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おんりーらぶ!?【第二部】  作者: コー
東の大陸『アイルーク』編2
46/68

第52話『神のみぞ知る』

―――***―――


―――知り合いの魔術師から何か聞けたか?


―――あまり詳しくは。だけど、噂は嘘じゃないみたいだぞ。


―――お、おお。じゃああっちの方はどうなんだ、魔族の方。


―――魔王直属のか? ああ、そう言えば嘘だとは言っていなかったな、多分、本当の話だ。


―――はあああ。じゃあ本当にそうなのか。本当に魔門は破壊されたのか。それどころか魔王直属の魔族すら撃破したってのか。


―――おい。あんたら詳しいのか、こっちに来て聞かせてくれ、奢らせてもらう。


「ふ……。ふふ」


 エリサス=アーティは街の雑踏から聞こえるその噂話に、辟易していた。

 1本に結わいた赤毛を揺らし、胸に抱えた買い物袋をカサリと鳴らし、足取り軽やかに宿を目指す。


 まったく、いい年をした大人がこんな昼間から酒場に入り浸り、酒を呷り、通行人の迷惑も顧みずに大笑いをしているとは。

 偉大なる神様が現れる神門のある街だというのにみんな気を抜きすぎだ。

 いくら平和なアイルークだとはいえ、もう少し何とかならないものか。

 大体、魔王を討つという使命を持つ勇者様の話だ。今さらそんなことに目を丸くしているとは。


 エリーはさりげなく足を止め、店の前から事情に詳しいらしい男がいる席に耳を傾けた。


―――それで、結局誰だったんだ、新聞通り、ヒダマリ=アキラなのか?


―――俺はリリル=サース=ロングトンだって聞いたが。


―――魔門破壊はスライク=キース=ガイロードの専売特許だろ。


「む」


 魔門破壊に参加したのはヒダマリ=アキラとリリル=サース=ロングトンだ。間違えないで欲しい。

 厳密には彼と彼女は魔門の破壊には参加せず、より危険な相手と戦っていたのだが、あそこまで間違われるとむっとくる。


 あの魔門破壊から10日。

 その奇跡とも言える出来事はすぐに噂となり、ニュースとなり、世界中に広まっていった。

 今も語らう彼らは、その奇跡を起こした当人たちがこの街にいることを知らないだろう。

 魔門の場所は秘匿されており、噂の中心人物がこの街から魔門へ向かい、そして今この街で休養中ということも知らないだろう。


 そういう意味もあって、街のいたるところでそういう話をするのは控えてもらいたい。

 “あの男”が調子に乗ってしまうではないか。


 まあ、ただ、調子に乗ってもいいことを成し遂げたのは事実だ。

 うむ、とエリーは頷く。少しくらいなら、まあいいか。


―――いや、ヒダマリ=アキラとリリル=サース=ロングトンが参加したらしい。まったく、本当に話題に事欠かない勇者様たちだ。行く先々で奇跡を起こしている。


 うんうんと頷き、ギュッと買い物袋を抱きしめた。

 自分は変わったかもしれない。

 前は彼が話題になるたび、胸が締め付けられるような焦燥感に駆られていたのを思い出す。

 もちろん今もその感情は湧き上がるが、それ以上の誇らしさのようなものを覚える。

 頼りがいを覚えるというか、何というか、そう、楽しくなってくるのだ。

 彼が得たいと言っていた信頼は、きっと今、形になっている。そう思うと、自分のことのように喜ばしい。

 まあ、黄色い声援が混ざってくると話は変わってきそうだが。


 ひとしきり感心しきっている男たちを流し見て、エリーは預けていた壁から背を離した。

 そろそろ戻ろう。彼ら彼女らにその名を轟かせた勇者様の元に。


―――で、ここからが知り合いの魔術師に聞いた話なんだけど。


―――おお、どうした。


―――魔門を破壊したのは勇者様じゃないらしい。


 どよりとした空気が酒場から沸き上がった。

 エリーも思わず足を止める。


―――なんでも、ヒダマリ=アキラの七曜の魔術師がやったそうだ。火曜の魔術師。エリサス=アーティって女性らしいけど。


―――え。アーティ、って確か前にも。


―――ああ、あの噂のな。まあ、血縁者かどうか分からない。


 流石に耳をそばだてた。魔術師に知り合いがいるらしいというあの男。本当に詳しい事情を聞いたらしい。

 エリーにしてみれば最後の最後、本当に少しだけ力を貸せただけだ。あまり貢献出来たとは思っていないのだが、噂を頼りにする彼らにとっては関係ないのかもしれない。


―――さすがに勇者様。そりゃ仲間も傑物揃いか。さぞかし優秀な魔術師なんだろうな。


 止めて止めてとエリーは顔も赤くしながら首を振った。

 通行人が不審な目で見てきているような気がしたが、気恥ずかしさからくるむず痒さを払うことを優先した。


―――ああ、そのことなんだが……。信じられないことにその女。魔門を殴って壊したらしい。


―――は、はは。そんな馬鹿な。そんな脳まで筋肉でできているような人間が……、いや、勇者様の仲間ことだ、本当かもしれない。


「…………」


 自分から笑顔が消えたのが分かった。

 そして忘れかけていた焦燥感が沸き上がってくる。

 この噂が広まろうものなら、自分の名前は意味を持つ―――女性として社会復帰できないレベルで。


「まずは噂を漏らした魔術師を探さないと」


 酷く冷静になり、エリーがゆっくりと顔を上げると、歩みを緩める通行人たちが震えた表情を浮かべて道を開かれていく。ついている。


 魔術師隊の支部までの地図を頭に描いた。

 そういえば、中央の大陸から来た魔導士が、話があると言っていた気がする。丁度いい。


 エリーは、一刻も早く悪しき噂の温床を叩くべく駆け出した。


―――だがこうなると、いよいよか。彼らもそろそろ“あの場所”へ向かうだろう。


―――ああ、そうなるか。ヒダマリ=アキラの噂、もう中々聞けなくなるだろうなぁ。


―――まったく、勘弁して欲しいぜ、中央の大陸様にはよ。


――――――


 おんりーらぶ!?


――――――


「っはぁぁぁあああ……」

「ふ。いつにも増して楽しそうだね」


 ヒダマリ=アキラはべったりと机に張り付くように上半身を倒し、身体中から息を吐き出した。

 ここはヘヴンズゲートの魔術師隊の支部。

 医務室や会議室を通って奥まで進むと、誰かの趣味なのか古風な喫茶店を思わせるような休憩室があり、ここ数日アキラはここに入り浸っていた。

 それなりの資格を有する者たちの支部で、最初はそんな彼らに立場上色々と気を回されていたのだが、幾度となく足を運んでいるとそれなりに馴染んでくる。

 今では簡単な挨拶程度で奥まで通されるようになり、アキラにとってはこの街で数少ない憩いの場になっていた。


 コトリ、と目の前にカップが置かれた。僅かに甘い香りがする。

 アキラが座っているのは休憩室のカウンター席で、バーテンダーの位置に立っているのはホンジョウ=イオリ。

 彼女は憐みに満ちた顔でアキラを眺めると、差し出したカップを小さく指で弾いた。


「冷たい飲み物もいいと思ったけど、いい茶葉が売っていたんだ。疲労回復の効果があるらしい。ここのを使ってもいいと言われているけど、こう連日じゃ流石に悪い気がしてね」


 清潔さを印象づけるような純白のブラウスの上に、皴ひとつない紺のエプロンを身に着け、イオリは姿勢を正して微笑んだ。

 様になっている。そのまま奥の椅子に腰を下ろし、本でも開いていたら絵になるだろう。

 差し出されたカップに口を突けると、適温の液体が甘い香りと共に喉を潤した。


「お前お茶とか淹れられるのか。凄いな」

「茶葉があれば割と誰でもできることを褒められてもね。まあ、少し趣味にしたことはあるよ。どちらかというとコーヒーの方が好きなんだけど、この街だと見当たらなかった」

「コンビニとかあればな」

「まあ無いものねだりしてもしょうがないよ」

「イオリはあんまりコンビニ行かなそうなイメージあるけどな。なんか専門店ばっか行ってる感じする」

「……女子高生、舐めてる?」

「昔の話だろ」


 冷たい視線が突き刺さった。

 ここ数日、こんな話ばかりしている気がする。

 アキラがここを訪れると、イオリは決まってさりげなく奥に入り、あれこれと世話を焼いてくれ、時間がゆっくりと流れるような空間で話をする。

 元の世界の話が通じる人間は目の前のイオリだけだから、最初は新鮮さもあったのだが、今となっては雑談程度の感覚しかない。

 彼女が共に行動するようになってから色々と駆け足だったこの旅の中、こんな時間はなかったように思うが、今となっては昔の話だ、その頃彼女とどんな話をしていたか具体的に思い出せない。

 ただ、イオリの表情が、前より柔らかくなったような気はしていた。


「それで、今日はどうしたって。誰を撒いてきたのかな」

「さあな、多分どっかの町の魔術師か魔導士だと思う。道を曲がったらばったりだ。顔も割れてきたらしい。とにかく事情を聞かせてくれってうるさくてさ」

「はは、それでここに逃げ込んだのか。灯台下暗しって奴なのかな」

「ここの支部の人には目を瞑るように頼んでるから、ある意味一番安全だ」


 今、アキラは色々と悩まされていることがある。

 10日ほど前、自分たちは魔界へ通じるという魔門の破壊を成し遂げた。

 全員半死半生状態だったため、現在はこの街に留まり休養中なのだが、どうやらそれが良くなかったらしい。


 事後調査として、数多くの魔導士や魔術師がこの街へ押しかけたのだ。

 今までも大きな事件を解決してきたが、その場所に留まったのはこれが初めて。今までもそうした調査がされていたのだろう。

 破壊されても魔門の場所は秘匿であるため、事を大きくしないように民間人に扮して街に入ってきている彼らは、まずこの支部に情報収集の協力を仰いだらしい。

 そしてある者は魔門の跡地へ向かい、そしてある者は最も詳細な情報を持っているはずの勇者様を直接訪ねてきたのだ。


 本来、魔術師隊からの勇者様への過度な接触は禁じられているらしいが、魔門破壊、そして魔王直属の魔族の撃破ともなると話は違うらしい。

 結果アキラは、昼夜を問わず、事件の詳細を当事者の目線から幾度となく話す羽目となった。


「てか、魔術師隊は仲悪いのかよ。今日も前にした話を聞かれたぞ。俺はいったい何度同じこと言えばいいんだ」

「あそこまで無計画に情報収集するのは珍しい、というかまずないよ。だけど流石に事が事だ。魔術師隊の本部でも大慌てなんだろうね、アラスールも何度も報告を求められて辟易していたよ」


 愉快そうに笑うイオリの脳裏には、多方面から指示を飛ばされ、右往左往している魔術師たちの姿でも浮かんでいるのだろう。


 アラスールとは、魔門破壊に参加した中央の大陸の魔導士だ。

 この街に戻ってきてからアキラは姿を見ていないが、今頃彼女は報告書と向き合っているか逃亡しているかだろう。


「イオリ、そういうの得意そうじゃないか。手伝ってあげればいいのに。というか俺を助けてくれればいいのに」

「嫌だよ、僕は休暇中の身だ。……僕が何のためにこの支部に入り浸っていると思っているんだ」

「お前、最初からこうなると分かっていたのか」

「事後調査が盛大に行われるのはね。そのとき勇者様が旅立っていたら仕方がないけど、当人がいるなら聞いた方が早いのは当然の成り行きだろう」

「協力してくれよ……」


 数日前、とうとう噂は民衆にも広まったようだ。アキラを尋ねる者も増えるかもしれない。

 そう言えば最近、イオリが魔導士隊のローブを身に纏っているのを見ていない。

 この騒ぎを見越して民間人に扮していたのだろう。


「協力する気は起きないよ」

「イオリ……頼むよ」

「だって、これは嬉しい悲鳴だ。君が上げさせた世界の歓喜の声だ。君が得た―――信頼だ。静めさせる気は起きないな、僕自身が見ていたいから」


 からかわれているのかどうなのか分からなかった。だが、イオリの笑みは柔らかく見える。

 あの事件を超えて、自分は変わったらしいが、アキラはイオリにも変化があるような気がしていた。

 そう考えると、あの事件は自分たち全員に何らかの変化をもたらしたのかもしれない。

 そしてそれはきっと、悪いことではないのだろう。

 ひとりを除いて。


「……ところで」

「ん?」

「触れようかどうしようか迷っていたけど、流石に聞いてみるかな。アルティアも何か飲む?」

「いえ、今は任務中です。そしてティアにゃんです」


 アキラの背中からくぐもった声が聞こえた。

 普段背に下げている剣は今は無く、その代わりに青みがかった短髪の少女が覆いかぶさるようにぶら下がっている。


 アルティア=ウィン=クーデフォン。

 小柄な彼女はアキラの背中をよじ登って首に腕を回すと、おぶさった姿になってアキラの耳元に顔を出した。


「ティ……、ティア、さ、叫ぶなよ……。っ」


 こめかみに銃口を突き付けられている気分になって、アキラが震えた声を出すと、ゴン、と頭を打った。

 彼女は首でも傾げようとしたのだろう。

 背から降り、しばらく頭を押さえて蹲っていたが、しばらくするとやや不服そうにアキラの隣の席に腰を下ろした。


「まだ続いているんだね、それ」

「はい、油断はできません。というか、ちゃんとイオリンも目を光らせてください」

「で、何か飲む?」

「い、いえ、あっしはまだ、お仕事中でして」

「そうか、甘めのお茶もあるんだけど」

「……うう、イオリン、ずるいですよ。飲みたいです……」


 イオリは笑って別の茶葉の支度を始めた。

 アキラがため息交じりに隣を見ると、にこにこ笑っていたティアが思い出したように表情を正し、アキラを睨んでくる。笑わせようとしているようにしか見えないが。


 事が起こったのは一週間ほど前だろうか。

 魔門の地から戻り、アキラは身体中が砕けるほどの重傷を負っていた。

 しかしこの世界の優しさの最たる例である日輪属性の力。

 尋常ならざる治癒力で、アキラはすぐにベッドから起き上がれた。


 しかし、起き上がれただけだった。

 身体を労わるようにゆっくりと立ち上がったのだが、特に損傷の激しかった左半身の感覚がまるでなく、アキラは糸のように切れた人形のように倒れ込んだ。


 問題だったのはそのシーンをこのアルティア=ウィン=クーデフォンに見られたことだった。


 そのときのティアは凄かった。

 街中に轟くほどの大声で泣き、溢れんばかりの治癒をアキラの身に浴びせ、警邏をしていた魔術師隊が魔物の襲来と判断し、危うく多くの町に備わっている避難命令が住民総てに出されるところだったのだ。


 医学の道に明るい専門家を呼び、命に別条がないと診断を受け、ようやく事は治まったのだが、ティアは納得しなかった。

 アキラも負傷はしているものの気力だけはあり、何より他のみんなの様子が気になってベッドを抜け出そうとしたのだが、目を光らせていたティアに毎度のように見つかってベッドに戻された。

 そんなことを繰り返しているうちに、すっかり治った今も、ティアはアキラが部屋から出ると、必ずと言っていいほど行動を共にするようになった。

 街に繰り出し、人ごみに紛れそうになると、身体に張り付いてくる。目を離すといなくなるかららしい。

 魔術師や魔導士の調査から逃げるときなど、背負わなければならないほどだった。最早怪我人がやっていい運動量ではない気がする。

 リハビリには丁度いいのかもしれないが。


「なあティア。俺はもう治ったんだって。もう大丈夫だよ」

「いーえ。駄目です。あっし、もう分かったんです。アッキーは無茶するって知ったんです。あっしの目が黒いうちは、好き勝手出来ると思わないでください」


 ティアはふんす、と腕を組んだ。

 問答無用なようだ。

 彼女のことだから放っておけばすぐに飽きると思っていたのに、なかなか粘り強い。

 実はまだ身体の節々が鈍い痛みを発しているのだが、そんなことを口に出そうものならどうなるか。


 自分たちは魔門破壊を達成し、自分は信頼を得たはずだ。

 しかし残念なことに、ティアにとっては両親の仇のはずの魔門破壊などどうでもよく、逆にアキラは彼女の信頼を失ってしまったようだった。

 ままならない。


「ほら、アルティア。少し甘さを強くしてみたよ」

「ティアにゃんですけど? ……わわ、めっちゃ美味しそうです。あっし、見た目とは違って、実は甘いの好きなんですよ」

「今日一番笑ったよ。鼻で」


 猫舌なのか何度も息をカップに吹き替えるティアには、イオリの言葉は聞こえなかったようだ。

 そんな様子を見ながら、アキラはイオリに助けを求めるように視線を投げる。

 イオリは肩を落として首を振った。

 味方がいない。

 ティアの気を逸らせるようなことが見つかればなんとかなると思ったのだが。


「……そういやティア。お前背が伸びてないか?」


 ちびちびとカップに口を突けるティアを見ながら、アキラは何となく口にした。

 ティアはピタリと止まると、彼女にしては珍しく、無表情で首だけ向けてくる。

 言葉の意味が理解できていないようだった。


「え……。え。本当、ですか?」

「いや、気のせいかな……。なんか、その椅子、足ぶらぶらさせると思っていたのに、つきそうだし」

「え、え、本当に、本当にですか。わわ、あのときよりもですか?」

「あのとき? いや、よく分からないけど、なあ、イオリ」

「うーん。言われてみれば、だけど」

「そういえば最近測れていなかったですが……、え、え。わ、わ、あ、あっし、どうすれば」


 わなわなと震え出した。

 言って気づいたが、ティアが大騒ぎしかねないことだったかもしれない。

 だが、真に感極まると、彼女は動揺を隠せないらしい。

 恐ろしいものを見る目で、自分の姿をぺたぺたと触っていた。


「もしかしたらアルティアはまだ成長期なのかもね。きっとまだまだ成長するんだよ」

「お、おおお、おおおお、そう、そう、ですか。そう、ですよね……!!」


 すごい。呼び方を訂正しないほどティアが動揺している。

 これを上手く利用すれば悩みの種がひとつ減るかもしれない。

 アキラは何とかティアを持ち上げようと、記憶を呼び覚ました。


「そうだティア。やっぱり気のせいじゃないよ、成長してる。俺にしがみついてたときも、そう感じた」

「へへへ、そうですかそうですか。あはは、困っちゃいますよ」

「もしかしたらエレナの影響もあるのかな? あいつの近くにいれば、あんな風になれるんじゃないか?」

「なんと! やっぱりエレお姉さまのお陰ですか! ふふふ、それもこれも、エレお姉さまがあっしの足を掴んで振り回してくれたお陰です……! ああ、なんて感謝すればいいんでしょう」

「あぶ……、まあともかく、やっぱりエレナがいい影響を与えてるんだよ。育ってる育ってる。ほら、胸だって結構当たってたし」


 ティアの笑顔がピシリと凍り付いた。

 喜びに震えていた彼女の表情がすっと失せ、ゆっくりと自分の胸に手を当てる。

 そしてぎこちなく顔をアキラに向けたとき、彼女の顔は真っ赤に変わっていた。


「え……、あ、わ、わた、私、当てて、当ててて、た、たん、です、か」

「あれ。え、どうしたこの空気。お前ティアだろ、どうしたんだよ……!?」

「う、うわ、うわわわ、ごっ、ごめんなさーーーいっっっ!!」


 逃げるように駆けて行ったティアの悲鳴が木霊した。

 あの往来ですら平然と抱き着いてくるあのティアが、あそこまで顔を赤くしたところを見たことが無い。

 もしかしたら身長だけでなく、羞恥心というものも育っているのだろうか。

 仲間のエレナのことを思い描いたからだろうか、余計なことを口走ってしまったらしい。


 とりあえず、ティアの監視は逃れられたようだ。

 開け放たれたドアの外にはすでにティアの姿は無く、アキラは静かにドアを閉めて元の席に戻った。

 すると、目の前のイオリが、ジト目になって、口元を歪めてこう言った。


「最っ低」

「自覚している」


 また信用を失ったような気がする。

 ままならない。


―――***―――


 ミツルギ=サクラはこの一週間余り、とある課題に直面していた。

 普段身に纏っている赤い衣は背後の椅子に預け、借り受けた鉄さびだらけの作業着を身に纏っている。

 鼻に付く鉄の臭いは強いが、もともと好きな臭いだった。


 ここは共に旅をしているアルティア=ウィン=クーデフォンの実家。

 彼女の両親は鍛冶屋を営んでおり、店内には武具が並び、店の奥には鍛冶場もある本格的なものだった。

 この店の店主は魔門破壊で協力を仰がれた。今は目も眩むほどの大金を手にしているためだろう、店は臨時休業となっており、この鍛冶場だけよしみで貸してもらっている。


 この場所で、自分はやらなければならないことがある。


「はあ。どんな使い方をしたらこうなるんだ」


 目の前には、ヒダマリ=アキラが使用していた剣がある。

 タンガタンザで鍛え上げた魔力の原石を使用しているこの武具は、こと魔術においては絶対的な耐性を持つ。

 サクが理解している戦場の必須事項は、武具を失わないことだ。

 強力な魔術が飛び交う戦場では、魔力の原石以上に頼りになる武具の素材は存在しない。


 だが、あの戦闘が終わったこの武器は、見るも無残な姿になっていた。

 刃はいたるところが欠け、ひびが入り、少し力を込めただけでもバラバラに砕けそうなほど損壊していた。

 魔力の原石が、魔術の力でここまでになるとは。

 しかし、彼が立ち向かった敵を考えれば道理だともいえる。


 いや、むしろよく原形を留めていたものだ。

 留めてくれていたものだ。


「よく守ってくれた」


 毎日のようにここへ通い、鍛冶屋の店主であるティアの父に助力を仰ぎながらも、徐々に修繕されていくこの剣に、サクはいつものように呟いた。

 意図して口にしているわけではない。いつも自然に出てしまうのだ。


 サクの主君である“勇者様”。ヒダマリ=アキラは、魔王直属の魔族と死闘を繰り広げた。

 自分はその場に居合わせなかったが、その光景はこの武器が物語っている。

 中央の大陸の魔導士が居合わせたという正確性もあるのだろう、魔門破壊の方が先行して民衆に広まっているらしいが、魔門破壊に劣らず、魔王直属の魔族の撃破は異例中の異例だ。

 今までの伝説級の事件の解決とは毛色が違う。それは最早、魔王撃破すら視野に入ってくるほどの大手柄だ。

 世界中が何ら迷いなくヒダマリ=アキラを世界の希望と認識するだろう。

 裏を返せば、それだけの相手なのだ。


 首皮一枚で勝利を収めたというアキラ。

 もしこの武器が砕けていたら、アキラは間違いなく命を落としていた。

 そう考えると、身体中が恐怖で凍り付きそうになる。

 そして同時に、サクは思うことがある。


 アキラはまだまだ先の世界へ向かっていく。


 きっとこの先、成長を止めない彼は必ず直面するだろう。

 彼以外では飛び込むこともできない敵の中へ、彼以外では斬りかかることもできない敵へ、挑まなければならないときに。

 そのとき、彼が迷いなく剣を振るえるように、総てを整えておかなければならない。


 竈を熱し切った。サクは作業に入る。

 幸い、破損して失った魔力の原石は代わりがあった。

 魔門破壊で使用した魔力の秘石は、素材としては原石だ。すべてサクが預かってきている。

 すでにひとつは補修のために使い切ってしまっていた。


 サクは次に自分が使った金曜属性の原石を取り出すと、ふと、あの激闘が脳裏に思い浮かび上がった。

 魔力の秘石。魔力が限界まで詰まった魔力の原石。

 その膨大な魔力を、自分は一時的に使用した。

 あの感覚は利用者でなければ分からないだろう、無限にも思えるその魔力により、身体中総てが沸き立った。


 そして、見えたものがある。

 幼い頃に見た、遥か遠い夢。

 誰が笑おうとも、胸の奥で信じ込んでしまったあり得ない到達点。


 膨大な力を得て、まるで存在しなかった概念がこの身に降りかかってきたような感覚を味わったあの瞬間、ひとつの理想が姿を現した。

 今まで存在すら感じ取れなかったその世界が、霞がかりながらも、確かに認識できたのだ。


 そしてそれは、今までの、そしてこれからのすべての積み重ねの先にあると確認できた。


 サクは魔力の原石を溶鉄しながら、胸の高鳴りを感じた。


 アキラはきっと、今まで以上に過酷な世界に足を踏み入れるだろう。

 だが、そこには、必ず自分も飛び込んでみせる。


 課題は見つかった。

 あとはいつもの通り、惜しみない研鑽を積もうではないか。


―――***―――


「はい。私は魔門の方へは向かえませんでした。ですからそちらの方は詳しい話はできません。ですが聞いた話では、火曜の魔術師が魔門を殴り壊したらしいです。エリサス=アーティという女性ですね」

「そこだーーーっっっ!!!!」


 ヘヴンズゲートの大通り。

 まだまだ日も高く、平和な大陸らしく明るい顔を浮かべた人々が行き交っている。

 魔術師隊の支部へ向かう途中、エリサス=アーティは念願の人を見つけ出した。

 その見知った顔が目に入ったと同時、彼女の話し声が耳に入ったのだ。


 リリル=サース=ロングトン。

 オレンジのローブを身に纏い、見とれるほど白い肌を興奮気味に高揚させている彼女は、複数人の男女と会話をしていたようだ。

 エリーの剣幕に押され、男女はさりげなく距離を取って離れていく。おそらくあれは、話に聞いた民間人に紛れている他の町の魔術師隊の方々かもしれない。

 申し訳ないことをしたかもしれないが、今のエリーに気を回している余裕はなかった。


「あ、エリサスさん。こんにちは。お買い物ですか?」

「そうだけど、そうじゃないです」

「?」


 リリルはきょとりと首を傾げた。

 とても可愛らしく見える所作だ。


 だが、人は見た目によらないと言うように、目の前のリリルは我らがヒダマリ=アキラと肩を並べる世界的に有名な“勇者様”だ。

 10日前の魔門破壊でも、その力を存分に発揮したらしい。


「今あたし、魔術師隊の支部へ向かっていたんです。なにか良からぬ噂を流している魔術師がいるらしくて」

「え、なんてことを。私も行きます」

「でも違ったんです。魔術師隊の人じゃなかったです。犯人」


 やはり首を傾げるリリルに脱力していると、彼女は小さく微笑んだ。


「こうしてまともに話せるのも久しぶりですね。色々と質問や報告ばかりで会えませんでしたし。実は今、丁度エリサスさんの話を報告していたところだったんですよ」

「それなんですよ、それなんです。リリルさん、それなんですけど、」

「本当にありがとうございました」


 エリーの気苦労などまるで感じていないようなリリルは、はきはきと礼を言って頭を下げた。

 勇者様という立場もあるが、彼女がそうすると、まるで世界中の人々の代表の言葉を受け取ったようで息が詰まった。

 大げさな所作に、道行く人も歩みを緩やかにする。


「あなたのお陰で魔門が破壊できたと聞きました。私、ずっとお礼を言いたくて」

「え、ええ、でもあたし、ダメダメでしたよ」

「いえ、でもあなたがいなければ魔門は破壊できませんでした」

「あの、そう、それなんですけど」

「でも、本当にすごいです。魔門を殴って壊したなんて。やっぱり、鍛えているんですね」

「わあ! 面白い冗談を言うんですね!! そんなの嘘ですよー!! 嘘でーす!!」


 往来に響く声で火消しを行ったが効果はあるだろうか。

 余計に注目を浴びたように思え、エリーは酷い焦燥感に駆られた。

 これ以上広まろうものなら、自分はすぐにこの街を去らなければらなくなる。だが、世界中から注目の集まるこの事件の噂はどこにでも広がっていく。

 どこまで逃げればいいというのか。


「う、嘘? でも、私が聞いた話だと」

「あ、ああ! え、えっと……、エレナさんの話ですか? きっとエレナさんのことですよそれ! 殴り壊したの! エレナ=ファンツェルンって人じゃないですか!?」


 やや大きな声で思わず生贄を差し出してしまったが許して欲しい。

 話して分かったがリリルには悪意というものがまるでない。

 だから魔術師隊の方々の調査に、存分に付き合って事実を伝えてしまうのだろう。

 それどころか、魔門を殴り壊したことが栄誉なことだとすら思っている。

 それが女の子の話でもだ。

 事実、仲間のエレナがいなければ、魔門破壊は実現し得なかっただろうから、嘘というわけでもない。


「ふふ。謙虚なんですね」

「あ、あはは、違いますよ、エリサス=アーティはほとんど役に立ってなかったってだけですよー」


 言っていて悲しくなった。むしろ泣きたい。

 笑い事ではないが、とりあえず今はこの噂が収まればエリーとしてはいいのだ。

 ちゃんと―――課題も見つかっている。


「うーん。そうですか」


 リリルは眉を潜め、やや腑に落ちない顔をしながらも、これ以上悪評を広めることを止めてくれた。

 エリーは胸を撫で下ろす。


「でも、アルティアさんもそう聞いたと言っていたんですが……あれ?」

「ああ、あたし人捜しているんですよ、ちっちゃくてうるさい子供なんですけど、見かけませんでした?」


 もうひとり、もっとやばいのがその噂を知っていた。

 それどころか“破壊”を“殴り壊した”と言い換えたのは奴の可能性が高い。リリル同様その場にいなかったのに、いや、それゆえか、魔門破壊は彼女の頭の中でどう変換されたのか想像がつく。

 もし魔術師隊に質問を受けようものなら、あのお人好しは何度だって応じ、あることないこと織り交ぜて、大興奮で語るだろう。


 エリーが人ごみに耳を傾けるが、あの大声は聞こえてこなかった。


「ああ、それなら魔術師隊の支部へ行きませんか? 私もそこへ行こうと思ってまして」

「支部? いいですけど、なんでまた」

「もうひとり。お礼を言わなければならない方がいまして。あれからあまり話せていないんです―――アキラさんと」


 自分が浮かべていた笑みが少し引いたのが分かった。

 リリルはまるで大切なものでもしまい込むように胸に手を当てる。


「前にアルティアさんがお見舞いに来てくれたときに聞いたんです。アキラさん、普段は支部にいるって。勤勉な方ですね」

「え、そうなんですか」


 日中魔術師隊の質問から逃げ回っているとは聞いていたが、支部に行っていたとは。

 自分だってアキラとはあまり話せていない。

 色んな意味でリリルをここで見つけてよかったと思った。

 それなら最近アキラと張り付くように共にいるティアも一緒かもしれない。色んなものを同時に叩くチャンスだ。


「本当に、夢のような時間でした」


 歩き出しながら、リリルは小さく呟いた。

 その横顔に、エリーは息が詰まりそうになる。

 肌は白く、きめ細やかで、モルオールの雪山で見たキラキラと輝いた大地を思わせた。神は絹のようにサラサラと流れ、まつ毛も長く、整った顔立ちは、女性としても、あるいは生物としても美しい。

 それでいて、リリルは朗らかに笑うのだ。

 あどけなさがあるようで、しかし凛々しさも同居し、じっと見つめているとその瞳に吸い込まれそうになる。


 そして彼女は今、自分も詳しくは知らない、あのときのことを思い出し、興奮交じりに頬を朱に染めている。

 付き合いが短くとも、彼女はまっすぐで、その表情や言葉はすべて本心なのだと感じ取れた。

 だからこそ、かなりの危機感を覚えるのだが。


「魔王直属―――リイザス=ガーディラン。まさかあれほどの力とは。私も想像していなかったです」

「……本当なんですか。あいつがリイザスを倒したっていうのは」


 最初に聞いたのは誰からだったか。各方面から質問攻めに合い、この10日間はあっという間に過ぎたように思える。

 だから、本人の口から、まだちゃんと話を聞いてはいない。

 別に彼を疑っているわけではないが、相手は魔王直属だ。

 エリーは今まで、魔王直属の魔族と何度か遭っている。

 一番濃い記憶はあの死地での出来事だ。対抗できないどころか、勝負にすらならなかった。

 それと同格の化物を相手に、あの男は勝利を収めたという。


「本当ですよ。それも、私はほとんど手を出せませんでした。アキラさんは、本当に魔族を倒したんです」

「……でも、守ってくれたんですよね」


 ティアから聞いた話。

 リリルは、命を懸けてふたりの命を守ってくれたらしい。

 誰かひとり欠けていても、この未来には辿り着いていなかっただろう。


「お礼。あたしも言わないと。ありがとうございました」

「はい。でも、こちらこそです」


 彼女は屈託なく笑い、エリーの感謝を受け取った。

 そういうものなのかもしれない。そう在るべきなのかもしれない。

 きっと今、自分たちは世界中から感謝されている。

 それをまっすぐに受け取れるようにならなければ、この先に行ってはいけないような気がした。

 自分は、魔門を破壊したと、自覚を持とう。

 ただ、手段については、少し言葉を濁させてもらう。


「それに、危うく命を落とすところを、結局アキラさんやアルティアさんに助けていただきました」

「あ、そう言えばそんなことを……。あいつ、治癒もできるようになったって」

「ええ。……あ、そういえば」


 リリルがふっと笑った。

 そして少しだけ得意げな顔になって、エリーを流し見た。


「本当だったんですね、アキラさんが助けてくれたときのこと」

「?」

「ええと、その、気恥ずかしいですが、思いきり抱き締められたような気が」

「は?」


 自分のものとは思えない低い声が出た。

 リリルは顔を真っ赤にして、小さく震えながら歩みを進める。

 徐々に違う方向へ向かっているような気がしたが、止める気にはならなかった。


「ああ、駄目ですね、やっぱり。ちゃんとお礼を言わないと。ふふ」


 足が自然と早くなった。

 やはりしっかり話を聞かなければ。

 しかし、だが、少し怖い。あんまり深堀しない方がいいような気もしてくる。

 よく味わう感覚だ。

 これはよく、彼とイオリが話しているときに覚える感覚で。


「……あ」


 魔術師隊の支部。

 そこにアキラがいるらしい。だがそこには、まさしくそのイオリもよく足を運んでいる。

 この10日あまり、自分は彼とまともに話もしていないのに。


「リリルさん、急ぎましょう」

「え? ええ、はい」


 自分にとってかなり深刻な問題が進行していたとは。ようやくまとまった時間が見つかったからと言って、呑気に買い物をしている場合ではなかった。急がねば。


 ようやく見えた魔術師隊の支部。

 いつでも身も引き締まる思いになるが、今は物怖じしている場合ではない。

 エリーは早足の勢いそのままにドアを開けようとした、その直前。


 中から女性の悲鳴のような大声が聞こえた。

 聞き覚えのある声だ。


「! 誰かが襲われている?」

「……いや、分からないですけど、多分大丈夫な気がします」


 悲鳴の理由は分からないが、声の主の方がこの街で一番危険な存在だ。

 焦るリリルを落ち着かせると、エリーははたと考える。

 “彼女”に悲鳴を上げさせたなら、むしろ上げさせた方が危険だ。焦った方がいいかもしれない。

 どうせくだらないことだろうが。


 魔門破壊から10日。

 そろそろ戦場の空気も薄れ、各々いつもの調子に戻ってきているのだろう。


 魔門破壊という偉業を成し遂げたというのに、いつの間にか、いつも通りに、周囲は課題だらけになっていた。


―――***―――


「あーら、アキラ君。こんなところにいたんだ、誘ってくれないなんて酷いなぁ、探してたのに」


 エレナ=ファンツェルンが魔術師隊の支部の休憩室を訪れたのは、昼過ぎのことだった。


 フリルの付いた青のキャミソールを身に纏い、小さな紺のハンドバックを肩にかけているところを見ると、買い物でもしていたのだろう。

 長い髪を丁寧に編み込んで頭の裏で束ね、控えめな主張をしている宝石があしらわれた髪飾りが小さく揺れた。

 スタイルのいい彼女がそんな肌を露出した恰好をしていたらさぞかし目立つ買い物だっただろう。魔術師隊の質問責めは勿論、ナンパにも幾度となく巻き込まれそうに見える。

 しかしエレナはまるで疲労感を見せずに、鼻歌交じりにアキラの隣に行儀よく足をそろえて座った。


「それとも、逢引の邪魔しちゃったかしら?」

「やあエレナ、元気そうだね。ブラックリスト入りおめでとう。この前、負傷した他の町の魔術師が医務室で治療を受けていたよ。彼女に近づくなってうわ言のように言っていたよ」


 エレナの挑発のような言葉に、イオリは冗談であって欲しいような台詞で返した。

 アキラがびくりとしてエレナを見ると、いつの間にか彼女は机に膝をつき、イオリの反応に面白くなさそうな表情を浮かべていた。


「エレナ、お前何してんだよ」

「私だって最初はちゃんと説明してあげたわよ。でもあんまりしつこいから、あんまり来ないでくださらない? って頼んだの。……無事に故郷に帰りたいでしょう、って」

「一応僕には感謝してもらいたいな。もみ消したとは言わないけど、それなりに立ち回る羽目になったんだから」


 イオリがこの支部を離れない理由は単に逃げ回るためだけではなかったのかもしれない。

 こういう事態に備えてでもあるのだろう、主にひとりのためだけのようだが。

 やはりイオリは、自分の知らない間も色々と損な役回りをする羽目になっているようだ。

 労うとはいかないまでも、近いうちに彼女への感謝を形にしたいと思う。彼女の仕事が手伝えるとは思えないが。


「ところで店員さん。メニューは何があるのかしら?」

「そうだね。水、かな。お湯もあるけど」

「魔導士。あんた随分と優しくなったじゃない。ちょっと表で白黒つけましょうか」

「魔術師隊の支部ですら当然のように騒ぎを始めようとするから、僕はここから離れられないんだよ」


 物騒な雰囲気になったが、前に見ていた景色と、少し違う気がした。

 あの魔門破壊。自分は詳しくは知らない。

 大筋は聞いたが、彼女たちの中でどんなやり取りがあったのか分からない。


 だがこれはきっと、変化だ。

 自分の変化。自分が知っている変化。自分が知らない変化。

 それぞれが織り交ぜられ、形となって自分たちに降り注いでくる。


 その兆しを自分は感じ取った気がした。

 良くも悪くも、あの魔門破壊は、やはり、この“三週目”の物語の中で、大きな分岐点だったのかもしれない。


 この10日間、ただひたすらに身体を休め続けてきた。

 魔術師隊に追われ、何だかんだ、落ち着けることは無かったかもしれない。

 だけど、ようやく、実感できた気がした。


 自分たちは、乗り越えたのだと。


「……そういえばエレナ、よくここが分かったね。一番来ないと思っていたから、意外だったよ」

「そりゃ私だって来たくは無かったわよ。でもあのヨーテンガースの魔導士に見つかってね。アキラ君がいるって言ってたし」

「アラスールが? なんでアキラがいるって分かったんだろう、魔術師に聞いたのかな」

「あのガキに聞いたんでしょ、一緒にいたわ。なんか半べそかいてたけど。正妻と従者も探してるとか言ってたわ」

「……僕らに何か用なのかな」


 イオリが怪訝な表情を浮かべたと同時、エレナは思い出したように手を叩く。

 そしてくるりとアキラへ向き直り、にっこりと笑った。


「そうそう、アキラ君を探していたのよ。もう具合よくなったんでしょ」

「ん? ああ、まあな」


 何気なく左手を握ってみた。

 違和感がある気がするのは後遺症ではなく、久々に動きを思い出したからのような気がする。

 未だに原型を留めているのが信じられないほどの衝撃を受けたのだが、それだけティアの力や日輪属性の治癒力が桁外れだということか。


「じゃあさ、聞いたんだけど、ちょっと見せてもらいたいものがあるんだけど」

「?」

「治癒魔術よ」


 微笑むエレナの瞳が、一瞬だけ鋭くなったような気がした。

 彼女は時たま、美しさの裏に、こうした鋭さを見せる。

 薔薇の棘が光るように、周囲を伺い、警戒し、そして測るのだ。


「いい加減この街にいるのも退屈でしょう。そろそろ旅に戻る頃合いよね。それで次は? どこへ行くにしても、このままアイルークで旅を続けられるなんて甘っちょろいこと考えてる奴いないわよね」


 空気が一変した。

 イオリの気配も鋭くなったように感じる。


 アイルークは世界の大陸の中で最も“平和”な大陸だ。

 この大陸に戻ってきてから数多くの試練が合ったとはいえ、それは所詮、例外中の例外だ。

 この大陸に留まっても得るものなどほとんどない。


 エレナは知っている。理解している。

 自分たちが向かうべきところを。


「魔門破壊は成功したわ。でも分かってるはずよ。いくら世界的に例を見ないことだとしても、それは“通行許可証”に過ぎないってね」


 試練を乗り越えた者には、それ以上の試練に挑む権利と義務が生じる。

 大きな山場を乗り越えても、ここが終点ではないのだ。


「だからより詳しく知っておきたいの。あんたらの力を。まずはアキラ君からね」


 鋭く光る棘は、視線となってアキラに刺さってきた。

 彼女は自分のことを単純だと言っていた。だからきっと、単純に、先の先を見ている。


「成功したとはいえ、全員課題が見つかっているはずよ。……私もね。魔導士ちゃんに後で話があるわ」

「……ああ。僕でよければ」


 最も警戒心が強いという木曜属性の魔術師。

 だからこそ、彼女の話は真摯に聞くべきだ。

 だが、問題がある。


「……いや、できるかどうか分からないんだけど」

「え? そうなの?」


 アキラは自分の手のひらを見た。

 記憶はある。

 感覚もなんとなくは覚えている。

 だが、あのときは必死で、限界を超えたその先の自分がやったことだ。

 この10日間、試そうと思いもしたが、不審な挙動を取るとティアが即座に止めてきたから結局何もできていない。


「まあいいわ。とりあえず試してみましょう。私相手なら何が起きても何とかなるわ」

「うーん」


 そういう意味であればエレナは適任だろう。

 魔門破壊が終わり、かなりの重傷を負ったと聞いたが、彼女は嘘のように元通りだ。

 あまり人のことは言えないが、どういう身体の構造をしているのだろう。

 傷だらけで負傷していると聞いたときは焦って見舞いへ行こうとしたが、その前に逆に見舞いに来られたほどだ。

 肌を露出した服を纏っているのに、彼女の肌は傷やシミひとつなく、いつも通りに輝いて見えるほどだった。

 しかし、あの治癒魔術をするとなると。


「じゃあやって見せてよ」

「……でも、なあ」

「ほーら。遠慮しないで」

「いや、問題はそれだけじゃなくて。それに、あのときは必死だったんだよ」

「……あ、いった。身体中痛いわ、後遺症かも。だめ、私、死にそう」

「エレナがここまで言っているんだ。助けないと。アキラ、試してみよう。僕も見ておく必要がありそうだ」


 わざとらしいエレナの演技に、イオリも乗ってきた。

 だが言われていることはまさしく正論。持っているカードも分からずに旅を続けるのはこの先の世界が許してくれない。

 覚悟を決めよう。


「……分かったけど、邪推しないでくれよ。エレナ、立ってくれ」

「? ええ、こうでいい?」


 椅子から降り、エレナと正面で向かい合った。

 スタイルの良さから分かり辛いが、意外と彼女は小柄な方だ。

 エリーとサクの中間程度で、イオリよりは僅かに背が高い。

 腕を回せば彼女の額が丁度口元にくる。


「ちょ、ちょっと。アキラ君?」


 更に近づこうとしたら、胸に両手が当てられた。

 アキラはエレナに回そうとした腕をピタリと止める。

 止めて欲しい。自分は雑念を振り払うのに精いっぱいなのだから。


「え、えっと、治癒魔術よね。え、なに。何で抱き付こうとしているの」

「だから邪推しないでくれって。俺だってやり方分からないんだよ。でも、あのときはこうやって」

「あの。ほら、私結構歩いてきたし、ね。汗かいてるかも」


 さんざん言われてやる気になったのに、急にエレナが難色を示した。

 汗をかいているようには見えない。

 アキラが少し不服そうな顔をしてじっと見ていると、エレナは口元をきっと結んだまま沈黙したのち、観念したようにゆっくりと息を吐き出した。


「ちょっと待ってね」


 エレナは身を離し、さりげなく服を払った。

 スカートのポケットからハンカチを取り出し、優しく叩くように肩を拭いて、ついでのように身なりを整える。

 アキラの目からは何も変わっていないように見えた。

 こほりと可愛らしく咳払いをすると、呼吸を整えてアキラに向き直ってくる。


「じゃ、じゃあ。まあ、やってみましょう」

「お、おお」

「……え。僕はなんでこんなものを見せられているんだろう」


 だから乗る気ではなかったのだ。

 エレナのような理想の女性と密着できるのは本心から言えば嬉しいが、真面目な雰囲気だったから遠慮したかった。

 再びエレナに近づくと、彼女に優しく腕を回す。エレナが硬直したのが分かった。

 甘い香りが鼻孔をくすぐる。妙な気分になってきた。


 だが、アキラは再び雑念を振り払う。

 そして思い出す。あのときの自分を。


 自分はただひたすらに必死だった。

 目の前の光景を避けたくて、死に物狂いであの魔術を発動させたのだ。


「……ぁ、ちょっと、ア、アキラ君。……強い」


 力加減は存在しない。

 “彼女”はいつだって全力で、目の前の人を救おうとする。

 自分の持て総てを注ぎ込み、足掻き、望んだ世界を手に入れようとする。


 だから自分もそれに倣おう。

 自分の命を幾度となく救ってきた日輪属性の治癒力を、この瞬間に、彼女のように―――アルティア=ウィン=クーデフォンのように爆発させる。


「……っ、ちょ、これ、ア、アキラ君!? えっ、やばっ、ま、魔導士!!」

「アキラ、止めろ!!」


 ああ、思い出した。自分はこうやって、誰かを救えたんだ。


「キャラ・スカイブルー」


 直後、休憩室が日輪の色一色に染まった。

 窓から零れた強烈な光は、外の太陽と混ざっていく。


 アキラは身体中に活力が漲るのを感じた。あのときもそうだった。

 この治癒魔術は、術者の傷すら癒していく。

 だから自分は今も生きていられるのだろう。


「……できた」


 魔術は完全なものとして発動した。

 身体の鈍い痛みはより静まっている。

 生死の境を彷徨っているような相手には絶大な効果をもたらすようだが、健常者に対してはそこまでの効果は見込めないのかもしれない。


 だが、少し魔力の消費が激しいようにも感じた。

 魔力切れとまではいかないが、自分が瞬間的に出力できる最大値は持っていかれたような気がする。

 あまり乱発はできないということか。

 エレナの言う通り、試しておいてよかった。使いどころを見極めなければ。


「エレナ、できたぞ。身体はどうだ? ……エレナ?」


 いつしか強く抱きしめていたエレナは、アキラに力なくもたれかかったまま動かくなっていた。

 心臓の鼓動や荒い息遣いは感じるが、揺すっても反応がない。

 アキラがぎくりとして顔を上げると、イオリが軽蔑の眼差しを向けてきていた。

 この冷たい視線はいったい今日何度目だろう。


「エレナの悲鳴は聞こえなかったのかな。それに止めろって言ったよね」

「……あれ? エ、エレナは大丈夫なのか?」

「大丈夫だと思うよ。悲鳴というか……嬌声というか」


 胸の内のエレナの身体は痙攣するように震えていた。

 身体が動かせない。

 我に返ったアキラは、エレナの身体の感触が伝わってくる。

 熱を帯びた柔らかい身体に密着され、アキラは身動きが取れなかった。


「何とかしたら。自分で」


 助けを求める視線を送る前に、イオリから拒絶された。

 酷く冷たい。


 そして、しばらく硬直していると。


「失礼しま……ひぅっ、」


 休憩室の扉が開かれた。

 入ってきたのはリリル=サース=ロングトン。

 エレナを抱きしめたままのアキラを見て悲鳴を上げると、目を隠してうつむいた。


 そしてその後ろ。

 エリサス=アーティが、無表情のままアキラと動かないエレナを見比べて、様子をうかがっている。

 思わずイオリに視線を送ると、彼女は我関せずと言った様子で本を開き、アキラが思い描いた絵面を作り上げていた。

 復活したのか、腕の中のエレナにも肩を弱々しく掴まれる。


 本能的なものか、今までの旅の経験からか。

 なんとなく、怒られるような気がしていた。


 味方がいない。見せてみろと言われたからやっただけなのに。

 頭がおかしくなりそうだった。


「はぁい、お久しぶり。また賑やかなことやってるみたいね」


 それは、救いの神様の声のように聞こえた。

 しかし同時に、日常で鈍った感覚を刺激するような鋭い気配を拾う。

 何らかの挙動を見せようとしていたエリーとエレナも動きを止める。


 廊下の向こうから、コツコツと足音が近づいてきていた。

 それに続く気配も感じる。複数人いるようだ。


 アキラは慌ててエレナを立たせると、その来訪者をじっと待った。

 聞こえ覚えのある声だ。

 この街で幾度となく耳にした。

 日常にいることを良しとはしない、戦場の臭いを伴う不思議な声。


「やっぱりここの方が集まる確率は高かったわね、エリーちゃんたちもいるなんて。全員すぐに集まったわ」


 扉の前に姿を現したのは、魔門破壊にも参加した中央の大陸の魔導士―――アラスール=デミオン。

 10日ぶりに見る彼女は、あのときと変わらず、飄々とした態度と凛とした固い気配を伴っていた。


 その後ろには、サクやティアも見える。彼女に連れてこられたらしい。

 アラスールが集めたとなると、また厄介事を持ってきたのだろう。

 彼女の存在自体、この平和なアイルークにとっては異物中の異物だ。

 彼女は―――戦場を知っている。


「ま、とりあえず久しぶりの再会を喜びましょうか。イオリちゃん、私にも何か淹れてくれる?」


 水かお湯で帰るような客なら、イオリはすぐにでも準備していただろう。


―――***―――


「魔力の好み?」

「そうね。まあ占いみたいなもんだけど。ほら、水曜属性は土曜属性に惹かれる、みたいな。まあ、弱点の属性と違ってあんまり知られていないけど」


 エリーはアラスールと共に休憩室の奥のテーブルに座りながら、ぼんやりと周囲を流し見た。

 みな思い思いのところに座っているが、気になるのは店員のような役回りになっているイオリだ。エリーの憧れの資格を持つ魔導士様にそんなことをさせるのは酷く申し訳ないような気がする。

 だが、妙に様になっていて、邪魔するのもはばかれた。その上、エリーの目の前にいるのも、同じく魔導士なのだから動きが取れない。

 最重要課題の男は、自分の隣に座っているから、問題ないと言えば問題ないのだが。


「でも、弱点ってことじゃないのか? エレナは“不慮の事故”で身動き取れなくなったんだけど、結局日輪の力の影響が強かったってことだろ?」

「どの口が」


 事情は聞いたが、それゆえに、エリーは物凄くやりきれない気持ちになっていた。

 あのエレナが、治癒魔術を浴びただけであんな悲鳴を上げるとは。

 その本人は今、信じられないことに顔を真っ赤にして奥の椅子に蹲るようにして座っている。


「うーん、弱点というか、ちょっとニュアンスが違うのよね。例えばそうね、エリーちゃん。木曜属性の魔物と戦うとき、ちょっと気分良かったりしない?」

「そうですね、うん、まあ」

「そりゃいいだろうよ。気持ちよさそうにぶん殴ってるもんな」

「今あたし、その表現に過敏なんだけど」


 アキラに睨みを利かせ、エリーは記憶を辿る。

 確かにそんな気分になることはあった。


「てか、火曜は木曜に強いんだろ。当たり前じゃないか?」

「そうね。でも、やっぱりそれだけなのかな。戦いやすいというより、やる気になる感じはするかも」

「例えが悪かったわね。じゃあサクちゃんにしましょうか。ねえ、火曜属性の魔物と戦うとき、やりやすかったりしない?」


 カウンターに座っていたサクは、真面目にもアラスールの言葉に記憶を掘り起こしているらしい。

 金曜属性と火曜属性の強弱の関係は無い。


「そうだな……。多少、程度だが。前にタンガタンザで火曜の“言葉持ち”と戦ったことがあるが……、そんなような気もする。……うーん」

「ま、言われてみれば、って感じでしょうしね。人にもよるし。そんな感じよ、好みの属性ってのがあるの」


 エリーは頭の中で各属性の相関を思い描いた。

 試験勉強中、自分のノートに綴った5属性は、綺麗に強弱が記されている。

 だがアラスールの言う“好み”は、それとは違う軸で存在するのだろう。


「本当に占いみたいだけど、元の発祥は魔物の習性の調査からきているからある程度の信憑性はあるわね。で、エレナちゃんの話に戻るけど、見た感じ、苦手な力を浴びたというより、好みの力を過剰に受けたから、って感じなのよね。特定の魔力に敏感、って感じかしら」


 それであのエレナがああなるのか。

 聞こえているのかいないのか、エレナは小刻みに震え、時折顔を上げようとしているが、それも叶わないようだ。

 医務室に運ぼうとしたのだが、涙目で断ったエレナに、胸の奥でドキリとしたのは内緒にしておこう。火曜は木曜に惹かれるというのも案外嘘ではないのかもしれない。


 そんなエレナの様子を尻目に、隣の男は呑気に自分の手のひらを眺めていた。

 女性にとってかなり深刻な様子のエレナに同情しつつ、エリーはイオリが淹れてくれた茶を啜った。

 程よい温度で、甘くて美味しい。


「木曜は水曜を好むらしいけど、特に日輪を好むのかしらね。いや、それとも他にもあるのかも。ねえ、勇者様。まだ余力あるならもっと試してみない? 日輪属性の相関関係なんて、まず調べられないもの」

「論外です!! あんたもよ。その魔術、加減できるようになるまで禁止だから」

「わ、分かってるよ」


 殊勲にも、アキラは本当に分かっているようだった。

 それどころかエレナが完全に復活したら自分はどうなってしまうのかと震えている。

 からかっていたのか、アラスールはくすくす笑っていた。


「でも、それだと困りますよね。加減しようにも、練習もままならないとは」


 口を挟んできたのは隣の席に座っているリリルだった。

 実に下らない問題でも、彼女は真剣に問題に向き合っている。

 しかし、確かに彼女の言う通り、この先の旅を考えれば治癒担当を増やすことは急務なのだ。

 ティアがいれば当面は問題ないかもしれないが、今回の魔門破壊のように二手に分かれることもあるかもしれない。

 事実、致命的になりかねない場面もあった。


「……うん。アキラさん、私が協力しましょうか? 多少なら耐えられると思いますが」

「月輪が一番日輪に惹かれるって噂あるんだけど、試してみる?」


 エリーが口を挟む前に、アラスールが囁いた。

 リリルは硬直し、ゆっくりとアキラと、そして未だうつ向いたままのエレナを見比べ、顔を伏せて深々と座った。

 エレナには悪いが、あんな悲鳴を上げる羽目になるのは女性としては避けたい。


 エリーはじっと考える。自分はどうだろう。

 興味は、それは、まあ、多少はある。

 だけど流石に羞恥心というものが先行してしまう。


 アキラが頭を抱えている向こう、リリルは口元をもごもごと動かしながら机の一点を見つめていた。

 彼女もそういう感覚なのかもしれない。

 試してみたいが、勇気が出ない。

 そこでふと、いい案を思いついた。


「あ。その魔術の責任者に頼みましょう」

「そうか。そうだな、ティ、ア……」


 アキラが顔を向けた先、エリーは、珍しいものを見た。

 エレナの隣に座り、ふかー、と、威嚇している猫のような様子のティアは、アキラを警戒するように見つめていた。

 何があった。自分の知らないところで何かが進んでいる。

 エリーは苦肉の策で他を探すと、サクはあからさまに視線を逸らしていた。

 主君の問題だというのに、あの従者様は関わらないことを決めているらしい。


「それじゃあ仕方ないわね。一応魔術の耐性が高いのが売りだし、イオリちゃんに頼んだら?」

「アキラ。僕にやったら、本気でキレるよ」


 イオリにしては珍しい乱暴な言葉。

 彼女はエレナの惨状を最前列で見ていた人物だ。それほどだったのだろうか。


 気を利かせてお代わりを持ってきてくれたらしいイオリは、アキラに冷ややかな視線を浴びせかけると、アラスールの前にカップを置いた。


「課題はともかく、アラスール。今日はそんな話をするために来たんじゃないだろう。僕たちを集めて何をするつもりなのかな」


 そもそもアラスールは街を周って自分たちを集めていたらしい。

 彼女はまた、何か依頼を持ってきたのだろうか。


「ふふ、せっかちね。久しぶりにお話でもしたかったのは本当。でも、確かに依頼もあるわ。あなたたち7人を集めろってね」


 部屋の視線がアラスールに集まった。

 エリーはごくりと喉を鳴らす。

 魔導士の依頼。それも中央の大陸のだ。

 また自分たちに、魔門破壊と同等以上の試練が降りかかるのだろうか。


「ちょっと話を聞かせて欲しいって頼まれてね。まあ、すぐに済むとは思うけど」


 肩透かしを食らった気分になった。

 結局彼女も情報収集をしている魔術師隊の方々と同じなのだろう。

 とすれば本当の狙いはアキラたちか。

 アラスールは魔門側にいたから、アキラたちが戦った魔族の方の情報を求めているのかもしれない。


「また魔術師にかよ。何度同じ話をすればいいんだ」

「あ、それなら私が説明します。お任せください」


 アキラはもううんざりしているらしいが、リリルは律儀にすべてに応えてきている。

 彼女に任せれば悪いようにはならないだろう。

 下手に魔門破壊の方に話がいったら、表現を改めさせることを忘れないようにしなければ。


「ううん、相手が違うわ。だからわざわざ私自身にあなたたちを集めるように依頼したのね。この街からすれば部外者なのに」

「?」


 アラスールはイオリのお茶に手を伸ばし、口に運ぶ。

 ゆっくりと机にカップを戻したときには、あの戦場を思い起こさせるような、日常と異常が混ざり込む、鋭い気配を伴っていた。

 彼女は、魔導士として発言する。


「ヒダマリ=アキラの七曜の魔術師。およびリリル=サース=ロングトン。重要な伝達があるわ。本日夕刻、“神王”の招集に従い、新門に集合してください」


 理解が追いついたのは、アラスールが元の表情に戻ってカップに手を伸ばしてからだった。


―――***―――


 神のみぞ知る。


 そういう言葉がある。

 アキラが思うにその表現は元の世界で、結局は運任せであるという意味だ。

 人がどれほどの才を持って生まれ、人がどれほどの研鑽を積んだとしても、どのような人生を歩めるのかは結局のところ分からない。

 アキラの目には眩いばかりにキラキラと輝いて映る彼ら彼女らですら、過去や今を輝かせられるだけで、来年、明日、あるいは1秒先のことだって、未来のことは分からないのだ。


 この世界においては、それはより具体的な意味を持つ。

 その、人の手が届かに領域を意味する存在が、“実在”するのだ。


 いずれにせよ、人の領分を弁えさせられる言葉であるということは、どこの世界でも変わらないということか。


 ヒダマリ=アキラは、仲間たちと共に延々と長い階段を上っていた。

 そり立った高い岩山にむき出しで形作られている階段は、中ほどまで登るとヘヴンズゲートの街並みが一望できる。

 筆舌し難い絶景ではあるのだが、それよりも、昇った先にまさしく神々しさを感じる美しい白い巨大な門が強烈に目を引き付けてきた。

 日も落ちてきて、吹き下ろしの風が身体を打つも、不思議と身体は高揚し、足は前へ前へと突き動かされる。


 あの先に、この世界を統べる者がいるのだ。


「良かったんでしょうか。私も来てしまって」


 そう言いながらも、胸を張り、実に堂々と隣を歩くのはリリル=サース=ロングトン。

 透き通るような白い肌を晒し、見ているだけで吸い込まれそうな瞳をまっすぐに白き門へ向けていた。

 彼女ひとりが昇っていれば絵画にでもなったかもしれないが、生憎と、後ろをぞろぞろと挙動不審な連中が付いてきている。


「呼ばれたんだからいいじゃないか。多分、魔門破壊の話だろ? 参加メンバー呼び出しくらった感じだろこれ」

「ふふ。呼び出しなんて、酷いですよ。でもそれならアラスールさんも召集されるはずですよ。それなのに彼女は下に残っています」


 表情がコロコロ変わる。

 微笑んで、思慮深げに顎に指を当てたリリルは、ちらりと背後を伺った。

 ヘヴンズゲートの平和な街並みを見て、彼女はまた、心安らぐように微笑むのだ。


 ちなみにアキラは振り返る気になれなかった。

 ガチガチに緊張しているエリーや、一言も発さずについてきているエレナを、この高い階段の上で刺激する気にはなれない。


「そりゃあ、な。証、だっけ、神様に逢うのに必要とかいう」

「ええ、そうです。でも、月輪の勇者に証なんて存在しませんし」

「それを言うなら俺たちだって、7人集まってないんだぞ」

「うーん?」


 神聖な雰囲気を壊すことを厭わない彼女は、子供のように可愛らしく首を傾げた。

 うちの預かっている子供は今、エリーと共に緊張しながら付いてきているようだ。幸運なことに大人しくしていてくれている。


「あ、もしかしたら私が月輪の魔術師として数えられているのかもしれませんね。だから、でしょうか」

「それは……、そう、なのかもな」


 何かを言い返そうとしたが、途中で言葉を失った。

 ホンジョウ=イオリは言った。

 リリル=サース=ロングトンは、ヒダマリ=アキラの最初の月輪の魔術師だと。

 “一週目”。

 自分と彼女の間にどんなやり取りがあったのかはもう思い出せない。

 彼女を失った自分は、彼女とどのように接していたのだろうか。


「……迷惑、じゃないか」

「え?」

「リリルは勇者だろ。それなのに、俺の魔術師に数えられて、さ」


 そんなことを言ってしまった。

 彼女がどれだけの想いの強さで勇者を名乗っているか。一端だけかもしれないが、自分は知っている。

 リリル=サース=ロングトンという存在は、確かに魔王に辿り着ける力を、そして意思を持っている。

 月輪の魔術師として、彼女はあまりにも分かりやすく目の前に現れてくれたのだ。


 しかし、今の自分が、なまじ知識を持っているからだろう。

 何も言えなくなってしまう。


 あの最悪に辿り着いた月下で。最後に見た“彼女”は、泣いていた。


「さあ、どうでしょう」


 リリルは、悪戯でも思いついた子供のような表情でそう返してきた。

 彼女にしては珍しく、そして、やはり吸い込まれそうな妖艶な表情だった。

 その意図をくみ取る前に、リリルは、すぐまたいつもの微笑みを浮かべ、白く巨大な門を眺める。


「アキラさん。お礼、まだ言ってなかったですね」

「礼? って何を」

「ふふ。そう言うんですね。私の命を救ってくれたことですよ」

「あ。俺こそだ。リリルがいなかったら普通に死んでた。助かったよ、本当に」

「……先に言われちゃいました。私こそです。ありがとうございました」


 そう言って、リリルは静かな表情でアキラを見つめてきた。

 夕日が映る彼女の頬や眼は朱に染まり、美しく輝く。

 感情がすぐに表情に出て、分かりやすい女性だとアキラは思っていた。

 だけど今、月の満ち欠けのように、時に鋭く、時に妖しく、時に優しい彼女の感情が、アキラには分からなくなった。


「なんとなく思うことがあるんです。今回の魔門破壊。アキラさんがいなければ、私死んでました」

「だから俺こそだよ。リリルがいなきゃ、」

「いいえ。上手く説明できませんが、感じるんです。アキラさんは多分、いえきっと、私がいなくても乗り越えていっただろうな、って」


 歩みを続ける彼女の姿が、壊れそうなほど小さく見えた。

 肩が触れるほど近づくと、ようやくアキラは距離感を思い出し、僅かに身を引いた。


「弱音、聞かれちゃいましたよね。ぼんやりとですが覚えています。魔王を倒す、世界を救う、なんて言いながら、私はきっと、死ぬ場所を探していたのかもしれません」

「おい」

「怒らないで聞いてください。こんなこと言えるの、アキラさんだけなんですから。それに、アキラさんにはもう叱られています。あのときほど、自分の限界を感じたことはありませんでした。それどころか勇者なのに、自分のことよりもあなたの無事が心の底から嬉しかった」


 いつもはきはきと喋る彼女の声が、とてつもなく聞き取りにくかった。

 いや、この耳がその音を遮断していた。

 だが、それは聞かなければならないような気がする。

 彼女が弱さを見せてもいいのは、世界中で自分だけなのだろうから。


「だから、例え神様が違うと言っても、私は思います。あのときの私は、確かにヒダマリ=アキラの月輪の魔術師でした」


 気づくと彼女は、いつものように胸を張って歩いていた。


「覚えていますよ、アキラさん。忘れられません。私はあなたに叱られて、どうなるか分からない未来への不安が晴らされたように思えるんです」


 あのとき。

 自分たちは、必死だった。

 目の前のことにただただ全力で、ひた向きに前進した。


 未来という領域には、人の手は届かない。

 理不尽な不運や不幸に襲われ、積み上げたものが突如として崩されることもあるだろう。

 来年、明日、1秒先。今までのすべてが否定されるときが来るかもしれない。


 だから、人は問われる。

 総てが無に帰すかもしれないが、今この瞬間に、必死になれるかと。


「まだまだ私も精進しないと駄目ですね、月輪の勇者なのに、今でもあなたの言葉を支えにしています」


 リリル=サース=ロングトンは、愉快そうに朗らかに笑い、そして、夕日に染まった顔で呟いた。


「私の人生は、ハッピーエンドになるんだって」


 自分の気持ちに素直になれば、答えは分かり切っていた。

 自分は彼女と共にいたいと感じている。

 彼女を幸せにしたいと思えるのだ。


 難しいしがらみを取り払って、今だけは、彼女の優しい微笑みを眺めていよう。


 丁度そのとき、夕日に染まる長い階段を、登り切った。


―――***―――


『……ああ、お前らは“そういうパターン”なのか』


 その台詞を聞いたのは2度目だった。

 白い門に入った直後、神の従者であろう、奥から白いローブに身を包んだ長身の男が現れる。

 色彩の薄い髪を首筋で束ねているから、不気味なほど白い肌と少しとがった耳が印象的に目に映った。


 岩山に入ったはずなのに、街の名の通り、天国のような世界だった。

 透けるほど高い天井の廊下には、神々の世界を現しているような絵画が描かれ、高級そうなアンティークが定期的に飾られている。床も壁も色は輝くような白で統一感を出していた。


 その神話の世界で、現れた男は、名乗りもせずに背を向けて歩き出した。

 ついて来いという意味らしい。


「ね、ねえ。そういうパターンって何かしら」


 服の裾が引かれた。

 ガチガチに震えた声を出したのはエリサス=アーティ。


 極度の緊張がピークに達したのか、いつの間にかアキラの背後にピタリと張り付き、決して粗相のないように背筋を伸ばしている。

 青い顔で、しかし姿勢だけはいい。感情表現が苦手な人が作ったブリキの人形のようだった。

 自分もかつてはこんな様子だったのだろうか。

 生憎と2度目となると多少は緊張こそすれ、失礼だがそこまで無様な姿にはなれない。


「……あの男に聞いてみればいいだろ」

「わ、わ、アッキー、駄目です、怒らせちゃ駄目って気がします。きっと神族様ですよっ」


 ぐいと左手が引かれた。

 いつもの元気はどこへやら。アルティア=ウィン=クーデフォンもエリーと同じく青い顔を浮かべている。

 昼の騒ぎから妙に距離を取られていたが、エリーと同じく小市民代表のティアはアキラの手を強く握って離さない。

 本人は精一杯握っているのかもしれないが、蚊ほどの刺激も感じない手を見ていると、ティアははっとした顔になった。


「いっ、今だけ! 今だけですからね!!」

「ちょっ、ティア!!静かに!!」


 ふたりの叫びが廊下に響く。

 目の前を歩く男は苛立ったように踵を鳴らすと、聞こえていたのか振り返った。


「“七曜の魔術師を集めるパターン”という意味だ。ぞろぞろ仲間を連れた勇者一行は、今まで一番多い」


 愛想笑いをエリーが浮かべたのが分かった。

 声のボリュームはいつも通りだが、いつになく下手に出ている。

 この世界において、“神”という存在はそれだけ大きいということか。

 だが、勇者のリリルや名家の出であるサクは実に堂々とした様子で、イオリも職業柄こうした雰囲気には慣れているのか落ち着いている。

 残念ながらこの世界にも格差というものは存在していた。


 そしてもっと残念なのは。


「ねえ、あんた神族? この廊下どこまで続くのよ」


 エレナ=ファンツェルンが復活していたことだった。

 荘厳な雰囲気に押されるどころか煩わしさを覚えているのか、押し返すように不機嫌な声を出した。

 階段を登っていたときは大人しかったからこのまま何事も無くやり過ごせるかと思っていたのだが、残念ながらいつもの調子に戻ってしまったようだ。


 目の前の男は足を止めずに、同じく苛立った口調で返してくる。


「気が短いな。貴様らがここを歩けるだけでも誇りに思え。人間には過ぎた経験だ」


 アキラは全力で考えた。どちらを止めるべきだろう。

 エレナに対してその返答は逆効果だ。最悪ここで殴り合いでも始まる可能性がある。

 木曜属性なのに燃え盛る火のように殺気を飛ばすエレナに、油を注ぐ目の前の男。

 エリーとは別の理由で、アキラの胃が痛くなってきた。


「失礼ですが、本日は神王様にご招待されました。ご用件を伺っていないのですが、何かご存知でしょうか。ご無礼があってはいけませんので」


 気を回してくれたのか、ホンジョウ=イオリが口早にそう言う。

 イオリに感謝の意を注ぎたかったのだが、エレナがどんな表情を浮かべているか考えたくも無く、振り返る気にはなれなかった。


「イオリン、流石です、凄いです。エレお姉さま、落ち着いて……わ、わわっ、まずいです、エレお姉さまめっちゃ怒ってますっ」


 馬鹿野郎。

 イオリの機転を無に帰したティアは、振り返りながらぐいぐいと手を引いてくる。

 もしかしてこいつは緊張しているふりをしているのではないかとさえ思ってしまう。

 アキラは徹底的に無視することにして、じっと目の前の男の返答を待った。

 結果としてはティアの行動がエレナに水を注いだのか、怒鳴り声は聞こえてこなかった。


「魔門破壊の件であろう。主の望みに応えられるよう記憶を呼び起こしておけ」

「あ、の、さぁ」

「分かった、そうする。エレナも、な?」


 その高慢さは、あるいは当然のことなのかもしれない。

 その様子に分かりやすく反発しているのはエレナだけで、他の面々は静かに続いている。

 爆発する前に、素早く振り返って無駄とは分かりつつもエレナを宥めるために愛想笑いを浮かべた。

 奇跡的にも彼女は眉を寄せ、しぶしぶと言った様子で口を閉じてくれた。恨みがかった視線が背中を差すようになったが、この場で騒ぎを起こすことに比べたら安い代償だ。


 この世界を統べる神―――神族。

 彼からすれば、たとえ世界の希望の勇者であろうとも、所詮は人間という扱いなのかもしれない。

 アキラは息の塊を吐いて、透けて見えない天井を見上げた。


 この世界に落とされても、人の営みは大きく変わっていないように思えた。

 だが今、この世界の根底にある、神族という存在をひしひしと感じる。

 アキラの生まれた国とは決定的に違う、絶対的な統率者という概念。


 その存在は、世界を最後まで周ったアキラですら、何も掴めていない。


「ふ」


 突如として、目の前の男は足を止めた。

 男が手をかざすと、どこまでも続いて行くような廊下の中腹に、黄金色に輝く巨大な扉が現れる。

 白を基調とした廊下にあっては見逃すはずもない物体が、突如として現出した。

 呆然として見ていたあのときとは違う。

 これは魔術か、あるいは魔法か。

 この世界の存在らしく思考を働かせていると、答えに辿り着く前に男がその場に跪き、頭を垂れた。


「ヴォルド=フィーク=サイレス。主の命により、現れた勇者一行を連れてまいりました」


 ようやくこの神族の名を思い出した。

 ヴォルドがちらりと振り返り、同じように頭を下げるように促すが、あるものは気配に押され、あるものは従う気が無く、身動きせずに立ち尽くしていた。

 この目の前の扉の先に、何がいるかを感じ取れてしまう。


「そう。通しなさい」


 静かな女性の声が聞こえた。

 しかし透き通るようなその声は、脳に直接届いているようにしっかりと聞き取れる。


 声は人を現す。

 人ではないのかもしれないが、その声色から、人柄が感じ取れることがある。


 しかしこの声は。

 高圧的。温厚。真実。虚実。

 その一言だけで、ありとあらゆる可能性が浮かぶ。


「ヴォルド、ご苦労だったわね」


 再び脳を揺さぶる声。

 黄金の扉が重々しく開いていく。


 扉の向こうから漏れ出す光を見に浴びながら、アキラはその声にひとつの結論を出していた。

 ただただ圧倒されていたあのときとは違い、相手を見る目が養ったからかもしれない。

 だが辿り着いた結論は、あのときと同じだった。


 これは、統べる者の声だ。


「よく来た、勇者。入りなさい」


 惹き付けられるように、全員の足が進む。


 開ききったドアの向こう、黄金色の王座に薄いローブ姿の女性が座っていた。

 身に唯一纏っているのは銀のローブ。

 それに隠された、雪のような白い四肢はキラキラと輝くように美しく、その容姿も同様だ。

 王座と同じ黄金の長い髪をトップで纏め、エメラルドの大きな瞳は総てを見定め受け止めるような寛容さを備えている。


「ヴォルド、ドアを」

「はい。お前たち、粗相のないようにな」


 この世界に飛び込んで、一瞬で、荘厳な廊下の世界の記憶が失せた。

 ヴォルドが下がり、扉が音も無く閉まると、夢物語の世界に取り残される。


 だが、周囲を囲う、眩いばかりの金と銀の装飾が並ぶ巨大な空間ですら、やはり意識から外れてしまう。

 まっすぐに伸びる赤いカーペットの先に座す“彼女”。

 人の身では容易く気圧される世界の先の先。


 アキラはある程度“その存在”について少しだけ調べてみていた。


「私は女神、アイリス=キュール=エル=クードヴェル。天界を統べる者です」


 神。

 人が祈り、人が求めるそれが、この世界には確かに存在している。

 世界各地にある神門。

 そこに彼女は現出し、神門を襲う魔物を容易く払い除けるという。

 絶対的な力を持ち、未だに神門が被害を受けたことは無い。

 村や町が滅び続けるあのモルオールですら、神門は依然として存在し続けている。


 その力を目の当たりにした者は、僅かにでも明るい未来を願い、その名の欠片だけでも子に託すことさえあるという。


 この世界の絶対的な支配者が、今、目の前にいる。


「勇者、名は?」


 永遠に聞いていたいと思わせるような声色で、アイリスは言った。

 アキラは顔を振って気を逸らすと、エメラルドの瞳をまっすぐに捉えた。


「ヒダマリ=アキラです」

「私はリリル=サース=ロングトンです」


 アイリスの瞳がアキラを、そしてリリルを捉えてくる。

 その瞳が妙に蠢いたような気がした。

 しばらくすると、アイリスはしばし目を閉じて、ゆっくりと甘そうな息を吐き出した。


「そう」


 気のない返答。自分で呼びつけておいて、まるで無駄なことをしているかのような仕草だった。

 アキラは眉を寄せる。

 やはり、この存在は分からない。“一週目”と態度は同じだった。

 だがなんだ、この違和感は。

 自分は勇者。神の敵である魔王を倒すための存在であるからこそ、広くに認められ、希望となっている。

 だが、目の前の神は、まるで勇者に興味を示そうとしない。


 激励しろとは言わないが、まるで関心がないというのはどういうことなのか。

 ならば何故呼びつけたのか。

 自分が勇者であると自覚をもっている今だからこそ感じることなのだろうか。


 最初に逢ったときはここまで深く考えなかった。アキラの思考が黒く濁っていく。

 世界を周り、感じたことがある。この世界は何かがおかしい。


 ならばその狂った世界の支配者であるこの神は―――何だ。

 分からない。


「……魔門破壊、ご苦労でした」


 しばらくの沈黙のあと、アイリスはそう呟いた。

 その瞳で全員見渡すと、ようやく優雅に微笑んだ。

 作り笑いだとアキラは思った。


「それだけの力があれば、すぐにでも魔王討伐へ向かえるでしょう」


 魔王討伐。

 その言葉を送ったのは、自分に対してか、リリルに対してか。あるいは両方か。

 意図が拾えない。

 リリルのように裏表のないわけではない。エレナのように裏を感じ取れるわけでもない。

 裏があると確信できるのに、それに決して辿り着けないような声色だった。


「魔王は中央の大陸にいます―――ヨーテンガースの魔導士の船で向かいなさい。西の海辺に停泊しています」


 アイリスは、容易く旅の進路を定めた。

 神のみに許される特権のように、勇者の行く先を確定させる。


「今回の魔王は英知の化身、ジゴエイル。何を企んでいるか分かりません。早急に倒す必要があります。……頼みましたよ」


 最後に。

 女神アイリスが、魔王の名と、お決まりのような台詞を口に出し。


 神との邂逅は終わった。


―――***―――


 言葉にできない。


「もう何と言いますか、すっごく、すっごく綺麗な方でした! ええと、エレお姉さまもお綺麗ですが、種類が違うというか、雰囲気が違うというか。エレお姉さまは、こう、お近づきになりたい!! って感じですが、そういうのとは違うんですよね、あっしが呆然としていることしかできないレベルです。イオリンみたいに知的な雰囲気でしたし、サッキュンみたいに緊張感もある感じで、かんっぺきでした!! ねえ、聞いていますかお母さん!!」


 言葉にできない感情を何とか吐き出してみたのだが、目の前の母には伝わっているだろうか。

 日もとっくに落ち、大通りから外れたこの店の外はどっぷりと暗い。

 帰りが遅くなったとき、シンとした裏通りの中、ぼんやりと温かさが溢れているように光が漏れるこの店が、ティアは大好きだった。


「聞いているわ。でもその話、お父さんが返ってきたからにしましょうね」


 そうだ。父にも聞かせなければ。

 夕食の片づけを進めている母は、にっこりと笑った。


 だが、心が落ち着かない。

 幼い頃から何度侵入を試みたことだろうか。あの高い岩山へ続く階段に、自分は堂々と足を踏み入れられたのだ。

 一刻も早く語りに語り尽したくて、うずうずしてしまう。


「そういえばお父さんはどこへ行ったんですか? お戻りはいつなんでしょう」

「さあ。魔術師隊の支部に行くって言ってたけど。さっき出かけたばかりだし」

「なんと。入れ違いでしたか」

「それよりティア、明日は夕飯どうするの?」


 見つめてくる母の顔見ながら、ティアはお腹に手を当ててみた。


「……あ。明日どころか今日も食べてないです。お腹空きました」


 クスリと笑って母は支度を始めた。

 作るものは決まっているのか迷うことなく野菜を取り出し、水で洗い始める。


「そういえばごめんなさい。今日、帰り遅くなりました……」

「まったく、いつも言っているでしょう、時間に帰って来れないならそう言ってって」

「ごめんなさい……」


 別の用事が入るとすっかりと忘れてしまうのは自分の悪い癖だ。

 治さねばと思っているのだが、中々治らない。母にはいつも苦労を掛けている。

 せめて何か手伝おうと思ったが、調理をしようとすると母に本気で怒られるのだ。


 ふと思い出す。今よりもっと幼い頃だ。


 自分の名前はアルティア=クーデフォンだった。

 ミドルネームは、自分の親がミドルネーム持ちか、親を失った子供に引き取り手が見つかると付けられるのがこの世界では一般的だ。

 本当の両親を失って、自分がアルティア=ウィン=クーデフォンになってしばらく経ってからだったと思う。


 自分の無力さを強く感じていた頃だ。

 突き動かされるように、せめて何かは手伝おうとして、自分の手を勝手に取り出した包丁で切って大出血したことがある。

 どうしようもなく痛くて、大声で泣いて、大人たちがすぐに止血してくれても、それがまた情けなくてまた泣いた。


 ようやく血が止まったら、いつも優しかった叔母さんに思い切り頬を張られた。

 そのときのことは今でもよく覚えている。

 痛い思いをしているのに追い打ちをかけるようなことをする叔母さんを内心恨み、そして同時に、今の自分の母はこの人なのだと子供ながらに感じた。


 そんな思いをしたからか、台所はティアにとって禁断の地のようなものだった。

 台所を横切れば早いのに、わざわざ廊下を大回りして自分の部屋に戻っていた時期がある。

 食事の時間が近づくと、軽快に聞こえる包丁の音が、たまらなく怖かった。


 治ったのはいつからだったろう。

 母のつまみ食いを見て思わず笑ってしまって、共犯にされるために手招きされてからだったろうか。あれはいつの出来事だったか。

 今はこうして自然に足を踏み入れられる。

 父の職場も、確か最初は怒られて、でもいつの間にか入れるようになって。


 この家のいたるところに、自分の思い出が詰まっている。

 追憶と共に、目の前で食事の準備を進めてくれている母の背を眺めると、少しだけ、小さくなったような気がしてきた。


「……お母さん」

「なに?」

「私、ご飯しばらく要らなくなります」


 ティアは呟いた。

 散々言われ続けてきて、初めてきちんと言えた気がする。

 母は振り返らなかった。


「旅に出るんです。魔王を倒すための旅に。私は、七曜の魔術師として使命を果たします」


 言葉は自然と出てきた。

 1年ほど前、自分は多分、どこかへ出かける程度の心構えだったと思う。

 だけど今度はきちんと言わなければならないといけない気がした。


「出発が近いの?」

「近日中です。具体的な日は聞いてませんが、そう長くはここにいられません」

「……。じゃあそうね。明日はアキラさ……勇者様たちもご招待しましょうか」


 淀みなく調理を進める母は、外の様子を気にするように窓に視線を投げた。

 父もいずれ帰ってくるだろう。

 彼にもきちんと言わなければならないことだ。


 母はしばらく調理に没頭していた。

 ティアは姿勢を崩さず、まっすぐに立ち続ける。

 ひと段落つき、いい匂いが漂ってきたとき、母はぽつりと言った。


「大丈夫なの? ご迷惑おかけしていない?」

「それは……」


 ティアにはひとつ、信念がある。

 自分が力不足なのは重々承知。だが、それを理由に何もしなければ何も生まれない。

 だから今役に立てなくとも、関わることで、関わりながら成長することで、きっといつか自分がいて良かったと思ってもらえるようになれるのだと。


 人に言わせれば、きっと何でも安請け合いする人物なのだろう。

 身の丈に合わないことでも容易く頷いていた自分は、人から見れば愚かなのかもしれないし、事実そうだ。

 それどころかまさに迷惑をかけていただろう。


 だけど、目の前の母に言いたいことがある。

 それは、魔門破壊を成し遂げたことでも、魔族の撃破を果たしたことでも、神様と面会できたことでもない。


「私を必要としてくれる人がいるんです」


 彼を思い起こすと、胸の奥がうずうずする。

 昼は急にパニックになって、身体の中がかっと熱くなった。

 不快ではなかったが、自分らしくなかったように思える。これも成長なのだろうか。


「お前のお陰だって。お前のお陰で人が救われたって、言ってくれた人がいるんです」


 今でも鮮明に覚えている。

 自分の願い続けてきた何かが、目の前で形になっていくのを強く感じた。


「私はそれに応えたい。応え続けたい。だから旅に出るんです。その先きっと、ご迷惑もおかけすると思いますが、私がそうしたいと思うんです。それ以上に、あの人の、あの人たちの助けになりたいから」


 自信を持たなければならない。

 自分の存在は、きっと彼らにとって必要なのだと。

 不遜なのかもしれないが、この先に足を踏み出すためには必要なものなのだと強く感じる。


「お母さん。ここまで育てていただいて、本当にありがとうございました。恩返しもできていませんが、きっといつか返します。でも今、ここから先は、私にやりたいことをさせてください」


 頭を下げたら、涙が零れそうになった。

 そうか。自分はきっと、これから初めて旅に出るのだ。

 出かけるように飛び出たあのときとは違う。この自分の思い出が詰まった家から、飛び立つときが来たのだ。


 身体が震えた。初めて怖いと思った。

 やはりみんなは凄い。旅に出るということを、自分の家から出ることをあんなに簡単にできるなんて。

 だがその不安を、今母に見せることは出来ない。

 自分は、七曜の魔術師なのだ。


 頭に手が置かれた。

 柔らかく、暖かな手だ。頭を撫でられるのは、包み込まれているような感じがして、ティアは大好きだった。


「まったく」


 深いため息が聞こえた。

 顔を上げようとしたら、撫でられていた手に押さえつけられた。


「親からの恩なんて無理に返すもんじゃないわ。その代わり、元気に精一杯頑張りなさい。いいわね」

「そういうものですか」

「そういうものなのよ」


 母の手が引き、食器の音が聞こえた。

 配膳くらいは手伝える。


 間もなく帰ってくる父にも言おう。自分は七曜の魔術師として旅に出るのだと。

 そして感謝の言葉を伝えよう。


 母の教え通り、元気に、精一杯。


「わっ、わっ、わっ」

「ちょっ、は!?」


 気合を入れた配膳は失敗した。

 大きいお皿を割ってしまったが、涙目で謝ると、母は何故か大きく笑った。


 多分そのとき母の顔を、自分は生涯忘れないだろうと思った。


―――***―――


「そういえば」

「なに?」

「聞きそびれたな。アキラを元の世界に返せるかどうか」

「……あ、あーうん。そういえばね」

「……まあいいか」


 街の喧騒に紛れて、エリーとサクの投げやりな会話が耳に入る。

 時刻は昼前。

 随分と長いこと泊まることになった宿屋の前で、アキラは遠目に聳える岩山を眺めていた。


 数日前に逢った、あの岩山の主の言葉通り、自分たちは今から中央の大陸目指してこの街をたつことになる。


「……結局あれから接触してこなかったね」


 同じように隣に立って岩山を眺めるイオリの言葉もどこか投げやりに聞こえる。

 あの面会からここ数日、毒気が抜かれたような雰囲気が妙に付き纏う。


 神―――アイリス=キュール=エル=クードヴェル。

 天界を、いや、この世界を統べる者。


 起こったことは、ただの面会だ。

 威圧されたわけでもなく、特別な質問をされたわけでもない。

 それなのに、妙な感覚をこの身に味わった。


 “共通認識”を持つイオリとはあれから何度か神について話し合ったが、どれも憶測の域を出ず、結局この形容しがたい雰囲気に呑まれてまともに考察できていなかった。


「イオリ。何度も聞くようだけど、“一週目”ではこの街で神には逢わなかったんだよな」

「ああ。それは間違いないよ。それより君はどうなんだ。前回はこの街で神と面会したんだろ。何か違いとかなかったのかな」

「……うろ覚えだけど、多分無い。精々俺の“具現化”の話が出たくらいだ。あとは……そうだな。エレナが暴れかけたくらいか」


 小声でイオリと話しながら、離れて立つエレナを流し見た。

 アキラの視線に気づくと、少しだけむっとして睨んでくる。狙っているのかは分からないが、やはり可愛らしい表情だった。

 あの治癒魔術の不慮の事故以来、妙にエレナに意識されているような気がした。

 彼女には悪いが、あれが理由で大人しくしてくれているのなら、神との面会前にやっておいてよかったとも言える。

 “一週目”では、まさに神をも恐れぬエレナに随分と肝を冷やされた。


「今回はリリルの存在があったから、なのかな。どうも勇者がらみの方の事例は調べても分からないことだらけだ。七曜の魔術師が揃っていたから、とも考えられるんだけど、それなら前回は何だったんだろうね。土曜の魔術師不在で面会があったんだろう?」


 “二週目”については特例とも言える根拠はあるが、考えても分からないことだらけだ。

第一、今回にしたって、リリルは正式には七曜の魔術師ではない。

 今回も特例ということだろうか。


 リリルも今頃、自分が止まっていた宿屋から出て、この場所に向かっているだろう。

 この付近には中央の大陸へ向かえる港は無い。

 中央の大陸へ向かうには、神の言ったようにアラスール=デミオンが乗ってきた船に乗せてもらうのが最短だ。

 ここを集合場所として、今から自分たちは中央の大陸へ向かう。

 そういう意味では、アラスールがこの街を訪れていた時点で、自分たちの次の目的地は決まっていたようなものだった。


 歪だった“二週目”と違い、総ての出来事が一本につながっていく。

 もし何の事前情報も無ければ、物語の進行は美しく、そして明快だったろう。

 リリルを正式に勧誘すれば、仲間を集めることを目的としたすべての大陸を周る旅も綺麗に完結し、いよいよ打倒魔王の旅が本格的に始まる形だった。


 だが今は、無駄なく進行していく物語に、言い表せないほどの不安を覚える。


 アイリスというこの世界の絶対的支配者からの視点ではどうなのだろう。この世界の、この物語の未来をどう見ているのだろう。

 それを問おうにも、岩山の扉はすでに固く閉ざされてしまっていた。

 今更遅い。すべての未来はあの扉が閉じたときから、再び神のみぞ知る領域に隠されてしまった。


「アキラ。リリルは勧誘するのかな」


 イオリも似たことを考えていたのか、遠くに視線を投げながら呟いた。

 視線の先、オレンジのローブを羽織った女性が歩いてくるのが目に入る。


 リリルについて。自分はどう思っているか。

 素直な気持ちに従えば、彼女の共にいたいと強く思っている。

 自惚れで無ければ、彼女もきっと、自分たちと共にいることを良しとしてくれるだろうとも感じていた。

 そうなったとき、多分自分は心の底から喜べるだろうとも思う。


 だが、例えそうだとしても、そうなったとしても。

 アキラは絶対に決めていることがある。


「例えどうなろうと、俺は“あいつ”に逢わなきゃいけない。それは絶対に変わらないんだ。だから何も問題ない。それにな、俺は、魔王討伐に向かうのが7人って決まっているわけじゃないとさえ思っているんだぞ」

「……はは。それもそうか。ふ、はは」


 イオリは何がおかしいのか、いつまでも笑みを絶やさなかった。

 アキラも釣られるように笑う。今はそれでいい。

 そう感じて、やはり笑ってしまった。


 世界を一周したというのに、相変わらず自分は八方美人に手を伸ばそうとする。

 たったひとつに手を伸ばそうとして、壊れた世界を知っているから。

 この話をした“彼女”は今、どうしているだろう。


 その答えは、これから自分たちが向かう大陸にある。


「おっ待たっせしました!! いやいや、旅立ちの日にうってつけなお天気ですね!! あ、これお母さんから皆さんに差し入れです!!」


 見えていたリリルが歩みを緩めたタイミングで、背後から全員が集合したことを意味する騒音が聞こえた。

 実家に寝泊まりしていたティアも、これからまた旅に出ることになる。

 夕食に招かれたときに挨拶は済ませたつもりだが、もう一度くらい娘を預かる身として両親に頭を下げに行くべきだったかもしれない。

 表に出すつもりはないとはいえ、この旅には、不穏なものを感じているのだから。


「はい。これ、アッキーの分です」


 ティアの声に、振り返る。

 そうすると、胸の中の黒い塊が引いていった。


 いつもの調子に戻ったティアがにっこりとして小さな小包を渡してきていた。食料か何かだろう。

 少しだけ背が伸びた気がするティアは、今後も成長して変わっていくのだろう。だが、見ているだけでも救われるような、この眩しい笑顔は、変わることが無いような気がした。


 エレナはうるさいのが来たとでも言うように耳を抑えながら気だるげに欠伸をしている。その姿すら美しく見える彼女にはいつも通り、加減と油断を間違えないという頼もしさを覚えた。


 サクは全員集合と見て姿勢を正し、視線をまっすぐに向けてきた。常に真摯な彼女は、アキラが休息に徹している間も剣を鍛え直してくれた。感謝の言葉は言い尽くせない。


 イオリは念のためとでも言うように全員を見渡し、小さく頷く。この街のことを思い起こすと、彼女といた時間が一番多かったように思える。自分は彼女のことを少しでも理解できただろうか。漠然とした予感だが、少なくとも、この先彼女の行動を不穏に想うことは無いような気がした。


 リリルは軽く会釈すると、やはり堂々と胸を張る。彼女がそうしていると、不思議と自分にも自信が湧いてくるような気がする。正史では命を落としたらしい彼女は、そうは思えないほど、世界中に希望を振りまける存在に見えた。


 エリーは速やかにティアの手を掴むと、逸れないように自分の身に引き寄せた。

 たったふたりで始まったこの冒険。多くの仲間に恵まれたのは、アキラの日輪属性の力だけではなく、彼女の振る舞いがまとめ上げてくれたお陰かもしれない。


 あの月下。

 すべてを失ったあのとき。

 自分が誓った想いが、形として目の前にあるような気がした。


 ここで終わりではない。まだ自分は何も成していない。そう自分も戒めるも、目の前の光景はキラキラと輝いて見え、胸の奥で蠢く闇が薄れていくように感じた。


「アラスールが馬車の手配をしているはずだ。アキラ」


 イオリがそう言い、アキラは頷く。


 自負を持ち、不安は表に出さない。

 それが率いる者の使命だ。


 あらゆる重圧に押し潰されて、ヒダマリ=アキラという人間は1度自分自身を諦めたことがあるほどだ。

 だから自信と覚悟が欲しかった。彼女たちからの信頼が欲しかった。


 それを得たはずの今、しかしアキラは随分と遠回りをしたのだと感じる。

 ほんの少し、顔を上げるだけで良かったのかもしれない。


「よし、それじゃあ。いよいよだ」


 そんな不安を覚えることは、この輝かんばかりの世界がそもそも許してはくれなかった。

 まだ見ぬ未来へ足を進めることを、まるで恐れられない。


 だから、漠然としたものではなく、自分の確かな意思として、言える。

 自信と覚悟を胸に抱き、彼女たちの眩しさと正面から向き合えれば、どれだけ荒唐無稽なことですら、実現できるはずなのだから。


「世界を救いに行こう」


 彼女たちのお陰で、やっと自分は、勇者になれた。


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