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おんりーらぶ!?【第二部】  作者: コー
北の大陸『モルオール』編
30/68

第38話『氷が解けるその前に』

―――***―――


「セリレ・アトルス」


 カイラ=キッド=ウルグスという少女がいる。


 ウェーブのかかった黒髪に、気苦労が見え隠れする顔立ちをしている修道院の人間だ。

 出身はモルオールの最西部にあるレスハート山脈に建てられたマグネシアス修道院。雪山をくり抜いたようなほら穴にあるその修道院で彼女は生まれ、神に身を捧げた者として道を歩んでいる。常に修道服を身に纏い、彼女の年齢である18年間、就寝時時と防寒具を除き、別の服を着たことが無い。

 身長こそ女性にしてはやや高めであるが、小柄で、どこにでも潜り込めそうな身体つきをしている。反面筋力に乏しく、修道院での力仕事は修道院の別の人間に任せきりになってしまってはいるが、修道院の中ですら異質なほど神と真剣に向き合う彼女を責める者は決していない。


 そんな彼女は今、マグネシアス修道院最奥の、院長室を訪れていた。


「この言葉を、貴女は知っていますね?」


 この空間が特別な場所であると認識させるために敢えてそうしているのか、マジックアイテムではなく数十本を超える蝋燭が薄ぼんやりと光源を担い、浮き上がるような錯覚を覚える小部屋の中で、再び老婆のしがれた声が響く。


 カイラは背筋を伸ばしたまま慎重に答えた。


「はい、知っています。わたくしの記憶違いでなければ、このレスハート山脈の伝承であったと。『沈まない太陽』でしたか」


 我ながら模範的な解答であったと思うが、最奥の部屋面積の半分は占める巨大な机の先の老婆の表情は窺えなかった。

 ミルシア=マグネシアス。齢百を超えるとさえ噂されるこの老婆は、マグネシアス修道院長を務めている。


 常に修道院服をすっぽりと纏い、常にこの部屋の最奥に座っているこの女性を、18年もこの修道院にいるカイラすら詳しくは知らなかった。

 集会や夕食時にも姿を現さないばかりか、この部屋の外で彼女を見たことは1度も無い。

 たまに出される指示もほとんどは人伝で、ここに呼び出されたことのない者たちには、空想上の生き物と無礼な噂まで立てられていた。

 実際、カイラ自身、彼女と対面した総ての時間を足し合わせても、1日にも満たないような気さえする。


 だが、例え僅かな時間であっても、この声色は、この雰囲気は、身体の中から微塵にも抜けていかない。

 総勢数十名を誇るマグネシアス修道院の主である、ミルシア=マグネシアス。


 はっきり言って、カイラはこの女性が、苦手だ。


「熱心なことです」

「それで、セリレ・アトルスが何か?」


 そんな老婆に、途端呼び出されたカイラとしてはたまったものではない。

 呼び出しを受けたとき、一瞬、3ヶ月ほど前からこの修道院で保護している“大変愉快な子供”のことで大目玉でも受けるかと身をすくませたが、どうやら違うらしい。

 それはそれとしても、どの道長居したいと思える相手ではなかった。


「2日ほど前、客人が訪れたのを知っていますね?」


 質問を質問で返された。

 カイラは僅かばかり口元を抑えると、慎重に頷く。


「ええ。わたくしが救助した男性です。本来男子禁制ですので、あまり出歩かないように伝えておりますが」


 カイラは、このレスハート山脈でビバークを試みていた男を思い起こした。

 凍傷を危惧し、止むを得ず修道院で治癒することになったが、問題なさそうで、あと数日もすれば麓へ送り返すことになりそうだ。


「その方が、大変興味深いことを仰っていました」


 ただでさえ会うのが難しいミルシア=マグネシアスと会話したというのか。

 そうなると、あの男は修道院内をうろついていたことになる。

 カイラは絶叫しそうになるも寸でのところで堪え、ミルシアの言葉を待った。


「何でも、闇に浮かぶ日輪を見た、と」

「……! それは、」

「セリレ・アトルスの可能性があります」

「…………しかし、わたくしはここ数ヶ月、そんなものを見た覚えは無いのですが」

「正確な時刻までは聞き出せませんでした。それに、カイラ=キッド=ウルグス。貴女は就寝時間を過ぎてまで夜空を見上げていたことがありまして?」


 カイラは押し黙らざるを得なかった。

 実のところはあのガ……、いや、天真爛漫なお子様の教育方針について悩み、ここひと月はまともな睡眠をとっていない。

 だが、品行方正で通っているカイラにとって、そんなことはおくびにも出せない。

 だからカイラは、至極一般的な疑問でお茶を濁した。


「見間違いでは?」

「些細な常識に縛られて流れた血が、この世に如何ほどあったでしょう」

「…………」

「セリレ・アトルス。災厄の証。夜空に登る日輪などあってはならぬことなのです。分かりますね」


 院長にこう言われて、首を横に触れる人間をカイラは知らない。

 静かに、そして消えゆくように、カイラは、はいと答えた。


「そこでカイラ=キッド=ウルグス。貴女にお願いがあります」

「わたくしに、ですか」

「ええ、貴女だからこそです」


 表情はフードに隠れて見えないが、何となく、この修道院長様は、悪魔のような笑みをにっこりと浮かべたような気がした。


「伝承とは本来尊いものですが、災厄をもたらすとなると話は別です。少なくとも、客人が見た日輪の正体は暴かなければなりません」

「わたくしが、ですか」

「ええ。“ワイズ”を有する貴女なら、少なくとも他の者たちよりも容易かと」


 ぐ、とカイラは思わず唸ってしまった。

 このミルシアという老婆は、ろくに会ったことも無いのに、修道院のメンバー全員の情報を持っているようだ。

 本当に見間違いかもしれないものに神への想いに費やすべき尊い時間を費やすなど、カイラにとっては冗談ではない。

 カイラは何とか逃げ道を探そうと口を開いたが、次のミルシアの言葉で思考が停止した。


「まずは客人の話を聞くのが良いでしょう。早急にお願いいたします」

「っ、」


 ありえない。

 本当に、この老婆は、修道院のメンバー全員の情報を持っているのか。

 だとしたらこれはありえない。

 例え“ワイズ”を有していても、カイラにとって、この依頼は完全にミスマッチだ。


 ありえない。


 ありえない。


 ありえない。


 このカイラ=キッド=ウルグスに、異性と会話しろというのか。


――――――


 おんりーらぶ!?


――――――


「ぎゃーぁっ!!」


 今日の朝、自分は、絶対に。こんなに醜い悲鳴を上げる日になるとは思わなかった。


 背中に纏めた赤毛が特徴の女の子、エリーことエリサス=アーティは思わず座り込んだ。

 何が起こった。

 僅かばかりに残った理性でエリーは状況を整理した。

 自分は、3ヶ月ほど前から滞在しているマグネシアス修道院の奥、多くの古書が誇りを被っている書庫を朝から漁り、昼食を済ませてまた漁り、ようやく目当てのものを探り当て、それはもう気分上々に廊下に躍り出ただけだ。

 そして、部屋に戻ったらどれから読むべきかとプランを張り巡らせながら、それこそ鼻歌でも奏でかけるほど上機嫌に、かつ、数冊の分厚い本を身体で抱えながら歩き始めたところで。


 あ、雪だ、と思った瞬間顔面に雪玉が炸裂した。


 原因なんぞ、考えるまでも無い。


「あ、あああああ、ゆきりん様がぁぁぁあああーーーっっっ!!!!」


 この、ガキだ。

 涙目で絶叫している目の前の子供に、エリーは吹雪など生ぬるい絶対零度の視線を放った。

 青みがかった短髪に、つい先ほどまで外にいたと思われる防寒具を纏った子供、ティアことアルティア=ウィン=クーデフォンは足元の水溜りを見て大いに嘆いている。

 が、本来加護欲をそそるであろう情景を前に、エリーは拳を叩き込みたくなっていた。


「…………この犯行の動機は?」


 プルプルと声を震わせながら、エリーは立ち上がり、ティアの首を掴み上げた。


「あっ、エリにゃんっ、って、大丈夫ですか!? ごめんなさいっ。その、一刻も早く見せようと持ってきたら、ゆきりん様が段々解け始めて……。でもあれです。あっしの最高傑作だったんですよ。いやあれですよ、本当にまん丸の雪玉が大小ふたつ。これはもう作るしかないと思った次第で、」

「もうやだなんでそれであたしが攻撃されたのゆきりん様とやらは凶器だったの?」

「たはは……、その、溶けた雪で滑って転んじゃいました」

「室内に雪を持ち込まない!! 廊下は走らない!! 基本でしょう!?」

「ごめんなさい……」

「あーあ、本濡れてないかな」


 顔面に撃ち込まれたのが雪だと分かると、途端身体が寒くなってきた。

 エリーは本の無事を確認すると、顔の雪をハンカチで拭い取る。

 目の前の子供は、自身がずぶ濡れになりながらも、水溜りを名残惜しそうに眺めていた。


 エリーは真剣に悩み始めた。

 最近でもないが、ティアが、それはもうブレない。恐ろしささえ感じる。

 エリー自身マグネシアス修道院を訪れた当初は、アイルークではあまり見る機会の無かった雪に心躍るものがあったのだが、最近では生活の一部として程度の認識しかない。

 しかしティアはこの3ヶ月近く、全力で雪と戯れ続けている。それはもう、昼夜を問わず。

 その様子も脅威なのだが最も深刻なのは、何人かの若いシスターと共に外にいることをしばしば見かけることだ。

 あのときの彼女たちは、雪は見飽きているであろうに、まるで初めて雪を見たような表情を浮かべて遊んでいた。

 そして日に日に、人が増えていく、ような気がする。


 今、マグネシアス修道院という尊いであろう空間は、アルティア=ウィン=クーデフォンという存在の脅威にさらされていた。


 エリーは思わず外の空気を求めた。

 しかし洞穴の中に建てられたマグネシアス修道院の奥に位置するこの廊下には窓が無く、目の前にはアルティア=ウィン=クーデフォン。


「あれ? エリにゃん、何で下がるんですか?」

「ううん。気にしないで……ください」

「?? よそよそしくないですか?」

「いやまさかそんな。あり得ませんよ」

「あ、それよりゆきりん様の片付けしないとですね」

「って、そうよ。早く拭かないと」

「ふふふ、任せて下さい。こんなこともあろうかと、あっし、雑巾持ってます」

「どうしてそこには気がつくのよ」


 もっこもこの外服から雑巾を取り出し、鼻歌交じりで掃除を始めるティアを見るに、どうやらゆきりん様とやらへの未練は立ち切ったようだ。


「ああ、でもエリにゃんにも見てもらいたかったです……」


 訂正。最早雑巾と一体化したそれをティアは名残惜しそうに眺めていた。

 エリーは脱力し、バケツを探しに歩き出す。


 そして、目を細めた。

 不安だ。

 自分たちは魔王を討伐する旅をしている。

 今は止むを得ず旅を中断しているが、怠けていて良いというわけではない。

 それなのにこの3ヶ月、自分はまるで前へ進めていないような気がする。

 勿論身体を動かしてはいるが、外が雪で埋もれていては、普段ほどの鍛錬を行えないのは事実だ。

 上達したことと言えば、モルオール流の料理や裁縫、あとは衣類のシミ抜き位か。

 そんな家事スキルを磨いているのは女の子としては上等かもしれないが、魔術師としては何の役にも立たない。

 一方逸れた仲間のふたりは、“あの”タンガタンザを乗り越えて、もうすぐここへやってくるらしい。

 “あいつ”は、今、どれほど成長しているのだろうか。


 もしそうならば。

 自分は―――“やるしかなくなってしまうのだろうか”。


「エリにゃーん!! かんっぺきに掃除が終わりました!! ぶぼうっ!?」


 その完璧に掃除した廊下とやらで、ティアが水に滑って転んでいた。

 水跡を残して自分の元へ滑ってくる雑巾を、エリーは行儀悪く足で止め、怒鳴りつけようとしたところで。


 ギィ、と。書庫よりさらに奥。堅牢な扉が開いた。

 書庫にたびたび足を運ぶエリーには見知った扉だが、開いたところは1度も見たことが無い。

 そしてそこから、顔面蒼白にした女性が心中でも図ろうとしているかのような足取りで、のっそりと現れた。


 カイラ=キッド=ウルグス。自分たちを保護してくれた修道院の女性だ。

 カイラはふらふらとした足取りのまま進むと、ようやく存在に気づいたかのように、乾き切った唇を開いた。


「エ、エリサスさん、たい、大変、です」

「それよりティアが大変な馬鹿」

「た、い、へ、ん、な、バ、カッ!?」


 叫ぶティアを無視し、エリーはカイラと向き合った。


「お願い、お願いが、あり、ます」

「へ?」


 この様子も、頼み事というのも、カイラにとっては珍しい。少々妙なところはあるものの、少なくとも落ち着きは持ち合せている女性のはずだった。

 エリーはようやく事の重大さを認識し、慎重に言葉を待つ。


 するとカイラは身体を振るわせたまま、ゆっくりと、泣きそうな表情で、言葉を紡いだ。


「わたくしに、その、い、異性との会話を教えて下さい」

「おおっ、カーリャンそれならわたくしにお任せ下さいっ!! あっという間に過ぎ去る時間を提供することに定評のある不詳ティアにゃんことあっしが、微力ながらお力添えを、」

「お願い黙っててっ!!」


―――***―――


「ふぅん。いつもの強気なカイラはどこいっちゃったの?」


 カイラが完全に失敗したと思ったのは、旅人であるエリサス=アーティに自室へ向かう道すがらに事情を説明してしまったことだ。


 まさしく必要最小限と表現できるカイラ=キッド=ウルグスの部屋は、ベッドの乱れや衣類の無精などは微塵も存在せず、埃ひとつ落ちていない。

 このまま客室として提供できるほど整頓されているその部屋に通されたのは、カイラが不覚にも思わず泣きついてしまった相手のエリサス=アーティと、何故建物の中でそうなれるのか甚だ疑問であったが全身水浸しになっていたアルティア=ウィン=クーデフォン。流石にその姿のまま他人の部屋に入らないほどには良識があったらしいティアは、一旦自室に戻り、風邪を警戒してか室内でも首元に羽毛の生えた防寒具を纏ってここを訪れた。


 まあここまでは、いい。

 カイラにとっては慣れ親しんだ吹雪よりも脅威なティアの強襲により、丁寧に仕舞い込んだ私物を炸裂させられるのではと懸念したが、今は大人しく座っている。その程度の良識も、どうやら持ち合せていたらしい。


 だから最大の問題は、廊下での会話を盗み聞いていたらしく、いつの間にやらカイラの部屋で招くように待機していたもうひとりだ。

 “彼女”は、エリーは勿論あのティアですら(!)大人しく座っている用意した円卓に着かず、カイラが丁寧に整えたベッドの上で快適そうに腰を揺らしている。

 同僚とはいえ他人の部屋にたびたび転がり込んでくるその女性に、最早カイラもかける言葉が見つからず、無視を決め込むことしかできなかった。


「でもさ、カイラにとっては凄い1日だね。院長に会うだけでもレアなのに、その上そんな厄介事押し付けられるなんてさ」


 しかし構わず彼女は話しかけてくる。

 アリハ=ルビス=ヒードスト。

 このマグネシアス修道院において、カイラの姉的存在と言える先輩だ。

 背中まですらりと伸びた茶が入った髪はカイラとは違いくせが無く、色白ではあるが健康的なラインを割ってはいない。少々目が垂れていること以外は特筆することも無い顔のパーツは、しかし整っていて、身体つきも申し分なく、黙っていれば美人で通る部類だろう。

 だがそれでも、彼女の最も特徴的なのはその全身からの気配だ。

 ゆるい。本人はそういうつもりではないらしいが、身体全体から気だるいというかだらしない雰囲気を醸し出している。

 それはアリハの性格というか性分から滲みでているものだろうとカイラは思う。

 何せ彼女の生活態度はおよそ修道院に務めるものとしては相応しくなく、集会の遅刻や寝坊は当たり前、果ては全員に支給されているフードすら紛失する始末だ。

 今もベッドの性能を試すかのように身体を揺すり、さらりと流れる髪を振っている。くせ毛のカイラのやっかみも入るのだが、その髪は本来、フードに覆われていなければならない。


「でもさ、大丈夫。みんなで一緒に考えよう、何とかしないとね。エリーちゃんもティアちゃんも頑張ろう」


 そしてその規律に関して疎いアリハは、面倒なことに、他人の厄介事に首を突っ込みたがる節がある。近年少々大人しくなってきたようだが、実のところカイラは、アリハが自分ひとりに的を絞っているのではと勘繰っていた。

 そして、自分にも他人にも厳しいカイラにとっては正反対に位置するようなアリハなのだが、誰も、あの院長すらもアリハの態度に特に何も言ってこないのがカイラにとっては業腹だ。

 はっきり言って、アリハ=ルビス=ヒードストはカイラにとって修道院内で2番目に苦手な人物に当たる。


 だが今の問題は、カイラ=キッド=ウルグスにとって、世界で最も苦手な部類の存在への対策だ。


「カイラさん、その、男の人が苦手なんですか?」


 水を割ったのは正面に座るエリーだった。

 急遽取り繕っただけだが、円卓に腰をかけているのが影響してか、わざわざ小さく挙手をして発言している。隣のティアに至っては、アリハの動きに影響されているのかせわしなく椅子をカタカタ鳴らしている。

 やはり良識ある人と話すのは気分が良い。

 アリハは似合わないことに書庫に籠ることがあるのでエリーとの面識があるだろうし、波長が合うのかティアと行動を共にしているのだろう。ティアは問題外として、エリーがアリハに影響されなかったのはカイラの唯一の救いだった。

 エリーは迷える子羊と化したカイラをじっと見つめ、深刻な面持ちをしていた。頼りになりそうだ。

 カイラがその他のふたりを視界に入れないようにして口を開いたとき、横やりを入れたのはアリハだった。


「カイラはあれだよね、生まれたときからここにいるもんね」


 それは貴女も同じでしょう、と言いそうになり、カイラは口を噤む。アリハは時折、修道院の遣いとして外の世界へ行くことがあるのだ。

 カイラは、憤りを抑え込み、ゆっくりと言葉を紡いだ。


「その、ですね。わたくし、異性とはあまり話した経験が無いんです。何と言うか、その、苦手意識を持ってしまっている、と言うべきでしょうか」

「自覚しているのなら後1歩だよカイラ。さあ、頑張って踏み出そう」

「確かに……、生まれてからずっとここだと、女性にしか囲まれてないですもんね」

「そうですね、カーリャン、笑顔が大切です。いつでもにっこり笑っていると、苦手なことなんて無くなりますよ、あっしがそうでした。嫌いな食べ物が半分くらいになったのが実績です」

「そうなんです。嫌い、というわけではないはずなんですが、気後れしてしまうというか……、異性の近くにいる自分をイメージできないというか」

「好きの反対は無関心と言うけど、嫌いの反対は多分好きだよ、カイラ。上手い感じに反転すれば、何とかなるって思うんだけど」

「あれ? 遭難者の方とかよく運んでますよね? この間も、男性を運んでいたと思うんですが」

「でも、中々それだけでは解決しませんよ。最近気づいたことです。自分が笑うと相手も笑ってはくれますが、その中に冷笑と分類されるものがあることにあっしは気づいたんです。何故でしょう……」

「それは当然のことです。迷える者に差はありません。人命のためならば、わたくしの心情など些細なことですので」

「うん、素晴らしい心がけだよカイラ。だけど自分を殺すのは良くないよ。変わっていこうカイラ。カイラには見える? 目の前にある扉が。その扉を開ければ、きっと世界が変わるんだよ……。カイラ?」

「うーん、そうですね……。じゃあ、そう、職務。職務としてなら、大丈夫なんじゃないですか? その旅の方から話を聞き出すのは、もしかしたら誰かの命を救うことになるのかもしれないですし」

「……あれ。あれ? 何かが決定的におかしいです。何故か、壁に向かって独り言を呟いているような錯覚を起こしているんですが……」

「あ、ティアちゃんも……?」


 ざっくりと雑音を無視し、カイラは考えた。

 確かにエリーの言う通りだ。

 これは職務。

 このマグネシアス修道院で、最も熱心であると自負できる自分は、院長からの直々の命により、その職務を全うする。

 流石に旅の魔術師、頭の中でカチリと何かが嵌る音がする。

 恥を曝してまで相談して良かった。……のだが。やはり少し及び腰になってしまう。


 エリーもカイラの表情が優れないのを悟ったのか、再び深く考え始めた。どうやら彼女も彼女で思いついたこと言っただけのようだ。


 そこで、ボーンと。

 古時計の音が響いた。聖堂に設置してある巨大な時計は、修道院中に定刻を知らせる。

 定時の仕事が始まる時間だが交代制だ。本日カイラには特務以外の仕事は無く、生活の一部として聞き流したが、最も反応したのはティアだった。


「は!!」

「用事ですか、アルティア。それでは気を付けて」

「早いっ、早いですよカーリャンッ!! もっと上手い感じに厄介払いをして下さいよっ!!」

「自分で言いますか。あと、アリハ。貴女も仕事があるのならそちらを優先して下さって結構ですよ」

「大丈夫だよカイラ。私は今日、風邪で休んでいるから」


 厄介払いはひとりまでか、と、この女に天罰を下すためにはどれほど神に祈ればいいのか、を同時に考えられた自分の脳をカイラは絶賛した。

 ともあれ、どうやらティアの用事は本当らしく、『お力になれずすみませんが』とその通りの言葉を吐き出し立ち上がった。そして口元まで防寒具を閉じ、首元の羽毛に口をつけ『……もこもこもこ』と怪しげな呟きと共に部屋を去った。

 勿論ティアには最初から期待していない。カイラがティアに苦手意識―――僅か3ヶ月で、ティアはカイラの苦手な人物第3位まで駆け上がってみせた―――を持っているというもあるにはあるが、そもそも異性との会話の助力に子供は不適切だろう。

 エリーも別段何も言わずティアを見送っていたが、僅かばかり眉を潜めていた。もしかしたら、彼女もティアの用事が何か見当をつけられないのかもしれない。


 ともあれ、だ。

 カイラは少々音源が落ちた部屋で、再度対策会議を始めた。少々表現が大げさではあるが、自分にとって、それほどの意気込みが必要な課題だ。


「エリサスさん。職務というのはわたくし自身、納得できます。ですが話を訊く、ともなれば、少しは会話の種が必要なのでは、と思ったりして……」


 呟いたカイラに返ってきたのは、少しだけ遠いエリーの瞳だった。

 この色は知っている。修道院の前で雪と全力で戯れるティアを見るときの色だ。

 一瞬でカイラは青ざめた。もしかして、自分は、随分と的外れなことを言っているのかもしれない。もしくは、厄介なことを言い出したと思われているのかもしれない。

 カイラは言葉を止め、今さら恥も外聞も無いが居住まいを正し、表現を変えた。


「ええと、ですね。エリサスさんにお訊ねしたいのは、旅の中で、異性とどのような会話をしているのか、とか」

「ああ、そうだね。私も聞きたいな、旅の話」


 アリハも少しは興味を持ったのか、エリーの言葉を大人しく待つようだ。

 するとエリーは、僅かばかり視線を宙に泳がせ、眉を潜めると、しかし首を振り、最後は困ったような微笑を浮かべた。


「その、あの、いろいろ、です。そう、色々」


 今度はカイラが遠い目をする羽目になった。

 もしかしたら彼女も彼女で自分と同じ境遇なのではないだろうか。と、カイラが危ぶむと、表情を読み取ったのかエリーは言葉を続けてきた。


「その人の生まれた場所の話、とか? そういうの、します。結構、話してるはず……よね……、は、話してますよ?」

「カイラ、期待し過ぎは可哀そうだよ。エリーちゃんにも難しいこと分からないみたい。カイラと違って、恐怖症ってわけじゃないみたいだけど」

「アリハ、わたくしは苦手なだけで、恐怖症というわけではありません。ええと、も、……申し訳ないです、エリサスさん。わたくし、旅の方と言えば、経験が豊富なものとばかり」

「い、いやいや、全然話さないわけじゃないですよ? でもこれだ、というものが無いくらいで、普通に会話とかはしてます、そう、しますよ、挨拶、とか? 調子、とか?」

「でも、生まれた場所の話というのは悪くないかもね、カイラ。相手が旅人なら、そういう話題は喜ばれるかも」


 信じられないことに、エリーよりもアリハの方が優秀に見えてきた。今もエリーは何とか挽回しようと支離滅裂に言葉を発している。

 だが、旅人がどこから来たのか、というのはいい。女性の旅人には自然と良く訊いている話題だ。どうやら自分が深く考え過ぎていたようで、相手が異性でも万人共通の話題というものはあるようだった。

 あとは、やはり苦手意識。異性との距離感というものさえ掴めれば万事解決だ。それももしかしたら、万人共通の距離感というものがあるのかもしれない。

 カイラはこれ以上建設的な意見が出ないであろうと判断し、早急に依頼を達成しようとしたところで。


「……で、でも、あたし、こ、婚約者はいるし」


 苦し紛れなのかエリーが顔を伏せながら発した言葉には驚愕した。

 そして、対策会議だけで夜の帳が訪れたことには愕然とした。


―――***―――


 マグネシアス修道院がある地、レスハート山脈。

 タンガタンザとモルオールの両大陸の境を埋め尽くしているだけはあって、その規模は広大だ。大陸の境は橋をかけているように狭まっており、レスハート山脈はその橋からモルオールの西部を埋め尽くすように展開している。

 その巨大な山脈には、雪に埋もれた廃村が点在していた。

 それはなにも、彼らがレスハート山脈の劣悪な気候に抗えず、村を去って廃れたというわけではない。

 単純に、真っ向から、力をもって、魔物に滅ぼされたのだ。


 モルオールの魔術師隊には、毎年戦争を強要されている“非情”なタンガタンザをも超える戦力が集中している。

 魔術師隊のひとりひとりの戦力は言うに及ばず、その数すら他の大陸の倍を超えており、悪い例ではあるがモルオールの魔術師隊だけで他の大陸を滅ぼすことも可能だろう。

 モルオールの魔術師隊に配属されることはそれだけ名誉であり、モルオールの魔道士ともなれば、“中央の大陸の魔道士にすら”その名を認知されることになる。


 それで、拮抗。

 人間の精鋭たちが、圧倒的な数を有しているにもかかわらず、それでようやくモルオールの魔物たちと渡り合える程度である。

 モルオールの魔道士たちは死力を尽くして魔物軍と抗争を続けているものの、首都部に集中しているため地方の方には中々手が回らず、滅び、逃れ、なお滅び、逃れ―――と、地方の者は衰退を続けている。

 言い方は悪いが、国も、大陸自体を滅ぼされぬために、地方の者たちを半ば捨てるような形を取らざるを得なかった。

 認知すらできぬ滅びが、モルオールには常に降り注いでいる。


 その代わりと言うのも酷だが、現在ではレスハート山脈唯一の建造物となったマグネシアス修道院には、西へ逃れながらも志半ばで滅びた村の霊を静める役割が求められている。

 広大なレスハート山脈のどこかで倒れた何者かの霊を悼み、祈ることが僅かな救いになればと願われ、マグネシアス修道院は墓標のように建てられたのだ。


 だから。


 レスハート山脈で、いくつの村が滅びたのか、どのように滅びたのか、誰も知らない。


 レスハート山脈で、かつてとある魔族の実験が行われていたということも、勿論。


―――***―――


「あの、カイラさん。そんなに苦手なら、あたしが話してきましょうか? その、セリレ・アトルスでしたよね。それについて聞いてくればいいんですよね?」

「それは違うと思うな。だって、院長はカイラに頼んだんでしょ? だから院長は、カイラにはそれが必要だって判断したんだよ」


 アリハの言葉に、エリーははっとし、そうですね、と呟いた。

 エリーの言葉が悪魔の囁きに、アリハの言葉が天使の囁きに聞こえることなど想像もしていなかった。


 所変わって、マグネシアス修道院の最西部。

 夜の帳が訪れ、薄ぼんやりとした光源が浮かぶだけの不気味な廊下は、本堂から大分離れた客間へ続く道だ。

 雪山ともなると避難所を兼ねる必要があるとはいえ、男子禁制の修道院ともなると流石に距離とる必要がある。

 この狭い廊下の先には、修道院の面積の1割にも満たない空間が広がっているが、別途設けられた医務室や浴槽など、設備は充実している。

 以前、遭難者扱いであったエリーやティアもそちらで生活していた時期があったが、事情を鑑み2ヶ月ほど前に本堂にもある客間へ移動。今は、問題の遭難者の男しかいない。


 カイラは今、アリハとエリーを引き連れ、いや、“引き連れられ”、その男の元へと向かっていた。


「カイラ。会う前からそんなにびくびくしてもいいこと無いよ。ほら、前歩いて歩いて」

「し、しかしですねアリハ。この時間は本来消灯時間です。出歩いて良いのは、有事の際と、聖堂で祈りを捧げるためだけで、」

「あのカイラが職務に対して言い訳を始めるとはね。これは一応有事だし、急ぎなんでしょ。それに、そんなの気にしてちゃ始まらないよ。私よく、夜の雪を見に出かけてるしね」

「神の怒りがわたくしの耳には聞こえます」


 どうあっても騒ぎを起こす末路しか見えないティアを強引に寝かしつけては来たものの、アリハを出し抜けなかったのは失敗だった。

 エリーに協力を依頼している都合上、アリハ同行という例外を認めないのもカイラにはできない。そのエリーも堂々としたもので、消灯時間を過ぎて出歩くことをなんとも思ってないようだ。

 旅の経験があるというのはこうも違うのか。自分だけびくびくしているカイラは見えないように唇を尖らせた。


「そういえば」


 廊下は長い。足音を控えながら、声色を控えながら、エリーが呟いた。


「その遭難者の方って、どういう人なんですか? あたし会ったこと無くて」

「男性です。なんでも雪山でお仲間と逸れたとか。それ以外は」


 身体的特徴という意味で聞いてきたのなら悪いことをした。

 カイラは遭難者を見つけたら取り得ず救助をしているが、男性となると直視するのもはばかれる。

 一方エリーは眉を寄せいていた。そういえば、彼女も彼女で仲間と逸れていたのだ。


「じゃあカイラ。その逸れた仲間っていうのは今雪山の中なの?」

「そのはずですが、その遭難者の方が問題無いと言ったそうで。大方、逸れたお仲間の方は装備が充実しているのでしょう」


 冷たいようだが、カイラははっきりと言った。

 そもそも自分は便利な運び屋では無い。と言うより、いざとなったら助けてもらえると“あて”にされて雪山に飛び込まれても困るのだ。頼まれればいくらでも探しに行くが、雪山に挑んだ以上、それなりの覚悟はしてもらわなければならない。


「さ、ついたね」


 辿り着いた場所は、丁度壁をふたつに割いたような空間だった。

 中央には、今歩いてきた廊下と比べていささか狭い通路が走り、その側面には茶色の扉が並んでいる。もともと壁をくり抜いて作った場所らしい。

 突き当りには浴場があり、その直前には医務室を現す僅かばかり色の違う扉がある。

 その隣、灯りの漏れている部屋があった。

 ここだ。


「じゃあカイラ、どぞー」


 ここからはカイラが先に行け、ということらしい。カイラは渋々頷き、拳を握るとおずおずと踏み出した。

 女性の来客を訪ねることは何度もあるが、男性の部屋へ向かうのはもしかしたら生涯初かもしれない。夜間ともなればなおさらだ。出来る限り緩慢にしていた歩行の中、カイラは部屋の灯りを凝視していた。もし、あの灯りが消えてしまえば仕方ない。夜分に迷惑だろう。聞き込み調査は明日へ持ち込みだ。

 しかし結局、何事も無く扉の前へ辿り着いてしまった。生唾を飲み込み、カイラは慎重に扉を叩く。

 が、その直前。


「なにか?」

「ひょわっ!!」


 叩く前に、扉が開いた。

 廊下の光源とはまるで強さが違う光が漏れ、カイラは奇妙に叫び、思わず目を塞ぐ。

 内開きの扉が途端に開いたせいで踏み込み掛けたが、カイラは機敏に離脱する。

 ガンッ、とカイラの頭は背後の扉に激突した。


「大爆笑したら怒る?」

「……ありとあらゆる祈りを捧げて、貴女に天罰を下します」

「きっとそれを、人は呪いと呼ぶんだよ」


 アリハを睨むように一瞥し、カイラは頭をさすりながら、伏し目がちに開いた扉に視線を向ける。

 当然だが、男が立っていた。背は高めだろう、細身の男だ。

 表情は穏やかで―――そうだ、思い出した。救出したときも、この男はにこやかにビバークするつもりと言っていた―――カイラの様子を微笑ましいとでも言うように笑っている。

 カイラはこの男を、直感的に妙だと感じた。正面から直視して、始めて違和感を覚える程度だが。


「ごめんごめん、人の気配がしたもんで。大丈夫?」

「ええ、夜分に申し訳ありません。お騒がせしました」


 おお、思った以上に自然に話せるではないか。

 カイラは内心感激しつつ、顔を上げ、部屋の中から歩み寄ってくる男を見定めた。

 そのとき、僅かに見えた部屋の中、妙に長い杖が目に止まった。


「んんっ?」


 そこで、エリーから声が漏れた。

 男はエリーに気付くと、僅かばかり目を見開き、そして再び穏やかな表情になる。


「……久しぶりだね、エリサスさん。君たちもモルオールに来てたんだ」

「マ、マルドさん、何でここに?」


 明らかに動揺しているエリーとは違い、マルドと呼ばれた男は冷静さを保ったままのようだ。

 だが、その直後、マルドは目を瞑り、そして深刻そうな色を瞳に浮かべた。

 懸念。

 今はその色を、狭い廊下で確かに浮かべている。

 それを見て、エリーも息を呑んだように同じ表情になった。


「でも。………これはまずいかもね。こうなると、“刻”の臭いが強過ぎる」


 ふたりは知り合いらしいが、再会の事実以上に、優先すべきことがあるらしい。


「ねえカイラ、やったねやったね。大分話しやすそうじゃん」


 張り詰めた空気の中、アリハの能天気な言葉だけが、空々しく響いた。


―――***―――


 言葉にするのは、アルティア=ウィン=クーデフォンにとって簡単だ。思うだけで口から想いが飛び出し、その想いは、誰かに届くと信じている。


 どれほど静寂に包まれていても、きっと自分は口を開くのだろうとティアは思う。騒ぎを立てることは許されない空間があるというのは勿論理解しているが、自分にはその空気をかぎ取る力に乏しいことも同時に理解してしまっている。何より、静寂を破ることはちょっとした快感だ。気不味くて押し黙っているより、誰かと賑やかに語らっている方がずっといい。


 話せば、その言葉は世界に残る。

 自分の声が、誰かの声が、空気を振るわせたという結果が確かに残る。


 簡単なことで世界に何かを残せるのなら、それは幸せなことなのだろう。


 だけど。

 言葉に何かの意味を持たせることは、意味を残すことは、沈黙を守ることより遥かに難しい―――当然、なのだろうが。


「……寒くない寒くない」


 小さく笑って、白い息を吐き出しながら、ティアは小さく呟いた。

 ほら駄目だ。やっぱり寒い。


 抜け出した寝室。

 修道院を回り込むように登った坂の先は、丁度修道院の屋上に当たる位置に続いている。

 レスハート山脈の全貌とはいかないまでも、大分高度があるようで、随分と遠くまで見通せる。日中来たときより雲が随分出てきているようだ。もしかしたら、また雪でも降るのかもしれない。弱々しい星のせいか、谷間にどっぷりと溜まった闇は呑み込まれそうなほど黒かった。

 それでも、夜の雪景色というものに、未だ飽きは訪れない。


「とと、いけませんいけません」


 戒め。この景色をぼんやりと眺め、随分時間を使ってしまった初日を思い出す。

 ティアは首を振ると、ゆっくりと左の手のひらを胸の前で開けた。

 ぼんやりと、スカイブルーの光が漏れ始める。しばらくして、ゆっくりと右の手のひらを乗せた。

 ぐにゃりと光が歪み、穏やかに大気へ溶けていく。成功だ。


 随分安定するようになってきた。

 ティアは胸をなでおろすと、今度は強めの魔力を左手に宿す。


 この3ヶ月、ずっと、ずっと繰り返してきた工程だ。


「……」


 今頃、カイラたちはここを訪れた遭難者の部屋で語らっているのだろう。

 本来ならばそちらへ行きたいところだが、毎日のノルマはこなさなければならない。

 こなさなければ―――また、あんな思いをすることになるのだろうから。


 端的に言って、自分は戦力外だ。

 最初から分かっていたことだが、どうやら自分にはあふれ出る戦闘のセンスというものが無いらしい。

 後方支援という役割にそこまでの戦闘センスは求められてはいないのだろうが、単騎の戦力では他のメンバーに大きく後れをとってしまう。

 実際のところ、それでもいいとティアは思う。

 自分ひとりにできないことが多くても、誰かが求めることに応えられるのなら十分だ。


 しかし今、応じることができているだろうか。

 猫の手にすらなっていないのではないか。


 そう考えると眩暈がする。

 自分に出逢って良かったと思ってもらうためには、手助けの水準を引き上げなければならない。


 モルオール。4大陸最強のここに落とされて、自分たちの旅にひとつの節目が訪れているのは自分の頭でも分かる。逸れたふたりはタンガタンザに落とされたそうだから、ここで丁度世界一周。

 自分の、いや、自分たちの小さな世界はとうとうここまで広がった。

 広がる世界に追い付こうと、みんな躍起になっている。


 そして、多分、余裕も無くなっている。

 逸れたふたりはどう思っているか分からないが、少なくとも、エリーはそれを深刻に受け止めているようだ。本人は気にしない風を装っているようだが―――自分には、分かる。


「エリにゃんも、私を頼ってくれると嬉しいんですけどね……」


 ぽつりと呟いて、ティアは自嘲気味に微笑んだ。

 悩み事は打ち明けるだけでも楽になると言うし、エリーもそれは分かっているだろう。

 だけど自分に打ち明けることは無い。そこに差別的な意味合いが含まれていないと信じたいが、恐らく、潜在的に、ティアに頼ったところで解決できないと感じているからだろう。

 それはそうだ。

 自分は今まで、数合わせになる程度の働きしかしてこなかったのだから。


 それが、どうしようもなく、悔しい。

 力になれない自分自身が、悔しい。


 だからこれは、完全な自虐だ。


 しっかりと、受け止めよう。

 あの死地から生還したあの日、心の底から思ったことを、何度だって口に出す。


「恨みますよ、アッキー」


 言葉は意味を持つ。

 そう信じて、現状を受け入れよう。


「私は私の力の無さを、精一杯、恨みます」


 いつか。

 誰かの力になるために。


 バシュ、と手のひらの光が強く弾けた。

 やはり順調だ。

 ここまで到達すれば、後は魔力の強弱で調整できる。


 ようやくできた。小躍りしたいところだが、この辺りで暴れるなとカイラに怒鳴りつけられたことを思い出す。

 ティアは若干口を尖らせた。心配してもらえるのは嬉しいが、子供扱いはなんとかならないものだろうか。


「むぅ……、あ、寒い。寒い、です!」


 雪山の風は酷く堪える。

 集中力が途切れたら途端寒くなってきた。頃合いだろう。それに、そろそろ戻らなければ空の寝床を見られるおそれがある。


 ティアは怒鳴りつけられる光景を想像し、さらに背筋を凍らせて、せめてもの抵抗で鼻歌交じりに歩き出そうとしたところで。


「むむっ!?」


 奇怪、としか形容できない光景を視界の隅に捉えた。

 光源が星しかないはずの雪山。

 眼下の闇が支配する景色。


 その中に。


 昼を思わせる光源が灯った。


 距離は離れて、ほぼ同時に。


“3つほど”。


―――***―――


「は? え、は!?」

「静かにした方がいいんじゃないかな。一応夜だよ」

「え、あ、そうでした。え、でも……えー……」

「というか、手紙でやり取りしていたんじゃないの?」


 同行者にエリサス=アーティを選択したのは正解だった。

 狭い室内で会話が止まることを何より危惧していたカイラにとって、エリーは最大級の貢献をしてくれている。

 どうやら遭難者の男とエリーは知り合いだったようで、随分と会話が弾んでいる。


 マルド=サダル=ソーグ。

 柔和な印象を抱かせるこの男は、ベッドの脇の壁に背を預けて、実に穏やかな表情を浮かべていた。

 狭い客間には机も用意されておらず、結局全員棒立ちで会話をすることになったのだが、今もへたり込みそうなエリーにとっては椅子があった方が良かったもしれない。

 もっとも、会話を横から聞いていたカイラ自身も座り込みそうになったのだが。


「ヒダマリ=アキラ」


 マルドは再度、“その名前”を口にした。

 カイラにとってその言葉は、何度か聞いた覚えのある、エリーたちが逸れたという仲間のひとりの名前というだけの意味を持っていた。

 だが俗世から離れたこの修道院を置き去りにして、その名前は、世界に大きな意味を持たせている。


「世界待望の“勇者様”になったらしいね。“アドロエプスの失踪事件”の解決に“百年戦争”の停止。双方知名度抜群の事件だ。今どこに行ってもその話題だらけだよ。その手の話題が広がるのは、まあ早いっちゃ早い」

「えー、何であいつが……えー……」


 エリーは未だ納得いっていない様子だが、カイラは内心興奮していた。

 そのふたつの事件は、数多くの伝承や伝説を知るカイラにとっても最上級の存在だ。

 別格と言っても良い。


「“百年戦争”は……まあ詳細は知らないからともかくとして、なんで“アドロエプスの失踪事件”も? あれ、どちらかというとシリスティアの魔道士隊の活躍ですけど」

「変な言い方になるけどそっちの方が都合良いからね。“勇者様”の存在は話題性抜群だ。それに、エリサスさんじゃなかったの? 生存が危ぶまれた“勇者様”の近況を記した手紙出したの」

「……へ? あ」


 カイラはふと考えた。

 そういえばエリーはここに到着するや否や、知り合いに無造作に手紙を送り出していた。その中に、シリスティアの魔術師隊の女性へ宛てたものがあったはずだ。

 そうなると、ここにも近々シリスティアから何か送られてくるかもしれない。

 それを麓から運ぶのはカイラだ。間もなく定期が訪れる。そのときの積み荷は覚悟しなければならないかもしれない。


「ど……どうしよう……」


 エリーが小さく呟き、暗い表情を浮かべ口を閉ざした。


 それにしても“勇者様”とは。

 目の前のエリーが神話に成り得る人物だと思うと、カイラは目も眩む思いだった。

 もっとも、ティアがそうなると考えると何故か頭痛が酷くなるのだが。


「さて、と」


 エリーは力なく項垂れていた。

 並ぶアリハはぼんやりとマルドの長い杖を眺めている。

 そんな中、壁から背を離したマルドの視線がカイラへ向いた。


 来た。


「カイラさん、だったよね。俺に何か用事があるんじゃないかな」


 落ち着け。エリーとの会話から考えるに、人当たりのいい性格だ。

 それに、安否を問う程度のものではあるが、彼とは以前話したことがあるではないか。

 これは職務だ。それと、何だったか、故郷を問うのだったか? いや、笑顔だった気がする。違う違う、これは違った。では、確か。

 情報が頭の中を目まぐるしく暴れ回っているカイラを見て、マルドは再び壁に背を預けた。

 圧迫されているような前傾姿勢を崩してくれたおかげで、少しだけ気が軽くなった。

 今だ。今を逃す手は無い。


「セリレ・アトルス!!」


 夜の修道院の離れで裏返った声が響いた。

 自分の口から出た声だとは信じ難かったが、どうやらそうらしい。

 何の号令だ。カイラは泣きたくなったが、ここで止まるわけにもいくまい。


「貴方は、それを見たと、聞きました。院長、から。その、はい」


 たどたどしく紡いだ問いには、すぐに応答があった。


「あれ、もしかして、俺が夜に出歩いたことを怒ってたりする?」

「い、いえ、そう、ではなくてですね……。いや、それもあります。貴方は院長とどこでお会いになられたんですか?」

「いや、悪いとは思ったんだけど、ちょっと外の様子が見たくなってね。たまたまだよ。聖堂で」


 どうやらこの男は本堂まで歩き回っていたようだ。

 背筋が凍る思いだが、それよりに気なるのは院長だった。彼女も消灯時間が過ぎてから歩き回っているらしい。


「今後は控えて下さい」

「本当にすみませんでした。その代わり、俺に答えられることならなんでも答えるよ」

「そう……、ですか」


 カイラは内心歓喜していた。何だ、思ったよりも会話できるではないか。


「では、本題です。貴方はセリレ・アトルスを見たのですね?」


 マルドは眉を細めて、言った。


「ああ、見たよ。“災厄の証”」


 その言葉に、エリーも顔を上げた。

 カイラも眉を潜める。この男も伝承を知っているらしい。

 打って変わって真剣な声のトーンだ。見間違いにしても、マルドにはある程度の自信があるようだ。


「実はそいつが原因なんだ、俺が逸れたのは。時間は分からないけど、日付は変わっていたと思う。遠くの山と山の間に浮かんでいたんだよ、“太陽”が。その瞬間、駆け出した奴が居てね」


 マルドは顔を上げたエリー見て、さらに言葉を続けた。


「例の如く、異常には敏感でね。エリサスさん、“そっち”もそうでしょ。日常の総てが伏線になる感覚。何でもありませんでした、とか、見間違いでした、なんてオチにはなってくれない」


 今ひとつ、カイラにはエリーとマルドの関係が見えなかった。

 別グループで行動しているらしいのに、妙な共通認識で繋がっている。


「まあ、少なくとも災厄はあったよ。なにせ逸れた。ひとりぼっちだ。“あいつ”が駆けた出したと同時に、ついて行っちゃった娘がいてね。離れていくあいつを止めようとしたもんだから、掴み上げられてたよ。煩わしかったんだろうね。そのまま鞄みたいに持たれてふたりで雪景色の彼方。雪も降ってきてたから、俺は追うのを諦めたよ」


 今の話、腑に落ちない。カイラは眉を寄せた。マルドの仲間は、人間を掴み上げて走り去ったという。一体何の話をしているのか。

 助けを求めてエリーを見ても、同じような顔つきをしていた。


「あれ? エリサスさんは知ってるでしょ。ほら、港町での」

「え……?」

「キュールだよ、ほら。あの娘」

「え、あの娘!?」


 待て待て待て。カイラは思わずマルドを睨みつけていた。

 マルドが逸れた仲間は問題無いと言っていたと聞き、自分は装備が充実した屈強な山男を想像していた。だがまさか、子供がいるというのか。それも、掴み上げて駆けられるほどの幼子が。

 この極寒の雪山に、間もなく雪も降りそうだと言うのに。

 それは、カイラにとって、セリレ・アトルス以上に優先すべき事柄だ。


「っ、今すぐ!!」

「へ?」

「今すぐ探し出さなければ、この雪山は大変危険なんです!!」


 マルドはピンとこないような表情を浮かべて何か口を開こうとしたが、それよりも早くカイラは言葉を続けた。


「逸れた場所は貴方を見つけた場所ですね!? 早く、早く探し出さなければ……、何か、目印になるようなものは、」


 マルドはふと考え、口を開いたが、同時。

 今度はけたたましい足音にかき消された。


「たたたたたたたたたたた大変です!! 見ました、あっし、見ました!!」


 そのドアを壊したら一生かかっても修繕させてやる、そう思いたくなるほど、ドアをドアとして見ない開け方をした来訪者は、ノブが壁にぶち当たる騒音にも負けず、深夜の修道院で喚き立てた。

 その人物は誰あろう、寝ていたはずのアルティア=ウィン=クーデフォン。

 外にいたのか防寒具に身を包み、息を切らせたティアはけたたましく言葉を続けた。


「オレンジの光、一瞬でしたけど、ピカッと!! もしかしたら、来たのかも!! でも、おっかしーんですよねぇ……」


 何故そうも自己完結できるのか。騒ぎ立てた上でティアは首をひねって考え込み始めた。

 一方マルドは満足気に頷いて、カイラに向き合いこう言った。


「それが目印だ」


―――***―――


 身体が二分するイメージというものを、人はどうしたら持てるであろう。


 だが少なくとも、魔術に精通した者ならば、魔術を放出するイメージを持っているし、その程度は日常茶飯事のはずだ。身体が二分するイメージはそれに近いものがある。

 イメージ。

 その抽象的な行動は、魔術師にとって最も必要なものであったりする。

 ありとあらゆる魔術はその空想によって始まり、空想によって力を増していく。

 人がただ単に生きていくだけならば決して必要でないはずの魔力は、しかし現代の様子を鑑みるに、照明しかり、自衛しかり、不可欠なものとして存在する。

 ゆえに、人は、最低限の“魔力”を学ぶ。幸運にもロジックに落とし込めたイメージを、学問として。

 そこまでは、万人共通のロジック。

 しかしそこから先、やはり抽象的なものに過ぎないイメージには、いかに解明しても相性というものが存在する。

 同じ説明をされても、理解できない者、異なるイメージをする者と、千差万別である。

 最も分かりやすい区分けは、魔力色としても現れる7属性。水曜属性の者に、金曜属性の魔術の話をされても異なるイメージをすることになるであろう。

 最大限に分かり難いと考えられる区分けは、間違いなく“具現化”だ。できる者と、できない者。あくまで噂でしか聞かないその存在は、どの属性でも再現は可能らしい。

 そう、どの属性でも、いや、あるいは魔術を理解できない者にすら、その奇跡とされる力は降り注ぐのかもしれない。変わらず、曖昧なまま。

 極端な例をふたつ出したが、今目の前に在る存在は、それらの中間、あるいは中間から“具現化”寄りに位置する事象であろう。


 物体ではない。しかし確かに質量が存在する。

 生物ではない。しかし確かに脈動を感じる。


 未だ不明点が多いらしいらしく、術者にもいまいち理解できていない、この事象。

 発動するためにはどのようなプロセスを行えば分かってはいるが、他の者に説明できることなどできはしない、この事象。


 何故できるのかと訊かれたら、きっと、カイラ=キッド=ウルグスはこう言うだろう。


 ただ。

 自分の離れた半身が、竜となって空を行くのをイメージした、と。


「キュゥーイ」


 甲高く、鳥類を思わせる鳴き声がレスハート山脈の夜空に響き渡る。

 分厚く曇り、ついに雪が降り始めた広い空に、スカイブルーの光源が弾けるように飛んでいた。

 姿は竜。

 全長30メートルほどの、村にでも出現されれば即座に壊滅せしめるであろう巨大な竜。

 しかしその竜には、山を噛み砕くと言われるような牙も、鉄板を切り裂くと言われるような牙も無く、全体的に丸みを帯びた姿をしていた。


「ワイズ。あちらの山の麓へお願いします」


 降り始めた雪に合わせてフードを被ったが、予備動作無く進路を変えた竜にすぐに風圧で飛ばされてしまった。

 カイラは僅かに苦笑し、自らが出現させた“事象”の背を撫でる。


 召喚獣・ワイズ。


 それは、カイラが出現させた、物体とも生命体ともつかない“事象”だ。

 いつから自分がこの空想を実現できるようになっていたのかは知らないが、幼い日、このワイズを前にして、心が打ち震えたのを覚えている。まだ自分が不出来な心構えをしていた頃、時たまレスハート山脈の空を自由に飛ぶのが好きだった。

 もっとも、今となっては麓からの荷運びと、遭難者の救助のときくらいしかこうして空を飛ばないが。移動に長けているというのも考えものか。


 アルティア=ウィン=クーデフォンが客間に飛び込んできた直後、ティアから簡単な方角だけを訊き、カイラはひとり、レスハート山脈の空へ飛び立った。

 ワイズを出現させた際、ティアがやたらとやかましかったのが未だに耳に残っているが、こんな夜の雪山に子供の同伴は論外。場所を知っているのだからとしきりに訴えていたが、本人の様子を見るに、曖昧なことしか分からないのだろう。それなら方角だけ聞き出し、レスハート山脈に慣れている自分ひとりで行った方が良い。当たりは付いている。日は経っているが、子供の足だ。マルドを救助した場所付近だろう。


 雪が更に強くなる。間もなく吹雪が訪れる。


 カイラはきゅっと口を結んで、ワイズに下降を指示した。

 高速で流れる地面は、一瞬だけスカイブルーに照らされ、即座に闇に落ちていく。

 一瞬、エリーにくらいは協力を要請すべきだったかと後悔したが、首を振る。

 彼女たちは山を舐めている。該当エリアに到着したら、ワイズから降りて足で探すことになるかもしれない。二次災害の末路しか見えなかった。


「……ワイズ、ここからはゆっくりお願いします」


 巨竜は応じると、翼をはためかせながら、器用に空中で止まってみせた。そして対空しつつ、徐々に旋回するように進み始める。

 ここが最初のポイントだ。

 カイラは今まで以上に慎重に目を光らせる。

 ティアの情報にあったのは3つの光源。

 慌ただしく要領を得ない言葉を発し続けていたところを見るに、ふたつは見間違いだろう。“あの色”が、同じ場所で3つも発生するわけがないのだ。

 だが何にせよ、魔力による灯りだろう。その中のひとつに、あのマルドという男性の仲間がいるかもしれない。


 雪が強くなる。吹雪が横から身体を叩く。ワイズで飛ぶのもそろそろ危険かもしれない。


 カイラは自分を戒めた。

 マルドを救助した際、深く話をして、小さな子供が逸れていることを聞き出せればこんなことにはならなかった。

 この凍てついた世界の中で、小さな子供が震えていると思うとカイラは気がおかしくなる。

 子供には未来がある。多くの人にとっての希望がある。だからこそ清く正しく育って欲しい。決して、こんな雪山にいていい存在ではないのだ。


 祈るように目を凝らして、カイラは肩を落とした。

 いない。

 どうやら最初のポイントは空振りのようだ。大方魔物同士が暴れ回り、その魔力色を見間違えたのだろう。

 と思えば丁度良く、雪が妙に荒れているエリアを発見した。

 吹雪に埋もれ始めたそこは数ヶ所、掘られたように雪が暴れ回っている。どうやら魔物同士の戦闘はここらしい。

 カイラは警戒して高度を上げた。流石にレスハート山脈に巣くう魔物たちと交戦したいとは思えない。いざとなれば高速移動が可能なワイズの背にいる以上、カイラの安全は確保されている。


 外れと分かれば次のポイントだ。

 カイラがワイズの背を撫で、次なるエリアへ向かおうとした―――その、“刻”。


「……ち。召喚獣かよ」

「あひゃあっ!?」


 ダンッ、という振動と共に、背後からそんな声が聞こえた。

 カイラは目をきつく結び、身体を硬直させる。

 理解不能な現象と、予測不能な自分の末路に動けずいると、再びダンッ、と音が響き、背後の気配が消える。

 今のは、人の声だ。

 たっぷり1分、動けずにいたカイラはそれだけの結論をようやく出せた。未だ動悸が激しい。

 慌てて振り返るも、見えるのは最早吹雪だけで、勝手に背中を使われたことに不服そうに喉を鳴らすワイズの鳴き声が夜空に響く。

 慎重に辺りを見渡す。雪山だというのに、今の一瞬でカイラは汗を滝のようにかいていた。

 僅かばかり飛行して、気付いた。近くに崖がある。探すことばかりに気を取られて気付かなかったが、ワイズはその中腹を飛んでいたようだ。“侵入者”は、どうやらそこから飛び乗ったらしい。

 魔物であれば問答無用で殺されていたであろう。どうやら自分も山を舐めていたらしい。“侵入者”は、そこへ戻っていったのだろう―――いや。

 人であれば、飛び落ちるはともかく、飛び乗るは不可能だ。高過ぎる。


 多大なる疑念と共に、カイラは崖の上へ向かうことを決めた。身体は未だ震えている。

 崖の下という危険地帯から一旦離れ、旋回して頂上へ向かう。するとほんのり、妙な光源が吹雪の先に見えてきた。

 赤い色の、一般的なマジックアイテムの灯り。それが、ようやく見えた穴ぐらの中から漏れている。

 やはり、人がいる。

 光源から目を離さず、ゆっくりと近付く。慎重に、慎重に。


 そして。


「まぁたてめぇか。暇な奴もいたもんだなぁ、おい」


 再び、今度は横から。

 ワイズの上、座ったカイラからは見上げても見上げても顔が見えない高さから、“男性”が、声をかけてきた。


 限界だった。

 カイラは、声にならない何かを喉から漏らし、意識が遠のいていくのを感じた。


 身体に力が入らない。

 頭が真っ白になる。

 ワイズはそれに合わせて、淡いスカイブルーの光体となって溶けていく。


「ち」


 落下の浮遊感と、地面で誰かに抱きかかえられた衝撃。

 そして。


「その人、どうしたの?」

「知るか。遭難者だ」


 そんな屈辱的な会話だけを、落ちていく意識の淵で拾った。


―――***―――


 “やはり、必然的にこうなった”。


 あてがわれた部屋。ふたり分のベッドと、小さなクローゼットだけが置いてある小奇麗で、静かな部屋。


 マルドの客室から戻ってきたエリサス=アーティは、ベッドに正面から倒れ込み、先ほどの会話を思い起こす。


 先ほどまで無人だったこの部屋は、まだ、少し寒い。


「…………会いたい」

「アッキィィィイイイーーーッッッ!! エリにゃんがデレてますよーーーっ!!」

「うぉりゃーーーっっっ!!!!」

「ぼうっ!!!?」


 と言っても、この子供がいれば途端部屋は暖まる。

 エリーが全力投球した枕の一撃を顔面に受け、宙返りするほど大げさに吹き飛んだティアは、挙句床に後頭部を打ち付けた。


「ぅぅぅ……、エリにゃん、夜ですよ、夜」

「ティアが最初に喚いたんでしょうがっ!! …………なにその、しー、のポーズ。腹立つんだけど」


 時間は深夜。修道院のメンバーから離れた部屋とは言え、叫ぶのは好ましくない。

 しかし名だたる騒音発生機・アルティア=ウィン=クーデフォンには、興奮しているのか寝静まる様子は無かった。

 ティアは頭をさすりながら、さもご機嫌といった様子で自分のベッドに座った。


「しっかし、いよいよですよ。とうとう到着したんじゃないですか? うれしーなっ」


 ようやく声を静め、朗らかに微笑むティアとは対照的に、エリーは表情に影を落としていた。


「……そりゃ、嬉しいは嬉しいけど」

「嬉しい。えへへ」

「……っ、“逸れたふたりと合流できるのは”嬉しいけど、状況が変わってきてるわ。そう手放しで喜んでばかりじゃいられない」


 エリーは頭を抱えて思考した。

 “ヒダマリ=アキラが名実ともに勇者となった”。

 先ほどマルドから得たこの事実は、あまりに重い。


 マルドから詳しく事情を聞いたところ、やはり事の発端はエリーがシリスティア魔術師隊の、サテナ=アローグラスという女性に手紙を書いたことだったそうだ。

 自分たちの足音がシリスティアから消えたあの事件。シリスティアは大々的事件の解決を前に、その事実を中々公表できずにいたらしい。

 彼らからしてみれば、明らかに伝説は堕とされた。

 あの巨獣を撃破したのは、間違いなく5万超というシリスティアの総力の結果だ。

 しかし同時に、数多の人間が、目立つことこの上ない“あの魔力色”を認識してしまい、その術者の末路を確認している。


 全世界待望とも言える日輪属性。確認者が多い以上、噂も流れる。シリスティアの事件解決の公表には、同時にその犠牲も記さなければなるまい。

 大樹海を捜索しても成果を上げられず、さんざん考えあぐねたシリスティアの魔道士隊は、結局事件解決“だけ”を公表し、噂は噂と跳ね飛ばす算段であったらしい。

 しかしそこに、魔術師隊から情報提供があった。

 エリーが手当たり次第に手掛かりを求め、大量に送りつけた手紙の内のひとつ。日輪属性の者と行動を共にしていたサテナ=アローグロスという魔術師が、その手紙の情報を提供したというのだ。

 エリーたちが雪山に籠っている間に、手のひらを返したシリスティアでは大捜索が行われたらしい。曰く、日輪属性であり、かつ大樹海の事件を解決した人物は、“勇者様”に足る存在である、と。

 あの魔力色に、やや脚色されているがその実績であれば、紛れも無い“勇者様”として扱われるであろう。

 その大捜索は、良くも悪くも続けざまに起こった偉業によって中止される。


 タンガタンザの“百年戦争”の停止。


 はっきり言って、エリーにとっては寝耳に水だ。

 あの男と行動を共にしている仲間からの手紙には、遅れるとだけあり具体的なことはなにも記されていなかった。

 それがまさか“百年戦争”などに参加しているとは。

 良く無事だったなという乾いた感想と、脱力感に襲われ、最早驚く気にもなれない。


 ともあれ名実ともに、あの男は―――“ヒダマリ=アキラ”は、“勇者様”となったそうだ。


「マルドンは凄いですよねぇ、シリスティアのこと、何でそんなに詳しいんでしょうね」

「あの人にはあの人の情報ルートってのがあるんでしょ。あたしたちとは大違い」


 ティアが愛称を口に出しても容易に脳内変換できるようになっている自分の頭を強く振り、エリーは深く肩を落とした。


「でも……そうね、やっぱり駄目。ちゃんと会って話をしないと。駄目、駄目、駄目ね。今後の身も振りも変わるでしょうし……、だって、あいつの名前を出しただけで、今後は周りの人の目の色が変わるってことでしょう。まともに依頼なんてうけられるのかな……」


 エリーは座ったまま指で膝を叩きながら、呟き続ける。

 そう、変わる。変わるのだ、世界が。

 今や“自分の妹”以上に名の広まった“勇者様”。

 そして、恐らくはその実力も、想像以上のものとなっているかもしれない。


「エリにゃん?」

「駄目ね、やっぱり、駄目。会わないと、ううん、話、しないと」

「エリにゃん、そんなに気にしなくてもいいじゃないですか」

「それでも、それでも、ううん、変わる、変わるんだ」

「アッキーが有名になった。それだけのことじゃないですか」

「それだけのことじゃないでしょう!?」


 その名を聞いて、思わず叫んでいた。

 ティアは目を丸くし、部屋の空気が張り詰める。

 エリーは、丸まるように膝を抱き、呟いた。


「ごめん」

「……いえ、いいんですよ。私も多分、無神経なこと言っちゃいました。すみません」


 弱々しく微笑んだティアに、エリーは罪悪感を覚えた。

 自分は最低だ。彼女に当たっても仕方がない。


「……ごめん、あたし、ちょっと歩いてくる。ティアはもう寝なさい」

「……はい、そうですね。正直言うと、もう、限界、だったり……」


 彼女は身体にスイッチでもあるのか。頭をぐるぐる回し始めたティアは倒れ込むようにベッドに横たわった。どうやら限界だったらしい。ただ、普段の行いを見るにそのスイッチは故障しているようだが。


 エリーはティアに毛布を被せると、小さく謝罪の言葉を口に出し、ゆっくりと冷えた廊下に歩み出た。


―――***―――


「……ん……」


 意識を取り戻すと同時に、覚醒。

 怠惰な自分を戒めてから、毎朝行ってきたプロセスだ。しかし見上げた天井は何故か見慣れた純白ではなく、いびつな岩石が支え合っているような黒だった。ほんのりと灯っている赤い照明が、闇の深さを強調している。柔らかなベッドもどうやら天井と同じらしい。身体の節々が痛む。


「目、覚めた?」


 その天井に、見知らぬ小さな顔が現れた。

 自分は看病でもされていたのか。覚醒しているはずなのに、気を失う前の情景が思い起こせない。

 とりあえずその疑問は置き去りにし、カイラ=キッド=ウルグスは、目の前の少女に語りかけた。


「ここは……?」

「山。雪山。それ以外、わたしには分からない」


 遭難者か。

 ふと連想されたその言葉で、カイラはようやく記憶を取り戻した。

 そうだ、自分は確か、小さな子供の救助へ向かっていたのだ。


「ああ、良かった。神に感謝いたしましょう。怪我はありませんか?」

「わたしは大丈夫。あなたの方こそ大丈夫?」

「ええ。介抱感謝いたします」


 色彩の明るい長い髪を首のあたりで縛った小さな顔が、にっこりとほほ笑んだ。

 少女のくせ毛なのか、少々髪が荒れ、ところどころ飛び出していた。同じく酷くくせのある髪質のカイラは妙な親近感を覚え、返すように微笑んだ。


「わたくしはカイラ=キッド=ウルグス。このレスハート山脈のマグネシアス修道院に務めております。貴女のお名前は?」

「キュール。キュール=マグウェル」

「キュール。本当にありがとうございました」


 キュールというのか。この愛らしい子供は。

 カイラは飲み込むように頷いた。


 さて。

 自己紹介も終わった。謝礼も重ねた。


 よし。


「ではキュール。貴女を保護します」


 その言葉を発した途端、キュールの顔が凍りついた。

 そして後ずさるように視界から消える。


 カイラは慌てて身を起こした。

 身を起すと、随分と広い洞窟だということが分かった。

 入り組んでいるのか入口は見えず、奥にもまだまだ続いている。自分が横になっていたのは、この洞窟の中腹辺りだろうか。冷気が遮断されているのか妙に温かい。

 そしてキュールは、洞窟の奥の方へ後ずさっていた。愛らしい表情とは打って変わって眉を寄せ、カイラを怪訝な瞳で見つめてくる。


「あなた、は、」

「わたくしは貴女を助けに来たの。わがままを言っても、通りません」


 キュールは凍りついたまま動かない。

 カイラは真剣そのままの表情でキュールを見つめた。


 このパターンか。

 カイラは過去の事例を反芻する。

 カイラが助け出した遭難者には、勿論重傷を負って動けない者、資源が枯渇して途方に暮れていた者と様々な種類がいるが、最も厄介なのは、自分が遭難者だと自覚していない者だ。

 客観的に見れば末路など容易に想像できるにもかかわらず、当人はまだいけると思ってしまう。

 流石にキュールほどの子供は見たことが無いが、そうした自覚症状の無い遭難は若い旅人に多い。

 そうした者たちを説得し、時には強引に救助するのがカイラの仕事だ。


「さあ、行きますよ」

「や、やだ!」


 洞窟に響く声と共に、キュールは結わった長髪を振り回して首を振った。

 こうなれば腕ずくだ。

 わざわざ大げさに腕を広げ、カイラはにじりよる。

 それが想像以上の恐怖を与えたのか、キュールはわき目も振らずに洞窟の奥へ駆け出した。

 奥は光源が無く、漆黒だ。一瞬でキュールの姿が消える。


「ま、待ちなさい!!」


 カイラも駆け出す。少し脅かし過ぎてしまった。

 あの暗さでは、流石に危ない。

 カイラも駆け出そうとしたところで、キュールが駆けた闇から、ズッと嫌な音が聞こえた。

 足を滑らした。

 そうカイラが判断し、思わず身を固めたところで、ガンッ、と。

 およそ人と自然物が衝突したとは思えぬ音が響いた。同時。闇の入口で、目を焼くような色が爆ぜる。


 目を焼かれたカイラは即座に瞳を閉じたが、その直前。

 キュールの小さな身体が、イエローの球体に覆われていたように見えたのは、気のせいだろうか。


「……キュール?」


 自分は足を滑らせないように、カイラは手探りでキュールの元へ向かう。

 2歩3歩と進み、ようやく視力を取り戻したカイラはゆっくりと瞳を開いた。

 すると。


 キュールが目の前に浮かんでいた。

 やはり目の錯覚だったのか、黄色い球体は存在せず―――?


 “浮いている”?


 キツネにつままれたような表情を浮かべるカイラに対し、キュールの表情は不満げになっている。

 まるでそれは、カイラのせいで、言いつけを守れなかった子供のような表情だった。


 すると。

 その、キュールが浮いている奥。


 “ぬっ”、と。


 高い位置から金色の眼光が闇から現れた。


「今は、しー、だよ」

「てめぇが騒いだから起きる羽目になったんだがなぁ」

「……ごめんなさい」


 目の前で、背中を無造作に掴まれた者と掴んだ者が会話をしていた。


 その男は。

 巨大で、白髪で、金色の眼で。

 私服に麦色のコートを無造作に羽織っただけの、雪山を舐めているとしか思えない服装で。


「次気絶しやがったら、雪山に放り出すぞ」


 カイラが気を失った直前に聞いたような気がする、辛辣な言葉を放った。


―――***―――


 ぼんやりと、窓から雪を見ていた。

 雪は暴れ回り、遠くの様子など見えようも無い。

 だが分かる。一歩外に出るだけで、この身は凍りつくだろう。枝の1本も掴めぬほどに、足の1本も動かせぬほどに―――そう、何もできない。

 でも“ここ”は、外に比べれば温かだ。

 決定的な温度差。外と中は、そうして区分けられている。

 だけど思う。思ってしまう。


 そんな区切りは、いずれ消えてしまう。

 触れれば震えるほど冷やされた窓は、まるで氷だ。

 いずれ消えゆき、内にいる自分は瞬時に凍りつくかもしれない。


 ならば外へ行かねばならない。外を直接感じ、強さを得なければならない。

 例え熱という熱が奪われ命が尽きたとしても、こう思ってしまう。


 高がその程度のことで世界が広がるのならば、あまりに安い代償ではないかと。


 エリサス=アーティがマルド=サダル=ソーグに声をかけられたのは、大聖堂の窓から外を眺めてそんなことを思っていたときだった。


「勝手に出歩いていたらまた怒られますよ」

「いやあ、性分でね。実はじっとしてられなかったりするんだ。幼い日を思い出すね。よく姉に怒られていたよ」


 消灯時間が過ぎてからの出歩きという点では、エリーもマルドと同罪だ。

 マルドは気付いているのかいないのか、何気なくエリーに並びながら、窓を眺め始めた。

 誰かを見つけて雑談でもできれば儲けものと思っていたのか、マルドは特に目指す場所が無いらしい。


 変わらず雪が吹き荒れている。

 外へ向かったカイラは無事だろうか。エリーには実現できぬ手段で飛び立った彼女の様子は、想像のしようもなかった。


「そういえば、マルドさんってセレンさんといつまで一緒にいたんですか?」


 エリーとマルドの関係は、生徒と教師の弟にあたる。

 リビリスアークの孤児院で、家庭教師兼手伝いのセレンの存在が無ければ、こうして会話をすることも無かったかもしれない。

 いや。どの道自分たちと彼らのパーティは、何らかの形で巡り合っていたのだろうか。


「いつまでかなぁ、もう覚えてないや。でもひとつだけ。彼女が辛かったときに、旅を出たのを覚えている」

「それは、」

「んん、言い方が多分悪かった。そうだな、“彼女の人生に辛くなかったときなんて無かったときに”、かな。そんで俺は追い出されるように旅立った。ふたり分の生活費って、結構馬鹿にならないんだよ」


 さも他人事のようなマルドの言葉に、エリーは眉を寄せた。

 だが、想像できてしかるべき家族構成に、追及することはできなかった。


「軽蔑されたっぽいね」

「い、いえ」

「ま、お互い結構サバサバしててさ。出発の日も、行ってくる、じゃあさよなら、みたいなもんだった。エリサスさんの考える家族とは違うかもしれないけど、今でもちょくちょく手紙はやりとりしてるしね」


 そんなものなのだろうか。

 そう考えると、エリーはこれまで、普通の家族というものに触れて来なかった気がする。

 親を失い、修道院で育ち、近頃は修道院にいる。それゆえに、家族というものに甘い幻想を抱いているのかもしれない。


「……ま、ぶっちゃけて言っちゃうと」


 窓を眺めながらマルドは言葉を続けた。

 吹雪は強く、激しく、時折窓を強く叩く風が、過酷な大陸を覆い尽くしているかのようだった。


「旅に出たかったと言うより、彼女と一緒にいたくなかった、って感じだったんだろうね」


 その言葉に、エリーは胸を衝かれたような気がした。


「そりゃ旅は楽しいし、やりがいのある役割も定めたところだ。でも旅に出た理由は、言っちゃえば逃げたってとこかな。ううん、逃げたって言葉は時にかっこよく使われることもあるね、じゃあこう言おう。見捨てたんだ。職についても何らかの問題が発生して、地方を転々と歩き回る羽目になるような我が姉を、俺は見捨てた。彼女といたら、俺は決して幸せになれないと思ってしまった」


 エリーはマルドの言葉を聞きながら、見捨てられたというセレンのことを思い浮かべていた。

 魔術師試験のために、ありとあらゆることを教えてくれたやり手の彼女だが、彼女自身の話を聞いたことはほとんど無い。

 ほとんど無表情の上にそれでは、出会ってからしばらく彼女のことを恐れていた自分に非は無いと考えていた。

 しかし彼女も彼女で、過去にはそれだけのものを抱えていたのだ。

 時間差で、自分が少し恥ずかしくなった。

 自分と彼女の関係は、正しい距離を保っていたのだろうか。


「……マルドさんは今でもセレンさんのことが嫌いなんですか?」

「嫌い? いや、まさか。……ってそうだよね、うん、嫌いだった時期は確かにあったよ。子供のときは養ってもらっていることも分からず不満を蓄積させるもんだしね。でも離れてみれば、ってのもあってさ、今はそうじゃない。そもそもそうなら手紙なんて書かないよ」


 窓に映ったマルドの表情は、笑っていた。


「子供の頃、それとは逆に、こう思ったこともある。幸運とか、不運とか、そういうどうしようもないものは、本当にどうしようもないのかってさ」

「?」

「“元”があるんじゃないか、ってこと。枝がいずれ自分を刺すなら、枝より大木を切り倒した方がいい。いずれ吹雪が暴れるなら、雲を消した方がいい。さもなきゃこうだ、枝にも雪にも負けなければいい。うん、言ってみると、どっちも俺らしい解答じゃないな……。俺ならこうだ、枝は伸びる前に避けるし雪が降るなら傘を差す。一番時間を使うのは原因の特定かな。前者のふたつは、俺を置いて山の中だ」


 皮肉っぽく言っていても、彼は彼で室内という環境に満足しているようだった。

 マルドの比喩は、きっと史上2回目の神話に見立ててのものだろう。

 ただどうやら、マルドは彼の仲間の身をカイラより案じていないようだった。それがあのふたりへの仲間としての信頼なのか、彼らの技量への信頼なのかは感じ取ることさえできなかった。


「ま、そんなわけで、俺は原因を解決しようと試みたことがある。結果は失敗。大木も雲も見つからなかったよ。多分単純な力不足だったんだろうね」

「それが旅に出た本当の理由なんじゃないですか」

「さあ、本当の理由なんて、実はひとつも無いのかもしれない。多くの想いの理由だけ薄れて、旅に出たいという欲求だけ蓄積された結果かもね。どの道、彼女を見捨てたことには変わらない」


 そういうものなのだろう。

 エリーには、そんな淡白な解釈しかすることしかできなかった。勿論、理解することもできない。


 エリーはぼんやりと考える。

 甘いことを言えば、喜びも悲しみも共有するのが家族というものだ。もっと言えば、ひとつの集団は能力の善し悪し無く、喜怒哀楽を共有する。

 だが冷たく言えば、それを甘受する権利があるのは、能力のある者だけなのだろう。


 仲間。家族。姉と弟。そして、姉と妹。

 距離感の最適化は、能力無くして図れない。


「とまあ、俺の話聞いてても何も生まれないし、誰も得しないよ。それより、丁度良かった。エリサスさんに会えたのは好都合だ」

「……もしかして、あたしに用があったんですか?」


 マルドはエリーの部屋へ来るつもりだったのかもしれない。

 だとしたら悪いことをした。話を振ったのはエリーだ。

 もっとも、港町の物語では冷静沈着だったマルドの違う一面に触れられたのは良かったのかもしれないが。


「いや、うん、そうじゃないと言えばそうじゃないよ。会えたのは偶然だ、そもそもエリサスさんの部屋知らないし」


 違う一面が、もうひとつ増えた。

 マルドは僅かに眉を寄せ、戸惑っているような様子を浮かべている。


「確たる用事があったわけじゃないんだ。だけど、“刻”を引き寄せる“あのふたり”が同時にこの地に来ているとなると些細なことも見逃せない」


 それは骨身に染みている。

 ひとりいるだけで毎日が劇場の舞台のように豹変するのだ。

 エリーは慎重に頷いた。


「もしかしたら気にし過ぎなのかもしれないし、エリサスさんには何の話をしているのか分からないかもしれない。そのときは、不安を煽るようなことを言って悪かったと謝るつもりだ」

「何か、変なことでもあったんですか?」

「ひとつ。ひとつだけ、エリサスさんに訊きたいことがある。さっき、俺の部屋に来たときのことだ」


 散々大げさな前置きをし、マルドはようやく、言葉を見つけたのか表情を硬くした。

 そしてゆっくりと、言葉を吐き出す。


「あのときあの部屋にいたのは、全部で何人だった?」


―――***―――


「もうっ、この娘はわたくしが育てます!!」

「や、やだ!」

「このガキとアマ……。マジで外に放り出してやろうか」


 1歩外に出れば極寒の世界が広がる洞窟内、その最奥。

 カイラ=キッド=ウルグスは絶叫していた。


 人が3人もいれば熱気も溜まるのか比較的温かな空間で、カイラの感情は白熱の一途をたどる。

 温厚を自称するカイラがここまで激昂しているのにも訳がある。


 目の前の、壁に背を預けて座り込んでいる大男だ。

 おずおずと名を訊ね、スライク=キース=ガイロードとだけ返してきたこの男は、子供を何だと思っているのか。


 キュールの防寒具は十全かと訊けば、知るか。

 キュールが安全に山を降りられるのかと訊けば、ガキに訊け。

 キュールとの関係を訊けば、勝手についてきた。

 キュールの教育方針はどうなっているのかと訊けば、俺はもう寝る。

 そもそもレスハート山脈に何の用があるのかと訊けば、Zzz……。


 話にならない。


 結果、カイラがキュールを保護しようと引き寄せ、そのキュールがスライクの足にしがみつくという構図が完成した。

 ある意味ふたりがかりで引いているのに対し、スライクの長い足は微動だにしない。


「まったく、貴方はこの娘の保護者では無いんですか!?」

「だぁ、かぁ、らぁ、よ。勝手について来たっつってんだろうが」

「例えそうだとしても子供を守るのは大人の義務です。ああもう、良く見ればこんなに擦りむいて……、貴方、ちゃんと子供の歩幅で歩いていますか?」

「言葉の意味伝わってんのか。勝手についてきたのに歩幅も何もねぇだろう」

「それで無理をしてこんなことに……、膝当てとか……。肘もですか。貴方、いずれ天罰が下りますよ。 ねえキュール。貴女からもちゃんとお願いしないと、このままでは取り返しのつかないことになりますよ」

「大丈夫。わたし、がんばってついていくから」

「わぁ、こんなにいい娘なのに……なんでこんなことに。わたくし発狂しそうです!!」

「狂って外に躍り出ろ。そのまま戻ってくるな」


 こんな男なのに、キュールの懐き度が最大と言っていいほど高い。

 最早何事だ、だ。これほどの不条理がこの世にあってたまるものか。

 カイラは半ば泣きそうになって座り込んだ。

 キュールの擦り向いた患部が照明の紅さも加わり酷く痛々しく見えてきた。

 即座に治癒を施したいところだが、キュールはカイラが何らかの挙動を見せるたびに震えてスライクにしがみつくようになってしまった。

 話せるようになったとはいえ、この大男に近付くにはもう少し勇気がいる。スライクは鬱陶しそうに顔をしかめながらキュールの方に視線も向けていなかった。

 もし自分がキュールにこれほどまで懐かれていたらと考えると不覚にも涙が溢れてくる。

 きっとここまで不憫な扱いはしないだろう。それどころかきちんと育て上げてみせる。“しきたり”を始めとする一般教養を教えるために、各地で行われる儀式というような雑学まで交えて明るく楽しい授業を施してみせる。日常生活の世話や言葉使い等々。教えることは山盛りだ。何せ話を聞く限り、この男は放任主義を通り越して、キュールを認知すらしていないようにしか思えないのだから。


 そこでふと、カイラはスライクをじっと見た。

 恐い。キュールのためとはいえ、自分が話せるようになった理由が分からなかった。


「だ、だい、大丈夫」


 キュールにはカイラがスライクを睨んでいるようにしか見えなかったのだろう。

 スライクを庇うように立ちはだかり、眉を寄せてカイラの様子を窺っていた。


「わたしは、怪我しないから」

「してるでしょう!?」

「ひっ、で、でも、シリスティアじゃこれが普通だった!!」

「シッ、え、あ、はい」


 カイラは途端言葉を止める羽目になった。

 シリスティア。勿論カイラは行ったことがない。

 『想像でしか知らない外の世界では これが普通らしいのだ まる』と、妙に納得してしまった自分がいる。

 いやいやいや、そんなわけがあるか。だが、キュールは一応旅人様だ。それも待望の女性の旅人。自分が目を輝かせて話を聞く対象だ。

 そうなると、途端カイラの根底が崩れてしまった。

 自分は、そう、普通から遠い。嫌っているわけでもないが、縁が無い。そんな人生を歩んでいる。

 故に『普通そうだ』と言われると、非常に弱かったりする。


 カイラは脱力し、へたり込んだ。


「……そう、ですね。とりあえず、そう。でも、怪我をしたら治すでしょう?」

「……うん」

「じゃあ、おいで」


 自分に宿っていたものが消えたかのように、キュールは近付いてきてくれた。

 カイラはキュールの膝に手を当て、スカイブルーの光を宿す。

 眼前に出された膝は、思ったよりは酷い怪我ではなかった。それどころか、その傷跡から子供らしい逞しささえ感じる。最近の怪我では無い。これは成長の証かもしれない。

 これも普通、なのだろうか。規律が厳格に定められた修道院の生活しか知らないカイラには、痛々しさの中に輝かしさすら感じられた。


 そう、経験。

 自分には、経験が絶対的に足りない。


 そこでカイラは胸の中で手を打った。

 そうか経験か。このスライクと会話できるのも、先ほどマルドとの会話という経験を積んだからだ。

 僅かばかり得意げになり、鼻歌でも歌いたかったが、生憎と怪訝な表情でこちらを見ていたスライクと目が合った。


「なにか」

「なんでそんな顔……」


 返答は泣きそうになっているキュールから来た。

 カイラは表情を正し、キュールの治療を終えたところで、はたと気付いた。


「こほん。そういえば、お伝えするのを忘れていました。今、わたくしの務めるマグネシアス修道院にマルド=サダル=ソーグという男性を保護しています」


 彼らが仲間だと関連付ける分かりやすい反応はキュールからしか上がらなかった。

 キュールは顔を輝かせ、スライクは特に反応も無く目を瞑った。


「そこで、どうでしょう。そこでマルドさんと合流されては。貴方たちの装備は山を舐めているとしか言いようがありません」

「会えるの?」

「ええ、勿論。だから……、そうですね、吹雪が止んだら、わたくしがお連れします」

「あの、大きいので?」

「ええ、あの大きいので、です」


 キュールは子供らしく上機嫌になっていた。

 どうやら苦手意識を薄れさせることには成功したらしい。

 これで本人の同意の上で、キュールを保護することができる。

 カイラも上機嫌になり、何の気なしでスライクの方を窺うと、彼はいつしか瞳を開き、眉を寄せていた。

 カイラも同時、眉を寄せる。


 嫌な予感がする。


 先ほど会ったばかりの相手だというのに、彼がそうした表情を浮かべていると、自分まで妙な焦燥感にかられてしまう。

 不安であれば訪ねればよいのに、カイラは何故か、スライクの言葉を待っていた。


「……おい、そこの修道女」


 流石にこれにはカチンときたが、一応返事をした。


「そこにはマルド以外、何か妙なのがいねぇだろうな」


 妙なの。

 その言い方は何を差しているのかカイラには分からなかった。

 だが少なくとも、スライクは何かを察している様子を見せている。

 一体どこに彼が眉を寄せる理由があるのか。あるいは、“どこにも存在しない理由”を、彼は得ているのだろうか。

 訳が分からない質問には答える必要は無い。

 だが生憎と、これだと言える“妙なの”にカイラは心当たりがあった。


「そうですね。貴方も態度を改めざるを得ない方々がいらっしゃいます。巷で話題の、“勇者様御一行”も我がマグネシアス修道院を合流場所に決めたとか」


 巷で話題の。1度でいいから言ってみたかった台詞だ。


 しかしカイラの渾身の台詞を、スライクは聞き流したようだった。ただ小さく唇が動いた気がした。

 そしてそれきり、彼は何も言わなかった。


「ではキュール。貴女は休みなさい。吹雪が止み次第、わたくしがお連れいたします」

「が、がんばる」

「流石に夜は寝るものでしょう」


 頭が揺れていたキュールに微笑みながら、カイラは優しく頭を撫でた。

 やっぱり子供はいい。どこかのお子様に爪の垢でも煎じて飲ませてやりたいくらいだ、効果があるとは思えないが。


 カイラは敷いた自分の上着の上にキュールが横になったのを確認して、洞窟の外へ様子を窺いに向かった。

 生憎と、まだ吹雪の音が聞こえてくる。上着が1枚ないだけで随分寒い。。

 この雪の向こう、自分がいないマグネシアス修道院は問題が起こっていないだろうか。


 消灯時間を過ぎているとはいえ、暴れ出す子供―――ああ駄目だ、一応彼女も“勇者様御一行”だった。だとすると、やはりお子様が妥当なのだろう―――がいるのを知っている。

 それと、他の懸念点として……。


 ……?


 ああ、そうだ。

 アリハ=ルビス=ヒードストがいたか。あの自由奔放な彼女は、アルティア=ウィン=クーデフォンと同じレベルで警戒する必要がある。


「……そう考えると、早急に戻る必要がありそうですね。セリレ・アトルスの調査は後日にしましょう」


 どうせ見間違いの類だ。

 何かしら院長が納得するものを提示した方が、幾分現実的だろう。


 そういえば。マルドはスライクが、何かを見たと言っていたのを忘れていた。


 この、凍てつく世界の中で。


―――***―――


「全部で3……4人……、あ、5人ですよ。ティアが最後に突っ込んできたのを足して」

「……そう、だ。ごめんね、不安がらせるようなこと言って」


 前述通り謝罪してきたマルドに対し、エリーは手を振って応えた。

 確かにマルドらしからぬ質問に不安を覚えたが、解決したのなら安心だ。


「それじゃ俺はもう寝ようかな。あのカイラって人、あいつら見つけられたかなぁ」

「はい、お休みなさい」

「……うん、エリサスさんもね」


 そう言いながらマルドは背を向けて去っていった。

 そしてエリーは、再度窓の外を眺めた。この激しさではカイラも戻っては来まい。

 カイラ自身はこの山には慣れているだろうから無事だろう。


 だから気がかりなのは。ティアが見たと言う3つの“根源の色”。


 エリー自身、ティアの見間違いを差し引いても、ふたつは当たりだと感じていた。

 もしカイラが、“自分たちにとっての当たりを引いたらどうなるだろう”。

 内と外が混じり合うその“刻”がやってくる。例え今当たりを引かなくとも、数日もすればやってくる。

 窓が消失するのなら、自分は、やるべきことがある。


 氷が解けるその前に。


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