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おんりーらぶ!?【第二部】  作者: コー
北の大陸『モルオール』編
31/68

第39話『集う、世界(前編)』

―――***―――


 山脈は晴れた。


 あれだけ暴れ狂っていた吹雪は一晩も経てば雲ごと静まり、本日は雲ひとつ無い快晴だ。

 層の厚くなった白い大地は浮き上がるように輝き、覆い尽くされた植物の代わりに活力に満ちていた。横倒れになった細々強い木々も、雪に強い影を残している。


 日の出前、に。


 山脈は晴れた。雲ひとつ無く。

 間もなく山の向こうから日輪が顔を出し、世界中を輝かせるだろう。

 世界を先取りしたようなその地帯も、間もなく日光と融和する。


 溶けるように、混ざるように、気取られぬように、何も残らない。


 ただ。

 日の光をその場に残した記録だけは、どこかに静かに刻まれた。

 別の何かを、押し退けるように。


――――――


 おんりーらぶ!?


――――――


 カイラ=キッド=ウルグスという女性の本日のコンディションは、最悪だ。

 まず頭痛。目もしばしば霞み、強い太陽のもとではまともに開けていられない。喉の奥を生ぬるいスプーンか何かで押さえられているような感覚もするし、熱っぽかった。

 風邪気味だ。昨日、雪山の洞窟などという場所で過ごすことになったのが原因だろう。初期症状なのだと信じたかったが、昨日のドタバタの疲労もあるのだろう、具合が悪い。

 加えて徹夜である。

 睡魔には強いのだが、もともと体力がある方ではないカイラにとっては、ただ起きているだけで苦痛だった。

 いや、別にいいではないかとカイラはふと思う。

 自分は修業の身だ。苦痛大好物、苦行大歓迎のはずではないか。だったら問題無い、それどころか、これを凌駕してもらっても構わない。苦痛よ、もっと来い。むしろ自分の身体はそれを望んでいる―――とカイラが寝ぼけた頭で良からぬ方向に思考を引きずられていたとき、マグネシアス修道院に到着した。


 重ねることになるが、カイラ=キッド=ウルグスは不調だ。

 立ちくらみも起こしているし、瞳を閉じるだけで深い眠りにつけそうな気さえする。


 そんな彼女は。

 今日も、山脈の麓から“数百キロ”の生活物資を修道院に運び込んでいた。


 マグネシアス修道院の門前。

 山のように積まれた木箱を前に、カイラははっと白い溜め息を吐く。

 慣れた作業だったとはいえ、“空”の世界は身悶えするほど寒く、手袋をはめた手も指の先から悴んでいた。頬もピンと張りつめ、表情を僅かに変えただけでヒビが入ったように痛む―――が。暖気を溜め込んだ自室に飛び込み毛布に包まりホットドリンクを飲むことはできない。自分には仕事がある。


「ワイズ。お疲れさまです」


 頭痛が酷くても、聞き慣れた鳴き声は頭に響かなかった。

 カイラの目の前にいる三十メートル近い存在が鳥類を思わせる声を上げる。


 召喚獣・ワイズ。


 巨竜とカテゴライズされる存在から攻撃能力の一切を削り取ったような姿は、全体的に丸みを帯び、カイラの魔力色を反映したように青い体色をしている。

 カイラがワイズの足に括りつけた荷物の紐を外すと、ワイズは最後にひと鳴きし、快晴の空に光となって溶けていった。

 以前、マグネシアス修道院を訪れた専門家に話を聞いたところ、ワイズは移動に長けている召喚獣だそうだ。

 カイラは他の召喚獣を見たことが無いし、何より使役できているとはいえ召喚獣について詳しくないので良く分からないが、とりあえず、それ以来修道院の生活物資の荷運びは自分が担うこととなった。

 不出来であった幼い自分は何度も不平を漏らしたものだが、今となっては誇らしい。何より自主的に始めたこのレスハート山脈の見回りは、数多くの遭難者の命を救ってきたのだ。

 もっとも、どう考えても過剰と思える荷物を毎度運ぶのは些か不満がある。麓への注文を行っているのは院長だが、意外にも彼女は大雑把なのかもしれない。

 ただ、それを差し引いても、今日は荷物が多かった。


「……これ、毎回運んでいるんですか?」


 ギクリとして振り返った。雪に足を取られて転びそうになり、なんとか踏ん張る。

 そんなことを気取らせぬように振る舞いながら、顔を上げると、真っ白の世界に、赤毛の少女を見つけた。

 エリサス=アーティ。3ヶ月ほど前からこの修道院で保護している女性だ。

 彼女をこの時間に見かけたことは今まで無かった。


「おはようございます、カイラさん。昨日は吹雪が止んで良かったですね」

「え、ええ。おはよ……んん、おはようございます。お陰さまで、んん、2名を救助できました」


 人に出すような声色ではなかったかもしれない。

 カイラは喉を押さえ、調子を整えると、続けるように言った。


「エリサス様」


 そう。

 目の前のエリサス=アーティ嬢は、誰あろう、“話題”の勇者、ヒダマリ=アキラ様のお仲間なのだ。


「……エリーでいいですって」

「いえいえ、そういうわけにもいきません。お早いですね、あまり無理をなさらずに。ここは冷えますので」


 何だこの完璧な対応は。本当に自分は不調なのか。もしかしたら、自分が気づいていないだけで、絶好調なのかもしれない。

 小躍りでもしたいところだったが、止めておいた。


「これ、中に運ぶんですよね、手伝いますよ」

「いえいえ、そんなわけには。量もありますし、中の者にやらせますので」


 変わりにカイラは、ピシッと姿勢を正し、さもこの修道院の支配人のように振舞ってみた。

 やってみたかった。後悔はしていない。

 ただ、目の前のエリーは、はあ、と声を漏らしただけだった。

 調子に乗り過ぎたかもしれない。だが、勇者様には最大級の敬意をという“しきたり”の後ろ盾もある。

 のだが、流石にそろそろ慣れぬ真似は止めた方が良いだろう。

 見知らぬ仲でもないのだからとカイラは姿勢を崩し、うんざりするような表情を作って荷物の山を見上げた。


「今日はずいぶん荷物が多くて……」

「いつもはもっと少ないんですか?」

「ええ、まあ。院長ももう少し考えて発注していただけると助かるんですが」


 声を殺して呟いた愚痴に、エリーは初めて笑った。

 そこでカイラは眉を寄せた。そういえば、今まで彼女はどういう表情を浮かべていたのだろう。思い出そうとしても、ぼやけた頭では記憶を拾えなかった。

 だが、代わりに別のものを拾ってきた。


「そうだ、そうです。もしかしたら、シリスティアからの献品かもしれません」


 昨日、遭難者として修道院で保護している男性、マルド=サダル=ソーグがそんなことを言っていた気がする。

 麓での検品のときも、郵便物としてシリスティアから送られてきた荷物がいくつかあったはずだ。

 箱の山をざっと見渡して宛名を見つけると、確かに、エリサス=アーティ宛ての箱があった。どうやら、シリスティアの魔術師隊から送られてきたようだ。


「そのようですね。ではすぐに中に運びましょう」

「あたし宛て、ですか?」

「ええ。手紙を書いたのは貴女だからでしょうか。ああ、本当に凄いです。貴女が“火曜の魔術師”として認識されているのでしょう」


 感動に打ち震えたカイラに、エリーは何も言ってこなかった。

 それだけ枠から外れた反応だっただろうか。カイラは怖くなり、もう1度咳払い。


「では、わたくしは人を呼んできます。いつまでもここにいたら本当に風邪をひきそうでして……。エリサス様も、」

「エリーでいいです」

「え、ええ、では、エリサスさんも、行きましょう」

「あたしはいいです。もう少しここに」

「そうですか、では」


 普段は気にしていないが、積荷の見張り番も欲しいところだ。

 以前この警備体制の穴を突かれ、つまみ食いをされたこともあるし、エリサス=アーティは適任だろう。


 ……?


 誰に穴を突かれたのだったか。

 カイラは考えようとして、止めた。


 これ以上、頭痛と付き合うのはたくさんだ。


―――***―――


 ヒダマリ=アキラという異世界来訪者は雪を見慣れていない。


 元の世界のどこに住んでいた、という話はこの世界の人間にしても仕方が無いので省略するが、少なくとも、雪国と言われる地域ほど頻繁に天気の崩れるような場所には住んではいなかった。

 ただ、決して威張れることではないような気はするが、自信を持って自分は童心を捨ててはいないと言えるアキラにとって、雪とは喜ぶべき天からの宝物である。

 雪だるま、雪合戦、カマクラ……は手間がかかるから作ったことは無いが、とにかく、雪で遊ぶ方法などいくらでも思いつける。


 そんなアキラは、深々と白い息を吐き出し、呟いた。


「雪死ね」

「聞こえた……こほん、聞こえましたよ、アキラ様」


 レスハート山脈のとある地点。

 温かそうだから、という安易な理由で選んだ橙色のコートを首までうずめて歩くアキラに、隣から非難の声が聞こえてきた。

 長刀を腰に差し、アキラと同じ色のコートを纏いながらも胸元から紅い衣を覗かせている長身の女性は僅かばかり背後を気にし、触れれば切れるような瞳で冷ややかな視線を送ってきた。これ以上凍えさせられるなど冗談ではない。

 アキラは息を殺して弁解した。


「でもよ、サク。昨日の吹雪は何なんだよ……。あんなの、ティアだったらぴゅーんって飛んでくぞ。地獄ですよもう」

「……不満なのは分かったから口を慎め。その地獄に住もうとしている人たちがいるんだぞ」


 サクも声を殺して呟いた。

 この少女、サクことミツルギ=サクラは紆余曲折ありひと月ほど前からヒダマリ=アキラの従者となった長身の女性だ。

 逸れた仲間と合流すべく、アキラと彼女がこのレスハート山脈に入ってから今日で2日。

 最初は物珍しかったものの流石に全く景色が変わらないとなるとアキラの心も折れかけ、止めは昨日の吹雪である。

 延々と続く登山活動に、アキラも弱音を吐きたくなってきた。

 しかしどうやらそれは自分だけらしく、隣の旅慣れたサク、そして、背後に続く4人の男たちからは不満の声は上がっていない。

 今も全員が同じ白いコートを頭から被り、忙しなく視線を周囲に向けている。


 彼らと自分たちが出会ったのは、昨日、このレスハート山脈を猛吹雪が襲う直前のことであった。ようやく逸れた仲間が足止めを食らっているレスハート山脈に辿り着いたものの、アキラには登山経験が無かった。旅慣れているサクも流石にここまで見事な雪山となると経験に乏しいらしく、しかし麓で足止めを食らっていても仕方ないと想像できる必須用品だけを抱え、特攻するような覚悟で雪山を進んでいた。

 そのときだ。どうやら同じようなルートで雪山を進んでいたらしい彼らと出会ったのは。

 何でも彼らは元々モルオールの住人らしく、住居を求めてモルオールを調査している集団の一員らしい。

 アキラはそのとき初めて知ったのだが、モルオールは現在深刻な土地不足に陥っているらしい。

 荒れ地全てが危険地域とされるタンガタンザと違い、モルオールの魔物たちは村、あるいは町といった人の集団を狙う習性があるそうだ。

 そのため多くの住居が失われ、俗に言う浮浪者というものが増えている。

 そんな背景もあり、モルオールには住居調査団という組織が作られていた。

 魔物に狙われるとしても、住居というものは人の生活には必須となる。

 しかし数多の浮浪者に勝手に村を作り出されても結果は目に見ているので、彼らはモルオール中を練り歩き、魔物に耐え得る場所であるか、運搬ルートを確保できる場所であるか、生活を営める場所であるか、等々を調査するのが住居調査団だ。

 そのメンバーである彼らは幸運なことに、登山に同行してくれた。

 数人では心細かったから丁度いいとのことだが、雪山初心者のアキラにとっては大歓迎だ。

 実際、彼らがいなければ昨日の吹雪を乗り切れたとは思えない。彼らの装備が人数に比してやや過剰だったのは幸運だったのだろう。

 その交換条件に、彼らの土地調査を手伝う羽目にはなったのだが、アキラもサクもこぞって首を縦に振った。

 しかし、そんな大恩人な彼らには酷だろうが、アキラにはこのレスハート山脈が住居に適した場所だとは到底思えなかった。


「と言っても、モルオールはもうそんな僅かな可能性にかけ続けなければならないのですよ」


 アキラの心を読んだように、後続のひとりが呟いた。長身の男だ。どうやら先ほどのサクの囁きが聞こえていたらしい。


「ああ、すまない。アキラ様もそんなつもりで仰ったわけではないんだ」


 長身の男は力なく微笑み、そしてアキラはサクの裾を引いた。

 そしてぼそぼそと呟く。


「……サク。その言葉使い、何とかならないのかよ」

「何を言うアキラ。私はお前の従者だぞ。お前も世間体というやつを気にした方が良い。お前は“勇者様”だ。百年戦争を止めたとなれば、流石にそろそろ騒ぎになるだろう」


 ふたりきりだとこうした口調なのにどうしてこうなった、とアキラは大いに嘆いた。

 確かに自分は百年戦争を止める特殊護衛部隊とやらに属していたが、未だにピンとこない。元の世界ではその他大勢の内のひとりでしかない自分が有名になる(らしい)というのも想像ができなかった。

 あの燃えるような戦場をやり過ごして今や凍える雪山。

 人生とは何が起きるか分からないものである。


 そんな悟りを開いたアキラは、ふと思いつき。


「じゃあ、その噂が広まるまでだ。それまでどうか普通のお前でいておくれ……」

「今さらは無理だろう……、まあ、考えておく」

「そこを何とか」

「……ご命令であればそう仰って下さい、アキラ様。何でもいたします」


 こういうのを何と言うのだったか。慇懃無礼だったか。使いどころが違う気がするが、少なくともサクから敬っている気配は見受けられなかった。

 どうもあの“刻”から、サクとの距離感が図り難い。


 そこで背後から、『“アキラ”……。やはりどこかで聞いたような』という呟きが聞こえてきた。最後尾を歩く小柄な男だ。

 一瞬サクにも聞こえたかと様子をうかがったが、どうやら彼女は聞き逃したようだった。

 山道は続く。


「おお」


 誰かから声が漏れた。

 開けた丘だ。雪山の中腹であるが頂上付近で傾斜も緩い。落石や雪崩の心配も薄そうだ。

 何より景色が良い。

 遠くの空まで見渡せる上、レスハート山脈が一望できる。加えて今日は快晴だ。寒さを我慢すれば空気も澄んでいて爽やかささえ感じられた。


 4人の男たちは僅かに会話をすると、ひとりを残して即座に散らばった。

 何度か見たが、調査の時間だろう。


 土地調査、というものが具体的に何をするのかまるで分からないアキラとサクは、彼らの警護が主な仕事になる。もっとも、朝から魔物の姿は見ていないのだが。


 サクが散らばった男たちの周囲を警護しにいった。

 アキラは残った、恐らくはリーダーと思われる年輩の男の護衛となり、楽なのだが、ここまで見晴らしが良いとなるとむしろ危険なのは身動きしていないこの男だ。

 気を引き締めねばなるまいと決意しつつ、サクは働くなぁ、と男たちを回る彼女をのんびりと眺めていた。


 “過酷”なモルオール。

 そう言われて気を引き締めていたが、出現頻度も、そして魔物のレベルも高くなく、アキラは正直肩すかしをくらっていた。

 それともモルオールの中でこのレスハート山脈は比較的安全な場所なのだろうか。

 だとしたら最高だ。

 何せ逸れたふたりは、彼女たちは、今この地にいる。

 無事でいてくれればそれだけでいい。そう願ってあの煉獄から日々を絶って、今、ようやくここだ。

 手紙にあったマグネシアス修道院はタンガタンザとモルオールの境にある。彼らの調査がひと段落つけば、自分たちは迷わず彼女たちを目指せる。

 本当に、ようやく、会える。感動に、思わず涙腺が緩みそうになった。


 そして。

 もうひとつの感動。


 方角は違うかもしれない。

 そして、決して届くわけがない。


 だがアキラは、山を眺め、そしてその遠くを見通すように、ひっそりと、呟いた。

 “平和”な大陸に落とされ、“高貴”、“非情”と巡って、ようやく辿り着いた“過酷”。


 そこには。


「やっと来れたぜ―――“イオリ”」


 彼女には、色々と訊きたいこともある。


「ところで」

「は、はい?」


 途端声をかけられ、アキラはいささか大げさに振り返った。

 残った年配の男が、咳払いと共に話しかけてきた。この男とは初めてまともな会話をした。どうやら昨夜の吹雪は、このメンバーの親交を温めたらしい。


「よく僅か2名でモルオールに入ろうとされましたな」


 あまり声を聞いたことは無かったが、思った以上に渋い声だった。


「え、ええ。この山の魔物って、あんまり強く無いんですかね?」

「さあ、私どもはそちらの方はからっきしで」


 じゃあどうやってモルオールの山に入ろうと思ったんだ、と内心思ったが、アキラは何も言わなかった。

 もしかしたらそもそもレスハート山脈には魔物がほとんど生息しておらず、自分たちが出遭った魔物は、自分の属性が引き寄せただけなのかもしれない。


「旅は長いようですな」

「え、ええ、まあ? それよりあいつの方が長いですよ。小さい頃から旅してたらしくて」

「それはそれは。お付き合いいただいてますが、助かっています」

「それは俺たちも同じですよ。昨日は酷かったし」

「はは、お互いいい出会いだったようで」


 思ったよりもずっと人当たりのいい人のようだった。

 声と同じく渋めの顔で勝手に苦手意識を持っていたのは悪かったのかもしれない。


「それと、失礼ですが」

「はい?」

「いや、少々気になりまして。もしかして、あなたは高貴なお方なのでしょうか。何分世辞には疎いもので、失礼があると申し訳なく」


 サクの態度の影響で、彼もアキラに委縮していたのかもしれない。

 それはそれで面白いと思ったが、サクの態度についての問題を思い起こし、アキラは頭を押さえた。


「いや、そんなことはないです。あいつが大げさなんですよ」

「は、はあ」

「それより、あなたたちっていつも4人で行動しているんですか?」


 話を逸らすだけのつもりだった。

 目についたものをそのまま口に出したような気持ちで出した軽い質問に、年輩の男は、あっけにとられたような表情を浮かべた。


「……え?」


 何だ。この、表情は。


「いや、だから、いつも4人で、」

「お待たせしました。ここは、おっと、お話し中でしたか」

「ああ、いや、すみませんが、お話はまた後ほどでよろしいですかな」


 いつしか調査団のひとりが駆け寄ってきていた。どうやら調査はひと段落していたらしい。

 アキラは頷いて、ゆっくりと距離を取った。仕事の邪魔をするのもはばかれる。

 漏れてくる会話を盗み聞けば、どうやら芳しい成果を上げられなかったようだ。これからも調査は続くだろう。


 それに比べれば、自分の疑問など、所詮、そう、“所詮、ただ僅かな違和感を覚えた程度だ”。


 それからすぐに、サクと男たちが戻り、さらに別の土地へ向かうことになった。

 山道は続く。

 いたって普通に。


 だが妙に、先ほどの男の表情が脳裏に残る。あの、不意を突かれたような、認識できない言葉を聞いたかのような表情が。


 進みながら、アキラはひとり黙考し、そして首を小さく振った。

 つい先日まで戦場のただ中にいた自分は、もしかしたら過敏になっているのかもしれない。ただ、自分の言葉が聞き取れなかっただけかもしれない。


 “いや、例えそうだとしても”。


 アイルークの銀の魔族。

 シリスティアの鬼。

 タンガタンザの百年戦争。


 そうだった、とアキラは心の中で呟く。


 これらは全て、自分がその大陸に訪れた“刻”に渦中に巻き込まれた事象であり、“事実”だ。


 そしてこのモルオール。今自分は、初めてこの地の旅をしている。

 もしこの山脈に事件の“種”があるとすれば―――間違いなく、芽吹く。


「なんにせよ警戒か」

「? どうした?」

「いや、なんでも」


 サクに小声で返し、アキラは表情を引き締めた。


 凍えるように冷えた世界で、今までただただ震えていた感覚に、しかしアキラは強く拳を握り絞める。


 来るなら来い。

 それならそれで、用意がある。


 アキラは背に縛り付けた剣の感触を探った。


―――***―――


 そこに、誰かが、座っているような気がした。


「……あ、カイラ。……今度は止まってくれたね」


 修道院に入ってすぐに構える大聖堂。

 誰が来るのか参拝者用の整列された幅のある椅子にくだけて座っていた彼女は、最奥中央の巨大な偶像から首だけ動かしてこちらを見た。

 茶が入った癖の無い長髪で、垂れ目の、全身から気だるい雰囲気を醸し出す、女性。


 ……?


「……あ、ああ、アリハ。おはようございます。貴女にしては随分な早起きですね」


 多分自分は、呆けたような表情を浮かべていただろう。

 カイラは悟られぬように顔を引き締め、彼女、アリハ=ルビス=ヒードストに向き合った。


「うん、眠いよ。でも、……ううん、そうだね。おはようカイラ。いつもの宅配便?」


 さて、さて、さて。

 これ以上彼女を相手にしている暇は無い。


「それではアリハ。わたくしは急ぎますので。エリサスさんをいつまでも寒い中荷物番にしておくわけにはいきません」


 言って、カイラはそのまま聖堂脇の扉へ向かった。

 今から自分は、荷を運ぶ人員を確保しなければならない。

 普段から仕事をさぼるようなアリハは最初から戦力外だ。


「ところでさ、カイラ」

「ひゃあ!?」


 廊下へ足を踏み入れたカイラは、突如冷たい手を首元に押しつけられた。

 ギクリとして振り返ると、いつの間に背後に立っていたのかアリハがにこやかに笑っている。

 恐らく青筋を浮かべているであろう自分の顔をアリハに押し出し、カイラが怒鳴ろうとしたところで、


「私、手伝おうか?」


 そんなことを言い出した。


「……は?」


 これは夢か。

 あの役に立たないアリハが何を言い出しているんだと思わず口に出そうとし、カイラは思い至った。

 そうだ。彼女は自分の仕事はサボるが、有事を抱えた人を見ると妙に積極的になるのだ。何故忘れていたのだろう。

 それで、昨日も、確か。


「……そうですね。表にワイズに運んでもらった荷があります。それも、大量に」

「荷物? ……あ、それでエリーちゃんが見張りをしているんだ」


 そうか、思い出した。

 積荷を盗み出すのはこの女だ。

 カイラはわなわなと震えつつ、当てが外れたように口を尖らすアリハに続けて言った。


「ですので、人を呼んできて下さい。わたくしも呼び集めます」

「ふぅん。前は、あの寒い聖堂で皆カイラを待っていたんだけどね」


 そういえばそんな時期もあったか。おぼろげで、もうほとんど覚えていないが、時間を見計らって何人か集まっていたことがあった気がする。どうやら今は皆、カイラが呼ぶまで部屋から出て来ないようだが。非力な自分ができない仕事を頼む手前、カイラにとってはそちらの方が気は楽なのだが。


 そこでふと思い至った。


「そういえばアリハ。貴女は何時からあの聖堂で遊んでいたのですか。随分手が冷たいようでしたが」

「…………そか」


 アリハは、小さく、呟いた。


「酷いなぁ、カイラ。私は昨日サボっちゃった分、ちゃんと聖堂の掃除してたんだよ」


 打って変わって、胸を張ってアリハは言った。

 出発時には聖堂にそんな様子は見受けられなかった。自分がワイズでこの山を上り下りしている間にしていたのだろう。ひとりで掃除というとまあまあ妥当なところなのかもしれない。

 嘘でなければ、だが。


「まあ、それはいいでしょう。それより今は人集めです。5人もいればいいので」

「うん、了解。じゃあカイラは休んだ休んだ。召喚獣って、結構疲れるんでしょ?」

「そういうわけにはいきません。特に、貴女に任せるのはわたくしにとって危険極まりないので」

「酷いなぁ、本当に。でもカイラ。立派に、なったよね」

「?」


 ゆったりと微笑んだアリハに、カイラは眉を寄せた。

 随分と久しぶりに見たような、もしかしたら初めて見た表情かもしれない。

 自分が立派になったと言うのなら、彼女はどうだろう。

 付き合いだけなら―――生まれたときから一緒だ―――かなり長い。

 それほど長い時間の中、彼女はどう変化したのだろう。しかしその答えが、カイラには分からなかった。


 あるいは、自分の変化さえも把握できてはいない。

 自分は立派になった、らしい。確かに不平不満を口に出すだけの子供の頃より、自分は立派になった。その自信はあるし、一方でまだまだ精進が足りないという向上心も持ち合わせている、と思う。

 だけど―――神よ、お許しください―――自分は、この修道院だけで生涯を終えるのだろうか、と考えると、妙な寒気がしてしまう。

 外界から隔絶され、麓から荷を運び、遭難者を救助し、神に祈るだけの毎日は、本当に世界を輝かせているだろうか。

 子供の頃に覚えた悪しき想いだ。

 世界は悲哀に満ちている。

 遭難者を救うことは大変価値あることだと思うが、例えば自分が、無事に下山できる“かもしれない”人間を救っている間に、世界のどこかで、手を差し伸べれば救えた尊い命が確実に消滅している。


 命に差は無い。だが、自分が差し伸べるべき手は、果たしてどちらだろう。


 そこで。


「っ」


 浮ついた気持ちが引き締まり、さっと血の気が引いた。

 ふと目に入った窓の外。その向こうに、長身の人物を見つけてしまった。

 雪に紛れ込むような白髪に、腰にぶら下がった大剣。

 特徴的な後ろ姿は、まるで背後を惜しむことなく、ずんずんと山を下っていく。


「…………アリハ、絶対に、わたくしが頼んだことをお願いします。わたくしは、今から行かなければならないところがあるので」


 アリハは見ていなかったようで、首を傾げている。

 だが、人員集めはアリハに何としてもやってもらわなければならない。


「あのさ、カイラ」

「あれ、だけ……」

「もしかしたら、ごめんなさいになるかもしれないけど、やっておくよ」

「あれ、だけ、部屋から出るなと言ったのに……!!」

「カイラ、聞いてる?」


 アリハの言葉を聞き流し、カイラは男の後を追った。


―――***―――


「どこへ行く、おつもりですか」


 いくら男性に苦手意識を持っているとしても、この男だけは例外だ。野放しにすることは心情に反する。


 雪の足場を崖に気を付けながら駆け、2度3度の呼びかけにも応じず突き進んでいた男の前に回り込み、それでも、口元だけは笑みを作りながらカイラは男を睨んだ。

 マグネシアス修道院の正門から正面へ進むと、落差の激しい崖がある。うねった坂道を4往復もすると崖の下に降りられるが、道幅は狭く、雪山に不慣れな者ならば危険極まりない道だ。

 これでも一応、マグネシアス修道院へ向かう正規ルートという扱いだが、召喚獣を操るカイラにとっては久しく使っていなかった道だ。何なく下り切れるとは、どうやら登山の能力は錆ついていなかったらしい。

 もっとも、上から声をかけたときにこの男が足を止めてくれればそんな検証をするまでもなかったのだが。


 目の前の白髪の男は足こそ止めたが、息を弾ませるカイラを静かに眺めるだけだった。

 スライク=キース=ガイロード。

 この長身の男は、昨日、幼い少女のキュール=マグウェルと共にカイラが雪山から“救出”した人物だ。


「昨夜、お伝えしましたよね。どういうわけか、キュールは貴方に懐いています。貴方が勝手に出歩いてしまうと、あの娘も危険な目に遭うかもしれません」


 白い息を弾ませながら、カイラは昨夜の様子を思い起こす。

 キュールという、小さな少女。彼女はやたらとスライクの身近にいたがる節がある。

 今この場にいないということは、この時間だ、未だ眠りの中なのだろうが、スライクが雪山へ向かったとなれば目を離した隙に後を追ってしまうかもしれない。

 カイラはこの雪山の危険性を理解している。

 彼女は子供だ。束縛することは行き過ぎとしても、大人は子供に道を示さなければならない。

 故に彼の態度は、看過できない。


「……、」


 スライクが、口を開きかけた。

 カイラは表情を険しくして、言葉を待つ。昨日の彼の態度は放任主義を立て前にしたような不認知。それだけは何としても正さなければならない。

 だが、彼が口にしたのはカイラがまるで意識していない言葉だった。


「セリレ・アトルス」


 脳のツボを押されたような気がした。

 スライクが発したその単語は知っているはずなのに、カイラはまるで反応できない。

 スライクは、昨日の嘲るような表情とは違う、“どこにもない何か”を捉えるように、金色の眼を雪山に向けた。

 朝日に輝く雪山が、何故か、カイラには一層寒く見えた。


「昨日の場所ならおおよそ分かる。俺は今からそこへ行く」

「は……、え?」


 ようやく思考が働き始めたカイラには、数々の疑問が浮かんだが、それよりも早くスライクは言葉を続けた。


「あのガキに纏わりつかれちゃ洒落にならねぇ。だから今行くんだよ」


 歩き出そうとしたスライクを、カイラは手を開いて防いだ。説明が不十分だ。

 真正面に立たれると妙に委縮してしまうが、彼は諦めたように足を止めてくれた。


 物騒な物言いで強引に突破してくると思ったが、意外にも彼は白い息をゆっくりと吐き出しただけだった。


 何故こうも、彼は静かな表情を浮かべているのか。

 カイラは荒ぶっていた感情を抑え込み、ようやく質問を絞れた。


「貴方は、セリレ・アトルスについて何かご存知なのですか」


 セリレ・アトルス。

 『沈まぬ太陽』と言われるそれは、このレスハート山脈の伝承だ。

 闇夜に浮かぶ日輪。

 自然の摂理に逆らう“災厄の証”ともされ、不吉の象徴として細々と語り継がれている。

 レスハート山脈で滅びた村の人々の魂と言われており、目にした者は魂が抜かれるらしいという逸話まである。

 幼き日、修道院の誰かに怪談話のように教わったカイラも、恐怖で眠れぬ夜があった。

 もっとも、そうした怪談はレスハート山脈だけに留まらず、世界各地でいくつもある。何が真実で、何が作り話で、何が単なる身間違いなのかは分からないが、少なくとも、今のカイラにとっては修道院長様直々に調査を命じられた対象だ。


「マルドの野郎が調べたことだが」


 マルド、とは、現在修道院で保護しているマルド=サダル=ソーグという男性だ。

 昨日はうやむやになって訊き出せなかったが、やはりマルドはセリレ・アトルスについて何か知っているらしい。


「この雪山で、消えている奴が何人もいる」

「……ええ。レスハート山脈では、いくつも村が滅びています。それはわたくしも知っていますよ。ですから、わたくしどもが毎日悼んで、」

「てめぇは、ここ数十年で何人消えたか知ってんのか」

「……?」


 スライクが静かに続けた言葉に、カイラは眉を寄せた。

 知らない。そうとしか答えられない質問だ。

 レスハート山脈にいるとはいえ、ここはモルオールの国からあまり管理されていない。ほとんど放置と言ってよい。

 だから、その不特定多数の人間の霊を、不特定多数のまま弔うために、マグネシアス修道院があるのだ。


「正確な人数なんざ知らねぇし興味もねぇ。だが、物好きな野郎が調べた限りじゃ大都市だってでき上がるそうだ。村を創り始めた奴も、もともと住んでいた奴も、登山客も合わせてだがな」

「そ……それは、“過酷”なモルオールですから。魔物も、凶悪です、し」


 スライクの口調は淡々としていた。何の感情も無い乾いた声。

 だが、カイラは自分が責められているような錯覚に陥っていた。

 外の情報が極めて集めにくい閉ざされた空間では気付けない。もしかしたらこのレスハート山脈は、呪われた地とでも言われているのだろうか。


 自分が神に祈っている間に、一体何人雪山に沈んでいたのだろう。


「だがよ、ぶっ殺した限り、この雪山の魔物の質はほどほどだ。そもそもモルオールの危険地帯から逃れた先がこの山なんだからよ。だが何故か、まともに生活できねぇらしい。例外なく村を滅ぼすなんざ、どう考えてもそこらの魔物じゃ無理だ。必ず取りこぼしが出る」

「……で、では、貴方はこう考えているのですか。この雪山には、よく見かける魔物以外にも、例外なく村を滅ぼせる魔物がいると」

「ああ。そして数人だがな、運良く逃げ帰れた奴らは見たらしい。夜の日輪を、な」


 そしてカイラの頭の中で、ひとつの結論に結び付いた。


「まさか……、貴方は“セリレ・アトルスが魔物の仕業”だと?」

「それを今から見に行くんだろうが」


 スライクは当たり前のように肯定した。

 だがそのロジックに、カイラは頷けなかった。

 セリレ・アトルスはあくまで単なる噂話。“災厄の証”というのも、単なるこじつけであろう。見た人が多いと言うのは、そういう錯覚を起こす気候的な理由である。

 カイラの中で、セリレ・アトルスというのはそういう存在であるし、多くの人もそう思うだろう。

 一方スライクは、セリレ・アトルスという空想の存在を現実の世界に落とし込んで考えているようだ。

 だが、セリレ・アトルスが魔物の仕業であるとしたら―――“魔力の仕業であるとしたら”、常識に疎いカイラでさえも、分厚い壁を乗り越えなければならない。


「つまり貴方はこう言っているのですよ―――“日輪属性の魔物が存在すると”」

「斬り殺すのに相手の色が関係あるかよ」


 だからどうしたと言わんばかりに、スライクは“異常”を飲み込んでいた。


「俺は今からそこへ行く」


 スライクは繰り返し言った。昨日見た、嘲るような表情でも、激怒している表情でもなく、獲物を狙う狩猟動物のような瞳で。

 どこか遠くを、睨んでいる。


「分かったらどけ。あのガキなら、どうせマルドが言いくるめる。お前には関係ねぇだろう」


 反発心もあったのだろうか、カイラは何故か、指示には従わなかった。

 この男が不在の間、どうやらキュールの世話はマルドがするらしい。昨日見た、穏やかな印象を抱かせる男性だ。少なくともこの男よりは子供の扱いには長けているだろう。

 であれば、カイラにとって、この男を止める理由は無い。キュールが無事なら問題無いし、この男が単身で雪山に進んでいっても沈む姿は何故か想像できない。


 しかし、ふと思う。


 この男の、今の、静かな空気。

 それは、彼の言葉を借りるならば、周囲の人間との、あるいは、世界そのものとの繋がりを斬り殺して作り上げられたものではないかと。

 今の彼のような空気を持った人間を、カイラは何人か見たことがある。

 遭難など恐れもせず、ひとりでこの雪山を訪れ、マグネシアス修道院に立ち寄った旅人たちだ。

 壁に隠れて出発の様子を見ていたカイラは、いつも、彼らが修道院を切り捨てて行くような錯覚に陥っていた。

 きっと彼らは、旅先で、この修道院のことを思い返したりはしないだろう。この何も無い雪山の建物を、忘れていってしまうだろう。誰かに訊かれれば思い出すかもしれないが、それまで、記憶の奥に沈んだままだ。ましてや、カイラ個人を覚えているような人間などいない。目の前の彼もきっとそうだろう。


 だから彼は、静かなのかもしれない。

 カイラにとって関係の無い世界へ向かうのだ、熱を込めて口を開くことは無い。

 ただ事務的に、“その他”を払いのけるためだけに口を開き、視線は自分の世界を追っている。

 当然と言えば当然。


 そして、自分もだ。

 自分は、過去に救った遭難者の顔をほとんど思い出せない。

 男性が苦手で、言葉をほとんど交わさなかったというのは言い訳にならない。遭難者には女性もいた。

 だがそのほとんどを、自分は事務的に保護し、事務的に手当てをし、そして見送った。閉じられた日々を繰り返した弊害だ。

 恩を売るつもりはないが、きっと、自分が救った遭難者はカイラ=キッド=ウルグスを覚えているというのに。

 こんなことでは、自分が何をしているのか見失って当然だ。


 強く想おう。

 自分が覚えた存在が、自分のことを忘れていく。

 それはとても、寂しいことだ。


「分かりました」


 言って、カイラはスライクを見据えた。

 近距離だと仰ぎ見るような体勢になってしまう身長差だが、どうやら男性と目を合わせることには慣れてきたらしい。


「セリレ・アトルスの調査はわたくしの仕事でもあります」


 寝不足と、体調不良のせいにしておこう。

 荷運びの仕事は終わっていないが、それ以外の仕事は特務で欠勤。問題無い。

 ちょっとした冒険だ。結局ただの見間違えだったとしても、それはそれで、きっと自分の存在は何かに刻まれる。


 カイラは最後の段差をはしたなく飛び下り、目僅かに開けた雪の上で目を閉じ、“自分の分身”をイメージした。

 そして、雪がスカイブルーに輝いた。

 カイラが目を開けると、愛嬌のある巨竜が喉を鳴らしていた。


「ワイズ、ごきげんよう」


 いつも通りの光景に微笑み、カイラは得意げになって振り返った。


「貴方も、空から行った方が楽でしょう?」

「着いてくんな。煩わしい」

「ちょっと!?」


 雪山を進むスライクに並走飛行して、召喚獣の便宜性を雄弁に語り続けると、彼はようやく舌を鳴らして飛び乗った。


―――***―――


 何かの分野で、自分の限界はここだと決めつける。そういう考えを、マルド=サダル=ソーグは否定しない。

 自分を客観的に見積もることは、決して、不利益ではないのだから。

 可能性を自ら摘み取る。努力が足りない。そういう酷評はごまんとあるが、所詮他人だ、言わせておけ。

 だから否定はしない。見積もりが正確で、本人がそう言うのであれば、それは確かにそうなのだろう。

 その人物の、その分野での限界は予め決まっている。残酷でもあるが、それは事実だ。

 しかしそれが正しいと認める一方で、マルドはそれが言い訳になるとはまるで思っていない。

 何かの分野で限界があることは認めている。だが、人生の中、迫りくる数々の問題を解決するためには、別の分野の力を借りればいいだけだ。

 算術に疎くとも記憶力があれば典型的な問題の答えを丸暗記して解答率を上げることは可能であるし、記憶力に疎くとも鋭い論理的思考が備わっているのであれば古事の事柄を推測できるかもしれない。

 幼少の頃、地方を転々としていた影響でまともに学問を受けられなかったマルドはまっとうな学習を諦め、各科目のツボ“ではなく”、いずれの分野でも“総合力”で迎え撃つ方法を考慮し続けた。

 今にして思えばまともに学習しても同じ労力だったのかもしれないが、過去の出題率から教諭の性格までも情報として集め、試験問題に臨んだものだ。


 学業を修めた後でも、どうやらその癖は抜けていないらしい。

 例えば雪山の魔物に抗える戦闘能力に乏しくとも傭兵を雇えば戦力を補って山を登れるし、財力に乏しくとも情報に聡ければ魔物が出ない安全なルートを割り出せる、と考えている。


 不遜な考え方だが、迫りくる問題に、正面から正々堂々向かう必要は無いのだ。

 大切なのは能力の分配。真っ向から解決できない問題には、自らの能力を問題解決のための分野に適切に配分すればいいだけのこと。要は、裁量だ。能力を上手く裁量できれば、最適な行動が取れ、問題の解決に近付く。

 それが1度で解決できないことならば、複数回に渡って布石を打ち、結果を手に入れれば良い。

 無理なら無理で、かわしてしまえばいいとさえ思う。諦めて他の方法を視野に入れるのは、立派に裁量だ。


 だから今、マルドは思う。

 諦めるか、数度に渡って運べばいいのに、と。


「んぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬっ!!!!」

「いやもうどう見ても無理でしょ、それは」

「いいえっ、マルドン!! あっしの限界はここではありません!! こんな木箱のふたつやみっつ、容易く持ち上げて見せましょう!! って、あ、お騒がせしてます!!」


 自身の腰ほどの高さ。両手を精一杯広げてようやく抱きつけるほどの幅。

 どうしてできると思ったのか甚だ疑問だが、ティアと呼ばれていた少女、アルティア=ウィン=クーデフォンは重なった3つの木箱を持ち上げようとしていた。

 マグネシアス修道院の門前。

 一体いつから置かれていたのか、うず高く積まれた木箱を発見したのは、つい先ほど。この修道院の目覚まし時計の役割でも兼ねているのか、聞き覚えのある奇声に誘われて足を運んだときだった。


 一応男子禁制らしいこの修道院で、朝から堂々とうろつくのもどうかと思ったが事情が事情だ。

 同じく何事かと飛び出してきた修道院の面々に驚かれはしたものの、呆れたような表情で微笑まれただけだった。

 飛び出してきた彼女たちの様子を見るに、ティアのあれは今に始まったことではないらしい。

 その元気を上手く分配できれば、筋力に乏しくとも3往復するぐらい訳は無いと思うのだが。


「えっと、あれは何故こんなところに?」

「ああ、きっとカイラさんが運んで来たんですよ。そっか、今日その日だったんだ。そろそろだとは思ってたんですけどね」


 数人横並びになっていた集団に声をかけると、その内ひとりが答えてくれた。

 修道服をびっしりと着込んだ名前も知らない若い女性だ。その他の女性たちも全く同じ服装なので初見ではなかなか区別できない。

 だが、昨日訪ねてきたカイラとは違い、どうやら普通に話せるらしかった。


「ふぅん、そのカイラさんはどこに行ったのかな」

「うーん、いつもなら部屋まで呼びに来てくれるのに」


 ほとんど独り言のような言葉も拾って返してくれた。言葉にも棘が無い。どうやら自分はここにいて良いようだ。

 昨日注意された手前、彼女たちも何か言ってくるかと思ったが、どうやらこの修道院にはルーズな人間もいるらしい。

 最奥のひとりが笑いながらからかうように『ティアちゃんファイトー!!』と叫んでいるところを見ると、修道院といえども年相応、ということか。

 ティアもそれに答えてさらに力を込めたところで、流石に危ないと察してマルドは木箱に手を添えた。

 彼女の方も力を抜き、真っ赤になった手で頭をかいた。


「あ、言ってませんでした、おはようございます。今日はいい天気ですね、マルドン!」

「うん、俺も言ってなかったけどマルドンは止めようか」

「えっ、じゃあ、別の何かを考えた方が……」

「……」


 愛称以外で人を呼ぶことは心情に反するのだろうか。

 ティアという少女とあまり会話をしたことは無かったが、あのエリサス=アーティにこういう仲間がいると聞いた記憶がある。

 ともすると原型が留まっている今の方がマシかもしれない。

 マルドが曖昧な笑みを浮かべて首を振ると、ティアはにっこりと笑った。


「ではマルドン、ありがとうございました。いっやー結構重いですよこれ。あっし、もう……手が……。すっごい量ですね、何十人分でしょう?」

「そりゃこれだけ大きい施設だしね。まあ、休んでなって。それより、カイラさんは? 荷物を分けて運んでいるのかな?」

「あ、そうかもしれませんね。はっ!? ということは、ここで待っていればワイズに逢えるということですか!!」


 それはこっちが訊きたかった。

 マルドは首を傾げた。

 どうやらティアは、カイラに頼まれて奇声を上げていたわけではないらしい。

 となると彼女はどこにいるのだろう。人を呼びに中に入って入れ違いになったのだろうか。


「くぅ、しかし、失敗しました。みなさんがいない間に全部運んで驚かせようとしたのですが……」


 何故あの大声でばれないと思ったのか。この少女の頭の中身にレスハート山脈を超える寒さの恐怖を覚え、マルドは気を取り直して木箱を叩いた。

 重い感触がした。随分と中が詰っている。

 そして数は多い。


「とりあえず、これは中に運べばいいのかな?」

「あ、助かります!」


 待っていたと言わんばかりの笑顔で修道院の女性が答えた。

 邪険に扱われなかったのもそれが事情かもしれない。

 彼女たちの筋力不足を、自分を利用することで補ったわけか、とそこまで考え、爽やかな朝には相応しくない思考だとマルドは首を振った。

 それに、こちらとしてもありがたい。

 不穏な臭いのするこの場所で、誰かから情報を得られる貴重な機会だ。


「これ、どこまで運べばいいのかな?」

「あ、ご案内します」


 修道院の女性は手慣れた様子で小さな木箱をひとつ抱えると、優しく微笑んだ。

 マルドは重そうな木箱をみっつ抱え、小さく呟いてから持ち上げると、女性についていく。

 重さはほとんど感じない。


「わあ、男の人がいると、やっぱり助かります」


 正門まで進んで振り返った修道院の女性が、愛想良く微笑んだ。

 訂正するのも面倒だ、マルドは曖昧に笑みを返した。


 木箱の格納庫は、正面聖堂に入って右奥の通路の先に在るらしい。

 このマグネシアス修道院の構造は、誤解を招く表現だろうが夜な夜な徘徊し、大まかに把握している。

 山をくり抜いて造られたマグネシアス修道院は、上空からは山の中にすっぽりと隠れて見えるだろう。奥行きは不明だが、横幅数百メートル程度の施設だ。住居スペースを考えると地下階もあるかもしれない。その辺りは、エリーやティアあたりに訊けば分かることだろうが、丁度いい。

 おぼろげに想定している施設の内情を知る良い機会だ。


「この建物って、面白い構造してるよね。地下とかあるんだ、山なのに」

「え、ええ、そうですね。私も初めて来たときは驚きました」


 やはり、地下階はあるらしい。


「というと、君の生まれはここじゃないんだ」

「はい。去年……になるのかな、私が来たのは」


 思わず理由を訊ねそうになったが、僅かに目を伏せた様子を見て止めた。

 不幸であることは平凡。そう言われるほど、モルオールは不幸に溢れている。


「ここに入るのって結構自由なんだ」

「ええ、そうですね、割と融通聞きますよ。修道院って聞くと結構堅苦しいイメージですけど、決まった集会とかは上の人たちしかやってないし。そうそう、その上の人ですけど、ここの修道院長。めちゃめちゃ怖いって評判ですよ。あのカイラさんですら苦手意識持ってるみたいですし」


 実際にあったマルドは、そんな印象は受けなかった。

 この修道院の最初の夜、聖堂で祈りを捧げていたらしい彼女と出会ったが、慈愛に満ちた笑みでマルドの話を聞いていた記憶がある。

 もっともあれがあるべき修道院の形としてなら、その厳粛さが身内に向かえば厳しいのかもしれない。

 完璧な笑顔の対応の裏には涙がある、ということだろうか。


「上の人たちって、やっぱり皆厳しいのかな?」

「さあ……、私は会ったことありませんね。というか、実はほとんど知りません」


 なるほどかなり、適当らしい。


「ま、でも。仕事さえしてれば、結構自由ですよ。私は決まった言いつけとかほとんど無いですし」


 起床時間と消灯時間は流石に決まっていますけどね、と彼女は続けた。

 少し予想を裏切られた。

 きっとあの修道院長の元、全員が集結して聖堂で祈りでも捧げているのかと思ったのだが、違うのか。

 どうやら妙な先入観に捉われていたらしい。

 それはそうか。ここは―――墓なのだった。


「……ここって随分大きいけど、いつ頃からあるのかな」

「私も詳しくは……。ただ、私が幼かった頃から歴史ある建物だって噂は聞いていましたよ」


 彼女は見た目以上に年輩なのかもしれない。

 だが、その程度のことならばマルドも知っている。

 傍から見れば気分屋にしか見えないあの『剣』がここを目指してからある程度の情報は集めた。

 残念ながら、“勇者様”の噂が強過ぎて思うように集められなかったのだが。


「でも、国が随分援助している場所だと。そうでなければ、私もここへ来ることになりませんでしたから」


 その言い回しには、無視をした。


「もともと関所のつもりなんだっけ、ここ」

「? 知っているんですか?」

「少しだけね。巡り巡って修道院になったのは何でだろうねぇ」

「ええ、何故でしょうね」


 マルドは嘘を吐いた。概ね知っており、予想もある。


 この修道院は、墓標だ。

 レスハート山脈だけでなく、モルオール大陸全ての墓標。

 そして同時に、避難所でもある。


 目の前の彼女のように、何らかの事情でここを訪れる者は、本当の命が絶たれる前に、自ら進んで墓標に入る。

 モルオールは大陸にいられない者への避難所として、このマグネシアス修道院を造り上げた。

 訪れる人間は様々だ。

 あらゆる主義思想を持つ数多の人々。そんな者たちがひとつの場所に留まることなどできはしない。

 そう。人はあらゆることを思想する。マルド=サダル=ソーグはそう思う。

 だが一方で、それを縛るものがあることを知っていた。


 “しきたり”。


 一般人では決して相対することのない、天上の存在―――“神族”。

 彼らが言う“しきたり”には、伸びる枝の方向を縛り上げる力がある。大木を切り倒すでも、身を守るでも、避けるでもなく、方向そのものを縛り付ける。

 そういう意味でも、神の教えを遵守する修道院は適任だ。

 そして、男子禁制のこの空間が、栄えることは決して無いという意味でも。


 子孫は産まれず、逃げ惑う女性のみが入ることを許されたこの墓場に、モルオールは援助を続けているのだという。

 手は打てない。大昔からあるこの修道院というシステムに、手を差し伸べる余力はモルオールに無い。現状を、ただ回すしかないのだ。

 どうあっても止まらない。


 ここに未来が無いことを知ったら、目の前の彼女はどう思うだろう。例えそれが、いずれ分かることだとしても。


「“過酷”だねぇ、どうも」

「はい?」

「いいや、何でも。それより手が痺れてきた」

「あああ、はい、ここ、ここです!!」


 大慌てで女性は突き当りの古びた扉を開けた。

 印象とは違い、カビ臭くない。


 マルドは指定された置き場にゆっくりと木箱を重ねた。またつまらない嘘を吐いてしまった。

 少量の光源で見えにくかったが、奥は随分と広いらしい。この反対の廊下を歩いていたときに見つけた妙な出っ張りはこのせいだろう。

 今から後何往復したら荷運びは終わるだろうか。


 マルドは額の汗を拭く素振りをし、そこでようやく自分が何の情報も得ていないことに気付いた。

 どうかしている。


「そういえばさ、ここって何人くらい人がいるのかな。随分な大荷物だから」


 女性は、マルドの顔を見返し、首を傾げて木箱を見た。

 今しがたマルドが運んできた荷物だ。


 すると女性は、眉をしかめた。


「え、ええっと、あれ、そういえば多いですね。お客さんでも来るのかしら。この修道院にはせいぜい十数人程度しかいないのに」


 マジックアイテムが照らす女性のぼんやりとした顔に、ぞっとするほど寒くなった。


―――***―――


「ひっ、す、少しは行動を改めて下さい!! もしかしたら、大変歴史的価値のあるものなのかもしれないのですよ!!」


 開かない棚を蹴り壊したくらいで何を言う。

 スライク=キース=ガイロードは背後でヒステリックな声を上げる女性に辟易していた。


 どれほど貴重なものであろうが、誰にも認知されないのでは存在しないのと変わらない。 

 この腰に下がった剣と同じように、例えどれほどの価値があろうが、目で見て手を伸ばさなければ所詮、物は物だ。

 そういう意味では、廃れ果てているこの場所は、久方ぶりに存在するこの意味を取り戻したのかもしれない。

 認識されて、初めて物は存在となる。


 スライク=キース=ガイロードとカイラ=キッド=ウルグスの両名は、スライクの記憶にあったセリレ・アトルス出現地を訪れていた。

 カイラの操る召喚獣・ワイズは移動能力に長けており、驚異的な速度で目標地点に到達したものの、結局細かい調査はしらみ潰しに行うことになる。

 早朝から始まった調査は昼となり、スライクの忍耐が頂点に達しかけた頃、ひとつ、妙な洞穴を発見した。


 それがこの―――“研究所”だ。


 今まで見てきたどの洞穴よりも広い。岩が崩れて塞がりかけていた入口を強引に通り、妙に入り組んだ狭い通路を進んだ先、向かいの壁も見えないほど“ごっそり”と空いた部屋は、奇妙な物品や書物で埋め尽くされていた。

 天井は気の遠くなるほど高いようで、照明具を用いても存在を確認できない。階段はあるようだが、灯りで追えた限り山の中身を大回りするような螺旋階段で、傾斜も緩く、律儀に登ろうとは到底思えなかった。もっともその螺旋階段は、壁中に配置された無数の本棚をなぞるように回っており、本来の用途は足場であるようだが。

 スライクは当然のように踏んではいるが、足元にも足の踏み場も無いほど紙類が乱雑している。カイラが通路を確保しようと几帳面にも丁寧に重ねて除けているそれらは、恐らく無数の本棚から落下してきたものだろう。

 スライクは旅の道中、膨大な資料が格納されている図書館があり、幾重にも積み重なれた本棚に書物が敷き詰められていると聞いた覚えがある。

 そのときこんな空間を想像したが、恐らくこの場所は、書物の数も文字の数も、図書館をゆうに超えているであろう。山の中身を丸ごと削り取って書物をギチギチに詰め込んだようなここが相手では、流石に建物では分が悪い。適当に突っ込んだとしか思えないこの場所の保存方法では、図書館は名乗れないであろうが。


 そう、決して名乗ることはできない。

 ここはあくまで“研究所”だ。


 この星の数ほどの書物は、この空間の主役足りえない。


 この空間の主賓は―――中央の、“物体”。


「これは……一体……?」


 書物を除けることを結局断念したらしいカイラは、書物を踏み越え、ようやく中央付近に設置してある『卵』に辿り着いた。

 大きさは、人がふたり手を回してようやく囲えるほど。部屋の巨大さに錯覚させられるが異質なほど巨大だ。

 色は黒ずんでいるが、形状は真円“だった”のであろう。本来転がりにくい形状をしているものだが、『卵』は台座の上で固定されており、微動だにしない。

 そしてその周囲には、“本棚ごと”資料を集めたのか、砕かれた木片が書物とともに散らばっている。他にも正体不明の野太く黒い紐や四角い板が転がっているが、まともな形状を保っているとは思えなかった。唯一あるままの形であったのだろうくすんだ棚も、スライクの“開封”で書物と共に散乱していた。


 そして、『卵』は。


「……中、いませんね」


 『卵』のほぼ真横に空いた穴を、恐る恐る覗き込んだカイラは険しい顔付きで呟いた。

 彼女も直感的に、『卵』は何らかの箱ではなく、生物の卵だと察したようだ。そう考えると、ここにある無数の書物は、装置は、この中身のためだけにここに集められたかのように思える。

 いかに異質とは言え、こうした光景を見ると、思いつくのは“生物実験”。

 “しきたり”で強く禁じられている、忌むべき“探求”だ。


 実行したのは、神をも恐れぬ人か、あるいは。


「し、信じられません。まさかこのレスハート山脈にこんな場所があるなんて……。わたくしの知らぬ間に、こんなことが行われていたなんて……」

「てめぇは前世の記憶でも引き継いでんのか。どう考えてもお前が生まれる前のことだ」


 生々しさが完全に消え失せた『卵』を流し見て、スライクは足元に散らばった紙類を睨むように目で追った。

 何らかの文字が書いてあるようだが、擦り切れているのか、はたまた最初からそうなのか、ほとんど読み解くことができなかった。

 一瞬“裏側”から何かが降りてこようとしたが、鬱陶しくて跳ね飛ばした。


「おい、修道女」

「カ、イ、ラ。カイラです!」

「お前その辺のゴミの文字が読めるか」

「ゴッ、……いえ、それよりも、わたくしの名前はカイラ=キッド=ウルグスです! 昨日お教えしましたよね?」

「読めねぇならいい。ここにいても時間の無駄だ」

「~~~!! 読みます、読んでみせますとも!!」


 ほとんど期待せずに言ってみただけだったのだが、思ったよりも面倒なことになった。

 カイラはしゃがみ込むと、意地になっているのか必死に解読可能な紙類を探し始めた。

 スライクは最後に周囲を流し見て、この女ならば放っておけば修道院に帰るかと結論付けた。

 そしてさらに奥へ進む。入口の対面は、未だ調査をしていない。小さくだが風の音がする。もしかしたら穴でも空いているのかもしれない。


「ぁ……」

「あん?」


 思わず振り返ったところで、うずくまっているカイラと目が合った。


「……一応お訊きしますが、貴方、わたくしを置いていこうとしませんでしたか?」

「向こうに出口がありゃそうなっただけだ。それで、何を見つけた」

「い、いいでしょう。わたくしがいかに必要な人材であるかお教えします」


 拳を震わせ、わざとらしく咳払いをすると、カイラは1枚の廃れた用紙を持ち上げた。


「こちらの資料を解読したところ、恐らくここでは生物実験が行われていた可能性があります」

「色々と曖昧なこと言ってんなぁ、おい。お前、そいつが読めるんだろうな」

「うぐ……。で、ですが、一応、ニュアンスのようなものは分かります。魔法を解読するような感覚ですが。飛ばし飛ばしですが、認識できる文字がちらほらと。この資料は、実験が成功した場合の効果について記されているようです」


 役に立たなそうならそのまま歩き出すつもりだったが、思った以上に使えそうだった。信じがたい速度で理解不能の文字列を解析している。

 実験が成功した場合の効果。

 『卵』の中身が外に出ている可能性がある以上、それは今現在“引き寄せている”ことが何であるのかに直結する。


 スライクが億劫に歩み寄ると、カイラは再び目を落とした。紙類は、黒ずんでいるように見えるほど、文字で埋め尽くされていた。よくもまあそれを読む気になったものだ。


「認識…………意識……処理……確認…………歪み……置換。これって、何かの魔術でしょうか。冒頭は、“生物創造”から始まっているようですが、続いているのはこんな文字ばかりです。走り書きのようで、そもそも文字としては形が崩れすぎですが」

「ほう。思ったより読めてるじゃねぇか。続けろ」

「え、ま、まあ、わたくしは世界各地の儀式に精通してたりもしますからね。そこで使う解読不能な術式の解析なども、余暇があるときにしたりするんですよ。だからこうした、」

「何喜んでんだ。得意げになってねぇで続けろ」

「あ、貴方は、……ああ、もう。ええと、ですね。…………あら?」


 その資料の解読はこれ以上困難なのか、カイラは次なる資料に目を走らせた。

 そしてひとつの資料を慎重に取り上げ、首をかしげた。


「どうした」

「こちらの資料ですが……、やっぱり。文字の全ては読めませんが、なんだか……そう、同じようなことを書いてあるような……?」

「バックアップか」

「かもしれません……。……欠落……記憶……やはり、置換。そうですね、他は同じ……」


 スライクの想像以上に、カイラは優秀らしかった。こうなればこの女をしばらくここで解析に没頭させて、自分は奥を見に行った方が効率的だと判断すると、カイラはさりげなくスライクのズボンの裾を掴んできた。逃がさないつもりらしい。


「あら?」


 蹴り飛ばしてやろうかと思い至ったところで、カイラは小さく声を上げた。

 運のいい女だ。


「要所要所に出てきていたんですが、中々分からなかった単語が解読できました。両方の資料に登場しています」


 カイラはスライクの裾を離し、立ち上がると、2枚の資料をスライクにかざしてきた。

 見せられても読む気はない。


「読んでいるとどうも認識誤認の魔術……そうですね、感覚妨害の水曜魔術・バーディングを連想させますが、文脈の中に異質の文字があります」

「……何だ」

「“太陽”です。文章で続けると……太陽が、隠れる……置換……。『日蝕』、でしょうか。“太陽が置換する”……? 太陽を、かもしれませんが……。太陽といえば……“セリレ・アトルス”。まさか、ここで創造されていたのは、セリレ・アトルス……? 太陽が……太陽を、押しのける……? その表現が主語に使われているようです。セリレ・アトルスは、『日蝕』として表現されている……? 『日蝕』が、セリレ・アトルスが……認識、処理……上書きする……?」


 たどたどしく解読を続けるカイラの言葉で、スライクの脳裏に、何かが掠めた。

 普段は切り捨てている“裏側”の感覚の残滓が、不運にもスライクの意識に触れてしまったらしい。

 小さく舌打ちすると、スライクは呟く。そしてその呟きは、文脈を解読したカイラと重なった。


「“『日蝕』が記憶を上書きする”」


―――***―――


「今夜はここで夜を明かすことになりですね」

「ああ、そうだな」

「思ったよりも進行速度が遅いです。逸れたふたりのいるという修道院はまだ見えませんし」

「ああ、そうだな」

「……まあ、どの道、彼らに付いていかなければ危険は危険か。今日は晴れているが、昨日の夜も同じようだった気がする」

「ああ、そうだな」

「…………あーきーらー。あ~き~ら~。……。……ふう、聞こえてない、か」

「……聞こえてるよ。どうやら俺は、考えながら人の歌を聞けるようになったらしい。さ~く~らー~」

「き……、聞いていたの……、か」


 ヒダマリ=アキラは腰かけていた岩からゆっくりと立ち上がった。

 レスハート山脈を照らす太陽は赤みを帯び、今にも山の向こうへ消えて行きそうだ。

 住居調査団の4名は、アキラたちの背後の洞穴で寝食の準備をしている。そのうちひとりは穴の前で火の用意をしていた。

 洞穴の中では女性であるサクを気遣って寝具の位置取りを決めているらしいが、あの狭い穴の中がどのように改造されるかアキラには想像もつかない。だが、ここは彼らの経験則に委ねよう。

 彼らだけに準備をさせるのは気が引けるが、アキラなど邪魔なだけであろうし、仕事を手伝ってもらったお礼もしたいそうだ。すっかり客人扱いとなってしまった。どうやらサクのアキラへの態度は、リーダーと思われる年輩の男だけでは無く、他の面々にも誤解を生んでいるらしい。


「なんだ、もう歌ってくれないのか?」

「泣き声なら上げられそうな気がする」

「は?」


 ミツルギ=サクラはうずくまって雪の粒を数えているかのようだった。

 ようやく顔を上げると、じっとりとした瞳でアキラを見上げてきた。


「お前、卑怯だぞ。悩んでいる風に装って、近付いたらこの仕打ちか」

「生返事してたのは謝るけどお前が歌い始めたんじゃないか」


 サクは再び顔を伏せた。もう触れない方が良いのかもしれない。

 だが悩んでいた、か。自分はどうやら随分と顔に出やすいらしい。

 いや、もしかしたらそれだけ旅を続けてきたということか。以前なら、何をぼうっとしているんだ、くらい言われていたかもしれない。


「……なあ、アキラ」


 サクは顔を伏せたまま、呟き声のようなものを漏らした。


「私は多分、ものすごく変なことを訊くかもしれない」

「歌うんじゃなくてか?」

「お前はっ!! ……その、だな」


 勢いの余り立ち上がり、サクは目を逸らした。火を起こしている男がこちらを見た気がして、何となくアキラはサクを視界から隠した。


「……敬われるのと蔑まれるのはどっちが良い?」

「お前は何を言っているんだ」


 もしかしたら本日最大の違和感は彼女かもしれない。

 多分自分は、先ほどの年輩の男以上に、あっけにとられた表情を浮かべている。

 その2択で後者を選ぶほど、自分は特殊では無いと信じだたい。


「ああ~、ええっと、違う。そうじゃなくて、だな。もういい、言おう。その、だな。迷うんだよ、お前への接し方に。今さらながら」


 たどたどしいサクの言葉の意味を、アキラはなんとなく拾えた。

 彼女が言っているのは、きっと、第三者の前での自分への接し方のことだろう。

 “あれから”、ひと月ほどふたり旅をしているが、他者がいるのはこれが初めて。

 吹っ切れているようで、彼女は彼女で揺らいでいたようだ。


 そこまで察して、アキラは拳を振るわせた。


「お前は普段、俺を蔑んでいたのか……!?」

「それは違う、誤解だ。精々数じゅっ……、いや、だが、3ケタには届いていない。決してだ。それに最近はそれほどでも無いしな」

「お前のフォローはほんっとに下手だということが分かった」


 根が正直というのはこういうものか。

 今、全力で泣き声を上げれば彼らの前では従者で通っているサクにとって辛い展開になるだろうが、流石に陰湿すぎるので止めておいた。


「自覚はしてるよ。でも、嘘じゃないさ。最近は、そうだな、立派になった。と、思う」


 サクは目を逸らしたまま呟き、そしてゆっくりと視線を合わせてきた。


「だから、訊きたいんだ。お前は、私にどういう私でいて欲しい? 中々態度を使い分けるのは難しいんだ。いずれの私でも、お前への忠義は変わらないよ」

「さっき普段通りでいてくれって言ったこと、まだ気にしてたのか」

「…………まあ、実はそうだ。お前は今まで通りが良いらしいが、お前は主君で、私は従者。私も私で切り替えるのが難しくてな。だけど、お前が意向に合わないことは、うん、するわけにはいかない」

「…………お前に任せる」


 アキラは、答えを変えた。


「おい」

「違うって。適当に言ったわけじゃない」


 もう機会は無いかもしれないほど稀有なことを自分は今している。だけどたまには年上らしいことをするべきだろう。


 結局彼女は、自分と同じだ。

 彼女が過去に嫌った関係の変化。その中に、正しい距離感を見出すことができない。

 アキラも分からない。彼女と同じで、迷走中だ。

 だけどこれを自分が決めたら、結局サクは何も得られないことだけは分かる。

 これは経験則だ。

 何かに総てを任せることは、大層楽だ。だけどその結末を自分は良く知っている。


 物語に総てを任せた自分は、物語を恨むことしかできなかったのだから。


「お前が決めたお前の距離感なら、誰も後悔しないよ」


 やはり目を合わせては言えなかった。

 アキラはサクに背を向けた。夕食の準備は佳境らしい。洞穴の中から別の男が鍋のようなものを抱えて現れた。


「なあアキラ」

「ん?」

「これからもずっと、旅をしよう」


 妙に優しい声に、アキラは手を振って応えた。

 そうだ。そんな日常を積み重ねて行こう。そうすれば、こんな違和感は、時と共に消えていくものだ。


 それから。

 メインディッシュらしい鍋の準備を待たずに、アキラたちは火の回りに座り込んだ。リーダー格の年輩の男も座り込み、時間にしては早めの夕食が始まる。

 明日も調査は行われるだろう。


 あとは、ゆっくりと、この日常を、


 ……?


 アキラがふと顔を上げると、火を囲って座るサクと、住居調査団の3人が目に入る。そして、配膳が終わり―――


「……、……、」


 その光景に、アキラは妙な焦燥感にかられた。このまま時間を進めることに、強烈な危機感を覚える。


 分からない。また違和感だ。

 いや、違う。


 “自分はこれを違和感程度にしてはならない”。


「あの」


 アキラは急かされるように口を開いた。

 サクも自分の突然の様子に目を丸くしていた。


 本当にこれは“異常”なのだろうか。

 あまりに自然すぎる全員の表情に、アキラは震え、そして言葉を紡ぐ。


「ま、“待たなくてもいいんですか”……?」

「は?」


 火を起こしていた男から声が漏れた。

 他の面々も口にこそ出さないが同じ表情をしている。


「ええっと、仰っている意味が、」


 駄目だ。“彼らにはもう分からない”。サクの表情も、彼らと変わらなかった。

 アキラは突如として立ち上がり、洞穴を睨んだ。

 今現在の自分だからこそ、この異常を感じ取れる。

 数秒後には消えゆくかもしれないこの感覚を、決して離してはならない。


 アキラは洞穴に駆け出し、中を覗き込んだ。

 そして。


「アキラ? 何だ、何が起きた?」


 背後からサクの声が聞こえた。即座に追いついたらしい。

 それでもアキラは視線を鋭く室内に突き刺す。

 灯りを点けて見渡せば、思ったよりも広いようだった。

 下るような入り口から、僅かに折れ曲がった先、開けた空間がある。やはり巣として使われていた方が相応しい形状だ。

 中央を囲うように寝具が展開し、僅かに離れた所にひとつ。あれはサクのためのものだろう。

 だが、その数は。


「……な、なあサク。確認させてくれ」

「どうした?」

「俺の記憶だけが、他の事実と一致しない」

「は?」


 住居調査団の面々も何事かと駆けつけてくる。

 人が密集した空洞で、ほんのりと灯った光源の中、アキラだけが焦っていた。


「少なくとも。少なくともだ。今日昼に、そうだな、1回目の土地の調査を手伝ったときのことだ」

「あ、ああ」


 アキラは喉を鳴らし、呟いた。


「あのときあの場所にいたのは、全部で何人だった?」


―――***―――


「ふぅ、やっと着いた」

「それ、なに?」

「この修道院のメンバーの名簿さ。入居のときに記録するらしい。以前は足を踏み入れた人全員分とっていたらしいし、歴代分だから、数があったけど」


 ボスン、とマルド=サダル=ソーグは一抱えほどもある複数の書物をベッドの上に重ね上げた。


「とりあえず、足がかりになる」

「これで何が知りたいの?」


 “遭難者”にあてがわれた一室。マルドが広げた資料をベッドの上から覗き込むのはキュール=マグウェルという幼い少女だ。

 険しい顔をして資料に目を走らせているキュールを見て、マルドは小さく微笑んだ。

 ここにあるのはマグネシアス修道院の歴史書だ。名前のリストだけならまだしも、世辞にも話が飛んでいるせいでたいそう分厚くなっている。読んでいるだけで頭が痛くなる代物だ。文字も満足に読めないであろうに随分と熱心である。

 もっとも、珍しく言いつけを守り、日が昇ってから落ちるまで部屋で待機していたせいで鬱憤が溜まっているのかもしれないが。


「俺が知りたいのはここで“異常”が起きるとして、一体何が引き起こされるのかさ。結果が分かれば過程も想像がつく。上手くいけば“こと”が大きくなる前に元凶を叩けるかもしれない。―――もう、手遅れかもしれないけどね」

「?」


 1日部屋の中にいた彼女には何を言っているか分からないだろう。

 この“異常”は、疑念を持って、修道院を巡り、職員と言葉を交わしてようやく見えてくる。


 朝の荷運びが終わり、マルドはまず、今までこの修道院に運び込まれた積み荷の確認作業に入った。

 あのカイラ=キッド=ウルグスはかなりの几帳面な性格のようで、今まで行った運搬の記録を全て保管していた。

 その記録を照らし合わせて調査すると、まず目を引いたのは過剰な運搬量。

 これだけ大きい施設なのだから妥当なのかもしれないが、運搬頻度と照らし合わせてみれば、どう贔屓目に見ても百人分はある。

 災害時の保存分を勘案したとしても、高々十数人分の食料では決してなかった。

 実際食物庫を確認してみれば、消費されない食料がうず高く積まれていた。案内を頼んだ女性に訊いたところ、定期的に捨ててまでいるそうだ。


 そこでマルドは、修道院中を回り、職員たちに同じ質問をぶつけてみることにした。流石に居住スペースへの侵入は許されなかったが、やはりあのカイラという女性が厳しすぎたようで、職務中の女性たちはみな気軽に応じてくれた。


 マルドが見つけた職員は6名。

 その全てに、訊いたことは。


「なあキュール。この修道院、何人くらい働いていると思う?」

「? えっと、50人くらい?」

「ああ、それも“答えのひとつ”だったよ」

「どういうこと?」


 キュールは首をかしげて顔を近づけてきた。

 自分たちの旅の後を追ってきたときは警戒心剥き出しだったというのに、随分と親しくなれたものだ。

 こうして見るとどこにでもいる普通の幼子だ。

 “普通”を毛嫌いしていたような彼女だが、“普通”の強さを、“普通”の優しさを知って、少しずつ成長している。


 それはともかくとして。


「何人かに同じことを訊いたんだけど、答えは見事にばらばらだったよ。百人って答える人もいれば、十数人って答える人もいた。そして見えてきたのは、その人が認識している修道院メンバーの数は、その人の入居時期に対応している。サンプルは少ないけどね」


 例えば料理の下ごしらえをしていた女性。一昨年からこのマグネシアス修道院に勤め始めたという彼女は、この修道院の職員は20名程度と言った。

 例えば裏の川で水を汲んでいた女性。随分と貫禄があり、生まれも育ちもここだという老婆は、この修道院の職員は百名と言った。

 そして朝、荷運びを共に行った、去年からここに勤めているという彼女は、十数名と言った。


 年々、“認識されている人数が変わっている”。


「さすがにいろいろ混乱してきてね、とりあえず俺は、“この修道院にいる職員の平均的な人数”を調べることにした。人に訊いても答えはばらばら。住居スペースにも入れないとなれば、残るは記録を見るしかない。ここを去った人の記録があればよかったんだけど、どうやらどこにも無いらしい。だったら入居時期と年齢から割り出すしかない」

「手伝ってくれる人はいなかったの?」

「みんな忙しいらしいし、ちょっと試してみたけど駄目そうだ。同じ時期に入居した人の名前を突き付けてみても、首を傾げられるだけだったし。こっちが混乱しそうだ」


 そしてマルドは作業に入った。

 資料室にあった歴史書は数十冊にも及んでいたが、最新ナンバーから10冊。1冊30年分の資料だ。最新の資料は20年分ほどで、去年の入居者までしか記されていない。できれば今年のものも欲しいところだったが、まだ作成されていないらしい。作成者は、マグネシアス修道院の院長、ミルシア=マグネシアス。

 彼女にも話を訊きたいところだったが、修道院の中でも彼女の姿を見た者は極少数らしい。


 そして、概算は終わった。


「約80名。それが、毎年マグネシアス修道院にいるはずの人数だ。そして今も。つい最近大量退職でもあれば話は別だけどね」


 もっとも20名前後のブレはあるだろう。大分適当な概算だ。歴史の中には、もっと人数がいたこともあるかもしれない。

 そう、どうあっても、朝の彼女が言ったように十数人ではない。

 朝の話では、ここの職員は思ったよりも集団行動していないそうだが、それでも、およそ50人前後の人数を認識していないのは無理がある。


 やはり人は、いないのだ。


 であれば、去年からここで暮らす今朝の彼女の言葉のみを信じるならば、その差分、およそ50人前後の人は、一体どこに行ったのか。


 どこに―――“消えたのか”。


 この異常を、筋道を立てて考える。

 人が数十人単位で消失している。推測とはいえ、毎年平均80名の人数が存在するはずの修道院で20名程度しかいないのであれば、あまりに規定外の値だ。異常が発生しているのは間違いない。

 足りない人々がどこに消えたのかは不明。そして生死も不明だ。

 昼に職員に聞き出したことからして、職員は毎年逓減していると考えられる。


 それが、今回の異常。


 だが。


 マルドは目を瞑って黙考した。

 これは、本当に、何が起こっている。

 今自分が覚えている違和感の根拠は、言ってしまえば、ここの職員は共に働くメンバーの数を知らないだけ、ということだ。大量に発注され、大量に廃棄されている食料だけが、精々裏付けの物的証拠だろう。

 例えば人が消えたとすれば、仕事は増えるだろう、生活サイクルが乱れるだろう、普段の風景というものががらりと変わるだろう。

 そんな異常事態を、ただの小さな違和感としてしか処理できないような連中がここに集められたとでもいうのだろうか。そんな抜けた集団であればとっくに雪山に沈んでいる。

 大量に人が消失し、そして誰も認識していない方がよっぽど無理がある。


 例えば今朝の女性が、『えっ、数年前に疫病が流行ったんですか? 私共々新人たちは知りませんでした。住居スペースの奥にあるあの大部屋にその方たちが今も安静に暮していると……? 食事も喉を通らない? 大変、看病して差し上げないと』とでも言ってくれれば、肩透かしと共に安堵の息を吐けるというのに。


「ふぅ」


 マルドは息を吐いた。

 仮説はある。人が消えているという仮説が。だが裏付けは弱い。頭が痛くなってきた。


 マルドは何となく、この修道院で出会った人々を思い浮かべた。

 十人にも届かない、ごく少数。

 出会ったのは、確か、


 ……?


 何かが脳裏をかすめたが、それはすぐに消えていった。


 が。


「そういえば」

「どうしたの?」


 その小さな悪寒が、マルドの意識を覚醒させた。

 こんな感覚を、昨日味わった覚えがある。それが連動的に、とある人物を思い浮かばせた。


「今日いろいろ回ったのに……、エリサスさんって、どこに行ったんだ?」


 そこで、ドアが、吹き飛ぶように打ち抜かれた。


「こここここここんばんはっ!! あのっ、こちらにっ、うわっとキュルルンッ!?」

「ひっ!?」


 襲撃だった方がマシだったかも知れない。

 ぼうっとしているところにキュールに不意を突かれ、マルドはベッドに倒れ込んだ。

 マルドの腰の辺りを力の限り掴んで引いたキュールは、そのまま自身を庇うようにマルドを盾にする。

 この1日、姿が見えない赤毛の少女とは違い、このアルティア=ウィン=クーデフォンには行く先々で遭遇した。


「お久しぶりですっ!! なんですかぁっ、マルドンはキュルルンとお知り合いだったんじゃないですかっ!! 言って下さいよぉ、あっし、今日1日……とと、そんな場合じゃなかったんだった!!」

「ど、どうしたの?」


 恐る恐る顔を出したキュールはマルドを挟んでティアに応じた。

 するとティアは、未だ飛び込んできた勢いそのままに口を開いた。


「あっし、エリにゃん探しているんですが、って違う、エリにゃんを探しているのは確かなんですがそれはお知らせしたいことがあって、ってもう“無くなっちゃうかも”、ああっ、カーリャンもいないですし、あっしはこの大発見をどうしたら!?」

「何があったんだ?」


 落ち着きを取り戻せたマルドが低い声で訊くと、それに応じて落ち着いたのかティアも神妙な顔つきになった。


「こっち、です。こっちに来てください!! 今なら見える!! ああっ、急いでください!!」


 結局慌ててバタバタと駆け出すティアに、マルドはキュールの手を引いて続いた。

 そしてたどり着いたのはマグネシアス修道院の本堂と客間をつなげる長い廊下、その中央。巨大な窓が設置された踊り場だった。


 そしてそこからは、強い夕日が、差し込んでいた。


「…………、これか」

「はい」


 3人並んで窓から見上げた空には、太陽が浮かんでいた。

 レスハート山脈を照らす明るい光。

 マルドは愕然とした。これほど明らかに存在するのに、何故気づかなかったのか。


 その光源は、いつまでも、いつまでも浮かんでいそうな巨大な真円。

 もうとっくに―――日没は終わったはずなのに。


「エリサスさんと、あのカイラって人はいないのか」

「はい。あっし方々駆け回ったんですが……、おふたりとも見つからず」

「スライクもまだ戻ってきてないよな」

「うん、わたし、ずっと待っているのに」


 そっちは大丈夫か。

 この緊急事態に、呆けたような会話をしながら、マルドは静かに判断した。

 あの3人は“認識されている”。


 ならば次は、どうするか。


 3人並んで夕日を、“刻”をもっても沈まぬ太陽を見上げながら、マルドは静かにスイッチを入れた。


 “普通”は終了だ。

 ここから先、とらわれることは許されない。

 “あの色”を前には、足場の確認は死を意味する。

 先ほど自分が実現不可能と考えた認識の錯誤さえ、“あの色”は容易く実現するだろう。


「……とりあえず、すぐに探そう。エリサスさんたちを」


 ここで見上げていても始まらない。

 マルドは空を睨むと駆け出した。

 ティアとキュールも静かに走り出す。


 事は一刻を争う。


 “あれ”も何の目的もなく浮かんでいるわけではないだろう。

 賭けてもいい、今この瞬間、修道院に“異常”が引き起こされている。


 自分ができることはその防止。撃破は自分の役割ではない。


 だがマルドの頬には、嫌な汗が伝っていた。


 敵の出現だというのなら、それを打ち払う『剣』の出番だ。


 だが“あれ”は―――セリレ・アトルスは、巨大すぎる。


―――***―――


 その異変は、レスハート山脈の全てに伝わった。


「キャラ・ライトグリーン!!」

「行く気か!?」

「ああ!! サクは捜索を続けてくれ!!」


 腰を落とし、空を睨みつけたアキラは、サクの声に一も二も無く頷いた。


 人が消えた。

 姿も認識すらも失われたひとりを探し出すべく、調査団の面々を残して周囲を散策していたアキラとサクは、空に浮かび上がる異変にいやが上にも気づかされていた。

 即座に身体能力強化の魔術を施したアキラの身体から、僅かばかり日輪の色が漏れる。

 身体に魔術を施し、それが漏れるともなれば相当の魔力量を示すことになるが、そんな些細な成長は、夜空に浮かぶ日輪によって塗り潰されていた。


 サイズも、距離も、測定不能。

 目前にあるようにも、遥か虚空の彼方にあるようにも見えるそれは、あまりに巨大で、神々しくも禍々しく燃えていた。

 “太陽”。

 夜空に昇ってはならぬはずのそれは、レスハート山脈総てを支配しているようにも見えた。


「人が、消えたんだ!! それであんなもんが出てきたら、それはもう―――“俺の呪いのせいじゃねぇかよ”!!」


 その叫びは、直後、アキラが駆け出した爆音に塗り潰された。

 凍りついた木々、つもりに積もった雪、山々の景色が、高速の世界で流れていく。

 暗がりであるはずの獣道を駆け続け、アキラは一直線に“太陽”へ向かう。


 白い息を吐き出しながら、アキラは割れそうに痛む頭を振って、思考を働かせた。


 あれが、元凶。

 そう確信せざるを得ないほど、まざまざとした異変を見せつけられた。

 人の失踪と認識誤認の現象を目の当たりにして、アキラは真っ先に銀の魔族と結びつけたが、どうやら違うらしい。

 日輪の魔力色を持つあの巨大物体。

 生物なのかあるいは装置なのか正体は不明だが、アキラが多少なりとも慣れ親しんだこの世界の常識と照らし合わせると、あれは“在ってはならない色だ”。

 存在するらしい天界や魔界ではどうだかは知らないが、この世界の5大陸には存在しない。自然発生するとはどうしても考えられない。

 となると何かがその法則を捻じ曲げて、“あれを想像したことになる”。


 そして。

 逸れた仲間、エリーとティアのふたりは、タンガタンザに飛んだ自分たち同様、この山脈の“特定エリア”に飛ばされている。


 アキラは、歯が砕けるほど奥歯を噛んだ。

 空に浮かぶ異変を睨みながら、アキラは、叫ばずにはいられなかった。


「てめぇのせいじゃねぇだろうな―――“ガバイド”!!」


 そこで、ガグンと体が浮いた。


「お前もいたか。そりゃこうなるよなぁ、おい」

「ぐっ!?」


 肩をつかまれたと思ったら、身体が一瞬宙を舞い、背中を強く打ちつけた。

 慌てて体勢を立て直すと、凍てつく暴風が身体に叩きつけられる。

 吹き飛ばされぬように何とか身をかがめられたときには、アキラはレスハート山脈の夜空を飛んでいた。


「は!? は!?」

「ちょっと、貴方どういうおつもりですか!? いきなり高度を下げろと言ったり上げろと言ったり、って、ひっ!?」


 ようやく状況を認識できたアキラは、自分が何に乗っているのか気づかされた。

 夜空を矢のように走る、青く、巨大な飛行生物。

 ファンタジーの定番とも言えるこの生物は、この世界では見かける機会の少ない飛竜だ。

 水曜属性のスカイブルーの魔力色を宿し、巨大な翼で力強く飛翔しているが、敵意は感じられない。敵であれば本格的に絶望だったが、味方と判断しても良さそうだ。


 だが、それ以上に。

 共に飛竜の背に乗るふたりの人物を見つけた。

 自分のように錯乱している女性は飛竜の頭部付近に座っている。となるとこれはやはり召喚獣なのだろう。彼女が使役し、操っている。

 そしてもうひとり、腰を落とし、いつでも飛びかかれるような体勢で“太陽”を睨む巨大な男。


 スライク=キース=ガイロード。


 “世界を最期まで周った”アキラが認識している中でさえ、トップクラスの戦闘能力を保有する“もうひとり”だ。


「お、お前っ、」

「ぎゃあぎゃあ騒ぐな。修道女もだ。で、だ。てめぇ少しは使えるんだろうな?」

「……」


 スライクの、敵に向けるような視線をそのまま受けて、アキラは頷き返した。

 ズキリと頭が痛む。

 しばらくぶりの感触だ。


 “記憶の封が解けかけている”。


 以前彼と出逢ったときは吹き飛んだものだが、今回は随分と大人しい。

 もしかしたら時間と共に、封じ込められた記憶たちは薄れていっているのだろうか。


 だが今は、追想よりも目の前の現実だ。


 訊きたいことは山ほどあるが、今は飲み込み、現状を見つめよう。


 青い飛竜に乗る3人は高度を上げに上げ、高速で“太陽”へ飛んでいる。

 それで距離が詰められていないのは、彼我の圧倒的なサイズの差なのだろうか。

 ここまで来ると、仮に到着できたとして、一体何ができるのか。


「あの野郎、高度を上げてやがる」


 冷気と酸欠でまともに頭が働かない中、ひとり、正確に距離感を掴んでいるらしい男が呟いた。


「あれ、生物なのか!?」

「んなことはどうでもいい。どの道目障りだ。だが、“そろそろ斬り殺せなくなる”」

「?」

「う、ぐぅっ」


 飛竜の頭部付近に座っていた女性の身体が揺れた。

 体を震わせ、強風になびかせる腕には力が入っていないようだ。


 何故、と思うまでもなかった。

 一体どれほど高度を上げたのかは分からないが、地上とは別次元の冷気と気圧が彼女を襲っている。

 この高度を耐え切れるのは、属性柄耐性のあるアキラとスライクくらいなのだろう。


「も、もう戻るぞ!! 流石に限界だ。人間の居ていい高さじゃない!!」

「ち」


 女性の方を見もせずに目つきを鋭くしたスライクも限界を悟っているようだ。

 例えどれほど唯我独尊だとしても、自分たちをこの高さまで運んだ召喚獣の術者が倒れればどうなるかは子供でも分かる。


「ま、まだ、行けます!!」


 しかし、当の本人は応じなかった。

 振り返りもせず、這いつくばるような姿勢になった女性は口だけ動かし、叫び声を上げた。

 身体を震わせながら、それでも、顔だけは“太陽”へ向けて飛翔を続ける。


「必ず、お連れ、します!!」


 アキラにはそれが、自分たちを巻き込んでの集団自殺にしか見えなかった。


「い、いや、いやいや、戻ろう!! 次の機会が絶対あるはずだ!! 次頑張ろう!!」


 アキラは、先ほど湧き上がった感情がすっかりこの空で冷まされていることを悟った。

 口から出るのは最早命乞いに近いが、その願いが聞き入れられることはなく高度は増していく。


「修道女!! やるならやるで、俺をそこまで届けてみせろ!!」

「言われ、なくても!!」


 スライクが叫び、召喚獣の女性が応じ、アキラは決して下を見ないように自分の無事を祈ったとき、“太陽”の光が一層強くなった。

 巨大すぎて現実感が無いが、どうやら到着が近いようだ。

 スライクはさらに腰を落とし、金色の眼を光らせながら腰の剣を抜き放った。


 見えたのは、そこまでだった。

 一瞬にして、周囲がカッとした光に包まれる。

 まともに目も開けない煌々とした“太陽”付近は、これだけの光源を放っているのに、灼熱地獄どころか温かさすら感じられなかった。


 不気味。

 圧倒的な不快感が身体を襲う。


 頭が割れそうに痛む。そして、感じる。


 これは―――“セリレ・アトルス”は、決して神々しい太陽などではなく、もっと歪で、禍々しい、悪しき化身だ。


「おい勇者!! どこでもいい!! 港町の雑魚に使った技で切り付けろ!!」

「は!?」


 言うが早いか“太陽”の光の中、スライクの気配が殺気に変わった。

 アキラは立ち上がり、感覚の薄れた手で言われた通りに剣を振り抜いたが、光が強くて結果は分からない。

 まるで前が見えない。

 目の前にいたはずのこの飛竜を使役する女性の背中すら、認識できなかった。


「……ち」


 舌打ちが聞こえた。

 光が強すぎる。何も見えない。

 おそらく攻撃を仕掛けたのであろうスライクは、果たして成功したのだろうか。


「おい、どうだった」

「言われた通りに振ったけど、何にも分からねぇよ!! つーか当たったのかさえ分からない!!」

「……ほう」


 罵られても怒鳴り返そうと思っていたアキラは、スライクの返答に肩透かしを喰らった。

 何とか現状の把握に努めようとアキラは光に耐え、片目をこじ開けたところで、スライクの姿が目に入る。

 彼は、巨大な剣を真横に伸ばし、気配を尖らせていた。


 何かを狙っている。


 その瞬間、アキラは思わず、戦闘態勢に入っていた。

 鋭く突き刺さるように尖った殺気に、全身に警鐘を鳴らす強い危機感。


 触れることすら許されない大剣が、手を伸ばせば届きそうな場所にある。

 生物的に、アキラは目の前の剣が恐ろしかった。


 だが次の瞬間―――光が、消えた。


「―――!?」


 一瞬にして空が星の世界に戻る。

 余波なのか、暴風が吹き荒れ、巨大な“何か”が地上へ落ちて行った。

 今度は暗闇になれることを強いられた瞳は、その何かを捉えることなどできなかった。


「……お、おい、倒したのか?」

「勝手に逃げてっただけだろうな。やることやり終わっただけかもしれねぇがな」


 目を慣らしながら、アキラはスライクが大剣を腰に下げているのを見た。

 戦闘は、いや、戦闘と言えるかどうかさえ不確かな、未知の生命体だか物体だかとの邂逅は終わった。

 曖昧なものが曖昧なままで終わった。


「おい、修道女。戻るぞ」

「え、ええ、ちゃんと、できた、でしょう?」

「当然だ」

「少し、は、ねぎらう、もの、でしょうが」


 高度を下げていく青い飛竜の背の上で、ふたりのやり取りを聞きながら、アキラはまがい物の太陽が消えた星空を見上げて呟いた。


「俺、超部外者」


―――***―――


「17人? たったそれだけか」

「でもでもマルドン、あっしたちにも入れない部屋はいくつかあります。もしかしたらみなさんそこにいるんじゃないですかね」

「わたし、いくつかこっそり入ってみたけど誰もいなかったよ」


 マグネシアス修道院の聖堂で、マルド=サダル=ソーグはアルティア=ウィン=クーデフォンの報告を受けていた。もっとも、正確な内容はキュール=マグウェルのみから伝わってきた気がするが。

 事態が事態だけに早急に人数の把握をする必要があったマルドは、消灯時間が過ぎた職員たちの寝室にティアとキュールを派遣し、直接数を数えてもらった。

 あいまいな返答は一切認めず、直接目で見た人数だけをカウントした結果がこれだ。

 詳しいことは、ティアには伝えていない。

 今日一日見て分かったことは、事態を伝えようものならこの少女は雪山を駆けずり回ってでも探し始めかねないということだ。


 しかし、17人とは。

 あくまで想定した人数だが、この修道院には少なくとも百名近くの人間がいるはずだ。

 確認した人数が多少不確かでも、それだけ膨大な人数が消えたとは未だに信じがたい。集団生活の中、それだけの人数が消失すれば、必ずどこかに異変が起きる。

 だがそれほど強烈な異変でも、“あの色”を前には薄れてしまうというのだろうか。

 今までマルドが旅した中でも、こうした異変は確かにあった。自分が今日まで当たり前にしてきたことが捻じ曲げられるような痛烈な変化があったとしても、各々“自分の都合のいいように”解釈し、そのままそれは日常となっていく。そんな恐怖に知らざるうちに侵されている人々は確かにいた。

 さすがに今回ほどの規模ではなかったのだが。


 マルドは目頭を摘まんだ。

 まるで悪夢を見ているようだ。

 現在自分が認識していることさえ不確かな、宙に浮かんでいるような気分になる。着地する場所を間違えれば、今自分が抱いている疑念すらも消失してしまいそうだった。


 セリレ・アトルスはすでに夜空から消えている。打てる手は、現状ではあまり無い。強烈な異常の発生に、立ちくらみがする。

 しかし思考の停止は、マルドには許されなかった。


「……そうだ。エリサスさん」


 ふと、思い起こした。

 “いないことを認識していたから”軽視していたが、結局彼女を見つけていないではないか。

 修道院の中にいなかったとなると、外にいるのだろうか。

 マルドは、はっとして聖堂の扉に視線を走らせた。


 “あれほどの異常が起きて、外から戻ってこないとはどういうことか”。


 そこで、過剰に反応した者がいた。


「エリにゃ―――とととぉっ!?」


 先読みして服を掴んでおいて良かった。

 真っ先に駈け出そうとしたティアは、首輪付きの猛獣のようにつんのめり、聖堂の床に無様に転ぶ。そのまま滑っていくところを見るに相当な勢いだったようだ。

 悪いことをしたとは思ったが、彼女をこのまま行かせるわけにはいかない。


「ぅぅ、マッ、マルドン!! 何するんですかぁっ!! そうですそうですエリにゃんです!! こんな時間まで戻ってこないなんて大変です!! あっし、探しに行かないと!!」

「頼むから落ち着いてくれ。そんな服装で外へ行ったら一発で氷漬けだ。俺も探す。とにかく、着替えてからだ」

「わたしも行く」


 取るものも取らず特攻しては、二次災害が目に見えている。

 エリーの不在が消失なのか単なる遭難なのかは分からないが、いずれにせよ危険であることには変わらない。


「わっ、分かりました。おふたり共ありがとうございます。では、急いで―――うおおっと、ふぼうっ!?」


 彼女には何か強烈な呪いでもかかっているのだろうか。今度は部屋へ駈け出そうとしたティアには、別の障害物が待ち構えていた。

 慌てて避けようとし、再び床を滑って行ったティアを見送りながら、マルドはその人物を見て息を呑んだ。


 ミルシア=マグネシアス。


 以前もこの場所で出会った修道院の主が、薄暗い聖堂の中でぼんやりと立っていた。


―――***―――


 地上。

 これほどの極寒でも、遥か上空の地獄と比べれば温かく感じるのは不思議なものだ。

 アキラは、夜の世界に戻った雪山で、スライクの後に続いていた。


 地上に戻り、アキラは当然サクと合流したかったのだが見たこともない場所に降ろされてはそれも叶わない。

 雪山の知識が無く、装備もほとんど無い自分が一晩そこらで過ごせるはずもなく、一縷の望みを託してスライクと共に行動することとなった。

 まかれないところを見ると、どうやら承諾してくれたらしい。


 空を見上げてみる。

 今夜は天気に恵まれたようで星が姿を現しているが、美しくは見えない。アキラの目には未だチカチカと、まがい物の光の残滓が停滞していた。

 つい先ほどまで自分たちがいた場所を眺め、アキラは肩をすくめる。

 あれほどの場所に自分たちを導いた女性は今、気絶した体をふたつ折りにされ、スライクの肩に乗せられていた。

 彼女が気絶するのが後少し早かったら、自分は間違いなくあの夜空の星のひとつとなっていただろう。


 アキラは首を振り、スライクの背を睨んだ。彼の鋭い眼光を目の当たりにしてしまうと、彼を見るとき自然と自分まで視線が鋭くなってしまうのは仕方がない。


「なあ、あれは何だったんだよ」

「知るかっつったろ。最近話が通じねぇなぁ、おい」

「お前はあれを倒しにここに来たんじゃないのかよ」

「んな律儀なことするわけねぇだろ」

「じゃあ何しにここに来たんだよ」

「どうでもいいだろうが」


 情報収集したいところだったが、会話をまともに続ける気はないらしい。

 そして、それもそうかと妙に納得してしまう自分がいた。

 自分にあるのかと訊かれると自信を持って首を縦に触れるわけではないが、彼には使命感というものがまるで無い。

 あの港町でもそうだった。彼はただ、自分の思うまま、その剣を振るうのだ。

 例えその一太刀に、力なき者たちから、どれほどの期待がかけられようとも。


 アキラは目を伏せた。

 認識されるだけで意味を持つ物体とは違う。

 人は、自らが動き出して初めて意味を持つ。

 幸運であれば他者から手を差し伸べられることもあるが、何もせずに助力を得られないことを嘆いてはならない。それは不運ですらなく、必然であるのだから。


「ここだろ」

「は?」


 呟きと同時に、スライクの足が止まった。

 アキラは眉を潜めて周囲を見渡す。

 先ほどから妙な既視感を覚えていたが、ようやく分かった。

 ここは、自分がスライクに拾われるまで走っていた場所だ。


「おお……、おお……!!」

「で、だ。この修道女、持って行け」

「……は?」

「聞こえたろ。この辺にお前の寝床があんだろうが」


 まさか、この男がここまでアキラを導いたのは、アキラのその女性を押し付けるためだったのだろうか。

 てっきりスライクの仲間かと思っていたがそうではないのかもしれない。


「ちょ、ちょっと待てよ。そういやあれ、お前、キュール……たちはどうした? 一緒にいるはずだろ」

「ちっ、てめぇもこの修道女と同じことを……、どうでもいいだろうがそんなことは。気絶してんなら俺についてこれねぇだろうが」


 自分たちが逸れた仲間と合流するために必死になっているというのにこの男は。

 西の大陸タンガタンザで彼の生い立ちを聞いたからか、彼に妙な親密感を覚えていたアキラは裏切られたような感覚を味わった。

 だが、冷静に考えなくとも彼はもともとこうだった。

 不要なものは全て捨て置き、ただその凶刃のみで突き進む、『剣』そのもの。

 そもそも2年前の“戦争”の話も、彼が義に厚く情が深いような男などだと感じるようなエピソードではなかったと記憶している。

 そこで、ひとつ思い出した。


「……お前は今も、呪いを暴こうとしているのか」

「……あん?」


 思ったよりも冷静に、スライクの鋭い眼光を受け止められた。

 唐突に連れ去られたせいで思い起こすのに時間がかかったが、アキラはあの過去話を聞いたとき、スライクに訊ねたいことができたのを思い出した。


 彼の過去。

 彼が旅に出た理由。

 あたかも物語の主人公のように、日常全てが伏線となり、身近で開花する、“日輪属性の呪い”。

 それを求め、暴き、あまつさえその元凶を斬り殺そうと、彼は単身旅に出た。

 彼の旅は、物語の苦楽を受け止め、それを乗り切り、定められたエンディングを目指す主人公とは真逆の物語。


 彼はしばらく沈黙し、そしてやがて顎を上げて不敵に嗤った。

 身体が雪山の冷気を思い出し始めたアキラには、その顔に震えるような恐怖を覚えた。


「……はっ、そういやてめぇはタンガタンザにいたんだったなぁ。あの病人、まぁだあの戦場にいやがったか」

「何にも言わなかったけど、お前に会いたそうにしてたぞ」

「あいつも下らねぇこと覚えてるもんだなぁ、おい。で、だ。“呪い”の話か。それを聞いてどうすんだ」

「分かったことがあるなら教えて欲しいんだよ」

「あん? はっ、随分働きもんじゃねぇか。外伝まで手を出してたら、本筋はどうするよ」


 スライクは、ただ嘲ているわけではなく、本心からそう言っているようだった。

 情報の出し惜しみをしているわけではなく、本筋を進んでいるアキラには不要な情報だと判断しているのだろう。

 事実、アキラにとって“呪い”とは、決して幸運ばかりではないが、確実に自分の血となり肉となる経験を与えてくれるものでもある。

 しかし、アキラは食い下がった。


「悪いけど、“今の俺は”そういうわけにもいかねぇんだよ」


 シン、と風が止み、アキラの声は妙に大きく響いた。

 スライクは目を瞑ると、顔を上げ、その鋭い眼光で星を睨んだ。


「お前は天界や魔界に行ったことがあるか」


 天界。この世界を統べる神族の世界。

 魔界。この世界を蝕む魔族の世界。


「……いや、無い」

「俺もだ。だが、方々駆けずり回った結果がある。呪いの現況元凶を探すには、この世界は狭すぎる」

「それは、この世界には答えが無いってことか」


 答えるまでもない、とスライクは鼻を鳴らした。


「神門とか、魔界へ通じる門……魔門とかって言うのか? そこには行ったのか」


 魔門にアキラは行ったことが無いが、その存在とおおよその場所は大陸の地図で見た記憶がある。


「論外だ。どっちも条件が必要なのか、行っても無反応か門前払い。場所だけ知ってても到達できやしねぇ」


 この男は神門どころか魔門にも行ったことがあるのか。

 神門は勇者の“証”が無ければ意味は無いが街の中だ。一方驚異の激戦区と言われている魔門へは血で血を洗う戦場を駆け抜けなければならない。アキラの知らないアナザーストーリーはもしかしなくとも本筋より荒れているようだった。


「まあ、んなもんは後でどうとでもなる。それよりも、いま俺が探してんのは“もうひとつ”だ」

「―――っ、それ、は」

「てめぇもあるだろう。自分が知りえない情報。自分が存在し得ない時間。鬱陶しいことこの上ない、そいつを感じた経験が」


 あの、自分以外の全てが止まり、勇者の応えを世界が待つ、あの全能の瞬間。

 経験したことは何度もある。幾度も助けられたゆえに、スライクのように鬱陶しいとは思えなかったが。


「旅の途中の情報だ。そいつは天界でも魔界でも無ぇ。だがそこに、答えがある」

「“世界のもうひとつ”……!!」

「はっ、名前付けんのが好きな奴だなぁ、おい。まあいい。問題はそこへ行く方法……いや、そこにいるかもしれねぇ元凶を潰す方法だ」

「お前はどこで、それを知ったんだ」

「言ったろ、道中だ。具体的に言やあ―――」


 スライクは、近くの洞穴を睨んだ。

 この雪山には不自然なほど洞穴が多い。


「―――“研究所”。丁度あんな洞穴みてぇな所に、この世界の各地に点在している場所でだ。ここにもあったぜ、どこだかもう忘れたがな」


 爪が掌の骨に突き刺さったような気がした。

 固く握り絞めた拳は、抑えているのに震えている。


 やはりそうか、“あの魔族”。

 今日の出来事も、奴が元凶。

 そして奴は―――“その領域を知っている”。


「だが、暇な奴がいるみてぇでなぁ。ほとんどぶっ潰された後だった。お陰で殆ど空振りだ。面倒なことこの上ない」


 アキラは眩暈がした。

 “そういうことをする”人物には心当たりがあり過ぎた。

 その人物が野放しである以上、スライクの情報収集は思ったように進まないのだろう。


「だが、そろそろ頃合いだ。俺も人のこと言えねぇなぁ、おい。一時的にでもメインルート通らねぇと、解けるもんも解けやしねぇ」

「……!」


 今度のスライク眼光は、遥か彼方の大陸を捉えたようだ。

 決して見えない、雪山の向こう。そこを鋭く捉えている。


「行く気なのか―――“ヨーテンガース”に」


 東西南北に分かれた大陸の、その中央。

 “最後の大陸”―――ヨーテンガース。


「はっ。気が向いたらな」


 四大陸の研究所をスライクと“心当たりの人物”が潰し回った以上、そこに答えがある。


「さて、満足か? だったらこの修道女を持って行け。俺は今から行くところがある」

「まさか“あれ”を追う気なのかよ」

「望み薄だが、次に昇られるとうぜぇことこの上ない。潰しにいく。“俺が飽きるまでだがな”」


 などと、彼らしい言葉を吐き出し、スライクは肩に乗ったままの女性をアキラに放り投げようとした。

 が。

 ガシリッと音が聞こえるほど、スライクの身体が強く揺れた。

 片腕で腰の辺りを掴み上げようとしたスライクは、怪訝な顔つきで、しがみついてきた荷物を睨む。


「あん?」

「き……、聞きましたよ……。貴方、またおひとりで行くつもりですか。ほとんど当てもない状態で……!!」

「随分早ぇ回復だなぁ、おい。とっとと降りろ」

「降りません……。わたくしが朝に言ったことをもうお忘れですか。ここからどうやって修道院へ戻るおつもりで?」

「戻ってどうする。用はねぇよ」

「あ、な、た、は……!!」


 駄々っ子のようにスライクの肩から動こうとしない女性の言葉を聞いて、アキラは、はっと息を呑んだ。

 修道院。その単語には聞き覚えがある。


「修道院って、まさかマグネシアス修道院って修道院?」

「ひっ、え、ええと、そ、そうです。ええと、と、とりあえず降ろしてください!!」

「てめぇが降りようとしなかったんだろうが」

「投げ捨てられないようにしていただけです」


 今までアキラに足を向けていた女性は、スライクの隣に降り立ち、それでいてスライクの服をしっかりと握り絞めながらようやく対面した。


「え、ええと、貴方、マグネシアス修道院へ行きたいのですか?」


 どこかおどおどとしている女性は、それでも徐々に冷静になり、真摯な態度でアキラにぎこちない笑みを浮かべた。

 どうやら彼女はそこの職員らしい。

 これは幸運だ。アキラはすぐに頷いた。


「もうしばらく休めばワイズを呼べそうです。少し休憩させてください。そうしましたら、ほら、完璧です」

「てめぇの頭の中で繋がったらしい1本の線は俺の中じゃバラバラだ」

「貴方はまだ、雪山の怖さが分かっていません。遭難してからじゃ遅いんですよ」


 おどおどとしていた割に、スライクの鋭い睨みによく対抗している。

 そして、ようやく思い出した。

 面識はほとんど無かったが、よくよく考えると、彼女には見覚えがある。

 確か、彼女は。


 どうやら今回はアナザーストーリーのようだ。

 アキラが肩を落とし、しかしどうやら修道院への足は確保できそうだと楽観したところで。


「アキ―――ラ、っ、さ、ま」


 声をかけようとして、人がいることに気づき、辛うじて言葉を正そうとしつつも、迷い、結局妥協したような言葉を紡いだ女性が現れた。


 息を切らし、一瞬スライクを見て目を見開いたが、彼女は、サクは、戸惑った瞳をアキラに向けてきた。


 アキラには、それはまるで、彼女自身が何故この場にいるのかを必死に思い出そうとしているように見え―――そして。


 アキラは思い出した。


―――***―――


「……ここで会うのは2度目ですね」

「ええ。また勝手に出回ってすみません。重ねて謝らなければならないかもしれませんが、これからちょっと外へ行きます」

「……と、すると」


 事態が事態だ。

 マルド=サダル=ソーグは見た目の割にはしっかりと立つ老婆、ミルシア=マグネシアスをすり抜けようとし、しかし老婆の言葉に足を止めた。

 ミルシアの言葉は、震えていた。


「どうかされましたか?」

「え、ええ、いや、悪寒がすると、ここに来るものでして」

「……キュール。悪いけど部屋に戻って俺の上着とバッグ持ってきてくれ。ふたりとも準備してからだぞ」

「うん、分かった」


 何もふたりであの長い廊下を抜けて部屋に戻ることもあるまい。

 マルドはキュールとティアを送り出すと、ミルシアに向き合った。

 マルドが行った地下以外の探索で彼女の姿は見ていない。彼女が寝食を行っているという巨大な扉は開かなかった。

 何か情報を持っているかもしれない。


 星明りに戻った薄暗い聖堂から、子供たちがパタパタと離れていく。

 言葉を先に発したのは、聖堂の巨大な像を見上げたミルシアだった。


「また」

「はい?」

「また、この感覚です」


 随分と聞き取りにくかった。少なくとも以前よりは、年相応のか細い声をミルシアは出していった。

 もしかしたらそれは、マルドに言っているのではなく、目の前の、巨大な偶像に囁いているのかもしれない。


「先代からマグネシアスの名を預かり、わたくしに今、できることは―――」


 その姿は、その小さな姿は、マルドが最初にここへ来た夜に見た気がする。

 あのときも、彼女がマルドに気づくまで、ずっとこうして見ていたと思う。


「結局、何も、何も」


 ミルシアは振り返り、マルドを見上げ、ふっと慈愛に満ちた笑みを浮かべた。

 その笑みに不気味さを覚えるのは、薄れていた彼女の気配が虚栄によって強まったように感じるからだろうか。


「さて、旅人様。お待たせいたしました。ご用件は」

「……あなたは今、いや、以前から、この修道院に異常が起きているのを知っていますか」

「それは……分かりません。最近細かなことは分からなくなりましてね……。わたくしも歳なのでしょう」


 虚栄の部分が小さくなったのを感じた。

 上手く頭が回っていないのだろう。

 マルドは言葉のペースを落とした。


「この修道院には、一体どれだけの人がいるんですか?」


 今日何度、この質問をしただろう。

 マルド自身やや飽き飽きしていたものだが、彼女への質問にそんな不純物は混ざらなかった。

 今の彼女が、他の職員のようには、自信満々に誤答を出さないように見えた。


「駄目ですね、本当に。こう老いると、何もかもが分からなくなってきます。だから皆、嫌気が差すのでしょう。それはそうです、こんな場所」

「……人がいなくなっているのは分かるんですか」

「やはり、そうなんですか。中々会えないはずです。怖いものですよ、この歳になると日常の些細なことすら忘れていきます。何よりも許せないのは、わたくしが、あの娘たちの顔すら思い出せないことです……」


 マルドは目を閉じた。

 彼女は、消失そのものは認識している。そして認識した上で、人の消失という異常を、“自分の都合のいいように捉えている”。

 弱弱しく消失感に苛まれるという、当たり前にしても侘しい“普通”に落とし込んでいる。

 以前会ったときはそんな様子ではなかったように思えたが、もしかしたらあのときマルドは、この聖堂の雰囲気に押されて彼女の虚像だけを見ていたのかもしれない。


「こんな場所じゃあ、何もありませんからね……。去っていって当然です。そしてわたくしは、その娘の顔すら思い出せない……」


 ミルシアは再び、巨像を見上げた。


「ああ、分からない。どうすればいいのか、何をすればよかったのか。本当に怖い、怖いものです―――また今夜も、わたくしは何かを忘れました」

「今夜……今夜も、誰かがいなくなったんですか……!?」


 はっとマルドは顔を上げる。

 そうだ。あのセリレ・アトスルが、あれだけ派手に出現して、何もしなかったわけはない。

 しかし、ミルシアからの返答は無かった。

 ミルシアの肩だけが、小刻みに震えていた。


 やがてティアが戻り、キュールが戻り、マルドは渡された防寒具を着込んだ。

 エリーと、そして誰を探しに行けばいいのだろう。静寂を破らないように、マルドは極寒の世界へ大股で向かった。

 最後に一言声をかけていこうと思ったが。

 背後の老婆が、この冷え込んだ聖堂で小さな肩を震わせながら、巨像に若かりし頃の自分を見ている気がして、振り返ることは、とてもじゃないが、できなかった。


 この日。

 ひとつの存在が、その認識すらも、世界から押し退けられた。


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