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おんりーらぶ!?【第二部】  作者: コー
東の大陸『アイルーク』編2
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第51話『別の世界の物語(結)』

“―――*―――”


 自分は、漠然とこんなことを考えていたのだろう。

 特別な存在と言われる人は、最初から特別になることが決まっているのだと。


 才能というものはこの世界に確かに存在し、才能を持たぬ者はそれに抗うために並々ならぬ努力をする。

 しかし、並々ならぬ努力ができること自体がすでに、比類なき才能である。


 才能然り努力然り、有する者、成せる者は、紛れもなく特別な存在だ。

 ゆえに、才気溢れ研鑽を行たらぬ者たちは、最早言葉では表せないほどに眩しく輝いている。


 自分はと言えば、黄金に輝くその存在たちを遠くから見て、時に歓喜し、時に劣情を向け、己の日々を淡々とこなしていた。

 彼ら彼女らを、純粋にすごいと思えた。純粋に憧れた。

 そしてきっと苦悩もあったのだろうと、訳知り顔で口にする。

 そんな想像もできない日々を想像し、自分には真似できないと笑いながら笑えないことを口にする。


 言い訳はいくらでも思い浮かんだ。

 その分野において、自分には才能が無い、その努力は自分にはできない。

 暗にその分野は自分のものではないと示すように。

 そして自分の才がピタリとはまる分野を、いつまでも子供のように待ち続けていた。

 よく耳にする。人は誰でも特別な存在だと。

 だから、自分も特別なはずなのだと。

 自分はあらゆる分野に目を逸らしてきてはいるが、自分の存在自体を決して諦めていなかった。


 自分は、本当はこんなことを考えていたのだろう。

 特別な存在と言われる人は、自分が特別となれる分野に出会えた幸運な人なのだと。


 だから変化を求めていた。

 まだ誰も歩いたことのない、自分のためだけの世界を強く求めていた。

 自分の手も足も動かさずに、変化を求め続けていた。


 変化はあった。

 自分は幸運だったらしい。

 気づけば自分は、元の世界から切り離され、異世界に来訪していた。

 それどころかご丁寧にも、自分には特別な力が宿っているという。


 身体中が沸騰しそうなほどに滾り、喜びに打ち震え、自分は迷うことなく足を踏み出した。

 ようやくなれたのだ。

 自分が憧れた幸運な人たちに。


 自分が望んだ通り、それなりの苦悩は訪れた。

 最初はそれすらも、言うなれば楽しみながら乗り越え、前へ前へと進んでいけた。


 だが、遂に気づく。

 この世界も、元の世界と何ら変わらず、輝かんばかりの先駆者がいて、才も努力も求められていることに。

 旅の途中、ふと振り返れば、自分はあまりに平凡に成長しているに過ぎず、精々、最初から宿っていた特別な力が鈍く光っているだけだと気づいてしまった。


 取り返しは付かない。

 そのときにはすでに、後戻りできない場所まで自分は歩いてきてしまっていた。


 何もしてこなかったわけではない。

 確かに鍛錬は積んでいた。

 だが深く考えれば、それは所詮、元の世界で学校にでも通っていたのと同じくらいの濃度だったかもしれない。

 もっと詰めて研鑽していれば、こんな不安はなかったかもしれないと思ってしまった。

 同じだ。元世界と同じことを感じ取ってしまった。


 あれだけ望んでいた変化が訪れたのにもかかわらず、自分はそのあまりある幸運を活かすことができていないという、絶望的な恐怖だけが身体中を支配した。


 ようやく分かったことがある。

 邪魔なものがあった。

 自分への執着だ。


 自分を一点の穢れもない輝かんばかりの存在にしたいがために、この現実と真摯に向き合えていなかったのだ。

 輝かんばかりの光を放つ彼ら彼女らの苦悩など、この分野であれば味わうことなどないと、心のどこかで傲慢にも思っていたのだろう。

 地べたを這おうが泥を啜ろうが、足掻きに足搔いて前へ進もうとしていれば、こんな恐怖に絡めとられることは無かったはずなのだ。


 なら、もう、要らない。

 自分など、要らない。


 嘲笑されようが侮蔑されようが非難されようが構わない。


 自分が特別な存在になることは決してない。

 認めよう。自分には才能は無い。


 元の世界でもこの世界でも、自分だけに出来る特別なことなど存在しないのだ。

 だから、二番煎じだっていい。誰かに従い、誰かに倣え。


―――ヒダマリ=アキラは、ヒダマリ=アキラを、諦めた。


――――――


 おんりーらぶ!?


――――――


 アイルークの魔門の樹海。

 その地帯は最早樹海とは名ばかりの凄惨たる灼熱地獄に変わっていた。

 樹木は愚か突如として出現した黄色に輝く迷路の壁すら溶け出すようにしなだれ、視界総ては煉獄の赫に染まり尽している。


 その狂気の世界の中心では、地獄から現出したかと思わせる赫の巨体が堂々たる威圧を放ち、鬼を思わせる凶暴な貌を歓喜に歪ませていた。


 リイザス=ガーディラン。


 この世界の悲劇の根源―――“魔王”に仕える、魔王直属の魔族は、比類なき力を見せつけながらも、敵に対峙する。


「―――“キャラ・ブレイド”……? またもオリジナルの詠唱か。ヒダマリ=アキラ。まさかまだまだ楽しませてくれるとはな。それとも“それ”が切り札か。よくぞここまで温存していたな」

「……切り札?」


 ヒダマリ=アキラは、リイザスの言葉を漠然と聞きながら、ゆらりと剣を構えた。

 動かないはずの身体。出し尽したはずの魔力。

 だが今、四肢に力が滾り、纏う魔力はかつてないほど昂っている。


 自己の身体を慮ってみようとしたが、頭の奥から溢れてくる殺意が、総ての疑問を塗り潰した。


「これが切り札かどうかなんて―――“俺が知るわけないだろう”」

「……ふん、見掛け倒しでないことを祈ろうか」


 衝動に任せてアキラは大地を蹴った。

 迷うことない突撃は、即座にリイザスとの距離を詰めていく。


「―――アラレク・シュット!!」


 最初からそう決めていたのか。至近距離まで接近したアキラに対し、リイザスは遠距離攻撃の球体を放つ。


 球体は、計4個。

 総てアキラ目掛けて高速で接近してくる。

 その瞬間、爆発的な情報量が頭を埋め尽くした。


 次の足を踏み出す位置を僅かに変えるだけで、対処しなければならない球体の数が変化する。

 最も安全なのは右へ迂回するルートだ。

 切り伏せる必要のある球体はひとつのみになる。

 だが、別の道をアキラは見つけた。

 僅かにも触れることを許されない球体同士に、半身ほどの小さな隙間がある。


 “だからアキラはそこへ向かった”。


「―――はっ」


 傍から見れば直撃だった。

 直撃すれば骨すら残らぬ球体の隙間を、身体ひとつですり抜ける。


「―――その目。“来ると思っていたぞ、ヒダマリ=アキラ”」


 そのルートは完全に読まれていた。

 抜けた瞬間、目の前で赫の巨人が拳を振り上げている。

 一撃必殺の剛腕は唸りを上げ、迷わずアキラを狙い撃つ。


 “だからアキラは剣撃を放った”。


「―――!?」


 突き刺すように放った剣は、まっすぐにリイザスの首へ向かっていく。

 中途半端に傷をつけても効果は無い。

 この魔族が言っていたことだ。首を落とせばこいつは死ぬ。


 これにはリイザスも対処せざるを得なかったのか、アキラを狙った拳を引き留め、鋭く走った剣を弾く。

 逸れた剣はリイザスの肩ほどを掠めるように貫き、赫の世界に鮮血が舞う。


「グ―――、ち、」


 懐に入りこめたアキラは身体を回して居合のように剣を放った。

 次に狙うは守りの固い首ではなくその巨躯の胴体。

 リイザスは僅かばかり反応が遅れたものの、すぐに魔力を迸らせ、火曜の抑制でアキラの一撃を抑え込む。


 ならば次だ。


「……!?」


 剣の攻撃が抑えられたのなら、開いた左手に仕事をさせよう。

 アキラはそのままの勢いでリイザスの顔面に拳を放つ。

 リイザスはその巨躯に似合わぬ俊敏さで背後に跳ぶと、アキラから距離を取って構える。


 ようやく、リイザスが放った魔術が背後で爆音を轟かせた。


「やっとまともに回避したな。全部が全部効かないわけじゃない。当たり前だが攻撃してりゃいつかは殺せるってことか」

「……貴様本当にヒダマリ=アキラか。その魔術の影響か? 戦い方が変わったな」


 アキラはコキリと首を鳴らした。

 身体は動く。魔力は十全だ。

 気になるのは前に受けた腹部の損傷だが、あばら骨にいくらかひびが入った程度だろう。問題ない。


「先ほどまでより動きは僅かに遅い。剣の威力も落ちている。だが何故だ、圧倒的に戦い難くなったぞ」

「何故? 日輪属性にいちいちそんなこと聞くなよ。解析するのはお前らの仕事だろ」


 不遜に言い放つと、リイザスは漆黒の目を見開き、そしてすぐに歓喜に歪める。

 赫の巨体を震わすと、身体中から天地に轟かんばかりの魔力を奔出させた。


「ハ―――ハハ、ハハハ……!! そうだ、そうだな、ヒダマリ=アキラ……!! すまなかった、下らんことを聞いたようだ。日輪は結果しか求めんか。『魔力回復』に『戦闘力向上』。日輪は、“その事実のみを求めれば良いのだからな”。確かにそうだ、その理由や方法は他の属性にそれぞれ解釈させておけばいい」


 ヒダマリ=アキラの有する日輪属性。

 世界的に最も希少価値の高いその属性は、“魔法”を操る。

 特に水曜属性に顕著ではあるが、他の属性は“魔法”を解析し、自己の属性で実現可能なプロセスを確立し、“魔術”に落とし込む必要がある。

 “魔法”と“魔術”の決定的な違いは、そのプロセスを乗り越えることができるかどうかだ。


「非礼を詫びよう、ヒダマリ=アキラ。そして日輪属性。拳を交えることも稀なのでな。今日は良き日だ。貴様の謎、そして貴様自身にも、挑ませてもらうぞ……!!」


 アキラは目を細める。

 想定していた以上にリイザスに残っている魔力が多い。自分やリリルと戦闘を繰り返しているのにも関わらず、未だに奴は小手先の戦闘しかしてこなかったのだろう。

 そして今、こちらの戦闘スタイルが変わったことも認識し、戦闘経験豊富なあの魔族も戦い方を変えてくるだろう。


 だが、想定以上ではあるが想像以上ではない。

 必要ならばとリイザスの正確な残力が“降りてきそうになった”が、溢れんばかりの殺意の奔流に呑まれて消えてしまった。


 余計なことは考えなくていい。

 奴を殺す。それだけを考えろ―――あの男のように。


 アキラは再び赫の巨体へ鋭く走る。


「キャラ・ブレイド!!」


―――***―――


 ホンジョウ=イオリは考える。


 ヒダマリ=アキラにとって、エリサス=アーティとはどういう人物だろう。

 ヒダマリ=アキラにとって、ミツルギ=サクラとはどういう人物だろう。

 ヒダマリ=アキラにとって、エレナ=ファンツェルンとはどういう人物だろう。


 この旅を通して彼が見てきた彼女たちは、どのように映っているであろうか。

 きっと、想いを育み、絆を強め、憧れを抱き、キラキラと輝いているのであろう。


 では、自分は彼にとってどういう人物なのだろうか。


 色々と勿体をつけて、言い訳をして、表現を変えて、のらりくらりとかわしてきたが、はっきりと、認めた方がいいかもしれない。

 彼の言うところの“一週目”。ホンジョウ=イオリは、ヒダマリ=アキラに、仲間以上の感情を抱いていた。


 勝手の分からぬ異世界に落とされ、同じ境遇の人に出会えたからか。

 共に旅をして、笑い合い、時間を共有したからか。

 それは分からないし、そういうことに関しては考えれば考えるほどまともに思考が働かない。

 ただ、いつの間にかどこにいても、彼を目で追うようになっていた。

 かと言って、魔王討伐を目指す旅の中でそんなことは口にできない。

 特に彼は“勇者様”だ。自分などより、余程の重圧が世界中からかかっているであろう。


 だから少しだけでもいいから、彼の重みを分かち合おうとした。

 彼の望みを叶えたいと思った。

 幸いにも、自分は魔導士としての経験がある。旅の方針のサポートはできそうだった。


 彼は仲間をこよなく愛する。

 だから自分は彼女たちが危機に陥らないように日夜奔走した。

 我ながら損な役回りだと思う。

 だけどそれで良かった。何しろ、態度から伝わらないことは自覚しているが、自分も彼女たちのことを大切に想っているのだから。

 もし、いつか、彼が彼女たちの誰かに強い想いを抱くことになったとしても、自分はきっと、自分に言い訳をして、それに協力してしまうだろうとも思っていた。


 だから、“あの結末”を迎えて、自分は心の底から大声で泣いた。


 前回の旅や、今回の旅はどうだろう。彼や彼女たちに対する感情は、形を変えてしまっているのだろうか。

 すべての記憶を保有する自分は、1回目の役回りだけを引き継いで、同じことを繰り返しているだけに過ぎないのかもしれない。


 だから、彼の望みと途轍もないほど高い壁が衝突したとき、この身体は動かなくなってしまうのだろう。


「イオリさん。エレナさんを今すぐ手当てしないと……!!」


 エリサス=アーティの言葉に、イオリは奥歯を噛み締める。

 視線の先、完全に滅ぼされた大地の向こう、半死半生の女性が立っていた。


 エレナ=ファンツェルン。

 イオリの記憶の中でも、すべての戦場をほぼ無傷で容易く乗り越えてきたエレナは今、身体中から血を滴らせ、荒い呼吸を繰り返している。


 その中間。

 エレナにそれだけの被害をもたらせた存在があまりに無表情で立っている。

 黄色い人形のような姿をしている“魔族”―――ルゴール=フィル。


 あの魔族が放ったこの場総てを襲う砲撃を、エレナはその身に浴びてしまった。


 エレナの背後にいるミツルギ=サクラはほぼ無傷。

 こちらも自分が砲撃を土曜の魔力で辛うじて防ぎきって被害は出ていないが、“魔族”とまともに戦闘が行えるエレナが負傷したのはあまりにも痛かった。


 だが。


「なに……これは」


 自分の背後のもうひとり、ヨーテンガースの魔導士のアラスール=デミオンが声を漏らした。

 自分も身体中が震えている。


 エレナ=ファンツェルンはもともと見た目ではまるで危険性を感じ取れない人物ではある。

 だが、今にも倒れ込みそうなエレナの周囲には、先ほどのルゴールの砲撃に勝らぬとも劣らぬ魔力が暴走するように吹き荒れていた。


「……あたし、行きます。これ以上エレナさんに無理させられない……!!」

「ま、待って!」


 飛び出そうとしたエリーをアラスールが止めた。

 歴戦の魔導士らしい、正しい危機管理だ。

 今あの場所へ向かうことは死を意味する。


「エレナちゃんは、あれ、何なのよ。あんなのもう―――“魔族”そのものじゃない」

「でも、だからって、」


 イオリは拳を握り締めた。

 エリーも、今目の前で暴れ回っている魔力の危険性を理解していないわけではない。

 だがそれでも、彼女は純粋に、エレナの身を案じているのだ。


 一方で、アラスールの判断も正しい。

 魔道を齧ったことのある者ならすぐにでも分かる。

 今から起こることは、まさに魔族と魔族の激突だ。

 たかが人間が介入できる余地はない。


 仲間としての自分、魔導士としての自分。

 それぞれの行動として、やるべきことは決まっている。

 だがその最初の一歩は、前々回でも前回の自分としてではなく、“今回”の自分の意思で踏み出さなければならない。


「んじゃ再開しましょうか。小汚い人形さん」

「……本当に名前を覚えておくよ、エレナ=ファンツェルン。この結末がどうあれ、君は大きなリスクだからね」


 ルゴールの子供のような声が響いた―――瞬間。


 エレナ=ファンツェルンが突撃した。


 ―――ギギ―――ギ―――ギ――――――


 周囲で気味の悪い金属音が響いた。

 この地帯を囲っている迷路の壁が軋みを上げ、濁った色に変色していく。

 変貌していく空間の中、進むごとに身体から血を吹き出す小柄な女性は、荒れた大地を鋭く進む。


「―――、」


 エレナの突撃に対し、ルゴールは黄色の矢の魔術を発動させた。

 人形のような黄色い身体が全身輝き、無数の矢がエレナひとりを目掛けて放たれる。


「キュトリム」

「!!」


 牽制程度にはなると思っていたのだろう。

 しかしエレナはその怒涛の矢に迷わず飛び込んだ。

 エレナが手を突き出すと、黄色の矢はすべてその手のひらに吸い寄せられるように集まり、着弾と同時に消失してしまった。


「なあ。だから魔術攻撃は止めた方がいいって言ったろ」

「づ―――、今まで回避してたのは―――」

「は? 面倒だからに決まってんでしょ」


 ついにルゴールまで到達したエレナは、その拳をその勢いのまま放った。

 その挙動だけで暴風が巻き起こり、さながら隕石のような衝撃がルゴールの腹部に叩き込まれる。

 グンッ!! と。鈍い打撃音と同時に黄色い人形の腹部が背後に伸び切った。ルゴールの腹部は今まで以上に伸び、枯れ果てたような迷路の壁付近まで届く。

 仕組みは分からないが、ルゴールの身体は伸縮自在のようだった。エレナの一撃は、黄色い人形の身体に衝撃を吸い込まれる。


「あら。これなら千切れてバラバラになるかと思ったのに」

「悪いね。ボクの限界はまだまだ先だよ」

「っ!」


 伸び切った腹部が即座に縮小を始めた。

 エレナは拳を離すと鋭く身をかわす。直後、戻ってきた腹部がその勢いを利用して槍のように正面に放たれた。


「―――掴みやすいわね」

「棘だらけだよ?」


 伸びた腹部を掴もうとエレナが手を伸ばした瞬間、その腹部のいたるところが鋭く隆起した。

 腹部だけでなく、ルゴールの身体中が鋭い棘を持つ薔薇のように変貌する。

 しかしエレナはまるで躊躇せず両手を棘に突き刺すように掴むと、血を滴らせながらルゴールを力の限り放り投げた。


「~~~っ、痛った!! 魔導士ども、後はやっとけ!!」


 軽々しく放り投げられたルゴールは、空を泳ぎ、遠方の地面に叩きつけられる。

 ルゴールが守っていた魔門が開き、エレナは血をまき散らしながら突撃していく。


「―――今よ。魔門を破壊しましょう!!」


 最初に硬直が解けたのはアラスールだった。

 イオリも即座に魔門へ向かって走り出す。


 起き上がったルゴールへ向かって走り続けるエレナを見て、何度も何度も頭を振った。


 アラスールもそうだろう、魔導士として見ると、あんな戦いは常軌を逸している。

 ヨーテンガースの魔導士ともなると、魔族との戦いは何度か経験しているであろう。


 魔族戦自体例外中の例外の事案であろうが、戦い方はある程度定められているのだ。

 大多数の魔導士が参戦することが前提な上、決定的なのは“魔族に接近しないこと”。

 魔族は、魔力の総量は元より身体の造り自体別種の存在だ。正面から立ち向かえば人間側に勝ち目はない。

 ゆえに、遠距離から魔術を放つ消耗戦が基本となる。

 だが今、エレナ=ファンツェルンは魔族に迷わず接近し、正面から戦いを挑んでいる。

 あれは最早戦闘ではない。殺し合いだ。


 身体中が凍えてくる。

 エレナの力は、この場にいる中で自分が一番知っている。

 戦闘という面において、彼女は最も信頼できる存在だ。

 だが血をまき散らし、ルゴールと争うたびに惨たらしい姿になっていく彼女を見て、どうしようもない恐怖に駆られた。

 彼女は自分とは、あるいは自分たちとは決定的に違う。

 彼女は戦場の生き物だ。彼女からすればあの血生臭い光景も、自然なものなのかもしれない。


 いや。とイオリは考える。感じる。

 彼女は今、目の前のことに必死なだけだ。


 彼女は言った。この地で、アキラに頼られたと。だからそれに力を貸すと。

 力を貸すと決めた彼女のやり方は、目の前のことに必死になることなのだ。


 魔物を破壊すると決めたアキラの言葉を、彼女はそう解釈した。

 同時に全員の無事を願うと言ったアキラの言葉を聞いてなお、エレナ=ファンツェルンは威風堂々と魔族にだって立ち向かう。


 彼の言葉はまるで魔法だ。

 理想や夢が詰まっていて、自分たちはいつもそれを解釈して奔走する。

 彼も、自分の言葉を実現するために、今もどこかで死闘を繰り広げているのだろう。


 その魔法が、実現することを信じて。


 ならば、自分は。


「ここね……!!」


 辿り着いたそこは、ルゴールの砲撃から唯一被害を逃れた地点だった。

 周囲が削り取られたせいで盛り上がり、妙な黒い霧が瘴気のように噴き出している。


「スーパーノヴァ!!」


 禁忌の魔門に、エリーが躊躇うことなく魔術を放った。

 アラスールは反射的に抑えようとしたが、首を振って彼女も魔術を大地へ向かって放った。

 今は一刻を争う状況だ。多少危険でも早期解決が求められる。

 2度3度と魔術で土をまき散らし、盛り上がった大地を削っていく。


 魔門はまだ見えない。

 地中にあるらしい“それ”は、果たしてどれだけ深くに埋まっているのだろう。

 だが、沸き上がる瘴気が強くなっていった。


「……アラスール!! 多少危険でもいいね!?」

「―――イオリちゃん……?」


 次の瞬間、ルゴールが放り投げられた地点で、爆音が響いた。

 土煙が立ち上り、それそのものが狂気のような魔力が鋭い稲光を放つ。

 色は、イエロー。

 またあの砲撃でも放ったのだろうかと身構えるが、立ち昇る煙の中から攻撃は飛んでこなかった。


「魔術は無駄だっての」

「いや、今のは身体から魔力を噴出させただけだよ。それに、どうやら無駄でもないらしいしね」


 爆撃音が轟く。

 土煙の中、エレナとルゴールの影がけたたましく動き回り、エレナの拳がさく裂するたびに樹海が揺れた。


 樹海を覆った迷路が変貌していく。

 迷路の壁が、まざまざと色を失い朽ちていく。

 抜かれた色素のようにも見える光の粒子が周囲に漂い、土煙の中に吸い込まれるように消えていった。


「あら。ようやく面倒な迷路消してくれるみたいね」

「よく言うよ、君も多少はその手で“吸い取っている”だろう。だけど決めたんだ。エレナ。もう君を人間とは思わない」


 煙の中の動きが激化した。

 ルゴールは迷路生成に回していた魔力を回収したのか、煙の外からでもはっきりと見えるほど黄色い身体を輝かせ、エレナ=ファンツェルンに襲い掛かる。

 今まで受けや返しの行動ばかりとっていたルゴールが“攻撃”を開始する。

 対するエレナもまだ余力があったのか、動きをさらに高めていく。

 樹海の一角で拳や魔術が飛ぶたびに、大陸中に轟くほどの爆撃音が響き、常人には存在を許さぬほどの密度の魔力をまき散らす。


 完全に別次元の殺し合いだった。

 話の中でしか聞いたことのない魔族同士の抗争。その想像のさらに上。

 ひとりと1体は命を削り合う死闘を繰り広げていた。


 我ながら、思う。

 よくこの死地に“飛び込もうと思ったと”。


「クウェイル!!」


 鋭く投げたナイフがまっすぐに飛ぶ。

 単純な魔術なら、ふたりが戦い合った結果でしかない残留した魔力に呑み込まれているだろう。

 だが、ホンジョウ=イオリの有する土曜属性の魔術は他の魔力魔術の影響を受けにくい。

 結果、ルゴール目掛けて投げたナイフは黄色い人形の身体に吸い込まれるように鋭く走った。


「―――、へえ」


 ルゴールが即座に察知し背後へ飛ぶ。

息次ぐ間もなく争い合っていたふたりの身体がナイフで割かれるように離れると、イオリは身体を滑り込ませるようにエレナの前に立った。


「……ハ、ハ。何しに来たのよ」


 冷たい言葉が背後の仲間からかけられた。

 それはそうだ、自分は邪魔をしてしまった。


「いい作戦だと思ったよ。あの“魔族”とあれだけ至近距離で戦っていれば、魔門の方へ注意を向けられないからね。その間に魔門を破壊してしまえば良かったんだ」


 冷たい口調でそう言った。

 確かにそうだ。自分は本来、そう考えるような人間だろう。

 魔門破壊を達成するためには、化物同士の戦いには手を出すべきではない。


 正面に立つルゴールは、抜かりなく魔門との距離を測っているようだった。

 だが、すぐに魔術を飛ばさない。

 最警戒対象のエレナの前でその隙を見せることを今はしないだろう。


 その上、魔門破壊を狙っているふたりは手間取っているようだった。

 地中深くに埋まっている魔門。

 掘り起こすこと自体、そもそもできるだろうか。


「だけどね、僕は魔門を破壊しに来ただけじゃないんだ。勇者様の命令だよ、犠牲は出すなってね」


 言って、自己嫌悪に陥った。

 また自分は対外的な理由を求めている。


「あら。こう見えて、私まだまだやれるわよ」

「君はそうかもしれないし、事実そうでも……アキラは君を止めるはずだ」


 血と土が混ざり合い、赤色の泥を全身に浴びているような姿をしたエレナ。

 そんな姿を見て、あの男がどう行動するか。

 本人が何と言っていようが、力尽くでも止めているだろう。


「だから、せめて僕も参戦するよ。見た目よりは無事そうなら―――ラッキーで戻るのが多少遅れてもいいだろう」

「は。私よりもアキラ君たちの方が死にかけてたらどうするつもり?」


 ああ、それがあったか。

 感情的に動くのは、抜け漏れがあるから嫌いだった。


「僕は魔門を破壊しに来たんじゃないし、……もっと言えば、犠牲を出さないためだけに来たんじゃない」


 だけど今は、はっきりさせよう。

 今までのアキラやエレナの行動を見て、熱くなれないほど自分は大人ではないらしい。


「―――彼を信頼するために、犠牲無く、魔門を破壊しに来たんだ」


 これは、自分への試練なのかもしれない。

 双剣を引き抜いて、ルゴールに対峙する。


 異次元の力を見せつけている魔族相手だが、勝算はある。

 そして彼の言葉を実現しよう。


 これは、記憶を有し、今まで安全圏にい続けた自分への試練だ。


 いずれは越えなければならなかった前々回の旅。

 前回だってそう思っていた。だが、結局結末は変わらなかった。


 いずれでは間に合わない。

 今、この瞬間に乗り越える。


「随分と実入りのある日だね、今日は。また“歴史”を得られそうだ」


 子供のような声が響くと同時、イオリは魔力を滾らせ突撃した。


―――***―――


 死闘に明け暮れ、数多の強敵を下し、リイザス=ガーディランは同種の中でも別次元の怪物となった。

 自己の力を極限まで発揮し、命を削り合うような争いは、他の欲やあるいは自然と生み出される恐怖すら塗り潰すほど、リイザスの本能を昂らせる。


 魔族は特定の欲を求める性質にある。

 ゆえに、結果として他者を淘汰する力が求められてくるのだが、リイザスはその結果だけを追い求めた。


 しかし、他の物には目もくれず、気も遠くなるほどの年月戦いに没頭していると、遂に敵が存在しなくなってしまった。

 あまりに長く生きていたからだろう、多少は知恵を身に着けたリイザスは、それが自己の力が高まり過ぎたことだけが理由ではないと気づいた。


 当然だった。戦闘力というものは、魔族にとって結果でしかない。

 魔族が求めるものは、力ではなく、やはり“欲”なのだ。


 多くの魔族の中でも、特に拳を合わせたい相手である、“最古の魔族”すら、その膨大な戦闘力を自らの欲にのみ注いでいる。

 リイザスが戦闘を求めても、あの魔族は興味なさげに精々配下を差し向けてくるだけだった。

 言うならば、相手にされないのだ。

 そしてリイザス自身、気の無い相手と争いを起こしても、自己の求める死闘は実現しないのだと知っていた。

 事実、歴戦の魔族と争いを起こしたときも、血の最後の1滴まで絞り出すように争ってはくれなかった。


 ならばとリイザスは策を思いついた。

 相手をその気にさせれば良い。


 相手の欲を傷つければ、そのために、命を懸けてくるだろうと。


 結果として、成功だった。

 激昂した敵は血眼でリイザスと争うようになった。


 それどころか、意外にも、人間すら魔族たるリイザスに挑むようになった。

 そして最も意外だったのが、その人間が、時には魔族を超えるほどの力を振るい、リイザス=ガーディランという怪物と死闘を繰り広げてみせたのだ。


 多くの魔族は言う。人間など敵としてすら認識していないと。

 だがリイザスは、そんな下らないことを言う魔族などよりよっぽど人間を知っていた。

 金を、領土を、友を、仲間を、夢を、理不尽にも奪われたとき、信じがたい力を発揮して立ち向かってくる人間がいることを。


 ゆえにリイザスは、自己の望み通り、そうした者たちとの死闘を繰り広げ、そのすべてを凌駕してきた。

 至高の時を、再び取り戻せたのだ。


 “財欲”の魔族リイザス=ガーディランは歓喜する。


 久方ぶりだ。

 今目の前に、自己の“欲”そのものが存在していることを。


「―――ッッ、ハッ!!」


 リイザスの迎撃をものともせず突撃してくる男は、剣を鋭く走らせて首を狙ってくる。

 やはり初撃に受けたあの超常的な“破壊”より弱い。

 抑え込むことは可能である。


 だが。


「ふん!!」


 走った剣をリイザスは機敏に回避した。

 そしてすぐに構えると、振るった剣が今度は突き刺すように自らの胴に吸い込まれてくる。

 先ほどまでより決定的に2撃目が早い。

 魔術で抑え込むにしても、その分僅かに隙が生まれるであろう。

 目の前の剣は縦横無尽に暴れ回り、僅かな身体の硬直も見逃さない。


 弱いと言っても、魔族の身体を切り裂けるほどの威力はある。

 絡みつくような距離にいられるとなると、油断をすれば首を跳ねられそうだった。


「ハ―――、ハッ!!」


 距離を取るために、リイザスは身体中から魔力を噴出した。

 魔族の魔力はそれだけで凶器となる。

 相手は即座に離れると、剣を構えてじっと立つ。

 あれだけの動きを見せておきながら、魔力はまだまだ余裕があるようだ。


 一体どこにそれだけの力を隠していたのか。

 あるいはなぜ、それだけの力を発揮できるのか。

 もしそれが、自分が口にした“財欲”の結果であるとするならば。


「―――この上ない愉悦を覚えるぞヒダマリ=アキラ。日輪との争いが、ここまで血を滾らせるとはな……!! 貴様の力を称えよう、紛れもなく、私が争った“人間”の誰よりも強い……!!」


 “百代目勇者候補”ヒダマリ=アキラ。

 リイザスが求めて止まない死闘を行える存在。


 そのリイザスの賛辞に、ヒダマリ=アキラは僅かにも表情を崩さない。

 あるいは魔族のように冷たい瞳だった。


 そうした瞳を持つ人間は幾度となく見てきたが、戦闘中に切り替わるとは面白い。

 切り替わったと言えばこの戦闘スタイルもそうだった。


 この樹海で最初に出遭ったときは、動揺は顔にすぐに出て、決めの一手を放つ前には必ず強い意志が瞳に宿る。

 攻撃には起伏があり、仕掛けるタイミングを決めてから戦闘を行うタイプだった。

 破壊の威力に自信があったのだろう、今までの戦闘も一撃必殺で切り抜けてきたと感じる。


 だがあの瞳になってから、恐らくは細かなことを考えず、その場その場の反射で敵を狙う、野獣のような動きになっている。

 先ほど戦ったリリル=サース=ロングトンとも違う。彼女の途切れることのない連撃は、無秩序のようで実に計算された動作だった。

 今のヒダマリ=アキラのように、攻撃のために命知らずの行動を取るようなことは無かった。


 戦闘中に感情が高ぶり、そうした変貌をする人間は少なくはないが、基本的には悪手である。

 通用しない以上、戦闘スタイルを変えることは有用と思いがちだが、リイザスに言わせれば生兵法だ。

 自分に最も慣れ親しんだスタイルでい続けることこそが最も勝利に寄与する。ゆえに世に達人と言われる者たちほど、自分を崩さないことを徹底するのだ。


 だが何故だ。

 ヒダマリ=アキラはスタイルを変えてなお、実に自然に襲い掛かってくる。

 これではまるで、別人と戦っているようだった。


「む……?」


 構えているヒダマリ=アキラの周囲、僅かに気流のようなものが見えた。

 リイザスはいぶかしみ、ようやくひとつ、謎が解ける。


「……『魔力回復』の種はそれか。ヒダマリ=アキラ。確かにそうか、貴様、周囲から魔力を取り込めるのか」

「あん……? ああ、“そうなのかもな”」


 まるで無頓着に答えるも、その周囲は依然として気流が生まれている。

 流石の日輪属性、原理など気にはしないか。だがリイザスは確信した。


 木曜属性の術者に稀にあるらしいが、周囲の魔力を吸い込み、自己の魔力に還元することができるらしい。

 この場ではすでに延々と戦闘が繰り広げられている。リイザスの魔力も多く漂っているだろう。

 ヒダマリ=アキラはその場で呼吸をするように魔力を補強している。

 魔族の魔力を自らの力に変えているとなれば、ヒダマリ=アキラが元々有していた魔力よりむしろ多いくらいであろう。


 身体の傷は癒えないようだが、魔術を用いての行動ならば、ヒダマリ=アキラは現在何ら制限なく行えることになる。

 “結果としての総量”だけなら、消費を続けるだけのリイザスより高いこととなる。


 まったくもって、リイザスの望み通りだった。


「良いぞ。その魔術……いや、魔法か。決して絶やすな。それならば私も、この時を味わい続けられることになる。ヒダマリ=アキラ、頼むぞ。下手を打って私の拳を浴びてくれるな。即死されてはつまらん幕引きになってしまうからな……!!」


 リイザスは腰を落とした。

 原理はともあれ、ヒダマリ=アキラの戦闘スタイルは変わっている。

 ならばそれに合わせ、こちらも最小限に動き、敵を打つだけだ。


 戦い方を変えるのは生兵法ではあるが、問題はない。

 リイザスにとっては、むしろそちらの方が得意分野だ。そうすることで、勝ち続けてきたのだから。


 リイザスにとって、今のヒダマリ=アキラすら、かつて幾度となく下してきたタイプだった。


―――***―――


 駆け出したと同時、背後から暴風のように突撃するエレナ=ファンツェルンに追い抜かれた。

 2歩、3歩と進む間に、エレナはすでにルゴールに拳を放とうとしている。

 圧倒的な身体能力を有する木曜属性。

 それにイオリは追いすがろうと、さらに速度を上げていく。


「―――、」


 エレナの拳が被弾した瞬間、イオリは素早くナイフを向かって右手に投げた。

 エレナの身体でルゴールからは見えていないだろうが、見えていても問題ない。

 ルゴール=フィルは金曜属性の魔族だ。

 イオリの土曜属性の攻撃は嫌うはずだ。


「ち―――」


 反射的に離脱しようとしたルゴールは、退避ルートがひとつ潰れていることに気づいたようだ。

 僅かに身を固め、反対側に離脱しようとする。


 その、瞬間。


 バゴンッ!!


 エレナが本気で叩き下ろした左拳がルゴールの顔面を捉えた。

 イオリのナイフが直撃するなど可愛いものだっただろう。

 身体を伸ばして衝撃を受け流すこともできない角度で、凶器そのものの拳が唸りを上げて叩き込まれる。

 強い振動。ルゴールが叩きつけられた地面は陥没し、黄色い人形は大地に埋め込まれた。


「―――!!」


 追撃を放とうとしたエレナが離脱した。

 ルゴールの埋め込まれた地面から、一瞬で黄色い柱が槍のように伸び、接近を許さない。

 その直後、その柱のいたるところが陥没し、その穴には膨大な魔力の気流が蠢く。


「エトリーククオル」


 子供のような声と共に、この地帯を地獄に変えた砲撃が再び放たれた。

 イオリはようやくエレナに追いつくと、その前に出て両手をかざす。


「エレナ!! “接近するよ”!! ―――メティルザ!!」


 砲撃の方向は把握できた。

 先ほども見た。この砲撃はやや誘導性を持っている魔術だ。中途半端に離れると被弾する砲撃が増える。

 だがこの方向、そしてこの距離ならば、ここに盾を現出させれば全員をカバーできる。


「―――ぐ」


 グレーカラーの盾が砲撃を受けるたびに、両手が砕けるような衝撃を受けた。

 先ほども受け切れたが、得意な属性相手にして、この破壊力。

 2度3度と受けるたびに目に見えてグレーカラーの盾が縮小し、過剰な魔力を使ったとき特有の息もできないほどの圧迫感が身体を襲う。

 だが意識を僅かにでも手放せば、この砲撃で全滅する。


「……っは!!」


 ルゴールが自己防衛のために狙いも定めなかったのが幸いした。

 砲撃をすべて防ぎ切ったと同時、グレーの盾が自然に消失する。


 辛うじて顔を上げると、いつから飛び出たのかエレナがすでにルゴールへ向かって突撃していた。


「ち、面倒だね―――、!!」


 木曜属性の身体能力にすら匹敵する疾風が走った。

 エレナを追い越し、一瞬でルゴールの背後に回っていたのはミツルギ=サクラ。

 ルゴールと同じく金曜属性だが、彼女の魔術はまるで一般的ではない。


 キンッ、と甲高い金属音がルゴールの首筋で響く。

 身体を硬化させて防いだようだが、サクの狙いはそれではない。


「ら、あっ!!」


 再び爆音。

 拳が出せるはずのない擬音が、エレナの拳から炸裂する。

 今度は吹き飛ばされたルゴールは、大地を転がっていく。


 そうだ、それでいい。

 サクも察してくれたようだ。


 イオリは冷静に状況を把握する。


 今までの戦闘を見るに、不意打ちをしても、ルゴールは何故か即座に察知して、防御策を取る。

 ならばそれは撒き餌でよい。

 防がれようとも無視はできない攻撃で、ルゴールの動きを多少コントロールすればいいのだ。

 陽動という意味において、神速ともいえる動きを持つミツルギ=サクラ以上の適任者はいないであろう。

 その結果、僅かにでも動きが鈍ればどうなるか。

 魔族を殺せる存在が、その力を存分に発揮する。


「あんた、こんな私をこき使おうっての?」

「まだ大丈夫だって聞いたけど」

「性格悪いわね」


 身近な侮蔑を吐き捨てて、エレナはルゴールへ突撃していく。

 エレナにも察されたようだ。

 イオリは苦笑し、双剣を構えた。


 性格の悪さは自覚している。

 だけど、ちゃんと相手の気持ちも考えてあげられるのだ。


 現に、サクとエレナがルゴールと戦闘している間も、自分は冷静に、ルゴールの立場になって思考を巡らし、最も嫌がる動きを強いているのだから。


 エレナの右拳が迫ったとき、ルゴールはその手の方向に避けたいはずだ。逆に動けばエレナの左拳がそのまままっすぐに放たれる。

 そのやや後方から、サクがそのルートを狙っていた。動きが止められることを嫌うルゴールの退避ルートは上空になる。


 ならばと上空にナイフを放とうとしたが、イオリは左にナイフを放った。

 上空へ飛べば択が狭まる。

 ルゴールが最も行きたいのは、ナイフの方向だ。


「“君のせいか”」

「……!」


 土曜の魔力を纏ったナイフはルゴールの胸へ突き刺さった。

 エレナの拳を警戒し、身体を柔軟にしておきたいはずだから当然だ。

 しかしルゴールは、あらかじめ予見していたかのように動きを止めず、ナイフが刺さったままイオリに突撃してきた。


「君は邪魔だよ、やりにくい」

「……お互い様さ」


 弱点であるはずの土曜の魔術を受けながら、ルゴールはものともせずに急接近してくる。

 イオリは三度双剣を構えると、そのまま地面へ突き刺した。


 この双剣は、ひとりのときはそのまま武器として使っているが、こうした後方支援になりがちな集団戦では別の用途で使っている。

 定期的に取り出しては魔力を流し、瞬間的に大規模魔術を発動させる準備をしておくのだ。

 こちらへ向かおうとしたサクとエレナを目で制すと、イオリは際限なく魔力を大地に放った。


「ギガクウェイク!!」


 直後大地が鳴動した。

 落雷が突き刺されたように双剣の周囲の大地が消し飛ぶと、その衝撃が地中を伝い、ルゴールの小さな体に波のように襲い掛かる。


 バジュッ、と肉の焦げたような音が響いた。

 大規模魔術が直撃したルゴールの黄色の身体にはイオリのグレーの魔術が纏わりつき、なお暴れ狂う。

 ルゴールにしてみれば虚を突いたと思った相手から、強大な魔術が浴びせかけられた形になる。


 しかしイオリは双剣を仕舞うと、即座に両手を前に突き出した。


「容赦しないよ……!!」

「ッ―――メティルザ!!」


 ルゴールは、グレーの稲光を纏いながらもその歩みを止めていなかった。

 効いてはいるが流石の魔族。

 人間の基準で百度殺したと思っても、魔族はまるでものともしないという。

 大規模魔術を放ったばかりのイオリの隙を狙い、黄色い人形は急接近してくる。


「ギャッ―――」


 ルゴールが突き出した腕は、グレーの盾を容易く貫いた。

 その腕は槍のように変貌し、イオリの胸に突き刺さる。


 ドン、と身体が強く押され、カッと胸が熱くなる。

 運が良かった、盾で逸れていなければ首を貫かれていたところだった。

 意識が飛びそうになるも、大地を踏み絞め、倒れ込むことだけは避ける。

 倒れるのは駄目だ、動きが止まる。

 幸い急所は外れているようだ、エレナに比べれば大した負傷じゃない。


「容赦しないと言ったよね」


 声が出なかった。ルゴールの拳が今度は腹部に突き刺さる。辛うじて盾を出せたが、魔族の力を前にはまるで勢いを殺せず身体が浮き上がる。

 骨は折れ、内臓が潰れたかもしれない。


 だが上等。

 この至近距離なら多少は“攻撃”になりそうだ。

 イオリはこみ上げてくる吐き気を強引呑み込むと、素早く指を口に当てる。


「ラッキーッッッ!!」

「―――!?」


 眼前に巨大な壁が現出した。

 物理的な存在の出現に、ルゴールは押し潰されていく。


 分かってはいたが魔族の力は常軌を逸している。

 だからこちらも、惜しげもなく切り札を投入しよう。


「ギガクウェイク!!」

「―――グッ、ッッッ!?」


 ラッキーの背中に飛び乗ると、イオリは迷わず召喚獣目掛けて魔術を放った。

 魔法にほど近い召喚獣、仕組みは不明だが術者の魔術攻撃は効果が無いようだ。

 効果があるのは、今、ラッキーの下敷きになっているルゴール=フィル。

 ラッキーの身体を伝い、放たれた魔力が押し潰された魔族を襲う。


 ミツルギ=サクラほどではないが、ホンジョウ=イオリも土曜属性の本分である魔力防御からはやや離れた特性を持つ。

 立場や性格、あるいは魔術師隊の上司の影響から後方支援に回りがちだが、イオリが最も得意なのは“攻撃”だ。

 基本的に大規模魔術というものは連続して放てない。

 だがイオリは、その有する膨大な魔力により、それが“常人の尺度からは”可能である。


「さっき、の、は―――!!」


 ラッキーの下からルゴールの呻き声が聞こえてくる。


「ああ、最初の魔術は下位魔術だよ。理解がある相手との戦闘はやりやすいね」


 イオリにとって、魔導士試験の最難関と言ってもいい分野は“詠唱”だった。


 “詠唱”とは、自己の最高率の魔力の流し方、その量を特定し、魔術の質を高めるものだ。

 理屈も分かるし原理も理解している。

 だがイオリは、魔術を学び始めてから徹底的に“魔術”というルールを自分の身体に落とし込んだ。

 そんなイオリにとって、最高率の組み合わせの特定など、名前を付けるまでもない。

 正常な成長をする前に―――“詠唱”という仕組みを形作る前に、魔術を学びきってしまったのだ。


 隊員の前でそんな弱みを見せられないから意識して詠唱するようにはしているものの、イオリは魔術をほとんど直感で使用していた。これではアキラを馬鹿にできない、自分の方がずっと感覚的に生きている。魔導士が常に精緻な計算と研鑽の上に成り立っていると思っているであろうエリーにも幻滅されるかもしれない。


 結果として、イオリは“嘘”の詠唱ができるようになった。通用して1度程度だろうが、下手に魔術の知識がある相手には切り札になる。

 本当に自分が嫌になる。自分は自分にも嘘を吐くのが得意のようだ。


「魔導士!! すぐにどけ!!」


 エレナの声が聞こえてからは、ほとんど反射だった。

 イオリが即座にラッキーを引かせると、天を貫かんばかりの黄色い柱が出現する。

 ラッキーに押し潰され、絶大な威力を誇る土曜の上級魔術をその身に浴び、しかしルゴールはそれを耐えきったらしい。

 あのまま上にいたら、ラッキーどころか自分ごと串刺しになっていただろう。


 イオリは口に溜まった血の塊を吐き出すと、即座に柱に向かって突撃する。


「サクラ、エレナ!! 乗ってくれ!!」

「エトリーククオル」

「メティルザ!!」


 放たれた砲弾を前に、巨大な盾を出現させて、全神経を注ぎ込む。

 耐久力、その攻撃性。やはりルゴールは強大な魔族だ。

 だが、問題ない。想定をもう一段階上げられた。

 サクとエレナ以外、ルゴールとの近接戦闘は不可能だ。だからこのふたりを守りきらなければ全滅する。

 あの魔族には二度と接近を許さない。


「―――次はここでやろうか」

「……!?」


 目の前の砲撃は止まらない。

 それなのに、子供のような声が後ろから聞こえた。


 反射的に振り返ると目の前の盾が崩れ去り、慌てて前を向き、再び展開する。


「流石にそろそろ魔門も掘り起こされそうだ、ここでなら全員まとめていけそうだしね」


 振り返ることができない後ろから、やはり、声が聞こえる。

 目の前の砲撃は鳴り止まない。

 だが、状況は分かった。ルゴールが使用する砲撃の魔術は、自身の周囲に展開する魔術なのだと完全に思い込まされていたのだ。

 イオリよりもずっと前から、ルゴールはこの戦闘で“撒き餌”をしていたのだろう。

 術者の周囲に展開する魔術だと思い込んでいた目の前の黄色い柱の中に、ルゴール=フィルはいない。


「魔導士、そっちは任せた!!」


 どれほどの距離にいるのだろう。

 エレナとサクがラッキーから慌てて飛び降りた気配を感じる。


「エレナ、これで詰みだよ。君は周囲の魔力を自分の力に変えられるみたいだけど、その手の平からだけだろう、“魔術”を分解できるのは。だからその召喚獣使いみたいに、周囲は守れない」


 考えろ。

 自分は動きを止められ、ルゴールはまたこの魔術を放とうとしている。

 何もできないならせめて頭を働かせろ。

 どうやったら自分以外でこの魔術を防げるか。


 ルゴールの言う通り、状況的には詰んでいる。

 何でもいいから思いつけ。そうでなければ、間違いなく全滅する。


「―――いや、」

「……!」


 ひとつの答えに辿り着き、イオリは身体中を震わせて叫んだ。


「サクラ!! エレナ!! ルゴールから離れろ!!」


 砲撃は止んだ。

 イオリはすべてを防ぎ切り、朦朧とする意識のままラッキーと共に飛び立つ。

 即座に魔門とルゴールの間に着陸すると、肩で息をしながら両手をかざす。

 どうやら、ルゴールの砲撃の魔術は放たれてはいなかったらしい。


「やっぱり君は邪魔だね。狙いをあれこれ変えるのは良くないみたいだ」

「エレナ、サクラ、こっちに……。せめて僕のやや後方にいてくれ」

「イオリさん、今……、いや、それより無事か」

「いやまあ、問題ないよ、生きてるし」


 サクの問いかけに投げやりに答えた。

 正直分の悪い賭けをしたと思うが、何とか凌げたようだ。


 目の前には、身体中から鋭い棘を伸ばしたルゴールがいる。


「君は魔族が怖くないのかな?」

「怖いさ、それはもう。だけど、それを倒そうっていうんだ、過大評価ばかりしていても仕方がない」


 自分はエレナとルゴールの争いを何度も見た。

 次元の違う戦いだったが、サクが隙を見て急所を狙えるように、まるで介入できない戦いというわけではない。


「さっきの魔術。何度も使えはするみたいだけど、“連発”はできないんだろう。そりゃそうだよね、そんなことができたら僕たちはとっくに全滅している。それどころか樹海に迷路なんか出現させないで、砲台で埋め尽くしてしまえばいいんだから」


 魔族は無限を思わせる魔力を有する。

 瞬時に村や町をかき消す、常人では理解もできないほどの規格外の化物。

 一般的にはそう広まっている。

 それはそうだ。別種の存在を、自分が理解できるロジックに落とし込もうとするものはごく少数だろう。


「魔族は化物だ。人間には到達し得ない力を持つ。だけど限界はあるし、制約もある。集団で挑めば人間が討伐することだってできるんだ」


 魔術の制約ならイオリは徹底的に学んでいる。

 一口に魔術の才能と言っても、貯蔵する魔力が多いこと差すこともあれば、瞬間的に放出する魔力が多いことを差すこともある。魔力を正確に魔術に昇華させられる技法や、その持続性。魔術とは、ありとあらゆる技術が凝縮された力なのだ。

 その技術の中で、最も難しいのはまさしく連続放出。

 ほとんどの魔術を直感で放つイオリでも、最大級の威力を連発することはできない。全力で走り続けることが不可能なのは、人間も魔族も変わらないのだ。

 だからどうしても、連続で放つとなると自分の最大限の力が発揮されることは無い。

 もちろん、魔族は人間の起こせる大規模魔術など容易く連続で放ってみせるだろうが、自分自身の最高値は連発できないはずだ。


 黄色い柱の魔術は、ルゴールの最高値のはずだ。

 その威力、まさに魔族というに相応しい破壊をもたらし、すでに樹海は原形を留めていない。

 だからこそ、イオリはその線を捨てた。

 すると次の疑問にぶつかる。

 背後を取ったルゴールは、何故不用意に声をかけてきたのか。


 それはあの周囲を貫く棘だらけの姿が証明していた。

 虚をつかれて接近したサクとエレナのふたりの不意を突いて突き刺すためだ。


「僕に襲い掛かってみたり、魔門を気にしたりするふりをしているけど、結局君の狙いはエレナだろ。彼女さえ倒せばどうにでもなりそうだからね」

「いや、それも変わりそうだよ。中々難儀だよ、『守護者』に選ばれてはいるものの、ボクの狙いはエレナ、そして君、イオリだっけ。ふたりをこの場で殺すことになりつつある。『光の創め』にとって、そちらの方が有益だろうしね」

「……」


 また口にしたその言葉。

 『光の創め』。

 “ホンジョウ=イオリ”が知らない言葉がこの世界に存在しているという事実は重い。

 イオリは胸に手を当てた。

 血が際限なく流れてくる。痛みはもうほとんどないほど、神経が死んでいた。

 このままだと全員をこの樹海から連れ出すのは無理かもしれない。

 そんな状態で魔族の標的となってしまうとは。

 我ながら運が無い。


「まあでも、うんうん、分かったよ。“ちゃんとやることはやるさ”」


 背後に圧気を感じた。

 思わず振り返るといつの間にか、今度は漆黒の柱が現出している。

 注視すると、それが瘴気のようなものの集合体であることが分かった。


 まさか、あれが。


「“魔門”―――掘り起こせたみたいだね。じゃあもう、戻らないとね……!!」

「!!」


 ルゴールの身体が黄色い柱と化す。

 連発は無理でも魔力の残量はまだまだ余裕があるのか。

 再び驚異の砲撃が放たれる。


「―――っ、ふたりとも、ラッキーに乗って!!」


 叫びながらイオリはルゴールの姿を睨み付けた。

 黄色い身体が柱と同化していく。

 だが一瞬、何かが動いた。

 先ほどもそうだったのだろう、ルゴールがあの柱から離脱したのだ。


 この砲撃を放たれては、自分たちはこの場所に釘付けになってしまう。

 今度こそ、ルゴールは魔門へ向かうだろう。

 自分がこの場にいる以上、魔門側の守りは弱い。


 そんな場所に、この魔族が襲い掛かれば―――


「エトリーククオル」


 子供のような声が、残酷に響いた。


―――***―――


 アルティア=ウィン=クーデフォンは目の前の女性に全魔力、全神経を注ぎ続けた。

 深い眠りに落ちているように身じろぎひとつしないリリル=サース=ロングトン。

 自分たちを守るために、魔族の絶大な一撃を防ぎ切った“勇者様”だ。


 彼女は、自分たちには何が起こったのか分からないほど完全に、魔族の攻撃を遮断してみせた。

 だがあの魔族は言った。リリルはその防御に、自分の命を対価に捧げたのだと。


 まともに魔術を学んできていないティアでも知っている。

 魔術の対価は“魔力”、“時間”、そして“生命”だ。

 だが、“生命”を対価に使用できる者はごく少数だという。ティアは以前魔力が完全に底をつくまで魔術を放ったことがあるが、全身に極度の虚脱感が襲い、遂には意識を失ってしまった。おそらくその一線を越えれば、“生命”を対価にすることになるのだろう。

 自分にはそれができない。だが、リリルはそれができるのだ。できてしまったのだ。


 恐怖で身体中が金縛りになる。

 そんな症状になった相手に治癒を試みるのは初めてだ。まるで効果が出ているように思えない。

 治癒は得意なつもりだが、その仕組みや治療されていくプロセスなどまるで分らない。だから自分はいつも、自分がこうだと思う方法で、目の前の相手に全力を注いでいる。

 だが、それでは足りないのだろうか。それならば、何故自分はもっと学んでこなかったのか。


「……、うぅ、お願いします……。お願い、します……!!」


 ひたすらに魔術をかけ続ける。

 それでも、目の前の女性はピクリとも動かない。


 鼓動が早鐘のようだった。涙で前が見えない。意識が朦朧とさえしてくる。

 空の彼方にいる両親を、ヘヴンズゲートにいる第2の両親を、今もどこかで戦っている仲間たちにも、必死に願う。


 お願いします。

 これからはちゃんと勉強します、漫画も捨てます、迷子になりません、言うことを聞きます、泣き出しません、大人しくしています。

 だから今、目の前の女性を助けさせてください。


 この魔門で誰かを失うことを、もう二度と繰り返したくない。


「―――、―――、―――ぁ」


 赫のエリアの一角は、ティアのスカイブルーの魔力で塗り潰されていた。

 大いなる先駆者たちから見れば、それはあまりにも無駄の多い暴走に近かったであろう。

 加減を知らぬ子供のように、喚き散らす赤子のように、稚拙な治療だった。


 だが今、生物としての動きを完全に止めていた女性が、僅かに動いた気がしたのだ。

 焦らず、しかし惜しむことなく、そのまま魔力を放ち続けた。

 女性の顔に、次第に生気が戻ってくる。


 まだ焦らない。

 頬をボロボロと零れた涙が伝う。魔力の残量が残り僅かなのか、頭がずきりと痛み始めた。

 身体の仕組み上抗えない虚脱感が全身に襲い掛かってくる。

 だけどこの手は、彼女の胸から決して離さない。


 そして、その、離さなかった手の平が、鼓動を拾った。


「―――、…………、あ……、あ……、ぇ、え……?」

「リリにゃん!!」

「カ―――フッ!?」


 その目が僅かに開いた瞬間、我慢ができなかった。

 当たりどころが悪ければ、生還した瞬間に止めを差す羽目になっていたであろう。

 横たわるリリルに、ティアは全力で抱き着くように覆いかぶさった。


「か、―――ふ、アル、アルティア、さ、ん……?」

「良かった、良かった、合ってた、間違ってなかった、良かったようぅ、良かった……、リリにゃん、具合どうですか!? ティアにゃんさんが治します!!」

「ティア、さん……。……耳が、……痛いです」

「わっ、わっ、わっ、大変です!! でも大丈夫です、ああ、良かった、治します、どこですか、右ですか!? 左ですか!?」


 痛みを訴えていたはずなのに、リリルはグイとティアの身体を押しのけると、立ち上がろうとしていた。流石に名だたる“勇者様”というだけはある。生死の境を彷徨っても、治癒は不要とばかりに痛みを堪え、倒れていることを良しとはしないとは。

 だが、身体には力が入っていないようで、ティアが支えると、今度は頼ってくれたようでもたれかかってきた。

 未だに鼓動が激しい。

 喜びのせいか魔力切れのせいか。それは分からない。だけどそれは、彼女が生還してくれたことを前には些細な疑問だった。


「……ティアさん、リイザスは、アキラさんはどうなりましたか……?」


 リリルの瞳はくすんでいるように見えた。まだ近くのものしか見えないらしい。息を吹き返したばかりの彼女にとって、この灼熱地獄のような空間は身体に厳しいだろう。

 だがティアはリリルを支えたまま呼吸を整えると、目の前の現実に目を向ける。


 そう聞かれて、リリルを救った喜びが、急激に萎んでいくのをティアは感じた。

 “彼”からの指示は守った。自分の信念に懸けて。

 だがそれで終わりではない。

 自分にはまだやるべきことが残っている。


「アッキーならいますよ。今―――殺し合いをしています」


 樹海に轟く爆音は、感覚の鈍いリリルにも届いたのだろう。

 ふたりして身体をびくりとして竦ませた。


 赫の世界の真っ只中で、剣と拳が縦横無尽に暴れ回る。


 剣を振るうはヒダマリ=アキラ。

 身体中が燃え滾るように赤く染まり、必死の形相でその剣を振り回している。

 対するは魔族リイザス=ガーディラン。

 その巨体とは思えぬほどの俊敏性で、振れれば身体が千切れ飛ぶほどの拳を容易く放ち、その度に、怒号のような爆音を奏でていた。


 戦いが見えているティアの目からも、何が起きているか分からない。

 ふたつの影は時に離れ、時に入り交じり、狂気の空間は更なる熱気を帯びていた。


「戦っている……戦っているんですか、アキラさんが、おひとりで?」

「そうです……。リリにゃんを治す時間を稼いでくれました。でも、あれは、あんなのは」


 まともに戦闘が目で追えないティアにも、アキラの戦闘方法の決定的な変化は感じ取れていた。

 アキラの戦闘は、エリーに近かった。

 強敵と当たると基本的にはまともにやり合わず、隙を見てため込んだ魔力を放出し、必殺の一撃で決着をつけている印象がある。

 だが今、彼は延々と命の取り合いを続けている。

 剣を振るい、突き刺し、時には拳や蹴りを見舞い、がむしゃらに敵に向かって突撃を続けていた。

 リイザスの攻撃はそのひとつひとつが必殺だ。だが今アキラは、決して身を引かず、限界ギリギリまで引き付けてから“攻撃”をし続けている。

 これはまるでかつて見た、あの大きな体躯を持つ“もうひとり”のようではないか。


 結果としてはそれが功を奏しているのであろう。攻撃行動を押し付け続けることは敵の攻撃行動を減らし、防御にもつながるらしい。

 だがそれは短期決戦においてのみだ。

 自分がリリルに治癒を施している間、彼はずっと血で血を洗うような殺し合いを続けている。


 ティアにとって、アキラは友のような存在でもあり、兄のような存在でもある。

 世界中を共に旅してきた大切な相手だ。

 そんな人物が、今、命を賭して戦っている。

 それを前に、自分がすべきことは何なのか。


 リイザスが魔力を際限なく放出したらしい。

 灼熱の余波がここまで届いて身体を強く打つが、とっくに火傷していた肌の感覚は死んでいた。

 アキラもたまらず離れたようで、ふたつの影に距離ができる。

 グ、とティアが身体に力を入れようとしたところで、噴煙立ち昇る赫の世界の中心部から聲が響いた。


「ハ―――ハハ、驚嘆に値するぞアルティア。よもやあの状態から生還させるとは!!」


 気づかれたようだ。

 リイザスの言葉で、アキラもちらりとこちらに視線を向ける。だが、すぐにリイザスに視線を戻していた。


「立ち上がれるならまだまだやれるのであろう、リリル=サース=ロングトン。貴様も来い!! 貴様らと同時に死合えるともなれば、今日が我が最良の日となるであろう!!」


 リリルが動き出そうとするのが分かったが、まともに力が入らなかったらしく、崩れるようにティアにしなだれかかってきた。

 ティアは両足で踏ん張ると、キ、と顔を前へ向ける。

 リリルは限界だ。今ですら、気を抜けば再び倒れ込む可能性だってあるのだ。彼女に戦闘をさせられない。


「ティア!! 治せたんならリリルを連れてとっとと逃げろ!!」


 その叫び声は冷たく聞こえた。

 彼の声からはいつも感じられていた、自分たちの身を案じるような温かさは無く、戦闘の邪魔だからという単なる事実だけがある冷え切った声色だった。


 リリルを支えた自分の腕に力が籠る。


「アッキー!! 今すぐ逃げましょう!! もう駄目です、限界です!! 死んじゃ駄目です!! 命を懸けることと、命を捨てることは違うんです!!」


 自分の大声は、今の彼に届いただろうか。

 声が大きいらしい自分は、声だけでなく、想いも、相手に届いているのだろうか。


「興が削がれることを言うなアルティア!! 分からんのか、今のヒダマリ=アキラは私を殺し得る力を持つぞ!!」


 それでも歓喜に染まり、心から喜びに震えるような聲をリイザスが叫ぶ。それは果たして事実なのか、それともアキラの意欲を絶やさぬための方便なのか。

 恐怖を覚えるリイザスの戦闘への意欲。太古より、その欲を証明し続けてきた規格外の化物だ。

 だが、その魔族の欲など、ティアにとっては関係が無い。


「それでもです!! こんなの駄目です!! “魔門なんて、どうだっていいじゃないですか”!!」


 魔門は両親の仇だ。憎いかと聞かれたら迷わず憎いと言える。

 だが、それは、ティアにとって、目の前の出来事と比べれば些細なことだ。

 アキラから、怒号のような声が轟いた。


「とっとと逃げろって言ってんだろ!! こいつは今、ここで、殺さなきゃなんねぇんだ!!」

「そんなの、どうでもいいです!! そんな義務とか、責任とか、どうだっていいんです!! 私は、ただ、アッキーに絶対死んで欲しくないんです!!」


 そうだ。

 自分は、勇者様御一行の水曜属性の魔術師だ。使命感は、小さいながらにもずっと持っている。

 だけど、この光景を容認するような使命感なら、そんなものは欲しくない。


「そんなに俺が信じられないのか!!」


 それでも引けない。引くわけにはいかない。引きたくない。


 彼は言っていた。信頼されたいと。

 自分たちを魔王討伐に巻き込んだ責任があると思っているのかもしれない。

 だが、やはりそれも、ティアにとってはあまりに小さい問題なのだ。


「信じてます!! アッキーがそんなことを気にしなくても、私はずっとずっと―――アッキーを信頼してます!! でも、それは関係ないじゃないですか!! “そういうことじゃないんですよ”、これは!!」


 声が枯れるほど叫んだ。

 止まらない涙は一瞬で蒸発するように消えていく。

 現実が見えていないのは自分でも分かっている。リイザスが自分たちを無事に逃がすとは思えない。

 だけど今すぐ、目の前の殺し合いを止めたかった。

 戦闘自体は得意ではないティアでも分かる。このまま戦いを続けたら、間違いなくアキラは殺される。


「分かりませんか!? もうアッキーは、“信頼されているんですよ”!! 私だけじゃ駄目ですか!? でもみんなとっくにそうです!! だからこれ以上続けることは許しません!!」


 精一杯息を吸った。

 燃えた空気が肺を焦がし、それでも、強く声を届かせるために、胸が張り裂けるほど大きく、自分の想いを届けるために。


「私だって―――怒るんです!!」


 届いただろうか。

 この大きな感情は、大きな声に乗ってくれただろうか。

 アキラはしばし沈黙し、しかし、ゆったりと剣を構えた。


「リイザス―――続けるぞ」

「ほう、いいのか。アルティアの力は測り終えた。遠慮なくこの場総てを戦場に出来る。驚異の才だ、失うには惜しいが?」

「才能? は、心にもないことをべらべらと」

「ふ、そうであったな。お前でいい。お前だけでいいぞヒダマリ=アキラ。さあ、再開だ。総てを絞り出し、挑んでくるがよい」


 もう止まらない。止められなかった。

 彼があの、暖かな声色で大丈夫だと言ってくれていたら、自分はそれを信じられただろう。だけど今の彼は、自分の命などまるで何とも思っていないような目をしている。

 最悪の事態がありありと眼前に浮かんだ。


 ティアが震えていると、リリルがよろめきながら身体を動かし、ティアを庇うように戦場から離れ始めた。

 そんな弱い力ですら、ティアは引かれて下がっていく。

 先ほどリリルを救えたときの歓喜の熱が、完全に消え失せてしまった。

 自分は絶望的なまでに無力だと、感じてしまった。


 震える身体の背後で、聞き慣れた、しかし聞き慣れない冷たい声が聞こえる。


「キャラ・ブレイド」


―――***―――


 ミツルギ=サクラは懐の秘石の感触を探りながら魔術を発動させた。


 たった今、何度目かの砲弾が放たれた。

 人も樹木も、あるいは大地さえ容易く命を刈り取る脅威の魔術は、しかし、ホンジョウ=イオリが抑え込んでみせている。

 となれば問題は、魔門へ向かって走る黄色い人形のような姿をした魔族。

 魔族が向かう魔門は、地中から掘り起こされたようで、濛々とした漆黒の煙が現出している。日が傾きかけてきた空に立ち昇り、夜の訪れを助成させるように見えた。


 今、魔門にはふたりしかいない。

 この危険な魔族がその場に到達したら、せっかく掘り起こせた魔門の破壊は困難になる。


 イオリは魔術の防御で足止めを食らい、エレナに至っては今にも倒れ込みそうに見える。


 サクは魔族へ向かって駆けた。まともに動けるのは自分だけだ。

 追いつくのは容易い。この場で自分以上の速力を持つ者は存在しない。


 だが。


「ふっ」


 即座に追いついて見せたサクの攻撃は、キンッ、と甲高い音に阻まれる。

 ルゴール=フィルという魔族は、身体をある時は硬化させ、ある時は軟化させ、自分とエレナの攻撃を受け流し続けている。

 サクの速度に追いついて身体の硬度を切り替えるなど、やはり信じがたい反応速度だ。

 相手がただの生物ならばサクはもうすでに、この魔族を5度は殺せているというのに。


 ルゴール=フィルはサクの妨害などものともせずに魔門へ向かって突撃していた。


「く。また、止めるための戦いか」


 サクは歯噛みした。

 自分もルゴールと同じく金曜属性だ。物理的な防御に秀でた属性だが、サクはその力を真っ当には使えない。今日は幾度となくこの壁に直面する。


「っ、エリーちゃん、ごめん、凌いで!!」


 魔門の破壊を試みているアラスールが叫んだ。

 彼女は秘石の魔力を用い、寒気を覚える未知の魔門の前に慎重に立つ。

 魔門に対する刺激は計算ずくめのプロセスを徹底的に守った上で執り行われることはサクも知っていた。そこに高出力の魔術を当てて破壊するなど正気の沙汰ではないが、ようやく巡ってきた魔門破壊のチャンスだ。不意にするわけにはいかない。


 ルゴールが魔門へ到達するまであと僅か。

 高速の世界に生きるサクには選択肢が生まれていた。


 この魔族を倒せないまでも足止めをしなければならない。

 ならばサクができることはひとつだけ。

 今足場に展開している魔術をあの魔族の正面に展開することだ。


 あの魔族の正面に立ち、蹴りを放つように魔術を放つ。

 金曜属性の魔術の物理的な防御だ。多少の足止めにはなるだろう。


 そのひとつだけ、だった。


 懐の秘石の感覚を探る。


 “もうひとつだけある”。

 今、この強大な秘石の力を借りられている今だからこそ、サクの脳裏にもうひとつの方法が浮かんでいた。

 足止めではない。


 その反応速度を上回り、この魔族を殺すことだ。


 だがそれが自分にできるか。

 “あれ”は、最早夢物語だ。子供の頃に夢見た、単なる憧れだ。

 それはこの魔力があればできるのだろうか。


「―――、」


 サクは首を振った。

 不確かなものに頼るなど自分らしくない。

 総てが分からなくなって、家を飛び出したあの日からずっと今まで、最も確かな道を自分は選び続けてきた。


 空想の世界に別れを告げると、サクはさらに速度を上げた。

 魔族を追い越し、正面に回り込む。

 イオリの盾の魔術すら容易く破った魔族だ、下手をすれば、いや、完璧に魔術を発動させたとしても怪我では済まない。

 自慢のこの足も、骨が砕けるくらいはするだろう。最悪致命傷を負うかもしれない。


 だが、まったくもって構わない。

 魔門破壊は主君の命令だ。

 今、この場で、アキラの意思に最も実直に応えているのはエレナ=ファンツェルン。

 自分が嫌うあの女性は、しかし自分以上に、彼の意思に真摯に向き合ってみせたのだ。


 これはもう意地だ。やらないわけにはいかない。


 彼は言った、信頼して欲しいと。

 彼に直接、信頼しているかと聞かれていたら、自分はきっと、そうだと答えていた。

 でも聞かれないから、その想いは伝わっていると思っていた。

 自分はあまり多くを語らない性格をしている。

 そのせいだろうか、彼はずっと、不安と戦っていたのかもしれない。


 今、この場で彼の不安を払拭させたい。

 それだけを、考えろ。


「ふっ」


 サクは意を決してルゴールに接近した。

 2度、3度と気を逸らすように愛刀で牽制し、そこからさらに加速してルゴールを追い抜く。

 これだけの速度で、目の前に物理的な障害ができれば流石にルゴールも動きを止めるだろう。

 サクは即座に急反転し、ルゴールへ向かって突撃した。

 愛刀に手をかけ、さらに速度を上げていく。

 自分の攻撃が通用しないことにしびれを切らした様子を装い、ルゴールの首だけをまっすぐに睨む。


 間もなく衝突。

 今だ。


「!?」

「危ないな、ぶつかったら結構痛そうだよね、それ」


 子供のような声が頭上から響く。

 サクは目を見開き、何が起きたのか理解できなかった。


 ルゴールの眼前へ足場の魔術を発動し、衝撃に備えると、しかし、ルゴールは狙っていたかのように飛び越えてみせた。

 表情の見えない黄色い人形は、不敵に笑っているように見える。

 あり得ない。

 身体の軟化硬化といい、こちらの行動に何故ここまで容易く反応できるのか。

 これが魔族の力だというのか。


 人間では到底達し得ない領域の化物は、魔門の前にいるふたりを獲物のようにまっすぐに捕らえている。


 だが、もっとあり得ないのは。


「!?」

「っは、随分元気ねぇ、あんた」


 飛んだルゴールを、獲物に飛びかかる猫のような影が拾った。


 血が飛び散り、それでも美しく、ルゴールの背後へピタリと付いて飛ぶ女性は、掴みやすそうなルゴールの頭を乱暴に握り締めた。


 エレナ=ファンツェルン。

 あれだけの傷を負ってなお、この速度についてきていたとは。

 致命と思われる負傷と出血。だがエレナは、未だ戦場の生物だった。


 ドンッ、と、エレナはルゴールを下敷きにして大地に落下した。

 掴んだまま頭を地面に叩きつけたようで、ルゴールの頭は原形を留めておらず、落とした卵のように地面に散らばって伸びる。

 ようやく獲物を手中に収めたエレナは、ルゴールの上で狂ったように笑っていた。


「さぁてようやく捕まえたわ」

「凄いねエレナ、まだここまで動けるんだ」

「言い残すこと、ある?」

「……、……、そうだね、まだまだ猶予はありそうだしね、何にしようか」


 エレナに押さえつけられてなお、子供のような声に怯えや震えは感じ取れない。

 余裕を含んだルゴールの口調に、立ち上がったサクは不穏なものを感じた。


「…………あんた、やっぱり、多少は心でも読めるみたいね」


 肩で息をしながら、エレナは絞り出すように言った。


「色々変だと思ったのよ、こっちの秘石持ちを把握してたり、妙に読まれていたりする感じがするわ。それに身体の硬さを切り替えるって言っても、あの乱戦で判断が早すぎるしね」

「ああ、流石エレナだ。やっぱり分かっていたか」


 なんてことの無いようにルゴールは肯定する。

 ルゴールの反応は早すぎた。サクが覚えた違和感の正体なのかもしれない。

 強大な力には必ず仕組みがある。当然、小手先の攻撃は魔族相手にまるで通用しないであろうが、人間が魔族に太刀打ちできないという常識は、魔族そのものへの恐怖心から生み出される幻想なのかもしれない。

 エレナは、その恐怖をまるで感じさせない猛攻で、遂に魔族を捉えて見せたのだ。


 だが、違和感は依然として残った。

 それはいつしか言い知れぬ不安となり、身体中を支配する。

 その力を暴かれたルゴールから、まるで緊張感というものを感じられなかったからだ。

 それこそ、心を読み解く力すら、魔族の力の一旦に過ぎないかのように。


「途切れ途切れの私の思考を読むのは難しかったでしょ」

「ああ、難しかったよ。だけど今は読める。流石に無理し過ぎているのかな。キュトリムを使うのは少し時間がかかるみたいだ」

「ち、魔門を破壊しろ、すぐにだ!!」


 エレナが叫ぶが、サクの目にはアラスールが問題なく魔術を発動しようとしている姿が見えていた。

 問題ない。

 問題があるとすれば、本当に秘石で魔門を破壊できるかだが、それはもう賭けるしかない。


 だがなんだ、この悪寒は。

 アラスールはルゴールの動きが止まったことを確認すると、目を閉じ、両手を魔門へ向ける。彼女が握った秘石が煌々とスカイブルーの輝きを放っていた。


 間もなく魔術が発動する。


 その、一瞬前。

 サクは見た。

 ルゴールがエレナから見えないように手を隠し、それを大地に突き刺しているところを。


「―――アラスールさん!! 逃げろ!!」

「!?」


 鮮血が舞った。

 辛うじて反応できたのか背後に跳んだアラスールの腕に、地中から伸びた金色の槍が突き刺さっていた。


「づ、づ、づ……!!」


 串刺しになった腕は、身を引いた勢いに逆らえず、腕を抉るように数センチほど腕の中を移動する。

 ルゴールが地中からその腕を這わしたのだろう。肉も骨も貫く槍は、アラスールの右腕をズタズタに引き裂いた。

 持っていた秘石は弾き飛び、離れた地面に転がった。


「ア―――、ギ、やるっ、わよ!!」


 流石に魔導士、絶叫することも無く、動く左腕を魔門へ突き出す。

 秘石から魔力は取り出せているのだろうか、アラスールは必死の形相で魔門を睨んだ。


 エレナはすぐにルゴールを掴み上げると、魔門から離すように放り投げた。

 抑え込んでいるとまた地中から攻撃を放たれる可能性がある。


 歯噛みしながらサクもルゴールに対峙する。

 問題ない。状況は変わっていない。


 アラスールは未だ魔術を放てる。

 砲撃を防ぎ切ったイオリも召喚獣と共にこちらに向かってきている。

 むしろ好転しているくらいだ。


 だが、ルゴールは慌てた様子も無く立ち昇る魔門の煙を眺めていた。


「アラスール。秘石の魔力、ちゃんと全部取り出せたかい? 中途半端な刺激は魔門が何をするか分からないよ? 何かあったら大問題だ。それでも撃つんだね?」


 思わず魔門を見てしまった。

 禍々しい煙が、この世のあらゆる恐怖の元凶が、手をかざすアラスールを前にまるで反応を示さない。

 アラスールの表情にも、負傷の苦痛以上の焦りや不安が浮かんで見える。

 博打のような攻撃なのだろうか。

 エレナが言った、ルゴールはある程度思考を読むと。

 今のルゴールの台詞は悪あがきの言葉ではなく、読み取ったアラスールの思考をそのまま口に出しただけなのだろうか。


 ルゴールはやはり、笑うような仕草をしている。

 まるで、魔門が起こす第2の“現象”を、最前列で心待ちにしている子供のように。


 そこで、静かな声が聞こえた。


「アラスールさん。まったく問題ありません」


 その声が聞こえて、ようやくサクの不安が解消された。


「―――ふー、」


 エリサス=アーティはゆっくりと息を吐く。


 自分でもびっくりするほど役に立てなかった。

 近接戦では軽くあしらわれ、遠距離攻撃をされたら守ってもらうだけ。

 たった今、アラスールが地中からの攻撃に腕を割かれた瞬間に、庇って代わりに貫かれることでもできていたら少しは格好付いたかもしれないのに。


 だけど、せめてはと全員の戦闘は眺めていた。

 注視していたのは秘石を持った面々の魔力の残量だ。

 事前の計画では秘石を最大限に使用して魔門を破壊するはずだったのだが、現れた魔族が強力過ぎて、結果秘石を戦闘に使わざるを得なかったのは痛かった。

 目算ではアラスールとイオリの持つ秘石が魔力の残量が多いようだが、計画と比べたら大幅に総量が落ちている。 


 あの秘石にどれだけの魔力が溜まっているのかは―――よく知っている。

 だから、自分がやらなければならない。

 秘石の総量に匹敵する魔力を放つことは、“この身体ならできる”。


「アラスールさん、下がってください!!」


 エリサス=アーティは拳に魔力を纏った。

 眼前には、濛々と立ち昇る魔門の黒い霧がある。


 魔族と乱戦を繰り広げたサクやエレナ、魔族の攻撃を凌いでくれたイオリやアラスールと比べたら、とても小さな働きだ。

 胸を張ることなんてできもしない。


 だが、それでもいい。

 何故なら自分が言ったのだ。魔門を破壊しようと。


「エリーちゃん!? 何をする気!?」


 魔門への中途半端な刺激などもっての他だ。

 拳を構えたエリーを見て、アラスールは自分の腕の怪我も忘れて駆け寄ろうとする。

 危険だ。

 そこにいたら“巻き込んでしまう”。


 エリーはアラスールを目で制し、再び魔門を睨み付ける。


「……まさか、だよね。死にたいの? “未知の魔門”だよ?」


 ルゴールの子供のような声が響いた。

 そう、未知の魔門だ。

 だから自分が放てる、最大級の威力で吹き飛ばそうとしているのだ。


「―――ち。無知とは恐ろしいね。させないよ……!!」


 ルゴール=フィルが駆け出した。

 何を言っているのかは分からないが、様子を見るに、“これ”は魔門へ通用するらしい。

 だが、ルゴールが焦らなくても確信はあった。

 魔門を見たとき、自分が妙に落ち着いたのを覚えている。

 というより、今まで見てきたあらゆるものを攻撃対象として見たとき、必ず思うことがある。


 “破壊可能”だと。


「アラスール!! 君なら分かるだろう、その赤毛を止めるんだ!! 殺したいのかな!?」

「なぁに言ってっか知らないけど、通すと思ってんの!?」


 振動が響く。ルゴールはエレナに捉まったらしい。


 集中集中。

 彼女たちなら、絶対にこの場所を守ってくれる。

 そんな彼女たちに返せる、唯一の小さな貢献だ。

 この魔門を―――破壊する。


「……、まさか。エリーちゃん!! ……。いえ、でも。エリーちゃん、私が攻撃した直後に放てる!? せめてそうして!!」

「……?」


 ルゴールの焦りが伝線したのか、アラスールが叫んだ。

 同時、アラスールの攻撃を前にしても反応のなかった魔門の黒煙が蠢いた。

 何かを察しとられたのか。

 いずれにせよ、考えている時間はなさそうだった。


「はい!!」

「―――シュリスレンディゴ!!」


 言うが早いかアラスールは、即座に魔門への攻撃を開始した。

 スカイブルーの閃光が走ったと同時、エリーも駆け出す。


「止めろ止めろ止めろ!!」


 ルゴールの叫びが聞こえる。

 ようやくだ。

 ようやくここへ辿り着けた。


 だがここも通過点。

 すぐに“彼”の元へ向かわないと。


「―――?」


 一瞬。

 魔門の靄の向こう側で、薄ぼんやりと何かが光ったような気がした。

 それは恐らく目で、片方は赤く、片方は青く、怪しく光っている。


 エリーはそれを、冷めた目で見つめた。

 依然として破壊可能。障害には興味が無い。


 興味があるのは、自分たちだけで魔門を破壊したと知ったときの、彼の顔だ。

 だからとっとと、排除しよう。


「スカーレッド・ガース」


 その拳から膨大なスカーレットの魔力が射出され、魔門の黒煙は朱に染まった。


―――***―――


 慣れることができない。

 ヒダマリ=アキラは冷静にそう判断した。


 剣の振り下ろしに対するリイザス=ガーディランの対応。

 左へ回避。右へ回避。身を引いて回避。身を屈めて回避。拳での迎撃。魔術での迎撃。拳での反撃。魔術での反撃。魔力での相殺。全身からの魔力放出。大地を砕いて離脱。

 そのすべてをアキラは幾度となく見た。

 そしてそのたびに、姿勢を、あるいは速度を変えた行動をし、アキラをリイザスの動きに慣れさせない。

 そしてそれに対するアキラは、対応を1手でも間違えたら、拳で粉砕される。

 まるで難易度の高い時限爆弾の解体でもやっているようだ。切るたびにコードが復元し、そして正解のコードが毎回変わる。

 それをアキラは躊躇うことなく斬り続けた。


 ブッ、と拳が振るわれる。

 必殺の一撃だが、アキラは回避を続けられている。

 それはそうだ、リイザスには焦る理由が無い。

 この空間で戦っているだけで、相手は身体中が燃え尽き、呼吸すらままならなくなってくる。

 戦闘を楽しみたいというのもあるだろう、無理に短期決戦を狙わず、安全圏からの攻撃を続けている。


 だがそれは少しまずい。

 リイザスの言う通り、どうやら自分は周囲の魔力を自分の力に変えているようだ。

 だが、体力の方はそうはいかない。

 ほとんど動かなくなっている身体を、傀儡のように“魔法”で操って戦っているだけだ。

 自分が見た“あの男”の動きに合わせて、動きを、判断を魔法に委ねているに過ぎない。


 結果として戦闘力も上がっているようだが、絶命してしまえばいかに魔法とて操ろうにも操れないだろう。

 ゆえに自分が死ぬ前に、リイザスを殺さなければならないのだ。


 考える。

 火曜属性のリイザスは強大な破壊力を有しているが、アキラが最も問題視すべきはその防御力だ。

 これは破壊と表裏一体の、火曜属性のもうひとつの特徴。

 それがある限り、リイザスに致命は負わせられない。


 どうするべきか。


「……!!」


 リイザスの行動の対処を、僅かに失敗した。

 アキラは即座に判断して背後へ飛ぶ。

 リイザスの魔力から身を離すため以外で離脱する羽目になるとは。

 攻撃の機会が減ってしまった。


「どうしたヒダマリ=アキラ。来ないのか?」


―――余計なことを考えるな。


 ああ、そうだった。

 今自分は、それらしい作戦でも立てようとしていたのか。

 そんなことを考えていたから、リイザスへの対応が僅かに遅れてしまったのだろう。


 先ほどから妙に落ち着かない。妙に心が騒めき立てる。


 アキラは振り払うように首を振った。

 発動した魔法に逆らうな。自分の色など出そうとしなくていい。

 今、この場でリイザス=ガーディランに対抗できるのは“あの男”だけなのだ。

 下らないことを考えて、リイザスの撃破の邪魔をするな。


「っは!!」


 アキラはすべての思考を置き去りにして、リイザスに突撃した。

 飛来する球体、唸る拳。そのすべてを我が身に浴びるように進撃し、リイザスの首をまっすぐ目指す。

 振るった剣は回避された。

 攻撃は不発になったが望ましい。

 リイザスが回避するということは、抑え込むことができないということだ。

 威力的に、あるいは、立ち回り的に、リイザスは回避をせざるを得ない状況を作り続ける。そうすることで、この殺し合いに変化が生まれる。

 そうだ。“あの男”は、攻撃を続けながら活路を見出すことができる。

 尋常ならざる身体能力で敵を圧倒し、理不尽なほどの殺意を押し付け、獲物を斬り殺す。


「ギッ―――」


 リイザスの腕から血が舞った。

 放たれた迎撃を弾くように狙い撃ち、相手の拳の勢いをも利用して剣を鋭く突き差す。

 あわや腕が落ちるか、と言ったところでリイザスは魔力を放出し、アキラの剣を抑え込んだ。

 放たれた逆側の拳はアキラの身体を掠めて大地を震動させる。


 ようやくまともな手傷を負わせられた。

 アキラの意識は更に戦場に落ちていく。


 自分は未だ、自分に執着がある。

 生意気にも、中途半端に自分の身を守ろうとしているらしい。

 身体を纏う魔法に操られたアキラの身体は、すでに筋も骨も千切れ始めている。

 自分の身体能力ではなし得ない戦闘の対価がこれだ。


 “だからもっと、対価を捧げよう”。

 身体中が千切れ飛んで、肉塊と化しても構わないだろう。

 そうすることで、この身体はより完全にリイザスへの殺意のみに姿を変える。


 自分など、要らないのだから。


「―――ハ、……ガ―――、ハ―――グ」


 攻撃を見舞ったアキラの方が、離脱と同時に吐血した。

 内臓もいくらか潰れているのかもしれない。

 まともに呼吸ができない。

 アキラは自然に剣を見た。

 ああ、良かった。剣は未だ砕けていない。まだ戦える。

 自分の身体より先に武具の様子を慮った自分に僅か驚き、しかし歓喜に包まれる。

 先ほどよりもはるかに深く、この戦闘に入り込めている。


「……ヒダマリ=アキラ。よもや限界というわけではあるまいな」


 吐血した様子を見ていたのか、リイザスの漆黒の眼が僅かに別の色を帯びて睨み付けてきた。相手の様子を探ってまで戦闘の続行を望むとは。

 リイザスもこの戦闘に込める力を上げてきている。

 アキラ同様、リイザスも、傷つけられた腕の様子など気にもせずに構えていた。


「ヒダマリ=アキラ。私はお前のように化けた者を数多く見てきた。それは研鑽の結果であったり、お前のように絶対的な試練を前であったりと様々である。ゆえに、私は楽しみでならないのだよ。今のお前をもう一押しすれば、ただ死を迎えるのか、あるいはもう一段化けるのか」

「わざわざ……下らない、演説なんてしなくて、いい。逃げたりしない。お前はここで……殺す、からな」


 途切れ途切れの言葉は届いたようだ。

 ふん、とリイザスは満足げに鼻を鳴らす。

 リイザスが気にしているのは先ほどの誰かの言葉か。必死に離脱を訴えていたように思える。


 リイザスの言う通りだ。

 自分はこの戦闘で、リイザスに唯一対抗し得るこの魔法を発動できた。


 今、この瞬間で逃走などあり得ない。

 ヒダマリ=アキラという小さな人間は、今を凌げばすべてを忘れ、必ずリイザスを避けるようになることを知っていた。

 魔法が解ければヒダマリ=アキラは平凡な人間と成り下がる。

 今、この場で、この殺し合いを続ける以外、リイザス=ガーディランを撃破する方法はない。

 それ以上に優先すべきことなど存在しない。

 刺し違えてでもリイザスを殺せ。


「……そうじゃない、だろ」


 掠れたような小さな声が口から零れた。誰の言葉だ。

 分からない。

 だが、頭の奥で響くような声ではなく、胸の内から漏れ出すような声色だった。

 これは、殺意で潰し切れていない自分の想いか。

 早く捨てろ、そんなものは。


―――リイザスは、この野郎は、“あのとき”、リリルを殺したんだぞ。


「……そうだ」


 身体の奥で、思考と思考がぶつかり合う。

 そしてすぐさま殺意の波が荒ぶり、胸の中の小さな呟きは呑まれて消えていった。


 流れていく波の中に、様々なものが見えた。

 蠢く魔物に埋め尽くされた樹海。散り散りになる仲間。現れる強大な赫の魔人。

 “一週目”。自分が情けなくも逃げ出した死地。


 リリル=サース=ロングトンは、少しでも時間を稼ごうとして―――


「……」


―――今度こそ、こいつを殺す。今、この場でだ。


 あの出来事を繰り返すな。

 逃走したら、リリルは必ずあのときと同じ行動を取る。

 成す術なく逃げ出し、ほとぼりが冷めた頃戻ったときに見た、彼女の姿を今でも覚えている。

 自分に力が無かったから。いや、自分が完全に誰かに成り切れなかったからだ。

 想いなど、何の役にも立ちはしない。

 そう自分に言い聞かせていたのに、あのとき、自分の感情に従って、リリルを信じてしまったのだ。

 彼女はきっと無事に切り抜けると。そう感じた自分の意思に従ってしまった。


―――だからこそ、本当にすべてを失ったあのとき―――“お前に力だけを託したんじゃないか”。


「……。…………」


 身体の水分は絞り出し切っているはずだった。それなのに、頬を涙が伝う感覚がした。


 そうか。自分はあのとき、結局楽な方へ逃げたのか。


 自分ではない別の誰かなら、リリルと共にリイザスへ挑んでいたかもしれない。それなのに、自分はその誰かではなかったから、彼女をひとりで魔族へ向かわせてしまった。


 言い訳はある。魔物の数はそれこそ尋常ではなかった。

 その上で魔族との交戦などしたら、打ち漏らした魔物が大陸中へ広がってしまう恐れもあった。

 そう誰かが言ったのだ。いや、それは言い訳か。結局自分も、それに賛同した。

 リリルは魔族との交戦が可能なほど卓越した戦闘力を持っていた。適材適所。あの地獄のような状態から、大陸への被害を食い止められたのは、その犠牲を払ってこそだった。


 これが“一週目”に起こった出来事だ。

 だから自分は、自分を本当に信じなくなった。

 自分の判断も何ひとつ信用せず、ただただ目の前の敵に飛び込んで剣を振るう狂者となった。

 自分がすべての敵を打ち払えば、もう二度とあんな悲劇は起こらないと思った。思い込んだ。


「……だけど結局、“繰り返しちまったじゃねぇか、俺は”」


 声が絞り出てきた。身体が芯から震え出す。

 そうか、思い出した。

 自分は“一週目”、早々に自分自身に見切りをつけて、スライク=キース=ガイロードの力を模倣した。

 それからの旅はあまりに簡単だった。当然ながら、こと戦闘において、圧倒的な力を見せた。

 それが足りないと気づいたのは、この魔門破壊でだ。

 自分は未だ、ヒダマリ=アキラに執着があったのだと思い知らされた。

 もっと自分を捨てなければならないと痛感した。


 周りから見て、そんな自分の姿はどう見えていただろう。

 何ひとつ信用しない自分は、何ひとつ周りを見なかった自分は、精々戦闘では便利な奴とでも思われているくらいだと、そう思っていた。

 それでも、それでよかった。


 それが違うと分かったのは―――“あのとき”。

 “彼女”が、自分を庇うように前へ出たあの瞬間だった。

 また、自分は、繰り返す気か。


「……最優先は、あいつらの想いに応えることだ」


 今度の言葉は、とくり、と胸の中に落ちた。

 そこからジン、と波紋が広がる。


 ああそうか。自分はこの“三週目”に学んだはずだ。

 信じることと、身を案じることは違うのだと。


 先ほどティアが、そう、叫んでいたはずだ。


「―――っっっ!!」


 殻が割れるように頭から血が噴き出した。

 踏ん張ろうとしたら、今度は足が崩れかける。

 まずい。これは。


「……限界か」

「笑わせんな―――キャラ・ブレイド……!!」


 余計な思考は即座に洗い流された。

 危なく魔法が切れるところだった。この魔法は今やアキラの生命維持装置のようなものだ。

 魔法の力でヒダマリ=アキラの身体の形を強引に形作っているに過ぎない。


―――まだお前は、自分を信じているのか。


 アキラは首を振った。

 ヒダマリ=アキラを信じるなど。笑えない冗談だ。世界中で最も信用できない存在だ、それは。


 “お前もそうだ、ヒダマリ=アキラ”。お前もまるで信じられない。

 この破壊の衝動に身を任せた結果があの結末だ。


 だが、しかし、今だけはすべてを忘れよう。

 今はただ、目の前の魔族に、この殺意のすべてを注ごう。


「どうやら潮時のようだ。何事も、終わりがあるからこそ欲がそそるのであろう。ならばいくぞ、ヒダマリ=アキラ。これが最後の試練だ、乗り越えて見せよ……!!」

「―――させるかっっっ!!」


 リイザスが腕を掲げると同時、アキラは迷わず駆け出した。

 破壊の限りを尽くされ、すでに大地は原形を留めていない。

 アキラがかける崩れた大地の先、赫の魔族の周囲に不自然な魔力が漂い始める。


 あの魔族は、再び“具現化”を狙っている。


「ハッ!!」

「む!?」


 接近と同時、リイザスへ向かって乱暴に土を蹴り上げた。

 灼熱に熱され、マグマの弾丸のような目くらましが飛び散ると、リイザスは迷わず両腕で上から叩き潰した。

 アキラはその拳に追いつくような速さで身を屈めると、剣を振り上げる。


 即座に反応したリイザスは、同じようにアキラへ向かって土を蹴り上げた。


「―――づ!!」

「!?」


 アキラはその弾丸へ飛び込んだ。

 人体に穴が開くような速度の弾丸をその身に受け、アキラは剣を突き刺す。

 まともに懐に飛び込めたのは久方ぶりだ、この身がどうなっても、機会を逃すわけにはいかない。


「ぬ―――、ノヴァ!!」


 絡みつくほどの距離、リイザスが拳を放ってくる。

 回避、いや、それはない。

 ここで距離を取られるわけにはいかない。

 アキラは左手をかざした。


「な―――」

「ギ―――ガッ、アッ!!」


 嫌な音が響いた。

 意識が根こそぎ刈り取られる。

 アキラはリイザスのその必殺の拳を、その身に浴びた。


「シ―――シュ―――シュ―――!!」


 歯を食いしばり、衝撃を耐え切る。

 左腕ごと上半身が破壊されつくされたようだ。

 アキラは強引に魔力で“形”を整えると、剣を握った右腕を振るう。

 強引に力任せで振るった剣は、リイザスの腹部に深々と突き刺さった。


「グ―――ギ―――ァァァアアアッ!!」


 ほら、自分を捨てれば上手くいった。

 絶命さえしなければこの身体は戦い続けられる。

 リイザスもアキラが剣以外で攻撃を受けるとは思っていなかったのだろう。

 捨て身のような猛攻で、ようやくリイザスを殺しかけられた。


「ハッ、腕なんか掲げてるからそうなんだよ!!」

「ヒダマリ=アキラ、貴様―――」


 次いで嵐のように剣を振り回す。

 斬る。斬り続ける。斬り殺し続ける。

 身体の感覚がまるでないアキラは、機械仕掛けのカラクリのように至近距離からリイザスに猛攻をし続けた。


「―――貴様、余程“これ”は受けたくないと見える」

「ち……!!」

「アラレク・シュット!!」


 眼前に展開した球体は即座に切り捨てた。

 爆風をこの身に浴びながら、アキラは必死に目をこじ開け続けた。

 赫の閃光に目が焼かれる。だが、それでも即座に奴の姿を探し出せ。

 奴はやはり、歴戦の魔族。こちらが最も避けたい攻撃を完全に把握している。


 今、アキラが死に物狂いでリイザスに襲い掛かったのは、そうするより他なかったからだ。

 リイザスが放てる、この身体を確実に殺し尽す魔術―――いや、魔法。

 その発動を、許すわけにはいかない。


「ふ。ドグル・ガナル……!!」


 その絶望的な聲は背後から聞こえた。

 あの爆炎の中、リイザスはアキラの姿を見失ってはいなかったようだ。

 不自然に漂っていた魔力がいつの間にか一点に凝縮され、リイザスの藍の腕輪として形作られている。


 具現化。神秘の武具。

 それは、リイザスの放つ魔法の代償を受け持つ神秘の魔具。


 まずい。


「ラァアッ!!」


 ならば発動自体を止めるしかない。

 アキラは見えた陰に突撃し、剣を迷わず突き刺した。

 万人に共通するが、リイザスの唯一と言ってよい隙は何らかの魔術、魔法を発動した直後。

 先ほども具現化を行おうとしていた瞬間だからこそ奇襲が成功したのだ。

 ならばこの一瞬。

 この瞬間だけが、リイザスの首を跳ねる最後の機会だ。


「来ると思っていたぞ、ヒダマリ=アキラ……!!」

「!!」

「ノヴァ!!」


 アキラの突きに対し、リイザスはまっすぐに拳を放ってきた。

 切っ先に拳がぶつかり、激しい衝撃で剣が吹き飛びそうになる。

 火曜の魔力を高めた破壊の拳に、アキラの突撃は完全に撃ち殺された。


「お前ならこの瞬間に飛び込んでくると思っていたぞ」


 最後の機会は呆気なく封じられる。

 具現化をしたばかりだというのに、リイザスには僅かな隙すら存在しなかった。

 リイザスはアキラの動きは最早容易く予想できるようだ。

 そして予想できさえすれば、隙を生み出すことなく防ぎきれるらしい。


 結果、リイザスの腕輪が再び赫の魔力を纏っていった。


「ぐっ!!」


 間に合わない。

 そう判断しても、アキラはリイザスへ飛び込んだ。

 離脱することに意味はない。


 あの魔法は、眼前の景色総てを塗り替える。


 それなら、もう―――仕方がない。


「いくぞ」

「ああ、“こっちも”だ!!」


 アキラが吠え、そしてリイザスは、嗤った。

 不思議な感覚だった。死闘の共演者ゆえか、自然とこれから起こることが互いに通じ合う。


 アキラには勝算があった。

 リイザスの唯一の隙。

 その破壊の力を振るったその直後。

 眼前総てを塵と化すリイザスの力を振るったその瞬間、奴には隙が生まれる。


 ならばやることは簡単だ。先ほどのように―――“その破壊を受ければいい”。

 自分が絶命する前に、リイザスに剣を届かせればいいのだ。


 これは最早勝算ではないだろう。

 未来はふたつにひとつだ。リイザスを撃破できるか、できないか。

 だが、いずれにせよ、ヒダマリ=アキラは絶命する。跡形すら残らないだろう。リイザスが放つのは、今までの魔術攻撃とすら比較にならない“魔法”だ。


 リイザスはアキラの賭けに乗ってきた。

 命のギリギリを攻め切るような死闘を、奴は望み続けていた。


 アキラは思う。

 リイザスは、アキラの思う、幸運なのだろうか。

 魔族としての力を持ち、その力を振るう機会に恵まれた、幸運な存在なのだろうか。


 自分を信じられないアキラとは違い、絶対的な自負の元、格下の自分との勝負に乗ってきている。

 目の前の欲に貌を輝かせ、すべてを注ぎ込めているのだ。

 そんな存在に挑むのだから、命など対価にもならないだろう、くれてやる。

 お前を殺せるのなら、それだけで十分だ。


 やりたかったことは―――それか。


 ふいに、胸の奥で、何かが囁いた。

 魔法だけに支配されたこの身体が、押し潰し損ねた何かが蠢いた。


「スカーレッド―――」

「キャラ・ブレイド!!」


 眼前に迫る、煌々とした赫の拳。

 その色に、アキラの胸の蠢きが強くなる。集中させろ。今余計なことを考えている場合ではない。


 仕方ないだろう。

 確かに自分はこの“三週目”、目的を持って訪れた。あの誓いに嘘はない。

 だが今、このリイザス=ガーディランを打ち漏らせば、その目的ごと奪われてしまう。

 魔王討伐の方は、スライク=キース=ガイロードやリリル=サース=ロングトンがきっと自分なんかより上手くやる。

 記憶が無くたって、世界の破壊さえ防いで見せるだろう。

 そうだ、最初からそう考えていればよかったのだ。世界中の人々も、ヒダマリ=アキラを勇者と認めて持て囃すのは結構だが、泥船に乗っていることには教えてあげなければならない。彼らにとっても、今この結末は都合がいいはずだ。


―――ようやく気づいたか。


 ああ、ようやく分かった。

 恥ずかしい限りだ、こんな危険な場所にリリルなんて世界の希望を連れてくるなんて。強引にでも止めるべきだった。命を懸けるのは自分だけでいい。


「―――、」


 誰かが言っていた。

 命を懸けることと、命を捨てることは、違う、と。


「っ―――」


 アキラは反射的に溢れ出す感情を抑え込んだ。

 しかし拙い自分の手では、感情の波を抑えることはできなかった。


 自分など、何の意味もない。それは分かる。

 自分を信用できるかと言われたら、それは当然できない。

 それは最初から、分かっていたことだ。


 でも何故だ。

 何故自分は―――彼女たちに、信頼してもらいたいと思ったのか。


 身勝手な自分の旅に巻き込んでしまった単なる償いもある。

 だが、それ以上に、彼女たちを想っているのだ。

 何度でも言える。彼女たちには、幸せになってもらいたい。


―――だからそれを今、果たすんだろう。


 そうかもしれない。

 だけど。

 ああ、これはやはり、自分を捨てきれていないのだろうか。


 自分は、本当はこんなことを考えていたのだろう。

 彼女たちを幸せにしたい、と。


「―――、」


 今、問われている。

 燃え盛り、迫りくる赫の拳に問われている。


 自分が犠牲になることを、彼女たちが容認してくれると思っているのかと。


 少なくともひとり、アルティア=ウィン=クーデフォンは示してくれた。

 許さない、と。今までの日々で培ってきたものを、彼女は大声で吐き出してくれた。


 答えはもう見つけていた。

 自分が求めた、彼女たちからの信頼。

 それには、相手からの感情だけではなく、絶対的に必要なものがあったのだ。


 今、問われている。

 状況に流されているばかりで、主体性の無かったヒダマリ=アキラは、問われている。


 彼女たちに求める、自分への信頼。

 それに応えるだけの、自信と覚悟はあるのか。

 自分を捨てることが、彼女たちの想いに応えることになるのか。


 “一週目”の自分は首を縦に振った。

 だが、今の自分は間違えるな。

 確かに答えろ、この問いに。


 これまでの日々を、否定できるか。


「違うな―――“そんなのは俺じゃない”」


 アキラの目の色が、僅かに変わった。


「―――ガースッ!!」

「“キャラ・イエロー”!!」


―――すべての偶然が重なったのかもしれない。


 今この瞬間が切り抜かれたように、時が止まった。無音の世界で、総ての光景がありありと見えた。


 リイザスの渾身の拳が火を噴いた。その刹那、アキラの足元が爆発した。

 リイザスにしてみれば初めて見る、空中にすら足場を生成するミツルギ=サクラの魔術の再現。

 とっさのことで、まともに発動できたかも分からぬ魔術は、アキラの身体を跳ね上げた。


 対象者を見失ったリイザスの魔法は爆音を奏で、爆風が炸裂する。アキラの身体は糸の切れた凧のようにリイザスの頭上を泳いだ。


 アキラは目を見開き続けていた。

 眼下のリイザス。

 前方へ伸ばし切った藍の魔具が彩るその輝きに、アキラは僅か目を奪われた。


 そして、その直後。

 見えたのは、やや前方に倒れたリイザスの―――首。


 だからアキラは、反射的に、剣を振るった。


「―――キャラ・スカーレット」


 リイザスの首から、ドッ、と血が噴き出す。

 地面が近づいてくる。

 アキラはそのまま落下すると、静かに身体を魔法で纏った。


 そうして初めて、音が戻った。


「……、…………。卑怯だと思うか」

「……卑怯? 自らを強者と思い込んでいる者の言葉だな、それは」


 首に剣を受けてなお、リイザスは即座には絶命していなかった。

 だが、発生源を失った魔力は即座に薄れ、すっと周囲から赫の色が引いていく。

 色を取り戻した荒れ果てた地。いつしか、黄色い迷路も消失していたようだ。


「俺の剣は……、届いたのか」

「ふん、貴様も分かっているであろう。致命だ、これは。治りはせん。動こうとすれば即座に首が落ちるであろう」


 赫の魔人は立ったまま、ただ真っすぐを眺めていた。


「遥か太古より―――こうした景色が、いつも私の前に広がっていた」


 赫の魔族の眼前は、最早何も存在していなかった。本来あの場所にいたはずのヒダマリ=アキラは、今、巨大な身体の背後で倒れ込んでいる。


「あらゆる研鑽を積み、あらゆる死闘を乗り越えて、それでもなお生き残った者を、私は幾度となく下してきた。気が付けば私は、いつもこんな景色と向かい合っていたな」


 リイザスに倣ってアキラも視線を向けた。

 死闘の跡。何ひとつ残らない大地。この魔族は、何度もこんな景色を眺めていたという。


「ヒダマリ=アキラ。貴様、私の欲を“戦闘欲”と言ったな」

「……ああ」

「ふ。同族にもそう言う者もいるが、誤りだ、それは。実のところ、私には欲はないのかもしれんな」


 リイザスの言葉を、アキラは黙って聞いていた。


「私は知っている。“欲”―――自らが本当に求めて止まないもの。それを手に入れるために、それを守るために、力というものは生み出されると、私は知っている。それは貴様ら人間が言うところの想いの強さ、というところか。夢物語のようで、それは実在するのだ」


 その強さと正面から衝突することを望んだ。そして、衝突し続けてきたリイザス=ガーディラン。

 だが、この魔族自身の欲は無いという。


「私はその力と死合うことを求める反面、その力そのものを自らのものにしたいと求めていた。だが悲しいかな、誰も我が欲を刺激することはできなかった。巡り合わせなのか、あるいは少々、力を付け過ぎていたか」


 欲に溺れ、それゆえに、人間界に深刻な被害をもたらしている魔族。

 人間からすれば害悪以外の何物でもないその存在たちは、リイザスにとっては、キラキラと輝いて見えていたのだろうか。

 自らの力を存分に振るえる世界に、リイザスは出会うことは出来なかったのだろうか。


「最後の最後。血を極限まで絞り切った先の先。勝ちたい、生き残りたい。そう思える者が、結果としては勝者となる。私もその世界を見たかったのだが―――ふん。それは私にとって別の世界の物語か」


 リイザスの身体が揺らいだ。

 限界が近いようだ。


「ヒダマリ=アキラ。最後の最後、何故回避を選べた。騙されていたのなら閉口する他ないが、お前は私と刺し違えるつもりだったであろう」

「……ああ、自分でもよく分かってないよ」


 本当に、そうだった。

 無我夢中で飛び込んだあの一瞬、胸の奥底からそれを止めた誰かがいた。

 あんな意思が、こんな自分に潜んでいたとは驚いた。


「ただ、何だろうな……。あの最後の一瞬―――ここで終われない。そう思った」

「……ますます惜しいな。貴様と死合い続ければ、私もそこに辿り着けていただろうか」


 ドスン、と。

 リイザス=ガーディランの身体が倒れた。

 辛うじてつながっている首からは、依然として鮮血が滴り凹んだ大地に溜まっていく。


「ふ。妙に落ち着いた気分だな。最期にお前と死合えたからか、死を恐怖するには生き過ぎたからか。このまま私は終わるとしよう。ヒダマリ=アキラ―――“無事にやり過ごせよ”」

「……?」


 そう残して―――リイザス=ガーディランは息を引き取った。


「アッ、アッ、アッ、アッキーッッッ!!!!」


 直後、リイザスの拳のような爆音がさく裂した。

 辛うじて身を起こしていると、ドタドタという賑やかな足音。


 その音で、ようやく。

 アキラの身体の底が震えた。


「撃破したぞ―――魔族を……!!」

「そんなのどうでもいいです何やっているんですかっっっ!!」


 突撃してきたのは当然アルティア=ウィン=クーデフォン。

 駆けてきた勢いそのままに目の前に座り込むと、身体中に響く大声でがなり立てた。


「私言いました、ちゃんと言いました、すぐに逃げましょう!! って!! 何で言うこと聞いてくれないんですか!! もうあっしは、あっしは、うぅうぅううううえええああああーーーっっっ!!!! 生きてたよぅ、生きて……う、うぇぇぇええあああ!!」


 大声で泣きながら、ティアは攻撃と見紛うような魔術をアキラに浴びせてかけた。

 ティアがいて良かった。リイザスが倒れ、すでに周囲の魔力を散り始めている。アキラが魔法で生命を維持できるのもいずれは限界が来てしまうだろう。

 ティアの治癒を浴びながら、アキラは肩の力を抜いた。


「ティア……。悪かったな」

「もういいです、今はいいです。でも今度こそ、徹底的に怒りました!! とにかく今は静かにしていてください!! 絶対あんせーです!!」


 口を開こうとしたら、ティアが涙目で睨んできた。とにかく大人しくしていろということらしい。

 ティアも魔力が切れかかっているのか頭をぐわんぐわんと回しているが、瞳の強さは変わらない。器用なものだ。大人しくしていよう。

 だが、心の中では深い感謝を捧げる。

 多分自分は、何か大切な道を踏み外しそうになった。

 ティアという支えがいなければ、きっと今頃、自分は―――


「……ぁ……」

「アッキー!!」

「違う、そうじゃない」


 口を開いたことを咎められたが、それどころではない現実を視界の隅に拾った。


 倒れた赫の巨体。

 それが今、バチバチと、スカーレットの魔力を帯びて膨張し始めていた。


 これは―――“戦闘不能による爆発”。


「づ―――、ティア!! 掴まれ!! とにかく逃げるぞ!!」

「え? へ、あ、あ、忘れてました!! え、え、どど、どうすれば!?」


 身体がまともに動かない。

 ティアの治療を受けながらも、アキラの魔法はほとんど自分の命を維持するためだけに使われていた。

 逃げなければ。だが、どこへ、どこまで逃げれば済むというのか。

 リイザスは魔力をまだまだ残したままで倒れた。

 魔族の魔力がそのまま爆発物と化せば、下手すればこの樹海ごと吹き飛んでしまう。


 最後のリイザスの言葉はこの事態を予期してか。

 頭がまともに働かない。

 そこで。


「良かったです、間に合って」


 熱された身体に心地よい、ひんやりとした冷静な声が聞こえた。


「わ、わ、わ、リリにゃん!! 駄目ですまだ安静にしていないと!!」

「いえ、大丈夫ですよ、もう」


 ゆっくりと歩いて近づいてきたのはリリル=サース=ロングトン。

 彼女もまた、ティアによって命を救われていた。

 足取りは軽やかに見える。十分に回復したのだろうか。

 彼女はリイザスの死骸に歩み寄ると、今すぐにでもさく裂しそうな爆弾に向かって手をかざした。


「リリル……防げるのか……?」

「ええ、勿論です」


 静かな声だった。

 彼女の周囲にシルバーの魔力が流れ、集い、そして固まる。


「『安心していてください。絶対に、守り抜きますから』」


 彼女のその言葉で、頭の中にひびが入った。


 そうだ。

 自分は知っている。

 この光景を見たことがある。


 絶望を前に、彼女は当然のように足を踏み出し、そして優しい表情を浮かべていた。


「リリル……、おい、リリル!!」

「『大丈夫ですよ、アキラさん。私を信用してください』」


 動悸が激しくなる。

 視界が揺らぐ。“あのとき”の彼女が、今目の前の彼女と重なって見える。


 まさか―――ふざけるな。

 リイザスを撃破したというのに、“これは確定事項だとでもいうのか”。


「ベルフェール・パーム」


 具現化が発動する。

 リリルがかざした手のひらに、漆黒の盾と周囲を纏う純白の羽が展開する。

 だが、様子がおかしい。

 リイザスへ向かって盾をかざした彼女の背中が震えている。

 よろめいたのは、歪んだ大地のせいではなさそうだ。


 止めろ、止めろと心は叫び続ける。

 だが身体が動かない。


「『アキラさん』」


 リリルは最後に振り返った。

 血の気が無い。脂汗を浮かべ、今にも倒れそうなほど弱々しかった。

 命を取り留めたに過ぎないのは明白だった。


 それでも彼女は、優しく微笑んで、心地の良い声色であのときの言葉を囁いた。


「『ありがとうございました』」


―――***―――


 耳の奥で甲高い音が強く響いた。

 何も見えない。

 何も聞こえない。


 もがくと、どうやら自分は座り込んでいるらしいことが分かった。

 胸が締め付けられるように痛む。

 そのどうしようもない苦痛は、しかし、どこか懐かしかった。


「―――リーちゃん!! エリーちゃん!! 大丈夫!?」

「ぁ……へ?」


 ようやく目が見えるようになると、アラスールが青い顔をして覗き込んでいた。

 意識がまともに覚醒し、エリーはびくりとして立ち上がる。


 今、自分は魔門を攻撃した。

 魔門の反撃でも受けたのだろうか。

 身体中の感覚がほとんどない。

 身体から力を抜いても、身体がまるで休まらない。延々と疲弊し続けているように、身体中から活力が沸き上がらなくなっていた。

 やはり、懐かしさを覚える感覚だった。


「まさかね。……魔門に放つ馬鹿がいるとは思っていなかったよ」

「あら、身体透け始めてるけど、死ぬの? 嬉しいわ」

「は、それこそまさかだよ。魔門が破壊されたから、“召喚”されたボクは元居た場所に帰るのさ」


 エリーは身体中に力を込めて声の方へ向き直った。

 サク、エレナ、イオリに阻まれ、魔門の守りに戻ることができなかったルゴールが佇んでいる。

 はっとして魔門を見ようとしたが、見当たらない。

 最後の瞬間を見逃したらしいが、魔門は消滅したようだった。

 そしてそれに伴い、ルゴールもこの場を去ろうとしている。

 アラスールが言っていた仮説は正しかったようだ。


「エリー、だっけ。君のことも覚えておくよ。そこまでキてる奴、魔族にだってそうはいない」

「……どう、いう意味……?」

「エリーちゃん。後で話しましょう」


 アラスールがエリーを制し、庇うように前へ出た。


「ルゴール=フィル。悪いわね、私たちは魔門破壊を完遂させたわ。『光の創め』の連中にもちゃんと報告しておきなさい」

「はは、アラスール。無駄だよ無駄。挑発したって余計な情報は渡さない。君も分かっているはずだ、せっかくボクを呼び寄せた魔門には悪いけど、アイルークの魔門など、最早問題にはならないんだよ」


 アラスールが分かりやすく舌打ちした。

 そうだ。

 何度かそんなことを言っていた。

 『光の創め』。それはアラスールにとって、魔門以上の意味がある言葉らしい。


「それどころかこちらとしては大収穫だよ。なるほどなるほど。ヒダマリ=アキラの七曜の魔術師か。“欲”を言えばヒダマリ=アキラにも会いたかったけど、しょうがない。ここらで幕引きとしよう」


 薄らいでいくルゴールは、満足げな仕草を取った。


「概ね見せてもらったよ、君らの力は。ありがたいね、情報は多いに越したことは無い。もし次に会ったら、ちゃんと殺せそうだ。ねえ、エレナ」

「いちいち話しかけないでくれない? 気持ちの悪い人形ね」

「まあ、そう言わないでくれよ。次は邪魔なく全力でやりたいな。……“お互いに”、ね」

「……お断りよ」

「はは、連れないね。だけどおめでとう。いやいや、やられたよ。魔門破壊、お見事でした」


 パチパチと、黄色い人形は機械的に手を叩いた。

 耳障りな金属音が混ざった拍手は、ルゴールの身体と共に次第に薄れ、そして消えていく。

 あれだけの猛攻を受け、こちらに被害をまき散らしながらも、目立った負傷もしていない人形は樹海から姿を消す。


 達成したとはいえ、魔門破壊の瞬間を見逃したことも手伝って、何とも後味の悪さを残し、アイルークから魔門は消滅した。


「さ。次よ次」

「エレナ! 駄目だ、今は休んで」

「んだから別に平気だっての。あのガキもいんでしょ? 尚更行かなきゃでしょ」


 見た目とは違い、相変わらずエレナは無事そうだ。

 そうだ、彼女の言う通り、今すぐアキラの元へ向かわなければ。

 彼はあんな魔族と今も死闘を繰り広げているかもしれないのだ。

 自分はまだやれる。最後の最後、ほんの少し魔門破壊に協力できただけだ。余力が一番残っているのは自分だろう。


「イオリちゃん、召喚獣にみんな乗せられる? 急いで救出へ向かって、早くここから離脱しないと」

「ああ、問題ない。秘石はほと―――使わなかっ―――ね」

「抜け目―――、―――さん」

「魔道―――、―――り手―――、―――でしょ」


 みんなが話している。だけど、とうとう言葉が聞き取れなくなってきた。

 分からない。思わずしゃがみ込む。だけど、まったく楽にならなかった。

 もがくように、身体を倒した。駄目だ。

 まるで回復しない。


 分からない。何も分からない。

 魔門の現象だろうか。

 それとも。

 あの魔族が言った言葉が妙に耳に残る。


 無知。

 自分は何かを知らないのだろうか。駄目だ、ちゃんと勉強しないと。魔術師試験に合格できない。

 あれ。そうだっけ、違う。なんだっけ。


 誰かが駆け寄ってくる振動だけ感じた。

 思考がまとまらず、解れ、バラバラになり、沈んでいく、何とも形容できない感覚。


 だがやはり、エリサス=アーティにとって、懐かしさを覚える感覚だった。


 暗転。


―――***―――


 まただ。

 また自分はやった。


 分かっているはずの死に、彼女を送り出した。


 爆音すら、聞こえなかった。

 押し殺された弱い衝撃だけが、大地を伝ってこの身を打った。


 見上げた先、リイザスの死骸が最期を迎えた地点。

 リリル=サース=ロングトンは、それを抑え込むように、現出させた盾でそれを閉じ込めていた。


 それは誰の魂なのだろうか。

 リリルの盾が音も無く崩れていく中、白い煙のようなものが細々と空へ向かって立ち昇っていくのがアキラの目には見えた。


「リッ、リリル!!」


 身体の怪我も忘れ、アキラは無我夢中でリリルに駆け寄った。

 足にまるで力が入らず、無様に転び、その衝撃だけで意識が奪われかける。

 それでも身体の中の叫び続ける何かが、アキラの身体を這ってでもそこへ向かわせた。


 意識が混濁する。

 向かう先に誰がいるのかも分からなくなる。

 目が見えない。音が聞こえない。


 身体に滅茶苦茶に命令を飛ばし、ようやくそこへ辿り着いたとき、余計なことに、光と音が戻った。


「……お、い」


 覆いかぶさるようにリリルを抱きかかえ、身体を揺する。

 あれだけの煉獄の中にいたというのに、彼女の身体は氷獄のように冷え切っていた。


「ご、無事、で、―――さ」

「……!! リリル!!」


 絶望感に押し潰されかけたとき、彼女の口が小さく動いた。


「ティア!! 俺はもういい!! リリルを診てくれ!!」

「え、は、はい!!」


 ティアの治癒の光がアキラの身体から離れ、アキラの身体が崩れるように揺らいだ。

 激痛など最早感じない。神経ごと破壊し尽されているのだろうか。

 だがそんなことはどうでもいい。

 今は何としてでもリリルを救わなければ。


 だが、伸びたティアの手に、リリルは小さく首を振って拒んだ。


「アキ、ラ……、さん、を。私は、いい、です」

「何言ってる……。何言ってんだ、いいって何がだよ……!!」


 ティアを睨み、リリルへの治療を強引に始めさせる。

 溢れんばかりの魔力がリリルの身体に注がれるが、しかし、その色が目に見えて小さくなっていった。


「あ、あれ、」

「ティア?」

「だ、大丈夫です!! 問題ない、です!!」


 ティアの魔力はほとんど残っていないのだろう。

 終始治癒に立ち回り、一度は命を落としかけたリリルを救っているくらいだ。

 だがだからこそ、その実績のあるティアの魔力はすべてリリルに注がなければならない。

 自分はまだ大丈夫。

 自分は、魔法で強引に命をつなげられる。それがいつまでもつかなど、知ったことではない。


「いい、んです、よ。私、は。超えちゃ……いけない線。超えちゃっ―――です、から」

「もういい喋んな。今何とかしてもらう!!」


 リリルに目立った外傷はない。

 だが身体を支えたアキラにはひしひしと感じられた。

 彼女から、何か“重さ”のようなものが確実に失われていく。

 これが生命を対価に捧げた者の姿か。

 穴の開いた砂時計のように、刻一刻と“何か”がリリルの身体から滑り落ちていった。


 その光景を、アキラはかつて、見たことがあった。


「駄目だ……。ふざけんな。リリル。おい、おい!!」

「良かっ、た……んで、す。あな、たが無事……なら」


 ティアは脂汗を浮かべながら、リリルの身体に治癒の光を浴びせ続けていた。

 だが、出力が明らかに落ちていることは明白だった。

 リリルから抜け落ちる“何か”を、ティアの治癒が上回らなければ彼女の生還は無い。

 今はティアだけが頼りだった。


「希望、を、守、れた。私、は、あの日……から、きっ、と」

「リリル!! 喋んなって言ってんだろ!!」


 叫ぶ、身体を許す。

 それでのリリルから何かが失われていく。

 そんな中、彼女はこの上ない幸福に身を包んでいるように、ゆったりと、美しく、微笑んで見せた。


「誰か、のために―――この身を、捧げ、たかった」


 彼女は何を言っている。アキラは身体が震えた。


 彼女が顔を輝かせて語った“三代目勇者”レミリア=ニギルのように我が身の犠牲を厭わず生きたかったと言っているのだろうか。

 世界中のあらゆる憂いに迷わず向かい、仲間も友も得られず、ただひとりで旅を続けた偉大なる先駆者に倣いたかったと言っているのだろうか。


 レミリア=ニギルはその崇高な志の反面、自分を捨て過ぎた。

 そうしてまでも世界を救おうとした彼女の心の中を理解できる者は、歴史の中にすら存在しない孤高の存在。

 自己犠牲を伴う献身をレミリア=ニギルはなんと最後までやり遂げてみせたのだ。


 その想いに準じたリリルは、心の底から、自分がどうなろうと世界を救おうと考えていた。

 だがその結果、自己犠牲が目的になってしまっていたのだろうか。


「何笑ってんだよ……。何で嬉しそうなんだ」

「あな、たを。守れ……た」


 アキラが言っても説得力などないかもしれない。

 つい先ほどまで、自分の命を捨てようとしていた。

 恥ずかしくもリリルたちに希望という名の責任を押し付けようとした、大馬鹿野郎だ。

 目の前の少女は、先ほど前のアキラだ。まさしく命を捨てて、アキラを守った。

 生死の境を彷徨っていた直後に、魔族の爆発を防げばどうなるかなど分かり切っていたのに。


「ティア!! まだなのか!?」

「うぐぐ、待って、待ってください……!! 必ず何とかします!!」


 ティアはほとんど倒れ込むような体勢でリリルに治癒を浴びせていた。

 しかし、魔力の光があまりに淡い。

 最後の1滴まで絞り出そうとしながらも、ティアは必死に治療を続ける。


 今にも永遠の眠りに落ちそうなリリルは、やはり、幸福そうに微笑んでいた。


「ずっ、と、怖かった。レミ、リア……様のように、魔王を討って、私には、何が……残るのか、って。それが、誰か、の希望になる、なら。それでも、いい、って、思っていても。ずっと、怖く、て。偽物なん、です、所詮、ね」


 レミリア=ニギルの最後の物語。

 魔王を討つ頃には、彼女はすべてを失って、何ひとつ信頼できないようになっていたという。

 魔王討伐の事実だけがキラキラと輝いて後世に伝わっているが、その後、レミリアはどのように生きたのだろうか。

 彼女の想いを感じようとし、彼女を目指した者にしか、推測すらできないだろう。


 リリルは血と混ざった涙を流した。

 彼女は真面目でひたむきだ。

 この小さな身体で、レミリアを想い、それと正面から向かい合っていた。

 誰に笑われても魔王を討つと言い放ち、世界中の憂いと向き合い続けてきた。

 その後に残るものなど何ひとつないと知っていながら。

 ずっと、そんな恐怖と戦っていたのかもしれない。


「だから、ここで……終われて。良かった、ん、です」


 そんな彼女が最期に漏らした弱音に、アキラは怒りにも似た感情が沸き上がってきた。


「お前はレミリア=ニギルじゃない。リリル=サース=ロングトンだろ!! 諦めていい命じゃない!!」


 例えそれが、レミリア=ニギルの真似をしていただけだとしても。


「自分の村滅ぼされても、自棄にならずに、まっすぐに、誰かを救おうとしたんだろ……!!」


 例えそれが、偽物の勇者だとしても。


「世界中飛び回って、必死になって、世界中の希望になってんだろ……!!」


 リリル=サース=ロングトンは、きっと、アキラが憧れて止まなかった幸運な人物だ。

 自分の才能がピタリとはまる世界に出逢え、そして“勇者様”として世界中から認識されている。

 彼女の生まれや、境遇の過酷さは知っている。

 それでも彼女はそれに負けず、ただ前を見て進んでいった、アキラとは比較にもならないほどキラキラと輝いている存在だ。


 そんな彼女は、今までもずっと、世界中の人々を想って生きてきた。

 孤独の恐怖に苛まれることもあるだろう、それでも、前だけを見据えて。

 それは偽物なんかではそんな真似はできない。紛れもない本物の彼女の物語だ。


 これは願いだ。

 自分にはなれなかったキラキラと輝いた彼ら彼女らに対する、凡人たる自分からの厚かましい願いだ。

 自分には届かないその領域にいる彼ら彼女らには、最後まで、輝いていてもらいたいという、自分の強い想いだ。


「そんなお前の人生が、バッドエンドでいいわけないだろ……!!」


 この人物を終わらせてはならない。

 こんなところで幸せそうに微笑むな。こんな最期は認められない。

 彼女はきっと、自分では到底成し得ないことができるはずだ。


「ぎぅ……ぐ、」

「ティア?」

「大丈夫、です、まだ、まだ……!!」


 スカイブルーの光が消えた。

 ティアはリリルに手を当て続けるが、何も起こっていないのは明白だった。

 とうとうティアの魔力が切れた。

 その絶望的な事実だけを、アキラは呆然と見ていた。


「嘘……だろ」

「大丈夫、です、さっきだって、こうやって、あれ。まだ、です、まだ!!」


 ティアはほとんど寝そべっていた。

 動かないのか身体を強引に起こすと、再びリリルに手を当てる。

 何も起こらない。

 涙で顔をぐちゃぐちゃにしながらティアは喚いた。


「何でですか!? さっきだってちゃんと、私、治したんです、治せるんです!! こうやって、ちゃんとやれば、治せるんです!! だから、だから、……やだ、やだよ。私、決めたんです、治すって、ちゃんとみんな治すって……!!」


 荒れた大地にティアの叫びだけが響く。

 魔術はまるで発動しない。


 考えろ。


 身体中が恐怖に支配される。

 だが、思考を止めるな。

 ティアの魔力が切れたなら、アラスールと合流して秘石を貰えれば魔力を回復できるはずだ。だが、そんな時間は残されていない。


 考えろ考えろ。


 せっかくここまで辿り着けたのだ。結末が変わらないなんて許せない。

 必ず救う。


 自分は―――ここに、こんな光景を避けるために来たのだから。


「…………。ティア」

「待ってください、まだです、まだ間に合います!! 諦めちゃだめです、だめ、だめなんです……!!」


 だが、アキラは諦めていた。


「遠距離攻撃。いよいよ俺に教えられなかったな」

「アッキー……?」


 考えてみれば、当たり前のことだった。

 彼女に師を頼んで、魔術の遠距離攻撃を習い始めてから1年。まるで進捗は無い。

 ティアの教え方が悪いと思っていたのだが、それは違ったらしい。


「は。俺が、悪かったんだな」


 そうだ。

 ティアの真似をして魔術を放とうなど、いくら時を費やしてもできるわけがない。


 ティアを脳裏に映すと、その姿は決まっていた。


「お前のその手の平は―――」


 敵を撃つために突き出されるものではなく。


「―――誰かを救おうと差し伸ばされるところしか、想像できない」


 身体中の魔力を暴走させた。

 騒ぎ立てるように、暴れるように。

 しかしそれは、荒々しくも優しく、自分とリリルの身体を包んでいく。


 初めて発動させる。

 しかし不安はなかった。

 この旅で、自分は幾度となくこの力に救われ続けてきた。

 これでやり方が分からないと言ったら、それこそティアに許されないだろう。


 日輪のおびただしい魔力は、その場総ての憂いを払うように、騒ぎ続ける。


 それは、最早蘇生の領域だった。


「“キャラ・スカイブルー”」


 当然のように、驚異の治癒魔術が発動した。


 その余波だけで、アキラの身体すら傷が癒えてゆく。

 足りないかもしれない。過剰かもしれない。

 不確かな魔力の量を、そのままリリルの身体にぶつけた。

 だがやはり、不安は全くなかった。


 しばらくすると、小さく、リリルの胸から鼓動を感じる。

 呼吸まで聞こえ出し、ようやくアキラは魔術を抑えた。


「アッキー。今のは……」

「当然だろ、お前の力だ。治らないわけがない」


 唖然としていたティアに、アキラは弱々しく微笑んだ。


「は、はは。アッキー」


 頭で響く、自分の声は、いつしか聞こえなくなっていた。

 決定的に違う道に足を踏みしたように、目の前の背中は消え去っていく。


「え、へへへ。あっし、お払い箱ですかね?」

「何言ってんだ」


 涙で濡らした顔を歪めて笑うティアに、アキラはまっすぐに向き合った。


「全部お前のお陰だよ。お前のお陰で、俺は、誰かを救えたんだ」

「ふぇっ、うぐ、ううぅうぅっ」


 ティアが泣きながら抱き着いてきた。

 いつもより僅かに高くなったような気がするティアの頭の向こう、飛んでくるラッキーの巨体が見えた。

 どうやら魔門の方も片が付いたらしい。


 異次元に迷い込んだようなこの依頼も、ようやく幕を閉じたようだった。


―――***―――


「……。…………あれからどれくらい経った?」

「今は明くる日の昼過ぎだよ。いや夕方かな。もう日が落ちてきた」


 目を開けると、ホンジョウ=イオリがベッドの横に座っているのが目に入った。

 いつもの魔導士のローブや制服のような姿ではなく、浴衣のような病人服を纏っている。

 しばらくそれを見つめていると、イオリは髪を触ってため息を吐いた。


「随分神経が立っているみたいだね。僕を見つけて開口一番それだ。もう大丈夫、ヘヴンズゲートに戻ってきているよ」


 イオリ曰く昨日。自分たちは魔門を破壊すべく辺境の樹海を訪れた。

 その帰り、ラッキーの背中に乗ったところまでは覚えているのだが、いまいち記憶が整理できていない。

 あの後自分は気でも失ったのだろうか。


「町に着いたところまでは覚えているだろうけど、それからの話はしておこうか。魔術師隊の宿舎に運ばれたときは、みんな半死半生でね。アルティアが秘石の力を使ってひっきりなしに全員診てくれたよ。何人かはまだ寝ているだろうけど、命に別状はないそうだ」


 ここは魔術師隊の医務室か何かなのだろうか。

 ヘヴンズゲートに着いたときは自分の意識はあったらしい。

 どうやら記憶の混濁が激しいようだ。

 イオリの言葉もまともに聞けなかったが、とりあえず全員無事であることだけは分かって身体を深くベッドに預けた。

 節々が強く痛むが、潰れた気がしていた左半身も人の形を保ってくれている。これもティアが診てくれたのだろうか。


「お前は? 何でここに?」

「ああ、一番僕が動けそうだったからね。見回りさ。アルティアも泥のように眠っていたよ」


 イオリが来たときに起きるとは随分とタイミングがいい。それともイオリが来たから目が覚めてしまったのだろうか。

 流し目でイオリの様子を見ると、左手は裾を通していないようだ。負傷しているのだろうか。


「ん? ああこれ? 大したことじゃないよ。魔族の攻撃が掠めてね」


 腕を上げようとしてみせて、それを止めたのが分かった。

 そういえば帰りに聞いた気がする。

 自分たちがリイザスと戦闘をしているとき、魔門の方でも魔族が出現したらしい。


「君らに比べれば全然だよ。でも、上手く魔力を温存できた。ラッキーが飛べなくなっていたら流石に誰かが命を落としていたかもしれない」

「魔族相手に温存、か。……相変わらず馬鹿みたいに強いな、お前は」

「……、ああ、そうだね。馬鹿だね、僕は」


 言い返されると思ったが、イオリは自嘲気味に笑うと、肩を落とした。

 夕日が差し始めた外からは、人々の喧騒が聞こえてくる。

 彼らは、つい昨日、このアイルークで何が起きたのかをまだ知らない。


「―――奇跡だよ、これは」


 ポツリ、と。イオリが言った。


「君は本当に、やって見せた。犠牲も無く、魔門を破壊してみせたんだ。もう、何だろう、言葉が思いつかないよ」

「……そういや、魔門破壊、任せっぱなしだったな、そっちに」

「今そういう話してないよ。まったく」


 イオリは柔らかく笑った。

 初めて見る表情かもしれない。

 彼女のこんな表情が見えるなら、命を捨てずに良かったと心から思った。


「魔門なんかより、魔王直属の魔族を倒したって? はは、信じられないとしか言えないよ」

「倒した……、か。あんなのはただのラッキーパンチだ。百回やったら百回殺される。千回の内の1回が、たまたま起こっただけだ」

「君は本当にそういう言い方をするね」

「ああ……。……。だけど、その1回を起こせた」


 思わず口から出た。

 せめてそう言わなければならない気がして。

 偶然だとしても、あのリイザス=ガーディランという魔族を上回った事実を否定することは、酷く失礼で、許されないことのような気がして。


「少し、変わったね」

「かもな」


 これは自分の変化なのだろうか。

 何もないと思っていたこの身体に、何かが宿っているのだろうか。

 いや、あの地獄を切り抜けた事実は、この身体に宿らせなければならないのかもしれない。

 そうでなければ、イオリと会話する資格が無いような気がした。


「……お前には、言っておこうと思う」

「? 何を」

「夢……見てたんだよ、今。多分、“一週目”の魔門破壊だ」


 それが夢なのか、記憶なのかは分からない。だが自分の記憶はどうやら解放されたらしい。

 解放を拒みたいほどの地獄がそこに在った。


「お前が止めた理由、ちゃんと分かった。あれは……地獄だな、本当に。誰がどこにいて、何をやってんのか分からない中で、目の前の脅威を凌ぎ続けて……気づいたら、失ってた」

「……ああ、そうだったね」

「そんな中に、今の俺が飛び込もうとしてたんだ。誰だって止めるだろう。悪かったな、イオリ」

「……」


 イオリは目を閉じた。

 全ての記憶を有する彼女が脳裏に映すのは、アキラの夢よりももっと生々しい、あの血と死の匂いが充満する戦場だろうか。


「思い出したなら……、少し話そうか」

「ああ、頼むよ」

「あのときの君は、信頼できる強さを持っていた」


 魔門の樹海に落ちてから、いや、もしかしたらずっと前からだったかもしれない。

 あのとき響いたあの声は、この身体に刻み込まれていた“一週目”の自分のものだ。


「だからね、あのとき君が魔門破壊に参加すると言ったとき、勝算はあると思っていたんだ」

「……それでも」

「ああ、失敗したよ。というより……失敗させたのは、僕だね」

「?」


 イオリの表情が、ずっと遠くにあるような気がして、見えなくなった。


「魔物がそれこそ吹き出すように現れてさ。全員大パニックさ。そのとき僕は色々考えることになったよ。魔導士として、どのように立ち回って、どのように被害を最小限に抑えるか。そして、導き出した結論は―――撤退。これ以上魔門を刺激しないように魔物だけを撃破して、あの樹海から逃げ帰ることだった」

「……それは、仕方ないだろう。そうしなきゃ、全滅してたんだろ」

「ああ、そうだね、きっと正しかったね。でも、多分、撤退とした決め手は……、君だった」


 イオリは弱々しく笑った。

 塗り替えられた歴史を紐解く彼女の瞳の色は、今までよりもずっと深かった。


「責任転嫁じゃないよ、僕のせいだってことは分かっている。あのときの君を見て、僕が撤退を決めたんだ。あのとき君が、死ぬ気になっているように見えたんだよ」

「俺が、か」


 無いとは言い切れなかった。

 過去の自分は、自分自身を完全に諦めていた。

 その結果として世界中から持て囃される勇者となったらしいが、自分の命すらどうでもいいと思い込んでいた。


「君が怖かったんだよ、魔門なんかよりもずっと。君を強引に撤退させたのは僕だ。その結果、リリルは……。だけど、僕にとっては―――ああ、誤解を承知で言おう、そんなことよりも、君を離脱させることを優先させたかったんだ」

「……そう、かよ」


 イオリを責める気持ちは当然まるで浮かばなかった。

 命を懸けて、いや、命を捨てて戦う自分をイオリは救ってくれたのだ。

 リリルが命を落としたという“一週目”の魔門破壊。

 イオリがいなければ、犠牲者が自分であってもおかしくはなかった。


「俺は―――自分の命なんてどうでもいいと思ってた」

「アキラ?」

「お前は言ったな、“一週目”の俺も、今の俺も、同じヒダマリ=アキラだって。確かにそうだったみたいだ。リイザスと戦って、それを強く感じられたよ、自分の中にいる、もうひとりに。やばい奴みたいだけど、そんな“声”みたいなのが聞こえたんだよ。そいつは、確かに……死ぬ気だった」


 記憶が無くとも、きっとそれはこの身体に染みついていて、溢れ出したのかもしれない。

 自分自身を諦め切ったヒダマリ=アキラも、自分のひとつの形として、確かに胸の奥にしまわれていた。


「でもさ、なんだろ。そいつの言う通りにやろうとしたら、今度は心の奥が、それは違うって叫んで、真っ向からぶつかって……。もう、聞こえなくなっちまった。は。何言ってんだろうな、俺は」

「……。そうか」


 自分は“一週目”、イオリとどんな話をしていたのだろう。

 彼女のことをどこまで知れていたのだろう。

 彼女に、こんな行き場のない感情を溜めたような表情を、浮かばせてしまっていたのだろうか。


「……あのときは、しばらく口も利いてくれなくなったよね。責めることすらしてくれなかった。それだけのことをしたと思っていたから、僕も何も言えなかったよ。だから、謝りたいと思っていた。ごめん」

「……そうだな」


 自然と口から零れた。

 イオリのせいではないと、他人事のように言うことは出来なかった。

 心の奥でくすぶる感情が、当事者のままならない感情が、あのときの心境を蘇らせてくる。


 ああそうだ、あのとき自分は、イオリのことを心で強く責めていた。

 だが冷静な頭に命を救われたと囁かれ、吐き出せない感情に酷く苦しめられていたのだ。

 まったくもって最低な男だ。


「君のことは信頼していた。……でもね、あの土壇場で、君なら切り抜けられると信じ切れなかった。魔導士としての判断を優先してしまった。きっと君のことを信頼はしていても、信用はしていなかったんだね、僕は」

「は……。それじゃあ逆だな、今と」


 本当に同一人物か疑いたくなる。

 過去も、今も、それぞれ何かが足りなかったのかもしれない。

 どちらも彼女たちへ向き合うために、必要なものなのに。


「?」


 力なく倒していた手に触れられた。

 目を向けると、イオリが両手で労わるように、アキラの手を握っていた。


「本当はもっと前にこう言って、そうしているだけで良かったのかもしれないね。でも、ちゃんと言う。今の君は、ちゃんと応えてくれたんだ」

「……イオリ?」

「ふう……」


 イオリは息を吸って吐いた。


「君のことは、信頼も信用もしているよ。世界中で誰よりも」


 まっすぐに見据えてくるイオリの黒い眼に吸い込まれそうになった。

 息を止めて見返していると、イオリは静かに手を放して髪を触る。


「さて。そろそろ行こうかな。それだけ言いに来たんだから」

「言いに来た……って、見回りは?」

「……そうだね、だから次に行かないと」


 立ち上がって背を向けたイオリは、傷を労わるように静かに歩き出す。

 その背中が、妙に小さく見えるのは、自分の気のせいなのだろうか。


「どうしたんだよ。お前大丈夫か?」

「大丈夫さ、ただ、何だろう。上手い言葉が見つからなくてさ」

「?」


 イオリは首を傾げながら、病室のドアを開ける。

 自分ももう少ししたら、みんなの様子を見に行ってみようか。


「……失恋。なのかな、これは」

「は?」

「お大事に」


 部屋を出る直前にイオリが漏らした言葉に、アキラは怪訝に眉を潜めた。

 どうやらまだまだ彼女について知らないことだらけらしい。


 外ではいよいよ日が落ちて、人が灯した灯りが浮かび上がり始めていた。

 彼らはまだ知らない。アイルークからひとつの脅威が取り除かれたことを知らずに、日々を刻んでいく。


 自信を持って言うべきなのだろうか。

 自分たちは、その脅威を取り除いたのだと。


 過去の自分が成し得なかった偉業。

 そこへ正面からぶつかった自分は、外から見ればキラキラと輝いて見えるのだろうか。

 それに応えるだけの光を、自分は放てているだろうか。


 眠気が襲ってくる。まだまだ回復し切っていないようだ。

 身体を深くベッドに預け、目を閉じる。


 過去の自分は、自分を捨てた。そうすることで、魔王の元まで辿り着いたという。

 だが今の自分は、その道にとうとう背いたのだ。

 そこに覚えるべきは不安か、あるいは自信か。


 道標を失った身体は、漠然とした浮遊感を覚える。

 思わず過去の自分を思い起こそうとして―――止めた。


 過去の自分がどんな道を歩んだとしても、今のアキラにとってそれは所詮、別の世界の物語に過ぎないのだから。


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