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おんりーらぶ!?【第二部】  作者: コー
南の大陸『シリスティア』編
20/68

第31話『神の御手すら撫でれぬ領域』

―――***―――


 強かに、頭を打った。


「……?」


 痛みは即座に昇らず、緩やかな覚醒と共に、目を開けた。

 最初に目に入ったのは―――闇。

 むせ返るほど土埃の匂いが強く、物を掴めないほど指先の水分が奪われるような乾燥した空気が肺を満たす―――闇。

 時たま、ごわんごわんとアルミ板を叩くような音が響き続けるだけの奇妙な空間だった。

 ここは工場か何かなのだろうか。機械音が鳴っている。


 暗い。慎重に立ち上がった。

 状況がまるで分からない。自分が今いる場所はどこで、何故ここにいるのか、あるいは自分が誰であるのかすら―――分からない。

 一瞬とも無限とも思えるような“空間”を通ってきた。そんな漠然とした感触だけを覚え、強打したはずの頭の痛みすら感じなかった。

 自分の総てが引き抜かれ、そして強引に注ぎ込まれたかのような。自分の総てが打ち砕かれ、そして強引に繋ぎ止められたかのような―――淡白な、感想。

 しかし、何故かそこに不気味さは感じられなかった。


 この感覚は、どこかで経験した。


 一寸先も見えないような闇の中、脳はようやく働き始めた。

 光源が欲しい。ここは暗すぎる。

 おぼつかない足取りで行動を始める。硬く、ほのかに温かい壁のようなものにぶつかり、手探りで光源を探した。


「…………」


―――自分はこの感覚を、どこかで経験したような気がする。


 壁伝いに、壁に身体を預けながら、よろよろと進んだ。時折、闇の向こうから響く奇妙な振動音に混ざり、腰からガチャガチャと金属音が届く。視線を向けもせず、ほとんど条件反射で光源を求めた。


 まずは光源を探す。暗ければ何もできない。

 いや、この感覚の謎を追う。覚えているうちでなければ掴むことなどできはしない。

 いや、自分が誰であるのかを考える。それこそ、最も重要なことではないか。


 落ち着きながらも混乱し切っている脳がいくつかの指令を飛ばすが、ひとつしかないこの身はその命令を受け流すだけだった。

 壁は続く。長い道だった。


 闇が―――続く。


 身体で壁を拭うように進み続けていると、脳がふっと軽くなった。

 打った頭がようやく鼻をすっと抜けていくような痛みを覚え―――“それも順次回復していく”。


 一瞬戸惑ったが、しかし働き始めた思考回路が冷静さを保たせる。


 “負傷が治る”。

 別に不思議なことではない。ただ、働いているだけだ。


 “日輪属性のスキルが”。


「……!!」


 ヒダマリ=アキラは覚醒した。

 バラバラにされた記憶の粒が即座に連結し、“アキラが途切れた地点”を思い起こさせた。


 ここは、数ヶ月前自分が落とされた―――“異世界”。自分はそこで“勇者”となり、魔王を救う旅をしている。

 途切れた地点は―――“アドロエプス”。そこでは“伝説堕とし”が執行され、焼き飛ばされるような熱気が舞った。


 散乱していた自分の歴史が正しい位置に収まると、アキラは壁から身体を離した。

 光源など探す必要は無い。自分はすでに灯りを持っている。


 アキラは手を僅かに掲げ、魔力を流そうとし―――よろけた。


 “パチリ”。


 聞き慣れた―――しかし、ここでは“聞いてはいけない音を聞いた”。


 よろけたアキラが手をついた壁。

 そこには手のひらほどの突起物があり、アキラがそれを押し込んだ瞬間。


 バッ、と部屋に灯りが点いた。


「っ!?」


 まばゆく光がアキラの目を焼いた。闇に慣れ切った瞳をきつく閉じ、アキラは両手で顔を覆う。

 僅かに開けた瞼の隙間から、アキラは自分が手を置いた突起物の正体を探る。

 突起物は壁に張り付くように薄く、中央に四角い“ボタン”があった。自分はそれを押し込んだのだろう。指先ほどに小さい四角いボタンは右側が突起し、さらに小さなマークがついた左側は埋まり込んでいる。右を押せば左が突起し、左を押せば右が突起するのだろう。

 これが契機で部屋が輝いたのだとすれば、かなり珍しいタイプのスイッチだ。アキラが見慣れたマジックアイテムの照明具は、丸いボタンがひとつ付いており、指先で触れて微弱な魔力を流すタイプである。ボタンにアクションは必要無く、ただ照明具に魔力を届けさえすればいい。


 だが、アキラはそのスイッチを知っていた。と言うより、知らない人間などいないだろう―――“元の世界の住人ならば”。


 目が光に慣れ始め、アキラは即座に顔を上げた。

 未だくらむ視界に入ったのは、一辺数百メートルはある巨大な正方形の天井。


 その、中央。


 煌々と橙色の光を放ち、黄ばんだ汚らしい壁の部屋全体を輝かせる―――その光源。

 その色を見て、アキラは“日輪属性のマジックアイテム”などとは結びつけなかった。


 あれは、今自分がよろけて押したスイッチに呼応して反応した―――“電気”の灯りだ。


「……、……」


 唖然とし、動揺した。

 ここには、“この世界”には―――“電気”というものは存在しない。

 アキラは、かつてこの世界で遠雷を見たことがあったが、それを加工した技術を見たことは無かった。

 だが今確かに、自分が魔力を流さずとも、“スイッチを押しただけで点いた灯り”が目の前にある。


「…………っ…………っ」


 アキラは頭をかきむしり、一縷の望みをつなぐように記憶を呼び覚ます。

 自分は確かに異世界にいて、確かに世界を救う旅をしていた。

 だが目の前に在るものは、それを根底から覆す。


 この異世界は、魔力が重要視され、元の世界より科学が遅れ、文明も元の世界の近代と古代を足して2で割ったような―――いいとこ取りをしたような“ご都合主義にまみれた世界”。

 だが電気。目の前には、“科学の発展に多大な貢献をした電気”があるのだ。


 こんなものをたったひとりで見てしまえば、自分は異世界への来訪などをせず、ただ長い夢を見ていただけのような絶望感を覚える。何が原因か、どこかの工場に紛れ込み、そこで寝入っていただけのような―――


「……………………工場?」


 ごわんごわんと、工場のような音は響く。


 天井から下ろしたアキラの瞳は、奇妙な物体を捉えた。

 目の前に、アキラの背丈の3倍ほどの高く、長い“台”を見つけた。

 黒塗りのその台は、アキラの視点からはほとんど壁だ。天井を見るに広大な部屋のようだが、その“台”のせいで見渡せない。自分はその台から落下し、頭を強打したのだろうか。

 “台”は長く続き、広大な部屋を横断するように部屋の壁と壁を繋いでいる。


「……」


 魔術を使えば登れるだろうか。

 アキラは一考し、周囲に視線を這わせた。

 部屋の隅には細長い棒や書物が散乱し、足元にはどこかから舞い込んだのか砂が、じゃり、と音を鳴らす。

 壁と台に挟まれ、幅が5メートルほどの長方形の空間にいたアキラは、壁に張り付いた梯子を見つけた。

 赤茶けた錆にまみれた鉄製の梯子は今にも崩れそうだが、高さは部屋の高さの中央ほどまである。あれに登れば部屋中が見渡せるだろう。


 アキラは梯子に駆け寄り、両手で掴む。棘のようになった錆が手のひらに食い込み、アキラは僅かに顔をしかめながら梯子を上った。

 そこでカンカンと腰の剣が梯子を叩き、アキラは僅かに安堵した。


 自分は剣を持っている。ここは異世界。間違いは無い。

 どれだけの期間意識を手放していただろうか。考えても答えは出なかった。

 アキラは無駄な思考を頭から追い出した。


 今は何をおいても皆を探さなければならない。


「……」


 パラパラと零れてくる埃に顔を伏せながら、アキラは梯子を上り続けた。

 状況整理はできてきた。

 大樹海アドロエプスの“失踪事件”。その伝説を堕とす代償に、自分たちは“強制転移”させられたのだ。

 順調だ。もう錯乱はしていない。


 だが―――ここは果たして、どこだったか。


「―――ぅ」


 記憶の封に手をかけ続けていたアキラの背筋が凍りついた。

 びくりと身を振るわせ、アキラは警戒するように振り返る。アキラの急な動きに梯子がさらに軋んだが、なんとか壊れる前に部屋全体を見渡せる位置についていた。


 部屋の全貌が見える。


「……、」


 工場―――だった。


 どうやらアキラが見ていた壁のような台は、幾数本もあったらしい。

 だだっ広い部屋に、黒塗りの“台”は、まるで窮屈な隊列を組んでいるかのように水平にびっしりと並んでいた。全て同様に左右の壁に連絡している。

 だが、ただの台ではない。その上部はベルトコンベアのように動き、部屋の端から端まで進んでいる。いや、ベルトコンベアそのものだ。目を凝らせばまさしくベルトが、この空間に来る直前に見たサクの魔術のように台の上に波を作り、荷を運ぶ役割を果たしている。

 ゆっくりと、ゆっくりと、進んでいた。

 そして、その音。響き続けるアルミ板のような音は、アキラも耳にしたことがある“機械の稼働音”だった。


 ここは、一体どこだ。

 アキラは記憶を探る。だが、こんな機械的な空間を思い出すことはできなかった。

 多分、強制転移する直前―――自分は、思い出していたはずなのに。


「―――、」


 “それ”を見て、アキラの身体が固まった。

 脳裏に浮かべたからだろうか。幾本のベルトコンベアの中で、中央に近い1本。

 そこに―――目立つ紅い衣を纏った少女が倒れている。


「サクッ!!!!」


 梯子の上からアキラは声を張った。しかし、遠方の彼女は倒れたままで反応をしない。

 彼女の身体は、すでに部屋の端まで進んでいる。進む先はただの壁。あのままなら壁とベルトに挟まるだけだろう。


 だが、アドロエプスでも感じていた―――


 悪寒が―――増大した。


「―――キャラ・ライトグリーン!!」


 アキラが力任せに飛び立った梯子が破損し、台に倒れ込んで甲高い金属音を響かせる。その間アキラは全力をもって駆けた。

 台から台に飛び乗り、力任せに彼女の元に進んでいく。


 けたたましい足音が響く。近付きながら、アキラはサクの隣、紅い衣に紛れていた赤毛の少女を発見した。2人とも意識が無く、ただベルトコンベアに身を任せて壁に進んでいる。


 2人は間もなく―――壁。

 あまりに遠い。


「―――!!」


 2人が近付いた途端、壁の一部が―――“ぐにゃり”と歪み―――“ガバリ”と。“口を開いた”。

 黄ばんだ壁がまるで粘着物のように歪み、2人が乗っている台の道を大きく開けた。

 この壁は、生物だとでも言うのだろうか。

 口のようにしか見えない穴を広げ、餌を運ぶ台ごと咀嚼しているようにも見える。ベルトコンベアは、最早“壁”の長い舌にしか見えない。


 口の中は―――闇。

 何も見えない―――闇。


「っ―――、起きろぉぉぉぉぉぉおおおおおおーーーっ!!」


 部屋全体に響くような怒号を上げても、2人は反応せずに身を伏せている。


 そして―――2人は闇に、吸い込まれていった。


「らぁぁぁあああーーーっ!!!!」


 アキラは魔力を際限無く身体に宿し、闇に向かって突き進む。

 間もなく到着できる。

 ベルトコンベアを踏み砕かんばかりの速度で駆けたアキラは、闇に飛び込もうとし、


「が―――っ!?」


 一瞬で閉じた口に―――壁に、正面から激突した。


 上げに上げた身体能力をもっての衝突に、脳ごと身体が揺さぶられ、アキラは台の上で膝をついて倒れ込んだ。

 意識が飛びかけたアキラの身体は、ベルトコンベアが動いても壁との間に挟まれるだけ。


 壁の口は、開かなかった。


 アキラは肘をついて上半身を起こし、手のひらで壁を掴む。やはりそこには先ほどの柔軟な感触は無く、無機質な物体に成り変わっていた。


 アキラは白黒する視界の中、倒れたままで壁を拳で強く叩く。

 だが壁は、まるで反応しなかった。当然だ。文字通り全身全霊の当て身でも、まるで揺るがなかったのだから。

 剣を抜き放とうとしたが、アキラの身体は、ベルトコンベアから無抵抗にずり落ちた。


「か……、は、は、……は」


 再び狭い、壁と壁の間の空間。今度の幅は3メートルも無かった。

 地面に身体を打ち付けても、まるで痛みは昇ってこない。身体中が壊死したように痺れ、身体の上下も分からなかった。

 額が切れ、ぼたぼたと血が零れる。きっと今自分は、落石現場の死体のような姿だろう。


 だが何だ。こんな痛みは“二週目”で何度も経験した。“三週目”だって、“鬼”に薙ぎ払われている。


 アキラは台にもたれながら身を起こした。


 この壁は一体どういう仕組みなのか。

 アキラは手で寄りかかるように、台の脇の壁に触れた。硬い。

 “これ”は、2人が近付いたときは口を開けたくせに、アキラが近づいた瞬間ただの壁に戻った。


 何かの判別をしているのだろうか。


「……!!」


 朦朧とする意識の中、再び壁の別の個所が“ぐにゃり”と揺れたのが見えた。

 これは、口を開く予備動作。別の台の行く先の壁が、再び闇を開こうとしている。どうやら台の数だけこの壁は口を開くようだ。


 アキラは無理矢理意識を覚醒させ、身体をかがめる。

 幸運にも、先ほどの台とアキラを挟んで隣の位置。

 口を開いたときがチャンスだ。一瞬で台に飛び乗り、闇へ飛び込んでやる。


 アキラは意気込み、タイミングを計りながら―――ふと。“何が契機で壁が動作を開始したのかを察した”。


「―――キャラ・ライトグリーン」


 反対側の台を蹴り飛ばし、アキラはよろけながら跳躍した。

 負傷がたたって、アキラが跳べたのは辛うじて台に手をかけられる程度の高さだった。

 アキラは台にぶら下がり、よじ登るように台の上に肘を乗せる。その真横では、壁が再びガバリと口を開けていた。


「ぐ、あっ―――、」


 アキラは強引に“掴み”、“舌”の上から台と台の狭間に引きずり落とした。

 獲物を捉え損ねた口が再び瞬時に壁に戻るのを横目で眺め、アキラは掴んだそれを抱きかかえるように落下する。


 今度は昇った落下の痛みに砂まみれになってもんどり打ったアキラの騒ぎに、ゆっくりと。


「ん……ん、ん?」


 アキラが引きずり落とした少女―――ティアことアルティア=ウィン=クーデフォンは目を覚ました。


「あれ……私……あれ?」


 深い眠りから覚めたように台に身体を預けながらティアは目を擦っていた。

 壁は再び沈黙している。

 彼女だけは、闇に堕ちるのを防げたようだ。


「あ……、ああ、アッキー、今、回復を」


 本当に寝ぼけてやっているのなら大したものだ。アキラなど、記憶が砕けしばらく茫然自失としていたというのに。

 傷だらけのアキラを見て、ティアはほとんど目を閉じたまま立ち上がり、アキラに手をかざす。

 漏れ出したスカイブルーの光を身体が患部で輝いた。流石に本調子ではないのか、普段と違い、どこか淡く、今にも消えてしまいそうな青だった。何故か彼女は、魔力を枯渇しかけている。

 その弱々しい光を受け続けたアキラの痛みが引いてきたころ、ティアの瞳はようやく開き切った。


「…………アッキー。ここ、どこですか?」


 覚醒した直後。僅かに被りを振り、ティアは無駄口を叩かず周囲に視線を走らせた。

 最後に部屋の中央に位置する“電灯”を怪訝な表情で見つめ、アキラに視線を合わせてきた。


「樹海じゃない。俺たちはアドロエプスから“移動させられた”。他は分からない」

「エリにゃんとサッキュンは?」

「2人は“呑まれた”。この壁に」


 現状確認するだけの、淡白な会話を交わした。

 このアキラとティアがこうした会話をしているだけで、エリーとサクは戦々恐々とするであろうが、2人は今―――“呑まれてしまっているのだ”。


「…………ごめんなさい。事情が私ではさっぱりです。私は何をすればいいですか?」

「2人を探すぞ。何とかして考えないと」


 本当に、淡白な会話だった。

 ティアは事情を理解することを放棄し、ただ指示を待つ。それだけ一刻を争う事態であることだけを理解したままで。


「とりあえず、この部屋を出るぞ。何とかしてここを出ないと2人を追えない。壁を壊す方法を―――」

「……あの、アッキー? この場所を出るんですよね?」


 ティアが首を傾げた。張り詰めた空気が緩んだような、虚をつかれたような表情を浮かべている。

 アキラが怪訝な顔を向けると、ティアはおずおずとアキラの背後を指した。


「そのドア、開かなかったんですか?」


 アキラは無言で振り返った。そこにはティアが示す通り、先ほどの梯子のように錆びた小さな扉がある。この場の雰囲気が工場ということも手伝い、作業員の連絡口にしか見えないそのドアに、アキラは今の今まで気づかなかった。

 台と台の間に挟まれた者はここから出られる造りになっているのかもしれない。


「お2人が呑まれた、って、要するにこの壁の向こうに行ったんですよね? だったら、そこから出れば、」

「ティア。超お手柄」

「えへへ」


 得意げに微笑んだティアに笑い、アキラは小走りでドアに近付き、手をかける。

 ドアノブを回しただけで削られるような音が響き、ドアが甲高く鳴く。鍵はかかっていないようだった。


 アキラはドアを押そうとし―――


「……………………」

「……アッキー? どうしたんですか?」

「……………………い、いや、流石に、それは、」

「?」


 水分を絞り取られたようなアキラの手のひらが、ドアノブを掴んだまま、じっとりと濡れた。

 鼓動が著しく高くなり、耳鳴りは鼓膜を破くほど酷い。


―――自分はこのドアに、気づきたくなかっただけなのだろうか。


 顔面蒼白になったアキラは、祈るように硬く目を閉じ、慎重に―――慎重に、ドアを、押す。


 ドアの隙間から―――“砂が舞い込んできた”。


「ぅ……ぅ……、っ、っ、っ」


 違う―――違わなければならない。


 そんな想いを込めた―――ドアの先の景色。


 それは―――


「は……」


 ドアの先は、“外”だった。

 アキラは、ぺたりと座り込んだ。

 瞳は一瞬で乾いた。さっと血の気が引いていく。全身が痙攣し、腹の底から突き上げてくるような吐き気が襲ってきた。


「は……は……は」


 狂ったように、アキラは喉から声を漏らし続けた。


 あり得ない。

 こんなことが―――あってはならない。


 この旅は、キラキラと輝いているはずだったのに。


「アッキー? どうしたんですか? アッキー!?」


 ティアに身体を揺すられても、アキラは座り込んだままだった。


「…………」


 自分たちは、確かに強制転移させられた。

 アドロエプスの伝説を堕とし、その代償に、シリスティアの自分たちの足音を奪われた。


 別に命が奪われたわけではない。過去の被害に比べたら、あまりに小さな代償だ。


 だが。

 だが。

 だが。


 この場所だけは―――無いだろう?


「ここ、どこなんですか?」


 ティアが眺める、その景色。


 草木が一切無い荒れ果てた砂地に、むき出しになった山脈のような岩山。岩を削って音を奏でる風は、砂を宿し、凶器のように吹き荒れる。歩くだけで体力を奪い去り、精神さえも粉々に打ち砕く―――“死地”。


 この場に比べたら―――大樹海アドロエプスは楽園だ。


「こ、ここ、は―――」


 アキラはがちがちと歯を振るわせ、かすれ声を絞り出した。

 紡いだのは“世界最高の激戦区”―――醜悪にして終焉の名。


「……ファクトル」


――――――


 おんりーらぶ!?


――――――


 ジ―――……ン。


 波紋が広がった。

 生じた波は幾重にもなり、波打ち際のように脳を叩く。それ以外、何も感じない。動けなかった。まるで、身体の一部を欠損させられたように。

 何も見えず、何も触れず、何も得られない。

 自分が今どこにいて、どこに向かおうとしていたのかも分からず―――そしてそれも、気にならなかった。

 精神の深く深くにいる。何となくそんな気がした。


 “ここ”は。

 温かいようで―――どこか寂しく。

 冷たいようで―――どこか優しく。

 不気味なようで―――どこか居心地が良かった。


 波打ち際に倒れた身体が、ゆっくりと、ずぶずぶと、ずぶずぶと沈んでいく。


 沈んでようやく―――“何かを得た”。


 自分が知らないことが―――知り得ないことが、分かる―――解る。

 削り取られた身体に、何かが注ぎ込まれているような気がした。


 何もできないのに、全能感を覚える。

 このまま沈んでいけば、自分は必ず何かを得るのだろう。そんな確信を持てた。


『―――、―――!!』


 “ここ”以外の感覚を初めて得た。誰かが叫んでいる。


 起きろ。そう―――言われた気がした。


 自分は―――寝ているのだろうか。


 ようやく動かせるようになった身体が、選択肢を提示した。


 沈むか、立つか。2択だけだ。


 ならば立とう。

 多分自分は、呼ばれたのだろうから。


「―――、……………………」


 エリサス=アーティはまどろみながら瞳を開いた。欠損させられたものを求めるように頭を振る。

 耳鳴りが酷く、頭がまるで回らない。単純な足し算さえ答えられる気がしなかった。

 どうやら自分は壁に背を預けて座っているらしい。


 何が起こったのか。

 記憶を呼び起こそうと緩慢な動作で額に手を当てた。


 依頼の請負。貴族の謀略。魔術師試験。押し潰される港町。両親の訃報。神の一撃。妹の入隊式。大樹海の伝説。図書館での調べ物。赫い部屋。月下で叫ぶ誰か。


 思い起こせた記憶は断片的で、時系列はバラバラだった。


 もう1度頭を揺すり、粉々に砕かれたような記憶を拾い集めると、慎重にそれを繋ぎ直す。

 しかし、集めた記憶の粒は一直線には並ばなかった。

 エリーは再度、記憶の流れを精査する。どうあっても組み込めないパーツはノイズとしてまとめると、ようやく記憶は一直線に並んだ。

 どうやら“ノイズ”は、あの奇怪な空間で拾ってきてしまったものらしい。


 意識の整理を終え、そこでエリーは目の前の景色を認めた。


 闇だ。結局何も見えない。昼か夜かさえ分からない。


「……………………」


 エリーはしばらく闇を眺めた。室内だろうか。うっ、とするような異臭が漂う空間だった。

 外から風が壁を叩いているような音がかすかに聞こえるが、それ以外は分からない。


 思い起こした時系列通りなら、自分は、自分たちは、確か、


「―――、ひぅっ」


 額から下ろした右手が、ぬちゃりと穢れた。硬い床の上に、粘着物のようなものが零れている。

 エリーは反射的に身を引き、身体をのけ反らせる。


 そこで、


「きゃあっ!?」


 付いた左手が今度は柔らかい何かを掴み、悲鳴が響いた。エリーはびくりと身体を縮こまらせ、胸の前で手を組んだ。

 自分以外に、誰かがいる。しかしどうも、聞き覚えのある声だ。


「……だ、誰?」


 恐る恐る、エリーは闇に訪ねた。声の主はすぐ傍だ。意識すれば向こうの吐息も聞こえてくる。


「今の悲鳴……ティ、ティア?」

「……………………」


 向こうもこちらを警戒しているのか、悲鳴の主は答えない。

 だがエリーは、是が非でもティアであって欲しいと願った。


 こんな怪しげな空間に、ひとりでいるのは耐えられない。

 その点、ティアなら暗闇の中でも喚き散らし、暗闇の中でも輝かんばかりの笑顔を想像できるだろう。

 親しい人間がいてくれなければ、心は即座に壊れそうだった。

 今共に旅をしているメンバーで、あんな悲鳴を上げるのは、


「…………ん?」


 頭がまともに働き出したのか、悲鳴の声の主に心当たりがあった。


「…………私だ」


 暗がりの向こうから、ようやく、いつもの冷静な声が返ってきた。


「え? サクさん? 今の悲鳴、サクさんなの?」

「……い、いや、違う。うん。まあ、違わなくは無いかもしれないが、聞き間違いだろう。ほらあれだ、いきなり……む、胸を掴まれたから」


 動き出して間もない頭では、何を言っているのか分からなかった。ただとりあえず、目の前にいるであろう人物はサクのようだ。

 エリーは穢れた右手を背後の壁で拭いながら、安堵の息を吐いた。

 ここがどこであるのかは分からないが、サクの近くにいれば安全だろう。


「えっと、他に誰かいる?」

「いや、私は目が覚めたばかりだ。どれだけの期間意識を手放していたのか……エリーさんの方は?」

「あたしも同じ。何で気を失ったんだっけ……?」


 エリーは拭った右手を払うように振り、再び周囲を見渡す。やはり、闇。ただ、奇妙な圧迫感だけはあった。


「エリーさん、灯りを点けられるか?」

「え? ……あ、ああ、そうね。あ~、ダメだ。なんかあたし混乱してる」

「私も同じだ。……異常な倦怠感がある。一体、何が……」


 サクも同じような状態だったらしい。

 やはり、謎だ。わけが分からない。


「はあ……」


 違和感や記憶の切れ目は、視野が戻ってからにしよう。

 座り込んだまま、エリーはひとまず手を掲げて魔力を流した。


 が、


「…………あ、れ?」


 手に灯ったスカーレットは、ぼんやりと、サクの顔を照らすだけだった。


「…………そんなに控え目でなくてもいいんだが」

「あれ? あれ? いや、ちょっと待ってよ、えっと、…………あれ?」


 最低限の魔力さえあればカッと光が漏れ出すはずなのに。

 何度やっても、手には淡い光源が宿るだけだった。


 そこで、エリーの頭がくらりと揺れた。


「ぅ……、ぅ?」


 よろめくように床に手を付いたエリーには、ようやく“症状”が分かった。


 自分は今、“魔力切れを起こしている”。


「エリーさん? 無理なら、」

「う、ううん、これくらいなら、大丈夫、よ。でも、なんで、」


 最小限に光を保ち、エリーは再び記憶を探り出す。

 魔力切れを起こしたのは久方ぶりだ。魔術師試験に挑むべく、特訓を行っていたときが最後かもしれない。


 意識が途切れる直前、何かが起こったのだろう。

 確か。確か自分は、あの“大樹海”にいて―――


「!?」


 エリーは床に右手を向けた。

 淡いスカーレットが照らしたのは、呼吸することさえも拒絶したくなる埃が高く積った汚らしい床。そこには、びっしりと走り書きのようなものが記された用紙が散乱している。


 樹海ではなく―――室内だ。


「……“キュトリム”とやらに当たった記憶はあるか?」


 サクも記憶の整理が済んだのだろう。エリーの顔を覗うような表情を浮かべた。

 しかし、違う。自分は大樹海の巨獣―――ガルガドシウムの“触手”に触れてはいない。


「…………サクさんの方はどう?」

「私? 私は…………ん? く、」


 サクがよろめいた。

 無理に魔力を流そうとした結果のそれは―――魔力切れの症状。

 サクもエリー同様、“触手”には触れていないはずなのに。


「待て……、考えよう。確か―――伝説は堕ちた。だからその後、その後だ。確か……」

「―――あいつが、叫んでた」


 やっと思い出せた。サクと顔を見合わせ、互いに頷き合う。


 伝説が堕ちた直後、風に漂う光の粒に、“ヒダマリ=アキラ”は叫んでいた。


「思い出した。私の意識はそこで途絶えた。気づいたらここだ」

「あたしも同じ。意識が無いとき、何か変な感じはしたけど……」

「エリーさんも、か」


 2人は全く同じ経験をして、全く同じ場所にいる。

 前提条件こそ整ったが、しかし事態もこの場所も謎のままだった。


「あの後、不覚にも気を失ったのだろうか。誰かが運んでくれたのかもしれない」

「あたしは“ジャミング”で消耗してたけど、サクさんは余裕無かったっけ?」

「……いや、あった。“魔術”の範囲は広げたが……いきなり倒れ込むほどには疲弊していなかったはずだ」


 2人の記憶に齟齬は無い。

 自分たちは、サクの魔術を使用して、伝説に猛攻を仕掛けたのだ。

 止めは“5万超”。

 サクは終始戦い続けていたが、一撃に加わっただけのエリーは“ジャミング”の影響下にあったとは言えそこまで疲弊はしていない。


 それにここは、倒れ込んだ者を運ぶにはあまりに不適切だ。

 汚れ切り、異臭が漂う。

 うず高く積まれた埃を見たエリーは、今すぐにでも立ち上がりたいくらいだった。何故か消耗している体力は、その命令を跳ね退けているのだけど。


「あいつは? それに、ティア。今すぐあいつを見つけ出して、何を知っているのか訊かないと」

「そうしたいところだが……、妙に身体が重い。何故これほどまでに消耗したのか……」


 サクも、同じ。2人は全く同じだ。

 ならばその共通点。

 自分たちは意識を失う前、何を見たか。


 叫んだアキラは確かに見た。

 だが彼は、何を見て叫んでいたのか。確か、舞い散る“粉”を見て、表情を一変させた。


 橙色の―――“粉”。

 この虚脱感は、あの粉が原因なのだろうか。


 とすると、あの粉の正体は何か。

 “症状”は、魔力の大幅激減―――


「……!」


 エリーの脳裏に、ひとつの可能性が浮かび上がった。


「サクさん。ここ、アドロエプスじゃないわよね?」

「ああ、どう見ても、だ」


 サクも同意した。

 あの大樹海も虫の音ひとつ―――足音一つ聞こえない静かな場所だったが、少なくとも、エリーは大樹海とは到底思えなかった。

 自分たちは移動した。させられた。それだけは分かる。


「―――“リロックストーン”。覚えてる?」


 と。エリーは自らの推測を口にした。


「リロックストーン? ……あれか。覚えてるとも。アイルークでよく破壊したよ」


 リロックストーンというマジックアイテムについて、サクは最も思い出深いだろう。

 あるときは平和な街に。あるときは樹海の中の魔物の巣に。

 “平和”と言われるアイルークに、尋常ならざるものを出現させた―――“使用者を移動させるマジックアイテム”。


 サクが床に目を走らせた。

 リロックストーンは、出現したい地点に置くことで、その場まで移動できるマジックアイテムだ。

 その移動の解除方法は、置いたリロックストーンを破壊すること。

 アイルークで発生した異常事態で、サクはリロックストーンを2度とも破壊している。


 エリーはサクの足元を照らしたが、汚らしい部屋の床が見えただけでリロックストーンは見つからない。汚物のような部屋を間近で見て、2人の気分が悪くなっただけで探索は終了した。


「エリーさん」


 サクは少しでも床から距離をとるように腰を浮かせた。


「私はリロックストーンというものを知らなかったのだが、“出発地点”ではあの粉を使うのか? 使っている人も見たことが無い」

「あたしも同じよ。リロックストーンは人間界に無いんだって。魔族が使うだけ。普通の人なら一生見ないわ」

「?」


 サクが怪訝な表情をした。


「すまないが……、魔術師試験はそんな未知の物体も試験範囲なのか? エリーさんは、知っていただろう?」


 アイルークで最初にリロックストーンと口にしたのはエリーだ。

 確信を持って破壊するよう指示を出してきたのはアキラだが、あの男が奇妙なのはいつものこと。

 魔族が使うだけのマジックアイテムを、平和な大陸の孤児院にいたエリーが知っているのは妙と言えば妙なのだろう。


 だがエリーは、そのソースを答えられる。


 ヒダマリ=アキラは奇妙な男だ。それは周知の事実である。

 だが、彼が異質だと知っているのはあくまで内輪だけだ。

 彼以上に、大多数の人間に“異質”と認められている人物を、エリサス=アーティは知っている。


「“マリサス=アーティ”」


 と―――エリーは最愛の人物の名を出した。


「あたしが知っているのは単なる雑学。そういうアイテムが存在するって聞いたのよ―――あたしの双子の妹にね」


 バンッ!!

 ドアがけたたましく開かれた。


 視認できなかったドアを反射的に見た2人は外の光に目をきつく閉じた。どうやら今は太陽が昇っているらしい。

 誰かが入ってきた。それは分かる。だが目が開けない。外で吹き荒れているのか、風に床に散乱していた用紙が暴れ狂っている。身体に吹き込んできた風と混ざる砂が打ち付けられた。

 鬱陶しく舞った埃にエリーが呼吸を止めていると、ようやくドアが閉じた。

 ひらひらと、用紙が身体に降ってくる。


「ああ、また部屋が散らかった」


 甲高い―――男のような声が聞こえた。


「やはりドアを2重にすべきだろうか。それとも3重? “劣悪な環境における家屋の設計とその労力について”。そんな研究が確か―――ああ、飛ばされてしまったか。哀しいなぁ」


 エリーとサクに気づいていないのか、ぶつぶつと言葉を漏らす。

 そして、そこで。


 “パチリ”、と。


 部屋全体が輝いた。閉じていても目が焼かれる。

 エリーとサクは身をかがめ、網膜を守り続けた。


「しかし、やはり難しい。“魔力を混ぜた砂嵐の発生とその妨害能力について”。成功率は数パーセント。五属性の妨害までは可能だが、日輪月輪まで含むとなるとあまりに精度が低すぎる。……いや、待て。そうか、あれで十分か。日輪月輪は嵐の脅威に身を守る。そうであるのなら、“選択遮断”の裏をかけばいい。うむ。うむ。うむ。うむ―――? ダメだなやはり、試してみないことには―――」

「ぎ―――!?」


 隣から、短い悲鳴とともにサクの気配が消えた。

 “誰か”は、とっくに2人に気づいていたようだ。ただその2人に、“特別な意識を向けていなかっただけで”。


 流れるように消えたサクの気配に、防衛本能が働き、エリーは身体を起こそうとした―――が、


「―――ぐ」


 ガチャリ。

 鉄のような音が響き、首を何かが絞めつけた。その瞬間、無意識下でも手に込めていたはずのスカーレットが消え失せた。首に手を当てると、指先の感触がゴツゴツとした“首輪”のようなものを捉える。


 一体、今、何が―――


「きゃ!?」


 次の瞬間、脇から腕を掴まれた。不気味な感触に目を開けようとするも、即座にエリーは身体ごとボールのように投げ飛ばされた。

 ただ片腕の―――力のみによって。


「がっ」


 宙を舞ったエリーの身体は背中から硬い何かに衝突し、倒れ込む。頭を強く打った。光に閉じた瞳の中、閃光のような衝撃が弾ける。

 うつ伏せに倒れたエリーの背に、バサバサと書物が落下してきた。

 最後に耳元で瓶が割れたような音が響き、液体が巻き散ったかと思うと、生温かく、気を失うほどの異臭が漂う。

 僅かに吸い込んだだけで、身体は燃えるように熱くなった。


「は……、は……、か、……げ、はっ」


 エリーは呼吸を最小限に止め、うつ伏せのまま顔を上げる。

 光に慣れ切っていない瞳を強引にこじ開け、視線を向けた―――その先。


「―――、」


 広く、そして狭い部屋だった。

 面積は相当なものなのであろうが、ドアが付いている一部以外は全て奥深い棚で埋まり尽くし、その全てが分厚い書物や不気味な色を光らせる液体の瓶をぎっしりと詰め込まれていた。そんな棚が、高い天井付近まで伸びている。

 床には、棚から落ちたのか毒々しい粘着物や書物の頁が敷き詰められるように砂を乗せて散らばっている。


 汚く―――醜悪な、輝いた部屋。


 その、中央に。


「さてさて、参ったな。確か実験用の拘束具がどこかにあった気がしたが……、解らん。ダメだな。やはり吾輩の部屋を管理する僕を造ろうか。吾輩の専門分野だ。いや待て、そうだな。実験が終わって、もし生きていたら、お前たちを“それそのものだけに生き甲斐を感じるようにしてみよう”。うむ。うむ。うむ。うむ―――?」


 壊れたようにギョロリとした瞳は、左右が独立して動き。

 潰れたように歪んだ貌は、死者すら超越した泥色で。

 狂ったように伸ばした髪は、黒に等しい深い藍で。


「ぐっ、ぐ、むっ、ぐっ、」

「待て待て。心を壊すには相当程度期間がいるのだろうか。解らぬ。それは、研究を終えてはいないのだ。だが待て、いや待てよ。この際だ。探求しよう。ああ、懐かしき我が僕―――んん? 名前は解らんが、アドロエプスの巨獣よ。お前が届けてくれた“材料”は、我輩の宝物だ……!!」


 細枝のような腕を伸ばし、サクの口を掴んで掲げ。

 枯木のような貌で、天を仰ぎ。

 若木のような活力を、その全身から放ち。


「それでは始めようか、“人の心の壊し方”―――その実験を。吾輩はその理論をまだ探求してはおらん。本来あのサー……、サー……―――んん? 名前は分からんが、“支配欲”がどうたらと言っていた奴の分野のようだが、吾輩の食指は寄り好みをせん。だが待て、いや待てよ。砂嵐の効果の方が先か? ああ、楽しい。楽しいなぁ、探求は。溢れ続けてくれる。どうか謎よ、尽きてくれるな。吾輩は―――悠久なのだから」


 細身の身体に翻りもしないほどの分厚い白衣を纏ったその存在。

 ぎらつく危険な左右の瞳それぞれで周囲を見渡すその存在。

 頬までバックリと口が割れた不気味なその存在は―――


「おっとおっと、そうだった。そろそろ伝えよう―――お前たちが深く深く胸に刻むべき情報を。命ある以上、研究素材であろうとも、主の名を知ることは重要だ。吾輩はガバイド。魔王の協力者―――いや、一応“魔王様直属”と言っておくべきか―――ガバイドだ。今はそれだけを―――吾輩の名だけを、覚えておけばいい」


―――“魔族”。


―――***―――


 身体は、問題ない。

 強かに打った頭の痛みも引き、今も治癒スキルとやらが働き続け、完治と言えるレベルに達している。

 魔力も、問題ない。

 目が覚めたばかりにふらついた記憶はあるが、順調に回復を続けている。


 だが―――アキラは、まるで立つ気が起こらなかった。


「外……砂嵐がすごいですよ。どうやらこっちは行き止まりみたいです」


 ティアがドアを閉めるのを、アキラは“台”に背を預けて座り込んだまま眺めていた。

 見た限り、天気は大して悪いようではなかったが、彼女なりの配慮だろう。

 外の光景が目に入った途端、腰が砕けたように座り込んだアキラにとって、ティアの行いは心の底からありがたかった。


 だが―――流石に、ここは無い。


 “電気”の照明。不気味に動くベルトコンベアのような“舌”。それらが向かう、今は黙する黄ばんだ壁。奇怪な存在が埋め尽くす、だたっ広いこの工場。

 アキラは眺めながら、ほとんど泣きそうな表情を浮かべた。


 こんなわけの分からない空間だけでも手一杯だ。

 それだというのに、この部屋の外には。


 煉獄が―――広がっている。


「ええっと、何か心温まる話でもしたい気分になったんですが、いいですか?」

「いや、いい。いい」


 アキラは両手で顔を覆い、ティアの配慮に首を振った。

 “今のティア”では、アキラがただ外を見ただけで憔悴し切った理由は分からないだろう。

 だが、アキラは確かに覚えている。

 記憶を持ち込んだこの“三週目”。

 ここで心に刻まれた傷の深さを。


 アキラは確かに―――覚えている。


「ざけんな……。なんでファクトルに」


 零した言葉はティアにも届いただろう。

 だが、彼女は何も言わず、介護するようにアキラの隣に座った。


 ティアの存在が今以上にありがたかったことは無い。

 誰か1人でも近くにいなければ、アキラはとっくに発狂していた。突如眼前に現れた絶望に、“ヒダマリ=アキラ”の根底が叩き壊され―――“勇者”の旅は、物語の形を成さず、終わっていただろう。

 そしてここは―――ファクトルは、“それが起こり得る領域なのだ”。


「…………ティア。外で、何か見たか?」


 アキラはうずくまったまま、ようやく意味のある言葉を出せた。

 身体は吹雪に凍えるように震え続ける。

 だが、このまま塞ぎ込んでいるわけにもいかないのだ。“自分”は。


「アッキー、今はもう少し、」

「何か見たかって聞いてるんだ」


 言って、アキラは自己嫌悪した。何をティアに当たっている。

 彼女だって、自分と同じ―――“被害者”だ。


「え、ええと、ですね。砂地が広がってました。どこかの山道でしょうか?」


 アキラの態度をティアは気にもせず、見たままの光景を伝えてきた。


「違う。景色じゃない」


 それは、アキラも見た。外の光景が目に入った瞬間、身体中が痺れたのだから。

 だからそれ以後“見ることを拒絶した”アキラが知りたいのは、この壁の向こうに何があったのか、だ。


「この壁の向こう。外から見たらどうなってた? 何か、部屋みたいなのが出っ張ってなかったか?」

「? い、いえ。外もただの壁だったと……、あ、あれ? 確かアッキー、エリにゃんとサッキュンはこの壁の向こうにいるみたいなこと言ってませんでしたっけ?」


 “強制移動”か。

 アキラはティアのもたらした情報を、恐怖に歪む思考で処理した。


 自分たちをシリスティアからこの死地まで導いたのも“強制転移”。

 とすればこの壁も、“呑んだ”対象を移動させる能力を持っているのかもしれない。


 エリーとサクは、意識を失ったまま、どこかへ移動した。もし、“無防備でファクトルに野ざらしにされていたら”―――結末など、捻じ曲げられない。


「冗談じゃ……ねぇぞ。ここで“また”、バラバラになるなんて」


 アキラは拳で床を叩き、立ち上がった。

 事はより一層一刻を争う。

 この地で別れて再会できた者を、アキラはただひとりしか知らない。

 これ以上恐怖に打ちひしがれている暇は、幸運なことに無かった。


「ティア。あの2人を探すぞ。とにかく合流しないことには何にもならない」

「はい。あの、教えて欲しいんですが、お2人は呑まれた、と言ってましたよね。具体的に、何が起きたんですか?」

「俺もよく分からない。この“台”で上に2人が“運ばれていた”と思ったら、急に壁が歪んだんだ」


 ごうんごうんと動き続けるベルトコンベア。

 ティアは改めて顔をしかめ、不気味に稼働する台を眺めた。


「そんで、“開いた”。いきなりバックリ割れて、2人を呑んだんだ。その後すぐに閉じちまった。お前のときも開いたんだぞ?」

「ふえっ?」

「慌てて引きずり下ろしたけど、また壁はだんまりだ。全力でぶつかったんだけど、傷ひとつ入らない」

「は、はあ……、ええと、その節は本当にお世話になりました」

「俺もお前の治癒で助かったよ。―――キャラ・ライトグリーン」


 言って、アキラは台の上を目指した。

 反対側の台を蹴って、今度は確かに台の上に着地する。


 ベルトコンベアに身を任せつつ、壁に慎重に近付いたが、やはり壁は黙したままだった。

 もう1度刺激を与えれば開くだろうか。


「……」


 黄ばんだ壁の前、アキラは足踏みしつつ腰から剣を抜いた。先ほどの梯子ほどではないにしろ、錆つき、刃が潰れたそれは、ほとんど棍棒のようにも見える。柄の部分は辛うじて握れるが、今にも崩れそうだった。

 アドロエプスで破損した武器の予備として渡されたこれは、アイルークで見つけ、サクが鍛え直した武器だ。


「キャラ……、いや」


 アキラは詠唱を止めた。

 この場での“刻”は、強制転移の影響か、再び封がされている。

 何が待ち構えているかも分からないのに、武器を失うわけにはいかない。


 アキラは遠慮がちに剣を振った。


「っ、」


 ガインッ、と剣が弾かれた。

 壁には傷ひとつ付いていない。


 しかしアキラは壁の様子よりも、振るった剣の方が気になった。

 思ったよりも硬い。

 僅かに力を込めすぎたと感じたのだが、剣は、錆び付いたまま、刃こぼれひとつ起こしていなかった。


「ふー…………。―――、」


 もう一度、今度は魔術抜きの全力で剣を振るう。

 やはり弾かれ、アキラの手首が痺れたが、剣も壁も、無事だった。


「くっそ」

「アッキー、どうですか?」


 下からティアの声が聞こえた。

 アキラはベルトが届いていない台の縁に立ち、ティアを見下ろす。随分と低い位置でぴょんぴょん跳ねている彼女はより小さく見えた。


「上、来たいのか?」

「行きたいですよ、そりゃあ」

「頑張れ」

「アッキー、あっしが身長伸ばすためにどれだけの努力をしてきているかご存じないですよね? 絶望ですよ。あっしの成長、なんか完全に止まっている気がするんです」


 アキラの3倍ほどもある高さの台を前には、ティアは何もできない。アキラは、はっと息を吐き、1度台から跳び下りた。

 再び、台と台の狭間。ティアが僅かにむくれたような顔で待っていた。

 だが、確かにティアに検証してもらうのはいい手かもしれない。

 この壁は、もしかしたらアキラ個人を拒んでいるのかもしれないのだから。


「あっしを背負って、ぴょんって垂直飛びで上まで」

「無理に決まってんだろ。まあ、肩に乗ってくれ。跳んで投げるから、縁につかまれよ」

「いけますかね?」

「それ以外思いつかないし……、あと、上に乗ったらすぐに壁が開いても中に入るなよ? よし、ほら」

「うおおっ、ぐらぐらします……でも、背が伸びました」

「俺お前の軽口が場を和ませるためなのか素なのか分からなくなってきた」


 だが、随分と楽になってきた気がする。ファクトルの直近でも、心静かに思考が進む。

 試行錯誤し、なんとかティアを上に送り届けたアキラは、壁を注視した。しかし、無言。

 今度はティアを前にしても開かないらしい。


 アキラは一瞬ドアに目を向け、背け、再び台に飛び乗った。

 移動だけで魔力を大幅に消耗している。だがこの程度、外に比べれば遥かにマシだ。


「確かに、硬いですね」


 稼働音を奏で続ける台の上で、ティアはすでに壁をペシペシと叩いていた。恐ろしいほど勇気がある。

 だがやはり壁は無言。

 どうすべきか。この壁を突破しない限り、この工場を後にできない。外に出るのは論外だ。

 物理破壊が難しいのは検証済み。

 ならば。


「ティア。魔術撃ってみてくれるか?」

「は、はい」


 ティアは台の縁を通って壁から距離をとると、指を向けた。

 そして目を瞑り、魔力を集中させ始める。


「シュロート」


 ティアは、いつもは即座に放っている魔術名を口にした。

 走ったスカイブルーは極端に淡い。


 魔術的な攻撃でも、やはり壁は壊れなかった。


「うう……なんか悔しいです。魔力切れ起こしてるみたいで……」


 剣でも駄目。魔術でも駄目。

 こうなれば、この壁の突破は破壊では不可能ということになる。

 アキラは目をきつく閉じ、必死に活路を探し続けた。


 本来自分はこんな役どころではない。頭を使って活路を見出すような人物ではないのだ。しかし、普段それを担当している2人は壁の闇に消えてしまっている。


「……」


 アキラは壁に手を当て、必死に記憶を掘り返した。

 答えは見つかるはずだ。かつて自分は、この壁を突破したはずなのだから。


 壁が歪んだのは2回。エリーとサクを呑んだときと、ティアを呑み込もうとしたとき。そして今は、ティアを前にしても口を開かない。


 その差は。

 その差は―――“確かそうだった”。


「―――、っ―――」


 身体中から発汗した。

 答えが分かった。それと同時、記憶が解けた。


 この壁の突破方法。その先に待つ存在。

 そして―――“思い出すことを拒んでいた”その理由も。

 それら全てが脳を埋め尽くし、アキラの身体は崩れそうになった。


 “順風満帆に続いていたこの旅は”―――この地で。


「あ、あの、アッキー?」


 熱に浮かされたような表情で、ティアが顔を覗ってきた。

 アキラは頷き、目を伏せる。

 深く深く、眠りにつきそうなほど閉じた目を、弱々しく開けて、ティアを見つめた。


「ティア」


 まずは―――壁を突破しよう。


「俺さ、お前にはすっげぇ感謝してる」

「え? え、あはは、ありがとうございます」

「おだててるんじゃない。本心だ。お前がいなかったら、この旅は続かなかった」

「い、いや、嬉しいお言葉ですが……、あの、最近私、あまり役に立ってないような……」

「そうじゃない。戦力面だけじゃないんだ。お前が騒いでくれたおかげで、旅を本当に楽しくしてくれた。お前は心の支えだよ。お前がいたから、俺は、心折れずに先を見れた。アイルークで励ましてくれたことを、俺はずっと忘れない」

「……………………。え……ええっと、そのですね。私、今めちゃくちゃ感激しています。アッキーがそんなこと言ってくれるだけで、私がいる意味があったんだ、って思えます。…………ただ、そのですね。なんでだろう。何かあんまりいい予感がしないんですよ。いやあれですよ、嬉しいですよ。ああ、あっし、心がどこか穢れている気がします。折角アッキーがそう言ってくれているのに、何か背筋がぴりぴりするんですよ。なんか安っぽいとか思っちゃって」

「言ったのは本心だ。嘘偽りない、本心だ。お前に伝えたかったこと、言っておきたくて。誰かのために何かするって本気で思えるお前は、本当に、最高だよ。お前の優しさは世界を救える」

「お……おお、アッキー、私最悪ですね。人の想いを、斜に構えて受け取るなんて。今後も、私にできることがあれば、何でも言ってくだ―――」

「―――そこでだ」

「んん?」


 ティアの顔が凍りついた。

 そしてアキラはティアに―――全力で頭を下げた。


「悪い、ちょっと気絶してくれ」


―――***―――


「んん? どこだ? 解らん。確かあったと思ったのだが、実験用の拘束具が見当たらん。哀しいなぁ、何かを失うということは、それだけで哀しい。在り続けなければ吾輩の脳をすり抜けていってしまう。どうする、どうするか。できあいでもう1度造るか? いや、片手でやるには難しい。いや、首輪なら持っている。一旦そちらで……、む? 無い。そうか、先ほど使ってしまったか。ならスペアを……、ああ、そちらもこの部屋の中か。畜生」

「ぐ、ぁっ!?」


 棚を片手で漁りながら、ガバイドと名乗った魔族は腕に力を込めた。

 顔を手のひらで掴まれ宙釣りになったサクがくぐもった悲鳴を上げる。

 サクは必死に手を外そうと両手で抵抗しているが、ガバイドは目も向けずに棚を漁り続けていた。


「ん? んん? おお、奥底に見えるのは、……む? 妙に大きいな。拘束具かと思ったのだが、なんだこの妙に大きな輪は?」


 ガバイドが取り出したのは、半径5メートルはある鉄製の巨大な輪だった。

 それを軽々と棚の奥から引きずり出し、眼前に掲げる。

 再び、足元には書物や瓶が散乱するが、ガバイドは気にも留めなかった。


「うむ」

「ひっ」


 ガバイドは無造作に手を伸ばし、宙釣りになったサクの腹を掴んだ。撫でまわすように手を動かし、しばらく黙考すると、棚から取り出した輪を部屋の隅に放り捨てた。

 棚に当たった巨大な輪は棚を破壊し、またも何かが壊れる音が響く。


「やはり駄目か。サイズが違う。あれは何に使ったのか……。そうか、そうだ、“指輪”だ。名前は分からんが、何かに使った記憶がある」


 ガバイドは再び棚を無造作に探索し始めた。

 魔族の身体が動くたび、サクからくぐもった悲鳴が漏れ続ける。

 愛刀は腰にあるが、万力のような力で顔を絞めつけられているサクに手を伸ばす余裕は無かった。


「っ、……、っ、ぅ」


 その光景を、成す術なく眺めるエリーも余裕が無かった。埃まみれの部屋にうつ伏せに倒れ、眼だけでガバイドの挙動を辛うじて追っていた。

 身体が燃えている。原因は、先ほど僅かに鼻に触れただけの異臭。僅かに力を込めただけで身体がバラバラになりそうだった。

 骨を芯から溶解するような苦痛に、エリーは顔を歪め続けていた。


 一体何だ。あの“魔族”は。

 エリーは虚ろな眼でガバイドを見上げ続けた。突如として現れ、サクを掴み上げ、自分に妙な首輪を嵌めた。

 そして今、あたかもサクを物のように振り回し、部屋の探索を続けている。

 エリーの方など、最早見向きもしていない。


 ガバイドは、“魔王様直属”と名乗った。


 その表現を使った魔族に、エリーは2体心当たりがある。


 1体目は初めて遭った“魔族”―――サーシャ=クロライン。

 人の心に囁きかけ、思い通りに人間を操作する―――“支配欲”の魔族。

 2体目は話に聞いた“魔族”―――リイザス=ガーディラン。

 人の財を奪い取り、赫い部屋に金銀を収集する―――“財欲”の魔族。


 その驚異的な存在たちに自分たちはアイルークで激突した。辛うじて退けたあの激戦を確かに覚えている。

 だがこのガバイドは、“異質”だった。


 自分たちを、人とすら―――“攻撃対象とすら見ていない”。

 サーシャもリイザスも、自分たちを最低限は敵と判断していたというのに。


「むぅ、ダメだ。やはり本腰を入れて探すか」


 ガバイドは“ひとりごち”、散乱した部屋に左右の目それぞれを不気味に這わせる。

 拘束が緩んだのか、サクは手を慎重に提げ、腰の刀に手を伸ばしていた。


「うむ、よし。クウェイク」

「――――――ーーーっっっ!!!!」


 サクの全身に、グレーの光が走った。

 バチバチと迸る“痺れ”に、サクの身体がびくんと跳ねる。


「―――サ、サク、さん!!」


 エリーはようやく声を絞り出せた。

 ガバイドが手を離すと、サクはそのまま落下し、倒れ込む。

 エリーが呼んでも、サクはピクリとも動かなかった。


「ん―――? ああ、金曜か。どうやら加減を間違えたようだ。いかんなこれは。壊れたかもしれん」


 びくりとエリーの心臓が止まった。

 クウェイクは土曜属性の魔術だ。

 魔術防御に長けた―――揺るがない属性。だが、その力は攻撃面でも重宝する。

 あまりに揺るがないその力に触れた者は身体の中から“揺さぶられ”、防御能力に依存せずに―――“破壊される”。


 金曜属性の―――弱点属性。


「け、は、こ、」


 サクが嗚咽を漏らしながら、うごめいた。

 その様子にエリーは鼓動を取り戻し、へなへなと脱力する。

 だが、ガバイドは振り返りもせず、今度は別の棚を漁り始めた。


 やはり完全に―――“敵とすら見ていない。”

 相手を見下すという意味合いでは無い。自分たちの強弱を考慮していないのだ。


 飛び込んできた虫。あるいは、吹き込んできた風のように――― “敵というカテゴリーに分類されていなかった”。


「が、は……、っ」


 ガバイドの拘束が外れたサクが、身を起こした。

 腰が砕けたように埃まみれの床でうごめき、身体を痙攣させながら、それでも足を1本ずつ動かし、立ち上がる。

 荒い息遣いと共にむせ返り、孵化でも再現しているかのような時間をかけ―――右手は愛刀、姿勢は中腰。ようやくいつもの戦闘態勢をとった。

 掴まれていた顔は、血が滲んだように紅くなっている。


「お前、は、なん、だ」


 サクが辛うじて絞り出した声は、倒れたエリーの耳にかすかに届く程度だった。

 エリーは燃えるような身体に鞭うち、サクと同じようにもぞもぞと立ち上がる。

 サクがあれだけの在り体で立ったのだ。自分だけこのまま寝ているわけにもいかない。


「む。む。む。む―――? なんだ、聞いていなかったのか。哀しいことだ。まあいい。伝えることの基本は繰り返すことだ。繰り返し、繰り返し、繰り返すことで脳は情報を呑み込める。吾輩はガバイド。ガバイドだ。もう1度言おう。ガバイドだ」


 立ったサクに、ガバイドは分厚い白衣で膨れ上がった背を向け、棚を両手で漁りながら応じた。

 依然として、こちらを“気にとめようともしていない”。


「私たちに、何を、した。ここは、どこだ」


 サクが額に汗を浮かべながら口を開く。すぐには跳びかからなかった。彼女もエリーと同じく、魔力切れの症状を起こしている。

 だから込めて、込めて、込め続けているのだ。

 エリーも腰を落とし、魔力を込め―――ようとした。


「うむ。そうだな。そのことばかりに気なってしまっては、実験に支障が出るやもしれん。お前たちの疑問を処理することは、吾輩にとって有益だ。そうだな、1つ目。1つ目の質問から処理をしていこうではないか。『何をした?』だったか。魔術名はクウェイク。土曜属性の魔術の下の下。ただ相手を中から揺さぶるだけ。かなり有名なものではあると思っていたのだが、“世界に吾輩の認識と差異があったのかもしれん”。知らんかったか」

「っ、クウェイクではない。私たちは、アドロエプスにいたはずだ……!!」


 挑発しているのか、はたまた素なのか。ガバイドの噛み合わない返答に、サクは噛みつくように睨んだ。


 その珍妙な会話を傍観しながら―――エリーは手の開け閉じを繰り返していた。


「そうかそうかそちらの方か。やはり遭遇したばかりの者の心は解らんな。他者にとって解釈困難な情報が何であるのか、吾輩には解らん。さて、では返答をしようか。おっと」


 バリン、と、ガバイドが両腕を入れている棚から瓶が割れる音が響いた。肉が焼けるような擬音が部屋中に響き、むせ返るような異臭が部屋に充満した。


「うむ―――?」


 ガバイドが両腕を棚から抜いた。汚れ切った白衣のような服装は何故か肘まで消失し、泥色の肌を露出させていた。

 エリーとサクはびくりと身構えたが、ガバイドは正面から向い合い、重々しく、軽々しい口を開いただけだった。


 エリーはもう1度、魔力を込め始める。だが、何も起こらない。

 攻撃魔術はおろか、身体能力強化も防御膜も―――まるで魔力が反応しなかった。


「首輪のことは後回しだ」

「―――っ」


 エリーはびくりと身を震わせた。

  “ガバイドに心の底を見られた気がした”。

 ガバイドの視線が、エリーの身体中にべっとりとまとわりつくようなに感じた。

 たまたまタイミングが合っただけなのかもしれないが、“この魔族を相手にそう感じてしまうことそのものに”強烈な嫌悪感を覚える。

 この魔族に、自分という存在を“認識されることは”―――恐怖だ。


「アドロエプスは、吾輩による人間界研究のための、大切な狩り場である」


 論じるように、ガバイドは断言した。

 泥色の肌から活力を発し、輝いた部屋の中で、おぞましい理論を打ち立てる。


「人間界を知るために最も必要なデータは人間に他ならない。しかし、人体の構造、脳の処理速度、精神、魔力の質、その可能性と限界。それらを知るには、机上だけでは不可能である。ゆえに、サンプルが絶対的に必要となる」


 それは、演説だった。

 ガバイドは棚を漁るのを止め、拳を握り絞め、嬉々として語り続ける。


「そのため、生身の人間を捕獲し、捕縛し、テストケースに沿って実験を行う。属性や個性におけるバイアスをも考慮する場合、サンプル数は数千にも及ぶと想定できる。しかし、大規模な人間捕獲、研究については、“神族”が即座に察し、その抑止圧が強く、短期間での実施は困難である」


 ガバイドがさも自然に口にした“神族”という言葉に、エリーの耳がぴくりと動いた。

 思い浮かべたのはとある“しきたり”。


 それは、生物や自然を対象とした研究を強く禁じる、というものだ。

 人間は平等、という大前提から派生したと思われるこの“しきたり”は、人体実験や迫害、自然破壊を禁じる意味でも重要なものであると聞く。

 その分、薬の知識や治療方法は神族から提供されるのであるのだからなんら問題は無い。


 確かにガバイドが言うような実験を行えば、魔族の撃退に“神族”が介入してくる可能性もある。


「ゆえに、世界に数ヶ所ある―――“神族が介入できぬ空間に転移能力を設置し”、長期に渡り、吾輩の研究室に少数ずつサンプルを転移させる必要がある。条件を満たす地域の内、最も広大であり、最も周囲の人口が適している。また、戦闘能力の面でもバランスが優れている―――と、ここまでで良いか。ならば次は、移動手段について、か」


 ガバイドは何かを読み上げているような口調を終え、ギョロリとした瞳をふたたび独立させて動かし始めた。

 この多言な魔族の言葉の節々から、人々の倫理というものをゆうに超えた匂いを強く感じる。

 語るガバイドに、エリーもサクも口も挟めず、吐き気にも似た嫌悪感と戦っていた。


「うむ。お前たちは“粉”を浴びたであろう?」


 指を1本立て、次にガバイドは移動手段について語り出した。


 粉―――とは。

 やはり、あのヒダマリ=アキラが見た途端に叫んだ橙色の粉のことだろう。

 エリーは身体の魔力に指令を送り続けながら、眉を潜めた。

 あの粉は、大樹海の巨獣―――ガルガドシウムの戦闘不能の爆発と共に舞ったように思える。


「あれは、確か―――うむ、今度は思い出せたようだ。リロックストーンを元に発明したのだ。“転移石化合物の制限操作とその将来性について”。そうした研究をつい先ほど目にした気がしたが―――ああ、“朽ちてしまったか”」


 ガバイドは、先ほどの棚をギョロリと捉え、悲哀に満ちた表情を浮かべた。

 そしてそれは、即座に戻る。今後ガバイドは、その研究とやらについて惜しむことは無いのだろう。


「言ってしまえば“リロックストーンの制限解除”。リロックストーンの制限には、“魔力大幅減退”と“転移先座標固定”が挙げられるが、おおっと、いかんな。情報を蓄積せんのは吾輩の忌むべき悪癖だ。人間ではリロックストーンを知らんだろう。リロックストーンとは、魔界にある転移石を加工した物体だ。使用すれば、魔力を失い、望んだ固定座標に転移できる。しかし、だ」


 ガバイドは、教鞭でもとるように言葉を紡ぎ、そして、醜い顔をさらに歪ませた。

 じっとりとまとわりつくような、おぞましい口調での説明は、なおも続く。


「我輩はそのままの使用を良しとはせん。制約があまりに厳しい。ゆえに、加工を重ね、“制限操作”を可能とした。魔力減退を防ぎ移動できるが、満足に立ち上がることもできぬ制限。転移先で自由に行動できるが、魔力の減少が著しい制限。お前たちはその後者の発明品で、この地に来た。両方の制約を完全に除去することは、未だ―――む、む。そうか、その探求を失念していた。いかんな、いかん。探求を終えてないものを忘却するとは。いずれ再開しなくては」


 やはり自分たちがここに来たのは、リロックストーンの強制転移。しかし、以前見たサーシャやリイザスとは違い、自分たちは動き回れる。

 それが、ガバイドの言う“制限解除”なのだろう。

 エリーはようやくガバイドの言葉が呑み込め、そして、足元に視線を這わす。

 書物や誇りにまみれた床には、アイルークで2度見たリロックストーンが―――“座標固定の石”が存在しない。

 なまじ思考を巡らせ続けていたせいか、悪寒と恐怖が瞬時に昇る。


 これは。

 この強制移動は。


 逃げ道の無い―――“片道通行の強制転移”。


「それが……、アドロエプスの“誘拐事件”の正体か」


 苦々しげにサクが呟いた。エリーも眉を寄せる。

 シリスティアのアドロエプス。その、伝説の未解決事件。

 全てが謎に包まれ、失踪事件と言われていたその事件は、やはり、“魔族による誘拐事件”。


 全ての被害者は―――この場に強制転移をさせられていた。


「うむ。そう呼ぶ者もいるらしいな。吾輩が放った僕は、吾輩が必要とする材料が現れる、もしくは死を迎えた瞬間、強制転移の粉を撒き散らす。近頃は数が必要というわけでもなくなってな、判定させる必要があったのだ。お前たちは破壊したのか? “ならばまた放つ必要があるか”。楽しいなぁ、“今度はどんな巨獣にしようか”」

「―――っ」


 エリーは、胸が潰れたような気がした。

 ガバイドが末尾に、補足のように、軽々しく付け足したその言葉。この魔族は、“アドロエプスに再び伝説を放つと言っている”。


「なに、を、」


 分かっていて、言葉が漏れた。


「むむ? 分からんか、この高揚が。お前たちの尽力により、“吾輩がまた生物創造をする機会”に出逢えたということだ。そうだな、今度は吾輩の最も得意とする土曜属性の魔物にしてみようか」

「―――、」


 伝説の謎は、解けた。

 数百年も続いていた失踪は、人間では理解し難いマジックアイテムによるものだった。

 あの巨獣は、この場に転移させるものを判別する、判定器のような役割を持っていた。


 だがなんとも―――軽い。その口調の、なんとも軽いことか。

 ガバイドがべらべらと口にする、ガバイドの言うところの“疑問の解消”。

 人間が数百年も謎としてきた伝説は、5万超で暴力的に押し潰した伝説は、ガバイドにとってあまりに些細なことだったのだ。

 それこそ、“途絶えれば即座に修復できるほどに”。


 エリーは心の底からかつての失踪者に同情した。

 正直、アドロエプスの犠牲者など、ひとりも名前を挙げられない。

 時たま世界に広まるニュースを眺め、眉を潜める程度だった。それは諦めに近かったのだろう。所詮は伝説。手を出せる量分では無い、と。

 犠牲者の中にも、伝説を前には止む無しと諦めた者もいただろう。


 だがその実行者は、そんな認識すら持ってはいなかった。

 数百年続く伝説は、闇に包まれたアドロエプスの執行者は、一体何度“代替わり”をしたのだろう。

 ガバイドが定期的に伝説を操作するだけで、失踪は発生し続ける。


 ガバイドを討たぬ限り、アドロエプスの伝説は決して途絶えない。


「次は、首輪の話だったか」


 エリーとサクの動揺や身が痺れるような嫌悪感をよそに、ガバイドは淡々と説明を続けた。まるで研究者が食後の一服ほどの僅かな時間を惜しむように、2人の疑念を早々と払拭させる。


「さて。先ほど話に出たリロックストーンだが……。その制限と言ってもそこまで不満が多いわけではない。逆に制限を利用し、転移能力を消失した発明品は制作した。“魔力消失の拘束具”。それをもうひとつ探しているのだが……、む。む。参った。なかなか見つからん。む、む?」


 ガバイドは、再び棚に背を向けた。対面を終えた瞬間、エリーの身体は嘘のように軽くなった。

 エリーは、再び首に手を当てた。首輪のゴツゴツとした感触を指で感じ、エリーの身体は嘘のように冷え切った。


 今エリーはこの首輪によって、“魔力が消失している”。


「ぁっ」


 喉からかすれた声を出し、エリーが助けを求めるようにサクに視線を送ると、彼女はすでにこちらに向かい構えていた。

 ガバイドは、今、背を向けている。


 動くとするなら、今しかない。


「―――、」


 サクが、走った。樹海で見た“足場改善の魔術”は使用できないのか、魔力による強化のみをこの身に宿している。

 だが、それでも速い。慣れゆえか、この書物が散乱した足場でも、速い。逆巻く埃が散乱する。速度だけならそれだけで木曜属性の者にも追従できる―――天賦の才。

 狙いはエリーの首―――首輪。魔族相手にひとりで挑むなど正気の沙汰ではない。まずは戦力拡張が急務であろう。

 エリーは動きを止めた。サクの腕は信用しているが、首輪だけを切られるとなると身は硬直する。


 ガバイドは、まだ背を向けている―――


「“いかんなそれは、貴重なのだよ”」


 ガバイドから“何か”が放たれた。


「う……、そ」


 エリーはぺたりと座り込んだ。


―――今。


 今の一瞬の中で起こった事態が、眼前で起こったというのに―――理解できなかった。


 ガバイドから放たれたものは、エリーに高速で接近してきたサクの脇腹を捉え、彼女の身を吹き飛ばした。

 サクは、舞い上がる書物のようにきりもみしながら、棚に激突。

 棚から飛び出た書物がドサドサと倒れ込んだサクの身に降りかかる。“幸運にも”、怪しげな液体の入った瓶は落ちて来なかったようだ。


 本に埋もれたサクを呆然と眺めながら、エリーは、“今目の前で走った色”に顔色を失った。


 色は―――黒にも似た深い“藍”。


「“シュロート”。いかんな、いかん。確かお前は吾輩の“クウェイク”を受けていただろう。いかに抵抗のある金曜属性だとはいえ、流石に壊れてしまったか?」


 ガバイドがいつしか肩まで消失した汚らしい白衣から突き出しているのは左腕。その肩に。水色の宝石が埋め込まれている。


 その腕が―――“今度は水曜属性の魔術を放出した”。


 何が。何が―――起きている。


「だが許せ、まあ許せ。仕方ないことだ。その拘束具は貴重なのだ。作成自体は容易だが、見ての通り吾輩の部屋は哀しいことに物が消える」


 硬直したエリーの脇を通り、ガバイドはゆっくりと書物に埋もれたサクに近付いていった。

 そして足で本を蹴散らすと、空気を埋め尽くす埃に手を入れ、サクの頭を掴み上げた。


「……、…………」


 ガバイドが宙づりにしたサクは―――ほとんど死んでいた。

 口元に自らの血を滴らせ、四肢をだらりと下げている。右脇の衣は弾け飛び、露出した肌は黒く赤くなっていた。

 身体中を埃まみれにしたままで、身じろぎしないサク。


 それを見て、エリーは身体中から力が抜けた。


 ガバイドは、自分たちに、敵意を向けていない。

 だがそれなのに、ただガバイドが思うままに動いただけで、自分たちはこの部屋の埃のように振り回される。


 サーシャやリイザスに覚えた恐怖。あまりに小さい。

 アドロエプスで覚えた恐怖。あまりに小さい。


 目の前の存在に覚えるのは、恐怖を超越した―――絶望。


 ガバイドがサクを宙釣りにしたまま、エリーにも見えるように、ガジャリ、と、首輪を掲げた。


「おお、生きていたか。嬉しいなぁ。これで実験を開始できる。ほら見ろこの通り、我輩は拘束具を見つけ出した。嬉しいだろう、お前のためだ。実験が終わったのち、もし生きていたら、今度はお前が見つけるんだぞ?」


 エリーとサクの虚ろな瞳は、ガバイドが掲げた拘束具をぼんやりと捉えているだけだった。

 あんな“魔力消失の拘束具”など必要無い。そんなもの―――必要無い。


「長らく待たせたな。ようやくだ。仕切り直して。―――さて始めよう、実験を。“他者の心を操作破壊する手段とその快感について”。そうだ、思い出した、それはあのサーシャ=クロラインが求めていたものだ。だがいい、ままいい。吾輩の“探求欲”にはそれすら内包される。楽しいなぁ、探求は」


 サクの無防備な首に―――首輪が近付いていった。


―――***―――


 “一週目”では。


 涙を誘う、アルティア=ウィン=クーデフォンの献身的なシーンだったと思う。


「いやいやいやちょっと待って下さいよっ!? この際だから全力で謝りますけど、確かにあっしはあんまり役になって無かったですよ!? でもだからって気絶しろって……あれですか!? シリアスな展開があっしに向かないからですか!? そりゃあんまりですよアッキーィッ!! だってシリアス始めたのはそもそもアッキーじゃないですかぁっ!!」

「さっき何でもするって言ったじゃないか」

「いやいやいや、気絶しろって特技に無いですよ!! 何をどうすれば気絶できるのかむしろ知りたいくらいなんですけど!!」


 流石に、いきなりすぎた。

 工場の稼働音すらかき消すほどにティアが叫ぶ。そして、いよいよ涙ぐみ始めたティアに、アキラは頭をガシガシとかいた。


「この壁」

「うぅ……ぐすっ……。?」

「この壁が歪んで、呑んだ対象を転移させるのには条件があるんだ。“接近した対象に戦意が無いこと”。その条件を満たすには、気でも失ってないと無理だ」


 アキラは壁を拳で叩く。やはり無言。それはそうだ。今の自分は条件を満たしてはいない。


「だから、片方が寝るなりして、片方が隙をついて飛び込む。そうでもしないとこの壁は突破できない」

「は……はあ、だから私、ですか」


 ティアは泣き止み、眉を潜めて壁を眺める。

 黄ばんだ壁。生物のような壁。通過するために条件が必要な―――“魔物”。

 その情報が確信に変わるのは、この壁の向こう側での出来事だ。


「なるほど。アッキーがそう言うなら分かりました。私、寝てみます。超寝ます。寝られるかどうか分からないですが、がっつり寝てみます―――ってなんであっしなんですかっ!?」


 ティアが新技を会得したような気がしたが、アキラは目を細めただけで応じた。

 壁を突破するのであれば、確かにティアでなくてもよい。


「…………そうですよね。やっぱりアッキーか私でしたら、私が離脱した方が良いってことですよね。戦力的に」


 自虐的なティアの呟きに、アキラは胸が痛んだ。

 この痛みは、“一週目”でも経験した。押しても引いても動作しない壁を前に、エリーとサクが呑まれたときのことを思い起こし、可能性として提示した案。それを受け止めたのは、あのときもティアだった。


「くそっ、もう少し待てばティアが自ら言い出したのに」

「アッキー、この前エリにゃんにも言ったんですが、いいですか? ティアにゃんだって怒るんだぞぉぉぉおおおーーーっ!!!!」


 この件に関して、アキラは頭を下げることしかできない。

 鼻息の荒いティアが眠りにつくことは難しいような気がして、アキラは無駄口をようやく噤んだ。


 ここから先は、予断無く―――“劣悪な刻”を淡々と刻むことしか許されない。


「分かりましたよ。エリにゃんとサッキュンも気がかりですし? でもアッキー、壁を突破できたらちゃんと起こして下さいよ」

「深く眠れよ」

「いや、あの、……目を覚ましたら全てが終わっていたなんて、あっし耐えられませんからね?」

「いい夢視ろよ」

「あれ? 会話が一方通行です。あっし、目を見て話しましたよね?」


 アキラは、首を振った。

 無駄口はもう―――終わっている。


「ティア。お前は今から、“事が済むまで目を覚ますな”。わざわざ目を開けてまで、悪夢を視る必要なんて無い」


 これから起こることは、全て決まっている。きっとそれは―――確定事項だ。

 淡々ともがき、淡々と苦しみ、淡々と―――煉獄で焼かれる。

 きっとそれは、視る者総ての心に傷跡を残すだろう。

 “電気”に輝くこの部屋をも超すティアの明るい心に―――そんなものは作れない。


「…………」


 アキラは壁を強く叩く。この先にも、傷跡を作りたくなかった者たちがいるのだ。

 やはり駄目だ、自分では。この壁を超えることは、今の自分にはできはしない。


「お前がいなけりゃマジで詰んでたぜ……。眠った程度じゃ―――この殺意は隠せない」


 自分の気配で周囲が静かになったのは初めてだった。隣のティアは凍りつき、空気が止まる。

 しかしアキラは、それでも構わず壁を睨み続けていた。


 あの港町の―――“鬼”の事件。

 あれだけの騒ぎを起こした“鬼”に同情することはできないが、それでもアキラは―――このときばかりは“鬼”の言葉に同調した。


 そして同時に―――“とある女性”の底冷えするような殺意も強く際立つ。


「倒すなんて言葉じゃ甘ぇ―――“ガバイドは、必ず殺す”」


 スカイブルーの一閃が、走った。


「シュリルング」


 立て続けにもうひとつ。直撃したのはアキラの真横だった。

 振り返れば、ティアが両手を突き出し、再び魔力を込めていた。


「ティア?」

「壊そうとしてるんじゃないですよ。眠りにつくのは無理そうだから、魔力切れの気絶を狙います」


 言いながら、ティアの頭はぐわんぐわんと揺れていた。

 スカイブルーの色も淡い。

 上位魔術を満足に放てていないことは明白だった。


「正直私、何が起きてるか分かりません。この先に敵がいるってことくらいしか。でもあれですよね。そうでもしなきゃ、話が進まない、ってやつですよね」


 そうでもしなければ―――犠牲を払わなければ、刻めない“刻”。

 ティアが察したそれは、アキラが最も恐れるものだ。


 それが―――ヒダマリ=アキラの記憶の封を強固にしていたものの正体。


「……マジで悪い」

「いいですよ、お役に立てれば。もともと私の腹は決まってます。誰かが何かを求めて、自分がそれをできるなら、私はそれをためらわない。―――シュリルング」


 連続して魔術が走る。ティアの身体が極端に崩れ始めた。


 “魔力切れによる気絶”。

 言うは易いがその実態は、“疲弊による身体の緊急停止”だ。全力で走り続けて倒れるのとほとんど変わらない。


 それを誰かのために行える者は、果たしてどれほどいるだろうか。


 アキラは足元のベルトコンベアに視線を移した。

 本来ならば、この壁の突破を目論み、魔力が枯渇した者を“呑む”ための仕組みなのだろう。

 アルティア=ウィン=クーデフォンはその罠に敢えて乗っている。

 アキラは爪が食い込むほど拳を握った。


「アッキー、罪悪感なんて覚えないで下さい。それだと私、哀しいです。……いいんですよ。ちょっとした幸運程度に思ってくれれば。それ以上を、私は求めたりしない。ただ……できれば私と関わってよかったって少しでも思ってくれたら、……なんて。―――シュロート」


 低級魔術にシフトした。そろそろ限界が近いのだろう。

 アキラはティアの隣に並び、傷ひとつ付かない壁を眺めていた。

 ティアは、悔しそうな表情を浮かべていた。こうまでしても、この壁は正攻法以外では突破できない。


 ティアが漏らしている言葉は、本心なのだろう。

 誰かの役に立ちたいと言う彼女は、いつまでも―――きっと変わらない。人並みに、変わりたいと感じることもあるだろう。不満だって口にする。

 だけどそれは―――良い意味で、口だけなのだ。

 誰かを助けても得るものが無く、苦しむことなんて誰でもある。彼女もそうだろう。

 しかしそれでも彼女は変わらないから、その眼は途切れること無く、霞むこと無く、水のように澄んだまま、誰かを追っている。


 ヒダマリ=アキラに仲間を集めて世界を救う使命があるのなら―――水曜属性の魔術師はアルティア=ウィン=クーデフォン以外にあり得ない。


 彼女は今後も―――元気に騒ぎ続けてくれるだろう。


 アキラは小さく笑って、禁じたはずの無駄口を叩いた。


「散々ごねてたやつの台詞かよ?」

「ティアにゃんちょっとアピールしたかっただけですよ?」


 本当に―――その優しさは、世界を救える。


「ぅ、きゅぅ」

「それ素だったのか……!?」


 ほとんど透明な魔術を放った直後、奇声を発したティアはベルトの上に崩れ落ちた。

 稼働音通りにティアの小さな身体は壁に向かって運ばれていく。


 そして―――“ぐにゃり”。

 壁が歪んだ。


 アキラは表情を引き締める。

 やはりこの壁の起動条件は、“戦意の無い者が近づくこと”。

 それも、先ほども今もアキラが近くにいるのに開いたことといい、誰かひとりでも条件を満たしていれば十分のようだ。

 ティアの隣に身をかがめて眺めた先、壁がいよいよ大口を開けた。


 そして見えた、部屋の“電気”さえも拒絶する―――漆黒の“闇”。


 アキラは寝そべったティアの頭を軽く撫でた。

 そして、願いを込める。どうかこのまま、深く眠っているようにと。

 彼女には、感謝をしてもし足りない。


「“次にお前と出逢うとき”―――俺は心の底から感謝を捧げる。いい夢視ろよ、ティアにゃん」


 今は目の前の敵に、総ての力を捧げよう。


 さあ。


 行こう―――逝こう。


 順風満帆に続いていたこの旅を―――自分自身の手で、終わらせるために。


―――***―――


 瞬。


 エリーが、首に傷跡が残るほどに首輪の破壊を目論んでいた―――間。

 ガバイドが、サクの首に拘束具を嵌めかけた―――間。

 呼吸さえも、瞬きさえも許されぬ―――間。


 その、一瞬。


 サクを掴み上げていたガバイドの腕を、“何かが通過し”―――


「魔族の油断ゆえにか―――“死んだふりは見抜けないか”」


―――サクの声と共に、ガバイドの腕が、“ずれた”。


「―――、っ」


 遅れてドサリと床に落ちたのは、愛刀を抜き放ったサク。

 そして―――“切断されたガバイドの右腕”だった。


「サッ、サクさん!!」

「動くな!!」


 サクの叫びに、エリーは動きを止めた。次の瞬間にはつむじ風のようなものが走り、部屋中の埃が天井付近まで立ちこめる。

 濛々と舞う埃の中、エリーの硬直が解けたと同時、パキリと首輪が砕けていた。

 “魔力消失の首輪”が消えた瞬間、込め続けていた魔力がエリーの身体に張り巡らされる。

 魔力不足を除けば、正常な動作だ。


「サクさん、身体は、」

「一応金曜属性だ。ある程度は耐えられる」


 サクは言いながら、口元を歪めていた。

 身体中が埃にまみれ、穴の空いた服から見える脇腹は黒ずんでいる。


 痛々しいその体に、エリーは眉を潜めた。

 “死んだふり”。サクはそう言ったが、あれは演技でも何でもない。サクは重症だ。自分を掴んでいた腕を切ったのも、それが限界であったともとれる。

 金曜属性の防御能力が生かされるのはあくまで物理攻撃。魔術的な攻撃は、彼女の身体に深刻な傷跡を残している。


 だがそれでも、彼女は確かに、立っていた。


「私が倒れるわけには―――いかないだろう?」


 メンバー最強のサクは、痛々しい笑みを浮かべた。

 エリーは身体中に流れる魔力を―――魔術切れなど知ったことか―――さらに強く、強く込める。

 自分が絶望を覚えていたあのとき、サクは虎視眈々と、ガバイドへの攻撃を考えていたのだ。

 そしていよいよ一矢報いた。

 ここで動けぬようならば、旅を続ける資格は無い。


 エリーは、背を向けているガバイドを強く睨んだ。

 腕を失い、呆然自失としているのか、ガバイドは動かない。切断された腕を掲げたまま止まっている。


 今が好機だ。

 腕ひとつ落としたが、相手は魔族。たたみ掛けなければならない。

 隣のサクが腰を深く落とす。

 エリーもガバイドへの恐怖を拭い去り、魔力を込めた拳を構え、


「うむ、そうだ。“2つ目の質問には答えを返していなかったな”」


 絶望感が―――肥大化した。

 エリーもサクも、身体を硬直させる。


「うむ。うむ。うむ。どこから話そうか。追々説明しようと思っていたのだが、やはり今にしよう。吾輩は先ほど、お前たちの疑問を解消するのは重要だと言ったばかりであったのに、すっかり失念していた。哀しいなぁ」


 サクの神速の剣術を腕に受けたガバイドは、何事も無かったかのように喋り続け。


「そうだな。まずはこの建物だ。ここは吾輩の研究資料貯蔵庫のひとつだ。世界各地にある部屋の中でも、重要なものが多い。いや、ここにしか重要な物が置けないと言った方が的確か」


 腕が切断されたガバイドは、何事も無かったかのように振り返り。


「そして、“この地”。これが吾輩の名の次に、重要だ。そこのお前。金曜属性の魔術師が“壊れておらず”、安堵し、希望を得たお前だ。これは親切心から言うのだが、それは哀しいことにまやかしだ。加減したとはいえ、吾輩の魔術を受けて立てるということは腕に覚えがあるのだろう。だが、この地にはあるのだ―――“忘れてはならん前提”が」


 肘から先が欠損したガバイドは、何事も無かったように―――“両腕を指先まで広げて笑った”。


「なっ―――」


 思わず声を漏らしたのは、エリーかサクか。いずれにせよ、同時に注視したのはガバイドの腕。

 その腕には確かに落ちたはずなのに―――傷跡ひとつ残っていない。


 ガバイドは笑いながら。

 “前提”を、歌うように、導くように、詰み取るように、口ずさむ。


「楽勝が、惨死に」


 分厚い白衣で着膨れしたガバイドの身体が、濁った泥色に輝く。


「辛勝が、惨死に」


 次いでガバイドが身体に纏ったのは、黒にも似た“藍”。


「引き分けが、惨死に」


「―――伏せて!!」


 立っているのも限界に見えたサクを、エリーが覆いかぶさるように押し倒した。


 そして。

 ガバイドが“爆ぜた”。


「ぁ―――」


 音が、消えた。伏せた身体に暴風が叩きつけられ、木の葉のように巻き上げられる。

 臨死体験にも似た衝撃。

 足場総てが打ち砕かれ、身じろぎひとつできずに奈落に落ちていくような緊縛感を味わった。この世総ての災厄が襲いかかったかのような激動が、一瞬でエリーとサクの意識を刈り取り闇に沈める。

 しかし即座に呼び覚まされ、再び意識が吹き飛んだ。繰り返す一瞬の間の気絶と覚醒に、感情感覚が喚き散らし、あらゆる動作を許さない。


 その事象は―――災害の域だった。


「―――、かっ、はっ!?」


 暴風が、ようやく止まった。

 自分たちはどれほど巻き上げられたのか。無防備で地面に叩きつけられ、口から全身の空気を吐き出される。

 先ほどの身を切られるような絶望が、落下の衝撃に、淡く弱く呼び覚まされた。

 強く覚える死の匂い。地獄に片足を踏み入れたような恐怖に、エリーは生にしがみつくように暴れ、伏せたまま目をこじ開けた。


 そこは。


「な……に」


 砂。乾き切った砂。巻き上げられる砂。


 瞳が総て、それに埋まった。


 エリーが最後に見た外の景色であるアドロエプスは大樹海だ。

 動物こそいなかったものの、植物に埋め尽くされ、じっとりとした空気に覆われていた。

 だがここは、その対極だ。植物が存在しない。


 伏せているだけで身体が逆さまになっていると錯覚するほど歪んだ基盤。身体の横には、僅かにでも身じろぎすれば地獄まで落ちそうなほど深い亀裂が大陸を割っている。

 凶器と化した砂が風と共に叩きつけられ、身体中がズタズタに切り刻まれそうだった。

 落下直後に途切れた防御膜を慌てて張ってみても、体力を根こそぎ奪うような太陽がギラギラと照りつけている。

 時おり噴火直前の火山のような振動が轟き、そのたび身体が脳ごと揺さぶられた。

 上空から叩きつけられた身体は砕けたように激痛を響かせ、しかし本能的な部分で立ち上がることを要求してくる。


 即座に察してしまった。

 駄目だ。

 ここだけは、決して踏み込んではならない。

 太陽が照りつけていても、その光は決して微笑まない。


 本能が言っている。

 今すぐ逃げろ、この死地から―――と。


「……っ、っ」


 大地の亀裂の向こう側に、倒れたサクを見つけた。最低限身体を守ったのかうずくまるように身を丸めていたが、動く気配は無い。


 広く、そして狭く、汚らしい―――“輝いた部屋”。それら総てがかき消され、自分たちは。


 この地獄に引きずり下ろされた。


 あの―――


「ああ。いかんな、いかん。研究室が消え失せてしまった。哀しいなぁ。時おり加減を誤ってしまうのは吾輩の忌むべき悪癖だ。だがいい。まあいい。所詮この地にあるうちのひとつだ」


―――両手を広げて笑っている魔族によって。


 自分たちから離れて数十メートル。ガバイドは動いていないのだろう。あの場から巻き上げられ、ここまで吹き飛ばされたようだ。

 遥か遠方に見える猛々しい山脈を背に、ガバイドはギョロリとしたそれぞれの瞳でエリーとサクを捉えてきた。


「さて。お前たちにこの地の名を伝えよう。天界や魔界にすら響き渡る、劣悪にして凶悪なこの地の名を。勝利の方程式。神話の創造。物語の在るべき姿。それら総ての前提が、容易に塗り替えられるこの地の名を」


 吹き荒れる砂塵の向こう、ガバイドは頬までばっくりと口を割り、悦楽の笑みを浮かべた。


「絶望に沈んだ者に、我輩は常にこう伝えている―――“これがファクトルだ”」


 ファクトル。

 全世界のどこにいても、その名前だけなら知らぬ者は存在しない―――最強にして最凶の、“世界最高の激戦区”。


 “ザンッ!!”


「……?」


 岩をかき鳴らす砂風の中、妙な音と共にガバイドの不気味な笑い声が途切れた。

 途切れ途切れの視線の先、エリーは目を凝らす。


 見えない。


 身体は千切れたように痛む。

 が、何故か立ち上がることに必然性を感じ、エリーはよろよろと起き上がった。


 そこで。


「お前はサクとティアを頼む!!」


 そう―――誰かが言った。


「“テメェはマジで不気味だな、ガバイド”」


 アキラは、握り潰すほど強く掴んだ剣を構え、ガバイドに対面していた。

 再びあの“奇妙な感覚”を通り、斜に構えることを強要される劣悪な大地の上で腰を落とす。

 背後には、この場にアキラを届けたティアがうつ伏せに眠っていた。

 彼女がこの地で目を覚ますことは無い。壁の向こうにあった“強制転移”は、魔力や精神力を大幅に削り取っている。

 急速な回復能力を有する日輪属性のアキラですら視野が白黒し、立ちくらみでも起こしているような苦痛を強いられていた。

 だが、そんな不快感など、この地や、そして、目の前の存在に比すれば些細なことだった。


「……」


 アキラは眉を細め、目の前の物体を注視する。

 意識だけは手放さぬよう気を張り続けた転移の先、アキラは、“背を向けていたガバイドの首を切り飛ばした”。

 魔力を込めずに振るった剣は、ガバイドの首を確かに捉え、切断という行為を確かに全うしたのだ。


 だが。


 ガバイドは、対峙するアキラに、“不気味に嗤った”。


「む。む。む―――? 吾輩に出遭ったことがあったかな? 記憶に無い。それは吾輩にとって取るに足らない出遭いであったことになるのだが、そうでないことを願おうか」


 一体いつ、その首は戻ってきたのか。

 アキラが斬り飛ばし、地面に転がったはずのガバイドの首は、すでに元の位置で口をバックリと割っている。

 戸惑うばかりであった“一週目”。

 この現象を前に、アキラは恐怖で身体中が金縛りにあったのを覚えている。

 だがそれはこの“三週目”も同じだった。


 この現象のカラクリを、アキラは解き明かすことができなかった。

 覚えているのは―――ガバイドが口にした言葉だけ。


「“不死の魔族”……!!」


 苦々しげに呟き、アキラは威勢だけを張ってガバイドを睨む。


 離れた地点に、エリーもサクも倒れていた。エリーの動きやサクが動かないことを見れば、2人が重症であることなど即座に分かる。


 身体中の感情が、目の前の存在を“殺せ”と訴えかけた。

 だがその殺意の総和でさえ、目の前の“不死”には届かない。


 ガバイドは、腕をもごうが首を飛ばそうが、そのままで在り続ける―――“絶望の魔族”。


「うむ。うむ。うむ。吾輩の悠久性とでも言うべきか、この不死を知っているのであれば、やはり吾輩と出遭ったことがあるのだろうか。む、む、む―――?」


 感情に任せて喋りすぎた。アキラは舌を打つ。

 これは、“一週目”には無い会話だった。プロセス通りに動く必要のある現状では、由々しき事態だ。


「そうかそうか。お前は“触れたか”。確かに“そこ”には“吾輩の情報をも存在するであろう”。貴重であるな。話を聞く必要があるやもしれん」

「……?」


 完全に会話が分岐してしまった。ガバイドがどこか満足げに頷いている。

 “一週目”確かここでは、この多言な魔族は、戦意をむき出しにするアキラに対して眉を潜めたのち、“アドロエプスの緊迫感を削り取る薬物”について嬉々として語ったはずだ。

 アキラは眉を寄せ、剣を再三握り直す。口は真一文に結った。

 これ以上下手をして僅かにでもハードモードにでもなれば、完全に詰んでしまう。ここは、想いや意思すら捨て置き、生還のみを掴まなければならない場所であるのだ。


「む。む。む―――? 分からんか、解らんか。それは惜しいことをした。お前は今、生涯で最も貴重な機会を捨てたと知れ。“世界のもうひとつ”に触れる機会など、人の身では訪れて精々1度だろう」

「……世界の……もうひとつ……?」


 思わず、口を開いてしまった。

 “世界のもうひとつ”。そんな単語は初めて聞いた。


「そう―――“世界のもうひとつ”だ」


 砂風が吹き荒れアキラの身体を叩いたが、ガバイドが繰り返した言葉はそれらを遮断するように、アキラの身体に浸透してくる。


 “探求欲”を追求する魔族は、目を輝かせ。


―――あるいはこの物語にとって、最も重要な情報を口にした。


「この世、いや、この世界―――いやいや、たびたび現れる来訪者の異世界までも含めた、過去、現在、未来―――“それら総ての情報が保管されている絶対領域”。あらゆる世界に共通し、あらゆる世界それぞれに重なるように存在する。ゆえに、“世界のもうひとつ”」


 ガバイドは、分厚い白衣を振り回し、劣悪なこの大地が楽園のように嬉々とした瞳を携えた。


「その場の探求こそ、吾輩の悲願である!!」


 地獄の底から噴き出してきたような不気味な声を張り、ガバイドは叫んだ。

 ギョロリした瞳は、最早アキラを捉えていない。まるですぐ傍に“それ”があるように、不気味な視線を探るように這わせていた。


「限られた者は“世界のもうひとつ”から未来の情報を得る。限られた者は“世界のもうひとつ”から具現化を引き寄せる。だが我輩は、そんな些細な情報など求めてはおらん。吾輩は、その総てを掌握することに欲求を覚えているのだから……!!」


 “世界のもうひとつ”。

 それは、あらゆる情報を保持するデータバンクとでも言うべきなのだろうか。

 それが真だとするならば、例えばアキラが元いた世界。そこにも“世界のもうひとつ”が存在し、この異世界の情報も、あるいは“さらに違う異世界の情報”すら保持していたということになる―――ただ、アクセスする術を誰も知らなかっただけで。


 超常的な、研究者の持論。言ってしまえばそれだけのことだ。

 だがアキラは、思わず聞き入っていた。


 この異世界において、ロジックにはまり込まない2つの属性。

 “時”を司る―――月輪。

 “刻”を司る―――日輪。

 それら2つの異常な魔法は―――それこそ、もうひとつの世界でも介入しなければ実現し得ない。

 思えばあの“電気”も、そこから情報を持ってきたのだろう。


 アキラは生唾を飲み込み、いつしか取りこぼしそうになった剣を握り締める。

 そして自分に言い聞かせた。情報収集など、この地でなくともできる。


「リロックストーンによる移動はその付近を通過するようだ。だが、確率は無視しても良いほど低い。悠久である吾輩ですら1度か2度触れただけ。哀しいなぁ。土曜属性である吾輩は、確固たるアクセス権を有してはおらんのだ」


 ガバイドはアキラに対面こそしているが、瞳の“それぞれ”は虚空を彷徨っている。

 敵を前にして、こうした態度をとるのはやはり魔族として異質と言うべきだろう。

 この状況に置いて、ガバイドはある意味好都合な相手だった。

 無性に殺したい相手の隙が縫える。

 冷静に、冷静に、隙を狙え。


「だがそれゆえに、楽しいなぁ、探求は。得た情報を語るのは何事にも代えがたい快楽だ。こうしていると、我輩は悠久を非凡にすることができる」


 好機だ。“できれば今、方をつけたい”。


 アキラが駆け出そうとしたところで、


「―――だから今、あまりうろちょろされると気分が害されるのだよ」


 ギョロリとした瞳が同一の方向に揃った。ピリ、とした空気がアキラの真横を通過する。

 かすかに瞳に映った色は―――“藍”。

 直後の短い悲鳴に、アキラが反射的に振り返れば、エリーが倒れているティアの隣でぺたりと座り込んでいた。

 彼女はここまでサクを担いでやってきたのだろう。随分な活力だ。

 しかし、崩れ落ちたエリーはサクを背から落とし、失神直前のような表情を浮かべ、両手をついて肩を震わせていた。


「“バーディング”。む、効きすぎたか? 妨害魔術とは言え、そこまで……む。そうかそうか、火曜属性か。死ぬな。死なれると吾輩の探求に支障が出る」


 駆け出すことに、それ以上の理由は要らなかった。


「キャラ・ライトグリーン!!」


 発動したか否かは微妙だった。

 2度の強制転移に削り取られた魔力は深刻で、アキラの魔術は1秒にも満たない時間で消失する。

 ほとんど惰性のみでガバイドに特攻したアキラは、力任せに剣を振るった。

 頭から股下まで縦一閃に走った剣撃。

 しかしガバイドはその場から動かず、身体のそれぞれが“立っていた”。


「―――っ、」


 今度は胴体の片方横切りにした。分厚いローブの中には何かが仕込まれているのか、ギンッ、と剣が弾かれる。

 アキラはしゃにむになって、2つになった首の片方を切り飛ばした。魔術の使用もできていない。剣の構えから何から落第点の動きだった。しかし、形振り構っているほどの余裕は無かった。

 ガバイドは、自分たちに敵意を向けてはいない。ただ、己の欲求の赴くままに動き、周囲が勝手に削り取られていくだけである。だから、それこそ、それゆえに。まさしく1秒でも早く、この“刻”を終わらせなければならない。

 ガバイド相手に敗北することは、死ではなく、“実験”とやらの結果の破壊だけあると、言葉の節々から感じ取れてしまう。


「くぁっ!!」


 首の跳んだ片方の胴に、アキラは当て身をかました。膨らんだ白衣を纏った身体と共に倒れ、硬い感触が身体を打つ。


 が、次の瞬間には、アキラは地面にたった1人で倒れ込んでいた。


「そういえば、我輩は今、実験を始めているのであったな。“少し外してもらおうか”」


 声は、背後。

 跳び起きたアキラは、即座に振り返り剣を構える。


 そこでは、“両手を掲げたガバイドが嗤っていた”。


「くっ」


 やはり、分からない。この不死が―――解らない。幾度斬激を浴びせても、ガバイドはそのままで立っている。

 その上自分は今、ガバイドの半分を下敷きに倒れていたはずだ。

 それがいつしか消失し、在るべき位置に戻っている。身に纏った白衣すら、破けていた袖も含めて完全に修復されていた。

 知っている事象。知っている不死。

 この場での記憶が完全解放されたアキラにとって、知らないことは存在しない。だがそれゆえに、脳が縛りつけられるほど、解らないことは恐怖だった。

 このガバイドという存在は、この世界のロジックに当てはまらない存在だとでもいうのだろうか。

 この魔族は―――“世界のもうひとつ”を知っている。


「ところで、リロックストーンの有効対象を知っているか?」


 ガバイドは笑い、嗤い、裂けたような口をさらに割る。


「生物、装備、魔力、そして魔力で囲った物体だ」


 何の話なのか。白衣すら傷ついていないことの謎解きだろうか。


「まあつまり、吾輩が言いたいのは、」


 アキラは眉を寄せた瞬間、


「う―――えっ!!」


 かすれたエリーの声が響き、


「づ―――!?」


 ガバイドが上空へ投げていたのだろう―――アキラの頭の天辺で、何かが割れた。鼻がツンと冷えるような痛みが走る、

 そしてパラパラと、少量の“橙色の粉”が巻き散った。


―――アキラはそれを、全身に浴びた。


「この地で無装備になりたくないのなら、剣は強く握っているべきである」


 グンッ、と身体が背後に強く引かれた。

 背後から鷲掴みされたような感触をまたも味わい、アキラの身体が“どこか”へ放り投げられる。

 急速に遠のく景色。かすかに見えたガバイドの不気味なそれぞれの瞳が、今はアキラだけを捉えていた。


「ファクトル内への強制移動。生き残れたら、今度はお前の移動中の話を聞いてみようか」


 無いであろうが。

 そう―――ガバイドの声が最後に聞こえた。


―――***―――


 ガ。

 ガ。

 ガ。


 そそり立つ山脈。それらに囲まれた巨大な迷路。

 暴風に岩がかき鳴らされ、砂はおろか小石すら飛び回り、散弾がまき散らされていた。

 轟く地鳴りは噴火間際の岩山のように絶えず響き、世界そのものが崩壊しているかのような錯覚に捉われる。

 草木は無く、彩りも無い。土色の風景は、太陽が強く照りつけていても底冷えするように―――寂しかった。


 ガ。

 ガ。

 ガ。


 死地。

 この地に現れて、ここをそう形容しない者はいないであろう。

 誰かがこの地に救いはあると言えば、誰もが口を揃えて錯覚だと断言する。

 存在するだけで、命を懸けた綱渡りを強要される。いや、綱渡りではない。自己に過失が無くとも落ちるのだから、薄氷の上を歩んでいるようなものだ。

 そして崩壊は確定している。


 この地に加護は存在しないのだから。


 ガ。

 ガ。

 ガ。


「っ、っ、っ」


 全身に脂汗を浮かべ、ヒダマリ=アキラは剣で一心不乱に足元を削っていた。

 太陽も身を隠すほどにそびえる岩山の狭間。暴風に全身を殴打され、石で切った額からは血が溢れ出していた。

 しかしアキラは拭うこともせず、ただひたすらに、足元を剣で突き続けていた。


「くそっ、くそっ、くそっ、殺す、ぜってぇ殺す、くそっ」


 アキラは呪詛のように呟き続けた。

 あの場所からどれだけ離れたのかは分からないが、今度の強制転移は精神が砕かれるような苦痛は無かった。ただでさえ矮小になった魔力がさらに奪われることも無く、意識を手放すことも無かった。

 “強制移動には種類がある”。

 アキラは解けた記憶による情報を思い起こし、そして何度も苦々しげに罵倒を吐き続けた。


 アドロエプスからこの地の“工場”。そしてその工場からガバイドの研究室。

 その2つの移動は、魔力を奪われる片道通行の強制移動だ。転移先の“制約”を外せる、ガバイドの発明品。

 しかし今、アキラの身に降りかかったのは別物だった。

 リロックストーンの制約を操作された、もうひとつの強制移動。

 それは、魔力減退の制約が外れ、“転移先の行動制限を強固にした発明品”。


 ガ。

 ガ。

 ガ。


 アキラは立ったまま、右手の剣で足元を削っていた。

 腰や膝、肩の関節がまるで動かず、棒立ち状態で身体が固定されている。


 足元には砂にくすんで土色になった宝石が設置されていた。

 拳大ほどのサイズのそれは大地に埋まり込み、表面が風化しているように見える。

 それは、アキラの身体を完全固定しているリロックストーンだった。


「すー、すー、すー」


 アキラは息を荒げた。歯を食いしばって砂の侵入を防ぎながらのそれは、なんとも間抜けなものだった。

 剣を強く握り、辛うじて動かせる肘や手首を操作した微々たる動作で攻撃を加える。いや、攻撃ではなく、切っ先だけによるそれは、単なる刺激だった。

 これさえ破壊できれば、自分は元の場所に戻れる。それを知っているというのに、身体はまともに動かない。

 もどかしい動作にアキラは歯噛みし、それでもそれを続けることしかできなかった。


「くっ、」


 リロックストーンを削っていた切っ先が外れ、無意味に地面を削った。

 アキラはそれだけで半狂乱になり、手首の動きを早めた。地面だけを削ることが増えてしまった。

 アキラは何度も、冷静になれと自分に言い聞かせる。

 しかし、それは失敗していた。噴き出す焦りが止まらない。自らの汗で顔に泥がこびりつき、切った額がジンジンと痛む。


 やはり、ここは、駄目だ。身体中が刺されるような拒絶反応を起こしている。頭がまるで正常に働かない。

 アキラは余計なものが視界に入らないようにリロックストーンだけを睨んでいた。

 この地で身動きが取れないなど、アキラにとって最悪の事態だ。

 アキラは狂ったように切っ先だけの刺激を繰り返す。リロックストーンはまるで欠けているように見えなかった。それは、アキラの手に残る感触からも当然のことだった。

 アキラは、リロックストーンの破損を祈った。

 ガバイドがいつからこの場にリロックストーンを設置しているのかは知らないが、風化して脆くなっていることを祈った。

 魔物が現れでもすれば、身動きできない自分など一瞬で灰になってしまう。


 一刻も早くこの“刻”を刻み終えることを―――切に祈った。


 しかし。


 アキラは同時にこの地を“知ってしまっていた”。


 この地には、この、ファクトルには。

 神の加護など存在しない。


「―――っ、」


 絶えず轟いていた地鳴りが、一層暴れた。

 足元の砂が顔面付近まで弾き飛び、アキラがあれだけ刺激を加えても微動だにしなかったリロックストーンすら僅かばかり顔を出す。

 同時、アキラの身体中の水分が汗となって噴き出した。ぼたぼたと汗が滴り、リロックストーンが濡れる。

 そして、アキラは伏せ続けていた顔を、蒼白にして上げる。


 暴れ狂ってこの迷路に吹き込んできていた風が―――止んでいた。


「―――、」


 笑ってしまうほど、危機だった。

 アイルークのヘヴンズゲートの赫い大群。アドロエプスのガルガドシウム。“二週目”から、巨大マーチュや巨大スライム、そしてマザースフィアを引っ張り出してきてもいい―――その総てが、あまりに矮小だった。


「ギィ―――グ」


 目の前のそれは、言わばティラノサウルスだった。

 土色の鱗に覆われた身体は、見上げても見上げても、見上げ切れないほど高い。鰐のように突き出た貌には凶暴な牙を装備し、隙間から濁流のような涎を零している。

 その巨体は、この巨大な迷路を塞ぎ、散弾のような風を遮断していた。

 濁った瞳は、完全にアキラを捉えている。


 ガルドン。

 かつてこの地で見たこの巨獣の名が、アキラの脳裏に浮かび上がる。

 遭ってしまった。このファクトルの規格外の魔物に。


 アキラは放心した心を強引に叩き、即座にリロックストーンの破壊を再開する。

 しかしその刺激では、リロックストーンの表面を擦るだけだった。


 死ぬ。

 死んで―――しまう。


「―――っ、―――っ、―――っ、」


 リロックストーンを捉えていたはずの瞳はいたずらに大地を舐め、剣の切っ先は見当違いに暴れ回った。

 ガルドンはアキラの元に、あまりに猶予の無い大股で接近してくる。

 祈った直後に、ファクトルがもたらしたのはこの絶望。

 例えこちらが勇者であろうとも、神話の主役であろうとも、ファクトルはそれを喰らうのだ。


 ファクトル。

 それは、加護など存在しない―――神話崩壊の死地。


 神の御手すら撫でれぬ領域。


 リロックストーンは壊れない。


 ガルドンが、大口を、開けた。


―――***―――


 人間が消失するという事象を、エリサス=アーティは初めて目の当たりにした。

 氷のように徐々に溶けて消えていったわけでもない。

 光のように徐々に透けて消えていったわけでもない。

 消えた。それ以外の表現が使用できないほど、ヒダマリ=アキラが消失したのだ。

 覚えた感情は絶望でも驚愕でもない。


 ただ、唖然。


 これは本当に、自分が知っているリロックストーンの移動だろうか。

 サーシャやリイザスの消失時も、徐々に空気に溶けていったように思える。


 全身が金縛りにあったように動けず、エリーは座り込んでアキラの消えた空間を眺めていた。

 心は痺れ、あらゆる感情が封じられていた。


「ときに、そこのお前」


 固定されていたかに思えた身体が、びくりと震えた。

 エリーは思い出したように顔を向け、反射的に背後のサクとティアを庇うように身じろいだ。

 ガバイドが使用した魔術、“バーディング”。その影響で脳が爆発しているような頭痛が響き続ける。しかしそれも、アキラの消失や、ガバイドが“またも水曜属性の魔術”を使用したことの混乱に比べれば微々たるものだった。


「人の心は、いかにして壊せるのだろうな」


 広大な荒野に立ち、ガバイドは独立して動く瞳を狭めた。

 エリーはその言葉に身を強張らせた。

 ガバイドが、ゆっくりと歩み寄ってくる。絶望の災厄の足音が確かに聞こえた。


「我輩はかつてその理論を解き明かした。人間の心など―――いや、どの種族も心の壊し方などある程度共通している」


 身は痺れて動かない。エリーはただ、僅かばかり神妙な顔つきになったガバイドを見上げることしかできなかった。


「最も単純なのは死の恐怖。自己の命をすり潰す絶望が訪れれば、心など崩壊する。崩壊するのだ」


 ガバイドが目の前に到着してしまった。落ち着いた口調で溶け込ませるように繰り返す。

 醜い貌がエリーの顔を覗き込んできた。吹きすさぶ砂風の音が遠くに聞こえ、視野が滲んでくる。身体中の感覚が、度重なる混乱で壊死したように止まっていた。


「他にもある。尊厳の破壊だ。心とは面白くてな、ときに寄り所を命以外に転換できる。夢を奪う。羞恥を与える。そうした手段で心を壊せるのだ。ただ、麻痺した心には平常を取り戻させる必要があるが」


 エリーの麻痺した心が、気づいた。ガバイドのこの会話は、自分に少なからず平常を取り戻させるためなのだと。

 実験が―――始まっている。


「我輩は数々の人間を“調べ”、そうした理論を確立させた。どの種類の人間でも、最短で心を壊す手順を作成したのだ。さて、そのために、お前がどのような種類の人間が調べようではないか。まずは心を静めろ」


 エリーは、ガバイドの言うように、心を静めた。

 魔族とここまで接近して、平常心を取り戻すというのも妙な話だ。

 しかしエリーは沈黙して、深呼吸を繰り返す。


 静寂な、空白の時間。サラサラと、砂が吹いていた。


「さて。では始めようか。ひとつずつ絶望を与え、そしてお前の種類を調べよう。どの種類の絶望が最も有効なであるのかを」


 エリーは、深呼吸を繰り返す。


「うむ。とりあえずお前にはひとつの絶望が存在する。先ほどの男はどうかな。あの存在がお前にとってどれほど重要かは分からんが、仲間であるのだろう? 死亡したぞ? ファクトルの深部に“座標完全固定”の移動をさせたのだから」


 ガバイドは、エリーの表情を探るように瞳をうごめかせた。


「さて、お前はこの絶望に震える種類かな?」


 ガバイドは絶望へ導くかのように、手を差し伸べてきた。

 そして、エリーは―――拳で応えた。


「“スーパーノヴァ”」


 ドバッ!! とガバイドの肘から先が消失した。

 彩り乏しい大地にスカーレットの色が炸裂する。この地にとっては刺激的な光と共に、エリサス=アーティは立ち上がった。


「む。む―――っ」


 今度は頭。エリーの拳は、ガバイドの顔面を吹き飛ばす。

 ガバイドが動かないことを見ると、今度はあえて魔力を込めず、蹴りをガバイドの胸に見舞った。肉とは違う、硬い衝撃が足に残る。

 しかしそれを利用してガバイドを後ずらせて距離をとらせると、エリーは倒れた2人を庇いながら拳を構えた。


「あたしがどんな種類の人間か?」


 心の痺れはようやく消えた。

 妨害魔術の束縛も心なしか弱まり、十分に動ける。

 体力と魔力の残量は絶望的だが、強引に動けば数十秒程度ならフルスペックで戦えるだろう。

 エリーは淡々と自己の戦力の確認をこなしていった。


「教える気にはなれないわ。あたしのキャラを把握するのは、たったひとりで十分よ」


 エリーは“絶望”に突進した。

 脇をしめ、両拳を胸の前で握り、身をかがめながら大地を蹴る。

 劣悪な地形が戒めとなり、普段の機敏さがまるで出せない。それは猛進ではなく、単なる前進だった。

 しかしそれで十分だ。


 自分がどんな種類の人間か。

 それはエリー自身容易に答えることはできないが、少なくとも、戦闘中に黙り込んでいるようなことがあるのならば、それは魔力を虎視眈々と溜め込んでいるときであろう。


「ノヴァ!!」


 ガバイドの腹部にもぐり込んで放った攻撃は、岩石でも殴りつけたような重い衝撃が拳に残るだけだった。ガバイドは僅かに後ずさるだけで、呻き声ひとつ上げはしない。

 中に何かが仕込んであるのか、この白衣は硬い。

 エリーはギリと歯を鳴らし、今度は露出しているガバイドの顎に拳を振り上げた。

 クリーンヒット。

 スカーレットの閃光と共にガバイドの顔面が吹き飛び、不気味な貌は消失する。

 しかし、エリーが拳を下ろしたころには、すでにエリーは“見下ろされていた”。


「ノヴァ!!」


 現れたばかりのガバイドの顔面を再び吹き飛ばす。

 脆い。今まで戦ってきた魔物の中でも、ガバイドの肉体は驚くほど脆かった。

 しかしその脆さゆえに、その身を吹き飛ばすことができず、ガバイドは今なお眼前で笑っている。

 全身が凍結するような“絶望”が浮かぶ。一体何度、自分はこの魔族を“殺した”だろう。首から上を吹き飛ばしているのだ。言うまでもなく、生物にとっては致命的な損傷である。

 魔力の過剰な使用で、むしろ攻撃手のエリーの頭に鈍い痛みが走る。

 だがガバイドは、まるで揺るぐことは無い。

 しかし、エリーの戦意も揺るがない。背後には倒れている2人。退くことは許されない。

 そして自分の意思は、絶望などでは潰えない。


「うむ。そういう種類か……?」

「―――スーパーノヴァ!!」


 エリーはあえて上級魔術をガバイドの脇腹―――汚らしい白衣に叩き込んだ。貌は駄目だ。すぐに復活してしまう。ならば防具に身を包んだその身こそ、この不死の弱点なのかもしれない。


「む―――?」


 重い衝撃が拳に残るかと思われた攻撃は、予想に反し、何かを砕くような感触を残した。

 “バリン”とガラスが割れるような音が響き、次の瞬間、ガバイドの身体が崩れていった。

 ジュ、と肉が焦げたような臭いが周囲に漂う。


「……!?」


 下半身が消失したかのように、ガバイドの上半身と白衣が大地に伏せる。

 一瞬ガバイドを倒したかと僅かな希望が浮かんだが、次の瞬間、背の低くなったガバイドは元の高さを取り戻した。


「ああ、哀しいことだ。発明品が壊れてしまった。対象を問わずあらゆる物体を溶解させるこの液体は、保管方法も含め、中々希少であったのだが」


 そう嘆くガバイドは、白衣すら修復が完了していた。

 息切れと頭痛の激しいエリーの身体には、すでに防御膜も身体能力強化の魔力も携わってはいなかった。“液体”とやらが掠めたのか、エリーの拳のプロテクターも一部が欠損している。

 体力も魔力も装備も。

 完全に―――潰えていた。


「だがいい、まあいい。それよりお前、中々見どころがある。吾輩の携帯ケースを破壊するとは、流石に火曜属性といったところか」


 火曜属性の猛攻をその身に受け、それでもガバイドは一切消耗していなかった。

 肩で息をし、脂汗を額に浮かべるエリーと比すれば、容易に優劣が判定できた。

 そして胴体も―――弱点では無かった。ただ、胸に携帯ケースを入れていただけ。


「さて、うむ。言っておこうか。吾輩の不死に種は無い」


 絶望を刷り込むように、ガバイドは断言した。

 エリーの脳裏にティアの言葉が蘇る。

 魔族は常軌を逸している理由は―――“ただ相手が魔族であるということだけ”。

 この魔族は、決して殺せない。

 拳はもう上がらなかった。今すぐにでも倒れ込みそうだ。エリーは熱にうなされたような表情をガバイドに向けることしかできなかった。


 これがガバイドの基本戦術であるのだろう。

 不死たるガバイドは、ただ相手が消耗するのを待つだけで良い。


 絶望の―――魔族。


「“世界のもうひとつ”には、決して届かぬ領域があるのだ。世界のロジックを崩壊させる手段が、そこにはあるのだからな」


 ガバイドは、両手を前に突き出した。

 右手は泥色。左手は藍色。

 土曜属性と、水曜属性。

 ロジックの崩壊したそれら色は、見れば見るほどおぞましかった。


「うむ。お前は少し元気が良すぎるな。もう少し弱らせてみようか。死んでくれるなよ?」


 ガバイドにはエリーの魔力が切れていることが分かっていないようだった。あの魔族に、他者の力を察する気は無い。あの魔術をこの身に受ければ、エリーは必然的に絶命するだろう。


「……ねえ」

「?」


 普通に声を出したつもりが、驚くほど小さかった。

 それでもガバイドが声を拾ったことを察し、エリーは細々とした声で言葉を紡ぐ。


「このファクトルって……人間ひとりがどれくらい生きられるものなの?」


 ガバイドは僅かに眉を寄せた。


「うむ。お前の疑問の解消は吾輩にとって必要である。では答えようか。一瞬だ。ファクトルの深部においては、一瞬で人間は力尽きる。運がどれほどよかろうが、数分程度で惨死に繋がるのだ」


 エリーはそれを、聞いた。

 その答えを―――満足げに、聞いた。


「じゃあ、無駄じゃなかったかな」


 エリーは膝を大地についた。もう立つことはできない。

 上半身だけを起こし、満足げに泥と藍を眺めていた。


 ファクトルの深部においては、人間ひとりが生き延びられるのは数分程度。

 それが揺るがぬ事実なら、エリーにとって至高の情報だ。


 あらゆる事実が惨死に繋がるファクトル。

 その前提を聞いてもなお、エリーは自分たちの前提を優先させた。


 “日々は繋がる”。


 ならば、


「あいつは運が、良いからね」


 数分程度で、戻ってくる。


「キャラ・ライトグリーン」


 今度は、見えた。

 “ヒダマリ=アキラ”が、力任せにガバイドの胴に剣を見舞ったのだ。

 重い衝撃音が響き、ガバイドの身体は転げていく。

 エリーはアキラに抱え上げられた。

絶望から離れるように、自分の身体はサクとティアの元に運ばれていく。


「タイムは?」

「遅い」


 アキラの軽口に、エリーは皮肉交じりの言葉を返した。

 この男は本当に―――ふざけたことをしてくれた。

 エリーの身体がガチガチと震え始める。この場に自分たちを残すなど、もう2度として欲しく無い。


 例え、戻ってくると確信していても。


「次やったら許さない」

「俺は被害者だろ」


 アキラはそう言って、自分たちを庇うようにガバイドに対面した。

 アキラの頭はくらくらと揺れているように見える。流石に魔力が尽きているようだ。

 だがそれでも、エリーは心の底から安堵していた。


 彼はきっと、この“刻”を刻んでくれる。

 あの絶望を―――超えてくれる。


「む。む。む―――?」


 立ち上がったガバイドは、腑に落ちない表情を浮かべていた。

 それもそのはず。ファクトルにおいて、惨死以上に優先される前提など存在しないはずなのだから。

 しかし、自分たちの前提がそれを凌駕した。エリーの身体が恐怖以外で初めて震えた。


「うむ。解らんな。吾輩の頭脳を持ってしても、お前の生存が解らん」


 言いながら、ガバイドは笑みを浮かべていた。

 ファクトルにおける人間の生存。それそのものが、ガバイドにとって“探求欲”を注ぐべき対象なのだろう。

 だからエリーは、探求すること阻害する僅かな嫌がらせで、答えた。


「言ったでしょ。こいつは運が良いのよ」


 エリーは虚勢を張り続け、笑った。


「―――うむ」


 ガバイドは再度腑に落ちない表情を浮かべ―――嗤った。

 そして、その独立した瞳で、アキラだけを捉える。


「ぅ」


 ゾッ。

 アキラとガバイド。その両者を身比べ、エリーの身体が絶望に包まれた。

 自分たちそのものには関心を示さなかったガバイドは、初めてアキラを“探っている”。

 その様子もさることながら、ガバイドは、何か得心している様子であった。

 だが、そちら事態はどうでもいい。


 エリーにとって深刻なのは、アキラの表情が、言い表せないほどの絶望感を映し出していることだった。

 分かる。察してしまった。

 この男は、ガバイドという絶望を―――超えられない。


「なるほどなるほど。お前のその、“確信した顔”。つまりそういうことか。そんなことまで、“世界のもうひとつ”は教えてくれたか」


 アキラは無言。

 エリーも無言。

 ガバイドだけが、多言に語り続ける。


「吾輩の攻略には絶望しているようだが、生存には執着するか。確かにそうだ。愚者でも分かる。確かに今、この地を離れる手段はある」


 遅れて。

 エリーも分かった。

 この絶望の地を離れる手段。

 その方法が、ここに無ければならないのだ。

 何故ならここは広大で、移動するのは不可能だ。魔族といえども、ガバイドは移動に適した姿には見えない。

 ならば、世界各地にあるという、研究所に瞬時に移動する術を有してなければならないのだ。

 エリーの目に、ガバイドの着膨れした白衣が映る。

 アキラを消失させたとき。自分に首輪をつけたときもそうだったのだろう。

 ガバイドはあの白衣から、“マジックアイテム”を取り出していた。


「だが―――“吾輩がそれを許すと思うか”?」


 エリーの予想は正しく、そして絶望に直結した。

 今、ガバイドは警戒している。

 今まで防御膜すら張っていなかったのだろう。身体から、2色が交り合った奇妙な色が放出される。脆い身体は、魔族の魔力という強固な力で鎧と化した。


 あるいは不意打ち。適当な攻撃ならば、“当たり”の携帯ケースをガバイドから得ることができたかもしれない。

 あるいは猛激。絶望しながらもがむしゃらに攻撃を仕掛け続ければ、“当たり”の携帯ケースをガバイドから得ることができたかもしれない。


 しかし、それは、潰えている。

 アキラが確信し、ガバイドはそれを察してしまったがゆえに。


「……やっぱり、“ハードモード”になったか」


 隣のアキラが呟いた。

 沈んだ表情になって、剣を腰に仕舞う。

 ハードモード。それはアキラが時おり口にする、奇妙な言葉だ。


「うむ。特攻してみるのも手だと思うのだが、諦めるのか?」

「ああ、諦めるよ」


 アキラの言葉で、今度こそエリーは絶望した。

 自分たちの前提は、この地の前提に塗り潰されてしまうのだろうか。

 だが、アキラは言葉を続けた。


「これは、妥協案だ」


 アキラが呟き、自己の懐に手を入れる。

 表情は、依然として絶望。だがその絶望は、ガバイドに向けていた膨大な殺意を抑えるという種類のものだとエリーはようやく気づいた。


「俺らの前提、続く日々。この地の前提、惨死。これは、それらが相殺された妥協案だ」


 ガバイドも表情を変えた。

 アキラが懐から取り出したのは、泥を固めたような色の拳サイズの“携帯ケース”。


「これで外れのケースだったら、格好つかないな」

 アキラは携帯ケースを開けた。

 ガゴッ、と重い音が響く。

 そしてアキラは、中から2つの小さな瓶を取り出した。


 中に入っているのは―――光に輝く“橙色の粉”。


「必ず迎えに行く」

「……!?」


 アキラが瓶の蓋を開けたかと思うと、それをエリーに向けて振ってきた。ぶわりと粉が周囲に舞い、エリーは粉を全身に浴びる。

 何を。

 そう口にする間もなく、エリーは身体を背後から鷲掴みにされた。


「……最初に吾輩に当て身をしたときか」

「……ああ、予想通りハードモードだったからな。最短狙ってたんだよ。それにファクトルで金縛りにはあいたくなかった」


 アキラはエリーを見送ると、背後のガバイドに静かに応じた。

 アキラの前には、サクだけが倒れている。

 振るった粉は、エリーと身を伏せていたティアの身体を“どこか”へ飛ばした。この瓶に入っている少量のリロックストーンでは、2人が限度らしい。

 2人は共通するどこかへ向かう。しかしそれは、アキラの手に残った粉とは違う場所だ。


 アキラは残った瓶を握り締め、空き瓶と携帯ケースを放り投げる。

 振り返ると、ガバイドは魔力を抑え、悠然と立っているだけだった。

 自分たちを追う気はもう無いようだ。アキラは歯を食いしばった。今すぐにでも、この魔族を殺したい。だがそれは、不可能だった。


「たった数度の移動で“世界のもうひとつ”から得た情報にしてはあまりに妙だ。『全能』たる日輪属性ゆえか、お前は未来でも視たのか? 本来そうした力は、『全知』たる月輪属性の本分であると思うのだが。珍しいな」


 ガバイドは、アキラの属性に気づいていた。その上で、日輪属性を、そして月輪属性も、知っている。

 しかしそれでもその身を止め、アキラの瞳を探るように眺めるだけだった。

 それこそ本当に―――希少な日輪属性ですら、サンプルのひとつに過ぎないかのように。

 それが、アキラの逆鱗に触れていた。

 この魔族は淡々と、神経を逆撫でするような言葉しか吐き出さない。


「ガバイド」


 アキラは、瓶の蓋を開けた。

 殺意に震える声を必死に抑え、砂風の向こうの不死を睨みつける。


「俺じゃお前を殺せない」


 何が『全能』たる日輪属性か。宿ったのがこの愚者では、不可能なことなど山積みだ。

 現に今、この旅を、自分の手で終わらせてしまった。


「だがいいか。いつか必ず、お前の不死を超える奴を連れてくる。お前を地獄に引きずり落とせる奴を、俺が必ず連れてくる」


―――生存は、知っている。信じている。

 彼女もきっとこうして、この煉獄から逃れたのだ。


「負け惜しみかね」

「負け惜しみだよ」


 アキラは自分とサクに粉を振りかけた。橙色の粉が舞う。

 結局自分は、どれほど超えたいと切望する相手前にしても、尻尾を巻いて逃げることしかできない。

 残した言葉は人任せ。勇者の器とやらは、お世辞にもあるとは言えなかった。


 だけど、そんなものなのだろう。


「これが俺のキャラクターだ」


 アキラとサクは“どこか”へ投げられた。


「哀しいなぁ、畜生」


 残されたガバイドは、砂の中で小さく呟く。

 逃れる者を追いはしない。悠久たるガバイドにとって、過ぎゆくものは過ぎゆくのだ。

 しかし。


「我輩は機会を逃したのだろうか……」


 過ぎ去った理論。

 人の心の破壊と操作。


 それを追い求める必要が、ガバイドにはあった。


 この理論は―――未だ確立されてはいない。

 たったひとりの人間によって、その理論は崩壊した。


 過ぎ去るはずの記憶も、その人間のことだけは例外的に留まり続ける。


「ああ、“お前”の心を壊すためには、何をすればいい?」


 あらゆる被虐を与えたのに。

 あらゆる理論を試したのに。

 その心を掌握することは、あるいは“世界のもうひとつ”以上に叶わなかった。


 ガバイドの瞳は、消えたアキラたちを捉えていなかった。

 そのそれぞれが“探求欲”に染まり、虚空を彷徨う。


 浮かぶ―――嗤い。

 解き明かせていない謎に、ガバイドは想いを馳せた。


「我が愛しのエレナ。どうかその美しい姿のまま、吾輩の前に立っておくれ」


“―――*―――”


 震えて暴れる切っ先は、リロックストーンをまるで捉えない。アキラは脂汗を噴き出し、形だけの破壊行為を繰り返していた。

 目の前の強大な巨獣は、完全にアキラを餌として捉えているようだった。


 喰われる。そうとしか思えなかった。

 殺される。そうとしか感じなかった。


 そして巨獣は大口を開け、


「―――、」


―――吹き飛んだ。


 鼓膜が爆発した。音が消えた。

 爆音に次ぐ爆音が骨髄を揺さぶり、閃光が爆ぜた視野は真っ白に埋まり尽くす。鼻孔を埋めていた砂すら飛び散り、爆炎の臭いが迷路の中に充満する。大地の振動など巨獣の足音の比ではない。いや、あのガルガドシウムの最期ですら、この比ではない。次元の違う破壊が世界を揺るがし、足場が岩盤ごと捲れ上がった。


「う―――おっ!?」


 リロックストーンごと吹き飛んだアキラの身体に、何かがまとわりついた。そして身体が、“そのまま宙に留まる”。

 大震災のような暴音や暴風が嘘のように矮小になった。

 戻った視覚や聴覚でガルドンを探ると、その最期が瞬時に分かった。

 巨獣には今なお怒涛の攻撃が突き刺さり、その巨体が後退させ続けられている。

 叫び声は、物理的に上げられない。大口を開けていたせいで、とっくに顎は吹き飛ばされている。


 続く、続く、連激。

 未だ生存している巨獣の耐久力には驚嘆できるが、やはりその最期は決まっている。

 走り続ける幾億の閃光が、巨体を岩山に張り付け、途切れることなく降り注いでいた。

 その処刑のような光景は―――5万超すら凌駕しているかに思えた。


「…………」


 一瞬で、ヒダマリ=アキラは平常心に戻った。

 自分が浮いている理由も分からず、巨獣が凌駕されているという驚愕もある。

 しかし、冷静になれた。

 パニックになっていた心には冷や水がかけられ、頭は即座に現状把握を開始する。

 自分と共に“包まれている”足元のリロックストーンに視線を向けると、それが先ほどの衝撃でヒビだらけになっていた。

 戻れる。戻ることができるのだ。


 この地でも、案外加護は存在するのかもしれない。


―――ただ、付与する者が神ではないだけで。


 アキラは足元のリロックストーンを小突いた。それだけで、アキラを束縛していた小石は粉々に砕ける。

 再び背後から鷲掴みされるような感触。


「―――、」


 消失する直前、アキラは今なお続く攻撃の元に目を向けた。


 “銀”のフィルターがかかった、遥か遠方の岩山。その頂上に。

 巨大な杖で銀の矢を射出する小さな人影が見えた。


 誰だか知らないが―――お前は最高だ。


 アキラの身体は再び絶望の魔族へ飛ぶ。


―――***―――


「く……、ぅ、」


 アルティア=ウィン=クーデフォンは、極寒の中にいた。身体に吹雪が突き刺さる。

 ここは、雪山の中だった。足が深々と雪に突き刺さり、地面は膝をゆうに超している。


「うぅ、うぅ、」


 それでも、ティアは前へ進む。昇っているのか、下っているのか分からない。

 日は沈んでいて、暗闇のただ中だった。前は灯りの有無以前に、吹雪に遮断されている。

 呻いて呻いて、ティアは前に進んでいく。

 背には、赤毛の少女を背負っていた。いや、すでに引きずっていた。


 強烈な寒気によって目を覚ましたら、全壊した建物の中にいた。

 物体らしいものは凍りついた棚程度しか無く、雪に埋もれて外と何ら変わりが無かった。

 隣に倒れていたエリーは見つけることができたが、残る2人はどこにもいない。

 エリーは揺すっても騒いでも起きなかったのだから、暖をとることが急務になった。しかし魔力はとうに底を尽き、棚を爆破して火を起こすこともできなかった。

 もっとも、点いたところですぐに吹雪で消失していただろうが。


「ふー、ふー、ふー、」


 ティアは、エリーを引きずって進み続ける。ただひたすら、自分が前と信じる方向に向かって。方向はとっくに分からなかった。


 全壊した建物の中、途方に暮れていたティアの目に僅かな光が見えたのは僥倖だった。

 今は吹雪に埋もれて見えないが、確かに自分は光を見えたのだ。幻覚で無かったことを切に祈りながら、正しい方向に進んでいることを信じながら、ティアは歩く。


「うう……、恨みますよ、アッキー……!!」


 一体、自分が夢を視ていた間に何があったというのだろう。

 意識を手放す直前、“何かとてつもなく良いこと”があった気がしたのだが、そんな記憶は吹雪によって吹き飛んでいた。

 大方自分とエリーは、またも“強制転移”させられたのだろう。


「……!!」


 そして、見えた。再度見えた。

 まさしく一寸先も見えない吹雪の中、その僅かな切れ目に、光が見えた。

 ティアは希望に活力を取り戻し、エリーを引きずる。今すぐにでも彼女に暖を取らさなければ凍死してしまう。


「ぁ」


 ようやく。ようやく光の正体が分かった。

 建物だ。

 この雪山の中、巨大な建物が座している。

 思ったよりもずっと近い位置に在ったそれは、どうやら教会のようだった。三角形の屋根の建物がいくつも連なり、一際大きな中央名建物に結合している。

 水色に輝く頑丈そうなガラスから光が漏れていなければ、ティアは岩山か何かと思っていただろう。

 ともあれ助かる。助かるのだ。


 ティアは自身の身の5倍はあろうかという門を頭で弱々しく叩く。

 いくつもの野太い氷柱の真下、ティアは重厚な門をおぼろげに眺めていた。


「はい?」


 吹雪で遮断されていた聴覚が、隙間を縫ってきた声を拾った。

 人がきた。助かる。


 ズッ、と重い門が内開きになると、ティアは最後に気力を使って倒れ込んだ。


「まあ……!!」


 向こうもこんな有様の人間が来るとは思っていなかったのだろう。

 汗も凍りつき、頭や身体に雪が積もった今の人間は、とてもではないが自分の根城に招き入れたいと思える対象ではない。

 しかし招き入れてくれた相手は、慌ただしくティアとエリーに被った雪を払い、奥の誰かに処置を求めて叫んでくれた。


「こ……こ、は?」


 ティアは、紫色になった唇で呟いた。

 目は見えない。温かな光が、視界一杯を埋めていた。


「ええと、まさか、タンガタンザから迷い込んでしまったのですか?」


 身体が誰かに担がれる。人の体温を感じ、ようやく生きている心地がし始め、ティアは目を凝らした。

 女性だ。

 くせ毛なのか、黒髪に自然なウェーブがかかっている彼女は、温かな表情を浮かべている。

 死に体のティアは、その女性に魅せられた。


「わたくしはカイラ=キッド=ウルグス。このマグネシアス修道院に務めております」


 彼女は、自己の名とこの建物の名前を言った。

 先ほどの口ぶりから、ここは大陸の境に在る修道院らしい。


 ティアの目に、ようやく部屋の様子が飛び込んできた。

 木製のベンチがずらりと並んだ、式場のような強大な空間。深部には、氷を削ったような透き通る女神の像が立っている。その巨大の偶像は両手を大きく広げ、世界中に加護を降り注いでいるかのように見えた。


「遠路はるばる御苦労様です。他の大陸から来られたのなら、謹んで言葉を紡がさせていただきます」


 カイラというらしい女性は、巨大な偶像のように両手を広げ、慈しみに満ちた表情で、言った。


「ようこそ―――“過酷”なモルオールへ」


―――***―――


「ぐ……っ、」


 もぞり。薮が盛り上がった。

 出てきた少女は全身泥や草木に塗れ、普段の紅い衣は泥色に変わっていた。


「つ……、あ」


 サクは、腕を強く引き、土中からもうひとりを引きずり出す。

 力を込めただけで脇腹から全身がバラバラになるような痛みが走る。だが、魔族の魔術を受けてこれならば安いものだ。

 同じく泥だらけになったもうひとり、アキラの頭に乗った土を払うと、サクは精根尽きてうつ伏せに倒れる。


「はーっ、はーっ、はーっ」


 狂ったように口を開き、荒い呼吸を繰り返す。口の中に地面の土が入ってきたが構わない。身体は酸素を求めていた。


 サクは、目を覚まして、危なく発狂しかけた。

 サクがいたのは、“研究室”であったのだ。

 しばらく周囲も見渡せず、身体は完全に硬直していた。あの、ガバイドという魔族。意識を手放した自分は“捕獲”され、即座に実験とやらに“使用”されているのだと心の底から焦燥した。

 しかし、長い時間硬直していると、冷静な思考が察した。

 この場所は、暗かった。天井から漏れるかすかな光が照らしているに過ぎない。あの光輝く絶望の部屋ではないのだ。

 そして隣に、エリーではなく、アキラを見つけた。


 そこからのサクの行動は早かった。

 一刻も早く研究所から距離を取るべく、アキラを担ぎ、光を目指した。

 どうやらこの研究所は土中にあるらしい。出入り口と思われる天井の扉を目指し、備え付けてあった梯子を上る。

 この研究所では、呼吸さえもしたくはなかった。


「はーっ、はーっ、はーっ」


 サクは荒い呼吸を繰り返した。

 自分が目を覚ましてから一体どれほど時を費やしただろう。即座に行動したはずだが、緩慢な動作は研究所からの脱出を数時間に引き延ばしたように思える。


 だが、ともあれ助かったようだ。


「……、」


 顔だけ横に倒してアキラを見た。同じようにうつ伏せになって倒れているアキラは、とりあえず生きてはいるようだ。

 きっと自分が意識を手放している間に現れ、そしてみなを救ったのだろう。

 なんとなく、サクは察した。


「……!」


 安堵したからか。サクの鼻孔が大気の匂いを捉えた。

 顔を動かして周囲を見渡す。

 どうやらここは森の中のようだ―――“珍しい”。


 そう思うと同時、サクは再び焦燥した。

 自分たちがあの死地から脱出したのは“強制転移”だと即座に察する。

 “最悪だ”。

 この地で倒れていることは、最悪の事態に直結してしまう。


 鼻にこびりつくのは草木の匂いを塗り潰す―――戦火の臭い。


「……!!」


 そこで、誰かの足音が聞こえた。顔を向ければ1組の男女が歩いている。

 男は背に、団子のように連なった球体を持っていた。

 女は背に、その身を超す巨大な輪を持っていた。

 サクには分かる。あれは、“武器”だ。


「?」


 向こうの男がこちらに気づいた。

 しかし、隣の女性に声をかけようともしない。

 そのまま歩いて、サクたちの正面を過ぎ去っていく。


 それは―――この地において、当たり前のことだった。


「っ―――待て!!」


 サクは声を絞り上げた。腹部がジンと痛みを発する。

 逃しては駄目だ。ここで彼らに助けを求めなければ、ここで倒れているままでは、自分たちの身は“戦火に包まれる”。

 それだけは避けなければならない。隣の男が、自分たちを絶望から救った意味が無くなってしまう。

 それだけは、許されることではなかった。


 向こうの女もこちらに気づいた。

 男女は、顔を見合わせ、それだけで、再び歩き出そうとしている。


 言わなければならない。

 あの2人が、自分たちに“価値を見出すような言葉”を。

 サクは躊躇なく、叫んだ。


「“ミツルギ=サクラ”」


 男女が足を止めた。振り返って顔を向けてくる。

 サクは息も絶え絶えになりながら、笑った。


「それが私の名だ。いくら“非情”なタンガタンザでも、この姓を聞いては捨て置けまい?」


―――***―――


「さっすが私の自慢の娘ね!!」

「…………」


 冗談を言っても、返ってきたのは無言だった。岩山の縁に立ち、彼女は漆黒のローブをはためかせている。

 この少女に冗談は通じない。ただ、彼女の前に冗談のような光景が繰り広げられるだけで。


「……」


 アラスール=デミオンは間もなく三十路を迎える女性だった。

 垂らせば背ほどまでの茶髪をトップで結わい、首筋から下は分厚い砂対策のローブに覆われている。肌は日ごろの弛まぬ努力で及第点を勝ち取っているが、そろそろケアのレベルをワンランク上げなければなるまいと密かに胸に秘めている―――女魔道士だった。


「はあ……」


 結婚適齢期を過ぎていると嘆くアラスールは、無言で無音な少女の隣に並び立った。横から盗み見ても、正面から捉えても、隣の少女の肌は雪のように透き通っている。

 神秘的、という言葉が彼女の周囲には必ず付き纏う。


「若さかなぁ……。おばさん結構傷つくんだぞ?」


 アラスールは冗談めかして呟き、岩山の向こうから“爆心地”を見下ろした。

 凶悪な巨獣、ガルドンが爆ぜた地点は、岩山ひとつが丸々吹き飛び、大層見晴らしが良くなっている。

 そんな壮絶な光景も、何度も見れば慣れてしまう。


「…………」


 もう1度、隣の少女を盗み見た。

 この神秘的な女性は、異常であり、異質であり、天才だった。

 アラスール自身、魔道士隊への配属速度によって、天才(美)少女として周囲に騒がれたものだが、この少女はそれをゆうに上回る。

 たった、1年。たった1年で、この大陸の魔道士隊の一員だ。

 その上“彼女が存在しているという理由だけ”で、このファクトルの深部を探索する魔道士隊が設立されたほどだった。

 そして、僅か10名の精鋭で構成されるこの特殊部隊は、世界で最も死に近いというのに、犠牲者が出ていない。

 それも全て、この少女の存在ゆえだった。


「…………」


 ただその半面、表情起伏が乏しいように思える。

 常に無言無音を通し、口を開くのも戦闘中くらいのものだ。

 彼女が日常で最も多弁であったのは、アラスールの記憶では自己紹介の時だった。


 現にこの部隊の隊長もアラスールが務めている。この少女に役職は無い。ただ独立して動き、敵を殲滅するだけである。

 彼女が人の前に立つのは苦手であるらしいことからの配属だが、それでも実力はこの精鋭部隊でも群を抜いていた。


「流石にガルドン相手じゃ疲れた? マリスちゃぁん」

「……」


 半開きの少女の眼が、アラスールに向いた。

 どこか抗議しているように見えた。この部隊で最も彼女の感情を読めるのは自分であろう。

 彼女が最も他者に反応を示すのは、マリスと呼ばれたときだった。自己紹介のときも、何度か彼女と言葉を交わせたのを覚えている。

 アラスールは満足気に笑い、再びガルドンの被爆地を眺めた。


「ごめんごめん、マリーちゃん。そういえば、さっきあそこに誰かいなかった? いや、ありえないとは思うけど、マリーちゃん、なんかずっと見てるから」


 本当に、ありえないことだ。このファクトルの深部に、自分たち以外の人間がいるなどということは。

 アラスールはガルドンの足元に、確かに人影を見ていたが、即座に自分の見間違いだと記憶を訂正している。

 しかしこの少女は、じっとそこを半開きの眼で捉えていた。


「……そろそろ行こっか。マリーちゃんも休憩しないとね」


 アラスールは伝え、爆心地に背を向けようとしたところで、“世にも珍しいもの”を見た。

 これを見たのは、今までたった1度切り。確か、各地の神門の調査から戻って来た時だったと思う。


 目の前の、感情起伏に乏しい少女は、朗らかに、笑っていた。


 少女は足元に脱いだ砂対策の分厚いローブを拾う。

 そして、アラスールの様子に気づくとそのままの表情で、愛称を誤解してしまった口調で言った。


「別に、何でもないっすよ」


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