第47話『別の世界の物語(起)』
―――***―――
習慣になってしまったことがむなしい。
エリーことエリサス=アーティは慣れない枕で目を覚ますと、慣れたように耳に全神経を向ける。
宿屋に泊まっているのに、野宿をしたとき以上に周囲の気配を必死に探った。
普段の起床時刻よりはまだまだ早いはずだ。
以前なら2度寝をするか、諦めて外で身体を動かし始めるところだろう。
だが最近、そうもいかなくなってきた。
世界中を探し回ったどころか、比喩なく一周して、ついに見つけた木曜属性の魔術師―――エレナ=ファンツェルンが仲間に加わったのだ。
そしてその数日前、この時間に、エリーにとっては重大な問題が発生したのだ。
朝、妙な物音がすると思って共に旅する男の部屋へ行ったときのこと。部屋の中では、ベッドの上でその男に覆いかぶさるようにエレナが横たわっていたのだ。
事後的にその男に話を聞くと、エレナが早朝に突然部屋を訪れてきたとのことで、邪推するようなものではなかったとこのことだが、正直記憶が跳んでいてあのときのことはよく覚えていない。
ただエリーの中に、エレナは最警戒対象であるという認識だけが残った。
エレナに散々言ってはみたもののその翌日には当たり前のように男の部屋に侵入しようとしていたのだから、僅かな気に緩みも許されない。
正直言って、エリーはエレナという人間をよく知らない。
いつの間にかその男と行動を共にし、いつの間にか仲間になったような相手だ。自分たちについてきた理由もよく分からない。
その男にしたって、彼女のことを詳しくは知らない、はずだ。
確かに、自分よりスタイルも良く、挙動も愛らしく、容姿も優れているかもしれないが、自分の方が、ずっと長く一緒に旅をしている、と思う。
僅かばかりの自信もなくなってきた。
あくまで眠気を晴らすために目をこすり、エリーは雑念を払って周囲の気配を探り続ける。
例の男の部屋は隣だ。
そこが最奥。部屋の前を誰かが通ればすぐに分かる。
そこまでするなら自分が隣の部屋に入っていればいいのだろうが、そこまでの勇気はない。
エレナの妨害をすることしかできない自分にむなしくなるが、正義は我にあり、と自分を奮い立たせる。
「……!」
そこで、案の定というか何というか。廊下から物音が聞こえた。
この宿の他の客の可能性も捨てきれないと思ったのも束の間、忍び足で近づいてくるのを感じる。
もう間違いはない。彼女だ。
エリーが素早く身を起こし、ベッドから飛び出そうとしたところで、キィ、と静かに“この部屋”のドアが開いた。
「……エリにゃん。起こしてしまいましたか。ごめんなさい。あ、おはようございます」
小動物のように僅かに空いたドアから身を滑り込ませ、ドアの前で力なく腰を落とした少女が囁くように言った。
この数日エリーを悩ませているエレナとはある意味対極の姿をしている目の前の少女はティアことアルティア=ウィン=クーデフォン。
彼女はこの時間だというのに、今まで回し車で全力疾走していたかのように息を切らせていた。
同じ部屋で寝泊まりしていたはずなのだが、いつの間にか隣のベッドから抜け出していたらしい。
「ティア? なに、また眠れなかったの?」
「しー、エリにゃん、しー、です。静かにしないとだめですよ」
エレナの姿を自分と比べたとき以上にショックを受けた。
探すには目ではなく耳を使えと仲間内で常識になっているティアに静かにするようにと言われるとは。
そしてそういう場合は、大体ろくでもないことの方が多い。
「実はですね。あっし、外が暗いうちに目が覚めちゃいまして」
エリーの冷ややかな視線を受け、ティアはぽつぽつと囁き声で話し始めた。
彼女の声が聞き取りにくいと思ったのは初めてかもしれない。
「それでですね、エリにゃんを起こさないように、そーっと、そぉぉぉーっと部屋を出たんですよ。そしたらですね、なんと……、なんだと思います?」
静かに話しているのに、何故かうるさいと思ってしまった。
そして苛つきを覚える。
「部屋を出てすぐ、ばったりエレお姉さまに会ったんですよ」
「……え、エレナさんそんな早く来たの?」
「しー、です」
鋭い視線を隣の部屋に向ける。物音はしない。
ティアに見つかって諦めてくれたのならよいが。
「まだまだ暗いのにエレお姉さまはこうシャキッとしてましたね。すごいです。あっしなんか足元もおぼつかないままふらふらと廊下を歩いていたのに」
「怖……」
この少女は、恐ろしくエレナに懐いている。
何が彼女をそうさせるのかと考えてみようと思ったが、よくよく考えればティアに人見知りという概念が存在しないのはいつものことかと納得してしまい、そして再び何が彼女をそうさせるのかという疑問にぶつかった。
自分の方が回し車に乗っているような錯覚に陥る。
「多分、あっしが起きちゃったのもエレお姉さまのせいですかね、なんか寝てる場合じゃねぇ、って感じの夢を見たんです」
優秀な番犬だ。
彼女と同室で良かった。
「でも、悪いことしちゃいました。寝ぼけていたあっしは、エレお姉さまの胸に手を伸ばしてあっしにも分けてくださいと掴みました。……鬼ごっこの始まりです」
優秀なピエロだ。
どうやら今日、エレナの興味はティアに向いたらしい。
朝から何をやっているんだこいつは。
「それで、今まで逃げてたの?」
「尋常ならざる恐怖でしたよ。必死に廊下を走るあっしに、音を立てずに容易く追いついてくるエレお姉さま。暗くてろくに前も見えないし、灯りをつけたら自分の場所を教えるようなものです。あるときは食堂の机の下に身を滑り込ませ、またあるときは積まれていた羽毛の寝具に身を隠し……」
そんな騒ぎがこの宿で起きていたとは。
割と神経は使っていたつもりだったが気づけなかった。
ただ、他の客にも宿の主人にも大迷惑な行動だが、この宿から出なかったのは利口だ。
障害物の無い外に出たら彼女はこうして今目の前で話せていなかっただろう。
「それでようやく命からがらここに逃げ帰って来れたわけ?」
「ええ。まあ、意を決してここへ向かったのは、せめて最後のお別れを言いたいと思ったからですが」
「どれだけ怖い思いしたのよ」
懐いている割に、随分と挑戦的なティアは、追いかけられたときのことを思い出したのかカタカタ震えていた。
「まあ、でも良かったわ。今日はエレナさん変なことしなさそうだし」
「むふふ。良かったですね、エリにゃん」
「え? なに? なにが?」
思わず零した言葉がしっかり聞きとられた。
ティアはわざとらしく口を押えて笑っている。
口を滑らせたのはやはり失敗だった。彼女には事情を知られている。それから妙に気を使われているような気もするのも、逆に困っていた。
「今日、やっぱりもう起きてたんですよね? サッキュンと交代で見張っているんでしたっけ? でもエリにゃんは、ここ最近ずっと早起きさんじゃないですか。ふっふっふ、あっしが気づいていないとでも思ったんですか?」
「笑わないで……」
「笑いません、笑いませんとも。でも、ほんのちょっと、その、ニマニマしちゃいます」
「…………」
「お隣の部屋なのも嬉しいですよね、なんかこう、ちょっとしたことが嬉しいって聞いたことがあります。エリにゃんもきっとそうなのでしょう」
「……、…………」
「今日はエレお姉さまは来ないみたいですし、いっそエリにゃんが行ってみたらどうですか? アッキーのお部屋に。むっふっふ」
「……、…………、あ、あー、あたし今目が覚めた。うん、良く寝たわ」
「?」
目が覚めたら、目の前に、人がいる。大変びっくりした。
だけど見知った仲だったので、エリーはにっこりと笑って手を振った。
「あっれー、アルティアさん!? アルティア=ウィン=クーデフォンさんじゃあないですか!? こんなところで何やってるんですかー!?」
「エリにゃん!?」
コンコン、と。
ドアがノックされた。
――――――
おんりーらぶ!?
――――――
―――ヘヴンズゲート。
昨夜到着したこの町は、アイルークの神門を中心として栄えた商業都市だ。
1年程度前になるだろうか、ヒダマリ=アキラが最期にこの町を見たときは魔物の襲撃のせいでいくらか損壊していたものだが、もうすっかり元通りになっているようだ。
アキラたちの旅は、物騒なことが立て続けに起こっていたが、同じ時間、ここは平和に守られて、何事もなかったようにここにある。
箱状の建物が並ぶさまも、露店の数も、そして、見上げれば嫌でも目に入る天に続いているかのような高い岩山も、変わっていない―――きっと、あの岩山の麓に落ちている影も、そのままなのだろう。
呆然としてその巨大な岩山を眺める。
妙に感覚が鈍かった。あれだけの影を見た場所であるのに、アキラ自身、何事もないかのようにそれを眺められる。
最近の朝はいつもそうだった。
エレナの乱入や、エリーの怒鳴り声など心にも耳にも残る騒ぎが起こっているのだが、それも時間が経てば綿に包まれるように、身体中が静まり返る。
原因は、目覚めと共に覚える妙な感覚。
その直前まで走り回っていたかのように、身体中が覚醒している。
夢と現実の境界線が酷く曖昧に感じ、まるで疲れが取れているような気がしない。
眠りが浅いと言ってしまえば、それまでなのだが。
「…………なんか、近くね」
「私としては仕事をしているつもりだ」
この身体はようやく覚醒し出してくれたのか。現実の違和感に対する感度が戻ってきたようだ。
アキラがピクリと指を動かすと、さらりとした手に触れる。
それほどの距離に、サクことミツルギ=サクラが立っていた。
赤い衣を纏う長身の彼女は、アキラとほとんど背丈が変わらない。
普段からそうだが、艶やか黒髪をトップにまとめていると、人形のような精緻な顔立ちをかえって際立たせ、大層目立つ。
現在他の面々を宿屋の前で待っているところだが、行き交う人々の視線が妙に痛く感じた。
そんな彼女は、アキラの従者ということになっている。
身に余る関係に、ちょっとした優越感を覚える、といきたいところだったが、人々の視線を集めているのはサクの容姿のせいでもなければ、人を惹き付ける日輪属性のスキルというわけでもないことをアキラは察していた。
サクは、この町中で、さながら戦闘中のような鋭い眼と気配を隠しもせずに周囲に放っていた。
アキラを傍から見れば、今すぐにでも路地裏に連れ込まれて金品を巻き上げられそうな男だと思われるのかもしれない。
護衛のつもりなのかもしれないが、逃げ出したくなってくる。
「また魔物が来るとでも思ってんのかよ?」
「魔物ならいいさ。魔物ならな」
サクが嘲るように微笑んだ。とても怖いと思った。
「言った通りエレナさんには警戒しているんだろうな」
「あれ冗談じゃなかったのか」
この大陸に再び訪れて、アキラにとっては待望の出来事だったエレナ=ファンツェルンとの再会を果たし、そしてついに彼女と共に旅ができるようになった。
アキラは感極まって泣き出したくなるほどだったのだが、どうも他の面々からの評判が良くない。
朝ベッドに忍び込まれたことには驚きこそすれ、懐かしさとも言える喜びがあったし、まあ、純粋にちょっといい思いをしたとも思えている。
ここに来る途中立ち寄ったいくつかの村で金品が消えるという事件もあったのだが、本人は、反省してまーす、とちゃんと毎回言っているし多少は大目に見てあげて欲しい。あれで色々と大変な思いをしているはずなのだ。
それでもめげずにアキラがエレナと面々の緩和材に立ち回っていたせいだろうか、面々からの当たりが強くなってきた気がする。
主に、エリーとサクの。
「今日の朝は大丈夫だったのか? まあ、エリーさんが警戒してくれていたはずだが」
「何もなかったよ」
「そうか。その、毎日見張れればいいんだがな」
相当警戒している。
特にサクはエレナと相性が悪そうだ。
何事にもきちんと取り組むサクから見れば、エレナは天敵に近いのかもしれない。
エレナが旅に加わった翌日の朝、アキラの声を聞きつけて部屋に駆け付けたサクは顔を真っ赤にして固まっていた。少しトラウマになっているようだ。そういう意味でも相性が悪い。
そういうエレナに対抗、というか突撃できるのは、どうやら我らがアルティア=ウィン=クーデフォンのようだが。
「そういやティアとエレナを見たか?」
「見ていない。だからこうして警戒しているんだ」
「物陰から襲ってくるとでも思ってんのかよ……」
「まあ、エレナさんは知らないが、奴なら先に実家へ行ったんじゃないか? 昨夜は遠慮したが、奴にとっては家に帰った方が良かったかもな」
このヘヴンズゲートには、ティアの実家がある。彼女が仲間に加わったのもこの町の出来事だった。随分と昔のことのように思える。
アキラたちは、アイルークに来たついでと言っては失礼だが、ティアの両親の様子を見に来たのだった。
「でも、あのふたりの声、朝聞いたような気がするんだよな……。夢だったのかな―――あれも」
アキラはこきりと首を鳴らし、なんとなく岩山を見上げた。
あの岩山は、天界へと通じる門らしい。
自分たちはあの場所で、神に逢うためには、ひいては魔王を倒すためには七曜の魔術師を集める必要があることを聞いたのだ。
現在6人は集まった。あと1歩というところまできてはいるが、それよりもこの仲間同士で警戒している現状の方が重要課題のように思えた。
そんな嘆きを抱えていると、宿屋からもうひとり、エレナを警戒している人物が会計を済ませて出てきた。
「お待たせ。……どう?」
「異常なしだ」
「そう」
現れたエリーとサクの間で、まるで看守の交代のような会話がかわされた。
嘆かわしい。
さりげなくエリーもアキラを挟み込むように隣に立った。連行されているような気分だった。
「それで、どうする? なんかイオリさんも、魔術師隊の人と話に行っちゃったし」
「マジか。あいついつも話聞きに行ってんな」
「凄いわよね、やっぱり」
ホンジョウ=イオリは現役の魔導士だ。
現在は休職してアキラたちと共に旅をしているが、その資格と実績はどこの町に行っても有効らしい。こうやって盛んに譲歩収集に勤しんでくれている。
魔術師隊には、町の混乱防止のため、“勇者様”であるヒダマリ=アキラの旅の動向がある程度伝わっているらしいから、彼女も話が通しやすいのだろう。
最近は特に魔術師隊の支部に出入りしているようで、ある程度名が広まったアキラの旅が窮屈になっていないのも、陰で彼女が尽力しているおかげなのかもしれない。
そんなイオリは、魔術師の卵であるエリーにとっては憧れの存在なのだろう。
だが、順調な旅ができているというのに、朝っぱらから6人中3人しかいないとは。あの高い岩山が、1年前以上に遠く感じた気がした。
上手く全員の仲を取り持たなければ。
「とりあえず、どこかのお店にでも入ってましょうか。イオリさんとは昼にここで待ち合わせることになってるし」
「それよりティアとエレナを探そうぜ。ティアは家に帰ったのかな? じゃあ、エレナだ。一緒に話でもしてようぜ」
エリーの瞳が黒ずんだような気がした。
「ふたりなら朝町に歩いて行ったわ」
「あ、ティアも一緒なのか。じゃあ迷わずに済みそうだな」
「はは、エレナさんなら大丈夫よ。ひとりでも戻って来れるだろうし」
「ん? ティアも一緒に行ったんだろ?」
「ええそうよ? でも、エレナさんならひとりでも大丈夫よ」
なんだろう。怖い。言葉は分かるのに、意味が分からない。
エリーの瞳が黒いと思ったが、今度はその瞳が空のその先を見ているようになった。
深くは触れないと心に決め、アキラは視線を彷徨わせた。
めぼしい店が見つからず、適当に歩き出したらふたりしてピタリと両脇についてくる。普段ティアはこんな気分なのだろうか。
両手に花だ。喜ばしいと思わなければならないが、頼もしいと思ってしまう。
何とかしてエレナとの関係を改善したいのだが、一体自分に何ができるだろうか。
「そう言えば、久々だな」
変わらない平和な街並み。その通りを進みながら、サクがぽつりと呟いた。
「いやなに。そういえば最初はこの3人だったな、と思ってな」
「そう、か」
サクの言葉に気が緩んで思わず立ち止まりそうになった。
サクの言う通り、この旅は、この3人から始まったのだ。
アキラは、この異世界に訪れてすぐ、このふたりに出逢った。
エリーとはリビリスアークで。サクとは、マーチュの巣の入り口で。
長く旅をしてきたが、アキラにとって、旅とは、彼女たちと共にいるという意味なのかもしれない。
思い出話をするような年代でもないのかもしれないが、振り返れば数々の出来事が目に浮かんでくるようだった。
「ま、まあ、だから何だという話だが、……その、忘れてくれ」
「いいんじゃない、どうせ暇だし。そうね、じゃあサクさんがこいつに斬りかかったりしたときの話とか」
「そうか。それならエリーさんの入隊式の話を聞きたいな」
「あ。あたし悲鳴を上げそう。ごめんなさい」
当てもなく歩きながら、からかい合いながら、ふたりは笑って思い出話を始めた。
そんな光景を見ると、やはりアキラは、何度だって、この場所を選んで良かったと思える。
3度落とされたこの異世界。
その始まりの日、自分は何を思っていただろうか。
決して許されざることを犯し、決して許されざる方法で、自分はこの場所を選んだ。
この“三週目”の旅は、“一週目”にも“二週目”にも存在しない志で始めた旅だ。
流されるままの人生を送ってきた自分が、弱々しくも己の力で立ち、何かを成したいと強く願った旅だ。
その願いは力を増してくれているだろうか。
自分は過去の自分から、どれだけ成長できているだろうか。
それを測るのも、やはり自分なのだろう。
何とも不確かなものを、何とも不確かな基準で測る。不安で押し潰されそうになる。
それでも何とかして、前へ前へと駆け出そうとした。
そして、そこで、黒い壁に身体が打ち付けられる。
自分の評価など一笑に付す、客観的な評価。
不完全なアキラの記憶とは違い、完全な形ですべての記憶を保有する彼女。
ホンジョウ=イオリはこう言った。
“一週目”の君は、今の君より、遥かに―――
「……あ」
気づいてよかった。
エリーとサクが会話に夢中になって、アキラから離れて歩いていた。
アキラにとって、ティアと同じように、目を離すと消えるとまで言われているのは大変不服だったりする。
たまには、いや、もしかしたら初かもしれないが、自分から逸れていることを伝えてやろうではないか。
少しは彼女たちも自分を見直すかもしれない。
この人ごみで逸れても、自分はきちんと合流できるのだと。
空しい気分になりながらも、アキラは足を早めようとする。
が。
どくり、と胸が痛んだ。
周囲の雑音が消え去ったようなこの感覚。何度か味わったことがある。
総ての時が止まったような感覚。それと共に、何かに引きずり込まれるような感覚。
ここ最近味合わなかったこの感覚を、アキラはこう名付けている。
“刻”の引力。
「ぉ、」
声が出せない。思考だけが正常に働いているのに、身体がそれについてこない。
凍り付いた深い海の底にいて、他のすべてが停止しているのに、自分の思考だけが正常な時を刻んでいく。目の前にいるのに、アキラとは違う世界線にいるような全能感。
時が止まったと思えるほどだった。
だが、こんな街中で、何故こうなるのか。
こうなるのは、決まって戦闘中などの緊急事態だけだった。
これは、なんだ。
「……?」
異常を探ろうと周囲に視線を走らせると、アキラは違和感だらけの光景から、さらなる違和感を探り当てた。
時が止まった世界に、いた。
人ごみの向こう、自分と同じ世界線に入り得る存在を感じる。
奇妙な感覚だった。どうやら自分は、そちらに引きずり込まれそうになっているようだった。
正体を探ろうとしたが、人が邪魔だ。
身体が動かず、視界に収めることができない。
アキラは遠慮がちに、そちらへ向かおうとする。
しかし、動かない。
ならばとアキラは、今度は確たる意思を持って、その足を踏み出そうとする。
すると。
「っ―――」
音が戻った。
世界の光景が流れ出す。
どうやら当たりを引いたらしい。アキラの足は止まらず、ずんずんと進んでいく。
早鐘のように鳴る心臓。そしてさらに鼓動が高まっていった。
行動を強制されたようなこの感覚。だが、不思議と嫌悪感はなかった。
まるで自分が最初から、自分の意志でそうしたかのような一体感を覚える。
迷いなく人をかき分け、アキラは進んでいく。
遠目で、その何かが路地裏に入ったのが見えた。
どうやら人のようだ。ローブを纏っているようで、正体は分からない。
安心感を得られたせいか、アキラの足が軽くなった。
次第に駆け出し、アキラも路地裏に入る。
すると。
「っと」
「わっ、失礼しました」
路地裏から飛び出てきた女性に危なくぶつかるところだった。
女性に怪我がないことを確認すると、アキラは路地裏に視線を走らせる。
誰もいない。
通りの向こうへ出てしまったのだろうか。
「悪い。誰かここに来なかったか?」
「? いえ、誰も」
「……そうか」
少しだけ失望した。
もしかしたらこの感覚の正体を暴くチャンスを逃してしまったのかもしれない。
路地裏から見える向うの通りを眺めながら、アキラはふと、目の前の女性に向き合った。
「あれ。こんな場所で何をしていたんだ?」
「え? 私ですか? お恥ずかしい話ですが、道に迷ってしまったようで。……もしよければ、魔術師隊の支部がどこにあるのか教えていただけますか」
女性がオレンジのフードを下ろすと、肩ほどまでの銀の髪が揺れる。
髪と同じ色の眼が、すっとアキラの瞳を捉えた。
雪のように白い肌は、言葉通り恥ずかし気に僅かに朱に染まっている。
正面から向き合い、アキラの中で、何かが震えたような気がした。
まさか、彼女は。
「……あんた、は」
「ああ、失礼しました。名乗りもせずに」
彼女は表情を凛と正し、やはり堂々とした風に、アキラと正面で向き合って微笑んだ。
「私はリリル=サース=ロングトン。―――勇者を、務めています」
―――***―――
人生のツケを払うときが来ていた。
自分の人生は、ツケを払い終わってから始まったと思っていたのだが、どうやらそうでもないらしい。
エレナ=ファンツェルンはヘヴンズゲートの町並みを、いつも以上に乾いた瞳で眺めながら歩いていた。
のどかな街並み。愛想笑いではなく、本心から喜んでいるように見える表情を浮かべた人々が、自分の道を迷いもなく、あるいは迷いながら歩いている。
旅の中で何度も見てきているありふれた光景だが、エレナはこうした町を歩いていると、ヒダマリ=アキラではないが、ふと、自分が異世界に迷い込んできたような錯覚を覚える。
自分が味わったってきたものを一片でも見せれば、彼らは同じように笑えるだろうか。
いや、これは傲慢なのかもしれない。もしかしたら自分以上の闇を見えた者も紛れているのかもしれないのだから。
自分が世界で最も不幸だと思うことは、それ自体が誰にでもできて、そして誰もがしてはならないことなのかもしれない。
などと、崇高なことを考えながら、エレナは意識をひたすらに外していた。
この街並みの中ですら、煌々と輝いているとも言えるほど、満面の笑みを浮かべ続けるひとりの子供から。
「エレお姉さま、エレお姉さま。何かお探しだったりしますか? それでしたらお任せください。何せこの町はあっしの庭も同然。逆立ちしたってホフク前進したって一周できます。ささ、どこに行きたいのか何なりとお申し付けを!」
道に明るいことを自慢したいのか体力が有り余っていることを自慢したいのか。
アルティア=ウィン=クーデフォンがじゃれつく犬のようにエレナの周りを駆けながら付いてくる。
首根っこを捕まえて路地裏まで連れ込むときには死んだような目を浮かべていた彼女だったが、当たり前のように復活し、今に至る。
結果、寝不足だわ宿に戻っても誰もいないわで散々だ。
ついでに、自分と同じく逸れたこの子供の面倒を見る羽目になってしまった。
「てかあんた。アキラ君たちがどこ行ったか分からないの?」
「そうですよね……。皆さんいなくなってしまっているとは悲しいです……。それもこれもあっしがエレお姉さまを怒らせてしまって……そのあと、う、あれ、頭に何か引っかかって……思い出せない……」
記憶障害が起こっていた。
言語は正常。物を考える力がある。しかし何かが欠落している。
エレナが今まで下してきた敵の中でもこの症状になった者はいなかった。まずいかもしれない。
だからエレナは拳を振り上げ思い出させてあげることにした。
「あ、そだそだ。もしかしたらアッキーたちは、あっしの家に行ったのかもしれません。目的地はあそこですし」
無意識にくるりと回って回避してみせた。足元は相変わらずおぼついていない。
反射的にティアの腕を捕まえ大人しく歩かせる。
見ていられなかった。
「あんたそんな調子でよく旅をしていられたわね。保護者が優秀だったのかしら」
真っ先に思い浮かべたのはあの赤毛の少女だ。
聞けば孤児院で子供たちの面倒を見ていたとか。
随分と面倒見の良い性格のようだ。向こうからは敵意を向けられているようだが、些細な問題だ。
戦力からしても、“あの領域”に踏み込む基盤は形作られているような気もする。
この数日、エレナはその基準でこの旅の面々を、直接的な言い方をすれば値踏みしていた。
だが、このティアは、今も、そしてこれからも読めなかった。
まっとうな人生というものを送っていない自分は、常識からずれているだろう。一般教養ですら、知らないものも存在する。旅をする上で必要なものしか知らないのだ。それは自覚していた。
だが、あえて語ろう。常識的に考えて、ティアは何か軸がずれている。
狂っているように見えるが、実際に狂っているわけではない。
物事を考える力はある程度備わっている。
だが、その行動には、何とも言えない危うさを感じてしまうのだ。
底の無い好意は、底の無い悪意を上回って恐ろしい。
エレナが違和感を覚えるのは、その底を覗こうとしてしまったからだろうか。人の様子を伺おうとするタイプほど深みにはめてしまうタイプだ。
あのイオリがティアを苦手とする理由も分かる。
そこで、ふと、魔術師隊の数人が駆けながら裏道に入っていくのを見かけた。
「……」
「エレお姉さま? どうかされました?」
「……、何でもないわ。この辺りに魔術師隊の支部でもあるの?」
「はい、ありますね。あっちの道です。いや、ちっちゃい頃はあっしもよく連れていかれましたよ」
それはひょっとして、笑わせようとしているのだろうか。そして今より幼い身で何をしたんだこいつは。
気にはなったが、それよりも。
あの魔術師隊たちから、何かの“空気”を感じた。
「もしかしたらアッキーたち、魔術師隊の支部に行ったかもしれませんね。イオリンがいつも行ってますから。ご案内しましょうか?」
「あんたはいいの? 家に行かなくて」
「いえいえ、エレお姉さまをおひとりにするわけにはいきませんよ」
「……人のことばかり優先して」
「はえ?」
「あんたは、何を、考えてんの」
また、不安を覚えて、苛立った声を出してしまった。
彼女にとって優先すべきことは何なのだろう。
どこまでも人を追い続けるその瞳は、自分の姿を映しているのだろうか。
エレナは、頭を振った。
深く考えるのは自分の趣味ではない。
アルティア=ウィン=クーデフォンが何であれ、自分は自分として目的に向かって歩けばいいのだ。
そして視線を今自分の目の前に起こっていることに向ける。
あの魔術師隊たちの様子。
町の雑踏に紛れていたが、自分は何かを感じた。
エレナが旅の道中で、最も信頼しているのは自分の勘だ。そしてその勘がざわついた。
「……早いこと済ませて、この町を出るわよ」
エレナは頭をかきながら呟いた。
前までなら面倒なことに巻き込まれる前にとっとここの町を出ているところだが、残念ながら今は荷物が増えている。
あの良からぬことを引き付けるらしいヒダマリ=アキラや、求められれば当たり前のように応じるアルティア=ウィン=クーデフォンがいる今、何かが起これば巻き込まれているのは見えている。
逸れているのは全部で4人。手早く見つけ、とっととここを離れよう。
「とりあえずあんたの家からね。アキラ君たち見つけて、すぐに、……」
逸れているのが全部で5人になった。
もしかしたら逸れているのは自分ひとりかもしれない。
おひとりにするわけにはいきません、と宣ったあのガキが、いつしか消えていやがった。
「……」
ひとりは好きだ。何不自由なく、快適と言う他ない。
あまりの嬉しさに、エレナはプルプルと震えながら、決して崩壊しないように露店の主人に近づいた。
「あの、すみません」
「はい、……い、いらっしゃい、ませ」
エレナを一目見て中年の主人が硬直したが、いつものことだ。
初対面の人に取り入るには、冷静に、いつもの調子で接すればいいのだ。もしかしたら飾ってあるガラス物のアクセサリーでも渡してくれるかもしれない。円滑に旅をするコツだ。
「人を探しているんですけど、ご存じないでしょうか」
「はい、はい、何でしょう。誰を?」
「そうですね……、その、なんかこう、わさわさしたガキよ」
思わず事実を伝えてしまった。
中年の主人が硬直する。
しかしすぐに、頷くと、気のせいだろうか、エレナに同情しているような瞳を浮かべた。
「えっと、ティアちゃんかい? やっぱりさっきのそうだったのか。戻ってきてたんだね」
通じてしまった。流石地元民。どうやら奴は有名らしい。
エレナが苛ついた瞳を主人に向け続けると、やはり主人はやや怯えながらも同情したように頬をかいた。
どうやらアクセサリーは諦めた方がいいかもしれない。
「それならさっき、あっちに駆けて行ったよ。いつもみたいに全力疾走で」
ティアの底にあるものが何であれ、エレナにとっては手間のかかる子供でしかなかった。
―――***―――
「リ……、リリル=サース=ロングトン……?」
「はい」
屈託ない瞳は向けられ慣れている。
彼女は快活に、しっかりと、アキラの目を見て応じた。
二の句が継げない。
頭が真っ白になる。
アキラの頭の中であらゆることが巡り回った。
まさしく今こそ、時を止めて欲しかった。
「え、ええっと、」
「もしかして、私をご存知ですか?」
アキラは辛うじて頷けた。
さて、どうすればいいのかこの状況。
この“三週目”。
突如として“既知”の相手に出逢ってしまうことは少なくなかった。
だが世界を一周して、ほとんどの存在と出逢い終え、つい先日のエレナに至ってはこちらから向かっていったほどだ。
その“刻”も無事にこなし、はっきり言って、油断していた。
リリル=サース=ロングトン。
“魔族”のサーシャ=クロラインに襲撃を受けた村の唯一の生き残り。
現在“ヒダマリ=アキラ”、“スライク=キース=ガイロード”と並び、世界中から注目を集めている“勇者様”。
このアイルークではあの巨大マーチュを撃破したらしい。
脳が断片的に呼び起こしたのは、この“三週目”で手に入れた情報ばかりだった。
いや、“二週目”ですら、1度依頼を共にしただけであって、彼女のことを深くは知らない。
だが、直感的に思う。
この出逢いは、危険だと。
イオリが言うに、彼女は“魔王を撃破してしまう”可能性のある人物だ。
何らかの形で、アキラの旅に関わってくるであろう存在である。
下手なことをすれば、何かの崩壊につながってしまう可能性があるのだ。
迷いなく旅を進める決意はしたものの、流石にいきなり目の前に現れられてはどうしても史実を追いたくなる。
“一週目”では、自分は彼女になんと応じたのか。
あるいは、そもそも彼女との出逢いはこの場所だったのだろうか。
突如として爆弾でも手渡されたような感覚に、アキラはリリルの瞳を見返すことしかできなかった。
「ふふ」
彼女は笑った。誇らしげに。
「すみません、少し嬉しくて。私も少しは世間に認められつつあるということでしょうか。今後も誠心誠意頑張りますので、期待していてください」
アキラの様子をおののいているように捉えたのか。
リリルの雪のような肌が赤くなり、僅かに高揚したのが分かる。
胸を張って上機嫌のようなその様は、精緻な人形のような印象をいい方向に砕かせた。
屈託のない笑みに、アキラはようやく身体の硬直を解いた。
ひとつ、思い出した。
“二週目”。彼女は、あの依頼の場にいた誰より、勇者であろうとしていた人物だ。
「あ、長々と失礼しました。話は戻りますが、魔術師隊の支部をご存知でしょうか。確かこの辺りと聞いたんですが」
「え、ええと、確か、あっちだった気がする」
「良かった、助かります」
曖昧な案内なのに、彼女はにっこりと笑った。
その笑みに、アキラも自然と笑みがこぼれ、そして同時にどうしようもなく胃が痛くなった。
まずい。
同業者だと言い出すタイミングを逃してしまった気がする。
だが、このまま別れれば、とりあえず急場は凌げるかもしれない。
答えを教えてくれるとは思えないが、今は何としてもイオリに会いたかった。
「って、あいつも支部にいるんじゃ」
去ろうとしていたリリルの背中がピタリと止まった。
多分、自分は声に出していない。出していたとしても、かすれ声だ。
それなのに、リリルはくるりと振り返ると、少し嬉しそうに笑っていた。
「あなたも魔術師隊の支部へ行くんですか? だったら一緒に行きませんか。私、人通りの多い道は苦手なんです」
日差しに弱いのか、フードを被りながらリリルは顔を赤くしていた。表情が手に取るように分かる。嘘の吐けないタイプだろう。
アキラはあらゆるものを天秤にかけた。
リリルという人物の重要性と危険性。
物語の姿。
道に迷って困っている女の子。
アキラはごくりと喉を鳴らした。
そして思い出す。
以前あのスライク=キース=ガイロードと出逢ったときは記憶の封は消し飛ぶように外れた衝撃があったことを。
それが今は無く、むしろ靄のかかったように記憶の奥底に眠っていて大人しい。
ならばそこまでの危険は無いのだろう。
そもそもイオリも何も言っていなかった。まずいことがあるなら流石にそれとなく伝えてくれるはずだ。
「俺は」
逸れた仲間がいる。
そう言おうと思った。そしてこの場からすぐに立ち去ろうとした。だが、音になる直前、何かがアキラの口を止めた。今度はリリルも聞き取れなかったようだ。じっとりとした汗が背中を伝う。
得体の知れない何かが、リリルとここで分かれることに抗おうとアキラの身体を乗っ取ったように動けない。
記憶の封は未だ解けない。それなのに、身体が何かを訴え続けている。こんな感覚は初めてだ。
リリルは首を傾げてアキラを見返してくる。
こんな状況だというのに、その笑みには不審な感情はまるで上がってこない。それも初めてだった。
「……こっちだ。案内するよ」
ぎこちない身体を何とか動かし、アキラは歩き出した。リリルは礼を言って後ろからピタリとついてくる。
パーソナルスペースが随分と小さい女性のようだった。
それとも日輪属性のスキルが、何かよからぬ作用をしているのかもしれない。
妙な緊張感と違和感を拭うために、アキラはリリルの横に並んだ。
「魔術師隊の支部には何をしに行くんだ?」
「情報収集を兼ねて、です。あなたも、」
リリルはちらりとアキラが背負った剣に視線を向けた。
「そういう旅をしているのなら、行ってみた方がいいですよ。思ったよりは皆さん優しくて、依頼所以上に詳しい話も聞けます。魔術師隊も、旅の魔術師も、ただ資格があるかどうかだけだと思っている方も多いですし」
カラカラと明るくリリルはそう言った。
適当に話を振ってみただけなのだが、意外なことを聞けた。
支部は魔術師隊のためだけにあり、その代わりに依頼所が旅の魔術師のためにあると思っていたのだが、どうやらそんな垣根は旅の魔術師、というよりアキラが勝手に作り出したイメージなのかもしれない。
となると、普段イオリが足しげく通っているのは、魔導士としてというより旅の魔術師としての情報収集ということになる。
旅をしている期間は自分たちの方が多いと思っていたのだが、イオリは旅を円滑に行う術を体得しているのだろう。
だが、少し気になる。
「それって、シリスティアでもか?」
アキラが言わんとしていることが分かったのか、リリルの顔が僅かに暗くなる。
本当に感情が分かりやすい。
「すべてがそうというわけではありません。お察しの通り、シリスティアでは魔術師隊と旅の魔術師が不仲ですしね。旅の魔術師は頼まれても支部に寄り着かないし、支部の方も見かけようものなら追い出そうとしてくるところもあるみたいです」
意外と人懐こい性格をしているようだ。
表情も分かりやすく変わり、快活に言葉を紡ぐ。
これなら魔術師隊の支部にも抵抗なく入っていけるだろう。
近しい人物に似たような女の子がいるが、声のトーンからかリリルからは騒がしいという印象は受けなかった。
「あ、でも」
リリルは小さく手を叩き、嬉しそうに微笑んだ。
「最近は、そのシリスティアに吉兆があるんです。魔術師隊の依頼が以前よりずっと依頼所に回されているそうですよ」
「へえ」
それは意外だった。アキラが体験したシリスティアは、旅の魔術師を前にはっきりと好かないと言ってくる魔導士もいたくらいなのだ。
「それもきっと、あの出来事のお陰だと思います。ご存知ですよね、1年……にもなりますか。“あの事件”」
アキラは自分の表情が暗く落ちていくのを感じた。
“あの出来事”。
世界中を震撼させ続けていたシリスティアの“誘拐事件”。
アキラが体験した結末は、世界に広まっている輝かしいものではなく、もっと黒ずんだ情けない逃亡劇だった。
対して、リリルの方の表情は明るかった。何を思い出しているのか、キラキラと輝いて見える。
「ふふ。実は私、当時その場にいたんですよ。魔術師隊と旅の魔術師が手を取り合って大事件に挑む、あの瞬間に」
「えっ、いたのか?」
思わずアキラの足が止まった。
リリルも合わせて足を止め、ごく近い距離で顔を見上げてくる。思った以上にずっと近い。人通りの多いところは苦手と言っていたのは本当のようで、何が何でもアキラから逸れないようにしているらしい。
「え……と。もしかして、あなたもあの場所に?」
「あ、ああ」
「まあ、凄い偶然……と言っても、アイルークからもかなりの人数が参加されていましたからね。ご無事だったようで何よりです」
「……お互いにな」
視線を外し、アキラは表情がばれないうちに歩き出した。
今の自分はどんな表情をしているだろう。
「犠牲になった方もいましたからね。ですが、事件は解決して、今はもう新たな被害は出ません」
「……そうか」
「憂き目の多い昨今ですが、それでも、その内のひとつが無くなりました。それは世界にとって希望になります。私も、“彼”のようにならなければ」
「……」
「えっと、あの。ご存知ですよね、その顛末を」
「ああ、知っているよ」
言い切って、アキラは歩を早めた。
タイミングを逃したが、アキラは今、本当に名乗らなくてよかったと思っていた。
名乗っていれば、その希望とやらの顛末を尋ねられていたかもしれない。
世界の希望になった。それは結構なことだ。
世界の裏側で、勝手に幻想を抱かれて、それを糧に人々は生きていくのだろう。
だが目の前で、何も知らないのに嬉々として語られるのは心に強い影が落ちてしまう。
リリルに罪はない。だが、“あの魔族”のほんの気紛れ程度で、人々が一喜一憂するその光景は我慢ならなかった。
「ええと、では、ご存知ですか、このアイルークで今起こっていることを」
アキラの様子を察知したようで、リリルは強引に話題を変えてきた。
また自己嫌悪に陥る。
「アイルークでって……、リビリスアークのことか?」
リリルは首を振った。
そのリビリスアークを壊滅させた巨大マーチュを撃破したのは彼女だそうだが、些末なことだと思っているらしい。
「どこから話しましょうか。ご存知ですよね、“魔門破壊”」
「?」
リリルは神妙な顔つきになっていた。
“魔門破壊”。意味は何となく分かるが、アキラは眉を潜めることしかできなかった。
魔門とは、人間界と魔界を通じる出入り口のようなものだと聞いたことがある。
この町にある、神界に通じる新門の真逆の存在だ。
それが破壊されたとは、リリルの口ぶりの通り、それも大層有名な出来事らしい。
リリルはバツの悪そうな顔をして、新聞の切り出しでも思い起こしているように口に手を当てた。
「ええと。以前、モルオールの魔門が破壊されるという奇跡が起こりました。スライク=キース=ガイロードをご存知ですよね」
「……あ」
「彼が起こした前人未到とも言えるその出来事に世界中が―――と、すみません。ご存じなかったんですよね」
リリルが首を傾げてくる。
申し訳ない気持ちになったが、実はアキラはその出来事を当事者のスライクに聞いていた覚えがあった。
彼は事も無げに魔門へ行ったと言っていたが、破壊までしていたとは。
だが冷静に考えれば分かりきっていた。彼がそんな場所へ向かったとなれば、破壊されて然るべくだろう。
ますます名乗らなくてよかったと思った。
アキラが巻き込まれた出来事は、過激とも言えるスライクの行動と比べると幾分大人しく思えるのだ。
しかし“魔門破壊”とは。
あの男の目的を知ってはいるものの、過剰なほどの手段を取る男だ。
いや―――とアキラは考える。もしかしたら彼の、そして自分の目的のためには、思いつく以上の手段を取っても届かないのかもしれない。
「まあ、ともかく。その出来事で、“魔門”は破壊できるという新たな概念が生まれつつあるんです」
「概念とはな」
「それで、なんですが」
リリルの声が小さくなった。
周囲を警戒して目を走らせているが、歩きながらの会話というものは意外と周囲から聞かれないとアキラは知っていた。
「確かなことは言えませんが、このアイルークでも、魔門を破壊しようと計画されているらしいんです」
「は?」
足を止めそうになったが、強引に動かし続ける。
今彼女はなんと言った。この平和なアイルークで、そんな巨大な計画が動いていると言ったのか。
寝耳に水だったのは、自分が世間の事情に詳しくないせいだけではないだろう。
アキラはイオリの顔を思い浮かべる。
リリル同様足しげく魔術師隊の支部に通っている彼女だ。
一般には伏せられているのであろうが、勇者として有名なリリル=サース=ロングトンが入手できる情報を、魔導士の彼女が知らないはずがない。
だが、彼女は何も言っていなかった。
つまり―――隠していた、ということなのだろうか。
また彼女は、何かを抱えているのだろうか。
魔術師隊の支部が、街角に陣取っているのが見えてきた。
妙な感覚がする。いや、悪寒かもしれない。
悲しいことに、こうした予感はよく当たる。
不穏なものを感じながら、アキラは歩をさらに早める。イオリはそこにいるはずだ。
リリルから僅かに離れているのを感じながらも、構わず門の前に辿り着くと、そのままの勢いで門を開く。
すると。
「だっ、かっ、らっ。言ってるでしょう。私だって何度も上に言ったわ。馬鹿じゃないの、って」
「それでも数か月は無理ですって」
「それも掛け合ったわ。だけどやれの一点張り。失敗してもいいんだから、やるだけやってみましょうってことに」
「下手に魔門を刺激して無事に済むわけがないでしょう!」
「そりゃそうなんだけど、無事に済む確率を上げるために私が……、って、あら」
ドアの前には、妙齢の女性が立っていた。
ボリュームのある茶髪をトップで結わい、首筋を覗かせている。
勢いよく奥のディスクに手を付けながらも、首だけ振り返ってきたその女性は、アキラを見るとこほりと咳払いした。
だが遅い。アキラの耳は魔門という言葉を拾っている。
「これ以上は奥で話しましょう。聞かせる話じゃないわ」
「ええ、分かりました。答えは変わりませんが。イオリさんも同席してくれると助かります……イオリさん?」
女性と言い合っていた男の視線を追うと、壁際にホンジョウ=イオリの姿も見つけた。
アキラを見ながら目を丸くし、そして苦々しく口元を歪める。まるで悪事が暴かれたような表情だった。
予感が的中したような感覚を覚える。
アキラは言いようのない焦りを覚え、ずいとイオリに向かって踏み込む。
「イオリ。何の言い争いなんだ?」
油断すると険しい表情になりそうだった。
イオリは僅かに思考を巡らすような顔をして、しかし首を振った。
「……いや、まとめてから話すよ。色々とね」
「ああ、頼む」
言質を取ったような感覚を覚えた。
彼女を糾弾するつもりはないのだが、記憶絡みのこととなるとイオリはまたひとりで立ち向かってしまうかもしれない。
「……。ええと」
振り返ると、茶髪の女性が、頬をかき、そしてアキラをじっと見つめてくる。
柔和な表情なのに、ずいと重く感じる視線だった。
アキラは怯まず向かい合う。
「私はアラスール=デミオン。アイルークの所属じゃないけど、魔導士よ。君は? イオリちゃんのお知り合いなんでしょう?」
答えが分かっているような物言いだった。
背後に、息を弾ませたリリルが入ってきた気配がする。
アキラは振り返ることもせず、アラスールを見据えたまま言った。
「ヒダマリ=アキラだ。勇者をやっている」
―――***―――
「魔門流し」
アキラたちが通された部屋は、細長の机が連なって輪を作っている会議室のような部屋だった。広い空間で、椅子もきちんと整えられているようだが、白塗りの壁に立てかけてあるボードに、強引に腕で拭ったような汚れがついている。
有事の際には魔術師隊の大勢が輪を囲むのであろうが、日当たりも悪いようで熱気はまるで感じない。
無機質な臭いが鼻をくすぐる、物寂しい空間だった。部屋の隅にごく少数が集まっている光景もそれを助長させていた。
「数百年ごとくらいかしら。早ければ数十年。魔術師隊や魔導士隊には、そうした行事があるの」
余裕そうに微笑み、射貫くようでも押し潰すようでもない不思議な眼を浮かべる女性は、アキラの表情を伺うように言葉を紡いだ。
アキラは負けじと見つめ返すが、彼女の表情は変わらなかった。
アラスール=デミオンと名乗ったこの女性、魔導士と名乗っていたが、なるほど確かにと感じてしまう。例えば隣に座っているこの支部の責任者であろう男と比べると、明確に違う存在のように思えた。
いや、あるいはイオリと比べてさえ、だろうか。
アラスールの実力は不明だが、彼女の存在は妙に日常と切り離されているように感じる。
底の見えない引き込まれそうなイオリの雰囲気とは違い、ただそこに在るだけで周囲を傷つけるような荒々しさ。
友好的に見えるようで、その笑みからは、攻撃的な空気を覚えた。
ちなみに、彼女が何の話をしようとしているのかはアキラにはまったく分からなかった。
「待った。その前に、魔門の説明をした方がいいと思う」
その様子を察知してくれたらしいイオリが声を上げた。
僅かばかり目を瞑ると、神妙な顔つきとなる。その一瞬が、言葉を選んでいるようにアキラには見えた。
「アキラ。魔門についてはどこまで知っている?」
「ほとんど知らない。魔界に通じるとかなんとか。魔物とか魔族がそっから出てくるんだろ?」
「そうだ。だけど、僕が言っているのはどちらかというとその“現れ方”だよ」
イオリは机に手を置いた。
「ここが、人間界としよう。とすると、魔界はどこにあると思う?」
「机の下か?」
「一般レベルだと、その認識でおおむね間違いない。だけど、実は細かく言うと違うみたいなんだ。答えは“分からない”、だ」
アキラが眉を寄せるのを見つめてから、イオリは部屋中を見渡し始めた。
「魔術的な壁なのかは分からないけど、魔界は、この世界に重なるように存在している“異世界”だとするのが通説なんだ」
「……!」
アキラは背筋に冷えたものを感じた。
魔界は、重なるように存在している―――“もうひとつ”。
「だけど、この世界とは強く結びついているらしくてね。切っても切り離せないらしい。歴史にもあるように、人間界は、新界と魔界の狭間の世界ということらしいから」
異世界。そんな馬鹿な。とは、異世界来訪者であるアキラは言えなかった。
何となくではあるが、魔族や魔物は地中から湧き出てくるような印象を受けていたから、少し意外な程度だ。
「ただ、一応地中という認識はあながち間違ってはいないよ。人間界と魔界をつなぐ入り口のようなもの。それは4大陸すべて地中に埋まっているんだからね」
「それが魔門か?」
イオリは頷いた。
アキラは少しだけ足の力を入れてみた。足の下のさらに向うに魔界があるわけではなく、ただそこに、異世界同士をつなぐワープゲートのようなものがあるということなのだろう。
「それで、魔門っていうのはどんな形なんだ? リロックストーンみたいな石とか?」
「あらびっくり。リロックストーンは知っているのね」
アラスールが目を丸くしてわざとらしく両手を上げていた。
この世界の常識からして偏った知識なのだろう。
茶目っ気を感じさせるように舌を出したアラスールは、それでもその瞳の色を変えぬまま、アキラをまっすぐに見据えてきた。
「魔門の話なら私がしましょうか。何せそっちゅう見てるもの。私以上に詳しい人間はなかなかいないわ」
「それで?」
若干の苛つきを覚えたアキラの口は、感情をそのまま載せた声が出した。
するとアラスールは手のひらを天井に向けて、指をうごめかせた。
「小さいとこれくらいのサイズの……闇、と言った方がいいかしら。霧、と言った方がいいかしら。“黒い何かの塊”よ」
「は?」
「あら。詳しいと豪語する割には、って顔ね。でも嘘は言っていないわ。試しに聞いてみるわね。今この場に、“私が今言った情報以上に詳しいことを知っている人間がいる”?」
返答は誰からも来なかった。
アラスールは満足げに深く椅子に座る。
「でね、最初の話に戻るんだけど、その謎多き魔門。4大陸ではそれぞれひとつずつの計4つ存在が確認されているんだけど、年々、巨大化していくのよ」
アラスールは手のひらを目いっぱいに広げて、その不思議な眼でそれを見つめた。
「周囲の何かを取り込んでいるのか、それとも、“向こう側”から何かが広げているのか……分かっているのは、魔門は成長する、っていうこと」
彼女が言っているのは、門は広くなっていくということだろう。人間界と魔界をつなぐゲートが広がっていく。
その先の結末など想像もしたくない。
「だからね」
アラスールは握りつぶすように手のひらを握った。
「定期的に魔門をちびちび削っていっているのよ。消滅はしないまでも、少なくとも魔族クラスが通れないほどにね。小さいと通れないのか、一応効果があるみたいだからね」
「それが、」
「そう。“魔門流し”、ってわけ。ね、簡単でしょ?」
アラスールは隣の魔術師隊の男に笑いかけた。
しかし、アラスールの瞳を受けてなお、男は口元を歪めた。
「簡単なんて口にもしないでください。魔門流しなど……、あんなものは二度とごめんです。10年前だって犠牲者が、」
「だから、私も無理だって言いまくったのよ」
「自分で簡単だと思ってないこと人にやらせないでください。大体、あなたが言っているのはそれどころの騒ぎじゃなく、」
「おい。その魔門流しとやらをやる気なのか?」
アキラが割って入ると、魔術師隊の男は救世主が現れたとばかりに顔を輝かせた。
威圧されたようにも思え姿勢を正すと、男は、今度はイオリにすがるような目を向けた。
「イオリさん。ご助力は願えないんですよね?」
「え、いや、」
「では、計画破綻です。そもそもこれは、“勇者様”がいなければ成り立たない計画。勇者様を魔術師隊の事情に巻き込むわけにはいかないでしょう」
「ちょっと待て!!」
まくし立てる男に、アキラは思わず怒鳴っていた。
そして鋭くアラスールを睨む。
話が呑み込めない。これでは先ほどここにきたときの言い争いの焼き回しだ。
「最初から、全部、事情を話してれ」
声を荒げたアキラに、アラスールは眉ひとつ動かさなかった。
そして口元に含み笑いを作る。
アキラを懐柔すれば事が進むと考えているような表情だったが、それでもすべてを聞きたかった。
「近々。ヨーテンガースで魔門流しが行われるわ」
ヨーテンガース。
世界を語るときに例外とされる中央の大陸。
この魔術師隊の所属ではないと言っていたが、アラスールはヨーテンガースの魔導士なのだろうか。
アキラの喉がごくりと鳴る。
「詳しい話は置いとくけど、そのイベントには最善の注意が求められるの。どれだけ時間がかかろうと、どれだけの資源を使おうと、そして、どれだけの犠牲を払おうと―――コンマ数パーセントの成功率向上が求められるわ。“私たち”まで召集されるほどにね」
アラスールは、日常ではありえないほど冷徹な瞳の色を浮かべた。
今はっきりと分かった。アラスールと隣の男の差。
潜り抜けてきたものが違う。
「その準備を粛々と進めていたとき、世界中を震撼させた出来事が起こったわ。そして知ったのよ―――魔門は破壊できるのだと」
握った拳に力が入った。つい先ほど聞いた話だ。
あの男は、“概念”を生み出したと。
「それなら、“流す”のではなく“破壊”した方が成功率は高い。そういう結論になったわ」
「?」
その言い回しが気になった。
成功率。それは、魔門の話ではないのだろうか。
「そして、そのためには事前の検証が必要なのよ。本当に魔門は破壊できるのか。そしてそれは、どのように実現できるのか。……一応聞くけど、スライク=キース=ガイロードの足取りは?」
「いえ。ここ最近はまるで」
落胆したように魔術師隊の男は首を振った。
あのスライク。英雄なのか指名手配犯なのか分からない扱いを受けているらしい。
「なんか事情があることは分かったけど、何でこのアイルークなんだ」
魔門流し。いや、ここで目論んでいるのは魔門破壊だ。
男の様子を見るにまともなことではない。この“平和”なアイルークでは物騒では済まされない事態だろう。
「理由は3つあるわ」
アラスールは3つ指を立て、ひとつ目を折った。
「ひとつ。アイルークは10年前に魔門流しを行っているの。つまり、魔門が弱っている状態なのよ。破壊の成功率が高いとみなせる」
犠牲者が出たとか言っていた話か。
アラスールの淡々とした口調に、アキラは口を挟めなかった。
確率と口にする彼女は、本当の意味で勝算を立てているように感じられた。
「ふたつ。他の大陸では実行不可能なこと。シリスティアは昨年の“伝説落とし”で余力が無く、タンガタンザは“百年戦争”で検証もままならないと判断したためよ」
アラスールが機械的に折るふたつ目の指を見て、アイルークを不憫に思った。
そんな消去法のような理由で、爆弾を押し付けられているようなものなのだから。
「そして」
アラスールは、最後の指を、折らずにアキラに向けてきた。
「みっつ目の理由はあなたよ。“勇者”ヒダマリ=アキラ。あなたがこの地に向かっていると判明して、条件は整ったの」
「……俺に、魔門を破壊させようとしているのか?」
「まさか。勇者様にそんなおそれ多いことを。ただ、より戦力がいた方が万が一の場合に人間を守れる確率が高い―――そう、判断したの」
アキラは、アラスールを探るようにじっと見た。
魔術師隊の男への口ぶりは、自分は使い走りで問答しても仕方がないといった様子だったのに対し、アキラに対してはまるで自分の決断のような言葉を使う。
使い走りのような言葉は、口だけのようにアキラは感じた。彼女の中ではすでに、このアイルークでの魔門破壊の実行を決定している。
そしてそれにアキラが気づいたことも察されているようだった。
つまり、自分は脅されているのかもしれない。
ここで首を横に降れば、アイルークの人々に甚大な犠牲が出るのだと。
身を乗り出そうとしたところで、イオリと肩がぶつかった。力の籠っていない肩だった。
アキラは顔も向けずに口を開こうとしたとき、アラスールは、ふと、今更気づいたように目を丸くした。
「えっと、そういえば大丈夫? 具合悪そうだけど」
「は、はひ」
呂律の回っていない返事が聞こえた。
アキラはアラスールの視線を追い、そして。
「リ、リリル? お、おい! 大丈夫か?」
「えっ、え、だ、だいじょうぶ、です。はい、まったくもって。はい」
驚愕するほど真っ赤な顔が隣に浮かんでいた。
リリル=サース=ロングトン。
彼女は、この部屋に共に通されてから、何ひとつ音を発さず、背筋を過剰なほど正してアキラの隣に座っていた。
ちらりと見ると、両手は膝を握り締め、カタカタと震えている。
泳いだ眼が時折アキラを捉えては、すぐさま首を振って誰もいない向かいの机をまっすぐに見つめ始めていた。
「休んだ方がいいだろ、なあ、医務室とかないのか?」
「ひっ、いえ、その、お構いなく」
「構うよこれは。毒でも盛られたのか?」
「い、医務室ならこちらに」
「あー、あそこ? それなら私が連れてくわ。女の子の方が何かといいでしょ」
意外にもアラスールが立ち上がり、リリルの肩に手を置いた。
慎重に立たせると、未だに顔を赤くしたままのリリルの肩を預かりゆっくりと歩いていく。
そのリリルに、アラスールが、またあの瞳の色を浮かべているのが妙に気になった。
「たく。ヨーテンガースの連中は」
会議室のドアがパタリと閉じた途端、魔術師隊の男が毒づいた。
アキラが顔を向けると、軽々しい愛想笑いを作ろうとし、そして失敗していた。
「ヨーテンガースの魔術師と何かあるのか?」
魔術師の男は眉を潜めると、行儀悪く机に肘を置いた。
どうやら腹を割って話をしたいらしい。
「イオリさん。あなたもご存知でしょう。ヨーテンガースのやり方を」
「ええ。僕も何度か」
「おいおい、何の話だよ」
イオリは困ったように笑みを浮かべ、そして魔術師隊の男に確認を取るように小さく頷いた。
「実はね。魔術師隊は基本的にその大陸の魔導士隊が管轄しているんだけど、ヨーテンガースはその指揮系統に割り込む権限を持っているんだ」
「割り込み?」
「ああいや、上司というわけじゃない。公には、魔術師隊に対して、本来の業務を阻害しない範囲で協力を仰ぐことができる、必要に応じて命令権を持つ、という形なんだけど、実際はかなり強引だよ。彼女はまだ柔和な方だ。有無を言わさず命令せず、会話をしてくれるんだからね」
イオリも魔術師隊にいた頃は色々と悩まされたのだろうか。
会話もせずに命令権だけ使われたら魔術師隊もたまったものではないだろう。
「その上、いろんな場所を引っ掻き回すくせに、ヨーテンガースの情報はほとんど他の大陸に出回らない。ヨーテンガースは謎だらけの大陸ですよ。去年だって、いきなり神門調査だとかで町の整備を大慌てですることになったし、はあ」
魔術師隊の男からどっぷりと疲れたような空気を感じる。
“平和”な大陸の魔術師隊は随分と楽な仕事なのだと思っていたのだが、申し訳なくなってきた。
ちゃんとお仕事なのだろう。
「だけど」
イオリは、だらけたような様子の男に聞かせるためなのか、僅かに大きな声で言った。
「その実力は本物だよ。ヨーテンガースでは魔術師でさえ他の大陸の魔導士にだって匹敵する。それに、他の大陸への命令権があるのは、“管轄範囲が世界全体”だからだ。あの女性、アラスールも相当だろうね」
イオリの言うことをすんなり納得できたのは、あのアラスールと会話したからだろう。
何の変哲もない一挙手一投足から、刺すようでも、押し潰すようでもない、ピリとした雰囲気を確かに感じた。
確かに裏打ちされたものは持っているのだろう。
「てかさ、それならそいつら他の大陸に来てもらえば色々問題解決するんじゃないのか。シリスティアとか」
見当外れなことを言っていると、途中で気づいた。
これには、魔術師隊の男もまるで理解を示さないような表情を浮かべている。
「ヨーテンガースの情報はほとんど分からない。魔導士の僕ですら、知らされる情報はほんの一部だ。だけどね、彼らは“何か”をやっている。何せ、“世界そのものを守るための部隊”なんだから」
アキラは奥歯を噛んだ。
そうだ。
ヨーテンガースには、“あの存在”がいる。
イオリは、小さく肩を落とした。
「だから、あんなことは日常茶飯事さ。何かに通じていることなんだろうけど、僕らがそれを知れることはほとんどない。いち旅の魔術師になった今の僕としては関わり合いたくないのが本音かな」
「大事そうだったけど」
「彼ら彼女らが何かを持ち込むときはいつも大事のように話すのさ。そしてそのたびに問答がある」
イオリは同意を取るように魔術師隊の男に微笑み、そして男も頷いた。彼も何度か巻き込まれていると聞く。
疲労を顔に浮かべるように見えるイオリに、アキラは心の中で安堵した。
リリルのことは聞く必要があるが、この件は魔術師隊としてはよくある内輪もめなのだろう。彼女が魔術師隊の支部に通っているのは、こうした面倒事と自分たちが関わらないように立ち回っているからだという。今回も物騒な話だとは思うがイオリの口ぶりからするに、その関わらないようにしている面倒事なのかもしれない。
イオリの態度も、首を突っ込みかねない自分が来たから、面倒事が増えたと思ったせいなのだろう。
邪推したが、今回は“一週目”の出来事でない可能性も出てきた。
「まあそれでも、魔門流しのときくらいは協力を仰ぎたいものですがね」
アラスールが戻って来る様子がない。リリルと話でもしているのだろうか。
魔術師隊の男の愚痴は、最早会議の体を成していない。話は終わりのようだ。
「そうだったら……、ああ、私の先輩だった方がね、犠牲になったんですよ」
「その魔門流しでか?」
「ええ、危険でしょう。だから言いにくいですが、正直魔門には関わりたくないんです。職務放棄ですがね」
暗にアキラに断ってくれと言っているようだった。
アキラが首を縦に振れば、交渉の材料が減ってしまうのだろう。
自分がアイルークの魔門破壊決行の理由のひとつなら、関わらないことで計画破綻に追い込める。この男が考えているのはそういうことだろう。
だが、アキラは感じる。あのアラスールは、結果として魔門破壊を決行するだろう。
そして下手をすれば、アイルークに甚大な被害が出る。
「自分の代で魔門流しなんて、運命を呪いました。魔門流しの時期は一般には伏せられて、秘密裏に行われますからね。まさか自分がやることになるとは思ってもみなかったです」
確かに同情すべきだ。
“平和”なアイルークで、唯一と言っていい狂気の行事に参加する羽目になったこの男を。
そしてアキラの返答ひとつで、この男はその数奇な運命を改めて呪うことになるかもしれない。
アイルークの魔門はその尊い犠牲のお陰でしばらくは大人しいらしい。
アラスールも魔導士なら流石に無謀なことはしないだろう。アキラが断ることでそのリスクが軽減できるなら、彼女風に言えば、作戦決行の確率が下がるなら、確かに断った方がいいかもしれない。イオリがうまく立ち回ってくれたことを無駄にしかねない。
リリルのこともあり、彼女には事情を詳しく聞きたいが、“一週目”の出来事でも無ければヨーテンガースのわがままに付き合うことも無いだろう。教えてくれるとは思えないが。
あまり長いはしない方がいいだろう。
いずれにせよ、イオリとふたりで話をしたい。
だがアキラは、その前に、興味本位で男に聞いた。
「その先輩、どんな人だったんだ?」
「アキラ、行こう」
イオリから、思わず、と言った様子の声が出た。
視線を向けると、イオリは視線を外す。
そして、ふと、脳の片隅で、何かが蠢いたような感覚がした。
「ああ、“ふたりとも”いい人だったよ。今でもよく覚えている。私の教育係をしてくれた人だ。フォール=リナ=クーデフォンとルーシャ=クーデフォン。ああ、ルーシャさんの方は旧姓を使ってたんだっけ」
このときばかりは、アキラもイオリの顔を見る気にもなれなかった。
―――***―――
人を本気でぶん殴ろうと思ったのは初めてだった。嘘だが。
ただ、とりあえず、あのガキに、この拳を勢い良く振り下ろせばスコーンといういい音がするかもしれないとは思っていた。そんな音を聞きたい一心で、エレナは町を歩いた。
彼女を見つけ、そして、それを止めた。
ここで騒ぎを起こすのは、いかに自分でも不躾だと思う。
死者への冒涜だ。
「それ、誰の墓?」
人に尋ねて導かれるままにエレナが進んだのは、大通りから外れた墓所だった。
巨大な建物の裏に広がった、雑草だらけの墓石の群れ。
エレナは整った墓所が嫌いだった。面積を最大限に活かすためだけに整列するように墓石が並ぶ空間は、生者の都合で主役であるはずの死者の魂を強引に縛り付けているように見えるからだ。それなら、亡くなったその場所で、静かに弔った方が彼ら彼女らにとっては安らげるかもしれない。
もっとも、死人に口なし。何を想っているのかはまるで分らない。
それなのに、アルティア=ウィン=クーデフォンは会話をするようにまっすぐに立っていた。
「エレお姉さま。どうしたんですか。急にいなくなったりして」
「わーお」
死者への冒涜もありかもしれない。
だが許して欲しい。いつものように目を丸くして自分を見てくるこのガキを、貴様らの仲間に加えてあげるのだから。
まあ、ご両親の前のようだから許してやろう。
歩み寄りながら、墓石に刻まれた文字は目に入っていた。
「なんでここに?」
「エレお姉さまが聞いたんじゃないですか。私が何を考えているのか。それならご案内しようと思いまして。お父さんとお母さんにご挨拶もしたかったですし」
ご案内とは突然の全力疾走のことを言うらしい。知らなかった。今度ふたりで魔物に囲まれたら安全な場所にご案内してやろう。
優れたガイドは墓石の前でしゃがみ、目を瞑った。
「いつ?」
「私がちっちゃなときです。でも、今でも覚えてますよ、最後に出かけたときと、最後にお帰りになったときを。もう、助からないとみんなが言っていました」
「……死に目には会えたのね」
何の慰みにもならない言葉をこの口が言った。
ティアは目を瞑ったまま、静かに続ける。
「あのとき、魔門流しをやったそうです。だけど上手くいかなかったみたいで、詳しくは分からないですが、お父さんとお母さん、何かに浸食されているように苦しんでいました。誰も、何もできなかったんです」
エレナも目を瞑った。
散々死者だの魂だの考えていたが、実のところそういうものはエレナ自身信じていない。
だがそれなのに、冒涜することはできない。不思議なものだ。
「私はもう、びっくりしましたよ。何が起こったのか分からないままで。いつものようにおふたりを見送って、いつものようにおふたりを待っていたのに、突然、です。私の知らないところで、始まって、終わって」
ティアの背中は、小さかった。
その背中は、かつての自分の姿かもしれない。
何も知らないまま始まり、何も知らないまま終わる。
それがどれだけの不安と絶望を感じるのか、自分はこの身で味わっていた。
「エレお姉さま。私が何を考えているのか聞きましたよね」
ティアは立ち上がり、微笑んだ。
「私はですね、そのとき思ったんです。誰もが無理だと言うのなら、私がそうなろうと。私が一生懸命頑張って、どこへでも駆けつけて、どんなに傷ついている人でも救おうと。だから、私は誰かの役に立ちたい。そうじゃないと、あのときの気持ちをまた味わうことになる。そんなの嫌です。あはは、私はやっぱり、自分勝手なんでしょう。誰かを救っても、結局自分のためなのかもしれない。それでも、それでも誰かが助かるのは、とっても嬉しいことなんだって思うんです」
目的と手段が入れ替わっている。
冷めた心で聞けばそう響く。
だがエレナは、口を挟まなかった。
「漠然としていて、具体的にはやっぱり分からないですが、誰かを救いたい。喜んでもらいたい。それが私の考えていること。したいこと。されたいこと。私の―――ルーツです」
本質的に、自分との違いを感じる。
ティアは絶望の淵から、二度と繰り返さないために救いを選んだ。
対して自分は、原因の破壊を選んだ。
根本的なこの差は、埋まりようもないのだろう。
「やっぱりあんた、変ね」
「なな、いやいや、実力不足は重々承知ですが、これからも精進いたしますよ」
「だから変なのよ」
エレナは、背を向けて歩いた。
背後で慌てた様子の足音を聞きながら、エレナは嫌でも目に入る巨大な神門を見上げた。
あそこからなら、魂とやらは見えるのだろうか。
アルティア=ウィン=クーデフォンの行く末を、見守ることはできるのだろうか。
うんともすんとも言わない神門は、エレナにとっては、くだらない岩山にしか見えなかった。
―――***―――
誰か親切な人に運ばれた。
女性だったと思う。何か自分に言っていた。期待を向けてくれているのだろうか。申し訳ないが、まるで頭に入ってこなかった。
ここは医務室らしい。
ベッドにうつ伏せになりながら、顔を全力で枕にこすり続ける。
「話しちゃった、話しちゃった、話しちゃいました」
リリル=サース=ロングトンは、枕をベッドからふるい落とさんばかりの勢いで身体中をうごめかせた。
震える指先で何とか枕を掴むと、力強く抱き寄せる。
顔は、燃えるように赤くなっていた。
「ヒダマリ=アキラ、彼が、そう。ああ、声は聞いていたのに……!」
ガシガシと頭を掻きむしり、リリルはようやく動きを止める。
ヒダマリ=アキラの存在を認知したのはあの“誘拐事件”だ。
当時多くの魔術師が参加した中で、未熟な自分も活躍しようと意気込んでいたのだが、結局のところ大群と一緒になってあの巨獣に砲撃を浴びせることしかできなかった。
というのも、アキラとその一派がすでに伝説の巨獣を撃破寸前まで追い詰めていたからだ。手柄を取られたような感覚も味わったが、その顛末に、彼らはどこかに“飛ばされて”しまった。
だが、そのときの彼の行動は心に焼き付いた。
危険をいとわず巨獣に立ち向かう勇気。わが身が犠牲になろうと迷わず被害を最小限に抑えようとした叫び。その姿は、自分が目指す勇者という像に他ならないと。
それからというもの、彼の噂は所構わず耳に入った。
百年戦争、雪山の伝承、どれもこれも、誰もが1度は耳にしたことがあるであろう神話クラスの大事件だ。
魔門破壊も彼がやったという噂があったが、それが異なることは知っていた。自分の情報収集に抜かりはない。
そしてその話を聞くたびに、勇者として彼に負けられないと自分を奮い立たせられたものだ。
追いつこうとするたびに、その背中が離れていく。そんな先輩の勇者と、きっといつか会って話をしてみたいと思い続けていたものだ。
なのに。
「馬鹿ですか私は」
道案内をしてくれる親切な人だと思い、そして、自分を知っていたことにいい気になってしまうとは。
そして彼にとっては分かりきったような話を調子に乗って得意げにしたような気もする。
そういえば、迷惑そうな顔もしていた。
アキラがアイルークを訪れると聞いて、遠路はるばるここまで来たのに。油断した。最悪だ。
「ああ……、時間を戻したい。ほんの数時間、やり直したいです……」
だが生憎と、自分はその力を使えない。
「とに、かく」
リリルはベッドから跳ね上がるように立ち上がり、ぐっと拳を握った。
「今ならまだ挽回できます。そして、勇者としての心構えをお聞きしなければ。うんうん、私はまだやれます」
「あら良かった。元気そうね」
「ひぅっ」
せっかく熱が引いてきたと思った顔が、また熱くなっていく。
顔を向ければ、医務室の出口に、先ほどあった女性の魔導士が立っている。
「今の、聞きましたか?」
「聞いてないわ。そう言わないと、また倒れられちゃいそうだしね」
何とか持ちこたえられた。
女性は静かに中に入ってくる。
確か、アラスールと名乗っていた。彼女がここまで運んでくれたのだろう。
「ご快方ありがとうございます。ですが、もう大丈夫です」
「ええ、さっきも聞いたわ。それより、あなた、リリル=サースロングトンよね」
リリルは、すっと身体の熱を引き、神妙に頷いた。
魔導士にそう言われるということは、真剣な話なのだろう。
「さっきの話、どこまで聞いていた?」
「一応は。魔門流しならぬ魔門破壊をするつもりのようですね。噂は聞いていましたが。正直、正気の沙汰とは思えません」
アラスールは満足げに笑った。
「そうね、成功率は格段に低いわ」
「あら。楽観視するようなこと言っていませんでしたか?」
「私はこれでも隊長職でね。と言っても、十人いるかいないかの小さな部隊のだけど。だから士気を下げるようなことは口に出せないわ」
「このアイルークでやることがどういうことか分かっているんですか?」
「残念ながら、“決定”なのよ。この実験は。上にかけ合ったのは本当。馬鹿じゃないの、ってね。失敗したときの被害なんて分かりもしない。でもね、失敗してでも実験しろってさ。だからね、私はそれを実行するわ。決まってしまったことの成功率を可能な限り上げるお仕事だもの。国仕えの悲しき性ね」
アラスールは歩み寄ってきた。
ピリとした空気が伝わってくる。彼女は意図せずなのかもしれないが、発する言葉に、態度に、雰囲気に、鋭さと重さを確かに感じた。
「あなたまで来てくれたのは幸運だった。それで、どうする?」
「……彼は何と言っていましたか」
「ヒダマリ=アキラならイオリちゃんとデートの約束があるって帰っちゃったわ。……って、何静かに座り込んでいるのよ。デートは冗談よ冗談。なんか怖い顔してたけど」
アラスールは隣に腰かけてきた。
彼女が自分を尋ねてきた理由は分かる。
成功率が格段に低い。
失敗したときの被害は計り知れない。
だが成功すれば、多くの者が救われる。
それを前にしたときの自分の答えは、いつだって、決まっている。
「私はやります。ご協力しますよ、勇者として」
―――***―――
「ここで話そう」
手ごろな路地裏を見つけたから、アキラは歩む速度を緩ませず突っ込んだ。
背後からついてくる気配を探りながら、大通りの声が聞こえなくなったところで立ち止まる。
イオリは、いつもの冷静な瞳を携えていた。
「今回ばかりは聞かせてもらうぞイオリ。魔門破壊。こいつは、“一週目”でもあった出来事だな?」
クーデフォン。
その名を聞いて、すべてが確信に変わった。
この出来事は、自分たちの旅に大きく関わっている。
イオリは、この事件にアキラたちを関わらせないようにしていた女性は、ゆっくりと頷いた。
「何から話そうか」
「全部だ。お前がやってきたこと、全部、話してくれよ」
イオリはピクリと指先を動かした。だが口には運ばず、代わりに大きく息を吐いた。
「このアイルークに来てからだ。僕はずっと、この事件のことを考えていた」
「それで魔術師隊の支部に通っていたのか」
「全部が嘘じゃないさ。騒ぎが起きないようにしていたのは本当だ。そして同時に、気づかれない範囲で、話を聞き回っていた。今回も、魔門破壊の計画が進んでいるのかってね」
イオリは壁に背を預けた。
「流石に小さな村の支部じゃ何も分からなかったけど、やはり噂は漏れるものだね。モルオールの魔導士がこの町に訪れていると話を聞いたよ」
「アラスールとかいうあの人か」
「ああ。そして彼女がいるということは、やはり“起こる”と思ったよ。アルティアの故郷でもあるし、ここへ向かう自分たちの進路を変えるわけにもいかなかったしね」
自分たちが選んで向かった道は、過去に踏み荒らされている。
記憶の封が解けない“一週目”。
自分たちは、やはり同じ道を選んでいる。
「それで、何でだ。何でそれを避けようとするんだよ。“一週目”の出来事なら、やった方がいいだろう」
「避けられるなら避けた方がいいと思ったんだよ。アラスールも言っていただろう。成功率がどうのこうの。その確率が、僕は極めて低いと判断した」
頭に血が上っていくのが分かった。
「何を今さら言ってんだ。確率? それを語ることに意味が無いってお前だって分かっているだろ」
ヒダマリ=アキラの日輪属性の力なのか、あるいはこの世界が“三週目”だからだろうか。
細部は違えど大局は揺るがない。
だからこそこうして自分たちは再び出逢い、旅をしている。
そんなことは、目の前のイオリが誰よりも理解しているはずだ。
「なら、言おうか。結末から。この魔門破壊は“失敗する”。まさしく実験さ。僕たちは命からがら逃げ延び、どこで使われる分からない何かの糧になった。そんなリスクを君はとれるのか?」
「なっ」
ホンジョウ=イオリが失敗と断じる。
それがどれほどの意味を持つのかアキラは深く知っていた。
「失敗って……、アイルークはどうなったんだよ。まさか、」
「……いや」
イオリは小さく首を振った。
その動作だけで、アキラの脳裏をよぎった最悪の光景は消えていく。
「魔門破壊は失敗したけど、最悪の事態は防いだよ。あの後も、アイルークは平和そのものさ。大事にはなったけど、被害としては最小限さ。その辺りは、君やエレナたちの功績だと言える。失敗したときのリスクを、可能な限り軽減できたんだから」
「なんだよ」
「可能な限り、だったけどね」
含みのある言い方をされた。
アキラは奥歯を噛んで、震えた声を出した。
「なあ、イオリ」
「ん?」
「お前、今の俺が弱いって言ったな。だから、今回は参加させないようにしていたのか」
ずっと、頭の中にあった黒い思考が噴き出してきた。
待て、と思う前に、口が動いた。
「お前は俺を、信頼していないよな」
イオリが顔を上げた。その瞳の色は見えない。そこに映った自分の顔も分からなかった。
「……そんなわけないさ。今の君は僕とサラを救ってくれた。だから、感謝している」
「そんなことを聞いてんじゃねぇよ。“一週目”の俺だったら、俺がその域に達していたら、お前は隠したりしなかったんじゃないか」
イオリが拳で壁を殴ったのが見えた。
言い出したら止まらなかった。酷く後悔する。
自分の倍の記憶を有するイオリは、また、苦しんでいるのだ。
「……否定はできない。信用はしている。けど、頼ることはできない」
イオリが滲み出すような声で断じたその事実を、アキラは重く受け止めた。
背中が見えているかどうかも怪しい“一週目”の自分。
それですら、魔門破壊は失敗したと言う。
今の自分では、イオリはこの事件が危険だと判断したのだろう。
だけど、物語を捻じ曲げると、手痛いしっぺ返しを食らうことも同時に知っている。
だからこそ、苦悩して、迷って、それでもここまで旅を続けてきた。
“一週目”の出来事を忘れた自分が恨めしい。その苦しみの半分も理解できていない。
「イオリ」
アキラは、イオリに詰め寄った。
殴るなら殴れという位置で。
「お前の悩みを分かっているなんて言えない。そして、こんなことを言う資格が無いのも分かっている。だけど、俺を、俺たちを信頼してくれないか。お前が悩んでいるのは、全部俺のせいじゃねぇかよ。俺が世界を狂わせたせいだろ。だから、どんなことだってしてやる。全部俺に放り投げてくれよ」
「……それは、できない」
震えた声だった。
信用はできるが、信頼はできない。
それが、今の自分に下された正当な評価だった。
彼女は苦しみ続けている。それは、この“三週目”で出逢ったときから変わっていない。
知っているがゆえの毒々しい呪いに、彼女はひとりで立ち向かい続けている。
だから、アキラは諦めるわけにはいかない。彼女を知り続けることを止められない。
自分が救いたいと思っている存在のひとりだ。
「なら」
アキラは、まっすぐにイオリを見た。
この答えが、彼女が苦悩して出した答えに背を向けることになると分かっているが、それでも。
「今回は魔門の破壊を成功させる。それで信頼してくれ。“一週目”の俺に出来なかったことを、今の俺がやってやる。それでどうだ」
イオリは、ふうと息を吐いた。
自分が言い出しそうなことなど、きっと自分が魔術師隊の支部に訪れたときから察していたのだろう。
「アキラ。さっきも言ったけど、前々回の君にできなかったことを今の君はできたんだ。サラを救えた。だけどこの魔門破壊はそうはいかない」
「それでも、やってやる。だからイオリ、やろう」
グ、と喉の音が聞こえた。
「なら、君が決断してみてくれ。君は犠牲を払うことを選べるか?」
うつ向いたままの囁くような声だったのに、脳裏を揺さぶった。
選べるか。
とてつもなく、重い言葉だった。
「何を言って……」
「魔門破壊。それ自体はまさしく成功率の問題だろうね。今回は、確かに成功するかもしれない」
「じゃあ、」
「だけど、確実に失うものもあるとしたら、君はそれを選べるか?」
話が見えない。
イオリが戦っているものの正体が分からない。
彼女は、顔を上げ、アキラの顔を睨みつけるように見た。
「前々回の魔門。その過程で、あのときの君にとって大きな問題が起こった」
「……何が起きたんだ」
頭の奥で、何かが熱くなってきた。
潮の満ち引きのように、煮えたぎる何かが漏れ出し、治まり、それでも徐々に脳が侵食されていく。
「前々回の魔門破壊。破壊は失敗したけど、アイルークは無事。だけど、犠牲者は確かに出たんだ」
熱に浮かされたように、頭が熱くなってくる。
視界は揺れ、得体の知れない何かが身体中を揺さぶる。
イオリの眼に映る自分の姿が、一層見えなくなってきた。
「犠牲者の名前はリリル=サース=ロングトン。僕らが散々探し回って見つけた最後のピース。ヒダマリ=アキラの最初の月輪の魔術師だ」




