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おんりーらぶ!?【第二部】  作者: コー
南の大陸『シリスティア』編
12/68

第23話『回る、世界(前編)』

―――***―――


 具体的にどのくらいか、というと。


 世界横断に挑戦するかの如く広大な大陸を2週間ほど練り歩き、強固な細工が施された巨大船に乗り込んで荒波に揺れること1週間。ついでに言うなら、船に乗り込む前に路銀を稼ぐ時間も1週間ほど上乗せされる。


 都合、1か月。

 それが、アイルーク大陸のヘヴンズゲートからシリスティアまでの時間だった。


 その間にも途中立ち寄る村や町で、赤毛の目つきの鋭い少女が座学での授業の中疲れで眠りこけた“とある男”を怒鳴ったり、黒髪長身の少女が鍛錬中に『最近剣での鍛錬に気が入っていない』と“とある男”に半ば本気で切りかかったり、青みがかった髪の小柄な少女が“とある男”への見本と称して建物を損壊したり、と喜怒哀楽の“喜”と“楽”がごっそりと抜け落ちたイベントが多発したのだが―――世界を半分近く移動したという意味では、かなりのハイペースである。


 原因は思ったよりも単純で、3週間かけてようやく乗り込んだ船が相当優秀であったことだ。


 この“異世界”の地理的構造は、大雑把に説明すれば単純明快。

 まず、世界の中心―――あくまで、そこを中央に置いて地図を開いたら場合の話だが―――に巨大な大陸が1つあり、それを囲うように海を隔てて東西南北に大陸が存在している。

 その周囲の四大陸は基本的には地続きであったりするのだから、地図を見下ろせば線の太い円の中央に点を落としたようなドーナッツ形状だ。


 そんな世界で、海を行き来する船には大きく分けて2通りある。


 1つは“外回り”。

 東を進めば西に着き、北を進めば南に着くというルールは、この異世界でも変わらない。

 世界が球体の形状をしているというのは―――“神の教え”という便利な存在によって、測量という技術が進歩する前から常識として根付いていた。

 その、“地図の端から反対の端”―――つまりは円の外を行き来するのが“外回り”の船だ。

 “外の海”は、災害クラスの時化や運悪く魔物の大群にでも遭遇しない限り平穏が約束されており、そこを行く船は、まるで萎んだ風船のように傍目からは移動用なのか遊楽用なのか分からないほど、のほほんと浮かんでいる。


 一方、もう1つの“内回り”。

 “外回り”が萎んだ風船なら、こちらの風船には空気がパンパンに詰り、空気の吹き込み口が空いている。

 さながらロケット風船のように、港から“射出され”、海の上を高速で滑っていく。

 しかし、海の上を疾風のように駆けるその船は、ときには“外回り”の船より格段に速度を低下させ、そうかと思えば再び自ら作った海の水泡の遥か先へ進んでく。

 瞬間的に爆発的な威力を出す火曜属性の力を出せるマジックアイテムを前方後方へ設置し、船体は硬度を司る金曜属性と柔軟性に富んだ水曜属性の魔力でコーティングした結果の“不規則高速船”のシステムは、船の規模が大きかろうが小さかろうがほぼ例外なく搭載されている。

 しかも、“本当に不規則”なのだ。

 ティーカップに紅茶を注ごうとした日常の何気ない行動や、バスルームで石鹸を踏みかけた不安定な姿勢。果ては、用を足しているときにまで、ほとんど何の警告もなく速度の変化は襲いかかってくる。

 そこまで頻繁に変わるわけでもないのだが、慣れていない者は自分の髪のように耳まで真っ赤にして湯上りの身体を振るわせたり、奇声を上げたあと青みがかった髪の頭をさすりながらベッドの角に涙目の視線を向けたりする羽目に陥ってしまう。

 これでも、揺るがない力を司る土曜属性の魔術で補強しているというのだから驚きだ。

 この船の不規則な動きを予期できるのはただ1人、この船の舵を取っている船長だけである。


 だが、この“あまりに乗り心地の悪い船”に、乗客の誰もが船員に文句を言わない。というより、“そんな船”だからこそ、彼らは乗る気になったのだ。


 そうでもしなければ、幾重にも魔力をかけ合わせたこの船でも“大破する確率がぐんと上がる”。


 平々凡々な移動が求められる“外回り”に対し、“内回り”に託された使命。

 それは、中央の大陸―――“魔王が牙城を構える大陸”の近辺から、生存して目的地に辿り着くことなのだから。


――――――


 おんりーらぶ!?


――――――


―――シリスティア。


 南の大陸と表現されるこの大陸は、他の大陸とは違い、少々特殊な形をしている。

 まず、シリスティアという大陸そのものに、“東西南北の大陸”が存在しているのだ。

 四角形の四隅をごっそりと抜け落したような形状は、地図の上から見れば十字に見える。


 しかし、その規模は広大だ。

 他の大陸が中央の大陸を避けるように半月を形作っているのに対し、シリスティアは、まるで底から突き上げるように十字の切っ先を中央の大陸に向けている。

 そして、南の海に東西南北と広範な面積を確保しているがゆえに、シリスティアは北の大陸―――モルオールとは違い気候の種類に富んでいた。

 ヒダマリ=アキラ率いる“勇者様御一行”が到着したここ―――“シリスティア北の大陸”は、間もなく夏という季節通りに暖かい。


「……いや、冬、なのか? 俺たち南西に向かったんだから…………………春? ん? 今のシリスティアの季節って何だ?」


 青のジーンズにだらけたシャツと適当に羽織った上着。

 若干茶が混ざった頭をかきながら、ヒダマリ=アキラはそう一人ごちた。

 一般人に溶け込みかけているアキラは、服の内側に仕込んだ防具と、背負った剣でなんとか“勇者様”の体勢を保っている。


 アキラは、潮風に吹かれ所々錆び付いた町並みに視線を移した。

 丁度人の良さそうな商人の男が、腰の前掛けの前に抱えた果実を店頭に並べている。黒ずんだ木製のラックも瑞々しい果実が乗ればかえって商品の価値を際立たせていた。

 それに目を奪われていると、一瞬商人の男と視線が合ってしまい、アキラは街の外に視線を外した。街外れから見たそこからは、風になびく草原が見渡せる。

 遠くに見える森林も、さらにその向こうの山も、天上の温かい太陽に照らされて緑のひとつひとつが輝いて見えた。


 気持ちのいい景色だ。アキラは素直にそう思った。


 南の大陸に到着したと聞いて、アキラが最初に思い浮かべたのは“かつて”見た北の大陸―――モルオールの情景。

 流石に、『南に行けば行くほど暖かい』と思うほどではなかったアキラが、同じような気候であるはずのモルオールを思い浮かべたのは自然であったろう。

 あそこの森林は、しん、とどこか寂し気で、山はほとんどゴツゴツとした岩山。

 そうした景色を予想して到着したアキラは、いい意味で裏切られた。


 太陽の照りつけも、頬を撫でるなびく風も、昨日到着したこの港町の匂いも、爽快だ。

 そこで唐突に、この大陸の季節が気になってきた。


「俺が“あの場”に落ちたのは……、春、だろ? で、大体2ヶ月くらいアイルークにいて、で、そっから南西に…………いや、待てよ。ここ南半球? それに、この世界って、回ってる……か、ちゃんと太陽とか昇ってるし……、あれ、それってちゃんと東から昇って……た、よな?」


 挙動不審ともとられるほど、アキラはボソボソと呟きながら太陽を見上げる。

 雲一つもないその空の頂点に君臨する光源は、アキラに何一つヒントをくれなかった。

 よくよく考えれば、自分はこの世界のことを何も知らなかったのだ、と何となく打ちのめされたが、あとで誰かに聞けばいいや、とあっさりと考えることを放棄する。


 だが、


「その誰か…………、いないんだよなぁ……」


 座り込みかけたアキラは再び果物を並べる商人と目が合い、何とか体勢を元に戻した。


 アキラがボソボソと独り言にすがっているのにはわけがある。

 単純に、暇なのだ。


 世界を救う旅、という大仰な旅をしているアキラたちだが、年がら年中、戦闘や鍛錬の中にいるわけではない。

 たまにはこうして自由な時間というものができるのだ。


 特に、“動きがあまりに不規則な船”に乗っていた翌日とあっては、依頼をこなす気にもなれない。

 一応、“かつて短期間とはいえあの船に乗ったことのある”アキラともう1人は耐え切れたのだが、残る2人は1週間という長期の乗船時間にダウン。

 2日か3日過ぎた頃から、怒鳴り声や大声が目に見えて減少していったのは―――本人たちには失礼だが―――どこか面白かった。


 ただ、あそこまで苦痛を強いるような船を造るくらいなら最初から“外回り”だけの便にすべきだとも思うし、大層なことをしていたわりには平穏無事に目的地に到着しているのだからあそこまでする必要はあったのかという疑問も残る。

 しかし、必要だから“内回り”の船があるのだろうし、アキラの預かり知らぬところで海の男たちが危機を脱してくれていたのかもしれない。


 ともあれ、本日は完全休息日として赤毛の少女に指定されていたのだった。

 もっとも、彼女たちは彼女たちで今日はもう復活しているらしく、今頃この街のどこかで女性らしくショッピングでもしているだろう。

 荷物持ちという“栄誉ある使命”の危機を感じ、一声かけて宿屋から街に抜け出したアキラだが、しかし、完全に暇だった。


 この街は港町ということもあり、それなりに大規模なのだが、アキラのような種類の人間には移動時間と歩行速度はほとんど等しい。

 結果、気づけば街外れだ。


「……パックラーラ、か」


 見上げた街外れの看板には、この港町の名前が記されていた。

 それを読み上げたアキラは、“今度は何も考えずに”その文字を捉える。

 すると、まるで魔法陣の隅に敷き詰められているような“意味の分からない記号の羅列”が目に入った。


 この世界のことを知らないと自覚したばかりだからか、アキラはその光景にため息一つ吐く。


 アキラは、この世界の文字を知らない。

 どの単語が何を示しているかも分からないし、主語動詞目的語がどんな順番で並んでいるかも分からない―――が、“解かる”。

 “見よう”と思えば記号に見えるが、“読もう”と思えば情報が頭に入ってくる。

 それは、例えば『☆』が、『星マーク』と認識できるように、頭の中で変換されていくのだ。


 当然、言葉も知らない。

 だが、アキラは“現地民”と普通に会話できるし、場合によっては元の世界の“ことわざ”までも相手に伝えることができる。


 この力がなければ、アキラはゆうに1年2年はアイルークの孤児院で言語の学習をする羽目になっていたであろうし、何より未知の世界で会話もできない恐怖に心が壊れていたかもしれない。


 だが、改めて思うと、


「……………………“ご都合主義”……だよなぁ」


 結局、アキラはいつも通りの結論を出した。

 深く考えるのは止めにしよう。

 アキラは軽く頭をかき、広大な尊厳に背を向ける。


 単純に街を往復するだけの行動になっているから、今度はどこかの店にでも入ってみよう。

 そんなことを考え、アキラが1歩踏み出した―――そのとき、


「……!」


 また、果物屋の男と目が合った。


 男は今度こそ客を逃がさないとばかりに笑顔を絶やさず近づいてくる。

 手にはしっかり試食用に切り分けた果物が握られていた。視線に込められたものは、『買ってくれ』の一言だろうか。


 別に逃げる理由もなく、むしろこんな町外れじゃあまり儲からないのだろうかとアキラが同情的に受け止め向かい合った―――その“刻”、


「!!」


 アキラの視線の先。果物屋の商人の後ろ。

 たたたっ、と駆けた小さな影が黒ずんだラックに駆け寄り、いくつかの果物を袋に詰めた。


「あ、え、」

「?」


 万引き現行犯。

 そんなものを目にしたアキラが、喉から潰れかかった声を送るが、商人は気づいていない。

 言葉で伝えることを放棄し、アキラは指を店に向けた。

 すると商人は眉をひそめ、ゆっくりと振り返り、叫ぶ。


「どっ、泥棒っ!!」


 その大声に、小さな影はびくりと震え、再びたたたっと路地に駆け込んでいく。

 その機敏な動きは、商人が店に駆け戻った頃には遥か彼方に消えている。


 次に男が見たのは―――彼も動転しているのか、アキラだった。

 そして今度は視線に別の言葉が宿る。

 思わず、といったような状態で、男はアキラにそれを送ってきた。


 『追ってくれ』


―――***―――


「『体調なんてもうバッチリでさぁっ!!』……か。サクさん、あたしそう聞いた気がしたんだけど……?」

「奇遇だな、私もだ」


 1本に結った背中まで届く長い赤毛に、普段はきっとした瞳。

 しかし今はどこか遠くを見るように目を細め、額に手を当てているのはエリーことエリサス=アーティ。

 “とある事情”から、打倒魔王を志す“勇者様御一行”の一員になっているのだが、旅の敵は何も魔王や魔物だけではないと思い知らされているところだった。


 エリーに応じた女性も、似たような表情を浮かべている。

 エリーと違って短い黒髪を頭のトップに近い位置で結わい、特徴的な紅い着物を羽織っているのは、サク。

 彼女も“とある事情”で“勇者様御一行”である。

 サクのすぐ傍の近くに立てかけてあるのは、黒塗りの鞘の長刀。

 彼女自身、女性にしては長身だが、この刀は下手をすればその背に届きそうなほど長かった。

 だが、凛としたサクに良く映えるその刀も、この旅の敵の前には何の意味も成さない。


 なにせ、


「……あれ? 世界が回っている……くるくるーっと……あはは、そりゃそーですよ、だって世界は回ってる。ははは、ほらほらほら、あっしはだいじょーぶっ、だって世界が回っているって知ってるんですよ? へへへ、さあ手を取り合って踊りましょうっ、くるくるーっ」


 いや、役に立つかもしれない。切るべき者がいれば。


 不気味な笑みと、意味不明な言葉。

 ほんのりと顔が赤くなっている少女は、ティアことアルティア=ウィン=クーデフォン。

 彼女も“勇者様御一行”の一員だ。

 青みがかった短髪の小柄なティアは、昼時に立ち寄った喫茶店の椅子を2つ使い、仰向けに寝転がっていた。

 彼女の視線の先には、シミ1つない白い天井が広がっているのだが、彼女には何か別の世界が見えているのかもしれない。

 この昼間から酒を嗜んでいるとしか思えない風体だが、悲しいことに彼女の無駄口はデフォルトであり、そして状態は絶賛流行性感冒だったりする。


「ティア。あたしあれだけ昨日寝るとき注意しなさい、って言ったじゃない。昨日はサクさんと同室だったのに……」

「一応、私も同じことを言った。だが、気づけばベッドから転がり落ちていた」


 サクは一応自分の義務は果たしていると言わんばかりにエリーに言葉を返した。

 だが恐らく、昨晩の不養生だけが関係しているわけではないだろう。

 ティアの“これ”は今に始まったことではないのだ。


「気候が少しでも変わると、風邪をひくって……、はあ、だったらだったで宿に残ってなさいよ」


 ティアは旅というもの―――いや、常識というもの、と言った方がいいだろう、それへの配慮があまりに欠けていた。

 寒くなったら衣服を着て、熱くなったら服を脱ぐ。

 それは常識なはずだ。

 何しろ寒かったら衣服を着なければ風邪をひくし、熱いのに服を脱がなければ汗をかいて風邪をひく。

 いずれにせよ導き出されるその終点に、しかしティアは“結果”が出るまで服装を変えようとしなかった。

 しかも風邪をひいているのに動けなくなるまで動くのだからタチが悪い。

 つい先ほどまで、窮屈な船旅から大きな街へ解放されたティアは2人とともに元気に歩き回っていた。

 それなのに、気づけばこれだ。


 エリーは心配半分呆れ半分に、ティアに視線を向ける。

 無邪気な子供に見えるティアを見る目は、出来の悪い妹に向けるようなものだった。


 だが、ティアは、エリーのそんな気持ちを知ってか知らずか、


「……あれ? 何の話してましたっけ? あ、そだ、裸のエリにゃんがお風呂場ですてーんっ、と」

「っ、サクさん!?」

「一応弁明しておくと、昨日私の睡眠時間を確保するためには何か話さなくてはならなかったんだ」


 就寝間際、しきりに話しかけてくるティアに、サクは船でエリーから聞いた話を生贄として差し出した。

 1人用のバスルームから顔まで赤くして出てきたエリーの呟き声を拾っただけの情報であったが、エリーの顔色を見るに、それはそれは壮絶なこけっぷりだったのかもしれない。


「もぉぉぉおおおっ、この子に知られたら総ての人間が知ってるようなもんじゃない」

「しっ、失礼ですよっ、……きゅぅ」


 顔を赤くして悶えるエリーに、何とか声を絞り出しているティア。

 それを尻目に見ながら、サクは立てかけてある愛刀を掴み、足元に置いてある荷物を束ねた。

 先ほど久しぶりの大きな町だと張り切って出かけた買い物の成果だ。

 あまりそういった方面に積極的でないサクの荷物はないのだが、ティアがこうなった以上、一旦宿屋にティアごと運んでおくべきだろう。


「そろそろ行こう。病人がいるなら、長居は無用だ」

「そうね」

「いっ、いやっ、あっしはもう、だいじょーぶいっ……こほ」


 サクはエリーと視線を交わし、共に頷き合う。

 ティアの基準で物事を判断していては、悲しい結果しか生み出さないのは最後の『こほ』が証明している。買い物の中ティアが調子に乗ってつけた香水だけが、唯一の元気の名残だった。


「ほら、ティア。行くわよ」

「なっ、なにぉぅっ、まっけねぇぇ……ああっ、」

 風邪だというのにまだ遊び足りないのか、ティアは抵抗。しかし結局エリーに肩ごと抱えて起こされる。

 病気に浮かされた子供は、すがりつくようにテーブルを振るえる指で掴んだ。


「くぅぅ、情けねえです……。アッキーの役にも立ってないですし……、」

「それはそれ、これはこれ、よ。今治さないと、明日から先生もできないでしょ」

「うぅ……、そうです……ね……」

 それで納得したのか、ティアはテーブルから手を話し、エリーに引きずられていく。


 ティアが仲間に加わってから、アキラの講師役は増えていた。


 まず、身体能力向上や防御膜を始めとする魔術の基礎を担当するエリー。

 そして、剣を使った戦闘や回避を担当するサク。

 最後に、魔術の遠距離攻撃を担当するティアだ。


 全体的な進捗度としては、上々。アキラの実力は当初に比し、相当伸びている。

 具体的にどの程度、とは表現できないが、とりあえず“最弱”の大陸―――アイルークを1人でうろつき回れる程度だ。

 だからこうして、アイルーク大陸よりは魔物に力のあるシリスティアに来たのだから。

 だが、個別に見ると、極端に滞っている“授業”がある。


 ティアの遠距離攻撃。

 端的に言って、ティアの指導は感覚指導だ。

 前に、サクも自らの鍛錬をしながらアキラとティアの会話に耳を傾けていたのだが、『ばーっ、ってやって』だの、『どーんっ、となります』だの、サクは一瞬自分の魔力の込め方さえ忘れかけてしまうほどだった。


 ただ、それが悪いわけではない。

 アキラはアキラで感覚指導が向いているのか、その場では正しく理解していたようにも思える。

 しかし、彼の才能ゆえか、未だ魔力を飛ばして敵を討つことはできていない。

 どうも、手元から魔力が離れていくイメージを掴み切れていないようだ。


 そんなこんなで、未だアキラは剣のみの攻撃しかできない。

 身に着いたものと言えば、せいぜい暗闇を照らす照明がノッキングしなくなった程度だろうか。


「はあ……、」


 サクは荷物を担ぎ、自然とため息を吐いていた。

 “何でもできるようになりたい”、と言っていたあの男は、未だその域に足を踏み入れられていない。ティアがいる分後方支援の方は当面問題ないだろうが、それでも一応は“師”として、“生徒”の将来に不安が尽きなかった。


「遠距離攻撃……か。やっぱり日輪属性は難しいのかしらね?」

 サクが荷物を持って反対方面からティアを抱えると、エリーが呟いた。


「調べてみたのか?」

「え、ええ。まあ、一応あたしも魔術の先生だし……。でも、さっぱり。結局ヘヴンズゲートの図書館も空振りだったし」


 ぐったりとしたティアを挟んでの会話。

 エリーの横顔は、どこか疲れているようにも見えた。


 サクは例の魔物騒動のあと、エリーが図書館に向かったのを思い出す。

 だが、日輪属性のこととなると、流石のヘヴンズゲートの図書館も役に立たなかったらしい。


 世に存在する七属性中、最も謎に包まれている属性―――日輪。

 歴代の勇者を見ると、多くの者はその属性を有していたそうだ。


 “神話”として語り継がれている“勇者様”の物語。


 サクもいくつか目にしたことがある。

 だがその実、具体性を帯びたものは存在しなかった。

 それゆえに日輪属性について数多の俗説が飛び交っている。


 ある説は、日輪のように虚空に浮かび上がると言った。

 ある説は、日輪のように総てに恵みを与えると言った。

 ある説は、日輪のように万物総てを焼き消すと言った。


 どれが正しいのか、あるいはどれも正しくはないのかまるで判断がつかない。

 圧倒的にサンプル数が少ない日輪属性の者の力は、未だ闇に包まれている。


「ま、本人あんまり悩んでないみたいだからいいけどね」


 ティアを一旦近くの席に座らせ、エリーは財布を取り出してレジに向かった。

 魔術の講師役としてはどうかと思うが、彼女はそこまでアキラが遠距離攻撃について伸び悩んでいることを懸念しているわけではないようだ。


 ただ、サクも、もしかしたらティアも、同じような感想を今のアキラに抱いているのかもしれない。

 すなわち、安堵だ。


 爆発的に、というわけではないが、アキラは順調に力を増している。

 そして精神的にも、少しはタフになっているであろう。


 しかしそれ以上に、最近の彼は“枷”が外れているように見えた。

 あれは何時頃からだったろう。サクの見立てでは、ヘヴンズゲートの事件以降だ。

 現在のアキラの比較対象として、ヘヴンズゲート以前のアキラを思い出す。


 確かに、笑いはしていた。

 確かに、戦闘は―――そうしなければ生き残れなかったという面が強いが―――集中していた。

 だがそれでも、あらゆる事象にどこか興味薄気で―――言ってしまえば不気味だったのだ。

 この1カ月では、何かを察したかのように、ふらっとどこかへ消えることも―――多分、なかったと思う。


 今では遠距離攻撃が使えないという“些細なこと”程度が問題になっている程度だ。


「ううぅ、でもやっぱり情けねぇですよ。あっし、先生なんですよ?」

「お前が努力しているのは知っている。今は風邪を治すこと、だ」

「でもでも、」


 そうこうしているうちに、エリーの清算が済んだ。

 サクは荷物を持ち直し、ティアを抱え起こす。

 エリーも反対側に回り、ティアの腕を肩に回したところで―――


「……?」


 サクは視界の隅に妙なものを捉えた。


 この飲食店の大きなウィンドウ。

 そこから見える大通り、日光を浴びる建物、行きかう人々―――その向こう。

 たった今話題に出ていた人物が、全速力で走っているのが見えた。


「お、おい、あれ、」

「はあ……、ま、ティア。あとで日輪属性のことはまた一緒に考えるから、とにかく宿に戻りましょ」

「な、なあ、2人とも、」

「わっかりました……、とっとと治して……くるくるーっ」

「いや、今あそこにくるくるーっ……じゃない。今、」

「もしかしてティア、酔ってる?」

「だから、あそこに酔っ払い……って、そうじゃない。見えなかったか?」

「なにおぅっ、あっしはシラフでさぁっ」

「ちょっ、話を、」

「初めて酔っぱらい以外でその言葉を聞いたわ……、ほら、歩くわよ? 明日は依頼とか受けなきゃいけないんだから……、大丈夫?」

「……………………、」

「おうさっ、私にっ、」

「任せられるかぁぁぁあああーーーっ!! 話を聞けっ!!」


 並んで歩く中会話の混乱に、サクは大声を張り上げた。

 シン、とした店内で、従業員含め全員の視線が自分に集まっているのを感じ、サクは顔を赤くしながら窓の外を指す。

 一歩間違えば、この手が向かった先は提げた愛刀だったろうか。

 しかしその甲斐むなしく、対象人物はすでに雑踏の中に溶けていってしまった。

 サクの指は道のど真ん中を歩いている人物を代わりに示してしまっている。


 その人物は雑踏の中にあり、しかし頭1つ分飛び抜けていた。


「ど、どうしたのサクさ……、わ、背、高……」

「わわっ、あっしの何倍あるんでしょうね?」

「いや、それは人間としておかしいでしょ……、で、サクさんあの人がどうかしたの?」

「カルシウム採りたいって話ですか? 牛乳とか。でも実は背を伸ばしたいなら……ああっ、別の要件ですかっ?」

「…………もういい」


 いじけながら戻したサクの指は、奇しくも店内全員の視線を集めてしまった人物から外れる。

 もういい教えてやるもんか、とサクは病人への配慮が欠けた速度で歩き出す。


 エリーは僅かに速度を緩めさせながら、サクの気を紛らわすつもりで一言呟いた。


「はあ……、でもどっかにいないもんかしら? 都合良く日輪属性の人間が」


―――***―――


「スライクーーーッ!!」


 その声に、スライクと呼ばれた男は何ら反応しなかった。

 短い白髪に、それとは対照的な金の眼。

 猫のような鋭い瞳を持つその男は、身長2メートル近い体躯を黒いシャツにジーンズと簡易な服に身を包んでいる。

 そして腰には、剣―――いや、大剣。

 刃渡り2から3メートル、幅は40センチ以上。

 まるで彼自身をそのまま剣に置き換えたほどの巨大な凶器を腰に提げ、人の行き交う道のど真ん中を悠々自適に歩いていく。

 その異質すぎる凶器ゆえか、はたまた“戦場を知っている者”の空気がそうさせるのか、誰もが彼を避け、雑踏そのものが彼を避けていた。

 戦闘に疎いものでも、彼を中心に展開した人の輪が、“攻撃範囲”だとでもいうかのように誰も近づいたりはしない。


「スライク!! 聞こえてんなら返事位しろよ? ……てか、お前見つけやすいな」


 その“攻撃範囲”に、1人の若い男が飛び込んできた。

 山吹色のローブを羽織い、1メートル程度の杖を背負った黒髪の男は、呆れたようにスライクの隣に並ぶ。

 彼自身、背が高い方ではないのだが、そこまで低くはない。

 しかし、長身のスライクの隣に並ぶと、一層小柄に見える。


「そうそう、今日の依頼請けてきたぜ?」

 杖の男が、まるで速度を緩めないスライクを咎めるでもなく、いたって軽い口調で語りかける。懐から取り出したのは、たった今酒場で請けてきた依頼書だった。

 橙色の用紙の上隅に、正式文書であることの証明としてシリスティアの翼を模したマークが描かれている。


「何かの話し合いをするらしい。集まるだけで金が貰えるってんだから、流石に金持ちの国は違うな」


 聞いているのかいないのか。スライクは杖の男の言葉に何の応答も返さない。ただ無機質に、猫のような金の眼を携えて街を歩いているだけだった。

 だが、気にせず杖の男は話し続ける。


「何でも、“でかい事件”を解決したいらしい。今日はその顔合わせ。俺たちこの街に着いたばかりだし、たまにはこんな楽な依頼もいいんじゃないか?」

「……でかい事件だぁ?」


 ようやく、スライクが口を開いた。

 漏れたのは、どこかチンピラのような口調。

 そのまま歩く速度を緩めることなく、瞳を流して杖の男が持っている依頼書に向ける。


「ああ、でかい事件だ」

 口を開いたスライクに、別段リアクションも起こさず杖の男は依頼書をひらひらと風になびかせる。


―――丁度そのとき、“人の輪”の向こう、スライクの眼に路地に全力で駆け込んでいく男が見えた。


「…………このクソ暑い中頑張るなぁ、おい」

「おお、若いねぇ」

「テメェも似たようなもんだろ」


 スライクは毒づくと、さらに歩調を上げる。

 実際、先ほどの男は自分たちとそう変わらないだろう。


「あ、待てって!! なあ、さっきの奴剣背負ってなかったか? あの人も来るかもな、これに…………ってまあまあ待て待て。とにかく今日の依頼はこれにしようぜ」

「パス」


 先ほどの男を頭の中から追い出し、スライクは一言杖の男に告げた。

 杖の男は分かりやすくため息を吐き出し、何か言いかけたところで、


「大体、でかい事件っつーのは?」

 スライクが、つまらなそうな口調でそれを封じた。


「いや、受付の人もそれ以上知らなかったし……、依頼書にも、最重要案件としか、」

「てめぇの見立てを聞いてんだよ。マルド」

 マルド、と呼ばれた杖の男は僅かに止まり、次いで出したのはまたもため息だった。

 スライクは猫のような目を鋭くし、


「どうせ見当ついてんだろ? 俺の居場所もすぐに割り出しやがるんだからなぁ」


 苦々しげに呟いた。


 最初にマルドに出逢ったのは―――いや、出逢ってしまったのはいつだったか。

 彼の出身地である西の大陸―――タンガタンザを当てもなく旅して回っていたスライクは、いつからか道中異常な頻度でマルドに出逢うようになっていた。


 どこまでが偶然で、どこからが必然だったのか。

 あるいは、全てが必然だったのか。

 意図せず行動を共にすることになったマルドに、スライクは諦めにも似た感情を抱いていた。

 どうせ誰がいようと、自分は自分の赴くままに進んでいくだけだ。


「男につかれても面白くないって? まあ、俺はお前の近くにいると“妙な事件”が起こるからそれ目当てなんだけど」


 そんなマルドを、スライクは“いかれた情報屋”として認識していた。

 マルドは“旅の魔術師”に分類される人間だ。

 魔術師試験を突破できるであろうに、その知識を妙な事件に好んで向ける奇特者。


 そんな人間には、“奇妙な星の下”に生まれたスライクは蜂蜜の塗られた大木のように見えるのだろう。


「で、ご推察の通り。俺はその“でかい事件”が何なのか察しがついてる」

「かっ、情報伏せてる意味ねぇな、おい」

 当然、そんなマルドの言葉に、スライクは驚きもしなかった。


「俺の見立てでは―――あの“樹海の事件”だ」

「……!」

 僅かに、スライクの表情が変わった。

 別に恐れ慄いているわけではない。

 ただ単純に、必要最小限の情報しか持とうとしない自分でさえ、その事件を知っていたからだ。


「ぱっと調べただけで、似たような依頼が4つはこの近辺の街でも発生している。その上、“国からの依頼”。そんな事件、シリスティアじゃ1つしかない」


 それが、“樹海の事件”。

 どこか重々しいマルドの口調だったが、スライクは興味が薄れてきたのか欠伸だけを返した。


「パス」

「おいおい、スライク?」

「んなくっだらねぇ話し合いに出ろだぁ? 金積まれてもお断りだ」

「いや、まさにその通りなんだけど……、って、生活費どうすんだよ?」

「てめぇはてめぇで稼げ。俺はごめんだね」


 歩く速度を僅かに上げ、スライクは雑踏に輪を作りながら進んでいく。

 後ろでマルドの声が聞こえた気がしたが、構わず“人の輪”を作り続ける。


 そして、これ以上マルドに粘られぬよう、スライクは呟いた。


「“失踪事件”なんざ、巻き込まれる方が悪い」


 雑踏にまみれた小さな声でさえも、“情報屋”たるマルドは拾ってみせただろう。


―――***―――


 はてさて、自分は一体どこにいるのだろう。


 ヒダマリ=アキラは、呼吸を荒げながらも、額を拭って考え込んだ。

 体力に限界が来て緩めた歩調で行くこの街―――パックラーラは、アキラの全く知らない顔を見せ始めていた。

 つい先ほどまで穏やかな街を全力疾走していたアキラが辿り着いたのは、どこか無機質な建物が整列している空間。四角い、倉庫のような白塗りの建物が、隙間5メートルほどで大量に設置されている。

 1つの大きさは、約2、30メートル四方。ひとつひとつに、装飾の一切ない両開きの扉が付いていた。

 随分と広い空間だ。

 それらがずらりと並んでいると、無機質ゆえの不気味さが漂ってくる。

 潮の匂いが届くことが先ほどまでの町並みとの共通点だが、かえって日常に割り込んだ“異物”のように感じられた。


 アキラは鬱陶しくなってきた太陽から逃れるように倉庫の陰に身を潜め、背を預ける。

 背中の剣がガシャリと鳴ったが、もしこれが支えの役割を果たさなかったらそのままずるずると座り込んでいただろう。

 それだけ、足腰が痛んでいた。


「はあ……、はあ……、」


 さて、自分は何をやっているのだろう。

 何となく1人で行動してみて、どことなく街を流離う旅人を連想して格好つけていたつもりだったのだが、何故髪を振り乱してまでこうして汗だくになっているのか。

 情緒不安定になって錯乱したわけでもなく、この広大の世界に身体を任せて駆けずり回ってみたくなったわけでもない。


 ただ単純に、あの商人の視線だけの願いを断り切れなかったのだ。


「はあ……、はあ……、」

 脳にようやく酸素が回り始め、アキラは本来の目的を思い出す。

 自分は、追っていたのだ。

 あの店から商品を盗んで走り去った、小さな影を。


「ふう……、」


 アキラは腕で壁を押し返すように身体を立たせ、視線を周囲に配る。

 ところどころに倉庫でできた十字路ができ上がり、簡単な迷路のようにも思えるこの空間。

 自分が追っていた小さな影が、この場所に走り込んでいったのは間違いない。


「……?」


 倉庫の迷路に足を踏み入れたとき、アキラの鼻孔を妙な匂いがくすぐった。

 潮の匂いとも、埃の匂いとも違う、何かが腐敗したような臭い。

 そういえば、この整列された倉庫の空間は、一体何のためにあるのだろう。


「どわっ!?」


 考え事をしながら歩いたせいか、それとも思ったより足にきているのか、アキラは土の地面に埋まり込んでいた小さな石に見事に突っかかり、転びかける。

 誰にも見られていないが、何とか面目を保とうとして体勢を立て直したアキラだが、十字路に背中に担いだ剣の先が引っ掛かり、そのまま結局転んだ。

 こんなことになるなら出し惜しみしていないで魔力を使って追い掛けるべきだったか、などと思ったところでもう遅い。


 見事にビターンと転んだアキラは、悶々としながら荒い呼吸を繰り返す。

 明日からの朝練では、もう少し走る距離を伸ばすべきかもしれない。


「……だ、大丈夫……?」


 今しがたアキラが通り過ぎた十字路から、幼い声が聞こえていた。

 消え入りそうなほどか細いその声に、アキラはびくりと身体を揺すり、即座に立ち上がる。

 何とか面目を保とうと立ち上がり、自分が転んだこと事態を事実から抹消するかのように、あくまでクールに努めて振り返った。


 そこにいたのは、


「……あの、大丈夫?」

「…………っ、っ、っ!!」


 アキラが追い掛け続けていた、小さな影の正体だった。


「……!」


 びくっ、と身体を振るわせた追尾対象を見て、アキラは両手を上げ、追う気がないことをアピールする。

 彼女も息を弾ませているようだが、情けないことにアキラは走る気力も起きない。

 それで安心したのか、相手はその場で退避体勢を解く。

 ただ、アキラに近づこうとはしなかったが。


 その追跡対象は、小さな女の子だった。

 年齢は、10歳かそこらだろうか。

 色彩の明るい長髪を、首の後ろで縛り、そのまま背中に垂らしている。

 エリーが戦闘時によくしている髪型だが、目の前の少女の髪は子供そのままの手つきで所々あらぬ方向に飛び出し、雑だ。

 もともと癖っ毛のようだ。


 しかし服装は、年相応の子供のものではなく、質素な灰色のワンピース。

 元の世界なら天真爛漫な子供に囲まれつつも、教室の片隅で静かに本を読んでいるようなタイプだろうか。

 そして身体の前にはズタ袋のようなものを守るように抱え、中には布越しに丸い果実が入っているのが分かる。


「…………、」


 こんな子供に、追いかけっこで負けたのか。

 しかも、気遣われもした。

 世界を救うはずの、“勇者様”が。


 アキラは僅かに熱くなった目頭を押さえながら、ようやくゆっくりと口を開いた。


「えっと、それ、盗んだんだろ?」

「……、」

「……いや、それはいいや。どうせあの店の人も、もうそんなに気にしてないだろうし……。ま、でも、盗むってのは、」

「……、」

「…………あの、さ、……えと、」


 アキラは珍しくも、自分が殊勲なことを口にしていると思っている。

 それに、極力子供に話しかけるために口調も選んでいる。

 発言も、ソフトな表現でしているつもりだ。


 だが、何故目の前の少女は、今にも泣き出しそうな表情を浮かべているのか。


「……だって……、お腹、……お腹、空いて、」

「いや、だから、」

「お……、お金……、お金なくて、……うぅ……、」

「わ、分かった、分かったから、」


 ついぞポロポロと流し始めた目の前の子供に、アキラは大きく頭を抱えた。

 まるで叱られた子供が、初めて自分が“悪いこと”をしたのだと認識しているようではないか。

 完全に調子が狂わされる。


 子供の相手は、リビリスアークの孤児院で経験済みだ。

 しかしあそこの子供たちは、どちらかというとクラスの中心ではしゃいでいるようなタイプだ。だからアキラも気を遣わず、むしろ一緒に遊んでいるかのように振る舞えた。

 一応年齢的に比較に出すのは失礼かもしれないが、精神的に似ているティアのような子供相手ならアキラは気兼ねなく一緒にはしゃげる。

 それなのに、目の前の少女は逆。教室の片隅で、本でも読んでいるようなタイプなのだ。

 ちなみに、声の音量もティアとは両極端に位置している。

 泣き出している子供の相手は、自分などよりむしろエリーの方が向いているだろう。


「お腹……、お腹空いて……、」

「だ、だから、分かったって、な?」

「お金、、も、な、なく、なって、い、依頼も……、請けさせて、もらえなくて、」

「依頼……? ―――?」


 そこで。

 アキラの脳裏に妙なものが掠めた。

 今彼女から漏れた言葉はさておき、この感覚は、既視感とでもいうべきか。


 アキラの中には、2つの記憶が内在している。

 1つは、“一週目”の記憶。

 そしてもう1つは、“二週目”の記憶だ。


 “一週目”の記憶は封がされている。

 こちらは、特定の“刻”を刻むと呼び起こされるものだとアキラは認識していた。

 そして“二週目”の記憶。

 詳細総て、というわけではないが、こちらはアキラの記憶に刻まれている。

 もっとも、いずれの記憶にしても、こうして既視感はときおり姿を現す。


 “二週目”のルートから外れている現在、アキラがこうした感覚を味わったということは、この既視感は“一週目”のものだろう。


 この久しぶりの感覚に、アキラは頭を振り払った。

 そんなものに捉われていても仕方がない。

 今問題なのは、相変わらず目の前で涙目になっている少女なのだ。


「え、えっと、俺はヒダマリ=アキラ。君は?」


 気を紛らわすつもりで自己紹介を始めたアキラに、泣き腫らした頬を擦っていた少女は、紅くなった顔を向け、


「わたしは…………、キュ……、キュール……、キュール=マグウェル……うぅ……、」


 アキラがどこかで聞いたような名前を返してきた。


―――***―――


「む」


 エリサス=アーティは、パックラーラに設置された公共施設の中で眉をひそめた。この公共施設は、小さな村でさえほとんど設置されている郵便所だ。


 流石に大きな町のここはその辺りの村とは違い、小麦色の清楚な壁、天井付近にはイミテーションなのか連なったリングの装飾、努めて清潔さを出すように照明に使われている希少なマジックアイテム、十分に広さをとった待合席、さらに建物の奥に仰々しく飾られているシリスティアのシンボルでもある翼を模したマーク、と、そのままホテルにでも変えれば収入が見込まれそうな雰囲気だが―――結局、役割としては他の場所と変わらない。


 あの翼を模したシンボルの下の受付で、郵便物を受け渡しするだけだ。

 シリスティアという場所は、一々外観にこだわる場所らしい。


 そんな壮観な空間で、エリーが受付から受け取ったのは奇妙な着色を施された手紙だった。

 妙に手触りのいいその封筒は、残念なことに緑と紫、さらには黒まで入り混じるという奇抜さが見えている。

 その毒々しい表紙にはこの場所の所在地が記されていた。


 これは、エリーの育ての母―――エルラシアから届いたものだ。

 船に乗る前エリーが出した手紙で、自分たちがこの街にいることは知っていたのだろう。


 受付の妙な視線を浴びながら、エリーは待合席に座り込む。あくまで自分が求めたものではなく、相手が勝手に届けた郵便物であることのアピールをしたいのかもしれない。

 封筒を開けると、同じ色の手紙が飛び出してきた。


「……、」


 エリーはその手紙に目を通す。


 リビリスアークは平和なこと。

 孤児院の子供たちは変わりないこと。

 エリーたちの身を案じるような内容などが並べられ、最後に売れ残った紙を押し付けられ、手紙として使うことにしたと記されていた。

 そういえば孤児院の隣近所に趣味の色が強い雑貨屋があったことをエリーは思い出し、これからしばらくこの奇抜な紙での通信が続くであろうことにため息を吐き出す。

 大量の手紙を郵便で押しつけられなかったのが救いだろうか。


 あれからティアを宿に送り届け、気になることがあると1人で出かけたサクを見送ったエリーは、手持ちぶたさにここに立ち寄ったのだ。

 まさかこんな冒険心むき出しの紙に出遭うとは思ってもみなかったが。

 『混沌』をテーマに作成でもしたのだろうか。だとしたら大成功だ。


 だが、とりあえず、向こうは安泰のようだった。


「……よし、」

 流石に公共の場でこれ以上この紙を見せる気にはなれない。アピールは十分だ。

 簡単に流し読みし、あとで読み直そうと思いながら手紙を仕舞おうとしたところで、


「うわ……、え、なにこれ?」


 そんな声が、受付から聞こえてきた。


 エリーが視線を受けつけに向けると、山吹色のローブを羽織った男が受付で『混沌』に怪訝な表情を向けている。

 黒髪の男の体格は華奢で、エリーより僅かに背が高い程度だろうか。

 男は背中に木刀のようにも見える杖を背負い、受け取った手紙を汚物でも持つかのように指先で掴んでいた。


「ん?」


 エリーが硬直していると、その男と目が合った。

 いや、男はエリーを見ていない。見ているのは、エリーが庇うように持っている『混沌』だ。


 男はまるで未開の洞窟に踏み込むような慎重な足取りでエリーに近づき、こんなことを口にした。


「もしかして、この前衛的な手紙、流行ってたりする?」


―――***―――


 サクは雑踏の中、確かな足取りで歩いていた。


 あの、『賑わっていた』、というよりは『ごった返していた』と表現できたヘヴンズゲートほどではないが、このパックラーラも相当なものだ。昼を過ぎているのというのに、人通りは変わらない。

 観光目的に見える民間人、それをターゲットに商品を歩きながら販売する商人、そしてときおりサクのように武器を携えて街を練り歩く“旅の魔術師”と、様々な種類の人間がいる。


 確かにここ、シリスティアは、色んな人間が集まる大陸であろう。

 世界地図の下方を十字架で占領するように展開しているこの大陸は、そんな形なのに途方もないほど広い。

 治安も良い方だ。国や地方の村々が躍起になって駆除を行っている結果だろう。

 魔物たちも“最弱”の大陸―――東のアイルークほど弱くはないが、そもそも数が少ないのだ。

 何しろ自分たちは、北の大陸―――モルオールの目前にいたというのに、わざわざ進路を変えてシリスティアを目指したくらいなのだから。

 そしてその治安の良さからか、魔物たちに作物や自然を破壊されることなく、四季の移ろいを感じられる大陸を演出している。

 1番層が厚い中級者たちの魔物討伐にも、一般人の観光にも、シリスティアは打ってつけ。

 そしてその入り口たるこの港町は、数多の人で溢れるのだろう。


 だが、そんな群衆の中でも、サクは一際目立っていた。


 凛とした容姿、といった女性としての魅力もさることながら、何よりもいで立ち。

 紅い着物を羽織う、という服装の部分は色んな種類の人間の中にいれば意外と溶け込める部分があるが、腰に身の丈ほどもある長刀を携えていれば話は別だ。


 アイルークではそこまで注目を集めなかったが、物見遊山の観光客が集まっているとなっては、サクは自然と浮足立った視線を集めていた。


 そんな周囲の視線をどこかくすぐったく受けながらも、サクは目的地点に到達し、歩調を緩める。

 ここは、先ほどアキラが駆け込んでいった路地だ。


 大通りから路地に入り込むと、背の高い建物が作り出した影が空間を支配していた。

 幅数メートルのそこは、路地というより建物の間と表現した方がいいかもしれない。

 狭いそこには、誰かが蹴飛ばしたのか一抱えほどの樽が転がり、中のごみを散乱させている。

 そして路地の向こうには、再び大通りが見えた。だがそれでも、全力疾走で駆け込んでいくほどの魅力はなさそうだ。


 あのときアキラは何を思って走り続けていたのだろう。誰かに追われていたようにも見えなかったが。


「……、」


 一瞬、サクの脳裏にアイルーク大陸で出逢ったばかりのアキラの姿が掠めた。

 操られた―――と、表現するべきだろう―――自分から逃げ、彼は訳知り顔で問題の所在地に駆け出していったことがある。

 その行動を、アキラは“隠し事”と表現していた。


 頻繁に起こる妙なことと、アキラの“隠し事”。

 また、何か妙なことでも起こっているのだろうか。


 考えこもうとするも、サクは過敏になり過ぎだと頭を振り、路地を進む。

 抜けた先は、やはり大通り。小奇麗な通りと、賑わう商人や観光客。今来た道と同じような風景が並んでいた。


 やはりアキラはいない。

 いや、例えいたとしても、人々の波に紛れ発見できないだろう。

 アキラの軌跡を辿れば、思ったよりもあっさりと、あの男が姿を現すような気もしていたのだが。


 サクは面白くないものを感じ、ほとんど勘で右に曲がる。

 果たして、アキラを発見できるだろうか。

 こんな、“彩り溢れるという平坦な世界”で、人間1人見つけるというのは至極困難だろう―――


「……?」


 しばらく進んで、サクは眉をひそめた。

 周囲の人々の様子がおかしい。というより、人の波が不規則になりつつある。

 サクに向いていた人々の興味は薄れ始め、徐々に別の1点に注ぎ始めていた。

 自然と、サクもその視線を追う。


 すると、


「……、」


 見えたのは、人の波から頭一つ飛び抜けた短い白髪。

 アキラを窓越しに見かけたときに、近くを歩いていた長身の男だ。


 人々は視線を向けつつも、それから逃れるように掃け始める。

 道の中央を歩いていたサクの前にいた人々がいなくなり、サクと“人の輪”を遮るものが無くなった。


「……!」


 “人の輪の中心”に正面から向かい合い、サクは分かりやすいほど目を見開いてしまった。

 先ほどから見えていた白髪に、健康色の肌。サクも女性の中なら長身の方だが、その男はサクより遥かに背が高い。

 2メートルほどの背丈に、逞しい筋肉。だがそれも、がっしりと、というよりは動きを阻害せぬよう必要最小限が備わっているような理想的な身体つきだった。

 そしてその高さから周囲を睨みつけるような、猫のように光る金色の眼。


 しかし、サクが最も注目したのはそこではない。

 今彼女が視線を向けているのは、その白髪の男の腰に下がった、長い長い大剣だった。

 鞘越しにも分かる、分厚い大剣。“壊れないこと”を追求すると、ああいった形状になるだろう。人の手に収めるために造られたとは思えないその大剣は、当然どこの武器屋でも見たことがない。

 重量もかなりあるはずのそれを、まるで小枝でも扱うように腰に差し込み、男は悠々自適に歩いていた。


「……あ?」

「……!」


 必然。

 道の中央を歩いていた2人はかち合った。

 男からは柄の悪さそのままの声が漏れ、周囲からは興味とも恐怖ともつかない視線が投げかけられる。


「……、」

 サクは僅かに歩調を緩めたが、男は構わず、ずんずんと進んでくる。

 一瞬、男の猫のように光る金色の眼がサクの愛刀に向く。

 それだけで、まるで盗賊が獲物を見つけたような空気が流れ、サクも視線を強めた。


「……、」

「……、」


 だが、それだけだった。


 サクが僅かに進路を逸らし、男はそのままの速度で、互いにすれ違う。

 通り過ぎたのち、サクは僅かに振り返った。

 男の目的は、この道の先にある酒場だろう。依頼か何かで用でもあるのかもしれない。

 恐らく、彼は“旅の魔術師”だ。あの出で立ちで、民間人でした、とは絶対にならないだろう。

 だがそれ以外にも、サクは何故かあの男に妙な“空気”を感じていた。


 その温床を探るべく、サクはその場から男の大剣を眺め続ける。


「…………“タンガタンザ製”、か……?」

 サクは最後にそう呟き、アキラを探すべく歩き出す。


 サクも、白髪の男も、そのまま振り返りもしなかった。


―――***―――


「…………はい」

「……あ、ああ、ありがとう」


 キュールと名乗った女の子に渡された盗品の果物を、アキラは思わず受け取った。

 建物が整列させられている無機質な空間に2人して腰を下ろしながら、アキラはぼんやりと空を見上げる。

 四角く切り取られた空を見ながら、ようやく泣き止んでくれたキュールに安堵しつつ、アキラは思う。


 自分は、何をやっているんだろうか。


「…………食べないの?」

「……いや、ま、まあ、これ、お前のだろ?」

「ううん、思わず2つ持ってきちゃったけど、わたしは1つでお腹一杯」


 キュールはそう言って、果物を取り出したハンカチで拭き始める。

 手のひらサイズでリンゴのような形状のそれは、丸かじりできるのだろうか。アキラは見よう見まねに服で果物を拭き、かじりついてみた。

 新鮮そのものの歯応え。全力疾走直後だからか、瑞々しい甘い果肉が喉を良く潤す。

 キュールは果実を両手で掴んで行儀よく食べ始めている。


「これで俺も同罪か……」

「う……、ご、ごめ……、ごめんなざい……、」

「いや、いやいや、違う、そうじゃないって、てか上手いなこれっ、いや、いいセンスだ」


 途端泣き始めそうになったキュールに、アキラは身振り手振りまで使って落ち着かせようとする。

 非常にやりにくい。

 アキラは確かに女性には弱い男だ。

 だが、流石に“とある小説のタイトルが由来の栄誉ある存在”というわけではないため、小さな子供相手にはおろおろとすることしかできない。


 一応、アキラには“人を惹きつける”日輪属性のスキルというものがあるはずだというのに。

 だがもしかしたら、惹きつけて“これ”なのかもしれない。


「えっとさ、ここって、どういう場所なんだ?」

「……え? う、えっと、倉庫、みたい……。船の荷物とか……、いろいろ」


 何とかキュールを決壊させずに済んだアキラは、そのあまりにか細い声を必死に拾い、何となく周囲を見渡して見る。

 不気味なほど規則正しく並んでいる四角い建物たち。

 これだけ数があるということは、それだけ色々な種類の荷物が区分けされているのだろう。

 そして耳を澄ますと、波の音が聞こえてきた。

 どこだか分からない場所に来てしまったが、もしかしたら海に面しているのかもしれない。


「最初は……、ここから貰おうと思ったのに……、開かなくて……、」

「…………、」


 それは、どこから食糧を確保するか、という話だろうか。

 キュールがここにいるのも、倉庫の中の食料を求めて最初にここに来たからなのかもしれない。

 さらりと出てきた強盗前提のキュールの言葉に、アキラは頭を抱えながらも建物を再度見た。

 質素な造りのわりには、両開きの扉は厳重に鍵がつけられている。


「はあ……、それにしても何で食べ物欲しかったんだ?」

「う……ご、ごめ、」

「いや、それはもういいから。お前、親とかは?」

「…………、」


 キュールが返してきたのは、長い沈黙だった。

 そして、アキラは地雷を踏んだ気がした。


「い……、いない……、いない、から……、お、お金も……、なくなっちゃって……、わたし、わたしは、」

「わ、分かった、もういいから、悪かった」


 やはり地雷だったようだ。

 この世界の詳しい情勢などアキラには知る由もないが、やはり魔物がはびこる世界。

 リビリスアークという小さな村で孤児院が成り立っていたのも、“そういう事情”の子供が多いからなのだろう。


「そうだ。孤児院とかには、」

「いやぁ……だ、そんな場所……、行きたく……な、ない、」

「でも、普通は、」

「やだぁ……、」


 孤児院の利用を促しても無駄だろう。

 アキラは即座に口を紡ぐ。もう一度泣き出されたら、今度こそなだめる自信がない。


「で、でも……、依頼……、依頼、も、請けさせてもらえなくて、」

「……? そだ、さっきも言ってたけど、依頼ってあの依頼か? 魔物討伐とかの……、って、お前、そんなの、」

「が……、がんばる……、」


 キュールから返ってきた言葉に、アキラは絶句した。

 こんな子供が、あの危険な魔物討伐など行えるとは思えない。

 この年齢でそんなことができる人間など―――恐らくはその年ごろから才能が開花していたであろう“あの天才”が脳裏に一瞬浮かんだが―――存在しないとアキラは思う。


 だが、キュールに親はいない。

 一人身で、この世界に放り出されているのだろう。こんな子供を引き取ってくれる家庭も、雇ってくれる店も早々見つかるはずもない。

 孤児院行きたくないと言っている以上、生き残る道はそれしかないのだろうか。


「お前さ、いくらなんでも考え直した方が、」


 常識的に無謀だ。

 こんな子供に、できることなどありはしない。


 アキラがそんな意味合いも込めて、言葉を紡ごうとしたとき、


「“それ”が……、」


 キュールから、さらにか細い声が漏れた。


「“そんなの”がいやだから……、わたしは1人でがんばる……」


 一瞬。

 キュールからある種“敵意”のような空気が発された。


 まるで、自分のことなど誰も分からないとでも言いたげな。

 まるで、子供が大人に反抗するような。


 そんな、“敵意”が。


 すると、この無機質な空間が、どこか彼女の聖域のような錯覚に陥った。

 まるで子供の秘密基地に入り込んでしまった大人のように、“世界”が自分を異物と捉えているような感覚がアキラを支配する。


「……じゃ、じゃあ俺、そろそろ行くけど……、大丈夫か?」


 その、空間に反発されるような感覚を味わい、アキラは立ち上がった。

 キュールは俯いたまま、顔も上げない。

 『大丈夫か?』などという言葉も、大人が子供の世話に面倒になってその場を離れるときに使う定型文のようなものだ。

 キュールも、そしてその言葉を使ったアキラも、どこかその意味で受け取っていた。


「大丈夫……だから、わたしはもう少し、ここにいる」

「…………そ、そっか」


 アキラは窃盗を止めるようには促さず、キュールに背を向けゆっくりと歩き出した。

 無機質な倉庫たちは、去る者を僅かにも引き留めない。


 子供と意見が完全に別れたと思ったのは、初めてかもしれなかった。

 自分がキュールの歳の頃、一体どんな想いを持っていただろう。


 世界の常識に反発し、反発していることが分かっても、なお考えを変えなかった。

 しかしいつの間にか流れに巻き込まれ、その想いも磨り減っていく。


 残ったのは、“幼少時代の大事件”。

 それがもたらした、自分の小さく愚かな想いだけ。


 それもいつか、無くなる日が来るのかもしれない。

 もっとも、それより早くアキラの“リミット”は来るだろうが。


 しかし、それにしても。

 “常識”という前置きをつければ、理由がいらなくなったのはいつからだったろう。


「こんなところにいたのか……!!」

「……!」


 整列された倉庫から出ると、見知った顔が近づいてきた。

 遠くからでも分かる紅い着物を羽織ったサクは、どこか疲れたように歩み寄ってくる。


「サク? なんでここに?」

「…………散歩、だ。ま、まあ、一応お前が走っていたのは見ていたが」

「1人か?」


 聞くまでもなく、サクの他の面子は見えない。

 サクは軽く周囲を見渡し、眉をひそめた。


「なんだ……? ここは」

「倉庫らしい。船で運ぶ荷物を保管してんだろ」


 駆け込んだときには気づかなかったが、倉庫の向こうには海が広がっていた。

 海岸を埋め尽くすがごとく広がる倉庫の群れが、無機質に整列し、丁度長方形を形作っている。

 遥か遠方の海岸沿いには港が見えた。

 随分と巨大な面積を占める保管所だ。

 がむしゃらに中に入ったときは、ここまで広範な場所だとは思っていなかった。

 しかしアキラはそれを一瞥しただけで、すぐに歩き出す。


 サクは怪訝な表情で倉庫を眺めていたが、すぐにアキラについてきた。


「アキラ。お前は一体何をしていたんだ?」

「……別に」


 アキラは、サクにも倉庫にも振り返らず、小さく返した。


「子供に嫌われただけだよ」


―――***―――


 山吹色のローブを纏った黒髪の男は、マルド=サダル=ソーグと名乗った。

 エリーより僅かに高いだけの背丈のマルドには、姉がいるそうだ。

 その姉は、とある村の孤児院で働いているらしく―――セレン=リンダ=ソーグというらしい。


「じゃ、じゃあ、君が入隊試験で“やらかした”……」

「やっ、止めてっ、その話を思い出させないで……!!」


 郵便施設の待合席。

 小さな丸いテーブルを挟んでマルドの正面に座るエリーは、頭をかきながら悶絶した。


 世界というのは思ったよりも広くないらしい。


 エリーの脳裏に、セレンという女性が思い起こされる。

 凛とした表情に眼鏡が光る、鉄面皮にも近い表情。

 黒髪をトップにまとめ、常に規則正しく給仕かがりの格好を崩さない彼女は、エリーの魔術師試験の家庭教師でもあった。


 マルドは、彼女の弟だというのだ。

 セレンがときおり“旅の魔術師”をしている優秀な弟がいるという言葉を口にしていたのを覚えている。

 だがまさか、こんな所で出逢おうとは。


 まあ、互いに旅をして、大きな街にいれば出会うことがないわけではないだろう。

 問題なのは、目の前のマルドがセレンと定期的に手紙のやり取りをしていて、その話の種に生徒の入隊式でのハプニングを持ち出していたことだったりする。


「しっかし、異世界から来た“勇者様”か……、エリサスさん良かったじゃん。上手くいけば玉の輿に、」

「その話を掘り下げないで下さいそれにあいつはそんな崇高な存在じゃないそれとエリーでいいです」


 一気にまくしたて、エリーは再びガシガシと頭をかいた。

 その様子に目の前のマルドは危険な存在を見るかのような目を向け、不気味な色の封筒でわざとらしくパタパタと自分を仰いだ。

 その奇妙な手紙が、エリーとマルドを結び付けた要因でもある。

 リビリスアークの孤児院―――もしかしたら村全体で、その手紙が流行っているのかもしれない。


「でも、何か懐かしくなってきたなぁ……、今度行ってみようかな、リビリスアークに」

「そういえばマルドさん、セレンさんに会いに来たことないですよね?」

「ん? ああ。あの人もあの人で色んな職場回ってるような人だし」


 セレンがエリーの家庭教師になったのは、1年ほど前だ。

 それより前のセレンがアイルーク大陸を転々としながら仕事をしていたことは知っていたが、そこまで詳しく聞いた覚えはない。

 “旅の魔術師”とはまた違った旅人だが、それをするためにはどの職場にでも対応できるほどの有能さが求められるだろう。

 ある意味、“旅の魔術師”より高度な存在なのかもしれない。


「でもあの姉が、生徒がいなくなっても同じ場所にいるとはね……。今の職場、随分と気に入っているみたいだ」


 弟の口からそう聞くと、エリーはどこか嬉しかった。あまり感情を前に出さないセレンは、あの場所に好んでいてくれたらしい。


「最近の手紙なんて酷いんだぜ? 弟のことより君のこと心配してるし……。君からの自分宛の手紙が来なくなったとかで愚痴言ってるし……、あ、見てみる?」

「い、いや、いいです」


 他者宛ての手紙を見るというのも反則だろう。

 セレンが自分を気にかけてくれていることが分かっただけでも十分だ。

 事務的な返信しかしてこない彼女への手紙は、迷惑なのかと極力渋っていたのだが、今後は気にせず2人に手紙を出せる。

 もっとも、あのセレンが自分宛の手紙が来なくなったからという程度でいじける姿は想像できなかったが。


「……あ、やば。さってと、」

「?」


 エリーが想像力を含ませていると、マルドは何かを思い出したように立ち上がった。


「悪い。俺これから行かなくちゃいけないところがあるんだ」

「え? じゃ、じゃあ、あたしもこれで、」

「…………ん、あ、待った。君、これから暇?」

「…………、……?」


 エリーも立ち上がろうとしたところで、マルドは何かを思いついたような瞳を向けてきた。

 遅れて認識できたその言葉に、エリーはぴくりと身体を震わす。


 まるで、ナンパのようではないか。


 正直なところ、エリーは自分が“美”の分類に入ると思っている―――思っていたい。

 打倒魔王を志す旅の中でも、容姿やスタイルには気を遣ってきたつもりだ。

 しかし、サクというベクトルの違う美容姿の女性や、天真爛漫に輝かんばかりの笑顔を浮かべるティアに囲まれ、その上唯一の異性のアキラは誰かれ構わず色香に惑わされているような気がするし何を考えているか分からない。そんな環境の中、何となく、自信がなくなり始めたりしていた。


 だが、ここにきて、これだ。

 自分の努力が認められているような気がする。

 エリーは一瞬でそこまで思考し、しかしどこか後ろめたさそうに周囲を見渡したのち、マルドに言葉を返した。


「ひ、暇、ですけど……、」

「お、よかった。お金稼ぎたくない?」

「……!!」


 エリーの身体は今度こそ分かりやすくびくりと震えた。


 まさか、“こっち”だったとは。

 マルドからは―――悪いとは思うが、セレンの弟といっても、むしろ対極の軽薄そうな雰囲気が感じられていた。

 それが今は、夜の裏道を歩いていると現れそうな怪しい商人のように見えてくる。


 自分の容姿が他者から認められるのはいいが、超えてはならない一線が見えてしまった。

 思わぬ貞操の危機を感じたエリーに、マルドは続けてこう付け足す。


「いや、大したことじゃない。座ってるだけでいいし……、それで金になるんだからちょっとだけ時間使っても大丈夫でしょ?」

「あ、あ、あ、」


 エリーは震えながら1歩後ずさった。

 近くで聞き耳を立てていた者からは怪しげな色の封筒を持った男が女性に迫っているように見えているのだが、誰も割って入ろうとしてこない。


 エリーは、自分の小さな世界がガラガラと崩れていくのを感じ、それでも足は金縛りにあったように動かなかった。


「……………………もしかして、変なこととか考えてる?」

「……へ?」

「姉からも聞いていたけど……、エリサスさんは結構考えちゃうタイプだな……」

「……?」


 事態が分からず口を開かなかったエリーに、マルドはどこか呆れたように呟いて、ローブの中から別の用紙を取り出した。

 不気味な色の封筒とはまるで違う、質感のある橙色のそれは、公的文書によく使われる紙だ。

 エリーもときおり、比較的大規模な魔物の討伐の依頼で目にしたことがあるし、何より魔術師試験の合格を届けてきた手紙もその紙が使われていた。


「依頼だよ。何かの話し合いをするだけで報酬が貰えるんだ。丁度2人分で申請したんだけど、もう1人がパスして余ってるんだよ」


 エリーは走り続けていた自分の思考に、自らの髪のような顔色を浮かべた。


―――***―――


「ちゃおっ」

「嘘だろ……、マジでお前また風邪引いたのか……!?」

「…………ちゃおぅ」


 宿屋に戻ってきたアキラは、力なさげに上げられた手に迎えられた。

 ベッドに横たわったティアを見て、アキラは脱力しながらベッド脇の椅子に座り込む。


 2人だけの部屋は、窓から差し込んでくる紅みがかった日光に染められていた。

 折角今日は休みだというのに半分以上ベッドの上で過ごすことになったというのか、この娘は。


「そういや病気って、魔術じゃ治せないのか?」

「ん~っ、相当難しいと思いますよ? 具合が悪いってだけじゃ風邪なのか体調不良なのかもわからないですし……、それに風邪って言ってもいろいろ種類あるらしいじゃないですか」


 そう言われれば、そういうものなのかもしれない。

 アキラはかつて『病気の治療は無理』と言っていた少女を思い出す。

 目に見えて分かりやすい怪我などは治療することができるのかもしれないが、身体中を侵食するウィルスが原因となってくると、それだけ処置は煩雑になる。

 その少女から『魔力不足』と『身体への負荷が大き過ぎる』と大雑把に説明を受けた気がしたが、それにはそういう意味も含まれていたのかもしれない。


「……あれれっ? そういえばアッキー、残りのお二人は?」


 思考の渦に呑まれ頭が痛くなってきたアキラに、ティアの軽い口調が届いた。

 どうやら大分回復しているようだ。


「サクは何か気になることがあるとかで出かけてった。多分武器屋とかだろ。……あいつは知らない」

「まあ、休日ですからやりたいこともあるんでしょうね」

「その休日にお前は何してんだよ?」

「たはは……、お付き合わせして申し訳ありません」


 ティアはかけ布団を僅かに引き寄せ、気まずそうに笑った。その仕草は、やはり大人に叱られた子供のように見える。

 そこで、アキラの脳裏に先ほどの光景が過った。


「……子供の気持ち、ね」

「? おや? アッキー何かお悩みですか?」


 思わず口から零してしまった言葉を、ティアは律儀にも拾ってきた。


「いや、何でも……、てか、お前は寝てろよ。俺はもう行くから」

「いやいやいや、大丈夫でさぁっ、……さあさ、ご相談なら承りますっ」


 彼女の場合、黙り込んで眠っているより誰かと話している方が元気を出せるのかもしれない。僅かに身体を起こしたティアの目は少しだけ輝いている。

 『人助けをしたい』と言っていた彼女は、こんな状況でも変わらないらしい。

 アキラは僅かに戸惑いながら、言葉を吐き出した。


「……なあティア。お前の気持ちが分からない」

「…………アッキー。今のあっしの気持ちは、その言葉の意味が分からない、です」

「いや、そうじゃなかった……、そう、子供の気持ちが分からない」

「…………アッキー。今のあっしの気持ちは、胸がチクリと痛みました、です」


 ティアは僅かにむくれたような顔を作ると、アキラの言葉を促した。


「いや実はさ、さっき子供に会ったんだよ。ちっちゃい子供。親いないらしくてさ……、でも、孤児院とかに行きたくないって―――、!」


 言葉を続けようとして、アキラは思わず口を噤んだ。

 カラカラ笑っているティアを前にすると、どうしても忘れてしまう。

 彼女もまた、本当の両親を失っているらしいのだった。


「うぅ~ん、あっしの場合はお父さんとお母さんがいましたからねぇ……」


 しかしティアは、そんなアキラの懸念も気にしていないように、うんうんと唸り始めた。


「まあでも、エリにゃんには悪いですけど孤児院って聞くと結構恐いイメージがあります。思いっ切り環境が変わっちゃうのもありますけど、そこに入ると“入ることになった原因”を認めちゃうみたいで」

「…………そういうもんか?」

「そういうもんですよ」


 そう言われても、アキラの知っている孤児院の子供たちは明るく笑っていたような気がする。

 だがそれは、あくまで自分が途中から参加しただけであって、預けられた当初の子供たちを見たわけではない。

 もしかしたら、あの子供たちは孤児院に入ったばかりのときには、自分は今後笑うことができないと思っていたかもしれなかった。


「でもさ、だからって10歳くらいの子供だぜ? 依頼で稼ぐとか言ってたけど……、」

「おおっ、チャレンジャーですねっ、世間の荒波にも負けずっ、……見習いたいもんですなぁ……」

「……!」


 そこで、ティア―――“子供”の決定的な考えの違いに気づいた。

 子供は“世間の厳しさ”というものを、“知らない”、ではなく、“経験していないのだ”。


 無謀だと言ったアキラという大人に対し、どこか敵意のようなものを向けてきたキュールという子供。

 彼女はまだ、“自分”が“世間に通用するか”どうかを経験していない。

 ただ単純に、“大人”が無謀だと言っているだけで、“自分ができるかどうかを試していないのだ”。


 大人は様々なことを経験し、世界の“流れ”がどれだけ残酷なものかを理解し始める。そしてその経験を、子供に伝えようとするだろう。


 しかし子供からしてみれば、自分の“挑戦権”を奪われているような錯覚を起こす。

 すなわち、“自分には無理だと勝手に決められている”、と。


 往々にして“変化”とは、そうした“流れ”に逆らう者から生まれるというのに、だ。


「……そういうもんか」

「そういうもんですよ」


 今度のその言葉は、アキラにすんなり入ってきた。


 何かをやろうとする自分に、“経験者”が無理だと言ってきたら、確かに納得できないだろう。

 自分もまだまだ胸を張って“大人”とは名乗れないようだ。

 この世界で少しくらい成長して、少し大人ぶってみたかっただけなのかもしれない。


「ありがとう。何かすっきりした。やっぱこういう話はティアが1番だな」

「お役に立てたようで幸いです。…………ただ、あっしはあれですよ。大人ですよ。…………そしてアッキー、ここ笑うとこじゃないですよ」


 馬鹿な理由で風邪をひいているティアは、それでもむくれたような表情を向け続けてきた。


―――***―――


 蒼く、蒼く、蒼く。

 碧く、碧く、碧く。

 紅く、紅く、紅く。


 太陽が沈みかけたシリスティア北の大陸は、その総てを内包していた。

 穏やかに揺れるさざ波や、生い茂る草原。それらが夕焼けに染められて、かえって非現実的な風情を醸し出している。


 街からは、人々の平和な喧騒。海からは、寄せては返す波の音。草原からは、山から吹き下ろされる風に揺れた植物たちが奏でる音色が聞こえてくる。


 その、草原の中心。

 パックラーラを見渡せる大草原に、ポツン、と影が落ちていた。


「…………、」


 決して皮膚を露出しないように黒いローブを頭からすっぽりと被ったその影―――“その存在”は、そのローブを風に揺らし、ただただ静かにその街を眺めて―――いや、“睨みつけていた”。


「潰す……、潰す……、絶対に……、絶対に……、」


 漏れたのは、野太い男の声。

 独り言というものが自らを抑制させる意味を持つというのなら、この言葉はその意味を完全に失っているだろう。

 繰り返されるその囁きは、一言ごとに、“その存在”を荒ぶらせていく。


 壮大な大自然。

 “その存在”の足元には、風に揺れる草木。

 見上げれば見える遠方の山々は、封鎖的ではなく、むしろ世界の広がりを感じさせる壮観な景色。


 その世界のただ中で、“その存在”は、ひたすらに憎悪を肥大化させていく。


 そもそも、その存在からすれば。

 “山程度のものを見上げている現状”がどうあっても許せないのだから。


 ギリ、と。

 フードから歯ぎしりが漏れた、そのとき―――“止まった”。


 あれだけざわついていた草原が硬直し、風に吹かれても微動だにしない。

 残ったのは、遠方のさざ波と、男の歯ぎしり。


 その足元は、濁った黄色に輝いていた。


―――***―――


 てくてくてく。

 足音三つ、聞こえてくるよ。

 てくてくてく。

 足音三つ、元気に歩く。

 てくてくてく。

 足音三つ、だんだん早く。

 てくてくてく。

 足音三つ、駆け出した。


 てくてくてく。

 足音二つ、聞こえてくるよ。

 てくてくてく。

 足音二つ、急いで走る。

 てくてくてく。

 足音二つ、どんどん速く。

 てくてくてく。

 足音二つ、震え出す。


 てくてくてく。

 足音一つ、聞こえてくるよ。

 てくてくてく。

 足音一つ、怯えて走る。

 てくてくてく。

 足音一つ、だんだん遅く。

 てくてくてく。

 足音一つ、とうとう止まる。


 疲れちゃった? はい、捕まえた。

 も~う、おしまい。

 足音一つも聞こえない。


―――エリーはその“童歌”を聞いて、状況把握がまるでできなかった。


 街の外れに設置された公共施設。

 もともと何かの話し合いをするためだけの場で、質素な建物には20人ほどはゆうに話し合える会議室が1階2階と合わせて8部屋ほどあるらしい。


 郵便所で出会ったマルドという男に連れられてエリーが到着したのはその一室。

 天井近くに四角く切り取られた窓から夕日が指し込んできている。

 そんな部屋の中央には細長い机が四角形を形作り、旅の魔術師と思われる人間が10人以上は集まっていた。

 それぞれがローブやら戦闘服で身を包み、中にはエリーも見たことがないような武具を背後の壁に携えている者までいる。


 エリーとマルドは入ってすぐの椅子に座り、そんな多種多様な人々と顔を合わせていたが、一番奥に座っていた男が時間と共に“唄い出した”。


「……さて」


 唄い終わった一番奥の男は、深刻な表情を浮かべて机に肘をついた。

 歳は40代後半、だろうか。

 白髪交じりの肩ほどまでの髪に、机まで届きそうなほどの長い髭。皺がくっきりと刻まれた顔と、身体に纏った紺のローブは“その道”の年季をうかがわせている。

 自己紹介も行われていないが、エリーには何となく、その髭の男が魔道士の資格を有しているように感じられた。


「今の唄、聞き覚えのない者などおらんでしょう」


 重厚な口調が髭の男から漏れた。

 突拍子もなく童歌などを唄い出したというのに、その表情は真剣そのもの。

 前置きなしに“話し合い”とやらを始めているその男は、『この状況の変化についてこられぬ者は不要』とでも言いたげだ。

 ポカンとしている若い男や、奇異の瞳を向けている女性を、彼は最早視界にすら入れていなかった。


 そして、誰しもが口を紡ぎ、黙り込む。

 この空気を一瞬で創り出したのは、間違いなくあの髭の男だ。


「……有名な唄、ですよねぇ。色んな地方で替え歌とか流行ってるし」


 しかし、1人、口を開いたものがいた。集まった者の中で、初めて口を開いたのはマルドというエリーをこの場に連れてきた人物。

 エリーの右隣の椅子に深々と座り込み、威圧感のある髭の男にまるで世間話でもするかのような軽い口調で言葉を返す。


 エリーは居たたまれなくなって、居住まいを正した。

 ここに来るまで、エリーはマルドから最小限の情報しか与えられていない。


 “話し合い”だけで報酬が貰えるこの依頼。

 何でも、国からの公式なものだそうで、内容は『何かの事件を解決する』というだけで、詳細は不明とされていたらしい。

 本日は休みと決めていたエリーも、船の運賃が痛かったこともあり参加を決めたのだが、まさかこんな重苦しい会議だったとは思っていなかった。


「君、名前は?」

「……。マルド=サダル=ソーグ」

「……ん」


 髭の男は、手元の用紙に何かを書き込んだ。エリーにはそれが、面接試験のように見えた。


「……さて。私の名前はロッグ=アルウィナー。シリスティアのコーラス地方担当の魔道士だ」


 髭の男は、まるでたった今名乗る必要ができたかのように、ようやく名乗った。

 ロッグはその皺が刻まれた顔をマルドだけに向けて言葉を続ける。


「本日集まってもらったのは他でもない。今の童歌のことだ」


 先ほどの“呪いの童歌”。

 エリーも当然知っていた。

 リビリスアークの近くでも、その替え歌が作られていたほど有名なものだ。


 だから。

 だからこそ、エリーは“状況把握ができないのだ”。


「“事前に内容を察していた者”がいるようだから手短にいこう。今の童歌と、それに“縁のある事件”を知らない者などそうはいない」


 旅の魔術師の誰かから、小さな声が漏れた。

 エリーだったのかもしれないし、あるいは別の誰かだったのかもしれない。

 ただ少なくともエリーは、ロッグと名乗った魔道士の言葉で、この“話し合い”の内容を察した。


「我々が解決しようとしているのは、“大樹海の失踪事件”」

「……!」


 察していた上で、しかしエリーは未だに“状況把握ができていなかった”。


 “大樹海の失踪事件”。

 その事件を、エリーは当然知っている。魔術師試験の中にも、そうした大きな事件に触れる“歴史”のような科目があったほどだ。

 “とある地方”で、数百年前から続いているという伝説級の事件。

 その継続年数から、一説には“魔族”が絡んでいるとまで言われている。


 だから、むしろ“そんな伝説に挑むという発想さえしていなかった”。


「…………その大樹海―――アドロエプスは、シリスティアの大陸を大きく占めるほどだ。封鎖しようとしても、必ず漏れが出る。その上封鎖しようとした魔術師まで襲われたりすれば、元凶を叩くしかない」

「ま、待って下さい。なんでそんな事件を今さら?」


 淡々と話を続けていたロッグを、若い男性の魔術師が遮った。

 ロッグは僅かに顔をしかめ、


「君、名前は?」

「……? リグル=ラシールですけど……」

「……ん」


 再び、手元の紙に何かを書き込んだ。


「……さて。今さら、と言われても、我々は今までもいくつか案を出していた。最早伝説の事件といっても対処しなかったわけではない。具体的には封鎖などで事件を未然に防ぐことだが……、今回は“解決”をするつもりだ」


 つまり、守りから攻めに変えようとする、ということだろうか。

 エリーはロッグの言葉に、目を細める。


 未だに頭の中の切り替えができていない。

 事前情報も特になく、ただ集まっただけのこの場でいきなり“伝説”の話をされても普通戸惑うだけだ。


 もしかしたらロッグが先ほどから手元の紙に何かを書き込んでいるのは、切り替えができているかいないかの区分けをするためなのかもしれない。

 何せ、この場にいるのは話し合いだけで依頼料が貰えるという、うたい文句に連れられて集まった面子なのだ。


 ようやく、エリーもこの話し合いの“ルール”が読めてきた。

 先ほど直感的に思った通り、あのロッグは試験管なのだ。


 今回は“話し合い”と言っている以上、次は“本番”の依頼が行われると考えられる。

 おざなりな依頼なら有象無象の群れで何とかなるかもしれないが、今回の対象は“アドロエプスの失踪事件”。

 余計な被害を防ぐためにも、どこかで“ふるい”をかける必要があるのだろう。

 この“話し合い”で“合格”した者だけに、本番の依頼を受ける“権利”が与えられるのかもしれない。


「……、」


 この場に参加した以上は、と、エリーは真面目にも頭を働かせ始めた。


「“解決”しよう、ね……。今まで触らぬ神に祟りなし、って感じだったのに……。こりゃ国の内部で政権交代でもあったかな」


 エリーが思考を進めようとすると、隣のマルドが小さく囁いてきた。


「そもそも、“旅の魔術師”に公的な依頼が来るのもシリスティアじゃ珍しい。開始時間になったら自己紹介もなくいきなり“面接試験”なんて、あのロッグって人相当俺らのこと嫌ってるみたいだ」

「……そ、そうなんですか?」

「どう見てもそうでしょ。シリスティアの魔術師隊はプライド高いらしいしね」


 マルドはもうすでに全てを察しているようだ。

 思えば彼が最初にロッグに言葉を返せたのも、話し合いの議題に察しがついていたからかもしれない。


「最後の事件は3年前」


 マルドとの会話は、ロッグの苛立たしげな声に遮られた。

 マルドに言われて見てみると、確かにロッグはどこか面白くないような表情を浮かべている。


「アドロエプスの付近に建てた詰め所に勤務していた魔術師のひとりが、そのまま姿を消した。同僚の話では夜にふらふらと詰所から出ていったのを見たそうだ」


 そういえば、そんな事件を耳にした記憶がエリーにはあった。

 自分はその事件をリビリスアークの孤児院で他人事のように受け止めたはずだ。


 ロッグは席の後ろに設置されていたホワイトボードに適当に歪んだ円を書き、その外れに『×』を付けた。

 どうやらあの干からびた海藻のような絵は、樹海を表しているらしい。


「次は5年前。これはかなり微妙だが、借金に追われて樹海に逃げ込んだ女性が戻って来なかった。自殺かもしれん」


 ロッグは最初のマークから離れた位置に『×』を付けた。


「……やっぱり樹海の中に“特殊な魔物”がいて、移動しているってことですよね?」


 エリーはおずおずと、魔術師試験の知識をフル活用して言葉を出した。


 この失踪事件。

 こう連続しては、単純に樹海で迷って戻って来られないというよりは、何かが介入していると考えた方が自然だ。

 事件の起き始めでは自殺や、準備なく樹海に入り込んで通常の魔物に襲われたと考えられていたそうだが、樹海の中の魔物にそこまで危険な存在はいないはずらしい。


 つまり、何か特定の―――アキラのような表現を使えば―――“ボス”がいると考えられる。


「……君。名前は?」

「え……、え、えっと、エリサス=アーティです」

「……ん、ん?」


 ロッグが手元の紙に視線を落とし、顔をしかめた。


「あ、ああ、“スライク=キース=ガイロード”の代理です」

 マルドがそう言うと、ロッグは顔をさらにしかめて何かを書き込み始めた。


 スライクとは、本来マルドがここに連れてくるはずだった仲間の名前だろう。

 エリーは申し訳ないような表情を向けたが、マルドは軽く手を振るだけで応えた。


「まあ、他にも未届けのものもあるだろうが、この2つはどうでもいい」


 メモが終わり、ロッグは再びホワイトボードの前で“話し合い”を開始した。

 先ほどの2つの事件を簡単な準備運動のように振舞い、そして、眼光を鋭く言葉を続ける。


「問題なのは……、大分昔だが8年前の“誘拐事件”だ」

「……“誘拐”? “失踪”じゃなくて?」


 表現を変えてきたロッグに、先ほど名前を聞かれていたリグルが声を上げた。

 ロッグは一瞬手元の紙に視線を落としたが、すぐに上げて再びホワイトボードに向き合う。

 そして再び『×』マークを、今度は樹海の中心近くに記した。


「ここで起こった事件だが……、何故“誘拐”と言えるのか。それは目撃した者がいたからだ」

「……!」


 エリーは、隣のマルドの表情が僅かに変わったのを察した。どうやら、マルドも知らなかった情報らしい。


「目撃したのは、とある名家の使用人。数十名でアドロエプスに入り、“被害者”が“誘拐”されたのを確認したらしい」


 ロッグは露骨に苦々しい表情を浮かべていた。

 数百年も謎に包まれていた事件の核心を発見したのが、民間人であることが面白くないのだろう。


 しかし、エリーもその情報は初めて知った。恐らく意図して伏せていた情報なのだろう。

 やはりマルドの言う通り、シリスティアの魔術師隊は“そういうもの”にこだわるようだ。

 そしてこの場でこの情報を口にしたということは、これもまたマルドが察した通りに、国の内部で大きな動きでもあったのかもしれない。


「……ということは、“誘拐”されたのは“とある名家”の人間、ってとこですか?」

「…………そうだ」


 マルドが出した言葉に、ロッグはそのままの表情で肯定を返す。

 それも国の汚点、といったところだろう。


 ロッグは、『吹聴してもらっては困るが』と前置きをつけて言葉を続けた。


「8年前。その“とある名家”の娘が大樹海に向かったらしい。それを探しに向かった使用人たちが、その娘が“誘拐”されたのを目撃した、という話だ」

「……あの、」


 エリーは恐る恐る手を上げてみた。

 ここで再び口を開かないと、他の者たちのように完全に“話し合い”の輪から外れてしまう。


「その使用人たちは、“現場”にいたんですよね? 無事だったんですか?」

「……だからこうして“情報”を持ち帰ってきている」


 ロッグの言葉に、エリーは分かりやすく、むっとした。

 自分は一応、魔術師試験を突破している。それで笠に着るつもりはないが、ロッグの“旅の魔術師”への嫌悪を向けられては流石に面白くない。


「……具体的な話をして下さいよ。そうだな……、まずは、“犯人”から。その使用人たちは、“犯人”を見たんでしょう?」


 エリーが何か言い出そうとしたところで、マルドが声を出した。

 どこか涼しげに見える彼も、ロッグの態度には少なからず反発心を持っているようだ。


「……“見ていない”、そうだ」

「……?」

「その使用人たちの証言“だけ”だから信憑性はあるかどうか分からんが、…………その娘は、全員が見ていた目の前で、ふっと“消えた”らしい」


 ロッグは珍しく言い淀みながら言葉を吐き出した。


「“誘拐事件”の日、アドロエプスで探索を行っていた使用人たちは、“戦闘音”のようなものを聞いたらしい。その場に向かってみると、木々は捩じ切れ、草木は焼かれ……、まるで爆心地の跡のような状態だったそうだ。……そしてその中央に、その娘が立っていた、らしい」

「? それって、“犯人”を倒したってことですか? その娘とやらが?」

「そうは思えん。その子は当時10歳程度。……それに、そのあとだ。娘がその場から煙のように消えたのは。大体、事件は今も続いている」


 エリーはマルドとロッグの会話を聞きながら、眉をひそめた。

 どうやら名家の娘とやらは、当時10歳の子供だったそうだ。恐らく、樹海に迷い込んだといったところだろう。

 確かにそんな子供がその爆心地を演出したとは考えられない。使用人たちと同じように爆音に興味を持ってその場に来ていた、と考えた方が自然だ。


 だが、エリーはそれでもなお、気になることがあった。

 エリーはちらりと『×』が記された樹海の“現場”を確認する。


 そもそも、そんな10歳程度の子供が、魔物が出現する樹海の中央まで到達できるのだろうか。

 そして、その戦闘音とやらも、煙のように消えたというのも気になる。


「情報はそんなところだ。問題なのは、樹海に入った者は魔物に“襲われた”のではなく、“消えている”可能性がある、ということ。この件に関しては諸説あるが、どれも確信が無くて話せない」


 だから、暫定的に“誘拐事件”と名付けているのだろう。

 エリーは頭でポイントを整理しながら唸った。

 “犯人”も、煙のように消えるカラクリも謎のまま。

 数百年続いているというのに情報がこれだけでは、保留にしたがる理由も分かる。

 しかも、その情報が増えたのはつい8年前。

 犠牲になったとある名家の娘とやらには悪いが、この事件に多大な貢献をしたと言ってもいいだろう。


「それで、どうやって解決するつもりなんですか?」


 マルドの言葉に、ロッグはホワイトボードの隅についていた定規のようなものを手に取った。

 そして簡易な樹海の地図の横にあてがう。


「具体的な内容は当日になるが……、集まった者たちを数十部隊に分けて、アドロエプスを横断する」


 ロッグは定規をそのまま横に移動させた。

 つまりは、全員で横並びになり、アドロエプスの全てを開拓する作戦、ということだろう。

 そして何かがあれば、他の部隊はその場に急行する、といったところだろうか。


「集合は約1ヶ月後。そこから5日の準備期間。そして作戦決行だ。詳細はここに書いてある、回してくれ」

 ロッグは机の上の紙の束を二つに分けて両脇の旅の魔術師に渡した。

 “話し合い”が始まってから硬直していた魔術師たちは、僅かに慌てながら1枚を取り、隣の者に回していく。

 硬直が解けたからか、用紙を受け取った者はざわめきを起こし始めている。


「集合場所はファレトラという、アドロエプス付近の街だ。参加する気があるなら正式に依頼を請けたのち、その場に集合してくれ」

「……?」


 魔術師たちのざわめきの向こう、ロッグの言葉を聞いて、エリーは眉を寄せた。

 この“話し合い”は、作戦に参加する者を選ぶ“面接試験”だと思っていただけに、肩すかしをくらった気分だ。


 だがそれも、続くロッグの言葉で氷解した。


「一応、各個部隊の指揮を執る者をあとで選出するつもりだが……、それは当日、依頼所で発表する。まあ最も、魔術師隊の者の手が回らなければ、だが」


 先ほどからロッグが何かメモを取っていたのはそのためだったのだろう。

 組織立って動く以上、やはり“頭”というものが必要、ということか。

 確かにこの作戦は、何より人数が必要だ。わざわざ選出するというのも奇妙な話だ。


「…………完全に人数でのごり押しだな……。前のシリスティアじゃ考えられない。……まあ逆に、“旅の魔術師”たちを使い捨ての道具とか思っているかもしれないな」


 マルドが再び、ロッグに聞こえないようにエリーに囁きかけてきた。

 そしてそれは、エリーも薄々察していたことだったりする。


「他の街でもこんな“話し合い”やってそうだな……。当日どれくらい集まるかね?」

「1ヶ月後なんですよね……? そんなに先じゃ、皆わざわざ覚えていないんじゃないですか……?」

「んー、そうかな?」

「?」


 マルドは隣から回ってきた用紙を受け取り、僅かに笑うと、エリーに渡しながらこう言った。


「“エサ”次第、だろうね」

「……!!」


 先ほどから魔術師たちがざわめいていた理由が分かった。

 集合時間や集合場所が記されているその用紙。


 そこには、法外とも言えるほどの、“多額の報酬”が記されていた。


―――***―――


「……、こ、これ、は……!?」


 日も沈みかけたパックラーラの外れ。

 サクは目の前の“それ”に目を見開いた。


 ここは、昼過ぎアキラを発見した船の積み荷の保管所。

 この場で“妙な臭い”がしたのが気になって、サクはこの場に戻ってきていた。


 買い物にも飽きたこの“休日”。

 ちょっとした暇潰しのつもりで、その四角い建物が整列されている保管所の周囲を回り、倉庫を挟んで街と反対側にある海岸に回ってみたのだが―――


―――そこでは、2人の人間が、“潰されていた”。


「……ぅ、ぇ、」


 臭、臭、臭、

 穢、穢、穢、

 腐、腐、腐、

 血、血、血、

 肉、肉、肉、

 骨、骨、骨、

 臓、蔵、蔵。


 サクは思わず口を押さえ、海岸側へ顔を背けた。

 その惨状は、汚れた服が同時に押し潰されていることでようやく“人だったもの”だと認識できる。

 “本人たち”には失礼だが、その光景が自分の心を蝕むように感じられた。


 一体何をしたらこんな状態になるのだろう。

 その場では、地面に人体が“埋まり込み”、その溝に“人が溜まっていたのだ”。

 そしてその“2つ”を中心に、地面に四角いクレーターが浅くできていた。

 人間を横たえ、そのまま上から鉄槌か何かでも振り下ろせばこういうことになるのかもしれない。


「はあ……、はあ……、はあ……、」


 呼吸を整え、サクはもう一度現場を見た。

 “人型の溝”は、2つある。

 血と泥に汚された服は、2つとも同等のツナギのようなものだ。恐らく、ここの倉庫の番をしていた者たちだろう。

 争った跡もないのだから、本人たちも最期まで何が起こったのか分からなかったかもしれない。

 だが、サクも“そういう世界”で長年旅をしているが、こんな死体は初めて見た。山の落石現場にでも行けば見る機会もあるかもしれないが、ここは港町だ。

 これは、事故ではなく、紛れもない“事件”。


 最短の時間で情報を収集し、サクは“現場”から離れた。

 現場の位置から考えて、恐らく彼らを襲った“何か”は海から現れたのだろう。


 慎重に、海岸に向かって歩く。その防波堤からだと、海面は随分下だ。

 愛刀に手をかけ、防波堤から見下ろした波は、静かに漂っている。

 夕日の紅から夜の黒に変色していくその不気味な場所には、


「……、」


 何も、いない。


 周囲の安全を確認し終わり、サクは苛立たしげに抜きかけていた愛刀を強く仕舞った。


 間もなく夜が訪れ、人々はそれぞれの団欒に返っていくだけ。

 これだけのどかな世界だというのに、休日だというのに、“異常”はいつの間にか日常を侵食していたのだ。


「……、」


 問題なのは、“殺害時刻”と“犯人”だ。


 サクは頭を回転させる。


 騒ぎが起こっていないのだから、自分が最初の発見者であることは間違いない。

 となると、今日一日の出来事だろう。

 そして、昼過ぎにこの場でアキラを発見したときにはすでに異臭が漂っていた。

 やはり、“殺害時刻”は、朝から昼にかけてだ。


 そして、最大の問題―――“犯人”。


 サクは再び海を眺めた。

 大きな街の中でこんな事態は起こりにくいが、海から魔物が出現し、2人の命を奪ったのだろう。

 何せ、“中央の大陸に面する海”だ。

 “異常な魔物”が存在してもおかしくはない。


 だが、それならそれで、警報なり何なり鳴るはずだ。

 この2人が出遭ってしまう前に、海を監視している者がその魔物を発見するはずなのだから。


 海に面する街には通常、海からの“異常”を察知する術を有している。

 それは魔術を使った探知であったり、もっと原始的に“網”を海底に仕掛けその振動を察するものであったりと街によって様々だが、少なくともこの街には存在しているはずだ。


 つまり海からの襲撃であれば、2人を襲った魔物はその防御壁を、察知されないようにかいくぐってきたことになる。

 その上、海から出現したというのに、陸上での戦闘をしているのだ。


 となると、


「…………“知恵持ち”……か?」


 2人を襲っても、その魔物は未だ街で騒ぎを起こしていない。

 となれば、どこかに身を潜めている可能性が高いだろう。もしくは、再び海に戻ったか、だ。


 いずれにせよ、その“敵”は、未だ近辺に潜んでいるかもしれない。


「……、」


 防波堤にぶつかり、虚しく響くさざ波音が、サクの背筋を撫でる。


 どうも、嫌な予感がした。


 密かに街を襲っていた“異常”。

 その街には、ヒダマリ=アキラという“そういうもの”を引き寄せる人間がいるのだ。

 このまま“悲しい事故というだけ”で済むとはどうしても思えない。


 その考えに至り、サクにはどうも、その魔物が海を移動してきた体力をどこかで回復させているような気がしてくる。

 英気を養い、街を襲う算段をつけていると考えた方が総ての“事情”にすっぽりとはまる。


「……、」


 とりあえず、街の護衛団に連絡しなくては。


 そう結論付けたサクは、最期に手向けとばかりに“2つの跡”に一礼し、その場から駆け出した。


 保管所に潜む1人の小さな子供には、最期まで気づかずに。


―――***―――


 キュール=マグウェルは、船の積み荷保管所で膝を抱えてじっとしていた。

 四角い倉庫が並ぶ中の1本の通路に座り込み、そのまま背を倉庫に預けている。


 とうとう日の沈んだパックラーラ。

 その街の喧騒が、さざ波の反対側から遠くから聞こえてくる。


 そんな中、キュールは重大な問題に直面していた。


「……お腹、へった」


 呟いてみても、現状は何ら解決しない。

 2つ盗んできた果物は昼に消費してしまったし、元より所持金はゼロだ。

 だが、もう一度街に向かって食料を盗んでくることはためらわれた。


 “分からないのだ”。


 もしかしたら昼に食料を調達した果物屋の男が探し回っているかもしれない。

 もしかしたら果物2つ程度野良犬に噛まれたと思って諦めているかもしれない。


 果物2つ。

 これが他人にとって、自分を探し回るほど大きいものなのか、それとも無視できるほど小さいものなのかも分からないのだ。


 自分は突如、およそ考える普通の家庭というものから切り離された。

 いや、切り離された、という表現は違うかもしれない。


 “自分以外の全てが消えた”。それだけだ。


 ありふれた自分の両親が、ありふれた小さな村に住み、そして―――ありふれた魔物の襲撃に遭っただけ。

 まるで、海辺に作った砂の城を波がさらったように。残ったのは、砂の残骸と、装飾用に使われていた小さな石の1粒。

 それが、キュールだった。


 きっと、そこからの道は2つあったのだろう。

 1つは、“孤児院”。

 魔物の襲撃によって家族を失った孤児が、“通常”辿り着くところ。


 だけど、それは嫌だった。

 少なくともシリスティアの孤児院に行けば、まっとうな生活が送れ、そして、そこで学んだ知識が無数の道を開いただろう。

 だがそれを選べば、何か、それまでの自分がリセットされてしまうような気がした。

 家族、隣に住んでいた仲のいい友達、自分の過ごした村。

 それらが一度、無かったことになって新しい自分が始まる。


 きっと自分は、孤児院に行ったら“過去”を忘れてしまう。

 少なくともキュールには、そんな悪寒がしたのだ。


 だから、もう1つの道を選んだ。

 “旅”。

 それも、旅の魔術師と呼ばれる存在になることだ。


 旅そのものは、心情的なものを抜きにすれば、そこまで辛くはなかった。

 魔物の襲撃時に“自分の傍にあった”金品があれば、食料も買えるし宿にも泊まれる。中には、自分の年齢をみて優遇してくれる人もいた。

 単純に生活する分には、何ら困らなかったのだ。


 だがそれは、あくまで貯金を切り崩して使っているだけ。

 最も重要な、収入は無かった。


 魔物討伐の依頼を受けに行っても、“こんな子供に何ができる”と断られ、

 誰かと一緒に組もうと頼み込んでも、“こんな子供に何ができる”と断られ、

 旅を中断してどこかで働こうとしても、“こんな子供に何ができる”と断られる毎日。

 場合によっては、自分を孤児院に連れて行こうとした“親切な人”もいたくらいだ。


 キュールは夜な夜な、所持金を数え、どうか自分が“大人”と呼べるくらい成長するまでもってくれと毎日祈っていた。


 しかし、世界が回るスピードは、自分の成長などよりずっと早い。


 当初いけると思っていた幻想は、一昨日の昼に消えてしまった。

 それは、自分の所持金が、どれぐらいもつか“分からなかったから”。


 経験していなかった外の世界は、自分が思っていたより、ずっと冷たく、ずっと厳しかった。

 それに関して、誰も責められない。


 この道は、自分が選んだ道なのだから。


「…………、」


 くぅ、とお腹が鳴った。

 ここにもう1つ果物があれば逃れられる空腹。

 しかしキュールは、その“消費原因”を責める気にはなれなかった。何せ、“口止め料”だ。


 ヒダマリ=アキラと名乗った、あの“大人”。


 彼もまた、自分を“子供”と認識して話をしていた。

 それは当然なのだろう。

 彼は、世界が回った回数分、自分より世界のスピードに慣れている。

 だから“普通”とはどういうものか知っていて、“異常”とはどれだけ世界のスピードに逆らわなければならないのか知っているのだから。


 だけど。

 それでもなお、キュールは思う。

 世界に逆らっていたい、と。


 もしかしたら明日突然、依頼が受けられるようになるかもしれない。

 もしかしたら明日突然、誰かと組めるようになるかもしれない。

 もしかしたら明日突然、どこかで雇ってもらえるかもしれない。


 何せ、“分からない”のだから。


 だが―――


「―――!?」


 キュールは“その異変”を機敏に察し、空を見上げた。

 もう日が沈み、星空が顔を除かせる天上。


―――そこに、突如“濁った黄色の魔力”が出現するとは思ってもみなかった。


「あ……え……、え……!?」


 キュールは思わず立ち上がる。

 上空に浮かぶのは、まるで巨大な絨毯だった。

 この保管所一帯の空を埋め尽くすように展開されたその黄色い絨毯は、まるで帯電するように魔力の波動を漏らし、今なお広がり続けている。


 その光景を前にして、キュールの脳裏をよぎるのは、“自分と同じ属性の魔術”。


 “その攻撃方法”に、キュールが思い至ったとき―――


「―――」


 黄色い絨毯が、そのまま全てを押し潰した。


―――***―――


 自室でうたた寝していたとしても、耳をつんざく爆撃音が聞こえれば、誰だって目を覚ます。


「はっ、はっ、はっ、」


 そんなわけで、ヒダマリ=アキラは夜のパックラーラを全力で走っていた。

 共に出かけようとする病人のティアを何とかなだめ、宿屋から飛び出したアキラの目に最初に止まったのは星空の下もうもうと上がる黒い煙。

 まるでゴールでも示すかのように上がる黒煙は赤味を帯び、大分離れたこの距離から見ても明らかに火災が発生していた。


 そして、その現場。

 方向から察するに、それはあの船の積み荷の保管所だ。


「―――あぶっ!?」


 大通りには、先ほどの騒ぎで建物から出てきた人で溢れ返っている。

 それにぶつかりそうになりつつも何とか避け、アキラはひたすらに保管所を目指した。


 煙を見上げる周囲の人々にしてみれば、ほとんど他人事だろう。

 何せ火の手が上がっているのは海岸沿い。

 その上、昼に行ったときにも人気が無かったような場所なのだから、被害そのものは少ないはずだ。

 精々その保管所に商品でも置いていた商人くらいが青ざめている程度だろうか。

 実際、アキラも火災そのものへの懸念はしていなかった。

 だが、アキラにとっては、他に懸念すべきことがある。

 “あの場所が積荷の保管所と教えてくれた女の子”は、もうあの場から離れているだろうか。


 火薬か何かでも爆発したのだろうか。黒煙は未だ昇り続ける。

 とりあえずはあの女の子―――キュールの安否を確認しなければ収まりがつかない。


 そして、あの火災の“原因”。


「―――、」


 一瞬、アキラに“二週目”の記憶がよぎった。

 あれはクロンクランという、アイルークの大きな街での出来事。

 あのときは街の中から突如として火の手が上がり、街の総てを恐怖の悲鳴で押し潰していた。

 今、人々は単なる事故と思っているのか、逃げ惑ってはいない。

 だが、アキラの首筋に、何かピリピリとした危機感が走る。


 戦闘から切り離されて在った、この“休日”。

 そこに、何か黒いものが入り込んでくるような、奇妙な悪寒。

 あの火災が単なる事故ではないという、被害妄想にも近い感覚は、徐々に確信に変わっていく。


 つまり。

 “自分という勇者様”がシリスティアで最初に訪れたこの街では、“何かが起こる”。


「―――、」


 確信を胸にしたアキラの脳裏に、今度は別の記憶が蘇った。


 それは、“一週目”の記憶。

 自分は確かに人々の溢れるパックラーラのこの道を、かつて同じように走っている。

 ここまで強い記憶の封の解け方は、アイルーク大陸のヘヴンズゲート以来。


―――やはりこれは、特定の“刻”だ。


 背負った剣のガチャガチャと鳴る音が、妙に耳ざわりだった。


「……!!」


 現場に近づき人の波がはけ始めた頃、大通りの角を曲がると前に見知った後ろ姿が見えた。

 興味本位で煙を見上げる人々が溢れる街の中、アキラの前方で、赤毛のポニーテールを揺らして走っているのは、


「おっ、おい!!」

「? って、あんた何やってん―――」


 振り返ってアキラの姿を発見したその少女―――エリーは口を噤んだ。

 何をやっているも何もない。

 あの煙に駆けているのだから、目的は1つだ。


 アキラはエリーに並ぶと、もう一度煙を見上げて呟いた。


「あれ、何なんだ?」

「知らないわよ!! 火事じゃないの?」

「まあ、そうなんだろうけど……、ん?」


 そこで、アキラは気づいた。

 エリーを挟んで自分の反対側。

 そこにもう1人、山吹色のローブで身を包んだ男が走っている。


「えっと?」

「ん? ああ、もしかして君が、例の?」


 アキラの視線を受け、その男はどこか驚いたような表情を向けてきた。

 この緊急時に僅かな焦りは見せてはいるものの、どこか冷静で、自分とエリーの速力に悠々とついてきている。

 旅の魔術師か何かだろうか。


「俺はマルド。君は、アキラ、でいいんだよね?」

「え……、あ、ああ。―――?」


 マルドというらしい男は簡易に微笑んだ。

 エリーと共にいたことに、僅かに面白くないものを感じたアキラは強めに返答する。


 しかし。

 それとほぼ同時、再び脳裏に何かが走った。いや、先ほどの既視感より強い。


 この男と出会ったのは、“記憶の中では”初めてだ。それは間違いない。

 しかし、頭の中で何かが鳴る。


 この、マルドという男との出会い―――いや、“出逢い”。

 それがまるで強固な岩盤の弱点のようで、突けばガラガラと記憶の封が解けるような気がするのだ。

 それも、単なる記憶ではない。

 自分にとって重要な―――いや、“強烈な”記憶だ。


 “一週目”。

 確かに自分は、ここで大きな衝撃を受けた気がする。


 それは、一体、


「……えっと、さっき知り合ったの」

「……あ、ああ、」


 エリーの言葉に適当な相槌を討ちながら、アキラは思考の渦に沈んでいった。

 マルドの正体を思い出せれば、頭の中に詰まった何かが芋づる式に引き抜かれる気がする。

 そしてそれが蘇れば、あの火災の“原因”も思い出せそうなのだ。


「…………ま、まあ、ほら、セレンさん、覚えてる? セレンさんの弟なんだってさ」

「そうか…………」

「………………郵便所で偶然会ったりしちゃて、」

「なるほどな…………」

「……………………べ、別に、何やってても、別にあたしの勝手でしょ」

「おう、そうだな…………」

「…………………………っ、いっ! らっ! いっ! 依頼を受けてたの!! 休日にも働いてたあたしを少しは気にしろっ!!」

「うおっ!?」


 もう少しで頭のつかえが解けそうだったアキラの耳が、キーンと鳴った。

 朝以来姿を見ていなかったエリーは、とりあえずいつも通りに元気だったらしい。


「いいねぇいいねぇ、若いなぁ」


 マルドというらしい男は、自分もそう変わらないであろうに小さく呟いた。

 その一挙手一投足が、アキラの記憶の封の核をつつくような感覚を引き起こす。


 だがどうやら、少なくとも緊急事態の今、思い起こすのは不可能のようだ。


「……えっと、悪い。依頼が何だって? てかお前、こんな時間まで何やってたんだよ?」

「ワンテンポ遅い!! 話しも聞いてないし……、もういいっ、サクさんとティアは!?」

「サクは知らないけどティアなら留守番させてきた。お前も知ってんだろ?」

「ティアの風邪でしょ? そっちはともかく、サクさんならもう着いてるかもね」


 いつの間にかボルテージが上がっていたエリーから僅かに離れながら、アキラはその言葉に同意した。

 サクがこの街のどこにいるかは知らないが、もし彼女があの場に向かうつもりなら、とっくに現場に到着しているだろう。


「……“2発目”来ないね」


 駆けながら、マルドが呟いた。

 その言葉にアキラが怪訝な表情を浮かべると、マルドは西の空を見上げながら言葉を続ける。


「俺の気のせいかもしれないけど……、向こうの方から、何か、“流れ星”みたいなのが飛んできたの見なかったか?」

「流れ星?」

「ああ。何だったんだろう、……何か、黄色いの。建物が邪魔で見えなくなっちゃったんだけどさ」


 どうやらマルドは何かを見たらしい。

 どうやら見落としていたらしいエリーは眉を寄せるだけだが、アキラには、マルドの“2発目”という表現を正確に受けとめていた。


 アキラもマルドも、あの火災が外部からの“攻撃”である可能性を考慮している。


「……こっちだ!!」


 悪寒が背筋を侵食する中、アキラは先陣を切って裏道に駆け込んだ。

 ここは昼、キュールを追って入っていった道。このまま進めば、保管所に一気に入れる。


 エリーもマルドも背後から着いてくる。

 人2人分ほどの幅の狭い道を直進し、そろそろ熱気が顔の皮膚と肺にぶつかり始めた頃、ようやく火災現場が視界に入り―――


 ―――アキラは、その場でビタリと止まった。


「きゃ!?」

「わっ!?」

「ぎゃふっ!?」


 エリーがアキラの背に衝突し、そして背後のマルドに衝突されて挟まれた。

 しかしアキラは振り返りもせず、目の前の光景を呆然と眺める。


「いった……、って、あんた何いきなり止まってんのよ!?」


 細い道で、ゴワンゴワンとエリーの怒鳴り声が反響する。

 アキラはそれに返さず、ただゆっくりと、眼前の光景を指差した。


「―――!?」

 アキラの肩越しに目の前の光景を見たエリーが、びくりと震える。


―――そこは、“叩き潰されていた”。


 昼に見たときは、無機質な倉庫が並ぶ向こう、のどかな海が広がっていただけだった。


 しかし今は、その倉庫が、ない。

 海岸を埋め尽くすように展開していた広範な倉庫の群れが、ない。


 あの建物の数は2ケタ近くに昇っていたはずだ。

 しかしそのどれもが形状を保っておらず、まるで敷き詰めた木の葉に火でも放ったかのようにパチパチと炎を上げ続けている。


 一体何をすればこんな状態になるのだろう。

 子供がミニチュアの街を手のひらで叩いたかのような、陸に打ち上げられた巨大なクジラがのたうったかのような、そんな圧倒的破壊。

 その―――恐らくは“上から”の衝撃に、防波堤は崩れ去り、“街の形が変わっている”。

 その場には、およそ“高さ”と呼べる概念が存在していなかった。


 上がり続ける煙の向こう、炎の赤と闇の黒。それらに染まる海だけが、1段低くなった街に侵食して消火活動を行っていた。


 アキラは慎重に歩き出す。

 近付くことは躊躇われたが、とりあえずは近づいてみなければ。


「…………アキラ?」

「……!」


 裏道から出た途端、横から声がかかり、アキラはびくりと身体を震わせる。

 顔を向ければ、歩み寄ってくるサクの背後で数人の男たちと共に被害現場を眺めていた。

 その男たちは、まるで上空からプレスでもかけられたかのような街に呆然とした表情を浮かべている。

 確かにこの破壊は、“強大”だとか“強烈”だとかで表現できるものではない。

 あまりに“非現実的な現実”を前に、騒ぎ立てる気も起きないようだ。


「……サク。そっちの人たちは?」

「……ああ、私が呼んできた街の護衛隊の人たちだ。……この場で“事件”を見つけてな。だが、戻ってくる途中、……これだ」

「? ……ま、まあいいや。それより、この辺で小さい女の子を見なかったか?」


 アキラにしてみれば、それさえ確認できればよかった。

 正直なところ、“潰された”現場付近に長居したいとは思えない。


 しかしサクはどこかキツネにつままれているかのような表情を浮かべ、小さく声を漏らした。


「……見た」

「!?」

「い、いや、正確には、“見ている”」

「?」


 サクは珍しく口ごもりながら、先ほどアキラがしたようにゆっくりと火災現場を指差した。

 アキラは一瞬ぎくりとし、即座にその指を視線で追う。


「……、……?」


 今度は、アキラが今のサクのような表情を浮かべる番だった。

 どうやら街の護衛団の人々も、“火災などではなく”、サクの指差した方向を見ているらしい。


 そこには、くすぶった炎を上げる保管所。その中から、ゆっくりとこちらに接近してくる“黄色い球体”があった。

 そしてその中央に、小さな影が見える。


「な……なんだよ、あれ……」


 アキラがそう呟く間も、その球体は“およそ子供が歩くような速度で”接近してくる。

 そして、とうとう焦土と化した保管所を抜けた黄色い球体は、パリンと弾け、“中から子供を吐き出した”。


「……はあっ、はあっ、はあっ、こほっ、はあ……、はあ……、」


 まるで深い深い海底から上がってきたかのような嗚咽を漏らし、その子供―――キュールは倒れ込む。

 火災現場から出てきたというのに、身に纏う質素なワンピースもそのままで、灰すらかぶっていない。

 ある種目の前の“潰された光景”より非現実的なその存在に、その場の誰もが口を開けなかった。


「―――、っぅ……?」


 そこで、再びアキラの頭が軋んだ。

 まるで決壊直前のダムのように、記憶の封がミシミシと痛み出す。

 “総てが終わったはず”の場所から、小さな子供が無傷で静観してくるこの光景。


 こんな光景を自分は確かに見ている。


「ぅ……、ぅぅ、」


 キュールは呻きながらとぼとぼとこちらに歩いてくる。

 サクの向こうの護衛団の男たちは、それに応じて1歩下がった。

 確かに、見方によってはこの災害を引き起こしたのは、彼女のようにも思える。


「……と、とりあえず、助けよう。問題は全部後回しだ」


 その空気を嫌ったアキラは声を上げ、キュールに向かって歩き出した。

 この惨状を引き起こした犯人がキュールでないと確信を持っているのは自分だけ。

 ならば少なくとも自分は、火災現場から出てきた小さな子供を保護しなければ。


「……ぁ、」


 キュールが歩み寄るアキラの顔を見て、小さく声を上げた。

 たどたどしい歩調が僅かに強くなる。

 アキラを良く思っていないような動きだが、あの小さな身体で炎に囲まれていたのだ。

 無事であるはずがない。


 キュールに近づき、アキラが手を差し出そうとしたところで―――


「かっ、随分と頑丈なガキだなぁ、おい」


―――アキラの記憶の封が、吹き飛んだ。


「お、おいっ、ここにいたのかよ!?」


 背後で、マルドがその声の主に歩み寄っていく気配がした。


 アキラはまだ振り返らない。

 キュールはアキラ越しに、声の主を大きな瞳で見上げている。


「ちっ、マルドもいやがったか……。つーか随分熱いねぇ、ここは」


 まるで、街頭のちょっとしたデモンストレーションに野次でも投げるかのような口調。

 背後から聞こえるそれに、アキラは身体が震えているのを感じた。


 キュールという少女と、マルドという男に覚えた既視感。

 そんな2人がいるこの街で、アキラは、とある出逢いを果たしていたのだ。


 ここまでの衝撃を受けるのならば、本当に何故“二週目”で記憶が解放されなかったのかとアキラは思う。


 アキラはこの休日、出逢うことになっていたのだ。


―――“もう1組のパーティ”と。


「……、」


 すっとアキラは立ち上がり、背後に振り返る。

 エリーも、サクも、そして護衛団の男たちもが、マルドが近づいていった男に視線を移していた。


 その巨大な体躯を離れた建物に預け、腕を組みながら傲岸不遜に笑う男。

 猫のような鋭い金の瞳は、炎の赤に揺らめいている。

 そして腰には、彼の身の丈に比しても巨大な剣を乱雑にぶら下げていた。


 果たして。

 この“刻”を引き寄せたのは、自分だろうか。


 それとも、


「くっ、あーあっ、寝みぃなぁ、おい。で、だ。どこの馬鹿だ? こんな賑やかなことをしでかしたのは」


 この男―――スライク=キース=ガイロードという、もうひとりの“勇者様”だろうか。


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