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おんりーらぶ!?【第二部】  作者: コー
中央の大陸『ヨーテンガース』編
47/68

第53話『下らない世界(前編)』

―――***―――


―――ヨーテンガース。

 4大陸に囲まれるように、統べるように中央に位置するこの大陸は、数多くの謎に包まれていた。


 現在世界中の注目は、とある3人に集約されている。

 スライク=キース=ガイロード、リリル=サース=ロングトン、そしてヒダマリ=アキラ。

 彼らの起こした奇跡は世界中に響き渡り、人々に希望を振りまいているのではあるが、過去を遡ってみれば同程度の奇跡を起こせた者も少なからずいる。


 過去、そんな話題に事欠かない者たちがこのヨーテンガースに幾人も向かっているのだが、それを最後に世界中の情報からその名が消え失せることになる。


 まるで不幸があったかのような現象に、当初、ヨーテンガースとはそれほどの大陸なのかと世界中の人々は絶望に包まれたことがあった。

 しかし、以前物好きな者が捨て身の思いで向かったところ、ばったりと、話題だった英雄に出会い、心配は杞憂に終わった。


 だがその出来事が発端で、ヨーテンガースの異様さは際立つことになる。


 当時の記録の中で、その人物は自分の身に何が起こったのかを語っている。

 意を決して辿り着いた謎多きヨーテンガースで最初に見たのは、あまりに平和な人々の日常だった。

 港町は活気に溢れており、商人が声を張り上げ、主婦はせわしなく駆け回り、子供たちはよく笑う。

 故郷の友人たちには今生の別れを告げたつもりの挨拶をしたというのに、随分と肩透かしを食らったという。


 それどころか知ろうと思えば世界中の出来事、果ては小さな噂話まで容易く収集でき、まるで自分が恐れ多くも神の視点を持っているかのような錯覚を起こした。

 居心地の良いその場所に、その人物はこの地に骨を埋めても良いと思ったほどだったそうだ。

 その数か月後、英雄の消息を知るという目的も果たしたことだしと故郷に戻ろうとしたとき、ヨーテンガースの特徴を知ることになる。


 大陸に入るときにはほぼ素通りだった関所から、出国の許可が下りなかったのだ。

 それがルールなのかと申請を出してみたものの、返答があったのはさらにその数か月後。それから連日、尋問のような監査が続く羽目になる。

 確認してみたところ、自分がヨーテンガースに来て最初に書いた故郷宛ての手紙すら関所によって止められていた。どうやら、手紙の中身すら徹底的に確認されていたらしい。


 居心地のいい場所であることも手伝い、そこまでされるならと故郷に帰ることを諦めたくなったものの、その異様さに言い知れぬ恐怖を覚えたその男は、懸命に出国の申請を出し続け、念願叶った頃には数年もの歳月を費やしていた。


 やっとの思いで故郷に戻ると、消息を絶ったことになっていた自分は故人として扱われており、その人物はようやくヨーテンガースの仕組みに気づけた。


 ヨーテンガースは、入る者をまるで拒まず、出る者を強く拒むのだ。

 それは人物に限らず、物や情報にも及ぶ。


 英雄たちが起こしたであろう奇跡すら、ヨーテンガースから出ることができなかったのだ。


「ちっ、違うんです!! あっし、帰りたいわけじゃないんです!! 船にっ、船にっ、あっしの荷物忘れただけなんですよーーーっ!!」

「申し訳ありませんが規則です。しかるべき申請を出していただけないと」

「出します出します、何でも出しますから!! お願いします!!」

「ちなみに、何をお忘れになったんですか?」

「お菓子です。まだ半分残ってたんです……」

「諦められませんか」


 ヒダマリ=アキラには、喜ばしく思っていることがある。

 自分たちは打倒魔王を掲げ世界を救う旅をしているが、殺伐とした集団ではなく、いい意味で仲がいい集団だと。


 だが今、アルティア=ウィン=クーデフォンが泣きながら起こしている喧騒には、誰ひとりとして助け舟を出そうとしていなかった。


「ふっふふ。賑やかねぇ。着いた途端これだもの。お陰で道中退屈しなかったわ」

「常に賑やかなのはあいつくらいなんだけどなぁ」


 本日は快晴。浜風が気持ちよく頬を撫でる。

 そんな空気に混ざり込むような独特の雰囲気を纏った女性が朗らかに笑っていた。


 アラスール=デミオン。

 この大陸の魔導士であり、アキラたちが東の大陸アイルークから直接ここに来られたのも、彼女のために用意された臨時の船があったからだ。

 悠然と立っているようで、いや、事実ただ自然に立っているだけなのだろう、それなのに、彼女の様子からは様々なものが感じ取れた。

 精神を研ぎ澄ましているわけでもない、興奮状態なわけでもない。だがその声色、仕草、一挙手一投足が、そのままの様子で買い物にも戦場にも赴けそうな―――日常と戦場が混ざり込んだ形容しがたい雰囲気。


 彼女と共にアイルークを旅立ったのはひと月ほど前になる。

 その間も、彼女にとっての日常と戦場の境界線を見つけることはアキラにはできなかった。

 そんな様子にあてられると、自分がどこに立っているのか分からなくなる。

 アキラは彼女のことが少し苦手だった。


「それで、これからどうするの? 勇者様」

「相談してみるけど、多分あの街に寄ることになると思う、かな」


 アキラはさっと周囲を見渡した。

 喜ばしいことに大所帯となってきた面々は、流石に船旅で疲れたのか思い思いのところに立って身体を伸ばしている。

 前にも乗ったことはあるが、中央の海を渡る船の乗り心地は最悪だ。

 少なくとも今日は、この港町で夜を明かすことになるだろう。


「そう、それじゃ残念だけど私とはここでお別れね。私ものんびりしたかったけど、ご丁寧に関所に連絡入っていたわ。すぐ戻れってさ。国仕えの悲しい性よね」


 わざとらしく肩を落とし、アラスールは視線を街に向けた。

 その瞳は、賑やかな港町を惜しむようにもその遥か先を捉えているようにも思える。

 どうやら最後まで、彼女のことはよく分からないままで終わりそうだった。


「ま、勇者様たちはゆっくりと慣れなさいな―――この大陸に。縁があったらまた会いましょう」


 そう言って、アラスールは更に近づいてきた。

 思わず姿勢を落とすと、アラスールは満足そうに笑って小さな紙きれを手渡してくる。


「そうそう、その通りよ。色んなことにちゃんと警戒してね。そんでもって、気が向いたらここにきて」

「……これは」

「ただのお仕事の募集よ。ビラ配りみたいなもの。あなたたちに手伝ってもらった方が成功率が上がりそうなのよね」

「依頼か? 一体何の、」

「ただの“引っ越し”よ」

「?」


 アラスールは纏う空気を換えぬまま背を向けた。

 他の面々への挨拶は済ませたのか、それともアキラだけで十分だと思っているのか、彼女はそのまま去るらしい。


「それじゃあ勇者様。お互い死ななかったらまた会いましょう」


 去り行くアラスールの背を見ながら、アキラあの、日常と戦場が混ざり込む空気が消えていないことに気づいた。

 気にし過ぎなのだろうか。“3度”降り立ったこの大陸そのものから、同じ匂いが感じられるような気がする。


 港町からは喧騒が聞こえる。港を羽ばたく鳥たちの声はのどかに響き、波は不規則にも平穏に揺れていた。


 アキラはふと、船の中で赤毛の少女に教えてもらった、この大陸の話を思い出した。


 “平和”なアイルーク。

 “高貴”なシリスティア。

 “非情”なタンガタンザ。

 “過酷”なモルオール。


 4大陸に囲まれるように、統べるように中央に位置するこの大陸は、こう呼ばれているらしい。


 “矛盾”のヨーテンガース、と。


――――――


 おんりーらぶ!?


――――――


―――クラストラス。

 中央の大陸の北西部に位置するこの港町は、“入り口”という表現がピタリとはまるだろう。

 上空から見るとこの大陸は、楕円のような形状をしており、中央はうっそうと生え茂る大樹海で分断されている。

 さらに周囲が険しい岩山で囲われており、この北西部のみその岩山が途切れ、中央の海に面しているのだ。


 面積だけで言えば、クラストラスはシリスティアのファレトラに匹敵する。

 何しろ唯一の入り口だけはあって、整備は行き届き、あらゆる資源がこの街に集中し、ヨーテンガース北部の人口は概ねこの街に集約されていた。

 港町というと漁業や運輸業が主とした収入源になるが、それを唯一担うとなるとその活用方法は、他の大陸の品を増やす商工業や製造業、金融や宿泊施設などのサービス業など多岐に渡る。

 結果として北部にいるのであればこの街から離れる意味は無いとまで言われていた。


 例外的に、ヨーテンガースには、大樹海で活動を続ける古きゆかしい民族が多くいたりもするが、彼らがすべて反社会的というわけでもなく、その民族の多くも当たり前のようにクラストラスに出入りし、経済活動を活性化させていた。


 まさしくシリスティアのファレトラのような発展を続けているこの街だが、不思議なことに、人口の増加は見られない。


 来る者を拒まず去る者を拒むヨーテンガース。つまり、増えていくはずの人口。

 その入り口が拒んだ者がその後どうなったのかなど、ヨーテンガースに住む者は、子供だって口にしない。


「ちょっと聞いて欲しいことがある」


 エリサス=アーティは神妙な顔を浮かべて目の前の少女に呟いた。

 青みがかった髪を揺らし、愉快そうに微笑んでいるのはアルティア=ウィン=クーデフォン。

 大通りで見つけた雰囲気のいい宿屋のベッドの上で、泣き止ますために先ほど買い与えた菓子の袋を大事そうに身体に抱えていた。


「あたし、そんなに時間かけちゃったかな。フロントに行って、ちょっとだけ話して、戻ってきただけなんだけど」

「そうですね、10分くらいでしたかね」

「じゃあ……あれ。なんでみんないないの……?」


 景色が滲んで見える。

 アイルークから旅を始め、遂に辿り着いたヨーテンガース。

 期待と不安を胸に抱き、ようやくこの地に足を下ろしたときは何とも言い難い感動に包まれたのを覚えている。

 逸る気持ちを抑えつつ、まずは船旅の疲れを癒そうとこの宿屋に入ったのはつい先ほど。

 フロントで支払いや宿屋の説明を聞いて戻ってみれば、どの部屋ももぬけの殻だった。


 最後の大陸。ここにはあの魔王もいるという。

 それなのにうちの面々は、頼もしいことにいつも通りだった。


「わわ、エリにゃん泣かないでください。だからこうしてあっしが残ってたんですよ!失われたあっしのお菓子を買ってくれたこと、全力で恩返しします」

「恩を返そうと思ってたならみんなを引き留めてよ……。これからのこと相談しようと思ってたのに……」


 ティアのお菓子を買ってあげたのはうるさかったからというだけではなく、僅かばかりの罪悪感に苛まれた結果でもあった。

 船を降りるとき、一応船内を見回ったエリーはティアの忘れ物を確かに見たのだが、ゴミと判断して処分してしまったのだ。

 そうでなければ荷物卸もそこそこに、船で溜まった鬱憤を晴らすように港を駆け回っていたティアの助けなどするものか。


 そんなエリーの気持ちを知ってか知らずか、ティアは変わらず買い物袋を大事そうに抱えている。


「元気出してください……。あ、お菓子食べますか? この街にもあってびっくりしました。あっし、子供の頃これ大好きだったんですよ」

「ありがとねティア。笑わせようとして励ましてくれて」


 エリーはベッドにゆっくりと腰を下ろす。

 行儀が悪いかもしれないが、足がジンと熱くなり、心地よかった。


 やはり中央の海を渡る船は身体に堪える。

 みんなも同じだろう、今日は依頼を請ける気になれない。

 だから休業日と判断して我先にと街に繰り出したのだろうか。

 頼もしくも判断が早い。


「まあ……でも。ついに来ちゃったわね」


 外から定期的に、声を張り上げる商人の喧騒が聞こえる。

 ドタバタと駆け周る子供の笑い声が響く。

 それらが悲しく響く狭い宿屋の一室で、エリーはポツリと呟いてみた。


「そういえば前聞きました。エリにゃんって、ヨーテンガースにいたことあったんでしたっけ」

「うん、まあね。本当の意味で子供の頃。あたしたちもここから出るとき苦労したのかな?」

「本当の意味で子供の頃ってどういうことですか」

「まあまあ。ま、そんな記憶、この旅で塗り潰されちゃったみたい」


 自分はこの大陸出身の人間だが、もうほとんど覚えていない。

 ヨーテンガースの特徴だって、噂話として他の大陸に広がっている程度のことしか分からなかった。

 子供ひとり船に戻ろうとしただけなのに頑なに通さないあの関所の様子を見るに、もしかしたら自分たちもこの街でしばらく過ごすことになったのだろうか。


 あの頃のことは―――ほとんど思い出せない。

 分かっているのは、自分たちが両親を失い、逃げるようにこの大陸を去ったことくらいだ。


 だから自分の思い出は、アイルークから始まっている。

 そしてこの旅の記憶は、最も深く、この胸に刻まれている。


 今自分は、あのころと比べて大人になった。

 巻き込まれるばかりだった子供のときとは違い、自分の意思で、物事を決めていかなければならない。

 そして今の自分は、勇者ヒダマリ=アキラの火曜の魔術師だ。

 ふたりで始めたこの旅は、終点に近づいている。


 異世界から現れた彼との約束を果たすときも近い―――だから。


「はあ。ほんと、覚悟決めなきゃな」


 エリーは立ち上がり、宿屋の窓から外を見下ろした。

 上から見ると、商人が並べた商品の陳列棚が一望でき、大通りは色鮮やかに染まっている。

 シリスティアでも似たような光景を見たが、今見ると、物悲しい気持ちになってきた。


「なーんで覚えてないかなぁ、あたし。ちょっとだけでも覚えていたら、道案内くらいできたのに」


 頬を叩いて気持ちを正そうとする。

 アイルークで“自覚”してから、自分の思考はまずい方向に走っていることが分かった。

 使命を果たすための勇者様御一行に、こんな、魔王討伐より優先したいものがある人間が混ざっているとは、世界中に申し訳が立たない。


「エリにゃん。お出かけしませんか?」

「んー? またなんか買って欲しいの?」

「いえいえ。探しに行きましょう、アッキーたちを。エリにゃんが道案内しに行きましょう」


 にこにこと笑って、ティアは立ち上がった。

 大切そうに買い物袋を自分の枕の横に置く。


「だから、覚えてないって」

「街を歩いていたら思い出すかもしれないじゃないですか。そしたらきっと、助けになりますよ」

「ティア理論ね」

「ですです」


 エリーは笑って頷いた。

 ティアは鈍いように見えて、たまに鋭いときがある。まさに子供のそれだ。

 これも彼女なりの気遣いなのだろう、今回は甘えておくべきかもしれない。


「よし。それじゃあ散策しまくりましょうか!」

「おーっ!!」

「……?」


 元気よくティアが手を上げた瞬間、エリーの耳が何かを拾った。

 視線をドアに向ける。


 すると外からどたばたとした騒音と共に、小さな子供の悲鳴が聞こえてきた。


「やっ、やだ!!」

「待ちなさい!! ちゃんと日焼け対策しないと、痛くなってからじゃ遅いんですよ!!」


 ティアと顔を見合わせる。

 自分たち以外に宿屋に迷惑をかけるような輩がいることに半ば驚きながらも、どうにも聞き覚えのある声だった。


 ドタン、と物音が聞こえる。

 声の主は、丁度この部屋の前で倒れ込んだようだ。

 エリーは恐る恐るドアに近づき、小さく開いたドアの隙間から外の様子を覗き見た。


 すると。


「ああ!! 大丈夫ですか? ほら、廊下を走ってはいけないんですよ。痛いところはありますか? 大変、膝すりむいてます! なんてことでしょう、ほら、早くわたくしたちの部屋に戻りましょう。治療と消毒と……、やっぱりちゃんとした防具を整えなければ」

「助けてっ、助けてっ」

「安心してください。わたくしはあなたを助けようとしているんです。ああ、長旅でこんなにも心が荒んでしまうなんて……、わたくし発狂しそうです」


 見知った修道服の女性がしゃがみ込んで、小さな子供と向かい合っていた。というか、押さえつけていた。

 子供は泣きじゃくり、修道服の女性は頭を抱えながらも子供が逃げ出さないようにしっかりと手を握る。


 彼女らを見て、エリーは金縛りにあった。

修道服の女性が、ドアが開いていることに気づいたようで立ち上がり、恐ろしく早い所作で頭を下げる。


「たっ、大変お騒がせしました。何分旅は不慣れなもので。ほら、キュールも謝って。失礼のないように……、え」


 顔を上げた相手に、エリーは考えがまとまらなかった。

 この少女がいるということは、彼女はやはり、“もうひとり”と行動を共にしているのだろうか。


 目を丸くして、目を丸くしている彼女たちと向き合う。

 修道服に身を包んだ女性―――カイラ=キッド=ウルグス。

 涙で目を腫らした少女―――キュール=マグウェル。


 ここは旅の終点の始まりの唯一の入り口。

 クラストラス。そこには、世界中を騒がす者たちが、集うのだ。


―――***―――


 とてつもなく嫌な予感がした。


 ヒダマリ=アキラは、クラストラスの街並みを見渡しながらゆっくりと歩いていた。

 人が大いに賑わっているのは大変結構なことだが、あの船旅の直後だと中々刺激が強すぎる。

 隣には、もっと刺激的な女性が歩いているのだが。


「あら、そんなの人ごみ通っていれば増えるじゃない」


 エレナ=ファンツェルン。

 丁寧に編み込んだ甘栗色の長い髪からは甘い匂いを振りまき、薄手のトレンチコートが風に吹かれればそのスタイルの良さが浮き彫りになる。

 彼女にしては珍しく露出が控え目の服装だが、どんな服装も着こなす彼女の魅力は損なわれない。

 几帳面なほど整備された街並みや、商店街を彩る数々の花すら、彼女の引き立て役に過ぎなかった。


 船旅で疲れたし、今日は宿屋で休もうと思っていたのだが、アキラはこのエレナに、街に誘われたのだ。

 そこでふと、毎日のように新しい服を着ているエレナに、どこから資金を捻出しているのか尋ねてみたら、案の定の答えが返ってきたのだった。


「お前また追いかけられたらどうすんだよ」

「やーねアキラ君。せっかくふたりっきりになれたのにお説教? 分かった分かった、もうやらない。はんせいしまーす」


 なら、いいか。

 アキラは思考を止めた。

 深追いしても得が無いような気もするし、何より彼女の機嫌を損なうのは躊躇われた。

 どうやら中央の海を渡る船はエレナのお気に召さなかったらしく、今の彼女の表情は解放感に包まれている。

 他の面々も今日は身体を動かしたい気分だろう。


「あら、アキラ君見て見て。あれ、多分シリスティア産の楽器よ。前に家で見たことあるわ」


 厳粛そうな建物を構える店に顔を向けると、笛のようなものが分厚いガラス越しに見えた。

 声が出そうなほどの値が付いている。客寄せ用の品だろう。


「流石名家のお嬢様……」

「欲しいの? うーん、ちょっと大変ね、5往復はしないと」


 エレナの腕を引いて店から離れた。

 彼女ならやりかねない。

 晴れ晴れと大きく笑うエレナを見て、からかわれていたことに気づいたが、アキラはその表情をしばらく見つめていた。

 過去。彼女がこの大陸で、どんな目に遭わされたのかをアキラは知らない。今の彼女が浮かべている笑顔は、本物なのだろうか。


「エレナ」

「なに、コツ? 基本は視線よ。ほらあの男。ちょっと視線高いでしょ。ああいうのが狙い目よ。チェーンとかで身体に財布をつなげれば十分とか思っているのは甘いわ。最大の防衛は意識と視線。自分の大切なものから目を離さないことが重要なんだから」


 早口で何かの教えを伝えられた。

 アキラは一応記憶しておくことにはしたが、神妙な顔を浮かべた。

 自分の気のせいだったら笑い飛ばされるだろうが、引いたエレナの腕が、小さく震えていたような気がしたのだ。


「ようやく……この大陸に来たな」

「……」


 触れないようにしていた話題だということに、自分もエレナも気づいていた。

 船の中では、ヨーテンガースに向かっているという認識はあったものの、それが意味することを口に出した者はいない。

 だからみんな、いつも以上にいつも通りを過ごそうとしていると感じた。


「はあ。せっかくのデートなのに台無し。でもそうね。そういうことになるわね」


 歩きながらエレナは呟いた。

 アキラも並び、僅かに頭を下げる。


「いきなりそんな話始めるなんて、アキラ君どうしたのよ。随分真面目じゃない」

「空元気に見えたんだよ。口数も多いし」

「あーら」


 エレナは含み笑いをした。そっちの方が、彼女の本当の表情のような気がする。

 人一倍警戒心が強いと言われる木曜属性。

 そんな彼女がこの終点の大陸に来て、何も思わないわけがない。

 それでもいつも通りに振る舞う彼女を見て、アキラはどうしようもない不安に駆られた。


「エレナ。変な言い方だけど、思うことがあるなら言ってくれよ。ぶっちゃけ俺は思うことがある。この大陸、多分“今まで”が通用しない。何が起きても不思議じゃない―――今まで以上にな。変わらないといけない気がするんだよ」


 のどかな街並み。

 だがその地続きに、“あの領域”が存在する。


 思い出すだけで身体中が震え出す。

 もしかしたら、自分はエレナを案じたのではないのかもしれない。

 自分自身が、この大陸に恐怖を覚えている。


 エレナは柔らかく微笑んだ。

 そしてアキラの心中を察するかのように、少しだけ寄り添ってくれる。


「怖い?」

「ああ。は、世界の希望の勇者様の台詞じゃないか」


 アキラは自分を笑った。

 震えていたのは、エレナの腕ではなく、自分の方だったかもしれない。


「あら奇遇ね。私もよ。正直めっちゃ怖いわ」

「!」


 アキラをなだめるように寄り添ってくれていたエレナは、しかし震えていた。

 遠目から見れば恋人がじゃれているように見えるだろうか、だがそれは、単なる傷のなめ合いだった。

 自分たちは―――この大陸から逃げ出したことがある。


「私さ、今日で最後にするつもりだったのよ。適当にやるの。この大陸じゃ、そんなの命取りになる気がして。アキラ君に気づかれるくらいだもんね、はしゃぎ過ぎたみたい」

「それは……そうしろよ」

「はは。後はそうね、色々考えたわ。ぶっちゃけ私、魔王とかどうでもいいのよね。勇者様御一行ごっこなんてしてないで、今すぐあの野郎を殺しに行きたいくらい。だって、私の人生はそのためだけにあるんだもの。大所帯でトロトロ動き回ってないで、特攻でも仕掛けてやろうかしら、ってね」

「エレナ」


 咎めるように声を出す、エレナはピクリと震えた。

 そしてそれを押し隠すように、アキラの腕に強くしがみついてくる。


「ま、でも。アキラ君がそこまで言うなら、気が変わったわ。仕方ないけどあんたらに付き合ってあげる。世界最高の弾除けだもの、捨てちゃ勿体ないわ」


 優しい声だった。

 エレナはアキラの腕を離し、大きく伸びをする。


「アキラ君。その怖さは克服なんてしないでね。怖さは大切な危機管理能力だもの。それに押し潰されそうになったら私が跳ね退けてあげる。だから私も守ってね?」

「弾除けだからな。お前もそうなったら、すぐに言ってくれよ」

「ふふふ」


 満足そうにエレナは頷く。


「俺だけじゃなく、他のみんなにも」


 エレナの表情が冷めたのが分かった。

 しばらくすると、エレナは息の塊を吐き出し、呆れた表情を浮かべる。


「やーよ、過剰な馴れ合いはしないの。もう決めたわ。私はいつも通りいってやる。欲しいものは手に入れて、気に入らない奴はぶっ飛ばして、好き放題やり続けるわ。さあアキラ君、何か欲しいものはある?」


 露店を舐めるように指差したエレナは、先ほど以上に空回っているような気がした。

 まるでここから見えるすべてのものが自分のものであるかのように振る舞い、高らかに笑う。

 だけどアキラには、先ほどよりも明るい表情に見えた。


「……あ。あれ、さっきティアが買ってもらってたやつだな」

「ん? ああお菓子? そうみたいね」

「お前そんだけ金あるならティアに買ってやれよ。自業自得だけど、あいつの金欠は、やたらと人にご馳走しているからなんだぞ」


 依頼の報酬は均等に分けられているはずなのに、ティアはいつも金欠だ。

 人のために行動するが心情の彼女だが、そのことに限ってはそれが原因ではなく、まとまったお金を持つと気が大きくなるのが原因のような気がする。

 お金を預けてはならない典型的なタイプのように思えた。


「…………」

「エレナ?」

「なによ」

「いやだから、ティアになんか買ってやったら、って思って。……あれ。そういやティア、いつも金ない金ない言ってたのに、何で船にあんなに菓子持ち込めたんだ?」

「……わよ」


 エレナは視線を逸らして小さく呟いた。

 耳を向けるとわなわなと震え出し、舌打ちする。


「買ってあげてるわよ何度か。はっ、変な誤解しないでよ。あのガキが泣きわめくから、黙らせるためによ」


 まくし立てると、エレナは背を向ける。

 機嫌を損ねたらしいが、アキラはしばらくその背を見つめ、呟いてみた。


「過剰な馴れ合いはしない」

「……っ」

「木曜属性は水曜属性に、」

「アキラ君。私言ったわよね。気に入らない奴は―――」

「分かった、分かったよ。でもあんまり甘やかさないでくれよ」

「笑うなぁっ!!」


 顔を赤くして詰め寄ってくるエレナを宥めながら、アキラはそれでも笑うのを止められなかった。

 ティアが懐くのもよく分かる。

 他の面々には一線引いているように見えて、エレナも―――


「――!!」


 自分から笑顔が失せた。

 エレナの向こう、人ごみの中。

 その中央に、知っている顔を見つけた。


 “その大男”は、迷うことなく足を踏み出し、道の中央を歩く。


 完全な白髪に、猫のように鋭い金色の眼。

 向こうもこちらに気づいたようで、その巨躯で風を切り、威風堂々と近づいてくる。

 腰に提げたその巨躯と同等の巨大な剣は、アラスールのそれとは違い、純粋な戦場の匂いを届けてくる。


 スライク=キース=ガイロード。

 アキラと同じく、世界中の希望を担う“もうひとり”だ。


 とてつもなく嫌な予感がした。


「ん? アキラ君どうしたの? あ? なにあいつ。こっち睨んでない?」


 この予感は、恐ろしく奴と相性が悪そうなエレナが、早速睨み返していることからくる、くだらない悪寒だろうか。


 それとも。


「……てめぇもいんのか。はっ、面倒なことになりそうだなぁ、おい」


 この大陸で起こる面倒なことの予兆だろうか。


―――***―――


「付き合ってもらって悪かったね、サクラ。危なく面倒事に巻き込まれそうにもなるし」

「いや、こちらから頼んだことだ」


 ミツルギ=サクラは人ごみをかき分けようやく建物から外に出られた。

 今、自分たちはクラストラスの魔術師隊の支部の前にいる。


 隣にいる、ホンジョウ=イオリは街につくと、必ずと言っていいほど支部に足を運んでいた。

 目的は主に情報取集だそうだ。

 今は休職中だが彼女は現役の魔導士で、魔術師隊の構造というものを良く知っている。

 サクが情報収集するときは依頼所や酒場に足を運ぶことが多いのだが、イオリが言うに、魔術師隊の支部の方が、情報が多く精度も高いらしい。

 旅を長く続けているサクだが、旅の魔術師が魔術師隊の支部へ向かうという発想は持っていなかった。旅の魔術師と魔術師隊が不仲であるシリスティアの印象のせいだろう。

 そういう見分を広げるという意味でも、イオリと行動を共にしてよかった。


 払った労力を差し引かなければ、だが。


「いろんな種類の人がいるな」


 ようやく人ごみから解放されて呟いた。

 今、魔術師隊の支部の前には建物の中まで続く行列ができている。

 老若男女、出で立ちも様々だ。

 サクは目立つ赤い羽織を纏っているが、この集団の中においては埋もれるだろう。

 純白の装束を纏った集団もいれば、深い緑のフードをかぶった男もいる。サクに話しかけそうな素振りをした女性は、サクの服装によく似たベージュのコートで身を包んでいた。仲間だと思わたのかもしれない。


 この人々の多くは、モルオールの樹海で生活を営む数多の民族だという。

 樹海の民族と聞くとサクは野生児のような生活を続ける者たちか、怪しげな儀式を執り行う集団だと想像するのだが、想像した通りに地べたに座り込んでいるグループや輪になって目を瞑っている者たちもいれば、明るく雑談している若者たちもいる。

 そんな様々な集団は、魔術師隊の協力を仰ぐべく、または魔術師隊の許可を取るべくここに並んでいるらしい。

 通行人たちも気にせず歩いていくところを見ると、これが当たり前の光景なのだろう。


「イオリさんがいなかったら私も並ぶ羽目になっていたんだろうな」

「はは。サクラがそう言うってことは、相当堪えたみたいだね。僕も旅に出て初めてだよ、自分が魔導士であることを私利私欲で利用したのは」


 明るく言うイオリに、サクは下唇を噛んだ。

 自分たちはこの列を追い越して中に入るという割り込みだ。その上担当者を捉まえて長々と話をしてしまったのだ。

 何事も正しくありたいサクにとっては許容しがたい行為のはずだったのだが、その上イオリに言われるまで気づかなかったとは。

 これは旅による成長なのか、堕落なのか。


「少しは手伝うべきだったかな」


 気恥ずかしくなり、サクは先ほどあった魔術師隊の女性を思い浮かべる。

 額に汗を浮かべ、それでも機敏に民族たちの要望を捌いていた受付の女性は、イオリを見るなり顔を輝かせて協力を要請してきたのだった。


「いやだよ。彼らの相手をしていたら、冗談抜きで日が暮れるよ。しかし、他の大陸の魔導士に平常業務の協力を仰ぐなんて、まさに来る者を拒まないモルオール、って感じだね」


 いつでも厳格な魔導士然としていたように思えるイオリは、子供のようにからからと笑っていた。

 こうしたイオリを最近はよく見る。

 これも旅を通した成長か堕落なのだろうか。


「次はどこへ行くんだ?」

「ん? ああ、依頼所だよ。魔術師隊から聞けることにも限界はある。噂話のようなものを無責任に言わないだろうからね。今度はその噂話を聞きに行くんだ」


 確かな情報を収集した上で、噂話を精査する。

 イオリの行動は酷く効率的なようにも思えるが、その分労力はかかるだろう。

 イオリは町に着くたび、いつもこうした行動を取っていたのだろうか。

 エリーが目を輝かせて尊敬しているだけはある。


「ところでサクラ」


 日が高く、影の短い市街地を歩きながら、イオリは視線を前に向けたまま聞いてきた。


「もちろん歓迎なんだけど、今日はどうしたのかな。付いてきたいなんて。さっきので分かったと思うけど、大して楽しくはないよ」


 サクはしばし考えた。

 付いてきた理由はあるのだが、何と表現していいか分からない。


「なんだろうな……。知りたかったんだ、これから何が起こるのか」

「……」


 この旅には大きな前提がある。

 新たな大陸、新たな町。そこに到達するたびに、必ず何か事件が起きるのだ。

 何もなかったことなど数えるほどしかない。

 だからイオリの言うように、細かな噂話すら、この耳に入れておきたかったのだ。


「イオリさんを信用していないわけじゃない。私が聞くより、イオリさんが聞いた方がずっと確かだろう。だけど、何でだろうな。私も直接聞きたかったんだよ」

「…………アキラのため、かな」


 小さな声だったのに、ずんと胸の内を突かれたような気がした。

 流石にイオリだ。一言で表現するなら確かにそうだ。

 巻き起こる事件は―――最早全員が確信している―――アキラが引き寄せているものだ。

 自分の主君たるあの男は世界中から注目も事件も集める勇者様。

 だから今回彼が引き寄せてしまう何かを、1秒でも早く知りたかった。

 それは従者として使命感からだろうか。


「……そうだな。アキラが遊んでいる間に、私はやるべきことをやっておきたい」


 宿での出来事を思い起こす。

 船旅でなまった身体を動かすべく、アキラでも誘おうかと思った矢先だ。

 エレナがアキラの手を引いて、宿から出ていくのを自分は見た。遊びにでも連れていかれるのだろう。


 追いかけようかと思うも、身体が止まった。

 エレナの晴れ晴れとした笑顔を見て、邪魔をするのを躊躇ったからだ。

 そういうものに疎い自分だが、見れば分かるほど、彼女はアキラに好意を抱いている。アキラも満更では無さそうだった。

 従者である自分が邪魔をするのは違うだろう。

 ならばと次にイオリが出かけるのを見かけて付いてきたのだ。エリーには悪いと思ったが。


「ねえサクラ」


 イオリは人のことを本名で呼ぶ。

 慣れない呼び方だが、誰かと一緒にされそうで訂正するのは止めていた。

 だが、イオリがそう言うと、サクは妙に、自分の心の声のような感覚に陥る。


「この旅が終わったら、僕らはどうなるんだろうね」

「……今は目の前のことに精一杯だ」

「そうだね。気分を害してすまない。でも、暗くばかりなっても仕方ない。明るい話をしようよ。魔王を倒し、世界が平和になったその後だ」


 イオリの言葉は、暗に、ここが最期の大陸だと告げていた。

 自覚しなければならないこと。

 旅の終わりが近いという事実。

 モルオールに着いたばかりで皮算用のようだが、イオリの声は、やはり自分の声のように胸の中で蠢いた。


「……エリーさんは言っていたな。アキラを元の世界に返す、って」

「そうだね。でも、どうなんだろう。アキラは戻りたいのかな」


 イオリの目の色が深くなった。

 理路整然としている彼女は今、空想の世界の中に意識を飛ばしているように見えた。


「イオリさんはどうするんだ。同じ異世界来訪者だろう?」

「僕は……。そうだね。戻らない、と思う」


 やや言葉を濁したイオリを見て、サクは彼女の思考を追った。


「アキラが戻らないなら、か?」


 あまり言いたくない言葉だった。

 こういう問題に巻き込まれると頭が熱くって、碌に思考が働かなくなる。

 いつもエリーがそういう状態になっているのを、遠くで見ていることが多い。


「……サクラ。僕の話は置いておいてくれ。悪いけど。それに、もう言った方がいいよね。僕たちは全員、大なり小なりアキラに好意を持っている」

「……」


 上手い言い方だと思った。肯定でも否定でもなく、自分の質問は、綺麗に受け流されたように感じる。

 彼女が仲間となってから大分経つが、彼女の本心を知れたと思ったことは1度として無いような気がする。


 お互いに目を合わせなかった。

 思考が上手く働かない。だから苦手なんだ。


 それでも何とか、這い回るように思考を進めると、良くない感情が芽生えてくる。


「もし、アキラが元の世界に戻りたいと言ったら、どうしようか」


 アキラの姿を思い描く。

 彼はこの世界で、確かなものを築き上げ、確かな地位に座している。

 楽観的だがもしこのまま魔王を倒せば、彼はこの世界で至上の存在になれるだろう。

 対して、彼に聞いた元の世界の話はいたって平凡らしい。

 比較すれば、どちらが良いかなど一目瞭然だ。


 だが、それは感情論なのかもしれない。

 サクにとって、故郷というものにはあまり愛着が無い。

 だが、自分の親のように、故郷をこよなく愛する存在がいることも知っている。


 もし彼が、あの笑顔の裏で強く望郷していたとしたら。

 もし彼が、世界中の期待を重荷と思っていたら。

 もし彼が、戦いの日々に疲れ果てているとしたら。


 大雑把なように見えて、アキラは繊細な心の持ち主だ。

 自分に自信がなく、いつも不安に苛まれていたことを、自分は恥ずかしいことに、アイルークでの魔門破壊での件が無ければ気づいていなかったかもしれない。


 だからもし、アキラが望めば、魔王討伐の報酬として、神の力で元の世界に戻ってしまう。

 旅が終わった先、彼は、いなくなるかもしれない。


「……嫌だな」


 聞こえなかったのか、聞こえないふりをしてくれたのか。イオリは何も言わなかった。

 サクは自分を律した。主君の望みを叶える従者とは笑わせる。

 だが、真剣に向き合わなければならないものが、目の前に迫ってきているのだ。

 最後の大陸モルオール。

 自分たちはこの地で、すべての決着をつけなければならない。


「もうすぐ依頼所に着きそうだ。悪かったね。明るい話をしようとしたんだけど失敗して。慣れないことはしないものだね」


 イオリは苦笑いを浮かべた。

 単なる雑談にしては色々と考えさせられる羽目になってしまった。

 そういえばほとんどアキラの話しかしていない。

 エリーのことを笑えない。自分も手遅れなのだろうか。


「じゃあ目の前のことに戻ろうか。足元救われたら流石に笑えないよ」

「ああ。そのための情報収集だ」

「……杖」


 イオリが呟き、足を止めた。

 転ばぬ先の何とやら。ごく近いであろう未来に備えるために足を運んだ依頼所から、ひとりの男が機嫌良さげに現れた。


 しばし沈黙。

 向うはこちらを見ると、冷静に微笑み、歩み寄ってくる。


「……すでに噂は流れていたよ。君たちがいるってね。これはまた面白いことになりそうだ」


 山吹色のローブに、それよりも特徴的な長い杖。

 マルド=サダル=ソーグ。

 その男の存在は、世界中が認識している“もうひとり”がこの街にいることを示していた。


「もし情報収集しに来たなら、俺があらかた聞いてきたけど……。話でもする?」


 人々は何も気づかず歩みを進める。

 当事者たちにしか分からぬ不穏な空気の中、男はやはり、機嫌良さそうに笑うのだった。


―――***―――


「いえ。そこまでしていただくわけにはいきません」

「いやいや、あんな依頼料じゃ恩を返せていない。それに、是非とも本番の方にも参加してもらいたいんだ」

「そちらはまた改めて依頼をお受けします。それに、お気持ちはありがたいんですが、宿はもう取ってしまっているので」


 リリル=サース=ロングトンははきはきと答えながら、戻ってきた街並みを眺める。

 間もなく夕刻。港町の喧騒も落ち着きつつあり、人々は足早に帰路を急いでいた。


 こんなふうに、人が自分の生活と向き合っている光景を見ていると、リリルの心はとても安らぐ。

 そこに在る当たり前の光景こそが、リリルが何を犠牲にしてでも手に入れたい光景なのだ。


 だからリリルは、今日もその当たり前の光景を得るために、船旅が終わって早々に依頼所へ向かった。

 アキラたちはあの大所帯だ、身動きがとりにくいだろう。その分自分が世界に対する貢献を行わなければならない。

 街を散策するようなことを言っていたアキラには後ろ髪を引かれる思いだったが、それでも何とか奮い立ち、依頼書に従ってタイローン大樹海まで足を運ぶことになった。


 タイローン大樹海とは、モルオールを二分する巨大な樹海である。

 その樹海には多くの民族が住み着いているらしく、今日の依頼主はその民族の内のひとつ、サルドゥの民だった。

 依頼内容は、タイローン大樹海からこの港町までの護衛。

 どうやら近日中に彼らが定期的に行う儀式が催されるらしく、第一段階として民族およそ30名の人々を、この港町まで無事に送り届けるという内容だった。


 合流地点からこの港町まで大した距離は無く、出くわした魔物も大して強くはなかった。

 ヨーテンガース初の依頼で神経を尖らせていたリリルにとっては、やや肩透かしな結果に終わったのだが、目の前の男にとってはそうではないらしい。


 無精ひげを蓄えた恰幅のいい大男は、感心し切った顔でリリルを見ながら、響くような声で笑う。

 ヤッド=ヨーテス=サルドゥ。今回の依頼人であり、サルドゥの民の族長だった。


「いやいや。ここだけの話、最初にこんな少女をよこして依頼所は何を考えてんだ、って思ったもんだが、どうしてどうして、相当な武人だった。まったく、俺の目も曇ったものだ、すまんかったな」

「いえ。ご期待に添えたようで何よりです」


 背筋をピンと伸ばしてリリルはまっすぐに答える。

 身なりや強面の顔から、リリルは少しだけ苦手意識を持っていたが、ヤッドの態度には好感が持てた。嘘は吐かない人物のようだ。

 街の入り口で馬車から荷下ろしをしている男たちは、こちらの様子を伺いながら、やや呆れ、やや笑いながら手を動かしている。

 ヤッドはいつもの調子なのだろう。サルドゥの民たちからも愛されている族長のようだった。


 自分の方も、随分と気に入られてしまったようだ。

 ヤッドの方から依頼料の上乗せとでも言うように、宿代を負担しようと言い出されたのだ。

 もっとも、この依頼の定員は5名ほど。結局リリルしか請けなかったらしく、依頼料は随分と安上がりで済んだようだが。


「しかし、あんたが受けてくれてよかった。俺たちは樹海の中なら何とかなるんだが、外に出ると何があるか分かったもんじゃない。あんたが受けてくれなかったらどうなってたか。あとで依頼所に文句言ってやる」

「そのことでしたら、依頼所は少し騒ぎになっていましたよ。なかなか上手く機能していなかったみたいです」


 依頼所は、多くは酒場のような内装をしている。

 依頼の受付や発行が本来の仕事なのだが、それゆえに多種多様な人々が集まり、必然、情報交換が盛んに行われるのだ。

 リリルに限らず、情報収集は主に魔術師隊の支部と依頼所で行うことになるのだが、リリルは混雑していた魔術師隊には入らず、そのまま依頼所へ向かうことにしたのだった。


 そこで耳にしたのは。


「……、」


 日は間もなく落ち、人の声も聞こえなくなっていくだろう。

 リリルはオレンジのフードを被り直し、塩風の吹き抜ける街並みに目を向けた。


 今、この街には3人の勇者がいる。


 自分とヒダマリ=アキラに加え、もうひとり。

 リリルはその人物と出逢ったことはないが、噂話だけでも、ヨーテンガースに足を踏み入れるに足る傑物だ。


 流石にヨーテンガースといえどもこんな事態は稀であろう。

 依頼所はひっきりなしに自分たちの噂をしていた。


 そして、そこで小耳に挟んだ噂のひとつは、リリルの心の奥にとくりと落ちた。


「では、私はこれで失礼します」

「ああ、残念だ。だが、是非とも本番の方も依頼を請けてくれよ。2日後だからな!」


 ぺこりと頭を下げて、リリルは街の中へ歩を進めた。


 これからどうしようか。


 中途半端に時間が余ってしまった。大人しく宿に戻ろうか。

 リリルは人込みを避けて裏通りに入り、自分が取った宿の外観を思い起こす。


 見慣れていない裏通りでは、人の喧騒が嘘のように静まった。

 遠くから規則的に、波の音が耳に届く。

 街灯がいくつか壊れているのか、空気が眠りに落ちたように暗くなり、遠くの路地が浮かび上がるように見える。

 幼い頃、何度か見たような、物寂しい空間だった。


 まるで別世界のようだ。

 道を覚えるのは苦手で、どうやって宿に戻ったらいいか分からないが、幸いと時間はある。のんびりとしていこう。

 もしかしたら偶然、彼に会えるかもしれない。


「……なんて」


 リリルは頭を振った。

 “あの噂話”が自分の中で消化し切れていないのだと、冷静に自己分析してみる。


 下らないことを考えていないで、今は目の前の現実に向き合おう。

 今この街にいるヒダマリ=アキラ。

 彼は噂通り、立ち寄る町や村で事件に巻き込まれている。そしてそれを乗り越えてきた立派な人物だ。

 そしてもうひとり―――スライク=キース=ガイロード。

 彼も同じく、行く先々で騒ぎが巻き起こっている。


 そうした星の下に生まれた、などと非現実的なことを考えてみるが、しかしそれは、現実問題として起こっている。

 そんな彼らが今この街にいるのだ。

 そうなると、何かが起こらないわけがない。


 ならば、自分は。


 リリルは顔をぺしぺしと叩いた。

 そうじゃない。自分が考えなければいけないことは、“そういう順番”ではない。


 やっぱり駄目だ。

 あの噂話が頭の中に残って離れない。


「―――ヒダマリ=アキラは月輪の魔術師を仲間にした」

「……!」


 その声に、機械的に進めていた足がピタリと止まった。

 何故気づかなかったのだろう。

 通り過ぎようとしていた路地の隅に、すっぽりと収まるように紺のローブを被った女性が座っていた。

 女性の前にある小机は、絹のテーブルクロスですっぽりと覆われている。

 そこに水晶玉でも乗っていれば占い師そのものだったが、机の上には何もなく、女性は行儀悪く膝をついて身を乗り出していた。


 何故か背筋が凍りついた。

 こんな光景を、自分はどこかで見たことがある気がする。


「あなたは?」

「お気に障ったのならごめんなさい。私はヴェルバ。ただの旅の魔術師よ。人を見るのが趣味でね」


 ならば何故、彼女はこんな路地裏にいるのだろう。

 人をあまり区別しないようにしているリリルだったが、先ほどのヤッドと違い、このヴェルバと名乗った女性には警戒心を覚えた。


「あなた、リリル=サース=ロングトンよね」


 人に覚えられていることを、いつもは誇らしく思うのだが、このときばかりはリリルも眉を寄せた。

 言いようのない不快感を覚える。

 陰にすっぽりと収まったヴェルバという女性は、フードから僅かに覗いた口元を妖艶に歪める。

 声色から、歳は若そうだ。

 だが、それ以外の情報がまるで見えない。

 闇と一体化しているかのようだった。


 自分が具体的には何に警戒しているのか分からない。

考えようとしても、頭の中に靄がかかったように見えてこなかった。


「悩み事がありそうね。私に話してみない? 気が楽になるわよ」

「……それには及びません。私、急いでいますので」


 思わず嘘を吐いてしまった。

 ヴェルバはゆったりと笑う。

 見透かされているようなその口元に、リリルの心の中に生まれた小さな罪悪感が蠢き、足を進めることを躊躇わせる。


 その隙を突かれるように、ヴェルバは言葉を続けた。


「噂話の真実を知りたいの。ねえ、リリル。あなたは勇者? それとも月輪の魔術師?」


 考えないようにしていたことを突き付けられた。

 まるで自分の言葉のようだった。

 この女性と二言三言交わしただけで、頭や胸の中で様々な感情が蠢き、もがき苦しむようにリリルは胸を抑えた。


「そんなに怖い顔をしないでよ。実は私、あなたのファンなの。だから、興味津々でね。リリル=サース=ロングトンは気高き孤高の勇者なのか、寂しがり屋の女の子なのか」

「っ」


 今日、依頼で、ヨーテンガースの魔物と始めて対峙したときより、精神が高ぶった。


「アキラさんたちは、そんな理由で一緒にいるんじゃありません」


 言って、リリルは自覚した。

 やっぱり駄目だ。順番が違う。

 今自分は、自分のことよりも、アキラたちのことを言われたように思って怒りが昇ってきた。

 自分の思考や、感覚や、感性が、彼を軸にして回り始めている。

 止めようと思っても止められない。


 同時、その感情はヴェルバには見透かされたような気がした。

 身体が震える。

 もしこの感情を言葉にされたら、自分はもう正気ではいられないような気がした。


「ごめんなさい、怒らせるつもりなんてなかったの。本当よ」


 意外にも見逃された。

 それどころかヴェルバの声色は、本当に謝罪をしているようなものになっていた。


 リリルは頭に昇った熱が下がっていくのを感じ、ゆっくりと息を吐き出した。


「噂は噂のままにしておくわ。急いでいるんでしょう、呼び止めてごめんなさいね」

「いえ。こちらこそ失礼しました。では」


 リリルは足早に、逃げるように路地を急いだ。


 ヴェルバとの会話で、自覚してしまったことがある。


 自分は勇者と名乗り、世界平和に貢献してきたつもりだ。

 そこには誇りもあり、まだまだ精進せねばと思ってはいるが、ある程度の自負もある。

 だから、アキラたちとはライバルということになるのだろう。


 だが、あの噂話―――リリル=サース=ロングトンは、ヒダマリ=アキラの月輪の魔術師となった。


 それを聞いて、自分が思ってしまったこと。

 複雑な感情を置き去りにすれば、自分はきっと、その噂話に―――心地良さを覚えてしまった。


 間もなく裏路地を抜けそうだ。その先には何があるか分からない。

 リリルは、呼吸を整えながらゆっくりと足を踏み出していく。


 今も裏路地に残っているであろう彼女が何者なのかまるで分らなかったが、振り返る気にはなれなかった。


―――***―――


「バオールの儀式」


 ホンジョウ=イオリが聞き覚えのある固有名詞を口にした。

 “二週目”。この地で起こった出来事を、ヒダマリ=アキラは確かに覚えている。


 日も沈んだクラストラスの宿屋。

 アキラにあてがわれた部屋がこうした話をするときの会議室を兼ねるようになったのはいつからだったろう。

 面々は思い思いの場所に座り、その際奥、ベッドに深々と腰を下ろしながら、アキラは窓の喧騒からとり変わった波のせせらぎを聞いていた。

 多少の問題はあったとはいえ、平穏無事に過ごせた休業日。しかしこんな日が続くわけがないということは、この場の誰もが認識している。


 ゆえに定める必要があるのだ。これからの動向を。


「サルドゥという民族がいる。彼らは2日後、恒例の儀式を執り行うらしいんだけど、その護衛任務が依頼所に出されていた。勝手に決めて悪いとは思ったけど、この依頼を受けよう」


 早速方針を口に出したイオリは、肩を下げて形式張った謝罪をした。

 本当に形だけだろう。口ぶりからするに、すでに決定事項のようだ。

 依頼に関し、イオリに異議を唱える者はいないであろう。だが、この場の全員を代表するつもりで、アキラは口を挟んだ。


「なあ。もう全員“会った”んだろ? 回りくどく話してもしょうがない。イオリ。この依頼、あいつらも絡んでるんだよな」


 間髪入れずにイオリは頷いた。

 アキラはごくりと喉を鳴らす。ちらりと聞いた話では、イオリとサクはあのマルド=サダル=ソーグに会ったらしい。

 あの面々の中で最もまともに会話ができるのはあの男だ。情報を1番持っているのはイオリたちだろう。

 だが、イオリは口を開く前に、面々を見渡した。


「詳しくは話すけど、その前に、みんなの話も聞きたいな。マルドの話だと、彼らもある程度方針は決まっているらしいけど、どうなるか分かったもんじゃない、ってさ。話を聞いているだけで頭が痛くなったよ。何しろ今から関所を強引に突破して、4大陸に戻る可能性すらあるとかなんとか。彼の想定の広さには舌を巻いたよ」


 それはマルドが優れているというよりは、例のあの男が何をし出すか分かったものではないというアキラにとって単なる事実確認に過ぎなかった。

 もっともそれに付き合えるマルドも相当なのだろうが。

 イオリが頭を抱えていると、先程からうずうずしていた子供がひとり、元気よく手を上げた。


「あっし、キュルルンと遊びました!」

「あたしがカイラさんと話したこと伝えますね」


 全員がエリーに注目した。ティアが何かを言っていたが、耳を貸す者は誰もいない。


「そのバオールの儀式ってやつなんですけど、カイラさんも言っていました。打倒魔王を願う儀式らしいです。カイラさん、そういう各地の儀式とか好きらしくて結構詳しかったですよ。情報がほとんど出回らないヨーテンガースのものなのに有名だそうで。もしかしたらその依頼、カイラさんの希望なんじゃないかな……」


 世間知らずな風でも意外と押しの強いカイラならあり得るかもしれない。確かにマルドの言う通り、そういうものを嫌うあの男ならすぐにでもここを離れてもおかしくはないかもしれない。

 バオールの儀式。その儀式そのものは、1度経験しているアキラの記憶もほとんどおぼろげだった。


「儀式……ねぇ」


 思わず口から嘲るような声が出てしまった。

 エリーが鋭い睨みを利かせてくるがアキラにだって言い分はある。

 そういうオカルト染みたことはこの世界ではいまいち信憑性に欠ける。

 魔術というものは存在しているが、それには確かにロジックが存在する。信仰の対象である神すらも実在しているとなれば、ある意味この世界は、元の世界よりもオカルト領域の規模が小さいと言えた。

 当然、例外はあるのだが。


「アッキー、そう侮れるものではありませんよ。キュルルンも言ってました。中には偽物も多いらしいですが、本物を見たことがあるって。シリスティアで雨乞いなるものが成功したことがあるらしいです」

「偶然だろ? 雨が降らない日がずっと続いたら、そりゃ近々雨が降る」

「むぅ……むむむ」

「ちっ。私も半信半疑だけど、一応何らかの術式を組み上げる儀式なら見たことあるわ」


 言葉に詰まったティアに助け舟を出したのは意外にもエレナだった。

 部屋の壁に背を預けて立ち、苛立ったままの顔を窓の外に向けて続ける。


「何のためにやっていたかは知らないけど、儀式を執り行っていた連中は明らかに魔力を消費していたわ。でも結果、その場では何も起きなかった。それっておかしいじゃない? 対価を払って何も起きないなんて。だから、“何か”は起きたのよ」

「おお。おおお。夢がありますね」


 ティアがニコニコとして頭を揺らす。こうしたロマンがある話は彼女の大好物だ。

 しかし、エレナの言うことにも一理ある。漠然としたままだが、妙に信憑性があるような気がした。

 確かに、魔力を消費したら何らかの現象が発生するはずだ。


「でも意外ね。信じてないんだ。あんたはティア側だと思ってたけど」

「お前はどうなんだよ」

「あたしは……半々ね」


 エリーの返答には珍しさを覚えた。彼女なら徹底的に信じているか、全く信じていないかのどちらかだと思ったのに。

 まあ、アキラも同じく、まるで信じていないと言うわけではない。

 ただ今は、そうしたオカルトの世界ではなく、目の前の現実に目を向けたくなっているだけだ。


「……アキラ。それに、エレナさんもか」


 表情が険しくなっていたのか。それを見て、イオリの隣に立つサクが同じ表情で真っ直ぐに見てきた。

 やはりか。エリーとティアはその話を聞かなかったらしいが、どうやらそちらも、マルドから自分たちと同じ情報を得てきたらしい。


「あの男に会ったんだろう。それなら、あの話は聞いたか?」

「聞いたよ」


 アキラは立ち上がり、窓の外を眺める。

 昼間。あのスライク=キース=ガイロードと再開したときのことを思い出す。

 案の定、圧倒的に相性の悪かったエレナをなだめるのに随分と神経を使う羽目になったが、それでも少しだけ話すことができた。

 その中で出てきた儀式などよりも遥かに印象深い“とある固有名詞”は、事態の深刻さをアキラの脳髄に刻み込んだ。


「俺が聞けたのは少しだけだ。今、スライクたちは大きな依頼を受けるたびに面倒なのに絡まれているらしいな」

「こちらも聞いた。だからマルドさんからこの依頼に誘われたんだ。それに、この港町には今勇者が3人もいる。どうせ何かが起こるなら1ヶ所で起こった方が都合がいいとな」


 エリーとティアは首をかしげる。

 回りくどく話していても仕方がない。結論を言おう。

 ヨーテンガースに来て早々、再び大きな山場を迎えているのだと。


「『光の創め』」


 エリーの目が見開かれる。エレナの機嫌が、より一層悪くなったのが分かった。

 アキラが口にしたのは、すべての記憶を保有するイオリですら知らなかった、魔族の集団と思われる存在。

 その中1体は、ほぼ全員の猛攻を受けてなお、ほとんど無傷で去っていったらしい。


「スライクたちは魔門破壊を成功させてから、奴らに付け狙われるようになったらしい。多分、今回もそいつらが現れる」


―――***―――


 自分の勤勉さに涙が出てくる。

 ヒダマリ=アキラは、クラストラスの図書館に足を運んでいた。


 情報収集ならば魔術師隊の支部や依頼所で事足りることが多いのだが、現在街を騒がしている張本人がそんな場所に出向くのも憚れる。

 半ば消去法のようにここを選んだのだが、アキラ自身、自分の考えをまとめることが苦手なのもあって、話を聞くより自分で調べた方が色々と気が楽であったりもする。

 それにクラストラスの図書館は、街のいたるところに情報が流通しているのも相まって、昼過ぎだというのに閑散としていた。

 気を落ち着けたい今のアキラにとってはますます都合が良かった。


 昨夜。

 スライクたちから聞いた『光の創め』という魔族集団。

 一応アキラも魔門破壊のあと、調べようと思ったのだが、残念ながらアイルークでは全くといっていいほど情報が集まらなかった。

 遭遇する可能性が高まったからというわけではないが、アキラも個人的に件の魔族集団には興味がある。

 依頼は明日。

 その前に、調べられることはなんでも知っておきたい。


 そういう意味ではこの場所以上に最適な場所はないであろう。

 ヨーテンガースの入り口であるクラストラス。ここには数多くの情報が収集されている。

 閑散とした図書館を見てあまり期待できないと思ったのだが、適当に手に取った書物には、当事者がぞっとするほど正確にアイルークの魔門破壊での出来事が載っていた。

 それどころか参加者と思われている面々の簡易な人相書きまで載っている。これではまるで指名手配だ。

 手に取った書物はどうやらシリーズものらしく、各メンバーからその個人にスポットを当てた別の書への索引まで記載されており、辿っていくと自分たちの旅の軌跡すら読み解けるほどである。

 最も、そして圧倒的に索引が多いのは、魔門、そしてアキラたちが撃破したリイザス=ガーディラン。次いで、リリル=サース=ロングトンだった。


「……」


 ふと、誰かの視線を感じた。

 反射的に怒られそうな気になって、アキラは散乱させてしまった書物を記憶の限り手早く元通りにする。

 だが、視線の主からの気配は変わらない。どうやら“違う”らしい。

 アキラは平静を装って気配のする本棚の陰に歩み寄る。

 アキラが顔を出す前に、陰から小柄な影が静かに顔を覗かせた。


「よ、お。リリルか」

「こ、こんにちは」


 噂をすればというやつか。

 リリル=サース=ロングトンが、小さな本を小脇に抱えて小さく微笑んだ。

 この港町についたあと、街を回っていたのに見かけもしなかったが、丁度いい。

 明日のこともあるし、話がしたかったところだ。


「リリルも調べ物か?」

「は、はい。その、昨日は依頼が思ったよりも長引いて時間がなくなってしまって……。今日はじっくり情報収集をしたいんです」

「そうか、同じだな」


 ぎこちなく笑うリリルに違和感を覚えるも、流石の活動力には驚嘆した。

 あの船旅の直後に依頼を受ける気になるとは。

 アキラも戻し損ねた本を抱え、奥の読書スペースに彼女を促した。


「アキラさんは何を調べにきたんですか?」

「まあちょっと。明日の依頼に関係ありそうなことを」

「すみません、邪魔をしてしまって」


 いつものはきはきとした口調とは違う。妙に元気がないような気がした。

 彼女は感情がそのまま外に出る。なんとなく自分が悪いことをしたような気になる。

 アキラは椅子に座りながら、我慢できずに正直に言った。


「いや、邪魔なんかじゃない。リリルも宿はこの近くだろ。会えそうな気もしてた」


 照れ隠しに本を開いた。顔が上げられない。

 リリルがすとんと隣に腰を下ろしたのが分かった。


「私に……?」

「あ、ああ。なんとなく、だけど」

「そう、ですか。じゃあ、同じ、です」

「……そう、か」


 妙に緊張する。

 最近、リリルと会うと、妙に意識してしまう。

 彼女も持ってきた本を小さく開いては閉じを繰り返し、静かな図書館の中でその音だけが聞こえてくる。


「そうだ。リリル、話があるんだよ」

「え、あ、はい。何でしょう」


 気まずさを振り払うために、アキラは頭を振って話題を変えた。


「明日、俺たちはある依頼を受ける。できればリリルも一緒がいいんだけど、空いてるか?」

「はい、大丈夫です。空いていますよ。どんな依頼ですか?」


 こういう話になると、リリルはしっかりした物言いになる。

 あらゆるものに対して実直な彼女の美徳なのだろうが、その迷いのなさには少し不安を覚えてしまう。


「サルドゥの民の……なんだっけかな。何かの儀式の護衛だよ」

「まあ!」


 リリルの背筋がピンと伸びた。

 アキラがびくりとした視線を送ると、彼女は赤面して小さく咳をした。


「それなら私も別口からお願いされていました。丁度良かったです」


 そんな事情があるならよく空いていると言ったものだ。

 もっとも彼女なら、どちらも同時にこなすつもりだったと言いかねないので、口を挟む気にはなれなかった。

 それよりも、彼女に伝える必要があることがある。


「でも、アキラさんたちはどうしてその依頼を?」

「そのことなんだが結構事情が複雑でな。リリル、今この街で何が起こっているか知っているか?」

「……ええ。現在この街に、“もうひとり”がいるんですよね」


 リリルの瞳の色が深くなる。

 流石に知っていたようだ。そして、どうやら事情も把握したらしい。


「何かが起こるなら1ヶ所で、って感じだ。サルドゥの民には悪いけど、それでも放っておけない」


 サルドゥの民には本当に災難だろう。

 スライクたちが参加するだけで既に大事になりかねないのに、その上自分たちも参加するとなれば事件発生は確定だ。

 だがそれゆえに、こちらも万全を尽くさなければならない。


「……アキラさん」


 リリルが神妙な声を出した。


「アキラさん、それに、スライク=キース=ガイロードも、行く先々で事件に巻き込まれていますよね」

「ああ」


 とっくの昔に自覚していることだ。

 今さら疑いはしない。


「思ったことはありませんか? 自分が依頼を受けなければ、そんな事件は起こらない、って」


 アキラが顔を上げると、リリルははっとして首を振った。


「違いますよ、責めているわけじゃないです。聞きたいんです、辛くないのか、って。私は月輪属性だからなのか、偶然が必然になるという感覚があまりありません。事件に向かっていくだけです。でも私はあの魔門破壊で、確かに見ました。異常を超えた異常を。そんなことに毎回巻き込まれていて、アキラさん、大丈夫なのかっていう、その、興味、です」


 早口でまくし立てたリリルから、自分を責める気持ちがないことは確かにないとは感じられた。

 だがその瞳は、単なる興味本位ではなく、何か真剣さすら覚える意思を感じる。


「だけど仕方ないんだよ。例え俺やスライクが何もしなくても、選ばれなかった“刻”として事件は発生する。日輪属性の呪いだよ。だから、」


 言葉を続けようとして詰まった。

 聞いた言葉をそのまま自分の中に刻んだだけの事実。

 日輪属性の呪いは、そういうものなのだと。

 だが、口にして、今の自分とは重なっていないことに気づいた。

 リリルの真摯な瞳に対して、今の答えでは不十分のような気がした。


「……違うか。外から見れば被害まき散らかしているように思える張本人が何言ってんだ、って感じだけど―――その辛さを乗り越えたい。偶然だろうが必然だろうが関係ない。逃げられないから逃げないんじゃないよ」


 逃げたいと思ったことなど、数え出したらキリがない。

 だから今まできっと、逃れられないから飲み込まれていただけなのだろう。

 だけど今はそうではない。この世界で起こることから、逃げ出したくないから逃げないのだ。


 いっそ自分のせいで起こると言ってもらって構わない。だが、それ以上に、自分のお陰で救われる人をひとりでも増やしたい。

 利己的なものかもしれないが、それでも誰かを救うことに、自分のすべてを賭けようと思える。

 アキラは自分を笑った。本当に自分は変わったようだ。

 呪いに挑むスライクの意思や、誰かを救いたいと思うティアの願いや、目的をまっすぐに見据えるエレナの覚悟。挙げていけばそれこそキリがない。

 自分に関わってくれた多くの人々に影響され、しかしそれは自分のものになり、それが混ざり合ったような言葉が、この口から出てくるとは。


「多分俺は、この世界が好きなんだろうな」


 だから、すべてに向き合いたい。この呪いにも、挑みたいから、逃げられない。

 よりにもよって、出口の厳しいヨーテンガースに入ってから自覚するとは。

 我ながら運がない。


「……アキラさん」

「あ、悪い。てかなんか、そんな感じ。俺は大丈夫だよ」

「あの」


 喋りすぎたような気がした。

 照れ隠しに本を開く。しかしリリルはまっすぐにじっと見つめてくる。

 視線を向けると、リリルは神妙な顔をして、アキラの目を見据えていた。


「お話があります」

「……なんだ?」


 その様子に、アキラは姿勢を正した。

 ごくりと喉が鳴る。


 リリルがゆっくりと口を開く、そのとき。


「ねえ、見つけたわ。これでしょ? って、……リリルさん?」


 はっとして顔を上げたら、赤毛の少女がどこから引っ張り出したのか帯が壊れかけた古びた書物を抱えて睨んできていた。

 エリサス=アーティ。こっそり宿屋を抜け出そうとしたところで彼女に見つかり、案内役兼アキラのお目付役として図書館までついてきてくれたヨーテンガース生まれの女の子。

 先ほどの人相書きは、やはりあまり似ていない。この凄みは本人にしか出せないのだから。


 エリーはアキラを見て、硬直しているリリルに視線を移し、再度アキラは見据え、小さく息を吸った。

 大好きなこの世界でも、向き合いたくないことがあった。

 こっそり宿屋を抜け出そうとしたという事実と、リリルがここにいるということにはなんら繋がりがないのだが、エリーからはどう見えるか。

 リリルには偶然会っただけなのだと強く主張したいのだが、生憎と、今さっき偶然だろうが必然だろうが関係ないとこの口は言っていた。


「……人ばっかりに働かせて。リリルさん、どうもです」

「エリサスさんと一緒だったんですね、こんにちは」

「だからエリーでいいですって」


 ティアを筆頭に、リリルが口にする愛称は定期的にリセットされる。エリーのこの台詞を聞いたのは何度目か、随分と辛抱強いと思うが、アキラは口を挟まなかった。


 エリーはとりあえずこの場では色々と飲み込んでくれたようだ。

 姿を消したと思えばまた女性と一緒にいる、と毎回のように言われ、エリーにまたぐちぐち言われるのかと思ったが今のところは救われたらしい。

 アキラは可能な限り気配を消す。

 “それ以上の負い目”もあるアキラにとって、今のエリーを刺激するのは絶対に避けたかった。


「では、エリーさん。それは?」

「えっと、ねえ、どこまで話したの?」

「明日の依頼受けるところまで、かな」


 リリルは頷く。

 そうだ。真剣に依頼に向き合おう。余計なお喋りはご法度だ、時間がない。何しろ明日だ。


「じゃあ『光の創め』についてはまだなのね」

「……!」


 リリルの瞳が深くなる。

 自分とリリルは魔門には行かなかったから実物は見ていないが、その脅威は当然聞いている。


「明日の依頼、また例の魔族が出てくるってことですか?」

「かもしれない、だ。だからこそリリル、明日の依頼、気が抜けない」

「問題ありません。私はいつも通り、真剣に協力します」


 リリルのまっすぐな視線を受けていると、視線が遮られた。

 拗ねた表情のエリーがリリルとは反対側の隣に座ったと同時、腕を伸ばして、やや乱暴に古びた書物をアキラとリリルの間を通して机の上に置いた。


「……どこにあったんだよこれ」

「あっちの方。情報が多過ぎて探すの苦労したわ。事件別にはまとめられているみたいだけど、存在別……横串のまとめ方があんまり無いみたい」


 そういえば先ほど見た索引はほぼ別の事件につながっていた。

 ここにはあらゆる情報が集まるという。人物、あるいは魔族ごとにまで整理していたら処理が追いつかないのだろう。

 多少無駄になろうが、事件別に整理していた方が楽なのかもしれない。そういう意味ではアキラが見つけた索引付きのあの書物はかなりの当たりだったのだろう。

 誰が纏めているか知らないが、随分な物好きがいたものだ。


「こんなに有名な集団なんですか? 私も調べてみたんですが、何も分からなかったのに」

「リリルも知らなかったのか。ヨーテンガースの図書館が凄いってことか?」

「そうじゃないわよ。これ、別に『光の創め』だけがまとまっているわけじゃ無いみたい」


 目の前の古びた書物は正面から向かい合えばかなり分厚い。

 これらがすべて奴らの情報ならかなり有益になりそうだったのだが、エリーは肩を落として本をめくった。


「これ、今まで現れた魔族の集団についてまとめられている本みたい。具体的に言えば歴代魔王軍ね。ほとんど字が色褪せてて前半は読めたもんじゃないけど、後半に出てくるわ」

「歴代魔王軍……か」


 過去の勇者たちが、自分の先人たちが討ってきた諸悪の根源。

 リリルは三代目勇者の大ファンだ。表情を隠せない彼女は、少し残念そうな顔をしていた。

 自分だって初代勇者が討ったという魔王に興味は引かれていたが、余計なことに時間を割いている場合ではない。


「つうか、歴代魔王と同じ本に纏められるって、やっぱ結構やばい奴らなのか」

「そういうことになるわね」


 相変わらずなんてことのないように彼女は言う。

 度胸があるのか、そういう風に振舞ってくれているのか。

 こういうときのエリーには、頼もしさの反面で、リリルとは別種の言い知れぬ恐怖を覚える。


「あった。こいつね、あたしたちが遭ったのは」


 分厚い本をめくっていくと、後半、そのページに辿り着いた。


 『光の創め』。

 主にヨーテンガースを中心に目撃されている魔族集団。

 目的は謎に包まれているものの、噂では数世代前の魔王が猛威を振るっていた頃ですら活動していたという太古の存在たち。

 魔王を討つという使命を持った歴代の勇者たちも、その多くは出遭うことすら叶わなかったという。


「……」


 アキラは概要を読んで、以前と同様の感覚を味わった。

 “正規ルート”から外れた存在。

 それは以前、4大陸を滅ぼし回っているという最古の魔族―――アグリナオルス=ノアを思い起こさせる。

 魔王の討伐に死力を尽くすべきである勇者たちが手を伸ばせなかった魔族。それが、このヨーテンガースにも存在している。


 そして。エリーが指差したそこには、魔門破壊の際に現れたという『光の創め』の一員が記されていた。

 エリーも、そしてリリルも、気づいているのであろう、目を見開いていた。


「お前たちは遭ったんだな、この―――『盾』のルゴール=フィルに」

「『盾』……って。え、ちょっと待って、他は?」


 エリーがゆっくりとページをめくっていく。

 ページを読み進めると、『光の創め』は世界で起きた大きな事件の随所に関わっていることが分かってきた。

 しかし『 光の創め』自体の活動はそれほど大きなものではなく、あくまで小さなノイズとしての役割しか果たしていない。

 それ故に、歴代勇者たちも積極的に討伐しなかったのであろう。

 だが、アキラの受ける印象はまるで別だった。ひとつひとつは小さい。目的も分からない。しかしそれぞれに、なんらかの意図のようなものを感じざるを得なかった。

 巨大な光の陰で、まるで何らかの調整をしているような印象を受ける。


 そして見つけた『光の創め』の最終ページ。

 より危険とされる構成員。


 『剣』のバルダ=ウェズ。


「……ちょっと真剣に、有事の際の編成を考えた方が良さそうね」


 見つけられた情報はそれだけだった。

 エリーは表情を正して本を閉じる。


「『盾』に『剣』。もし『光の創め』が、”あの存在たち“と同じ役割を担っているとしたら……まずいですね」


 リリルも神妙な声を出した。

 流石に有名な役割の話だ。アキラですら知っている。


「なあ、お前たちが遭ったのは、本当にこのルゴール=フィルなのか。『盾』だぞ」

「そうね。金曜属性だったし、ほぼ無傷だったんだから納得はできる。でも、あれで『盾』?」


 もたらした被害は、魔門の樹海全域に及ぶ。

 もしエレナのように単騎で対抗できるような存在がいなければ、その“攻撃能力”にあの面々は容易く全滅していたかもしれなかったらしい。

 『盾』という言葉を安直に捉えるのもどうかと思うが、魔族ともなれば例え防御を担う役割であったとしても、規格外の被害をもたらすのだろう。

 だがもし、記されていたこの『剣』が現れようものなら、その被害は想像もつかない。


「魔門破壊のときのようなことにはならないようにしましょう。私が口を挟むのも妙ですが、アルティアさんは絶対に戦線に出さないでください」

「あたしもイオリさんにそう言うつもりです。ティアは徹底的に温存。それに、カイラさんたちにも話さなきゃ。治療ができそうなのはカイラさんと……、あと、多分マルドさんもできるんじゃないかな」


 治療可能な者は有事に備えなければならない。

 治療すら焼け石に水になる可能性すらあるが、もし戦線に出て離脱しようものなら、万が一があったらアウトだ。

 何より攻撃役の方が潤沢に揃っている。治療者は貴重なのだ。

 自分たちより『光の創め』に詳しいあの面々なら、この意図も伝わるだろう。


「それに……。アキラさん。あなたも戦闘は可能な限り控えてください。多少コントロールできるようになってきてはいますが、やはり蘇生クラスの魔術となると消費は大きいです」

「ああ」

「この前だって、わた、し、に」


 真剣に考察を進めていたリリルが、はたと気づいたように顔を上げ、真っ赤になった。

 アキラも意識が明日から今目の前の現実に戻ってくる。

 すると目の前には、無表情になったエリーがいた。

 アキラは知っているが、エリーが最も危険なのは、顔から表情が消えたときだ。


「とにかく、誰でもいいから見つけよう。今日中にスライクたちとも話をしておきたい」

「待って」


 立ち上がったアキラは裾を掴まれた。

 エリーは、アキラとリリルの表情を見比べて、なお無表情だった。


「なんだよ、急ぐぞ。真剣なんだ」

「違う気がする。なんだろう、あれ、何か引っかかるの」


 真摯な表情を浮かべているつもりなのだが、エリーは動じていなかった。


「ねえ。治癒魔術、上手くなったの?」

「ええと、まあ少しはな」

「でもあたし見てない。でもリリルさん知ってる」


 カタコトだった。

 アキラの背筋がさっと冷えていく。


「ま、待ってください!」


 真っ赤になって震えていたリリルが勢いよく立ち上がった。

 すぐに分かった。彼女は火に油を注ぐつもりだ。


「私が言い出したんです! 練習しましょうって、その、船の中で。私も初めてで、全然ダメで、もう本当にすごかったから、ほとんど気絶しちゃって、その、あんまりお役に立てなかったですが、でも、だんだん私も慣れてきて……、今では良……あ、ええと、その。必要なことだったんです!」

「ふえ」


 エリーが何か奇声を発し、俯いた。

 目を瞑ってまくし立てたリリルが震えながら腰を下ろす。

 アキラもゆっくりと隣に腰を下ろし、明日の天気について真剣に考え始めた。


 3人で横並びになり、静けさを取り戻した図書館の中、ただじっと、日が落ちていくのを待った。


―――***―――


「わくわくします。キュルルンたちまだですかね? 同じ宿なのに、カーリャンもいなかったですし」

「ティア!! お前ふざけんなよ!! 昨日どこにいた!?」

「ええっ!? あっしが何かしましたか!?」

「お前がいたら、お前がいたら、きっとあんな空気には……くそ」

「わ、わ、わ」


 翌日。

 クラストラスの港で、アキラたちはサルドゥの民の依頼開始を待っていた。

 依頼の案内人と思われる女性が海の向こうを眺めながら、周りの視線にびくびくしながら独り言を呟いている。

 開始時刻は間も無くだ。だが、どうやら海の向こうからくるはずの積荷が遅れているらしい。まずまずの大人数が集まったこの港で、自分のせいではないのに視線を突き刺されるあの女性には同情するが、つい八つ当たりをしてしまったティアの方が可哀想だった。


「エリにゃん、エリにゃん、あの、アッキーが怖いです。めっちゃ荒んでます。あっし昨日、キュルルン探して迷子になってただけなんですよ」

「それが悪い」

「エリにゃんもだーーっ!?」


 ティアがエレナに泣きつきに駆け寄っていくのを横目で見て、アキラはエリーから顔を背けた。

 昨日の一件以来、めちゃくちゃ気まずい。

 リリルも先ほど見かけたが、彼女も彼女で顔を背けて離れていってしまった。


「アキラ。もうすぐ依頼が始まるぞ。あまり遊んでばかりもいられない」

「そうだね。ほら、積荷を乗せた船も見えてきた」

「……ああ、分かっているよ」


 逃げ込むように立ち寄ったサクとイオリのいつもの様子に、自分の荒んだ心は落ち着きを取り戻せた。


 アキラは頬を張る。

 辛うじて自分たちが集めた『光の創め』の情報をサクとイオリに伝えたところ、作戦には異議がないようだった。

 彼女たちは初日と同じく、ふたりで情報収集に勤しんでいたらしい。

 決して楽観できる相手ではないということは、多少沸き立っているとはいえ、今この場に立つ自分たちの共通認識になっている。

 まもなく、日常が終わる。


「……アキラ」

「ああ、お出ましだ」


 アキラは思わず鋭く視線を向ける。

 離れていたリリルも、姿勢を正しているのが分かった。

 参加した他の旅の魔術師たちも、情報は掴んでいるようで、担当の女性に突き刺していた急かすような視線を外し、その様子をじっと眺め始める。


「はっ、始まってねぇのかよ。随分悠長だなぁ、おい」


 ひとりの大男がその大きな歩幅で歩み寄ってくる。

 アキラも、そしてリリルも思わず歩み寄り、その場の視線はただ一ヶ所に集められた。


「初めまして。あなたの噂は聞いていますよ。今日はよろしくお願いします」

「あん……? ああ、お前が、か。はっ、ますます愉快なことになりそうじゃねぇか」

「知ってはいるみたいだな。依頼の前に、話しておきたいことがある」


 リリル=サース=ロングトン。

 スライク=キース=ガイロード。

 そして、 ヒダマリ=アキラ。


 この依頼に参加した、他の旅の魔術はこう思うだろう。この依頼は盤石だと。

 だがその当事者は、味わい慣れたこの危機感に、微塵にも表情を崩さなかった。


 そして。


「……」


 “その存在”を視界の隅に捉え、アキラは気づかれぬように拳を握った。


 当然、忘れていたわけではない。

 謎多き『光の創め』が現れる可能性が高いこの依頼。

 しかし、アキラにとって、出遭ってすら未知の存在も現れることを。


 日常は終わる。

 この依頼は、まるで予断を許さない。

 この3人の勇者がいてなお、この依頼は磐石と思えない―――諸悪の根源が存在するのだ。


「みんな、こっちに火を焚いた。潮風は冷えるだろう。依頼も始まりそうだし、こっちで休むと良い」


 好意的な態度を振る舞う、紺のローブを纏う男性。

 ブロンドの長い髪をそのまま垂らし、皆を労わるように微笑みを携えている。


 いかに人間のように振る舞ったとしても。忘れていないぞ―――その顔は。


「勇者様たちもどうですか? 私はラース。この依頼では頼りにしていますよ」


 “魔王”―――ジゴエイル。


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