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おんりーらぶ!?【第二部】  作者: コー
東の大陸『アイルーク』編2

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第49話『別の世界の物語(転・前編)』

―――***―――


「いかんな」


 異変を最も早く検知したのは、“その存在”だった。


 とはいえ、異例の事態というわけではなく、至って正常な“活動”だ。


 “それ”には周期のようなものがある。

 あるときは水面に浮かぶ木の葉のように平穏で、あるときは荒ぶる猛獣のように猛々しく、潮の満ち引きのように漂いそこに在る。


 人間たちでは知りようもないであろう、間近で観察して初めて“それ”の胎動するような波を感じ取れる。


 だから、知りようもないだろう。

 “それ”は今、何かに呼応するように脈打ち、しかし物言わずに漂う。


 あるいは自己の昂りが、影響を与えてしまっているのかもしれない。


 そう―――昂るのだ。

 この日、このとき、この場所に立ち、“その存在”は自らの高揚を強く感じていた。


 今自分は、千載一遇の状況にある。

 どちらに倒れても、“満たされる”のだ。


 ゆえに、“それ”の胎動は抑えられない。

 この高揚が負に働き、例えすべてが台無しになったとしても、抑えることは無いであろう。


 猛り、昂り、己が思うまま求め続ける。


 それでこその―――“欲”だ。


――――――


 おんりーらぶ!?


――――――

 マースル地方。


 ヘヴンズゲートの東方に位置するそこは、アイルークに長く住む者もその地の名を聞いたことはないであろう、地図上から抹消された地域だった。


 世界の3大樹海のひとつと言われるアイルークの樹海は、大陸全土に広がっており、アイルークの人々は自然と共存している。

 無限を思わせる木々は時折粗雑に扱われ、クロッククランの歴史にあるように、大規模な伐採が行われることもしばしばである。

 その資源がやはり有限であることに気づき、そして領地という概念が生まれ始めるのはいつになるか。だがやはり、少なくとも、今この時代において、無限の資源は全員のものとして扱われている。


 それゆえに、その膨大な規模の樹海のほんの一部に、明確に領地が定められていることに人々は気づかない。

 地図に敏い者であれば、自然と共存するアイルークの中に、完全に独立したエリアが存在することに気づくであろう。そしてもっと敏い者であればそのエリアについて言及しない。


 彼らは、一般教養として知っているのだ。

 自分たちが踏みしめているこの大地のどこかに、“それ”が存在していることを。

 そしてその場所を知ろうともしないことが、何よりも安全で、何よりも平和だということを。


 マースル地方。アイルーク大陸の『魔門の地』。

 魔術師隊のみが知らされる、平和に落ちるどす黒い影。


 その地に今、自らの意思で辿り着いた者たちがいる。


「待った」


 じっとりとした汗が身体中に絡みつく。木々の匂いが熱を帯び、汗の匂いと混ざり込んで鼻腔を絶えずくすぐってくる。

 樹海の中は昨日の雨のせいか湿気が高く、常に意識が朦朧とするような不快感に苛まれていた。


 それでも、その声に、ヒダマリ=アキラは意識を覚醒させた。踏み出そうとした足をピタリと止める。

 一歩後ずさり、可能な限り気配を殺して振り返れば、魔導士の制服を纏った女性が冷静な瞳で周囲を見渡していた。


「え、もう範囲内なのか? 俺……どうすれば……」

「いや、かなり近いけどまだだよ。ただ、この辺りで魔術師隊の見張りと落ち合うはずだ」


 湿気と熱を帯びた樹海の中でも、彼女はさも落ち着いた様子で周囲の気配を探っている。


 このホンジョウ=イオリはアキラの仲間であり、そして現職の魔導士だ。魔道を極める者にとっては最高峰とも言うべき資格を持っている。

 そんな魔導士様は、ここ数日、これから挑むことになる魔門について、ありがたくも可能な限り詳しく教えてくださった。

 魔門は接近するだけで大地を砕き天を割るような天変地異を巻き起こし、生きとし生けるものすべての命を奪いかねない、と。


 表現は違ったかもしれないが、この件に関して真剣に考えたアキラの出した結論はそれだった。

 結果、馬車で樹海の前まで辿り着き、徒歩で魔門の地へ向かっている間も、アキラはさながら地雷原でも歩いているかのように慎重に歩を進めていたのだ。

 だが、まるで生きた心地がしていないアキラとは違い、振り返ると連れ立っている面々は、思った以上に肩の力が抜けているようだった。


「ねえ、まだなの? 私もう疲れてきたんだけど。とっととやりましょうよ」


 その代表格であるエレナ=ファンツェルンは甘栗色の髪をかき上げ、さも下らなさそうに欠伸を噛み殺していた。

 エレナは疲れているらしいその身体で、背後に隠れていた少女をぐっと掴むと、手荷物のように持ち上げて、腹話術の人形のように前にかざして見せる。


「ほら。このガキも武者震いしまくってんじゃない」

「ふ、ふぅ」


 持ち上げられたのはアルティア=ウィン=クーデフォンだった。

 顔中に汗を滴らせ、身体中が震えている。


「ア、アッキー、気を付けてくださいよ。一歩でも間違えたらボーンです。バーンです。ドカーンです。あっし、吹き飛ばされてこれ以上小っちゃくなったら立ち直れません」


 断じて武者震いではなかった。

 魔門の影響でも受けたのかと危惧したのも束の間、ティアもアキラと似たような想像をしていたらしく、カタカタ震えている。

 吹き飛んだら決してそんなコミカルな感じにはならないのだが、今は何を言っても無駄であろう。

 この件は、彼女にとっては深い思い入れがあるはずなのだが、いつも以上にいつもの調子でこちらの調子が狂ってしまう。


 だが、警戒しているのは結構なことだ。

 最悪の想定をしていても、イオリからは訂正するような言葉は出てこない。

 今は未だ圏外らしいが、その想定は、必ずしも空想ではないのだろう。


 現在、魔門の地の目前まで近づいているのはこの4人のみ。

 自分たちは、残りの面々をこの辺りで待つことになる。


 魔門の地どころかその周辺にすら、少数ずつ入るのが習わしだそうだ。可能な限り魔門への刺激を軽減するためらしい。

 この辺りで見張りの魔術師と落ち合い、それから伝令が樹海の外で待っている者たちに出発の連絡をしに行くそうだ。


 先ほど馬車を止めたときもそうだった。無秩序に放置されている地域かと思えば、近づいた途端に魔術師隊に囲まれた。明確に規則や防衛ラインを定めているのだろう。

 重苦しい空気を感じる。平和なアイルークから、まるで別世界に迷い込んだようだった。


「―――出てきなさい」

「ぎゃっ!?」


 最初に反応したのはエレナだった。

 軽々しくティアを後方へ投げ捨て、鋭い視線を木々の向こうへ投げる。

 遅れてアキラも構えを取ろうとしたが、その前に気の合間から魔術師の姿の男が両手を上げて現れた。


「魔術師隊の者です、落ち着いてください」

「ああ、良かった。ここで合っているのかな」

「いえ、もう少し先に……、あ、いや、ここで大丈夫です。すぐそこに木々が開けた場所があるので、こちらでお待ちください」


 エレナに殺気を当てられたからか、気が動転している魔術師の男にイオリが冷静に応対した。

 アキラが全く気付かなかった気配を察し、そして正体も分からないまま迷わず殺気を放ったエレナに頼もしさと恐怖を覚える。

 エレナの意識は、見た目以上に鋭く尖っているようだった。


「で、ではこちらでお待ちください。お、おい」

「ええ、分かりました」


 再びびくりとした。どうやらふたり連れだったらしい。

 声をかけられたもうひとりの男は、慎重に静かにアキラたちが来た道へ歩いていく。彼が伝令係なのだろう。

 ドクリと心臓が高鳴る。

 あの男が残りのみんなを連れてきたら、いよいよ魔門破壊が開始される。


「ねえ、アキラ君。あっちに座ってお話でもしていない?」

「ん? ああ」


 再び肩に力が入っているのを感じ、意識して肩を下げた。

 今からこの調子では、ミスは許されない場面で何をしでかしてしまうか分からない。

 エレナの提案に乗り、地面から飛び出した木の根に向かう。


 エレナは僅かばかり湿っていた根を軽く払い、ゆっくりと腰を下ろした。

 横目で見ると、イオリは魔術師の男に何かを話している。こういうときにも、イオリは情報収集に余念が無いらしい。


「正直どう思う?」

「どうって、魔門破壊か?」

「ええ、そう。魔門破壊」


 恐らくその言葉をここまでにっこりと笑って口にした人間はいないだろう。

 見下げる形になったエレナは、とても小柄で、とても可愛らしく見える。

 名残惜しかったが、アキラは大人しく隣に姿を下ろした。


「魔門破壊、できると思う?」

「エレナはできないと思っているのか」

「私? そうね、正直失敗すると思っているわ」


 エレナは他人事のようにそう言った。

 アキラが認識している中で、エレナは最も高い戦闘力を持っているであろう。

 普段の所作からは想像もできないような鋭い動作と破壊力を備えている。

 彼女がその気になれば、今ここで座っているその状態からほんの数秒で、ここにいる全員を地に伏せさせることもできてしまうかもしれない。

 それほどの彼女が失敗と断じていた。


 アキラは意識して歯を食いしばる。

 思わず、巻き込んで済まなかったと言おうとしてしまった。

 だがそれは、今目の前にいる彼女に対して、自分の意思に従ってくれた彼女に対して誠実な態度ではないと感じる。

 報いるために必要なのは、そんな下らない保身塗れの戯言ではなく、結果を手に入れることだけなのだろう。


「でもまあ、作戦らしい作戦じゃないけど、一応試してみる価値がありそうなことだし、協力してやらないこともないわ」


 エレナは欠伸をしながら、鋭く視線を走らせる。

 思わず追うと、先ほど投げ捨てられたティアが頭を押さえて呻きながら立ち上がるところだった。


 彼女はこの場すべての異変を誰よりも早く検知する。

 それでいて、普段通りの態度をとっていた。

 そんな違和感には覚えがある。この作戦の指揮を執っている、ヨーテンガースから来た魔導士のアラスール=デミオンも、日常の所作の節々に、戦場の匂いを感じさせていた。

 アラスールがどれだけのものを見てきたのかは知らないが、目の前のエレナも、絶望を見てきているはずの人間だ。


 そんな彼女が仲間であることは頼もしくもあり、そして、やはり言い知れぬ恐怖を覚えてしまう。

 彼女にとって、この魔門破壊という危険ですら、日常の一部なのだろうか。

 そんな彼女を見ていると、胸が押し潰されそうになる。

 危機感が麻痺しているのではない。そもそも危険と日常が混ざり込んでいるのだ。


「エレナ。お前の目的は“あの魔族”を殺すことだよな」

「ええそうよ」


 即答だった。誰もが恐怖し慄く魔族という存在をも、彼女の日常の一部。

 そんな人間の心はどのような形をしているのだろう。

 少なくとも、自分に着いてきてもらって、当たり前のように危険な目に晒し、万が一彼女を失ったとしたら、自分は正気ではいられない。

 ようやく気付く。自分も、ここまで同じことをしていたのだろう。あの赤毛の少女が抱いていた懸念は、今自分が思っている感情と同じなのかもしれない。


「あら。もしかしてアキラ君、私を心配してくれているの? 嬉しいなあ」

「……多分、そうなんだろうな」

「即答して欲しいわねそれは」


 可愛らしく頬を膨らませ、エレナは踵で地面を蹴った。


「断言してあげるわ。私に何かあるようなら、その前に誰かが死ぬわ。ざっくりだけどそれくらいの差があるもの。だから安心してね、アキラ君♪」


 笑顔だが、微塵にも可愛らしさを感じない物騒な物言いだった。

 たが、エレナには分からないのだろう。見上げている者からの不安は。

 彼女は誰もが危険と判断する領域を軽々しく進んでいける。

 だからこそ、それゆえに、最も危険に近いのだ。


 何が起こるか予測不可能な魔門の繰り出す危険に、きっと彼女はひとりでも立ち向かえてしまう。

 そしてその領域に、危険に、彼女はひとり身を晒してしまうことになる。

 誰にも手が届かない。


 だけど、自分は彼女に言わなければならない。


「エレナ。もし何かあったとき、一番対処できるのはお前だと思う。俺も死ぬ気でやるつもりだけど、お前を頼ることになるかもしれない。だから、頼む。犠牲を出さないために、協力してくれ」


 歯が砕けるほど食いしばった。

 自分は卑劣なことを言っている。

 だが、成功させるためには、アラスール風に言えば成功率を上げるためには、エレナの協力は不可欠だ。

 だからこそ、自分は彼女に言わなければならない。

 危険を対処してくれと。


「……魔門を破壊するためにじゃないのね」


 ふふんと鼻歌が聞こえた。

 エレナは変わらぬ様子で足をばたつかせている。


「アキラ君、大丈夫よ。私にしては珍しく、ちょっとやる気出しているもの。ま、あんたらに着いてきて、いきなりこんなことになるとは思ってなかったけど」


 記憶を保有するアキラやイオリと異なり、彼女にとっては日が浅い付き合いだ。

 彼女の胸中を、アキラは察せない。


「でも、まあやるってんならやってやるわ。ようやくあんたらの顔と名前も一致してきたし」

「まだ覚えてなかったのかよ」

「ふふ、まあいいじゃないそんなことは。でもアキラ君、わざわざそんなことを言うなんて。ちゃんと協力するわ。私の心を深読みしなくてもいいわよ、至ってシンプルだもん。使える奴は好き。使えないのは要らない。そう―――、それだけよ」


 同行しているということは、自分たちに価値を見出してくれているのだろう。

 だが、そんな理由はどうでもいいとアキラは思う。どんな形であったとしても、自分に着いてきてくれるのだ。報いなければならないと強く感じる。


 そしてエレナは、飛び切りの笑顔をアキラに向けた。


「それに、なんかもっとやる気出てきたしね」


―――***―――


 ミツルギ=サクラは湿気がまとわりつく樹海を慎重に進んでいた。

 やはり危惧した通り、昨日の雨で濡れた木の葉が足場に散乱し、移動に適した状況ではない。

 歩くだけで普段より僅かに体力を奪われるし、木の葉に隠れた地面の窪みは小さな沼と化し、天然の罠が仕掛けられている。

 自分にとっては問題ではないが、サクは常日頃から周囲の状況を観察している。こうした積み重ねが、例えば魔力が切れたとき、武器を失ったときに生存率を上げるのだと生まれた大陸が教えてくれた。


 間もなく魔門破壊が開始される。

 自分も魔門破壊の鍵となる秘石を預かっているのだ。神経は、いつも以上に研ぎ澄まされていた。


 だから、邪魔しないで欲しい。


「リリルさんはモルオールの山喰らい……えと、フェリヴァルでしたっけ。その事件を解決してますよね。でもその数週間後にシリスティアで難破船の救助をしてますよね、どうやって移動したんですか?」

「ええ、あのときは大慌てでした。乗り継ごうにも船が無く、途中まで陸路で進んで、何とか漁船に乗せてもらえまして」

「よく行こうと思いましたね……」

「いえ、誰かがお困りならば。それよりも、エリサスさんたちのお話をきかせてください」

「エリーでいいですって」

「では、エリーさん。シリスティアからどうやってタンガタンザへ向かわれたんですか?」

「う……。ま、まあ、何とか。あたしはタンガタンザには行ってないんですけど」


 背後に続くふたりがやたらと意気投合していた。

 赤毛のエリサス=アーティと、銀の髪にオレンジのフードを被ったリリル=サース=ロングトンが並んでいるのは妙に見栄えがいい。


 声量は抑えているようだが、世間の情勢に明るいふたりは会話のレベルが合うようだ。

 そう考えると、自分たちの中でエリーとまともに会話ができるのは常日頃魔術師隊の支部へ行ってしまっているイオリしかおらず、彼女にとってリリルは待望の話し相手なのかもしれない。


 リリル=サース=ロングトンは自分でもその名を耳にしたことがあるほどの有名な勇者だ。

 初めて支部で会ったときも、例の如くアキラと関わりがあるようだったのは妙に気になったが、魔門破壊の協力者としてこれほど心強い者はいない。

 明るく笑っている彼女を盗み見ると、とてもそうは思えないのだが、有事には頼りになるだろう。


 それでも、日常会話がこれほどまでに緊張感を削ぐとは。

 だが、魔門のエリアはまだ先だそうだ。

 先行したアキラたちはすでに待機しているらしいが、未だそこについていない自分たちの肩に力が入り過ぎているのもよくないかもしれない。

 現に隣を歩く魔導士のアラスールも、まるで散歩でも楽しんでいるように鼻歌交じりに進んでいるのだから今のところ問題は無いのだろう。


「それより、シリスティアのお話聞かせてもらえませんか? 遠目では見えたんですけど、具体的に何があったのか分からなくて。アキラさんもいましたよね?」

「そうですね、いましたよ。あたし、実は魔物の攻撃受けちゃってて、それで、あいつが助けてくれたんです」


 いや、問題はあった。

 少しピリとした空気を感じる。先頭を行くものの義務として、敵襲だと叫ぶべきだろうか。だが生憎と、その空気は後ろから感じた。


「流石ですね、アキラさん。やはり、仲間と共に助け合って旅を続けているんですね」

「いえいえ、でもあいつ、そのとき思いっきり後ろからガバッって押さえつけてきて。未だに忘れられませんよ」

「……そう、ですか」


 今すぐに会話を止めて欲しい。

 敵に注ぐべき注意力の残量が結構減ってきている。由々しき事態だ。

 アイルークで魔門破壊に備えているとき、アキラに紹介されたのか、このふたりが話しているのを遠目で見たことがある。しばし考え、近寄らなかったのだが正解だったようだ。


 心境の変化があったのか、最近エリーの態度が露骨になってきているような気がする。

 自分は最近気づけたのだが、アキラには届いているのだろうか。


「ねえねえ、サクラちゃん。あなたは混ざらなくていいの?」


 隣のアラスールがにたにた笑いながら小声で聞いてきた。

 今の自分の心境を教えて欲しいのなら、すぐに応えられる。

 とりあえず、ああいう争いには巻き込まれたくない。


「私はアキラ様の従者だ。あいつに妙なストレスは与えたくない」

「あらあら。あらあらあら。いーないーな、若いっていーな」


 ならば年相応の態度をとって欲しい。

 仲間のイオリは、想像していた魔導士像に足る立派な人物だが、このアラスールは型破りとでもいうのか、今まで見たどの魔術師とも違っているように感じた。

 だが、身に覚えのない態度ではない。


「でもサクラちゃん、後ろばっかり気にしていると足元危ないわよ? だったらいっそ混ざっちゃいなさいよ」

「……サクでいい」

「気になってたんだけど、あなたたちって愛称を自己申告してくるわよね」

「そうしないと妙な愛称を広める奴がいるからな」


 適当に答え、サクは眉間にしわを寄せた。

 そうだ。

 この飄々とした態度が、自分の親を連想させる。

 孤立無援だ。早く辿り着いて欲しい。


「ふふ。じゃあサクちゃん。胸にしまったそれ、使いどころを間違えないでね」


 懐に仕舞った秘石の感触を探った。

 アラスールはまっすぐに見てくる。

 日常会話の中に、常に戦場を意識させるような言葉を混ぜるのもあの男を連想させた。


「……存在しないと思っていろと言わなかったか」

「ええ、言ったわ。だけどそういう意味じゃないのよ。魔門のためじゃないわ。いざというときに逃げるためよ。命からがらね。でも何も考えずにとにかく逃げろなんて言わないわ、最後の一瞬まで思考を止めないのが長生きの秘訣よん」


 ジジジ、と虫の鳴き声が聞こえる。

 アラスールの表情は、逆光でちょうど見えなかった。


「アラスールさんは慣れた様子だが、ヨーテンガースではよくあるのか?」


 皮肉のつもりで言ってみた。

 後ろも不穏ではあるが会話しているのだ。サクは溜まっていた息を吐いてアラスールを流し見た。


「慣れてなくて何が魔導士よ。でも、流石にこれは初めてね。計画的にやろうとするのは史上初だもん」


 難しいことを簡単に言う。エレナもこういう言い回しをするような気がした。

 常に戦火に包まれている大陸に生まれた自分でも、彼女たちは別の世界にいるように錯覚する。

 そしてサクは良く知っている。戦場を日常に落とし込んでいる者が、長く生きられるのだと。


「それでも、史上初なんてのは見飽きたわ。言ったでしょう、常に真摯にいること。思考を止めないこと。僅かでも成功率を上げるために。それが人からどう見えるのかなんて気にしないわ、隊長職としてはどうかと思うけど、それが私のスタイルだもの」


 もちろん人によるのだろう。例えば後ろのエリーは、戦闘になれば即座に切り替えられる女性だ。


「堅苦しく考えなさんな若人よ。自分が考え抜いて、自分が必要だと思うタイミングで、その秘石は使ってね」

「そうか。それなら私は魔門破壊にこれを使おう」


 アラスールの目が細まった。

 サクは胸を掴み、感触を確かめる。


「あら。魔術師隊としては嬉しいけど、個人的には、使うような事態になるなら逃げて欲しいんだけど」

「なら私も個人的な理由だ。魔門は破壊する」

「……あーら。気が高ぶり過ぎてるわね、少しは落ち着きなさいな」

「悪いな。私はそんなに器用じゃない」


 常に刃物に身を晒すように、鋭く意識を尖らせていく。

 そして誰よりも早く道を切り開いていく。

 それが自分のスタイルだ。


 その結果、失ったものもあり、後悔したこともある。


 そして、得たものもある。


「主君の願いを叶えたい。だから私は、今から気を張り続けよう」

「……ふ。あなたたち中々まとまっているじゃない。―――適正あるわね、“あの場所”の」

「―――?」


 顔を向けたが、アラスールの表情はまた逆光で見えなかった。


「……あ。私、勇者様の女性問題が新聞に取り上げられたら、涙を流して笑う自信があるわ」


 刀に手をかけたが、すでに笑いを堪えられていないアラスールには、殺気が無いことがばれているようだった。


―――***―――


「この地点からの距離はおよそ50km」


 ポツリ、とアラスール=デミオンがそう言った。


 後発組が合流した直後、面々の顔を見渡して、にっこうりとした笑顔を浮かべ―――鋭く視線を走らせた。

 エレナと雑談をしていたアキラは思わず立ち上がり、拳を握る。


 いきなりのことのように思えた。

 僅かばかり解れていた気持ちが手元から漏れ、拾い切れない。

 思わず面々の顔を見渡すと、日常と戦場が入り混じっている者とそうでない者がはっきりと分かった。


「離陸地点は?」

「もう確認してある。こっちだ」


 淀みなく先導するイオリに、アキラは足を強引に動かしてついていく。

 そうだ。

 この地に踏み込んだ以上、開始の合図など敵も味方も行ってくれない。


 アキラは共に歩く面々を流し見た。

 強張っている者、普段通りの顔つきで進む者の様々な顔色をうかがいながら、その中に、リリル=サース=ロングトンを見つける。


 まっすぐに前を見て歩く彼女は、微笑んでいるようにも見えた。

 心拍数が上がる。

 樹海の不快さは気にもならなくなり、暑さのせいとはまた違った嫌な汗が額に噴き出す。


 ヘヴンズゲートで過ごす日々で想ったことはいくらでもある。

 だが、アラスールの空気に引きずり混まれ、幸運にも今は抑え込まれているようだった。


「ここだ。まだ入らないでくれ」


 先行したイオリが、それだけ口にして踏み込んだのは、数十メートルほどの野原だった。

 樹海の中で不自然なほど整った形をしているその場所は、どうやら人工的に開けた広場のようだ。よく見ると、木々が伐採された形跡がある。

 アイルークにも召喚獣使いがいるのだろうか。魔門流しの際にも使用しているのかもしれない。


 イオリはまっすぐに中央へ向かうと、懐から拳大の石を取り出す。

 あれが魔門破壊の成否を分ける最重要アイテム―――魔力の秘石。

 イオリの魔力を増幅させ、彼女の召喚獣でこの面々が魔門に高速接近する手はずだった。聞いていたときには容易な手順のように思えたが、鼻に付くような鋭い空気が、身を凍えさせる。

 彼女だけが立つその広場が、生半可な覚悟では踏み入ることすら許されない聖域のように思えた。


 イオリはしばし秘石を見つめると、静かに振り返った。


「いつでも」


 アラスールが頷く。今頃、この樹海の各所に散らばった魔術師に、作戦開始の連絡が伝達されているであろう。

 連絡が届き渡るまで、改めてこの場で待機ということになる。


 シン、とした樹海の中、アキラはようやく思考が追いついてきた。


 まるで着いていけない。

 つい先ほどまで、自分はエレナと座り込んで話していたはずだ。

 それなのに、気づけばこの場所に立っている。

 自分がどのように足を出し、どれほどの距離歩いてこの場所に着いたのか分からなかった。

 見知った顔に囲まれて、歩き慣れたアイルークの樹海にいて、当たり前の動作をしただけだというのに、まるで別の世界に迷い込んだかのように思えた。


 声を出すことすら、呼吸をすることすら禁じられたかのような空間に圧迫されて、いつしか握っていた拳が震え始めてくる。

 問題の魔門まで、まだ50kmあるというのに。


 これだけの緊張感を、生涯味わったことは無い。

 あのタンガタンザの百年戦争ですら、いつも通りの自分でいられたと思う。


 失敗したら、ここにいる全員が何の比喩なく死ぬ。

 魔門破壊というものは、それほどのものだ。そしてそれを選んだのは、自分だ。

 そう漠然と思ったとき、アキラはようやく分かった。


 そうか―――これが信頼を得ようとする者の責任感か。

 焦がれるほどに欲したものは、ヒダマリ=アキラという存在が持つには、あまりに重いもののようだった。


 今自分は、日常と戦場の境界線に立っている。


「―――っ」


 震えた手が、隣の誰かに触れた。


「あ……はは」


 顔を向けると、赤毛の少女が乾いた笑い声を出した。


「は、始まるね」


 笑みを浮かべようとしているらしい。

 エリーは汗を浮かべてひきつった顔を向けてくる。

 彼女も自分と同じ、日常の住人のようだ。


「あら、エリーちゃん。今はこの場で待機よ。少しだけなら気を抜いていいわ。その代わり、合図があったらすぐに行くわよ。前にも言った通り魔門のエリアで活動許可をしているのは40分」


 事前の打ち合わせで聞いたことを今更ながらに思い出した。

 自分を保てていない証拠だ。


「そのときは今よりもーっと気を張ってもらうから、今のうちに自分のリズムを整えてなさいな」


 到着するなりその辺りの切株に座り込んでいるエレナは、その自分のリズムとやらを順調に刻んでいるようだ。

 エリーがカチコチに固まっているのが見て取れる。

 いかにも民間人代表のような顔つきだった。

 自分も人のことは言えないのであろうが。


「……ほ、ほら、顔強張ってるわよ。リ、リラックスリラックス」


 言っている本人が固まっていた。

 エリーは目を泳がせたまま必死に作り笑いをしている。

 だけど不快には思わなかった。

 汗がじっとりとまとわりつく樹海の中でも、暖かさを感じる。


 また、歯を食いしばる。

 言おうとしてしまった。巻き込んですまなかったと。


 自分が何をしているのか途端に見失った。

 そもそも、彼女たちを魔王討伐などに巻き込んでおいて、今更自分は何をやっているのか。


 今までの彼女たちとの旅すべてが黒く淀んで見えてきた。

 これほどまでに不確かな自分は、今まで何を考えてきたのか。あるいは、何も考えてなかったのか。

 戦いの次元は遥かに上がってきている。

 それなのに、自分はこのアイルークから旅立ったときから、何も成長していないように思えた。


―――ピッ、と。


 首筋に、誰かの指が触れた。

 ひんやりとした、心地の良い刺激だった。


「……ぇ」

「大丈夫ですか、アキラさん。具合が悪いようですが」


 ゆっくりと振り返ると、リリルが優しい瞳で、アキラを見上げていた。


「リリル?」

「もうすぐ始まりますね。お互い頑張りましょう」

「あ、ああ」


 やはり彼女は微笑んでいる。

 魔門破壊という異常事態に巻き込まれているのに、彼女は何故こんなにもにこやかなのだろう。

 いつも逸らされている印象の、彼女の澄んだ瞳に、アキラは吸い込まれているような錯覚を覚えた。


「リリルは随分落ち着いてるな。流石に慣れてるのか」

「いいえ、私も緊張していますよ。ですが、嬉しいんです。魔門を破壊すれば、多くの方が救われますから」


 彼女はまっすぐにそう言った。妙な感情が混ざっていない、澄んだ声色だった。

 それが、彼女という人間そのものであるのだろう。


 そうだ。

 難しいことを考えるな。

 自分は彼女の未来を変えるために、この魔門破壊に参加しているのだ。

 信頼されるために行動するのではなく、信頼されるような行動を取ればいい。


 良くない何かがその指先から吸い取られ、気が静まっていくのを感じた。

 妙に冷静になれる。


 しばらくそうしていると、リリルはようやく顔を背けた。


「こ、こほり。もう間もなくのはずです。戻ったらまたお話聞かせてくださいね」


 アキラは息を吸って吐いた。

 遠ざかっていた世界が、ようやく目の前に戻って来る。


「―――ああ。約束だ」


 熱に浮かされたようだった頭が落ち着きを取り戻していく。

 手のひらの感覚は問題ない。

 視界も良好。


 ようやく広場に足を踏み入れることができそうだ。


「こ、ほ、ん。終わったら、話があるから。あんたによ」


 一応時と場所を選んでくれているらしい。

 隣から荒々しい咳払いと共に、脅しのような言葉が聞こえたが、顔を向ける勇気はなかった。


「あらあら、もろもろ落ち着てきたみたいね。そろそろ始まるわよ」


 アラスールが微笑んだと同時、森の影から魔術師隊の男が姿を現した。

 重々しい顔つきで、ゆっくりと頷く。

 彼は伝令係だろう。その合図の意味は、この場にいる全員が察した。


「イオリちゃん」

「ああ、始めるよ―――」


 イオリが手に持った秘石に力を込めた。

 何も起こらない、と思ったのも束の間。


 風の音が、止んだ。


「―――ラッキー!!」


 口笛を響かせ、イオリは自らの召喚獣の名を叫ぶ。

 同時、視界がすべて土色に染まり、比喩ではなく呼吸ができなくなった。


 辛うじて煌々と輝く秘石が見えたが、まるで味わったことのない空気が、身体中を押し潰している。


 話には聞いていた。

 秘石は、純度の高い魔力を膨大に有していると。

 イオリの属性はグレーに輝く土曜属性だ。

 あらゆる魔力を押さえつけ、その流れを強く阻害する。


 魔力を前提とした旅を続けてきた自分が、この場全てから強い違和感を覚えるのはそのためか。

 強大な魔力が目の前に存在しているのに、周囲に漂うべき魔力の奔流が微塵にも感じられない。


 秘石を操るイオリ自身、魔導士の資格を持つ規格外の魔力を持っている。

 そんな者が、その力を振るったらどうなるか。


 答えは、目の前に突然現れた。


「―――いっ」


 視界はようやく晴れた。

 しかし、今度は物理的に塞がれている。


 目の前に唸る巨大な岩山が出現していた。


 土色の肌ひとつひとつにあるコブは岩石のように隆起し、畳まれた翼はその状態ですでに人の住む建物ほどもある。

 身体に阻まれて全貌が把握できないが、もしアキラが知った通りの姿をしているのであれば、あの凶暴な顔つきはさらなる進化を遂げているのであろう。


 召喚獣―――ラッキー。

 魔導士であるホンジョウ=イオリの切り札たるその存在は、秘石の魔力を得て、別次元の怪物へと成長していた。


 前にイオリに、使用する魔力の量によってラッキーの姿が変わると聞いたことがあったが、ここまでとは。

 見上げに見上げたその背中に、イオリが冷静な眼で周囲を見渡していた。


「―――今から40分よ。すでに気づかれた可能性すらあるわ」


 アラスールの声に、弾かれるように全員がラッキーに飛び乗る。

 それだけで登山のように駆け上がることになるが、動きを止める者はいない。

 誰もが一刻一秒を争う事態であることを理解していた。


「全員乗ったね!? 行くよ!!」


 ボッ!! と爆発音のような羽音が聞こえた。

 普段イオリが召喚しているラッキーは、精々3,4人程度しか乗れないのだが、その倍を背中に乗せても、遥かに上回る速度で飛空する。


 一瞬とも思える間に樹海を見下ろす形になったアキラは、すぐにラッキーの前方へ移動する。

 音すら暴風に閉ざされた世界で、イオリと、魔門破壊を担当するアラスールはすでに遠くを睨んでいた。


 以前モルオールでカイラ=キッド=ウルグスの操る召喚獣に乗ったことがあるが、それよりも遥かに速い。

 カイラの召喚獣は移動に適した存在のようだったが、イオリのラッキーは戦闘向きだ。

 その戦闘向きの存在が、あのときより遥かに速い速度で魔門に接近していく。


 アキラは目を凝らした。

 秘石を持たない自分の役割は、異変の排除。

 細心の注意を払い、僅かな変化も見逃さず、即座に対応する必要がある。


 だが、そんな必要はなかった。


「―――!?」


 迷わず突撃していくラッキーの前方に、分かりやすいほどの“巨大な球体”が見えた。


 グンッ!! と身体が引かれた。

 イオリが指示を出し、その球体を即座に回避する。


 体勢を立て直す前に真横を通り過ぎた球体は、一瞬で遥か後方に消えていった。

 あれは魔門が起こした現象だったのだろうか。


 ズン、と頭が重くなる。

 つい今しがた見たはずのその球体が、靄がかかったように記憶の奥に吸い込まれていく。


 今の、は。


 アキラは強く首を振った。

 恐れるな。

 攻撃だったのかもしれないが、それならそれでいい。魔門が目前に迫っていることになる。

 いや、事実そうだ。

 このうっそうと生え茂った樹海の中、ラッキーが一直線に目指している開けたエリアがある。

 あそこが魔門の場所に違いない。


 そこで。


―――ズ―――――――――


 強い不快感が襲った。

 眼球が裏返るような圧力で頭の上から押さえ付けられる。

 鋭い刃のように走っていた暴風が流れを止め、溶かされた鉛のように全身にまとわりつく。

 身体中に血栓ができたように四肢が痺れ、神経がまともに機能しない。

 ようやく呼吸を思い出すと、肺の裏にこびりついた鉛がようやく流れ、今度はむせ返るような苦々しい空気が肺に取り込まれてきた。


「なん―――だ」


 依然、ラッキーは高速で魔門へ向かっている。

 だが今、言いようのない何かを、この空の世界で確かに感じた。


 ぼやけた視線を走らすと、ラッキーの背中に乗った全員の姿が見える。

 無事だ。

 だがその誰もが、今の自分と同じような―――絶対的な危機を感じ取っていた。


「―――、」


 ドッ、と今度は心臓が鳴った。

 音が消えた世界。

 高速の風の中。

 しかしアキラの世界は、ゆったりと流れる。


 頭がガンガンと鳴り、汗が噴き出す。


 これは―――“刻”なのだろうか。


 そして見た。

 先ほど見た巨大な球体が、前方に再び浮かんでいる。


 今度は―――ふたつ。


「―――止まって!! イオリちゃん!!」


 脳内に大声が響いた。

 アラスールの声だ。

 何らかの魔術を使って声を届けたらしい。


 アキラは鈍くなっていた感覚の中で、そんなことを思った。

 それよりも。


 遠方に小さく見える、“その存在”が、何故か自分の手の平よりもくっきりと見えていた。


 あれが―――あの遥か彼方にいる存在が、攻撃とも見紛うほどの空気を放っていたというのか。


 ラッキーが上空で急停止すると同時、身体中に別の何かが纏わりついた。

 ガクンと身体が揺れたが、ラッキーから放り出されることは無い。

 イオリが魔術を放ってくれたのだろう。


 上空で巨大な翼をはためかせ、ラッキーは速度を急激に落としていった。

 接近してくるふたつの巨大な球体は、ゆらゆらと揺らめく。


 アキラはその球体を―――その“赫い球体”を知っていた。


「―――中止よ!! 即時撤退!! 作戦は失敗!!」


 アラスールが腕を大きく振り、怒鳴るように叫ぶ。

 彼女も見えたようだ。

 アキラがずっと睨んでいる、“その存在”に。


「何があったんですか!?」


 アキラを追い越し、リリルがアラスールに駆け寄っていった。

 アラスールはリリルを見もせずに叫び続ける。


「今すぐこの場所から離脱!! 冗談じゃないわ、あんなのがいるなんて!!」

「説明をしてください!!」


 リリルが叫んで聞き返す。

 後部に乗っていた面々も、何事かと集まってきた。


 突如発生した異常事態に、張りつめていた緊張は臨界点を超え、パニック状態に陥りかけていた。


 鈍った感覚の中、アキラは拳で強く胸を叩いた。


 魔門まではあと僅かだ。このままラッキーで高速接近すれば、当初の想定通りに魔門破壊を開始できる。

 一撃離脱を果たせば、後は退避だけを考えればよい。それは容易いようにも思えた。


 だが、本当に優先すべきことは何なのか。

 それだけは―――間違えるな。


 アキラは振り返り、叫んだ。


「―――全員、逃げることだけ考えろ!! イオリ!! 離脱してくれ!!」

「わ、分かってる!!」


 イオリが応じた。

 だが、ようやく急停止できたラッキーを、その影響か思うように制御できていないようだ。

 その僅かな揺らぎを“その存在”は見逃さず、再び巨大な球体を放ってくる。


 今度は―――みっつ。


 最初のふたつは揺らめきながら迂回するようにラッキーの背後に回り、退路を塞ぐように進んでいった。


「ち―――」

「何!? どうしたの……よ……」


 エリーが駆け寄り、そして、自分たちが見た者の正体を見て、言葉を失った。

 必死にラッキーに指示を出すイオリの隣、アラスールは振り返り、改めて叫んだ。


「今すぐ戻るわよ。度を越しすぎてる。これも魔門が起こした現象だっての!?」


 アラスールも“奴”を知っているのだろうか。

 向うもこちらを眺め、そして―――嗤う。


 奴は。


「“魔族がいる”。それもただの魔族じゃない―――“欲持ち”よ。ううん、それどころか、“魔王直属”―――」


 周囲の木々は、“それ”がそこにいるだけで、力なく倒れ始めていた。


 黄金の鎧に身を包み、純金の髪を逆立て、しかしなお、身体中、指先一本にまで至る赫が痛烈に目に焼き付いた。

 鬼のような形相を燃えるように赫く燃やし、黒く塗り潰されたその眼はギロリと鋭く、まっすぐに、こちらを見上げてきている。

 この距離で、焼け付くような空気が、体内を侵食し、身体中が燃え付いて呼吸もままならない。


 それは。


「―――リイザス=ガーディラン」


 “財欲”を持つ、規格外の怪物だった。


「あ、あいつ……あいつって、アラスールさんも知っているんですか!?」

「後よ後よ!! 魔門から出てきたのか知らないけど、秘石があること嗅ぎ付けやがったのね……!!」


 リイザスは“財欲”の魔族だ。奴は、秘石に価値を見出しているのだろう。

 考え得る最悪の状況だった。

 まだ何が起こるか分からない魔門の方が安全にすら思える。

 だからこそ、アラスールに全面的に賛成できた。

 今は、逃げの一手に尽きる。


「シュロート!!」


 叫びながら、アラスールは腕を振るった。

 退路を塞ぐように展開していた球体に向かうスカイブルーの一閃。

鋭く走る水曜の魔術は、迷いなく球体に吸い込まれていく。


「きゃあ!?」


 ドンッ!! と大気が揺れた。誰かの悲鳴が遠く聞こえる。

 身体中が揺さぶられるような振動に、アキラは危なくラッキーから放り出されそうになった。

 あれが直撃したら、放り出されるどころか空中で爆散していただろう。


 この技は、以前も見たリイザスのアラレクシュットだ。

 追尾性能を持った、火曜の魔術。

 振れれば発動する特性から、迎撃は可能だが、これほどの破壊力を以前は持っていなかった。


 急場をしのぎ、アラスールは追撃に備える。

 今リイザスがいる遠方からの攻撃であれば、彼女がいればある程度対処だろう。

 あの技は、それほどの速力が無かったと記憶している。


 だが。


「っ……」


 カッと目が焼かれた。リイザスの周囲が樹海に火を放ったように赫に染まると、気づいたときには球体が群れを成し、目を疑うほどの速度で高速接近してきた。


 最早数えきれないほどの量。ラッキーの飛行速度を超えるほどの速度で、前方から濁流のように球体が迫ってくる。

 間違いない。

 あのリイザスは、以前のときとは違い、魔力減少のペナルティを受けていない。

 リロックストーンで現れたのではなく、何の制約もない正真正銘の魔族。


 人の認識では図ることもできない破壊の濁流が、瞬時に空を埋め尽くしていた。


 ティアも遅れて狙撃を開始したが、ふたりしかいない狙撃手の攻撃は焼け石に水のようだった。

 アラスールは最優先で背後に回ろうとした球体を打ち落としているが、空中で続く大爆撃に、イオリが操るラッキーの態勢が上手く整っていない。

 このままではあっという間に取り囲まれてしまう。

 アキラは歯噛みした。


「―――っ。多少強引だけどこのまま急上昇する!! 今すぐこの場所から離脱するよ!!」

「ええ!! お願い!!」


 イオリが叫び、アラスールが空を見上げる。

 目を塞ぎたくなるほど球体が浮かんでいるが、さらなる上空は包囲が甘い。

 直線の退路から逸れるということはそれだけ危険も高まるが、今のままよりは安全なように思えた。


 いずれにせよ、魔門破壊は失敗だ。


「―――待ってください」


 爆音の中、芯を揺さぶるような叫び声が響いた。

 向けば、リリル=サース=ロングトンがラッキーの先頭に立ち、前を見据えている。

 赫く染まる空の元に立つ彼女の、冷ややかささえ感じられる声色は、この場の全員の脳に響くようだった。


「行くなら下です。上空に退路はありません」


 思わず上を見上げる。アキラには道が開けているように見えるが、リリルには違う何かが見えているのかもしれない。


「駄目よ!! 方針を変えないで!! ち―――でも、」


 アラスールも空を見上げ、歯噛みした。

 未だ開いているように見える空に、彼女も危険を感じたようだ。


「―――問題ありません。皆さんは下りたらすぐに逃げてください。……魔門から」


 しかしリリルは冷静な顔つきで、オレンジのローブを脱ぎ捨てる。

 そして瞳は、まっすぐにリイザスを捉えていた。


「私は、リイザス=ガーディランを撃破します」


 その言葉に、アキラの脳が砕けるように騒ぎ立てた。


「―――く。とにかく下りるよ!! 全員捉まってくれ!!」


 そこからの行動は早かった。

 イオリはあえて魔力を抑えたのか、ラッキーの身体が途端に縮まっていく。

 重さに耐えきれないように下降を始めるラッキーに捉まり、アキラは強引に顔を上げた。


 リリルがしがみつきながらも、リイザスの姿を目に焼き付けようとしているのが目に入る。


 まさか、本当に、彼女は。


「―――なっ」


 吸い込まれるように樹海に近づく中、誰かの声が響いた。


 我に返ったアキラもラッキーの向かう先を見て、そして、絶句する。


 大地が、黄色に、輝いていた。


 赫の世界から逃れた先、リイザスの鎧のように樹海が黄色の光を帯びている。

 いとまも無い怪現象に、アキラは思考もできず、ただただ向かっていくその現象を眺めていた。


 発光しているようにも見える木々は倒れ、それでも光はその場所に留まり続ける。

 黄色の光は波のようにうねり、まるで樹海が津波に襲われているかのようだった。

 刺激の強い光に僅か目を閉じると、再び開いたときにはいたるところに建造物のような柱が立ち、空を貫くように伸びていく。

 遥か上空から見えるその世界は、高速に流れる時間の中で、人が木々を伐採し、建物を作り出している様に思えた。


 いよいよ魔門の力が発動した。


「―――総員衝撃に備えてくれ!!」


 イオリが叫んだ。

 それと同時、ゴッという鈍い音と共に、貫かれたような衝撃が走る。一瞬失った意識から覚醒すると、身体が空に放り投げられていることが分かった。


 投げ出された身体から目だけを動かして見ると、高速に伸びていた黄色の柱に、ラッキーが貫かれるように衝突していた。


 見える範囲、全員が宙を舞っている。


 赫に染まる空。黄金に輝く大地。

 逃げることだけを考えていたのに、それすらまともにできなかった。

 無力感と異常に挟まれた身体は、成す術なく地面に向かっていく。


―――思考を止めるな。


「……っ、キャラ・イエロー!!」


 バンッ!! とアキラはいち早く“地面”を蹴った。

 脳髄まで揺さぶる衝撃に身体中が悲鳴を上げる。


 減速もままならないまま地面に引き寄せられるも、再びアキラは空中に“地面”を作る。

 しかし辛うじて発動できたに過ぎない足場の魔術は、アキラの意図する方向とは逆に進んでいった。


 離れていく。


 先ほどまで共にいた皆は、空中で弾けるように別れ、魔門の森へ落ちていった。


 何人かは、空を行く術を持たない。

 アキラは必死に仲間の元へ向かうように魔術を発動させるが、やはり無駄に終わる。

 アキラは祈るように歯を食いしばった。


 何が起こるか分からない魔門。

 その脅威が、今になって、ようやく骨身に染みた。

 怪現象の数々が、正常な思考すらも阻害する。


「く……そ」


 直後アキラは本当の地面に墜落した。


――――――


 誰かが救われることは、本当に嬉しいこと。


 三代目勇者レミリア=ニギル様はそう教わって育ったらしい。


 聞いて、素敵だな、と思った。

 苦手な足し算や文字の読み書きの勉強と違って、まっすぐに心に入ってきた。


 今まで宿題から逃げるように家から出ていたのに、その日から、困っている誰かを探すために家から出るようになった。


 隣の家の庭でおじさんが雑草をむしっていたから、水を持っていってみた。

 広場でおばあさんが休んでいたから、肩を揉んでみた。

 同じ年頃の男の子が道に迷っていたから、一緒に歩いて、一緒に迷子になってしまった。


 でも、みんな笑ってくれていた。


 素直に嬉しいと思った。

 でも、特別なことをしたとは思わなかった。

 お返しも欲しいとは思わなかった。


 たったこれだけの行動で、みんなが笑ってくれるなら、それ以外要らなかった。


 だったらもっと、たくさんのことをしたい。

 できるようになりたい。


 たくさんのことを覚えれば、たくさんのことができるようになる。

 そんな風に考えた。


 特に計算は苦手だったし、嫌だったけど、それが誰かを救うことにつながるなら、なんてことは無いように思えた。


 宿題をしっかりやったら、お母さんが笑ってくれた。


 世界がキラキラ輝いて見える。

 小さなことでも、何かに繋がっていくように見えた。


 だから自分は、将来、誰かを救うことをしたいと思った。


 この村のみんなが笑顔になったら、自分は何をすればいいんだろう。

 そんな幸せな悩みが浮かんで、夜遅くまで眠れなかった。


 村の様子がおかしいと思ったのは、いつもお菓子をくれる隣のおじさんが、何も言わずにすれ違っていったときだった。


―――***―――


「……っ、ぁ……あ……?」


 瞼から光が漏れてくる。

 呻き声は自分のもののようだった。

 感覚が鈍い。意識を失っていたのだろうか。


 頭が割れるように痛む。

 身体の節々がジンと痺れ、手足の感覚がほとんどない。


 だからヒダマリ=アキラは生きていることを確かめるように、もう一度呻き声を上げた。

 そして、目を見開いた。


「は……?」


 目の前に、黄色に輝く壁があった。

 思わず手のひらを当てると、ひんやりと冷たい。


 力を籠めたら、僅かばかり沈む。弾力性があるようだ。


「なんだ、これ……」


 よろよろと立ち上がり、後ずさると、背中にも壁が触れた。


 ようやく視界が戻って来ると、自分が黄色の壁に挟まれていることに気づいた。

 壁は、左右にずっと続き、その先は、再び壁。

 いや、どうやら曲がり角のようだった。


「道……、迷路……?」


 思考がようやく晴れてくると、自分が今、黄色い壁に挟まれた狭い通路のような場所に立っていることが分かった。

 風は微塵にも感じない。不気味なほど静かだった。


 壁の高さは、正確には測れなかった。

 上空に見える太陽の光と黄色に輝く壁が溶け込むように見え、距離感がつかめない。

 だが、どうやら登れる高さではないらしい。


「!」


 はっとして、アキラは再び空を見上げた。

 赫い球体は浮かんでいない。

 どうやらあちらの脅威からはひとまず逃れているらしい。

 だが、この壁はなんだ。


 アキラは不穏な気配を感じ、必死に周囲の気配を探る。


 自分は確かに、樹海に落下したはずだ。

 事実、樹海特有の草木の香りが漂っている。


 だが今、何故か迷路のような場所にいるのか。

 いや、確か自分は落下の最中、樹海のいたるところに黄色い柱が立っているのを見た。

 もしかしたらこの壁は、あの柱なのだろうか。


 しかし、目の前の壁は隙間なく進路を閉ざしている。

 もしかしたら自分が気を失っていた間も、黄色い波は姿を変え続けていたのだろうか。


 アキラは身体を触り、状態を確認する。

 かなりの速度で落下していたはずだが、どうやら動けはするようだ。

 森の木々やこの弾力性のある壁がある程度のクッションになったのか、はたまた日輪属性の回復スキルか。

 それは定かではないが、もし後者なら、他の面々は無事だろうか。

 落下は何とかしのげたとしても、ここは魔門の森。

 この黄色い壁すら、始まりに過ぎない異変かもしれない。


 そんな場所で、自分たちは、また―――


「ぐ」


 アキラは強く壁を叩いた。

 衝撃を吸い取るように呑み込まれたその拳を強く握り、顔を上げる。


 過ぎたことを悔やむな。

 今は全員無事でこの森から出ることを考えろ。


 アキラは歯を食いしばり、顔を上げた。


「…………、いや……、……いや」


 大声を出そうと思ったが、口を閉じる。

 壁を攻撃しようかと思ったが、剣を収める。


 正体不明の壁。

 今はただ通路のようになっているだけだが、刺激を与えると何が起こるか分かったものではない。

 今全員がこの壁の中にいると考えると、下手な動きは得策ではないだろう。

 まず、皆を探すことを最優先に行動しなければ。


「…………」


 アキラは太陽の位置を確認した。


 壁に遮られながら見えるその位置から、おぼろげにだが方向が分かる。

 他のみんなもこうして太陽が見えるなら、方向くらいは掴めているだろう。


 そしてその上で、どちらに進むか、だが。


「……」


 今すぐにでも逃げ出したい魔門の森の中、アキラはおそらく全員が向かうであろう、魔門の方向へと歩き出した。


 そして恐らくは、その方向に、“奴”もいる。

 上空から見た魔門とリイザス=ガーディランの距離はさほど離れていなかった。

 この黄色の壁が魔門の周囲まで展開しているのであれば、リイザスもこの迷路のどこかにいるということになる。


 だが、それでも逃げるなら方向はこちらだ。

 ラッキーの速度は全員が体感している。

 魔門まであと僅かというところまで樹海を進んできてしまっているのだ。

 樹海から出るためには、イオリと合流することが前提となる。


 アキラは黄色い壁に手を預け、ほぼ直角の道を曲がる。

 案の定、黄色い壁がずっと遠くへ続いていた。


 樹海とはまるで思えない、本当に迷路のような空間だった。

 ところどころほぼ直角の曲道があり、その先は、黄色の光でぼやけて見えない。

 空に浮かぶ太陽だけが、辛うじて方向を記している。


 この迷路を作り出したのは魔門なのか。あるいは、魔門から出てきた何かなのか。

 理解の範疇を超えた光景に、アキラは夢遊病者のような足取りで歩を進めた。


―――呆然とするな。


「……っ」


 グ、と足に力を籠め、神経を尖らせる。

 この迷路には仲間もいるが、リイザスもいる。いや、それ以前に魔門の森だ、何が出てくるか分からない。


 1秒だって油断をすることは許されない。

 黄色い光を押し返すように視線を走らせ、アキラは身体の細部に至るまで気を張り巡らせた。


 この壁は異常事態だが、今のところただそれだけだ。

 今最も危険なのは、この森にいることが分かっているリイザスだろう。


 奴に出遭わないように行動することは、生き残る上での必須条件だ。


「―――違う」


 意識の外から口が動いた。


 遭遇するわけにはいかない相手だが、遭遇しないと考えるとは楽観的過ぎる。

 リイザスもこの迷路の中にいると考えれば、自分たち8人が誰ひとりリイザスに遭遇せずに合流する必要があることになる。

 そんなことがはたして可能なのか。

 少ない希望に賭けることはいかにも美談だが、現実問題、それほど都合のいいことが起こるだろうか。

 可能だとすれば、少なくともリイザスの位置を全員が把握していなければならないのだろうが、この迷路でそれは事実上不可能だ。


 ならばせめて、リイザスの足止めくらいはしなければ全員生還の道はない。


「ち―――」


 アキラは必死にリイザスの位置を思い出す。


 魔門の右方に立っていた。

 当面の方向はこちらでいい。

 リイザスの脅威はあの距離からでも感じられた。

 この迷路の構造は分からないが、近づけば何らかの気配を感じられるだろう。


 こんな複雑な道でリイザスに出遭ってしまえば逃げることは叶わない。


 自分の力が通用するかは分からない。

 油断をすれば、身体中が震え出しそうだ。

 だけど、速度は緩めない。緩められない。


「―――、」


 どれほど歩き、どれほどの分岐路を曲がっただろう。


 遥か上空で感じた、吐き気を催すような嫌悪感が、何倍もの濃度で痛烈に正面からぶつけられた。

 身体中が燃え尽きたように呼吸が止まり、膝が力なく崩れる。

 前後左右から押し潰されて、骨格が歪んだように感じた。

 徹底的に打ちのめされた精神が崩壊し、前もろくに見えなくなっていく。


 そんな中、アキラは壊れたように笑った。

 この、理想的な状況に。


 いる。


 眼前の道をまっすぐ進めば、“それ”がいる。

 一歩進むごとに、身体中の肌がひりつき、鋭い刃物が矢のように降り注いでくるようだった。

 アキラは足取り軽やかに、前へ前へと進む。


 もしかしたら自分は狂ってしまったのかもしれない。

 そう自覚してもなお、アキラは笑う。


 戦闘に慣れ過ぎたのだろうか。

 どれだけの恐怖を覚えても、飛び込んでしまえば何も考えずに済むその空間が好きだった。

 結局のところ、頭ではとっくに分かっていたことだった。


 上手くリイザスに見つからずにこの森から出ることなど、夢物語だ。

 この樹海に落ちた時点で、自分がすることなど最初から決まっていた。


「―――久しぶりだな」


 自分のものとは思えないほどの低い声が出た。

 通路の先、ゆったりと進んでくる存在がいる。

 通るだけで、壁そのものが恐れおののくように避け、“その存在”の周囲は開けた空間のように姿を変えていた。

 迷路の存在を捻じ曲げ、黄金の鎧を軋ませて近寄ってくる。


 黄色に輝く壁が容易く塗り潰され、眼前に燃えるような赫い世界が広がっていた。

 そして、その世界の主は、足を止めた。


「貴様らの狙いは魔門破壊か。運が無いな。もしこの悪戯で貴様らを見失ったら、私が腹いせに魔門を破壊していたかもしれんのに」


 重く響く声だった。魔門の現象すら、悪戯扱いなのか。

 リイザスが立ち止まると、アキラの後方の壁すら歪み、委縮したように下がっていく。

 無機物かとも思えるその壁は、アキラよりもはるかに敏い行動を取っていた。

 今、この場総てが危険地帯なのだ。


 燃え盛る隕石を思わせる赫い貌を上げ、黒く塗り潰された瞳がアキラを捉えてくる。

 見るだけで対象を燃やし尽すような殺気は、身体中の血液を煮えたぎらせた。


「忘れていないぞ―――貴様のことは。本来ならば我が宝庫で迎えてやろうと思っていたのだがな」


 アキラは剣を抜いて応えた。

 頭の冷静な部分は燃やし尽くされたのかもしれない。


 この場には、“奴”と自分しかいない。

 リリルは向かってきてしまっているのだろうが、自分が1番乗りのようだ。何と幸運なことだろう。


「まあいい、問おう。貴様にも分かりやすく。私は魔門などに興味はない、貴様らの持つ秘石を渡せ。後は好きなようにするがいい」

「何で知っている」

「なに。総ての財を集めるための過程でな」


 異形との会話は、さほど違和感を生まなかった。まったく嬉しくないが、今までの経験が存分に発揮されているようだ。


 アキラは息を吸って、燃えた肺から熱風を吐き出した。

 そして睨みつける。


「リイザス=ガーディラン」


 旅を始めたばかりの頃。

 このアイルークで出逢った規格外の魔族。

 “財欲”を追求するその存在が、かつての制約を取り除いた状態で、今、目の前にいる。


「俺は秘石を持ってないし、渡す気もない」


 リイザスの眉がピクリと動いた。


 結局のところ、何を言おうが、何を渡そうが、相手は魔族だ。

 結果は知れている。


 それよりも、今ここで、リイザスを食い止めることが、全員の生存率を上げられると感じた。

 ならば挑もう。

 万が一、億が一、太刀打ちできない相手だとしても。


「計画通りなんだよ。秘石で魔門を破壊する間―――俺は雑魚狩りだ」

「ほう」


 リイザスはにぃと笑う。

 その様子に違和感を覚えるも、アキラは剣を構えた。


「ならば試してみよ。魔門など物の数にも入らん―――魔王様直属の力をな」


―――***―――


「あら、目が覚めた?」

「……アラ……スールさん?」

「ええそうよ。お目覚めね」


 エリサス=アーティが目を覚ますと、にっこりと笑う女性が目に飛び込んできた。

 びくりとしたが、身体中に鈍い痛みが走り、すぐには動けない。

 アラスールは顔を離し、エリーの肩に手を当ててくる。

 ひんやりとした心地のいい魔力を感じた。どうやら治療してくれているようだ。


「……ここは?」

「樹海の中よ。ま、最早樹海でもなんでもないけど」

「?」


 もがきながら身体を起こして周囲を見渡したら、黄色い壁が目に飛び込んできた。

 夢でも見ているのだろうか。

 だが生憎と、身体中に走る鈍い痛みが現実だと告げてくる。


「ちょっと、まだ動いちゃだめよ。骨は折れてなかったみたいだけど、どれだけの高さから落ちたと思ってるの」

「え……、あ、そうだ、あたしたち」

「そう。残念ながら作戦は大失敗ね。活動可能時間なんてとっくの昔に超えちゃったわ」


 エリーは顔を振り、意識を覚ます。

 だが覚ましてなお、思考が追いつかない。

 赫い球体に黄色い森。一生分の衝撃を同時に受けたような感覚だった。

 ただ近づいただけで理解の範疇を軽々しく超えてしまった。

 魔門を正直軽視していたかもしれない。


「他のみんなは?」

「さあね……。壁の向こうにいるかもしれないんだけど、分からないわ」


 前後は壁に挟まれ、ずっと向こうに続いている。大樹海に道ができていた。


 エリーは立ち上がって壁に手を触れてみた。

 妙な弾力がある。

 魔力色を見るに、金曜属性の魔術なのだろうが、こんなものは当然見たことが無い。


「え……弾力?」

「そう、柔らかいのよこの壁」


 金曜属性といえば硬度が特徴的だ。

 だが、そのはずなのに、目の前の壁は押せば僅かに沈む。


 立て続けに数多の現象に巻き込まれたことも手伝って、自分の中の常識が崩れていくのを感じた。


「壁……少しざらついているわね。それに押しても多少は沈むけど押し切れない。いくつもの細い魔力を編み込んでいるのかしら。だとすれば継ぎ目に部分的に弱いところがありそうね。崩せるかも」


 隣で同じように壁に手を触れていたアラスールは静かに呟いた。

 流石に魔導士だ。

 状況は最悪だが、彼女と共にいられるというのは心強い。


「アラスールさん。助けてくれてありがとうございます。早くみんなを探しに行きましょう」

「何言ってるのよ、まずはエリーちゃんの怪我治さないと。そんなんじゃまともに歩けないわ」

「え、でももう治療してもらって……っ」


 歩き出そうとした足がガクリと崩れた。

 危なく倒れ込みそうなところをアラスールが支えてくる。


「え、あれ、なんで……?」

「何でも何も、まだ治療中よ」

「あたし、そんなに酷いケガしてたんですか?」

「酷いも酷くないも、そんなにすぐ治らないわよ」

「あ……れ……?」


 思考が上手くまとまらない。

 アラスールの言う通り、エリーは大人しく座り込んだ。


「アラスールさん、この後どうしますか?」

「まあ、作戦は失敗したから、生き残ることを考えましょう。とにかくイオリちゃんを見つけるわ。彼女がいなければ、明日になってもこの森から出れないわ」


 流れるようなアラスールの言葉に、エリーは舌を巻いた。

 この状況が、彼女にとっても想定外であることは間違いない。

 それなのに、アラスールは的確に状況を把握している。

 エリーの夢の、さらにその先に存在する魔導士は、自分たちとはまるで完成度が違うように思えた。


「もう大丈夫です、行きましょう」

「そう?」


 まだまだ身体は軋むが、黄色い壁に囲まれていては落ち着けない。


「さて、どこへ行きたい?」

「どこへ……って、どういう?」

「ああ、イオリちゃんに合流するために、ってこと。エリーちゃんの方が、こういうときにイオリちゃんが何を考えるか分かるかなって」

「……あたしにはイオリさんの考えは分からないですけど、合流するならみんな魔門の方へ行くと思いますよ」


 思ったままを口にした。

 あの面々が散り散りになったとしたら、全員が魔門へ向かって歩き出すだろう。

 アラスールは、正解を導いた生徒に向けるような微笑みを見せて、太陽の位置を確認した。


「こっちね」

「はい」


 黄色い壁に挟まれた通路を進む。

 落ちている木の葉も金でできているように輝いて、幻想的な発光をする迷路は、まるで距離感がつかめなかった。


「まあ、でも、あなたたちには悪いけど、この森に入ったのがこの面々で良かったわ」


 アラスールはぽつりと呟いた。


「だって、アイルークの魔術師たちじゃ、もう収集つかないようなパニックになってたわ。合流なんて不可能だったと思う」

「そうなん……ですか?」


 自分の希望の就職先だから、少し遠慮がちに言った。

 だが事実、そうかもしれない。

 もし自分があのまま魔術師になり、アイルークで日々を過ごしていて、突然こんな状況に陥ったら、その場で座り込み続けるか必死に魔門から離れようとしていたかもしれない。


「こういう風に逸れたら、まず合流を考える。でも、目印なんてない樹海じゃ、どうしようもない。だから、例えそれがどれほど危険なことでも、唯一の目印の魔門を目指す。私はそう考えるわ」


 エリーの思考もそれに近い。

 だが、他の皆はどうだろう。

 漠然と、魔門へ向かっているような気はする。だが、それぞれそこへ至る思考は違う気がした。


「魔門まで着いたらどうするんですか?」

「そうね、他の子たちが全員無事と仮定するなら、可能な限り静かに大人しく集まるのを待つわ。もちろん、意味があるか分からないけど魔門からある程度の距離を取ってね。リイザス=ガーディランに見つからないことが最優先事項だけど」


 機械的な言葉に、エリーの胸が締め付けられるように痛んだ。

 全員が無事。

 それすらすでに仮定なのだ。

 必死に意識を向けないようにしていた恐怖が、身体を揺さぶった。


 この森には、魔門にも加え、あのリイザス=ガーディランという魔族もいるのだ。

 最早生物が存在できる次元ではない。

 あの世界に名だたる“死地”とも引けを取らない領域に、自分たちは散り散りになって落とされているのだ。


「あ、ごめんね、怖がらせるようなこと言って」


 迷路を迷いなく進むアラスールは、背後のエリーの様子を感じ取ったようだ。

 ぎくりとして背筋を正したが、アラスールは気にもしない様子で足を進める。


「役職柄、最悪の事態を考えるべきなのよ、私は。魔門の近くで待機してイオリちゃんと合流したら、どれくらい待つべきなのか、とか。そもそもイオリちゃんと合流できなかった場合どうするべきなのか、とか」


 足取り軽く進んでいるアラスールからは、そんなことを考えている様子は感じ取れなかった。

 思考を止めない。彼女の言葉だ。

 自分が不安に押し潰されそうになっているときにも、魔導士はそう在って、目の前にいる。


「でもね、良くないことだけど、実は私、あんまり心配してないのよ」

「?」

「なんでかな、すでに成功率はゼロだって頭では分かっているのに、何の問題もなくこの樹海から生還できるし、もしかしたら魔門だって破壊できちゃうかもね」


 状況がまるで分っていない子供のようなことを言う。

 だけどアラスールは否定せず、くるりと振り返って微笑んだ。


「なんかね。その顔見てると思っちゃうのよ。確率なんかじゃ測れない。不可能なんて存在しないって」

「?」


―――***―――


「あんたクジ運悪いわね」

「運の悪さは自覚しているよ」


 ミツルギ=サクラは、この樹海の中で、自分が最も安全な場所にいることを自覚していた。


 召喚獣の背から一直線に向かった樹海が突如として黄色に輝き、変貌し、巨大な迷路のような空間に変わったのはつい先ほど。

 身構えていたものの、流石に反応しきれない超常現象が正常な思考を阻害した。

 結果、空中で面々が散り散りになったときも、辛うじて近くの人に近づくことしかできず、結果迷路に呑み込まれてしまった。


 サクは、足場改善の魔術が使用できる。

 魔力の消費は大きいが、空中に足場を生成することが可能だ。

 全員は無理でも、もしかしたらもう少し多くの人を安全に樹海に着地させることができたかもしれないのだが、結果、たったふたりだけしか助けることができなかった。


 問題なのは、その助けられたふたりが、別段自分の手助けが必要そうでない存在だったことなのだが。


「まあ、よりにもよってこの面々とはね。誰か、他の奴らがどうなったか見た?」

「僕が目で追えたのはアキラと……エリサスかな。ふたりとも無事そうだった。エリサスはアラスールが近くにいたし」


 ホンジョウ=イオリ、エレナ=ファンツェルン。

 空中で近づいて、慌てて魔術を発動させたときには、ふたりは冷静に着陸地点を見定めていたように思える。


 恐らくこの場にいる3人は、ひとりでも問題なくこの樹海に着地できていただろう。


「はあ。それで、従者ちゃんは?」

「私も辛うじて見えたのはアキラだけだ。あとは目の前のふたり」

「ったく、どうにでもなりそうなアキラ君の様子なんてどうでもいいでしょうが。何で皆してそこ見てんのよ」


 見た目に反して荒々しく毒づくと、エレナは腹いせのように黄色の壁に蹴りを入れた。

 エレナもアキラの様子は知っていたのだろうか。

 聞いたら面倒くさいことになりそうだったので、サクはエレナに攻撃された黄色の壁を見た。


 妙に弾力がある。

 黄色ということは、自分と同じ金曜属性の魔術なのだろうが、まるで正体が掴めない。

 金曜属性の特長にも反しているし、何より規模が異常だ。

 以前シリスティアで魔導士から聞いた、“詠唱”という奴なのだろうか。

 魔門が起こした超常現象なのか、魔門から出てきた何かが放った魔術なのか。

 いずれにせよ、自分の知識量では考察を進めることは難しいようだった。


「で、分からないのはあのガキと勇者ちゃんね。勇者ちゃんは何とかなるでしょ、仮にも、なんだし。問題はあのガキね、ペチャっと潰れてんじゃないでしょうね」


 ない話ではない。

 だからサクは先ほどから耳に意識を集中させていた。

 樹海の迷路は不気味なほど静まり返っていた。


「アキラとアルティアは下手に騒ぎを起こしていないかな。アイルークとは言え魔門の森だ。何が発端となって別の現象が起こるか分かったもんじゃないし」

「あのガキはそこまで馬鹿じゃないでしょ。むしろアキラ君でしょ、やりかねないのは。騒ごうもんならあの魔族だって寄ってくるわ」


 そう言いながら、エレナはまたも壁を蹴っていた。

 刺激を与えると何が起こるか分からないのだから、大人しくしていて欲しいのだが、苛立つ彼女に声をかけること憚られた。


 今この樹海には、分かりやすいほどの危険がふたつある。

 魔門は元より、遠方に見えたリイザス=ガーディラン。


 以前この地で出遭ってしまった魔族が、再び現れたのだ。

 これもアキラの数奇な運命を引き寄せる特性によるものか。


 だとしたら、彼がこの迷路を進んだら―――


「これからどうする」


 結論を急ぐように、サクは切り出した。

 嫌な汗が頬を伝う。

 この迷路で偶然出会わない限り、アキラはひとりだ。

 何が彼の身に降りかかっているか分かったものではない。


 聞くと、ふたりは当然のような顔をしてこう言った。


「魔門へ向かおう」

「魔門へ行くわ」


 やはり、この場所が最も安全な地点だ。

 迷いのないその答えに、サクも頷く。


「この樹海から帰還するためには、ラッキーの飛行が前提だ。だけど、この迷路のような細い道じゃ、ラッキーを飛行できるサイズで召喚できない。でも、これが魔門の“攻撃”なら、むしろ魔門の周囲は開けているかもしれない。危険だけど、この樹海、この迷路の中にいること自体、すでに危険なんだ。だったらいっそ、魔門へ近づいた方が安全だろう。魔門を目指す人が他にもいるだろうしね、合流できる」

「この迷路、蹴った感じやっぱりなんかの魔術っぽいのよね。魔法かも。で、あのリイザスとかいう魔族は火曜属性なんでしょ? じゃあ魔門からなんかが出てきて魔術でも使ったんじゃないかって思うわけよ。それならそいつをぶっ殺せば、このうざったい壁ともおさらばってことでしょ。ちまちま迷路を駆けずり回って探すより、目障りなのを無くしてから探した方が楽じゃない、合流できる」


 ふたりの見解を聞いて、サクは眩暈がした。

 結論は同じでもそこに至る思考が違うというのはよくあることだが、今具体例を見た気がする。

 特にエレナが酷い。


「エレナ。とりあえずは魔門を目指すけど、下手に刺激することだけはしないでくれ」

「分かってるわよ。私だってやばそうなら大人しくしててあげる。でも、全員集まるまで悠長に待つなんてことができるといいわね」


 エレナは肩を軽く鳴らし、イオリはため息を吐き出した。

 頼もしさと恐ろしさを覚えたが、サクはそれ以上の懸念事項を口にする。


「それで、リイザス=ガーディランはどうする」

「どうするも何も、火曜属性でしょ? この壁と関係ないじゃない、無視よ無視」


 エレナは魔族を軽々しく扱うように手を振ったが、その奥、イオリの表情が暗くなっていた。

 いつしか握っていた拳が、サクの視線に気づいて解かれる。


「……あ、ああ。そうだね。遭遇しないことを祈るばかりだ。こんな場所でリイザスに出遭ってしまったら、流石に生還できない」


 ふと、サクの脳裏に、あの赫に染まる空の下で見た、リリル=サース=ロングトンの横顔が蘇った。

 彼女はまっすぐに、リイザスを見ていたように思える。

 そしてその光景を、あの男も見ていた。


「……イオリさん」

「―――駄目だよ」


 低く、そして凍えるほど冷たい声だった。


「エレナの言う通り、リイザスを相手にしたら命がいくつあっても足りない。今僕たちが考えるべきは、ひとりでも多くこの樹海から離脱することだ」


 酷く悲観的な表現だと思えた。

 すでに犠牲を出すことを見据えているような言葉だった。


「……だが、リイザスは“財欲”の魔族と聞く。奴の狙いがこの秘石なら、私たちを追ってくる。いずれ遭遇してしまうかもしれない」

「そうだ。だから、今は一刻も早く、ラッキーが召喚可能な場所へ移動することが不可欠なんだよ」


 イオリの視線を受けただけで、サクは一歩後ずさりした。

 知的で、冷静で、決断力があるイオリだが、今、欠伸をしているエレナより、彼女が信用できなくなった。

 もちろん、彼女の言っていることは正しい。


 だがそこには、事実しかない。


 今まで経験してきた旅では、不可能と思えるようなことを達成してきている。

 そうして培われた感覚が、真っ向から否定された気がした。

 カラクリのように正確なイオリの言葉は、自分が漠然と感じている仲間たちへの信頼や信用が微塵にも存在しない、事実だけで形作られていた。


「ま、冷静になりなさいな。とにかく魔門へ行くわよ。どうせそっちの方が人集まるでしょ」


 エレナがそう言って歩き出した。

 大仰に見える所作だったが、彼女に隙は見当たらない。態度からは分からないが、彼女も警戒しているようだ。


 後を追いながら、サクは言われた通りに冷静になる。

 自分は危なかったのかもしれない。

 イオリがいなければ、自分が出した結論は、恐らくリイザス=ガーディランを目指す、だっただろう。

 お目付け役がいて、自分の命は救われた。


 だから、祈る。

 この樹海にひとり落とされたあの男が、自分たちと同じく、魔門へ向かってくれていることを。


―――***―――


「キャラ・ライトグリーン」


 赫に染まった迷路の中、アキラはそれをさらに塗り潰さんとするように、オレンジの魔力を身体中に張り巡らせた。

 同時、剣にも魔力を際限なく注ぎ込む。


「―――ほう。詠唱を覚えたか」


 黄金の鎧をまとった赫の魔族が嗤う。

 アキラはリイザスを見て、思考がクリアになっていくのを感じた。


 “詠唱”という言葉を最初に聞いたのは、確か、リイザスからだ。

 今発動している身体能力強化の魔術を発現させたのも、リイザスとの戦いの中だ。

 そして、今、あらん限りの魔力を込めているこの剣も、リイザスの宝庫から拝借したものだ。


 この魔族とは妙な縁がある。


 この世界に落とされたばかりの頃に挑んだこの魔族には、まるで歯が立たなかったのを思い出す。

 今はどうだろう。


 だが、図ることはしない。


 アキラはあのタンガタンザの熱戦で、“線”を超えたその先に存在する敵と剣を交えたことがある。

 それゆえに、知っている。

 魔族という存在が、人と比して、体躯も、魔力も、全てが別次元で構成されている紛れもない化物だということを。


 だから、自分に取りうる選択肢はひとつだけ。

 自分の持てる最上の破壊を、この初撃に込めることだ。


 論理崩壊。


「―――む」


 総ての“破壊”が整った。

 ギッ、と睨むと、リイザスは顔をしかめる。

 何かを感じ取られたようだ。


 だが、もう遅い。


 ダンッ!! と大地を踏み砕き、アキラは魔族へ突撃する。


「キャ!! ラ!!」

「む―――ぅぅぅううううう……!!」


 突撃の最中、掲げたリイザスの腕から、膨大な魔力の波動が迸った。

 その余波だけで、アキラは正面から暴風を浴びせかけられる。


 だが、それでもこの突撃は止まらない。

 リイザスの初動が遅れた今が好機。


 アキラの思考はひとつに絞られる。

 論理を超えた破壊の一撃を、あの魔族に叩き込む。


「スカーレット!!」


 この世のものとは思えない爆音が響いた。

 振り下ろしたアキラの剣は、リイザスが防ぐように出した腕の鎧を容易く砕き、赫も、黄色も、日輪の色で塗り潰す。

 魔門をも超す天地鳴動の大爆撃に、アキラの身体は木の葉のように吹き飛ばされる。


 直後、衝突。


 背中が強く黄色の壁に打ち付けられ、アキラはようやく我に返った。

 自分の魔術を抑え込めなかったのは久方ぶりだ。


 顔を上げた先にある爆心地には最早何も存在せず、オレンジの魔力が稲光のように弾けては消えていた。


「は……は……」


 短く息を切って、アキラは立ち上がった。

 破壊の魔術は会心の出来だ。


 生物に限らず、万物の存在を許さぬ破壊が、今、確かにそこに在った。


 “だから、分かる”―――この感覚は、経験済みだ。


 人の理をあざ笑う、存在そのものが論理のその先を現す、魔族。

 タンガタンザでのあの激戦でも、この感覚は確かに覚えた。

 線を越えた先、非論理の世界で、同じ次元に存在する敵と剣を交えた言葉にできない不思議な感覚が告げる。


「ち―――、通用はしたみたいだが、足りねぇか」


 今の全身全霊の一撃は、リイザス=ガーディランの撃破には届かなかった。


「ぐ―――ふぅ」


 爆心地の先。

 アキラと同じように壁まで吹き飛ばされた存在が蠢いた。

 上半身の鎧は砕け、赫に染まった岩石のような肉体を晒し、漆黒に染まったその瞳をアキラに向けてくる。


「防ぎきれんとはな」


 リイザスは立ち上がる。

 そして、黄金の鎧の残骸を、紙でも引きちぎるように脱ぎ捨てた。

 両腕にはアキラの斬撃を受けた惨たらしい傷を負っているが、魔族の肉体にすれば、些細な障害なのだろう。

 あの爆撃から生還したリイザスは、嗤っていた。


「……」


 アキラは強い違和感に捉われる。

 こいつは本当にあのリイザス=ガーディランなのか。


 アキラの想像の中にいたこの魔族は、財を要求し、拒めば激昂する“財欲”の化身だ。

 だが何故今、これほどまでに冷静―――ともすれば温厚なのか。

 嵐の前の静けさのような、言い知れぬ恐怖を覚え、アキラは剣を握り直した。

 理由は分からないが、今の内だ。もう一度、いや、何度でも破壊を狙い続けるしかない。


「―――ヒダマリ=アキラ」


 リイザスの声は、耳によく響いた。


「私が何故、“財”を求めるか知っているか」

「何を言っている……?」


 その声色に、アキラは気を削がれ、眉を潜める。

 リイザスの声は震えていた。


「“財”は、すべての存在が求めるからだ。総ての欲の根源だとは思わんか」


―――耳を貸すな、構えろ。


 アキラは剣を握り直す。

 リイザスの言葉に惑わされず、冷静に隙を探せ。

 アキラは先の衝撃で痺れた手先の感覚を探り、リイザスの一挙手一投足をその目でとらえた。


「否定するものもいるだろうが、なに、発想の転換だ。例えば今、貴様が私と相まみえているのも、秘石という財を守るためであろう」

「……それだけじゃねぇよ」


 アキラは思わず応えた。

 リイザスと最初に出遭ったあの赫の部屋。

 そこでもリイザスは、教えを説くように、妙な演説をしていた。


「だが、思考を進めれば辿り着く。すべての行動、感情は、財へ繋がると。貴様にとってそれは秘石か? 仲間か? それは構わん。財というものは、それそのものが美しい。それが真理でなくて何と言う」

「何の話をしていやがる」


 リイザスはゆったりと構え、アキラをまっすぐに見据えてきた。


「ヒダマリ=アキラ。お前も幾度か魔族に遭ったことがあるであろう。“欲持ち”の魔族は好むのだよ。妙な遠慮をする人間とは違い、自らの欲を口に出すのがな」


 サーシャ=クロライン、ガバイト。そして、アグリナオルス=ノア。

 この“三週目”でアキラが出遭った“欲持ち”の魔族たち。

 それらは確かに、あの港町で出遭った“鬼”とは異なる何かを感じた。


 “欲持ち”とは―――なんなのか。


「そしてそうすることで見定めるのだ―――自らの欲の妨げになる相手かどうかな。そして敵とみなした相手は人間であろうが同種であろうが殲滅する。太古よりだ。生き続けている魔族は、それだけで、いやそれこそが、強者である証なのだ」


 魔界で何が起こっているかは知らないが、想像通り、自然淘汰に晒される過酷な環境なのだろうか。

 言葉を続けるリイザスから覚える違和感は依然として変わらない。


「だからこそ、私は総ての行動理念である―――財を求めると口に出す」


 ビッ、と何かが頬を割いた。

 身体中が割れるような軋みを上げる。


 分かってしまったような気がした。

 リイザスから覚え続けているこの違和感。

 それは、財を拒んだアキラに対し、リイザスが覚えている感情の一端を理解してしまっていたからだった。


「財を守ろうとする者は、自らの財よりも大きな力を得ているものだ。あるいは私の問いに首を垂れる者すら、奪い返そうと力を求める。それは、魔族であろうと人間であろうと変わらないのだと私は知っている―――太古より、そうした者と幾度となく拳を交えてきた」


 財を得ようとする力。財を守ろうとする力。

 財の定義はそれぞれだろう。だがこの世界において、財のための力は、他者を淘汰するために得る力は変わらない。

 リイザスの“欲”は、その力と衝突することにもなる。


 リイザスは、自らの欲を拒んだアキラに対して―――歓喜している。


「ヒダマリ=アキラ。現に貴様はそうなった。私が課した死を乗り越え、そこまで上り詰めたのだ。魔王様に従ったのはやはり正解だった、やはり、こうした相手は、魔族だけに限らんのだ……!! 」


 気づけば握った剣が強い熱を持っている。

 アキラの爆撃ですらしのぎ切った魔力の原石の剣が、今、ただそこに漂う空気だけで熱し切られているようだった。


「見込み違いであれば財だけ奪うつもりであったが、“線”を越えたのであれば最早言葉は要らんであろう。今!! ここで!! その力を存分に振るうがいい……!!」


 財を求めるときとは違い。

 財を拒まれたときとは違い。

 比較にならないほど感情を露わにしたリイザスは、存在するだけで周囲を灼熱地獄に変えていく。

 黄色の迷路は焼けただれたようにしなだれ、世界が塗り替えられていく。


 ようやく分かった。

 リイザスが、今、求めているものは―――


「さあ、戦闘を再開するぞ。自らの“財”を守るために、このリイザス=ガーディランとの死合いを乗り越えてみせよ……!!」

「何が“財欲”だ―――“戦闘欲”の間違いだろ……!!」


 臨界点間近だった空気の熱は爆発に変わった。

 蒸気に包まれ視界が塞がる。

 アキラは思わず身を屈め、そして即座に背後に飛んだ。


「そうだ、よく動いた」

「づ―――」


 蒸気の中、眼前に突如として赫の巨体が現れる。

 振り上げられた右腕には最早黒にさえ見る赫の魔力を纏い、下がったアキラに構わずその腕を地面に振り下ろす。


「―――ぶっ」


 音は聞こえなかった。

 分かったのは目の前の地面に赫の魔力を打ち付けられ、直後自分の身体が木の葉のように吹き飛んだことだった。


 樹海中に轟いたであろう大地の揺れは、壁を軋ませ、いたるところに亀裂が走っていく。

 頼りなくなった壁に強く背中を打ち付けるも、アキラは辛うじて立ち上がった。


「ち―――」


 今の爆撃は、すでに自分の限界火力を超えていた。

 割れるように痛む頭を必死に覚醒させ、アキラは蒸気の中のリイザスを探る。


 リイザス=ガーディランは火曜属性。

 破壊を司る攻撃的な属性だ。

 ただ腕を振り下ろしただけで、アキラの力など軽々しく超える魔族が今、破壊の力を纏ってすぐそばにいる。

 僅かでも判断を誤れば、身体の欠片すら残らない。


「―――キャラ・ライトグリーン!!」


 蒸気の中、一瞬だけ見えた赫の身体にアキラは突撃した。

 火曜属性に対して後手に回っても結果は知れている。

 危険地帯に飛び込むことに対する危機感は、とっくの昔に死んでいた。


「!!」

「キャラ・スカーレット!!」

「ノヴァグランテ!!」


 アキラが振り下ろした剣に対し、リイザスは拳を打ち出してきた。

 交わる剣と拳。

 暴風が巻き起こり、蒸気が一気に吹き飛ばされる。

 再び爆音かと身構えるも、剣の爆撃は、その拳に吸い込まれるように抑え込まれた。


「いいぞ、ヒダマリ=アキラ。もっと来い。お前の“財”を守るためだ」

「はっ、はっ、はっ、」


 黒く塗り潰された瞳に睨まれ、押し切れないと判断したアキラは、即座に下がって距離を取る。

 この技の威力は初撃でリイザスも把握しているはずだ。

 だが、奴は迷わず相殺を選んできた。

 火曜属性には、破壊の他に、その破壊から自らを守る抑制という特徴もある。


 不意打ち紛いの攻撃であれば初撃のように傷を負わせることもできるようだが、臨戦態勢のリイザスに対し、破壊の攻撃は効果が無いようだった。


 ならば。


「ふん。アラレクシュット!!」

「な―――」


 アキラが思考を進める前に、リイザスは次の手を放ってきた。

 眼前いっぱいに広がる複数の赫の球体。


 空でも見た爆撃の魔術が、アキラひとりを目掛けて放たれる。


「キャラ・グレー」

「―――ほう」


 迫った球体を前に、アキラは即座に土曜属性の再現を行う。

 複数個同時に迫ってきた球体を、剣で迷わず切り裂いた。


 土曜属性には魔術を抑え込む特徴がある。

 破壊とはまた違ったアキラの攻撃方法は、赫の魔術を発動させずに背後にやり過ごすことができる。


「器用なものだ。全能の日輪とはよく言ったものだな」


 球体を凌ぎ、リイザスに再び突撃したアキラは歯噛みした。

 今の魔術は、身を守るためには見せたくはなかった。


 数度剣を交えただけで分かる。

 リイザス=ガーディランには、正面から挑んでも勝ち目はない。

 不意を突ける攻撃方法を、ひとつ失ってしまった。


 ゆえに、突撃する。

 これ以上こちらの手の内を知られては、本当に勝ち目を失ってしまう。


 強い。

 分かっていたはずのことだが、魔族の力とはここまでなのか。

 攻撃は通用せず、敵の攻撃はまともに受ければ命を落とす。

 自分は、論理のその先の世界に踏み込むことができる。

 だが、目の前の敵はその“線”の先、遥か彼方に座しているように思えた。


 感じてしまう。

 死力を尽くして挑むアキラに対し、リイザスは、まだ小手先の戦いしかしていないと。


 自分の力は通用しない。


「キャラ・ス―――づ、キャラ・ライトグリーン!!」

「スーパーノヴァ!!」


 アキラの突撃に対し、リイザスは今度は迎撃を狙ってきた。

 真正面に打ち出された赫の拳は、それだけで、周囲の音を奪い去る。触れたらどうなるかなど分かりきっていた。


 辛うじて回避するが、急な動きに足がまともに動かない。

 だが、リイザスは、すでに次の拳を振り上げていた。

 見えているのに、アキラはまともに動けなかった。


 ドクリ、と時が止まる。


 拳を振り下ろさんとするリイザスの動きが、ゆっくりと見える。

 壁の動きや風の流れすら、今のアキラには細部に渡って感じられた。


 これは―――“刻”だ。


「―――来た」


 自分の危機には決まって訪れる、全能の世界。

 そこでは自分の思考だけが正常な時を歩むことを許され、無限の選択肢が広がっていく。

 今まで幾度となく救われてきた、自分だけの時間。


 考えろ。

 今、リイザスの攻撃から逃れる方法は何か。


 時は緩やかに流れる。


 思いつけ。

 今、リイザスに対抗する手段を。


 その破壊の拳は、すでに眼前に迫ってきている。


 だが。


「な」


 頭の中でけたたましい警告音が鳴り響いた。

 目の前が赤く染まる。

 取り得る選択肢を総て考慮した結果、分かってしまった。


 手段が無い。


 リイザスのことも理解してしまった。この魔族は、アキラの経験など比較にもならない戦場を潜り抜けてきている。

 こと戦闘において、この魔族に小細工など通じない。

 この一撃を回避しても、2手目3手目で詰んでいる。


 総てが分かった。

 ヒダマリ=アキラは、リイザス=ガーディランには対抗できない。


「よもや」


 ほとんど防衛本能のみで、剣を構えたアキラに対し、リイザスは囁いた。


「私の攻撃を、“受けられる”とでも思っているのか?」


 感覚は消えた。

 魔族の拳が放たれたと思った瞬間、目の前が白くなる。


 振動だけが感じられた。

 今まで生きてきた中で、当然に感じられていた自分の身体の感覚が根こそぎ奪われる。


 何が起きたかすら分からなかった。


「悪くはなかったが、まだ早すぎたか」


 何かが聞こえた。


「まあいい、貴様の財を奪いに行こうか。貴様の仲間もある程度はやれるのだろうしな―――む」


 音が聞こえる。言葉かもしれない。


「ほう、まさかと言っておこう。人の身も砕けんとは、少し自尊心を傷つけられたな」


 もしかしたら、自分は立っているのだろうか。

 右手からは何の感触も感じない。剣を離してしまったのだろうか。

 反射的にそちらに意識を向けると、小さな衝撃。

 膝が砕けて座り込んでしまったのかもしれない。


「だが、そこまでか」


 ようやく、視界が戻ってくる。

 リイザスの魔力のせいか、自分の血のせいかは分からないが、視界がすべて不気味な赤に染まっていた。

 自分は案の定、壁まで吹き飛ばされていたようだ。

 身体中の感覚が無い。動かすことができない。

 爆心地に立つリイザスを見上げながら、アキラは必死に身体へ意識をつなげようとした。


「だが、私は嬉しいぞ、ヒダマリ=アキラ。貴様はまた、これをきっかけに力を増すのであろう。財を奪われた者は、心を失うか力を増すかだ。貴様が力を増すことを、私は望む」


 何を言っている。

 リイザスは、自分に止めを刺すつもりが無いのだろうか。

 そうすることで、再び殺し合いをしようというのか。

 どうやら自分は、今命を奪われないらしい。


 だが、今自分が奪われる財とは何だ。

 それは、彼女たちのことだろうか。


「貴様が勇者として再び私の前に立つ日を願う」

「お―――い」


 身体は動かない。

 剣を握ることもできないだろう。

 だが、そんな勘違いをしてもらっては困る。


「締めようと……してんじゃねぇよ」


 手探りで、剣を探す。

 脳が指令を飛ばした手が動いているかも分からない。


 リイザス=ガーディランは正真正銘の化け物だった。

 “知恵持ち”や“言葉持ち”の魔物など、あるいは魔門すら、確かに物の数にも入らない。

 世界の魔族という存在に対する認識すら、遥かに甘いものなのだと感じ取ってしまった。


 いずれ自分はそれを越えていけるようになるのだろう。

 旅を重ね、経験を積み、挫折して、それでも努力して。総てを出し切り、華々しく神話のページを飾った伝説たちのように。


 だが、自分の物語が、そんな悠長なものだと勘違いされては困る。


「次なんかねぇよ。今……ここで。お前を倒す」


 リイザスは、背を向けた。

 そして歩き出してしまう。


「再戦は近いかもしれんな」


―――動け。


 身体の感覚が少しだけ戻ってきた。

 痛覚は麻痺してくれているのか、激痛は昇ってこない。

 だが、動かない。

 歯を食いしばり、顔を上げても、ピクリとも前へ進んでくれなかった。


「くそ、行かせる……わけには……」

「はい、その通りです」


 誰かに、背中を抱えられた。


「ぇ」

「アキラさん、動かないでください。遅れてしまってすみません」


 リイザスの歩みが止まる。


 そして振り返ると、再び小さく笑みを浮かべた。

 アキラの身体を壁に預け、静かな瞳でリイザスを見据える参戦者に。


「貴様は。何と良き日だ。貴様にも用があったところだ」

「アキラさん、大丈夫ですか? すみません、私、治療が苦手でして」


 リリル=サース=ロングトン。

 樹海の空で分かれた彼女が今、目の前にいる。


―――止めろ。


「リ、リリル、逃げ、」

「問題ありません。お休みになっていてください」


 アキラの言葉を遮って、リリルは優しく微笑む。

 常軌を逸した化け物を前に、リリルは静かび一歩踏み出した。


「言ったじゃないですか。私がリイザス=ガーディランを撃破すると」

「ば」


 壁に預けられて、かえって身体が言うことを聞かなくなった。

 目の前の光景を、自分は静かに見ていることしかできない。

 その状況に、アキラは底知れぬ恐怖を覚えた。


 犠牲者の名前は―――


「リ、リル……」

「私のことなら大丈夫です」


 アキラの叫びに、リリルはゆったりと構えた。


「私は月輪属性です。でも、予知もできない、治療もできない、空だって飛べません」


 リリルの気配に、リイザスも構えた。

 リイザスの魔力が作り出すこの灼熱地獄に、別種の空気が舞い込んでくる。


「仲間もいません。明確な役割も無く、目の前のすべてに手を伸ばそうとして、中途半端な結果に終わることだって少なくありません―――ですが」


 ひんやりとしているようで、どこか寂しさを思させるその魔力は、目の前の少女から漂っていた。


「月輪の勇者の証は、“比類なき戦果”。私は、戦闘の世界でしか、自分の価値を証明できない」


 彼女の両手が銀に輝く。

 その小さな背中は、何にも増して大きく見えた。


「リイザス=ガーディランを撃破します。あなたは、魔門破壊最大の障害です」


 そのまっすぐな視線を受け、リイザスはやはり嗤う。


「最初から撃破が目的か。手間が省ける、挑んでくるがよい」


―――***―――


「しっ」

「……!!」


 アラスールと共に黄色の迷路を進んでいたエリーは、突如動きを止められた。

 身を強張らせて周囲を探り、びくりとする。

 息を殺している自分の気配が何よりも大きいことに気づいた。


「……あの」


 かすれ声のような小さな声を出すと、アラスールはピタリと壁に背を預け、気配を消し続ける。

 そして彼女の瞳は、微塵にも動かず目の前の曲がり角を捉えていた。


 黄色い迷路は、想像とは違い遥かに平穏だった。

 この迷路のどこかにあのリイザスや魔門があることを考えると生きた心地はしなかったが、魔族どころか魔物と出遭うことも無く、壁の黄色い光のせいで視力が落ちそうなことを覗けば、至って順調に進んでこられた。


 エリーは恐る恐る空を見上げる。

 そして、気づく。

 経過した時間を考えると、太陽の位置的に、ここは。


「着いた……みたいですね」

「……ええ」


 とはいえ、迷路のせいで距離感は狂っているかもしれない。

 また、あの角を曲がったらすぐまた曲がり角の可能性もある。

 だが、そんな楽観的なことは考えていないのか、アラスールはスカイブルーの秘石を取り出していた。


「攻撃するんですか?」

「馬鹿言わないで。これは最早護身用よ。全員揃っていないのにそんなことしたら、本当に生きて帰れないわよ」


 ならばこの場で待機ということか。

 エリーは身構えながらも遠くに見える曲がり角や背後に視線を走らせた。

 もし全員無事で、魔門を目指しているのであれば、この場で合流できるかもしれない。


「……ち。いる」


 アラスールが苦々しく呟いた。

 エリーは意味を尋ねなかった。


 やはり曲がり角の先は魔門なのだろう。


 アラスールは、そこに“何か”がいると言っている。

 それがリイザスなのか、あるいは、この黄色い迷路を作り出した主か。


 いずれにせよ、常識では測れない存在であることは間違いない。


 今、何をするべきか。


 敵の姿を確認するべきか、あるいはこのまま息を殺しておくべきか。


 考えても答えは出ないであろう。

 どちらも正解になり得るし、不正解にもなり得る。

 あるいは、正解の行動など既に存在していないかもしれない。


 エリーは意識して心を強く持つ。

 混乱している場合ではない。

 アラスールは言っていた、思考を止めるなと。

 思考を進め続けなければ、身体中が恐怖に支配されてしまいそうだった。


「どうします……」

「相手がこの迷路の主なら、私たちの場所は知られている。でも、こちらは相手の正体を見なきゃ始まらない。…………」


 アラスールはまくし立て、ちらりとエリーを見てきた。

 ぐ、と喉が鳴る音が聞こえる。


「やるか」

「はい」


 アラスールは息を吐き出し、鋭い動きで曲道を曲がっていった。

 エリーも反射的にアラスールを追う。


 そこは、迷路の出口だった。

 人工物のような黄色い壁は終わり、切り抜かれた樹海の一部が広がっている。


 いくつかの木々は倒れ、何かが腐敗したような臭いが漂う、その中央。

 明らかな異物が存在していた。


 大きさは人間程度。姿形も、人のように見える。

 だが、身体や顔に凹凸が無く、前後すら分からない。

 人の型を取った大きな人形が、樹海の中央に立っていた。


 色は、迷路の壁と同じ、イエロー。

 それは、樹海の中にあって、自然界の中にいてはならないもののように見えた。


「……あなた、言葉は分かる?」


 アラスールが嘲るように、未知の“それ”に声をかけた。

 異物への問いかけに慣れているのか、アラスールはうっすらと笑い、落ち着き払った様子で対峙する。

 が、ピリ、と毛色の違う空気を感じる。


 人の形をした、人ならざる者。

 魔門の森で、唯一樹海の形を保ったままの空間。

 日常と異常が交わった、形容しがたい匂い。

 エリーは、今更ではあるが異次元に迷い込んでしまったような錯覚を起こした。


 黄色い人形は動く気配が無い。


 だが、その、正体が分からない黄色い人形の足元。

 どす黒い不気味な煙が上がっていた。


 まさか、あれが。


「……アラスールさん、下手に刺激しない方が」

「発想が逆よエリーちゃん。まさかあなたまだ、“何もしなければ助かる”なんて場所にいると思っているの?」


 アラスールはこちらを一瞥もせずに黄色い人形をくまなく観察していた。

 エリーも倣って人形を見るが、やはり、動く気配が無い。

 何が起こるか分からない魔門。

 人形の色からしてこの迷路を作り出したのはこの存在なのだろうが、未だ動きを見せないこの人形は放っておいた方がいいようにも見える。

 だが、魔導士の判断は違うようだった。


「……ボクが」

「……!」


 びくりと身体が強張った。

 何の動作も見せない黄色い人形から、声が聞こえる。

 子供のように高い声だ。

 あるかどうかも分からない口は動かない。脳の中に直接響かせているような音だった。


「なんで迷路に出口を作ったと思う?」


 エリーたちが今まさに辿り着いた迷路の答え。

 だがそれは、大まかな方向さえ分かっていれば抜けられる程度の迷路だ、遅かれ早かれここには来ることができていただろう。

 しかしそうなると、魔門へ繋がる道に誘う必要はない。出口など作らず、閉じ込めてしまえば事足りるのだから。


「動くのが面倒だからだ。ここで待っていた方が、楽に終わると思ったからだ」


 所作の分からない黄色い人形。魔力を纏っているのか、その輪郭さえぼやけて見える。

 その物体はぼそぼそと、しかし脳に響く声で呟く。

 明らかに敵意を持っている自分たちを前にして、黄色い人形は静かに佇む。


 こいつは、なんだ。

 “言葉持ち”の魔物か。

 いや、まさか。


「驚いたよ。いきなり魔門に連れてこられて。おまけにリイザス=ガーディランもいるんだろ、何でボクが『守護者』に選ばれたんだか。いや、それが理由なのかもしれないね」


 ブツブツと呟き、黄色い人形は、ようやく動作を見せた。

 黄色い足で、黒い煙が噴き出している地面を撫でる。

 脱力したような所作だった。


「分かった、分かっているよ、やるよ。だから分かりやすくここへ向かってもらう道を作ったんだ。はあ、何でこんな面倒事に巻き込まれるんだ、今はそれどころじゃないのに」

「……誰と話しているのかしら」


 黄色い人形に、アラスールは怪訝な顔つきを向ける。

 黄色い人形は気づいた―――ような挙動をして―――ようやく、背筋を伸ばしてアラスールと向かい合った。


「別に、大したことじゃない。魔門は大きく分類すれば魔物でね、意思を持っている。誰が生み出したかは知らないけど、身の危険が迫ると魔界に突然現れるんだ。今回はボクが被害者ってわけだけど、無ければ無いで不便だから、“恩”は売っておこうと思ってね」


 未知の魔門に対し、黄色い人形は至極当然のことを言うような口調で続ける。


「ただし、リイザス=ガーディランは勘弁してくれるかな。まともにぶつかれば今後に差し支える。やるべきことが目前に迫っているんだ」


 魔門の煙が、主人に首を垂れる犬のように、妙に大人しくなったように見えた。


 黄色い人形は、人々が恐れる魔門を平然と従える存在なのだろう。

 ならば答えは、やはり、ひとつしかない。


「“魔族”……よね、あなた」


 張りつめた空気がさらに膨張した。

 アラスールが口にした単語は、覚悟していたが、魔門が起こす現象の中でも最悪の部類に入る。


「そういう君はアラスール=デミオンだね」

「……!」

「知っているよ君のことは、最近よく耳にする」

「どういうことよ」

「んん、そうだね、まあいいか」


 わざとらしい咳払い。

 違和感が強まる。黄色い人形の所作は、どこか演技染みていて、まるで人間の真似を必死にしようとしているカラクリのように思えた。


「ボクは『光の創め』のルゴール=フィル。ボクがするのもどうかと思うけど、宣言しよう」

「―――ひ、光の創めって」


 アラスールの目が見開かれた。

 ルゴールというらしい人形が、さらに背筋を伸ばす。

 いや、いつしか、身体自体も大きさを変えていた。


「『光の創め』は“参戦”する。これから去る者に言っても仕方がないことだけれどね」

「ち―――」


 その動きに誰も反応できなかった。

 軌跡さえ見えない速度で腕を突き出したアラスールは、詠唱も無しに砲弾のような魔術をルゴールへ放つ。

 着弾。遅れて、風割くような音が響いた。

 気づけば眼前のルゴールは、スカイブルーの軌跡を残し、遥か先まで吹き飛ばされている。


「エリーちゃん!! 下がってて、近づいちゃだめよ!!」


 ボッ、とアラスールの身体がスカイブルーに発光した。

 エリーは気づいた。アラスールが、迷わず魔力の秘石を使用していることに。


「シュリスロール!!」


 ルゴールは、樹海の隅、黄色い迷路の壁まで吹き飛ばされていた。

 アラスールは、迷わず大規模魔術を発動させる。

 身体中の光が前方に集まったと思った瞬間、塊となった魔力から、樹海ほどの太さの青い魔術が、ルゴール目掛けて幾重にも放たれた。


「―――ぃ」


 初撃の着弾から、振動と爆音が絶え間なく響く。

 エリーは思わず後ずさり、決して魔導士の攻撃範囲に踏み入らないように身を固める。

 打ち切ったのか、アラスールは前方に集まった魔力が小さくなると、即座にエリーの腕を掴んで離脱した。


「え、ちょ、アラスールさん!?」

「隠れるわ。見失うとは思えないけど、遮蔽物があった方がぼうっと立っているよりましでしょ」


 大規模魔術を放ったアラスールは、機敏な動きで木々の間に身体を滑り込ませる。

 そして、生存どころか原形を保てているかも怪しい爆撃の煙の向こうをじっと睨みつけた。


「……!!」


 直後、エリーたちが先ほどまで経っていた地面に黄色い矢のような魔術が突き刺さった。

 突き刺さったそれは、氷のようにどろりと解け、地面に溶け込むように消えていく。

 ルゴールは、生存しているようだ。


「―――っ」


 まるで展開についていけない。

 アラスールとは別の木々に身を潜ませ、エリーは拳を握り締めた。


 魔族戦を経験していないわけではない。

 だが、即座に秘石を使用したアラスールには、迷いというものが一切感じられなかった。

 その判断力の早さが、日常にいる者と常に異常にいる者の差なのか。


 戦闘に集中しろ。

 エリーは煙の向こうの気配を必死に探りながら、気力を取り戻す。


「アラスールさん、今の効かなかったんですか!?」

「効いちゃいるわよ、多少はね。でもあんなもんで撃破出来たら、世界中お花畑よ」


 アラスールが苦々し気に呟いた直後、煙の中から黄色い矢が四方八方に放たれた。

 エリーは慌てて地面に倒れ込み、頭上で鋭い斬撃音が響くのを聞いた。

 倒れてくる木を見もせずに、エリーは別の木々へ移動する。


 その直後、煙が張れ、変わらぬ様子で立つルゴールが現れた。


「よく避けたね。だけど大人しく死んで欲しい。これ以上騒ぎを起こしてリイザス=ガーディランに来られたら面倒臭いんだ」


 やはり、生きている。

 アラスールは多少は効果があったと言ったが、エリーの目にはルゴールには何ら負傷は見当たらなかった。


「―――ふ」


 エリーは短く息を吐き、ルゴールへ向かって駆け出した。

 はっきり分かったことは、相手には遠距離攻撃がある。

 だが、自分ができるのは近接戦だけだ。

 アラスールの攻撃だけでは効果がない以上、攻め手を増やすためにも接近する必要がある。


「……、そうか、もうひとりいたね」

「スーパーノヴァ!!」


 詰め寄った先、ルゴールの身体はいつしかエリーの倍ほどまでに膨らんでいた。

 かえって狙いやすくなった腹部に、煌々とスカーレットに輝く拳を放つ。


「……ぇ」


 ボッ!! と鈍い音が響いた。

 鋭くはなった拳は、確かにルゴールに届いている。

 だが、想像以上に衝撃が無い。

 見ればルゴールの腹部はエリーの拳を飲み込むように凹み、衝撃を逃がしているようだった。


「ああ、そういう狙いか、それは困るね」

「ぎ!?」


 ガッ!! と黄色い手に頭を掴まれた。

 そして無造作に腕が振り下ろされる。

 地面に頭から叩きつけられ、一瞬真っ白になった景色が戻ると、ルゴールが大地を蹴ったのが見えた。


「ち、」

「駄目だよアラスール。魔門は破壊させない」


 よろめきながら立ち上がると、魔門へ突撃していたアラスールの元へルゴールが高速で接近していく。

 アラスールは即座に反応し、離脱した。

 エリーが突進したのを見た直後、アラスールは魔門の破壊を狙ったようだ。


 木々に身を隠しながら、魔門の上に立つルゴールに魔術を放ってけん制しながら、アラスールはエリーに駆け寄ってきた。

 そして庇うように立つと、ルゴールを警戒しながら囁いた。


「エリーちゃん、大丈夫」

「……な、ん、とか」


 視界がぼやける。

 思考がまとまらない。

 だがそれでも何とか意識を覚醒させ続け、アラスールの隣でルゴールに構えた。


「……アラスールさん、魔門、破壊するんですか」

「ひとつの可能性よ。……モルオールで行われた魔門破壊。事後調査は酷く難航したらしいわ。何せ、魔界から出現したと思しき“事象”が何ひとつ残っていなかったんだから」

「それって、」

「魔門が起こす“事象”は、召喚獣と近しい事象があるのかもしれないってのが仮説として立てられたわ」

「つまり、魔門を破壊できれば、あのルゴールとかいう魔族も消滅するってことですか?」


 リロックストーンという、魔族が用いるマジックアイテムをエリーは知っている。

 遠方に転移させる力を持つ道具だが、リロックストーンが砕かれると転移先から強制的に戻されることになる。

 だが、リロックストーンには、転移先での魔力減退と満足な移動が行えないという強い制約があったはずだ。

 魔門とはその制約が無い転移装置のようなものということだろうか。

 確かにそれならばアラスールの言う通り、召喚獣という言葉の方が適切かもしれない。ルゴール=フィルは、魔門の力でこの場所に“召喚”されたのだ。


 いずれにせよ、あのルゴール=フィルは魔門とパスのようなもので繋がっており、その大本、つまりは魔門を破壊できれば目の前の脅威はこの地を去ることになる。


「本音を言えば、あいつの撃破をしたいところだけどね。あいつが『光の創め』なら、魔界へ帰さない価値は大きい」

「光の創めって、さっき」


 アラスールが苦々しげに口走ったその単語は、ルゴールが発した言葉だ。

 それが何を差すのか分からないが、アラスールは変わらずルゴールを睨んでいる。


「近々ヨーテンガースで面倒なことが起こるの。この魔門破壊もそれに繋がっている。そしてその面倒事に首を突っ込む可能性の高い魔族たちがいるのよ」

「魔族……“たち”?」

「それが『光の創め』よ」


 『光の創め』とは、何らかの集団、いや、魔族の組織名か何かなのだろうか。

 魔族の世界のことは分からないが、1体出現するだけですべてが無に帰す魔族が徒党を組むとなると最早想像ですら測れない。

 それは最早、魔王軍と遜色ない、人類の脅威だ。


「でも、単騎で出てきてくれたのは幸運ね。いずれにせよ、ルゴールと応戦しながら魔門の破壊を狙うわよ」


 幸運とはエリーはまるで思えなかった。

 交戦して分かった。あの魔族は次元が違う。

 払いのけられるように地面に叩きつけられただけで、未だに頭が割れているような感覚がするし、首はねじ切られたように感覚が無い。


 魔族は、人間とは身体の造りも有する魔力も別次元。

 樹海にこれほどの迷路を展開しているというのに、ルゴールにはまるで負担になっていないように思えた。


「まあでも、これ以上巻き込むわけにはいかないわね。エリーちゃんは上手く隠れていて。私は何とかやってみるわ」

「……行けます」


 それでも、エリーは引かなかった。

 アラスールはきっとひとりでも挑むつもりだろう。

 交戦して分かったが、力の差は歴然としている。


 だけど、ここで引くわけにはいかなかった。


 アラスールはエリーの顔を見て、小さく息を吐いた。

 これ以上何を言っても押し問答になると察してくれているようだ。


「なら、もうちょっとだけ頑張ってくれるかしら。ルゴールを引き付けて。その隙に私は魔門を破壊するわ」

「はい」


 ためらわずに了承した。

 未だに視界が白黒する。頷くこともできないし、閉じているはずの口が自然にだらりと下がってしまう。

 だけど、囮くらいはできるだろう。


「ああ、それは困るな」


 また、頭に声が響いた。

 魔門の上に立つルゴールは、穏やかな声を届けてくる。

 こちらの声は聞こえていたようだった。


「なるほどね。それだと確かに、魔門が破壊されてしまうかもしれない。なら、もう、リイザス=ガーディランに気づかれるのは覚悟するか」

「……?」


 ルゴールが、その黄色い身体を丸め込んだ。

 何を、と思った瞬間。


「エリーちゃん!! 逃げて!!」

「えいっ」


 子供のようなふざけた声が聞こえた瞬間、ルゴールの身体が空を貫かんとする巨大な柱と化した。

 あっけにとられることしかできず見ている間も、黄色い柱は高速で伸び続け、天を貫かんとするほどに伸び切ると。


 高速で膨張を始めた。


「くっ、シュリスレンディゴ!!」


 地面を、木々を、その場の存在総てを魔門から押し退けるように迫ってくる黄色い巨大な壁を前に、アラスールは両手を突き出した。

 大規模魔術のように展開した魔力の塊は巨大な盾となり、エリーとアラスールの前に展開する。

 ず、と黄色い壁と青の盾が接触する。

 衝撃は無かった。

 アラスールの盾を気にもせず、ただただ淡白に、膨張を続ける。

 アラスールの背がエリーにぶつかり、エリーは慌ててアラスールの背を支える。


 だが、まるで歯止めが利かない。

 黄色い壁はそのままの速度で盾ごと自分たちを押しのけ、容易く後退させていった。

 そして背後。

 なぎ倒された木々の向こうには黄色い迷路の壁がある。

 このまま壁まで押し退けられたら、何が起こるか。


「つ、潰す気ね!?」


 金曜属性の特徴は硬度。

 エリーもその属性には明るくないし、その上仲間の金曜属性は例外的な力の使い方をしている。

 だが、その本分から考えれば、金曜属性の攻撃とは、鋭く固めた魔力での斬撃か圧殺なのだろう。


 逃げ場は存在しない。

 背後の迷路の壁は迫ってくる。

 ただ膨張するだけの壁ですら、魔族の魔力で放たれれば、単純すぎるほどに強力だった。


「エリーちゃん、腹くくってね!!」


 アラスールは盾を放棄した。

 そして先ほどよりもよりや早く押し込まれながら、壁に手を触れる。


 何かの魔術を発動させる気か。エリーは即座に判断し、背後の壁まで退避した。

 ゾッとするほど近くにある背後の壁の前、アラスールは努めて冷静に術式を組み上げているようだった。


「……ここ、じゃなかったら死ぬわね」


 アラスールが口早に何かを呟いた。

 すると。


 衝撃。


 樹海すべてに膨張した柱はついに迷路の壁まで届き、樹木は黄色い壁に挟まれて潰れる。


 ようやくすべてを圧殺した柱が嘘のように消え去ると、世界が塗り替えられていた。


 エリーたちが入ってきた迷路の出口は原形を留めていない木々や地面の土が押し込まれ、綺麗な形の新たな壁を作っている。

 逃げ場のなかった木々は、柱と迷路の壁に挟まれ、徹底的につぶされ、およそ形というものを何ひとつ残していない。

 樹木がうっそうとしていた樹海のエリアは、遮蔽物など存在しない更地になっていた。


「驚いた」


 しかし、何もなくなった樹海エリアに立っていた者がいた。

 アラスール=デミオンは、両手を前に突き出し、静かに笑う。


「私に迷路を歩かせたのは失敗ね。部分的になら壊せるのよ」

「ああ、なるほどね、崩したのか」


 その後ろ、エリーは一部始終を見ていた。

 アラスールの手のひらからスカイブルーの光が漏れたかと思うと、黄色い壁を伝い、あるときは止まり、人ふたり分の小さな輪を作ったのだ。

 その輪の中央をアラスールが強く押すと、弾力とは違った感触で黄色い壁が凹み、ず、と窪みが作られた。


 どっぷりと土を浴びたが、その隙間が幸いし、圧殺されずに済んだ。

 この迷路に落とされて以来、アラスールは魔術の解析を進めていたのだろう。


 魔導士とは既存のみならず未知の脅威にも対抗策を作り出す。

 人間界の化け物とも言うべき存在は、天変地異を思わせる現象を乗り切り、凛として立っていた。


 そして、何ら遜色なく、村を一瞬でかき消すと言われる魔族もまた、何事もなかったように立っている。


 戦いの次元は上がってきている。

 そう何度も自分に言い聞かせてきたものの、認識の甘さを思い知らされた。


 自分たちは、最早別の世界に足を進めてきているのだ。


「アラスールさん、行きますよ」

「ええ。お願い」


 これ以上遅れは取れない。

 エリーはようやく、自分の意識が深く研ぎ澄まされていくのを感じた。


 平然としているアラスールにも限界はある。いかに秘石の力を用いたとしても、あの大規模魔術はそう何度も崩せない。

 短期で決着をつけなければ。


「いいか。崩されても」


 子供のような声が頭に響いた。

 ゾクリとする。

 踏み出そうとした足が凍り付き、遠い世界のことのように思えていた目の前の光景が、ずっと近づいてきた。


 その結果、感じた。感じてしまった。


 今、自分たちの目の前にいるその存在。

 意思も、力も、努力も、想いも、人間ごときの能力など一笑に付す、“魔族”という存在そのものを。


「あと何度か試してみよう。次の手はその間に考えておくよ」

「―――な」


 ルゴールが再び身体を丸める。

 この一帯を容易に更地に変えた魔術が、再びやすやすと放たれる。


「アラスール。“次も当たるといいね”、つなぎ目の場所」

「づっ」


 丸まったまま顔を上げたルゴールは、無表情ながら笑っているように見えた。

 アラスールの顔色が変わる。


 まさか。アラスールの力でも、この魔族の魔術は、確実には崩せないということか。


 まずい。

 エリーは迷わず駆け出した。

 端まで追いやられた自分には絶対に届かない位置で、ルゴールはまるで日常所作のように、大きく伸びをする。


 そのとき。


「らあっ!! ―――たく、服が汚れたらどうすんのよこれ。てかなに、ここで合ってんの?」


 木々と地面が押し込まれた迷路の出口が吹き飛んだ。

 ルゴールは動きを止めて静かに吹き飛んだ出口を見る。

 駆けていたエリーも思わず足を止めた。


「エレナ、もっと慎重に―――と、言いたいけど、急いでよかったみたいだね」

「エリーさん!! アラスールさんも一緒か!?」


 解き放たれた出口から、素早く現れた者たちがいた。


 ホンジョウ=イオリは静かに佇み、周囲を見渡し。

 ミツルギ=サクラは即座にエリーに詰め寄り。


 そして。


「で、こんなうざいことしたのあんた? とっとと消すか死ぬかして欲しいんだけど」


 エレナ=ファンツェルンは、ルゴールに向かって、緩慢な動作で歩いて行った。


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