第22話『ヒーロー中毒者』
―――***―――
月下。
広大な荒野。
吹きすさぶ風。
巻き上がった砂埃の粒は大きく、頬を風と共に叩いていた。
口に入った砂利が、口の中で泥となっていく。
だが、それらはモノクロの世界での出来事。
そんな劣悪な場にいるというのに自分は、それらを正とも負とも捉えられなかった。
“二重”になった心の一方が、もう片方を殴打する。
『お前は何をやっている』―――“自分”が、“自分”を、だ。
そんな壊れた心で感じられるのは、腕の中で冷えていく温もり。
そして。
ただこの場を逃れたいという、逃避本能。
そのためならば、“自分の何を差し出しても構わない”。
『一時の感情に流されて、絶対あとで―――』
そんな言葉は、右から左だった。
今を逃れること以上に、悪いことなどあるわけがない。
絶望の淵、目の前に垂れた糸に手を伸ばさないことなど、できるわけがない。
きっと、自分はそうしなければならないのだ。
だから手を、ひたすらに伸ばした。
“半開きの眼の少女”を、強く見上げる。
―――今すぐ、“不可能を可能にしてくれ”、と。
それ以外、自分はきっと、求めない。
『―――、』
そして。
目の前で、純白の“杖”が出現した―――
「―――起きろぉぉぉおおおーーーっ!!!!」
「……、……、」
覚醒は、緩やかに。
ヒダマリ=アキラはドアの外からの騒音を、冷めた心で聞き流した。
――――――
おんりーらぶ!?
――――――
―――ヘヴンズゲート。
東の大陸―――アイルーク大陸で、唯一“神界”へと続く“神門”があるこの高い岩山は、東西南北賑わう街で囲まれていた。
流石に“しきたり”を重んじる気風のこの世界。
その分人も集まるのだが、町が発展していったのはそうした世界の中でも商魂逞しい商人たちの働きによるところが大きい。
人の集まるところ、金も集まる。
ゆえに、ヘヴンズゲートの商店は、アイルーク大陸の中でも随一の豊富さを誇っていた。
武具屋、食料店、衣料品店や雑貨店、さらには百貨店も完備し、大通りでもところ狭しと歩き回る人々の隙間から、種々雑多な店頭販売の彩りが嫌でも目に入る。
昼前だというのに留まることを知らない活気が、街全体を盛り上げていた。
それゆえに、建物の特徴にも宗教的なものは上げられない。
この世界では一般的な箱のような建物たちの共通点はむしろそれだけで、あとは高さも広さも色もまちまちだ。だが、流石に場所が場所なのか他の大きな町に見られるような、顧客を集めることに躍起になった結果の奇抜な形の建物は見えない。
そうした建物が岩山一つに従えられるように囲っているというのは、それはそれで奇妙に映るのだが。
「……、」
そうした、到着したばかりのヘヴンズゲートの町並み。
その喧騒の中を、“勇者様”ことヒダマリ=アキラは心を遠ざけながら歩いていた。
「ちょっと、勝手に歩かないで!!」
ほとんど叫ぶように声を発したのは、エリーことエリサス=アーティ。
長い赤毛を人ごみに飛び込む前、強引に一本にまとめ、背中に垂らし、揺らしながらアキラの隣に詰め寄った。
「さっき言ったでしょ!? まずは宿探さなきゃ!!」
エリーが叫んでいるのも、憤慨しているわけではない。
早朝の鍛錬を結局欠席した男に怒りをぶつけているわけでもない。
ただ、そうでもしなければ声が届かないだけだ。
だが、
「まあまあまあっ!! エリにゃん!! アッキーもいろいろ見たいんですよ!! それよりどうです!? おっきいでしょう!? あっしの街は!! てかこんなに人いるの結構珍しいんですよ!? あれ!? そういえば何で―――へぶっ!? …………こ、転んだ!! びったーんと!! うわわっ、恥ずいっ!!!! 何やってんだぁぁぁあああーーーっ!! わたしゃあっ!?」
彼女にとっての通常のもの届くであろうに、さらに声を張り上げた少女は転ぶ前から周囲の視線を集めていた。
道にできた僅かな溝に足を取られ、見事なまでに正面に転んだ少女はティアことアルティア=ウィン=クーデフォン。
青みがかった短髪の頭を羞恥に身悶えながら抑え込み、一人芝居でもしているかのような大げさな仕草ののち、ようやく起き上がった。
「だ、大丈夫……?」
「え!? エリにゃんなんですか!? あっしは元気です!!」
発した声は届かなかったらしいが、一応意思の疎通はできたらしい。
エリーは擦り剥けかけているティアの足に視線を配り、彼女の腕を再発防止に努めるべく掴んだ。有り余って元気とはいえ、一応このヘヴンズゲートまで最短ルートで案内してくれた功労者。
珍妙な愛称をつけられているとはいえ、労わる気持ちくらい持っていてもいいだろう。
だが、ティアに気を取られている内に、アキラの背が再び離れていってしまった。
「……アキラはまた“隠し事”、か?」
アキラを追おうとしたエリーの足は、背後から届いた凛とした声に止められた。
振り返るまでもなく、隣に並んだのは長身の女性―――サク。
黒髪をトップの位置で結い、特徴的な紅い着物を羽織った彼女は器用に人ごみを避け、普段と変わらぬペースで物静かに歩いている。
「……、」
エリーはサクを見上げ、隣でにこにこと笑う地元民のティアを見下ろし、最後にアキラに視線を移してため息を吐き出した。
「わっかんない」
「? 分からない? エリーさんが、か?」
比較的小さく吐き出した声は、サクに届いたらしい。
サクは眉を寄せ、アキラの背を盗み見てエリーに視線を戻す。
普段は凛とした表情を、今は怪訝に歪ませていた。
「あたしには分からないわ。意味不明」
サクにそういうのは何となく躊躇われたが、エリーは思っていることをそのまま吐き出した。
今のアキラが何を考えているのか、エリーには分からなかった。
昨夜。
エリーはアキラに奇妙な相談事を持ちかけられた。
僅かなりとも距離の近さを感じられる出来事に、“魔族”を退けたことへの高揚感も重なり意気揚々と耳を傾けた直後、彼はこんなことを口走った。
『楽しくなってきちまったんだ』
それも、何故か“泣き出しそうな表情”で。
果たして相談事と言えるかどうかは微妙だが、その言葉で、アキラとの距離がすっと離れた気がした。
普段からアキラのことを奇妙な奴とは認識していたが、まさかここまで意味不明なことを口走るとは、エリーは思ってもみなかった。
楽しくなってきた。
結構なことではないか。
事実エリーも、その言葉だけには首を縦に触れる。
昨日この四人で、人の身では決して対抗できないとまで言われる“魔族”を退けたのだ。
先ほど、ここまでの道中でティアのその詳細を語られた。
彼女の普段の態度から大分脚色されているだろうと思い話半分に聞いていたのだが、それでもアキラは大分活躍したらしい。
その光景を見ていたのがティアだけだというのは何となく面白くはないが、それでも彼が成長しているのは間違いないことだ。
“魔族”などという脅威が襲ってきても、“総て上手くいく”。
そんな全能感を覚える経験が、昨日あった。
それなのに彼は、それについて、何故か辛そうなのだ。
「……まあ、気にしていても仕方がない。アキラの様子は気がかりだが、今日はやることが多そうだ」
ティアは元より、サクもその辺りは深く考え込んでいないようだった。
昨日洞窟内で僅かに語られた、彼女の過去。
心の中で矛盾が生まれたそのとき、彼女は『逃げた』と言った。
そして、今のアキラも心の中で何かの矛盾が生まれているのだろう。
経験者たる彼女は、どうやら見守ることを選んでいるようだ。
確かに一人で考える時間というものも必要かもしれない。
エリーはアキラの背に向けて開こうとした口をつぐみ、代わりに尖らせた。
実際、この街ですべきことは多いのだ。
「そういえば、みなさん神様に逢いたいんですよね!?」
エリーと繋いだ手を子供のようにぶんぶんと振り回し、足取り怪しく歩くティアは雑踏の向こう、険しく高い岩山を見上げていた。
首をほとんど真上に向けても頂上が見えないほどの岩山。
風で形を変え続ける雲を突き抜けた先には、何があるのだろう。
賑わう町並みの中から見ても、その場所は外部の干渉を受けていないかのように静けさを感じさせる。
それこそ、それほど巨大な自然物が間近にあっても落石の懸念さえ浮かばないほどに。
そう。
それも“すべきこと”の一つ。
きっと、雲の先には“神族”の世界―――“神界”があるのだろう。
自分たちは“神族”に用があるのだ。
打倒魔王を果たした“勇者様”の特権。
それは、正に神の力を持つ“神族”が願いを叶えてくれるというものだ。
とある事情でエリサス=アーティは現在ヒダマリ=アキラの婚約者。
それを破棄すべく―――いや、“アキラを元の世界に返すべく”、自分たちは世界を救う旅に出ているのだ。
だが、神族の力を具体的には知らない自分たちは、“確認”をする必要がある。
すなわち、“異世界への移動”が神族の力で可能か否か。
そしてもしそれが可能ならば、アキラは元の世界に、
「……!」
そこではたと、エリーは気づいた。
もしかしたら、ヘヴンズゲートに近づいてからアキラの様子が妙なのは、“そういうこと”かもしれない。
それなら、“この旅が楽しくなったら困る”ことになる。
「……ふーん。泣きそうになるほどなんだ……」
「おおう!? エリにゃんどうしたんですか!? 口元がにやけてますよ!?」
「へ? んーん、何でもない。それよりティア。図書館とかある? あたし調べ物しなきゃいけないの」
「おうさっ!! 何でもありますぜぃっ!! でもあの山の向こう側だったりします……」
「じゃ、まずは“神門”ね」
いつしかティアが手を引くようになり、岩山に向かって進んでいく。
正面で歩いている男に、何て声をかけてやろうか。
そんなことを考えると、エリーの足取りは軽くなった。
「……まず宿を探すはずだったのは、私の気のせいか?」
背後のサクの言葉は、エリーには届かなかった。
―――***―――
―――その場所は、“異様”だった。
何の感情も抱かぬように、ほとんど頭を空にして歩いてきたアキラも足を止める。
眼前にそびえる、空に漂う雲を突き抜けるほど高い岩山。
自然物であるはずのそれは、総ての干渉を受けつけぬかのようにそこに座し、時空が切り取られているかのように現実感がない。
足元には、右を見ても左を見ても続く壁のような岩山の周囲に白い石が敷き詰められ、その部分だけを見れば通常この“庭”こそが主役に見えるであろう。
だが、やはり最重要なのはこの、隔絶した空気を持つこの山。
誰しも、目前までくれば巨大物体に覚える威圧感とは別の“空気”がある、と口を揃えて言うであろう。
そんな聖域から見れば、周囲の壮観な白色の庭も、賑わうヘヴンズゲートの街も砂粒ほどの価値も感じないであろう。
そして。
恐らく目の前に見える“人の群れ”も、塵芥としてしか認識していない。
「なに……? あの人たち」
エリーの言葉が背後から聞こえ、アキラは“それ”から目を逸らすように振り返った。
呆気に取られたかのように立ち止まったエリーの視線は動いていない。
やはりこの場に“知らない人間”が来れば、“聖域”よりもそちらに目がいくようだ。
あの、“覇気のないクーデター”でも起こしているかのような、群衆に。
二、三十人程度だろうか。
ある者は身体を震わし、ある者は座り込んでまで、山を見上げて手を擦り合せている。
彼らの視線の先には、岩山をくりぬいて作られている高い純白の階段。
そして、その先にある巨大な門だった。
「……私は、お祈りしている、って聞きました。一日中」
「お祈り? 一日中?」
地元民のティアの言葉に、エリーは怪訝な表情を浮かべ首を傾ける。
ティアもティアで、流石にこの場では口を噤み、どことなく難しそうな表情を浮かべていた。
「私はそれしか聞いていません……。でもきっと、…………何でもないです」
それきり、普段騒がしい少女は口を閉ざした。
ここで育った彼女は、彼らが何をしているのか気づいているのであろう。
耳を僅かにでも傾ければ、群衆から漏れる呪詛のような言葉たち。
魔王の被害を受け、“失った”彼らは、“頼っている”のだ。
「“神様”に……、願い事でもしてんだろ」
言いにくそうなティアの代わりに、アキラが口を開いた。
“しきたり”に縛られた世界。
そこでは、総てを失ったとしても、それだけが残る。
この、強い信仰心。
だが“再び見たこの光景”に、アキラは僅かに親近感を覚えていた。
相手は神でこそないが、自分も“頼ってここにいる”。
「……私もこうした光景は見たことがある。あまり気分のいいものではないが、彼らも彼らなりに、な」
次いで言葉を発したサクは、いつにも増して神妙な顔つきをしていた。
神に一心不乱に頼る彼らは異様に映るが、そうなっただけの事情を各々抱えている。
丁度そのとき風の加減か、群衆の中の一人の声が雑踏の合間を縫うようにして届いた。
『大切な人を失った』
わらをもすがるようなその言葉に、アキラは瞳を閉じた。
「…………何か、納得いかない」
その光景を見ていたエリーが、一言呟く。
瞳を狭め、眉を下ろすその仕草に、アキラは再び今朝見た夢―――自分が頼った“刻”のことを思い出した。
あのときの“彼女”も、多分、そんな表情を浮かべていたのだろう。
「神族に願いを叶えてもらえるのは魔王討伐を果たした“勇者様”、でしょ?」
あくまで群衆に届かぬような小声。
エリーは街の人ごみに乱された髪を結い直し、僅かに口を尖らせていた。
「それなのに、こうやって“頼る”だけ、なんてさ。終わったことは、」
「……お前はどうなんだ?」
エリーの言葉に、思わずアキラは口を開いていた。
「“自分じゃどうにもならないこと”。それが起こったら、俺は他力本願でもそれに飛びついちまう」
「…………なによ?」
アキラは軽く自分の額を小突き、エリーから顔を背けた。
自分の“最悪の行動”を弁護するつもりはなかったのだが、実際に経験してしまえば彼らの気持ちも分かる。
“自分じゃどうにもならないこと”。
それを飛び越える力を、アキラは持っていなかったのだから。
「あたしは、“頼るのは反対”。相手が“神族”だろうと、よ」
「……アキラを元の世界に戻すのは、頼るしかないはずだが、」
「……、」
サクの指摘に、エリーは切り返しもせず目を閉じた。
アキラはその様子に眉を寄せる。
エリーは、別に失念していたわけではなく、本心からそれを口にしたように見えた。
「まあまあまあ、行きましょうっ。あっしもあの上に、一度でいいから行ってみたかったんですよっ」
妙な空気の中、あくまで声量を下げたままティアが口を開いた。
びしっ、と音がするほど勢いよく指差したのは見上げるほど高い階段。
そこからすすっと指を動かし、捉えたのは巨大な門だった。
「いつもは門前払いされていましたが、アッキーがいれば入れるんですよね?」
「……ティア、あなた入ろうとしたことあったの?」
この場の湿気を払うようにずんずんと歩き出したティアを追って、エリーもそれに続いていく。
サクも向かっていくのまで横目で見送って、アキラはもう一度群衆を見た。
悔恨や魔王への呪いを口にし、ただただ祈る群衆。
“二週目”。
あのまま“時間”を刻んでいたら、自分もあの中にいたのだろうか。
―――***―――
目指せ、目指せ。
殺せ、殺せ。
その魔物たちにインプットされたのは、結局のところその二つだけだった。
翼をはためかせ、空という最短ルートを通り、その大群は飛んでいく。
眼下の森林に雨雲のような影を落とし、雷雲のように魔力を迸らせる。
いずれも、アイルーク大陸などという“世界で最も安全な大陸”には相応しくない激戦区の魔物たち。
そしていずれも、“財”への欲求に染まった存在だった。
今から狙う場所は、人も集まり“それ”がある。
異形の貌の眼の色を変え、それらはただただ突き進む。
その数、三桁は下らない。
その存在たちに、破壊一色の指示を与えれば、攻める場所は無に帰すだろう。
だがその実、“逃げていた”。
激昂した、その魔物たちの“主”。
怒鳴り散らすようなその指示に、誰しもが震え上がり、その全力をもってして“逃げ出したのだ”。
“財”への欲求は、確かにあった。
“荒立ったことを禁じられている”アイルーク大陸に、“主”の指示という大義名分をぶら下げ攻めることができるという高揚感もあるはずだ。
だが、“主”―――“財欲”を追求する赫の魔族の憤怒の表情に、それは恐怖一色に染まってしまった。
目指せ、目指せ。
殺せ、殺せ。
その二つの指示は、しかし魔物たちに一つの思考をアウトプットさせる。
逃げろ、逃げろ、と。
いつしかその意気は眼下の森林中に伝わり、数多の魔物たちも同じ行動を取る。
逃げろ、逃げろ、と。
逃げる先は、アイルーク大陸の“神門”。
数多の魔物が、ヘヴンズゲートを目指していく。
―――***―――
ものすごく、嫌そうな顔。
僅かに開いた口は、『うわ』と発音したようにも見える。
エリーは、岩山の長い階段の入り口に立つ二人の人間の表情を、確信を持ちながらそう判断した。
十数人はゆうに横並びになれるほど幅があるその階段に、先陣を切って駆け寄っていくのはティア。
それを迎える―――恐らく門番であろう二人の男は、僅かに顔を見合わせ、眼精疲労を抑えるように目頭をつまんだ。
「やあやあやあっ!! お久しぶりです!!」
「ここにきて、お前か……」
純白のローブに身を包んだ二人の若い男。
その右の男が口を開き、ティアの行く手を阻むように身体で階段を防いだ。
「いっやぁぁああっ、本日はお日柄もよく、」
「何度も言っているが、ここに入るには許可がいるんだ」
どうやら、門番とティアは顔見知りらしい。
“頼る”群衆から離れ、声量が戻ったティアに門番が返したのは絵に描いたようなしかめっ面。
『一度入ってみたかった』という言葉通り、ティアは以前から単身侵入に挑戦し続けていたようだ。
「全く……、昨日から大変な騒ぎだというのに、」
「? この辺りで何かあったのか?」
門番が零した愚痴を、追いついたサクが拾った。
そういえばエリーも、この人通りの多さは気になっていたところだ。
地元民のティアも、今日は人が多すぎると言っていた気がする。
「お前たちは知らないのか? 昨日まで、ヨーテンガースから魔道士隊が遠征に来ていたのだが」
今度は左の男が口を開いた。
それを聞き、エリーの身体がピクリと動く。
ヨーテンガースの魔道士隊。
“中央の大陸”ヨーテンガースの魔道士たちは、“その場に相応しく”隔絶した力を持つと聞く。
遠征という存在をエリーは知らなかったが、自分たちが“魔族”と戦っているうちにそんな大イベントが起こっていたとは。
だが、それ以上に。
その場の魔道士に、一人、心当たりがあった。
「どこから聞きつけたのか……。誰もが一目見ようと街中大変な騒ぎになった。全く、魔道士たちは“神門”の“様子”を外から見るだけ。他は街の見回りをしていたというのに……。大人数が我々にそれを訪ねに来て……」
「あらら、お疲れさまです」
「その上、今日はお前の相手まですることになるとは」
「ひどっ!?」
どうやら、ティアと門番たちは顔見知りを通り越して、随分親しいようだ。
いや、もしかしたらこの街にいて、ティアと親しくない人間などいないのかもしれない。
それにしても、激戦区の魔道士ですらこの山に入ることは叶わないようだ。
それだけ、“神”は別格、ということだろうか。
「まあ、そんなわけだ。悪いがここは通せない。流石にお前の相手をするほどの労力は残っていない」
「ふっ、ふっ、ふっ、ワッキョン」
どの名前がティアの中を通過し変貌すればその愛称になるのか。
ワッキョンと呼ばれた門番の男は僅かに顔をしかめ、ティアを見返した。
「実はあっし、今日こそここを乗り越えます!!」
「……?」
得意げに語ったティアの言葉に、門番二人がさらに顔をしかめる。
また、妙なことを言い出した。その顔からはそんな二人の感情が感じ取れた。
「実はっ!! ここにおわわわすわお方は“勇者様”です!!」
「……!?」
感情表現豊かに噛みまくりながら、オーバーに身をひるがえし、ティアは両手で仰ぐようにエリーの隣に立つアキラを門番たちの視界に入れた。
エリーは僅かに呆れ、一言も発していないアキラから一歩離れる。
「……?」
門番二人の視線が、動いたエリーについてきた。
エリーは首を傾け、アキラをもう一度見上げ、視線を門番二人に戻す。
身体をさらに動かしても、やはり門番二人の視線はエリーを追っていた。
「……えっと、何ですか? あたしじゃなくて、こっちが、」
「…………」
「…………」
二人の門番が見る先は変わらない。
視線がくすぐったくなり、エリーはアキラの背に隠れた。
二人は、何を幽霊でも見たかのような表情を浮かべているか。
「い、いや、すまない。…………でも、なあ?」
「……ああ。い、いや、違う。こっちは赤毛だ」
「おやおや? どうしたんですかい!?」
奇妙な様子にティアが声を上げても、二人の門番は顔を見せ合うだけ。
だが、僅かに頭の中が整理できたのか、ティアに愛称を呼ばれていない側の門番が口を開いた。
「いや、いたんだよ。ここの様子を見に来たヨーテンガースの魔道士隊。その中に、“そこの彼女と瓜二つの少女”が」
「……!」
声にならない息を喉から吐き出したのは、エリーだけではなかった。
―――***―――
「それにしても、困ったことになったな」
所変わって、ここは飲食店。
店が繁盛していることの裏返しに数分待ち、ようやく座れた隅の四人掛けの席で、昼食をとり終えたサクが食器を整えながら呟いた。
木目の目立つ店内通り、どこか古めかしい丸テーブルを囲う面々の脳裏に、先ほどの門番とのやり取りが思い起こされる。
「“神門”への侵入。私は、勇者がいれば事足りると思っていた」
「そうですよ……。あっしも今日こそは、と思っていたのにぃ……」
サクの言葉に、覇気のない声を返したのはティアだった。
上半身を机の上に乗せ、空のコップを口にはさみ、行儀悪く座るティアは、念願の玩具の購入を親に断念された子供のように拗ねている。
「というか今日初めて知りました……。“勇者様”に、“証”が必要だなんて……」
ティアの様子を横目で見ながら、サクも頭を抱えていた。
拗ねた子供の髪が食器に触れないように離しつつも、目を瞑って頭を巡らす。
結局あのあと、“神門”への入場を懇願したティアに返ってきたのは拒絶の言葉。
いくらアキラが勇者と言っても、彼らの態度は変わらなかった。
どうやら彼らそのものに“決定権”が与えられていないそうだ。
あの場に門番が立っているのは、“崇拝者”対策という面が強いらしい。
あれだけ熱心に祈っている者たちだ。中には自らを抑えきれず、あの長い階段を駆け上がろうとするものさえもいるだろう。
そのために、門番はあの場にいるのだ。
つまりは、許可をするのはあの門番ではなく、“神族”。
来るべき者が来たとき、ヘヴンズゲートの門は開く。
しかし、彼らはこうも言っていた。
その、“勇者様の証”。
そこに、ほぼ例外なく通される確固とした“証”がある、と。
それが―――
「“七曜の魔術師”、か。また難易度の高い条件を出されたな」
―――“七曜の魔術師の集結”。
つまりは、七属性のメンバーを集めることを持ってようやく“通りたいと口に出せる状態”まで達せるとのことだ。
七曜とはすなわち、
日輪、月輪、火曜、水曜、木曜、金曜、そして土曜のことだ。
口で言うのは容易いが、実際、尋常なことではない。
七名もの人間が、同じ志を持ち、その場に集結する。
それだけでも奇跡に近いというのに、最大のネックは“月輪属性”。
七属性中、最も希少な“日輪属性”の問題は解決しているが、それに次ぐ“月輪属性”の問題が大きすぎる。
何しろサクは、長い間旅をしていたというのに、“月輪属性”の魔術師を未だかつて見たことがない。
無理に挙げるとすれば、かつて交戦した“魔族”―――サーシャ=クロラインが月輪属性であったが、仲間になる可能性は皆無な上、個人的恨みもあるあの“魔族”はこちらから願い下げだ。
そもそも、“神”に通してもらえるわけがない。
いっそ神族に逢うことを諦め、直接魔王を討ちに行った方が早い可能性すらある。
「……アキラ。悪いが“特権”の確認は諦めないか? あの門番たちも、一応『大丈夫だろう』と言っていた。そうでなければ、世界を一周したって見つからないかもしれない」
「……え?」
まるで、今までの話を一切聞いていなかったような顔をされた。
いや、実際にそうなのだろう。
サクの正面に座る、いつものことながら様子のおかしい“勇者様”。
こちらの問題も解決していないというのに、課題はしんしんと降り積もっていく。
「……“七曜の魔術師”の話だ。他はともかく、“月輪属性”の魔術師は―――」
「―――“あて”ならあるわ」
サクの言葉は、アキラと同じく店の賑わいに塗り潰されていた赤毛の少女から届いた。
「“月輪属性”の魔術師でしょ? …………一人知ってる」
「なぬっ!?」
エリーの呟きに、テーブルに溶け込みそうだったティアが身体を起こした。
口から弾かれてごわんごわんと回るコップをサクが慌てて手で押さえるも、ティアは気づきもせずに目を輝かせている。
「そだ!! そう言えばエリにゃん、誰かと間違えられていましたね!?」
「……そう、それ」
「やはり!!」
「……?」
ティアとは対照的に、どこか目を伏せるエリー。
その光景を見たサクは、目を擦った。
一瞬、エリーが他の誰かと重なって見えた気がしたのだ。
脳裏を掠める、妙な“ノイズ”。
最近よくあるその奇妙な感覚をとりあえずは放り投げ、店内の賑わいに負けぬよう、サクはエリーの言葉に耳を傾けた。
「あたしが知ってる中で、最強の月輪属性―――ううん、“最強の魔術師”。……あんたには話したことあったっけ?」
「……ああ」
エリーの視線を向けられたアキラが、僅かに首を縦に振った。
「お前の妹だろ?」
「うん……、“双子の妹”よ。“天才”の」
「おうっ!? まさかワッキョンたちが言ってたのはっ、」
「……多分、ね」
サクは僅かに目を伏せた。
エリーの双子の妹。
世にいる双子というものがどこまで似通うものなのかはサクには分からなかったが、どうやら他人に間違えられるほどには、らしい。
「……ちょっと待て。エリーさんは確か、私の一つ上だったな?」
「……ええ」
「昨日来たらしいのは“魔道士”隊だ。そんな―――」
「だから言ったでしょ? “天才”なのよ。あの子は」
涼しい顔をしようとして、取り繕うとするとそういう顔になるのだろうか。
エリーは視線を外し、窓の外をおぼろげに眺めた。
未だ賑わう町並みは、恐らく彼女の瞳には入っていないだろう。
だがその年で、“魔道士”とは。
魔術師試験を受けることが許される年齢は、丁度、エリーの一つ下のサクの年だ。
つまりはエリーの双子の妹とやらは、たった一年。
たった一年で、魔道の最高峰の資格を有していることになるのだ。
一応、サクは“資格を有する魔術師”を志はしていないが、実技の方は余裕で突破する自信はある。
だが、“魔道士”となると話は別だ。
学術や実技の試験さえも次元が違うと言われている上、その上で必要なのは“魔術師隊における実績”。集団で動く中でそれを得るには、“紛れもない特出した才能”が必要である。
どれほどサクが幸運に塗れても、一年でどうにかなる次元ではない。
頭脳も魔術も有し、そしてエリーに似ている以上、容姿端麗。
それを“異常事態”と言わずして何と言おう。
だが、
「……、」
“そういう話”に喜ぶ“はず”の男の方が、むしろサクは気になった。
正面に座ったアキラは取り立てて興味も持たない様子で、目の前のコップに視線を戻している。
いや、むしろ、あの顔は。
その魔道士の話“に”、表情に影を落としている。
「ま、とにかく今はいいでしょ? “神族の願い”なんて、さ」
軽く机を叩き、いつもの様子を取り戻したエリーは、しかし“信じられないようなこと”を口にした。
合意を求めるようにアキラに視線を送り、困ったように微笑む。
彼女の位置からは、アキラの“奇妙な様子”がどう映っているのだろう。
旅の前提を覆すうんぬん以前に、アキラの様子が“悪い方向に下降し続けていること”に気づいていないのだろうか。
「アキラ、お前はどうなんだ?」
助け船を出すつもりで、サクは声を出した。
それぞれの思惑がどう絡まっているのかは知らないが、舵を取る“勇者様”の意見は固めておく必要がある。
「“神族への願い”。それが不確かでも、お前は旅を続けられるか?」
「…………俺は、」
サクは注意深く耳を傾けた。
賑わう店内の僅かな無音の隙間に入り込み、アキラが本日初めて“自分の意見”を口にしようとしている。
「…………戻りたいのかもしれない」
その、アキラの言葉。サクと、そしてエリーの表情が強張った。
「正直、神族が何できるか知らないけど……、それにすがりたいかもしれない……」
再び、店内に音が戻った。
浮かぶ思考をそのまま声に出したようなアキラの言葉は上手く拾えなかったが、アキラが確かに口にしたのだ。
“この世界から逃れたい”、と。
「あ、あん―――」
「よしきたぁっ!!」
エリーがかけようとした言葉は、他の者たちの話し声をものともしない轟音にかき消された。
「やっぱり、“ワッキョン突破大作戦”はやりましょう!! 幸い月輪属性にはエリにゃんが“あて”があるそうですしっ、やっぱり“神族”の方々に“特権”の確認しておかないと!!」
店内どころか丁度店の窓際を通りかかった通行人までもの視線を集めていることにも気づかず、ティアは立ち上がって叫び始めた。
「それに、ここにいる四人で折り返し地点は突破してます!! あと三人、頑張っていこーっ!!」
天井に突き上げたティアの拳を見ること数秒、ようやく我に返ったサクが顔をしかめる。
「……ちょっと待て。お前は、」
「何ですかい!? サッキュン!!―――うおぅっ!?」
あまり人には聞かれたくない自らの愛称を叫ばれ、サクは普段より力を込めてティアを座り直させた。
「……ついてくる気なのか? “魔王討伐”に?」
「……え、…………えええっ!? あっし、お払い箱なんですか!?」
座っている状態ですら叫ぶティア。
だがサクはそれとは別に、またも違和感を覚えていた。
何故自分は、“彼女がついてくることは当然”だと僅かにでも思ったのだろう。
自分たちと彼女の繋がりは、確かに十分すぎるほどのイベント―――“魔族戦”。
だが、何故かそこに、再び奇妙な“ノイズ”が入る。
自分たちは何故、彼女を送り届けることを第一に考えなかったのか。
「……そう、そうだ。忘れていた。お前の家はどこだ? 昨日から帰っていないんだろう?」
「…………、」
本来この街に踏み込んだ瞬間に口から出なければならない言葉。
それを受けたティアはにこやかな表情を完全に硬直したのち、手を顔に当て、プルプルと震え始めた。
「…………ノッ、ノオォォォオオオオーーーッ!!!! 忘れてたっ!! てかやっばーーーいっ!! わたしゃぁ何やってんだぁぁぁあああーーーっ!!!? うおぉぉぉおおおおーーーっ!!!!」
「おっ、落ち着け!! とにかく家に行こう。エリーさんも、図書館はそのあとでいいな?」
「…………なにそれ?」
気づけばエリーは、目の前で絶叫する騒音発生機に視線も送らず、乾いた目で毛先を弄っていた。
あれほど図書館に行くと言っていたはずのエリーが、完全に興味を失っている。
「どっ、どどどっ、どうしましょう!? あっし、……そだ!! 指輪も見つけてねぇぇぇえええーーーっ!! なんというっ!!」
「っ、……?」
サクがティアを抑えようとして立ち上がると、足にこつんと、テーブルの下に置いた荷物が当たった。
そして“とある物品”が倒れて転がる。
そういえば、これもそうだった。
「お、お客様―――って、ティアちゃんじゃない!! ほら、静かに、」
相変わらず心ここに在らずのアキラ。
どこか拗ねているようにも見えるエリー。
そして、再び立ち上がって叫ぶティア。
それをなだめようと駆け寄ってきたティアの知り合いらしい女性の店員まで加わり、サクは立ちくらみを起こした。
本当に、問題だけがしんしんと降り積もっていく。
―――***―――
「いやいやいやっ、ほんっっっとうに申し訳ないっ!! 不肖このわたくし―――」
「―――っ、ああもうっ、この子ったらっ!!」
ドアを開けた直後転がり込んで深々と頭を下げたティアを、妙齢の女性が抱きしめた。
ティアに似て青みがかった髪を束ねた女性は、溢れんばかりの力を腕に込める。
「おおっ!? 絞まるっ! 絞まるっ!! いだっ、いだだだだっ!!」
耳元で喚かれ、ようやくその女性はティアを離した。
ただ、目には涙を浮かべている。
「……、って、あら?」
その女性は、ようやく入ってきた面々に気づいたようだ。
決してどこかに駆け出して行かぬようにティアの肩を強く抱き、未だうるんだ瞳を“来客”に向ける。
「おおっ、母上!! よくぞ気づきなすった!! こちらにおわすお方をどなたと心得る!!―――いだっ、ごめんなさい、ごめんなさいっ!!」
ティア母らしいその女性の叫び声への返答は、肩に込めた力の増加だった。
小柄なティアがその圧迫から逃れようと動いても、大した効果がないほど力強いらしい。
「あなたたちが、ティアを?」
「……ああ」
ティアを送り届けたのは三人。
その中で、唯一口を開くことができたサクがティアの母に言葉を返した。
背後のアキラとエリーは口を紡ぎ、普段より間を取って立っている。
サクは思う。
これ以上の厄介事はご免だ、と。
「まあ、それはそれは。どうぞ、上がっていって下さい。こんな所ですけど、」
ティアの母が視線を移したのは、その“店内”だった。
ティアが蹴破らんばかりの勢いで開いたドアの看板通り、ここは武具屋のようだ。
剣、槍、斧、そして身体を覆うプロテクターや鎧まで種別され、木造のラックに所狭しと並んでいる。
サクが今まで興味本位で回った武具屋にも、ここまで種類を揃えた店はほとんどなかった。
その上、ヘヴンズゲートに店を構えるだけはあり、上質な物が揃っている。
使う武具は腰に下がった一刀だけだが、それでも目は輝いてしまう。
「へいへいへいっ、驚いたかい!? しっっっかーーーしっ、それだけじゃないんですぜぃ!! ―――へぅっ!?」
微弱であったが抵抗の甲斐あり、母親の拘束から抜け出したティアはくるりと回り、店の奥正面の茶色い暖簾を勢いよく上げ、頭に拳を振り下ろされた。
暖簾は再びだらんと下がる。
ティアの母は気まずそうに視線を外すも、およそ礼儀を知らないティアを咎めるように睨む。
母のわりには大人しそうな女性ではあったが、似ている部分はあるらしい。
「きっ、気を取り直してもう一度、どうぞーーーっ」
ティアが開けた暖簾の先、先ほども僅かに見えた大きなかまどが姿を現した。
木造の床から、一段下がって砂の地面。
かまどの近くには金槌や桶まで置かれている。
「主人の仕事場です。奥の階段を上っていって下さいな」
「…………あ、ああ」
店と家が一体になっているのだろう。
奥には人一人通れるほどの階段が見え、ティアはすでにその場に足をかけている。
だが先ほどの武具が並ぶ店内以上に、サクはこの場に惹かれた。
この店は、武具を売るだけではなく造ってもいるようだ。
もしかしたら、この店なら。
サクは担いで運んでいる“とある物品”に視線を移す。
「すまないが―――」
「そだ!! お母さん!! 申し訳ねぇっ!!」
彼女は瞬間移動でも使えるのか。
階段付近にいたはずのティアが暖簾まで駆け寄り、サクの言葉を遮って勢いそのままに頭を下げた。
「わたくしめはっ、シーフゴブリンの野郎がキャッチアンドゴーしたお二人の結婚指輪をっ、不覚にも発見できずっ、―――へうっ!?」
ティアへの返答は、再び頭への拳だった。
ティアの母親は疲れたような表情を浮かべ、そのままため息を吐き出す。
「ううう……、ドメスティックなヴァイオレンスですよ……」
「今度から意思疎通できる文字を書きなさい。あなたの書置き、解読できなかったわ」
「なんと!?」
「そんな物、もういいから。お客様のお相手していて。今の話で思い出したわ。……ごめんなさいね。私これから、この子の捜索に行った主人を探さないと、」
「……あ、ああ。お気遣いなく」
「いえ、恩人ですから。いいティア? くれぐれも……、くれぐれも、よ」
「おうさっ!! 私にっ、ま、か、せ、と、けぇぇぇえええーーー―――へうっ!?」
どうやらティアの父親は、ティアの探索に出ているらしい。
最後にティアの母親は、ティアに拳を下ろし、軽く会釈して駆け出していった。
「ううっ、でもっ、あっしは負けない!! さあさあさあっ、もてなしますぜぃっ!!」
涙目になりながらも、ティアは頭をさすって再び階段に足をかけた。
だが随分と、温かな家庭のようだ。
こちらの面々の、現状と違って。
「…………悪い、みんな。俺さ、ちょっと散歩してきていいか?」
今の喧騒の中、何も発さなかった二人の内の一人、アキラがふいに声を出した。
浮かべているのは中途半端な愛想笑い。
その裏を、サクは読み取れなかった。
ようやく分かったことがある。
アキラは、昨日の問題―――サクが“経験者”として察せた問題とは、別のものを抱えているのだ。
だから、彼にかけるべき言葉など、サクには見つからなかった。
「……行ってらっしゃいです。さ、エリにゃんサッキュン!! 行きましょうっ!!」
アキラの放浪を止めるかと思っていたエリーは黙り続け、ティアは気持ちよく送り出す。
各々の問題が肥大化していく、現状。
サクはアキラが武具屋から姿を消すまで、その後ろ姿を眺めていた。
―――***―――
「うわ、すごい本ね」
他人の家に上がり込んで黙り続けることに抵抗が出てきたエリーが、精一杯感情を込めたはずのその声は、驚くほど無機質なものだった。
ティアに通された武具屋の二階。
階段を上がってすぐの彼女の部屋に入れば、誰しもが口を揃えて『本が出迎えた』と詩的な表現をするであろう。
部屋の奥には、一つきりずつのベッドと窓。そして、中央には丸いテーブル。
しかし、そこに辿り着くまでに並ぶ本棚は、どの棚もびっしりと埋もれ、およそシンプルとは表現できない部屋模様を作り出していた。
あるいはこれが古びた書物ならば書庫か何かと評価できるのであろうが、幸か不幸か総てが漫画。
並び切れずに本棚の隙間や机の上にまで浸食して縦積みになっているその本たちは、カラーの背表紙で部屋の光度を保っているように見られた。
「……、」
高密度の部屋の中、エリーは周囲の本が崩れぬようにそろりと歩き、本棚に近づく。
視界に収めたのはリビリスアークにいた頃に購読していた漫画の新刊。
それに出そうとした手は、思ったより動かなかった。
「おおっ!! エリにゃんこの本ご存知ですかっ!?」
代わりに伸びた手は、その漫画を掴んでエリーの眼前に差し出してきた。
一つ前の巻で初登場を飾ったキャラクターが躍った表紙を見て、エリーはため息を吐き出す。
そういえば自分たちは、日常とは別れを告げ、まさしく本の中のような物語をしているのだった。
「これは……、すごい量だな」
「おおっ、サッキュンはどの本読みます?」
「い、いや、私は、」
ティアなりのもてなしとは漫画を読ませることなのだろうか。
漫画のその量に気圧され、ドアに棒立ち状態のサクにティアは物色した本数冊を持って寄っていく。
何となくテーブルに座ったエリーは、横目でその本の背表紙を確認し、顔をしかめる。
エリーも見たことがある作品だ。
あの本は、その、かなり、
「あっしのお勧めは―――これだっ!!」
「……………………」
“そういう方面”にうとそうなサクは、眼前に開かれた漫画を注視し、完全に硬直した。
凛々しい顔立ちの中、瞳を痙攣させたように泳がせ、無言でティアに背を向ける。
「おやっ!? サッキュンはあんまりこういう本読まないんですかっ!?」
「…………武器、武器を見よう……」
よくもまあ“そういう本”を人に勧められるものだ。
夢遊病者のように階段を下りていくサクの力ない足音を聞きながら、エリーは額に手を当てた。
「…………そしてまた一人、いなくなってしまった……」
分かりやすいほど落ち込んだティアは、テーブルを挟んでエリーの体面に座り込む。
そのティアを見て、エリーは思った。
彼女は、無垢だ。
悩み事なんて、自分のように溜まり続けないのだろう。
「……エリにゃん、漫画、読みませんか?」
「…………ううん、いいや」
その彼女の表情を見ているのが僅かに辛くなり、エリーは窓に視線を移した。
明るい色のレースのカーテンが、開け放たれた窓でそよそよと泳ぐ。
今頃、あいつはこの空の下、迷子にでもなっているだろうか。
「こんないいお天気じゃ、アッキーも散歩したくなりますよ」
ティアには読心術でもあるのだろうか。
エリーがふっと頭に浮かべたその話題を、ティアは即座に口にした。
「あいつはあいつで、何かやってんでしょ」
今度の声は、感情を込められた。
エリーは両足を抱え、口を尖らせる。
この気持ちに名前をつけるとしたら、何になるだろう。
今はただ、『面白くない』としか命名できていない。
アキラはあの飲食店で確かに言った。
『元の世界に戻りたい』、と。
つまりは、結局、自分の予想は外れていたわけだ。
元の世界のこの世界。それらをかけた天秤が“こちら側”に傾いた、という予想は。
だが、あの男の関心は、やはり当初通り“魔王討伐の報酬”。
二度も起こった“魔族戦”も、着実に増している彼自身の力も、そして、自分たちも。
彼の元の世界への愛着を凌駕していないのではないということになる。
それなのに、自分は妙な勘違いをしていたのだ。
思わず、“神族への願い”などどうでもいいなどと口を滑らせてしまった。
そして、その羞恥心より、このもやもやとした感情の方が大きいことも気に障る。
“楽しくなったら困る理由”。
それは再び、闇の中だ。
やはり、『面白くない』、だ。
「エリにゃん、なんか、拗ねてません?」
「別に。あたしはいつも通り」
「……、」
あの男のことでイライラするのも、正に“いつも通り”だ。
それなのに、当の本人は気づきもせずに勝手に動き回っているのも、“いつも通り”。
何も変わっていない。
「さ、漫画でも読みましょう」
半ばやけになって適当に掴んだのは先ほどの新刊。
アキラのことなど、知ったことではない。
「……そう、ですね」
「……?」
一瞬、エリーはティアの表情に影が見えた気がした。
しかし即座にいつものにこやかな表情に戻り、目を輝かして漫画を物色し始める。
何故だろう。
エリーの中で、ティアの表情が、昨日洞窟内で見たサクの表情と重なった。
あの、アキラの悩み事を察していたサクの表情と。
もしかしたら。
ティアは、アキラの悩み事を、本能的に感じ取っているのではないだろうか。
恐らくは―――“経験者”として。
―――***―――
「……、ここには“それ”以上のものは置いていないぞ?」
「…………私用、というわけではない」
武具屋のドアが開いた途端、自らの愛刀に視線を受けたサクは、別段驚きもせずに言葉を返した。
鍛冶屋のような店を回ると、良識ある店主からよくそんな声をかけられる。
「ここの主人か?」
「ああ。今日は店じまいだったんだが……、誰もいなかったか?」
三、四十代であろう。
鍛冶屋への偏見の、まさしくその通りといった風情のその男は、立派な体躯を揺らし、大股でサクに近づいてきた。
汚れた白のタンクトップから隆々とした筋肉を浮き立たせ、ぼさぼさの黒髪と無精ひげ。
だがその雰囲気は本当に、まさしく職人、だ。
ここの主人を名乗った以上、彼は、ティアの父親だろう。
「失礼をした。娘さんを連れてきた。あなたを探しに母親は出て行ったが……、会わなかったのか?」
「そうか。あんたらが……。助かった。だがあいつとは、入れ違いになったらしい」
ティアの父は樹木のように太い腕で手を差し出してきた。
「グラウス=クーデフォンだ。ここの武具屋をやっている」
「サク、だ。ファミリーネームは、ない」
手を取ったサクは、僅かに表情を変えた。
随分と、強い握力だ。
「……ああ、悪い。こんな仕事をやってるからか、力加減が分からなくてな」
「問題ない。一応私たちは“そういう旅”をしているからな」
「だろうな。“魔術師隊”にも、あんたみたいのはいなかった」
「……?」
グラウスと名乗ったその男の言葉のニュアンスに、サクは僅かに表情を変えた。
「俺は元魔術師隊だ。と言っても廃れた部隊だったがな」
それで、か。
サクはその言葉にある種の納得感を覚えていた。
グラウスの威圧感は、“現場を知っている職人”としての重みがある。
「あいつは?」
「上にいる。私の仲間と共にな」
グラウスは僅かに目を瞑り、言葉は返さず頷いた。
一言聞けば二言三言で返ってくるティア。その父とは思えないほど、落ち着いた風情だ。
「……!」
そこで、サクは気づいた。
この男に、ミドルネームはない。
だが、ティアは、それを持っているのだ。
ミドルネームをつけるのは、母親の方の風習だろうか。
いずれにせよ、僅かな疑問としてサクの中に蓄積する。
「……面白そうなものを、もう一つ持っているな」
「……!」
サクの思考を、グラウスの低い声が遮った。
グラウスの視線は腰の愛刀から背中の“とある物品”に向き、鋭くなっている。
「……そうだ。ここは鍛冶屋でもあるのだろう? 一応見てもらいたいものがある」
サクは背中から荷物を下ろし、愛用のナップザックに括りつけてあったものを外す。
簡易的に包んだ白い布を外せば、姿を現したのは剣―――“であったもの”。
刃渡りは、七十センチから八十センチほどだろう。
両刃の剣の根元には、左右対称に広がる鍔。
剣と聞いて容易に想像できる姿のその“物体”は、所々赤茶けて錆び付き、白い布をすでに汚していた。
これは、“とある宝物庫”から唯一持ち帰ったものだ。
金銀財宝の中に在って、輝きを放っていなかった奇妙な物体。
アキラが固執しているように見えたため運び出してきたのだが、実のところ、サクの方がこの剣に対する関心は高かった。
自らの武器は腰に下がる長刀だけと決めているが、もしかしたら、使えるときが来るかもしれない。
あの、剣を武器に戦う“生徒”が。
「随分な年季物だな……。見せてもらっていいか?」
「ああ」
グラウスはその大きな腕で、錆び付いた柄を物ともせずに握り締めた。
その眼は、どこかギラギラと輝いて見える。
持ち上げて灯りにかざしたところで、ようやく視線をサクに戻した。
「……これを、どこで?」
「この辺りの“とある洞窟”だ。昨日見つけた」
「…………、」
グラウスは思考を巡らすような顔をして、再び“物体”に視線を戻した。
「こんな話を知っているか? 遥か昔、この辺りで大きな行商が襲われたことがあるらしい」
「……初耳だ」
シーフゴブリンの仕業だろうが、サクは素直に首を振る。
だが、頭の中で、グラウスの話とその物体との繋がりが生まれてきた。
「その中で、無くなった武器があったらしい。大分貴重な剣だったそうだ」
「……!」
グラウスはそこまで言って、剣をサクに渡した。
そして僅かに首を振る。
「まあ、これがその剣かどうかは分からんがな」
だが、グラウスの言葉を聞いても、サクは何故か確信していた。
あのアキラがこの剣に手を伸ばしたのだ。
彼にはそういう“妙なもの”を引き寄せる力がある。
ある種オカルトじみている思考だが、異世界来訪しかり、魔族しかり、彼は“そう”なのだ。
「だが、残念だが俺には直せない。見たところ材質だって…………、お前には分かるか」
「?」
「……? お前、金曜属性だろう?」
「……!」
最初にサクを見たときか、はたまた先ほどの握手のときか。
グラウスはサクの属性を察していたらしい。
廃れた魔術師隊にいた、などと言ってはいたが、魔術の“色”を見る前に属性を言い当てられるほどには、グラウスは上級者なのだろう。
「……私には分からない。何か他と違う、という程度しかな」
サクは素直に首を振った。
よく武具を見て回っているが、見て触れただけでは材質そのものの区別はほとんどできない。
「そうか。珍しいと言うべきだろうな」
グラウスの言葉通り、金曜属性としては珍しい。
「まあ、この武具を鍛えたいなら……、タンガタンザだ」
「……!」
その言葉に、サクの身体がピクリと動く。
その場所―――その、西の大陸タンガタンザは、自分の、
「……“訳あり”、か。…………次はそっちだ。見せてもらっていいか?」
この男には、総てが見透かされているのだろうか。
サクの僅かな表情の変化を機敏に察し、今度は腰の愛刀に視線を向けてきた。
僅かな緊張に、腕が震えないよう注意しながら、サクは刀を鞘ごと差し出す。
あまり人には触らせたくないものなのだが、この男は、それだけのものを持っている。
「……、」
“物品”を布に包むと、グラウスは長刀を抜き放った。
そして同じように、灯りにかざす。
全貌を現したその刀。
それは、刃渡りだけで先ほどの“物品”を超えるほどにも見える長刀。
毎日手入れを欠かさない、サクの旅の成果そのものだ。
「…………古い傷が多いな。随分と無精をしていた頃があっただろう?」
武器を見れば、彼はそれが分かるのだろう。
サクは僅かに視線を刀から外し、頷いた。
「実力も魔力も足りない頃があってな」
「……そうだな……。そのようだ。問題ないと言えばないが……、俺が鍛え直してやろうか?」
「……! できるのか?」
「ここは鍛冶屋だ。さっきの剣は無理だが、補修くらいならできる」
「……頼めるか」
「なに。娘を助けてもらった礼もある」
グラウスはそう言って、刀を鞘に収め奥の暖簾に向かっていく。
その光景を、サクはその他一切をしばし忘れ、おぼろげに眺めていた。
頭の中で、過去と今を繋げながら。
―――***―――
呆然と歩いたわけでもなく。
人ごみを避けて通った結果でもなく。
ただ、“意図してそこに向かった結果として”。
ヒダマリ=アキラは、この街で最も壮観で、“最も悪しき空間”に立っていた。
雲を突き破らんばかりの巨大な岩山。まさしく天井知らずとでも言ったような、“不自然すぎる自然物”。
右を見ても左を見ても終わりが見えない岩壁の麓は、“聖地”として街の雑踏から一線引くように白い石で整備されている。
背後には雑音、正面には無音。同じ空間に在るはずなのに、隔絶した差のある両世界の境。そこに、アキラは立っていた。
―――世界でもっとも醜い存在たちと共に。
相も変わらず“頼る”群衆。この場を離れてしばし立つというのに、もう昼もとうに過ぎているというのに、その存在たちは減ることも増えることもなく、まるで場所が最初から定められているゲームのキャラクターのように“神界”へ続く門を見上げ続けている。
先ほど言葉を交わした門番たちにどのように見られようとも、彼らはただ、見上げるほど高い階段を視線で飛び越し、悲痛な色の瞳を“神”へ向けていた。
「……、」
アキラは思う。
この群衆たちを、醜いと形容してはいけないのではないか、と。
彼らは“自分が自分でいられるもの”を、傍若無人なまでの力で壊されたのだ。
群衆の中。
腕にギブスを嵌めた男性は言っている―――料理人への夢を奪われた、と。
皺を刻み込んだかのような顔の老人は言っている―――先祖代々受け継がれてきた大切な山を焦土にされた、と。
乱れっぱなしの長い髪を気にも留めずなおも振るわす若い女性は言っている―――生まれたばかりの我が子を目の前でかき消された、と。
何も彼らが悪いわけではない。
ただ、背後で賑わう街の者たちと違い、“運”がなかっただけ。
だがその不運は呪縛となり、人の“支え”を奪っていったのだろう。
他に支えがあれば―――あるいは、“支えが完全に無かったら”、彼らもこうはならなかったかもしれない。
自ら命を絶った者もいたかもしれないし、過去と決別して新たな道を見つけ出すことができた者もいたかもしれない。
だが、彼らには生まれたときから、根底に“支え”があったのだ。
“しきたり”。
あまりに不確かで、しかし強力な力を誇る“神への崇拝”。
宗教というものに疎い日本という国から来たアキラにとって、それがどれほど“心酔するに足る考え方”なのか分からない。
だが、アキラは知っている。
この世界には、文字通り“不可能を可能にする力”があるのだ。
それを頼ってしまうことに、何の罪があるだろう。
「……、」
真似をしたわけでもなく、さりとて疲れたわけでもなく、アキラはその場に腰を下ろした。
頼る群衆から離れて僅か二十メートル。アキラの方には、群衆からの視線も向かない。
彼らの視線に込める願いはただ一つ―――“報復”だ。
自分の支えを奪った存在。
すなわち、魔王への憎悪。
それを受けて立つ者は、“神族”ではなく、真横に座った“人間”であるというのに、彼らはアキラに気づかない。
「…………駄目だな」
ふいに、アキラは呟いた。
風が吹き、砂埃が無機質な匂いをぶつけてくる。
それでもアキラは目さえ瞬かせず、呆然と群衆を眺めていた。
ここに在るヒダマリ=アキラは、“異世界に来訪したヒダマリ=アキラ”ではない。
“二週目”という世界から、“想いだけを受け継いで現れたヒダマリ=アキラ”だ。
与えられた使命は、二つ。
大切な人を救うことと、世界の平和を約束すること。
その内の、後者。
それは、アキラの義務だ。
“二週目”。
アキラは結果として、魔王を討った。
ここにいる群衆が、僅かにでも生気を取り戻し、そして“数が増加しない”ような奇跡を起こしたのだ。
だが、手のひらに在ったその奇跡を、“人間”たるアキラは利己的にも放り投げてしまった。
“総ての時を巻き戻す”という、“不可能を可能にして”。
だから、“落とし前”。
利己的な旅でも、そこだけは守らなくてはならない。
だが、その利己的な旅に払った対価は、魔王討伐という“刻”を持って捧げられる。
捧げられた対価。
それは、ほとんどの心理学でも、生物の根源にあると謳う―――“生命”。
魔王を討ったその“刻”を持って、アキラの“それ”は捧げられてしまう。
つまりアキラが魔王討伐を目指す“勇者様”で在るということは、その先に待つ“ハッピーエンド”を迎えられないということになる。
「…………やっぱ、駄目だな」
アキラはもう一度呟く。
アキラはこの場所に、“期待していた”。
この群衆の絵が、自分の背中を強制的に押してくれるのではないか、と。
“勇者様”を求めるリアルを見れば、自分の恐怖を和らげられるのではないか、と。
自分勝手だと、我ながらアキラは思う。
少し前まで、足の踏み出し方が分からなかった。
“三週目”に落とされて、自分の歩む道を見失い続けていたのは記憶に新しい。
実際今もそうだ。
だが、きっともう、自分の足くらい自分で動かせる。
“魔族”を退けたのだ。他でもない、自分たちが。
それはまるでおとぎ話のように、総てが正に働き、世界がキラキラと輝いて見えた。
だが、その輝いた世界の先。アキラは陰りを見つけた。その陰りはアキラに囁く。
『その輝きは、ここで終わりだ』、と。
閉園時間が決められた遊楽施設のような、閉演時間が決められた映画のような、終焉の見えるその世界。
そしてその“刻”を定めたのは、他でもない。激昂だけに身を任せ、月下に吠えたアキラ自身なのだ。
それなのに、その世界は。
総ての歯車がかみ合ったその世界は。
“もう何も求めない”と誓って入ったその世界は。
本当に、キラキラと輝いているのだ。
「やっべぇ…………マジ、で……、」
何故こうも、“決めたこと”に固執してしまうのか。
アキラは額を手のひらで押さえ、頭を抱えた。
プルプルと震える唇が紡いだのは、この、“楽しい世界”で紡いだのは、
「死にたくねぇ……」
総ては悪寒。
進む先は、誰しもが歩んでいく闇。
だが“そこ”に入った者は、“不可能を可能にでもしない限り”、引き返すことはできないのだ。
ヒダマリ=アキラは決して聖人ではない。
確固たる自分を持って意思を貫けるほどの強者でもなければ、危険に身を敢えて差し出し人々の羨望を受ける得る英雄でもない。
元の世界にいたのならば、少し変わった人と思われながらも、大学を卒業し、普通に就職をし、社会の歯車の一つとなって回っていくような、本当に、ただの人間だ。
脚本家、演出家、小説家。誰から見ても、話のタネにもならない人生を送るはずだった、ただの人間だ。
そんな人生を、つまらないとアキラ自身も思っていた。
だがそれを打開するだけの意思も能力もなく、結果として流れに身を任せていた。
しかし、今この誰もが嬉々として目を向けるような異世界に来て、アキラは思う。
口からポロリと出てしまうほど、“続く世界”に憧れていた、と。
「“特権”って、俺を救うことはできるのかよ……?」
アキラは眼前の岩山をぼんやりと見上げながら、そして沈黙した。
―――***―――
「かっ、火事どぅわぁぁぁあああーーーっ!!」
まさしく天災。とでも言うべき“騒音”に、サクは鋭い視線を階段に向け、即座に視線を元に戻した。
立ったままだというのに、僅かばかりまどろんでいただろうか。
階段をドタバタと駆け降りるその足音に、サクの意識は再び熱気こもるかまどに向いた。
「へうっ!? おっ、お父さん!? おかえ……、いや、ただい……? ……おかいまっ!!」
「……、」
結局階段から転びながら登場したティアに、その父―――グラウスが返したのは集中力を僅かにでも分散していないような無言。
グラウスは今サクの長刀を眺め、魔力を流してしている。
かまどに火を入れ温めている間の、補修個所の“確認作業”だ。
「あれ? あ、えっと、お邪魔してます」
「……、ああ。聞いたよ。助かった」
ティアの後ろから赤毛を揺らして現れたエリーが、倒れ込んだまま騒ぐ少女を助け起こしながらグラウスに視線を向けた。
グラウスはようやく二人の存在に気づいたかのように静かに言葉を返す。
そういえば、グラウスが返ってきたことをエリーにも“娘”に伝えていなかった。
「そだそだ!! お父さん聞いて下さい!! あっし、旅に出ます!!」
「……、」
“仕事場”に響くティアの大声に、グラウスの流れるような作業が僅かに止まった。
だがそれも気のせいか。
グラウスは即座に作業に取り掛かる。
拳を天井にかざしたティアを視線に収めることもせず、その動きに何の淀みもない。
「あれ? 聞こえてないんですか!? 実はあっし、ここにいる方々と、」
ティアは上げていた手を下ろし、グラウスに一歩近づく。
だが、工具が散乱している地帯には足を踏み入れずその場で止まる。
そこがまるで“聖地”であるかのように、グラウスが教え込んだのであろうか。
「ティア」
「はいさっ」
「仕事中だ」
その言葉に、ティアの動きは、うっ、と止まった。
単純に怒られることを懸念しての硬直は、年相応にも満たない子供のような印象を受ける。
「……えっと、サクさん、刀直してもらっているの?」
グラウスの雰囲気に声も小さく、エリーがサクに歩み寄ってきた。
サクは頷き、視線をグラウスに戻す。
そういえばグラウスにも、ティアが自分たちについてくると言い出していることを言っていなかったのを思い出した。
「ねえ、そういえばあいつ。まだ戻ってきてないの?」
「…………ああ」
無言を嫌ってか。エリーが次に口に出したのはアキラのことだった。
エリーの様子が、元に戻っているように見える。
どうやら先ほどまでの彼女の妙な様子は、重大な問題を抱えていたわけではなく、ただ単純に、時間がたてば解決するような“拗ね”に分類されるものだと、サクはようやく分かった。
「……そうだ。アキラの武器を見つけておいたぞ」
エリーの機嫌が直っているのなら好都合だ。
この旅の財政を握っているのは、この赤毛の少女。
今の内に、昨日破壊されたアキラの代えの武器。その購入意思を固めておいてもらいたい。
「……もう一人、いるのか」
「……! ああ」
サクの刀に集中していたかに思えたが、どうやら今の会話を拾っていたらしい。
視線だけは外さず背を向けたまま、グラウスは言葉だけを送ってきた。
「もし何か欲しいのなら、持っていって構わない。あんたらには借りがある」
「おおっ、お父さん太っ腹!!」
グラウスが会話していることを好機と取ったのか、ティアは再び閉ざされていた口を開いた。
しかし、どうやらそれは好機ではなかったらしく、グラウスは背中越しにギロリと視線をティアに投げかける。
「……悪いがあんた」
「あっ、あたし?」
ティアに視線を送ったまま話しかけられるとは思っていなかったのだろう。
エリーは跳び上がらんばかりに身体を震わす。
「もう一人仲間がいるなら、剣を運んでいって“構わない”。“なんなら”、ティアを連れていってくれ。“中々役に立つ”」
「……はい」
「おおっ、」
恐らくティアを除く全員が、グラウスの意図を理解していたであろう。
アキラは結局ここに戻ってくるはずなのだから、剣を運ぶ意味はない。
つまりは、ティアの厄介払いだった。
「えっと、サクさん、どれ?」
「あ、ああ、こっちだ」
刀から離れることにも抵抗はあったが、何よりエリーが空気を読んでこの場からティアを連れ出してくれようとしているのだ。
サクは暖簾をくぐり武具屋の店内に向かうと、先ほど見定めていた内の剣をラックから取り出す。
くすんだ金の鍔に、銀の刀身。
両刃のそれは、先ほどの“廃れた物品”とほぼ同型であった。
そういえば、“あの物品”の話もしていない。
だがこれは、今は口に出す気にはなれなかった。
「じゃ、じゃあ、あたし、あいつ見つけ出して届けてくるわ。ほら、ティア、道案内とかお願い」
「おうさっ!! 私にっ、ま、か、せ、」
バタン。
ティアが引きずり出されていった外から、無機質な店内まで叫び声が届いてくる。
とりあえず厄介払いは完了し、サクは即座に“仕事場”へ戻った。
再び入ったその場所は、やはり店内と比して室温が高い。
むっとした空気に気圧されず、サクは静かに元の位置へと歩んだ。
再び見る、広い背中。
先ほどの騒音すら忘れ去られているようなグラウスは、
「ティアを連れていくのか?」
妙に静かな声を送ってきた。
「さっきティアが言っていただろう。お前らと旅に出るって」
会話の中、グラウスはサクの刀になおも魔力を流し続ける。
顔も見えないグラウスの作業は淀みない。
それだけに、サクはグラウスを計りかね、目を細める。
だがグラウスは、先ほどのティアの叫び声を聞いてはいたようだ。
彼女は“神門”からの帰り道、自分たちについてくると言い出している。
その件につき、サクは答えを返していない。
決定権を持つべきなのは、パーティの“勇者様”であるアキラ。
そして、ティア本人だ。
だが、グラウスは、今、答えを求めている。
「……もしそうだとしたら、いいのか?」
「あいつもそろそろ手に職をつけなきゃならない頃だ。そこから先は、俺が決めることじゃない」
サクの言葉に、グラウスは一般的な意見を返してきた。
アルティア=ウィン=クーデフォン。
彼女の年齢は、サクより一つ下だ。
一般的な人生からおよそ外れている自分と比すのもどうかと思うが、その頃サクはとっくに旅をしていた。
魔術師として自立し、依頼を受けて各地を回る毎日。
いわゆる、“旅の魔術師”という職に分類される。
魔術の才があり、“魔術師試験を受けない者”の多くが、通例として選ぶ職。
魔物討伐を生業とする以上、当然、最も危険な職でもある。
「だがな、あいつに務まるのはそれくらいだ。魔術師試験を受けるつもりもなく、鍛冶の腕もからっきし。誰かが困っていたら、助けられもしないのに飛び込んでいくような奴だ。……“人助け”がしたいんだと」
きっとそれが、“アルティア=ウィン=クーデフォン”という人物なのだろう。
“父”が認識しているのだからそうなのであろうし、現にサクもそれに納得できる。
年相応―――とでも言うべきか、彼女は、非常に“直線的”な性格の持ち主だ。
恐らくそれは、“美点”なのだろう。
だが、彼女の捉えているらしい目標―――“人助け”。それは、あまりに具体性に欠ける。
具体的な目標がないことの欠点とは、確かな一歩を踏み出すことも、自分で自分を評価することもできないということだ。
それは、自分の道を決めなければならない段階に置いて、大きな弊害となる。
「このままだったら、あいつはいつか“やらかす”」
そんな娘を持った“親”は、かまどの熱量を確認しながら呟いた。
グラウスが気にしていることは一体何だろう。
娘の“安全”だろうか。それとも娘の“将来”だろうか。
どちらも親として気にすべきものであり、しかしそれはときに排他的になる。
「俺も自由に育て過ぎた。“預かり物”だからって、な」
「……、」
その言葉に、サクは別段驚きもしなかった。
僅かに推測できていたことでもあり、それはいつしかサクの中で何故か“確信”として根付いていたのだから。
グラウスもサクのリアクションを期待していなかったのか、言葉を続けた。
「……旅に出るなら、あんたみたいな人といた方がいい」
「……そうか」
サクは小さく返した。
どうやら、“親”の許可は貰えたようだ。
「気をつけてくれ。ティアは見えるもんだけに突き進んでいく。それが誰かにとって必要なことなら、自分のことも忘れてな。本当に、ガキだ。…………あれは自由に育った結果だ」
ようやくかまどの熱が適温に達し、グラウスは作業を開始する。
「あいつは本当に、義兄に似てるよ」
最後にグラウスがそう呟いたところで、店のドアが勢いよく開いた。
―――***―――
「はっ、はっ、はっ、」
建物の形のみが共通点の町並み。
中心の“不自然すぎる自然物”から伸びるうちの一つの大通り。
人々の活気賑わう場所“だった”メインストリートを、ヒダマリ=アキラはひた走っていた。
懺悔のような時間を過ごした“神門”からの帰り道。
あれほど街路を埋め尽くしていた人気が引いたと思えば、代わりに現れたのは―――
「―――!?」
―――異形の群れ。
アキラは上空から飛来した“爪”を寸でのところで避け、裏道に転がり込む。
即座に身体を起こして見上げた先には、アキラの背丈ほどの鳥が再び上空に戻っていた。
広げれば、その身体の半分以上を占める翼。
黒い羽毛に包まれたそれは、巨大なカラスのような生物だった。
しかし、本来嘴があるべきその場所には、野獣のような鋭い牙がついている。
そしてその蹄は―――嘴の代わりに獲物を捉える役割を果たすのか、危険に光る鉤爪だった。
レイトノフというらしいこの生物を、アキラはヘヴンズゲートまでの道中に、森の中で見たことがある。
高いに木に止まっていたそれは見た目の獰猛さとは裏腹に、こちらが手を出さなければ襲って来ないとエリーに教え込まれた魔物だ。
だが今は、明らかな敵意をむき出しに、今もアキラの隙を狙って上空を旋回している。
狭くなった天井からちらちらと見えるその姿は、やはり獰猛にしか見えなかった。
一体、何故、
「……、っ、」
浮かんだ疑問を、アキラは即座に打ち消した。
自分は知っていたはずだ。
今日―――いや、この“刻”、“この街は襲われる”、と。
「グル……、グ……、グ……、」
「……!!」
狭い裏道に逃げ込みレイトノフから身を隠していたアキラは、背後からの唸り声に即座に身を引いた。
見れば、今度は赤い体毛の野犬のような魔物が数体路地に入り込んできている。
いや、この路地だけではない。
表通りにも“異形”が闊歩し、きらびやかに並んでいた店頭の商品が散乱している。
ヘヴンズゲートの雑踏は悲鳴と魔物の唸り声になり代わり、人々は我先にと障害物を期待して建物の中に駆け込んでいく。
“二週目”。
アキラは確かに、この光景を見た。
逃げ惑う人々を機敏に追っていく猿のような魔物のランドエイプ。
その剛腕を持って力任せに備品を破壊するゴリラのようなクンガコング。
そして今、集団でアキラを狙う野犬のような紅い魔物―――レッドファング。
破壊、破壊、破壊。
森の魔物襲撃は、確かにあったことなのだ。
「っ、」
アキラはガンと壁を叩き、レッドファングから逃れるべく駆け出した。
振り返らずとも分かる赤い野犬の追跡。唾液を滴らせたその牙に捉えられぬよう、アキラは大通りをひた走る。
どれだけ人々が襲われていようと、今のアキラは無装備。
助けるどころか、走り回ることしかできない。
「ギィッ!!」
「―――!? いっ、てっ、」
駆けるアキラに、再び空からの襲来。
地面に飛び込むように転がった中、またもレイトノフが飛翔していくのが見えた。
黒の身体に纏っているのは濁った緑の魔力色。
それは、身体能力を高めている証でもある。
アキラは勢いそのままに立ち上がり、再び駆けた。
同じく高めた身体能力。
しかし、昨日“魔族戦”で手に入れたこの“魔力ではなく魔術による身体能力強化”は、慣れていない分身体に大きな負荷がかかる。
先ほど強く打った肩はズキリと響き、全力疾走を続ける脚は重くなっていった。
「はっ、はっ、はっ、」
また、どこかから人の悲鳴が響く。
また、どこかから何かが壊された音が響く。
魔物襲来のオブジェクトとしてあまりに定番なその音を聞きながら、アキラの目はうつろいだ。
一体自分は何をやっているのだろう。
こんな大事のイベントも忘れ、丸腰のまま街をうろつくなどと。
ここには、“二週目”、
上空を飛び交い、その場に自分以外の存在を許さなかった“天才”も、
地上で総てを薙ぎ払い、周囲に完全領域を創り出していた“超人”もいない。
この街を救えるのは、自分だけだったというのに。
「ギィッ!!」
「ぐっ!?」
三度、空からの襲来。
転がり避けたアキラに飛びかかる魔物たち。
レイトノフもレッドファングも執拗にアキラを追い続ける。
対してアキラは、反撃もできない。
「はっ、はっ、はっ、」
―――ヒダマリ=アキラは、“勇者様”ではなかったのか。
疾走の中、酸欠で痛み出した頭にそんな言葉が浮かんだ。
―――ヒダマリ=アキラは、今の自分のような人々を救う役割がある人物ではなかったのか。
そんな言葉が何度も浮かぶ。
定番ものの主人公なら、きっとここで我に返り、自己の使命に立ち向かえるだろう。
アキラは今まで目にした数々の物語を思い起こす。
身体能力を強化しているのなら、あのクンガコングの大群に囲まれた美女のように無装備など意に介さず殴りかかることもできるだろう。
だが、我が身一つで戦う度胸すら、アキラにはなかった。
だから、ひたすらに駆ける。
僅かにでもこの足を緩めれば、牙や爪にこの身は引き裂かれてしまう。
自分の身体が“壊される”光景など、今のアキラには容易に想像できた。
そして、飛び散る血肉。
その先に待つのは、考えるまでもない。
「……、」
また、どこかで何かが消える。
また、どこかで何かが終わる。
今日ずっと、自分が恐れ続けていたものが、この街のどこかに訪れている。
そして今、自分の背後からも、“それ”は追ってきているのだ。
襲撃に巻き上げられた土煙と、焦げ付いた匂いが入り混じり鼻孔をくすぐる。
―――今すぐこの街から離れれば、それも届かないのだろうか。
「……!」
追跡してくる魔物たちを錯乱させるように駆けた大通り。
その先に、曲がり角が見えた。
そこに入れば、“武器屋”があることをアキラは知っている。
しかし、正面にずっと進めばヘヴンズゲートの出口があることも、アキラは知っていた。
「―――、」
もし仮に、自分がここで正面へ駆け抜けたら、どうなるだろう。
何を持って『自分が終わる“刻”』を刻むのか、正確には分からない。
だがこのまま旅を続けたら、間違いなくそれは刻まれる。
あこがれ続けたご都合主義のこの世界。
その脇役として存在したら、自分は、もしかしたら、
「―――、」
息は荒く、鼓動が高まる。
全力疾走を続けた足は、休息を訴えかけてくる。
―――今“ヒダマリ=アキラ”を見ている人間はいない。
今度はそんな声が、アキラに語りかけてきた。
今逃げれば、“誰にも後ろ指を差されない”。
アキラのことなど逃げ惑う民間人のように見なし、気にもされないだろう。
それは、まるでかつての“魔族”―――サーシャ=クロライン戦のように、甘美な囁き声だった。
「―――、」
間もなく、“分岐点”に到着する。
響く悲鳴に破裂音。
いつしか口に含んでいた土の不快感は増していく。
そして、自分がいつか終わることも、この街が救いを求めていることも、何一つ変わらない。
舞い上がった土煙に、どこかで何かが焦げている匂い。
泥臭いと言えば泥臭い。
そんな、汚い世界。
今総てを放り投げれば、もしかしたらキラキラと輝く世界に戻れるかもしれない。
「―――、」
こんな自問自答、アキラは自分には関係ないものだと思っていた。
正直なところ、アキラは今まで読んだ数々の物語の中で、この手のシーンが一番嫌いだ。
“主人公”が何かの壁にぶつかり、だが結局は前へ進む。
そこで逃げたら物語として成立しないのだから、どうせ進むはずなのだ。
だったら人の黒い思考など覗かせず、もっと明るいハプニングのシーンを増やして欲しいと思う。
まるで白い用紙に黒いインクを落とすような真似はしないで欲しい。
当然、その黒い点のアクセントよって、他の部分の輝きが増すのは分かる。
だがそれを理解した上でなお、アキラは物語がキラキラと輝いてさえいればいいのだと思っているのだ。
だから、悩みなど見せず、ただ輝いていて欲しい。
深追いしなければ世界が陰ることなど、ほとんどないのだから。
だが、今の自分はまさしくそのシーンにいた。
数多の主人公が使命感を振りかざし、結局は前へ進むイベントのシーン。
今まで知った物語の内、半分はすでに魔物たちと戦い勝利を収めているだろう。
残ったその半分の内、半分はすでに魔物たちと向かい合っているだろう。
そしてさらに残ったその半分の内、半分は魔物たちと戦う策を練っているだろう。
さらにその半分、その半分、その半分。
最後に残ったアキラは未だ魔物たちから逃げ、分岐している道から目を離していない。
自分の決断は、あまりに遅すぎる。
きっと、根底には“その場しのぎ”のことしか考えていないからだろう。
アキラは確固とした“自分”を持っていない。
だから、逃げ出して失う自分も持っていないのだ。
そんな人間が、“死”という絶対的な壁の前に来てやることなど決まっているのかもしれない。
「……、」
身体が曲がり角に差し掛かった頃、アキラは僅かに速度を落とした。
魔物に追われているものが絶対にしないはずの速度。
そして、曲がるつもりなら絶対にいないはずの位置。
どこまでも中途半端なアキラの行動に、しかし魔物は怪訝に思っているのか襲ってこない。
今、往来を逃げる他の人々は、誰もアキラを見ていなかった。
逃げる者など目に止めていたら、たちまちその身は壊される。
―――逃げるなら、今だ。
無意識でもなんでもなく、アキラは客観的な事実としてその言葉を浮かべた。
誰も見ていない今、アキラの逃亡を、当然誰も咎めないだろう。
事後にアキラを責める者はいるだろうが、見えていない場所での評価など気にしなければいい。
どこか遠くに身を隠し、手に職をつければ、のんびりとした日常に戻れる。
もしかしたら、神族の手など借りず、元の世界に戻る方法も見つかるかもしれない。
逃げればいいのだ。
今すぐに。
それなのに。
いつしか止めていた足は、曲がり角から離れない。
自分が気にしなければいいだけの、後ろ指の中には“絶対にそうして欲しくない人間のもの”まで混ざっているのだ。
それが、
「―――、」
―――自分は決して、聖人でも何でもない。
人の救いを願うことよりも、称賛を浴びることに比重を置いて動くような愚者だ。
死というリアルがあれば尻尾を巻いて逃げるし、元の世界であれだけ焦がれた魔物との戦闘というファンタジーもこれだけ経験すればお腹一杯だ。
誰も見ていなければ利己的に行動し、結果後悔しても何も学ばない。
自分の恐怖に立ち向かう度胸もない。
人の恐怖を取り払う器量もない。
期待に応えるだけの実力もない。
本当に情けなく、小さな人間なのだ。自分は。
そして。
崇高な理由でも何でもなく。
自分を非難して後ろ指を差す中に、自分が知っているものが一つでもあれば。
それを裏切る勇気もない。
「―――、」
アキラは、“地面を強く蹴った”。
動きを止めていたアキラを狙った魔物たちの攻撃は、それがフェイントとして機能して空振りに終わる。
向かう先は、“身体を横に向けて正面”。
アキラは再び魔術をフル稼働して曲がり角に駆け込んでいく。
「……!」
そして、見えた。
正面から、魔物を撃退しながら走ってくる二人の影。
―――これは、きっと、病気だ。
「あっ!! アッキ……、って、うおおっ!? 大人気ですねっ!!」
「ちょっ、あんた何体連れてきてんのよ!?」
声の届く範囲。
そこでアキラは自分の“安堵”に苦笑した。
この期に及んで、自分が最初に浮かべたことは、彼女たちと合流できたことではなく、いつしか増加している背後の魔物たちへの恐怖でもなく。
彼女たちに“逃げる自分を見られなかったことなのだから”。
こんなもの、やはり“病気”だ。
格好つけもここまで極まるとは、とんでもない“勇者様”だと自分で思う。
「とっ、とにかくやるわよ!!」
走りながら、エリーは肩に担いでいた剣のホックを外した。
姿が見えないが、大方サクが選んでくれたものであろう。
彼女たちの背後にも、追ってくる魔物たちが見える。
自分の役割は、あっちになるだろう。
「はい!!」
ほとんど二人入れ違うように、アキラはエリーから伸ばされた剣を即座に掴んだ。
そして彼女たちの背後にそのまま向かう。
もしかしたら、“病気”かなにかかもしれない。
あれだけうじうじと悩んでいたのに、彼女たちの前ではおくびにも出さず行動しようとしているのだから。
「―――、っし、」
アキラは気合を入れ、剣を魔物に振るう。
逃げ惑うだけだった先ほどとは違い、一撃で屠ったその攻撃は、魔物の群れへの牽制にもなった。
背後では、拳による打撃音と、上空の魔物への魔術の爆発音が響く。
一時のシチュエーションの変更で、“死”への恐怖はなりを潜め、代わりに浮かぶのは事後に街を救って崇められる図。
その旨味をアキラは知っている。
終わったあと、結局同じように一人ぐじぐじと恐怖に怯えるのだろう。
だけど人の前では、“格好悪いから”悩みを見せない。
聖人でも、英雄でも、強者でもない自分。
でもこの自分は、とりあえず、
「らぁっ!!」
気合を入れた一撃でオレンジの光が爆ぜさせ、魔物を吹き飛ばすことができる。
―――***―――
斬。
そんな音が響いたとき、サクはすでに離れた場所で、二太刀目を振り下ろしていた。
突然の魔物たちの襲撃で、結局補修が後回しになった愛刀は、しかしそれでも存分に役割を果たす。
「グ―――」
彼女の背後から、攻撃の隙を縫ったつもりの魔物も、断末魔を上げる間もなく切り裂かれた。
「……随分速いな。確かにそれなら刀の傷も納得だ。最近は傷もできないだろう?」
周囲の魔物がはけたところで、力強い声がサクの耳に届く。
振り返れば、グラウスは自身の身の丈ほどもある巨大な斧を肩に担ぎ、感心したようにサクに視線を送っていた。
「そちらも十分現役で戦えそうだが?」
「この辺りの魔物相手なら、だがな。それに今は鍛冶屋だ」
きっぱりと言い切ったグラウスは、次なる敵を探して駆け出す。
ティアの母が知らせた魔物の襲撃以降、行動を共にしているグラウスの実力は、サクの目から見ても洗練せれている。
サクはグラウスの背を追いながら、どこか低い自己評価に目を細めた。
「グラウスさん。ヘヴンズゲートに魔物が襲撃してくることはよく起こるのか?」
戦闘の騒音響く街を駆ける中、サクは確認の意味で疑問をグラウスに投げかけた。
サクも長いことアイルークを旅して回っているが、魔物の群れの襲撃を見たことなどほとんどない。
この東の大陸―――アイルークは、比較的安全な地帯なのだ。
「いや、俺の知る限りじゃ無い。数匹紛れ込むことはあってもな」
やはり。と、サクは表情を険しくする。
このタイミングでの魔物の襲撃。
昨日の“魔族戦”と繋がっていると考えた方が自然だろう。
「……分からん。モルオールの魔物が攻めてくるなら分かるんだが……、いや、それでも分からんな」
珍しく要領の得ない表情を浮かべながら、グラウスは呟いた。
サクは申し訳ないような顔をしてみたが、どうやらグラウスは気づかなかったようだ。
モルオール。
それは、世界の北に座す大陸の総称だ。
アイルークのほぼ最北端に位置するこのヘヴンズゲートからはすぐに向かうことができるが、それはあくまで“位置的”な話である。
「確かにモルオールじゃこんなこと日常茶飯事だ。だが、“あの防波堤”が突破されたなんて話聞いていない」
アイルークとモルオールは東と北。
大陸同士繋がっているのだから、“位置的”には近い。
だが、そこに住む魔物の質はまるで違う。
アイルークの魔物は基本的には人間と住み分け、余程のことがない限り村を襲いには来ない。その上、魔物も比較的貧弱だ。
だが、モルオールは違う。
いたるところに魔術師隊の支部があるほど、襲撃対策には余念がないほどだ。
現にサクも、いつか向かおうと考えているのだが、未だにアイルークで足止めを食っているのが現状であった。
何故隣同士でここまで隔絶した差があるのかは定かではないが、アイルーク側はモルオールとの境目に“防波堤”を造り、北の魔物の襲来を遮断している。
その上で、北の魔物たちも何故か近づこうとしないのだから、アイルーク大陸の安全は保障されているも同然だった。
魔物の襲撃で心を病んだ者も、アイルークを目指すと聞くほどに。
「……まあこんなもの、“タンガタンザのお前には見慣れた光景”だろうがな」
「……、」
それには返さず、サクは裏道から飛び出してきた魔物に愛刀を見舞った。
「ふっ!! ……それにしても、ティアの奴はどこに行きやがった!?」
反対からも魔物が攻めてきていたのか、気づけば斧でクンガコングを薙ぎ払ったグラウスは、苛立たしげに野太い声を張り上げた。
金曜属性の圧力に負けた魔物は、斧の刃に触れる以前に吹き飛ばされ、即座に爆ぜる。
それはまさに、グラウスの心境をそのまま前に押し出したような攻撃であった。
「下手したな……。今さら言ってもあれだが、外に出すんじゃなかった」
確かにティアの性格を考えると、こんな事態で放っておくのは危険かもしれない。
その原因が彼女の厄介払いをしたグラウスにあるとあっては、懸念もひとしおなのだろう。
「あっちは問題ないはずだ。エリーさんと一緒にいる」
応えたサクは、見えた魔物に切りかかった。
いつしか魔物が集まっている場所に到着した二人は、再び場所を落ちつけて駆除を始める。
やはり、上空から飛来するレイトノフと地上で剛腕を振るうクンガコングが危険なだけで、魔物は強くない。
何の統制もとれておらず、ただ駆け込んできただけのような烏合の衆など、間もなく鎮圧できるであろう。
「……、」
だからサクが懸念しているのは、ティアではなく、むしろこの街を救う役目を背負っているアキラだ。
最大の懸念は装備なしの状態でこの街をうろついているということ。
あの男に、エリーのように拳で魔物を襲う度胸はない。
それに剣の鍛錬しかしていないのだから、下手をすれば拳が使い物になってしまう。
当然、魔術による攻撃は論外だ。
エリーとティアが合流できていることを祈るしかない。
そして彼は、いつものことながら悩んでいた。
そのいつものことは、いつものことなのに、やはり気になってしまう。
「ふっ!!」
グラウスが魔物を吹き飛ばす。
それも、徐々に力を増して。
やはりグラウスは、ティアの身を案じているのだろう。
魔物を吹き飛ばす旅に顔を上げ、周囲を探っている。
彼はやはり、不安も持っているのだろう。
この魔物の襲撃を前にして、本当にティアがこの世界でやっていけるのか否か。
“親”として、気にならないはずがない。
「行くぞ、向こうだ」
「ああ」
再び魔物の駆除が終わり、次の群れを探して走る。
サクはアキラの事情を。
グラウスはティアの将来を。
それぞれ案じる。
問題はしんしんと降り積もっていく。
そして。
グラウスを先頭にして大通りから裏道に入り、そこを抜け、別の大通りに出て二人並んだとき。
探し続けた対象が、ようやく目に入り、問題は解決した。
―――***―――
エリーことエリサス=アーティは、“飛びかかってくる予定だった”レッドファングの横腹を瞬時に蹴飛ばすと、即座に背後を確認し、安堵の息を漏らした。
未だ魔物は群れをなし、街のいたる所で爆音が聞こえてくる。
依然として気を休められない状況だが、しかし迎撃速度は順調だ。
しかし、それについて“ではなく”、エリーは別件で再度ほっと息を吐く。
背後に爆ぜるは太陽色。
サクの見た手だけはあり、即座に使いこなされたその剣が魔物を撃退していくその様について、安心感を覚えていた。
「ふっ!!」
調子に乗っているのか考えがあるのか分からないが、二体をまとめて切り裂いているのは“勇者様”ことヒダマリ=アキラ。
今日一日様子がおかしく、それも恐らく継続しているであろうに、彼は集中して魔物を討ち続けていた。
ある種、彼は“でき”のいい人間なのだろう。
流れに呑まれてしまえば逆らう力がないだけかもしれないが、彼は戦闘時にはそれを持ち込まなくなってきている。
格好つけ。あるいは、自己満足。
そんな低俗と考えられる理由で動くような人間だが、結果として街が救われるなら文句は出ない。
「アッキー!! これどう思います!? 昨日のあんにゃろーの指示ですかね!?」
魔物の爆発音にも、魔術の破裂音にも負けない音量で騒いだのはティアことアルティア=ウィン=クーデフォン。
彼女の場合はまるで逆だ。
日常であろうと戦闘であろうと、そのまま変わらず飛び込んでいく。
だが、彼女の遠距離攻撃は、下降時のみにしか手を出せないレイトノフを見事に討っている。
こちらも、結果として、町が救われているのだ。
敵は最弱のアイルーク大陸の魔物たちというだけはあり、迎撃できるのは当たり前。
だが、こんな光景を見てしまえば、エリーは思ってしまう。
あの“魔族”―――リイザス=ガーディラン戦でも浮かんだ予感。
このメンバーなら、“何でもできる”、と。
「っ!? な、なあ!! サクは!?」
しかし、アキラの方は思ったよりも厳しかったらしい。
攻撃の隙を縫われ飛びかかられた魔物を済んでのところで回避し、エリーに叫んでくる。
「サクさんとは別行動!! でもきっと、どこかで戦ってるわよ!!」
エリーも叫び、今度は拳を正面のクンガコングに叩き込んだ。
かつて大群で現れたときには逃げるしかなかった敵も、今なら十分に倒せるのだ。
自分のレベルも上がっている。
この旅は、確かに身になっているのだ。
だからこそ、楽しい。
それこそ、目的と手段が入れ替わるように、この旅を続けたいと思ってしまう。
それなのに、
「……、」
そこまで考えて、自分はアキラともティアとも違う人間なのだと気づいた。
自分は、アキラのように悩みを日常に置いていくことも、ティアのように日常のまま戦闘に飛び込んでいくこともしていない。
“切り変えられる人間のはずだった”というのに。
一度浮かんだ懸念は、ずっと頭の中に漂い続ける。
例えば、アキラが楽しいと悲しそうに言った情景が、戦闘のただ中で浮かび上がってきてしまう。
ただそれでも、エリーの戦闘への貢献はアキラとティアの総和程度には昇っているのだが。
「ねえ!!」
僅かに魔物がはけ、余裕ができたエリーはアキラに叫びかけた。
思わず口をついて出てしまった言葉を、場違いとは思いながらもエリーは紡いだ。
「問題は解決したの!?」
「してない!!」
アキラはエリーが予測していた通りの心境を返してきた。
自身の打撃と、アキラの剣撃。そしてティアの空爆攻撃が入り乱れる中、二人は会話を続ける。
「でも、“やるんでしょ”!?」
「……“やってんだろ”!!」
果たして意思が疎通できているのか。アキラは僅かに濁ったあと、エリーの言葉を肯定してきた。
彼は叫ぶだけ叫ぶと、再び魔物に向かっていく。
アキラは昼食時、あの喫茶店で確かに言った。
『戻りたいのかもしれない』と。
それで結局自分の予想は外れ、正体不明となったアキラのあの夜の言葉。
だけど結果として、彼はこの場で戦っている。
見えるのは、結局結果だけだ。
中身が分からないブラックボックスから出てくるものしか、自分は見えない。
しかし、もしかしたら自分は、それでいいのかもしれなかった。
彼の中を覗くことはできないし、それをするのに勇気もいる。
でも、“結果が見える距離にいる”のだ。
声を枯らせば届くなら、今はそれでいいだろう。
「なあ!!」
「なに!?」
今度はアキラが叫んできた。
このエリアの魔物の数は激減し、駆け出したアキラにエリーはついていく。
「俺は、褒められることしてんのかな!?」
しばし、エリーの思考が止まった。
しかしすぐに頭を抱え、ほとんど八つ当たり気味に近くの魔物を殴りつける。
「俺はずっと、あんなこと繰り返すと思う!!」
“あんなこと”とは、武器も持たずに魔物から逃げ回っていたことだろうか。
それとも“隠し事”の件で、どこかにふっと消えることだろうか。
エリーの見立てでは、恐らく後者だ。
「そっちは、とっくに決着したでしょ?」
ほとんど横並びになれば、声を張る必要もない。
エリーは空からの襲撃がスカイブルーの魔術に討ち抜かれたのを確認してから、ため息混じりに言葉を返した。
“隠し事”の件など、数日前のクンガコングの一件で決着がついている。
だが中身の見えない黒い箱は、エリーとの会話で集中力が切れたのか言葉を漏らし続けた。
「俺は自分が自分で分からない。マジ、わけ分からないんだよ。ぶっちゃけ俺、世界を救いたいとか思っていないし」
「何言い出してんのよ、あんた」
「死にたくねぇんだよ。ものすごく。本当に、ずっとずっと続きたい」
もしかしたら、この言葉は単なる独り言なのかもしれない。
だがそこで、エリーは自分の予想に当たる部分があったのだと思った。
この男が気にしているのは、“ゴール”だ。
元の世界に戻るのも、魔物との戦いで命を落とすのも、結局は終わり。
あるいは別の理由かもしれないが、ともかくこの男は、この旅の終点を気にしている。
楽しむことのペナルティとして、それが終わってしまうというものは確実に含まれているのだから。
それを気にする人間にとって、確かに“楽しかったら困ること”になるのだろう。
「深刻そうに『戻りたい』なんて言ったから、あんたこの世界が嫌いになったと思ったわ」
「嫌いなわけねぇだろ!!」
叫び返してきたのは、きっと本音だ。エリーはその返答一つで満足する。
並んで走っていたアキラはエリーから離れ、再び魔物群れに突撃していった。
それに追従したエリーも、アキラの背後に回った魔物に打撃を叩き込んだ。
「づ!? いっつ……、ティ、ティア!! こっち!!」
「……え? おおっと怪我ですね!! 任せんしゃいなっ!!」
魔物の牙に僅かに裂かれたアキラの足に、ティアが即座に駆け寄っていく。
そして光るスカイブルーの癒しの魔術。
空の魔物を躍起になって攻撃し、地上が疎かになっているのはいただけないが、戦闘も後衛が入るだけで随分と違う。
これだけ順調なのだ。
“今”が嫌いなどとは言わせない。
「助かった!!」
「うおっ!? まだ、……ア、アッキー!?」
アキラは動けるようになってすぐに立ち上がり、顔をしかめて走り回っていく。
治療は不完全。間違いなくやせ我慢だ。
エリーはアキラのサポートをしつつ、何度も何度も苦笑する。
彼が先ほど漏らした言葉にきっと嘘はない。
彼は世界を救いたいとは、本当の意味では思っていないだろう。
なぜなら彼は、そんな大層な人間ではないのだから。
今痛みを堪え走り回っているのも、街を想ってのことではなく、大方自分一人のんきに治療を受けているのが“格好悪い”と思ったからだろう。
悩みを置き去りにし、目先の敵を討っているのも、自分たちの前でそんな自分の姿を見せたくはないだろう。
本当に、見栄っ張りで、小心者で、格好つけだ。
でもそれだけに、周囲の期待にあっさり背中を押されて進む。
あとでどれだけ後悔しても、それからほとんど学ばず、結局何度も何度も直情的に動いてしまう。
ヒダマリ=アキラは、本当に、“病気”だ。
「はあ……、」
周囲の魔物が消え去り、喧騒が静けさを取り戻していく。
この分なら、魔術師隊が守護している他のエリアも問題ないだろう。
エリーはため息一つ大きく吐き出し、最後の魔物を討ったところで大の字に転がり込んだアキラに近づいていく。
「終わったわね」
「はあ……、はあ……、はあ……、」
「……って、あんたバテすぎよ」
体力の限界を思わせるアキラにエリーは手を差し伸ばしてみた。
すると即座にその手を取り、アキラは痛む足を堪えて立ち上がってくる。
この男の格好つけの“症状”は、どんどん悪化していく。
「あのね、あんたが躍起にならなくても、あたしがなんとかするわよ?」
「はあ……、お、お前、何で息切れてないんだよ……?」
「あんたがはしゃぎ過ぎなだけだって。ま、でもお疲れ様」
足に力が入らないのか、手を握ったエリーにもたれかかりそうなアキラは、しかし極力自分で立とうとしていた。
この男も随分と変わったものだ。
アキラが―――いや、人間誰しも持っている、“格好つけ”。
それが悪化したアキラは、結局それゆえに、“勇者様”として固まっていく。
利己的であろうとそうでなかろうと、黒い箱の中身は誰にも見えない。
結果だけを見るのはどこか寂しい気もするが、そこに踏み込んでいくのは勇気もいる。
だったらもう少し、このままの方がいい。
「はあ……、はあ……、俺は、さ、マジで、現金だ」
「知ってるわよ、そんなこと。こんな無茶してんのも、どうせそんなんでしょ?」
息も絶え絶えのアキラは、記憶が乱雑に蘇っているのだろう。
先ほど交わした会話が、まだ続いていると思っているのかもしれない。
しかしエリーはそれを分かってなお、会話を続けた。
黒い箱の中身を見るのは、勇気がいる。
だったらもう少し、このままの方がいい。
「でもさ、あたしたちのこともう少し頼ってくれたら嬉しい、かな」
だけど。
もう少し、ほんの少しなら、見てみたいと思ってしまう。
この男の本音が聞ける機会など、きっとそうはない。
この手を離しただけで倒れ込んでしまうような黒い箱の中に、自分たちを埋め込むことができたら、きっともっと今が楽しくなる。
アキラは一瞬顔を上げ、すぐに伏せた。
今の自分の言葉は、彼に届いたようだ。
「…………俺さ、マジで死にたくねぇ。でも、本当に調子がいい奴みたいだ」
「うん?」
音量が極端に小さくなっていったアキラの声にエリーは耳を傾ける。
今日一日、自分たちから距離を置くようにいた男。
そんなアキラは呟くように、こんなことを口にした。
「きっとそんなことを言われるだけで、“ここ”に来てよかったって思うんだろうな」
本当に、こいつは“病気”だ。
エリーは息を止め、視線を外した。
ようやく顔を戻せたエリーは、苦笑し未だ息を切らし続けるアキラに呟いた。
「“格好つけ”もここに極まり、ね。この―――」
ヒーロー中毒者。
人を助けることではなく、むしろ助けることによって誉れを受けることに比重を置くような人間―――“ヒダマリ=アキラ”を、エリーはそう称した。
「あの!! 空気的にたいっっへん申し訳ねぇですが!! やばいです!!」
「!? な、なに!?」
静まり始めたヘヴンズゲート。
そこに響いた騒音発生機の声に、エリーは慌ててアキラの手を離す。
何か非難めいた声が漏れた気がしたが、支えていた男はそのまま後ろに倒れていった。
「ど、どうしたのよ!?」
「あっちです!!」
いつも以上に慌てふためいたティアが突き出した指を追って、エリーは一瞬我を忘れた。
彼女が差しているのは、建物の屋上の先、街の先、遥か向こう。雲との狭間。
徐々に夕暮れが近づいている空は、“赫”だった。
「なっ、何よあれ!?」
叫びながらもエリーは目を凝らし、状況分析に努める。
しかし、分析し、分析し、分析しても、“結局最悪から事態は動かなかった”。
「う……、そ、」
“赫”は、魔物の群れだった。
巨大な獣王に翼が生えたような姿のザリオン。
鋭く嘴を尖らせた巨大な翼竜を思わせるガブスティア。
竜種の姿もちらほら見え、エリーが挿絵ですら見たことのないような危険極まりない巨獣たちも飛んでいる。
有名どころを上げるだけでも切りがなく、そしてそのどれもが一体で“最悪”の警鐘を鳴らす化物だ。
そしてそれらは、法学の一つそのものを塗りつぶすかのように群れをなし、一直線にこのヘヴンズゲートに向かってきている。
殺気の有無など考えるまでもない。
ここに向かってきているだけで敵意はあるのであろうし、何よりあの大群が“何も考えていなくても”、この街は灰燼に帰す。
「どっ、どうします!?」
「え、ど、どうするって、」
この光景を前にして、流石に“何でもできる”とは思わなかった。
例え世界を滅ぼすつもりであっても、ここまでの勢力は要らないかもしれないというほどだ。
その大群は徐々にこの街に接近し、そろそろ肉眼でも数が数えられそうなほどまで来ている。
「って、ててっ、奴ら心なしかここに向かってませんかっ!?」
「と、とにかく、一旦逃げるわよ!! ていうか、どっかに隠れなきゃ、」
逃げると言ってもあの相手では建物に隠れたところで意味はないだろう。
だがそれでも、目先の危険からのがれるべく、『ほらあんたも!!』と叫んでアキラを立ち上がらせようとしたところで。
エリーの身体は止まった。
「……? ……!?」
怪我の影響か、立ち上がりすらもできていないアキラの向こう。振り返って見えたのは、“本日二度目”の不気味な光景だった。
“人が、逃げていない”。
たった今出てきていたのか、あるいは街中を埋め尽くす魔物たちのせいで気づかなかったのか。
魔物がいなくなった往来は、不気味なほど人が多く、“不気味なほど静かだった”。
子供。
若者。
高齢者。
男女。
千差万別総ての種類の人間がいるかと思うほど、ありとあらゆる人間たちが建物の前に出ているかと思うと、その人々は一心不乱に目を瞑って“祈っていた”。
あるいは今、迫りくる大群の存在にすら気づいていないのかもしれない。
彼らはただただ、部屋に閉じこもって嵐が過ぎるのを待つかのように、じっと身を固くしている。
そして向いている先は、全員が同方向。
感覚的に分かるのは、ここで“祈っている”人々は、物見遊山でここに訪れた旅人ではなく、このヘヴンズゲートに住む者たちということだ。
「ちょっと!! 今すぐここから―――」
エリーが怒鳴っても、誰一人動かない。
まるで、この街が四角い建物ばかりという“共通の根底”があるかのように、誰も“それ”を止めようとはしなかった。
向いている先など、エリーには容易に想像できた。というより、街のどこにいても、それは見えている。
あの岩山だ。
この緊急時、いや、緊急時だからこそだろうか。
彼らの行動は一糸乱れず、まるで神託でも待っているかのように、神門に祈り続けていた。
「なんなのよ……、あれ」
「わ……私も初めて見ました……」
現地民のティアすらも、その光景に普段は騒がしい口から怯えたような声を出した。
信仰心が高いことは知っていたようだが、まさかここまでとは、彼女も思っていなかったようだ。
「恥ずかしいとこみられたな」
エリーとティアが固まっていると、背後から野太い声が聞こえた。
振り返ればグラウスが、サクと共に走り寄ってくる。
ただサクも、この異様な光景に表情を変えていた。
「俺はこの街生まれじゃないが、もしそうならああなってたかもな」
空には“赫”。地上には“異様”。
その狭間でグラウスは恐ろしく静かな声を出した。
それは、もしかしたらあの“赫”の大群を前に、ある種達観した気持ちになっているからかもしれない。
だが、エリーはそんな“赫”など、“この光景の前には異物でも何でもない”ような気さえした。
こうした光景は、エリーはこのヘヴンズゲートに来る前にも見たことがある。
あの、サーシャ=クロラインが支配していたウッドスクライナの村人たち。
従う対象が神族か魔族かというだけで、この場の光景には何ら変わりはない。
はっきりと言える。
“しきたり”に縛られた世界が創り出したこの光景は、“異常”だ。
「……グラウスさん。とりあえずはこの場を離れましょう」
グラウスを除いた中で、いち早く我を取り戻したサクが同じく静かな声を出した。
そろそろ“赫”の大群の羽音でも聞こえてきそうだ。
ここまで絶望的な“死”の接近に、彼女も彼女である種達観しているのかもしれない。
「……って、もう来ますよ!!」
次に硬直が解けたティアが叫んだ。
彼女に言われなくとも分かっていたが、エリーの身体は動かない。
そもそも自分たちだけ移動したところで、恐らくここで祈っている彼らは動かない。
それなら、何のために街を救っているのか分からないではないか。
彼らが逃げ惑っていてくれれば、自分たちもこの街から離れられた。
それなのに、この人々の“信仰”が楔のようにエリーをこの場に打ち付けている。
旅をして、数多の人に触れ、自分で自分を客観視できるようになって、初めて気づいた。
この世界は、異常だ。
「……って、今はとにかく逃げなきゃ!! あんなの相手にしてられない!!」
強引に叫び、エリーは硬直を解いた。いかにこの光景が不気味だとしても、目の前の危機は変わっていない。
酷い話でもあるが、“動けるのに動かない人々”まで構っている場合ではないのだ。
だが、逃げると言ってもどこへ逃げればいいのだろう。
あの大群がこの街を攻める気なら、どうあっても逃げることは不可能だ。
思えばこの街を襲っていたあの雑魚たちも、あの大群から本能的に逃げ惑っていただけかもしれない。
エリーはグラウスたちの顔を見渡し、頷き一つで合図を送って“赫”の大群に背を向ける。
だが、
「大丈夫だ」
全員が駆け出そうとしたところで、そんな声が響いた。
「ちょっと!! あんたなに座り込んでんのよ!!」
振り返った先、アキラが投げやりに足を伸ばしていた。
一瞬怪我の調子が悪く立ち上がれないのかとも思ったが、どうやらそうではないらしい。
ゆっくりと身体を起こして立ち上がると、アキラはぼんやりと“赫”の大群を見上げた。
「マジで……、“悔しい”な。“一回行ったはずの場所なのに”」
アキラの静かな声を拾ったエリーは、眉をひそめた。
この緊急事態で、彼は何を呟いているのか。
「何か思いついたのか!?」
サクが詰め寄っても、アキラは首を振って返してきた。
その様子に、彼女も眉をひそめる。
エリーは一瞬、あの“異様”と同様、アキラも祈りを捧げているのかと思った。
だが、それは違うと即座に分かる。
不安を押し込めたような表情の群衆たちと違い、アキラは言葉通り、本当に悔しそうな表情を浮かべていた。
彼には、何かが分かっているのだろうか。
策はないと認めているにもかかわらず。
“赫”の大群はもしかしたらそろそろ街の外れに影を落としているだろうか。
それほどの近距離に、魔物たちは接近している。
羽音など、もうとっくに獰猛な呻き声と共に聞こえていた。
この街の終焉が、目の前にある。
それなのに。
「絶対また、“できるようになってやる”」
アキラがそう呟いた、その瞬間。
この街に終焉は訪れず、彼の言葉通り問題は去ってしまった。
―――***―――
ヒダマリ=アキラは夜の中、武器屋の看板に背を預けつつ、いまだ形の戻らない雲を見上げていた。
それは何かが通過した証でもあり、同時に人ならざる者の力の結果とも言える。
ことの顛末はあまりに簡単だった。
いや、この街で自分たちが行ったこと、の方が正確か。
自分たちはこの街に来て、岩山の門番に門前払いをされ、ティアを家に送り届け、そして魔物たちを撃退した。
それだけだ。
ただ、自分たちとは概念そのものが違うような存在同士が、頭上で物語を創っていたというだけで。
“あれ”は、次元そのものが違った。
例えて言うなら戦争映画を見に行ったとき、アキラがジュースを零して隣の客と揉めていた頃、スクリーンでは核で街一つ吹き飛んでいたような、そんな差。
「“プロミネンス”……、か」
アキラはその“魔法名”を小さく呟いた。
そして右手を広げて天にかざす。
かつてはこの手に宿っていた力。
伏線も、想いも、何もかもをかき消すその一撃には、さしもの激戦区の魔物たちも瞬時にかき消えた。
まるでオレンジ色の消しゴムでも使ったかのように、空を埋め尽くしていた“赫”は拭いとられたのだ。
直後に空に響いた戦闘不能の大爆発など、それの前では些細なことに過ぎない。
確認しに行ってもいないが、森の一角もまとめて消え去っているだろう。
もしかしたらリイザスの宝物庫も巻き込まれた可能性がある。
「……、」
自分はもう一度、あの域に達せるだろうか。
“生成方法”も何もかも、今は記憶の封の中だ。
「……おや? やっぱりアッキー外にいたんですね」
そこで、背後のドアが開いた。
「ティア?」
「そうですとも。さあさあ、まだまだ料理は残ってますぜ?」
流石に夜には騒がないのか。
ティアは静かな声のまま、アキラの隣に並んで背を預けた。
「てか悪いな。夕飯」
「今日はあっしの送別会だったりしますからね。お宿を提供できないのが心苦しいです……」
「い、いや、そこまではいいよ」
結局、ティアはアキラたちについてくることになった。
人様の娘を危険な旅に連れていくのだから、ティアの両親から反対される可能性もあったのだが、あまりに淡白に許可をもらったのをアキラは思い出す。
母親の方は心配していたようだが、父親の方が肯定的であったのは、今日ティアの戦いを見て懸念を払拭させたからかもしれない。
母親の方も夕食に誘ってくれたのだから、結局肯定派ではあるようだ。
未だに振舞われた料理が、調子に乗って食べたアキラの胃で暴れ回っている。
休憩と称して外に出たのだが、もう随分長いことここにいたかもしれない。
「まあまあ、今後ともよろしくお願いします」
「……ああ、そうだな」
妙に礼儀正しく下げられた頭に、アキラは釣られて会釈する。
とりあえず、問題なくこの場での“刻”は刻まれたようだ。
「にしても凄かったですねぇ……。あれ」
「……ああ。そうだな」
アキラは適当に肯定し、再び穴の空いた雲を見上げた。
あの一撃で街を脅威から救ったと神への賛同者が増え、それより前に街を救っていたアキラたちを気に止める者などいなかったのは、やはり面白くない。
やっぱり自分は、“そういう人間”なのかもしれなかった。
「さっすが、お父さんとお母さんが“一番目を捧げた相手”です」
「? なんだよそれ」
「あれ? あそっかアッキー異世界の人なんですよね。でも聞いたことありませんか? 魔術師隊の儀式がどういうものか」
曇ったアキラの表情で、ティアは把握したのか言葉を続けた。
「魔術師隊の儀式に、神様に一番目を捧げる行為があるじゃないですか」
「……ああ、そうか」
そういえば先ほどの夕食時、ティアの両親が元は魔術師隊だったと言っていた。
そして、自分が“そもそも”旅に出た理由の“婚約破棄”。
それはエリーの一番目の相手が、アキラにすり替わってしまったからだ。
「だから、結婚式で相手に捧げるのは“二番目”になるんです。……そういえばあっし、大事な結婚指輪を見つけられなかったことお父さんに謝って無い気が……」
ティアは表情を曇らせ、頭を抱えた。
夕食時にも、ティアは父親を苦手にしていた節がある。
結婚指輪を見つけられなかったのは、アキラにとっても無念だった。
“二週目”にも、それは叶わなかったことだ。
アキラは苦笑し、再び雲を見上げた。
あの先に、魔術師隊の誰もが“一番目”を捧げた相手がいる。
“二週目”には面会できた相手だが、今のアキラとは逢う理由もないようだ。
「……あ」
彼女は僅かな沈黙も嫌うのか、しかし静かに、そういえばと付け足して口を開いた。
「…………悩み事は解決しましたか?」
アキラに並ぶティアの視線は、同じく穴の空いた雲に向いている。
「実はですね、あっし、聞いちゃってたんですよ。あのときのアッキーとエリにゃんの会話」
アキラが視線を向けると、ティアはイタズラが見つかった子供のような顔をしていた。
「死ぬのって、恐いですよね」
アキラは目を閉じた。
恐いに決まっている。
それに近づくことすら拒絶したい。
だから今日、あれだけ情けなくも自問自答を繰り返していたのだ。
その恐怖は、あの雲のように一度穴が空いても漂い続けている。
「アッキーは考えたことありますか? 死んだらどうなるんだろう、って」
「あるよ。だから、さ」
こんな会話を、前にも彼女とした記憶がある。
あれは確か、“二週目”だ。
魔王に挑む直前、丁度こんな夜の闇の中、彼女は珍しく神妙に言葉を紡いだのだった。
「やはり旅って、辛いものなんですね。楽しかったら楽しかったで、終わったときのこと考えちゃいます」
まさに、それだ。
アキラは今日ずっと、それについて苦しんでいた。
どこかで、こんな時間までも作業をしているのか物音が聞こえる。
どこかで、こんな時間までも走り回っている足音が聞こえる。
「でも、そもそも―――」
しかしアキラとティアが並んだここには、まるでその音は届いていないかのようだった。
「“人はいつか死ぬ”」
ティアは目を瞑って呟いた。
まるで恐る恐る、禁断の箱を開けるかのような表情で。
「旅をしててもしてなくても、絶対終わりがある。残酷ですよ、本当に」
アキラは僅かばかり事情が違うが、ティアに頷き返した。
「はは、実はあっし、一昨日それ考えてて眠れなかったりしたんです。ベッドに入って、布団をかぶって、でも、ものすごく怖くて。こんなに楽しいのに、いつかそれが終わっちゃう、って」
まさに、子供だ。
だがそれは、誰もが解決できていない。
その恐怖の払拭は、叶えられるものではないのだから。
きっと大人はそれに対して“悟っているのだ”。
閉演時間に駄々をこねる子供とは違い、こういうものなのだ、と。
もしかしたらティアは、アキラの悩みを一番察していたのかもしれない。
この原始的な恐怖を未だ“騙せていない”同じ存在として。
「でも、こんな風に考えることもできたんです。楽しいことに楽しまないと、もっとつまらないって」
月並みな言葉だ。
まさに、大人が子供を宥めるときに使うような。
だが“幸運にも”精神的に子供のアキラには、その言葉に耳を傾けた。
「私は……ね。お父さんとお母さん、“じゃない”お父さんとお母さん。その終わりを見たことがあります」
「……?」
アキラが顔を向けると、ティアは珍しく視線を外していた。
「だけどそれまでは、四人集まって楽しそうにしてました。危険なお仕事なのに、それでも」
口を挟まない方がいいのだろう。
アキラはティアから顔を背け、視線を漂わせ、結局穴の空いた雲に向けた。
「だから私も、ああなりたい。人のために頑張っている人が笑っていると、やっぱり気持ちがいい。びくびくしないで、全力で、全開で、それで最後にドーンですよ―――なんて、ときどき眠れなくなるあっしが言っても説得力ないですけどね」
「……そうでもない、かな」
アキラは静かにそう言った。
同じ不安を抱えた人間がいることは、どこか頼もしかった。
やはりティアは、戦力以上に、アキラにとって必要な存在かもしれない。
そして同時に、すごいとも思えた。
自分は利己的なのに、彼女は世間の厳しさを知らない子供ゆえの無知さから、人を助けたいと言い放っている。
だけど彼女にはその部分を曲げて欲しくないと願ってしまう。
“死”への恐怖が消えたなどと嘘は言えない。
この足は、確かに前へ進み続けるなどという幻想も語れない。
だけど、やせ我慢でいいのなら、格好つけの自分は進めると思う。
今の自分は、きっとそれでいい。
もしかしたらいつの日か、彼女の言うように全力で生きれば、誇れる自分になれるかもしれないのだから。
ティアは、あはは、と笑ってようやく口を閉じた。
もしかしたら彼女がここに来た理由は、気紛れではなく彼女なりの気遣いだったのかもしれない。
彼女はアキラを助けに来たのだ。
悩みを火に見立て、飛び込んでくる愚かな虫のように。
だがそれが、純粋に嬉しい。
自分も彼女のように、フル回転で生きられるだろうか。
「……なあ、ティア」
「はいさ?」
全力で、か。
アキラは小さく呟き、右手を再びかざした。
「俺に遠距離攻撃の魔術、教えてくれないか?」
“死”の恐怖が薄れている今、自分はやせ我慢で前へ進める。
そのためには、やはり目指すべき目標も必要だ。
当面の目標は、“何でもできる存在”。
それは、剣が無いだけで敵から逃げなくてはならないようなものであってはならないのだ。
「おおっ、アッキー!! あっしに魔術を習いたいと!! はぁ~、先生なんて初体験です!! って、そっちの意味じゃないですよ!? って何言わせんですか!!」
「お、おい、ティア?」
アキラが呟いたその言葉に、ティアは目を輝かせていた。
『人助け』が目の前にぶら下がった猛獣は鼻息を荒げ、腕を振り。夜だと言うのに声の音量を取り戻している。
「遠距離だろうが回復だろうが何でもござれ!! きっと、その……多分、大丈夫です!!」
ティアは僅かに言い淀んだが、アキラはそれよりも声の音量の方が気になった。
今まで珍しく静かに話していたのが、むしろ射出のためにバネを押し込めていたような効果をもたらしたのかもしれない。
正面の家の灯りが点いたのは、気のせいであると信じたかった。
「お、おいティア、静かにしないと、」
「まずは!! こうやって撃ち出しやすいように指を出してですね!! おおっ、きたきたきたぁっ!!」
看板から離れ前へ躍り出たティアは、アキラに見せるように指を上空へ向ける。
そこから水曜属性のスカイブルーの魔力色が溢れ始め、流石にアキラがまずいと思ったその瞬間、
「シュロート!!」
ゴガンッ!!
わざわざ詠唱まで附したその声と共に、“攻撃”が武器屋の二階の角を削った。
「……………………」
「……………………」
ようやく事態に気づいたのか、ティアは笑顔を完全に消し、ゆっくりと腕を下ろしてきた。
周囲の家が灯り、店の中からドタバタと誰かが全力で駆けてきている。
それは間違いなくティアの父親であり、第一声は彼女の名前で怒鳴りつけるものになるだろう。
「……………………アルティア=ウィン=クーデフォン、終了のお知らせ」
「はあ……、俺も一緒に謝るよ」
調子に乗りやすく、いつも騒がしく、そして人助けをしたいと願うこの少女。
とりあえずは“仲間”として、ティアを庇ってやろうではないか。
間もなく怒声と共にドアが開かれるだろう。
もしかしたら、自分は監督不届きとしてエリーに怒鳴りつけられティアの方まで手が回らないかもしれない。
だからその前に、アキラは確認しておきたかった。
「なあティア。魔術の先生の話、忘れないでくれよ?」
ティアはその言葉に青白くなった表情を仕舞い、“直後降りかかる恐怖”を前に。
親指を突き出し笑って見せた。
「私に、任せとけっ」
―――***―――
「南? 南に行くのかよ?」
日も昇り、雲も元の形を取り戻した朝。
宿屋の前で、アキラは声を出して確認した。
「うん……。ってそうか、あんたそのとき街破壊してたんだっけ」
「人聞き悪いこと言うな!! あれはティアがやったんだ」
「だ、か、ら、昨日も言ったでしょ!? あの子がやりそうなことくらい分かってよ」
無茶を言うな。
アキラはエリーに聞こえない程度に呟く。
結局、アキラはティアを庇いきれはしなかった。
彼女はあのあとこっぴどく叱られ、その長さたるやエリーの“ありがたいお叱り”の方が先に終わるほどだったのだから相当だ。
そんなティアに明日の集合時間を告げ、そそくさと立ち去った三人は、ティアに同情的な視線を向けておいた。
ただエリーの方は、アキラとの距離を再確認するような意味合いも含まれていたのだが。
それにしても、人間というものは逞しい。
昨日の魔物の襲撃の爪あとは、街のいたる所に残っているが、順調に補修作業は進められている。
早朝から起き出している商人などは、僅かに形状を留めているだけの店頭の棚に、もう商品を並べていた。
「……てか、南って引き返すことにならないか?」
そんな町並みを横目で見ながら、アキラは話を元に戻す。
どうやらグラウスが見送りの姿を見られるのを嫌うそうで、面々はティアの母の頼みで宿屋の前で立っている。
そんな中、エリーは確かに言ったのだ。
これからの進路は、“南”だと。
「そうでもないわよ。あたしたちは北西に進んできたんだから。当然別ルート」
「モルオールは今のままだと危険だ。それに、昨日あんなものを見てしまっては、な」
エリーの説明を、隣のサクが補った。
その言葉にエリーとサクの顔色が普段と僅かに変わったのを、アキラは見逃さなかったが、ともあれ先を促す。
「流石にあんな大群は攻めてこないだろうが、似た系統の魔物ならモルオールには多数いる。昨日グラウスさんにも注意されたが……、いや、お前はいなかったんだったな」
アキラは頭をかきならが、北を眺めてみた。
あの先に、自分は何があるのかを知っている。
あの先に、自分が“刻”を刻む場所があるのを知っている。
あの先に、“仲間”がいるのを知っている。
が、今のアキラにはサクの言葉を否定するだけの材料がなかった。
「そんなに北に行きたいの?」
「…………いや、いい。今はレベル上げよっか」
アキラはエリーに僅かな気遣いを感じ取り、言葉でそれを遮断した。
“隠し事”でごり押しすることもできるかもしれないが、自分は確か“一週目”、ここから南に行った気がするのだ。
そういえば、と。
アキラは現状に気づく。
“二週目”の記憶はあるが、“一週目”の記憶は封がされている。
そうなると、ここから南への進路は自分にとって未知の体験となるはずだ。
ある種解放感を覚え、アキラは視線を南に向けた。
「目標は南の大陸―――“シリスティア”。船に乗ることになるから路銀も貯めていかなきゃね」
「ああ」
今度は気持ち良く合意する。
東の大陸のほぼ最北端から南に向かうと言うのも馬鹿な話だが、自分たちの実力と相談すればそれが妥当な動きと考えられた。
ともあれ。
アイルーク大陸での“刻”にはひとまず別れを告げられそうだ。
目指すは南の大陸―――シリスティア。
どんな場所なのか、記憶に封がされた今は想像もできない。
だからこそ、いや、“例えそうでなくても”、今の自分は楽しめそうだ。
「おおっ!! 皆さんお揃いで!! いやいやあれからこってりばっちりしっかり三時間!! フルコースって感じでした!!」
後ろから届いた声に、アキラはため息一つ吐き出して振り返った。
これで集まったのは日、火、水、金の四属性。
あと必要なのは三属性。
絶対的な終わりの恐怖も、楽しい今は潜んでくれている。
「よっし、行くか、シリスティア」
降り積もった問題は、解決していない。
ただ、その兆しが見えるだけで。
だから、それでいい。
「おうさっ、私にっ、ま、か、せ、と、けぇぇぇえええーーーっ!!!!」
面々の旅は続いていく。
音量を、増しながら。




