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おんりーらぶ!?【第二部】  作者: コー
中央の大陸『ヨーテンガース』編
48/68

第54話『下らない世界(中編)』

―――***―――


「無視しよう」


 散々考えあぐねた結果だ。

 いかなる非難も甘んじて受け入れる覚悟がある。


 ヒダマリ=アキラが拳を握り締め、震えるように、しかし震えるように出した言葉に、意外にも、ホンジョウ=イオリは静かに頷くだけだった。


 サルドゥの民が毎年行なっているバオールの儀式。

 それは今向かっているベックベルン山脈のガオールの地とやらで執り行われるらしい。


 参加者もそれなりの人数がおり、街で見かけた気がするような旅装束の者から、着慣れていないと一目で分かるような重装備に身を包んだ民間人のようなものも混ざっている。

 老若男女が入り混じるこの依頼。

 小耳に挟んだ話では、サルドゥの民はどこから資金を調達しているのか気前が良いらしく、毎年のこの行事はちょっとした小遣い稼ぎに最適らしい。

 ヨーテンガースという油断が許されない大陸の依頼だというのに、住んでいる者たちにとっては慣れたものだということなのか。


 もっとも、特に今回に限っては、彼らは至極安全だとタカをくくっているのかもしれない。

 現在、この依頼にはアキラを含め、3人もの勇者が参加している。

 だがアキラは、それが何の保険にもならないことを同時に知っていた。


 全員が囲うように歩いている馬車の後方を盗み見る。

 あくまで好意的に振る舞い、旅の魔術師たちからの信頼を着々と築き上げているブロンドの男。

 どこからどう見ても人間にしか見えないそれは、アキラたちが目指す、諸悪の根源なのだ。


 そして、アキラがその存在に対して出した結論は、無視だった。


「聞かないのかよ、理由」

「いや、僕も同意見なんだよ。前回の依頼では、結局何をしていたのか分からなかったんだろう。単純に僕らの様子を見に来ているだけの可能性もある。ただでさえ『光の創め』なんていう面倒事を抱えているんだ。表現はあれだけど、無害なら下手に手を出さない方がいい」


 歩幅も表情も何ひとつ変えず、イオリは言い切った。

 言いようのない安心感が好みを包む。

 多少は歯がゆくもあるが、イオリも“魔王”は相手にしないつもりだったらしい。


 ホンジョウ=イオリはアキラが忘れてしまった“一週目”の記憶すら保有している。

 迷わず相談できる相手がいるのは本当に助かった。

 しかしそれは、現状そのイオリすら知らなかった『光の創め』の方が魔王より脅威だと言っているようなものなのだが。


「それよりアキラ。下手なことをしてこちらのアドバンテージがバレることの方が問題だ。馬車の中にいるようにとも言ったのに」

「いや、色々思い出してきてな。この族長、やたらと話好きなんだよ。代わりにティアを差し出して、俺は逃げてきた」


 自分が勇者であるということは、どこから漏れたのかサルドゥの民はおろか他の依頼を受けた旅の魔術師たちですら知っていた。

 今も馬車を警護しながら共に歩く他の者たちからの興味の視線が何度も突き刺さっている。

 おまけに隣の馬車の巨大な車輪は、泥を引っ掛けたのか定期的に服に飛ばしかけ、いらぬ神経を使わされる。


 だが、それでもここの方が圧倒的にマシだった。


 何故なら馬車の中では、族長の話に大盛り上がりのアルティア=ウィン=クーデフォンと、共に話を聞いている各地の儀式に強い興味があるカイラ=キッド=ウルグスが、キュール=マグウェルに過保護を発動して半泣きにさせているも、一切を無視して壁に背を預けて目を瞑っていたスライク=キース=ガイロードがいることに、外を歩くのは面倒だからと馬車に乗り込んだエレナ=ファンツェルンが機嫌の悪さを隠そうともしていない上に、ティアのお目付役として馬車に乗ったエリサス=アーティがたまたまリリル=サース=ロングトンの隣に座ってしまい気まずい空気が流れている。


 今、馬車の中だけには絶対にいたくない。


「まあどこにいてもいいけど、アキラは可能な限り休息に徹してくれ。向こうの面々にも話したんだろう? 治療者は徹底的に温存だって」

「ああ。一応そうしてくれているみたいだ。だけどあのマルドって人、治療できるみたいだけど外にいるし」


 馬車の反対側だろうか。

 あちらには仲間のミツルギ=サクラが付いているはずだ。

 おそらくマルド=サダル=ソーグという長い杖を持つ男もいる。

 面識はあるし、ふたりとも慎重な性格のようだから気が合って話でもしているかもしれない。

 サクのことだから、無駄話などせず、すでに臨戦態勢でこの依頼に真摯に取り組んでいるかもしれないが。


「そういや最近、イオリとサクって一緒にいること多いよな」

「ん? ああ、そうだね」

「ふたりのとき何話してんだ?」

「何って……、まあ、依頼や魔術の話とかが多いかな。最近サクラは魔術関連のことに興味があるらしくて」

「サクが?」


 頭の中はほとんど武器と剣術のことで埋め尽くされていると思っていたから意外だ。

 そんな顔をしていると、イオリがジト目になっていた。

 失礼なことを考えていると見抜かれたらしい。


「アキラ。君は一応彼女の主君だろう。彼女は色んなことを考えている。もっともそれは彼女だけじゃない、エリサスやエレナ、それにアルティアだって変化している。当然みんな違うんだ、見える範囲に限らずね。ちゃんと考えていないと、いつか愛想つかされちゃうかもね」

「大丈夫だと……思うんだけどなぁ」


 気楽にそう言うも、アキラの目は僅かに遠くなった。

 自分はきっと、旅を通して変わっていった。だがそれは、イオリの言うように彼女たちにも変化をもたらしているのだ。

 自分たちの関係性だけでなく、彼女たち自身の内面も、当然成長や変化を繰り返しているのだろう。

 今まで自分のことばかりに必死で、周りをしっかり見ていたかと言われると、正直自信がない。


 だが、自惚れでなければ、近頃感じることもある。

 少なくとも、自分という存在は、彼女たちを何らかの形で支えていると思いたい。

 頼ってばかりの記憶しかないが、自分の存在が彼女たちの一部になっていればいいと思うし、そう在りたいとも思うのだ。


 だが、だからこそ、どうしようもなく不安になる。

 もし、ヒダマリ=アキラという存在が、この世界から、


「アキラ?」

「ん? ああ悪い、何の話だっけ」

「……何でもないよ。そうだ、それで思い出した。アキラ、世界が平和になったらどうしようか」

「どうした急に」

「この前サクラとそんな話になってね。明るい話をしようって」

「その前には暗い話してたのかよ」


 真面目なふたりの会話というものは想像できない。

 もしかしたら、いつも厳粛な空気になっているのだろうか。


 イオリは髪を触りながら無視して続けた。


「アキラはどこか行ってみたいところとかある? 僕はシリスティアに行ってみたいと思っているんだよ。季節問わず綺麗な花が咲くんだってね」

「は、イオリにしちゃ意外だな」

「それはなに。僕に花は似合わないと?」

「いや、違うって、そんな空想みたいな話をするなんてさ」


 適当に言ったら、イオリはまた拗ねた。

 アキラは目を瞑り、拳を握って空を仰いだ。


「俺は……。そうだな。この世界をもう一度周りたい」

「へえ」

「勇者としてじゃなくて、単なる旅の魔術師として。全部だ、全部行きたい。荒地だらけのタンガタンザだろうが、ほとんど滅んでいるモルオールだろうが、全部」

「……ふ。そうだね。特にモルオールは案内するよ。タンガタンザはサクラかな」


 アキラは、心の底から笑った。

 とっくに慣れ親しんだ勇者としての重圧を取り除いて、自由気ままに、大好きなこの世界を周りたい。

 馬車の車輪は、いつしか泥を落としたのか、綺麗に回転していた。

 アキラは落ちた泥のために、振り返ることはしなかった。そうあるべきなのだから。


「実現させるぞ」

「ああ、勿論だ」


 イオリは強く頷いた。3度も繰り返した彼女には、その日々に辿り着く権利がある。

 アキラも頷く。自分には、この世界の狂った歯車を元に戻す義務がある。


「……! さて。そろそろ現実に戻ろうか」

「ああ」


 最初に気づいたのはイオリだった。

 遅れてアキラも、前方の草むらが不自然に揺れているのを察知する。

 姿は見えないが、どうやら数は揃っているらしい。


「魔物の群れだ。それも、ヨーテンガースの。アキラ、馬車のみんなに伝えてきてくれ。迂回しよう」

「分かった」


 入りたくない馬車の中だが、有事となれば別だ。

 依頼は始まったばかり。無用な費消は避けるべきであろう。

 普段はいかに折り合いの悪そうな面々でも、このときばかりは一致団結してもらわなければならない。


 アキラは馬車に素早く入ると、すぐさま迂回を提案した。


「えー、遠回りとか面倒じゃない。真っ直ぐ行きましょうよ」

「なに。魔物? あたし行ってくる。……ティアはここにいること!」

「私も出ます。任せてください」


 弾かれるように立ち上がった3人に加え、奥のスライクは、いつの間にか馬車の外へ飛び降りていた。


 イオリが言うには、みなそれぞれがそれぞれ変化しているらしい。

 アキラもそう思うのだが、こうした光景を見ると自信が揺らぐ。

 旅を始めたときから、作戦は、直進ばかりだ。


「頼もしいなぁ」


 戦闘要員がほぼ全て外に飛び出て、一層広く見える馬車の中、アキラはおどけてそう呟いた。

 馬車の速度は変わらない。

 車輪に挟まっていた泥は、今はもう、視界に入れることすらできなくなっていた。


――――――


 おんりーらぶ!?


――――――


 予想よりずっと早く目的地に到着した。

 直線で3時間の道を3時間で進めばそうなる。

 これには族長も大満足で、随所で旅の魔術師たちを労っていた。


―――バオールの地。

 ヨーテンガースを囲うベックベルン山脈にほど近いこの場所は、側から見れば単なる樹海の一部だった。

 その樹海が開けた半径15メートル程度の空間は、多少草木は慣らされているもののほとんど整備されておらず、とても固有名詞が付いている場所とは思えない。

 小耳に挟んだところによると、ヨーテンガースに数多くいる民族たちは、それぞれが自分たちの特別な場所を定め、それぞれのやり方で何らかの儀式を執り行っているらしい。

 サルドゥの民にとっては神聖な場所、旅の魔術師たちにとっては縁もゆかりもない雑草に覆われた樹海の一部。

 ヨーテンガースというだけはあって旅の魔術師たちの警戒心はある程度高いようだが、所詮は樹海の一部であるだけの辺鄙なこの場所に強い興味を持つ者は、ひとりを除いていなかった。


「スライク様、見てください、ほら、あそこ。四隅に妙な窪みがあるでしょう。きっとあそこに矢倉を設置するんです。わたくし挿絵でしか見たことがありませんが、なんとあのタンガタンザ製の組み立て式の建物ですよ。樹海の中の建造物などすぐに魔物に壊されてしまい、儀式を執り行うのも大掛かりだったそうですが、十数年前にタンガタンザが売り出した、“運べる建物”は、世界中の儀式に多大なる貢献をしたそうですね。わたくしも実際に見るのは始めて……あれ、ちょっと、どこに行ったんですか?」


 水曜属性の人間というのはみんなあんな調子なのだろうか。だとしたら大変だ、世界で最も多い属性なのだから。

 修道院育ちの世間知らずであるカイラ=キッド=ウルグスは、あるいはサルドゥの民以上に聖地に立った感動に打ち震え、話し相手を探していた。

 彼女が口を開いたときから一言も発さず離れていくスライクをアキラは見ていたが、巻き込まれると面倒そうなので放っておいた。

 うちの水曜属性は、キュールと話でもしているのかまだ馬車から降りてこない。

 孤立したカイラの目は、次の仲間を探し始めたようだが、生憎と、その男は今、アキラに向かってまっすぐ歩み寄ってきていた。


「ようやくゆっくり話ができそうだ。本当はあのイオリって子もいて欲しいけどね」

「イオリならついさっきサクと周りを見に行ったけど、追いかけるか?」


 山吹色のローブに長い杖。

 飄々としているように見えて、力の入れ所を間違えない。

 アキラがこのマルド=サダル=ソーグという男に覚えている感想はそれだ。

 自分は何度かこの男と会っており、彼の姉とまで話したことがあるが、この男とまともに話せたことはほとんどない。

 だがそれでも、“もうひとり”の面々とまともな会話をするならこの男が最適だろうと思っていた。


「いやいい。そっちも後でやるつもりだけど、今は君との話が先だ。最強クラスの魔術師たちを率いている人とは是非話をしておきたい」


 話をしやすい男だった。

 下手に持ち上げず、しかし乗せる言葉も混ぜ込んでくる。

 人を見透かし、衝突を避けるのが得意そうな男だった。あの色物揃いの面々の中で唯一の良識人というだけはある。


「役割柄、最悪のケースを想定しておかなきゃならなくてね。率直に言おう。『光の創め』の話がしたい」

「こっちでいいか」


 声量を落としたマルドを、聖地の隅に促した。

 この場には自分たちの他にも事情を知らぬ旅の魔術師が十数人混ざっている。

 混乱は避けるべきだ。


「一昨日イオリたちと話したんだろう。一応聞いてるけど、どこまで話したんだ?」

「多分君が聞いたのが全部だ。俺も予定があって時間がなくてね。依頼の話と、『光の創め』に絡まれてるってくらいだよ」


 マルドは分かりやすく肩を落とすポーズをとった。

 困っているようには見えないどころか、僅かに笑っている。


「俺もスライクから聞いたけど、モルオールの魔門破壊をしてからだってな。お前たち、何で魔門なんか破壊しようと思ったんだよ」

「さあね。もともとスライクは各地を回りながら魔門にも足を運んでいたんだ。でも何故か無反応なことが多くてね。でも、業を煮やしたのかあるとき突然破壊するって言い出して。そのときだって、カイラが間に合わなかったらきっともっと不味いことになってたよ」


 アキラはカイラに視線を向ける。

 話し相手がいなくなっておろおろしながら歩き回り、どうやらエリーを見つけて目を輝かせていた。

 修道院からスライクを追っていったらしい彼女の初陣は、どうやらあまりに過酷なものだったらしい。


「そういえば知ってるかな? 俺たちも、そしてそっちも魔門を破壊した。そのせいか、今残るふたつの魔門は凶暴性が増しているらしい」

「は?」

「言っただろう、最初は無反応なことが多かったって。魔門も危害を加えないなら近寄られても何もしないことが多かったんだ。だが、“魔門は学習した”。“魔門は破壊できると人間が認識したことを”。だから今、接近すらできない状況になっているらしい」


 魔門を破壊した者たちから聞いた話がある。

 魔門はある種、魔物のようなものなのだと。

 つまりは意思がある。人間は敵なのだと本格的に認識してしまったのかもしれない。

 アイルークの魔門を破壊し、世界平和に多大な貢献をしたと思ってばかりいたのだが、その結果、残る魔門が手のつけられない状況になっているとは。

 定期的に行っていたらしい魔門を弱体化させる“魔門流し”なる魔術師隊の対応は、困難を極めてしまっているらしい。


「まあ、そんなことを気にしていてもしょうがない。それに、どの道今は魔門に近づくのは絶対に反対さ。何しろ魔門は今、近づけば十中八九“召喚“するだろうからね―――『光の創め』を」

「……!」


 マルドの気配が、より周囲を探るようなものになった。

 ここから先が本題らしい。


「俺たちが魔門を破壊したとき、現れたんだよ、『光の創め』が。そして、少しは情報を引き出せた。仕組みは知らないけど、魔界に繋がっているらしい魔門は、『光の創め』を呼び出す頻度が高いみたいだ」

「そうなのか」

「半分推測だけどね。それに、現れた魔族がこう言ったんだよ。『またか』、とね」


 自分の仲間が戦った『光の創め』からはそれほど情報を得られなかったらしい。

 となると、多少は口の軽い魔族が現れたということなのだろうか。


「……俺たちが戦ったのはルゴール=フィルっていう奴らしい。そいつは知っているか?」

「知っているさ。俺たちが会ったのはそいつ含めて3体さ。面倒なことに、大きな依頼のたびに現れては交戦している」


 マルドの返答に気落ちと同時、辟易した。

 依頼のたびに魔族と戦う羽目になるとは、なんと危険な旅をしていることか。

 マルドは疲弊感を吐き出すようにため息を吐く。わざとらしいポーズだが、妙に合っていて嫌味には見えない。


「毎回なんとか痛み分けのようになっているけど、特に同族嫌悪なのかスライクと向こうの『剣』の相性は最悪でね。そういう意味でも、高速で移動できるカイラが来てくれてよかったよ」

「『剣』……確か、バルダ=ウェズとかいうやつか」

「調べたみたいだね。『剣』のバルダ=ウェズ。君らが交戦した『盾』のルゴール=フィルと並んで、『光の創め』でも多少は存在が知られている奴だ」


 昨日調べただけのあまりに浅い知識だが、アキラが最も危険視した魔族だ。

 『盾』と交戦したというのに、自分たちは全員半死半生まで追い詰められたという。

 それが『剣』ともなれば、被害など想像もできない。


「どんな奴なんだ」

「属性は土曜属性。戦い方はいたってシンプルさ。そういう意味では、まさしく『剣』だね。敵を討つことに長けている」

「よく生き残ったな」

「こちらにも対抗できる『剣』があるからね。それに、4大陸まで移動してくるのになんらかの制約があるのか、大体は決着は付かずに向こうが引いていく。結果だけ見ればこちらが抑え込んでいるけど、俺にはどうもね、向こうが探りを入れてきているだけの気もしているんだ。最初から使う力を決めていて、あわよくば撃破を、って感じで」


 魔門やリロックストーンという転移石。この世界でアキラが見てきた魔族の移動方法だ。

 魔門の方は知らないが、リロックストーンは制約がある。

 『光の創め』がどのようにして移動をしているのか知らないが、ヨーテンガースを主とした活動範囲としている奴らは、なんらかの制約を払ってスライクたちの前に現れていたのかもしれない。


 だが今、このヨーテンガースに自分たちは足を踏み入れた。

 奴らも制約なく動いてくる可能性が高い。

 この依頼にも現れるとなれば、警戒しても仕切れない。


 それだけに、これ以上の面倒事を引き起こすわけにはいかなかった。


「……あの男がどうかしたのか」

「……!」


 思わず目で追っていた。

 旅の魔術師たちと柔和な表情で語らいでいるラースという“存在”を。

 表情に出ていただろうか、マルドは表情も変えず、周囲には聞き取りにくい声量でさらりと言う。

 無視をすると決めていたアキラだが、今、マルドにだけは話すべきかと心が揺らぐ。

 言葉に詰まったアキラに対し、マルドは大きく伸びをして、不自然な硬直をごまかしてくれていた。

 どうする。


「ヒダマリ=アキラ様ですね、それに、マルド=サダル=ソーグ様も」


 口を開こうとした瞬間、声をかけられた。

 虚を突かれたのは同じだったらしい、マルドは自然な表情で顔を上げるが、その手が僅かに杖に伸びたのをアキラは見逃さなかった。


 声の主は、紺のローブですっぽりと顔を隠しており、表情は見えない。

 声色から女性だということは分かるが、年齢も、体格も、そして表情もすべてが包み隠されている。

 まだ日も落ちきっていないというのに、彼女の周囲はまるで夜のようだった。


「お話中すみません。私はヴェルバ。よければ私たちもお話に加えていただけませんか?」

「あれ、リリル?」


 ヴェルバと名乗った女性の背後から、リリル=サース=ロングトンが顔を覗かせた。

 お互いローブをまとっているが、明るく顔を出しているリリルとはまるで対照的に見える。

 アキラは反射的に不審に思った。こんな女性、これまでの道中で見かけた記憶がない。


「リリル、知り合いか?」

「ええと、はい。この街に来た日に会った方です。たまたまこの依頼でもご一緒していたみたいです」


 口調は相変わらずはきはきとしているが、妙に違和感を覚える。

 何となく、リリルはこの女性を苦手にしているような気がした。


「話とは?」

「いえ、そんな身構えるようなことではなく。私、人の話を聞くのが好きなんです。お陰様で早々にこの場所まで着けたので、是非高名な勇者様たちのお話を伺いたくて」


 表情が見えないのに、ヴェルバが柔和に笑ったような印象を受けた。


「それに、私は日の光が苦手で、今まで馬車で休んでいました。その分夜で挽回させてくださいね」

「そう、か。よろしく」


 好意的な声色だった。

 リリルの知り合いとなると邪険には扱えないが、そのリリルは僅かに身じろぎしながらヴェルバから離れる。

 リリルの態度としては珍しい。


「リリルもそういや日の光って苦手だよな」

「え、ええ。肌が弱くて。すぐ焼けてしまうんです」


 人混みと日光が苦手らしい勇者様は分かりやすく顔を赤くする。


「まあ、それならいい塗り薬があるらしいですよ。私には少し高価で手が出せませんでしたが、街で見かけました」

「そうなんですか?」


 表情が見えないのにヴェルバが微笑んだと分かった。

 対照的なようにも、同じようにも見えるふたりを見ていると、妙に混乱してくる。


 アキラがマルドに視線を送ると、彼は毛とられない範囲で肩を落とした。

 旅の魔術師がこの場にいては、これ以上『光の創め』の話は難しい。


「あら。もしかしたらお邪魔してしまったのでしょうか。すみませんね、ヨーテンガースにいると噂は細かく入ってくるのですが、やはりご本人にお話を伺うのとは違って。私は普段、街で占いをしているものですから、人の噂に人一倍敏感で、好奇心が強くて」

「いえ、こちらも大した話をしていたわけではないですよ、それより占いですか、いいですね。俺たちもこんな旅をしているから、是非占ってもらいたいですよ」


 マルドが明るく笑い、ヴェルバに一歩近づく。

 いつもの様子だが、アキラはマルドの隣にいて初めて分かった。この男の目の色は、正面からは分からない。横から見ると相手を探るような色をしていた。


「あら嬉しい。でも、占いは夜だけと決めています。そうだ、依頼中なのに悪いですが、夜にでもお話しませんか? 今はやっぱりお邪魔みたいなので、私は他の方たちにもご挨拶してきます」

「そうですか、残念です。では、夜に」


 結局彼女はただの話好きの旅の魔術師だったのか。

 思った以上にあっさりと去り、別の集団へ向かっていく。


 しかしマルドは、たったそれだけのことだというのに、ヴェルバの背をやはり探るように見ているのだ。

 それを感じてしまえば、ヴェルバ以上に、マルドからは不気味さと恐怖を覚える。

 自分と話していたときでさえ、きっと彼はこの目の色をしていたのだろう。

 相手が勇者であろうが、旅の魔術師であろうが、マルドにとっては同じく探りを入れる対象でしかないのだろう。


 あらゆる可能性を考慮し、最悪の事態を回避する『杖』。

 そんなマルドを有するスライクたちと、自分たち、そしてリリルという最高レベルの戦力が揃っている。

 警戒はしてもし足りないとは思うが、こちらが万全の布陣というのもまた事実なのだ。


「……さて。水を差されたな。俺は少し周りの様子を探ってくるよ」

「イオリたちも周ってるぞ?」

「ああ、それでもだ。自分の目で見ておきたい」

「なら俺も行こう。リリルはどうする?」

「……私もご一緒します」

「そうだな。それじゃあ歩きながら話そうか」


 僅かばかり元気のないように見えるリリルを連れ、アキラたちは樹海へ向かう。

 マルドの目があれば確かであろう、危険は先に拾えるはずだ。


「リリルさんもいるならちょうどいいか、『光の創め』の話を続けよう」

「バルダ=ウェズとかいう奴の話の続きだったな。それでそいつは、」

「相手が『剣』なら、細かな作戦なんか立てるだけ無駄だよ、全力で迎え撃つだけだ」


 マルドは慎重に樹海に足を踏み入れながら、周囲を探ってあっさりと言った。

 アキラにとっては想像上の存在でしかないが、やはり『剣』が相手となると、細かな駆け引きは無駄らしい。

 まるで無策というわけでもないだろうが、アキラも覚悟を決める必要がありそうだ。


「だけど、“そいつならまだいい”」


 意を決し、アキラも樹海に踏み込んだところで、マルドは苦々しげに呟いた。


「言ったろ。俺は“最悪のケース”を想定してなきゃいけないって。これも同族嫌悪なのかね、この大人数の依頼だと、問題なのは『剣』じゃない」


 静かに振り返ったマルドは、疲労感を吐き出すようにため息をついた。

 今度のその仕草は、どうやらポーズのようではないらしい。


「『杖』だよ」


―――***―――


「休んでろって言ったのに」

「まあ適正はある方だよ。むしろアキラが特定の場所にじっとしている前提で作戦なんて立てられない」

「……それは……、まあ、そうですけど」


 つい吐き出してしまった不平不満を拾われて、身も蓋もないことを返された。

 エリサス=アーティは支給された木箱を荷台から下ろしながら肩をすくめた。


 ここはバオールの地から西に外れた地点。

 今回の依頼内容はサルドゥの民が行う儀式の護衛となる。

 大まかな概要は、バオールの地を中心とし、旅の魔術師が東西南北を固めるというものだ。

 儀式は明日の早朝に執り行われるため、護衛は儀式のための準備をしている現在から明日の帰路まで続くことになる。

 そのためサルドゥの民から支給されたこのテントやら何やらを台車に乗せ、運びにくい樹海の中をなんとかここまで運んできたのだ。

 この地まで来るのにあまりに順調だったのだが、いつの間にか夕刻になっている。日の光があるうちに野宿の準備をしないと面倒だ。


 魔術師試験の勉強中にも感じたことだが、時間というものは、あればあるだけ無駄に使ってしまうものなのだろう。


「イオリさん、ここに張ればいいですか?」

「そうだね。あ、いや、もう少し右かな。去年のだと思うけど、妙に平らな場所がある」


 エリーは、尊敬すべき仲間のイオリと共にこの西部の警備を行うことになる。

 この場所は他に、エレナ=ファンツェルンも警備をすることになっているのだが、到着するなり彼女は周囲の見回りと称して姿を消していた。


 バオールの地はヨーテンガースの北西に位置する。

 そのため、ヨーテンガースを囲うベックベルン山脈に最も近くなるのはこの西部と北部だ。

 参加した他の旅の魔術師たちもこちらの方向の警備は避けたかったようで、自分たちが西部、そしてあのスライク=キース=ガイロードたちが北部を担当することになったのだ。

 そして、最も負担の大きいのは、その各方面の旅の魔術師たちの様子を見回る遊撃担当。


 休憩や交代の計画は立てているだろうが、その担当に真っ先に手をあげたのは我らがヒダマリ=アキラだった。


「あいつ、自分が治療できるっての忘れてるんじゃないでしょうね」

「サクラも一緒だしそんなに無理させないはずだよ。それに、頼りきりになるのも危険だけど中央にはアルティアも控えている。考えられる布陣としては万全だ」


 中央から離れるとき、名残惜しそうに大声で手を振りながら自分たちを送り出したティアを思い出す。

 あれで控えているとは、いくらイオリの言葉でも不安になってきた。


「さあて、こんなところかな。エレナも気に入ってくれるといいけどね」


 エリートの中でも超トップクラスの魔導師様は、手慣れた様子で野宿の準備を整えると、しゃがみこんでテントの床越しに地面をペシペシと叩く。

 魔術師隊や戦闘中は知的な表情を崩さないのに、覗き見た横顔は随分と柔らかい。

 最近になってそんな表情をよく見る気がする。イオリのことは尊敬しているが、こういうところがずるいと思っていた。


「イオリさん、機嫌いいですね」

「ん? そう見えるかな。このところずっと船旅だったから、久しぶりの野宿も新鮮なのかもね。エリサスも気を張り続けても仕方ないよ、少しは緑でも眺めよう」

「樹海パワーってやつですか」

「はは、アキラ? アルティア? いいね、そういうの」


 出どころはすぐにバレた。

 イオリはテントの入り口に腰を下ろして優雅に笑う。地べたに座っても様になって見えるのがますますずるい。


 よく考えれば自分とイオリはひとつ違いだ。

 それなのに、妙に差を感じた。

 ふたりきりだし、夜は長い。ちょうどいい機会だ、尊敬してばかりいても仕方がない。

 エリーはイオリの隣に腰を下ろすと、一旦考えるのを止めて樹海を眺める。

 季節としては夏になるが、樹海を通して頬を撫でる風は気持ちよかった。


「イオリさんって、元の世界でどんな生活してたんですか?」

「どうしたの、急に」

「今まであんまり聞いてなかったなぁって思って。イオリさんの話。その、話したくなければいいですけど」


 ホンジョウ=イオリはヒダマリ=アキラ同様、異世界来訪者だ。

 この世界では存在は認知されているとはいえ、稀有な存在になる。ある意味日輪属性や月輪属性と同様だ。

 今まで何か怖い気がして聞けていなかったが、ふたりして樹海を眺めている今、口をついて出てきた。


「いいよ。元の世界の話か。なんて言えばいいのかな、普通、だよ。いや、普通って言ってもこの世界とは違うのか」


 以前あの男に聞いたことがあるが、普通、までで話が終わって悲しい気持ちになった。

 イオリは察してくれたようだ、自分と、アキラとイオリの普通は、異なるのだと。


「僕は学生、と言えば伝わるかな。国によるけど、僕らの国は、全員が10年ほど一律同じ教育を受けるんだよ」

「全員がですか?」

「ごく少数例外はあるけどね。誤解を生む表現だけど、強制的に教育されるんだ。そうだね、この世界で言うと神の教えのようなものさ」

「10年、ですよね?」

「ああ。まあ、朝から昼過ぎくらいまでだけど」


 それほどの期間強制的に教育を受けさせられるとは。

 この世界では、神の教えも含め、一般教養や勉学は家庭ごとに行うのが普通だ。仕事が忙しい親たちのためにそれ用の施設もあるが、強制力はほとんどない。

 エリーがいた孤児院でも、勉強は昔は孤児院の大人たちに教えてもらい、昨今では自分が教えていた。

 極論、主体的に教えよう、教わろうとした者だけが学ぶのだ。


「酷い想像をしているようだけど、そんなでもないよ。この世界にも学校はあるけど、お金がいる。だけど、僕らの国では、国がそのお金を出してくれるんだ。この世界にもそういう地域はあるって聞いたけど」


 そう聞くとかなり羨ましかった。無料でものを教えてもらえるとは。

 そうなると凄まじい世界に思える。目に入る人すべてが、小さい頃から勉学を納めていることになるのだから。


「え。それってあいつも同じってことですか?」

「ああ、当然」

「なんだと」


 動揺が隠し切れなかった。

 そんな凄まじい世界の人間だとは。アキラもイオリ同様、エリーのひとつ上だ。

 自分が受けてきた一般教育は数年程度で、あとは孤児院で働いていた記憶しかない。そう考えると、彼の方がよっぽど学んでいることになる。

 この世界では有効活用できない知識なだけで、もしかしたら彼はとてつもなく頭がいいのではないだろうか。


「まあ、学ぶと言っても、本当に基本的なことだけだよ。当時はそれに気づけないから難しく思えるだけで。で、僕はその約10年の期間、義務教育と言われるものを終えて、次にまた学校に入った。高等学校っていうんだけど」

「まだ勉強してたんですか?」

「ああ。義務教育だけで十分と考える人もいるけど、より専門的なことを教えてもらいたいと考える人もいる。そういう人が入るんだ。ここからは自分がお金を出すことになるけど」


 動揺が治まってきたと同時、イオリへの尊敬が強まった。

 10年も学業に努めた上でなお、さらに学ぼうとは。


「やっぱりイオリさんすごい……。あたしなんかじゃとても、」

「…………。どうしよう、言ってみようかな。アキラは高等学校で学んだあと、さらにそのあと大学に入っている」

「うそだーっ!!」


 心臓の鼓動が信じられないほどに跳ね上がった。

 脳が処理する前に心が暴れ回る。考えただけで胸が苦しく、頭が熱くなってきた。

 恋かもしれない。そうなのだが。


「詳しくは本人に聞くといいよ」

「うう……ううううーん……」


 イオリはいたずらが成功したような笑みを浮かべていた。

 もしかしたら冗談だったのかもしれない。

 エリーは頭を振って熱を払う。確かに本人に聞くべきだろうが、詳細次第では、もっと敬うように接する必要があるのかもしれない。


「それはともかく。僕はその高等学校の2年目にこの世界に来たんだよ。そうだね、学校生活はそれなりに過ごせていたかな。両親が共働きだったから、家ではひとりだったけど、たまに外に出て気晴らししてたよ」

「ええと……近所の人たちとですか?」

「ふ。そんなことも昔はあったかな。そうか、そうだね、この世界と大きく違うのは、娯楽の数だよ」


 的外れなことを言ってしまったのかもしれない。

 イオリは笑いながら記憶を辿っていた。


「仲のいい人たちと共に過ごす人も多いけど、ひとりでも楽しめる色んなものがあるんだ。ショッピングはもちろん、多くの物語が見られる映画館や汗を流せるスポーツ施設。お腹が減ったら1日中空いている飲食店に行けばいい。もったいない言い方だけど、時間を潰すなんてことは簡単だよ」


 前にアキラが“電気”という言葉を口走ったことがある。

 聞いてみたところ、要領を得なかったが、彼の世界では重要な役割を占めているそうだ。

 なんでも絵を動かしたり、馬車なんかよりもずっと高速で遠方に自分を運んだりしてみせるだとか。

 そちらの方がよっぽど魔法だ。


「娯楽ならアキラの方が詳しいと思うよ。遊び回ってそうだ。今度また一緒に話そう」

「ええ、是非お願いします」


 聞いているだけで楽しくなる。夢のような世界だ。

 ただ、同時に不安になる。果たしてその全能の世界に、この世界が優っているところはどこだろうかと。


「……大丈夫。聞いたんだ、僕は。アキラは魔王を倒したら、この世界に残るって」


 考えが読まれたのか、同じことを考えていたのか。

 イオリは低い声でそう言った。

 エリーは目を見開く。


「そう、なんですか?」

「ああ。エリサスが夢見ているところ悪いけど、アキラも、僕もこの世界に魅力を感じている。もしかしたら元の世界は素晴らしかったのかもしれないけど、それはそこで育った僕らには分からない。ちょうどエリサスが僕らの世界に魅力を感じているようにね」


 無い物ねだりと言われてしまえばそうなのだろう。

 この世界には魔術があり、魔物がいる。エリーにとっては魔術なんかより電気の方がよっぽど便利だし、魔物なんて危険なだけだ。

 だが彼らにとってはそうではないらしい。

 しかし不安は残る。彼が今、この世界を望んでいても、それは新鮮だからだ。

 この世界に慣れ切ってしまったとき、冷静な目で見比べたとき、彼が何を選ぶのか。


「イオリさん。イオリさんも、この世界を選んでくれますか?」

「……。……ああ。僕はこの世界の住人として生きていきたいと思っている」


 色々なものを呑み込んだような返答だった。

 イオリがこの世界にいる期間はアキラより長い。ましてやイオリだ、元の世界とこの世界をとっくに冷静な目で見比べている。

 だからその答えは、短絡的なものではないのだろう。


「はは。……意外だね。エリサスは、僕が元の世界に戻った方が良いと思っていそうだったから」

「イオリさん、あたし怒りますよ」


 イオリと話していたるからか、自分の頭の回転も良くなったのかもしれない。


 イオリが何故、エリーがイオリが元の世界に戻った方が良いと思っていると考えたのかも察しがついた。

 イオリは冗談で言ったことも分かっている。

 全部理解した上で、自分ははっきりと、怒れた。


「イオリさん。もう、はっきり言います」


 面食らっているイオリに、エリーは大きく息を吸って吐いた。

 このヨーテンガースに降り立ってから、ずっと考えていたことだ。ちゃんと向き合う必要があると。


「あたしはあいつが好きです。ずっとあいつの隣にいたい」


 自分の顔が何色になっているか分からない。

 視界は滲んでいた。


「あいつが元の世界に戻るなら、いっそあたしも行ってやろうかって思ってたくらい、本気で想ってますよ。でも、イオリさんたちとも一緒にいたくて、もう上手く言えないけど、どうしたら良いんだろうって考えても分からないのにずっと悩んでて」


 イオリは静かに聞いてくれていた。

 自分が何を言っているのか分からない。


 だけど漠然と考えていたことがある。

 自分は多分、この世界の魅力を知っている。

 そして彼らの世界にも魅力を感じている。

 だから、自分は多分、世界なんてどこでも良いと思っているのだろうと。


 自分にとって重要なのは、アキラと、そしてこの仲間たちだ。それが自分の望む世界だ。

 ヨーテンガースに到着し、終わりが始まったこの旅に、どうしようもない不安を持ち続けていた。


「だから、ふたりともこの世界に残るって聞いて、分かんないけど、なんか、わあ、ってなったんですよ。冗談でも怒ります」


 まくし立てて、考えがまとまらない。回転がよくなったと思った頭は、ティアのような感性になっていた。

 だけど言い切った。怖くて言い出せなかった言葉を、1番怖いと思っていた相手に言えた。


 イオリは目を細め、静かに微笑んだ。


「……え、と。まずは、ごめん。冗談でもよくなかったね。それに、ありがとう。多分今、わた、僕、嬉しいと思ってる。うん」


 イオリのたどたどしい言葉を聞き、荒くなっていた呼吸が治まっていく。

 徐々に落ち着きを取り戻し、エリーは自分の顔の色に確信を持った。


 イオリは髪を触り、目を泳がせると、こほりと咳払いをした。


「そうだね。ずっと一緒にいたいね」


 現実問題、難しいことは分かっている。

 魔王を仮に倒せたとしても、自分たちはこの形のまま旅を続けることはない。

 元の生活に戻ることになるのだ。

 それもご丁寧に全員の戻る場所は世界中に散っている。


 だけどイオリは心からそう言ってくれていた。


「エリサスがそんなにも僕たちのことまで考えてくれていたのは、ああ、まずいな、嬉しいよ」

「……ええと、その前にあたしが言ったこと前提みたいに進めるんですね」

「……うん」

「分かりやすいですか?」

「そういうことには苦手な僕が確信するほどにはね。……普通に本人にも伝わっていると思うけど」


 顔が上げられなくなった。

 伝われば良いなと内心思っていたが、実際に言葉にされると呼吸ができなくなる。


「イオリさん」

「なに?」

「イオリさんはどうですか。あいつのことどう思ってるんですか?」


 完全に道連れを探していると自覚した上で聞いた。

 尊敬するイオリに、しかも元の世界でアキラと面識があったらしいイオリに、1番危険だと思っていたイオリに聞くとは。

 自分も随分と成長したものだ。思い起こせばアイルークから始まったこの度は随分と長く続き、瞳を閉じるだけであらゆる光景が浮かび上がってくる。

 追憶という名の現実逃避をしながら、エリーはイオリの言葉を待った。


「…………何度目かな」

「え?」

「いや、なんでもない。そう、だね」


 イオリの表情は一層静かなものになった。有事の際に思考を働かせる表情にも見えるが、涼風にざわめく木の葉のように、あるがままを感じ取っているようにも見える。

 もしかしたら先ほどの自分と同じかもしれない。

 きっとイオリは今、初めて自分に、頭ではなく感情で浮かんだ言葉を返してくれるのかもしれない。


「僕は、アキラのことが、―――!!」


 イオリが弾かれるように立ち上がった。

 エリーも即座にテントから距離を取る。

 流れるように構えを取ると、テントの向こうの樹海から、物音が近づいてきた。


「やっと着いた。あれ、エレナは?」

「……や、やあアキラ。見回りは順調かな」

「順調も何もないけど、何も出ないぞここ。騒ぎひとつ起きないし。昼に見た魔物が最後だ」


 遊撃担当の見回りが、この西部に到着したようだ。

 ここまで近づかれるまで気づかないとは不甲斐ない。


 アキラの後ろにはサクもいる。

 アキラはともかくサクは、遊撃という役割には最適のように思えた。


「ここも何も起きてないようだな。……ふたりして何をしているんだ?」

「ちゃんと警戒してたのよ」

「そうか、ここも大変なんだな」


 完全に臨戦体制で並んでいたエリーとイオリは、サクから尊敬半分同情半分の視線を受け、さりげなく警戒をとき、硬直した身体をほぐした。

 つい先ほどまで座り込んで色恋沙汰の話をしていたとは、口が裂けても言えない。


「遊撃の方はどういう立ち回りなのかな」

「え? いや、細かい作戦なんかないぞ。それぞれ休憩するタイミングは話し合ったけど、2、3人ずつでぐるぐる回っているだけだ。そうだ、なんかあったら大声出せよ、近くの奴らが集まるから」

「なるほどね。じゃあ頼りにさせてもらうよ」

「ああ。で、エレナは?」

「彼女ならこの辺りを見回ってくれている。ひとりは危険だけど、彼女はその辺りきちんと線引きできるから大丈夫だと思う」

「そう、だな。あんまり遅いようなら言ってくれよ」

「分かった。そっちも気をつけて」


 恐らくサボっているだけであろうエレナをさり気なくフォローし、イオリは手を振った。

 微妙に小刻みになっている手にアキラは首を傾げながらも次のポイントを目指して樹海に入っていく。

 ようやくふたりを送り出すと、エリーとイオリは盛大にため息を吐き出した。

 顔を見合わせると、思わず笑いがこみ上げてくる。


「間の悪い奴」

「酷い言い方だね、まあ、僕も同じことを思っていたけど」


 イオリはクスリと笑って、今度こそ本当に警護を始めたようだ。

 中央に座り、静かに周囲の気配を探る。

 どうやら話は終わりのようだ。生憎と彼女の本心を聞きそびれたが、聞き直す勇気はいつの間にかなくなっていた。


 エリーもイオリと背中合わせになるように座り、仕事を始める。

 間も無く日も落ちる。灯りの準備もしなければならない。

 いつも通り集中していないと、真面目に取り組んでいるサクにも申し訳が立たない。


「そうだ、エリサス」

「はい、なんですか?」


 樹海の様子を眺めながら、イオリは顔も向けずに言い切った。


「負けないから」


―――***―――


 遊撃担当の仕事は順調に進んでいた。何しろ魔物が出ないのだから。それどころか気配すら感じない。


 ヒダマリ=アキラは、ミツルギ=サクラと共に樹海の道無き道を押し進んでいた。

 と言っても、そこまで道がないわけではない。毎年行われているだけはあり、ある程度地面は慣らされ、歩く方向は概ね特定できる。

 遊撃担当は5、6グループおり、アキラたちは北、西、南を往復するように周っている。

 大分アバウトな体制であるが、通年これでやってきたらしく、魔物の出現率を見るとヨーテンガースの依頼とは思えないほど難易度は低い。

 夜間の仕事を苦にしないのであれば、旅の魔術師たちが多く参加しているのも、頷ける。


「アキラ、ペースが早い。前のグループを追い抜くつもりか。それに、樹海は意外と体力を削られるんだ、夜まで持たないぞ。大体お前は治癒担当でもあるんだろう。体力もだが魔力も温存することを考えてくれ」

「分かってるって」


 そのアバウトさを良しとしないサクに注意されたのは何度目か。

 アキラは素直に速度を落とすと、灯をともすマジックアイテムを取り出した。

 治癒担当として、可能な限り魔力を温存しろと言われたのだがここまでとは。随分と徹底している。

 この世界に訪れた当初ならいざ知らず、今のアキラにとっては自分の手に灯をともすなどなんの負担もないのだが。


「魔物出ないなぁ……。そういやサク、昼に出た魔物、あの、ネズミみたいなのってどっかで見たことある気がすんだけど」

「あれは確か、あ、ちょっと待て、思い出すから。ヨーテンガースの魔物だが、シュ……ええと、シュなんとかマーチュだった気が」


 最近勉学に勤しんでいるらしいサクは、魔物の名前も覚え始めたらしい。今もなお思い出そうとしているサクには悪いが、どうやらあれはアイルークで見た魔物の親戚らしいとアキラは結論づけた。

 警戒に警戒を重ねていたが、一応ここはヨーテンガースの入り口ということもあり、魔物の質は多少低いようだ。


「アキラ。分かっていると思うが、」

「ああ、大丈夫だよ。出ないと暇だけど、出ないに越したことはない。正直今でも神経すり減らすほど周囲を探ってるぜ?」


 他の旅の魔術師にとっては単なる依頼。それどころか味方の陣営は随分と豪華だ。

 だがそれも相まって、アキラにとってはこの依頼は混沌を極める。


 3人の勇者に『光の創め』。そして無視すると決めてはいるものの魔王すらいるのだ。

 ヨーテンガースという地に降り立って初めての依頼だというのに、考慮すべき要素が多すぎて何をしなければならないのか見えてこない。

 だからアキラは、せめて発生した事象だけはすべて対応できるように警戒し続けているのだ。


「いたっ」


 警戒していたのに、後頭部に手刀をくらった。

 振り返ると、主君の頭を叩いた従者様がお怒りのご様子でまっすぐ目を射抜いてきていた。


「何すんだよ。冗談で言ってないぞ」

「あのな、アキラ。お前、私と旅を続けてどれくらいになる」

「ずっとだよ。ずっと一緒にいただろ」


 サクは固まると、しばらくしてため息を吐いた。


「あのな、お前が警戒しているのなんて、私は分かっているんだよ。本心で言っているって、分かっているんだよ。だから、神経をすり減らしているって、分かるんだ。それなのに、お前は無理してでも明るく振る舞うじゃないか。せめて私といるときは気を抜け、本当に持たないぞ」

「嘘だろ……サクがサボれって言ってくる」


 手刀が再びアキラの額に当てられた。

 甘んじて受け入れたアキラは、サクの目を見返しつつ周囲に気を配った。

 そしてすぐに見抜かれて、サクはまた不機嫌な顔になる。


「前に言ったろ。お前の分も、俺が無理をするって。あのときは、悪いな、正直何をすればいいのか分からなかった。ただ必死になろうと思っただけだった。だけど、ようやく見えてきたよ。俺は勇者としているべきなんだってさ。まあ、真面目な路線は無理そうだから、せめて不安な顔なんて見せないようにしないとな」


 もし顔色というものが心情に直結していたら、何色になっていただろう。

 これから向かうのは南部の警護地点だ。事情を知らぬ旅の魔術師たちがいる。そんなところに神経を尖らせ、死にそうになった顔つきの勇者様が現れたら彼らはどう思うだろう。

 だから自分はそうあってはならない。

 前にサクが自分に言ったことでもある。外からの目というものを気にしろと。

 最近になってその意味が分かってきた。


「そんなのは当然だろう」


 従者であり、同時に師でもあるサクは、厳しく正しく言い切る。

 彼女の言葉を聞くだけで、自分の心の揺らぎが正されるような気がした。


「だがな。私もか、私にもか? さっきも言ったが、お前は分かりやすいんだ、私にとっては。辛いだろうに、いつでもどこでも笑っているお前を見て、私がどう思うと思う?」


 サクは歩き出した。

 空には、とっくに星々が浮かび上がっていた。


「少しは人の気も考えてくれ」


 ゆっくりとアキラも歩き出した。

 サクに並び、いよいよ灯が必要になった樹海の道を進む。

 きっと、自分には勿体ないほどの、有難いこと言ってくれたのだと思った。


「私も最近思うことがあるんだよ」

「なにを?」

「いやな、お前を主君とした私は、従者としてどうあるべきかと」


 自分とサクの関係は、形式的にはそうである。

 だがそんな形式的なものは漠然としていて、お互いにどうあるべきかなどまるで見えていなかった。


「アイルークでの魔門破壊。あのときが1番強く感じた。誤解するなよ? 私はな、命を賭けてもお前の望みを叶えようと思った」

「それは止めろよ」

「怒るな。私の性格は知ってるだろう」


 知っている。サクがアキラのことを分かるように、自分も彼女のことが分かる。それだけの時間を共有してきたのだ。


「だがな、はあ、本当に不服だよ。あのときあの場所で、最もそう在れたのはエレナさんだった」


 それについては、アキラも未だに引きずっている。

 あの危険地帯で、自分はエレナにそうするように頼んだのだ。彼女の力は不可欠だった。その結果、彼女はかなりの傷を負ってしまった。


「お前の言葉で、エレナさんはそう在ったんだ。そして彼女には、それに応えるだけの力があった。地獄のような魔門破壊の依頼だったが、成功した今になっても思うよ。もう一度最初からやって、私がそう在りたかったと」

「……」


 魔門破壊は達成した。

 だが同時に、全員課題も見つかったのだ。


「分かっている。多分私では、彼女ほどの働きはできなかった。この目で見て思ったよ。エレナさんは世界が違う。お前が、我が主君が、真っ先に頼るのも頷けると」

「おい、そういうつもりで、」

「いいんだ、これは、私の思い込みでもあるというのは自覚している。だが事実、そうだった」


 世間体というものを考えろ。

 アキラがそれを理解できたのは最近だ。

 自分はずっと見えていなかった。自分の一挙手一投足が、周りから見てどう思われるのかを。

 本人がどう思っていようが、形として残るものというものは、確かにあるのだ。


「だけどこれからはそうならない」


 サクの足元で、小枝が割れる音が聞こえた。

 見下ろすこともなく、彼女は真っ直ぐに道を進む。


「いいかアキラ。絶対にだ。私はお前が真っ先に頼る存在になってみせる。お前が困難に直面したときに、いや、何が起きたって、最初に声をかけるのは私だ。武器に関してだけじゃない。魔術だって、魔物だって、魔族だって、なんでも応えてみせるよ」


 多分、サクの顔は見ないほうがいいような気がした。

 知っている。彼女がどんな表情を浮かべているのか、自分には分かる。

 イオリが言っていた。みんな色んなことを考えていると。

 だけどサクは、アキラが思っていた通りに、思っていた以上に真っ直ぐに、ひとつのことを考えてくれているように感じた。


「…………まあ、その。そんな、わけだ。だからな、アキラ。私の前では無理をするな。困ったらすぐに言え。必ず応える」

「……まじかよ。でも剣の手入れサボると怒るじゃないか」

「当たり前だろう、無理してでもやれ」

「は。了解」


 相変わらず厳しくて、あまりにも真っ直ぐな従者様だ。

 迷いのない眼は、それだけで眩しく輝いて見える。

 先ほどまですべてが敵に見えた樹海の中でも、足取りが軽くなった気がする。

 そうしたらきっとまた、ペースが早いだの警戒を解くなだの、頼れる従者様に口出しされるのだろうが。


「……!」


 まもなく南部の警護地点に着くであろう、そんなとき。

 正面に灯りが見えた。

 ゆらゆらと動き、こちらに近づいてくる。

 一瞬警戒するも、それが同じく遊撃担当の灯だと察し―――アキラは警戒を強めた。


「……ああ、勇者様たちか。お互いに順調そうだね。アキラ君、でいいかな。それとサクラさんだったね」


 柔和で、人当たりがよく、それでいてしっかりとした重みのある声色。

 ブロンドの長い髪は、マジックアイテムの赤い灯りで燃え上がっているように見えた。


 男は、アキラの正面に対峙するように立つと、あまりに人間らしい笑みを浮かべる。


「お互い何事もないようで」

「ラースさん、だったな。……ひとりなのか?」

「実は今相方は休憩中でね。日が本格的に落ちる前に警護の皆さんに差し入れでもと思って配っていたんだよ。ほら」


 すでにサクとも面識があったようだ。

 ラースは食料が入っているのかひと抱えほどの紙袋を持ち上げ、やはり柔らかく笑う。

 アキラは、その紙袋を見て、妙な胸騒ぎを覚えた。


 そして、イオリに心の中で謝る。

 やはりこいつを放置はできない。


「それならもう日も落ちたし、俺たちと一緒に行かないか?」

「…………、ああ、そうだね。一緒の方がこちらとしてもありがたい」


 勇者と魔王。

 この遊撃部隊は、戦力だけなら十全だろう。


 サクの配慮はありがたかったが、心情を顔に浮かべるのは当分お預けのようだった。


―――***―――


「本当に来るのかな、『光の創め』」


 キュール=マグウェルの言葉に、いちいち反論しようとは思わなかった。

 退屈な時間を過ごして、愚痴のように出てきただけだろう。本人だって重々承知のはずだ。この依頼。十中八九どころか確実に何かが起こることを。


 北部の警護地点。

 マルド=サダル=ソーグは周囲を警戒しつつ、思考に思考を重ねていた。


 頭の中にこのバオールの地を中心とした各員の配置を浮かび上げた。

 北部には自分とキュール、そしてスライク=キース=ガイロードが配置されている。

 西部はエリーとイオリ、そしてエレナ。

 中央には治療担当のティアと高速の長距離移動が可能のカイラが待機している。

 東部と南部は他の旅の魔術師で固めているが、東部の遊撃はリリル=サース=ロングトンが務めており、配置箇所の危険性から言って万全の体制であろう。


 だがだからこそ、最悪の事態を想定する必要がある。

 散々襲撃をしてきた『光の創め』。

 昼にヒダマリ=アキラと話したときに、『剣』はまだ良いと言ったのは、本心でもあるが、半分は冗談だ。


 『剣』は脅威だ。『剣』のバルダ=ウェズ。

 どれだけ十全に備えても、奴が現れただけで確実に死傷者が出るとマルドは確信している。

 だが一応、これだけの戦力が揃い、配置にも隙がないように計らえば、“全体の半分ほどの死者”で撃退はできるであろう。


 ゆえに最悪の事態はそれではない。

 マルドが最も警戒する『杖』の出現。

 奴は、この依頼の関係者を“全滅”させる可能性がある。


 さらに言えば『剣』と『杖』の同時出現、あるいは、『光の創め』の全魔族が出現する可能性すらある。

 ゆえに思考を止めるわけにはいかない。些細なことも見逃すことは許されない。

 マルドの思考はさらに進む。

 自分の目で見たすべての事象を考慮する。

 そうなると、どうしても頭の隅に引っかかることがあった。

 昼間。あのヒダマリ=アキラは、何故あの旅の魔術師を気にかけたのか。


「マルド。あの人まだ帰ってこないんだけど、探してきてもいい?」

「駄目だって。俺もキュールもカイラに怒られちゃうよ」


 北部の担当なのだが、スライクは当たり前のように姿を消していた。周囲を探っているのだろう。

 キュールは不服そうに足を投げ出すが、カイラの名前は効いたらしい。


 カイラは元修道女だけはあって、規律には厳しく、特にキュールには非常に過保護だ。

 自分たちの旅を崇高なものと信じて止まない彼女が同行するようになってからというもの、随分と旅の形が変わったように思える。

 表向きではスライクを勇者様として支えているように振る舞うが、人の目が無くなるとスライクの日々の行動に我慢ならないのかやたらと衝突している。

 奇妙な言い方だが、計画性のない自分たちの旅が是正されてしまったように思えた。

 スライクとカイラの相性は最悪だが、マルドが考えるに、いや、スライクも同じことを思っているだろう、カイラは“使える”。

 『召喚』の力を持つ彼女が同行するようになったことで、とうとう自分たちも“二代目勇者御一行”と同じ形を成していた。

 その結果なのか本来の形に戻ったこの旅は、いよいよヨーテンガースまで続いてしまった。


「ん? 誰?」


 キュールも気づいた。誰かがこの地点に近づいてくる。

 その歩幅からスライクでないことはすぐに分かった。


「また会いましたね、マルド様。それにキュール様も。こちらは問題ないですか?」

「……ヴェルバさん、だっけ。昼間はどうも。それにリリルさんも」


 現れたのはまたも昼に見た組み合わせだった。

 東部方面の遊撃を担当しているリリルとヴェルバ。

 リリルは顔を出しているが、ヴェルバは変わらずフードを深く被っている。昼は日の光が苦手のようなことを言っていたが、フードを被っているのは日の光とは関係ないらしい。


「護衛、お疲れ様です。……おひとりいないようですが」

「スライクなら、どこかに行っちゃった。戻ってこない」


 リリルがさっと周囲を見渡してから聞くと、キュールが余計なことを言った。

 スライクは色々と敵を作るタイプだが、この依頼においては特に相性が悪そうな人間が多い。

 同族嫌悪だろう、アキラの仲間のエレナ=ファンツェルン。

 正反対だからだろう、我らがカイラ=キッド=ウルグス。

 そしてこのリリル=サース=ロングトンも、カイラと同種のようで不誠実さを受け入れられない性格をしていそうだった。


「スライクは周囲の見回りだよ。そっちも異常なかったかな」

「ええ。スライクさんにも会いませんでしたが」


 せっかくフォローしたのだが、リリルにはあまり効いていなかった。

 ふたりは昼に共闘したのだが、スライクは敵を確認した途端戦いを止め、馬車に戻って眠り始めたのだ。

 マルドは感覚が鋭い方で、その聴覚が、スライクが戦場から去る際に『下らねぇ、やっとけ』とわざわざリリルに口走ったのを拾っていた。

 そのあと馬車からリリルと言い争いのようなものが聞こえたのは、マルドの鋭い聴覚でなくても拾えた。


 『光の創め』で頭がいっぱいだというのに、これ以上面倒事を増やさないで欲しい。

 『杖』とは割りを食う存在なのだろうか。

 連想して思い浮かんだあのヒダマリ=アキラの表情も、今の自分と同じような顔色を浮かべていた。


「ではリリル様。私たちも少し休憩しましょう。少し疲れました」

「え、あ、はい。分かりました」


 本人が疲労を訴えていては断りにくいだろう。

 リリルはいかにもまだ見回りが続けたそうな意欲を隠せていなかったが、頷かざるを得なかったようだ。


「マルド様、こちらにいてもいいですか?」

「……ええ、勿論。キュール、コップがあったよな」

「うん、今やるよ」


 パタパタとかけていき、木箱をひとつずつ開けて中を確認するキュールは、今にも箱の中に落ちてしまいそうなほど危うげて微笑ましかった。

 こうした光景を見ると、カイラがキュールに対しあれほど過保護なのが理解できるが、もし『光の創め』の『剣』が現れたら、マルドは真っ先にこの『盾』の少女を向かわせるつもりでいた。


「では、休憩ということで、マルド様。いかがですか、私の占い」

「ああ、昼に言っていたやつですね、どうしようかな、リリルさん、どう?」

「いえ、私は道中お話ししていましたので」


 やんわりと断られた。

 占いが嫌なわけではないが、このヴェルバという女性、どうも妙な感覚がする。

 占い業を営んでいるだけはあって、人心掌握や行動の操作が得意そうだ。この手のタイプはできれば相手主体で話をさせたい。

 占いとなると占い師主体で進むと思いきや、その実悩みや相談事をまずこちら主体で話す必要が出てくるだろう。

 できればその光景を一歩引いた状態で見ていたいというのが本音だ。


 次の相手を探そうとしたが、残るは木箱の奥に手を伸ばそうと悪戦苦闘しているキュールに、戻ってきたとしても話も聞かずに眠りにつくであろうスライクくらいである。

 マルドが視線を泳がすと、幸運にも別の姿を拾った。


「あっ、危ない!!」

「わっ!?」


 驚いたキュールが木箱と共にひっくり返った。

 するとマルドの横を疾風が通過し、即座にキュールに詰め寄る。


 恐ろしく早い所作でキュールを抱きかかえると、彼女は、カイラは、冷たい視線をマルドに送った。


「キュール、大丈夫ですか? ああもう、無茶をして。マルド、どうして目を離したんですか? 暗くなってきているのに……あら。お客様。それに、スライク様は?」


 中央待機をしていたはずのカイラが何故かこの場所に現れた。

 マルドは別段驚きもしていない。大方キュールの様子が気になって見にきたのだろう。

 便宜上中央に配置しているだけで、マルドにとって、カイラがこの樹海のどこにいるかは重要ではない。この樹海にいることだけが重要なのだ。

 危険を知らせる信号弾が上がろうものなら彼女は樹海のどこにいても即座に駆けつけてみせるだろう。


「大きな声出すから……」

「ああ、ごめんなさいキュール。わたくし驚いてしまって。でも、気をつけなければ駄目ですよ。木箱は手を切るかもしれませんしね。何が欲しかったんですか?

わたくしがやりますよ?」

「マルド、助けて」


 もしかしたらキュールは水曜属性の人間と相性が悪いのかもしれない。この世界には水曜属性の者が圧倒的に多い。彼女の不幸体質もそこからきているのだろうか。

 昨今ではカイラ=キッド=ウルグス。昼はアルティア=ウィン=クーデフォンに絡まれている。そのせいで、妙にキュールに頼られることが多くなり、懐かれているような気もしてきた。


「カイラ、ちょっとこっち来てくれるか?」

「? ええ、はい。ところでその、スライク様は?」

「ああ、ちょっと見回りに行っている。で、ここ座ってくれ。じゃあヴェルバさん、お願いできますか」


 一歩引いた場所を確保できた。

 本当にカイラは使える。


「……ふふ。カイラ=キッド=ウルグス様、ですよね」

「え? はい」

「私はヴェルバと申します。休憩時間を利用して、ちょっとした占いをさせていただこうかと」

「占い!」


 カイラの背筋がピンとした。

 別にカイラを生贄に差し出したかったわけではない。

 自分とて人間だ。物事や人を冷たく考えることがほとんどだが、修道院で長く過ごしたカイラに色んなことを経験させてやりたいという人情も多少はある。

 事実カイラは目を輝かせてヴェルバと正面から向き合っていた。


「では、そうですね。何を占いましょう。何かお悩みはありますか?」

「悩み……ですか。そうですね、…………ううん」

「それなら、例えば昨日のことでいいです。大声を出しましたか?」

「……お恥ずかしながらあります」

「それは、人に対してですね? 誰にですか?」

「ええ。その、スラ……、そこにいるキュールに」


 昨日スライクと言い合っていたのをマルドは覚えているが、カイラはぐっと堪えたようだ。もっとも言い合いというより、スライクが、カイラの言葉をほとんど聞き流していただけだったようだが。


「それは喜びですか、怒りですか?」

「怒り……なのかもしれません。キュールが、手を解いて駆け出してしまって」


 キュールが小さく唸った。より具体的に自分の話になったからだろう。

 だが、マルドの予想は当たっていた。占いには、自分もそうだが月輪属性のような未来予知の他に、会話だけで行く末のアドバイスをするに止めるものがある。

 会話の中で、相手の性格や考え方を聞き取り、それらしいことを言うのだ。もっともそう馬鹿にしたものではない。未来予知などより、自分に対する客観的なアドバイスの方がよっぽど実益がある。


「それは怒りというより怖さからくるものですね。キュール様のことを大事に思うあまりの」

「そう、です。そうなんです」

「立派なお勤めをしているとはいえ、まだ幼くもありますものね」

「はい。わたくしは子供は世界の宝だと考えています。立派な大人になって欲しくて。子供は覚えもいいから、特に今の時期が肝心なんです」


 カイラはようやく理解者が現れたと言わんばかりに顔を明るくした。完全に教育ママのようなことを言い出している。


 どうやらヴェルバは単純な質問から相手の言葉を引き出し、性格を探るタイプのようだ。

 となるとこの占いは、やはり人生相談のようなものだ。


 改めて思う。自分でなくてよかったと。

 自分はこういうことを考えてしまうから、素直な言葉が吐き出せない。ヴェルバもやりにくくなって、気まずい雰囲気になっただろう。

 その点、カイラは本当に優秀だった。


「その考えは、昔からお持ちですか? 例えば修道院にお勤めされていた頃からとか」

「え、お分かりになりますか。実はそうなんです。そう考え始めたのも……その頃からですね」

「……」


 カイラは修道服をまとっている。ヴェルバでなくても誰でも分かる。

 マルドは視線を外して、鼻から息を吸った。

 カイラは最早わざとやっているのではないかと思うほど、占いにのめり込んでいた。


「ではその素晴らしい考えを持ち始めたのは何かの影響かもしれません。思い出してみましょう。そうすれば初心に帰って、今の悩みも軽減されるかもしれません」

「はい」

「あなたと同じ考えを持った方は、同じ修道院にいましたか?」

「……そう、ですね。皆さん同じように思っていたと思います」

「では、子供について話をした相手はいましたか? 例えば、意見がぶつかった方はいましたか?」


 そこでぴたりとカイラの言葉が止まった。

 そしてゆっくりと息を吐いて、答える。


「いました」

「どんな話をしましたか?」

「わたくしは子供は分からないことが多いから、教えて差し上げなければと思っています。でも、その人は、分からないなら大怪我するまで放っておくと言いました。自分で覚えなければ、本当の意味で分からないって」

「それについて、あなたはどう思いましたか?」

「理解はできました。わたくしも不出来な頃は口うるさく言われることを煩わしく思っていました。でも、今は感謝しています。わたくしがどれほど愛されていたのか、今になって分かるんです」

「その方はどんな人ですか?」

「院長様の言いつけも聞かず、大怪我する人でした。わたくしはあの人に何度怒りをぶつけたか数え切れません。でも、ずっと一緒にいて、一緒に育った……親友です」

「……その方は今はもう亡くなりましたね?」


 ヴェルバの言葉にカイラの目が見開かれた。

 そして小さく頷く。

 マルドは、カイラにとって最も苦い記憶だということを知っている。


「原因はなんでしたか?」

「……事故、ですね。魔物の襲撃に遭って」

「ではそれは、あなたの考え方が正しかったということでしょうか。その方は、危険に飛び込んでしまったせいで亡くなったのかもしれません」

「それは、」

「いえ、もしかしたらですよ。些細な考え方の違いで、小さな行動が変わります。そしてその小さな行動は、大きな結果に結びつきます。日々の行動は生涯に影響する。時間は大切なものだと、そうは思いませんか?」

「それは、そう思います。時間はとても大切です」

「それではあなたは間違っていません。あなたは正しい。あなたの悩みは、ただ単に、あなたの正しさが伝わらないことだけなのです」


 ヴェルバも商売なのだから、口を挟む権利は自分にはないだろう。

 だが、話の方向性がおかしくなった。

 妙な感覚が強まる。

 さりげなくリリルとキュールを探るったが、ふたりとも表情は見えなかった。

 空気が重い。


「過去から今に戻りましょう。今、あなたたちは打倒魔王を目指していますね」

「はい」

「それは何故ですか?」

「魔王は世界の脅威だからです。わたくしは、魔王を倒せるスライク様の力添えをしなければなりません」

「お仲間はみんな同じ考えですか」

「……その、はい」

「少し言い澱みましたね。自信を持ってください。あなたは正しい。もしお仲間が違うなら、もっと話す時間を増やして、伝えることをしなければなりません」

「正しい……ですか」

「ええ。もしあなたと違う考えの方がいれば、ただ伝わっていないだけなのです。話せば分かり合えますよ」

「そう、なんですか?」

「はい」


 マルドはじっと、ヴェルバという女性を見ていた。

 表情が見えない上に、声色が変わらないから感情が読み取れない。


 打倒魔王。

 彼女が口にした言葉は、全世界待望の願いだ。

 だが、自分たちはその正規ルートから随分と前に外れている。

 今でこそヨーテンガースにいるが、スライクの力ならとっくに魔王の首を跳ねていても不思議はない。

 まるで強制力のない旅を、自分たちは続けてきていた。

 マルド自身、多少は興味はあれど、魔王に対して特別な意識を持っていなかったが、これからは本格的に目指すことになるかもしれない。

 ヴェルバが出した結論は、それをさらに明確にしたような気もした。


「ですが、わたくしは少し違うと思いました」


 カイラが、静かな声でそう言った。


「違うとは?」

「いえ、お恥ずかしい話ですが、多分、わたくしたちがやるべきことは、わたくしが思っていることと違うと思うんです」


 ヴェルバの気配が僅かに変わったのを感じた。


「わたくしは思います。子供は世界の宝です。魔王は倒すべきでしょう。それが正しいと思っています。ですが、それは別の意見が正しくないというわけではないと思うんです」


 この旅についてのカイラの意見というものを初めて聞いた気がした。


「正直に言いますと、スライク様は魔王討伐に興味がありません。それどころか、勇者様として、世界中の方に救いの手を伸ばすこともしません。だからわたくしは、いつもあの方と言い争いをします。でもそれは、彼には彼の、わたくしにはわたくしの意思があるからです。あの方は言いました、救われるべき者なんて存在しない。救われたのだとしたらただの運。本来は、自分の努力で自分を救わなければならないのだと」


 優しい世界の形は、歪なのだ。


「わたくしはその意見を理解していますが、完全に納得できてはいません。ですが、それがわたくしたちの関わり方でいいと思っています。志をひとつにして、在るべき道を全員が納得して通る。それが正しいことなのだとわたくしは思いますが、同時に、意見をぶつけ続けて、まるでまとまらなくて、結局誰も納得しない道を選んでもいいのではないか、とも思うんです」


 誰も得をしない。誰も損をしない。何も生み出さない。物語にすらならない。そんな道でもカイラは良しとする。

 マルドも思い起こす。今までの旅は、確かに漠然としていて、目的もなく、客観的に見れば能力の無駄遣いだ。

 仲間に加わって時期も浅いカイラは、それを理解し、しかしその旅を許すと言う。


「修道院にいたわたくしには、正しさはずっとひとつでした。ですが、そうではないことを知りました。教わりました。いくら話し合おうと、いくら説明しようと、お互いが完全に納得する形になることの方が少ないです。それぞれが自分の正しさを持っているのだから。だからあの人も、アリハも、きっと正しかった。ただ、不運だった。今ではそう思っています」


 カイラは顔を上げ、キュールを引き寄せた。


「ですから、ヴェルバさん。貴女のご意見も、きっと正しい。そうなのかもしれないと思いました。でも、わたくしは違うと思う。それでいいと思います。だから、キュール。わたくしは貴女を立派に育てます。それがわたくしの正しさですから。分かっていますよ、キュールもキュールなりの考えがあるって。それを押し潰そうとは思っていません。わたくしも引く気はありませんが」


 それはキュールがどれほど嫌がろうがカイラが教育するという宣言だろうか。

 キュールはもがくが、カイラは離さない。


 導く『召喚』の力。

 しかしそれは、進むべき道を強く指し示すものではない。


 相手の意見を曲げることをするのではなく、相手と意見をぶつけることをするだけだ。

 何も変わらないこともある。だがそれは、少なくとも、視野を広げる機会を生む。


 だからなのだろうか。あの太古の超人が、その傍に存在を許したのは。


「……立派なお考えをお持ちですね、カイラ様。私の占い、あまり参考にならなかったようで、すみません」

「い、いえ、そんなことは。貴女のご意見、非常に参考になりました。ああ、それに気が楽になったような気がします。やはりこうしたことを話す機会というのはないですからね」


 カイラは晴れ晴れとした顔色を浮かべ、立ち上がった。

 随分と楽しかったようだ。

 立ち上がってマルドを見ると、少し照れたように視線を外す。

 ようやく存在に気づかれたような気がして、こちらの方が申し訳ない気持ちになる。


「では、休憩もそろそろ終わりですかね」

「……あ、そうでした、わたくしもすっかり長居してしまって」

「カイラは何しに来たの?」

「もう、キュールが心配で、です。遊撃の方が転んだとかで怪我をして中央に来て。それでいてもたってもいられずに」


 キュールを抱きかかえたカイラが力を強めたようだ。

 不機嫌そうに身体を暴れさせるキュールに、カイラはにっこりと笑っている。

 しかし見回った限り平坦な道ばかりなのに、治療が必要なほどの転び方をする奴がいるとは。


「カイラ、そいつどうして転んだんだ? 何か言っていたか?」

「え? いえ、特には。なんでも誰かの叫び声が聞こえた気がしたとかで慌てて走ったそうです。でも、結局誰も襲撃になんて遭ってなかったらしく、気のせいだったかも、と」

「……」


 本当だろうか。

 他の旅の魔術師たちにとってはあまりに暇な時間が生んだ幻聴とも考えられる。

 だがマルドは同時に矛盾を感じていた。

 何故その人物は被害者がいないと分かったのだろうか。この樹海には、地方を守る者たちの他に、遊撃担当の者たちもいるのに。

 ヨーテンガースの依頼を受けるような旅の魔術師が、それほど視野が狭いだろうか。まるで騒ぎが起きるのを避けているような印象を受ける。


「カイラ。俺もその人に会いたいんだけど、」

「では、私たちはこの辺りで」

「え、ああ、そうだな」


 マルドは歯噛みした。

 彼女たちもここを離れるとなると、キュールをひとりにするわけにもいかず、自分はここに残らなければならない。

 今になって消えたスライクが恨めしい。


「さあ、リリル様、行きましょうか」

「……待ってください」


 リリルは神妙な顔つきで、ヴェルバを見据えていた。

 占いの中、自分と同じようにじっと様子を伺っていた彼女は、僅かに震えながらヴェルバと対峙する。


「どうかしました?」

「ヴェルバさん。失礼ですが、お顔を見せていただいてもいいですか?」

「? あら、どうかされました? 実は酷い火傷を負っていて、人様にお見せできるものではないんです」

「……そう、ですか。すみませんでした」


 そう言われると追及し辛い。

 リリルは頭を下げたが、その顔はやはり怪訝なものだった。


「では、行きましょう」

「待った。リリルさん、どうかしたのか?」


 妙な危機感だけがマルドを動かした。

 話が流れるのを避けるため、リリルを追求する。

 顔の傷と言われ、言葉に詰まっていたリリルは渋々話し始めた。


「……勘違いだったらすみません。だけど今の占いを聞いていて、幼い頃のことをやっと思い出したんです」


 幼い頃の記憶力は優れている。

 勘違いかもと言いつつ、リリルはその記憶を元に、確信した様子だった。


「私はあなたに会っている。あなたはあのときも、私の町で占いをしていた。……今と、同じ姿で」


 リリル=サース=ロングトンの故郷は、とある魔族に滅ぼされたという。


「……あら」


 気配だけで、ヴェルバがにやりと笑ったのが分かった。


「ごめんなさいね、私の方は覚えてないの。滅ぼしたものが多すぎて」


 バジッ!! と眼前で光が炸裂した。

 ヴェルバが放った何かが、マルドが展開した防御魔術と衝突する。


「うそ。防げるんだ」

「『杖』に初撃が通じるとでも?」


 ブッ、とヴェルバが背後に身を引く。

 リリルと話しながら自分を狙ってくるとは。

 近接戦が得意そうなリリルを避けて確実にこちらの戦力を削ろうとするのは、“想定していた中でも“比較的発生する確率は高かったが、流石に動揺する。


 距離をとったヴェルバはフードに手をかけ、ゆっくりとめくる。

 覗かせたのは、金の長い髪に、銀の眼。眉は長く整い、唇は柔らかく冷たく輝いて見えた。幻想的なほど端麗な容姿は、見る者の心を奪い、それなのに、見る者を心の底から震え上がらせる。


 こいつは。

 マルドは眉を寄せるが、リリルが一歩踏み出した。

 そして震える唇が、忌々しさを隠しもせずに言い切る。


「やはりあのときの占い師もあなたでしたか―――サーシャ=クロライン……!!」


 リリルが口にしたその名は、マルドももちろん知っていた。

 サーシャ=クロライン。魔王直属の“魔族”だ。


「よく覚えていたわね、リリル=サース=ロングトン」


 まるで迷惑を被ったとばかりに肩を落とすサーシャに、リリルから殺気が漏れた。

 マルドはリリルのことも一応調べているが、やはり、彼女の街を滅ぼしたのは目の前のサーシャであるのは間違いないらしい。


 だがこの状況。

 想定していた中でも、“最悪だった”。


 マルドはカイラに視線を投げる。

 カイラは動揺しつつも信号弾に手を伸ばしていた。


「ちょっとちょっと、待ちなさいよ。カイラ=キッド=ウルグス。ここにみんな呼ぶ気? 魔族が出たぞーって」

「ええ、そのつもりですが?」

「少しだけ私の話を聞いてもらえるかしら? 悩み事を聞いた仲じゃない」


 ギリ、とカイラの奥歯が鳴った。

 つい先ほどまで話していた相手が魔族となると、カイラも怒りが登ってきたようだ。


「待てカイラ。待ってくれ」

「マルド!?」


 マルドは怒りを覚えていない。それは思考を妨げる。

 カイラはより憤慨したようだが、今、信号弾は上げるべきではないのだ。


「あら。マルド=サダル=ソーグ。状況が分かっているみたいね。今上げるとどうなるのか」

「……」


 マルドは言葉を返さずじっと対峙する。

 そして今にも飛びかかりそうなリリルも手で制した。

 歩いて数歩のところに、街を瞬時に滅ぼすとされる魔族が立っている。だが、その恐怖に飲まれることは許されない。


 この事態も想定していた。

 この依頼で警戒すべきなのは『光の創め』。だがそれは、あくまで“自分たちの問題”として発生する可能性が高い事象だ。

 ヒダマリ=アキラたちも、数奇な運命を持っている。

 となれば、“正規ルート”の方でもなんらかの問題は起こるかもしれないと考えていた。

 あえて同じ依頼を受け、戦力の集中を図ったときからこの事態も考慮済み。


 だから判断できる。

 “本格的に戦闘が始まらなければ、信号弾は上げてはならない”。


「マルドさん。どいてください」

「駄目だ。それよりもサーシャ、だっけ。聞きたいことがある。『光の創め』を知っているか?」


 無駄口は叩かない。

 今、サーシャが放った自分への攻撃は、挨拶のようなものだろう。そうでなければあんな盾、魔族の魔力で吹き飛ばされているはずだ。

 サーシャが話をしたいというならこちらとしても好都合。相手が魔族でも、今は情報収集すべきだ。


「あら。私の目的とかより、まずはそれ?」

「分かっているだろう。あんたらにとってもこれがどういう事態なのか」

「……ふふ。そうね、その勇気に免じて教えてあげるわ。魔王様にとっても『光の創め』は障害でしかないわよ」


 マルドはサーシャの様子を伺う。

 サーシャは唇を釣り上げた。

 フードを脱ぎ捨て、表情が見えるようになったのに、何故かより一層何を考えているのか分からなくなった。

 嘘をついているかもしれない。表情からは分からない。だが、自分の推測が当たっている可能性は少しだけ高まった。


「マルド、どういうことですか? 信号弾は、」

「上げるな。上げたら本当に“始まる”ぞ。このサーシャって奴が現れた時点で、硬直状態なんだよ」


 『光の創め』はまだ姿を現していないが、奴らに関しては現れる前提で考えていた方がいい。

 マルドが調べた『光の創め』。

 奴らの行動や目的は分からなかったが、少なくとも、魔王一派ではないのだ。

 そして、魔族というものは、基本的に他者を排除して生き続けているものだという。


 そうなってくるとひとつ考えられることがある。

 魔王一派にとっても、『光の創め』は面倒な存在のはずだ。

 何しろ同じ魔族とはいえ、人間と違って同族に対する交流の仕方がまるで違う。

 目的が異なれば、排除する敵でしかないのだ。


「もしここで信号弾を上げたら、サーシャだって交戦せざるを得ない。そんなことになったら大人数がここに集まって戦うことになる。そんなとき、手薄になったところを『光の創め』が襲撃してみろ。それに、サーシャにとっても美味くないはずだ。俺らと戦って消耗したら、『光の創め』に襲われる可能性があるんだぞ」


 この状況は、最初に争いを始めたふたつが大きく不利だ。

 漁夫の利を狙われることになる。


 サーシャが襲いかかってきたら最早歯止めは聞かないが、少なくともそこに立っているだけなら本当に最悪の事態は避けられる。

 キュールはすでに先頭に立ち、いつでも『盾』を展開する準備をしていた。

 もし襲ってくるなら、こちらもすぐに戦闘に移れるという意思表示は必要だ。


「マルド=サダル=ソーグの言う通りよ。私も困っていてね。どうしようかしら?」


 マルドは思考を止めなかった。

 不自然なことがある。


 硬直状態というのはどうやら間違いないらしいが、それならば何故、サーシャは姿を現したのか。

 わざわざ人に化けてまで現れたのは何のためだったのか。

 リリルの追及など、根拠は所詮、今思い出したような記憶頼りだ。いくらでも言い逃れはできたはず。


 そして、マルドの耳はひたすらに樹海の気配を探る。何も感じなかった。

 おかしい。

 小規模ながらも今の戦闘音を、“あの男”が聞き逃すはずがない。

 あの男が向かった先でも何かあったのだろうか。


「…………お前以外にも、いるな?」

「あら」


 サーシャは驚いたような表情を浮かべた。

 わざとらしい。

 見抜かれたと言わんばかりの表情だが、実際に見抜いたことに何の意味もないことをマルドは理解していた。


「やっと分かった。カイラがここに来るように仕向けたのもお前の仕業か? こいつの目的は、俺らの足止めだ」

「足止めですか?」

「今の状況。手も出せない、離れられない、信号弾も上げられない。サーシャだって同じだ。だけどだからこそ、サーシャは現れた。俺らはここに釘付けだ」


 サーシャはやはり、わざとらしく小さく手を叩いていた。

 正解らしいが、やはり正解しても意味がない。

 サーシャが足止めということは、魔王一派は“サーシャだけではない”ということだ。

 音沙汰のないスライクが出くわしているのは、他の魔王一派かそれとも『光の創め』か。


「現れた目的くらいは聞きたいな。どうせお互い暇だろう?」

「ふふふ。私の目的は目的ってほどのものでもないわよ、様子を見に来たようなもの。魔王様を狙う勇者とやらが、どんな人間なのかをね」

「……まさか、今、スライク様は」

「襲撃されているだろうね。戦闘音は聞こえないから、もしかしたら向こうも睨み合う羽目になっているのかもしれないけど」


 ある意味依頼としては大成功だ。

 魔族の出現とあっては、そこらの魔物は近づこうともしないであろう。

 あとは目の前のサーシャや共に来たらしい魔族が下手な気を起こさずに去ってくれれば万事解決だ。


 マルドは小さく笑う。サーシャに気づかれたが、気づかれても問題はない。


 作戦通りだった。

 ヒダマリ=アキラにあえて同じ依頼を受けるように仕向けたのは、この構図を期待してのものだ。

 いずれにせよ魔族には遭遇する。

 だが、戦闘が避けられないというわけではない。この状況が作り出せれば、互いに動きが取れないはずなのだ。

 想定していた中では最高ではあるのだが、魔族といつ終わるとも知れない睨み合いを続けなければならないというのは、“最悪だった”。


「マルド=サダル=ソーグ。あなたは少し足りないみたいね」

「……そうかな」


 サーシャが不意に微笑んだ。

 この魔族、心が読めるのかもしれない。


「だって論理的すぎるもの。月輪属性なのに。知っているでしょう、それじゃあ届かない領域があるのを」

「……」


 下手に耳を傾けるな。

 何を企んでいるか分からない。

 だが、その意味は理解できた。


 そう。

 もしこの状況でも、漁夫の利を狙われない方法があるのだとしたら、戦闘が発生する。

 静かな樹海の中、そんな方法があるとは思えないが、しかし同時に、存在する可能性があった。

 論理では届かない、その領域に。


「退屈凌ぎに賭けをしましょう。私と共に来たとある魔族は、自分の目的を果たせるか。私は命をかけてもいいわ、“あのお方”は、必ず達成するってね」


 いつしか登った不気味なほど巨大な満月が、サーシャの瞳を怪しく照らしていた。


―――***―――


 ヒダマリ=アキラは、自分が彼を訝しんでいることを、彼が気づいていることに、気づいていた。


「勇者という立場の者と言葉を交わす機会なんてそうないものでね」


 日も落ちた樹海の中。

 儚げな光源に柔らかく微笑んだ表情を写した男は言う。


 ラースと名乗ったこの男の正体は、魔王。


 最終局面に辿り着いた自分が持つ、確かな情報だ。

 今目に見える姿や口調、その様子から、まるでそうとは思えないが、揺るぎない事実である。


 もし仮に、自分がそれを知らなかったとしたら、自分はこの男にどう接するだろう。そう考えようとして、止めた。

 そういう演技は自分にはできないことを知っているし、無理にしようとすればより不審な目を向けることになってしまう。


 だからアキラは、下手な芝居をせず、ただ真っ直ぐにこの男を両の眼で捉えていた。


 ここは西の警護地点を北に少し過ぎた辺り。

 南部から折り返してきたアキラは、途中自分の仲間たちが固める西部の地点を通ってきた。

 共に遊撃を担当するサクに無理を言って西部に残ってもらい、たったひとりでこの男と共に歩いている。

 事前に事情を話していたイオリのラースへの対応は実に自然なもので舌を巻いたが、サクを残してひとりで行こうとする自分に、裏でこっそりと、震える眼で何かを訴えてきたように思う。

 多分あれは、相当怒っていた。


 だがそれでもいい。

 自分はこの男に、自分の仲間を近づけたくはなかった。


「時にアキラ君。君は異世界来訪者だそうだね」


 急遽仲間を置き去りにし、自分から片時も目を離さないアキラに対し、ラースは何ひとつ聞きたださず会話を続ける。

 アキラを訝しがらないわけがなかった。それほど今の自分の態度は異常であると自覚している。

 だがラースは、出来るであろうにそれらしくアキラに不審な目を向けることはなく、気にする素振りさえまったく見せない。

 朗らかな口調や表情は、徐々に堂々とした様子となり、確かな足取りで樹海を、自分の道を進んでいた。

 まるでアキラが何をしたところで、大局には影響がないとでも言うかのように。


「過去。異世界来訪者で魔王を討った勇者は多い。それだけに、世界中の希望が君の双肩にかかっているというわけだ。頑張ってもらいたい」

「とっくの昔に自覚している」


 形式だけの激励。わざとらしい。お前が魔王だろう。

 思い浮かんだことはいくらでもある。だが、そこまでは言えない。それは言い過ぎだ。

 態度ならまだしも、言葉にしてしまえばこの存在と戦闘をせざるを得なくなる。


 それは向こうも同じだろう。

 互いが互いの正体を知っている上、それを双方気づいているのに、ただ今は、たまたま依頼で出会った旅の魔術師同士を演じている。


 薄氷を踏むような感覚を味わい、しかしアキラは大地を強く踏みしめた。


「そんな異世界来訪者である君は、もしかしたら、歴代の勇者と魔王の戦いを知らないのではないかな?」

「……ああ」


 極度の緊張感が身体を縛り付けているアキラに対し、ラースは変わらず柔和な表情で言葉を続ける。

 話題を提供してくれるのであればありがたい。


「では、そうだな。この繰り返される勇者と魔王の戦い。それについては諸説あることを教えておこう」

「……それは……、“魔族説”とか“中立説”とかってやつか?」

「ほう。それは知っているんだね」

「聞いたことがあるだけだ。詳しくは知らない」


 ラースは僅かに思考を巡らすような表情を浮かべた。どこからどう見ても人間にしか見えない。


「ならば簡単に話しておこう。まずは“神族説”。これは最も広まっているね。魔王をはじめとする魔族は神族や人間にとって害にしかならない。故に、魔王が現れた場合、即刻排除しなければならないという倫理感に基づいた説だ」


 ラースは教鞭をとるように指を立てた。

 倫理、とは。この世界に広まる、あるいは世界中を縛り付ける神族の“しきたり”に準じるものだろう。

 この世界の住人にとっての“当たり前”。

 異世界来訪者のアキラにとってすら、物語の在るべき姿として認識できる。

 だが、それについてアキラは気になっていることがあった。

 目の前には答えがある。どうせならば聞いておこう。


「なあ。俺は魔王一派とは関係のない魔族に何度か遭遇している。そして、魔王も魔族なんだろ。だったら、魔族と魔王の違いはなんなんだ。魔王はこの世界で何をしている?」


 踏み込み過ぎたかもしれない。

 ラースは僅かに目を見開き、しかしそれでも出来の悪い生徒を見るような眼差しを向けてきた。


「……そうだね。歴代魔王も、なんらかの目的を持ってこの世界に訪れているらしいけど、基本的には己の“欲”を満たすため。そこにその辺りの魔族との差なんてない。君が感じる疑問もそこからきているのだろう。だが、決定的な違いはある」

「違い?」

「ああ。具体的には魔物。その辺りにいる魔物は、野良の魔物と言い換えようか、奴らは基本的に自分の生活を守るために活動するんだ。極論、自分たちの住処や餌場に敵が近づかない限り攻撃の意思はない。自然動物のようなものだ」


 ふと、アイルークで出逢ったマーチュという魔物を思い出した。

 愛くるしい見た目で、害らしい害はない。

 巣穴ができてしまってリビリスアークの村長に討伐依頼を受けたのだが、過剰繁殖されると駆除しなければならないのは、魔物だろうが自然動物だろうが同じことだ。


「だが、魔王が現れると、魔物は僅かに人間を能動的に襲う習性になる。攻撃性が増すと行ったほうがいいだろう。戦闘不能の爆発と言われる現象も、魔王がいるときといないときでは随分と被害に差があるみたいだ」

「それは、」


 大した影響ではない、と言おうとして、アキラは自粛した。

 この世界には何千何万では収まらないほどの魔物が存在している。

 その存在たちの凶暴性が一律僅かにでも増せば、人間の生活にもたらされる被害など想像もできない。

 アイルークのヘヴンズゲートで見た、大切なものを失った人々は、そうした被害を受けた者たちなのだろう。


「……それは、魔王が何かの影響を与えているってことか」

「正しくもあり誤りでもある」


 ラースは毅然として言った。


「魔王はただ、“そこに在るだけ”、だ。魔王は無関係ではないが、魔王が特別何かをしているわけではない。そうした“役割”を持った魔族。それを魔王と呼ぶんだよ」


 ラースの瞳が怪しく光った。

 “役割”。その言葉を聞いてアキラは目を細める。

 存在するだけで魔物の凶暴性が増す魔王。何が基準で魔王と呼ばれるのかは分からないが、それは“特性”と言った方が適切なような気もした。


「初代の魔王は今の話を如実に表していたようだ。特にその役割が強く、世界中の魔物が一斉に凶暴化した。当時はまだ人間たちの魔術の練度も低くてね。至る所で悲劇が起こったそうだよ。そんな中、才気あふれる者たちが魔王を討ち、世界は一時の平和を取り戻した」


 初代勇者。始まりの勇者。

 自分はその存在と同じ系統らしい。

 弱き人々を救い、悪をくじく勇気。

 物語のあるべき姿を守った存在。


「次は、“魔族説”だ。支持する者は少ないね、何しろ魔族の理屈だ。初代の魔王から幾数年。再び現れた魔王。彼は、強く主張していたらしい。人間界は神界と魔界の中間にある。ならば魔族側に同等期間、人間界を魔族に明け渡すべきであると。人間界はおろか神門にすら猛攻を仕掛け、人間界を掌握しようとした。だが、」

「……倒されたんだな。二代目勇者に」

「そうだ。ラグリオ=フォルス=ゴードという規格外の怪物に。想像を絶する魔族魔物の大軍に、かえって世界中が彼の狩場と化したという。好戦的な魔王であったがゆえに、前線でラグリオ=フォルス=ゴードと衝突したらしい」


 圧倒的な速度で魔王を討ったという二代目勇者。

 その存在は戦場の生き物だったという。


「そして最後に“中立説”。本来魔族は神族との争いを前提に行動していたが、三代目の魔王は違った。初代、そして二代目の敗北を受け、人間こそが魔族の敵であると認識した。神族にある種洗脳され、倫理観を植え付けられた人間こそ、人間界を掌握するための最大の障害なのだと。仮に人間界をフラットな状態で考えれば、善悪の考え方など神族が吹き込んだに過ぎない。故に、三代目の魔王は人間界を徹底的に洗おうと考えた。私が知る限り、三代目魔王は史上最も狡猾で、最も残忍な粛清の権化だ」


 今の人間界はおかしい。

 そう考えた三代目魔王は、この世界を一度滅ぼしかけたという。

 三代目勇者レミリア=ニギルが魔王を討つまで、この世界は粛清にさらされていたのだろう。


「その後も魔王が現れた。特異な魔王も多少はいたが、基本的にはそのいずれかの説を採っているように思える。神族を滅ぼそうとするか、人間界を奪おうとするか、人間界を修正しようとするか。だが結局、いずれも勇者に倒されている」

「…………あんたは、どの説を採っているんだ?」


 言い過ぎたと思いながらも、アキラは撤回しなかった。

 ラースは足を止め、ゆっくりと振り返る。

 その目には、なんの動揺も浮かんでいなかった。


「君は今の話を聞いてどう思った。質問を質問で返すが、君はどう思う? 魔族を滅ぼすべきか、人間界を明け渡すべきか、それとも今の人間界はおかしいと思うか」

「……説なんてどれでもいい。だけど、人間に被害があるってんなら滅ぼしてやる」

「神族説、とまでいかないが、その方向か。言葉が過ぎたら悪いが、下の下だよ。受動的すぎる」


 ラースはゆったりと首を上げた。


「思考が中途半端に原始的だ。自分、あるいは自分の仲間に害があるなら行動する。崇高に見えて、そこには自分の欲望がない。まだ神族に洗脳されている人間の方が好感が持てる。アキラ君。意思を持て。自分がすべきこと、やりたいことを見定めろ。自分自身を定義するんだ。それができないのは、間違えることを恐れているからだ。どれでもいいと言ってしまうのは、恐怖の現れだ。どの説も違うのであれば、断じろ。自分にとって不要であると」


 じっとりと額に汗が浮かんできた。

 そしてようやく気づいたことがある。

 この道は、遊撃担当の経路から随分と外れているようだった。もうとっくに北部についていてもおかしくないのに。


「質問に答えよう。私にとってはどの説も不要だ。つまらないと思わないか、例えどの説であったとしても、結局は魔王が勇者に倒されることの繰り返し。魔王というキングが現れたら開始されるチェスゲームでしかない。それが今に至るまで、途方も無い期間にまたがり、99度も繰り返されているのだから」


 アキラは拳を震わせた。

 ラースの姿が、過去と重なり、今、目の前に確かなものとして存在している。


「さて。君が仲間を置いてきたのは私にとっても行幸だった。話したかったし、見定めることもできてきた。ヒダマリ=アキラという勇者を」


 アキラは、剣に手を伸ばした。

 それを見ても、ラースという存在は笑う、嗤う。

 そしてその存在を中心に周囲の木々がざわめき立ち、ピリピリとした鋭い気配がアキラの身体中を突き刺した。


「次に、計らせてもらおうか。君の本当の意思を。どういう手段かは知らないが、君は私に最初に会ったときから気づいていたね。立場上、視線というものに敏感なのだよ。統べる者は、こうあるべきなのだろうから」


 いつしか浮かんでいた月を眺め、ラースは、ゆったりと笑った。


「私はジゴエイル=ラーシック=ウォル=リンダース。魔王と、呼ばれている」

「っ―――、―――!?」


 背後からの暴風に反応できたのはジゴエイルだけだった。

 人間の姿のまま軽やかに背後に飛び、その一閃の軌道をかわす。


「……スライク=キース=ガイロード。多少は順番を守ってくれると思ったのだが、噂に違わぬ狂犬ぶりだな」

「はっ、かわせたってことは案外ホラじゃねぇみたいだなぁ、おい。少なくとも魔族か」

「お前、なんでここに」


 スライクは応じず、振り返りもせず、ただ真っ直ぐに獲物を捉える眼をジゴエイルに向けていた。

 アキラも口を噤み、剣を抜く。

 相手が本当の名を名乗った以上、最早交戦は必至であった。


「まあいい。そもそもそのために足を運んだのだからな。ふたり同時となるとより都合がいいか。始めよう」


 ジゴエイルは片手を掲げ、戦場と化したこの空間ですら、柔和に笑った。


「“招待しよう”。ただここで始めてしまっては、余計な客を招きかねんからな」


 僅か離れて立つジゴエイルは、何かを狙っている。

 頭ではそう判断できた。だが、ジゴエイルが掲げた手に、アキラは何も感じなかった。


 アキラも、スライクも、相手の初動に即座に反応できる体制を整えている。

 だが、ジゴエイルからは、この旅で幾度となく感じた魔力の気配すら感じない。


 星灯りに照らされる樹海の中、勇者と魔王が対峙する。

 戦場の緊張感にこの身が曝される。だが魔力を感じないがゆえに、目の前のただ手を上げているだけの存在に、危機感を覚えられなかった。

 一体奴は、何をしているのか。


 ジゴエイルは、静かな眼のまま、呟く。


「部分召喚―――“ルシル”」


 その瞬間、アキラの景色は、一瞬で暗転した。


―――***―――


「……イオリさん、大丈夫ですか?」

「…………」


 聞こえてはいたが、反応することが億劫だった。

 今は身体中の感覚をアキラが向かった北部の樹海に向け、残るリソースはすべて思考に費やしている。


 西部の警護地点。

 ホンジョウ=イオリは極度の興奮状態にあった。


 アキラが、アキラ曰く魔王であるらしいラースという男を連れてきたときすら心臓が破裂しそうだったのに、あの男はサクを残してふたりだけで樹海の闇に入っていたのだ。


 『光の創め』が現れる可能性がある以上、余計な刺激はしないでおこうと話し合ったのに、あの男は当たり前のように魔王と行動を共にしている。


 自分から会いに行ったわけでは無いだろう。

 出会ってしまったから自分が目を光らせているに過ぎないのだろう。

 だが、彼はそういう演技ができないし、そのことも彼自身自覚している。

 それなのに、その上で、彼は自分たちを魔王から遠ざけたのだ。


 無視しようという彼の言葉を信じるべきではなかった。

 あの魔門破壊ですらそうだった。彼が困難にぶつかったとき、最初に考えるのは自分たちを危機から遠ざけることだ。

 彼自身、命を投げ捨てるようなことはもうしないだろうが、見えない危機に対しては直感的に自分だけが近づいていく節がある。


 そして今だに覚えている。あのラースという男の瞳。

 好感が持てそうで、しかし全てを見通しているようなあの色。すでにこちらの思惑が露見している可能性だってある。

 そんな存在とアキラが行動を共にすれば、何が起こるかなど分かり切っている。


「……やっぱり少し様子を見てくる。エリサス、サクラ、ここを頼めるかな」

「イオリさん、やっぱり変ですよ。具合悪いんですか?」

「……、いや、少し退屈でね。僕も遊撃に志願すべきだったかな」


 全く騙せていないことは明白だった。

 エリーはジト目になり、サクからすらも不審な目を向けられる。

 すべての記憶を保有している自分はこうした目に曝されることは慣れていたつもりだが、心が痛んだ。


「何かあるんですね。あたしも行きます」

「いや、私が行くからふたりはここを守っていてくれ。アキラの様子を見てくるだけなら、私がひとりで行く方が効率的だ」


 そして、この旅の道中、恐らくはアキラにも延々と同じ視線を向けてきたふたりは即座に立ち上がった。

 何かある前提で行動を開始しようとしている。

 アキラも頼もしい仲間に恵まれたものだ。だが流石に事情が事情だ。

 それに、本心としても自分が行きたい。

 今はまだなんの騒ぎも起きてはいない。だが、いつ何かが始まるかと思うと、ここに残っていては正気が保てないような気がした。


「!」


 そこで、念願の気配を検知した。

 イオリは即座に口に手を当て召喚獣を呼ぼうとする。

 しかし、その気配の主は、この場の緊張感を壊すかの如く、欠伸をしながらゆっくりと樹海の闇から姿を現した。


「あら。みんな無事みたいね。ってあれ、従者ちゃんじゃない。あんた確か遊撃とかじゃなかったっけ?」

「エレナさんか。今までどこに?」


 警護地点を放棄して散歩でもしていたのだろう。

 現れたエレナ=ファンツェルンに対し、そういうことを良しとしないサクが冷めた視線をぶつける。

 流石のエレナはサクの睨みなどものともせずに歩み寄ると、乱暴に腰を下ろして手で顔を仰いだ。


「何って見回りよ。……え、何この空気」


 まるで事情を把握していないにしても、イオリは少なからず怒りを覚えた。

 彼女の自由さは美徳だと自分に言い聞かせてみても、アキラが深刻な事態に巻き込まれている今彼女をフォローする気が起きなかった。

 樹海の中は随分と静かだ。散歩にはうってつけだっただろう。


「エレナ。悪いけど少しこの場にいてもらえるかな」

「え? いいけど、私はまだいけるわよ?」


 エレナは少しむっとした表情をした。

 こっちの感情だ。

 イオリは自分を落ち着かせると、エリーとサクに目配せする。

 ようやく戻ってきたエレナにこの場の護衛を押し付けるのは、満場一致で決定したかのように思えた。


「何よ。というかあんたら、3人もいるなら少しくらいこっち来てもらいたかったわ。それとも怪我でもしてたの?」

「エレナさん、悪いが今、散歩している場合じゃ無いんだ。引き受けた以上、最低限の仕事はしてもらいたい」

「あれ。もしかしてあんたら怒ってない? 何よ、せっかくゴミ掃除してきたってのに」

「……、待った」


 サクが口を開こうとしたところを、イオリは止めた。

 膨れているエレナの服が、僅かに汚れているような気がする。

 樹海を散歩してきたのだから当然かもしれないが、身だしなみに気を使う彼女にしては珍しい。


「エレナ。聞きたいんだけど、樹海で何かあったのかな? 随分遅かったけど」

「……あんたら、分からなかったの?」


 ここにきて、ようやくエレナの目つきが変わった。

 イオリの頭の中で警鐘が鳴る。

 普段の行いから分かり辛いが、エレナは意外と慎重だ。

 そんな彼女が、『光の創め』が現れるかもしれないこの依頼で、これほどの長時間単独行動をするだろうか。

 そしてこの樹海。

 アキラは何も起こっていないと言っていたが、仮にもヨーテンガースの樹海だ。遊撃担当の巡回経路にも、そしてそれ以外を歩き回っていたエレナの身にも何も起きていないというのは、あまりに出来すぎている。

 そう考えると、ようやく、当たり前だと思っていた目の前の光景が、歪んで見えてきた。


「私は相当数の魔物と遭遇したわ。全滅させてきたけど、増援が来ないからそっちも何か起こったんだと思っていたの。……あんたら、本当に気づかなかったの?」


 この樹海は―――静かすぎる。


「信号弾は?」

「上げてないわ、大したことじゃなかったし、あの程度で騒ぎ立てるのもどうかと思ってね。……失敗したみたい。この樹海、すでに何かいるわね」


 さりげなくエレナは胸元を探り、そして静かに手を戻した。

 真面目に考えているふりをして、そもそも信号弾は持ち忘れていたらしい。

 だが、疑心暗鬼にかられたイオリにはそれにすらなんらかの意図を感じた。もし、全体の警戒心を薄れさせ、信号弾すら持ち忘れるように仕向けられていたとしたら。


「……全員、僕の言葉をよく聞いてくれ。エレナはこの場に待機。いざとなったら中央へ向かって依頼主を守ってくれ。他は全員で樹海の見回りだ。僕はラッキーで空から見回る。そして、何か少しでも妙なことが起こったら、“絶対に信号弾を上げてくれ”―――“上げるべきではないと自分が思ったとしても”」

「それって……」


 エリーの瞳が見開かれる。

 そう。自分が下した判断すら疑わなければならない現象が、今この樹海で起こっている。

 気にし過ぎかもしれないが、何もなかったのならそれでいい。だが今は、“何かが起こるという前提”を持つべきだ。


 気づかないうちに、何かが、始まっている可能性が高い。

 そして、そうした事象には、ひとつの可能性がイオリの頭に浮かんでくる。


「敵がいるかどうかも、いたとして、どんな敵なのかも分からない。だけど―――“サーシャ=クロライン”。当の本人か、それに準じる力を持つ敵がいる可能性がある」


 イオリは口に手を当て、静かな樹海に口笛を響かせる。

 過去の記憶から、多少の油断があったのかもしれない。サーシャ=クロラインは人間を操る魔法を使う。

 その副産物としてなのかは分からないが、多少は人の思考を読むことができるのだ。

 そうなると、自分たちが“魔王”の存在に気づいていることに気づかれている可能性が高い。


「―――っ」


 今は速度だ。

 杞憂で終わればそれ以上のことはない。


「ラッキーッ!!」


 乱暴に現出させた召喚樹は、せっかく立てたテントを傾けた。

 イオリは気にせず飛び乗ると、振り返りもせず空を飛ぶ。


 目指すは北部だ。

 仮にサーシャがいるとしても、まずはより危険な存在と共にいるアキラの姿をこの目に収めなければ。


 そこで。


「は?」


 空から樹海を見下ろして、イオリは一瞬、我を忘れた。

 アキラが向かった、西部と北部を結ぶ、遊撃担当の巡回経路。そこから僅か外れた、ヨーテンガースを囲うベックベルン山脈。

 そこが。


「なんで……“山が消えているんだ”……」


―――***―――


「……」


 リリル=サース=ロングトンは、震える指先を抑えるのに精一杯だった。


 目の前にはサーシャ=クロラインいる。

 自分の故郷を滅ぼし、今もなお、多くの人々に被害をもたらしている魔王一派の魔族。


 共にいる長い杖を持った男、マルド=サダル=ソーグが言うには、騒ぎを起こして『光の創め』に隙を作らないように、手を出せない状況らしい。


 理解はできるが、リリルはまるで納得していなかった。


 具現化を発動させ、サーシャに詰め寄り、その首を跳ねる。

 自分なら、2秒もかからずにそれを実現できる。

 仮に『光の創め』が突如として現れたところで、それすら撃退すればいいのだ。


 だが、これは私怨なのかもしれない。

 自分の感情に任せて、多くの人を危険に曝していいものだろうか。


 リリルはあくまで冷静に、全ての事柄を天秤にかける。


「ところでリリル=サース=ロングトン。あなたは今にも襲いかかってきそうね」


 話しかけられるのは、とてつもなく不快だった。


「ええ。あなたが私たちの足止めに現れたということは、裏で何か企んでいるのでしょう。であれば、いつまでもあなたに付き合っているわけにはいきません」

「ちょっと。マルド=サダル=ソーグ。もう一度ちゃんと説明してくれない? 今がどういう状況なのか」

「…………」


 マルドはサーシャの言葉を無視したようだった。

 彼は今、思考を巡らしているのだろう。


 マルドの言うように、騒ぎを起こさないのが正解かもしれない。逆の見方をすれば自分たちもサーシャを足止めしている。

 僅か数人で魔族の動きを縛っている現状は、人間側にとっては望ましい。戦闘すら発生しないとなればこの上ないだろう。

 だが、リリルの言うように、サーシャがその対価を払ってまでもここにいるということは、その価値があることをしようとしているということになる。

 現状、魔族側の思惑通りに事が運んでいるということだ。


 だからこそ、彼は考えている。サーシャを出し抜く方法を。


 残念ながら、自分はそうではない。

 目の前に山があるなら、登山ルートや迂回する方法を考えるより早く足を動かすタイプだ。

 今だって、もし自分ひとりならサーシャが何を言ったところで襲いかかってしまっていただろう。

 自分は器用ではない。万能ではない。

 残念ながら、幼い頃からとっくに気づいていることだ。


 だが、だからこそ、リリルは精神を落ち着かせる。


 目の前に仇がいようが、高ぶる身体を抑えて、冷静に考えなければならない。

 魔族との戦闘が勃発すれば、この依頼に関わった全ての人間に被害が及ぶ。

 マルドやサーシャが言う通り、今、動きをとるべきではないと、自覚しなければならないのだ。


「ところでサーシャ=クロラインだっけ。あんたと一緒に来た魔族。そいつの狙いはなんだ?」


 マルドが慎重に声を出した。

 何かを思いついたのか、単に情報収集しようとしているのか。


「答えるとでも思っているの?」

「なあに。あんたも言ったろ、退屈凌ぎだ。互いに睨み合っていた方が都合がいいのは理解している。だけど、今ここには、まさしく今にも襲い掛かりそうなリリル=サース=ロングトンがいる。この状況はあんたの想定通りなんだろう。だったら、それを崩さないために俺たちを説得してみせてくれよ」

「……へえ」


 挑発ギリギリの笑みを浮かべたマルドに、サーシャは不敵に笑う。


「もし、あんたらがやっていることが、俺たちにとって不利益……『光の創め』に横から攻められる以上に不利益なことなら、俺も今すぐにでもこの場を離れるべきだと考えつつある。もしそうだとしても、人を騙すのが得意そうだ、俺たちがこの状況を保つべきだと信じられる理由を説明してみてくれよ」


 嘘でもいいから。見破ってみせるから。そう言外に語っていた。

 マルドの瞳は挑発と自信の色を写している。

 サーシャは、しばし考え、そしてやはり、不敵に笑った。


「薄いわね、マルド=サダル=ソーグ。あなた、魔族の嘘が見破れると思っているの?」

「ああ、やってみないことにはね」

「……だから浅はかよ。あなたには見破る自信なんてない。ただ、会話から打開策のヒントを得ようとしているだけって分かるもの。決めたわ、私は何も言わない。それはあなたに見破られることを避けるためじゃなく、ヒントを与えないためよ」

「なるほど、つまり俺たちがこの場を離れかねない目的があるってことかな?」

「……」


 サーシャは微笑んだまま無言を貫いた。

 マルドはわざとらしく肩を落とすが、単なる演技だけというわけでもないようだ。

 サーシャは人間を知り尽くしているように見える。マルドのような人間にも幾度も会ってきているのだろう。

 人間は理由をもとに行動を起こす生き物だ。

 理由がない以上この硬直状態、つまりはサーシャの望み通りの状態を続けざるを得ない。


「……?」


 そこで、リリルは異変を感じた。

 静かな樹海の中、月の光に照らされていたサーシャの身体に影が刺す。

 雲でも出ているのかと顔を上げると、リリルは目を見開いた。


「ちっ」

「あれ、え? イ、イオリさん……?」


 サーシャの表情が渋くなった。それと同時、リリルの目には星空を行く巨大な召喚獣の姿が入り込んでくる。

 遥か遠くの景色のようにも見え、樹海の空を巡回するように飛ぶラッキーを、リリルは他人事のように眺めていた。


「……何か変だと思っていたけど、そういうことか……!!」


 マルドが苦々しげに呟く。

 ようやくリリルにも分かった。

 イオリの召喚獣から、“何も感じない”。

 遥か遠い景色に見えるのは、魔力も、風も、音すらも届いてこないからだ。


 警護地点の外の出来事は、護衛地点からまるで感じ取れない。


「スライクが戻ってこないのは睨み合っているからじゃない―――“もうすでに何か始まっている”。サーシャ、狙いはスライクか!?」

「あら。バレちゃったみたいね。ヒダマリ=アキラの一派か。あちらにももう少し手心を加えるべきだったかしら」


 とぼけたことを言うサーシャは、思惑通りといった様子でにやりと嗤う。


「もう遅いわ、狙い通りに始まった。その通りよ、私たちの狙いは当然“勇者”。ここまで時間を稼がせて貰えば、最早邪魔は入らない」


 リリルは冷めた心で考える。

 自分がこの北部の護衛地点を訪れたのは随分と前だ。

 そうなれば当然、西部の遊撃担当が訪れていてもいいはずだ。

 だがそれがない。

 そして、その西部の遊撃を担当しているのは。


「―――っ、」


 空を飛ぶイオリの召喚獣が、止まった。

 そしてしばらくすると、一直線に西へ飛び、樹海の向こうへ消えていく。

 彼女は異常を検知したらしい。もし自分の直感が正しければ、その先には、彼がいる。


「流石にそうだよな。それどころか現れているのは、」

「そうよ、焦りなさい。もっと、もっと焦りなさい。わざと分かるように言ったんだから、正しく現状を理解しなさい」


 サーシャは樹海の闇に溶けるように徐々に下がっていく。気配を感じぬ樹海の中に、消え込んでいく。

 リリルの頭がかっと熱くなってきた。


「そして光栄に思いなさい―――“魔王様”が直々に手を下すなんて、人の身には過ぎたことよ」


 リリルは、身体中に魔力を漲らせた。

 姿が消えつつあるサーシャに、最早なんの興味も持っていない自分に気がつく。

 今自分の頭にあるのは、一刻も早く、ホンジョウ=イオリが飛んでいった方向に駆け出すことだけだった。


「待って、あれ!!」


 僅かに残った聴覚が、子供の叫び声を聞いた。

 見ればキュールが、慌てた様子で樹海の向こうを指している。

 目を凝らすと、そこには中央で待機しているはずのサルドゥの民のひとりが、なんの護衛も連れずに歩いているのが見えた。


「なんでこんなところに!?」


 叫び声を塗り潰すように、樹海のどこかから、嗤い響く。

 マルドが慌ててサルドゥの民へ向かって駆け出すと同時、サーシャの声色が怪しく囁いてきた。


「あなたたち、私を舐め過ぎたわね。足止め程度で満足するわけないじゃない。みんなとても仕事熱心よ。今、きちんと儀式を成功させるために―――“この樹海中を散り散りになって、みんなで見回っているんだから“」


 “支配欲”の魔族―――サーシャ=クロライン。

 あの魔族は、自分たちと対峙している間も、この樹海中に魔法をかけていたのだろう。

 人の思考を、本人が気づかぬうちに捻じ曲げ、操り、支配する。


 儀式をやり遂げるという思考を僅かに捻じ曲げられたサルドゥの民達は、今、儀式を成功するためにヨーテンガースの樹海を散り散りに見回っているというのか。

 危機感というものが欠落している。


 なんの魔術を使ったのか、この樹海は不自然なほど静かだ。どこで何が起きているのかまるで察知できない。

 もし、戦闘を生業としないサルドゥの民がヨーテンガースの魔物に遭遇すれば、助けすら呼べずに命を落としかねない。


「『光の創め』の横槍なんて、初めから気にしちゃいないわよ。私は、人を好きなように操って、そんな隙を与えることもなくあなたたちを全滅させられるんだから」


 リリルは歯を食いしばった。

 今すぐにでも魔王の元へ向かわなければならない。だが、一刻も早くサルドゥの民を救わなければならない。

 しかし手段は思いつかない。満足に探せもしないサルドゥの民をどうやって救うのか。


 樹海には、サーシャの高笑いが響き続ける。


「リリル様。行ってください」


 そこで、カイラ=キッド=ウルグスが、サーシャの聲を塗り潰すように強く言った。


「あのサーシャという魔族が何をしたかは分かりませんが、要は、樹海中の方々をお救いすればいいのでしょう」


 サーシャの笑い声が止まったような気がした。

 カイラはリリルに柔らかく微笑みかけてくる。

 だが、その瞳が少し冷えているのをリリルは感じた。


「サーシャ=クロライン。貴女、わたくしに一度その力を使いましたね? それが貴女の最大の落ち度です」


 闇に向かって、カイラは強く言い放つ。

 何も感じないはずの樹海から、サーシャの殺気にも似た気配を感じ取った。


「ですからリリル様。すぐに魔王の元へ向かってください。こんな前座は、相手にしなくて結構です」


 サーシャの気配を色濃く感じる。

 魔族の殺気だ。だがカイラは、物怖じすることなく、挑発するような強い言葉を言い放つ。

 リリルは感じた。サーシャはよりそうであるが、カイラもまた、怒りを覚えているのだと。


「お任せします。私は、魔王の元へ行きます」

「はい。お気をつけください」


 カイラという女性がどういう人物なのか、自分には分からない。

 樹海中に散り散りになったらしいサルドゥの民がどうなるのかも分からない。


 だがリリルは初めて、自分の意思で、窮地に陥った人々に背を向けた。


 魔法をかけて、疾風のように樹海を突き進む。

 分からない。熱くなった頭は、自分が何を考えているのかまるで分からない。


 自分のこの足が、魔王を目指しているのか、その場にいるであろう彼を目指しているのかすら、リリルには分からなかった。


―――***―――


 異世界来訪者であるヒダマリ=アキラは、自分が異世界に迷い込んだように思えた。


 音も光もない“ここ”は、自分以外、すべてが存在していないかのように思えた。

 熱くもなく、寒くもなく、風もなく、それどころか、空気すらあるのかどうか分からない。

 呼吸ができているかどうかも分からなかった。

 そうなると、もしかしたら、自分という存在すら、この場にはないかのような錯覚を起こした。


 焦燥に駆られたアキラは、慌てて手を掲げ、魔力の灯りをともす。

 ようやく光が生まれた世界で、アキラは、息の塊を吐き出した。


「おい勇者。あの野郎はどこだ?」

「ぃっ」


 突如として声をかけられ、アキラは心臓が止まりそうになった。

 意識を失った記憶はないが、この無の空間が突如として現れたせいで、共にいた男のことを忘れていたらしい。

 照らすと金色の眼が、いかにも不機嫌そうに光っていた。


「スライクか。お前、気づいてたんなら灯りくらい点けろよ」

「的になるような真似誰がするかよ。それよりなんだここ。あの野郎、何しやがった」


 暗闇の中唯一の光源であるアキラは今、この場にいる全ての存在から位置が認識されている。

 スライクが周囲を探るに留めていたのはそれを嫌ってのことだろう。

 自分に危険が迫っていることを自覚したアキラは、しかし、半ば投げやりな気持ちで手のひらを灯し続けた。


「……?」


 別の光源を見つけた。

 目の前のようにも、遥か遠方のようなものにも見える小さな灯火は、ゆらゆらと揺れ、徐々に近づいてくる。

 いや、違う。よくよく見れば光源は二対で、アキラたちに向かう通路を形作るように数が増えていく。

 光源が増えて、ようやく通路に備え付けられた燭台に順次灯りが灯されているのだと分かった。


 色は―――オレンジ。

 そして光はいつしかアキラたちの周囲を取り囲み、自分たちのいるここは、どうやら円形の広間のような空間らしい。

 足場も壁も石造りのようで、さながら太古の遺跡に迷い込んだようだった。


「ようこそ我が牙城へ」


 その光の道を歩いている影の正体は、考えずとも分かった。

 ゆったりと近づくその存在の聲と足音が反響する。

 その存在が辿り着くと同時、通路の光が消失し、薄ぼんやりと照らされているのはだだっ広い円形の広間だけとなった。


「おう、魔王。ここはどこだ? 俺たちゃ樹海にいたはずだが」


 声色で分かった。スライクが、いつも以上に苛立っている。

 ジゴエイルはスライクの睨みに僅かな含みをもたせた笑みを浮かべ、大袈裟に肩を落とす。

 その仕草、そして表情。やはりどう見ても人間しか見えない。

 名乗られ、アキラも確信しているというのに、目の前の存在が世界全てに被害をもたらす魔王と認識することが難しかった。


 だが一言、このジゴエイルという存在を表すのなら。


 不気味。


「突然の招待で失礼だったろうが、いいだろう? 友好的な関係では決してないのだから。だが質問には答えよう。ここは我が召喚獣の中だ。今この周囲には数多くの存在がいる。邪魔が入らぬように、招待させてもらった」


 ジゴエイルは天井を見上げた。


「“巨大生物移動要塞”―――ルシル。完全な隠密性を持つ我が召喚獣だ。この樹海は“狭すぎてね”。部分召喚でも山をひとつ潰してしまったらしい。だがそれでも―――誰もこの現出には気づかない」


 予想通りの答えだった。

 この空間に飲まれる直前、ジゴエイルはその名を呼んでいた。


 アキラは知っている。

 このルシルという存在が、どういう召喚獣なのかを。

 その全貌は見上げても見上げても頂上には届かない。内部に入れば、それは自然物としても建造物としても巨大なダンジョンが広がっている。

 だがそれなのに、眼前に現れるまでまるで察知できない。

 あれほどの巨体であれば、身体を支えられないであろう、身じろぎひとつで暴風が起こるであろう。だが、それすら察知できない。

 この世界ですら非論理。魔法であるからこそ実現できるこの召喚獣の隠密性があれば、今自分たちがルシルに飲まれたことに気づいた者はいないかもしれない。


 だがひとつ、アキラの心に引っかかる言葉があった。

 “部分召喚”。

 その言葉が意味することは。


「ところで、君は何か質問はないのかな、アキラ君。形はどうあれ久々の客人だ。ある程度はもてなしたくもなる」

「……」


 アキラはじっと考える。

 ジゴエイルが現れた理由。

 アキラが持つ情報と組み合わせれば、恐らくだが、ジゴエイルはおそらく、自分たちの力を測りにきたのだ。

 “いずれ自分を討たせるつもり”の勇者が、今現在どれ程の力を持っているのか。


 世界破壊。

 自らの召喚獣に蓄えさせた無尽蔵の魔力を暴走させ、世界を破壊し尽くすことが百代目魔王ジゴエイルの狙いだ。

 そのために必要なのは、使役者たる魔王と召喚獣のパスを瞬断―――つまりは魔王の命を一瞬で奪わせる必要があるらしい。

 故に見定めにきたのだ。自分たちが、確実に“トリガー”を押すに足る存在なのかどうかを。


 となると残る問題は、ジゴエイルは何故アキラが訝しんでいたことに気付いたかだが。

 大方、ジゴエイル自体に心を読む能力が備わっているか、サーシャでも依頼に紛れ込んでいるかだろう。

 仮にそうだとして、心がどこまで読まれているのかだが、ジゴエイルの表情からはまるで読み取れなかった。


「…………いや、特にないな」


 アキラはポツリと呟いた。

 自分の物語の根底が覆されかねない事態を前に、しかしアキラは、自分の精神状態に驚いていた。


「“念願の魔王”を前にして、もっと色々思うことがあるかと思っていたんだが、シンプルだったよ―――お前を倒せばゲームクリアだ」


 アキラは剣を抜き放った。

 隣のスライクが嗤う。


「そうだなぁ、おい。しかしうぜぇな、着いて早々こうなるとはよ。俺は魔王なんざどうでも良かったが」


 スライクもゆったりと剣を抜いた。

 彼が自虐のようにも見える笑みを浮かべると、何も感じないこの空間を、焼け付くような殺気が埋め尽くしていく。


「まあいい。ここが召喚獣の中ってんなら、お前を殺せば外に出られるってことだよなぁ、おい」

「好きに解釈すればいい」


 戦闘の火蓋は、大義も正義も悪もない男の突撃から始まった。


 一瞬前まで隣にいたスライクの姿をアキラは見失う。

 気づけばスライクはその大剣を振り上げて、ジゴエイルに襲いかかっていた。


「―――っ」


 ザンッ!! と、何も感じないこの空間で、落雷を思わせる斬撃音が響き渡る。

 アキラは目を見開いた。あまりにあっけなく、スライクの剣はジゴエイルを確かに捉え、魔王の肩から腰までを容易く切り裂く。

 下半身と切り離されたジゴエイルの表情は、驚愕しているようだった。


 しかし。


「……あん?」

「驚いたな。まさかすでに充分とは」


 ジゴエイルは絶命していなかった。

 必殺の一撃を受け、その身を切り裂かれても、変わらぬ落ち着きのある口調で嗤う。

 常識を覆される光景だった。

 切り離された上半身は、まるで宙に浮いているようにその場に留まっている。


「なるほどいかんな。こうなると、口元が釣り上がってしまう」

「ちっ」


 魔王の生存を見て、スライクは振り下ろした剣を振り上げた。

 今度は首元。今なお嗤う魔王の命を奪おうと、その凶刃を振り放つ。

 が。


「!」


 魔王の身体が消失した。身体中がオレンジ色の粒子になったように移ろい、周囲の光と同化する。

 理解が追いつかぬアキラの耳に、背後から魔王の聲が聞こえてきた。


「次は君だ、アキラ君。君は何を見せてくれる?」

「―――、」


 ほとんど反射だった。

 振り返ると同時にアキラは剣を抜き放つ。

 いつしか背後にいたジゴエイルは、スライクに切り裂かれたはずの身体も修復され、元の人間のような姿のままで立っていた。


「ちっ、キャラ・スカーレット!!」


 狙いは正確そのものだった。

 魔族に対し、小手先の攻撃は通用しない。

 迷わず首元を狙ったアキラの斬撃は、ジゴエイルの首を切り飛ばす。

 しかし案の定、またもジゴエイルは光の粒子となって消えていった。


「なんだ……これは」


 剣が奴を捉えた衝撃、肉を切り裂く感触、魔力を十全に放てた確かな応え。

 幻覚などでは断じてない。この手に残る感覚が、そう強く訴えている。

 間違いなく、奴の首を跳ねたのだ。


 だが響く。この何も感じない空間で、魔王の笑い声だけが不気味に響き続けていた。


 以前このヨーテンガースで、同じような体験をアキラはしていた。不死の魔族との戦闘は、自分が見たものですら信じられない地獄のようなものだった。


 まさか、今目の前にいる魔王も、“奴”と同じく―――


「―――スライク!! こいつは何なんだ!?」

「知るか!!」


 冷たい怒鳴り声が返ってきて、アキラは自分の意識がぐっと戦闘に飲み込まれたのを感じた。

 “何故か”散漫していた意識が、目の前の現実に集中する。

 これはジゴエイルの仕草や表情が人間にしか見えないがゆえの油断だったのだろうか。


 敵は魔族の王―――魔王。

 その力は、今まで出遭ってきた魔族を凌駕していてしかるべきだ。

 

「はっ」


 今度はふたりの中間程度に現れた魔王に向かって、スライクは突撃していく。


 アキラは駆け出さず、顔を振ってスライクと魔王の激突を注視した。

 今度は剣を突き刺したスライクは、しかし次の瞬間、ひとりで床に剣を突き刺していた。


「……」


 今のも、攻撃は確かに命中していた。

 直前で回避したわけではない。

 魔族と言えども生命はある。ならばあの一撃は、確実に魔王の命を奪ったはずだ。

 だがそれでも嗤い聲は響き続ける。


「……随分冷静じゃないか、アキラ君。戦闘ではそういうタイプなのかな」


 背後からの聲に、アキラは剣で返答した。

 現れた魔王は背後に飛んで剣を回避する。


「……ふー」


 魔王に何を言われても、アキラは思考を止めなかった。


 目の前にある事実。手にした情報。

 それらを勘案しつつ、勇者としてのあるべき姿で魔王に対峙する。


「……ふ。まあいい。君が何を思っていても、大局に影響はなさそうだ」


 魔王は小さく呟いた。

 心の底が覗かれているような気分になる。

 スライクの攻撃を受けて充分と言ったり、アキラの背後に棒立ちになっていたりと、魔王のすべての挙動がアキラを試しているように感じた。


「……だが、やはり、いかんな」


 アキラと話していても無駄だと思ったのか、ジゴエイルは貌を上げ、ゆったりと構えるスライクをその眼光で捉えた。


「私の目的からすれば、最早充分。実は、君たちの様子を見にきただけなのだよ。我が命を狙う者たちが、今どの程度なのかと。それを知れた今、これ以上ここに留まる必要はない」


 単なる答え合わせだった。


 僅かに流れた視線がアキラを舐め、やはり、試しているような錯覚に陥る。

 しかしその釣り上がりつつある口元を見て、アキラの直感がそれを否定した。


 覚えている。

 アイルークで経験したあの死闘が、目の前の魔族の挙動と重なり始める。


「しかしだ。まったく。やれ魔王だ、やれ“英知の化身”だなんだの言われても、結局私は魔族でしかない。自らの欲望には逆らえない」


 ジゴエイルは。

 口元を釣り上げ、目を爛々と輝かせ始めた。貌中に血管が浮かび上がり、ただの人間からおどろおどろしい化け物へと表情を変えていく。

 初めて魔族としての貌を見せ始めたジゴエイルは、しかし、今まで以上に、欲望に忠実な人間の顔付きだった。


「正直に言おう。私は、魔王の器ではない」


 ジゴエイルは強く断じた。


「それどころか魔族の器ですらないであろう。他者を、理を捻じ曲げてでも“我”を通す。魔族の考えの根底にはそれがある。だが、私は思ってしまうのだよ―――全くもって煩わしいと」


 ジゴエイルの視線がスライクを捉えた。

 お前なら分かるかもしれない。その瞳はそう語っていた。


「昔の話だ。自らの望みのために争う魔族すら、私は煩わしく思っていた。そんな下らないことをしているくらいなら、私は静かに、本でも読みながらチェスの棋譜でも並べていた方がマシだった。だが、少々知識をつけすぎたのかな。ついに書物やチェスですら煩わしくなってきた。新たな魔術の理論すら、私の中ではすでに完成していた。未知の物語ですら、その序章を見るだけで展開が手に取るように分かってしまう。チェスの対戦相手は決まった通りに駒を動かし、この世界のすべてが私の想像の後を追う。付き纏われているような足音が常に頭に鳴り響いていた」


 何も感じない空間で、燭台のオレンジが風に揺れたようになびいた。


「腹いせに、書物を、チェスボードを、対戦相手をバラバラにしてみたよ。そこでようやく気づいた。あれだけ煩わしかった騒音がピタリと止んだ。存在しなくなったものからは付き纏われることもないのだと、ようやく気づけた。我ながら愚かなものだ、それが自分の本当の欲望だと初めて気づいたのだ。総ての煩わしさを消滅させることが、私にとっての最大の望みであるのだと」


 ジゴエイルの周囲に、オレンジの気流のようなものが生まれた。

 しかし何も感じない。

 アキラはそこでようやく、このルシルの特徴に気づいた。

 ここではアキラが今まで頼りにしていた、魔力の気配というものが存在しない。

 故に、今、目の前で、魔族が力を解放していたとしても、何も感じないのだ。


 戦闘の気配というものを頼りにしすぎていた。

 目の前にいるのは魔族である。頭では分かっていたはずのその事実に、身体が反応しきれていない。


「アキラ君。君が何を思っていようが関係ない。君が何を考えたところで、想定外であろうが想像外にはなり得ない。私が思い描くすべての可能性の中、“最も確率が低いであろう事態”であったとしても―――“存在しなくなってしまえば”それまでだ」

「―――スライク!! 来るぞ!!」

「分かってんだよそんなことは!!」


 ようやく危機感を取り戻したアキラは、スライクと共に走った。

 ジゴエイルは突撃してくるふたりに対し、両手を掲げて高らかに笑う。


「からかうのはこの辺りにして―――多少は魔王らしくいこうか。我は魔王。“破壊欲”の魔族―――ジゴエイル。魔王に刃向かう煩わしい勇者共よ。我が力で破壊しよう」

「―――ぐっ!?」


 放たれた瞬間に、攻撃されていると認識できなかった。

 予備動作はほとんど存在しない。

 いつの間にかかざされていたジゴエイルの手のひらから、オレンジの光弾が飛来し、偶然にもアキラの剣に直撃する。

 その衝撃に電流でも流されたかのように動きが止まる。

 念のために魔力を流しておいて救われたが、腕が痺れて剣をまともに握れなくなった。


 魔力の流れを感じ取れないこの空間では、ほとんど視覚情報のみで反応しなければならない。

 光の速度とまでは言わないが、放たれてから反応するのはほとんど不可能である。


 アキラは痺れた右手を下げ、左手で剣を握ったが、突撃は躊躇した。

 事前の検知が困難な魔術が、これほどの威力で放たれるとなると、形だけ突撃しても末路は見えている。


「ちっ―――」


 続く第2撃。

 今度はスライクに襲来する。

 スライクはやや大振りに剣を振って魔術を切り裂いた。

 アキラとスライクの剣は共に“魔力の原石”という魔術を弾く特徴を持つ材質が使われている。

 接触しても発動を許さず背後にやり過ごすことはできるが、それは剣で魔術を捉えられればの話である。

 アキラより反射神経は鋭いであろうが、スライクも魔術の気配を前提として戦闘を行ってきたであろう。


 分かりやすく動きを鈍らされたスライクに、なおも魔術が飛来する。

 辛うじて反応できたようだが、放たれ続けるジゴエイルの魔術を前には次第に防戦一方にされていった。

 初めて見たかもしれない。スライク=キース=ガイロードが、その剣を振り上げて、敵を捉えられなかったところを。


「ふっ」


 痺れた右手を強く殴り、アキラは強引に剣を握って突撃した。

 ほんの一瞬で分かった。スライクでこうなるのであれば、こちらの攻撃の機会は著しく少なくなる。

 多少リスクを払っても、常に間合いを詰めていかなければ、ジゴエイルに到達することなどできはしない。


「はっ!!」

「!?」


 ジゴエイルが叫んだと同時、前方から暴風がぶつけられた。

 何らかの魔術なのだろう、アキラもスライクも身体が浮き、背後に身体が投げられる。

 体勢を整えて着地すると、魔王との距離がずっと離れていた。


 間合いに入れないつもりらしい。アキラもスライクも武器は剣のみだ。

 この距離で攻撃可能なのは、ジゴエイルのみ。

 余裕すら見える魔王は、手をかざしたまま不適に嗤った。


 アキラは大きく息を吐いた。

 甘かった。“二週目”に容易く撃破できたゆえに、アキラはジゴエイルのことをまるで知らなかった。

 目の前にいるのは、あのリイザス=ガーディランすら配下に置いた、魔族なのだ。


「まったくもって煩わしい。ヒダマリ=アキラ、スライク=キース=ガイロード。そのどちらも、魔王の元に辿り着けもしないのは―――“想定通りだった”」

「はっ!!」


 スライクが吠え、即座に駆け出した。

 アキラも追従するように駆け出す。

 やはりジゴエイルは手を突き出したまま、静かに魔術を放った。そしてたったそれだけで、再びその場に止まらざるを得なくなる。

 スライクは、苛立ったのか、床を剣で切り裂いた。


「ほう、多少は賢いなスライク=キース=ガイロード。“測っているな”、今どこまで接近できたのか。もしくは、お前が駆け出してから私が魔術を放つまでの時間か? いずれにせよ知らなければゲームにすらならない。自分という駒が、どのマス目まで進める駒なのかな」

「いちいち癪にさわる野郎だなぁ、おい」


 スライクの睨みに、ジゴエイルはすべてを見透かすような笑みを返した。

 アキラも言われてジゴエイルとの距離を測る。

 剣を事前に構えておくことを前提にだが、この距離かあと数歩進んだ地点が、ジゴエイルの魔術を防げる限界のように思えた。

 だがそれでも、剣の射程には程遠い。


「はっ!!」


 再び暴風。距離を取るだけの魔術のようだが、アキラもスライクも迷わず床に剣を突き刺した。

 身体中が浮き上がるような感覚の中、剣を頼りにその場に留まろうとする。

 しかし、こじ開けていた目が、ジゴエイルの右手がオレンジに光り始めているのを捉えた。


「ちっ!!」


 アキラは剣を抜いて暴風に身を預けた。直後、自分が今いた場所に光弾が突き刺さる。

 ジゴエイルはこの暴風と同時に攻撃可能ということか。

 続く第2撃はスライクを狙ったようで、スライクも剣を抜いて暴風の中で光弾を切り裂いた。


「チェスというよりスゴロクでもやっている気分になるな。好きなだけスタートに戻るといい」


 ジゴエイルの挑発に、アキラもスライクも乗らなかった。

 これが続けばどうなるかが分かっていたからだ。


 ジゴエイルの基本戦術は察知が困難な魔術攻撃を放ち、ある程度近づかれたら暴風の魔術で距離を取るものだ。

 剣しか攻撃手段のない自分たちにとって、ジゴエイルに攻撃を浴びせるのは至難の業であろう。

 だが、あくまで困難であるだけで、多少は身体が慣れ始めてきていた。いずれは足を止めずに回避できるであろう。魔力も体力も十分に保つ。

 この状況は、歯がゆくもあるが着実にジゴエイルとの距離を詰めていけるのだ。


「―――とでも考えているのだろう」


 ジゴエイルは、さもつまらなそうな表情を浮かべた。

 アキラは身体を硬直させて、剣を持ち直した。


「両者とも自覚するがいい。この魔王の一撃を凌いでいる時点で、お前たちはすでに人間離れしている。だが悲しいかな、それでは足りん。理由は明白である。器でないと言ったが、一応私は魔王。“魔族を凌駕した魔族”なのだよ」


 人間と魔族には根本的な力の差が存在する。

 身体の造りひとつをとっても、人間が抗える余地など存在しないという。


 その魔族すらをも超えると言うジゴエイルは、再び手をかざしてきた。

 そしてその手のひらから、オレンジの光弾が次々と生み出されていく。

 生み出された光弾はジゴエイルの手のひらを中心に回転し、射出のタイミングを今か今かと待ち望んでいるように見えた。


「そして私は、王道を通る。リイザスとは欲望の根本が違うのであろう。明確な力の差があるのであれば、相手に合わせたりせず、魔力で、暴力で、そのまますり潰せばよい―――つまりだ」


 ジゴエイルは不敵に笑った。


「数を打てばそのうち破壊できる」

「ぃ―――」


 数発で脅威だったオレンジの光弾が、マシンガンのように射出された。

 詠唱もなく、特別な能力もなく、色は違えどアキラが幾度となく見てきた魔術攻撃が、ただ単純に飛来する。

 アキラもスライクも剣で応戦するが、光弾ひとつをやり過ごすたびに剣は軋み、腕の骨が砕かれるほどの衝撃を受けた。やり過ごした背後の壁に光弾が直撃し、魔力を感じない空間で爆音と振動が骨髄すらも揺さぶる。


 これほどの距離をとっても、魔王の単なる魔術攻撃は凌ぐだけで精一杯だった。

 回避に移ろうとしても魔術の猛襲に足は釘付けになり身動きが取れない。

 近づくことすら許されない存在は、この光の嵐の先、表情ひとつ変えずに手をかざしているだけなのだろう。


 魔術攻撃をしてくる敵など幾度となく遭遇している。

 連射だってそうだ。

 魔術の検知が鈍らされているのも、もう言い訳はできないほど慣れつつある。

 こんな単純な攻撃は、今までいくらだってくぐり抜けてきたのだ。


 だがこの攻撃は、まさしくチェスを打つように、無視はできない場所へ、無視はできない威力で放たれ続ける。

 まるで単純ゆえに避けようのない、スライク=キース=ガイロードの剣のように。


 いつ終わるとも分からない嵐の中、アキラは必死に活路を探した。

 だが、思いつかない。

 この状況はリイザス=ガーディランと戦ったときと同じだ。

 相手が何らかの策を持っているのであれば利用できる余地が生まれる。

 だが魔王は、魔族という絶対的なアドバンテージをそのまま活かしているだけだ。

 世界中から勇者と言われていようが、所詮は人間。魔族の敵ではない。

 ジゴエイルは、その覆ることのない事実の元、ただただ魔族の力を振るっているに過ぎなかった。


 精緻に、丁寧に、苛烈に、魔族の力が正面から襲い来る。

 この単なる魔術攻撃を見るだけで、その道に明るくないアキラすら確信してしまう。


 こと魔術攻撃において―――“魔王”ジゴエイルは、アキラが認識するすべての存在を超えていた。


「―――っ、勇者、接近するぞ!! これ以上付き合ってられるか!!」


 『剣』が吠えた。

 そして一閃。

 スライクの大剣が光弾をまとめて斬り飛ばし、嵐の中に一瞬の隙を生んだ。

 その瞬間、アキラとスライクは駆け出し、魔王目掛けて突撃する。


 一層激しくなった光弾の中、アキラはただ前へ進むことだけを考えて、目の前の光弾を次々に切り裂いていく。

 あるものは回避し、あるものは切り裂き、足だけは止められないように光弾の嵐をかいくぐる。

 しかし回避すれば回避するだけ飛来する光弾は苛烈さを増し、切り裂けば切り裂くだけ身体中が揺さぶられ勢いを殺される。

 ヒダマリ=アキラというコマが進める方向、距離を計算し尽くされ、結局はキングに辿り着けない道を選ばされているような錯覚に陥った。いや、事実そうなのだろう。


「中々の適応力だ。この空間にも大分慣れてきたようだな。先ほどよりは近づけているほどに」


 接近を続ける中、 ジゴエイルの落ち着き払った声が聞こえた。

 スライクと共に光弾の中を進んできたアキラが、そろそろ二手に分かれようとした瞬間、ジゴエイルは光弾を放つ手とは逆の手をかざす。


「“次の挑戦”はどこまで伸びるか楽しみだ。今回のように、私の想定通りでないことを願おうか。―――っは!!」


 光弾の暇、再び暴風がアキラとスライクを襲った。

 剣を利用して踏み留まることもできず、当たり前のように後方へ吹き飛ばされる。


 まるで下らないゲームに付き合わされているようだった。

 どれほどの困難を超えても、結局はこの暴風の魔術でスタート地点に戻される。

 何も変わらないスタート地点では、スライクの過剰なほどの殺気だけが蔓延していた。


「次も……そうだな。お前たちは剣の射程までは入れない」

「あん?」


 苛立ちを隠しもしないスライクに対し、絶対的優位に立っているジゴエイルは、しかし、なんともつまらなさそうな表情を浮かべていた。


「次も。その次もだ。そしていよいよその次か。ようやくスライク=キース=ガイロードが私に一太刀浴びせるだろう。しかし私はやはり光の粒子となり、別の場所に現出するだけ。そしてその次は、駄目だな。疲弊がたたってほとんど接近できないだろう」


 ジゴエイルは。

 これから起こる未来図を、さも下らなさそうに口走る。


「だが、ヒダマリ=アキラか。治癒魔術を使うのか、傷を癒し、再び私に向かってくる。それは一体、いつまで続くことか」

「面白い妄想だなぁ、おい」


 ジゴエイルの表情には、まるで感情は浮かんでいなかった。

 当たり前のことを、当たり前に言っただけのような、まったくの無表情だった。


「妄想ではない。現実だ―――ほぼ確実に起こる未来だ。アキラ君。そしてスライク=キース=ガイロード。思うことはないか。人間が魔王を目指し、苦難を乗り越え、ついに討ったとしても、結局同じ配置に戻って、同じことを繰り返す。これの何が面白い?」


 この構図は、ジゴエイルが形作ったこの盤面は、何かの暗喩に思えてきた。


「いかに私が魔族として一線を画していると言っても、無限を思わせる魔力を有しているとしても、潰えぬものはない。限界というものは必ず存在する。事実、お前たちが私を殺せる可能性も多少はあるのだから。だからこそお前たちは必死になり、私もそうならぬよう付け入る隙を与えないようにする。しかし私は思ってしまう―――それがどうしたのだと」


 繰り返される人と魔族との争い。

 自分たちは必死になって前を目指しているが、それは側から見れば勝者も敗者も滑稽で―――下らないゲームだ。


 アキラは世界が酷く矮小に思えてきた。

 自分の選択、自分の決断。それが大局に及ぼす影響はほとんどない。

 ならば自分が何かを成したところで、それは所詮、過去に誰かがやったことの繰り返し。

 過去の自分が、自分自身を諦めた感覚が、今更ながらに蘇ってきた。


「さあ続けようか、茶番を。誤解のないように言っておこう。私は特別なことはするつもりはない。すればそれが隙になる。ここで死ぬわけにはいかんのでね、私が勝利する最も確実な方法を取らせてもらう」


 手の痺れは、とっくに取れていた。

 だが、ジゴエイルの言うように、徐々に剣の射程まで近づけている。

 次は無理かもしれないが、いずれ奴に攻撃する機会が訪れるだろう。確かに勝機はあった。


 しかし、思ってしまった。

 この戦いは、この物語は、つまらないと。


 恐らくジゴエイルが遥か昔に気づいたであろうこの世界の構図に、アキラ自身が、納得してしまっていた。

 あれだけ好きだと思っていた世界が、この何も感じない空間で、ゆっくりと色褪せていくような気がした。


「……おい勇者。お前、奴の攻撃をいくつ受けられる」

「は……?」


 そこで、小さな冷たい声が聞こえた。

 ジゴエイルに毛取られぬよう視線を送ると、スライクが、狩猟動物のような眼でジゴエイルを捉えていた。


「やる気がねぇなら別にいい。俺ひとりで行く。だが行くなら次が最後だ。あの野郎を斬り殺す」

「まさか、お前」


 ジゴエイルが言った未来図は、恐らく発生確率が最も高いと思われるものなのだろう。

 あの光の光弾を凌ぎながら接近するには、確かにあと何度か挑戦する必要がありそうだ。


 だが今、スライクは考えている。防ぎながらでは接近が遅くなる。

 ならば防いでばかりではなく、ある程度その身に受ければ、多少は距離が縮まるのではないかと。


「正気かよ。受けたら即死の可能性もあるんだぞ。それに攻撃を食らえばその分動きも止まる。大して変わらないんじゃないか?」

「多少は変わんだろ。それに、奴の言うことももっともだ。下らねぇゲームはとっとと終わらせるに限る」


 スライクはギロリとジゴエイルを睨んだ。

 止めるべきだとアキラは思った。リスクが大きすぎる。


 だが、止めてどうなるというのか。


 アキラが止めようが止めまいが、いずれスライクはジゴエイルに斬撃を浴びせるだろう。

 そして結局、奴は光の粒子となって移動し、同じ構図が作られるのは変わらない。

 アキラの選択は、大局に影響がないのだ。


「っ」


 ぶん、とアキラは頭を振った。

 駄目だ。ジゴエイルの言葉に惑わされるな。


 達観するな、今の自分と向き合え。

 自分は今まで、大局に影響があるかないかだけで物事を判断していたわけではない。

 だが。


「見ろ。背後の壁。ぶっ壊れかけてやがる」


 視線も送らずにスライクは呟く。言われた通り見ると、アキラとスライクがやり過ごした光弾がルシルの体内の壁を破壊しつつあった。


 アキラの中に光が生まれる。あの壁を破壊できれば、外に出られるかもしれない。


「もし床と同じ強度なら、あの魔術の威力も知れている。数発なら耐えられんだろ」

「っ」


 スライクは剣で床を攻撃していた。そのときに、同時にルシルの強度も図っていたのだろう。その情報をもとにした策のようだ。

 だがアキラにとってそれは狂気の発想だった。

 外に出るという選択肢がある中、スライクは、その情報を目の前の魔族撃破のために活かそうとしている。


「……なんでお前はそう思える」

「あ?」


 聞いた瞬間、しまった、と思った。

 上手く、騙せていたはずなのに。

 今自分が、酷く情けない感情に支配されていることを自覚してしまった。

 だが、止まらなかった。


「なんでそこまで揺るがない」


 アキラは知っている。

 スライク=キース=ガイロードは、決して力だけがある愚者ではない。

 彼は狡猾で、冷静で、その力を存分に発揮する術を心得ている。

 それなのに、彼はこの状況でも、理に叶わないことを選択するのだ。


 勇者としての適性があるにも関わらず、それに倣わず。

 それだけの力を持っているにも関わらず、誰かを救おうとはせず。

 目的があるにも関わらず、その目的からすれば寄り道に過ぎない事柄にも、正面から向き合う。


 しかし、彼は彼であり続ける。


 状況に流されるだけのアキラには、そうした姿は、どうしても、キラキラと輝いて見えてしまうのだ。


「……あの野郎が鼻に付くからだ」


 変わらなかった。

 アキラの中で、スライク=キース=ガイロードが言うと思っていた言葉が、そのまま彼の口から出てきた。

 しかし予想が当たったのに、アキラはジゴエイルのように、つまらないとは思わなかった。


「魔王なんざ興味なかったが、あそこまでムカつく野郎だとは思わなかったぜ。この場にいるなら殺してやるよ」


 彼の目には、世界はどう映っているのだろう。

 この色褪せたルシルの体内の中でも、キラキラと輝いているのだろうか。


「前にも言ったろ―――俺の世界に普通はない。別にいいよなぁ、魔王を殺すのが勇者じゃなくても」


 多分、自分は、スライク=キース=ガイロードのように、キラキラと輝いた存在には決してなることはない。

 一生かかっても、ヒダマリ=アキラという人間は、ヒダマリ=アキラに過ぎないのだ。

 それはとっくに自覚している。


「……そう、だな」


 そして、これから起こることは。


 単なる答え合わせだ。


「……!」


 振動音だけは聞こえてきていた。ルシルからは発されないその音は、すなわち他者の介入の証に他ならない。

 崩れた壁が薄く、しかし徐々に強く光を帯びた。


 色は―――グレー。


「―――抜けたか!?」


 背後の壁が柔らかく崩れた。崩れた壁は光の粒子となって消えていく。

 同時、外気が音もなく取り込まれ、身体を打つ。


「……イオリ。よくここが分かったな」

「アキ……ラ? ここは……? ……!!」


 状況が飲み込めていなかったイオリは、ジゴエイルの姿を見て即座に身構えた。

 アキラは小さく笑う。この場に来てくれたのがよりにもよってイオリとは。本当に天啓でも受けている気分だ。


「発見したことも驚きだが、よくルシルを“崩せた”ね。そうか、君も召喚獣使いか」

「イオリ、外はどういう状況だ?」


 突然の来訪者に、しかしジゴエイルは落ち着き払っていた。

 確率はどうかは知らないが、外部からの介入もジゴエイルの想像の内だったのだろう。

 状況が飲み込めていないイオリは、珍しく動揺して目を泳がせていた。


「外、って。アキラ、君を探しに来たんだよ。今、この巨大な蛇みたいな召喚獣は海岸に横たわっている。一体何が起きてるんだ?」


 ホンジョウ=イオリは召喚獣使いだ。

 そしてジゴエイルも召喚獣使い。


 先の見えていたアキラは殊勲にも、イオリから召喚獣の仕組みについて学んでいた。

 ほとんどのことは謎に包まれているらしいが、使役している本人から、召喚獣の制約や召喚方法について何度も確認していたのだ。


 召喚獣とは、召喚される前はこの世界に存在しないこと。

 召喚できるのは、ひとりの術者につき1体のみであること。

 複数召喚するタイプも存在しているが、それは所詮、同じ召喚獣を分断させているに過ぎないこと。

 そして最も大きいのは、召喚獣は、召喚術師からそう遠くにはいられないことだ。


 そして。


「イオリ。今すぐ教えてくれ。“部分召喚”ってのはどんな召喚だ?」

「? いや、なにを?」

「イオリ」

「ええと。前にも教えたと思うけど、召喚獣を一部分だけ現出させることだよ。ほとんど意味ないから、小型の形で使役する限定召喚の方しか使われないけど」


 思っていた通りだった。

 この空間は、部分召喚されたルシル。恐らくはルシルの首に相当する部分だけなのだろう。

 つまり。


「……待った。これは……まさか、ルシルの部分召喚なのか……?」


 小声で呟いた。流石にイオリは気づいたようで、目を見開く。

 アキラは静かにジゴエイルを睨み―――自分の存在を思考の片隅に追いやっていく。


 ルシルの部分召喚。

 そう聞いて、アキラが最初に思ったことは、このルシルはどの規模で召喚されたかだった。

 ルシルは体内に膨大な魔力を貯蔵し、魔王の死をもってそれを解放する。

 だが今の部分召喚であれば、その魔力の核と言える身体まで召喚されていないのではないか、と。


 ゆえに今、世界規模の破壊をもたらす爆弾は、この世界に存在しないことになる。


「………は。やっとはっきりした。ああ、そうだよな。それが、“それだけが気になっていたんだ”。そうだ、そう」

「……アキラ?」


 まったくもって理想通りの展開だった。

 予想できていたとはいえ、世界崩壊のリスクがある以上慎重にならざるを得なかったのだ。

 だからきっと、その分自分の動きは鈍かった。

 だからきっと、奴に明確な殺気が向けられなかった。

 だがしかし、専門家が現れてくれたおかげで、自分の懸念など杞憂に過ぎないと確信できた。

 まるで神の使いのようだ。自分が進むべき道を指し示してくれた。

 勇者たる行動をとるようにと。


―――“魔王”を倒す“刻”をもって、俺は、


「……構うか」


 アキラは呟いた。その声は、まるで自分のものではないように聞こえた。


 自分は、“この魔法”が嫌いだった―――自分自身を諦め切った証拠に他ならないのだから。

 そして今、スライクも、現れたばかりのイオリも、ジゴエイルをまっすぐに睨みつけている。

 その真摯さに、自分の矮小さがより浮き彫りになるような気がする。


 だが今、そんな矮小さが有難い。

 勇者としての大義の前に、容易くもみ消されてくれるのだから。

 余計なことは考えるな。


 世界の危機という制約が取り除かれた今、唯一覚えるべきは―――敵への殺意。


「“キャラ・ブレイド”」


 胸に痛みが走った。押し潰し損ねたヒダマリ=アキラの残滓だろうか。


「スライク。お前、奴の攻撃をいくつ受けられる?」

「奴が死ぬまでだ」

「……そうだな。俺もよく似た答えだ」


 ジゴエイルの言葉で灰色に見えかけていたこの世界の色が、さらに褪せた。


 繰り返される人間と魔族の争い。

 勇者たちが紡ぐ物語。

 キラキラと輝いた、異世界。


 ジゴエイルの言うことももっともだ。下らない。


 さあ。

 この下らない物語を終わらせよう。


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