永訣の紅い花
次の日、ヒナは朗らかな表情で登校してきた。
「トリー。おはよう」
彼女はトリーに明るい調子の声で挨拶した。その表情に、昨日のような暗さは些かも感じられない。
彼は困惑を覚えたが、彼女が明るいことは純粋に嬉しかったので、彼も彼女と同じように挨拶を返した。
「おっ、おぉ! おはよう!」
「昨日は心配かけちゃった?」
ヒナは彼の困惑を察したらしかった。
「いっ、いや、大丈夫だ。元気そうで何よりだ」
「昨日はちょっといいことあったんだぁ」
「おぉ、なんだ?」
「ヒミツ」
ヒナはいたずらそうに笑った。
「チェスでもするか?」
「うん 一緒に遊ぼう」
彼女はにっこりと笑った。
「あっ、そういえば……」
「なんだ?」
「これ、落とした? 廊下で拾ったんだけど?」
彼女は1本のペンを取り出し、彼の目の前に見せた。
「いやっ、違うな……」
「そうか、じゃあ職員室に持っていくね」
彼女は、そういってペンを上着のポケットにしまった。
(……ん?)
トリーは彼女の掌に、裂傷の痕があるのに気づいた。
「どうかした?」
ヒナが怪訝そうに言う。
「……いや、なんでも」
彼は強張った笑みを浮かべた。
ウィンクルムが、教室に入ってきた。授業がもうすぐ始まろうとしている。
「あぁ、もうすぐ授業だね。じゃあ、また昼休み」
「あっ……ああっ、そうだな!」
トリーは、彼女の掌についていた傷が、授業が始まった後も、脳裏から離れなかった。気にかかるものがあったのだ。
授業が終わり、トリーが帰宅してから1時間ほど後、何者かが自宅に来た。
「はい」
そこにいたのは、同級生のユーリだった。
「なんだ? 俺なんか忘れ物してた?」
「いや……そうじゃない」
ユーリはしかつめそうな表情を浮かべている。
「俺ちょっと、暇だったから家の近くを散歩してたんだ、そしたら……」
ユーリは、しばらく沈黙した。
「そしたら?」
「ヒナがいたんだ……」
ユーリは僅かに憔悴の色を見せた。
「いたからなんだよ? お前の近所だろ。たまたま散歩していたんじゃないのか?」
ユーリの自宅は、実はヒナの自宅のある林の中にある。ユーリによれば、徒歩で5分ほどしかかからないらしい。
「その……様子がおかしいんだ」
「えっ? どういう風に」
ユーリはすっかり顔色を失っている。
「まるで……何かに取り憑かれているようなんだ」
「どういうことだ?」
ユーリは事の顛末を説明した。
「空き地に、1本の赤色のチューリップが咲いているんだけど……その、なんていうか、普通じゃないんだ」
「不思議じゃないって?」
「普通のチューリップと比べてデカいし……。なにより、禍々しいんだ」
「禍々しいって? どんなふうに」
「赤色なんだけど、色がどす黒くて、まるで、血のような色をしているんだ」
「そうか……。それで、ヒナはどんな感じなんだ?」
「祈っていた」
「祈っていた?」
ユーリは首を細かく縦に振り、続けた。
「手を組んで、首を下げて、何かに祈っていた。しかも……」
「……しかも?」
「組んだ掌から……血を流していた」
「なんだって?」
ユーリの顔はどんどん蒼白くなっていく。
「その血が……例のチューリップの花の中に注がれていくんだ……。血は勢いを増していった。妙なのが、あれだけ血が流れているのに花から一向に血が溢れださないんだ……」
「……そうか」
「お前、読心の魔法、使えただろ」
「あぁ、独学だけど」
トリーは、就職に有利だと思った魔法を、独学でかたっぱしから習得していた。読心の魔法もそのうちの一つだ。読心術はオーラの特殊能力としては確認されておらず、魔法でしか覚えられない数少ない技術の一つだった。そのうえ、一度覚えれば、対象が何であれ、心を読むことができる非常に便利な魔法だ。そのため、篤学な虚無の民の学生は中高生のうちに習得することが多い。
「そのチューリップの、心を読めないか?」
「……わからん、でも、やってみよう」
トリーは聞き終えると、彼の肩に手をのせて言った。
「まだ、移動魔法は使えるか?」
「……もうちょっと使えそうだ」
「例の林に行ってみよう。彼女がいた場所を案内してくれ」
「わかった!」
私は、この前。司祭に案内された場所に、再び足を運んだ。
空き地には、紅いチューリップが1輪咲いている。間違いなく、あの時、血を捧げた花だ。
私はチューリップの真上で手を組み、祈りの姿勢をとった。妙な気配を感じ、周りを見てみると、空き地があの時のように、教会にかわっていた。
祭壇の前には、例の司祭が穏やかな笑みを浮かべて立っている。そして、3人ほどの信徒らしき人たちが、椅子に座って司祭の方を向いている。
「よく来た……。少女よ」
司祭が彼女に歩み寄ってくる。
「皆も、この敬虔なる信徒を讃えなさい」
司祭の声とともに、席に座っていた3人がこちらの方を向く。それぞれ、農婦の女性に、戦士の若い男性、手に聖典らしきものを持つ白髪の男の老人だった。
老人が真っ先に口を開いて、私に質問を投げかけた。
「少女を……名は?」
「……ヒナといいます」
私は正直に答えた。自身が祈りを捧げる対象に、同じように祈りを捧げている人に嘘をつくのに抵抗を覚えたからだ。
「……良き名だ」
老人はにこやかな表情になった。
「汝の、その肉体の中に流れる血を、あの紅い花に捧げよ」
老人は説教をするように、私に呼びかけた。
「心から悦び、その血を、この聖なる1輪の花に捧げよ……。断じて吝嗇になり、血を奉ずることを躊躇うようなことがあってはならぬ」
老人は、あの紅いチューリップに、血を捧げるよう説いた。
率直に言って、あの老人のとり憑かれたような調子に、薄気味悪さを感じた。だが、あの時、このチューリップに血を捧げたときの、妙な高揚感が、忘れられなかった。
ためらいつつも、あの時と同じように、手を組み、血を流してみた。僅かにオーラを発動させて、掌に傷を開く。
「少女よ……」
老人は、先ほどのとり憑かれたような表情と打って変わり、老獪そうな笑みを浮かべている。
「お主はまだ……迷いを断ち切れておらぬようだな」
私はぎくりとした。図星だったからだ。
「恐れてはならない!」
戦士が、鋭い声で、私を一喝するように言った。
「貴女よ、躊躇ってはならない。聖業を妨げんとする怯懦を、清浄なる魂の剣で斬り伏せるのだ!」
彼の瞳は、爛々と輝いていた。一点の曇りのない、確固たる意志を感じさせる表情だ。
彼の言葉を聞き、血の奉納をためらっておきながら、敬虔な信徒と称されることに妙な罪悪感を覚えた。
「はい……。すみません」
緊張で血の流れが速くなったのか。血の勢いが激しくなる。
「そう……その調子」
農婦が、不敵な笑みを浮かべて言う。
「ヒナ……。あなたは今、正しいことをしている」
農婦は花の奥に立ち、右手を伸ばして、私の頤に掌を添える。
その手が、温かくて心地よかった。その温もりを感じて、私にあの時の、恍惚の感覚がよみがえってきた。
彼女は諭すように、続けていった。
「鮮やかに咲く花々は、大地の豊穣の象徴。その花に養分を捧げることは、他の何物にも代えがたい聖業なの。心から安堵し、歓喜して、血を捧げなさい」
彼女の瞳は陶然としている。その目が、私と会う。
「そうすれば……」
「……そうすれば?」
「あなたを煩わせるものは、何一つ無くなる」
「……!」
煩わせるものが、何一つ、なくなる……。
私は、これまで様々なものに、煩わされてきた。オーラの力だって、破壊の力が使えるにもかかわらず、自壊症のためにそれを活用することができず、渋々、虚無の民のクラスに所属しなければならない屈辱を味わった。しかも、あの時の、足をかけてきた生徒のような、私を馬鹿にしてくるような連中と出くわすことの恐怖にも耐えなければならなかった。
でも、この紅いチューリップに、血を捧げる続けることで、自壊症が、この忌々しい宿痾が治るとすれば……もうこんな惨めな思いをしなくてもする。魔法も習わなくていいし、例の生徒のような人種から馬鹿にされることもなくなる。もし、それが、それが、実現するとしたら、そんな素晴らしいことはない……。そんなことを、考えた。
紅いチューリップは、私の血を飲み続けている。
しばらく血を捧げてからだった。突如、チューリップの茎が伸び始めたのだ。
予想外の出来事に、思わず声を上げた。
「えっ……?」
「祈りに全神経を集中せよ!」
お爺さんの鋭い喝が響いた。
「慄くな! 貴女の、誠心の奉納が、この聖なる1輪の花の血肉となっているのだ……!」
戦士がそう凛然と言い放った。それに続けて、農婦が今の状況を教えてくれた。
「つまり、ヒナの血が、この紅いチューリップの成長を促しているの。あなたの体の一部が、チューリップの一部になっているわけ。ふふふ……。とても悦ばしいことよ」
彼女は私の襟足をそっと撫で、続けて言った。
「もっと血を捧げ、この花をどんどん大きくしなさい……! いずれ花に手が届かぬようになるでしょうけど、その時になったら根元に血を流し続ければいいわ」
私は彼女の手の温もりを感じながら、祈りを続けた。手から流れる血はより勢いを増していく。
司祭がつぶやいた。
「さあ、血をもっと捧げなさい」
トリーはユーリとともに、ヒナがいたという場所に向かってみた。
「おい……」
「何……これ……!?」
そこにあったのは、もはや花とすら思えないような、巨大な紅いチューリップだった。暗い深緑の茎は大樹の幹のように太く、2枚の長い葉が、それを包んでいた。高い頂点にある花弁は、ゾウ1匹分ほどの大きさだ。
その根元には、1人の少女がいる。小柄な体躯が、目の前の大きなチューリップのために、より小ぢんまりとして見える。
「……ヒナ」
その少女は、間違いなく、ヒナだった。
彼女は陶然とした表情を浮かべながら、祈りの姿勢で、手から血を流していた。
「cor」
トリーは巨大なチューリップに向かって、読心の魔法を唱えた。
「猛烈な悪意、欺瞞の意思が読み取れる……。ヒナは、奴に呪われている!」
トリーが、苦虫を噛み潰したような表情で呟いた。
「なんだって!」
「あの花が彼女に幻覚を見せて、彼女から血の養分を奪い取ろうとしているんだ!」
「くそっ……! 止めないと、彼女の命が危ない!」
ユーリはそう言うと、ヒナの方へ駆けていった。
「よせっ!」
トリーは引き留めたが、狼狽しきったユーリにその声は届かなかった。
刹那、ヒナが首のみを曲げて、駆け寄るユーリの方を向いた。
「今すぐ血を流すのを止めろ! 回復系の魔法を使って傷を回復するんだ!」
ユーリはそう呼び掛けた。ヒナは敵意の感じられる目線で、こちらを見る。
彼女が、ユーリの方に手を伸ばす。
(まずい……。オーラの力を使うつもりだ!)
「scutum」
ユーリはヒナの異変に感づき、チューリップの背後に身を投げ、防御魔法を唱えた。
彼女は咄嗟に体の向きを彼の方に翻した。その方向には自信が血を捧げるチューリップがある。彼女がそれに気づいたのは、オーラの力を発動させる寸前だった。
そして、オーラの力が発動された。
ベキィ!
チューリップの茎に、大きなひびがはいる。
バターン!
チューリップは地面にぶつかる大きな音を轟かせて、倒れた。
防御魔法が防げる力の限界は、大体、鉄が損傷しないレベルまでだ。それ以上の力だと、体にダメージに入るようになる。
「くそっ……。痛ってぇ……!」
ユーリは体中が腫れる感覚を感じた。全身を打撲しているらしい。
一方の自壊症は、鉄が破壊できるレベルの力を発動させると、確実に死に至る。
ヒナは、血みどろになって、その場に横たわっていた。
「ヒナ……!」
オーラを発生させた両腕は、手首から先が完全にもげてしまっていた。残された腕も、地割れのような深い裂傷が複数個所、走っていた。力の反動を受け止めた両足は、複数個所ひび割れをおこして大量出血し、とても立てるような状態ではなかった。胸部や腹部も激しく損傷しているようで、被服は血と体液でどす黒く染まっていた。ワイシャツの裾から、腸らしき臓器のようなものが見える。
トリーは、すぐさま彼女に駆け寄った。
体の感覚がない。自分が今、どのような状態なのかもわからない。ただ、自らの手で自らの希望を破壊してしまったことと、これから確実な死が訪れること、それだけがわかる。
思えば、これまで私に差した一縷の望みは、すべて、私の手によって破壊されている。そしてとうとう、自分の体さえ破壊し、命も、緩やかに壊していくのだ。
視界がぼやけてくる。とうとう、死が近いようだ。
不思議と恐怖も哀しみも感じない、ただ、ぽっかり穴が開いたような、喪失感だけ感じる。……虚無の民という言葉は、オーラの力を使えないものではなく、私のような空洞の人間にこそ相応しいような気がする。そう考えると、虚無の民のクラスに振り分けられたのは、ある意味で必然だったのかもしれない。
……あれ、誰かがこっちに向かってくる。誰だろう。
……ぼやけた視界でもわかる。間違いない、トリーだ。
彼が私のところへ駆けつけて、哭いている。今から死にゆく私に向かって、血ではなく、餞別の涙を送ってくれている。
今際の際に、喪ったと思った倖せを、少しだけ感じられそうだ。
「ヒナ……!」
彼女は、彼の方を向いた。
「ヒナ……!」
両目から、滂沱の涙が頬を流れる。
どうあがいても、助からない。彼はそう悟った。
ヒナは、彼に向かって、微笑んで見せ、目からほろりと涙を流した。
その後、彼女の眼は完全に閉じられ、開くことはなかった。
ヒナが世を去ってから、1か月ほどが経った。
トリーがあの時負った心の傷は、未だに癒えておらず、気づいたらヒナが座っていた席を眺めていることがある。だが同時に、前に進まなければならない、大切な人を喪った苦しみに、打ち克っていかなければならないとも、感じていた。
彼は、自宅付近に自生するチューリップの花を数本、抜き取った。
その中の1つの、深紅のものを煉瓦の上に置き、こう唱えた。
「Ignis」
煉瓦の上に置いた花が、緩やかに、小さな炎に呑み込まれていった。