、ふたりして座り込んで、何かを話していたような気がするのだ。
そしてそのとき、最早勘、とでも言うべきだろう、妙な疎外感を覚えた。
どうやらたまたま会っただけだったようだが、エリーは感じた。
もし、妹が変わっていなかったとすれば。
あのとき、妹は嘘を吐いた。
それが約束をすっぽかされたことや、最愛の妹に想われていなかったかもしれないこと以上に、形容しがたい違和感を生み出すのだ。
これはよく、旅を始めたばかりのときに味わった感覚だった。
「ねえティア。……あんまり言うのもあれだけど、あいつの“隠し事”って何か聞いてたりしない?」
彼が、いつの日か話してくれると言ったもの。
自分はそれを待つことにした。
だけどこの度の終盤を迎えてもその機会は訪れない。
それでも旅は続けられるし、自分もそんなに気にしないようになっていたのだが、彼にこれ以上近づくためには避けては通れないものなのかもしれない。
自分が一層面倒くさい人間になっていくのが分かったが、抑えられる感情ではなかった。
「アッキーの隠し事って……、ずっと前にお話ししてくれたことですよね。すっかり忘れてました」
「そうよね。もしティアが知っていて黙っていたら何をしていたことか」
「危なかったです……。冗談で、はい、って言っていたらティアにゃんは本日休業になっていました。止めてくださいね。朝寝ぼけてエレお姉様に抱き着いたらこの時間まで意識が戻らないほど絞め落とされたんですから」
先ほどここを通りかかったあの人物はこの宿屋で事件を起こしていたらしい。
ここで待ちぼうけを食らっている自分よりも惨めな人間が目の前にいたとは。
少し元気が出てきた。
「……よし。探しに行こう」
「お出かけしますか?」
「うん。うだうだ悩んでいても仕方ないもの。探しに行こう。あいつとマリーを」
「そだそだ。紹介してくださいね、ふふ、どんな方なんでしょう」
「迷惑はかけないでね」
「……あ、エリにゃん結構本気で言ってますね」
それはそうだ。
可愛い可愛い自慢の妹なのだから。
不思議なのは、同じ容姿のはずの自分が鏡を見ても、妹の姿を重ねることができないことだ。
無表情のように見えて、笑うし、怒るし、拗ねる。その様子がエリーにとっては可愛くて仕方がない。
長年顔を突き合わせている自分たちだけに分かる差があるのかもしれない。
そんな長い月日を一緒に過ごした自分の半身だが、アイルークで過ごす日々の中、ふと、妙に大人びた顔を見せることがあった。
自分が子供のときに分からなかったあの表情は、今の自分が見たらどう見えるのだろうか。
「おおっ!」
過去に思いを馳せながら立ち上がろうとすると、ティアが大声を上げた。
にこにこ笑って手を振り始めたティアの視線を追うと、数人の男女が宿に向かって歩いてくるのが正面の窓越しに見えた。
「…………」
エリサス=アーティは、魔術師隊に入ることを夢見ていた。
知れば知るほど彼ら彼女らは立派で、世界の平穏を守ってくれている大恩人なのだと強く感じた。
その上に位置する魔導士ともなれば、妹も属しているとはいえエリーにとっては雲の上の存在だ。
今まで出遭えた魔導士たちにも、魔導士である仲間のホンジョウ=イオリにも、並々ならぬ敬意を払ってきた。
だからエリーは、無表情になった。
「アッキー! 駄目ですよ、エリにゃんずっと待ってたんですよ!」
「……アキラ。もしかして、エリサスと約束をしていたのかな」
「……あ、悪い悪い。ちょっとマジな話しててな」
ヒダマリ=アキラ、そしてホンジョウ=イオリが並んで宿屋に入ってくる。
手が腱鞘炎を起こしたように震えてきた。
ふたりの後ろに、妹と、そして、見知った尊敬すべき魔導士様もいるのが見える。
妹の顔を見たのだろう、隣のティアが火山の噴火前のように震え始めた。
「次の行き先が決まった。ドラクラスってところだ」
だからエリーはその前に、噴火することにした。
―――***―――
魔導士ともなれば大層立派な馬車を乗りこなしているものだと勝手に勘違いしていたが、旅の魔術師たちと大して変わらないらしい。以前モルオールではそうした馬車を利用させてもらったこともあったが、彼ら彼女らにとっては有事でもなければ単なる移動手段でしかないのだろう。
木造の床はややきしんでいるし、客車を覆う黄ばんだ白のシートは小さな穴がいくつか空いている。
客席は定員にしても4名ほどの大きさほどで、乗れば肩をぶつけ合うほど狭く、アラスールの言う山岳地帯に近づいたらもう少し座り方を考えた方がいいかもしれない。
一応これでも一定どころか他の大陸に比せば過剰なほどの魔物対策の装置が組み込まれているらしいが、アキラには自分たちが時折使う安い馬車との違いは見つけられなかった。
それでも、運転手の佇まいを見るに、ある程度は信用しても良さそうだ。
アラスールが乗ってきたらしい馬車はこちらよりやや大きいが、流石にこの大所帯は乗り込めず、カーバックルで追加の馬車を探すことになったのだが、どの馬車の運転手もそれなりの雰囲気を持っていた。このヨーテンガースでこんな職についているということは、魔物討伐が専業ではないにせよ、そもそも実力者ということなのかもしれない。
「未だに耳キーンってなってる」
「……あとでちゃんとフォローしておかないとね」
共に乗るイオリの呟きも半分くらいしか聞こえなかった。
急に決まった話で、急に出発することになり、今、前を行く馬車でアラスールが自分たちにしてくれた説明を残りの4人にすることになった。
彼女にしてみれば二度手間だろうが、自分の目の届かないところで話をされた方が危険なのかもしれない。前の馬車の運転手はアラスールの、というより魔導士の息がかかった人間のようで、盗み聞きされても危険が少ないのだろう。
だが、こちらは、ある意味もっと聞かれたくない話をすることになるかもしれない。
もっとも、聞かれたところで大半の人間が信じはしないだろうが。
「さて、マリサス。改めてよろしく」
「……マリーでいいっすよ」
同じ馬車に乗る最後のひとり、マリサス=アーティが無表情のまま顔を上げた。
イオリとマリスは共に魔導士だ。
昨日エリーと並んでみたときも同じことを思ったが、このふたりも並んでみると目を引く組み合わせである。
一応勇者様ということになっているが、アキラは自分が場違いのような気さえしてきた。
「はは。エリサスと同じことを言うね。まあいいじゃないか、愛称で呼ぶのは苦手でさ」
イオリは笑ってそう言ったが、意思は固いようだ。
イオリは妙なところで頑固だ。あのエリーも根負けしている。未だに諦めていないのは最早会話の定型文と化しているティアくらいだろう。
そういえば、自分もマリスの呼び名を間違えていたが、前に許可をもらったような気がしないでもない。訂正を促された記憶が無いので、マリスの中では愛称だったらセーフなのだろうか。
などと、下らないことを考えて時間を稼いでみたが、どうやら駄目そうだ。
マリスもイオリも表情こそ落ち着いているが、穏やかな雰囲気には見えなかった。
お互い妙にけん制し合っているように思える。
「……イオリさんは、“知っているんすよね”?」
マリスは慎重な声で口を開いた。
その半分の眼はイオリをじっと捉えており、僅かな挙動も見逃さないようにしているようだ。
馬車に乗る前、アキラが伝えたのだが、一応自分でも確認したいのかもしれない。
考えると悲しい気持ちになってくるが、カマをかけられているだけの可能性もあると考えているのだろう。
「……ああ。僕は覚えている。前回も、前々回も」
イオリも慎重に言葉を選んでいるようだった。
自分がこの“三週目”でイオリと出逢ったときなど、我慢できずに詰め寄ったものだが、“この話”は数年守ってきた自分の前提だ。アキラは思い至らなかったが、その慎重さは見習うべきだったのかもしれない。
「ふたりとも、そこまでだ。もういいだろ、大丈夫だって。俺たちは“繰り返している”」
とはいえ、人を疑っていると妙に頭が痛くなってくるアキラはふたりのやり取りを切り上げさせた。どうやら人を疑うというものは頭を使うことのようだ。全幅の信頼を寄せているふたりが、こうして睨み合っているのを見続けることはアキラにはできなかった。
「本題に入ろう。念のための確認だけど、この依頼。“一週目”はあったのか?」
マリスが顎を上げてアキラを見た。
抗議されているような気がしたが、マリスは短く息を吸って、今度はイオリを見つめた。
お互いまだ信用し切っていないのかもしれない。
「……いや。少なくとも僕の記憶にはないよ」
珍しくイオリが記憶に関する答えを教えてくれた。
やはり本当にこの“三週目”固有の出来事らしい。
事実、この依頼には、イオリですら存在を知らなかった『光の創め』が関わっているのだ。
「ならマリス。お前は魔導士としてあのアラスールとドラクラスに派遣? されているんだよな。なんか他に知ってること無いか?」
「? にーさん?」
イオリに向けていたはずの不審な視線がアキラに向いた。
アキラは、適当に笑ってみせた。
「いや、さっきの話、色々複雑でさ。でもようやく頭が回復した。要は、最近はそのドラクラスってところで働いていたんだろ? 他になんか知らないかなって思ってさ」
「……そうだね」
適当に言葉を繋いだら、イオリが小さい声を零した。
これから請けるのは、未だピンと来ていないが、大きな依頼らしい。
“刻”に関わっているとは断言できないが、イオリも少しでも多く情報が欲しいだろう。
「僕自身、このヨーテンガースのことはほとんど知らない。そのドラクラスという都市のことも風の噂程度で聞いたことがあるだけだ。ヨーテンガースの魔導士であるマリサスから、色々話は聞いてみたいな」
「……そうっすね。でも、何を何から話せばいいのか……」
とりあえずイオリのことを信用してくれたようで、マリスは眉を寄せて考え込んだ。
そこで、アキラは思い出す。
そういえば、マリスと、そして彼女の姉は。
「マリスってヨーテンガース生まれなんだよな? ドラクラスに行ったことはあったのか?」
「いや……、ドラクラスには行ったことはないんじゃないっすかね。“あんな場所”、行ってたら流石に覚えていると思うし。自分たち、さっきのカーバックルの北西あたりの村に住んでたんすけど、こっちの方には……。……」
マリスの目の色が一瞬変わった気がした。
興味本位で聞いてみたのだが、思いのほか真剣に記憶を掘り返そうとしているのかもしれない。
「アキラ。覚えていないものはしょうがないよ。……そうだな。さっきのアラスールの話だ。……言ってはなんだけど、ヨーテンガースの魔導士は正気なのか?」
イオリの珍しいところを見た気がする。訊くことをまとめようとして、失敗している気がした。
目の前のマリスもヨーテンガースの魔導士である。
以前イオリが、ヨーテンガースの魔導士は他の大陸に出張って来ては現場を引っ掻き回すせいで、良い印象を持っていないと言っていたが、それが関係しているのだろうか。
だが、マリスは、そんなイオリの言葉に理解を示しているようで、静かに聞いていた。
「『接続者』の予知。それが事実なら確かに重要なものなんだろうが、所詮は民間だろう。それなのに魔導士隊が介入するだって? それどころか、“あの場所”を担当しているアラスールや君も駆り出されるなんて、度を越しているじゃないか。例えば他の大陸でも、月輪属性の予知に期待することはあるが、それはあくまで部隊に所属する魔導士や魔術師だ」
魔導士のイオリが言うのだから、この世界の“常識”ではあるのだろう。
イオリの言う通り、民間からの依頼として依頼所に貼り出されていそうなものである。
だが、今回の依頼は魔導士隊からの正式なものだ。
その上で、その魔導士隊すら本格的に関わるとなるとアキラでさえ違和感を覚える。
「そのことについては、特にアラスールさんは納得してない感じっすね。でも、上の人たちが決めたことらしくて、覆ることはないらしいっす」
確かに先ほどのアラスールの様子はそんな感じだった。
上。つまりは国。もしくは―――“神族”か。
先ほどの『接続者』の話と似ている気がした。
“魔王の弟”からの“犯行予告”。
本物である根拠は何も無いはずなのに、『接続者』の様子が変わっただけで本物だと思わざるを得なくなる。
今回も、その上とやらが決定したがゆえに、現場の人間たちは理解し切れないまま行動するのだ。
あるいは。
その上とやらも、“何か”を掴んでいるのだろうか。
「でもヨーテンガースは、そもそもそういうことが多いんすよ」
ようやくマリスから、ヨーテンガースの話が出た。
「内容だけ聞くと、不確実な気がするのに、“何故かそれが本当に起こる”。地に足を付けて行動することももちろんあるんすけど、時折、それを飛び越えた依頼や指示がくる」
アキラは眉を寄せた。
それは、まさしく。
「自分もあんまり深くは知らないっすけど、感覚的に……、他の大陸が“魔術”なら、ヨーテンガースは“魔法”に近い。正当な手順を踏むこともあれば、何になるか分からないことをやることになる。“結果として成功”するから、それで回っている感じがするっすね」
「……それって、まさか、ドラクラスの『接続者』とやらが?」
他の大陸の魔術師隊は、高度ではあるが、アキラの頭でも理解できる行動を取っていた。
シリスティアの港町や大樹海でも、明確な根拠を積み上げ、着実に行動していたように思える。
正当な手順を踏んで、結果を目指していた。
だが、ヨーテンガースは、先に結果が降ってくるような感覚を覚えるとマリスは言う。
その裏には、すべての情報を得ることが出来る『接続者』が絡んでいるのだろうか。
「もしかしたらそうかもしれないし、そうじゃないかもしれないっすね。風土的なものもあるかもしれないっす」
「風土?」
「にーさんたちも会ったことあるっすよね、樹海の移動民族」
思い起こすまでも無く、つい最近、港町で、サルドゥの民とやらの依頼を請けて大事件が起きている。
彼らは、バオールの儀式とやらを執り行っていた。
「ヨーテンガースではそういう“儀式”が盛んみたいで、魔術師隊が介入することもあるんすよ」
「……つまり、“儀式”的に意味のあることとして、論理的じゃない行動を取ることがあると?」
土曜属性のイオリは頭が痛くなったような顔をしていた。
魔法は日輪月輪の本分だ。特に論理的なイオリには理解しがたい話だろう。
日輪属性のアキラは、もちろん理解を放棄していた。
「最近こんな話した気がするな……。マリスは“儀式”を信じているのか?」
「……まあ、半々っすね」
「そか」
どこかで聞いたような答えを受けて、アキラは目頭を押さえた。
以前も思ったが、この世界には魔法があり、魔術がある。この世界ではオカルトの領域が元の世界よりずっと狭い。
“儀式”と言われても、あるいは元の世界以上に胡散臭さを感じる。
アキラは、ヨーテンガースの上の連中とやらが、深夜、漆黒のローブを頭から被り、焚火を囲み、呪詛のようなものを呟いて歩き回っている光景を思い浮かべた。
そして誰かが天啓を受けたと言わんばかりに立ち止まり、魔導士隊や魔術師隊に荒唐無稽な指示を飛ばしている。
それに従うアラスールが、とても寛容な人物に思えてきた。
だが、マリスの話が事実なら、それは“結果として正しい”。
ならば“儀式”とは、“何らかの魔法”なのかもしれない。
自分が参加したあのサルドゥの民は、何の効果がある儀式をしていたのだったか。
「……マリサス。ひとまず、その『接続者』とやらの信憑性は高いとしておくよ」
イオリは頭を振って切り替えたようだった。
マリスが言うところの、ヨーテンガースの“風土”。
『接続者』の信憑性は、過去の経緯でヨーテンガースの中では絶大な信頼を得ているのだろう。それはヨーテンガース外の者からは異質に思える。
他の大陸の常識はこの大陸では通じないと言うが、それは当然で、ヨーテンガースにもヨーテンガースの常識があるからだ。
理解するにしても、もう少し時間は必要だろう。
「それでだ。僕たちは『接続者』に会うことはできるのかな」
「はは、イオリ。『代弁者』っていう人しか会えないって言ってたろ?」
「君はさっき聞いた話を随分訳知り顔で話すね」
恐らく褒められていないだろう。イオリに目で刺され、アキラは押し黙った。
だが、やはりイオリらしくないと感じる。
彼女も聞いていたはずなのに、ルールを破ろうとするとは。
マリスは、小さく首を振った。
「会うのは無理だったっすね。というか、そもそも居場所すら、ドラクラスの“どこか”ってことしか分からない」
「?」
アキラは眉をひそめた。
やはり変だ。それで何をどう引っ越しを手伝うというのか。
「……と、“それで押し通している”。探れば分かるかもしれないっすけど、デリケートな感じで暗黙的にみんな口に出さない。アラスールさんがいつも言ってるんすけど、ドラクラス絡みのことは色々厳しいって」
「それは、魔導士ですら許されることが少ないってことかな」
マリスがこくりと頷いた。
イオリもマリスも魔導士だ。職への理解は深いだろう。
「ドラクラスでは『接続者』は本当に重要視されているみたいっす。もしかしたら、『接続者』のためなら他の住民の犠牲が出ることも厭わないかも」
「……よくそんな場所に住もうと思う奴らがいるな」
「それでも多分、ヨーテンガースの中で一番安全っすからね。ええと……、見た方が早いっすかね」
「?」
魔導士隊が配属されているとなるとそういうことにもなるのだろう。
ヨーテンガースの南部はほとんど死んでいると言われているのに、大した町だ。
マリスはまた、どう説明していいか悩んでいるように眉を寄せていた。
彼女の言う通り、警備の厳重さは見れば分かることなのかもしれない。
「それでも」
イオリは話の流れを戻すように強い声を出した。
「どうにかして『接続者』に接触することはできないかな。口ぶりからするに、マリサスも会おうとしてみたんだろう?」
「……」
マリスは押し黙った。
ふたりとも魔導士なのに、抜け道を探ろうとしているような感覚を覚えた。
イオリも、マリスも、『世界のもうひとつ』について強い関心があるようだ。
アキラもそんな全能の空間のようなものに勿論興味はあるが、彼女たちのそれは、興味本位ではなく、何らかの目的意識を感じる。
アキラは、改めてふたりの様子を伺った。
この場に居る全員が、ようやく前提が同じ者たちが揃ったのに、ようやく再会できたのに、何かを隠しているような気がしてくる。
物悲しさを覚えるも、それは自分も同じかもしれないのだから、下手に口を出せなかった。
「会いたいとは思ったっすよ。そもそも実在しているかすら分からないっすけど。でも、さっきも言った通り『接続者』絡みのことは厳しくて。……『代弁者』なら多少はマシっすけど、それでもあんまり話せはしない」
「マリスも何か知りたいことがあるのか?」
マリスがまた、こちらをじっと見てきた。
見返しながら考えようとしたが、あのマリスが知りたいことは、アキラが理解できることではない気がして諦める。
そんな様子が伝わったのか、マリスは小さく呟いた。
「この逆行の“対価”についてっすよ」
「……、…………」
「……なに?」
まずいと思った。
「ああ、俺の具現化のことか。別にいいだろ、そんなの」
「……そうっすかね?」
マリスは口を滑らせたことを察したようで、話を合わせてくれた。
アキラは拳を握る。
イオリは不審な目を向けてきたが、気づいていないふりをした。
この逆行の対価の話は、誰にもしていない。
強く隠そうとはしてはいないが、何となく言いそびれたままになっているこの事実を、アキラは改めて話そうとは思っていなかった。
「実は」
イオリが何かを言う前に、マリスが呟いた。
「……にーさん、イオリさん。申し訳ないんすけど、この依頼、自分が話を聞いたときから、みんなを巻き込もうと思ってたんす」
マリスにしては珍しく、強い言葉に感じた。
「この依頼は『世界のもうひとつ』に強く関わっている。……自分だって、探り当てたいものがある」
もしアキラの見間違いでなければ、マリスの半分の眼には、怒りにも似た色が浮かんでいた。
「このドラクラスの依頼。協力してください」
とっくに返したアキラの答えは、もちろん変わらない。
―――***―――
ドラクラスへの到着は明日になると聞いていた。
アキラは馬車の中で寝起きすることになるのかと思っていたが、幸いにもそんなことは無いらしい。
アラスール曰く距離にしておよそ8割程度進んだところにあった、殺風景な村で夜を明かすことになった。
ヨーテンガースの中央を分断する樹海近くにあるこの村は、どうやら自分たちのような旅をする者たちが経由する地点としての役割だけがあるようで、簡易なベッドだけがある宿泊施設と、腹を満たすだけの食事処がぽつぽつと建っているだけだった。
なかなかのペースで進んできたように思えるが、この先山岳地帯に入るとそうは言っていられないらしい。
馬の疲弊もそうだが、蹄や車輪など、物理的な消耗も激しくなる。アラスールが金を握らせて馬車の運転手ふたりをどこかへ向かわせていったのは、そうした物品を揃えさせるためなのだろう。
長時間馬車に乗っていたから、夜風がひんやりと気持ちよかった。
星が大きく見える夜だ。
以前は目を輝かせて見たものだが、最早とっくに見慣れた光景だった。
自分も、この長い旅を通して、この世界の住人となってきているということなのだろうか。
「なあアキラ」
その長い旅の日課でもある素振り。
前は10分も振っていようものなら翌日両腕が上がらなくなるほど運動不足だったのに、自分も成長したということだろう。
その日々の鍛錬で、そして今日も隣にいるミツルギ=サクラが呟くように声をかけてきた。
「なんだよ、珍しいな」
アキラの従者、ということになっているが、剣の師匠と言った方がアキラにはしっくりくる。サクが、こういう鍛錬のとき、そんな声色で話しかけてくることは珍しい。
サクは非常に基本を大事にする。
腰の高さや姿勢、果ては剣を振る速度まで、実践を意識しつつ基本を決しておろそかにしない。
だから彼女の姿はいつも美しく見える。
「お前、エリーさんに何をした?」
だが、本当に珍しく、今日はサクの方から鍛錬中に雑談を振ってきた。逼迫したものを感じる。
「何をって……、いや、何もしてないんだけどな。約束すっぽかしたくらいで」
「……絶対に何とかしておけ。明日の馬車の割り振り、今日と同じにするつもりなら」
「お、おう」
そのエリーは、今頃宿屋でマリスと話でもしているのだろう。あるいは、ティアから守っているのかもしれない。
そういえば、確かに、自分は悪いことをしたのかもしれない。
あれだけ妹を溺愛しているエリーだ。ようやく再開できた妹に、事情があったとはいえ、別の馬車に乗ってもらうことになったのだから。
いずれにせよ、自分の身によくない何かが迫ってきているのは間違いないようだった。
「そっちはどうだったんだ? アラスールに色々話聞いたんだろ? エレナとか大丈夫だったのか?」
「……お察しの通りだ。まあ、エレナさんは全然マシな方だったがな」
「?」
「すごかったぞ。魔導士の話なのに、へえ、とか、はあ、とか相槌を打つエリーさんは」
それなりにサクを見てきたアキラは、彼女の素振りの剣筋が乱れているような気がした。
それほど恐ろしかったのだろうか。ただアキラは、心の底からその場所にいなくてよかったと思った。
「……まあ、話の方は……そうだな、どうやらこの依頼、秘密裏に何人もの魔導士が動いているらしいぞ。もう聞いていたか?」
「ん?」
「聞いていなかったか。シリスティアのときに近い。依頼の詳細は明かしていないのがほとんどらしいが、すでにヨーテンガース中の信頼できる実力者、ドラクラスに向かって欲しい、という依頼を出しているとか言っていたぞ」
「ああ、そういやアラスールが言ってたな、そんなこと」
生返事をしていたことを自覚した。
魔族が複数体出現する可能性があるとなれば、実力者は多ければ多いほどいいだろう。
今ドラクラスには数多くの旅の魔術師たちが集まっている。
中には自分たちのように依頼の詳細を説明してもらえた者もいるだろうが、そうでない者も含めてとにかく人を集めているようだ。
事情を説明されていない者にしても、アラスールの言う通り、ドラクラスで依頼が大量に発生するとなれば稼ぎにはなるのだから問題ないのかもしれない。
まとめてひとつの依頼にしていないのはそういう理由もあるのだろうか。
魔族が出現すると知ったら、意図せず参加した者たちがどれほど去ってしまうかは知らないが。
「そうなると、……スライクとかも来るのか?」
「見つかれば、と言っていた。それでも最優先で探しているらしい。そうだ、アラスールさんは頭を抱えていたぞ。てっきり」
そこでサクはぴたりと言葉を止めた。
だがその言葉の先は、アキラには読めてしまった。
「リリルが俺たちといると思ってたんだろ?」
「……まあ、そうだ」
少しは落ち着いていたと思ったが、思った以上にずんと心が重くなった。
やはりまだ、自分は立ち直り切ってはいないらしい。
「……大丈夫だよ」
「そうか?」
「いや、なんつうかさ。それで周りが気を遣って、出来る話も出来なくなる方が辛い、ってくらいには立ち直りつつあるよ」
「……そういうものか」
「そういうもんだ」
サクにものを教えるという珍しいことをした気がした。だがそうしても、以前は覚えた調子に乗ったことからくる気恥ずかしさはあまり感じなかった。
自分はきっと無知で、この世界でも元の世界でも、何かを深く考えるということはしなかった。
だが少しずつだが、それは所詮言い訳に過ぎないし、自分の人生に関わったすべてに対して、失礼のような気がしてくるのだ。
少なくとも、自分の目で見て聞いたことや、感じたことは、きっと信じていいのだろう。
「スライクも、それにリリルもわざわざ探していたとなると、本当に大事みたいだな。その場で人員確保したアイルークのときとはやっぱり違うか」
「あれはあれで例外だったんだろう。だが、大事というのは間違いない」
サクの剣先に力が籠るのを感じた。
たまに剣筋がずれてしまっていたのは、どうやら雑談だけのせいではないらしい。
サクは前に言っていた。あの灼熱世界のアイルーク魔門破壊。
出来ることなら、もう一度やり直してみたいと。
「……無茶だけはするなよ」
「するつもりだぞ」
サクは断じた。次に彼女が振るった刀は、背筋が凍るほど美しく見えた。
「アキラ。お前も分かっているんだろう。分かっていて、そう言っているんだろう。いよいよヨーテンガースの南部に着いた。もうここは、無茶をする場所なんだって」
「……ああ、そうだな」
「なら言うべきことは」
「気を付けろ」
「そうだ」
今度はものを教えられた。
彼女の言葉はいつも正しく鋭く心に入ってくる。
サクは刀を収め、息を整え始めた。
アキラも彼女に付き合って続けていて、手に疲労からくる痺れを感じた。漫然と降っていたと彼女に知られたら怒られるかもしれない。
「気を付けろよ」
汗を袖で拭っていると、また、サクの鋭い言葉が聞こえた。
振り返ると、サクは、姿勢を正してまっすぐ向き合ってきていた。
「ああ、もちろん」
「……本当に分かっているか?」
本当に彼女は鋭い。
長く共に旅をしてきているだけあって、アキラの様子は当然のように察されてしまっているようだった。
もう一度頷くと、サクは目の力で念を押すようにじっとアキラを睨み、諦めたように歩いて行った。
だが何も問題ない。
リリルのことや、マリスとの再会。
今までの自分なら、きっとしばらく頭の整理が追い付かず、昨日のエリーのように混乱していただろう。
だが幸いにも、今は気を紛らわせそうなことがある。
―――***―――
飽きもせずに延々と剣を振るい、時折、思い出したように動きを止める。
インターバルなのか、それとも身体の魔力を探って操る鍛錬なのか。彼の場合、ただの休憩で、そのまま飽きて宿に戻ってくる可能性もある。はずだ。
宿の2階から見下ろした窓の外には、見慣れた光景があった。彼の普段通りの鍛錬だ。
自分がずっと辿り着きたくて、ようやく辿り着けたそれは、しかし油断をすれば露と消えそうだった。
マリサス=アーティはこの数日、薄氷の上に立つ気分を味わい続けていた。
彼の表現で“二週目”の最初。
自分はすべてを知っていて、そしてすべてを失った。
そのときのことは、よく覚えていない。
自分はあのとき、この逆行の真髄を完全に把握したはずだった。
だが、その知識、いや、“感覚”は、今や完全に消え失せている。
覚えているのは、“二週目”の最初。姉の入隊式で、彼と出逢えるその直前、持ち込めた記憶を失った、どうしようもないほどの絶望感だけだった。
マリスは胸に手を当ててみた。鼓動は高まっていない。
ようやく彼と再開できたこの“三週目”。高揚よりも安堵の方が大きいらしい。
彼と再会できてなお、この記憶を保ったままでいられるのは、以前の逆行とは違い、自分が過去の出来事に沿うように生きたからだろうか。
それともまた、決して失いたくないその“刻”に、失うようになっているのだろうか。
想像するだけで身体が震えてくる。
だが、そんな自分の人生は、所詮、番外編だ。彼には、本編には、何の関係もない。
自分の苦悩や、葛藤や、彼と再会できたときの感情も、自分だけのものでしかないのだ。
それに今は、まさしくヨーテンガースの戦力を集める必要のある大仕事の前である。マリスとしても、彼らに協力を仰ぐために即座に行動し、独断で彼らが滞在した村を訪れたくらいなのだ。
協力してくれる彼らにとっても、大事である。
余計なことを考えず、全員が依頼に集中する必要があるだろう。
マリスは、窓の下でいよいよ腰を掛けられる場所を探し始めた彼をじっと見て、心の底から思う。
それでも。
もう少しくらい、何かあってもよくないか。
「マリー、ここにいた……って、どうしたの?」
顔を向けると、窓ガラスに映った自分の顔の横に、同じ顔があった。
マリスは無表情だとよく言われるが、姉には筒抜けのような感覚を覚える。その印象は、しばらくぶりに会った今でも変わらない。
そして、同じ気持ちになってくれて、無表情らしい自分が本来浮かべるべき表情を浮かべてくれるのも変わらないらしい。
「へえ」
自分が浮かべるべき表情ではないと願いたい。
隣に立った姉は、自分と同じように窓の下に視線を落とすと、底冷えするような瞳を携えた。殺気を放っているのかもしれない。
朝、流されるままに行動してしまい、姉との約束をすっぽかしたのは自分も同じだ。
だが彼が相変わらず適当に相手をしたせいで、姉の怒りはひとりだけに向いているようだった。
“刻”とやらは優秀らしい。彼らも以前とそう大きく離れた旅をしてこなかったようだ。
決定的に違うこともいくつかあったようだが、関係性は概ね変わっていないようで、相変わらず小さな村でも誰がどこにいるか分からないように好き勝手している。
相変わらず。相変わらず。
そう口に出せないことが、胸の中に小さなしこりを感じさせた。
「……まあ、今はいいか。ねえマリー」
「?」
振り向く間もなく、抱きしめられた。抵抗するのは無駄だと知っているマリスはされるがままにされていると、思いのほか早く解放された。
目の前に、自分が安堵したときに浮かべるべき表情のお手本があった。
「ああ、よかった。全然話せなかったし。ごめんね、なんか安心しちゃってさ」
姉も、変わっていない。最後に会ったときからも、その前からも。
異質だった2回目の旅と違い、今回は最初の旅とかなり近い。最初の旅でも、再開した姉にこうして抱きしめられたのを思い出す。
マリスも当然姉との再会は飛び上るほど嬉しいのだが、昨夜はアキラ、朝はアラスール、ここまでの道中はイオリ、そして先ほどまではあのアルティア=ウィン=クーデフォンにつかまっていたのだ。
この町についてから姉は何やら忙しそうだったから、その間に色々と話を聞かせてもらった結果、ボロが出てもどうにでもなるような情報量が出力されていた気がする。
姉の手紙でおおむね把握していたが、彼も、そしてイオリも、記憶を持った逆行をここまで隠してきたらしい。
「って、そうか。マリーに聞けばよかったのね、依頼の話。分からなかったことあってさ。……あいつがどうせ聞いてきそうなことは知っといた方がよさそうだしね」
姉はさっきと違い、呆れたような表情を、窓の下、座り込んでぼんやりと空を見上げているアキラに向けていた。
どうやらアラスールのところへ行っていたらしい。
優等生のような行動をしていた。自覚があるのかどうか知らないが、この面々で一番の苦労人なのは姉だろう。
苦労が見え隠れする姉の横顔はよく知っていて、そしてやはり、少し知らない人にも見えた。
今回も、姉は、そうなのだろう。
「ねーさ、」
「ねえマリー。……あいつのこと知ってた?」
静かな声だった。それでも自分の声よりはずっと強く感じた。
姉は視線を窓の下に向けたまま、こちらの様子を伺おうとしてこない。
「……あたしの気のせいだったらいいや。ごめんね、変なこと聞いて」
見逃してくれたと思った。
姉の中では、自分とヒダマリ=アキラは昨晩が初対面のはずだった。あのときもそう振る舞ったはずで、そのあとも、姉の前でそういう素振りはしていないと思う。
だが、こと自分においては、そんな隠し事は姉には通用しないことも同時に知っていた。姉にも久々に会ったのに、その印象は変わらない。
「手紙にも書いたっけ。なんかあいつ、“隠し事”があるとかなんとか。それで気になったのよ、マリーに迷惑かけてないかって思ってさ」
多分嘘だった。
姉が自分のことを分かるように、自分も多少は姉のことが分かる。
本当に気にしているのは、彼女の視線の先だろう。
姉の手紙のおかげで、記憶を有したままの彼がどういう風に旅を続けてきたのかは知っている。
“隠し事”。彼が姉に、“伝えないと伝えたこと”。
その結果、旅の道中、姉は幾度も疎外感を覚える羽目になっていただろう。
だが一方で、彼もきっと、逆行の記憶を隠したまま、苦しみながら旅をしていた。その苦悩は、きっと自分やあのホンジョウ=イオリにしか分からないだろう。
自分の記憶に逆らうことは何よりも怖く、手足が動かなくなる。
それでも彼は、それに抗いながら、この地に辿り着いてみせた。
先ほどまで散々聞かされたティアの話でも、彼のことはよく出てきた。
ぼんやりと空を見上げる眼下の彼の背中は大きく見えた。
姉は、彼女たちは、そんな彼と世界中を旅してきたのだ。
「何か困ったらあたしに言ってね。……って、あいついつまで座り込んでるつもりだろ。……ま、今は放っておきましょうか。流石に明日は同じ馬車で話せそうだし」
姉はため息交じりに、今度は寂しそうで、そして優しい視線を向けていた。
アキラの様子は少しおかしいらしい。
それはマリスも感じはしていた。時間にして数年ぶりだし、何らかの変化があって当然だろうと思っていたが、姉が言うに、やはり普段と何かが違うらしい。
彼のことについて姉が答え合わせをしてくれるのも、最初の記憶通りだった。
そんなときに覚えるこの感覚は、なんという名前を付ければいいのだろう。
姉と同じく、疎外感だろうか。
「……」
自分がこの逆行で、最初と同じように魔導士隊に入ったのは、過去の出来事に沿うためだ。
だが、あのすべてを失う瞬間を恐れたのが本音かもしれない。
失うくらいなら、最初から期待しない方がいいと流れるままに生きたのが今だ。
それが功を奏したのか、今現在も自分は記憶を保有している。
だが自分と違い、何も知らない姉は、3度目も、最初から彼と共に旅をしてきた。
「……知ってたっすよ」
「え?」
姉に背を向けた。
今自分は、言ってはならないことを言った。だが、ほんの少しだけ胸がすいた。
アキラの様子は今、やはりおかしいらしい。
何をすればいいか聞けば、姉はきっと正解を教えてくれる。
だが何故か今、聞こうとは思わなった。
自分で何とかしてみたいと、思った。
「……自分もアラスールさんに用があって。じゃあねーさん、また」
「ちょ、ちょっと。マリー……?」
頭がまともに働かない。
足早に姉のもとを去ると、姉は、追いかけてはこなかった。
また、見逃してくれたと思った。
―――***―――
アキラは自分が、人の機微というものには疎い人間だと思っていた。
エリーやサクは当たり前のように自分のことを見抜いてくるのは、恥ずかしさもありがたさもありつつ、本当にすごいと思う。
長く旅を続けてきて、付き合いもそれなりに長くなった今、何となくという風に感じられるようになったが、まだまだ彼女たちの域には達していないであろう。
そんなアキラは、過去、それほど長い間共に旅することが出来ず、久々に再開でき、そしてそもそも無表情に近いマリサス=アーティの内面を探ることなど出来はしないと思っていた。
だがそれでも、今アキラは、まさにそのマリサス=アーティから、物凄い圧を感じていた。
「マリにゃんマリにゃん、どこまで話しましたっけ?」
「……大体全部聞いた気が」
「あ、そうそう次はタンガタンザでしたかね。いや実はあっし、タンガタンザに行けてないんですよ。でもご安心ください。方々から聞いた話を混ぜ合わせるとあら不思議、あっという間に―――」
「…………」
はっきりと助けを求められていることが分かった。
翌日。
再び2組に分かれて馬車に乗ることとなった。
目的地までの距離はそれほど離れていないそうだが、これからは山岳地帯に入り、馬車の進みが悪くなるらしい。
午前中いっぱいを馬車の整備に費やすこととなったが、どうやら旅路自体は順調のようで、夕方にもドラクラスへ着くとのことだ。
馬車に乗る前、遠目に見えた山々の先に、件の依頼主がいるのだろう。
そんな最後の馬車の割り振りは、少しでも旅に明るさをもたらしたかったのかティアが手作りしたクジで決めることとなった。
この馬車にはアキラとマリス、そしてティアとエレナが乗っている。
エレナは操作されたと訝しんでいそうだが、ティアのことだ、本当に運任せにしていたのだろう。
現に久々に再開できたエリーとマリスは同じ馬車に乗れるようにするつもりだったらしかったが、気恥ずかしさからかエリーが構わないと言い出して、ふたり分のクジを後から足して混ぜ直している。
オープン過ぎるティアと謎が多いマリスだが、マリスの運のパラメータだけはアキラの目にはっきり映ったような気がした。
熱を込めて語るティアには悪いが、きっと前も、自分たちの旅の話は同じく彼女の口を通して聞いているのだろう。
ティアにとっては新たに旅に同行する仲間に対する経緯の説明なのだろうが、マリスにとっては再放送だ。もしかしたら再々放送かもしれない。表情を見るに、随分と体力を消耗するらしい。
「ねえアキラ君。私に何か言うことない?」
そんな喧噪を完全に無視した目の前に座る美女からも圧を感じた。
そろそろ人の機微に聡い人物を自称してもいいかもしれない。
小汚い馬車の中でも足を汲んで優雅に座るエレナ=ファンツェルンは、背筋が凍り着くような微笑を浮かべていた。
「……悪かったよ。急に決めて」
「そうねぇそうねぇ。ヨーテンガースに着いたら即魔王。森を抜けたら魔導士からの大仕事。1しか出ないスゴロクでもやってるのかしら?」
彼女の目的からすればこの依頼は完全な回り道である。
申し訳ない気持ちでいっぱいになるが、アキラが事後ではあるが懇切丁寧に頼み込むと、エレナは底冷えする殺気を放つだけで許してくれた。
この依頼を受ける代償に、また色々と信用を失っているような気がする。
「アキラ君。ドラクラスに着いたら、というかこの先もだけど。必ず私の目の届く場所にいなさい。あの正妻ちゃんの気持ちが分かってきたわ……、本当に目を離すと何が起こるか分からない。この依頼中に別の依頼を受けてくるなんてことしそうだもの」
「そんなことはないと思うけどな……」
言い切れないのも悲しいが、日輪属性の宿命とやらなので我慢しよう。
それに今回は、幸運なのだから。
「……アキラ君」
「どうしたよ」
「…………。いいわ、何でもない。それより何? あの正妻ちゃんの機嫌の悪さ」
「……ああ、そうだった。それに今日は、サクも加わった」
ティアのクジ引きが無ければ、今頃自分はエリーと話していただろう。
約束をすっぽかしたどころか、久々に再開できた妹を拘束してしまっていたのだ。
その分昨日の夜にふたりで話す時間はあったらしく、今日も別行動になったとしてもいいと本人も言っていたが、その結果純粋なアキラへの怒りだけが残っているのだろう。
そして昨夜、サクから厳命されていたエリーの機嫌を何とかするという依頼も、間が悪く何もできていない。
馬車が同じになるのだからと、怖いものを後回しにし続けた結果でもある。
ティア考案のクジ引きに、見放されたのか救われたのか、未だにアキラは判断できていないが、あの従者様は別の馬車に向かう前、主君の足を力強く踏んでいった。
「わざとよね?」
「違う」
何を指しているか分からない言葉を短く否定した。
「ま、きっと大丈夫だ。前の馬車にはイオリがいる。イオリがきっと何とかしといてくれるさ」
「…………。……悲しいくらい人頼りね。あの魔導士ちゃんも感化されたらどうするの? 私は絶対に何もしないけど」
「え……」
「本当に頼る気だったのかしら」
茶番に付き合ってもらいながらも、エレナは本当に戦慄しているようだった。
困ったときには頼らせて貰おうと本気で思っていたことが伝わったのかもしれない。
彼女ははっと息を吐き出すと、言葉に迷い、そして結局諦めたようだった。
「……この手の話題、しばらく止めた方が良さそうね」
「そうしてくれると助かる」
「……」
ガタン、と馬車が跳ねるように揺らぎ、傾きを感じた。
どうやら本格的に山岳地帯に入ってきたらしい。
それを契機に、エレナはわざとらしく伸びをしてくれて、そしてようやく、最早耳が慣れ始めた騒音に目を向けた。
「静かにしなさい。それとも馬車と並走したいの?」
「わわ、エレお姉様もお聞きになりますか? 今まさに―――あ、すみません。ごめんなさい。もうしません」
ティアもティアで、悪気があるわけではない。
大方マリスが運悪くエリーと別の馬車に乗ることになり、寂しいだろうと考えた彼女なりの善意だ。
だからこそ邪険に扱いにくく、彼女を止めるには今まさにエレナがそうしているように冷ややかな目で首元をつかまえるしかない。
マリスはまさに救世主が現れたとばかりに半分の眼でエレナをじっと見ていた。
「……ったく。正妻ちゃんとでも変わればよかったわ。というかアキラ君が管理してよこのガキ」
「自分はエレねーと一緒でよかったっすよ」
「懐かれたじゃない……」
カタカタ震えるティアと、ほっと息を吐くマリス。
どうやらエリーがいないとエレナがそういう役回りになってしまうらしい。
ほのぼのとした気持ちで眺めていると、エレナに割と本気で説教されているティアを尻目に、マリスが馬車の揺れを感じさせない落ち着いた動きで近づいてきた。
「にーさん。何で助けてくれないんすか」
「助けるって……、ティアも悪気があるわけじゃないしな」
だからこそなのだろうが、マリスもされるがままになっていたのだろう。
イオリのときもそうだったような気がするが、ティアをおもちゃ扱いにしたような気もして、きっと誰も悪くないのに罪悪感だけが残る。
「馴染めたか?」
「それについてはお陰様なんすよね……。ボロは出そうにないし」
「代償がでかいだけなのが問題なんだよな」
マリスの小声にアキラも囁くように返すと、マリスは小さく笑った。
どうやら面々を見ていると、新たに仲間になってくれたマリスに対する様子は、意外にも普通のようだった。
皆人見知りが強いわけでもないが、昨日今日に出逢った人物なのに違和感なく迎え入れてくれているように思える。
それはマリスが魔導士だからなのか、それともこの見慣れた顔のお陰なのかは分からないが、それとティアの過剰なまでの尽力で、当面一方通行の記憶にマリスが悩まされることはなさそうだ。
隣にゆったりと腰を下ろしたマリスと共に、しばらくエレナとティアの様子を眺めていると、ふいにマリスが小さく呟いた。
「……にーさん。今何か困っていることあるんすか?」
「? どうした急に」
「いや、何か、というわけじゃないんすけど」
この場で話すくらいだ。記憶絡みのことではないのだろう。
となると自分は何か困っているように見えるのだろうか。
そんなことは無いと思うのだが、マリスに言われると自信が無くなってくる。
ガタン、と馬車が大きく跳ねた。
運転手の唸り声も聞こえる。
もしかしたらどこかで蹄鉄を付け替える必要があるかもしれない。
「そうだな。お前の姉がご立腹だ。どうすればいいと思う?」
頭から零れ落ちていた危機的状況を伝えたが、マリスはあまり納得していないようだった。
半分の眼でじっと見てくる。
「なんというか、その、様子がおかしい? というか」
「そう見えるか?」
声量は落とした。
マリスが知っているのは、記憶にない“一週目”と目も当てられない“二週目”のヒダマリ=アキラだ。
マリスが違和感を覚えるくらいには、多少自分は変わっているのかもしれない。
そう考えると心地よい。
「そうじゃなくて、その、多分、あのときからっすかね。アラスールさんに説明を受けたとき……、そのときから……」
ガタガタと、馬車は揺れる。
目的地はまだだろうか。
さっきから、いや昨日からか。待ち遠しくてたまらない。
「『光の創め』の話が出たときから」
ガタン、と馬車がまた跳ねた。
「おやおや?」
馬車の後部にまで追い込まれていたティアが、備え付けられた小窓越しに外を覗き始めた。
その後頭部に拳を振り下ろしかけたエレナは思い留まってくれたのか、ティアをどけて半身になって外を伺う。
「ねえ天才ちゃん。ドラクラスに向かっているのは私たちだけじゃないのよね?」
「……そうっすけど、何かあったんすか?」
「それなら後ろからついてきているのは知り合いだったりする?」
マリスも小窓から顔を覗かせ始めた。
とうとう追い出されたティアがしょんぼりとした顔で下がってくる。
「どうしたティア。誰かついてきているのか? 俺たちみたいに依頼を請けた奴かな」
「そうみたいですね。でも馬車じゃなかったですからきっとおひとり様です。馬…………のようなものに乗っていました」
「ようなもの?」
「陰になっててあんまり見えないんですよ」
「陰?」
マリスとエレナが様子を伺う外が気になってきた。
『ねえマリーちゃん、今ちょっといいかしら?』
アキラが腰を浮かしたとき、変わった魔力の気配を感じたと思ったら、この場にいない者の声が突然聞こえて、危なく転びかけた。
声の主は前の馬車にいるアラスールのものだ。
魔門破壊のときも似たようなことをしていた気がするが、自分の声を相手に届ける魔術があるのだろう。
流石の水曜属性。随分と便利な魔術だ。
『こっちの馬車で話してたんだけど、馬が思った以上に疲労しているようなのよね。休憩するにも場所が悪いし、目的地まだかかるから補助魔術お願いできる?』
アラスールの声はマリスにも聞こえていただろう。
だが彼女は、じっと外の様子を見たままだ。
「すみません!!!! マリにゃんは今ちょっと立て込んでおりまして!!!! 代わりにあっしが出来ることはありますか!!!?」
「っ……、俺らの声は聞こえてないんじゃないか?」
「もっと大きな声を出さなければ……!!」
「違う。叫ぶなと言っている」
ティアに念を押して、アキラは今度こそ馬車の後部へ向かった。
「マリス? 何かあったのか? アラスールがなんか言ってたけど」
「にーさん、ああ、聞こえてたっすよ……」
マリスは腑に落ちない顔をしながら、準備に取り掛かった。
空いた場所にアキラは入り込み、ようやく小窓に顔を覗かせた。
「……?」
距離はだいぶ離れている。
騎乗している様子をそう表現していいのかは分からないが、ぽつんと人影が見えた。
確かに大きい馬、のようなものにまたがり、この山道をずんずんと進んできている。
いつしか日も傾き始め、朱に染まる山岳地帯は、燃え上がっているようにも見えた。
「了解っす。あと、後ろから誰か付いてきてるっすよ」
『ああ、聞こえた? それじゃあお願い。……誰かって誰? 見覚えある?』
「ないっすけど、ひとりっぽくて。目的地が同じなら、置き去りになりそうっすよ?」
『……構わないわ。下手に助け舟出しても仕方ないでしょう』
可哀そうな気もしたが、同じような魔術を使い合ったマリスたちの会話に特に異論はない。
あの人物もこのヨーテンガースを旅しているのだ。それなりの実力者だろう。
「じゃあ行くっすよ」
『ちょっと待って。エリーちゃん、サクちゃん、念のため、もうちょっとしっかりつかまっておいた方がいいかも。うん、そうね。イオリちゃん、運転手さんにも伝えてきてくれる? すぐに安定するだろうけど、いきなり速くなるから驚くなって。そちらの運転手さんも、話聞いていたわよね?』
方々に指示を出すアラスールの声を待ち、マリスはゆっくりと銀の魔術を展開した。
世にも珍しい月輪属性。
その最高峰に位置するマリサス=アーティの魔術、いや、魔法だろう。
それがこの馬車に向かって放たれる。
だが、ある種感動するはずのその光景よりも、アキラは後続の存在が気になった。
やはり陰で素性が分からない。
「……!」
気づいたのは同じく覗き見ていたエレナも同時だっただろう。
背後から近づくあの人影は、先ほどよりも少し近づいてきている。
そして今、何故か。
日光を遮るものが無いのに“人影のままだった”。
「フリオール」
アラスールの忠告は聞いておくべきだったかもしれない。
馬車が銀の魔力に覆われた瞬間、坂道も、山道も、あるいは重力すらも忘れたかのように馬車が疾走した。
反動はほとんど感じず、しかしかえって常識外の現象に転びかけたアキラは辛うじて堪えると、再び背後の人影を探る。
マリスの力で圧倒的に加速した2台の馬車は、目的地へ向かい、後続の人影を置き去って駆けていく―――はずだった。
「天才ちゃん、私の声を向こうに届けて。……そっちの魔導士ども!! 聞こえてんだろ!?」
『エレナちゃん? なに、どうしたの?』
「さっきの後ろにいる奴よ! 背丈はそっちの従者と同じくらい!! この馬車の馬よりふた回り大きい“何か”に乗っている!! 日の光を浴びようが“人影”のままで―――“今のこの馬車より速い”!! あれは何!?」
怒鳴りつけるように叫んだエレナは、再び馬車の小窓から外を睨みつけた。
アキラもすでに、あれが自分たちと同じような旅の魔術師ではないと結論付けていた。
纏うように闇に覆われたあの存在は、銀に輝くこの馬車に急速に接近してきている。
『…………。っ……、マリーちゃん!! もっと飛ばせる!? 最大でいいわ!!』
アキラは小窓の下に、不用意に開かないようにしっかりと施錠されたドアノブを見つけた。開けやすくてよかった。
マリスが更なる魔術を発動したのが分かった。
今度は備えていたアキラは、馬車の加速も、そしてそれに合わせるように後方の人影が加速したのもはっきりと見えた。
夕日で燃え上がるような景色の中、不気味な影だけがアキラの瞳にくっきりと浮かび上がってくる。
『マリーちゃん、馬車の加速に全精力!! とにかく運転手と馬を守って!! エレナちゃん、そいつの動き、逐一私に報告して!! 他は万が一に備えて馬車の前の方に集まっていて!! イオリちゃん、召喚獣はいつでも出せるわよね!?』
「ティア、ちゃんとつかまっておけよ、マジで危ないからな。マリス、この銀の光の中って、浮けたりするのかな」
「……そういう風にできないことはないっすけど、飛んでいるみたいに自分で移動するのは難しいっすよ」
アキラはちらりと高速で流れる眼下の山道を見下ろした。
足を付こうものなら、あっという間に置き去り、というのはかわいい想像で、足が吹き飛ぶだろう。
だが、思った以上に恐怖はなかった。
「移動の方は何とかする。頼めるか」
「……了解っす」
「助かる」
久々に会ったというのに、当たり前のように彼女に求めてしまい、そして応じてくれることに、アキラは何度目か分からない自己嫌悪に陥る。
だが、今はそれでもいい。
アラスールの様子で、後ろの存在がどういうものなのか感じ取れてしまった。
色々と指示を飛ばしているアラスールには悪いが、こちらにもそれなりの考えがある。
「あらアキラ君。私はどうすればいいのかしら?」
「……エレナはそうだな、“俺を止めないでくれるか”?」
「無理な相談ね」
「あんなのから何もしないで逃げ切れるなんて楽観的なこと考えてないだろ。それに、今から向かうドラクラスを戦場にするつもりか?」
「まあそうね。……つけられてるってのもいい気分はしないわ」
欲を言えば馬車を降りてじっくりと対応したかったが、流石に馬車や運転手は守れない。
馬車だけ先に逃がしても、速度は後方の人影の方が速いようだ。そちらを狙われたらやはり守れないし、うまく逃げてもドラクラスへ引き込むことになる。
奴の狙いは知らないが、どうせろくなことじゃない。いずれにせよ、迎撃する必要があるだろう。
こんな交戦は初めてだが、今ここには、不可能を可能にする少女がいるのだ。
最悪―――自分ひとり置き去りにされても構わないが。
『とにかくドラクラスまで逃げ切るわよ!! 狙いが何か知らないけど、早速来やがったわね、『光の創め』―――』
だからアキラは、思う存分、“やりたいこと”が出来る。
『―――『剣』のバルダ=ウェズ……!!』




