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おんりーらぶ!?【第二部】  作者: コー
中央の大陸『ヨーテンガース』編
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第56話『容赦はしない』

―――***―――


「杖? そいつはどんな奴なんだ」


 ヒダマリ=アキラは、マルド=サダル=ソーグが口にした『光の創め』の構成員に眉をひそめた。

 どうやら『光の創め』は、“あの存在たち”と同じ役割を持っていることは間違いないようだが、分かりやすい『剣』や『盾』と違い、残るふたつはいまいちピンとこなかった。


「詳しくは分からないけど異質でね。というよりあれは、魔族なんだろうか」


 マルドは言葉に詰まったように空を見上げた。

 アキラは隣を歩くリリルに視線を向ける。彼女も"あの役割“への理解はあまり深くないように見える。


「属性は?」

「さあ」

「戦術は?」

「さあね」


 質問しても、マルドからはまともな回答は返ってこない。

 もうすぐ護衛の時間も始まるというのに、こんなまとまりのない話をしながら樹海を歩いていると焦りが生まれてくる。随分と自分も真面目になったものだ。


「交戦したんだよな?」

「したね」

「だからどんな奴なんだよ」


 やはりマルドは具体的な話をしてこない。

 アキラは苛立ちとともにマルドの隣に並んだ。


 そこで、びくりとした。

 先ほどまで魔族との交戦について淡々と話していたマルドの表情は、いつの間にか、憎悪に歪んでいた。


「現れたら全滅だ」


 低く、冷たい声だった。

 アキラはマルドを内面を見せない人物だと感じていたが、彼は今、感情そのままで話しているように思えた。


「前に交戦したときは、依頼主を殺された。一緒に参加した魔術師たちも全滅している。旅をしていて初めてだね、敗走する羽目になったのは」

「スライクが、か」


 信じられなかった。

 それほどの怪物が存在するとは。


「聞いているだけじゃ信じられないのも分かるけど、“奴”はね、そういう戦いをしないんだ。面と向かって、用意ドンでの戦いなんかしてこない」

「不意でも付かれたのか?」

「ああそうだ。と言っても、“奴”はそうなんだろうね。そういう意味じゃ、奴の方が戦闘力は上だ」


 マルドは、嫌悪感をむき出しにして拳を握った。


「絶対的に優位な状況以外じゃ存在さえ毛取らせない。もし、『光の創め』の介入がなかったとしたら、いるのは奴だ、こちらが隙を与えなかったってことなんだろうから。逆に言えば、“奴”が現れたら絶望的な状況だってことだ。現にあのときも、スライクは深手を負っていた。奴はただ、それを待っていたんだろうね。依頼達成と同時に、全てを台無しにされた」


 人間に限らず、限界というものは存在する。

 物語には、必ず結末というものが存在する。


「そのせいで、俺はいつでも考えさせられている。小さな依頼ひとつとっても、辛勝なんて許されない。ノーミスクリアだけが、奴を避ける唯一の方法だ」


 全てを出し尽くし、限界を越えた先の先。

 伸びきった糸を切り裂くような存在なのだと、マルドは言った。


「クソ野郎だよ、『杖』のグログオンは」


――――――


 おんりーらぶ!?


――――――


 樹海の中はシンと静まり返っていた。

 ただ身体を伝う熱い液体だけが、アキラを辛うじて現実に引き止めていた。


 魔王を退け、依頼達成間近と思われたその瞬間に、全てを黒く濁された。

 マルドから聞いていたというのに。


 ぼんやりと月夜に浮かぶ怪物に、アキラは苦々しげに震えた声を出した。


「あれが……『杖』のグログオン……!!」


 胸の中のイオリは、ピクリとも動かない。


「……勇者、お前はその女を治せ」


 冷たい声を出しながら、スライク=キース=ガイロードは、グログオンとの間に身体で壁を作った。

 大剣を握り締め、ふらつきながら殺気を空へ飛ばす。

 空に浮かぶ獣のような姿の魔族は、じっとその様子を見下ろすだけだった。


「……そうだ、イオリ……!!」


 胸を矢で貫かれたイオリは、ぐったりと身体を預けてきている。

 脈は怖くて測れない。即死していないことだけを祈った。

 とにかく、一刻も早く治療しなければ。


「キャラ―――」


 魔力を込めようとした途端、ズキリと頭が痛んだ。

 そして全身が痺れたように動かなくなる。


 魔力が底を尽きていた。そんなことは分かっている。

 だが構うか。今すぐにイオリを、


「―――ギッ」


 限界を越えようとした。魔力が尽きたなら別の対価を差し出せばいい。

 魔術の対価は魔力、時間、生命だ。

 命を対価にする光景を自分は見ている。


 しかし、差し出せるものならば全て差し出すつもりで挑んだというのに、アキラの身体はそれを許可しなかった。

 いや、“許可されなかった”。


「く、そ!!」


 身体中がガッチリと拘束されたような感覚に、アキラは危なくイオリの身体を落としそうになる。

 色濃く匂う、“ここではないどこか”からの干渉が、アキラの願いを容易くもみ消した。

 魔力消費の激しい治癒魔術は、使えない。


「ち、下がってろ!!」


 スライクが叫んだと同時、月夜に浮かぶグログオンは杖を構えた。

 攻撃と判断し、アキラはイオリを抱きしめながら、スライクから離れて木々の間に身を滑り込ませる。


 グログオンは、その杖の中間をその巨大な両手で掴むと、ゆっくりと、右手を引く。

 気づけば杖の両端から糸のようなものが右手に伸び、その中央には、いつしか先ほどイオリを貫いた矢が装填されていた。

 弓と化した杖を構え、グログオンは静かにこちらに狙いを定めている。


 魔力色は―――判断できない。

 光としか形容できない矢を、放った。


「伏せてろ!!」


 それは一瞬だった。

 グログオンが矢を放ち、スライクが鋭く剣を振り抜く。


 バジュッ!! と嫌な音が響いた。

 ほとんど見えない速度で放たれた矢は、スライクの剣に弾かれ、アキラのすぐ隣の大木が爆破される。


 アキラは手を震わせた。

 あんな矢で、イオリは射抜かれたのか。


「勇者!! 今すぐ修道女を連れてこい!! マルドもだ!!」

「わ、分かった!!」


 イオリをゆっくりと木に預ける。退避は大賛成だった。自分ができないならすぐにティアを連れてくる必要がある。


 そして同時にスライクの意図も分かった。

 あのグログオンという魔族。属性は分からないが宙に浮いたまま遠距離攻撃が可能のようだ。

 となればスライクでは凌ぐことはできても撃破はできない。

 対抗できるのは空中戦が可能な人物だ。


「……!」


 そこで、アキラは気づいた。

 目の前で倒れているイオリも、空中戦が可能な人物だ。


「まさ、か……」


 グログオンが攻撃を最初に放ったとき。

 あのときならば自分でもスライクでも誰でも攻撃できたはずだ。

 しかしグログオンは、勇者ではなく真っ先にイオリを行動不能にした。

 結果、グログオンは圧倒的優位に立っている。


 それが、狙いだったのか。

 そんなことのせいで、イオリが狙われたのか。


「イオリ、絶対死ぬな、死なないでくれ。今すぐティアを連れてくる」


 溢れる怒りは強引に飲み込んだ。

 今、怒りに囚われている場合ではない。

 彼女を死なせないことだけを考えろ。


「キャラ・ライトグリーン!!」


 恐らく発動はしていないであろう。

 それでもアキラは僅かに残った魔力を絞り切り、駆け出した。

 魔力は完全に尽きたらしい。

 リイザスと戦ったときは、魔力は周囲に漂っていたが、この樹海は今なおルシルの影響で魔力の流れが極端に鈍い。

 周囲から魔力をまるで取り込めないせいで、行動に強い制限がかかる。


「!」


 そして、それは、


「ヂ―――」


 背後から呻き声が聞こえた。

 切り飛ばし損ねた矢が、スライクの腕を掠めたらしい。

 右腕をだらりと下げ、スライクは剣を大地に突き刺した。

 グログオンは、意にも介さず再び矢を構えている。


「おい!!」

「止まんな!! とっとと行け!!」


 スライクも同じだ。

 彼も周囲から魔力を取り込み自らの糧にする。

 ただでさえ魔王などという規格外の魔族と戦った直後だ。

 あるいは自分以上に、彼も魔力の限界は近い。


―――旅をしていて初めてだね、敗走する羽目になったのは。


 マルドの言葉が蘇る。

 あの獣ような魔族は、グログオンは、絶対的に優位な状況でしか姿を現さない。


「す、すぐに戻る!! 死ぬなよ!!」


 アキラは叫び、逃げるように駆け出した。


「……?」


 そこで、初めて。

 遥か上空にいるはずのグログオンの、低い聲が確かに聞こえた気がした。


 心臓が鷲掴みされたような感覚が襲う。

 身体中が底冷えする。


 それは、獣の呻き声にも似た、絶望をもたらすような聲だった。


「”論理―――崩壊“」


 思わず振り返った。

 グログオンは、やはり矢を構えている。

 今度はその色が確かに見えた。


 いや。


 その”複数の色”が瞳に飛び込んでくる。


「なに―――が」


 グログオンが構えた矢は、弓をとして使われている野太い杖に、2本乗っていた。


 燃えるような、赤。そして―――凍えるような、青。


「―――、」


 直感だった。

 アキラは駆け出した勢いそのまま木々の間に飛び込み身を伏せる。


「っが!?」


 鼓膜を突き破る爆音と衝撃が炸裂した。

 身を伏せたアキラに吹き飛んだ木々のかけらが容赦なく突き刺さる。


 もはや想像できる矢の威力を遥かに超えていた。

 アキラが向かっていた先の木々がまとめて吹き飛ばされたらしい。

 息も絶え絶えに顔を上げると、あれだけ鬱蒼と生え茂っていた樹海の一部が更地と化し、その爆風に巻き上げられた土が混ざった黒煙が立ち上っている。


 身体中が砕れたような衝撃に、身が起こせない。

 あと一歩でも進んでいたら、あの木々同様アキラの身体も木っ端微塵になっていただろう。


「…………、逃す、つもりはねぇってか……!!」


 衝撃にスライクも身を伏せていた。

 アキラは青ざめ、這ったままイオリを探す。

 彼女の身体を預けた木に、イオリはいなかった。

 見れば彼女は、衝撃に吹き飛ばされ、数メートル離れた樹木に激突したのか、抱きつくようにしなだれかかっていた。


 死んだ、かもしれない。


「あ―――、ああああああ!!」


 アキラは立ち上がって駆け出した。

 足が折れているのか、まともに進まず。

 目が潰れているのか、ほとんど前も見えない。


 グログオンは再び矢を構えている。


 何が起こっているか分からない。

 何が悪かったのか分からない。


 淡々と矢を放つグログオンがどんな魔族なのかも知らない。

 空を飛べない相手を、空を飛べる相手がただ攻撃してきているだけだ。


「論理―――崩壊」


 対抗する術はない。

 こんな不条理が許されるのか。


 これが―――ヨーテンガースの洗礼だとでもいうのか。


「イオリ!!」


 ようやくイオリの元へ辿り着いたアキラは、脇目も振らずにイオリを抱き起こした。

 大木に激突したせいか、額からさらに血が流れている。

 潰れた額を労わるように、アキラはイオリの顔に手を触れた。

 信じたくないほどに、彼女の頬は冷え切っていた。

 もう何も考えられなかった。グログオンは当然攻撃態勢を整えているだろう。

 だが、この場所から離れることは、肉体的にも精神的にも、今のアキラにはできなかった。


―――思考を止めるな。


「下がってください!! ベルフェール・パーム!!」


 次の爆撃はほど近い場所で聞こえた。

 しかし衝撃はほぼなく、音すらフィルタがかかったように霞んで聞こえる。

 祈るように顔を上げた。

 涙で顔を晴らしたアキラは、しかし、思わず顔を伏せてしまった。


「……アキラさん、あれがグログオンですか!?」


 そこにいたのは、リリル=サース=ロングトンだった。

 具現化を操る彼女は、その純白の花のような盾を展開し、グログオンを睨み上げる。


「リリル、ティアは、他のみんなは!? イオリが、イオリを助けないと、」

「……すみません、アルティアさんは分かりません。ですが、カイラさんたちなら先ほどまでサーシャ=クロラインと交戦していたようです」

「なん、だって?」


 リリルは空を舐めるように視線を這わし、スライクは強く舌打ちする。


 ジゴエイルから聞いてはいたが、今この樹海にはサーシャ=クロラインがいるという。

 そのサーシャと交戦したのが、よりによってカイラたちだというのか。

 その決着がどうなったかは知らないが、少なくとも、魔族との交戦がどれだけ消耗するものかをアキラは身をもって知っている。


 では、何か。

 今こちらの召喚獣使いたちは、皆行動不能だというのか。


「……下がっていてください。私が防ぎます」


 リリルが神妙な声を出す。

 リリルの表情が視界の隅に入ってしまい、アキラはすぐに顔を伏せた。

 事の深刻さはリリルも察したのだろう。彼女も自分の言葉が、力を持っていないことが分かっている悲しげな表情を浮かべていた。見られたくないだろう。そして自分の顔も、見せられるものではない気がした。


 アキラはイオリを庇いながら、頼りにならない近くの大木に身を隠した。

 リリルという救援が来てくれたのは僥倖だったが、状況が動いていないことを妙に冷静になってしまった頭が告げていた。


 そもそもそうだ。

 空から見下ろしているグログオンは、リリルの接近にも当然気づいていただろう。

 だが、問題ないと判断し、援軍を呼びに行ったアキラの動きを止めることを優先した。


 分かっているのだ。“それだけをやればいいのだと”。

 この場にいるアキラ、スライク、そしてリリル。

 勇者が3人もいるというのに、遥か上空にいるグログオンには指一本触れることはできない。

 そして今この瞬間に、空から助けが来ることも―――ない。


「くそ……くそ……くそ」


 そして、空を見上げながらアキラは毒づく。

 いくら魔力の探知が鈍るこの樹海でも、立ち上った黒煙は誰からでも見えただろう。

 しかし、こちらの状況を証明するように、誰も助けにはこなかった。


―――クソ野郎だよ、『杖』のグログオンは。


「“だから現れやがったのか”」


 青と赤。

 光の雨が降り注ぐなか、アキラは身動ぎひとつせず、イオリを支え続けていた。


「きゃ!?」


 爆音がよりクリアに聞こえた。

 グログオンの放った矢が、リリルの盾を避け、周囲に放たれたらしい。

 リリルの盾は強固だが、キュールのように周囲を完全に遮断するものではない。

 爆風で周囲を包めば、彼女の防御を崩すことは可能だ。


 爆風に身もだえながら、アキラはイオリを守ることだけを考えていた。

 もうしばらくすれば、きっと誰かが来るだろう。

 リリルがいれば、そのもうしばらくが稼げるだろう。


 だが、その僅かな間に、胸の中のイオリは命を落とす。

 もう来ているかもしれないその限界に、アキラは気が狂いそうだった。


―――誰ならこの状況を打開できるか。


「……違う。俺が、やるしかないんだ」


 ガチガチと震える歯を食いしばり、アキラは目の前の現実に向き合う。

 諦めるな。投げ出すな。

 迷って迷って、考え続けろ。

 出来がいいとは言えないが、こんなときこそ頭を使え。


 魔力は完全に尽きている。周囲の魔力はルシルの影響で流れが鈍く、まともに吸収できない。

 だが、治療には対価が必要だ。


 イオリを救えるならこの命だって惜しくはない。だがそれは、とっくの昔に払った対価だ。使わせてはもらえない。


「っざっけんな!! ―――女勇者!! お前はもっと下がれ!!」


 グログオンは淡々と爆破の矢を射出する。

 リリルが防げない範囲の攻撃には、スライクが即座に反応した。


 何でもいい。どんな方法でもとってやる。

 グログオンはスライクとリリルが凌いでくれている。

 今、イオリの命を救うことだけに向き合え。


 問題は、魔力の供給だ。

 考えろ。それは、どこにある。


「……イオリ、悪い」


 ひとつ、思いついた。

 そんな器用なことが出来るかどうか分からない。だが、やるしかなかった。

 自分の力を、多少は信じてやれ。


 アキラはイオリを強く抱き締める。

 ジゴエイルとの戦闘中、僅かだが、魔力の回復を感じた瞬間があった。もしあれが、気のせいでないとしたら。


「―――キャラ・ブレイド」


 発動した瞬間、全ての感情が塗り潰されかけた。

 イオリを射抜いた獣の魔族。

 矮小なヒダマリ=アキラの感情が、グログオンへの殺意のみに押し潰される。


「づ、づ、ぐ、っぎ……!!」


 胸の中のイオリすら乱暴に投げ出し、今すぐ敵へ襲いかかれと感情が爆発する。


「ふー、ふー、ふー」


 だが、歯が砕けるほど食いしばり、殺意に震える身体を沈め、その獰猛な本能をアキラは必死に抑え込んだ。

 狂気に染まる膨大な思考の嵐の中、小さなアキラは抗うように立ち続ける。


 落ち着け。


 所詮は模倣だ。自分の力ではない。

 だが委ねるな。イオリが教えてくれたことだ。自分を消すために魔法を操るな。


 そうすれば、嫌いなこの魔法も自分の支配下に置ける。


「お、おおお……!!」


 イオリの身体がピクリと揺れた。

 辛うじてだが生きている。

 安堵しつつも、しかしアキラはイオリにとって酷な力を使い続ける。

 キャラ・ブレイドは抜群の戦闘性能を誇るスライク=キース=ガイロードの模倣だ。

 戦闘能力向上に魔力回復。身体を操り人形のように動かし、敵を殲滅するためだけの魔術だ。

 だが、模倣が故に、完全ではない。完全でないが故に、分解できる。


 例えば今、周囲からの魔力を取り込む性質のみを利用し、ホンジョウ=イオリから魔力を吸収出来ているように。


「っは」


 魔力の流れが鈍い空間だが、魔力を有した者と接していれば流石に吸収できる。ルシルの体内で、彼女が近づいてきたときに魔力が回復した気がしたのも、対象との距離が縮まったからだろう。

 死にかけのイオリにはあまりに厳しい衝撃だろうが、問題ない。“彼女”ならそんな相手でも救い出すことができる。


「キャラ・スカイブルー!!」


 放てるだけの魔力が溜まったと同時、アキラは即座に魔術を切り替えた。

 オレンジの光がふたりの身体を暴れ回る。


 息継ぐ間も無く治癒魔術を発動したアキラは、ようやく泣きながら笑った。

 魔王と交戦したというのに、イオリの身体にはまだまだ魔力が蓄えられていたらしい。


 辿り着いた。この魔術まで、繋がった。

 だから、頼む。

 彼女を、死なせないでくれ。


「がっ、はっ」


 イオリが胸の中で血の塊を吹き出した。

 揺さぶろうとし、慎重に木に身体を預ける。

 助かった、のだろうか。

 イオリはうなされるように荒い呼吸を繰り返し、身体を痙攣させている。


「イオリ、おい、イオリ!!」


 呼びかけには応じなかった。一命を取り留めたようではあるが、リリルのときのように復調していない。

 血を流しすぎたからだろうか。

 治癒魔術の原理など分からないアキラは、ようやくたぐり寄せた細い糸を決して離さぬように、イオリの手を握り締めた。


「アキラさん!!」


 盾を展開しながら、リリルが叫んだ。

 ようやくアキラの耳に戦場の音が戻る。

 振り返れば、戦況は変わらず、グログオンが放つ矢をスライクとリリルが防ぎ続けていた。


「イオリさんを連れて逃げてください!! スライクさん、あなたもです!! ここは私ひとりで凌ぎます!!」

「できりゃあとっととそうしてる!! あの野郎は構うだけ無駄だ!!」


 叫びながら、ふたりはグログオンの矢を凌ぎ続けていた。

 だがそれも時間の問題か。

 明確にこちらの戦力を削り取るグログオンの攻撃は、着実にリリルの魔力を消費させている。

 余裕ができたアキラは、ようやくグログオンの姿を両目で捉えられた。

 そして今度こそ、まっすぐな怒りを敵に向ける。


「……『光の創め』。いつまでも“そこ”が安全な場所だと思うなよ……!!」


 イオリを、今すぐにでも安静な場所に連れて行きたい。

 それを邪魔するというのなら―――グログオンはここで撃破する。


「リリル!!」


 グログオンの矢が止んだ瞬間、アキラはリリルに駆け寄った。

 凛々しく空を見上げて盾を展開していたリリルは、横目だけでアキラを捉える。


「悪い、協力してくれ」

「はい、何でも言ってください」

「少し魔力をくれないか?」

「はい!! ……はい?」


 本当に悪いと思ったが、有事だ。

 イオリにこれ以上無茶はさせられない。

 アキラはリリルに詰め寄ると、流れるように抱き締める。

 イオリの血をどっぷりと浴びているのも申し訳ないが、リリルは固まったままその身を委ねてくれた。


「ふあ。あの、え、え、私怪我はしてないですけど……」

「……キャラ・ブレイド」


 文句なら後でいくらでも受けよう。

 彼女と密着して雑念を振り払うのは、何度練習しても上手くはいかなかった。

 呼吸に合わせて魔力を取り込んでいくと、固まっていたリリルの体が少しだけ和らいだ。

 練習通り、力を抜いてくれているようだ。


「ありがとう」

「……はい。はい」


 なんとも締まらないが、アキラにしてみれば真剣だった。

 魔力はある程度回復できた。

 そして、魔力さえあれば、日輪族属性たるアキラは、不可能を超越できる。


 アキラは、“空に向かって駆け出した”。


「キャラ・イエロー!!」


 一歩ごとに小さく足場を生成し、アキラは宙へ向かって飛んでいく。

 ミツルギ=サクラの魔術の再現。

 グログオンはこちらの飛行可能な存在たちの状況を考慮して出現したのだろうが、この魔術を見落としている。

 飛行とは言い切れない単なる移動だが、少なくとも、空の世界がグログオンのものだけではないと知らしめられる。


「―――、」


 樹海を抜け、さらに高度を上げるアキラは、まるで海から陸に登ったような開放感を味わった。

 樹海の中は想像以上に魔力の流れが鈍かったらしい。

 新鮮な空気を得たように、身体中に活力が漲り、アキラは勢いを増してグログオンへ突き進む。


 対して、グログオンは、しばらくアキラの様子を見たのち、ゆっくりと杖の弓を構えた。


 空から自分の動きは見えていたであろう。

 ヒダマリ=アキラはグログオンの攻撃に反応できていない。

 距離も近づき、空中にいるともなれば、回避のしようがないだろう。


 そう―――勘違いしている。


「―――、」


 矢は放たれた。

 魔術の色が判断できない、光の射出。

 だがアキラは、放たれる直前に剣を構えた。


「見てなかったのか?」


 振るった剣はグログオンの矢を捉え、遥か彼方へ斬り飛ばす。

 獣の魔族の僅かな動揺を感じ取った。

 その隙にも、アキラはぐんぐんと昇りつめていく。


「“俺は見てたぞ、スライクが対応していたところを”―――キャラ・ブレイド!!」


 予想通り、この高度ならルシルの影響は残っていない。

 今、この夜空にはグログオン自身の魔力が充満している。

 リリルから得た魔力は極小だ。

 この場所まで来られれば、アキラの魔力は無尽蔵となる。


「キャラ・イエロー!!」


 魔法から魔術へ切り替え、魔術から魔法へ切り替える。

 模倣の力を使いこなし、アキラはグログオンへ接近していく。


 使うべき瞬間に、使うべき魔術を放つ立ち回りは、魔力切れをしていたとき以上にアキラの頭を蝕んだ。

 だがここで止まるな。反射で動け。

 彼女たちから、スライクから、一体何度見本を見せてもらったと思っているんだ。

 ヒダマリ=アキラとして、ヒダマリ=アキラの力を使いこなせ。


 グログオンは、今度こそアキラを捉えようと弓を構える。


 だが、“そこはすでに射程圏内だ”。


「キャラ・ライトグリーン!!」


 直前で切り替え、アキラはさらに速度を上げた。

 敵との距離がぐんと縮まる。


 不意打ちのようだが、それは向こうが最初にやったことだ、詫びる気は無い。

 アキラは剣を握り締め、弓を構えたばかりのグログオンの眼前へ飛び出した。


 容赦はしない。


「キャラ―――」

「まさか」


 グログオンの低い声が聞こえた。


「そこまで、おごりが過ぎるとは」

「―――!?」


 ガンッ!! と甲高い音が聞こえた。

 弓と化していたはずの棍棒が、目に追えぬ速度で降り抜かれた瞬間、アキラの腕に衝撃が走る。

 身体を開かされたアキラは、剣が虚空へ弾き飛ばされていることに気づいた。


「な……」


 単純な攻撃をされただけなのに、我が目を疑った。

 木曜属性の力で強化されていたはずの身体能力が、その一振りで、武器を失うことになるとは。


「癒えれば五分。飛べれば五分。それは慢心ですら無い。幻想と知れ」


 見上げる形になったグログオンは、星空の世界で、再び杖を振りかざしていた。

 本来の使い方となった棍棒のようなその杖からは、今はなんの魔力も感じない。

 ただ、魔族が、魔族の力を持って、振るわれる。


「我は『杖』のグログオン。『光の創め』に必勝を」


 無防備になったアキラに、グログオンは、


「避けてーーーっ!! 死ぬわよ!!」


 即座に蹴りを放った。


「ガフッ!?」


 意識を刈り取られるような衝撃だった。

 蹴り飛ばされたアキラは高速で落下する。


 だがその直前、自分の耳は、恐ろしい声を聞いた気がした。


「ちょっ、カイラさん!! あっち!! あっち受け止めて!!」

「わ、分かってます!!」


 落下しながら、それとは別の暴風が接近してきた。

 こじ開けていた目が捉えたのは、青い巨竜の姿と、そしてその背に乗る赤毛の少女だった。


「ぎっ!?」


 労ってくれたのだろうが、ほとんど落下の衝撃そのままに巨竜の背に落とされたアキラは、状況把握もままならないまま賑やかな喧騒の中にいた。


「カイラさん!! 今度は上、上!! あいつ、絶対敵です!!」

「むっ、無理ですそんなに行ったり来たり!! 一旦降ります!! 捉まっていてください!!」

「むう」


 煌々と拳が赤く光っていた。

 その色を徐々に抑えながら、仰向けで倒れていたアキラの視界に手が差し伸ばされる。

 アキラはおずおずとその手を取った。

 触れるのが怖いから見なかったふりをしたと言ったら、きっと怒られるだろうから。


「無事?」

「無事に見えるか?」


 エリサス=アーティは、こちらの苦労など知らずに、あるいは、知っているからそうしてくれているのか、意地悪く笑っていた。

 身体中が砕けるように痛む。イオリの治療と同時に得た体力も、魔族の蹴りで根こそぎ持っていかれたようだ。

 だが、やはり自分はヒダマリ=アキラだと思い知らされた。

 この顔を見るだけで、何とかなると思ってしまった自分がいる。


「遅ぇぞ。何してやがった」

「なっ、何をしてって、わたくしがどれほど活躍したかご存知ですか? 魔力も使い果たして……。わたくしでなければこれほど早くは、」

「わ、わ、わ、イ、イオリン!! イオリン!! た、大変です、大丈夫です、すぐに治します!! てて、アッキーもですか!?

すぐにそこに並んでください!!」


 下の樹海はもっと賑やかだった。

 着陸と同時にティアが泣きながら溢れんばかりの魔力をイオリに注いでいる。

 隣には息を切らせたサクがいた。

 彼女がティアを連れてきてくれたのだろうか。


「何か、起こってると思って、担いで、来た。正解、だったな」

「ああ……。ああ……!!」


 砕けた骨など知ったことか。

 アキラは激痛に歯を食いしばりながら立ち上がった。

 足元がふらつく。

 だがまるで気にならなかった。


「他のみんなもじきに来る。驚いたぞ、爆風が上がったと思ったらお前が空を跳んでいて。あいつが『光の創め』か……!!」


 アキラも気づかなかったが、グログオンもアキラに注意を向けて気づいていなかったのかもしれない。

 グログオンが登場するに至った圧倒的優位な状況は、覆されてきていた。


「お前こそ舐めてただろ」


 彼女たちを。

 この、騒がしい、かけがえのない仲間たちを。


 ルシルの影響も、ようやく消えかけていた。

 スライクも、すでに魔力を取り戻しつつある。


 そして背後には、さらなる足音が増えていた。


 本当に自分は矮小だ。

 優位に立つと、気が大きくなる。

 だがこの悪癖は、直さないことにしよう。


「続けるぞ……!!」


 防衛の布陣は完全だった。魔術攻撃を吸収するエレナに、攻撃そのものを無効にするキュール。

 空中戦が可能なカイラとマルドも合流していた。

 降りてこようものなら、スライクやリリルを筆頭に、数多くの白兵戦担当がその力を存分に振るうであろう。


 凌ぎ続け、ようやく辿り着いたのは、勇者3組の最高戦力。

 魔族を倒し得る、人間たちの集結だった。


「どうせ引くさ」


 駆けてきたマルドが息を切らせながら投げやりに言った。


「カイラの復帰速度を侮っていたな。俺らが集まる前に決められなかった時点で終わっている。そうだろう、グログオン。お前は、必ず勝つ戦いしかしないんだから」


 挑発のように聞こえるマルドの言葉の真意は分からない。

 だが杖同士の対面は、その両者だけに通じる何かがあるのかも知れない。


 グログオンは、握り締めた棍棒を、下げた。


「……ォオオオオオオーーーッ!!!!」

「ぐ」


 耳をつんざく巨大な雄叫び。

 グログオンが月下に吠え、大地を震わす。

 しばらくすると、グログオンの背後に、不気味な、黒い煙のようなものが現れた。


「……あれ、まさか……」

「魔門……!!」


 エリーの言葉に、アキラは思わず構えた。

 あんな場所にあるとは思えないのだが、実物を見た彼女が言うのだから間違いない。

 グログオンがさらなる追撃を放つと判断し、警戒に警戒を重ねていると、しかし、グログオンの身体が煙に巻かれ、見えなくなっていく。


「……終わりだ。『光の創め』が引くときは、必ず”あれ“が現れる」


 マルドも警戒はしているものの、その緊張を解いていた。

 そして言葉通り、グログオンは空から姿を消し、黒い煙もいつしか見えなくなっていった。


「魔門……。本当にあれ、魔門だったのか?」

「え、ええ、多分。マルドさん、あれって、」

「イオリン!! 良かった、良かったです!! 良かったよぅ……!!」


 エリーの言葉は騒音に流された。

 どうやらイオリは無事らしい。

 元気が有り余っているのだろう、ティアの徹底温存は正解だった。


 相変わらず攻撃しているとしか思えないような、加減を知らない治癒魔術を浴びながら、アキラはどかりと座り込んだ。

 結局逃げられた。スライクたちは、いつもこんな煮え切らない結果で終わっているのだろうか。


 アキラはエレナに背負られているイオリを見ながら、その無事に安堵の息を漏らし、しかし、苦々しげに呟かざるを得なかった。


「……『光の創め』」


―――***―――


「おい、ベックベルン山脈が砕かれてたって聞いたか」

「そんなの嘘だろ、あの山に何かしたら、今頃ここは更地になってる」

「ゴズラードとかいう化け物だっけか。まあそうだよな。だけどさっき、念のため見回りに何人か出掛けるのを見たぞ」

「お前ら、静かにしていろ。始まるぞ」


 エレナ=ファンツェルンはサルドゥの若い男たちの会話を適当に聞き流し、間も無く儀式が始まる様子の祭殿の前を無遠慮に通り過ぎた。

 樹海の中、このか弱い女性を集団で取り囲んだワニのような魔物たちはどうやらゴズラードというらしい。

 自分にもっと知識があったら、あの時点でなんらかの異常が発生していたと察知できていたのだろうか。

 まあ、過ぎたことだ。


 時刻は間も無く夜明けを迎える。

 樹海を支配していたあの感覚が鈍くなるような影響も薄れ始め、エレナは大きく深呼吸して樹海の新鮮な空気を取り込んだ。


 話し合いの結果、魔族の出現についてはサルドゥの民たちを始め、気づかなかった他の護衛たちには、無用な混乱を招かぬよう、魔族の複数出現については話していない。


 サルドゥの民たちにとっては多少のハプニングはあった程度で、間も無く、バオールの儀式とやらが開始される。


「あーらアキラ君。ここにいたんだ」


 歩いていると、輪から離れて木陰に座るアキラを見つけた。

 エレナは声量を落とすこともせずに話しかけると、ゆっくりと隣に腰掛ける。何人かサルドゥの民が咎めるように振り返ったような気がしたが、そっちも勝手にやっているのだ、こっちも勝手にやらせてもらう。


「いろいろやばかったわね」

「エレナか。ああ、そうだな」


 諸悪の根源である魔王。そして、自分も遭ったことがある『光の創め』の一派。

 彼はその2体の魔族と連続で衝突したらしい。

 ヨーテンガースについて早々そんな事態になるとは、流石のエレナもアキラを取り巻く運命が愛おしくてたまらない。


「魔道士ちゃんは? 意識は戻ったの?」

「……まだ眠っている。でも大丈夫だ、ティアが付きっきりで診てくれているよ」


 そっちの心配はしていなかった。一時期危なかったらしいが、あのアルティア=ウィン=クーデフォンの治療能力は尋常ではない。

 医学的な知識はからっきしだが、彼女が命を取り止めると言ったら事実そうなる。

 そこでエレナは、座り込んだアキラが右腕をだらりと下げていることに気付いた。骨折でもしているのだろうか。

 思わず口を出そうとし、エレナは言葉を飲み込んだ。バオールの儀式などどうでもいいが、彼が耐え忍んでいる静寂を乱すことは躊躇われた。


 祭殿の四隅に立てられた松明のようなものに火がついた。

 揺らめく炎に導かれるように、厳かな衣装に身を包んだサルドゥの民が祭殿の前に立つ。

 儀式が本格的に始まるようだ。


「……あんな奴もいるんだな」


 顔は儀式に向けたまま、アキラがポツリと呟いた。


「事前にさ、聞いてたんだよ、あのマルドって人に。『杖』のグログオンがどんな奴か」


 マルドを始め、あの4人は4大陸でも『光の創め』と頻繁に抗戦していたらしい。

 彼らは今どこにいるのか。

 探そうとも思っていない自分の目は、儀式が執り行われている広場から彼らの姿を拾えなかった。


「魔王やサーシャの出現もあって、何が偶然で、何が狙ってやったことなのか分からない。だが奴は待っていた。こっちが疲弊しきって、しかも空を飛べなくなるタイミングを」

「でも、アキラ君は向かって行けたじゃない」

「あんなもん、奴にとっちゃ誤差でしかねぇよ。どういう理屈か知らねぇけど、奴は本当の意味で空が飛べる。抗戦したってまともに攻撃できないさ。現に……」


 アキラが右手を上げようとして、言葉を止めたのが分かった。

 エレナは気づかないふりをした。


「しっかし、天敵ってレベルじゃなかったみたいじゃない。勇者3人揃ってたってのに、ふふ、誰も空の敵を攻撃できないなんてね」


 カラカラ笑って、エレナは立ち上がった。再びサルドゥの民から非難めいた視線が向けられるが、知ったことじゃない。

 半ば放心状態のようにも見えるアキラを見下ろし、エレナは不敵に笑った。


「遠距離攻撃ができない。致命的な弱点、ってわけじゃないけどね。でもそれはまあ、“他の大陸なら”、だけど」


 本当にいろんなことが起こった夜だ。

 話に聞くヨーテンガースの洗礼が、正面切って襲いかかってきたような夜だった。

 サルドゥの民が預かり知らぬところで、彼は心身ともに、随分と疲弊した。

 だがエレナは、その負担を分かち合おうとは思わなかった。そんなものに縛られるのは、自分の性分ではない。


「エレナ、お前だって他人事じゃ、」

「あーらアキラ君。―――私にそれができないなんて、言ったことあったかしら?」


 声量は、抑えた。

 つい、言葉が漏れてしまった。

 自分の目的を考えたら、言うべきではないのだろう。だが、言わざるを得なかった。


 これは、本格的にまずいかもしれない。

 人とは基本的に深く関わらない、エレナの信条に関わる問題だ。多かれ少なかれ、誰もが何かを抱えている。自分のことを疎かにしてまで、それと関わろうとするのは愚の骨頂だ。

 今まで人に関わることが少なかったゆえに気付いていなかっただけで、自分という人間は情というものに弱いのかもしれないと、彼らと共に旅するようになって気づかされた。

 だから、ますます関わるべきではないと冷静な頭は告げていた。

 関わってしまえば、言ってしまえば、自分はきっと彼に囚われる。

 そう思っているのに、エレナは自分に苛立ちながら、投げやりに言ってしまった。


「今回はたまたまよ。近くにいてあげられなくてごめんね」


 やはり、まずい。

 自分の中に最も似合わない、責任感というものが生まれてきている。

 全世界から勇者という責任を負わされている彼よりはマシかもしれないが、そう考えている時点で手遅れなのだとエレナは知っていた。

 責任とは、ある意味自分が最も忌避するものだ。

 だが彼が顔を上げたのを見て、意外にも、気持ちは重くならなかった。


「だからね、アキラ君。先のこと悩んでくよくよする必要なんてないわ。次からはこのエレナさんがなんとかしてあげる。機嫌と気分によっては、助けてあげないこともないから」


 いつも自分が、周囲から受けている印象そのままの言葉を言い切った。

 やはり彼とこれ以上関わるのは危険かもしれない。

 辛うじて浮かべられた不敵な笑みが崩れそうだった。


「……分かったよ、やばいときは頼らせてくれな」

「ふふ。頼られてあげる」


 茶番には付き合ってくれたらしいが、妙にむず痒い。

 少しは落ち着いたようだ。これ以上は何も言わない。自分はそういう人間なのだ。


 エレナはそのまま踵を返すと、聞いたこともない呪詛のようなものを唱え始めたサルドゥの民を視界の隅に追いやり、歩き始める。


「だけど」


 そこでエレナの取り戻した鋭い感覚が、悪寒を拾った。


「お前たちは軽々しく無茶しないでくれよ」


 その出所は、祭壇か、あるいは。


「ああ、俺やっぱ変になっちまったかも。腕、折れてるみたいなのに、全然痛み、感じねぇんだよ。やっぱ麻痺してんのかな、はは」


 放って置けなかったとはいえ、迂闊だった。

 ヒダマリ=アキラという人間を一端でも理解していれば、彼がどういう心境なのか、理解できそうなものだったのに。


「一発攻撃受けただけで、このザマになるほどの力の差があるんだぜ。腕は折れて、サクには飛んでった俺の剣、探しに行ってもらっているほど疲れ果ててんのに―――今すぐ殴りかかりにいきそうだ」

「……アキラ君、落ち着きなさい」


 焼け石に水なことも分かっていた。

 ヒダマリ=アキラという人間は、未完成な人間だ。

 結果として無事だった、もう過ぎたこと、などという大人の思考は、この事実を前にはまともに働かない。


 彼は仲間を、こよなく愛する。


「エレナ、お前たちもそうだったんだろう―――被害に遭った」


 アキラの眼は、エレナが竦むほど、怒りに燃えていた。


「『光の創め』は俺が叩き潰す。勇者の仕事じゃなかろうが、容赦はしねぇ」


―――***―――


 リリル=サース=ロングトンはひとりで樹海の調査を進めていた。

 断片的に聞けただけだが、この樹海は魔王やあのサーシャ=クロラインという名だたる複数の魔力の影響下にあったのだ。

 もう日が昇り始めている。順調に行けばバオールの儀式が始まっていることだろう。そんなときに、魔王たちの影響を受けた樹海の魔物たちが何をするかは分からない。

 見回っている限り平穏だが、油断は禁物。魔王と抗戦したヒダマリ=アキラたちとは違い、自分は魔力をまだまだ残しているのだ。自分は誠心誠意働かねば。


 甚大な被害をもたらした北西の樹海はやや焦げ付いた木々の匂いが鼻に付くだけで、何事もない。

 魔術攻撃による火災が発生していたのだが、彼らの中の誰がやったのか、ものの見事に鎮火している。

 焦げ付いた大木がなぎ倒されて草木が散乱している大地を周るように歩きながら、リリルは夜明け空を見上げた。

 現時点では、今日この樹海で起こった出来事を知っているものはそう多くない。今日の昼にでも魔術師隊たちの調査が行われるだろうが、サルドゥの民たちのほとんどは魔族襲撃に気付きもしなかっただろう。

 余計な不安を煽るだけなら、せめて儀式が終わるまでは、何も伝えないほうがいいと、自分が最初に提案したのだ。


「……どの口が」


 酷く黒い言葉が出てきた。リリルは自分の口を思わず抑える。

 見上げた空には、満月の輪郭が薄ぼんやりと浮かんでいた。


 自分は世界の憂いすべて払うことを志す勇者だ。

 そして今日、目の前に、サルドゥの民たちを全滅させる恐れのある魔族が出現した。村ひとつ、町ひとつ、たやすく滅ぼすことのできる力を持つことは、自分が誰よりも知っていた、因縁深い魔族だ。

 そしてその魔族の影響下にあったサルドゥの民たちを前にして、自分は一体何をしたのか。


 ゆっくりとしゃがみ込むと、地面が滲んで見えた。


 結論から言えば、自分の取った行動は正しかった。

 カイラ=キッド=ウルグスの力はあの盤面では絶大な効果をもたらし、たとえ自分がサルドゥの民たちの救出に全身全霊をかけていたとしてもさした効果はなかったであろう。

 魔族が3体も出現したこの依頼、被害は最小限に留められたのも、すべてが噛み合ったからだと言っていい。


 だけど、胸を締め付けられるような痛みがリリルを襲っていた。


 理由は分かっていた。

 多分、これは自分の感情の問題だ。最近、律しようと思ってもまるで効果のない、この感情が原因だ。


 命の危機にさらされたサルドゥの民たちを放り出し、魔術の消費を気にもせずに樹海を全力で駆け続け、そして、血だらけのホンジョウ=イオリを前にしても。


 自分は、彼の無事を、心の底から喜んでしまった。


「……?」

「どうした、具合でも悪いのか?」


 辛うじて拾えた気配が、声をかけてきた。

 ヨーテンガースの樹海で無防備になるなど信じられない。ますます自分が嫌になる。

 ゆっくりと立ち上がり、いつも通り正面に向かって立つと、目の前には赤い衣を纏った少女が立っていた。


「サクラさん。どうかしましたか?」

「……サクでいい」


 ミツルギ=サクラが彼女の名前だ。そういえば、前もそんなことを言われた気がする。

 エリーや、特にティアだが、自分は度々人の呼び方を忘れてしまう。

 ひょっとしたら自分は冷たい人間なのかと思い悩んだこともあるが、どうも誰かと深い関係を築くのがそもそも苦手なようだ。


「それより、今日は魔族と抗戦したんだろう。アキラを救ってくれたことには本当に感謝している。見回りなら私がついでにやっておくから、戻って休んでくれ」

「いえ、大丈夫です。それに、結局またアキラさんに助けてもらいましたし」


 珍しい話し相手だった。彼女が無口なことも相まって、まともに会話したことなど数える程度だ。


「サクさんはどうしてここに?」

「主君の剣が樹海のどこかに吹き飛ばされてな。仕方ないから探してやっているんだ」

「私も手伝いますよ。サクさんも、ずっと走り回っていたんですよね?」


 リリルは反射的に言った。

 サクはため息と共に、苦労半分怒り半分の表情を浮かべているが、どこか暖かな気配をリリルは感じ取った。柔らかさと、しかしそれでいて、妙な焦燥感を覚える、最近よく感じる感覚だ。


「いやいいよ。一応私の仕事、みたいなものだからな。まったく、ヨーテンガースに着いて最初の仕事が、前々から言っていた武器関連のこととはな」


 サクには断られたが、二手に分かれるのも妙なので、流れでリリルもサクに同伴した。

 年下と聞いた覚えがあるが、背は高く、並んで歩くと妙な頼もしさを覚える。リリルはあまり人を盗み見るということはしないのだが、思わず視線を走らせると、サクの横顔から、ほんの少しのあどけなさが感じられた。

 ひとりで旅をしていたときと違って、妙に周囲が気になり出す。

 その変化は、果たして成長なのか。


 そういえば。


「……サクさんは」

「ん?」


 暗い樹海を差し込める日の明かりだけですいすい進むサクに、リリルも速度を落とさずに着いていく。

 周囲に気を配りながら、幾度目かの横薙ぎになった大木を跨いだとき、リリルは思わず声を漏らした。


「以前聞いたのですが、サクさんもひとりで旅をしていた頃があったそうですね」

「ああそうだな。あまり格好がつかないが家出して。今は何の因果か魔王討伐を目指しているよ」

「それは、」

「まあ仕方ないさ。リリルさんほど立派じゃない。たまたま主君が勇者で、たまたま望みが魔王討伐だったんだから」


 凛々しい横顔が、柔らかく崩れていた。

 寡黙で、それでも真剣で、話したことは少ないが、生真面目な印象を受けていただけに、そんな冗談めかして話すとは思っていなかっただけに意外だ。

 主君、とは、アキラのことだろう。サクは彼の従者らしい。深くは聞いたことはなかったが、自分のような部外者が触れていい話ではないような気がしていた。


「アキラさんほど立派な方の従者だと、色々と気苦労も多いでしょうね」


 リリルも冗談めかして言うと、サクの方は微妙な表情になった。

 自分は冗談が得意ではない。妙なことを言ったのかと口に手を当てて見ていると、サクが苦笑していることに気付いた。


「ああ、立派だな。立派だよ。うん」


 自分に言い聞かせているように呟くサクを、リリルはしばらくじっと見ていた。

 視線に気付き、サクは息を吐き出し、しかし思い直したように視線を向けてきた。


「いや、そうだな。違うか。アキラはな、立派になったんだよ」


 剣捜索の巡回経路は、樹海を縫うように進んでいるらしい。

 踵を返すように折り返したサクにリリルも続く。


「主君の評価を落とすようなことは口にしないようにしていた。まあ、飛んでいった方向程度しか分からない剣を探す苦行に対する仕返しもあるから言ってしまおうかと思いもしたが、違うな、そうじゃない」


 サクは唸るように呟くと、今度は笑っていた。


「最初にあったときのあいつは信じられないくらい酷くてな。妙な縁を感じはしたが、行く当てのない私ですら、主君にするならこいつだけはないなと思っていたものだよ」

「そんなこと」

「あったんだよ、本当に。何しろ、あいつはいく先々でトラブルに巻き込まれる。その力が強すぎるのに、奴にはそれを跳ね返すだけの力がない。妙な自慢みたいになるが、エリーさんや私に会わなかったら、あいつはとっくの昔に潰れていただろうな。そう確信するほどの強い力を感じさせられたよ。必ず周りを不幸にする。そんな印象だった」


 ヒダマリ=アキラ。

 リリルが知っているのは、立派に勇者になった彼の姿だけだ。

 エリーとサクは、彼がこの世界に落とされてからずっと共に旅をしているらしい。

 勇者として完成する前のヒダマリ=アキラは、その頃から、日輪属性の影響下にあった。

 そして、それでも彼女は、ヒダマリ=アキラを選んだのだ。


「だがな、それは奴の恥ではないと思うよ。着実に力を付け、呪いのようなトラブルも跳ね返せるようになった。その過程は、奴を否定するものにはなり得ない」


 サクは頭を振り、表情を正した。


「まったく、気苦労だらけだよ。奴は立派な奴じゃない。立派になった奴なんだ。そして、その成長は今も続いている。従者の私にとってはたまったものじゃない。今も昔も、手がつけられないんだから」


 サクがピタリと立ち止まった。

 彼女の視線を追うと、まるで見つけて欲しいように、アキラの剣が樹木の中腹に突き刺さっている。

 

 サクは肩を落とし、歩み寄ると、剣を掴んだ。


「私は毎日必死だよ。そんな奴の従者として、奴に見合うだけの存在になるために、なり続けるために、な」


 リリルの喉が、意図せず鳴った。

 胸の奥をつかれたような気になった。


「……少し、話しすぎたかな。魔物が出ないのも考えものだな。剣は見つかった。手入れくらいはあいつにさせるか。リリルさんは?」

「…………私はもう少し見回りを続けます」


 心配そうな表情を浮かべていたが、サクは頷くだけで去っていってくれた。

 その背中が見えなくなるまで立ち尽くし、リリル=サース=ロングトンは考える。


 自分のしたいこと、されたいこと。

 そして、自分がすべきこと。


 静まり返った樹海からは、答えなんて返ってこないことは分かっていた。


―――***―――


「ひやりとしたな」


 こちらの台詞だ。

 サーシャ=クロラインはその背を追って、黙って歩き続ける。


 ジゴエイル=ラーシック=ウォル=リンダース。

 百代目魔王にして、“あえてこのサーシャ=クロライン”を配下に選んだ異例中の異例の魔族。

 いや、自分だけではない。


 サーシャ=クロライン。

 リイザス=ガーディラン。

 そして、ガバイド。


 百代目魔王直属の魔族たちは、その全てが、ある種“別枠”として扱われていた魔族だ。

 その主たる魔王ジゴエイルは、遠目から見れば夫婦が夜逃げでもしているようにしか見えないほど、人間にしか思えない表情で微笑み続ける。


 サーシャは美に固執する故に人の目を惹く姿をしており、フードを被らなければ人目を集めてしまうのに対し、ジゴエイルはどこまでも平凡な人間に化けることができる。

 そんな人間は、朗らかに笑いながら、先程の勇者たちとの激突を思い起こしていた。


「……」


 サーシャは口を挟まなかった。

 人間魔族問わず心を読むことができるはずのサーシャだが、ジゴエイルの心はまるで読めなかった。

 読み難いではなく、読めない。

 “心を読むことが他者の思考プロセスを追う唯一の手段”であるサーシャにとって、ジゴエイルの存在は、あるいは人間が魔王に抱くそれより恐ろしかった。


 この魔王は、先ほど最も有望な勇者候補ふたりと交戦し、危うく討たれるところだったはずだ。

 だがそれでも、さして感想もないのか、やはり、どこまでも普通の人間のように歩き続ける。


「サーシャ。仕込みはできたんだろうね」

「……ええ。仰せのままに」


 今回この魔王が自分に指示してきたのは勇者候補たちへの妨害と、サルドゥの民の儀式への介入だ。

 勇者候補たちへの妨害の方は、想定外の自体もあったが、問題なく遂行したと考えている。

 府に落ちないのは、勇者候補たちに比べ、あまりに矮小なサルドゥの民たちへの儀式の介入の方だった。

 自分は言われた通りに言われた手順で儀式の術式を組み換えたのだが、“全知”とも言われる月輪属性だというのに、何の効果があるのかまるで分からなかった。


 “全能”たる日輪の魔王は、何も聞き返さずに歩き続ける。

 わざわざ魔族に介入させるほど重要視している儀式の妨害だというのに、その出来を確認しようともしない。

 ありえないが、もし自分が、儀式への介入の手順を誤って行っていたらどうするつもりなのか。

 信頼されていることの証明とも考えられるが、それが誤りであるとサーシャは分かっていた。


 何が起ころうとも、想定以上であろうが想像以上ではない。


 時折この魔族が漏らすその言葉が、“支配欲”の魔族、サーシャ=クロラインに不気味なほど巨大な折を想像させた。

 その折の中で、指示通りに動こうが、指示を無視して動こうが、ジゴエイルにとって、些末な問題に過ぎないという、絶対的な支配者の姿がそこにあった。

 欲の重複は魔族にとって禁忌である。


 だがサーシャは、この魔族に反旗を翻す気にはなれない。

 たとえば今、自分が背後から襲い掛かったとして。


 それすらも、この存在にとって想像以上ではないのだろうから。


―――***―――


「至急調査に向かいます!」

「不許可だ」


 待ってましたと言わんばかりの勢いで立ち上がったのだが、光沢のある長机の最奥の男に止められた。

 アラスール=デミオンは、思わず怒りの眼で男を睨みつける。

 シワひとつない軍服をピッシリと身に貼り付け、汚れ仕事などしたこともないような綺麗な指を組み、産毛ひとつない顎を乗せ、さも自分は偉いのだと言わんばかりに厳粛たる態度をとっているこの男は、グリンプ=カリヴィス8世。いや、7世だったかもしれない。

 魔導士隊と直接の関わりは無いらしいが、自分も知っている魔導士隊のお偉方が、彼の指示には従うよう、何故か自分には何度も言い聞かせてきたのを覚えている。


 グリンプの胸には、誰が恵んでやったのか黄金の勲章が3つほど横並んで付けられていた。

 お偉方のすることは、相変わらずアラスールには理解できないし、したいとも思わなかった。


「グリンプ氏」


 アラスールは精一杯、“あの死地”を、激闘の日々を思い起こし、高そうな会議机をギリギリ叩き壊さない程度で叩きながら、グリンプに殺気混じりの視線を飛ばす。


「今の報告、私の聞き間違いでなければ、人類にとって重大な事件が発生したらしいですが?」

「もちろん聞いていた。昨夜クラストラス近辺に魔王が出現したらしいな」

「だったら!」

「昨夜だろう。すでにクラストラスの魔術師たちが調査に当たっているというじゃないか。今さら君の出る幕はないだろう」


 自分で言うのも悲しくなるが、グリンプはこの手の輩の相手は慣れているのだろう。アラスール渾身の睨み付けに、まるで動じず淡々と言葉を発する。

 アラスールは机に並ぶ面々を見渡したが、どうやら誰も自分に助け舟を出す気はないようだった。


「君。いつまでいる気だ。下がりなさい」

「は、はい!」


 扉を勢い良く開けて入ってきていた報告者が、グリンプの睨みに萎縮し切って脱兎の如く逃げ出す。

 久しぶりに味わえた外の新鮮な空気は、重々しい扉の音と共に閉ざされてしまった。


 正直、この会議を抜け出すためなら、アラスールはあの報告者が近所で野菜を安売りしていると叫んだとしても飛び出していっただろう。

 仮にそうなら諦めているのだが、今回ばかりは事情が事情だ。ヨーテンガースの魔道士として、引くわけにはいかない。


「グリンプ氏。クラストラスと言えばヨーテンガースにとって最重要拠点。報告した通り、勇者様候補もそこにいます。魔王が再び現れないとも限らない中、あまりに無警戒では?」

「あんな砂ばかりの場所に篭っていたせいで、見失っているらしいな、ヨーテンガースの戦力を。ファクトルから出てきた魔王など、クラストラスの部隊でも十分に迎え撃てる」

「なら、今が一斉に迎え撃つチャンスでしょう!?」

「魔王とて不用意に出てきたわけではないだろう。すでに離れた、ということは、今頃戻っているはずだ。それに、誤解をしているようだな。ヨーテンガースで最も重要な場所は、ここだ」


 グリンプは、険しい顔つきのまま指を机に突き立てた。

 あの死地に足を踏み入れたこともないというのにその名を軽々しく出すな。アラスールの怒りが臨界点を迎えようとしたが、美容に良くないとなんとか気を落ち着かせ、可能な限り優しい声でグリンプの後ろに立つ女性に声をかけた。


「ねえ、フェシリアちゃん。今魔王がどこにいるのか、“聞いてくる”ことはできないかしら?もし近辺にいるなら、最大最高のチャンスなんだけど」


 突然話を振られたフェシリアは凍りついた。

 金の長髪を背中に1本にして垂らし、やや小さい身体付きに魔道士のものによく似ている紺のローブを纏い、長時間に及ぶこの下らない会議である意味利口なのか一言も発さなかったこの女性は―――フェシリア=“アーティ”。

 硬直していた彼女は、全員の視線が自分に集まっていることに気づいて髪を前に持ってきて触り始めた。気も小さいようだ。


「……そ、そう、ですね。一応、」

「止めろ。無駄なことを『接続者』にさせるな。それに、『代弁者』にもその権利はないはずだ」


 ここが戦場なら、すでにアラスールは何度魔術を偉大なるグリンプ氏に叩き込んでいただろうか。

 だが、この男が、唯一の正解とは言わないまでも、徹頭徹尾正論しか言っていないことを残っていた理性が訴えてくる。


 確かにこれは、予断が許されない、“大仕事”なのだ。


 アラスールはようやく腰を落とし、怒りを抑えた。

 ちらりと顔を上げると、申し訳なさそうに目を細めるフェシリアと目が合った。巻き込んだのはこっちだ。あとで何かご馳走させてもらおう。


「では時間も遅い、そろそろ本題に戻ろうか。世界を脅かす“兄”の話に邪魔をされたが―――“歴史”を脅かす“弟”の対策を」


 アラスールの頭痛が強くなる。もともと自分は戦闘が本職だ。器用なだけであって、隊長職の適性が高いわけではない。それなのに、なんでこんなずっと座って頭だけを使わされ続けるのか。

 アラスールが魔道士としてあるまじきことに、この運命に神を呪っていると、意外にも、天罰どころか吉報が来た。


 もう何度聞いたか分からないような前置きののち、グリンプが言葉を続けようとすると、再び会議室の扉が叩かれる。


 不愉快さを隠しもせずにグリンプが来訪者を通すと、それは意外にも、自分の部下だった。


「お話中のところすみません。隊長」

「なに? 私?」


 それなりに付き合いの長い部下の男に呼ばれ、アラスールは軽やかな足取りで歩み寄る。


「魔王が見つかったのかしら? それとも魔物の襲撃?」


 少しくらいは喜びを隠せただろうか。長丁場の会議で思考が疲れているのか、声が弾んでいることにアラスール自身が気づいていた。この会議を抜け出せるなら最早なんでもいい。


「いえ、先ほどの魔王出現の報告を受けて、その、”彼女“がここを離れてしまいまして」

「!」


 グリンプの表情が崩れ、後ろのフェシリアも口元を押さえた。

 アラスールは背筋をピンと伸ばす。

 部下の男は、やや含み笑いをしながらグリンプから見えない角度で親指を立てていた。


 なんと誇らしい部下たちか。


「グリンプ氏。残念ながら、私はやるべきことができました」

「“彼女”が!? どこへ行った。アラスール、君の部下だろう!?」

「ええ、ええ。まったく、私の監督不行届です。待機続きで鬱憤が溜まっていたのでしょう。今すぐ探しに行きます」

「他の部下に任せれば、」

「私なら、すぐに見つけられる確率が高いですが」


 そう言って、背後に伸ばした手に、部下の男から紙切れを押し付けられる。彼女が残していった手紙だろう。

 グリンプが鼻を鳴らしたのを離脱を許可したのだと好意的に解釈して、アラスールは会議室を飛び出した。


「フェッチ。遅かったじゃない。他のみんなは?」


 廊下を走りながら、アラスールは息の塊を吐き出した。


「それなりのこと起こらないとダメでしょう。あと、みんな飽き飽きしてますよ。俺らも行かせてくださいよ」

「だーめ。全員いなくなったら流石に私の首が飛ぶわ」


 アラスールは彼女の残した手紙を確認すると、そっと大事に胸元に閉まった。

 カラカラと笑いながら、アラスールは出口へ向かってひた走る。

 グリンプの気が変わらぬうちに、さっさとここから離れよう。

 何しろ急務だ。


 これから起こることは、このヨーテンガースの戦力を結集させる必要があるとのことなのだから。



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