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おんりーらぶ!?【第二部】  作者: コー
西の大陸『タンガタンザ』編
24/68

第34話『タンガタンザ物語(転・前編)』

“――――――”


 突然だが、誘拐された。


 ガタンガタンと固い床に尻を打ち付けながら、エニシ=マキナは絶望感を露わにした表情を浮かべていた。

 何故こんなことになったのか。マキナには答えが分からない。

 自分は、家業の仕事が早めに終わり、爽快な気分のまま『よし、外に繰り出すぞっ』と浮ついた心で街に繰り出しただけだ。

 そしてミツルギ家の街を歩きながら、ふと、見覚えの無い道を見つけ、折角だから探索して見ようと足を踏み入れたところで―――意識が飛んだ。

 気づけば手足を拘束され、暴れ回る狭い馬車の中だった。リズムカルな馬の足音が車輪の騒音に紛れて聞こえてくる。

 日はとっくに落ちたのであろう。馬車の中は薄暗く、辛うじて馬車の先頭と思われる方向から光源が漏れているだけだ。

 恐らくここは、ミツルギ家の街の外なのだろう。荒れ果てた大地を馬車で飛ばせば、丁度こんな感じの揺れになる。

 ここまでくれば、友人の悪ふざけでも何でも無い。

 間違いなく、これは誘拐事件だった。


「嘘だろこれ……」


 黒髪の頭をだらりと下げ、マキナは幸い拘束されていなかった口でぶつぶつと言葉を漏らした。

 ミツルギ家の街に有名な窃盗団が入ったらしいことは聞いていたが、まさか自分が被害者になろうとは。

 今年で18歳となり、職業柄わりと筋力はあると自負していたのだが、こうもあっさり攫われると自尊心が著しく傷つく。

 そして、そんな自分をターゲットにしたとなると、誘拐犯の目的は“マキナ自身”である可能性が高い。

 家の関係上、名の知れてしまっている自分の利用価値などいくらでもあるのだろう。

 これは何か。『え、俺って有名人じゃん』とか喜んでいた罰か。

 ならばマキナは家系ごと売れた名前を捨て去りたかった。


「……!」


 途端、馬の足音が緩み、馬車が減速した。その直前、何か悲鳴のようなものが聞こえた気がした。

 暗闇の中、馬車がとうとう停止したのを感じ、マキナは眉を潜める。

 誘拐犯が休憩でもとろうとしているのだろうか。であれば馬車の中に入ってくる可能性が高い。

 マキナはじっと馬車の扉があるのであろう方向を睨み、息を殺した。

 自分から話しかけるのは、その、なんだ。恐い。

 マキナが慎重に馬車の外の気配を探り、いつでもタヌキ寝入りができるように身構えたところで、


「ぅ―――おっ!!!!!?」


 馬車が、傾いた。

 暗闇の中、一気に平衡感覚が喪失し、マキナはパニックになりながら背を壁に打ち付けた。

 ズンッ!! と面白いように馬車は横転し、マキナは頭を守るように身をかがめる。

 真横に積荷らしき物体が落下し、樽でも割れたのかマキナは全身にアルコール臭の液体を浴びた。


「がっ、かぁ、」


 受け身も取れず壁に激突。

 身体を襲う激痛。

 骨が砕けるような衝撃に、マキナは目をきつく閉じる。

 恐すぎる。下手をすれば死んでいた。


 マキナは拘束された手足を芋虫のように蠢かせ、何とか体勢を整えようとする。

 そして状況把握に努めた。

 何が起きた。誘拐犯が馬車の操縦でも誤ったのか。

 しかし倒れる直前、馬車は停止していたように思える。

 停止している馬車が横転するとなると、並大抵のことではない。

 そしてその、“並大抵のことではないこと”と言えば、生まれも育ちもタンガタンザのマキナにとって、ある事実に直結する。

 すなわち―――戦争。

 タンガタンザの大地においては、魔物の襲撃を受けないことの方が珍しい。


「マジっすか」


 マキナの顔が一気に青くなった。

 誘拐犯たちの声は聞こえてこない。

 きっと、魔物に叫び声を上げる間もなくやられたのだ。


 そうなれば、次は、自分。

 自分で言うのも何だったが、マキナの戦闘能力は皆無だ。

 手足が拘束されていようがいまいが魔物に襲われれば結果はひとつしかない。

 精々、受け身でもとって苦しまないように死ぬくらいできるかどうか、といったところだ。


「ちくしょう……、マジかよ……、冗談じゃないって……」


 マキナは床となった馬車の壁を這い、暗闇の中、身を隠せる場所を探す。

 どうすれば生き残れるのか。

 幸いアルコールを浴びた身体だ。

 臭いは隠せるかもしれない。

 死ぬのは―――恐い。

 どうしようもなく、たまらなく、終わるのは―――恐い。

 死には、あまりにも、優しさが無い。

 この恐怖は、生物に原始的に根付き、如何なる事象が起きようとも普遍的なものである。


 マキナは狼狽しながら散乱していた樽の木片を被った。

 きっと頭を隠している程度であろう。

 だが、それで安堵感を覚えるほど、マキナは錯乱していた。


 そして、バギッ!! と。

 扉の造りを無視するような音が響いた。

 星明かりが差し込み、そして“何か”の影が中を覗きこんでいるのをマキナは感じ、そして終わりを悟った。

 無理だ。

 もう、侵入者に自分を発見されている。


 詰んだ。


「あ?」


 声が聞こえた。

 魔物にしては珍しく、不快感がそのまま伝わってくるような声色だった。

 マキナが目をきつく閉じたまま身を固めていると、グッ、と尋常ならざる力で腕を掴まれた。

 これは、死んだ。


 もう逃げられもしない。

 そして次に腕を強く引かれる。このまま喰われでもするのだろうか。

 カモフラージュになると思っていたアルコールはむしろ味のエッセンスになるのかもしれない。

 そんな現実逃避をしていたマキナは次の瞬間、宙を舞った。


「ぇ―――」


 強引に投げ捨てられたような感覚。そして、重力に引かれて地面に叩き付けられた。

 荒れ爛れた大地に転ばされ肺から空気の塊が吐き出されても、マキナは自分の身体を物のように扱うその力に衝撃を受けていた。

 これが人間と魔物の差か。

 マキナは仰向けに倒れ、ようやく目を開いた。

 せめて最後くらいは自分を殺す物の姿くらいは確認しておこうと、マキナが人外の力を振るった魔物に顔を向ける―――が。


 そこにいたのは、人外ではなかった。


 完全な白髪。屈強な体躯。2メートル近い長身。

 そんな人物が、恰幅のいい2人の男が倒れている隣、同じく横転している巨大な馬車の上に、立っていた。

 まるでそこが、彼の縄張であると主張しているかのように、大胆不敵に。

 まるで総てが、彼の世界であると断言しているかのように、傲岸不遜に。


 猫のように光る金色の眼を携え、満天の星空の下に、立っていた。

 その人物は、あるいは人外と捉えても良かったのかもしれない。


「そこの病人。こいつでいいんだろ」

「私は病人ではない」


 背後から、彼に不服の意を唱える声が聞こえた。

 マキナが振り返ると、病弱そうな女性が立っていた。

 大男を見た後だと一際小さく見えるその女性は、白衣のようなものを纏い、無表情でマキナをまっすぐ見ていた。

 マキナがそのままでいると、白衣の女性が近付いてきた。


「エニシ=マキナで間違いないか」

「あ……ああ」


 相手の思惑も分からず、マキナは混乱したまま肯定した。

 今の自分は、何を訊かれても頷くであろう。


「そうか。彼で間違いはない」

「はっ、聞いたことそのまま伝えるだけか。楽な仕事だなぁ、おい」


 淡く、薄く、感情が無いような口調の女性。

 荒く、強く、感情をそのまま出すような口調の男性。


 そんな2人は並び立つと、座り込んでいるマキナを見下ろしてきた。

 女性は、静かに。

 男性は、睨むように。


 そんな奇妙な2人に囲まれながら、マキナはようやく自分が助かったのだと感じられた。


「それなら俺は帰るぞ。次に下らねぇことで呼んだら屋敷を潰すと伝えとけ」

「分かった。だが、問題がある。君が無理に飛ばさせるせいで、ここからの移動が困難になった」

「あ?」


 マキナはちらりと女性の背後に視線をやった。

 そこでは、馬のいない奇妙な形状の馬車が、アルコール以上に鼻孔をくすぐる臭いと煙を吐いている。

 この2人は、あれを使ってここまできたのだろう。


 ああ、あれは。マキナは僅かに目を光らせた。


「おいおいおいおい、病人さんよ。俺は送迎付きって聞いてたぜ?」

「私は病人ではない。……勿論最初はそのつもりだった。だが、実際移動は困難だ。誘拐犯の馬車を率いていた馬も逃げてしまったし」

「見りゃあ分かんだよそんなこと。ミツルギ家の秘密兵器っつーのは大層なもんだなぁ、おい」

「ああ、そうだな。だがどうやら、現段階では使い切りのようだ」


 男性の悪態を、女性は微妙にずれて受け取る。

 やがて男の方が折れたのか、はたまた無駄だと悟ったのか、悪態を吐きながら横転している馬車に背を預けて目を閉じた。


「ときに、エニシ=マキナ」

「んえっ!?」


 思わず男を目で追っていたマキナは、女性の声に飛び跳ねた。


「な、な、なんだよ?」

「予定が変わった。君を街に送り届けるように言われていたのだが、移動手段が無い。とりあえず、しばらくは私たちと行動を共にしてもらう」


 やはり彼女たちは、自分を助けるためにこの場に来たようだ。

 感謝を捧げるべきなのであろう。


「まあ、た、助かったよ。ありがとな。あ、あとさ、」

「言われたことをやっただけだ。私はアステラ=ルード=ヴォルス。万屋を営んでいる」

「うん、そうか、アステラ。助かった。だけどさ、俺今現在進行形で、」

「あっちはスライク=キース=ガイロード。君の救出の協力を要請した男だ」

「そうかそうか。アステラにスライクだな。覚えた。ばっちりだ。だからさ、」

「とりあえず馬車の中に食料があるかもしれない。私は君の身の安全を保証するように“言われている”。私が捜索してこよう。恐らくスライク=キース=ガイロードはこれ以上協力してくれないだろうから」

「えーとさ、聞いてんのかなぁ。つーか見えてんのかなぁ」

「君の様子を見るに、樽は割れてしまったようだな。水は絶望的だろう。だけど、一晩くらいなら何とかなる」

「ねえ聞いてる!? 見えないの!? 俺の手足!! 縛られてんじゃんっ!!」

「? そうだな」

「駄目だこいつ常識通じねぇっ!! 助けてもらって何だけど、もっかい言うよ!? 常識通じねぇっ!!」

「噂では、君は“それ”を嫌うそうだが」

「御託はいいから解いてくれよ!!」

「ああ、そういうことか」


 ようやく意思疎通ができ、マキナは戒めから解放された。

 本当になんだこの奇妙な連中は。

 スライクというらしい男は目を瞑ったまま動こうともしないし、アステラは眉ひとつ動かさずに会話を行う。

 助けてもらったことには感謝しているが、彼らの方があるいは誘拐犯以上に不気味だった。

 ただとりあえず、恩は返すべきだろう。


「なあ、あれが移動手段なのか?」


 マキナは未だプスプスと煙を上げている奇妙な物体を指差した。

 アステラは無言で頷き返してくる。


「あんた、あれを直せるのか?」

「不可能だ。私はあれが製造されるところは見たが、修理しているところは見たことが無い」


 妙な言い回しに何かを感じたが、マキナはため息ひとつに止め、立ち上がった。

 手足手首はひりひりと痛むが、どうやら動きに支障は無いらしい。

 これならいけるかもしれない。


「? てめぇ、何するつもりだ?」


 馬のいない馬車に視線を向けたところで、意外にもスライクというらしい大男から声をかけられた。

 マキナの瞳が、未知なる物体に向ける色ではないと捉えたのかもしれない。

 マキナは大男に細めた眼を向けた。このスライクという男は、初対面の人間の僅かな変化をも機敏に察知できるというのだろうか。

 だが、許容範囲だ。自分の心が鉄のように冷え、そして燃えているのを確かに感じる。

 ようやく調子が出てきたのかもしれない。


「とりあえず、様子を見る。主要パーツがイカれてたらアウトだけど、まあ誘拐犯の馬車のパーツを使えば上手くいくかも」


 マキナは腕をまくり、鼻歌交じりに馬のいない馬車に近付いた。

 壊れているものを見ると、思わず上機嫌になってしまうのは悪癖かもしれない。


「直せるのか?」


 今度はアステラの声が背後から届いた。

 マキナは馬のいない馬車の前に座り込みながら、生返事をする。

 やはり見えない。空の星々程度では、手元を照らすのに足りなかった。

 となれば奪うか。未だ気絶している誘拐犯が照明器具を持っているかもしれない。


 マキナは立ち上がり、横転している誘拐犯の馬車に視線を向ける。

 その途中、アステラは感情の読めない瞳をマキナに向けてきていた。

 そういえば何かを訊かれた気がする。

 集中していると周囲が見えなくなるのも、悪癖だった。


「直せる。直すさ」

「この物体を知っているのか」

「ま、まあ、家柄的にミツルギ家とは縁が深くてね」


 アステラはそれ以上何も言わなかった。

 彼女たちは、自分を助けに来た以上、エニシ=マキナという人物を知っているはずだ。

 だからこれ以上、問答は必要ない。


「俺だってこの荒野を歩きたくない。何とかかんとか頑張って、移動手段を確保する。工具が無いのがキツイけど、石でも何でも使って何とかするさ」


 エニシ=マキナの役割は、破壊を直すことだ。

 その範囲は広い。

 先ほどアステラは自分のことを万屋と言っていたが、ある意味マキナも万屋だ。

 戦争によって破損した町や村を修復しに回ったこともある。


 タンガタンザの全ては一方通行だ。

 襲われれば破壊され、破壊されれば廃れ、廃れれば土に還っていく。

 以前それに反抗し、タンガタンザの荒野に村を作り上げた大物がいたと聞いたことがあったが、マキナにとって、それは賞賛すべきことであっても驚愕することでは無かった。


「速攻で直してやる。壊れたもんを、そこで諦めてたらつまんねぇよ。まあ見てろって―――」


 時は不可逆で。

 物体も不可逆で。

 タンガタンザは不可逆だ。


 それが不変であると、大地に、人に、心に、深く強く根付いてしまっている。


 だが、だからこそ。

 マキナは総てを直してきた。

 マキナは総てを塗り替えてきた。


 そんなものは、自分の世界に関係ないとマキナは豪語できる。


「―――俺の世界に“普通”は無い」


 誘拐犯の照明具は壊れていた。

 修復は翌日になった。


――――――


 じっと誰かが見つめている。

 その瞳は自分を逃さず、どれほど走っても、どれほど潜んでも、どれほど懇願しても自分から離れない。


 逃げなければ―――だが、どこに。

 潜まなければ―――だが、どこに。

 懇願しなければ―――だが、誰に?


 分からない。だから、終わらない。


 じっと誰かが見つめている。


 見られていることは分かっている。

 そのことだけが分かっている。


 それだけなのに、感じてしまう。


 恐い。

 何物よりも、何者よりも、あるいは、自分自身よりも、恐い。


 恐くて恐くて、走り続けた。逃れ続けた。駆け続けた。


 だけど、駆け抜けられない。


 どこに行っても。

 どこまで行っても。

 奇跡にすがっても。


 じっと誰かが見つめている。


――――――


「ん……」


 目が覚めると、日はとっくに天に昇っていた。

 エニシ=マキナは目をきつく閉じて身体を伸ばした。

 身体の節々が痛く、背中の感覚がほとんど無い。

 ただ、異常なほどの身体のだるさは、どうやら昨日の誘拐事件の方が原因らしかった。


 それと、もうひとつ。


「夢……」


 奇妙で、奇天烈で、そして不気味な夢を視た。

 夢というものが人に希望を与えるものならば、今の世界は夢ではない。

 そこから持ち帰れたのは恐怖だけだ。

 ただ自分が見つめられるだけで、そして何も壊れないからエニシ=マキナがいる意味は無い。

 だけどそこには自分とその“何か”しかいない。

 だから意味が無く、自分が見つめられることだけの世界。


 最近よく視る夢だ。

 マキナの世界に存在する、黒い世界。

 マキナはいつか、あの世界を直したいと思う。


 “直す者”であるエニシ=マキナがあの世界にいる意味があるとすれば、壊れた世界を直すためなのだろうから。


―――だけど時は、不可逆だ。


「……とりあえず助かったんだよな、俺」


 夢の記憶を放り投げ、マキナは現実世界に戻ってきた。

 いきなり始まって、いきなり終わったエニシ=マキナの誘拐事件。

 度重なるショックで大分感覚が麻痺していたが、考えずともマキナは随分と危ない橋を渡ったことになる。

 そのことに深い絶望も、そして身も震えるような歓喜も昇って来ない。

 何故なら自分が知らない場所で、ただ世界が勝手に回っていただけのことなのだろうから。


「ん……んーん」


 口の中は気持ちが悪く、頭は身体同様痛む。

 それでも僅かばかり身体を預けていた床を惜しみ、マキナは身体を起こした。

 誘拐犯の馬車から運び出した毛布を投げ捨て、よろよろと立ち上がる。


「ここは……、あー、そっか」


 マキナは目を擦りながら、深く深く頷いた。


 昨夜、結局夜目での作業は断念し、マキナたちは近くの岩場まで移動してきた。

 この荒野には、いささか不自然にいくつかの巨大な岩石が転がっていた。

 散乱した岩石の隙間に、何とか人が潜り込めるような場所を見つけ、この場で夜露を逃れたのだ。


「マジ勇気ある行動したわぁ俺。軽い感じで魔物が通ったらと思うとぞっとするね! まっ、もう終わったことだけどっ」


 寝ずの番も覚悟していたのだが、疲れ果てた身体は言うことを聞かなかったらしい。

 マキナは努めて恐怖を払拭しながら、岩石と岩石の穴から這い出る。

 自分の身の数倍はある巨大な岩石は、一体何をどうしたらこれほどまでに散乱するのか。

 だが、まあいい。

 こういうことは、気にしないのがイチバンだ。


 あの暗闇の世界を乗り切った今は、強気に、不敵に、前だけを見ればいい。


「きゃあっ!?」


 女性のような悲鳴が響いた―――マキナの口から。

 だが、マキナにも弁明の余地はある。

 穴から這い出た直後、目の前に、いかにも体調が悪そうな人間が体育座りで待ち構えていたら誰でも言う。


 きゃあ、と。


「おっ、おおおおおおおおっ、おまっ、お、おはよう。アステラ、だったな」

「奇妙な挨拶だな。私は聞いたことが無い」

「エニシ家の家訓なんだ。知らないだろうな、トップシークレットだ」

「分かった。誰にも言わない」

「そうしてもらえると助かる……」


 マキナを待ち構えていたのはアステラだった。

 小さな身体を岩陰に潜り込ませるように座っている姿も、淡く薄い口調も、彼女を病棟に搬送する理由としては十分だ。

 昨夜彼女を見ていなければ、マキナも迷わずそうするだろう。もっとも、移動手段は現状無いのだが。


「悪かったな、寝過ごした。待たせたか?」

「別に。私は昨夜からここにいる」

「へ?」


 昨夜、アステラとは丁度この場で別れたと思う。

 人ひとりしか眠れそうにないこの場所を発見したとき、マキナはアステラに譲ろうとしたのだが、アステラにきっぱり断られた。

 その後彼女は別の寝床を探しに行ったと思っていたのだが、彼女はここで眠ったのだろうか。


「なんだよ言えよ。寝床が見つからなかったんだろ? この場所譲っても良かったんだぜ?」

「私はここにいる必要がある」


 薄く淡い口調のくせに、言葉だけは強かった。

 マキナは眉を潜めるが、アステラは無表情のまま見上げてくるだけだった。

 顔色は、相変わらず悪い。もともと室内にいるような女性なのだろう。

 こんなところまで引っ張り出してしまったのは、やはり自分が誘拐されたからだろう。

 マキナは頬を掻きながら、アステラに視線を合わせた。


「……つーか、さ。そこで何やってんだ?」

「私は君を街に届けるように言われている。だから夜の間、じっと君を見張っていた」

「てめぇのせいかぁぁぁあああーーーっっっ!!!!」


 岩に囲まれた閉鎖空間の中、マキナの声がごわんごわんと反響した。


「君が何を言っているのか分からないが、ともあれもう昼過ぎだ。そろそろ修理を始めてくれ」

「くっそぅやられた。まさかお前、最近夜な夜な俺の枕元に立ったりしてないだろうな?」

「もう1度言うことになるが、君が何を言っているのか分からない」


 押しても引いても、アステラから戻ってくるのは同じ淡さの同じ薄さ。

 彼女は本当に淡白だった。そこから何も探れない。

 マキナ自身、そこまで世界を知っているわけではないが、彼女のような種類の人間に会ったことは無かった。

 何かが壊れている。

 だけど、その何かが分からない。

 だから自分は―――彼女を直せない。


「お前さ、笑ったりしないのか?」

「ああ」


 まるで、最初から用意してあったような答え。

 彼女はそれを、何度も答えたことがあるのかもしれない。

 それはとても、哀しいことのように思えた。


「もっと積極的に、とか」

「善処する」


 それすらも、まるでテンプレートの返答。

 彼女はきっともう何度も、こんなやり取りを続けてきたのだろうか。

 マキナはそれきり、彼女の“何か”に対する問答を控えた。


「そういやよ、あの大男……、えっと、」

「スライク=キース=ガイロードのことか。彼ならその辺りにいると言っていた。そして、移動手段を確保したら呼ぶようにとも言われている」

「協調性ねぇなあ……」


 昼過ぎまで寝入っていた自分が言えた義理ではないが、あの男も相当のものなのかもしれない。

 マキナはアステラに手を伸ばし、彼女はそれに“応じ”、手を借りて立ち上がる。

 まあどの道、あの移動物体の修理が先だ。


「そうだ、誘拐犯は?」

「?」

「?」

「?」

「えっ、俺が悪いの? ちゃんと最後まで言葉を続けなかったから?」

「?」

「……えっとだな。誘拐犯はどうなった? 昨日、俺らあいつら放置してたじゃん。縛ったりとかしないで。捕まえとかないとまずかったんじゃないか?」

「私が言われたのは、君の救出だけだ」

「……それが答えですか、そうですか」


 つまり、今なお放置ということか。

 もう目を覚ましているかもしれないが、少なくともマキナがいる岩場には来なかったのだろう。

 彼らも彼らで移動手段が無いのだから、タンガタンザの大地で縛りつけるというのも酷な話だ。

 もっとも、馬車の近くに放置してきたというのは“非情”だが。


 魔物というものは、流石に無意味な破壊まではしない。

 種類にもよるが、魔物にとっても自然は必要だ。

 生息地、という言葉があるように、魔物にとっても自分が在るべき場所というものが存在する。

 だから危険なのは街や村を始めとした建造物。

 噂で聞いた話だが、南の大陸―――シリスティアでは“とある場所”を封じるための防波堤が破壊され続けてきたという。

 だからマキナたちも馬車から離れ、“安全な岩場”に移動してきたのだが、誘拐犯たちは置き去りだ。

 とりあえず、自分たちは無事に夜を明かせた。

 誘拐犯はもう自力でどうにかしてもらうとして、後は放置してきた移動手段が破壊されていないことを祈るばかりだ。


「……うっそーん」


 岩石が密集した地帯から顔だけを出し、外の様子を探ったマキナは絶望した。

 数百メートルほど離れた地点。

 昨日自分が誘拐犯から救われた箇所。

 草木も枯れ果てた、だだっ広い荒野を妨げるものは、何も無かった。

 移動手段が、跡形も残さず、消えている。


「えっえっ、昨日、『魔物の大行軍♪』とかあった?」

「無かった」

「あそこに馬車が無い」

「ああ、見えている」

「詰んだ……」

「詰んでない」

「……へ?」


 どうも冷静なアステラの視線を追って、マキナはぎょっとした。

 顔を向けた先、岩石の密集地帯が始まる地点。

 岩陰に、巨大な物体が2つあった。


 馬のいない馬車と、馬がいなくなった馬車。


 後者は軽く人でも住めそうなほどの質量がある物体が、遠方の荒野から姿を消し、この岩場まで移動していた。


「…………巨大生物たちが、『おっ、馬車あんじゃん、蹴ろうぜ蹴ろうぜ』『おう、じゃああそこゴールな☆』みたいな、」

「無かった」


 アステラは学習したのか、マキナの言葉の途中で否定した。

 マキナは頭を抱えて馬車に近付く。

 紛れもなく、昨夜自分が拘束されていた馬車だった。


 そしてアステラは、やはり感情の無い口調で、言葉を続けた。


「これを運んだのはスライク=キース=ガイロードだ。さあ、早速修理を頼む」


 マキナは呆然としたまま、自身の身の数倍はある馬車を見上げ、呟いた。


「うっそーん」


――――――


「ミツルギ=ツバキ?」

「そうそう。俺の妹の娘。だぁいじな姪のミツルギ=ツバキちゃん。今年10歳……だったか……いや、12歳だっけ? それともひとケタ? 偶数だったような気がするんだけど……。ああ、よく覚えてないしどうでもいいや。めんどくせぇ」

「大事な姪、ね」


 クロック=クロウは帽子を目深に被りながら辟易した。

 間もなく燃えるような夏が襲来するというのに、身体を覆い尽くすような黒々しいマントを纏い、顔面さえも丸眼鏡や髭で色白の肌を覆い隠している。

 クロックがいるのは粛々とした態度が好まれるような事務室だった。

 部屋の奥に磨きに磨き上げられた精緻な造りの事務机があり、その周囲には本棚が並び、中身の本も整然と並んでいる。

 机からやや離れた部屋の中央には事務机と同じ造りの細長い机が設置されており、寝心地の良さそうなソファが両脇を挟んでいる。

 室内は、湿度や温度を調整しているのか、廊下とは打って変わって快適であった。

 部屋の隅には軽食用の菓子や飲料水まで置いてある。

 この部屋で仕事をしたのならば大層捗るであろう。

 クロックは、奥の机と中央の机、丁度その中間に立ち、この部屋の主の言葉を待った。


「前に言っただろう。ほら、君が作り上げた村の件。随分と素晴らしいことをしてくれた。魔物の脅威を知りつつも、タンガタンザのために村を作ってくれたんだから。抗う力を広めてくれた」

「それとお前の姪がどう関係する」


 クロックは苛立った声を上げた。

 理由が何であれ、“あのこと”を自分は忘れたわけではないと伝えるために。

 すると目の前の男は、伝わったのかにやりと笑う。

 クロックと違い、だらしない軽装と、無造作に生やした不精髭の男は口元を歪め。


 ミツルギ家現代当主―――ミツルギ=サイガは肩を落として、しかしどこか得意げに、言った。


「なんだい。“俺が君の村を吹き飛ばしたこと”を根に持ってるのか、クロッ君」

「……」


 クロックは表情を変えず、マントの中で拳を握った。

 “あれ”は、事故だった。いや、必要性のある破壊だった。

 それを、クロックは知っていた。

 4年前。クロック=クロウはタンガタンザの荒れ地に村を作り上げた―――それは、創り上げたと言ってもいいかもしれない。

 タンガタンザは、あまりに不可逆なのだから。

 人は、許された領域のみにしか身を置くことができず、そして許されざる領域が増えていく。

 それは世界一般の常識ともいえ、総ての人間が、それは当り前のことであると、“そんな異常”を認めていた。


 当時青年であったクロック=クロウは、ふと、そんな異常に抗ってみたいと思うようになった。

 協力者を集い、資金を集め、タンガタンザの余力を結集させた。

 百年近く続いていたタンガタンザの戦争の被害が、ミツルギ家の新たな当主の力によって格段に喰い止められていたのも追い風となり、5年経ち、10年経ち、クロック=クロウは再起不可能と言われた大地に、小さいながらも許された領域を創り上げることに成功した。

 が。

 2年前。

 徐々に活気が満ち始めた、創立2年のクロック=クロウの村は、丸ごと爆破された。

 粉砕する必要のある魔物の大群を、最も効率的に撃破するために。


 あのときあの村に、あの大群を封殺できる力が備わっていればそんなことは起こらなかったであろう。

 あのとき魔物の大群を撃破しなければ、さらに多くの村が許されざる領域となったであろう。

 だからあの破壊は、正しい異常であったのだ。


 現在クロック=クロウは、巡り巡ってミツルギ家で参謀のような仕事をしている。

 それに故に、分かるのだ。戦争を行う立場となれば、あれが戦略的に必要な策であったことが。

 だがそれでも、忘れることはできない。

 自分の生涯をかけた夢の末路も、自分の―――“自分たち”の夢に生涯をかけてくれた者の末路も、そして、村から避難し損ねた者たちの末路も、悔恨も。

 忘れることは―――許されない。


「まあ、ともかくだ」


 サイガは自分に注目させるように軽く手を振って、言葉を続けた。

 そこに謝罪の表情など無い。


「その、ツバキちゃん。彼女を君の従者にしようと思うんだ」

「従者? ……理由を訊こうか?」

「だぁかぁらぁ、言ったろ? クロッ君の功績を称えて、だよ」

「それならばエニシ家に付ければいいだろう。まあ、今誘拐中らしいが」

「誘拐の方は大丈夫でしょ。アステラちゃんに任せてあるし。まあ、んなどうでもいいことは置いといて」


 サイガは座ったまま大きく身体を伸ばし、面白くなさそうに口を尖らせた。


「エニシ=マキナに従者を付ける作戦、一昨年だかにしくっちゃってさ。エニシ=マキナには本気で断られると思う。繰り返すのは嫌いなんだ、嫌な奴を思い出すからね」

「……ミツルギ=サクラの件か」

「そうそう。サクラちゃん、今どこかなぁ。俺の見立てだとアイルーク辺りに行ってそうだけど。あそこはいいぜぇ、何せ静かだ」


 下手に言葉を出すと、サイガの話は脇道に逸れてしまう。

 サイガは口を噤んだ。

 サイガのひとり娘であるミツルギ=サクラに関しては、クロックも詳しくは知らない。

 たまに屋敷の中で見かけた気がするが、話をしたこともなかった。


「ま、どーでもいいことは置いといて。クロッ君。ツバキちゃんを従者にしてくれ。あの娘もそろそろ主君を決めていい頃だ」

「だから何故私が」

「従者を付けるに足る人間が、エニシ家の次点ではクロッ君だからさ」

「私も本気で断っていいか?」

「えぇ~、頼むよぉ、クロッ君」

「…………」


 面倒な絡み方をされた。

 サイガがこういう口調のときは、基本的に断っても無駄だ。

 クロックは再度辟易し、空気の塊を吐き出した。


「とりあえず、会ってみはしよう」

「やった、あの娘の世話係を手に入れた!」

「本気で断ろう」

「んじゃ早速行ってくれ」


 サイガにクロックの声はもう届いていないようだった。

 サイガは机の中から無造作に紙の束を掴み出し、机の上でかき混ぜるように散らばす。

 やがてひとつの用紙を掴み上げ、それをそのままクロックに差し向けた。

 手に取ったクロックが眉をひそめながら見ると、どうやらそれはミツルギ家の町の外出許可証のようだった。

 すでに判は押してあり、所々が曲がっている。


「門番にそれを渡せば一時的に町の防御壁を解除してくれる。んじゃ、頼んだ」

「……ちょっと待て。ミツルギ=ツバキとやらは、ミツルギ家にいないのか?」

「ああ、今外にいる。クロッ君、ちょっくら行ってきて」


 キレてもいい頃合いだろう。

 だがサイガはクロックの方を見てもいなかった。

 机の上に散らばした紙を適当に整え、再び乱暴に机の中に詰め込む。

 ちらっと見ただけで、村人の強制退避命令や一般店から資金の強制接収など、ミツルギ=サイガの権力を使用できる許可証などが紛れ込んでおり、すでに判も押してある。

 ならず者たちから見れば、この机をひとつ奪うだけで巨万の富を得られる宝の山に見えるであろう。

 クロックは気力が削がれ、何も言えなかった。


「ツバキちゃんは今、ガルドパルナにいる。ここから微妙に離れてるけど、まあ夜までになら着けるでしょ。それじゃあクロッ君、行ってみよー」


 話は終わりらしい。

 最低限舌打ちでもしてやろうかと思ったが、クロックは無言のままサイガに背を向けた。

 これ以上この男と話していても不快になるだけだ。


「そうだ、クロッ君」


 そこで、サイガがクロックの背に声をかけてきた。

 振り返ればサイガは、いつものようにだらしなく椅子に背を預けながら、しかしどこか深刻そうな表情を浮かべていた。


「“指”。差されないように気を付けてね」

「ならば町から出そうとするな」


 そしてクロックは部屋を後にした。


――――――


「アステラさんや」

「……」


 返ってきたのは無言だった。


 間もなく夕暮れが訪れるタンガタンザの大地。

 エニシ=マキナは移動手段の確保にいそしんでいた。

 離れた大地からこの岩場まで強大な物体が運ばれていたことは、ましてやそれがひとりの人間の力によってであることは気がかりであったが、それはいい。

 そんな疑問は移動手段の修復に没頭していると薄れてしまった。

 やはり、修理はいい。

 こうしていると、マキナは世界そのものにはむかっているように錯覚することができる。

 あまりに不可逆な世界。

 壊れたものはもう戻らず、過去はどうやっても取り返せない。

 修復は、そんな世界に自分の世界を作っているようだった。

 そこでは滝は打ち上がり、花びらは枝に舞い戻り、自分が思うまま時を止めることができる。

 そんな全能感。

 誰にだってある、自分の世界。

 マキナはその世界を、もっとずっと、輝かせていこうと思う。


 だが。


 そんな世界に、割り込んできている者がいた。


 じぃぃぃぃぃぃいいいいいい。


 アステラ=ルード=ヴォルス。

 小柄で、淡く薄い女性。

 昨夜マキナを誘拐犯から救い出してくれたひとりだ。


「……な、なあ、そんなに珍しいか?」

「ああ。私はこれまで、この物体を修理している光景を見たことが無い」

「そ……そうか」


 感情そのものが欠落したような声に、マキナは肩を震わせながら応じた。

 別に、作業を見られるのに慣れていないというわけではない。

 過去に何度も自分の作業を見に来るものはいたし、師匠である父が厳しく目を光らせる中で作業をすることが未だにある。


 だが、アステラの観察は今までの者たちとまるで違った。


 第1に、彼女の淡さ。

 彼女という存在は、先天的に気配というものが無いような気さえした。

 作業の暇に気を抜いた瞬間、視界に彼女の姿が入ると、何度経験しても背筋が一気に凍りつく。

 何も無いと思っていた空間に、何かがいる。

 最早怪奇現象に近い彼女の観察―――いや、監視に、マキナの精神はガリガリ削られていくのだった。


 そして第2。

 これが、最も問題だった。


 じぃぃぃぃぃぃいいいいいい。


「近い近い近い近い近い近い近い近い近い近い近い近いよアステラさん!?」


 アステラは、まるでマキナの肩についた微生物でも探しているかのように顔を除き込ませていた。

 振り返りようものなら即ヘッドバットという近距離に座したまま、アステラは動かない。

 一応彼女の淡さも相まって邪魔ではないのだが、やはり“気配の無い何かがそこにいる”というだけで、一気に気が削がれてしまう。


「アステラ、マジ勘弁してくれよ。全然集中できない」

「そうは言っても、すでに完成が近いが」


 マキナは僅かに目を見開いた。

 アステラは、この馬車の修理ができないと言っていた。

 だが、彼女の物言いは、すでに修理が完了すると確信しているようだった。

 素人の楽観的な意見かもしれない。

 だが事実、ゴールは近い。

 マキナが知っているものより随分と仕様が変わっているようで、複雑な造りのこの移動手段。

 彼女はすでに、この完成形を思い描けているというのだろうか。

 マキナが見えているものを、アステラは見えている。


「ちょい休憩」


 マキナは身体をパキリと鳴らし、座り込んだ。

 思わず下がってしまったが、アステラはすらりと避けたようで、いつの間にか隣に立っている。

 熱中症の危機はあるが、食事も取らずに集中した甲斐あって、移動手段の修復は間もなく終わる。

 照明手段が無い以上、時間との勝負だが、これなら日が落ちる前には走り出すことができるだろう。


「なあアステラ。お前万屋とか言ってたよな? どんなことやってきたんだ?」


 今まで散々気を散らされたのだ。小休止の間の話相手くらいは務めてもらおう。

 マキナはアステラに渡されたまま横に置いてあった携帯食料を手に取りながら、話を振った。

 するとアステラは、やはり抑揚のない声で、しかし、哀愁を纏うように、呟く。


「医療だよ。タンガタンザに求められる、普遍的な需要」


 その言葉は。

 タンガタンザを現していた。

 万屋を名乗るアステラ。

 その万屋が、伊達や酔狂の類では無く、“本物”の意味を秘めているとなると、彼女という存在は需要総てに塗り込まれる。

 バランサー。

 何となく、マキナの頭にそんな言葉が浮かんだ。


「お前は多くの人を治したのか?」

「多くはない。タンガタンザは不可逆だから」


 その言葉も、タンガタンザを現している。

 そして、アステラ自身をも。


 受動的で、何も生み出さないアステラ=ルード=ヴォルス。

 その彼女は、今、受動的にタンガタンザの需要に埋め込まれている。

 不可逆なタンガタンザ物語を、転じる役目に。


 だが。それでも。

 彼女はその不可逆を―――哀しいことだと思っている。


 それは、エニシ=マキナと、同じだった。

 マキナは、“直す者”として、世界を憂いている。

 アステラは、“治す者”として、世界を憂いている。


「どうやったら、不可逆に逆らえるんだろうな?」


 マキナは、呟くように口にした。

 “流れ”というものは残酷だ。

 それは世界を縛り、自分を縛り、時を縛り、そして命をも縛る。

 マキナは人類一般の常識として、死ぬのが怖い。多分、何よりも。

 死んだら何も直せない。死んだら何も、もたらせない。


 だから―――不可逆は、敵だ。

 その“普通”は、強い敵なのだ。


 自分の弱々しい世界に、そんな強さは無くていい。


「分からない。見たことが無いから」


 アステラの抑揚の無いはずの声が、別の色を帯びていた。

 マキナは、言葉を返さなかった。


 空が紅に燃え始めていた。


「さーて、作業を再開しようか。そろそろ終わらせないとな」

「今度は私も助力しよう」


 マキナが腰を起こすと、並ぶようにアステラが腰を下ろしてきた。

 横顔はすでに無表情。

 だがその眼は、丁度マキナが修復を施そうとしていたところを捉えていた。


「修理、できるのかよ?」

「できなかった。だが、再現は可能だろう」

「?」


 意味不明な言葉をアステラの声で言われると、さらにわけが分からない。

 するとアステラは、少しは意図を汲み取ってくれたのか小さな顔をマキナに向けた。


「私は万屋だ。特技というわけでもないが、“見たものなら大概は習得できる”。力になれるだろう」


 それは、特技だ。


「え……え?」

「と言っても、君の技術は相当高いのだろう。習得するまで時間がかかりそうだ。君が指示を出してくれ」

「ざっっっけんなよてめぇっ!! 何でもできるだぁ!? マキナ君は直す者、アステラちゃんは治す者とか思ってちょっぴりテンション上がってたじゃねぇかっ!!」

「言葉の意味が分からない。テンションが上がっていたのなら、私も良く言われるが、笑ったらどうだ」

「てめぇこそ笑えよっ!! はっ、だったら俺の真似してもらおうじゃねぇかっ!!」

「……う、む。分かった。俺の世界に“普通”は無い(笑)」

「忘れよとしてんだから昨日のことは掘り返すなぁっ!!」

「とにかく、始めよう」


 やった! アステラと打ち解けた!


 そしてマキナのプライドはズタズタになった。


――――――


「君か?」

「はい?」


 団子頭に話しかけたら、妙に行儀の良い返答があった。

 クロック=クロウはガルドパルナと呼ばれる村に辿り着いていた。

 間もなく夜の帳が訪れるガルドパルナ。

 鬱蒼とした樹海に囲われ、面積はミツルギ家の屋敷よりずっと小さい村だった。

 老朽化の進んだ家屋が並び立ち、民家の庭に畑でもあるとそれだけで村を圧迫しているような錯覚にすら囚われる。

 村の奥には巨大な山脈が広がり、落石でもあればこの村の総てなど瞬時に潰れてしまうであろう。

 この村に続く道は樹海が割れるように造られたただ1本のみ。災害時の避難など間に合うはずもない。

 だが。

 この村は、その山を崇め、奉っていた。

 クロックがいる村の中央付近からでも、山の中へ続くほら穴に、社のようなものが設置されているのが見える。


 ここが聖地―――ガルドパルナ。

 クロックがここに来たのは若かりし頃の1度切り。

 観光のついでに、自分の村の創設祈願をしたときだけだった。


「どうかしましたか? 道に迷ったりしたんですか?」


 年は、ようやく2ケタになりつつあるといった様子。

 上下の連なったワンピースのような服を上品に纏っているが、日焼けの後から活発さが窺えた。

 団子頭の少女はやはり行儀のいい受け答えをした。

 タンガタンザは“非情”であるというのに、この閉鎖的な村にいるせいか、どうも他の村の人々とは違うようだ。

 むしろ、彼女の人懐こさに、危機感すら覚えてしまう。

 もっとも、そんなことを思う時点で、自分もすっかりタンガタンザの匂いが染みついてしまっているとクロックは感じた。


「はっ!!」


 途端、目の前の少女が奇声を上げた。

 すると一歩後ずさり、まるで世界の終りでも視たかのような表情を浮かべ、頭を抱える。


「しまった……。知らない人に話しかけられたら警戒しなさいって、おかーさんから習ったんだっ」

「そうでもない。確かに正しいことではあるが、自分が知らない人間は、確実に自分が知らない世界を知っている。即座に打ち解けることも時には必要だ」

「そうか……な?」


 まるっきり嘘と言うわけでもないが、このタンガタンザにおいては子供にとって危険な思考だろう。

 だが、警戒されていては話が始まらない。

 クロックは帽子を目深に被り、話を戻した。


「私が探しているのはミツルギ=ツバキという少女だ。聞いたところ、この辺りにいるらしいが」

「はい、私です」


 予想できていた答えが返ってきた。

 やはり、彼女がミツルギ=ツバキ。

 ミツルギ家現代当主ミツルギ=サイガの姪。

 サイガの姉の娘らしい。

 現在はこのガルドパルナで生活しているらしいが、その他のことは知らない。

 クロックはここまでの道中整理していた情報を頭に浮かべた。


 それにしても、


「私を探していたんですか。外の人ですよね? それは遠路はるばるようこそおいで下さいました。それで、ご用件は何ですか?」


 見えない。

 見えないのだ、ミツルギ=サイガの縁の者に。

 行儀の良い立ち振る舞い。

 この少女が、部下には命令して自分は自室の椅子でひっくり返っているような奴と血が繋がっていると思うとクロックは発狂しそうになる。


 そして、従者になるべき年齢にも見えなかった。


「いや、とりあえずはいい。それより、どこかに行くつもりなのか?」


 ここに来たのはミツルギ=ツバキを従者にするためではあるが、拒否権までは手放したつもりはない。

 クロックは努めて冷静に話を濁した。

 とりあえず、ミツルギ=ツバキという少女の情報が必要だ。


「ああ、そうでした、―――」


 ズンッ!!


「―――に行かないといけないので、ごめんなさい。その後だったらいいですけど」


 ツバキの言葉は、騒音に阻まれた。

 しかし彼女はそのまま言葉を続けていたようだ。

 クロックは目を鋭くし、樹海を睨む。


 騒音の原因は、誰の目からも明らかだった。


 夕日に燃える、紅い樹海。

 “その上”に。

 緑の体毛を纏った、“潰れた顔”があった。


 ガルドリア。

 このガルドパルナの名を借りて付けられた、魔物―――いや、化物。

 屈強な筋肉に覆われた両足を前に付けたまま樹海を闊歩する、オラウータンのような姿。

 ひとたび暴れればこの村など1頭で全壊できるほどのパワーを持ち、“その上で群れをなす”。

 今貌が見えているのは一際巨大な1頭だが、その左右に紅の樹海に紛れて2頭、いや、3頭の姿が見える。

 だがその化物は、凶暴な眼で樹海からこちらを見下ろしてくるだけだった。


「どうしました? あ、そろそろあの家壊れそう……、修理が必要ですね」


 ツバキは、自分の身など手のひら程度ほどの巨獣を見て、そして、家屋の心配を始めた。

 この村にいる者たちにとって、この異常は見慣れたものなのだろう。

 道中、クロックも樹海の細道でガルドリアを見かけたが、未だに身体が焼けつくような焦燥にかられる。

 樹海に入らない限り危険は無いと歴史が証明していても、化物に近距離で認識されているというのは恐怖だ。

 そして、その恐怖に恐怖を覚えない人間がいることも、恐怖だった。


 ここは、子供のいて良い環境では無い。

 戦火を逃れるべく、ここに移り住んだ者が数日で飛び出すほど狂った環境なのだ。

 ここに居続けたら、心が麻痺してしまう。


「そういうわけで、私は行きます」


 そう思うと、彼女のこの行儀の良さにも、恐くなった。

 他の大陸と比べれば、良い子供、と表現できるのだろう。

 だが、ガルドリアという異常とタンガタンザという異常に囲まれた結果と思ってしまうとどうか。

 異常と異常が掛け重なり、たまたま中和されたような、奇妙な感覚。

 ただの正ならば、安堵できる。

 だが、負と負の結果だとすれば、それは多分―――哀しいことなのだろう。


「私も付き合おう」


 どこに行くかは聞きそびれたが、行けば分かることだろう。

 クロックは驚いたような表情のツバキを促し、村を進んだ。


 この小さな子供を、自分は本当に従者にする羽目になるのだろうか。

 両親は反対するであろう。

 誰だって、ただミツルギ家の“流れ”として古来より伝わってきた意図不明の職業に娘を就かせたいと思うものか。

 例えそれが、ミツルギ家と血の繋がりのある者だとしても。


「それにしても、この時期に外を歩くとは勇気ありますね」

「む。私にも都合というものがあってな」

「でも、良かったですね―――」


 ツバキの瞳は。

 未だ見下ろす化物を超え、タンガタンザの空を超え、遠くを眺めていた。


「―――“指”。差されなくて」

「全くだ」


――――――


 最初は、ぷすりという、なんとも間の抜けた音だった。

 しかし徐々に確かな唸り声を上げ、その振動で砂が飛び散る。

 これは―――稼働だ。


「よっっっしゃぁぁぁあああーーーっっっ!!!! へいっ!!」

「ああ。完了だ」


 ハイタッチを決めようとしたのに、アステラは視線も向けなかった。

 エニシ=マキナは気づかれないように腕を下ろす。

 今、見られていた方が恥ずかしかった。


「? 今手を上げていなかったか?」

「黙れ。俺にはもう、キレて返すくらいしか退路は無い」

「?」


 しっかり見られていたようだ。優しさが無さ過ぎる。

 だが、ようやく唸りを上げた移動手段。こちらは順調だ。

 車輪のダメージが深刻で、誘拐犯の馬車はただの木材の山になってしまったが、一部でも使ってもらって本望だろう。

 マキナは、一旦目を閉じて、自分の、自分たちの完成品を眺めた。

 アステラの手際は本当に良かった。

 冷却部の破損やひしゃげていた一部のパーツなど、作業を開始してから顕在化した問題は、アステラが『過去に見たから』と誘拐犯の馬車から取り出した代替物のお陰で即座にクリア。

 自分の見立てが甘かったこともあり、アステラがいなければ解決できなかったであろう。

 微妙に自分より器用なアステラに、マキナは僅かに嫉妬を覚えたが、タンガタンザの大地から逃れられると思えば安いものだ。

 それにまだ、俺の本職は鍛冶屋だしぃ、という逃げ道もある。

 ともあれ修理は完了だ。

 空の半分は黒に染まっていた。


「つっても結構やっつけだな。あんまり長距離走れねぇだろ。ミツルギ家は遠いのか?」

「ああ、大分遠い。恐らく途中で止まるだろう」


 アステラはすっかり馬の無い馬車の修復方法を習得したようだった。

 見積もりまでできるとなると、器用というレベルとは一線を画している。


「お前は教え甲斐のある生徒だぜ」

「他にも生徒がいたことがあるのか?」


 少しは打ち解けることができたようだった。

 アステラがこういう話を振ってきたのは良い兆候かもしれない。


「ま、な。でも“あいつ”は、アレだ。不器用だった」

「……そうか」


 マキナは、感情の無い声を出した。

 アステラは、少しだけ重みのある声を出した。


「行こうか」


 奇妙な空気を嫌い、マキナは移動手段に手をかける。

 移動手段には、前方に2つ後ろに2つ、人が腰掛けられるような椅子が取り付けてある。

 屋根は無い。

 マキナがこの物体の製造に関わっていたときと変化はないが、見れば見るほど異様な姿だった。

 コンパクトなフォルム。散々パーツを抜きとった誘拐犯の馬車の方が大きい。

 それなのに、馬よりもパワーがある。

 これは最早、兵器だ。

 これで突撃されれば、大概のものは損壊できる。

 マキナはふとそれを想像しようとして、止めた。

 操縦席に、アステラよりも無表情なミツルギ家の兵隊が座り込んでいるその光景を嫌った。


「待て」

「ん?」


 操縦方法などさっぱり分からないマキナが後部座席に座りこもうとしたところを、アステラが止めた。


「なんだよ?」

「修理が完了したら呼ぶように言われている」

「あ」


 言われて思い出した。

 そういえばこの大地にはもうひとりいるのだ。

 スライク=キース=ガイロード。

 作業に没頭していて忘れていたが、自分を誘拐犯から救ってくれたのはむしろ彼だ。

 だが、自分たちが汗水たらして働いていたときに姿を見せないせいで、マキナの中で彼への評価は低い。

 ついでに言うなら誘拐犯の馬車から放り投げられた記憶もある。

 正直あまり好感が持てそうになかった男だ。


 だが、恩人は恩人か。


「じゃあ探してくるか。というか無事なんだよな?」

「ああ。それについては問題無い」


 アステラは随分とはっきりと言う。

 感情の無いながらも、自信があるような言葉だった。


「あの男、どういう奴なんだよ。アステラの知り合いだよな?」

「昔馴染みだ。同じ村で育った」

「ふーん」


 いわゆる幼馴染、という関係か。

 昨日の記憶を辿ると、あのスライクという男はアステラにこの場に連れて来られたようだった。

 あのいかにも協調性に欠けていそうな男は―――助けられていて何だが―――人助けをするようには見えない。

 アステラに頼まれたから、昔の馴染みで、ということなのかもしれない。


「それで思い出した。私にはスライク=キース=ガイロードを村に送り届ける義務がある。丁度この近くだ。そこで再度修理を試みよう」

「へー、鍛冶屋は?」

「ある。工具に関しては問題無い。だから修理をしよう」

「…………アステラ、もしかして、修理気に入ったのか?」

「…………」


 アステラは無言で無表情だったが、何となく察せた。

 彼女は万屋といい、万物に対して受動的だが、感情がまるで存在しないわけでもないようだ。

 彼女も彼女で、直すことに興味がある。

 何故だか嬉しく、そして、楽しかった。

 どこにも痕跡を残さないような彼女の想いを、少しだけ見ることができた。

 それは多分―――良いことなのだろう。


「よし、それなら早速呼び出そうぜ。そんで次は村で一泊だ」

「そうだな」


 マキナは上機嫌になり、口に手を添えた。

 そして星々が現れ始めた空に向かって、叫んだ。


「スライク=キース=ガイロードーーーッッッ!!!!」


 そして。

 総てが―――転じた。


 ズゥゥゥゥゥゥウウウウウウンンンッッッ!!!!


 岩場から、“何か”が降り立った。

 移動手段が唸りを上げたときとは比較にならず、砂が巻き上がり岩場が震え出す。

 降り立ったのは、誘拐犯の馬車の上。

 あれだけ巨大に思えた馬車が瞬時に潰れ、木片を飛び散らす。


 そして、その位置に、月下に。

 “巨大な岩の塊が立っていた”。


「グ、グ、グ」


 呻くそれは、種類で言えばゴーレムだった。

 全長5メートル。

 岩と岩を繋いだ巨大な体躯。

 身体中に苔をびっしりと生やし、奇妙なことに背に身の丈ほどはある大剣を担いでいる。

 顔もやはり岩石。

 だが、通常目がある位置にはくり抜いたような穴が空いていた。口は無く、アステラを比較に出すまでも無く無表情だ。

 山そのものに命を吹き込んだらこのような形状になるであろう。

 それほどまでに、分かりやすく、大地の主だった。


 そしてくり抜いた目の中に、鋭い眼光が宿った。

 ビカリと光るその瞳は、マキナとアステラ、あるいは総てを捉えていた。


「ス、スライク=キース=ガイロードさん? あれ? 俺の記憶違いかな、君のこと確かに大きいと思ったけど、もう少し人っぽい感じだった気がするんだ……、え、えっと、……岩とか食べるとそうなるのか?」

「エニシ=マキナ!! 逃げろっっっ!!!!」


 叫んだのは、アステラだった。

 彼女らしからぬ、感情を暴露したような叫び声。

 それが、現状の絶望を現していた。


 マキナは真横に目を走らせた。

 そちらには、今この化物が飛んできたと思われる岩場がある。


 現実逃避はお終いだ。現状を把握しろ。

 タンガタンザの大地だ。こういうことは想定できていた。

 だから落ち着け、動けるはずだ。

 身体を見るに、相手の動きは鈍い。

 それならば、今、最も有効な手は―――


「っ―――、アステラは兵器を頼む!!」


 叫びながら、マキナは工具代わりとして使っていた岩を化物に投げ付けた。

 ここまで全力で何かに向かって石を投げたのは初めてだ。

 だが、マキナの全力投球を、化物は身をかわさず受ける。

 こつんと小さい音が響く。ダメージは無い。

 だが、化物の瞳はマキナだけを捉えた。狙ったとは言え、背筋が凍りつく。


「反対側だ!! 頼むぞ!!」


 マキナは全力で岩場の隙間に駆け込む。それと同時に背後で移動手段が唸りを上げた。

 アステラは言われた通り、この岩を超えた先に現れてくれるだろう。


 マキナには勝算があった。

 挑発したのだ、自分を追って来るであろう。

 だが、この岩の密集地帯。

 空いた隙間は人がやっと通り抜けられるほどだ。

 ならばあの巨体では追っては来られまい。


 星の光が遮断された岩の中、マキナはわき目も振らずに駆け続けた。

 逃走経路としては劣悪な環境。

 走るだけで、とがった岩が頬を、腕を、腿を掠める。

 それでもマキナは走り続けた。

 自分が前と信じる方向へ。


「―――いっ!?」


 バンッ!! と小気味良い音が響いた。

 それと同時、転がるように駆けていたマキナの身体が吹き飛ばされる。

 飛び込むように正面の岩に激突したマキナは、頭を痛烈に打ち付けた。

 岩の足元に倒れ込んだマキナは、弱々しく四肢を蠢かせ、振り返る。


 座り込みながら岩に背を預けたマキナの眼に、光が差した。

 どうやら自分は血を流しているようだ。

 視界いっぱいが赤に染まる。

 明暗を繰り返す視野を、痺れる頭を振って覚まし、マキナはそのまま正面を睨んだ。

 ようやく見えたのは、星。

 “その場一帯を埋め尽くしていた岩石が遮っていた星だった”。


「ひっ、」


 マキナの喉から情けない声が漏れた。

 直線距離では思ったよりも進んでいなかったのであろう、十数メートル先。

 そこでは、現れた化物が大剣を真横に振り切っていた。最初の位置から動いてもいない。

 巨大な岩石は、その剣撃の前に吹き飛ばされたのだろう。

 在り得ぬ事だと理性は即座に否定する。

 岩を砕き、自分を生き埋めにすることくらいなら“異常”な魔物であれば出来るかもしれない。

 だが眼前には砕けた岩は無く、総てが更地と化している。


 その、ただひと振りの前に。


「ぅ、ぅ、ぅ」


 必死に走って、その剣撃は、マキナの身体を吹き飛ばした。

 頭を打った影響か、身体は上手く動かない。

 今からでは、この半分の距離も逃げられないだろう。

 先ほど否定された理性が逆襲したのか、マキナは即座に終わりを悟った。


 ゴーレムのような化物が、腕を伸ばし、剣を真横に構えた。

 再びあの、岩場を更地に変えた一撃が来る。


 あの、誘拐犯の馬車の中で感じた以上の絶望。

 明確な死が、確定した死が、目の前に訪れる。

 この邂逅には、あまりにも、優しさが無い。


 それを自分は―――何よりも恐れていると言うのに。


「……」


 マキナは呆然としたまま、その処刑を眺める。

 あの化物は、この岩場の主だったのだろうか。

 だから、無断宿泊した自分たちを裁きに来た。

 マキナの心は現実逃避を始め、おぼろげに、あの化物の正体を探る。


 あれは、何だ。

 タンガタンザの魔物は凶悪と聞いていたが、流石にあそこまでのはずはない。

 あんな化物が何匹も闊歩していたら、タンガタンザ戦争は百年を待たずして終結してしまう。

 異常事態だ。即刻ミツルギ家に連絡を入れる必要がある。


 ただ、それも。

 これから終わる人間にはできないのだけれど。


 そう―――死んだら何も、できないのだ。


「くそ……、くそ……、くそ……!!」


 マキナは歯を食いしばり、拳を振るわせた。

 下手に心を呼び戻してしまった。吐き気のするような恐怖が湧き上がる。


 自分は直す者である。

 だが、自分が壊れれば、何も直せない。


 こんな恐怖を抱いたまま、自分は終わってしまうのか。


「グ、グ、グ」


 化物が唸りを上げ始め、ぴり、と背筋に何かが上ってくる。

 分かる。

 あの化物は、その一閃を放とうとしている。先ほどの威力を見るに、その剣圧だけで十分だろう。

 だがマキナには、何もできなかった。


 そしてマキナの想像通り、化物は大剣を放った。


「―――」


 が。

 マキナの想像通りだったのは、初動までだった。

 巨体には似つかわしく無い、熟練の剣士を思わせるような速度で放たれた一閃は。


 マキナの側方3メートル。

 そこで、化物の一刀は止まっていた。


 別に、腕の良い剣士が獲物の前で寸止めをしたとか、そういう次元では無い。

 ただ、化物の剣は、“真上から降り注いだ巨大な岩石に押し潰されていた”。

 一瞬化物が増えたのかと震えたが、どうやらその岩石は、この岩の群れの中のひとつのようだ。

 認識力が鈍っているのか、マキナの脳に、ようやくその岩石が降り注いだ轟音が届く。


 何が起きた。

 ただの落石。いや、それは有り得ない。

 落石程度では、あの化物の一刀を阻めるはずもない。

 だから今、化物の大剣を叩き潰すように放たれた岩石は、強大な力で叩きつけられたものでなければならない。


「なん、だ……」


 マキナが思わず漏らしたその声に。


「はっ、呼び付けといて随分な言い草だなぁ、おい」


 そんな、柄の悪い声が応えた。


「っ―――」


 マキナの背筋がピリリとざわめく。

 その威圧は、あるいは巨大な化物さえ超え、マキナの骨髄に響くようだった。


「あ? へし折れてねぇのか。随分頑丈な剣だなぁ、おい」


 無言のまま剣を引き寄せる化物に、その男はマキナに向けたものと変わらぬ態度で声をかけた。

 まるで、野外の商人にちょっとしたヤジでも飛ばすような口調。


 岩石の化物は、その無表情な顔を、その男に向けた。

 最早マキナなど眼中にないであろう。

 その程度なら感じられた。


 あの化物が今捉えているのは、捉えなければならないのは―――


「で、だ。その剣、“俺に耐えられるか”試していいか?」


 岩石の山の上、満天の星空の元で危険に光る猫のような眼。


「グ、ゴォォォオオオーーーッッッ!!!!」

「はっ」


 スライク=キース=ガイロードは、地鳴りのような雄叫びを上げる化物に、吐き捨てるような言葉だけを返した。

 そして飛ぶ。

 常人ならば命綱が必須と思われる高度から、飛び込むように舞い降りた。


 マキナは即座に危険性を認識し、身体を引きずり岩石の隙間に身を隠す。

 ひと振りで岩石の群れを吹き飛ばす化物である以上心細い盾であるが、無いよりマシだ。

 その直後。


 バンッ!! と地が裂けた。

 化物が叩きつけた大剣は大地を砕き、痛烈な破壊を周囲にまき散らす。

 マキナが隠れていた場所の頭上、岩石と岩石がきしみを上げ、マキナはどっぷりと砂を被った。

 だが、今の攻撃で被害を受けたのは、マキナだけだった。


「ら……、あぁぁぁぁぁぁああああああっっっ!!!!」


 化物に直進したスライクは、大剣をかわし切っていた。

 目を離したマキナには消えたように見えたが、強く爆ぜるような雄叫びで即座に位置を察する。

 スライクは、散乱する大岩を抱きかかえるように掴んでいた。


 何を。

 マキナがそう思った頃には、ずず、と。

 彼の身と比しても数倍はあろうかという大岩が、“大地から引き抜かれていた”。


「は」


 現実離れした光景に、マキナは思わず声を漏らした。

 そして、もうひとつ、異常を見つける。

 スライク=キース=ガイロードの身体から、強い光が漏れている。

 あれは、身体能力強化の働きだ。

 だが、異常なことが2つある。

 身体能力強化は、武具強化とまるで異質だ。

 武具相手では魔力を纏わせるだけであるが、身体は力を内に込める。

 そのため、身体の外にまで光を漏らすことは、壮絶な魔力でも持ち合せていない限りあり得ない。


 そして、もうひとつ。

 それは、スライク=キース=ガイロードの身体から漏れる、その日輪のようなオレンジの閃光。


 いつしかミツルギ家の屋敷で迷い込んだ書物庫。

 そこで読み漁った秘伝の書に、書かれていたように思う。

 異常と言われる月輪と並び立つ―――いや、“月輪が仕えるようにそびえ立つ”、謎に包まれた最強属性。


「うおらぁっ!!」


 その色は、不可能を可能にする。


 ブンッ!! とスライクは岩石を引き上げた腕を、振り抜いた。

 大砲のように放出されたその岩石は、マキナが投げた小石と比較することすら愚かしい。

 巨大な化物の胴体にぶち当たり、爆発するような音が響く。

 吹き飛ばされた化物は倒れ込み、大地を再び揺さぶった。


 だが、流石に化物。

 身体中の岩石が回転し始めた。

 関節の接続を無視するように化物の身体を引き上げると、スライク=キース=ガイロードの眼前に立ち塞がった。


「ゴォォォオオオーーーッッッ!!!!」


 大剣の一撃。

 今度は岩石の群れを更地に変えた脅威の一閃。

 横なぎに見舞われたそれは、まともに喰らえば原型すら残らない―――


「だぁ、かぁ、らぁ、よぉっ!!」


 スライクの動きは、マキナでは目で追うことすら叶わなかった。

 跳んだのか、しゃがんだのか、姿を消したスライクは、気づけば横なぎの一撃をやり過ごし、化物の懐に潜り込み、その拳を金色に輝かせていた。


 そして、一撃。

 身を開く形になっていた化物の右腕に、鋭い拳を叩き込む。

 砕けた。そして、捥げた。


 そうとしか形容できないほど、スライクの拳はあっさりと化物の右腕を潰してみせる。

 壮絶だ。

 あれだけ分かりやすい破壊も無いであろう。

 マキナは頭部の痛みも忘れ、その戦いに魅せられる。


 勢いがまだ残っていたのか、化物の右腕ごと大剣は大地を転がる。

 腕をもがれた化物はバランスが崩れたのか、その場で地鳴りと共に横転する。

 マキナから見ても、2メートルはあろうかというスライクから見ても、3メートルの化物は巨躯であろう。

 だがそれでも、スライクは化物を圧倒していた。

 いや―――“化物”は化物を圧倒していたと言い換えられるかもしれない。


 こんな人間が、タンガタンザにいたというのだろうか。

 家業で家にこもってばかりのマキナは、そこまで世間に明るいわけではない。

 だが、スライク=キース=ガイロードという人間の異常性は即座に分かる。

 あんな人間がいるならば―――タンガタンザの戦争など終結してしまうかもしれない。

 岩石の化物とは、別の意味で。


「グ、グ、グ」


 岩石の化物は、再び身体の岩石を回転させ、不気味に立ち上がる。

 その瞳は、たまたまマキナを捉えていた。

 だがその光景に、マキナはなんら恐怖を覚えなかった。

 むしろ、同情の念すら浮かぶ。


 いいのか、その後ろの奴から目を逸らして―――と。


「随分でけぇ剣だなぁ、おい」


 岩石の化物が振り返る。

 その先に、転がった大剣と、その傍らにスライクが立っていた。

 あまりに大胆不敵に。

 あまりに傲岸不遜に。


 化物を凌駕した化物が、猫のような金色の眼光を光らせていた。

 狩る者と、狩られる者。

 マキナにとって、その区分はあまりに容易だった。


「グ、グゴガァァァアアアーーーーッッッ!!!!」


 岩石の化物が吠えた。

 腕の欠損した身体で、スライク=キース=ガイロードに突撃を試みる。


 スライクは、迫りくる岩石の塊を前に、しゃがみ込んで剣を掴み上げた。

 岩石の化物の身の丈ほどの大剣。

 それを、スライクは軽々しく掴み、掲げるように構える。


「―――、」


 瞬間。

 マキナの身体中が湧き上がった。

 岩石の化物を見たときよりも、岩石の化物が一刀で岩場を更地に変えたときよりも、スライクが岩石を放り投げたときよりも。

 もしかしたら生涯過ごしてきた如何なるときよりも。


 ただ、“その男が剣を持っただけの光景に”、身体中の血液が煮え滾った。


「―――!!」


 意外なことに、その空気を岩石の化物も感じ取ったらしい。

 勢いのまま突撃していた足を緩め、その場からの離脱を試みている。

 それは、本能のまま暴れ回る魔物らしからぬ賢い行動。

 だが、遅い。

 それはあまりに遅すぎた。


「おいおいおいおい。逃げでいいのか? お前の最期」


 突撃してきたスライクの一刀は、何を狙ったものだったのか。

 落雷でも放ったように、対象の脳天から股下まで真っ二つに斬り裂き、ついには大地にも亀裂を走らせる。

 爆発するような衝撃。

 マキナは身の危険を感じ、その場から飛び出した。

 直後、マキナが隠れていた岩陰に崩れた岩石が降り注ぐ。

 岩石の化物の一撃とは一線を画した破壊。


 転げたマキナは、震えながら顔を上げた。


「……ちっ、一発か。まあ、斬るまでもってたつーのは珍しいなぁ、おい」


 視線の先、スライクが鬱陶しげに剣の柄を投げ捨てていた。

 その足元には、斬り裂かれた化物の、主人の後を追うようにこの世を去った砕けた剣。

 岩石の化物の剛腕すらも耐えきった大剣は、完全に損壊していた。


「……お、お前は……、何なんだよ」


 思わず、マキナは問いかけていた。


「災厄だ」


 スライクは、意図の掴めない返答をしてきた。


「それよりお前、移動手段の残骸はどうした。ぶっ壊れたとかぬかすんじゃねぇだろうな」

「心配するなよ。もう直った。今アステラが乗り回してる」

「あ? 直った?」


 彼は、修理にはもっと日を要すると思っていたのかもしれない。

 だが事実、あの移動手段の損壊は深刻だった。

 アステラの助力もあったが、マキナでなければこの劣悪な環境で修復などできなかったであろう。


「はっ、あんな奇妙な物体よく1日で直せたもんだ。器用な奴だなぁ、おい。てめぇこそなにもんだよ」

「なぁに」


 マキナは響く頭痛を抑え、スライクのように不敵に笑ってみせた。

 命の危機に瀕したとはいえ、この場で弱みを見せるのは躊躇われる。

 彼の戦闘にはそんなものなど存在せず、ただただ痛快だったのだから。


「ただの、天才鍛冶師だよ」


――――――


 そこは、タンガタンザで最も人が密集した場所だった。


「今日はお花屋さんに行ってきた。本当は買ってこようと思ったけど、駄目だよね? お金、大切に使わないと」


 少女―――ミツルギ=ツバキは、明かりが乏しいぼんやりとした空間で、呟くように“報告”していた。

 口調は、行儀の良いものから、年相応の子供のそれに成っている。

 いや、戻っていると言った方が良いのだろう。


「でも、安心してね。来週にはちゃんと持ってくるから。今日見た花は枯れちゃうだろうけど、きっとそのときには、もっと素敵な花がある」


 クロック=クロウは帽子を目深に被った。

 口調は違えど、はきはきとした物言いは変わらず、ミツルギ=ツバキの姿には幼いながらにも清々しさを感じ―――そして、痛々しかった。


「おとーさんとおかーさんは、今、仲良くしてる?」


 彼女が言葉を向けているのは、石だった。

 僅かなふくらみを持つ土の上、しゃがみ込んでいるツバキの高さほども無い、小さな小さな―――墓標。

 ここは、タンガタンザの死者が葬られた空間だった。


 ガルドパルナ聖堂。

 聖域ガルドパルナに隣接してそびえる巨大な岩山の中に造られたそこは、面積だけならばガルドパルナ自体をゆうに超えていた。

 すっと抜けるように広い空間。

 遠方までぼんやりとした明かりが灯っているようだが、人間の視力では反対側の壁すら見えない。

 ガルドパルナ聖堂の目玉である“とある空間”への道筋から逸れ、僅かに歩みを進めると姿を現すここは、不可逆なタンガタンザで過去と邂逅できる、貴重な空間だった。


「さて」


 報告を終え、すくりと立ち上がったツバキは、振り返った。

 クロックはその顔に、涙の跡や、悔恨の念を見つけることができない。

 ミツルギ=ツバキはすでに、両親の死を受け入れている。


「お待たせしてすみませんでした。毎日の習慣でして。それで、ご用件は?」


 ツバキに問われながらも、クロックは墓標に目を走らせた。

 『サーティスエイラ村民ここに眠る』―――とある。

 タンガタンザでは人ひとりのために墓標を用意することはできない。

 魔物の進行によって、“骨を埋めるべき場所ごと破壊されてしまう”のだから。

 事実、クロックの村の人々も、ミツルギ家の街に“まとめて”葬られている。


 しかし―――サーティスエイラ。

 その村が破壊されたのは、クロックの記憶では去年の秋頃。

 まだ1年も経っていない。


 それなのに。

 ミツルギ=ツバキは―――受け入れている。


「……む。悪いが“例の部屋”まで案内してくれ。私はそこに用がある」


 嘘だ。

 そもそも“あの部屋”まではほとんど一本道だ。

 案内も何も無い。


 だがツバキは、怪訝な表情も見せず、頷き返して歩き出す。

 “そんな子供が、ひとりになっている”。

 そして―――1年足らずで決別している。


 絶望に心を折られているべきだ、とまでは言わない。

 だが―――それは、違うだろう?


 子供ならば哀しいことに、もっと―――泣き喚いていて、いいではないか。


「……」


 クロックは、帽子に手を当て墓標に一礼すると、疑いもせず歩き続けるツバキを追った。


「え……と、そういえば、あなたは?」


 元の道に戻り、2人並んで“メインルート”を歩き出す。

 天井は高く、5人でも10人でも横並びできそうな幅の道は、無機質で、夏が近いというのに鉄のように冷えていた。

 足場は慣らされている。

 タンガタンザの情勢上頻度は少ないとはいえ、ここは多くの“参拝者”が通る道だ。


「私はクロック=クロウ。かつては村長だった者だ」

「わぁ……、すごいですね」


 屈託の無い表情で―――“屈託が無くてはならない”ツバキは、目を輝かせていた。

 身分を訊かれれば、クロックはそう答えることにしている。

 ミツルギ家の名前を出してろくな結果になった試しが無い。

 相手は委縮し、あるいは嫌悪し、しかし逆らわずに要望通りに応じてくれる。

 そんなことでは、そんな関係では、そこに絆は生まれない。

 クロック=クロウは知っている。

 それがどれほど貴重で、美しく、奇跡を起こせる力なのかを。

 タンガタンザの荒れ地に、泡沫のようでも、命の拠り所を創り出せたのは、間違い無く人と人との絆だったのだから。


「それより、すまなかったな。こんな時間に案内など頼んで」

「いえいえ。どうせついでですし。それに、私も行くのは2度目なので、見てみたい気持ちもありますから」


 今度は多分、彼女が嘘を吐いた。

 その言葉には、そんな薄さを感じた。


 恐らく彼女は、本当の意味で感情を持っていない。

 ただ頼まれたから、案内しているだけ。

 この場所の案内など、あまりに不審なことに対しても、彼女は疑問を抱かない。


「私も行くのは2度目だ」

「そうなんですか」


 応答しているが、言葉の意味まで深く入り込んでいない。

 クロックは背筋が冷える。

 この年齢でそんな上辺だけの言葉を吐き出すツバキに、そしてこのタンガタンザに、身を凍らされた。

 何度経験しても、慣れられるはずも無い。


 純粋な正ではない。

 負と負の掛け合わせた結果の少女。


 彼女は毎日、その上辺だけの想いで、両親に哀しい報告をしているのだろうか。


「戦争、か」

「? 何か言いました?」

「いや、何でも無い」


 そのまま無言で歩き続ける。

 クロックの隣では、ツバキの団子頭が揺れている。

 だがその無言には墓参りの後の哀愁は無く、吐き気がするほどの穏やかな静けさだけだった。


 が。


「……」

「? どうかしましたか?」

「…………」


 クロックは、思わず立ち止まってしまった。

 ぼんやりと明るい、無機質な廊下の先、開けた空間が見える。

 目的地前で、クロックの足は歩みを止めた。


 ここに近寄った瞬間、感じたのは―――風。

 自分が嫌った、“異常の中の当たり前”の空気を吹き飛ばすように、斬り裂くように走った暴風。

 纏ったマントは揺れもしていない。

 風は、吹いていない。

 だが確かに、感じたのだ。


「……そこ、だったな」

「ええ、そうです」


 ツバキに確認を取るまでも無く、目的地はあそこだ。

 クロックはおずおずと歩みを進め、思わずうつむき、苦笑してしまった。


 かつてここに来たとき、よく気づかなかったものだ。

 今ならば、樹海の化物―――ガルドリアがこの村を襲わない理由が分かる。

 彼らは本能的に、知っているのだ。


 この“縄張”を。


 この―――“世界”を。


「……若いときには、気づかないものだ」

「?」


 クロックは呟き、顔を上げる。

 先ほどの墓地より、ずっと小さい一辺10メートルほどの空間。


 部屋の奥には、鉄壁の防波堤。高さ1メートル超の鉄製の壁は、かつてミツルギ家の屋敷で製造したものらしい。

 ところどころが錆び付いてはいるが、爆撃しても動じないほど強固な“結界”と言われている。


「奥には行かない方が良いです。あの壁の向こうには、魔界に続くとさえ言われてるほど、終わりの無い深い深い穴が空いているので」


 クロックは思い出す。

 かつてこの地に訪れたとき、興味本位であの壁の向こうを覗いたときのことを。

 壁の向こうには一切の床が無く、終わりの無い闇が広がっている。

 試しに石を投げ込んでみても、いつまでも、落下の音は聞こえなかった。

 あのときは、心底その穴に恐怖したものだ。


 だが、今。

 今ならば分かる。

 この部屋で最も強固なのはあの壁では無い。

 この部屋で最も脅威なのはあの穴では無い。


「そして―――あれです」


 ツバキは、腕を上げて部屋の中央にクロックの視線を促した。

 そうされずとも、クロックの瞳はこの部屋で最も目を離してはならない物体を捉えていた。

 身体が際立ち、血液が逆流する。

 ここは危険だ―――射程距離なのだから。


 部屋の中央。

 そこには。

 “とある剣”が突き刺さっていた。


 いや―――座していた。


 綺麗に真上から刺したのではなく、まるで投げるように無造作に打ち立てられたその剣―――大剣。

 突き刺した本人はまるで意識していないかのように傾いでいるその剣は、触れただけで崩れ去りそうなほど全体が錆び付いたその剣は、いかなる者も、砕くことも抜き放つこともできなかった。


 人々が世界中の古文書を読み漁り、遥か太古の『奇跡』を探り当て、ようやくその剣の所有者を推測できたのは、タンガタンザの百年戦争が開始する直前のことであった。

 それが突き刺されたのは、記録されているタンガタンザの歴史を凌駕するほどの太古の出来事。


 当時唯一の比較対象であった“同一の快挙”を成し遂げた者たちよりも遥かに早く、鬼神の如き力を振るった―――伝説の存在。

 あらゆる障害を斬り裂き、何人たりとも行く手を阻めず、威風堂々と諸悪の根源を凌駕した―――『剣』そのものと言われたひとりの男。


 その彼を象徴する―――奇跡の物品。


「“二代目勇者様”―――ラグリオ=フォルス=ゴード様が突き刺したと言われる、このタンガタンザにおいて唯一揺るがぬ―――不動の象徴」


 操る者は過去の偉人。

 だが、今なお轟くその脅威に―――先の墓場の骸たちは、武具の贄とさえ思われた。


――――――


「よっと。……ふー、頭めちゃくちゃ痛いけど、血も止めたし。うん、調子出てきた。岩にも何とか登れたし。あの化物が消えてたなら、岩の上の方が移動ずっと楽じゃんっ。やっぱ暗がりの中自然の岩の間走んの危ないもんな。いやっ、あの化物がいようがいまいが関係ないっ。何故なら今俺には、最強のボディガードが―――いねぇじゃんっ!!」

「うぜぇ。喚くな」


 強引にテンションを上げたマキナの言葉は、無残にも一言で切り捨てられた。

 目の前の大男は、怪我人が岩に昇ろうとしているのにも手を貸さず、すでに遠方でスタスタと歩き続けている。


「ちょ、待ってくれよ、おっと」


 歩きやすいと言ったものの、マキナは足元も頼りなく大男に追従する。


「待ってくれって、スライク!!」

「るせぇ。喚くなっつてんだろが」


 岩の隙間を何とか飛び渡り、マキナはようやく隣に並べた。

 並び歩くと、彼の巨躯がまざまざと見せつけられる。

 身長は2メートルを超えているであろう。

 長い脚に、筋肉質な体形。

 それも、動きを阻害しないような理想的な筋肉の付き方だ。

 筋肉の塊とは形容できず、言うなれば、そう、スケール。

 スライク=キース=ガイロードは、スケールが大きい。


「いやしっかしびっくらこいたね、あの化物。この岩場不自然だけど、あいつの仕業だったりしてな。まっ、主がいなくなったんだっ。サクサク進んでいこうじゃないかっ」

「てめぇは人の話を聞いてねぇのか。黙れ」

「うるせぇっ!! あんな化物のエンカウントしたせいで俺は未だに震えてんだっ!! テンション上げねぇでやってけっか!! ああ、ぜってぇあいつ夢に出るよ……」


 叫んで、マキナの身体はぐらりと揺れた。

 頭の痛みが増しているような気がする。

 後遺症、という言葉が浮かび、マキナは思わず手の開け閉じを繰り返す。

 あの岩石の化物の、ただの一刀。

 それも風圧で、自分はここまで損傷した。

 身震いする。

 あまりの威力に、現実感がまるで無い。

 だが、そんな化物を圧倒した超人は、確かに隣を歩いている。


「何でそんなに機嫌悪いんだよ……お、っと」


 岩と岩の隙間を、マキナは勢いを付けて跳び渡った。

 スライクは、一歩で渡ると、そのままの速度で歩いていく。


「っとと……。で、どうしたよ。昼間に嫌なことでもあったのか? 何やってたんだよ」


 マキナが修理を行っている間、スライクは1度も姿を現していない。

 無事かどうかなど訊く必要はない。

 タンガタンザの大地において、姿を消した人間の末路など決まり切っているのだが、その常識は、先ほどの光景で塗り潰されている。


「その辺で寝てただけだ。んなことよりもう1度確認だ。あの病人に、お前は岩場の反対側に行けと言ったんだな?」

「病人って……。ま、まあ言ったよ。だから移動手段は安全だ。問題無い」

「てめぇはここがうぜぇほど広いことを知らねぇらしい」


 荒い口調のスライクは、金色の眼を正面に向け続けていた。

 マキナも注意を向けていた足元から顔を上げ、その視線を追う。

 延々と、延々と、岩の足場は続いていた。


「広っ」

「つーことだ」


 これが彼の機嫌の悪さの原因か。

 自分はアステラに、岩場の向こうで落ち合おうと叫んだ。

 普通ならば様子を見に戻ってきそうものだが、相手はあのアステラだ。

 受動的な彼女は、言われたことには“能動的過ぎるほど”に従い、今頃一直線に反対側を目指しているであろう。

 つまり自分たちは、この広大な岩場を走破しなければ彼女と落ち合えない。

 スライクも、それを理解しているのであろう。


「幼馴染、なんだっけ? アステラと」

「随分と下らねぇ話をしてたみてぇだな」


 スライクは変わらず釣れない態度のままだった。

 だが、この先の長さを考えると、黙っているのも息が詰る。

 そして、話の種はいくらでもあった。


「下らなくはないだろ。そういうのいいじゃん。奇妙な感じだけど、結構美人だったりしたし」

「はっ」


 スライクは、正にそれこそ下らないとでも言うように吐き捨てた。

 本当に会話が成立しない。

 スライク=キース=ガイロードは、己が思うまま、ただ足を進める。

 やはり、この男に対して好意的な感情は浮かばない。

 彼の傍にいると、不思議なことに、そんな感情が加速するような錯覚にさえとらわれる。


 不思議な感覚だった。

 頭を打ったせいで、妙に敏感になっているのかもしれないが。

 スライク=キース=ガイロードという人間からは、どの存在からも覚えたことの無い空気を感じるのだ。


「なあ、スライク」

「あ?」


 その原因は―――と。マキナは“あの魔力色”に思い当たり、口を開く。

 スライクは、釣れない言葉を、視線を向けずに反してきた。


「あんた、勇者様なのか?」

「……」


 マキナは、自分で思っていた以上に、軽い口調で訊いていた。

 返ってきたのは短い無言。

 しかしスライクは速度を僅かにも衰えさせず、言葉を続けた。


「違ぇ。言ったろ、災厄だ」


 マキナはその意味を問いたださなかった。

 多分それは、触れることべきことではないのだろう。

 本能的にそう感じた。


 相手が勇者様ともあれば、“しきたり”上崇める必要があるのだが、スライクは否定し、自らを災厄と言う。

 スライクは、なんとも奇妙な存在だった。


 マキナは、はっと息を吐く。

 この男とはつくづく会話が続かない。

 こんな事件でも無ければ、エニシ=マキナという人間と、スライク=キース=ガイロードという人間は出逢わなかっただろう。

 種類があまりに違いすぎる。


 だが、そんな人間に。

 マキナ=エニシという人間は、心の底から震えが湧いた。

 スライク=キース=ガイロードが、剣を手にしたあの光景。

 それが身体中に焼け付き、骨髄を揺さぶったのだ。


 震えは多分、恐怖という感情が生み出したものではない。

 もしかしたら―――歓喜、なのかもしれない。


 エニシ=マキナはあの光景に、何故か歓喜していた。


「勇者様じゃない、つってもよ。お前、強いよな」


 何度目かの岩と岩の隙間。

 慣れてきたのか、マキナは止まりもせずに飛び移れるようになった。

 進行速度は良好だ。


「あんな化物相手にしてよ」

「村の周囲に騒音立てやがる馬鹿共がいてな。どんだけ殺しても湧いて出やがる。うざさで言えば幾分マシだ」


 スライクが普段、何を狩っているかは知らない。

 だが、この男が敵を相手にする基準は、強さでは無くどれだけに気触るか、なのだろうか。

 その言葉には、彼の話に深入りすると自分という人間さえも“その部類”に入ってしまいそうな鋭さがあった。

 マキナは眩暈がし、それでもなお口を開いた。

 あの震えの正体をどうしても掴みたい。

 恐くもあり、しかし、彼は何か“惹きつける”ような雰囲気を持っていた。


「ま、俺にとっちゃありがたい。昨日もそうだったけど、マジで助かった。ありがとな」

「…………」


 スライクは無言。

 アステラのそれとは違い、荒々しい空気を纏っていた。

 彼はいい加減、マキナも鬱陶しくなってきたのだろう。

 今さらながらに、よくアステラはこの男に救援を頼めたものだ。

 その辺りは幼馴染の特権、というものなのかもしれない。


「ま、完全に他人任せだけど、安心だ。次にあんな奴が出ても、お前なら殺せるんだろうし」

「あ?」


 調子に乗り過ぎたかもしれない。

 彼が“使われる”種類に分類されることを良しとするような性格には見えない。

 だが、スライクはマキナの予想とは違う部分に引っかかったようだった。


「あのでけぇのは死んじゃいねぇだろうな」

「……は?」

「戦闘不能の爆発」


 スライクは、眉を潜めるマキナに構わず、そのままの速度で歩き続ける。

 その言葉は、どこかうんざりするようにも聞こえ、しかし、まるでアステラのように感情を込めない―――まさに、どうでもいいとでも言うような口調だった。


「どういう意味だよ?」

「言った通りだ。魔物は死んだら消し飛ぶ。あのでかいのは爆ぜなかった。そんだけだ」


 分かりやすくもあり、そして、理解不能の言葉だった。

 “戦闘不能の爆発”。

 それをマキナは聞いたことがある。

 魔物は死ぬと―――爆ぜる。

 タンガタンザでは、戦闘要員と非戦闘要員がきっぱりと別れ、戦闘は主にミツルギ家が行うため、むしろ常識として根付いていない現象。

 マキナにあるのは知識だけではあるが、一応は知っている―――魔物の最後の“攻撃”だ。


 マキナははっとして背後に振り返る。

 見渡す限り、岩場。スライクの進行に合わせたせいか、随分と進んできたようだ。

 追っては無く、だがそちらから、爆発音のようなものは聞いていない。

 だから、“あの魔物は生きている”。

 スライクは、振り返りもせず歩き続けていた。

 それが―――理解不能だった。


「あいつ、死んでないのかよ?」

「らしいな」

「え、え、え、ちょ、何でだよ。あいつ、真っ二つにされて……」

「理由は知らねぇし、興味もねぇ―――」


 では、何か。

 この男は、あの魔物が生きていることを知っていて、それでもなおその場から離れたというのか。

 あの魔物は、例え生きていたとしても瀕死の有様だった。

 もしかしたら、マキナでも止めをさせていたかもしれない。いや、あの魔物が生きていることを知っていたら、マキナは是が非でも止めを刺していた。

 あんな“異常”が存在していることは、自分のような一般市民にとっては脅威でしかない。あの1体だけで、一体どれほどの犠牲者が出ることか。

 だがスライクは、人間に害を及ぼすとしか考えられない魔物を圧倒し、しかし駆除はせず、あっさりとその場から去りゆき―――


「―――飽きちまった」


 そんな言葉を、吐き出すのだった。


 理解、不能だ。


「お前はそんだけ力を持っていて、“そう”なのか」


 思わず口をついて出た言葉に、スライクは応答しなかった。

 日輪属性であり、勇者ではないと言うスライク。

 だがその真意を、マキナは察せた。

 彼は、世界を救うことを願っていない。

 ただ目の前の敵を散らし、そこに意味を持とうとしない。

 “ヒーロー願望”というものが、欠損しているのだ。

 存在していない、ではない。欠損している、だ。

 人は誰しも、天命のように、天啓のように、必然的に、その願望を持つはずなのだから。


 マキナも幼い頃は、剣に見立てた棒きれを振り回し、そんな願望を持っていた。

 自分が奇跡を引き起こし、タンガタンザの戦争を終結させる存在に成りたいと願っていた。

 だが時が経つにつれ、ものに成らないと悟ってしまう。

 知っていた。

 そんなことは、棒きれを放り出す前に気づいていた。

 結局人には、“役割”というものが存在するのだ。

 役割を遂行できるものは、限られているのだと。


 だから怖くて、自分の座れる席―――武具の生成にのめり込んだ。没頭した。

 座れなかった席から離れ、自分が座れる椅子を探す。

 周囲を見れば、みんながそうしているではないか。

 苦笑いを浮かべながら、『当たり前だから』―――と。

 マキナ自身も、思わずやってしまっている。

 先ほどからスライクを絶賛しているのも、もしかしたら、自分が座れなかった席に座れる存在に対するやっかみのようなものなのかもしれない。

 だからマキナは―――最初は多分、そんな想いだったのだろう―――それを直したい。

 そんな世界は、壊れている。

 そんな“普通”は―――自分の世界に取り込めない。


「そんだけ、強いのにな」


 また、やっていた。やっかみだ。

 その席に、座れるならとっとと座れと口に出すことで、自分の限界をぼやかす。

 『“今”、お前はその席に一番近いから』―――そう言うことで、自分の不可能を曖昧にする。

 『自分は末席にしか座れないから』という意味を、隠し通すために。


「はっ。“人それぞれ”だろ」


 思っていたことは同じか。スライクの言葉はマキナの思考とリンクした。

 思考は違えど、終点は同じ。

 マキナの思い描いた、主賓の席に座れない者が座りたい席に座る世界。

 スライクが体現している、主賓の席に座れる者が別の席を探す世界。

 結局それは、同じことだ。


 だけど何故―――彼と自分は違うのだろう。


「……?」


 それは、突然だった。

 マキナがおぼろげで不確かな―――答えの無い疑問に思考を巡らせた直後、“ぬっ”、と。


 岩場一体に降り注ぐ、星の光が遮られた。


「っ!?」


 “脅威”を感じ、身体中に嫌な汗が浮かび上がる。

 マキナは飛び退くように振り返り、空を見上げた。

 星が雲に隠れたのだと希望的観測を胸に抱き、しかし即座にそれを捨て去る。


 見上げた先に“存在していたもの”は、マキナの思考や雲などの不確かなものではなく、“確固たる巨大生物”。


「―――、」


 ただひたすらに、絶句。

 造形で言えば、話にしか聞いたことは無いが竜種というものに分類されるのかもしれない。

 いや、『蛇』か。

 星空に立ち上るように現れた『蛇』は、とぐろを巻き、遥か上空からマキナたちを見下ろしている。

 肌は、土色。

 それもそのはず、その『蛇』は、円周10メートルはある岩石が数珠繋ぎに連結し、その岩石の数10……、20……、30、いや、最早数える気にもなれない。

 そんな異常生物が、岩場から“生え”、とぐろを巻き、鎌首をもたげていた。

 顔と思われる先端の岩石には、目の位置に相当する部分に穴が空き、禍々しい眼光を光らせている。

 その無表情な岩石の顔は、先ほどのゴーレムのような化物と同一のものだった。

 まさか“これ”があの化物の本当の姿なのだろうか。


「あ……え、」


 喉から声を絞り出した瞬間、マキナの足も、足場の岩石の微量な振動を捉えた。


 まさか。


 この広域な岩石の密集地帯“そのもの”が、“この化物の身体だと言うのか”―――


「―――ぐえっ!?」


 途端、ぐんと身体を持ち上げられた。

 胴に片腕を力強く回されたと思った瞬間、マキナの景色は高速で『蛇』から離れていく。

 気づけばスライクが、マキナを小脇に抱えて走り出していた。

 マキナという重荷があるにもかかわらず、突風のようにスライクは走り続ける。

 圧倒的な速度に、身体の血液が逆流するほどの圧迫感を覚えた。

 それでも『蛇』の眼前にいるよりは心地よく、しかし、まるで『蛇』から離れていないようにも感じた。


「場所が悪ぃ」


 スライクからそんな言葉が漏れた。

 マキナに語りかけたのかもしれないし、あるいは独り言かもしれない。

 だが、それには賛同できる。

 もし。

 “最悪の予想が予想通り”であった場合、この岩場は総て奴の身体だ。


「いっ!?」


 小脇に抱えられたマキナは悲鳴を喉から漏らした。

 スライクに背後から抱えられ、逆さまになった前方の光景。

 突如岩石が隆起し、防波堤のようなものを築き上げる。

 あれも―――『蛇』の一部。


 衝突―――する。


「遮ってんじゃねぇぞおらぁっ!!」


 スライクの咆哮に、マキナは思わず目を閉じた。

 次の瞬間、村ひとつでも吹き飛ばしたような轟音が鳴り響く。

 恐る恐る目を開けると、スライクが腕を振り抜いていた。

 『蛇』の方向を確認すると、数珠繋ぎに隆起した防波堤のひとつが粉々に破壊されている。

 あれを砕いたか。

 超常的な光景に、マキナは他人事のような感想を覚える。

 感覚がすっかり麻痺してしまった。

 最早この一夜の出来事には、おとぎ話のような遠さがある。


「グ、グ、グ」


 始めて『蛇』が、呻き声を上げた。先ほど耳にこびりついた恐怖の呻き。

 やはりあのゴーレムの化物と同じ個体であるようだ。

 その呻き声に呼応し、スライクが大破した“身体”の一部が重々しく振動する。

 すると、大破した両隣の岩が、先ほどゴーレムの形態でも見せた回転する動きで近付き、結合する。

 その“再生”は、脅威だ。

 あの『蛇』にとって、身体の欠損は何の意味も持たないことになる。


「うぐっ!?」


 グンッ!! と身体が引き上げられた。

 感覚としては浮遊に近い。

 スライクは、マキナを抱えたまま矢のように跳んだようだ。

 射出されたように暴風を浴びた直後、獲物を捉え損ねた“岩の尾”が岩場を叩き潰している。


「やりたい放題かよ」


 あの『蛇』にとって、この岩場の破壊は意味を持たない。

 敵を潰すためなら、構わず襲うことができる。

 ここには、あの『蛇』の一部が大海のように広がっているのだから―――


『平和の空虚は、やがて高貴を宿す』


「……?」


 声が―――“聲”が、聞こえた気がした。

 高速で流れる世界。

 回る―――世界。

 そこで、“何か”の“聲”が聞こえた。


『高貴の野心は、やがて非情を生む』


 幻聴なのか。

 打ち付けた頭が、狂った環境が、自分にこの聲を聞かせているのか。


 それならせめて―――優しい声が良かった。


『非情の欺瞞は、やがて過酷を迎える』


 “聲”は、不気味で、不愉快で、不安で、そして、怖かった。

 透き通るように思えて、澄み渡るように広がり、そして侵食するようにおぞましい。


 マキナの身体が、あのゴーレムに殺されかけたときよりも、あの『蛇』に遭遇してしまったときよりも、強く、震える。

 その振動は、スライク=キース=ガイロードが剣を構えた瞬間にさえ相当した。


「……」


 力を抜き、されるがままに運ばれるマキナは、岩場の終点を見た。

 間もなく終わる岩場。

 『蛇』の頭は最初に現れた場所から動いていないようにも見えるが、いつまでも巨大だった。

 だがマキナは、最早『蛇』には脅威を感じていなかった。

 いかに進行方向に“尾”を振り下ろされても、スライクが砕いた岩のかけらが身を打とうとも、まるで何も感じない。

 もう、狂った環境には慣れ切った。


 だから。


 だから早くこの“聲”を―――止めてくれ。


『過酷の末路は、やがて平和に還る』


 今度は落下の浮遊感。

 マキナを抱えたまま、ついに広大な岩場を走破したスライクは岩石から飛び降りる。


「無事だったか」


 落下地点には、移動手段に乗り込んだアステラが待機していた。

 着地直後、放り投げられるように地面に捨てられたマキナは、蠢きながら立ち上がろうとする。

 しかし、膝は笑い、まるで動けない。


「スライク=キース=ガイロードにエニシ=マキナ。あれは何だ」


 アステラの位置からもとっくに見えていたのであろう。

 巨大という表現の範疇を通り越した『蛇』を見上げながら、しかしアステラは感情の無い声で疑問を発する。

 『蛇』はどれだけ離れても巨大で、脅威で、恐怖であるというのに、彼女はそれでも淡白だった。

 先ほどゴーレムを見たときに叫んだのは、マキナの危険を感じたからなのかもしれない。

 街に連れて来いと“言われていた”から―――だろう。彼女らしい。

 あるいは、スライク=キース=ガイロードがいる時点で、敵に脅威を感じる必要が無い―――ということか。

 どの道、“異常”だ。


 だがそんなアステラの様子に、マキナは何も言わなかった。

 気にしている場合では無い。


 “見てしまったのだから”。


「はっ、あんな雑魚どうでもいいんだよ」


 大胆不敵に、傲岸不遜に、スライクは『蛇』を見上げ、“そして視線を外す”。

 彼の中で、あの『蛇』は最早認識する必要が無いと位置付けられているのだろう。


 マキナ自身も、大胆不敵でも無ければ傲岸不遜でも無いマキナ自身も、あの『蛇』は、あれだけ巨大なのに矮小に見えた。


 “そんなものどうでもいい”―――と。


「で、だ。さっきから鬱陶しいことこの上ない“語り部”は、てめぇか?」


 スライクも聞こえていたらしい。

 金色の猫のように鋭い眼をもって、“そこ”を睨みつける。


 岩場の上。

 つい先ほどスライクが飛び下りた地点。

 いつしかそこに。


 “何か”が座っていた。


「世界は回る」


 対面して聞いても、マキナの身体は揺さぶられた。

 あれが幻聴だったどれほど良かったのだろう。

 どこか紳士的な“聲”。高いとも低いとも形容できない、ただただおぞましい―――恐怖そのもの。

 マキナの視界が揺らぐ。止血の役割を果たさなくなった額の布から血が溢れ出してきた。


 “聲”の主は、続ける。


「俺が何もせずとも、世界は回り、移りゆく」


 身の丈は、胡坐をかいて座っているせいで分からないが、スライク=キース=ガイロードと同等程度だろうか。

 『蛇』と比べるまでもなく、小さい存在だ。

 あくまで人間と呼べる範疇のサイズ。

 顔も、手も、足も、総てが人間と同じ形状。

 だが、身体の“素材”は、明らかに異質だった。


 “鋼”。

 その存在は、銀の鋼で造られていた。


 鉄仮面を被ったような貌。

 逆立つように尖った髪。

 鎧を纏ったような身体。

 ナイフのように鋭い指先。


 身体総てが、攻撃的に鋭く光る―――“凶器”。


 だがそれらは、装備品では無く、“身体そのもの”だった。


 剣が命を宿し、人間の姿に成れば、ああした形状に成るのであろう。

 視線が合うだけで、身体中が切り刻まれそうな存在だった。


「だが、遅い。非情が過酷を迎えるのは、あまりに遅い。遅すぎる」


 何を言っている―――とは、言えなかった。

 口を開いてはならない。

 この存在に、この狂気に、自分という“個”を認識されることは許されない。

 吐き気をもよおすほどに発する頭の痛みは、強引に抑え込んだ。


「だから俺は世界を回す」


 この鋼の鉤爪で、世界に爪を立て―――回す。

 そう、その存在は言った。


「下だらねぇ話をしてぇんなら他当たれ。それとも死ぬか?」


 そんな“凶器”を前に、スライク=キース=ガイロードは変わらぬ様子で接する。

 まるで剣同士が鍔迫り合いをするように、荒々しく―――接する。


「そうもいかない」


 “聲”は続ける。

 スライクの剣を押し返すように。


「“決めなければならないこと”がある。必要なプロセス。秩序。それが無ければ、どこぞの馬鹿な研究者と同等になってしまう」


 そこで、ぬっ、と。

 その存在の隣に岩が現れた。

 『蛇』だ。

 不動に思えた『蛇』が、その存在に傅くように頭を垂れていた。


 並び立つとますます感じる―――その優劣が。

 『蛇』に対して、マキナは最早何も感じなかった。

 岩と鋼。

 その強度は、最初から決まっている。


「トラゴエル。ようやく決めたよ。たまにはこんな異郷に来るのもいい。今年は随分と遅くなったがな」


 トラゴエルというのは、その『蛇』の名前か。

 その存在は『蛇』の貌をそっと撫で、立ち上がり、指を1本、鋼の胸の前に掲げる。

 動くたびに鋼がすり合わされる音が鳴り、そのたびに、それだけで、マキナの身体は震え上がった。


「ここまで近くで選定するのは久方ぶりだ。だが、いいだろう。たまには昔に戻るのも。繰り返すという行為は、世界そのものを現している」


 その存在は、スライクを捉え―――僅かに首を振り。

 その存在は、アステラを捉え―――首を振り。


 そして。

 その存在は、マキナを捉えて―――止まった。


 じっと―――見られている。


「“魔族”―――アグリナオルス=ノアがここに宣言しよう。今年の『ターゲット』は―――お前だ」


 この日。

 エニシ=マキナは、“指”を差された。


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