表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
おんりーらぶ!?【第二部】  作者: コー
北の大陸『モルオール』編
36/68

第44話『名前を付ける(後編)』

―――***―――


 思わぬ拾いものだった。


 布石として手に入れた存在の頬を撫でながら、妖艶に笑い、唇を舐めた。


 自らの欲望のために、快楽のために、自分は人間というものをよく知ろうとする。

 人が生きていく以上、必ず流れというものが存在する。

 その流れに、ほんの少しだけ、あり得る範囲で手を加え、いずれは巨大な渦を作り出す。そうすることで、人の営みが崩壊していくことに、至極の興奮を覚えられるのだ。


 そうしていく中でも、簡単には崩壊しない流れがあることがまた面白い。

 今まで数多の流れを狂わせてきた自分でも、人間を理解した、などとは流石に言い切れない。

 あの物狂いの魔族はそんなことを気にも留めずにその手で調べ尽してはいるが、自分はそれに美学を感じない。

 多少の理解はしているが、謎は謎のまま、未知は未知のまま、しかしそれでも操るからこそ、これだけの興奮を得られるのだ。


 自分が投じた一石が、いつの間にか、誰も気づかず、得体の知れない何かを束縛し、そして意のままに操れるようになる。

 太古では、有無を言わさず完全なる支配をしていたものだが、今思えば自分は未熟であった。それでは面白みがないではないか。

 だがそれも正常だ。自分の欲望も変化する。

 そんな自分の変化ですら、謎に満ちており、そして美しく思えた。


 もっとも、自己の欲を偽り続ける“魔族”の同胞もいるほどなのだから、自分の変化など可愛いものなのだが。


 再び、今回の布石の頬を撫でる。


 拾いもののせいだろう。どうも今回は、石としては巨大で、変化としてはいささか過剰かもしれない。だが、それも含めて、愛おしく思えた。


 今、この人間の中の心は変わっていっている。

 不純物の無い、純粋な感情など存在しない。

 好意には悪意が、善意には計算が、自信には劣等感が、必ず裏に潜んでいる。

 ほんの少し、あり得る範囲で、その感情を増幅させ、あるいは縮小させ、自分の意識と同化させる。

 波は大きく、小さく、揺らいで、徐々に望んだ形へ向かっていく。


 欠けては満ちる、月のように。


――――――

 おんりーらぶ!?

――――――


「3回目だね……ここに来るの」


 着陸したラッキーから飛び降りると、イオリからそんな呟き声が聞こえた。

 アキラは白い息を吐き出し、周囲を見渡す。

 ここはリオスト平原。現在失踪扱いのサラ=ルーティフォンが目撃された場所だ。


 一方を森林に、残る三方を岩山に囲まれたその平原に、草木はほとんどなく、足もとの土も砂のようにざらつき、大地を覆っている。

 木々は先日向かったグリグスリーチの出現場所とは違い、葉が抜け落ち、天気がいいのに冷えた風が熱を奪っていくような感じがした。

 ふたりだからか、平原から少し離れた森林に着地し、様子を伺いつつ接近するらしい。そうイオリは言ったが、心の迷いが感じられる。


 周囲を木々に覆われたここも、相変わらず、寂しいと感じる場所だった。


「ありがとう、ラッキー」


 どうやら前回と同じ場所に着陸しているようだ。ここから歩くのだろう。

 イオリが鼻先を撫でると、ラッキーは光の粒になって消えていく。

 その光が消え切るまで、イオリは呆然と空を見ていた。


「……さあ、行こうか」


 落ち着き払って、淡白で、そして慎重な口調でイオリは呟く。

 表情も静かに、あくまで次の行動を見据えて、あるべき行動を取ろうとする。


 そんな彼女を見ていると、アキラの胸は強く痛む。

 今から彼女は、サラ=ルーティフォンを殺しにいく。

 あれだけ容易く、当たり前のように、親友と呼び合っていた相手を。

 それが、あるべき物語の姿であると知っているがために。


「アキラ」

「……どうした」


 ふたりで歩く森林は、虫の声ひとつせず、静寂に包まれていた。

 イオリは魔導士のローブに首をうずめる。足取りは重い。


「その……、村は大丈夫かな。案の定襲撃があったみたいだけど」

「それはお前が一番よく知ってるだろ」

「……そうだね。カリスがいる以上は余程のことが無い限り……いや、余程のことがあっても問題ないか」


 意味のない会話だった。彼女らしくない。

 現在、アキラとイオリが抜け出してきた村は魔物の襲撃に遭っている。

 アキラはともかくとして、イオリの離脱は戦力的には大きいだろう。

 だが、あの場所にはエリーもサクも、そしてティアもいる。その上であのカリスがいるともなれば、戦力的には問題ないと言い切れる。


 集中できていないのだろう。

 イオリが何かを考えるように顎に手を当てているが、虚ろな瞳が、何も考えていないことを感じさせた。

 いや、集中しているからこそ、なのだろうか。

 まるで自分が殺される場所に赴いているようなイオリの様子は、周囲の木々など問題にならないほど痛々しく映った。


「……なあ、イオリ」


 励ましの言葉など、思いつかなかった。だけどアキラは、考えるより前に呼びかけた。

 これ以上、彼女にこのまま歩いて欲しくはなかった。


「もし、仮にだ。サラを救う方法が見つからなかったらだけどさ」

「……うん」


 サラは救えない。

 言いたくはなかった。

 だがアキラの冷静な部分が、判断してしまっている。

 イオリが想定した範囲に彼女を救う方法が無いのであれば、アキラが思いつく範囲にそんな方法は無い、と。


「……俺がやる」


 イオリが顔を上げたのが分かった。

 アキラは目を合わせないように、前だけを見続ける。


 人を、殺す。

 その判断を下せるほどの勇気も、その出来事についての覚悟も、自分は持ち合わせていない。

 絶対に超えてはならない一線だとぼんやりとは分かる。

 だがそれを、今のイオリにさせたくはない。1度だってさせたくないことを、2度もさせてたまるものか。


「いや、俺はさ。結構忘れっぽいからさ。案外気にしないと思うんだよ」


 無神経なことを故意に言ってみた。

 未知の世界だ。自分だってどうなるかは分からない。

 今は寒さで震えているだけだが、いずれ勝手にこの手は震え出すだろう。それは今だけでなく、未来永劫、その苦に身を締め付けられるかもしれない。

 そんなアキラの想像の上でしかない漠然とした恐怖を、イオリはかつて経験している。

 だから、自分がやればいいと感じた。

 自分が身代わりになれば、イオリに対する贖罪の足しになるかもしれない、と、自分でも的外れだと思うことを。


「……これ以上」


 冷たい声だった。

 それでいて、耳に確かに届く声。

 イオリと話していると、よく聞く、何もかもが分からなくなる声色だった。


「これ以上、君に迷惑をかけさせないでくれ」


 アキラは思わず、イオリに視線を合わせてしまった。

 彼女の瞳はまっすぐに、アキラに向けられている。

 初めて見たかもしれない。

 動揺が目に見える、すがるような瞳は。


「め、迷惑かけてんのは俺の方だろ。……くそ。もう、はっきり言う。お前を何度も何度も巻き込んでんだ、俺は。お前が怒るのも無理ない。悪いと思ってんだよ、ずっと、ずっと」


 なんの気なしに言葉になるとエリーが言っていた気がするが、少しは考えて話した方が良かった気がする。

 苛立ちを隠さないままの言葉は、果たして謝罪と呼べるだろうか。


「だから、償いじゃないけど……、俺がやる。お前がこれ以上、辛くなるならやらせない」


 まくし立てて、アキラは歩を早めた。

 情けない。こんなことでは、結局励ましにもならないだろう。

 拳を握りながら歩いたアキラは、ふと、隣のイオリの気配が消えたことに気づいた。

 振り返ると、イオリは元の位置で立ち尽くし、幽霊でも見るような顔でアキラを見ていた。


「なんだよ」

「……え、っと」


 眉を寄せて、珍しく混乱しているようなイオリは、恐る恐るというような様子で、アキラの表情を伺ってきていた。

 こんな表情は、あのグリグスリーチの調査へ向かう前にも見た気がする。


「それは……、何の話?」

「は?」


―――***―――


「カリスン、カリスン。あの、あっしは何故ここに……」

「カリスンとは私のことか?」


 カリス=ウォールマンは恐ろしく不機嫌な声で威圧してみたが、どうも目の前の少女には通用しないらしい。


 ここはウォルファールの魔術師隊支部の庭。

 魔物の襲撃に合わせ、臨時の作戦本部として作られたことには、建物から運び出された机が所狭しと並んでいる。

 その最奥にカリスは陣取り、そして鋭く村の地図に目を落としていた。

 “伝令”から新たに入ってくる情報を加え、常に部隊の行動を整備する。

 魔物は北と東から攻めてきているようだ。

 だが、やや北の魔物が徐々に西に傾き始めているように感じる。

 現在現れている魔物は陽動の役割を兼ねているのかもしれない。ならば予め西に―――いや、本命は南だろう。向こうにしてみれば、北と南で挟むのが、一番の理想形だ。伝令が途切れぬように注意を払い、南を固め始めた方がいいだろう。

 カリスにとって、戦闘とはチェスゲームのようなものだ。

 モルオールの魔物は尋常ならざる戦闘力を保有しているが、軍と軍の戦闘では裁量がものをいう。

 魔物の数はおよそ2百から3百。こちらの戦力はおよそ50名。

 これだけの数だ。もしかしたら知恵持ちクラスもいるかもしれない。

 だがいずれにせよ、戦略で上回れば問題ない。


 そして個の戦闘力。

 すれ違いに出てしまったイオリと勇者様の離脱は痛かったが、残っていた“勇者様御一行”は指示に従ってくれた。

 ああいう旅を続けている者たちは独断で動くことがほとんどだが、どうやらいい戦いに恵まれているらしい。


「あの、あっしは……?」

「君はここで待機だ。医療班としてその力を発揮して欲しい」

「はっ、分かりました!!」


 うるさいが、やる気は伝わってくる。

 だが、今のところ負傷者は出ていないようだ。


 カリスは目を瞑り“村の様子を探る”。


 北の最前線にはあの赤い衣の少女が立っているようだ。

 遠目でも見えたあの動きは、光に例えられるほど速く、そして鋭い。

 その存在のおかげか、魔物の陽動作戦はまともに機能していないようだ。

 それで盤石に南を固められる。

 港の警護も問題ないようだ。腕っぷしが強い者揃いのローヴン=ヒトラのチームが固めている。

 キャルス=ワン=トートの遊撃部隊も、“伝令”通りに2名が南に向かっていった。

 東は、まずい。スヴェル=カインのチームに負傷者が出たようだ。すぐにこちらに向かわせて、空いた穴は“伝令”の一部を向かわせよう。


 目を閉じたカリスには、村のあらゆる場所の、あらゆる情報が飛び込んでくる。

 膨大な情報を整理し、処理し、しかるべき情報を目の前の地図に反映していく。


 正門の前を、目も口もない人間ほどの背丈の泥人形が駆けて行った。

 敵ではない。たった今、東に向かわせた戦力だ。

 そして彼が、“彼らが”、この村中に配備した伝令係でもある。


 召喚獣―――ラドウス。


 カリスの操る、複数召喚タイプの召喚獣は、村のあらゆるところに存在し、そしてその情報をカリスに伝えてくる。

 イオリのラッキーのように個としての莫大な力は無いが、カリスのように知ることが勝利につながるタイプにとって、最も適した存在だと言えた。


「……間もなく負傷者が来る。準備しろ」

「はい!! あっしに任せてください!!」


 お前ではなく、他の者に声をかけたつもりだったのだが。

 気合が入った大声を聞いて、カリスは頭を痛めた。

 他の救護班といつの間にか親しくなっているのも気になるが、どうも戦闘中の緊張感が感じられない。

 もっとも、救護班が殺伐としているよりは、怪我人にとってはいいのかもしれないが。


「……」


 間もなくラドウスたちが到着する東に注意を向けたカリスは、思わず目を覆った。

 目を焼くような爆発が小型の魔物をまとめて吹き飛ばし、よろけた馬のような魔物―――スリジブル、か―――が目を背けたくなる勢いで殴り飛ばされる。

 その爆音は、この場所にも現実の空気を伝って届いてきた。


「……」


 あくまで冷静に、慎重に、向かわせたラドウスたちを引き返らせる。

 いい方向にではあるが、なかなか計算が合わない。

 いつしか東の最前線に立っていた赤毛の少女。

 彼女がいれば東は問題なさそうだが、正直、魔物の中で暴れ回っているようにしか見えなかった。

 様子を見るに、落ち着きはあったように思えたが、どうも色々とあるようだ。

 あの年代はそうなのかもしれない。


「……」


 ふと、カリスは思い起こす。

 あの年代の女性―――イオリと、サラ。

 今イオリは、まさにそのサラの捜索に向かっている。


 詳しいことは分からないが、イオリが出向いたのだ。

 どういう形であれ、問題は解決するだろう。


 カリスは苦笑した。

 ホンジョウ=イオリ。自分と同じ魔導士に1年で上り詰めた、まごうことなき天才。

 その存在に、自分は何を思ったか。何を感じたか。

 恐怖。劣等感。誇らしさ。信頼。

 ありとあらゆることを思ったように感じる。


 不気味さを覚えた。

 それは確かな事実。昨夜勇者様にも話したことだ。


 だが自分が彼女に対して思ったことは、そんな単純な感情ではない。

 結局のところ、ホンジョウ=イオリも、あの赤毛の少女と同じ年頃の女の子だ。

 魔術師隊に入り、実績を重ねていく彼女を、娘のように思っていたかもしれない。

 感情を言葉にしたときに大人びていても、冷静なように見えていても、思うことの根幹は、誰しも酷く似通っているのだろうか。


 戻ってきたら、ゆっくりと、話でもしてみるか。


「はっ、お怪我ですか!? 大丈夫ですか!? おうさっ、私にっ―――」


 そこから先は耳を塞いで被害を避けた。

 カリスは息を吐く。

 救護は全く問題ないだろう。

 彼女の魔力は一昨日見ている。この場に残る救護班を数名遊撃に回すべきだったかもしれない。

 つくづく計算が合わない。


 カリスは自分の思考に苦笑しつつも、再び町中へ意識を向ける。


―――***―――


「何の話って……、そりゃ」


 アキラは頬をかいた。

 何も考えずに口から出た言葉だ。上手く説明しきれない。

 だけど、漠然と思っていること、思い続けていたこと。


 この世界の時計の針を好きなように弄り回しているアキラが抱えなければならない罪。

 その一番の犠牲者は、間違いなく目の前のイオリだろう。


「俺はさ」


 アキラは白い息を吐き出して、目を閉じた。


「“二週目”。お前の忠告を、ちゃんと聞かなかった。お前があれだけ願ったことを俺はできなかった」


 圧倒的な力のあった“二週目”。

 イオリは最終局面で確かに言った。その力を惜しむことなく使って欲しいと。

 危機感は確かに覚えていた。自分も必死になろうと努めた。

 だが結果はあの通り。

 僅かな躊躇を見せたアキラは、力の出し所を誤り、すべてがあの地で終わりを迎えてしまった。


「いや、“一週目”だってそうだ。詳しくは思い出せないけど、俺はお前を救えなかった。誰も、救えなかったんだ。そのせいで、お前はこの場所を……、こんな経験を何度も繰り返しちまってる。それなのに、当の本人は気楽に旅を続けてたんだ。お前からしてみれば、ふざけんな、って感じだろ。……悪かったと、心の底から思っている。お前に謝るために、俺はお前に会いに来たんだよ」


 まともにイオリの顔を見られない。

 だけど、ようやく吐き出せた言葉だった。

 アキラは目をこじ開け、強引にイオリに顔を向けた。目を背けていいことではないと、強く感じる。

 だが。


「え……っと」


 こほりと咳払いをしたイオリは、視線を外していた。

 気まずそうに顔を背け、目が泳いでいる。

 ピクリと指が動いた気がしたが、彼女は手を振りそれを払った。


「……僕の話をしてもいいかな」


 イオリはまた咳払いをして、息を吸った。

 そしてゆっくりとアキラに歩み寄ってくる。

 これだけで許して欲しいとは図々しくて言えないが、彼女の様子が想像とは違う。

 アキラは身構えると、イオリはまた深く息を吸った。


「僕はさ。アキラがずっと怒っていると思っていた」

「……は、い?」

「いやだって。久しぶりの再会だっていうのに、……あんなに淡々としててさ」


 それは。

 アキラが、イオリに対して思ったことだったと思う。イオリもアキラに対して、同じことを思っていたとでもいうのか。


「でもそれは当然だよね。僕はあんなことをしたんだから、ってさ」

「あんなこと?」

「……決まっている。前回だよ。未来予知だとか適当なことを言って……、もっとはっきり言うべきだったんだ」

「そんなの、お前だって訳も分からずあの状況だったんだろ。未来予知だって思ったって、」

「いや、そうじゃない。僕は君と会う2年間、真面目に考えていたんだよ。あの経験が未来予知なんて言葉じゃ片付けられないほどのものだと思っていた……いや、確信してたんだ。時間は巻き戻っている、ってね。未来予知っていうのは、下手をしたときの言い訳用に使っていたんだ」


 あの現象の正体など、イオリであれば容易く辿り着くであろう。


「それなのに」


 イオリはギリと歯を噛んだ。


「僕は答えを知っているのに、みんなに伝えることができなかった。この先に待つものが何なのかを必死に訴えられれば、あの結末は変えられたはずなんだ。2年間周囲を欺き続けていたバチが当たったんだよ。嘘を簡単に吐き続けていた僕は、誰かに本当のことを伝えることができなくなっていた」


 嘘を吐くことは、精神を蝕むらしい。

 サラは言っていた。イオリは苦しんでいると。

 目の前のイオリの表情を見ると、その言葉が、本当の意味で理解できた。


「でも、それはお前のせいじゃないだろ。そもそも“一週目”、俺がしくじったのが原因だ」

「君は僕たちを救うために時を戻したんだ。感謝している。少なくとも、前回僕は思っていた。理由は分からなかったけど、あの結末から離れて、もう一度チャンスが貰えたんだ、って」


 エゴの塊のようなあの行動でも、救われる者はいたというのか。

 あの場所へ挑んだ当事者だからこその言葉かもしれないが、アキラは心が揺らいだのを感じた。


「それなのに、さ。答えを知っているような僕は、君の役に立つようなことを何ひとつ伝えられず、結局同じことを繰り返した。もし僕の記憶が残っていたことに意味があったとしたら、……それを全部無駄にしたんだ」


 もし自分が、答えを知った状態で、あの“二週目”を経験していたらどうなっていただろう。

 そして結局、魔王の策略通りにすべてを失ったらどう思うだろう。

 仮定の話だが、最悪の気分になった。

 きっと自分は、延々と後悔し続けるだろう。

 イオリを悩ますそれは、きっと解かれることは無い。


「君がこの場所を訪れて、そして真相を知ったとき、いや、“君の記憶もあることを知ったとき”、僕は情けなくも怖かったよ。ずっと責められているように感じた。“お前は知っていたのに、何をしていたんだ”、って。そのことに触れられないまま会話が続くたびに、暗に非難されているように」


 イオリは両腕で自分の身を守るように抱いた。

 震えているのが分かる。


 イオリと話していたあの部屋で、自分がそうしていたように、イオリもアキラを探っていたと言う。

 それを聞いて、アキラは黙っていられなかった。


「俺が怒るわけないだろ。大体、“二週目”はお前の記憶と変わってたんだろ」

「それは僕が好き勝手に暴れ回っていたせいだ。自分の都合のいいように時が戻って、馬鹿みたいにはしゃいで……、さ」

「それはむしろ俺のせいじゃねぇかよ。俺が、全部ぶっ壊したんだ。全部、俺だろ」

「……そう、だね。そうだよ。アキラはそういう人だったんだよね……」


 イオリは、力なく腕を下げ、乾いた笑い声を出した。

 毒気が抜けていくような様子は、アキラの中の泥のような何かも、少しだけ流されていくように感じた。


「……てか。俺はお前が怒っていると思ってた。同じこと思ってた」

「僕が? そうか……。あのときは、色々複雑だったんだよ。ようやく長年の謎が解けたり、やっと君がこの場所を訪れてくれたり、君になんて詫びればいいのか結局思いつかなかったり、グリグスリーチやサーシャの問題もあって、正直、混乱してた」

「そうは見えなかった」

「怒ってるように見えたんだって? そうだね。来るのが遅いよ」


 ふたり横並びになって、歩き出した。

 イオリは随分と多忙だったようだ。自分の抱える問題が少なく思える。


「でも多分、きっと。……君の言う通りの感情もあったのかもしれない。まったく思わなかったなんて……嘘は、もう吐かない。だけどそれ以上に、ね。君も同じじゃないか?」

「いや、まったく。完全に俺のせいだと思ってる。今も、な」

「知ってた。なんて、臆面もなく言えないけど、君はそう言うんだろうね」


 ふたりで進む森林は、間もなく終わりそうだった。遠目に平原が見える。あれがリオスト平原だろう。


「だけど、それは嫌だな。君がそう思い続けるのは、嫌だ。責任を感じるな、なんて言っても無駄だよね。だったらそうだな。あの出来事は、君のせいでもあり、僕のせいでもある。そんな風に思うことはできないかな」


 できない。

 口を開けば、自分は多分そう言うだろう。


「……アキラ。卑怯なタイミングかもしれないけどさ」

「ん?」

「このことが終わったら、僕は君と一緒に旅に出るんだよね」

「……そりゃ、そうしたいけど、え、駄目だったのか?」

「まさか。良かった。正直、断られるかと思ってたりもしたんだよ」

「土曜属性の魔術師が、いや、旅の仲間がお前以外あり得るか」

「嬉しいこと、言ってくれるね」

「てか、そんなこと考えてたのかよ。そんな繊細な奴だっけ?」

「君が誤解してたという僕の怒りを教えようか」


 イオリが震えたように感じたと同時に、アキラは歩を早めた。


「あのさ」


 そして森林を抜ける。


 目の前には広大な平原が広がっていた。

 周囲の三方を岩山に囲まれたこの場所に、魔物の姿は見えない。

 普段はいるのだろうか。ただならぬ存在を本能的に察知し、ここから離れたのかもしれない。


「一緒に旅するなら、多分、お前はまた怒るかもしれない。俺はさ、お前と違って計算高くないから、目の前の奴を救おうとする。それが“一週目”に救われなかった奴だとしても。それが物語を壊しても。もともと俺が狙っているのは物語の崩壊だ。難易度なんてどうだっていい」

「……そうだね。結末だけ変えるなんて虫のいい話はない、か。君が、じゃない。僕たちが、だよ」


 振り返るとイオリは、変わらず落ち着き払った様子で平原に視線を走らせていた。


「君と長く話したせいかな。……そんな気になって来る。君のお陰だろうね」


 それはきっと、自分の手柄ではない。

 日輪属性のスキルは、人の心を開くことだ。

 イオリの本心が表に出てきたに過ぎない。彼女が言っていた通り、サラを諦めたくて諦めているわけではないのだ。

 その力がようやく土曜属性の力を超えて届いたような気がした。


「アキラ。協力してくれ。サラを救う」

「……方法は?」

「分からないさ」


 アキラは苦笑し、そして視線を鋭く平原へ投げた。

 人影が見える。


「……早速変化があったな」

「ああ。洞窟じゃなくて、ここで、らしい」


 ふたりで慎重に、ゆっくりと人影へ近づく。

 隣のイオリが少しずつ震えてきているのが分かった。

 多少はましとは言え、アキラも拳が震える。


 人影は案の定、サラだった。

 魔術師のローブを纏い、金の長い髪をなびかせ、背中を向けて立っている。


 周囲に他の影は見えない。彼女ひとりだ。


「……サラ」


 イオリが呟く。

 会話で気が紛れていたとはいえ、イオリの問題は解決していない。


 アキラは必死に、彼女を殺さずに救い出す方法を考えていた。

 彼女の罪を被ってどうする。イオリを救えるのは、サラを救うことで果たされる。


 敵はサーシャ=クロライン。

 “支配欲”を求める魔族。

 断じてサラではない。


 アキラは歯が砕けるほど食いしばりながら、周囲を探る。

 イオリが言った“完全支配”が達成されていようがいまいが、まずはサーシャをこの場から引き離さなければ話が始まらない。

 心拍数が極端に上がる。

 いつしか剣を握っていた手から汗が滴る。


 そこで。

 サラを視界に収めながらも慎重に接近していたアキラとイオリの耳に、ひとつの声が届いた。


「ヒダマリ=アキラに……ホンジョウ=イオリか?」


 ゾクリとした。

 慌ててイオリに視線を走らすと、彼女も眉を寄せて双剣を抜き放っていた。

 この、声は。


 そんな動揺をよそに、目の前のサラが、ゆっくりと振り返る。

 表情の無い顔だった。

 虚ろな瞳と、半開きの口から、正気を失っていることは分かる。

 だが、理解できなかったのは、彼女の武器。

 両腕で、しっかりと抱え込むように握られたそれは、1メートルに満たない長さの棒。そして先端に、不釣り合いなほど小さな半月上の刃が付いている。

 長さこそ違えど、その物体には、そしてあの声には、覚えがあった。


「……イオリ。記憶の使いどころだ。“一週目”。サラはあんなもの持ってたか?」


 イオリは首を振る。

 彼女も当然、思い至ったようだった。


「……なるほどそういうことか。どうやら一昨日の討伐報告は誤りだったらしい」


 頬に汗が伝う。

 アキラもおおよその事態が飲み込めた。


 剣を抜き放つ。

 足場は、多少の草木はあるが一昨日ほどではない。

 ここでなら、十分に動き回れる。


「……ハードモードだ。サーシャを探りつつ、まずはあいつを片付けるぞ」

「ああ」


 ふたりの視線は棒状の物体に向く。

 どうやらあれが本体だったらしい。

 戦闘不能の爆発に紛れて消えたとばかり思っていたが、どうやら無事で、そして今目の前に戻ってきたようだ。


 アキラは剣に力を込めながら、深く深く戦闘に意識を落としていく。


「サラから離れやがれ―――グリグスリーチ」


―――***―――


 物体生成。


 それは魔術を修める者にとっての究極の到達点であり、そして夢物語である。

 日輪属性と月輪属性いう魔法を操る属性ならば、という希望はあるが、その両属性の存在は稀であるし、そして物体生成を行えるものはもっと稀な存在となる。

 そのまるで一般的ではない出来事を一般的に言うと、“具現化”という現象となる。


 一方で、禁忌とされている別の夢物語がある。


 “生物生成”。


 現象として受け入れられている“召喚獣”とは違う恒久的な生命を、通常の流れとは異なって生み出すその事象は、神族によって固く禁じられ、しかし禁じる必要もないほどの不可能な聖域である。


 しかし、魔族はその聖域を荒々しく踏み荒らす。

 魔物すべてがそうであるかは定かではないが、明らかに生物としての機能が無い、襲撃だけを目的とした種族も存在する。

 生物とは何か、と問われれば、人によって答えは千差万別であろう。

 だが、その答えのひとつに意思と答える者もいる。

 どうやら魔族は、生物に、あるいは何かの存在に“意思”持たせる力があるようだ。

 世の理を捻じ曲げて、世界に新たな意思を落とすことは紛れもない禁忌であろう。

 だが魔族にしてみれば、世に害をなす存在が、生物であるのか物体であるのかは重要なことではない。


 そして成功例として、脅威の“無機物型の魔物”が存在している。

 その成功例の裏方。

 失敗例の魔物も存在する。


 “寄生型”。


 いかに意思を持ったところで、単なる物体は行動できない。

 当然だ。物体はそもそも行動するために存在しているわけではない。

 その法則を捻じ曲げる成功例はまさしく神秘と言えるが、失敗例には法則に抗う力は無い。


 だから、憑くのだ。

 人に、動物に、あるいは、魔物自体にまでも。


 物体に宿るほどの強大な意思は、生物の脳を蝕み、その存在を意のままに操る。

 こうした存在たちは、人間たちにしてみれば悪夢でしかない。


 人に、動物に、魔物に、寄生型の存在が混ざり込み、脅威を脅威と気づけない。

 その存在が明るみになった当時は、人間同士で疑心暗鬼になり“僅かでも違う”という理由で迫害が始まり、ひとつの国が滅んだという。

 魔族にとっては失敗作を捨てるようにばらまいただけだったのだが、親族が介入するほどの大事件として人間界の記憶に刻まれることになった。


 そんな失敗作として捨てられた寄生型の魔物に、魔族は感心を持っていない。だからその意思は、生まれたばかりの生物の本能として、少しでも生き延びることに向いている。

 だから彼らは求めている。

 今の主より、強力な存在を。


 寄生型の魔物―――グリグスリーチ。


 古来より生き延び続けたその存在は、生き続けるがために、より“安全”な存在になりたいとあり続けてきただけで、こう呼ばれている。

 強者を滅ぼす、夢奪い、と。


―――***―――


「クオスカリア」


 サラの声。そして流れるように棒が横一線に振るわれた。


「―――っ」


 アキラは即座に身を屈めた。

 そして案の定、頭上を鋭い鎌が通過する。

 一昨日の想定通りだ。あの一閃は、距離を選ばない。間合いの存在しない一撃をかわすには、どうしても過剰なまでの反応が必要となる。


 が。


「!!」


 身を起こそうとしたアキラの目に、頭上に留まるスカイブルーの一閃が飛び込んできた。通過したと思っていた先ほどの攻撃だろうか。

 背筋に悪寒が走ったアキラは身を屈めたまま大地を強く蹴る。


 その瞬間。


「アキラ!! もっと離れるんだ!!」


 ドゴンッ、と。

 留まっていた一閃がさく裂した。


 辛うじて難を逃れたアキラは土煙の中で歯噛みする。

 一昨日戦ったグリグスリーチの魔術とは違う。

 剣のような鋭さで放たれた斬撃が、魔術攻撃のように爆ぜるとは。


「クオスカリア」


 今度は縦一閃。

 過剰なまでにその身を翻し、過剰なまでに距離を取る。

 そして爆音。


 肩で息をしながらアキラは叫んだ。


「イオリ!! どうなってる!?」

「分からない!! だけど、サラは水曜属性の魔術師だ!!」


 グリグスリーチは昨日も水曜属性の魔術を操っていた。

 昨日アキラが見たあの躯の魔物の正体は分からないが、グリグスリーチは水曜属性の生物に憑くと力が増すのだろうか。

 不確かな推測の中、サラの声が、その詠唱が幾度となく発される。


「―――け、結局!!」


 考えても答えは見えない。

 だが、戦い方はもう分かる。


「離れたままじゃやられるってことだろ!! キャラ・ライトグリーン!!」


 爆風に目を焼かれるのも気にせず、アキラは駆けた。

 剣を下げ、姿勢を落とし、それでも鋭くサラへ接近する。


 が。


「クオ・ヴァパトラ」


 サラが鎌を振った瞬間、その斬撃が空中で散開した。

 分散したスカイブルーの一閃、いや数多の斬撃が、檻のように編み込まれ、眼前に壁となって接近する。


「ちっ―――」


 アキラは迷わず後退した。

 その直後、けたたましい爆音と共にアキラのもといた位置を吹き飛ばす。

 怯まず巻き起こる土煙を注視していると、案の定鋭い一閃が飛んできた。


「―――どうするよ」


 また距離を取って回避した先で、アキラは呟いた。

 背後には、イオリが立っている。

 イオリも当然、事の深刻さは分かるだろう。


「ハードモードって言っても、ここまでかよ。まるで近づけねぇ」


 思い返せば、ここまで遠距離攻撃主体の存在と戦った経験はほとんどなかった。

 斬撃が飛んでくるどころか、回避しても爆発するのでは容易く駆けられない。

 辛うじて接近できても、先ほどの檻のような壁で襲われれば離脱以外の選択肢はない。


 まともに距離を詰められないのでは、アキラの攻撃能力は無いに等しかった。


「……問題ないさ」


 だが、イオリは目を細め、ゆっくりと双剣を腰に仕舞った。

 そして小さく息を吐く。


「考えがある。僕が行こう」


 静かな声。

 しかし芯の強さを感じさせる声だった。

 イオリの目は、いや魔導士の眼は、土煙が晴れて姿が見えてきたサラを捉える。


 アキラは頷き、腰を落とした。

 イオリの自信と確信に満ちた表情は、何よりも信頼できる。


「行くよ。グリグスリーチ」


 イオリは鋭く駆け出した。

 速度だけならサクにも、そしてアキラにも及ばないだろう。

 だが、その足取りは確かで、確実に道を切り開く。


「“まず、その魔術だけど”」

「クオスカリア」


 サラから一閃が放たれる。

 しかしイオリは速度を変えず、そのまま駆け続けた。

 捉えられる。

 アキラがそう思った瞬間、イオリはその場でピタリと静止した。


「な―――」


 思わず声を上げたアキラの目は、斬撃が爆ぜた瞬間を捉えた。

 爆風に包まれるイオリの姿は見えない。

 だが次の瞬間、土煙の中からイオリが飛び出してきた。


「斬撃を魔術で爆発させているんだろうけど、そのタイミングは術者の任意だ。狙った場所に相手がいなければ意味がない。決して一昨日の魔術の上位互換じゃないんだ」


 冷静な声が聞こえる。

 イオリが突如動きを止めたのは、着弾ポイントをずらすためだったのろう。

 至近距離で魔術を受けることにはなるが、斬撃を受けるわけでも、斬撃を避けたばかりの無防備な体勢で魔術を浴びせられるわけでもない。

 多少の傷を覚悟すれば、接近することはできるのだろう。

 “いや、そもそも”。


「クオスカリア」


 再びサラから斬撃が走る。

 鋭く飛ばされた攻撃に、イオリは静かに応じた。


「メティルザ」


 小さく呟き、グレーの魔力に手を覆わせ、イオリは迷わず眼前の斬撃を“掴んでみせた”。

 そして目障りだと言わんばかりに、地面に叩きつける。物体ではない、魔術攻撃を。


「そしてそもそも、僕にその攻撃は通用しない」


 土曜属性。

 絶対的な魔術防御を誇るその力は、魔術攻撃を封殺する。

 正常な発動を許されずに叩きつけられたスカイブルーの一閃は、小さな光の残滓となって消えていった。

 魔術攻撃本体ですらあれなのだ。

 余波程度など、イオリに傷ひとつ負わせることはできないだろう。


「クオ・ヴァパトラ」


 急速に距離を詰めるイオリの眼前に、再びあの檻が出現した。

 アキラはもう、結果など見なかった。

 はっきりと分かる。

 ホンジョウ=イオリとグリグスリーチの間には、埋めようにも埋まらない、絶対的な力の差がある。


「メティルザ」


 今度は両手にグレーの魔力を帯びさせたイオリは、単に壁を押すように、檻を突き飛ばす。

 制御を失った魔術など、単なる魔力の塊でしかない。

 容易く砕けた檻は引き裂かれ、イオリの足を止められなかった。


 サラの眼前に迫ったイオリは、双剣を抜き放つ。

 イオリに魔術攻撃など通用しない。

 そう判断したのか、虚ろな瞳のまま、サラは応じるように鎌を掲げた。


「ホンジョウ=イオリ……、次は、お前を、」


 サラの声ではなかった。

 一昨日聞いた、不気味な声が聞こえる。


 イオリは怪しく輝く鎌を鋭く睨むと、ピタリ、と。


 その場で足を止めた。


「容赦しないでくれ」

「分かってる!!」

「―――!?」


 サラが掲げた鎌―――グリグスリーチ。

 その背後から急速に接近したアキラは、込めた魔力を更に滾らせる。


 イオリがあれだけ注意を引いたのだ。

 背後に回ることは容易だった。

 正体不明のグリグスリーチ。

 他にも手段を隠し持っている可能性もある。

 ならば。

 有無を言わさぬ一撃で、その存在を消滅させることが最善。

 アキラは剣を握った手を、力の限り振り切った。


「ヒダマリ=アキラ―――次は、」

「うるせぇよ。キャラ・スカーレット!!」


 この日一番の爆音が轟いた。

 爆ぜた閃光と衝撃に、イオリも思わず目を背ける。

 サラの腕ごと吹き飛ばすようなアキラの一撃はグリグスリーチを正確に捉え、その衝撃で両断された鎌は吹き飛んでいく。


 アキラは見た。

 自らの捉えた鎌が平原の遠方に落下した瞬間を。

 そして、その2か所から、あまりに小さな破裂音が聞こえた。

 グリグスリーチの撃破には、どうやら成功したらしい。


「……やり過ぎだよ」

「容赦すんなって言ったのお前だろ」


 恐る恐る見てみると、サラは力の抜けたように座り込んでいた。掲げていた左腕をだらりと下げているが、無事ではあるらしい。

 力の限り振るったこの剣は、なんとかグリグスリーチだけを攻撃できたようだ。


 しかし、改めて見て、実感する。

 ホンジョウ=イオリ。

 最早模範解答とでもいうべき行動で、グリグスリーチを無力化してみせたこの魔導士は、巷での噂通り本物だ。

 アキラとグリグスリーチの交戦を見て、魔術を解析していたのだろう。そして詰めるように撃破してしまった。

 あまりにあっけない決着に、アキラ自身、動揺が隠せない。

 ホンジョウ=イオリのような戦略的な行動はどうにも取れそうになかった。


「……お前やっぱり、」

「……その先は中傷だと、僕は思っているんだけど」

「馬鹿みたいに強……、え、いや、褒めてんだけど」


 イオリが怒った。

 それが分かった。


 アキラは押し黙ると、ゆっくりと、先ほど自分が腕を吹き飛ばしかけた相手を見る。

 膝だけで立ち、首を差し出すように脱力しているサラは、何も発さない。


「……サラ、無事か?」


 イオリが慎重に声をかけた。

 未だ動かないサラは、何も発さない。


 戦闘の後遺症か、妙に感覚が敏感になっているアキラは、喉を鳴らした。

 顔を伏せるサラから、未だ、異様な空気を感じ取る。


「サラ。無事、なんだよね?」


 イオリは座り込むサラに近づかず、その場で声をかける。

 それは魔導士としての判断でもあり、親友としての祈りでもあるのだろう。


 これで終わっていて欲しい。

 アキラも強くそう思っている。


 慎重に見守る中、サラがピクリと身体を動かした。


「……とう」

「サラ?」

「ありがとう、ふたりとも」


 サラの声だった。

 先ほどの詠唱のときにも聞いた、しかしそのときよりも意思を感じさせる声色だった。


 ごく普通の、当たり前の、声。


「あの鎌、邪魔だったの」


 サラは立ち上がった。

 ゆらりと揺れる霊のように。しかし、意思を持った人間として。


「これでやっと、まともに戦えそう」


 サラが怪しく浮かべたその笑みだけが、日常に混ざり込む歪だった。


“―――*―――”


 共に時間を過ごすにつれて、分からなくなったものがある。


 最初に彼女を発見したとき、自分とは違う、未知の生物に見えたのが本音だ。


 倒れている、人間と思われる存在。

 声をかけようと思い、しかし言葉が通じるか分からなくなり、目の前の恐らくは怪我人を前に、自分は、しばらく呆然としていたのを覚えている。


 噂には聞いていたが、空想上の存在とも思っていた“異世界来訪者”。

 人を呼んで、何とか保護して、親たちが色々と話を聞き出して、数日後にようやく出せた結論は、自分の中に思ったよりもすんなりと入ってきた。


 “異世界来訪者”の扱いは、神の教えでは、特に取り決めが無い。

 ただそれだけの理由で迫害することを禁じるに止めているに過ぎず、細かなことは発見者の厚意に委ねられるそうだ。


 新し物好きの父の方針か、彼女はルーティフォン家で保護することになった。

 そういう意味では、彼女は幸運だろう。

 客観的に言って、ルーティフォン家は名家だ。いかにモルオールとはいえ、この家に保護される限り、彼女の安全は高い水準で担保される。


 こうして彼女は居候となった。


 そして、恐らくは幸運な彼女を保護したルーティフォン家も、恐らく幸運だったのだろう。


 発端は、せめてもの恩返しと家の掃除を行っていたらしい、彼女が見つけた本。

 それは自分が無精にもリビングに出しっぱなしにしていた魔術師試験の参考書たった。


 はっと息を呑んだ。

 ゆったりとソファに腰を落とし、静かな表情で、すべてを見通すような瞳を本に落とす彼女の姿に、再び自分は呆然としてしまった。

 彼女は自分に気づくと、少しだけ気まずそうな表情を浮かべて、本を閉じて差し出してきた。


 ここは自分の家のはずなのだが、まるで彼女の聖域を汚した侵入者になったような気分を味わい、強引に彼女の隣に座り込んだのを覚えている。


 そこで初めて、彼女とまともに会話をした。

 別に嫌悪感があったわけではない。

 異世界来訪者という異質なものに触れ、戸惑いのせいか、少しだけ遠慮がちになってしまっていただけだったようだ。

 口数は多くないようだったが、話してみれば意外と普通で、小さなわだかまりのような何かはすぐに消えてしまった。

 それから彼女に会うたびに話しかけ、会うたびに笑った。


 こうして彼女は友人になった。


 友人となってから―――いや、やはり、発端は彼女がその道を見つけたことだろうから、友人になる前からだろう―――、彼女の異常性に気がついた。

 異世界人だからなのか、それとも彼女本来の才能なのか、魔術師試験の内容を、いや、“魔道そのもの”についての知識が急速に高まっていた。

 気づけば試験勉強中、静かに書物を読み進める彼女に、自分が質問をしていることがあるほどだ。

 希少種の土曜属性な上に、実技もまるで問題なく、初歩の魔術など即座に把握してみせた彼女を見て、そのときは純粋に、驚き、そして嬉しく思った。


 そして、一般的な試験勉強期間に比べてあまりに短い時を過ごしていく中で、自分の中で、ある確信が生まれる。


 仮に、共に試験を受けたら、彼女だけが合格することはあっても、その逆はあり得ない。


 そんな確信の中に、多分、黒い感情は無かった。

 勿体ないと、心の底から思った。


 だから自分は、両親に掛け合い、彼女も試験を受けられるように計らってもらった。


 そして合格発表の当日。

 彼女は祈るように目を瞑って、いつしか彼女の席となった窓際の席に静かに座っていた。

 今から思えば、あれは、彼女自身のためではなく、自分のために祈っていたのかもしれない。

 何故なら、自分も確信があったとはいえ、同じように、彼女の合格を祈っていたのだから。


 吉報を受け取り、力強く彼女に抱き着いた。

 そのとき、落ち着き払った様子でいた彼女の身体も震えていたことに気づいたのは内緒にしている。


 そのときも確信した。やはり自分の勘はよく当たる。

 彼女はこの程度ではない。

 魔術師程度では済まされない、もっと違う、もっと高い、何かになる。


 彼女の世界はこれからもっと広がっていく。

 共に合格を目指した日々は短い。自分との出会いなど、その中の小さな一部となっていくだろう。

 それがどうしようもなく苦しく思えた。


 だからその夜。

 ふたりで枕を並べて、色々なことを話した。

 もしかしたらいつものように自分が一方的に話していただけかもしれないが、彼女も微笑みながら静かに聞いてくれた。


 その両親のような余裕が、また、怖いと思った。自分の中で徐々に変わっていく何かが、油断すれば彼女との関係が終わってしまうかもしれない何かが、少しずつ大きくなって言った気がした。

 友人という言葉では、容易く千切れてしまいそうな奔流が確かに見えた。

 だから、別の名前を付けたかった。


 こうして彼女は親友になった。


 これは、彼女にとって重荷になるだろうか。

 だけど自分は、それを彼女に楔を打ち付けるつもりで提案したわけではない。


 ある意味これは、自分への決意だ。

 これから先、彼女は遥かな高みへ登っていくだろう。

 それを自分は、見続けたいと思う。


 だから自分は、もっとずっと、励まなければならない。

 自分が親友であることが汚点にならないように、それどころか、誇ってもらえるように、もっと、もっと。


 もっと、もっと、もっと、もっと、もっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっと。


―――***―――


「ち―――」


 最悪の展開だった。

 アキラは警戒しながら剣を構え、目の前で微笑むサラを睨んだ。


 傍から見ればいたって正常。

 当たり前の姿で、当たり前の雰囲気で、そこにある。

 だが、隠しもしていない戦意だけが、イオリに正面から浴びせられていた。


 当たり前の中にある、ありふれた違和感。

 日常の中に、当然に存在する悪意。

 それが気紛れにイオリに向けられたと言われれば、すぐにでも納得してしまいそうだった。

 だが今、それは確実に、狙った通りに発生している。

 これが、“支配欲”の魔族の力なのか。


 サラは魔術師隊のローブに空いたスリットに手を滑り込ませた。

 自らの太ももに備えてあったのか、ふたつ折りの白い棒を取り出す。

 折られた状態の長さで先ほどの鎌と同等。それをひとつに組み立てると、スティックのようなサイズの杖に変わった。


 流れるような自然な動作に、アキラは呆然とそれを眺めていた。

 それが彼女の戦闘準備だということは分かっていたのに。


「じゃあ」


 そして、見えた。

 杖の先端にはめ込まれた―――青く光る宝石。

 あれは。


「始めよう」

「―――!?」


 距離にして5メートル。

 暴走した何かがイオリとサラの間で炸裂した。


 草原に爆ぜるはスカイブルーの爆撃。

 離れて見ていただけのアキラも目を逸らし、吹き荒れた暴風に身体中を叩かれる。


「ィ―――」


 音が上手く拾えない。

 大地が根こそぎ剥がされたように、上下感覚すら薄れていた。

 アキラは必死に目をこじ開け、なりふり構わず前へ出る。


「―――アキラ!! 伏せて!!」


 遠くで響いたように聞こえる声を耳が拾った。

 アキラは即座に身体を地面に叩きつけるように倒れ込む。

 その直後、頭の上をおびただしい量の何かが通過した。


 倒れ込んだ先、アキラはそれでも身体を跳ね返らせ強引に立ち上がる。

 暴れ狂う風が平原を切り刻むかのように取り囲み、竜巻が直撃したかのような惨状の向こう、イオリが両手で自身の前に魔力の壁を展開しているのが見えた。

 先ほどの魔力の応用だろうか、どうやらイオリは無事らしい。

 だがサラはどこにいったのか。

 イオリの目の前にいたはずのサラはいつしか姿を消し、周囲は引きちぎられた草や土砂が今なお凶器のように飛び回っている。


「―――っ、アキラ、一旦離れよう!!」


 どっちが前なのか。

 状況が掴み切れないアキラは、走り出したイオリを本能的に追った。

 身体を強打する土砂や風の中で、それでも必死に歩みを続ける。

 その状況は、あの終焉の地を彷彿とさせた。


「―――か、はっ」


 身体の感覚がまるで無い。

 今なお竜巻に襲われているような感覚に陥っていたが、イオリが足を止めたと同時にアキラは息の塊を吐き出した。

 気力だけは保てるように鋭く振り返り、アキラはぎょっとした。


 それは最早天災だった。

 まるで上空から放たれた槍が螺旋を描き、範囲にして数メートルのそこに突き刺されたように見えた。

 竜巻は今なお続いており、その高密度の槍は、魔力は、あたかも物体のように周囲の存在を隔絶している。

 空間を削り取るような魔力の奔流は、時折スカイブルーの稲光を放ち、周囲を、そして竜巻の中を、無差別に襲っていた。

 自然現象を生み出したかのような超常的な現象。

 この攻撃を仕掛けた人物はひとりしかいない。


「……どうなってやがる。モルオールの魔術師はこんな奴揃いなのかよ」


 アキラは口の中の土を吐き出しながら竜巻を睨んだ。


「そ、そんなわけない。でもサーシャの影響があれば、いや、でも、」


 考えがまとまらないのはイオリも同じか。

 ふたりとも警戒しながら目の前の光景を眺めることしかできなかった。


「とにかく、サラを探すぞ」

「これでも防ぐんだもんな、イオリは」


 探すまでもなく、ありふれた、普通の声が聞こえた。

 声と同時、嘘のように瞬時に消えた竜巻の向こう、まるで物音を聞きつけて通りすがっただけの人物のように、サラ=ルーティフォンは僅かばかり肩を落として現れる。

 竜巻の強襲は平原に惨たらしい爪痕を残し、まるでクレーターのように大地を陥没させていた。

 その光景を作り出したのは、あの目の前の女性なのだろう。

 手に携えた杖の先端には、未だ煌々と輝く青い宝石が埋め込まれている。


「イオリ!! とにかく畳みかけるぞ。相手が水曜属性なら、この距離じゃ一方的にやられちまう!!」

「分かってる!!」


 言うが早いかアキラは即座に駆け出した。

 荒らされた大地を強く蹴り、剣を構えてサラに突撃する。


 対するサラは杖を持ちかえるように回すと、静かな眼を宿して呟いた。


「シュトローク・フィズ」


 呟きと同時、スッ、っと周囲の風が止んだ。

 ゾクリと背筋を撫でる悪寒に従い、アキラは周囲を警戒する。その瞬間、横なぎに風の気配を感じた。


「―――つ」


 アキラは急反転してその場から離脱した。すると眼前を何かの塊が通過する。

 対象を逃した何かは轟音を残して虚空の彼方に消えていった。


「な、なんだ!?」

「アキラ!! その魔術は“出所が存在しない”!!」


 最も数の多い水曜属性。

 平凡と言われる属性ではあるが、当然、極めた者には多大なる恩恵がある。

 数多の偉大なる先人たちが残した技術技量の膨大さは、他の属性の追従を許さない。


 大いなる先駆者の中に、こんなことを思った者がいたそうだ。

 天候を操ることはできないか、と。


 魔術による自然現象への介入。

 それはすでに魔術の領域ではないことは当然気づいていたが、それでもその先人は試みたそうだ。

 そしてひとつの結論を出す。

 無条件下では難しい。

 だが、仮に、戦闘が行われ、周囲に魔力の残滓が漂っている場合。

 遠距離からその魔力に働きかけ、風を巻き起こすことくらいならできる、と。

 並々ならぬ魔力制御を誇る水曜属性ならば、その現象を現実のものに出来る。


 事実、その先人は、自分から遠く離れた地点にそよ風を起こすことに成功した。

 もっと突き詰めて研究すれば、強風を起こせたであろう。

 もっと突き詰めて研究すれば、風の中にさらに魔術を発動させられたであろう。

 だが想定される必要な魔力や技術はいささか現実離れしているものだった。


 それでも、その先人は、その非現実的な結論をまるで気にしなかった。それどころか自分の研究はここまでだと割り切った。

 どうせ、だ。


 どうせ未来、どこかの誰かが現実のものとする。

 水曜属性の圧倒的な母数があれば、賭けるチップなどいくらでも存在するのだから。


 そして今。

 その先人の数多くの後継者が確立した魔術が、目の前で暴れ狂う。


「シュトローク・フィズ」


 上か。

 辛うじて発動個所を察したアキラは迷わず大地を蹴った。

 アキラのいた地点に叩きつけられた何かは再び竜巻を発生させる。

 何かに衝突することがあの竜巻の魔術の発動条件なのか。

 最初から外にいれば竜巻自体は小規模だ。

 だが削られていく大地を見るに直撃したら無事では済まない。


 グリグスリーチ戦の焼き回しのようだった。

 上下左右から突如として発生する暴風に、思ったようにサラに接近できない。


 周囲を警戒しつつイオリを見ると、彼女も竜巻には苦戦しているようだった。

 進行方向に叩きつけられる竜巻を周り込むように回避しているせいで満足に前進できていない。

 問題なのは竜巻の周囲に飛び散るスカイブルーの魔力だ。

 それもランダムに飛び散るせいで、竜巻からは必要以上に距離を取らなければならない。


 気づけば平原は捲りあげられたように荒れ、いたるところが陥没している。

 こうなってくると戦場は遠距離攻撃が有効となるのだが、アキラにはその手段はとれない。

 一刻も早くサラを捉えなければ勝負が決まってしまうだろう。


「……無茶するか」


 アキラは息を吸い、そして身体と剣に魔力を迸らせた。

 キッとサラを睨むと当時、アキラは身体中の魔力を変換する。


「キャラ・ライトグリーン!!」


 吹き荒れる暴風を消し飛ばすようにアキラは駆けた。

 上げに上げた身体能力は大地を踏み砕き、アキラの身体を一直線にサラへ向かわせる。


「―――!!」


 イオリに魔術を放った直後のサラは一瞬硬直し、即座にアキラへの攻撃を開始した。


 気配を感じる。

 横なぎの暴風が来る。

 それでもアキラは速度を落とさず突き進んだ。

 アキラを捉えようとした暴風は、アキラの背後の大地を削り取った。


「つ―――シュリスロール!!」

「!!」


 サラが眼前に迫った瞬間。

 アキラの速度を把握したのか、サラは攻撃手段を切り替えた。

 風ではなかった。

 杖から伸びる魔力が青い竜のようにとぐろを巻き、アキラの眼前を塞ぐように展開される。


「ち―――キャラ・スカーレット!!」


 直撃は避けられないと判断したアキラは剣を鋭く振り下ろした。

 視覚と聴覚が根こそぎ奪われるような閃光と爆音。

 圧倒的な破壊と同時に発動したサラの魔術は周囲の竜巻の残滓すら四散し、平原すべての景色を揺さぶった。


「ぁ―――」

「ぐ―――」


 やはり上級魔術を下手に刺激するのはまずかったようだ。

 あまりの衝撃にアキラは背後に倒された。背中を強く打って肺が痙攣する。

 辛うじて見えたのは眼前のサラ。

 今の爆風で同じように倒れ込んでいる。


 アキラは、声になるかも分からないまま、叫んだ。


「行け!! イオリ!!」

「ああ!!」


 アキラの叫びに応じた彼女は、すでにサラに詰め寄っていた。

 あの爆風の中、彼女だけは問題なく行動できていたのだろう。

 迸る魔力の奔流の中、土曜属性の彼女は揺るがない。


 イオリは短剣を引き抜いていた。

 倒れたサラは息も絶え絶えに杖を握り込む。

 彼女は典型的な水曜属性の魔術師だ。あの距離ならイオリに軍配が上がる。


 だが。

 イオリは短剣で何をするつもりなのか―――


「ま―――……」

「シュトローク・フィズ!!」


 アキラに悪寒が走った瞬間、再び惨劇が巻き起こった。

 イオリの短剣がサラに向かって伸びていく刹那、ふたりの姿は竜巻によって消し飛ばされる。

 アキラは慌てて立ち上がり、竜巻に向かって走った。

 青い稲光の向こう、辛うじて魔導士のローブを見つけ、アキラは迷わず腕を突き入れる。

 イオリがぎょっとして振り返ったのが分かったが、構わず引きずり出した。


「く―――はっ」

「おいイオリ、無事か!?」


 ローブの正面に鋭い斬撃のような傷が刻まれていた。

 肩や二の腕辺りも破損し、露出した肌は赤く滲んでいる。

 ぞっとしてイオリを揺すると、目をきつく閉じていたイオリは呻きながらアキラの手を掴み返してきた。


「見た目、よりはね」

「……離れるぞ」


 土曜の魔術耐性は本人が意識していなくとも効力を発揮するのか、あるいはただのやせ我慢か。

 アキラはイオリに肩を貸してゆっくりと背後で暴れる竜巻から離れる。

 眼前に広がる荒れた大地を改めて見ると眩暈がした。

 サーシャは人が持つ選択肢を操作して思うまま人を操るという。

 こんな光景が、日常の先にあるとは思いたくはなかった。


「イオリ。お前さっき、サラをどうするつもりだったんだ」


 ピクリとイオリが動いたのが分かる。

 答えが分かっている質問だった。イオリの手に握られた短剣が嫌でも目に入る。

 苛立ちが制御できない。

 詰問のようなアキラの言葉に、イオリは自虐するように口元を歪めた。


「……殺そうとしたよ」


 アキラの言葉の意図には気づいているだろう、それでもイオリは、正直に返してきた。

 怒鳴りつけようとし、アキラは行き場のない怒りを溜め込んだ。


 戦闘の前、彼女も言った。サラを救うと。

 だがそんなことは勿論イオリも覚えているだろう。

 その上で、彼女はその選択をしようとした。

 考えがあるのだろう。葛藤もあるのだろう。

 それは分かる。

 だからこそ、アキラはこれ以上なく心が冷めていくのを感じた。


「は、はは、は。やっと、直撃して、くれた」


 弱まり出した竜巻から声が聞こえた。

 アキラは冷めた瞳で竜巻を睨む。

 前と同じようにサラは、すっと掻き消えた竜巻の向こうに立っていた。


 だが、今度は様子が違った。


「は、はは」


 彼女の姿は戦場に相応しいものになってしまっていた。

 纏っていた魔術師のローブは最早衣服としての意味を成しておらず、肩と腰回りに残骸が張り付いているに過ぎない。

 それが彼女の私服なのかは定かではないが、ローブの下に着込んでいた白を基調とした運動着も、土と血に塗れている。

 千切れ飛んだ服から覗かせる膝や腹部は、泥のように黒ずみ、それが皮膚なのか土なのか、アキラには判断できなかった。


「お前……自分ごとやりやがったのか」

「こうでも、しないと、ね。当たって、くれないんだ、イオリは」


 緊急回避手段としては上等なのだろう。

 現にサラは至近距離でイオリから逃れられている。

 だがサラの口ぶりが勘に触った。

 身を守るためではなく、あくまでもイオリを狙ったと強調したいようなその口ぶりに、そしてそれを言わせているのであろうサーシャ=クロラインに、どうしようもないほどの怒りを感じる。

 サーシャに操られた存在にとっては、自分のことなど目に入らないのだろう。


 アキラは射殺すような視線をサラに向けた。

 サラのローブが消し飛び、見えた彼女の首元には、首輪のようなものが嵌められていた。

 そしてそこから伸びる鎖は、サラの胸元辺りに小さな石を垂らしている。

 あれは、かつてアイルークでも見たマジックアイテムだ。


「そこにいるんだろ、サーシャ」


 小石は反応しない。

 だがアキラは睨みを効かせ、構わず怒気を孕んだ口調で言った。


「とっとと出てきやがれ。何のためにとか、何でサラを狙ったとか、そんなことは聞く気はねぇ」


 アキラはイオリの資料を読んだことを思い出す。

 サーシャに操られた者たちの被害を、そして末路を知った。

 栄えた町も、人々に夢を届けていた旅芸人たちも、変り果てて行ってしまったという。

 盛者必衰。そんなことは分かっているが、サーシャはあらゆる存在を操り狂わせていく。


 聞いているだけではピンとこない。いつものことだ。

 打倒サーシャの正義感に燃えたわけではない。いつものことだ。

 だが、目の前で起こるのであれば、アキラは迷わず怒りをぶつける。それもいつものことだった。


「お前を殺す。今、この場でだ」


 小石は反応しない。


「勇者様」


 代わりに応じたサラは、息の粗さを隠しもせず、自分の身体をかばいもせず、静かに言った。


「私ね。多分、もう戻れないんです。そう言われたから。でもね、悪くないって思ってるんですよ、今の狂った私」


 アキラやイオリと戦い、自分をも襲い、それでも対面に立つサラは、微笑んだ。

 その笑顔が、その悲しそうな笑みが、アキラの脳裏に焼き付いた。


「だってね。イオリ、私よりずっと強くて、ずっと優秀で」


 肩を貸していたイオリがピクリと反応した。


「だから、多分思ってたんですよ。イオリと親友になったとき。イオリに親友になろうって言ったとき。私、もしかしたら本当は、彼女に見捨てられるのが怖かったんだって」


 魔導士と魔術師。

 ふたりは同時に魔術師試験を受けたらしい。

 見捨てる、という言葉は、突拍子もない表現に聞こえる。

 だが、なんとなく、サラの感情がアキラには分かった。


「そんなつもりじゃない、って、そのときも思ったんですよ。本当に。だけど今から思えば、“思ってなかったってことは、本当は思っていたんだって”」


 言葉の裏。感情の裏。

 気にしていない、と言われれば、気にしているのだな、と多くの人は思うだろう。そんな裏取りが存在するのは、人と人の間だけではなく、ひとりの思考の中でもそうだ。

 人の感情は、あまりにも不確かだ。辿り着かない答えは無いほど人の感情は、思考は、無限に広がっている。


「そんなことを感じてたからですかね……。ねえ、聞こえてるよね、イオリ。私たち、変なところで遠慮し合ってなかった?」


 またイオリの身体が動いた。

 そしてゆっくりと顔を上げる。

 視線でとらえているのがサラなのか、サーシャなのか、アキラには分からなかった。


「私はイオリに負担をかけて、イオリは私のペースに合わせて。ずっと違和感があったの。一緒にいても、話していても、そういう話題は意図的に避けてたよね。私、知ってるんだよ。私がこの隊に配属されたのは、イオリが色々と手を回したからなんでしょ?」

「それは違うよ。君がこの隊に配属されたのは、戦力として認められたからだ」


 震えながらも、淡々とした口調。

 イオリの様子から、諦めのようなものを感じる。

 アキラは震えたが、イオリはアキラの方を見ようともしなかった。


「そう、ありがとう。……ねえ、イオリ」


 サラにはイオリの言葉が通じていないのは見て取れた。

 イオリはぼんやりとサラを眺めている。


「私はずっとイオリに嫉妬していた。どれだけ努力しても、簡単にずっと先に行けちゃうイオリが羨ましかった。それでも、それなのに、イオリはずっと何かに悩んでるよね。私の見えないものが見ているイオリに、どうしようもないほどの悔しさを覚えた。親友なのに、何の助けにもなれない自分自身が酷く情けなかった。私はきっと、ずっとそんなことを感じてた」


 浴びせかけるように、吐き出すように、サラは震えてそう言った。

 アキラは呆然と彼女の言葉を聞いていた。

 そんな悩みや苦悩を感じている人を知っている。

 いや、もしかしたらどこにでもあるありふれた悩みなのだろう。それだけに、軽視は決してできないものだ。


「は、はは。やっとはっきり言えた。こんなことにならなきゃ、私、この先もずっと遠慮して黙り込んでた。だからきっと、狂えて良かったんです。イオリと、何も隠さず、正面からぶつかり合いたいと、多分思ってたんです」


 だから、こんなにも狂った光景になっているのか。

 サラへの僅かな理解と、そして憤りを覚える。

 つまらない悩みでは決してないのだろう。だがそれだけで、これほどの事態になるのか。


 この場の節々から、アキラが感じることがある。

 サラの根底にあるのは、イオリへの、親友への想いだけだ。


 サーシャが行動を支配したところで、その部分は変えられない。


 信頼、不安、そして羨望や嫉妬。

 裏を取ったらきりがない、数多の感情。


 それだけの強い感情を、アキラは誰かに思えるだろうか。

 それだけの強い感情が―――アキラが抱くことができない、この感情の結末が、こんな光景だと認めていいのだろうか。


「ねえイオリ。私ははっきり言ったよ。やっと言えた、やっと吐き出せた。今度はイオリの番だよ。言いたいこといくらでも言ってよ」


 イオリは言い淀んだ。

 アキラには分かっている。


 イオリには決定的な負い目がある。

 イオリのここ3年の行動は、すべてこの“刻”に正常に世界を回すためのものだった。

 勝手な行動をしたと言っている“二週目”の経験をもとに、“一週目”の焼き回しをするべく行動していたのだ。

 そうなればあらゆる裁量にはどうしても意思が介入する。

 イオリのことだ、2回目3回目となればより良い回答が見えたであろう。だがそれでも、彼女は“一週目”に拘らざるを得ない。

 その行動そのものに、サラは違和感を覚えたのだろう。その裁量の意思に介入しているのは、親友という楔を打ち付けた自分なのではないかと感じてしまうのは無理からぬことなのかもしれない。

 共にい続けたサラだからこそ、その違和感を強く覚え、そして強く苦悩した。

 事実、イオリの意思に、裁量に、親友への想いというものの介入はあるのかもしれない。それも無理からぬことだ。


 イオリは下唇を強く噛み、必死に何かを考えている。

 少しでも時間をかければ、イオリのことだ、何か理由を産み出して、それらしく話せるのだろう。

 きっと、これがサラの目には違和感を生み出すのだ。


「……そう」


 サラはこれ以上イオリに時間を与えなかった。

 彼女はもう察している。

 イオリは自分が望む答えを出さないと。

 すべてを知るアキラは、苦渋を舐める思いをした。自分のせいで大切な親友とこんな形で対立させられたイオリと、狂ってなおイオリの様子を察せるサラ。ふたりは、当たり前の日常にいられたはずなのに。


「でもいいよ、言えないなら。無理に聞かない。ここまでこじれちゃね、今更だもんね。もう親友には戻れない、よね」


 消え込むようなサラの声に、イオリは表情ひとつ変えなかった。

 サラは自分が狂っていることを自覚している。

 恐ろしく悲しげな様子が、日常の中に存在するであろうその表情が、戦場の中で浮かんでいた。


「でもね、イオリ。どうせ殺されるなら、私はやっぱりイオリがいいな」


 今度こそイオリの表情が変わった。

 アキラも察した。

 サラは、正常な思考で、自分の異常な状態を把握しているようだった。


 すべてを吐き出したのは、思い残すことをなくすためか。

 サラは、努めて怪しく笑い、わざとらしく手を広げた。


「さあ、イオリ。私は“勇者様”に手を上げて、魔術師隊副隊長も同時に襲った重罪人です」


 表情は優し気で、まるでイオリに“理由”を与えているようだった。

 アキラは後者のような気がした。

 サラは、きっと、自分自身を諦めている。

 狂った自分が元に戻れないことを理解した上で、幕を引こうとしているのだろう。


 イオリもすでに察している。そして、同じように諦めている。

 すべてイオリの想像通りだったのだろう。おそらく昨夜から、彼女はすでにこの状況を察していた。

 ここに来るまでの話も、イオリにとっては、状況も見えていないアキラがひとりで騒いでいただけのように見えていて、話を合わせただけなのかもしれない。


 だが。


「また負担になっちゃった。ごめんねイオリ。今まで楽しかった、です。だから私を―――」


 サラを殺せば、サーシャの被害はこの地から消える。

 大局を見ればリスクは無い。

 “一週目”と同じに“刻”を刻むことが、魔族を相手には何よりも優先すべきこと。

 細部は違うとはいえ、イオリの思考はそうなのだろう。


 だが、アキラは思う。

 それは、


「―――殺して」

「……それは、無いな」


 イオリの考え方は知らない。

 だが、“一週目”のために払うリスクなど、気にすることは無い。


「サラ。お前は助かるし、イオリだって無事だ。俺と一緒にどこかで転んだことにすりゃあいい」


 自覚はしている。

 馬鹿げたことを言っている。

 だがそれでもなお、目の前の光景に比べれば幾分マシな気がした。


 目の前の光景は、馬鹿げている。


「ちょっと仕事サボって喧嘩しただけじゃないかよ。それでなんで殺すとかって話になるんだ」


 虚言だ。何も根拠は無い。

 それでも自分がそうだと思っていればいい。


 目の前の光景が日常の延長にあるというならば認めてやる。

 だがその結末までも認めるつもりはない。


「……アキラ。もう止めよう。これ以上は君の“刻”に関わる」


 イオリから小さな呟きが聞こえた。

 アキラは顔をしかめる。

 だが、そんなものはどうでもいい。

 サラに聞こえないように配慮したのだろうが、目の前のサラはイオリが何か呟いたところまでは察せたようだ。悲しげに瞳を伏せる。


「親友なんだろ、諦めるのか。サーシャ如きが茶々入れてきただけで、諦めんのかよお前は」

「そういう次元の話じゃない。相手は魔族だ。今の君は知らないかもしれないけど、魔族は、」

「言い方変えてやる。諦めたいのか、お前は」

「―――あ、諦めたい」


 意地になっての言葉かもしれない。

 イオリは震える声で返してきた。


「君の覚えていない前々回。結局今と同じことが起きた。聞きたくなかった、サラの言葉を、結局聞かされて―――いや、今回はもっと酷い。彼女が本心で話してくれているのに、僕は本当の答えを返せない。分かるだろう?」


 悲痛な声だった。

 “一週目”はどうだったのだろう。イオリも本心でサラと話せていたのだろうか。

 すべての記憶を保有するイオリは、この秘密を知らない者とは、決して本心から話せない。

 呪いのようなものなのだと思っているだろう。

 事実サラの思考もその影響を受けている。


「仮にサラを救えても、僕は彼女が望む答えを言えない。言わない。サラの言う通りだ、ずっと負い目を感じ続ける。……全部元通りにはならないんだよ」


 イオリの声が小さくなった。それはサラを殺す理由にはならないことを彼女も分かっている。

 もしかしたらそれが自棄を起こしている本心なのかもしれない。

 サーシャの被害は、サーシャを退けるだけでは終わらない。


 だが、それでいいのか。

 イオリには、サラには伝えられないことがある。それを伝えられない理由は、ヒダマリ=アキラというふざけた人間のせいだ。

 そんなことが、許されるのか。


「―――元通りも何もない」


 幼少の頃、当たり前のように見ていた日常の光景が、破滅へ続いていたことを知ったとき、自分は何を思ったか。

 幼い自分には何も見えていなかったのかもしれない。

 だけど、その日常を、すべて否定したいとは思わなった。

 その狂った日常のすべてが誤りだったことにはしたくないと強く思った。

 後から見れば歪んだ感情なのだろう。

 それでも、アキラは辿り着いた結果がすべてだとは思いたくなかった。


 この光景を許したら、今度こそ、誰かを想った結果が、必ず破滅へと行きつくと自分は思ってしまいそうだった。


「変わってないだろ、何も」


 これは。


「相手が言いたいこと言って、お前は言いたいことがあるのに言えなかった。それだけじゃないかよ。それだけの、ことじゃないか」


 自分の価値観だ。

 酷く曖昧なものだ。


「俺だってよくあるぜ。好き放題言われたり、言ったり。言いたいことがあっても黙ってたり。日常茶飯事だ」


 元の世界で、アキラには親友なんて呼べる存在はいなかった。よく行動を共にしていた者たちはいたが、いちいち親友などと言うのも照れくさい。

 この世界でも、“彼女たち”を除けば精々タンガタンザで数か月行動を共にしていた男がいた程度だ。


 自分は、彼ら彼女らに、言いたいことをすべて言っただろうか。

 言わなくてもいいことを言わなかったろうか。

 そしてそれで、関係がすべて壊れただろうか。


「漫画みたいに、嘘もなく本心から語り合える相手なんていやしない。本心隠すなんてザラだ」


 言葉にすると、自分の周りとの関係があまりに希薄のようだった。

 だが、アキラはそう感じない。

 だからこれは自分の価値観なのだろう。

 美しい物語の中にあるような関係など、アキラの世界からは見つからない。


「それでも平気な顔して一緒にいられるんだ。だけど、また会おうと思えるんだ。会いたいと、思えるんだ。それが嘘だらけの感情とは思わない」


 だからこそ、彼女たちが羨ましいと感じられた。

 曖昧なアキラの世界ですら許容しているそれが、昇華され、より高位のものとなっているのに、こんなつまらないことで崩れることはあってはならないと思える。


「イオリ、お前に対してもだ。ここにきて、すぐに言おうと思ってたのに言わなかったりした」


 それでも。

 思ったことがある。


「だけど、そのたびに何度も思った。次こそは、ってな。会うたびに胃が痛くなるって分かってても、また会いたいと思ったんだ。魔王の討伐なんてどうでもいい。イオリ、お前に会おうと思ったんだ」


 自分には、それだけが確かにあった。

 どれほど罪悪感に苛まれても、またイオリに会おうと思い続けられた。

 あのときの感情も曖昧なものだった。


 名前の無いものは思考を妨げる。

 だから人は、曖昧なものを嫌うのかもしれない。


「今回だってそうじゃないのかよ。相手に好きなように言っただけで、相手に言いたいことがあっても結局言えないだけで。それでちょっと喧嘩しただけだろ。どんなことでも清算できるわけじゃないって、お前たちならとっくに分かることじゃないのかよ」


 清廉潔白な関係というものは、アキラには分からない。

 アキラの世界には存在しない。

 だけど、少なくとも、そんな曖昧な関係なら存在する。


「隠し事はする。言いたいこともある。不満だって溜まる。だけど、会いたいと思う。言えなくても、伝えたいと思う。そのせいで衝突することもある。それでもまた、会おうと思える。そんなの普通じゃないのかよ」


 その曖昧なものを形にしろと言われたら。

 アキラは曖昧に、投げやりに、それでも、自覚をもって。


 名前を付ける。


「それを友と呼ぶんじゃないのか……!!」


 いい加減で曖昧なものだらけのアキラの世界には存在しない、親友と呼び合うふたりには、分からない言葉かもしれない。

 だけど、アキラにとって存在しないそれが、より高位のものであるそれが、普通の延長線程度で壊れないと信じたかった。


「……イオリ」


 アキラは剣を構えた。

 壊させない。

 この関係を、サーシャ如きには壊させない。

 アキラは祈るように呟いた。


「サラを救う。手を貸してくれ」

「……ああ」


 今度は本心であって欲しい。

 静かに応じたイオリにアキラは安堵の息を吐くとサラの首輪を睨んだ。


 アキラは強く望む。

 イオリとサラ。ふたりが本心で語り合える未来を。

 自分が魔王を倒して、この狂った物語を刻み終えれば、イオリはきっと、サラにすべてを伝えられる。


「―――アキラ。それは私からの頼みだよ。サラを助けたいな」

「―――、」


 振り返ると、イオリはすでに短剣を構えていた。


「……助けるに決まってんだろ」


 アキラは顔を軽く振って、腰を落とした。


 サラを救い、そして問題なく “刻”を刻み、魔王を倒す。


 手段は分からない。

 自信もない。

 やることだけが山積みの今、それでもアキラは、それを我がままなことだとは思わなかった。


“―――*―――”


 呆然と、その光景を見ていた。


 新たに出逢った自分と同じ“異世界来訪者”のホンジョウ=イオリ。

 そしてその親友というサラ=ルーティフォン。


 嫉妬なのか、劣等感なのか、日常に存在する当たり前の感情が増幅し、サラはイオリに牙をむいた。


 戦闘自体は壮絶だった。


 サーシャ=クロラインに操られた者は戦闘力が増幅されるようだ。

 魔術の対価は魔力、時間、生命。

 洗脳下にあるサラは、恐らく迷わず生命を犠牲することができるのだろう。


 極度の緊張感で痛覚が鈍る現象に似ている。

 常人では開けることすらできない生命の代償という扉を開かせるサーシャは、やはり忌むべき存在なのだろう。


 だが、それでも。


 見れば分かる。

 サラ=ルーティフォンではまさしく命を犠牲にしても、ホンジョウ=イオリを勝り得ない。

 それだけの差があれば、普通は劣等感や嫉妬を飛び越え、羨望を覚えるものであるが、ふたりの間にある“親友”という楔がそれを許さないのだろう。

 並び立つことを諦めきれない、強い感情。

 誰かを強く想う、感情。


 自分にはできない、その行為。


 呆然と、その光景を見ていた。


 イオリはきっと、本心ではサラを救いたいと強く思っているだろう。

 だからこそ、必死に数多のことを試み続け、失敗し続け、その結果戦闘が長引いている。

 イオリの悲痛な表情が目に焼き付く。


 呆然と、その光景を見ていた。


 イオリはサラを救いたいと思っている。

 サラもきっと、またイオリと共に語らい合いたいと思っているはずだ。


 だからこそ、自分は手を出すことはできなかった。


 自分が手を出してしまえば―――彼女たちの想いを、あっさりと踏みにじって終わってしまう。


 戦場の中にあって、祈るように目を閉じてみた。


 もし、仮に。

 仮に再びこの光景が眼前に広がることがあったら、自分には何ができるだろう。

 彼女たちを救える自分になっているだろうか。


 久々に覚える、このどうしようもないほどのもどかしさを、打ち破ることができるだろうか。


―――***―――


―――このまま、終わらせることなんてありえない。


「シュトローク・フィズ」

「キャラ・ライトグリーン!!」


 吹き荒れた暴風がアキラの背後を襲った。

 構わず突き進むアキラに対し、サラは再び杖を振るう。


 左方に魔術の気配。

 即座に察したアキラは急反転して回避した。


 何度も受ければ流石に分かってくる。

 魔術の匂いを強く感じる。


 恐らくサラの杖には何らかのマジックアイテムが使用されている。

 彼女の魔力を増幅させているのだろうが、あくまで彼女本人のものではない。

 そうなると、魔術発動に僅かなラグが存在する。

 元は何ら気配もなく敵を討つ魔術なのだろうが、その膨大過ぎる力が逆にあだとなり、魔力の“うねり”のようなものを確かに感じた。


 サラを睨む。

 彼女は、歯を食いしばりながら自分とイオリに魔術を放っていた。

 魔力はマジックアイテムから補給できているとは言え、体力の方はそうでもないらしい。

 水曜属性ならば治癒魔術は容易く使えるはずだが、彼女は使用していないようだった。

 それが攻撃にすべてを割くためにサーシャがそうさせているのか、あるいは決着を早めるためにサラがそうしているのか定かではないが、彼女は危険な状態にあることは間違いない。

 もし再び不用意に飛び込めば、彼女はまたも自分ごと魔術を放つだろう。

 そうなれば、彼女は。


―――終わらせられない。


 駆けながら、アキラは気づく。

 彼女はアキラに魔術を察知されていることは気づいているようだ。徐々にアキラを特定の地点へ誘導するように魔術を放っている。特に魔力が充満しているポイントなのだろう。

 アキラは即座に既定のルートから強引に離脱した。

 サラが苦い顔をしたのが分かる。随分と好戦的だ。


―――終わらせない。


 結局サラは、イオリの話を、言葉を聞けなかった。

 サラが覚え続けた違和感を、イオリは決して離せないだろう。

 アキラのせいで、そうなっている。


 この物語にいる限り、イオリはサラにすべてを語ることはできないだろう。

 サラが違和感を覚えてしまった以上、その亀裂は決して埋まることは無い。

 サーシャが見つけた心の裏はそれだ。


 だからこそ、終わらせられない。

 自分のせいで、自分の世界に存在しない関係が壊れる結末は、認められない。


 イオリには、サラに伝えたいことがあるのだ。

 言おうと思っても、決して破ってはならない掟のようなものを自分に課し、そして苦しんでいる。

 その掟も、まさしくアキラが原因なのだ。


 “一週目”。

 彼女を救うことはできなかった。

 恐らく何ら制約のなかった状況でも、サーシャの完全支配を受けたサラを止めるには、彼女の命を絶つしかなったという。

 そのとき、イオリは、サラに何かを伝えられたのだろうか。

 後世には美談として伝わるような、親友との戦闘は、多くの者を涙させる素晴らしくも下らない話になったのだろうか。


 “二週目”の最終局面。

 あのときもそうだった。

 失うものがあり、それでも、何かを手に入れる。そんな胸糞の悪い物語の結末。

 どうやら大円団のハッピーエンドは流行ってくれていないらしい。


 虫のいい話なのだろうか。

 何もかもを手に入れたいと思うことは。

 都合のいい話なのだろうか。

 何も失いもせずに望んだ結果を手に入れたいと思うことは。


 それが物語の形を成さないというのであれば、いいだろう、物語から脱却しても構わない。


 サラを救い、そして問題なく “刻”を刻み、魔王を倒す。


 都合のいい願いだが、それくらいは許してもらいたい。

 ままならない旅を続け、すっかりと忘れていたが、この狂った物語に対してようやく言える。


「せっかくの逆行ものだ。好き勝手やらせてもらう」


 かわし続け、ようやく、サラが射程に入る。


「キャラ・ライトグリーン!!」


 ドンッ!! とアキラは大地を蹴った。直後に竜巻で吹き飛ぶ大地。流石に抜かりが無い。

 先ほどの流れ通りだ。

 サラは典型的な魔術師タイプ。

 それも、ラグのある魔術を主軸とするようで、速度を上げたアキラを捉えきることはできない。

 驚異的な力ではあるが、流石にアキラとイオリ相手では戦闘力には開きがある。大地を破壊し尽しでもしない限り、何度やってもこの状況に陥るのだ。


「―――、」


 サラは即座にアキラに杖をまっすぐに向けた。


―――来る。


「シュリスロール!!」


 当然、サラも無策ではない。

 本来は攻撃用であるはずのこの大魔術だが、術者が自らの負傷を気にも留めないのであれば話は違う。

 自らの身体を取り囲むように発生する巨大な青い竜は、攻撃魔術であるがゆえに、侵入者に、そして術者自らにも多大な威力を発揮する。


 アキラは思考した。

 この魔術を突破すること自体は可能だ。

 だが、それでは先ほどの大惨事が起こる。


 ならば。


「―――、」


 自分に、できるだろうか。

 ひたすらに破壊の力のみを追求してきた自分に。


 だが、やるしかないと、思う。


 自分が望んだ未来を手に入れるために、今すべきこと。


 それは―――魔術だけを無力化すること。


 できるはずだ。

 それを自分は、先ほど見ている。

 もしかしたら彼女は、そのために、自分にあの光景を見せていたのかもしれない。


 攻撃するだけの魔術だと思っていたこれは、この力は。

 魔術を無力化するためにある。


 ありったけの魔力を込めて。

 魔術という曖昧なものを、確かな形として捉えるように―――


「―――キャラ・グレー!!」


 バジュ!! と、熱した鉄に水をかけたような音が鳴り響いた。

 アキラが振るった剣が捉えた巨大な青い龍は、オレンジの光に浸食されて稲光を放つ。

 幻想的な光景だった。


 アキラの剣に使用されている魔力の原石は、魔術を弾く。

 もともと物体として捉えるような性質を持つが、剣の斬撃の規模となると大規模魔術にはその場しのぎにもならない。しかし、先ほどのようにアキラが魔術を使用しながら振るえば当然、魔術と魔術の衝突を起こしてしまう。

 しかし今、アキラが発動した魔術は青い龍の“発動”を許さず、全身に伝わっていく。

 そして龍の身体を伝い、その浸食は、サラの付き出した杖にまで及ぶ。


「っ―――」


 短い悲鳴と共に、彼女は身体を硬直させる。

 日輪属性の魔力はあらゆる属性を兼ねるのか、土曜のそれに似た衝撃が彼女の身体前進を駆け巡る。

 その媒体であった龍は稲光のたびに動きが鈍り、次第に淡くなり、そして徐々に透けていく。


 まるでそれは、あの存在が還る光景のようだった。


「召喚獣みたいだね―――ラッキー!!」


 鋭い指笛が響いた。

 魔力を使い切ったアキラの頭上に、大きな影が現れる。


 消えた青い龍の向こう、目の前の光景に戸惑うサラが見えた。

 イオリは上空に召喚獣を出現させ、迷わずサラに向かって飛び込んでいく。

 サラは思わず、といった様子で杖を握る。


 が。


「無駄だよ―――」


 ズンッ!! と出現したラッキーが大地を押し潰した。

 思わず身を屈めたアキラが襲る襲る周囲を探ると、どうやらラッキーはその四肢を立たせ、3人を外から覆い隠すように身を伏せている。

 先ほど見たラッキーより遥かに巨大だ。イオリが流す魔力の量で召喚獣のサイズを変えられることは知っていたが、ここまでの規模で出現させることができるとは。


 そして感じる。

 あれだけ肌を付くような何かの刺激が充満していたのに、一瞬にして消え失せている。

 これは。


「ラッキーの下に、魔力なんて漂ってないさ」


 先ほどの緊急離脱をさせないためか。

 ラッキーは土曜の召喚獣だ。この存在の下では、魔術など容易に発動できない。


 イオリは短剣を構え、サラに向かって突き出す。


 その光景を見て、アキラは思わず叫びそうになった。

 だが、強引に口を閉じた。

 きっと、大丈夫だ、と。


「―――っけ」


 鋭い一閃がサラの首元を襲った。

 小さな金属音と共に、うめき声を上げてサラは倒れ込む。


 身をよじって何とか近づいたアキラは、サラの首輪にグレーの魔術がまとわりついていたのを見た。

 そしてしばらくして、その首はパキリと割れる。

 そこから下がっていた、不気味で、不吉で、災厄の訪れを告げる、石と共に。


「……できるじゃないかよ」

「……これからだよ。リロックストーンを破壊したからと言って、サラが支配されていないなんて、証明できないからね」


 努めて冷静に、イオリは言った。

 確かにそうなのだろう。

 そんなものは悪魔の証明だ。人の心は分からない。

 問題は山積みだ。

 決して“一週目”のような、あっさりとした幕引きには決してならないだろう。


「だけど、少なくとも。前々回の結果とは違う。これが今後どうなるか分からないけど―――アキラ」

「ん」

「ありがとう」


 イオリは、変わらず静かに、サラの前で腰をかがめた。


「サラ。今は多くは話せないけど、きっといつか言うよ。それまで、親友でい続けてくれると嬉しいな」


 気を失っているはずのサラが頷いたのが見えたが、イオリの肩が震えていることに気づき、アキラは、空に溶けていくラッキーを見ていたことにした。


―――***―――


 その日は、天気だけが良かった。


 東の大陸―――アイルーク。

 伝説発祥の地であるリビリスアークでは、ようやく厳しい寒さを超え、随所に新しい命が芽吹き、春の到来を知らせていた。

 もともと緑の多い大陸、と、他の大陸の者たちからは大雑把に認識されているが、彼女が思うに、ある種正当な評価だと感じる。


 セレン=リンダ=ソーグ。

 幼い頃より他の大陸を含め各地を回っていた彼女は、緑豊かなアイルークの正当な評価者である。

 根無し草の生活を続けていたセレンは、当時家庭教師としてこの村を訪れた。

 その縁あって、今は孤児院の手伝いをしているが、その教え子は旅立ち、ついでに言うなれば、弟も今頃どこかの大陸のどこかの場所で、やはり悠々自適な旅を続けていることだろう。

 ことごとく、自分には旅というものが付き纏うようだ。


 セレンは自笑し、孤児院の郵便受けから朝の新聞を取り出した。

 憂うように見るばかりだったこれも、最近では随分と変わってきている。

 どうやらまた、何か、世界から憂いが消えたようだ。


 ヒダマリ=アキラ。

 そして、スライク=キース=ガイロード。

 あるいは、リリル=サース=ロングトンか。


 最近世間を騒がしている彼らは今、神話に最も近い位置にいる。

 この記事も、世間の噂が幾重にも交わり、多くの者には確かな真実は分からないだろう。


 だが、内、ふたつのグループの動向を知れるセレンにとっては見極めることなど造作もない。

 これは自分が知らない出来事だ。

 ともすれば、手紙が遅いかリリル=サース=ロングトンが解決したものだろう。


 ある意味幸いだ。

 セレンは胸を撫で下ろす。


 もしこれがあの男―――ヒダマリ=アキラの手柄だと考えるだけで恐ろしい。


 かつて彼を邪険に思ったことはあるが、それが理由ではない。

 ヒダマリ=アキラという存在は、この村にとって、もっと言えば、村長にとって、恐ろしく重大な意味を持つのだ。


 “伝説の誘拐事件”。“百年戦争”。

 その件が広まったときは酷かった。


 この辺鄙な村で、誰の目からも明らかなほどの“宴”が模様されることになる。

 村の発展にはいいのだろう。

 だが、熱心な“勇者信者”である村長は加減というものを知らない。


 村の若手や女手は残らずかり出され、解放されたのは頭が損得の勘定もできないほど疲弊しきった後であった。

 あんなことを頻発されては村ではなく村人の命に関わる。

 年配であるのにあの狂乱の宴を容易く乗り切ってみせた村長の活発さを前に、セレンは自らの老いを感じさせられたせいなのか村長への怒りなのかよく分からない感情に揉まれ、柄にもなく―――いや、やはり、思い出すのは止めておこう。


 そういう経緯もあり、セレンは最近の新聞を別の意味で憂いて見ていた。

 自らの雇い主であり、教えの子の育ての親であるエルラシアと相談し、“雪山の伝承”の事件を知らぬ存ぜぬで押し通した自分を褒めてやりたい。


 宴をするなとは言わない。だが、頻度を考えろ。

 ただ。

 このご時世でそう考えられるのは、ある意味“次”があると確信しているがゆえなのだろう。


 セレンは小さく笑った。

 次、とは。


 あれだけ同じ場所に留まらない自分が、これほどまで長く滞在する場所があるとは。


 思わず乱れた口元を何気なく隠し、セレンは手早く郵便物を籠に入れる。

 これもすっかりと習慣となってしまった。


 そのとき。


「―――?」


 遠くで騒ぎが聞こえた。

 もしかしたら新聞を読んだ村長が詳細を訪ねに自分のもとを訪れようとしているのかもしれない。

 この時間だ、居留守は上手くいくだろうか。などと、不敬なことを考えながら目を凝らすと、どうやら違うようだった。


 彼は―――確か、この村の魔術師だ。

 何かを喚き散らし、しかし全力で駆けながら、必死に、何かを訴えている。


 分からない。

 分からないが、セレンは何か懐かしい空気を感じた。


 まだ控えめな寒さの残るこの早朝に、じっとりと手のひらに汗が吹き出し、しかしそれでいて、身体が小さく震えるこの感覚。


 いつしか早鐘のようになり始めた心臓を抑え込み、魔術師の声を拾おうと耳に全神経を集中させる―――その前。


 雲だろうか。

 大きな影が、リビリスアークを覆い始めたのに気がついた。


 セレンは、確信めいたものと、そして同時に、僅かな祈りを捧げながら、ゆっくりと、空を見上げた。


 その日は、天気だけが良かった。


―――***―――


「……悪いとは思うけど、これでいいか」


 気を失ったサラを、イオリは入念に縛り上げていた。

 せめてもの配慮か自身の魔導士のローブでサラを包み、慎重に大地に寝そべらせる。


 大地に座り込んでいたアキラがなんとなく気まずくて視線を外すと、転がっているサラの杖が視界に入った。

 先ほどの衝撃のせいか、先端のスカイブルーの宝石にはひびが入っている。

 あの宝石は、やはり見覚えがある。

 だが、今は深く考える気にはなれなかった。


 妙に空気が澄んでいる。

 焼け爛れた大地の焦げ臭い匂いも空に吸い込まれるように昇っていき、遠くからサラサラと優しい風の音が聞こえていた。

 日常から離れた光景が、日常に戻っていくようで、少しだけ穏やかになれる。

 だが、やるべきことはいくらでもあるのだろう。


「……それで、どうする?」

「どうもこうもないよ。流石に3人乗せてすぐに飛び立てるほど余裕はないし、少し休んで戻ろうか」


 見た目では分からないが、流石にイオリも疲弊しているのだろう。

 イオリはアキラの隣に腰を下ろすと、肩をさすった。

 魔導士のローブの中には元の世界のものなのだろうか、学生服を纏っている。

 そのままだと流石に冷えるだろう。

 気が利いていれば羽織っていたコートを差し出すようなことができていたかもしれないが、アキラはいたるところが焦げ付いたボロボロの上着くらいしか渡せなかった。


「サラはどうなるんだ」


 ふたり並んで、ピクリとも動かないサラを眺めながら、アキラは呟くように言った。


「さっき言った通りだよ。君はああ言っていたけど、流石に問題にせざるを得ない。カリスには事情を話すし、魔族に洗脳されているなんてことになれば魔術師隊での扱いは難しい。モルオールの魔術師隊がそんなリスクを許容できるわけがないからね。しばらく養生は必要だろうけど、それから先、彼女に何があるかなんて分からないよ」


 サーシャは結局出現しなかったが、退けたと考えていいのだろう。戦闘が終わり、サラも生きている。

 だが、どうやら素直なハッピーエンドにはならないらしい。

 これはサラの人生に関わるような問題だったのだ。

 現実というのは世知辛い。

 これは正規のルートから逸れた代償なのかもしれない。

 サラにとって、本当に問題が訪れるのはこれから先なのだろう。


「だけど、それは、先の問題だよ」


 沈んでいたアキラに、しかしイオリは、少しだけ満足げに言った。


「確かに、今思いつく限りでもサラは酷い扱いを受けると思う。魔術師の資格ははく奪されるかもしれないし、そんな状態じゃ生涯監禁されるかもしれない。僕もここを離れるし、彼女をかばうことはできないよ」


 アキラが息を呑んでいると、イオリは少しだけ笑って言葉を続けた。


「だけど、もしかしたらサーシャの完全支配は失敗しているかもしれない。グリグスリーチの影響もあったせいで正規の手順でサラを洗脳できなかったかもしれないし、あの杖の力でサラは守られていたかもしれない。明日にもサラが目覚めて、すべて元通りになっているかもしれない。旅先で、彼女との手紙のやり取りを楽しみにすることになるかもしれない」


 イオリが随分と曖昧なことを言い出した。

 アキラが眉を寄せると、やはりイオリは満足げに言った。


「これは本当に都合のいい考え方で、ただのエゴかもしれないけど、サラが生きていることだけでも良かったと思う」


 今日起こった出来事は、ただの“一週目”の焼き回しではなかった。


 もしかしたらこれから先、サラからしてみれば、ここで命を落としていた方が良かったと思える過酷が待ち受けているかもしれない。


 だが、もしかしたら、サラは今にでも起き上がり、自分たちに笑いかけてくるかもしれない。

 当たり前のように復職し、当たり前の日常を過ごすかもしれない。

 勇者のファンとやらの友人の前で、アキラと出会ったことを自慢げに話すかもしれない。

 そして、遠い未来、イオリと共に暖かく語らうかもしれない。


 靄のかかったような、すっきりとしない曖昧な終わり方でも、そんな可能性は残せたのだろうか。

 そしてイオリは、その可能性を見ることができているのだろうか。


「前々回。こんな気持ちにはならなかったよ。ただただサーシャを恨むだけだった。そこに悩みや不安は無かった。でも今はそれを感じるよ。これからどうしようか、ってね」


 イオリの表情からは見えないが、彼女は彼女で、この結果を良しとしているようだ。

 前々回―――“一週目”。

 そのとき彼女がどういう表情を浮かべていたのか、アキラには思い出せなかった。


「……なあ、イオリ」

「ん?」

「“一週目”の俺だったら、もう少しちゃんとした結末になったのかな」


 なんとなく、そんなことが口を突いて出てきた。


 記憶も何もなかった“一週目”の自分。

 その存在は、今の自分より遥かに強いらしい。

 今の自分がそんな状態だったら、もしかしたら、サラを完全な形で救い出すことができていたのだろうか。


 アキラが情けなさと申し訳なさが同居したような瞳でイオリを見ると、彼女は目を伏せて息を吐いた。


「前に言ったことを気にさせちゃったみたいだね……。ごめん」

「いや、いいんだよ。それよりもっと聞かせてもらいたい。俺は、」

「アキラ」


 イオリは首を振ってアキラの目を見返してきた。


「これも考え方次第なんだろうけど、多分、聞かない方がいい。聞いてしまうと、どうしても同じようにできなくなる。君なら乗り越えられるかもしれないけど、“知っている”ってことは、得なことばかりじゃない。いや、苦痛になることがほとんどかもしれない」


 イオリはちらりと寝そべっているサラに視線を向けた。

 親友であり、イオリのその違和感を最も近くで覚え続けた人物。


 未来のことを一部知っているだけのアキラでさえ、旅の序盤、あれだけ苦しみ抜いたのだ。

 イオリはそれを最も感じた存在だった。

 彼女でさえ使いこなせなかったそれを、アキラが使いこなすことはできないのだろう。


 アキラは、はっと息を吐き、拳を握り締めた。


「正直さ、不安なんだよ。なあイオリ。俺はちゃんと“俺”か? 少なくとも俺は、俺をやれてるか?」


 むちゃくちゃな言葉だとは思った。

 だけど、それが一番知りたい、そして知りたくないことだった。

 もしかしたらイオリと出逢うことに複雑な感情を持っていた理由のひとつはこれだったのかもしれない。


 “一週目”の自分を知っているイオリ。

 “勇者様”であるヒダマリ=アキラを知っているイオリ。


 自分の遥か先にいるらしい過去の自分は、せめて今のヒダマリ=アキラの延長線上に存在しているのであろうか。

 失った記憶の中のヒダマリ=アキラは、どういう存在だったのか。


 それを考え出すと、気が狂いそうになる。

 表情や話し方、思考の進め方に、そして想い。

 千差万別のそれが、過去の自分と今の自分が地続きでいないと考えると、言い表せない恐怖を覚える。


 イオリは目を細めて、じっとアキラの表情を伺っていた。

 自分の表情は、彼女の記憶の中の自分と同一だろうか。


「深く考えないってのが俺のスタンスだと思ってんだけどさ。たまに自分が分からなくなる。だから、少なくとも知った方がいいかと思ってたんだけどさ。……いいや、忘れてくれ」


 これは自我を失うことへの恐怖かもしれない。

 自分の一挙手一投足が、自分という存在を上書きしていくような錯覚に陥る。


 今だから分かる。

 記憶を失うことは、ある意味命を失うこと以上の恐怖だ。


 “一週目”の自分は旅の最後に、それを代償に差し出したことになる。

 そう考えると、今の自分と“一週目”の自分は、決定的に違うのかもしれない。


「……少なくとも、さ」


 黙っていたイオリは、アキラから視線を外さずに言った。


「……君は、前々回の君ができることができていない」


 小さく思った。

 死刑宣告のようなものだ。


「そして、君は前々回の君ができなかったことをやった。起こらなかったことを起こした」


 それは、賛辞なのだろうか。

 だがアキラはぼんやりと、思い続けてしまう。

 今のヒダマリ=アキラは過去のヒダマリ=アキラとは違うのだと。


「だけどさ。それでも、前々回の君と、今回の君。それに、前回の君だって、同じヒダマリ=アキラだって思うよ」


 アキラの意図を察しているのかは分からなかった。

 だけど、イオリの表情は優しく感じられた。

 根拠のない、傍から聞けば意味も分からない言葉だったが、僅かだけ救われたような気がする。


「そして君は今回、サラを救ってくれた。アキラ、僕はね。そう見ないかもしれないけど、本当に君に感謝しているんだよ」

「……そ、か」


 その表情のまま、イオリは微笑んでいた。

 斜に構えず、まっすぐ受け取ると、心にあった小さなわだかまりが無くなっていくように感じる。

 この先悩まないとは思えない問題だが、とりあえず今はこの結果に満足すべきなのかもしれない。


「……あ、そういやさ、お前さっき」

「ん?」

「僕、ってか、私、ってか。あれ、なんか、」


 すごく説明が難しいが、イオリは察したのか微笑んだ。


「そうだね、アキラ。僕は、元の世界ではあまり一人称を使う話し方をしなかったんだよ。もともとは私、だったかな。あんまり関心がなかったんだ。それで、異世界にきて何の気なしに使ってみているだけなんだけど、どうする?」

「どうするって……、僕でいいんじゃないか。聞き慣れてるし、……、その、まあ、似合ってる? ってか」


 視線を外して言ってみた。

 するとイオリは満足げに笑った。


「さっきの、半分嘘なんだ」

「は?」

「一人称にあんまり関心が無かったのは本当だけど……、まあ、癖、みたいなものかな。妙に畏まると、つい、ね」


 そう聞くと、妙に申し訳ないような気になってくる。


「……お前はずっと、張りつめてたのかよ。“二週目”も」


 思い起こせば、自分は、ホンジョウ=イオリという人間を理解していなかったような気がする。

 “二週目”。共に語り合い、笑っている中でも、彼女は彼女で、目に見えない何かと戦い続けていたのだろう。

 彼女にとって、あの旅は、苦痛なものだったのかもしれない。

 気を張り続けて、何も休まらない彼女の隣で、自分は何も気づかずに高笑いしていたのだろう。


「……まあ、そうだよね。そうか」


 しかしイオリは目を細め、少しだけ考え込むように爪を噛んだ。


「一応事実ではあるんだろうけど、それだけじゃない。……これくらいはいいかな。言っただろう。半分嘘だって。何の気なしに使ってみている、っていうわけじゃない。理由は……いや、原因は君だよ」

「原因だと」


 わざわざ言い直したイオリは、白い目を向けていた。

 気のせいだろうか。

 アキラ自身、イオリの表情の変化が、少しだけ見えるようになっているのは。


「旅の途中、思わず口から出たとき、君が随分騒いだんじゃないか。やれ僕っ娘だとか、これでいこうだとか、どうのこうのって」

「へえ、そんな馬鹿がいるんだな」

「それからもふざけて使ったら、君は騒いだっけ。からかわれているような気がして、かえって意地でも使い続けることになったよ。それが当たり前になるくらいに。むしろ自分でも気に入りかけてきた。誰かの洗脳のせいかもしれないね」

「サーシャじゃね? ……分かった。忘れてくれ、……ください」


 遥か先にいるらしい自分の背中が透けて見えた。

 そんな負の遺産があったとは。自分の知らない自分を知っている人物とは恐ろしい。

 ますます、過去の自分を知りたくなったが、碌なものではなかったようだ。


「忘れないよ」

「おい」

「何せ、サラを失って初めて大声を出したときのことなんだから―――そして今回も、君は“僕”を選んだね」


 イオリは遠くを見ていた。

 アキラには何も見えない。

 そこには、自分の遥か先にいるアキラがいるのだろうか。

 そこでは、“一週目”の旅の光景が輝いているのだろうか。


「アキラ。君は変わっていく。だけど、それは成長であって、君自身が作り替えられているわけじゃないと僕は思う。不安になったらいつでも言ってくれ。言わなくてもいいけど、少なくとも僕がいることだけは忘れないでくれ。だからさ、」


 要領を得ない言葉。

 曖昧な解決。

 それでも、それを良しと出来る関係と、それは似ていた。


 イオリは立ち上がる、まっすぐにアキラを見て微笑んでいた。

 純粋な、晴れ晴れとした表情ではない。

 まっすぐに見返しても、見抜けない部分はある。

 それでもアキラは、自分がこの先世界を何度周ろうと、何度でも彼女の元へ向かうだろうと思えた。


「君が君であることの証明に、僕は僕であり続けるよ」


 言葉にはできない感情は、何をやっても想うことしかできない。

 だからアキラは、照れ臭さを乗り越えて、せめてその視線をまっすぐに見返していた。


 彼女を知ろうとすることは、知ろうと思い続けなければできないのだろう。

 誰に対してだって同じだ。

 かかる時間が違うだけのように思える。

 いや、かけようと思える時間が違うだけなのかもしれない。


 だけど自分には不安は無かった。

 そう思い続けられると思えた。

 これから先、旅の中で、ずっと知ろうと思い続けられるだろう。


 胸が焦がれるほど出逢いたかった、新たな、そして旧知の仲間を。


 そして―――これから。


「さあ、アキラ。世界一周ご苦労さま。改めて、僕を仲間にしてくれるかな」

「土曜の魔術師がお前以外にあり得るかよ」

「嬉しいこと言ってくれるね。……はは、また同じ話してるね、僕らは」

「そういうもんだろ」


 そういうものだ。無駄と思えるかもしれないけれど、当人たちは無駄とは思わない。

 そういう関係は、どこまでも、心地の良いものだ。


「……ただ」


 微笑んでいたイオリは、いつもの冷静そうな顔つきになっていた。

 アキラも察する。

 今、脳裏を何かが過ったのだ。


「これから向かう場所は、僕にはもう分かっている」

「……ああ。俺も今思い出した」


 ざわつく風が、一層冷たく感じた。

 終わりきるはずだった物語を、終わりきらない形にしながらも、自分たちはそれを放り出して、これからとある村へ向かうことになる。


「……そろそろ戻ろうアキラ。僕は船が出るまでの間に、サラの問題を何とかしなきゃいけない」

「ああ。俺に手伝えることがあったら何でも言ってくれ」

「……適材適所だ」


 イオリはアキラの提案をバッサリと切り捨てると、指で輪を作り、口に当てる。

 戦力外通告というのは中々に堪えるが、確かにアキラも、何を頼まれても手に付かないだろうと感じていた。


「どうせ僕が何も言わなくてもそうなるのが、少し悲しいけど―――」


 イオリは目を伏せながら呟いた。


「―――“彼女”の傍に、いてあげてくれ」


 過去の出来事から分かる、未来の情報。

 間もなく、世界中の新聞が賑わうことになるだろう。

 もしかしたら、もうすでに、港町には連絡が入っているかもしれない。


 “平和”な大陸―――アイルーク。

 初代勇者発祥の地にして、ヒダマリ=アキラがこの異世界に落とされた村。


 リビリスアークが、壊滅した。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ