第45話『得るものは何もない』
―――***―――
その日は久しぶりに夜まで続く雨が降っていた。
湿った木の匂いが鼻をくすぐるが、天気が崩れるのは嬉しい。あの日を思い出さずに済むからだ。
もう少し本降りになって、すべての記憶を洗い流してくれはしないだろうか―――それは、高望みしすぎかもしれない。
砕かれた家屋も、割れた大地も、崩れ去った塔にも平等に降り注ぐ雨は、洗い流すどころか悲壮感を増すだけだった。
世界には憂いがある。
それは例え、魔王と呼ばれる脅威が過ぎ去っても、必ず存在するだろう。
それは、喜びと表裏一体なのだ。
どこかの喜びは何かの憂いであるし、逆もまた然りである。
もし喜びも憂いのいずれもないのであれば、それこそ最大の憂いであるような風に思えるのだから、完全に手詰まりだ。
そして、今回の世界の憂いはこの、自分が立つ地に現れた。
きっとこの憂いは、誰かの喜びとなってどこかに現れているだろう。そう考えれば、そう考えなければ救われない。
持参した花を、廃墟の前に静かに置いた。
膝まずき、目を閉じ、僅かばかりの言葉を心の中で呟いて、ゆっくりと立ち上がる。
今日も日課が終わった。
あとは帰って眠りにつこう。
一応は礼儀として、この村―――もう、村とは呼べないのであろうが―――の入り口付近に停めてある馬を目指しながら歩く。
建物に使われていた木材の破片が散乱している中を歩いていると、ふと、窓から明かりが漏れている建物が目に留まった。
僅かばかり亀裂が入っているが、辛うじて建物の体裁を守っているその家は、庭に座り込んでいるのをよく見かける老夫婦の家だ。どうやら忘れ物でも取りに来たらしい。こんな時間にくるとは、よほど大切なものなのかもしれない。
その点自分は抜かりない。あまり私物を持たないのが幸いして、あの惨事の中でも滞りなく避難できた。
あの、笑ってしまうほど、あっけなく過ぎ去った脅威の中でも。
振り返る。
雨が強くなってきたようだが、空は見上げない。
何もかもが無くなったこの村を見ると、何も残していないのに、途方もない喪失感にかられる。
やはり―――駄目だ。
誰も見てはいないのに、目元を拭うのも、日課になってしまっていた。
こんな雨の日も、それは、変わりはしなかった。
「……?」
村の入り口に付くと、遠くから、何かが向かってくるのが見えた。馬車のようだ。
こんな時間にこの村へ向かってくる者は限られている。
ひと月ほど前までは調査のために魔術師隊が大挙して押し寄せていたが、今となってはそれも終わり、あのときのまま時間が止まったような廃村である。
となると村の者か。
だが、この村に訪れそうな者は皆、今それどころではないはずだ。
では、物見遊山の旅行者か。それならばよくここに辿り着けたものだ。
嫌でも目に付くこの村のシンボルは、既に存在しないというのに。
いくらか考えても、どうにも答えは出そうにない。
馬の手綱をほどき、優しく撫でながら馬車の様子を伺う。
次第に雨足も早くなっていく中、遂に目の前で停まった馬車の様子をうかがっていると、その扉が、勢いよく開いた。
「セッ、セレンさん!! よかった、無事だったんですね」
面食らったのは向うも同じだったようだ。
雨の気にせず飛び出してきた赤毛の少女を自分はよく知っている。
エリサス=アーティ。
この村で自分が家庭教師を務めていた教え子であり、今や世界クラスの活躍をしている人物だ。
すると、と思って馬車に目を走らせると、中から数人、防雨のコートを着た女性たちが下りてくる。
そして、最後に。
神妙な顔をした、ひとりの男が下りてきた。
男は、村の様子を一瞥すると、力強く、まっすぐに、視線を合わせてきた。
「何があったんだ」
――――――
おんりーらぶ!?
――――――
「そうですね、もう、2ヶ月になりますか」
セレン=リンダ=ソーグ。
この村でエリサス=アーティの家庭教師を務め、そして孤児院の手伝いをしていた女性だ。アキラも覚えがある。冷たい、というよりは、鋭い印象を受ける女性だった。
彼女に通されたのは、廃村の小さな小屋だった。
もともとは魔術師隊が調査のために急きょ建てた小屋だそうだが、調査が終わったあとも難民たちの一時しのぎとしてそのままにしていったらしい。
手狭な部屋に無遠慮に置かれた中央の机が妙に冷たく感じる。
対面に座るセレンは雨でぬれたからか結わいていた黒髪を背中に垂らし、曇った眼鏡を静かに拭いている。弱々しくは感じない。だが、その淡々とした一挙手一投足に、まるで活気というものは感じられなかった。
「あの日、この村に、巨大生物が現れました」
それは、ここに来る道中でも聞いた話だった。
間近で見た者すら、それを魔物と断ずることはできなかったという。
この平和な大陸においては規格外の存在が、突如として出現した。
セレンの話では、時刻は早朝。村の魔術師隊の男が最初に気づいたらしい。
彼は我が目を疑いながらも必死で村中を駆け回り危機を知らせたらしいが、時間も時間で効果は薄かったという。
襲撃をしてきた巨大生物は、どうやら北の方向から現れたとのことだったが、それ以外は不明だという。
現在も魔術師隊が調査を行っているそうだが、その詳細まではセレンは知らないそうだった。
彼女の説明は流れるようで、分かりやすかった。
きっと何度も、魔術師隊に説明をした内容なのだろう。
「すまない。その巨大生物をあなたは見たのか?」
ミツルギ=サクラが口を挟んだ。
振れれば切れるような視線ではあるが、セレンに対する労りを感じる。
それでも、村に漂う悲壮感には取り込まれていないようだった。
こうした村など、彼女はいくらでも見てきたのかもしれない。
セレンは頷き、そして眉をしかめて記憶を辿るように目を瞑った。
「……見ました。あのときは私も逃げることに必死で、確かなことは分かりません。ですが、
辛うじて視認できた姿を見るに……、いや、うん、まさかとは思いますが、“マーチュ”、のようでした」
「マーチュ……!?」
エリーが声を上げた。
サクの気配が鋭くなるのも感じる。
アキラは会話を聞きながら、拳を握り締めた。
やはり、そうだったか。
「マーチュってあの、え、マーチュですか? あの小さな」
エリーはまさかという顔でセレンを見るが、彼女はいたって真面目な表情で頷いた。
「信じられはしないが……、私は聞いたことがある。この辺りにマーチュの巣があるだろう。そこに、信じられないほど巨大なマーチュが生息している、と。私はその調査依頼を受けたことがある。ほら、お前たちと初めて会ったときのことだ」
サクの言葉を聞いても、エリーはまだ信じられないような表情を浮かべる。
そして何かを思い出したように、アキラに視線を投げてきた。
そういえば、あのとき自分は頑なにマーチュの巣への侵入を拒み、エリーに不審がられたものだった。
「そして」
自分でも、嘘のような話をしていると分かっているのだろう。そしてそんな話を何度もしてきたのだろう。
セレンはエリーの様子を気にも留めずに、話を進める。
「その巨大マーチュは、ただ、歩きました。この村の上を」
エリーは息を呑み、そしてセレンの表情がさらに険しくなる。
その日。その2ヶ月前の出来事を思い出しているのだろう。
「本当に、それだけだったんです。その巨大生物からは意思はほとんど感じませんでした。暴れ回ったわけでもない。明確に攻撃してきたわけでもない。ただ散歩するように、進み方を覚えた赤子のように、歩いただけ。その結果―――」
窓の外の様子を探る。
民家は“ひしゃげ”、大地は所々が陥没して雨水を溜めている。
いたるところに砕けた瓦礫が散乱し、それがもとはどのような形だったのか想像もつかない。
この惨状でも、魔術師隊が調査に来たのであれば多少は整理されているのであろう。
歩くこともままならないようなこの場所には、最早何も残っていない。
「リビリスアークは壊滅しました」
マーチュ。
正式名称とやらは忘れたが、土色で、ネズミのような小さな魔物。
ヒダマリ=アキラがこの異世界で最初に倒した魔物でもある。
攻撃方法は突進にもならないような体当たりと、精々牙をむく程度。
危険性は著しく低い魔物だ。
だがそんなマーチュでも、身体のサイズが極端に巨大となればどうなるか。
その脅威を、アキラは知っている。
ここではない、どこかの世界線で、自分はその巨大な脅威と出遭っていた。
「あの……、みんなは無事ですか?」
話を終えたセレンに、エリーは恐る恐る知らなければならないことを聞いていた。
この地へ向かう途中、彼女の青い顔を何度も見てしまった。
「みんな、とは」
「みんなです。お母さんは、お母さんはどこに……?」
背筋にひやりと冷たいものが走った。
エリーと同じく、アキラは祈るようにセレンの言葉を待つ。
するとセレンは、ようやく柔らかく笑った。
「エルラシアさんは無事よ。孤児院があんなことになって、今も引き取り手を探して奔走してるけど」
エリーから身体中の力が抜けていくのを感じた。
「村長も似たようなもの。今も援助を求めて他の村を駆けずり周ってるけどね。あのおふたりがいなければ、今頃村人たちはどうなっていたか」
「良かった……手紙が来ないから、本当に、どうなってるかって……」
「それについてはごめんなさい。村がこんなことになって、エリサスの手紙が受け取れなかったから……。どこにいるか分からなくてね」
「いや、いいんです。本当に」
アキラは呆然と聞いていた。
会話が妙に静かに聞こえる。
身体中にまとわりつく湿気が、身体中の活気を奪い去っていくようだった。
もしこれが、あの出来事通りならば、話がそれで終わりではないことを知っていたからだ。
「……ただ」
視線に気づかれたようだ。
セレンはアキラをちらりと見ると、諦めたように言った。
「魔術師隊の話では、死傷者は約80名。村の様子の割には幸いにも少なかったようですが……、そのうちのひとりは、孤児院で面倒を見ていた子でした」
―――***―――
今は近くの村で寝泊まりしているらしい。
一通り話を終えると、セレンはこの雨の中帰っていった。
どうやら彼女も村長やエリーの母の手伝いをしているようで、明日も人と会う約束があるという。
廃墟と化したリビリスアークの主要人物たちは、今なお元の生活を取り戻せていない。
村ひとつが壊滅するという出来事に対して、人ができることはあまりに少なく、それだけに、時間は膨大に必要なのだろう。
「アキラ。寝泊まりできそうなところ、見つけたよ」
半壊して傾いた建物のお陰で雨が凌げる場所を見つけた。
壁に背を預けてぼんやりと雨を見ていると、現れた少女が同じように隣で背を預けた。
ホンジョウ=イオリ。
アキラと同じ異世界来訪者の彼女は、数か月ほど前から行動を共にしている仲間だ。
雨ざらしの廃村を眺める彼女の瞳の色からは、相変わらず、何を想っているのか分からなかった。
「ありがとな。まあ俺はその辺でも良かったんだけどさ」
「エリサスが言い出したんだよ。放っておけば君はそういう無精をするってね。まったくもってその通りだよ」
イオリがくすくすと笑った。
あまり面白くない。
「この村。元がどうだったのか僕はよく知らないけど、魔術師隊がやったんだろう、そういう避難所、結構あるんだ。たった2ヶ月でほとんど使われていないってことは、それだけこの村の村長の手際がいいということかな。みんな、別の村で新しい生活を始められているみたいだね」
不幸中の幸いという奴なのだろうか。
だが、アキラは強くは思えなかった。
「それか、それだけここにいたくない奴が多かったってことだろ」
苛立った声は雨音に紛れたようだった。
だが言い直す気にもならない。
アキラはいつしか雨を、そしてその先の北の洞窟を睨んでいた。
あそこから現れた脅威。笑ってしまうほど巨大な影。
それが出現したという。
「なあイオリ。セレンさんが帰るときさ、みんな言ったろ、雨が強くなってきたから今晩はここに泊まっていった方がいい、ってさ」
「……ああ」
「セレンさんがすぐに断ったとき、俺は見たよ。一瞬だけど、目が泳いだの。いや、震えていたのを」
身体中が金縛りにあった気がした。
静かに、淡々と状況を説明したセレンが、その目に、明確な恐怖を浮かべたのだ。
提案したのは無遠慮だった。
彼女にとって、いや、この村の人間にとって、この村に留まること自体が恐怖となっている。突如として日常を砕かれた場所なのだ。その恐怖が根底に根付いてしまっている。
それをまざまざと見せつけられた気がした。
そして、その原因は、恐らく。
「なあイオリ。俺が思い出せたのはこの出来事だけだ。ここで起こった、この被害だけだ。お前は知っているんだろう、こいつが何故起きたのかを」
「……前にも言ったけど、僕から答えられることは無いよ」
「そうか、じゃあ俺が思ってることそのまま言う。この村が襲われたのは、俺が“勇者様”になったからだ」
ヒダマリ=アキラが“勇者様”ということは今や世界中に広まっている。
少し調べれば、異世界来訪者ということも分かるだろう。
そしてその異世界来訪者であるヒダマリ=アキラが、この世界に落とされた村が、このリビリスアークだということも。
北の大陸モルオールからは、船を乗り継ぎ、馬車の業者に無理を言い、慌ただしくこの地へ向かってきた。
その道中、何度も考えたことだ。
このタイミングでリビリスアークが襲われる理由は何か。
平和な大陸と言われるアイルーク。そんな事件など起ころうはずもない。
だが確かに起こったこの悲劇に理由があるとすれば、それはこの村が勇者を輩出したからだ。
つまり、この事件はこうも考えられる。
魔王軍による、報復、と。
「またやっちまった。これは“二週目”に起こらなかった事件だ。これは、」
「アキラ」
イオリがアキラの腕を掴んできた。
力は無い。だけど、それを振り払う気にはなれなかった。
「この村を襲撃したのは巨大なマーチュだ。君じゃない」
その言葉が響いたわけではない。道中で自分でもそう思おうとしたことだ。
改めてこの村のなれの果てを見て、この村の住人に会って、事前の心構えなど消え去ってしまった。
ただ、この憤りをイオリにぶつけても仕方がないことは思い出せた。
「……あいつはどうしてる?」
「エリサスなら割と元気だよ。むしろ、僕たちの中で一番。ある意味一番覚悟を決めていたしね。そんな彼女がそうしているんだ。僕たちが気にしすぎてもかえって彼女を苦しめる」
的確な正論だった。
モルオールにいたイオリや、あるいはタンガタンザにいたサクにとっては、こんなことは日常茶飯事だったのだろう。残された者に対する接し方も心得があるようだ。
だが、それでもアキラにはそんな接し方ができるような気はしなかった。
孤児院の子供たちは、アキラも知っている。
ひとり残らず顔も浮かぶし、名前だって呼べる。
その中のひとりが亡くなったという。
セレンには誰が被害に遭ったのかまでは怖くて聞けなかった。
彼女もそれが分かっていたから、深くは語らなかったのだろう。
エリーもそれ以上何も聞かなった。
彼女にとって、孤児院のメンバーは家族のようなものだったはずだ。今の彼女の心境は、怒りだろうか、悲しみだろうか。それでも彼女は、何も、言わなかった。
アキラでさえ、気が狂いそうなほどの感情が、今にも口を突いて出てきそうだというのに。
こうしている間にも、世界の裏側で、誰かの命が消えている。
そんな簡単に言える当たり前のことでも、その命が、自分が知っている者のものである想像はしたことは無かった。
それが今、現実に起こってしまった。
恐らくは、自分のせいで。
「ねえ、アキラ」
「ん?」
「僕は明日、近くの村を周ってみるよ。魔術師隊に話を聞いてくる。どこまで調査が進んでいて、今どうなっているのか」
「お前は知っているんじゃないのか?」
「意地悪なことを言うね。同じ出来事でも、何かが変わっている可能性がある。もしかしたらすでに討伐されているかもしれないんだ」
「そんなもん、見に行けば分かるじゃねぇか」
「……気持ちは分かるけど、落ち着いてくれ。彼らも彼らで、この問題には真摯に取り組んでいるはずだ。下手に刺激したら、迷惑になるかもしれない」
元魔術師隊らしい発言だった。
イオリは念押しするようにアキラの腕を強く掴むと、視線を合わしてきた。
「アキラ。君の責任じゃないと言っても、届かないかもしれない。だけど僕だって同罪だ。この事件を知っていた。だけど何の手も打たなかったんだよ、僕は」
「お前には事情があっただけだろ」
「そうさ。だから僕は深刻に悩んでいない。だけどね、君が苦しんでいるのを見ると、本当に悔しくて、苦しいんだよ。そう言っても、きっと半分も伝わらないかもしれないけどさ」
瞳の色からは、やはり何も分からなかった。
イオリは身体を離すと、さりげなく髪を触って空を見上げる。
相変わらず雨は強いままで、どす黒い雲が空を覆っていた。
―――***―――
自分が想像していなかったほど、目覚めが良かった。
寝袋の中で身じろぎすることも無く、アキラはすっと身体を起こす。
アキラの就寝用に見つけた小屋は寝泊まりするために作られたわけではないようで、酷く狭く、土と埃の匂いが強くする。急造だからか、木の壁のつなぎ目には隙間があり、日光が漏れていた。
どうやら雨は止んだようだ。静かな朝だ。
廃村となったリビリスアーク。
彼女たちは建物ふたつ分ほど離れた場所で夜を過ごしたはずだが、すぐに向かう気にはならなかった。
アキラは緩慢な動作で身支度を整えると、動かしただけで軋むドアを開ける。
部屋の中を満たす光に、アキラは思わず目を塞いだ。
どうやら雲ひとつない快晴のようだった。
「ようやく起きたか」
「……何してるんだよ、ここで」
突然声をかけられたが、思ったよりも冷静に返答できた。
振り返ればサクが、小屋に背を預けて立っている。
すっかり乾いた地面を歩み寄って来るサクを見て、アキラはようやく、今の時刻に気づいた。
「悪い、寝すぎた。もう昼か」
「まあ別に構わないが……、それより、これからどうするつもりだ?」
アキラは眉を寄せる。
鋭いサクの視線が、どうにも自分を探っているような気がした。
「どうするって、何がだよ。他のみんなはどうしたんだ?」
「エリーさんたちなら朝早く近くの村へ向かったよ。イオリさんに連れられてな。やはり母親のことが気になるらしい。まずはセレンさんを訪ねるそうだ」
「そか」
すると今、この村には自分とサクしかいないようだ。
この時間だ。本当は、この通りはもっと賑わっていたのだろうか。今は瓦礫を押しのけ、人が通れるように強引に開かれた一本道がむなしく村の外へ続いているだけだった。
「そういやサク。お前はなんでここにいるんだ? 一緒に行かなかったのか」
「私はお前の見張りだよ。エリーさんとイオリさんからくれぐれも、と頼まれてな」
「見張り、ね」
その意味は、なんとなく察せられた。
察せられるということは、今、心穏やかに思える自分が、“そういうこと”を考えている、ということなのだろう。
「それでだ。アキラ。これからどうする?」
「見張りとか言っておいて聞くのかよ」
アキラは呆れたように頭をかいて、ぼんやりと北の方向を探った。
「巨大マーチュを殺したい」
ぼそり、と。アキラは呟いた。
自分の心は、妙に静かだった。
意思も、覚悟も、決意もない、あまりに漠然とした感情が、その言葉を吐き出した。
それほど自然に、自分の心はその答えを出していた。
乾いた笑いを浮かべ、サクを見る。
しかしサクは、小さく頷くと、アキラに並び立った。
「……なら、ふたりで行くことになるな」
「え、いいのかよ」
「何がだ」
サクは変わらず笑っていた。
「見張りって、俺の見張りじゃないのか?」
「いや、合っているよ。お前の見張りだ。エリーさんも、イオリさんも、何度も言っていたよ。お前は絶対に勝手に行動するから、片時も目を離さずにこの村に留めておけ、とな」
ふと、思う。
サクはいつからこの小屋の前にいたのだろう。
「それでもいいのか」
「ああ、いいさ。ふたりには悪いが、主君様からの命令が下った」
軽々しく言い放ち、サクは歩き出した。
どうにもこの関係を悪用しているような気がする。
「そして私はお前が望むなら、その道を切り開く義務がある。さて、ぐずぐずしていると帰ってきてしまうぞ、急ごうか」
「…………分かったよ。止めだ。大人しくしてる」
どうにも調子が狂ってしまう。
サクはピタリと止まると、また小さく笑った。
「いいのか?」
「行くなら全員で行った方が安全だ。それくらいの計算はできる」
「そうだな、夕食と同じ携帯食料だが、昼にしようか。こっちだ」
上手く扱われたようで面白くない。
面白くはないが、少しは冷静になれたような気がする。
サクは、赤い衣を日の灯りに照らしながら、アキラの前を、堂々と歩いていった。
―――***―――
「アルティア=ウィン=クーデフォン、です!!」
「うん」
「ティアにゃん、です!!」
「……うん」
「ささ、どうぞ」
「アルティア、静かにしよう。流石に目立っている」
「くじけそうです……」
―――ウッドスクライナ。
リビリスアークの隣町にあるこの村からは、周囲をうっそうとした森に囲われ、木々の隙間から切り立った岩山が見える。
以前、あのサーシャ=クロラインが出現した場所であるとアキラから聞いていた。
“記憶”では、訪れることになっていたのは別の村だったはずだが、どうやら今回は違うらしい。
いずれにせよ大きな村への中継地点のひとつであったことには変わりないので、この辺りは特に確定していない要素だということなのだろうか。
イオリは静かに周囲を伺う。
リビリスアークの壊滅から2ヶ月。この村は、ある程度の落ち着きを取り戻しているようではあるが、時折視界に魔術師隊の者が入る。
村の者たちは知らないのかもしれない―――この村が元凶の岩山の麓に位置していることに。
そのおかげか、村は、のどかに感じられた。
「イオリン。聞いてくれますか」
その村で、ひとり、のどかさを破壊しようと躍起になっているような少女が腕の裾を引いてきた。
青みがかった髪を揺らし、妙にいきり立っている。
「実はですね、あっしの愛称について、イオリンにお話をした回数が、今ので99回目となったんですよ」
「数えていたのか……。じゃあ、僕があしらった回数も99回になるね」
「冷たいことを言わないでください……。でも、でもですね。今度こそです。記念すべき100回目では、イオリンを頷かせてみせますよ」
「僕の方の記念すべき100回目になると思うけど」
ティアが騒いだ。
イオリは少しだけ距離を取る。
こんなことになるならティアはエリーに任せ、自分は魔術師隊の宿舎へ向かうべきだった。
アルティア=ウィン=クーデフォンについて、自分が、分かっていることを考える。
彼女には分かるはずもないのだが、イオリにとって、ティアは旧知の仲だ。
狂ってしまったこの物語。繰り返しの魔王討伐への旅。
彼女と共に過ごした時間は長い。
そのはずなのだが、彼女を知っているとは声を大にしては言えなかった。
分からないのだ―――次に何をしでかすか。
今回だったか、前回だったか。それとも最初だったか。
アキラはアルティア=ウィン=クーデフォンを善意の塊だと表現していた気がする。
胸に何かが刺さった気がした。
情けは人の為ならず。好意には、必ず見返りというものが付き纏う。
ホンジョウ=イオリの根底には、そうした考え方があるのだろうと自覚した。だからこそ、裏の見えない彼女の好意は、自分にとっては眩しく、ともすれば恐ろしいのかもしれない。
根は単純なアキラや、彼女を子供扱いしているエリーやサクでは感じない恐怖なのだろう。
信じられないわけではない。むしろ、最も信用のおける仲間である。ここまで旅を続けて、皆に改めて馴染めたのも、しきりに関わってくる彼女がいてこそだと思い、感謝もしている。
だが、どうしても、自分の影を際立たせるその純真な瞳を前には、劣等感にも似た後ろ暗さを覚えてしまう。
端的に言えば、イオリはティアが苦手だった。
もしかしたら、もっと単純に、子供の相手が苦手なだけなのかもしれないが。
「エリサスはまだ来てくれないのかな……」
現在、自分たちはとある宿舎の前に立っている。
昨日去り際に、セレン=リンダ=ソーグが教えてくれた現在の彼女の住居がここだ。
エリーが建物に入ってから数分。その間一体、何回ティアに絡まれただろうか。個人的な理由を抜きにしても、怒りを覚えていい回数のような気もする。
本来ならば自分ひとりで魔術師隊を訪ねて情報収集を行うつもりだったのだが、エリーも外出するつもりだったらしく、どうせならとこの場所まで同行することになった。
あまり細かくは思い出せないが、“初回”もそうだったような気がする。
「イオリン、イオリン」
また裾を引かれる。あのときは、この子供はどこにいただろうか。
いまいち覚えていないが、こんな風に世話を焼いた記憶は無いから、リビリスアークに残っていたのかもしれない。
「アルティア、落ち着いてくれ。頼むよ。昨日はちゃんとできていたじゃないか」
「むぅ、ティアにゃんですけど……、そうなんですよ、あっし、昨日は静かにしてました。最早あっしの存在が消えているレベルでした。はっきり言ってしまうと、今その反動が来ています……。……あっ、記念すべき100回目です!」
「そうだねアルティア」
「止め差しに来ましたね。100回達成おめでとうございます……」
どうせザル勘定なのだろうが、遂に辿り着いてしまったようだ。達成感は無い。
それよりも、その反動とやらの被害が今自分に来ていることを大いに嘆いた。
彼女の頭の中では101回目の第一歩をどう踏み出そうと作戦会議が始まっているのだろうか、ティアがうんうんと唸り始めて少し大人しくなったとき、ようやく宿から目当ての人物が歩いてきた。
「お待たせしました」
「…………。あ、エリにゃん。聞いてくださいよ、イオリンがついにあっしのことをティアにゃんと!」
「嘘を吐いているのか、それとも妄想と現実の区別がつかないのか」
「……本当にお待たせしました」
現れるなり脱力し切り、エリーはイオリを庇うように間に割って入ってくれた。
うちの子が迷惑をかけてすみません。そんな様子が目に留まる。
どことなく疎外感を覚えるが、助かったのは事実だった。
「それで、どうだったのかな。セレンさんは?」
「あ、セレンさん、やっぱり出かけているらしくて。結局何も分からずじまいです」
「それもそうか。昨日約束でもしておくべきだったかな」
「無理は頼めませんよ。きっと村長やお母さんの手伝いで忙しいだろうし」
そう言いながらも、エリーは未練があるように宿に視線を流していた。
危険な魔物が出現して、ここに来るまで消息不明だったのだ。子供としてはすぐにでも会いたいだろう。
少なくとも無事だったことは分かっているのだが、その目で見るまでは安心できないはずだ。
「じゃあ、僕は魔術師隊を訪ねてみるよ。エリサスたちはどうする?」
「あ、付き合ってもらっちゃってすみません。あたしも行きます。……あと、エリーでいいですって」
「…………君もなのか」
「あ、一緒にしないでください」
便乗しようとしていたティアが、エリーの冷たい言葉に静まり返った。
人を愛称で呼ぶのは慣れない。ちょっと意地みたいになってはいるが。
「こっちだ」
小さな村で、何がどこにあるかほとんど見渡せるのだが、なんとなく魔術師隊の頃の癖で、声に出して進路を伝えた。
エリーからの視線が妙にむず痒い。
彼女は魔術師隊に並々ならぬ関心を持っており、その立場だった自分に対する敬意のような感情が、どうにも気恥ずかしかった。
「あの、これからどうするんですか?」
イオリの行動に興味津々といった様子で尋ねてくる。特に考えもなく情報収集しようとしていただけなのだが、彼女の目に自分はどう映っているのだろう。
だが、気にしていても仕方がない。
「とりあえず話を聞かないとね。ここから見えるあの山がマーチュの巣なんだろう。ことが起こってから2ヶ月。今どういうつもりなのか聞かないと」
「どういうつもり、って言うと?」
「アイルークだから勝手が分からないけど、危険な魔物が出たら魔術師隊は当然討伐を考える。変な言い方になるけど、僕の名前を出せば話を聞かせてくれると思う。襲撃に遭った村の調査も終わっていたようだったし、流石にそろそろ動きがあるはずだ」
言って、無神経なことを口走ったと気づいた。
恐る恐るエリーを見ると、しかし彼女は感心したような表情を崩してはいなかった。
「エリサスは、大丈夫なのか?」
思わず、訊いてしまった。
藪蛇のような気もするが、口を突いて出てしまったのだ。自分が嫌になる。
あのニュースが流れてから、ここまでの道中、彼女の口数はあまりに少なかった。
自分たちは、下手な励ましなどできず、爆発物を扱うように、彼女を刺激しないことしかできなかった。
そして到着した今、あの事件の被害を知った。彼女の家族とも言うべき子供がひとり、亡くなったそうだ。
その心中を察することができるなど、とてもじゃないが言えなかった。
エリーは、少しだけ目を大きくすると、力なく笑った。
「駄目駄目ですよ、本当に」
意図したわけではないだろう、彼女の拳が強く握られたのが見えた。
「夜は眠れないし、身体は震えるし……、それに、被害に遭ったのは誰だろ。昨日は怖くて聞けなったな」
見ると、ティアがエリー以上に目を伏せて、沈んだ表情を浮かべていた。
感受性が豊かなのか、どこまでも人を想えるせいなのか。アルティア=ウィン=クーデフォンという人物も、あるいはエリー以上に心を痛めている。
そう考えながら、自分自身の震えを逃がした。
「あーでも、止め止め。弱音はここまでです。そうじゃないと、気にし過ぎちゃう奴がいて。ティアもね、うりうり」
「わわっ、エリにゃんっ、頭撫でるの止めてくださいっ、嬉しいじゃないですか!」
「どういう……こと……?」
とらえきれないティアの言葉にエリーが固まる。
イオリは、息を吐き出し、その気にし過ぎちゃう奴とやらを思い起こす。
「……難しいよね、こういうの。もっと深刻に考えてくれる人がいると、自分の不幸をいつまでも悲しんでいられない。本当に辛くても、泣いている場合じゃなくなるから」
おぼろげにだが、イオリもエリーの心境が理解できた。
自分が悲しむと、その人が悲しむから。自分が苦しむと、その人が苦しむから。不幸に躓くことができなくなる。
辛いだろうに。
自分も似たようなものだった。
「まあ、嬉しくはあるんですけどね、そういうの。不幸を望むわけじゃないし、悲しいときは悲しまないといけない、って思うんですけど。でも、こういうのいいなぁ、って思っちゃったりもして」
「……そうだね。無理してでも、強引な理由をつけても、その人に自分は大丈夫だって伝えたい、って思う方が強くなるからね」
「……そうですね。大体、自分のことなら平気な顔してくるくせに、逆になると辛そうになってくれたり塞ぎ込んだりしてくれるなんて虫のいい」
「ああ、そういうところあるよね」
「雲行きが怪しいですね。今すぐ止めないとあっしは大声で泣きますよ」
「なーに言ってんの、すっかり晴れてんじゃない」
「ひぃ……」
エリーの満面の笑顔を向けられてティアがすくみ上った頃、ようやく魔術師隊の支部に到着した。
おっ建て小屋のようにも見えるが、木製の壁は、太い木の幹が使われ、随分と頑丈そうに思える。
だが、それを伝って、声が聞こえてくる。中は妙に騒がしいようだ。
我に返ったイオリは慎重に歩み寄ると、数度ドアを叩く。
応答があった。開かれたドアから、女性の魔術師が顔を覗かせる。
隙間から中の様子がちらりと見える。魔術師が6名。随分と多い。この村の者だけではないだろう。
「あの……?」
「ああ、少しお話を伺いたくて」
「え、っと、あ、」
女性の目が大きくなった。
イオリの魔導士のローブを見たのだろう。
威圧されたように後ずさってドアを開けた女性を追って、イオリは中へ足を踏み入れた。
部屋の中は物寂しかった。廃れている、と言った方が的確か。アイルークの僻地の支部などこんなものなのだろう。
部屋の隅には書類が片付けられていない事務机が置かれており、奥に見える階段からは生活感が漂ってくる。家屋の一部を魔術師隊の支部にしているのだろう。
そんな支部で、6人もの魔術師が立ち話をしていた。
この部屋にはこのローブの意味を知っている者しかいないのだろう、ぎょっとした視線がイオリに突き刺さる。
「お話し中すみません。何かあったんですか?」
ざわつきの中、最奥の初老の男が口を開いた。
彼はこの村の魔術師隊のようだ。
「いや、今しがたこの人たちが来て。多分、マーチュの話かと。明日なんですか? こちらもいきなり言われても」
「だから、それは中止になったって話をしているんですよ」
声の大きい男が苛立った声を上げた。
眉を潜めながらイオリは先ほどドアを開けた女性の魔術師に視線を向ける。
「何が中止になったって?」
「あ、はい。例の巨大マーチュの件です。魔導士隊が討伐をする作戦で、この村の方々には避難勧告を出していたんです。私たちはその作戦中止を近隣の村に伝えに来ていて」
「ん?」
巨大な魔物の討伐の際、近隣の村には避難を命ずることがある。
山の麓のこの村は当然その対象だろう。
だが、中止とは。何か問題が起こったのだろうか。
少しだけ背筋が冷たくなった。
魔導士隊の行動が少しでも鈍くなったとなれば、“あの男”が何を言い出すか分かったものではない。
「じゃあ、マーチュをどうするつもり―――」
「だから!!」
イオリの言葉は声の大きい男に遮られた。
彼が苛立っているのは、きっと朝から同じような説明を方々にしているせいなのだろう。
ピンと来ていないこの村の魔術師に、この大きい男は自棄になったように騒ぎ立てた。
「巨大マーチュはとっくに撃破されたんだよ。あのリリル=サース=ロングトンに!!」
イオリの悪寒は、良い方向に裏切られた。
―――***―――
「ルールがおかしい」
「ん? そうか?」
息も絶え絶えになりながら、アキラは恨みの籠った念を送ってみた。
もう何度か試しているが、その程度では彼女の速度は鈍らないらしい。
「まあいいじゃないか。休憩は終わりでいいか? 折り返し行くぞ。次はそうだな、次の次の休みの昼食代でも賭けようか」
「え、俺は何? 次の休みに荷物持ちして昼飯奢って夕飯奢って次の次の休みがなんだって?」
ちょっともう覚えていない。
ただ、このままいくと今後の休みはすべて消滅するという危機感だけは覚えていた。
「もうちょい休もう。そしてルールを変えよう。何でお前と徒競走で何かを賭けなきゃいけないんだよ」
座り込んだアキラに小さく笑って、ミツルギ=サクラは隣に腰を下ろした。
滅んだ村―――リビリスアーク。
“平和”なアイルークらしく、滅んだ村にも、その外にも、魔物らしい魔物は見えない。
アキラはサクに誘われて、村の外で身体を動かしていた。
だが、この何もない―――何もかもが無くなってしまった村で、ただ漠然と身体を動かすのも中々に辛い。どうせなら何かを賭けようとアキラが言い出したのだが、それが良くなかったらしい。
ほんの少しの準備体操くらいの気構えで来たのだが、サクは本気で来た。どうやら甘い考えだったようだ。
何もないのであれば、精々走り回るくらいしかできない。結果として、ふたりは魔力禁止、魔術使用禁止の徒競走を行うことになったのだが、はっきり言って、相手が悪すぎた。
「ハンデ付けよう、ハンデ。勝てるわけないって」
「さっきも言っていたが、どうする? 魔術ありにするのか?」
「それこそ勝ち目無いだろ。そうだな、サクは両手両足を縛り、ついでに目隠しをする」
「警戒し過ぎだ。お前はそれで勝って嬉しいのか」
「ああ」
「勇者……だよな……?」
本気で心配しているような表情を浮かべて見せた。
出逢った頃を思えば表情が豊かになったように思う。
いや、自分が、彼女のことを少しは分かるようになったからだろうか。
打開策を却下されたアキラは、それなら休憩だと言わんばかりに足を投げ出した。
サクもゆっくりと足を崩す。
どうせ目的も何もない運動だ、ぼんやりとしても罰は当たらないだろう。
腰を下ろした地面は僅かに湿っているようだが、今日は幸いにも晴れて、順次乾いていっている。
元の世界ならば地球の裏側にだってすぐに行けるというのに、モルオールからこの場所に来るのに随分とかかってしまった。
その期間、この大地は何度雨に濡れ、日の光にさらされたことか。
そしてその間も、目の前の廃村は滅びたままだったということになる。
「なあアキラ。今更ではあるが、この世界には慣れたか?」
同じように村を眺めていたと思っていたサクは、どうやらもっと遠くを見ていたらしい。
その視線を追いながら、アキラはしばし考える。元の世界を想っていたからか、唐突な質問だとは思わなかった。
「慣れる、ってのがどんな感覚か分からない……って、まあ、むしろそれくらいは慣れているのかもしれない」
「そうか、もう1年以上経っているしな。驚かされることも少なくなってきたろう」
「お前それティアを相手にしてても言えんのか?」
サクが渋い顔をした。今日はサクの表情が良く変わるように思える。
アキラはぼんやりと、今は無き高い塔の姿を記憶に追った。
この世界にアキラが落とされたのは、丁度こんな天気だったようにも思う。
「まあ、でも、やっぱり慣れたんだろうな。そういえばお前に逢ったのも、ああ、いや、なんでもない」
気恥ずかしくなって、言葉を濁した。
彼女と出逢ったのは、この世界に落とされた初日だ。
サクは、シリスティア、タンガタンザ、モルオールと、ずっと離れず共に旅をしてきた唯一の相手だった。
そう考えると、とてつもなく凄いことに思えるし、反面、当たり前のようなことだとも思ってしまう。
自分はこの世界に慣れられた。今ならもっと、自信を持って言えるような気がした。
サクを見ると、聞き返すこともなく、また同じ方向を眺めていた。
ようやく分かった。
向うはマーチュの巣だ。彼女と最初に出逢った場所でもある。もしかしたら彼女も同じようなことを考えているのかもしれない。
「私も慣れたな。誰かと旅をするなんて、考えてもいなかったよ」
ぽつりと呟いた言葉を、アキラは拾わなかった。
タンガタンザで聞いた、彼女が旅をしていた理由。それが思い起こされる。
彼女は何よりも早すぎたのだ。
誰も彼女に追いすがることができなかったのだ。
だから彼女は止まれなかった。
その印象は、出逢ったときから変わっていない。
初めて逢ったときから、彼女はアキラのずっと前を駆けている。
その速度に自分は、引きずられるように、惹かれるように進んでこられた。
彼女がその気になれば、後続など引き剥がすことはできただろう。
それをしなかった理由は、今は形を変えて目の前にある。
自分はそれに甘えないように、足を緩めない。
そうあるべきだと、強く思えた。
「なあサク。俺はまだまだ弱いかな」
モルオールの港町でしまい込んだ感情がなんとなく口から出てきた。
あのとき感じた身体中に広がるような苦みは、何故か収まっているのを感じる。
サクが口を開く前に、その答えが予想できていたからかもしれない。
「ああ、まだまだだな」
彼女ならばそう言うだろうと思っていた。
だが、辛辣さは感じない。
剣の師としての彼女の顔は、どこまでも真摯で、優しすぎるほど厳しかった。
「だからアキラ、もっと強くなれ。月並みな言葉だが、お前ならそれができるだろう」
不思議なものだ。
あれだけ焦りに化けた冷酷な事実も、些末な問題に思えてくる。
自分には至らないところがあり、そしてそれを魔王戦までに克服していく必要がある。
旅の最初に思ったことと何も変わらない。
そして今は、どこにでも瞬時に辿り着ける最高の師がいるのだ。何の不安があろうか。
まっすぐに、振れれば切れるような清々しい瞳を携え、彼女は遠くを眺めている。
過去の自分を超えることなど、主君として、彼女に恥をかかせないことに比べたら、やはり些末な問題に思えてきた。
「ん?」
腰を起こそうとしたアキラの耳が、音を拾った。
振り返れば、遠方から馬車がこちらへ向かって走ってくる。
「なんだ、この村に向かってるのか?」
「エリーさんたちじゃないか?」
「いや、あいつらならイオリと一緒に飛んでくるだろ」
「向こうで分かれたかもしれないじゃないか」
サクも立ち上がり、ふたりして馬車を注視する。
かなり豪華な馬車のように思えた。
いや、豪華というより、妙に飾り立てられている。
ただ事ではないような予感が浮かぶが、何も思いつかない。
答えの出せないまま呆然と立っていると、馬車は目の前で停まり、そして勢いよく扉が開く。
ほぼ一瞬でサクがアキラを庇うように立ったのと同時、馬車の中からは転がり落ちるようにひとりの男が現れた。
「勇者様っ、わざわざ訪ねてきてくださるとは光栄です!! おい、すぐに用意しろ!!」
馬車の中から、数人の男ががやがやと蠢き、機材のようなものを運び出してきた。
思わず耳を覆いたくなるような音量と共に現れたのは、リゼル=ファリッツ。
滅びたリビリスアークの村長であった。
―――***―――
「それでは、私たちは他の村にも伝えに行かなければならないので」
「ええ、ご協力ありがとうございます」
「いえ、滅相もありません」
分かったのは断片的なことだけだった。
伝令を務めている魔術師隊を送り出すと、イオリは思わず爪を噛む。
どうやら今回も、自分の記憶とは違う方向に物語が進んでいるらしい。
「イオリンイオリン、やっぱりイオリン凄いんですねっ、握手まで求められるなんて!!」
さりげなく自分の隣に並んで愉快そうに全員と握手していた人間が何を言う。
もっとも勇者様の情報を当然持っている魔術師隊にしてみれば、自分とアルティア=ウィン=クーデフォンの差など大したものではないだろう。
ただ、実際に彼女を見て、勇者様御一行の一員だと気づけた者がいたならばの話だが。
「えっへっへ、でもでも凄いですね、リリにゃんは」
自分自身が世界からどのように評価されているかまるで分かっていない当の本人は、上機嫌で会ってもいない人物を愛称で呼んでいた。いろんな意味で末恐ろしい。
「あのイオリさん、さっきの話ですけど」
「ん、ああ。君たちも聞いたことはあるだろう、リリル=サース=ロングトンのことは」
「ええ、まあ。何度か……は」
エリーの視線が一瞬だけティアに走った。
ティアはにこにことしながら首を傾げている。どうやら世界的に有名な人物であるリリルのことを知っているのは、エリーだけのようだった。
アキラも知らなかったようだし、世界中を旅しているはずのこの面々の情報は、知ってはいたが随分と偏っているようだ。
「別に驚くことじゃないさ。リリル=サース=ロングトンなら巨大マーチュを討伐できても不思議じゃない」
巨大マーチュはリリルに討伐された。
魔術師隊の話では、数日前にリリルが近隣の村に構えた作戦本部に現れ、討伐報告をしたらしい。
アイルークでは類を見ない危険生物として依頼も出されていなかったというのに、リリルは巨大マーチュを討ったという。
ボランティアにしては危険が過ぎる。前回はあまり接点がなかったが、彼女も彼女で、前々回と変わらないようだ。
イオリの肩が少しだけ震える。
「え、じゃあどうします? マーチュはもういないんですよね」
「……そうだね」
エリーの言葉尻に妙な悪寒がしながらも、イオリは思考を働かせる。
巨大マーチュは討伐された。
リリルならば不思議なことではない。
だが、妙に胸がざわつく。
リビリスアークの件は、アキラやエリーに深く関わる問題だ。
変わって欲しいと思った未来は変わらないのに、慎重になりたいと思ったことは分かった形で訪れる。
ままならない。
「とりあえずリビリスアークに戻ろうと思う。できることはなさそうだし」
それがいい。
このむず痒い気持ちを、旅の道中でアキラも味わったのだろう。今はアキラに相談したかった。
「えっと……、じゃあ、あたしはもう少しここでセレンさんを待ってみます。夜には戻ると思いますけど」
「エリサス?」
妙な気配が強くなった気がした。
エリーは所在なさげに視線を泳がしている。
イオリが訝しんで口を開こうとすると、それより先に、部屋の奥から咳払いが聞こえた。
「まったく」
思わず長々と話してしまったが、ここは魔術師隊支部。もっと言うと、奥の初老の魔術師の自宅だった。
見るからに不機嫌そうな男はイオリの視線に気づいても、表情を変えなかった。
「ああ、すみません。すぐに出ていきます」
「ん? ああ、いや、あなた方のことじゃない。あいつらのことですよ」
魔術師の男は、つい先ほど魔術師隊が出て行った扉を顎で指した。
「いつもいつも突然現れて、こっちの都合も考えずに。避難勧告出すのだって一苦労なんですよ」
「はあ、大変そうですよね。村の皆さんにも事前に言っとかなきゃなんですよね?」
「ん、いや、そういえばまだ伝えていなかったか」
「なんと!」
ここぞとばかりにティアが絡みにいった。
重大な職務放棄が聞こえてきた気がしたが、ここは自分の管轄ではないとイオリは自分を抑えた。
「そのくせこっちの話は聞かないくせに。分かりますか」
「分かります分かります。お願い事を聞いてもらえない気持ち、あっしにはすごく分かります」
魔術師の男は、職務態度はともかくとしても、魔導士である自分やティアに対しても弁えて接しているようだった。
過剰な待遇をしないところは、流石にベテランと言ったところなのだろう。
問題はティアが話し相手になったことで、長そうな愚痴が始まりそうな気がすることか。
エリーに視線を送ると、彼女は頷いた。
これ以上ティアを放置することは危険が伴う。
慣れた様子でエリーがティアを引き剥がそうと背後に回ったとき、魔術師の男が呟いた。
「じゃあスライムの大量発生はいつになったら何とかしてくれるんだ、って話ですよ。マーチュだって増え出した頃から言っていたのに」
ぴたりとエリーが固まった。
イオリの脳裏に何が掠める。
物語が大きく崩れた前回。
確かその話を、ヒダマリ=アキラがしていた。
「あ、じゃあ、あたしが何とかしましょうか」
まずいと思ったときには遅かった。
エリーが微笑みかけると、魔術師の男は僅かばかり感心したような表情を浮かべる。
「ちょっと、エリサス」
「え、ああ、いいですよ、ふたりは。ティアもイオリさんと戻ってて。近くなんですよね?」
「ああ、そうだ。少し歩くが。待ってくれ、それなら今依頼を」
「いいですって。ほら、リリルって人もやったみたいだし、あたしが勝手に行くだけですから」
話が変な方向へ進んでいる。
捉われ過ぎるのもよくないと思って、可能な限り思浮かべなかったのだが、前々回にこの地で刻んだ“刻”は、巨大マーチュの撃破だけだ。
他の“刻”は、ヒダマリ=アキラに選ばれなかった。
その“刻”をリリル=サース=ロングトンが刻んだことによって、歯車が狂い始めている。
イオリは奥歯を噛んで、話を進めるエリーの腕を引いた。
魔術師の男の前から引き剥がすと、聞こえないように囁く。
「エリサス。まずはリビリスアークに戻ろう。巨大マーチュの話をまずはしないと」
「え、でもそれなら別に後でもいいし……、それに、イオリさんは戻るんですよね? あたしはちょっと、身体動かしたくて」
それが本音か。
あまり気にしていないと言ってはいたが、やはりこの一件に相当気を揉んでいたのだろう。
その巨大マーチュがいなくなって、行き場のない憤りのはけ口が目の前に現れてしまったのだ。
はっきり言って、そのスライムの件は未知数だ。
前回は最大にして最強の“異物”が葬り去った敵である。
イオリとしては何としても先にアキラと話がしたかった。
だが、エリーの意思は思った以上に固いらしい。
止むを得ない。
卑怯だと思うが。
「エリサス。僕はアキラの様子が気になるんだ。君も言っていただろう、彼は今不安定になっている」
するとエリーは、分かりやすく不満げになった。
まあまあの効果は認められたと思ったが、エリーはすぐに表情を崩すと、少し口を尖らせて言った。
「多分、大丈夫だろうって思います。サクさんが一緒だし」
瞳は寂しげだった。諦めたように遠くを見ている。
「あたしじゃ、駄目だろうな、って思うんですよ、これ。あたしがいると、あいつは絶対気にしちゃうし。気にしないで、って言っても、当事者のあたしが言ったら空々しいし。だから、あいつとずっと一緒にいたサクさんに任せなきゃ駄目だろうな、って。……はあ」
正直、舐めていた。
流石に世界を周ってきた4人だ。
本当に上手く回っている。
イオリが言葉を選んでいると、魔術師の男が書面を一枚したためていた。
「いや、手間をかけてくれるんだ。依頼ということにしておくよ。少ないが、これでいいかな?」
魔術師の男はイオリを見ていた。
どうやらただ働きを咎めていると思われたようだ。
酷く惨めな気持ちになる。
イオリは腹をくくって空気の塊を吐き出した。
「いや、結構です。エリサス。行くなら僕も行く。それでいいかな?」
「もちろんあっしも行きます!!」
「あ、すみません、イオリさん。わざわざ」
「エリにゃん、せめて一瞥くらいはしてください……」
この場の“刻”は変更された。
ならば最善を尽くすしかないだろう。
ただ。
スライムと同時に脳裏に掠めた、前回のアキラの話が、心の隅に黒く残った。
―――***―――
「こんな場所で大変失礼しております。ささ、どうぞお召し上がりください。夜にはささやかですが宴もご用意いたします」
止め役がいない。
ファリッツが乗ってきた馬車から運び出されたのは折り畳みのできる食卓と、椅子。そして食料の入った樽だった。
樽の中には蒸された肉に色鮮やかな野菜。デザートまである。アキラの鼻が確かなら、の目の前に並々と注がれた赤い液体はアルコールだろう。
滅んだ村の隣で野外に豪勢な食事が並ぶこの光景は、戦慄すら覚える。
世界を一周したアキラでさえ、これほどまでに勇者をもてなす人物はひとりとしていなかった。
記憶の中のファリッツは、どうやらそのままの人物であったらしい。すこしやつれたようにも思えるのだが、満面の笑みからは強い力を感じた。
「えっと、ありがたいんだけど、」
「ところで、そちらは確か……」
「あ、ああ。私はアキラ様の従者だ」
「おお、それはそれは。これほどまでにご立派な武人を。流石でございます。ところで、エリサスは? 何をしているんですか、勇者様を放っておいて。おい、探して来い」
「ああ、いや、あいつはセレ……、いや、近くの村に情報収集に行っています」
「おお、そうでしたか。それで、どうですかな、旅の調子は」
目を輝かせるファリッツには悪いが、アキラの声が聞こえなかったらしくエリーを探して廃村に駆けていくファリッツのお付きの人を追っていた。
最早暴君に見える。お付きの人も気苦労が絶えないだろう。こうした行動は、よくエリーの母にたしなめられていたように思うのだが、生憎と不在だった。
アキラはファリッツに旅の話をしながら、助けを求めるように、西の暴君の娘に視線を走らせた。
同席しているが、食事には手を出さず、まっすぐな瞳をファリッツに向けている。
若干複雑そうな表情ではあるが、妙に誇らしげな瞳の色を見て、アキラは悟った。
ファリッツを止めてくれそうにはない。
「ええと」
アキラは意を決し、話の流れを切った。
過剰な待遇は好まない。
そしてそれ以上に、眼前の廃村と、目の前に出された豪華な料理との差が気になってしまっていた。
「やや、何か至らぬ点でも?」
「いや、そうじゃない。ありがたいと思う。けど、こんな、」
「それはそれは大変申し訳ございません。実は先ほどセレンから勇者様が訪れたと聞いたばかりで……、本来ならばお招きしたいところだったのですが、急な話で会場が取れず……、まずは、ということでこんな形に。しかしご安心ください。夜には、」
「そうじゃない」
分かっていた。
ファリッツが“そんな”素振りをあえて見せようとしていないことを。
だがその好意を、気づかないまま受け取る器はアキラには無かった。
「村が、こうなって……。今が一番大変なときでしょう。こんなことをしている場合じゃ」
「している場合ですよ。勇者様が一時とは言えお戻りになったのですから」
ファリッツは確たる口調で言い切った。
その固さが、アキラの心に強く刺さった。
「止めてくれ。もしかしたらこれは、俺の―――」
「それこそお止めいただきたい」
言いたいことは山ほどあった。
こんな辺鄙な村が襲われたのだ。マーチュの山からより近い村もあるというのに、何故かこの場所が襲撃に遭ったのだ。
誰でもヒダマリ=アキラとの関連を連想する。
だが、気圧された。
言葉が止まる。
ファリッツの瞳はまっすぐにアキラを射抜いてくる。
アキラがごくりと喉を鳴らすと、ファリッツはすぐに笑顔を浮かべた。
「ささ、それよりも今はおくつろぎくださいませ。若い者でも連れてくればよかった、その辺り、夜は抜かりなくさせていただきます」
どこまでも純粋な瞳の色は、ファリッツが作っているものなのだろうか。
自分には分からない。
ファリッツは、色々と無理難題を言うような男と記憶していたが、この際限のない待遇も、この男の特徴として記憶していた。
ファリッツ家というのは、太古、初代勇者の援助を務めた者の先祖であるらしい。この村長は、それを過剰なまでに誇りに思い、恐ろしさを感じるほどだとエリーが言っていたような気もする。
こんな田舎にいる割には野心家で、村の発展には貪欲な男だ。自分という勇者候補が現れたと騒ぎ立て、危険な目に遭わされもした。
彼の利害と自分の利害が一致しているから、彼は笑みを絶やさないのだろうか。それは考え過ぎだろうか。
大人のことは、自分には分からない。
物怖じすらしてしまうほどのファリッツの善意は、自分の暗い部分を浮き彫りにされるように感じる。
彼はどこまでも、アキラを“勇者様”として扱い、もてなしてくる。
それともこれがこの世界の普通なのだろうか。
前言は撤回すべきかもしれなかった。
自分は未だ、この世界には慣れていない。
「…………サク」
「どうかしましたか?」
「ちょっと」
すっかり従者として振る舞っているサクの手を引いて立たせると、ファリッツから離れた。
いろんな意味で話し難い。
ファリッツに曖昧な笑みを浮かべると、彼はお気になさらずと言ったように頭を垂れた。
「……やりにくい」
「何を言っているんだ。いい人じゃないか」
「おい」
サクはやはり満足げな顔を浮かべている。
どうしよう、味方がいない。
アキラは念を込めてサクを見返すと、彼女は優しく微笑んでアキラと向き合った。
どうやら今度の念は通じたらしい。
「まあ、事実いい人なんだろう。村がこんなときに、精一杯歓迎してくれるのだから」
精一杯、とは。
アキラにはどうも、無理をして、の方が合っている気がした。
「これは、むしろ意地のようなものかもしれないな。タンガタンザでも見たことがあるよ。自分の村が滅んだのに、それでも平気な顔をして普段通り振る舞う者たちを」
そういう意味では、滅んだ村の真横で食事を始めることも、やせ我慢のポーズのようにも思える。彼は村長だ。もしかしたら誰よりも、胸が潰れるような苦しみを味わっているのかもしれない。
それでも自分は気にしていない、と暗に訴えかけているようにも思えた。
心の中では数多のことがうず巻いても、普段通りを貫こうとする。意地とはそういう意味なのだろうか。
「だがな。私はその意地を、決してつまらないものとは思わない。彼らは立派だ。苦しいことを苦しいと言うことは誰でもできる。だけどなアキラ。自分の苦しみを伝播させないことは、何よりも難しいんだよ」
その言葉に正しさを感じられたかと言えば嘘になる。
苦しいことを苦しいと言うことが何よりも難しいことになる場合だってある。
自分の心に正直でないと、心は痛み続けてしまう。
だけど、そういうサクの横顔は、ずっと大人びて見えた。
今回の場合、ファリッツの行動は、どうなのだろうか。やはり大人のことは分からない。
「じゃあどうすりゃいい」
「お前も普段通り振る舞え。彼もきっとお前の考えていることは分かっているはずだ。お互い演じ合っていると分かっていても、それを続けることも情けだと私は思うよ」
ファリッツの善意に応えるために、自分は自分を演じ続ける。
とてつもなく苦しく、そして、不毛のようなことに思えた。
しかし、そうでなければ、自分はどんな応答をしたかったのだろう。
腹を割って話して、ファリッツから恨み言のひとつでも浴びせられれば満足なのだろうか。
しかしそれは、自分が楽になるためだけに、そうしたいと思っていたのかもしれない。
ならばファリッツの対応をそのまま受け取ることが、彼に対する罪滅ぼしになるのだろうか。
「さあ胸を張ってくれ主君様。勇者らしく、堂々と接してみせよう」
「サク。お前が従者で良かったよ」
「ようやく思ってくれたか」
「今までも思ってたさ。これからも何度も思うだろうけどさ」
ファリッツに向き合い、アキラは胸を張って食卓に戻った。
ファリッツの笑みに、アキラも笑い返す。
胸は痛んだ。だけど、この痛みを忘れてはならないと思う。
痛みを抱えたまま、言葉を交わすことが、この滅んだ村への手向けのようにも感じられた。
が。
「……?」
アキラは眉を潜めた。
妙な気配を感じる。
違和感はやがて焦燥に変わり、鼓動が荒くなる。アルコールには手を付けていないのに。
「……なあ、サク」
「ん、え、あ、どうした?」
サクに視線を走らせると、彼女は軽く顔を振り、そして視線を鋭くする。
彼女も気づいたようだ。
何か嫌な予感がする。
ふたりの様子にファリッツも笑顔を崩し、恐る恐るといった様子でアキラの顔を覗き込んできた。
この感じ。
確かに感じる何かの流れ。
“戦闘の匂い”―――
「―――っ、上だ!!」
ほとんど反射で食卓に飛び乗り、ファリッツを抱きかかえて離脱した。
背後の食卓でドゴッ、と地鳴りが響き、食器が甲高い音で砕かれる。
ファリッツのお付きから短い悲鳴が上がった。
「―――、アキラ!!」
サクが即座に駆け寄ってきた。
食卓の隅に預けていた剣を届けてくれたらしい。
アキラはそれを静かに受け取ると、ゆっくりと立ち上がった。
「村長。すぐにこの場から逃げてくれ」
振り返る前に、何が起こったのか思い至っていた。
何度も頷き、そして慎重に後ずさる村長を見送って、アキラはギロリと睨みを利かせる。
こうなるならば、無理を言ってでもイオリに聞いておけば良かった。
彼女ならばこの来訪者を知っていたかもしれない。いや、考えるのはもう止めよう。
空から降り立った、それは。
「あー、あー、あー」
二足歩行の太った龍。そう表現すれば分かりやすい。
身体中泥色で、いたるところに毒々しい膿のような瘤が浮かび上がっている。
大木のような四肢と胴。存在感がある巨大な顔は、その半分が鋭い牙を宿す口に割られていた。
その口が、言葉を吐き出す。
「お、前、ら、魔、術、師、か?」
不気味な声だった。
誰も逃げ出せられない。
精々アキラの背後、ファリッツが何とか後退しようと蠢いているだけだった。
アシッドナーガ。
タンガタンザで少しは詳しくなった魔物の情報を集め合わせれば、“言葉持ち”の“幻想獣型”と言ったところか。
モルオールでもこのレベルの魔物は見たことはついぞ見なかった。
そもそも竜を模した魔物など、この世界では珍しい。
アキラは苛立ちを抑え、その既知の化け物と向き合った。
「そうだ」
化け物の目がアキラを捉える。
そこでようやく、金縛りにあっていた周囲の男は、一歩ずつ後ずさり始めていた。
「そ、う、か。俺、は、魔、王、様、直、属、の、ガ、バ、イ、ド、様、直、属、の、ゲ、イ、ツ、だ」
しまったと思った。
分かっているのだから、聞くべきではなった。
今でもその名を聞くと、身体中の殺気がざわめきを起こす。
「そんな野郎が何しに来やがった」
抑えろ、と自分に言い聞かせても、まるで効果が無かった。
身体の底から黒い何かが吹き出すのを感じる。
だがもう少しくらいは会話を続けて、ファリッツたちを安全地帯まで離す必要があった。
「俺、は、探、し、て、る。キャ、リ、イ、を、殺、し、た、奴、を」
「……?」
少しだけ意識が散漫した。
キャリイ、とは。
アキラの記憶では。
「巨大マーチュが……死んだ?」
グォウ、と。
アキラの呟きを拾ったゲイツが鋭く唸った。
思わず言ってしまった。だがそれほど衝撃的だった。
“二週目”の最初の強敵。
巨大マーチュは撃破されたという。
巨大マーチュは、当然自分が刻む“刻”だと思っていた。
だからこそ、その次の強敵であったゲイツのことが思い浮かばなかったのだ。
だが、ゲイツが現れた理由は分かった。
この出現は、“二週目”と同じらしい。
「そいつが誰なのか知っているのか」
「分、か、ら、な、い。だ、が、キャ、リ、イ、は、い、な、く、なっ、た。せっ、か、く、育、て、た、の、に、キャ、リ、イ……!!」
これ以上はゲイツも知らないらしい。
だが、別にそれほど興味があったわけではなかった。
精々こう思っただけだ。
誰だかは知らないが、余計なことを。
「し、か、し、お、前」
ゲイツの目が鋭く光る。
アキラを睨む圧が、さらに強くなった。
「何、故、知っ、て、い、る。キャ、リ、イ、の、こ、と、を」
「……隠し事だよ」
流石に言葉持ちか。知能は相当程度あるようだ。
だが、不信感を出しているのは、この場でゲイツだけだった。
サクは慣れた様子で、腰を落としている。
アキラも剣に手をかけた。
ファリッツたちはもう大分離れられたようだ。
やっと、離れてくれた。
初めてかもしれない。
襲撃されて、それに僅かな喜びを感じてしまったのは。
「朝から結構気を紛らわせてもらってたんだが、やっぱ駄目だ」
「力足らずで悪かったな」
「いや、助かったよ。お陰でこいつと行き違いにならないで済んだ」
「慎重に……、と言っても無駄なんだろうな」
「ああ」
「お、前、た、ち。何、を、話、し、て、い、る。何、を、隠、し、て、い、る」
気を静めるのはもう諦めた。
ようやくこの感情のはけ口が現れてくれた。
「隠し事ね……」
挑発的に顎を上げて、堂々と胸を張り、アキラは廃村を背後に立つゲイツに睨みを利かせる。
これはきっと、復讐なのだろう。
「俺を倒せたら教えてやる」
―――***―――
職業柄、怒りに身を任せる存在を多く見てきた。
怒りに身を任せることは判断力を鈍らせることにつながるだろうから、あまり望ましいことではないと多くの人は言う。現にイオリ自身、そうした行動は好まない。
だが、今まで見てきたその存在たちを思い起こしてみると、実のところ“それ自体は”あまり戦果に影響を与えていないように思う。
怒りに支配されていようが、悲しみに支配されていようが、普段通りでいようが、敵を討つときは討つし、討てないときは討てないのだ。
それどころか、怒りに身を任せた者の方が本来以上の力を出すこと多かったかもしれない。
いずれが例外なのかは定かではないが、結局のところ、怒りに任せて戦うかどうかではなく、誰が怒るかであるのだろう。
感情を抑制できる者、感情をそのまま行動に乗せる者。
後者の場合、結局のところ、感情を戦果につなげられる者であるかどうかが問われているに過ぎない。
そういう意味では、彼女―――エリサス=アーティは間違いなく、感情の高ぶりを戦果につなげられる者だった。
「ノヴァ」
ボッ、という明かりが灯ったと思えば、振動と、小さな爆発音が聞こえてくる。
魔術師の男に伝えられた場所は、ウッドスクライナからやや離れた岩山だった。
近辺では呪いの童歌の替え歌まで作られるほど危険な岩山であるらしい。
しかしそんなことを気にもせず、エリーは到着するなり岩山に空いた小さな空洞を見つけ、あっさりと入り込んでしまった。
「ノヴァ」
再び前方から爆発音が聞こえる。
暗く、足元もおぼつかない洞窟は、イオリとティアが同時に飛び込むと、不気味なことに崩れ、出入り口が塞がれてしまった。
自分がいれば問題なく壁を崩して外に出られると伝えたのだが、エリーはどうせならと奥へ進んでしまい、今に至る。
どうやらここはスライムの巣らしい。濁った水のような物体は、一応は無機物型であるプロトスライム。
それが洞窟という地の利を生かし、四方八方から襲い掛かり、そして散っていった。
彼女の灯す赤い光を道しるべに、イオリとティアはエリーを追っていた。
「く、暗いですね。そして怖いです」
ティアが小声で呟く。
恐怖の方はエリーのことを指しているのだろう。
自分だって、下手に彼女を刺激したいとは思えなかった。
注意を払っているが、エリーが通った跡に魔物など残っていなかった。
壁伝いに這い回って彼女の死角から迫ろうが、気配を殺して彼女を待とうが、エリーはこの暗がりで討ち漏らしもなく、的確に歩を進めていく。
その背中に、声をかけることはしたくない。
断言できる。
彼女は怒りをその身に宿して進んでいる。
巨大マーチュの討伐の話を聞いたとき、彼女はつまらなそうな顔をしていた。
余計なことをとでも思っていたのかもしれない。
しかしそれを不遜なことだとはイオリには思えなかった。
口では何と言っていても、エリサス=アーティは感情を戦闘に持ち込むタイプだ。
その光景を何度も見ている。
だが、この状態のエリーはイオリでもあまり見たことが無い。
多少の感情の起伏であればすぐに戦闘に分かりやすく乗るのだが、ある一定を超えると、途端に逆になる。
今回の例は最悪であり、凶悪だった。
彼女の怒りが臨界点を超えると、彼女は恐ろしいほど冷静になる。
一挙手一投足が丁寧に、状況判断は的確に、そして感情の起伏でさえも抑え込む。
壁の窪みから、死角から、あらゆる場所から飛び出して襲い掛かるも、プロトスライムたちはエリサス=アーティの進行を止められなかった。
流石に姉妹か。
とぼとぼと歩き続け、あまりに正確に敵を破壊し続けるその光景は、彼女の妹を思わせるようだった。
そして、感じてしまう。
その静けさが、何かを限界まで抑え込んでいるからこそ生まれているのだと。
触れることは許されない。触れようものならば、その何かがすべて浴びせかけられる。
揺さぶりをかけることも許されない、静かなる剛は、最も相手にしたくないタイプの存在だった。
火曜属性の破壊は、水曜属性のスライムでも容易く打ち砕き続ける。
あれで少しでも気が晴れればよいのだが、アイルークの魔物にそこまで求めるのは酷なのだろう。
彼女の背が随分と離れていく。
流石に焦ったイオリは、足を速めた。
あの状態の彼女を放置したと知られたら、アキラに何を言われるか分かったものではない。
「ぁ」
「?」
エリーの背中を捉えた。
彼女が立ち止まったそこは、何やら開けた空間に繋がっているように見える。
イオリが歩み寄ると、彼女は何かを見上げているようだった。
「―――、」
“その気配”に気づくと、イオリは手で背後のティアを制した。
“これか”。
ヒダマリ=アキラの話に出てきた魔物は。
プロトスライムたちとは違う、澄んだ色だった。
その青が、洞窟の中に作られたホールのような巨大な空洞を埋め尽くしている。
スカーレットの灯りに照らされたそれは、暗いせいで見上げても頂上が視認できない。
常軌を逸した、規格外の物体。
そして、それが意思を持っていることは、蠢くように揺らす身体が物語っていた。
巨大スライム。
この岩山に大量発生したスライムの元凶がこの存在だろう。
さて、と。イオリは考える。
事前に話に聞いておいて良かったと思う。
規格外ではあるが、手に負えない相手では無さそうだった。油断は禁物とは言え、最悪の事態まで考えていたイオリにとっては許容できる相手だ。
問題は、この洞窟内で、どうやって安全に討伐するかだ。
が。
「イオリさん。爆発抑え込めますか?」
遅かった。
エリーの拳に宿る赤が、彼女の感情を吸い取るように深く濃くなっていく。
彼女の瞳は静けさを保ったまま、巨大スライムにまっすぐに向いていた。
イオリは息を吐き出す。
彼女は巨大マーチュへ向かうはずだった力を持て余していたのだ。
それを少しでも連想させる巨大な姿で現れたスライムが悪い。
正直、“戦闘不能の爆発”よりも、エリーが打ち出す衝撃の方が問題だった。最低限は巨大スライムが吸収してくれると信じたい。
いや、信じるしかなかった。
こうなった彼女を止める言葉を、残念ながら自分は持ち合わせていない。
百代目勇者候補ヒダマリ=アキラの、火曜の魔術師―――エリサス=アーティ。
前々回。
結局最後まで、総てを破壊するその拳を、真正面から受けられた者は存在しなかった。
いや、今回もだろう。
数多の火曜の術者を押し退け、後に破壊の魔術師と称される存在の原型は、すでに形作られている。
「いいよ、僕が何とかする」
「すみません、わがまま言って」
少しは気が晴れてきたのかもしれない。エリーは悲しげに笑っていた。
だがこれ以上は気を散らしていられない。
イオリは、頭を押さえてしゃがみ込むティアを庇うように前へ出て、魔力を滾らせた。
耳を塞ぎたいところだったが、生憎この両手はこれから巨大スライムと洞窟を抑え込むのに忙しくなる。
エリーが、その赤く滾る拳を突き出した。
「スカーレッド・ガース」
―――***―――
分かりやすく血が滾っていた。
身体中が沸騰しそうなこの滾りを、僅かな理性が抑え込む。
今日この日まで戦場を駆け抜けてきたこの感覚が、その吐き出し方を良く知っていたからだ。
この威を、ヒダマリ=アキラは剣に乗せることでしか吐き出せないと悟っていた。
アシッドナーガのゲイツ。距離にして数メートルほどだろう。
敵の巨躯は、否が応でも視界いっぱいに広がっていた。
ゲイツは、鋭いながらも敵を捉えていない瞳で虚空を眺め、あまりに自然に立っている。
それが単なる油断ではないことは悟れていた。
静かに。
アキラがゆっくりと腰を落としたとき、ゲイツが軽く回した首からいびつな骨の音が響く。
それが、火蓋だった。
「キャラ・スカーレット!!」
強く地を蹴ったと同時、アキラの剣はゲイツの眼前に迫っていた。
並の相手では死を確定させられる鋭い強襲。
オレンジの閃光と共に、あたりに轟音が鳴り響いた。
「―――お、前」
「ち―――」
初撃は、轟音が鳴り響いただけで終わった。
閃光が張れた眼前、ゲイツは両爪でアキラの剣を掴むように抑え込んでいる。
感覚的には分かっていた。
ここは4大陸中最も“平和”なアイルークではあるが―――目の前のゲイツはアイルーククラスの魔物ではない。
警戒していたがゆえに初撃から決めにいったのだが、流石にそれは甘かったらしい。
「勇、者、だ、な」
ゲイツの瞳がアキラを捉える。
向うもこちらを“敵”として認識したらしい。
「ふ」
「う―――おっ、」
ゲイツが腕を振るったかと思えば、アキラの足は地面から離れていた。
剣ごと宙に放り投げられるように弾き飛ばされたアキラは、着地と同時に体勢を立て直す。
それは勢いも何もない、単純な腕力による迎撃だった。
力比べはするまでも無いようだ。
「サク!! 奴の背後に回ってくれ!! 挟むぞ!!」
「ああ!!」
ゲイツに構えながら、アキラの目はすでにゲイツの背後に回っていたサクを捉えた。
気持ちよく返事をしてくれたようだが、どうやらとっくにそのつもりだったらしい。
ゲイツもサクの存在には当然気づいていたようではあるが、軽く流し見をした程度で、やはり自然に立っている。
この、“戦場に在ってそのままである様子”。
ゲイツからはおよそ戦闘に切り替わった空気というものが感じられなかった。登場したときの気配、威圧感を持ったままそこに在る。言い換えればそれは、戦場そのものを在り所としている存在だ。
“幻想獣型”の“言葉持ち”。
今まで幾度か“言葉持ち”を撃破したことはあるが、先ほどから嫌な汗が頬を伝っていた。
「勇、者、か。何、故、勇、者、が、こ、こ、に、い、る」
「何言ってやがる」
反発するようにアキラはゲイツに食って掛かった。
ゲイツは再び虚空に目を泳がせてはいるが、何か思考しているように感じられた。
本当に、分かっていないのか。
アキラはちらりと隣の廃村を見る。
家屋が、道が大地ごと砕かれ、廃村と化したリビリスアーク。
その元凶とも言うべき存在は、変わらず目を泳がせていた。
「廃、村、に、何、か、あ、る、の、か」
「……?」
アキラの視線を、ゲイツは捉えていたようだ。
首を回して村を眺めると、やはり何か思考しながら視線を外す。
本当に、分かっていない。
相変わらず腹の底は分からないが、ゲイツにとぼける理由などない。
いたずらな挑発など不要だ、アキラの頭はとっくに沸騰している。
だが、それでも、僅かに残った冷静な部分が、状況を捉え始めていた。
ゲイツは、リビリスアークを知らない。
ただの滅んだ村としてのみ認識している。
ならば巨大マーチュはどうか。“1年前”は単なる獣だったが、今は知性を付け、アキラの落とされた村を把握していたとでもいうのだろうか。いや、やはり腑に落ちない。
とすればこれは、ただ巨大マーチュが暴れただけの、単なる―――
「……」
アキラの手から僅かに力が抜けた。
どうしようもなく、やるせなくなった。
“一週目”にもこの事件があったことは思い出した。
ゆえに、何か理由があって―――もっと言えばヒダマリ=アキラが原因となって発生した事件だと思っていた。
だが、そうではない。
特定の“刻”ではあるのかもしれないが、リビリスアークの崩壊はもっと普通の、当たり前の、ありふれた悲劇でしかなかった。
そう考えた途端、少しだけ肩の荷が下りたような感覚がして、心底自分が嫌になった。
自分のせいではない。そう伝えられたも同然だ。
責任感から解放されたような気分を味わった。最悪の気持ちだ。
だからアキラは息を整え、雑念を振り払って剣を握った。
責任感が消えても、何も変わっていない。
重苦しい荷を下ろしたばかりだが、次の理由は、分かりやすく目の前にぶら下がっていた。
やはりそうか。
これはただの。
「も、う、1、度、聞、く。勇、者、が、こ、こ、で、何、を、し、て、い、る」
「さっきも言ったろ。知りたかったら聞き出してみろよ―――って言いたいとこだが、答えるよ」
「?」
村長には悪いが、勇者としての責務など要らない。戦う理由はそこにはない。
「復讐だ」
「そ、う、か」
ググ、とゲイツが僅かに蹲ったかと思った瞬間、身体中の瘤から毒々しい光を放ち始めた。
来る。
そう思った瞬間には、ゲイツは両手を上げて身体を広げ―――四方八方に泥色の球体を放出した。
「―――、ぐ」
危険を察知したアキラは鋭く向かってくる球体の回避に徹する。
泥水をバケツでぶちまけたような汚らしい光景だった。ひとつひとつの大きさはゲイツの拳ほどだろう。
だがそれが弾幕のように展開し、平原中を飛び回る。
着弾した地面は抉りこまれるように容易く陥没し、そしてなおも罠のように稲光を放ち続けていた。
この魔術。
詠唱も何もなく放たれているが、間違いなく土曜属性の攻撃魔術だ。
単純な破壊をもたらす火曜と違い、土曜や木曜の魔術は受ける被害が想定できない。
ならば。
「キャラ・グレー」
回避を続けることは困難だと察し、アキラは目の前の球体に剣で応戦した。
土曜の魔術を再現したこの力であれば、比較的安全に球体を切り落とせる。
攻撃が四方に分散しているのが幸いした。
球体を対処できるのであれば、発生源に接近、つまりは攻勢に移れる。
「―――!?」
弾幕を切り裂いたアキラの目に、魔術の発生源が飛び込んできた。
しかし、そこにゲイツの姿が無い。
あるのはゲイツが踏み砕いた机の残骸と、順次射出されている魔術の“残り香”だけだった。
この弾幕は目くらましだったのだろう。
しかし、あの巨躯を、この開けた平原で見失うとは―――
「アキラ!!こっちだ!!」
声は意外なところから聞こえた。
アキラは反射的に上空を睨む。
見れば日輪を汚すような禍々しい翼を広げ、ゲイツが身体中に魔力を滾らせている。
そして、それに追いすがるサクの姿―――
「お、前、飛、べ、る、の、か」
「ああ。醜い翼が不要なほどにはな」
タン、とサクが軽々しく宙を駆ける。
金曜属性の魔術によって、サクが踏み出すその一瞬だけ空中に足場を作り出す。
ゲイツはサクの接近を見て、再び空中で球体の魔術を放ち始める。
地上で待つアキラは慌てて動きを止め、剣で球体を薙ぎ払う。
しかしサクは、アキラのように球体を迎撃することも無く、宙に展開した足場を駆け回るだけで容易く回避し、ゲイツへの接近を続けていた。
「ふ、む」
「!」
恐らくは大規模魔術を放とうとしていたのだろう。
ゲイツはサクの接近を止められないと判断すると、魔力の解放を抑え、墜落するように地面に滑空してきた。
僅かに元の場所から逸れた大地に着地すると、再び自然な佇まいで立つ。
その様子からは、今の攻防でゲイツが何を思ったかはまるで分らなかった。
「……翼があっても空中戦を避けるか」
「…、…、…、…」
アキラの隣に着地してきたサクは、あえてそうしているのか挑発的にゲイツに構えた。
ゲイツは立ったまま動かない。動じない。
鋭い眼を持ちながら、その瞳は虚空を追って彷徨っている。
その辺りは、主に似ていると言った方がいいかもしれない。
「魔王の直属の直属だったか。まさかその程度ではないだろうな」
「…、…、…、…」
サクが挑発を繰り返すその合間、ゲイツと一瞬だけ視線が合う。
眼前まで切りかかっても、魔術を放たれても、アキラはまるでゲイツの存在自体を推し量れなかった。
巨大マーチュを討った相手を探していると言っていたが、感情を感じられなくなった今はそれすら不確かに思える。
こちらがどのような感情を向けても、ゲイツからは何も返ってこない。
その底知れない様子も、主によく似ていた。
「勇、者。一、行、か」
ゲイツが呟く。
挑発の中でも、やはり何も動じていない。
その様子に、歯噛みした気配を隣から感じた。
彼女は理由のない挑発はしない。劣勢を覆すためか、決着を急ぐときくらいだろう。
サクのその様子の理由は、アキラには察しがついていた。
まるで君臨するように立つゲイツの周囲。
リビリスアークの周囲を覆う草原は、凹凸の激しい荒野へと変貌しつつあった。
未だ魔力の稲光を放つ大地は、隣の廃村に酷く似通ってきて、あまりに痛々しかった。
ほんの僅かな攻防でこれなのだ。
これ以上戦いを長引かせれば村どころか大地そのものが滅んでしまう。
今まで幾度か“言葉持ち”を下してきてはいるが、息をするようにここまでの被害をもたらすゲイツの危険度はそれらを容易く上回っているように思えた。
やはりだめだ。脳が熱で溶け出しそうだ。
あのいかれた魔族の息のかかった魔物は碌なことをしない。
ゲイツも、そして巨大マーチュも、思うまま動くだけでこれほどの悪意を振りまけるのだ。
その力を―――リビリスアークに向けたのか。
「……サク。さっきの魔術、何回くらいできるんだ?」
「何か思いついたか?」
「いや、何も」
だが、思ったことはある。
「だけどあいつはとっとと倒すぞ。これ以上好き勝手に荒れ地にされてたまるか。空中をお前が防ぎ続けている間に、俺があいつをぶっ潰す」
アキラはさらに“入っていく”。
荒れ果てた平原を意識の外に放り出し、ゲイツのみを意識に埋め込んでいった。
「……分かった」
「ああ、頼むぞ。だから、一応限界を知りたくてな」
「限界か、分からない」
意識が少しだけ持っていかれた。
サクにしては珍しい回答だ。
「だが、ゲイツを討つまでは続けられるよ、必ずな。私の限界は、主君様の望みが叶うところまでだ」
「……頼もしい従者だな、本当に」
「それに、私事もある」
サクは、自分自身を嘲るように笑った。
「―――あのとき私がマーチュの調査をやり遂げていたら、こんなことは防げていたんだろうか」
気にしていないように演じる。それが何よりも難しい。
彼女はそう―――言っていた。
「―――やるぞ」
かける言葉はこれだけだった。
ゲイツの討伐でしか、その想いには応じることはできない。
この問題は、数多の選択の中から生み出された結果だ。
誰のせいでもあり、誰のせいでもない。
純粋な悲劇。
だけど、戦う理由はさらに増えた。
「―――っ、キャラ・ライトグリーン!!」
荒れた大地を強く踏みしめ、アキラはその身を暴風と化してゲイツに突撃する。
高速で近づくゲイツの身体が、僅かに身じろぐ。アキラは努めて冷静に魔力を剣に滾らせた。
「グ、ア、アッ」
「キャラ・グレー」
正面からの魔術攻撃など通用しない。アキラは泥色の球体を剣で無力化する。
散弾のように放たれた魔術が再び大地を砕くのを思考の隅に追いやり、ゲイツの巨躯だけを睨みつけた。
「グ、ウ―――」
「……!」
宙を彷徨っていた目が一瞬アキラと合った瞬間、ゲイツは不気味な翼を広げた。
やはり空に逃げる気か。
ゲイツの基本戦術は遠距離戦なのだろう。あるいは相手が苦手とする戦術を取っているだけなのかもしれない。これが“言葉持ち”ということか。戦術というものが存在する。
ブオンッと翼をはためかせ、ゲイツはその巨体を宙に浮かせた。
いかに巨大な翼でも、あの巨躯を容易く空に運ぶとは。
イオリのラッキーもそうだが、物理法則を容易く捻じ曲げる。
“幻想獣型”の“言葉持ち”。
アシッドナーガのゲイツは、既存の生物の常識を、限界を容易く超えていた。
だが、その領域は、すでにこちらも踏み入れる。
「サク!!」
「ああ!!」
アキラの背後から、疾風が空中に射出された。
アキラの肩を蹴ったように見えたが、衝撃は無い。
ミツルギ=サクラの足場生成。
世界を周った彼女の足は、あらゆる場所へその刀を運ぶ。
飛翔直後の不安定なゲイツに飛び立ったサクはすでに抜刀体制に入っていた。
巨躯のゲイツに比して、小柄な彼女の身体は、しかし矢のように鋭かった。
―――が。
「そ、う、お、前、だ」
悪寒が走った。
ゲイツの目は、宙を彷徨わず、サクだけを捉えている。
タンガタンザでもそうだったとアキラは聞いた覚えがある。
あの激闘の終盤、サクと対峙した炎の虎は、彼女の速度を警戒して拮抗した戦いを演じたらしい。
“言葉持ち”の戦闘は、極めて適格だ。
戦場で最も警戒すべき相手を即座に見抜く。
今回も警戒すべきはサクだ。
アキラを相手にするゲイツにとって、最も有効な戦術は空中からの遠距離攻撃。
ならば最初にすべきことは、空中での安全を確保することだ。
だから、ゲイツは、サクに狙いを定める―――
「―――っ」
「アキラ!!」
サクが叫んだ。
アキラは腰を落とす。
彼女も察したのだろう。この突撃は、早計だったと。
「ギ、ガ、」
ゲイツの身体が泥色の魔力に覆われる。
放たれる稲光は余波の残った大地の比ではない。
蒼天の虚空に、雷雲が浮かんでいるかのようだった。
アキラは震える身体を必死に抑え、叫んだ。
「サク!! 歯ぁ食いしばれ!!」
「ク、ウェ、イ、ク!!」
爆発と同時に視界が灰色に覆われた。
落雷のような衝撃が脳髄を揺さぶる。
アキラは必死に目をこじ開け、ゲイツの姿だけを睨んでいた。
アキラは剣の魔術で身を守れるが、サクにはその術はなく、しかも空中にいた。あの大規模魔術から離脱する術はない。
だが、だからこそ、今を逃すわけにはいかない。
灰色に染まった眼球が、それでも辛うじてゲイツの姿を捉えている。
魔術を放った直後だからだろう。
ゲイツは今、僅かに宙に浮いているに過ぎない。
あそこならば、まだアキラの剣は届く。
「キャラ・ライトグリーン!!」
土曜の魔術の衝撃に、身体中が凍り付いたように動かない。
それでも痺れた身体を力づくで動かすと、バキリという気持ちの悪い音がどこかから響く。
だが構いはしない。
サクが単純に攻めたのも短期決戦を狙うためだ。この機を逃せばすべてが無駄になる。
始めは蠢くように数歩。
しかし次第に足は進み、やがて身体が風になる。
突撃する先は、大規模魔術を放った直後で動きを鈍らせているゲイツだ。
「ぐ、う、おおお―――」
己の身を、そして仲間を顧みずに突撃するアキラを、ゲイツが睨んだような気がした。
魔術の直撃を受けたサクは無事では済まないだろう。よりによって金曜属性の弱点である土曜の魔術だ。
だがそれで歩みを止めることは許されないと、これまでの旅が証明していた。
また、ゲイツを討つ理由が増える。だがそれはすぐには吐き出さない。
溜め込んだこの憤りは―――この魔物を討つときに吐き出すことに意味がある。
「―――ゲイツ!!」
「来、る、か」
ゲイツは動じていなかった。
アキラを冷静に眺め、そして翼をはためかせる。
巨躯がアキラのいる大地と切り離されていく。
ここで離脱できればゲイツの勝利は揺るがないだろう。
アキラの速度は万全ではない。未だ土曜の魔術に身体を押さえつけられているような感覚がする。そもそもあの魔術は威力だけではなく、そうした意味もある魔術なのだろう。
ゲイツの計算は正確だった。
眼前に迫ったアキラの攻撃は間に合わない。無理に迎撃に移る必要はなかった。
それはアキラも今までで培った戦闘の感覚で理解していた。
“今”の自分ではゲイツの離脱は止められない。
だが。それでも。
“数秒後”の自分が乗り越えられれば問題ない。
「―――、」
迷いはなかった。
不安もなかった。
むしろ、“それ”を前提とした行動を取っていた。
アキラが今まで拠り所としてきたその力は、言うまでもなく、誰かの模倣だ。
そしてその模倣は、教えを乞うこともなく、見ることで手に入れてきた。
それならばあまりに容易い。
このアイルークで旅を始めて、ずっと顔を合わせてきた相手を模倣するなんてことは。
今、必要な力は、ゲイツに剣を届かせる能力。
例えばそう―――ミツルギ=サクラのような驚異的な移動能力。
「キャラ・イエロー!!」
ダンッ!! とアキラは“空”を蹴った。生まれてからずっと歩み続けてきた大地が今、眼前に、空中に存在する。
翼を振り切り、アキラの眼前から空に逃げたゲイツを、同じ速度で追撃した。
さしものゲイツにも焦りが見える。全力で距離を取った相手が眼前にいるのだ。
背面へ飛んだゲイツは身体を差し出すように身を開いていた。
彼我の勢いには圧倒的な差がある。
「お、前、も」
「キャラ・イエロー!!」
ゲイツが空に逃れるたびに、再び“空”を蹴る。
信じられないほど魔力が削られていくのを感じた。これが空中歩行の代償か。
だが、瞳の力は強めてゲイツを睨んだ。
アキラとの距離に辛うじて背面で飛べるだけのゲイツならば、不慣れなこの力でも追いつける。
「キャラ―――」
ゲイツの翼に抱きかかえられているように見えるほど接近したアキラは、掲げた剣に魔力を込めた。
初撃はその固い爪で防がれたが、その出た腹なら切り裂ける。
「グ、オ、オ―――、オ、オ、オ!!」
「……!!」
ドッ!! と眼下から何かが射出された。
視界の隅に飛び込んできたのは鋭く走るゲイツの尾。
棘だらけの攻撃的なそれは槍に見えた。
初撃以降、アキラに対して距離を取り続けてきたゲイツが遂に、“幻想獣型”の力をアキラに対して発揮する。
「っ―――」
剣で受ければ串刺しは避けられるであろうが、それではゲイツを追うことはできない。
それどころか、こんな空中で勢いをつけているのだ。防いだところで、強大な肉体の力を誇るゲイツの攻撃の衝撃で、アキラの身体は粉々になるかもしれない。
アキラは自分の不幸を呪い、そして心の底から安堵した。
そもそもゲイツを終えたのは先ほど空中を蹴ったので限界だ。
必死に攻めて、ゲイツが攻撃に転じたのは―――そこで動きを止めてくれたのは幸運だった。
「アキラ―――歯を食いしばれ」
「ああ、そうするよ」
「―――!?」
尾をアキラに繰り出したゲイツの背後、身体中が吹き飛ばされたような姿のサクが跳んでいた。
思っていた通りだった。
何の保証もないのに、ゲイツに迎撃されたサクがすぐに現れるような気がしていた。
大したものだ。
お前は本当に、どこにでも現れてくれる。
迫りくる衝撃に構えることも思わず忘れ、アキラはしばし呆然とした。
赤い衣は千切れて消し飛び、泥をかぶったように薄汚れ、身体中が切り裂かれ、いたるところから流血する彼女は、しかし美しかった。
ドンッ!! と身体中が砕けるような衝撃をその身に受けた。
勢いそのままアキラは空中に放り出される。
運が良ければ死なないだろうか。
他人事のように思いながら、アキラはサクを眺めていた。
彼女の愛刀が鋭く走る。
いかに固い鱗を持つとは言え、駆動する必要のある関節は別だ。
生物としては致命的な損傷だろう。
サクの刀は、ゲイツの首筋を正確にとらえていた。
「……キャラ・ライトグリーン」
そろそろだと思い、小さく呟いて、せめてもの抵抗をしてみた。
グシャリ、と耳を覆いたくなるような音と共に強く腰を打ち据えて、アキラが声にならない悲鳴を上げていると、遠い空から巨大なゲイツの爆発音が聞こえる。
あれほどの上空に、自分は昇り詰められたのか。そしてあの高さから落下したのか。どこをどの程度負傷したのかまるで分らない。
言いようのない恐怖を自分の身体に覚え、蠢きながら、アキラは空を見上げる。
九死に一生を得たようだが、その感動は、後にしておこう。
今から、最後の力を振りぼって気を失ったらしい従者様を、何としてでも受け止めなければならないのだから。
―――***―――
「俺は自分が怖くなる」
「あ、アッキー。駄目ですよ、ちゃんとお休みしてないと!」
「いや、俺もそう思うんだが、なんか動くんだ。身体が」
「え……、打ち所が悪かったんでしょうか……。あれ、打ち所が良かったんでしょうか……? ですかね」
ティアが深刻そうな顔つきで見上げてくる。
アキラだって怖くなった。
大規模魔術を間近で受け、上空から地面に墜落し、そして最後は“落下物”を抱きかかえて地面を転がり周った。
そんなこんなでいたるところを負傷し、指一本動かせなかったのだが、戻ってきたティアの治療を受け、日が沈む頃には、行動可能となっていた。
未だ節々に鈍い痛みを感じるが、人間どころか生物の枠組みを超えているような自分の身体に、底知れぬ恐怖を覚える。
「うう……、アッキーが前に話してくれたゾンビみたいになってますね。襲われたらあっしもそうなるんでしょうか」
「あれ。てかサクも結構大丈夫そうだったぞ。異常なのは―――お前だ」
「はっ、あっしがボスでしたか」
ティアを適当にからかいながら、アキラは賑わっている人々を眺めた。いたるところにテーブルが展開し、昼も見たようなこの場には不釣り合いに見える料理が所狭しと並んでいる。立食形式のようで、人の輪が各所に点在していた。
ここは廃村と化したリビリスアーク。
しかし難を逃れていた村長の計らいで、各所に点在していた元リビリスアークの村民が集まり、大きく賑わっていた。
近くの大きな町で開くつもりだったそうだが、アキラの容態を気遣ってここで開くことになったという。
アキラを名目に集めたようだが、彼らにとっては久方ぶりに故郷の仲間たちと出会える貴重な機会なのだろう。話には花が咲いているようだ。耳が拾った話では、リビリスアーク以外の者も幾人か混じっているようだった。
こうした光景を眺めていると、たとえ眼前が廃墟だとしても、リビリスアークは滅んでいるようには見えなかった。
襲撃を受けた瞬間を覚えている者が参加しているかどうかまでは分からない。だが、例えそうであってもここは彼らの生まれ育った場所なのだ。彼らはただ、まだこの場所に集まりたかっただけなのかもしれない。
気になると言えば、アキラが参加できるかも分からなかったろうに、よくあの村長が開催に踏み切ったことだ。
それでも。
ほっと息を吐く。まだ休んでいるサクも連れてくればよかったかもしれない。こんな光景を見るだけで、身体の痛みが引いたような気がした。
「アッキー。まだお休みになっててください。あっし、さっきお料理運んでくる、って言いましたよね?」
「あ、期待してなかったから自分で来たんだよ。運ぶときに落としそうだし」
「なんと」
下手をすれば騒ぎになると判断した自分の予想は、ティアが恨みがましい瞳を向けてきても何ひとつ揺るがない。
まだ誰もアキラには気づいていないようだが、村長に気づかれたら何が起こるか。
とっとと当初の目的通り、自分とサクの食事を確保して、寝床に戻った方がいいだろう。
アキラが食事に目を走らせると、遠くからイオリが手を振って近づいてきた。
「アキラ。もうすっかり治ったみたいだね。日輪属性っていうのは本当に―――いや、止めておくよ」
「……ああ。って、あれ、お前いつもの服は?」
「こういう場では騒ぎを起こしたくなくてね。魔導士のローブは脱いでるんだよ」
元の世界の制服のようにも見えるが、色は大人しい。彼女は落ち着いた色を好むが、大体の制服のようなものを着ている気がする。
だが、そうした服装が目立つと感じるのは、アキラが元の世界の住人だからだろうか。この世界の住人には、紛れ込んだら見つけられないだろう。
「お前いくつなんだっけ」
「殴るよ」
酷く冷え切った声が聞こえた。
盾を探して彷徨った右手がティアを見つける。
流石に怪我を治してくれた恩人を差し出すのは忍びなくて結局頭を下げた。
「はあ。でも、流石アルティアだね。村長は日を改めるつもりだったらしいけど、アキラをすぐに治して見せる、って大見得切ったんだから。実際その通りになった」
「お前か」
「そうですそうです。すべてはこのティアにゃんの図り事よ!」
先ほどのボス設定がまだ続いているのだろうか。ティアは何故かイオリを向いて元気よく胸を張った。
イオリは軽く視線を流し、賑わいの奥に視線を向けた。
「そういえばそうだ。村長が君の容態を聞いてきたよ。みんなの前に姿を見せて欲しいってさ」
「無理にとは言ってないだろ」
「ああ、無理なら身体をお休めください、ってさ。でも僕がすぐに良くなるって答えておいたよ」
「敵しかいねぇのか」
別に村長を邪険に扱っているわけではない。
ただ、やはり、どうしても。
この人数を見ると、痛感してしまう。
自分の存在が、彼らの住居を、そして命を奪った一因であることは変わらない。この場所が勇者の出身地という理由であろうがなかろうが、“刻”に選ばれてしまった理由はやはりアキラなのだろうから。
彼らが気にしていないように演じ、そして自分もそれに応えようと“勇者”を演じても、この胸の痛みは正常に感じていなければならない気がした。
「仕方ないじゃないか。エリサスを救うためだよ。君の代わりに村長にずっと捉まっていた。目で助けを求められてね。容態見てくるって言ったら抜け出せたみたいだ」
「でもあいつ来なかったぞ」
「あれ? 行き違いかな。あ、いや、あそこに」
振り返ると見知った赤毛の背中が人込みに紛れて消えていった。
料理を持っていたようだが、随分と器用に歩くものだ。
届けに来るつもりだったらしい。
「……俺も戻るか。村長に捉まったら大変らしい」
「君がそう言うなら、僕が村長の相手をしているよ。そういうことも勇者様のお勤めとは思うけどね」
「苦手なんだよ、そういうの」
「知ってるさ―――リリルとは違うってね」
「?」
イオリはいつの間にか歩き出していた。
声をかけようと思ったが、その前にイオリは振り返ってティアを呼び寄せた。
「おお、イオリンに誘われるの珍しいです! 張り切っちゃいますよ!」
「ああ、君の力が必要だ。協力してくれるかな」
「もちろんです。あっし頑張りますよ! 何をすればいいですか?」
「何もしなくていい。村長のところに向かうから、いつもの調子でいてくれればそれで」
「? あ、はい!!」
ふたりは喧騒の中へ消えていった。
イオリは特に何もするつもりはないらしい。
かのアルティア=ウィン=クーデフォンが行ったのなら村長に見つかることもなさそうだ。
身の安全が保障されたアキラは、もう一度、廃墟に集まった人々を眺めた。
穏やかな気分になれる。
だが、英雄の気分を味わえるほどには自分には酔えなかった。
得るものは何もない。
所詮今日の出来事は、復讐でしかなかったのだから。
―――***―――
「聞いたぞ」
「……何を?」
騒ぎから離れた瓦礫でできた小道の先に、赤い灯りに声をかけてみた。
応答はあったが、振り返る様子はない。
アキラは無遠慮に近づき、隣に並んだ。
小屋に戻ると寝息を立てていたサクの隣に料理が並んでいた。どうやら行き違いになったらしい。だからアキラは、思い至った場所へ向かい、思った通り見つけた。
エリサス=アーティは、孤児院のなれの果ての前に立っていた。
「巨大なスライム。殴り殺したんだって?」
「討伐したの。変な言い方しないでよ」
「人にはあんだけ大人しくしてろだのなんだの言ってさ」
「たまたまよたまたま。事故みたいなものよ。それを言ったらそっちだって、」
「俺らの方こそマジで事故だから」
妙な言い合いになっている気がして、アキラは口を閉じた。
そして孤児院を眺める。
暗がりで良く見えないが、建物のど真ん中を踏み抜かれたのだろうが、周囲に散乱する瓦礫で、原形は留めていない。どこの建物も同じようなありさまだったが、この建物は、今でも姿を思い起こせるがゆえに、損害が特に著しく感じた。
建物のなれの果ての隅に、まだ新しい花が置いてあることに気づいた。きっとセレンが置いたものだ。この村と運命を共にした子供へ向けたものだろう。
この損壊は、事故では済まない。
ここに立っていると、空気が無くなったように息ができず、重苦しかった。
もしかしたら、彼女は昨日も、あの雨の中、ここに来ていたのだろうか。
「巨大マーチュは倒されたんだってさ」
「ああ、俺も聞いたよ」
エリーの声は比較的明るかった。
灯りに照らされた彼女の横顔も、いつもと同じように見えた。
「なんか、不完全燃焼、って感じ。もうあれね。スライム大きくて良かった、みたいな」
「お前に八つ当たりされたスライムも不憫だったな」
むすっとした様子が隣から感じられた。
思った以上にいつも通りだった。だが、その瞳が孤児院を捉え続けているのが分かってしまう。
「……なあ。お前が魔術師になりたかったのは、ここのためなんだよな」
隣の気配がピクリと動いた。
その話を聞いたのがいつなのかは覚えていない。
だが、エリーの様子から、それが今も変わっていないことが分かってしまう。
「俺はまたやっちまったな。何度目だよ、本当に」
ゲイツは撃破した。
巨大マーチュも、巨大スライムも討伐されている。
この近辺にはまだ何らかの危険な魔物がいるかもしれないから、明日も調査をすることになるだろう。
しかし、それを何度繰り返そうとも、現実は変わらない。
やはりこれは、ただの復讐だったのだ。
得るものは何もない。
赤い灯りが揺らめいたのを感じた。
アキラが振り向けずただ立ち尽くしていると。
バンッ!! と背中に衝撃がさく裂した。
「いっっって!? お、ま、」
「はい、これで気にしないで」
人の平手とはここまでの衝撃を生むことができるのだろうか。
地面に倒れ込んだアキラの頭上で、不敵な声が聞こえた。
「口で言っても分からないでしょ。これであんたはもう気にしない。あたしももう気にしない。それでいい?」
「っ……、っ……っ……」
「あれ、そんなに痛かった?」
「一応、俺、は、怪我、人だから、な」
「ごめんごめん。ほら」
差し出された手を掴んで立ち上がると、アキラは背中に手を回して様子を探った。抉れていても不思議ではないほどの衝撃だった。まさかとは思うが、魔力を込めるなどということはしていないだろうか。
「次から口で説明したら信じるから、もうやめろ」
「ごめんってば。まあ……蒸し返そうとしたあんたに対する苛つきも若干あったけど」
「怖っ」
エリーは小さく笑うと、灯りの付いた手を空に掲げた。
その先には何もない。だが、方角的に何があったのかは思い至った。
「さっきまで、あんたの代わりに村長とずっと話してたのよ」
「ああ、聞いたよ」
「本っっっ当に色々聞いてくるわ聞かせにくるわ。……あ、あんた村長と勝手に話しちゃだめよ」
「なんでだよ」
「絶対に」
「?」
エリーはこほりと咳払いして掲げた手に力を籠め、村長に聞いたのであろう話を口にした。
いかに輝きを増しても、その先には何もなかった。
「あの塔。あんたが現れた場所。崩れたの、1度や2度じゃないんだって」
「そうなのか」
「それに村が壊滅したのもね。初代勇者様の頃からある由緒正しい村―――なんて言っても、場所だってアイルークを転々としてた頃だってあるそうよ」
エリーは灯りを消し、空を見上げた。
本当に星がよく見える村だ。
遠くからの喧騒すら容易く呑み込むように感じる夜空の下は、灯りを消しても十分に明るく思えた。
「それでも。そのたびに、村長の先祖が村を起こしたんだって。そしてそのたびに、あの塔を建てたんだって。この場所がリビリスアークなんじゃない。勇者様がいつでも降り立てる場所が、リビリスアークなんだってさ」
「それは……すごいな」
「そしてそんな感想しか言えない人が、今回降りてきたわけだ」
酷い言われようだが、それ以外感想が出てこなかったのだからどうしようもない。
思ったことはいくらでもあった。だが、言葉にはできない。
「村長言ってたわ。すぐにでも村を復旧させるって。今は少し準備しているだけだって。ついでに約束してきた。その村には孤児院を作ってくれるってさ」
「……そうか」
「あの村長、いつもは迷惑なだけだけど、たまに村長だなぁ、って思うことがあるのよね」
彼女は笑っていた。アキラは、肩の力が抜けたような気がした。
そんな単純な約束だけで、心から救われたような気がする。
アキラが得るものは何もなかった復讐などをやっていても、村は、アキラの知らないところで逞しく蘇ろうとしている。無用の心配だったのかもしれない。
リビリスアークは滅びない。
だから、彼女の夢も途絶えはしないのだ。
それを聞いただけで、身体中に熱い何かが生まれたようだった。
「だからさ。ねえ、勇者様。村長から伝言よ。何も気にせず、魔王を討ってください、ってさ」
彼らは決して弱くない。
いかに魔物が襲撃してこようが、この世界を強く生き抜いている。
気がかりだった多くのことが薄れ、アキラは、今は未だないその塔を見上げていった。
今回は、演じる必要もなく、頷いた。
「ああ。必ずだ」
「ま、それはあたしもだけどね。……婚約者だし」
アキラが顔を向けると、エリーは歩き出そうとし、そして何かに気づいたように立ち止まった。
「……あ、そうだ」
「ん?」
「あんた、あたしの夢ふたつも潰したのよね」
振り返った顔は、いたずらを思いついたような表情だった。
嫌な予感がし、アキラが立ち去ろうとすると、エリーは手で制し、もう片方で孤児院の瓦礫を指さした。
「あたしの部屋、あの辺なの。見つけて欲しいものがあるんだけど」
「何ってんだ、夜だぞ?」
「い、い、か、ら。お気に入りの服。探すの手伝って」
「おま、もうそんなのボロボロになってるだろ」
「直せばいいでしょ。持ってこなかったのちょっと後悔してたんだから」
今度は普通に背中を押され、孤児院に入っていく。
どうやら手伝う羽目になりそうだが、少なくとも今は、贖罪になるような行動が身を軽くしていく。彼女もそう思ったのだろうか、それは考え過ぎか。
瓦礫を退かしながら、アキラはこの孤児院での日々を思い出す。
いつの日か。
彼女はここで、あるいはここではないどこかで、子供たちと笑うことができるのだろう。
「……って、そうだ、お前。エルラシアさんは? 会えたのか? 俺も世話になったし、様子見たいんだけど」
「え? あ、ああ、それがね」
離れた場所で同じく瓦礫を退かしていたエリーは、寂しそうな表情を浮かべた。
そしてエリーは、掴んだ瓦礫を強引に放り投げると、つまらなさそうに言った。
「お母さん、用事でしばらく遠出してるんだって。一応手紙出したけど、会えるのはもう少しかかりそう」
「かかりそうって……、それならこっちから行こうぜ。どこにいるんだよ、アイルークにはいるんだろ?」
「いいの? ありがとう」
すると彼女は、下手に遠慮せず、照れたように笑った。
そして。
アキラも聞いたことがある町の名を口にした。
「お母さんがいるのはクロンクラン。結構離れてるけど、大きな町よ。あたしもわざわざ何度も行ったことあるくらい」
クロンクランは、サーカスなどの見世物もやっているらしい。




