ソーダライトの夜
神様が海でも作ろうとしているのではと、そんな錯覚をしてしまうほど大雨の日だった。
風も強く、遠くで雷の音も聞こえる。瑪瑙はこういう天気になるたび、このアパートは大丈夫なのだろうかと考えてしまう。寝て目覚めると天井がなくなっていた、なんてアニメみたいな場面を何度も想像した。
雨は朝から降り続いていて、深夜十二時を回っても止む気配を見せない。明日も雨かもしれないが、天気予報を見る習慣のない瑪瑙には分からないし、興味もない。どんな天気でも、よほどのことがない限り大学に行き、休日は家にいるというスケジュールを崩さないからだ。ただ最近では、時折そうではないこともある。そういうイレギュラーには概ね、真梨柘榴が関係しているのは言うまでもない。
大学の図書館で借りた本を読んでいた瑪瑙は、目に疲れを感じて休憩することにする。座っていたベッドから立ち上がり、コーヒーを淹れるためにシンクに向かう。
瑪瑙は嗜好品に拘りのないため、愛飲しているコーヒーはスーパーの安売りで買ったインスタントのものだ。幸い、味にもさして関心がないので、それで十分に満足できた。高品質を求め、それだけに縛られるよりかは色々な消費が少なく、僅かに合理的な生き方だ。姉が比較的そういうことに拘るので、バランスを取る形で自分はそうなったのかもしれないと、瑪瑙は分析する。
薬缶に入れた水が沸騰するのをぼんやり待っていると、部屋の扉がノックされた気がしてそちらを見る。しかし時間を考えると気のせいである可能性が高い。風で建物が揺れた音だろうと思い無視すると、今度は部屋の方からなにかが振動する音が聞こえた。恐らくテーブルに置いてあるスマホだ。瑪瑙はそれよりもコーヒーを優先し、十分な温度になった水道水をカップに注ぐ。
完成した熱い黒い液体を啜りながら戻り、スマホを確認する。
トークアプリにメッセージが届いていて、差出人は真梨だった。こんな時間になんだろうか。さしもの真梨柘榴とて、いままでこの時間に連絡をよこしたことはない。そういう面では、わりと彼女は常識的だった。
『まだ起きてますか?』
それがメッセージの内容だった。
瑪瑙は、うん、とだけ返信する。そして驚くべき速さでメッセージが既読になり、同時に扉をノックする音がした。どうやらさっきのは気のせいではなかったらしい。多分、九十五パーセントの確率で真梨だろう。起きていることを知られてしまった以上は放っておくことも出来ず、瑪瑙は応対することを選択する。
カップをテーブルに置き、玄関へ行って扉を開けると案の定、真梨が立っていた。
真梨は水色のゆっったりとしたルームウェアを着ていたが、足の露出だけが多い。
最近では彼女の足を出す服装にも慣れてきたが、それでもドキリとしてしまうことはある。どうにも異性に耐性がない中学生みたいで情けない。自分の足を見続ければ、そんなこともなくなるだろうと考えたが、そもそも真梨とではデザインが違うので、無意味であるという結論に達する。なんとも物悲しい結論だ。外面的な魅力に執着はないが、それでも少しは自分の体形や童顔さに思うことのある瑪瑙だった。
「こんな時間に、サンタでも待ってるの?」
瑪瑙は時間帯を考慮し、小声で言う。なぜか真梨が心細そうな表情をしていたので、一応は気を使っての冗談だ。しかし残念ながら伝わらなかったようで、真梨は首を傾げた。
「十二月はまだ先ですよ、瑪瑙先輩」
「そうだね」
少しだけ気まずかったので、瑪瑙は適当に返事をする。受け渡しに失敗した冗談というのは、気の抜けたコーラみたいに始末が悪い。
「で、どうしたの?」
「いやぁ、そのぉ」
真梨は自身のお腹の辺りで両手を合わせ、視線を斜めに逸らす。視線の先になにかあるのかと思って見てみるが、いつ抜けても不思議ではない古い床があるだけだ。
合わせた手をゆっくり上下させるだけでなかなか先を言わない真梨に、瑪瑙はとりあえず部屋に入るように言う。深夜に廊下で長時間話すのは、他の住人の迷惑になると思ったからだ。真梨は表情を明るくしそれに従った。この展開が狙いだったのかもしれない。最近になってようやく瑪瑙は、もしかしたら彼女は自分に懐いているのかもしれないと思うようになっていた。ただ、勘違いの可能性もあるので、かもしれないで留めている。その種の経験が全くないので、判断基準が分からないのだ。
「とりあえずコーヒーでも飲む?」
気まぐれで部屋を整頓したばかりだったので、今日は座る場所を作る必要はない。真梨はすでに、いつも昼食を食べるときと同じ場所に座っていた。もはや彼女専用の場所と言っても過言ではないだろう。そういう場所が増えて、いずれは部屋の全てを侵略されてしまのうのではと、瑪瑙は密かに危惧している。
「いただいていいですか?」
「うん。ちょうど、お湯を沸かしたところなんだ」
瑪瑙は薬缶に残っているお湯でもう一杯、コーヒーを淹れる。淹れてから、砂糖もミルクもないことを思い出すが、真梨はブラックでも飲めるだろうか。飲めないと言われれば、まぁそれはそれで仕方がないかと、瑪瑙はそのままカップを運ぶ。
「悪いけど、なにも入れるものがない」
「大丈夫です。私、コーヒーはブラック派ですから」
差し出したカップを受け取り、真梨は微笑む。しかし、いつもの明るさが三割減くらいされている気がして、瑪瑙は少し心配になる。
「それでなにかあった?」
自分のカップを手にとりベッドに座る。もう何度目になるか分からない雷の音が響き、瑪瑙は反射的に窓の方に目をやる。今日はこの雷が原因で、パソコンの電源を切っていた。雷により停電で、過去にパソコンをおしゃかにした経験があったからだ。
「瑪瑙先輩って、怖い話は苦手ですか?」
「怖い話?」
瑪瑙は少し考える。
「例えば、八時間かけて進めた作業データが消えてしまった話とか?」
一番はじめに思いついたのがそれだった。想像しただけで心臓が痛くなる。
「違いますよぉ。そういうのじゃなくて、もっとこう、いわゆる幽霊系です」
「ああ、そっちか。いや、別に苦手じゃない」
昔から、瑪瑙は幽霊や恐怖を煽るタイプの都市伝説だったり、そういうものに大きな反応を示すことが出来ない。けして恐怖という感情が欠如しているわけではないのだが、ツボが違うというだけの話だろう。事実として、そういう人は多く観察できる。瑪瑙は幽霊より、ジェットコースターの方がずっと怖かった。
「私は好きなんですけど、聞いたり読んだりすると凄く怖くなっちゃう性質でして」
真梨はコーヒーの一口飲んだ。
「あんまり怖いやつだと、寝れなくなることもあるくらいで」
「へぇ、それは難儀だね」
瑪瑙もコーヒーを飲み、そして直後、嫌な予感が頭を過る。
「え、なに? まさかもしかして、そういうこと? それで私の所に来たの?」
「ええ、まぁ、その」
恥ずかしそうに僅かに俯き、真梨はカップを揺らし小さく円を描く。
「つまり、そういうことなんでしょうかね? ね、瑪瑙先輩?」
「コーヒー飲んだら帰りなさい」
瑪瑙は溜息を吐く。
「キミね、自分の年齢を考えてもみなよ。小学生じゃなしに、そういうコントロールは自分で出来るようにならないと」
「だってぇ、怖いものは怖いんですよぉ」
「なら見なければいいだけ」
「違います、見たんじゃなくて、怖い話を読んだんです」
「どっちでもいいの、そんなことは」
「ちなみにいまのは、いつもの先輩の感じを真似してみました」
「もう帰る? そのカップ、取り上げようか?」
立ち上がる振りをすると、柘榴はカップを胸に抱え悪戯っ子みたいに笑い舌を出した。普段の彼女とさほど変わらない様子に、瑪瑙はとりあえず安心する。
しかし怖い話を読んで、それで堪らなくなって深夜に人の部屋を尋ねるなんて、とは思う。それほどに怖かったということなのかもしれないが、それでもだ。文句の一つでも言いたくなったが、今日のところは我慢する。真梨がしていた、心細そうな表情を思い出してしまったからだ。毎度毎度、彼女には甘いぞと、瑪瑙は自身に戒告した。
「だけど、なんでそういうことになるかもって分かっているのに、読んでしまうわけ?」
瑪瑙は素朴な疑問を口にした。自覚があるならば通常、回避可能である。瑪瑙も遊園地に行かないことで、一生ジェットコースターには乗らないという誓いを守っている。
「いや、自分でも分かりませんが、きっとそれが人間というものなのです」
真梨は一人、納得したように頷く。
「特に今日は嵐の夜、怖い話を楽しむには絶好のシチュエーションですからね」
「人を巻き込んでまで楽しみたいと?」
「う、すみません」
バツが悪そうにし、真梨は素直に謝る。
「でも私、こういうときに頼れるの先輩しかいなくて」
「それはそれは、光栄だ」
瑪瑙は口角を僅かに上げた。
「まぁいいや。私もまだもう少しは起きてるし、気分が落ち着ついてから部屋に戻れば?」
「え? む、無理です!」
ブンブンと、風を起こしそうな勢いで真梨は首を横に振る。彼女が神様で、そこに小さな世界があったなら、今ごろ暴風が吹き荒れているかもしれない。
「今夜はもう一人ではいられません!」
「なんでよ」
「だから怖いからですって! 一人になると思い出しちゃうんですから!」
「思い出さないよう、努力すればいい」
「それが出来れば苦労しませんよぉ」
「それはそうだけど、なら、どうすればいいの?」
そう言うと、真梨が潤んだ目で見つめてくる。実家で飼っている犬が、散歩をせがむときだけこういう目をしていたなと、瑪瑙は思い出す。しかし真梨のそれは犬よりも遥かに熱っぽくて、見られるとソワソワと身体が落ち着くなる。瑪瑙はコーヒーを飲み、視線を彼女の鼻の辺りに合わせることで平常心を取り戻す。
「……先輩の部屋に泊めてもらえません?」
「えぇ、私の部屋に?」
彼女らしい唐突かつ厚かましい依頼だと、瑪瑙は思う。
「もしくは、先輩が私の部屋に泊まってくれてもいいですけど……」
「本当にさ、小学生じゃないんだから」
「もう小学生でもなんでもいいですから、今日だけお願いします!」
真梨は顔の前で手を合わせ懇願してくる。
さてどうしたものかと、瑪瑙は考える。泊めてなにか不都合があるかと言えば、特にはない。寝る場所が一つしかないという問題はあるが、それは最悪自分が床に寝て、ベッドは真梨に譲ればいい。どうしてもと言うのなら、どちらかといえば、彼女の部屋に泊まるよりかは、泊まってもらった方がいいとも思う。瑪瑙は天井が変わると眠れなくなる、という特性を持っているからだ。修学旅行や幼い頃に参加させられたキャンプでは、それでだいぶ苦労した。
「ねぇ先輩、一生のお願いですからぁ」
「それはまた、随分と軽く一生のお願いを使うなぁ」
「あ、じゃあ普通のお願いで」
「真梨さん、本当に怖がってる?」
「怖がってます。とてもとても」
大丈夫そうに見えたが、それはいまは二人でいるからなのだろうか。他人と一緒にいることで恐怖を緩和する、とい手法を否定するつもりはないが、自身で採用したことがないのでピンとこない。怖いという事実は、誰かといることで消えるわけではない。ならば数学の問題でも解いて集中した方が、よほど忘れたふりをするには効果的ではと瑪瑙は思う。実際、瑪瑙は嫌なことあるとこの方法で凌いでいる。綺麗な式に、綺麗な解、それを前にすると自分の内側がクリアになり、全てが些末事だと思える気がした。
しかし、自分のやり方が誰にもで当てはまるわけではないし、押し付けるつもりもない。それに真梨は突飛な人間ではあるが、けして常識のセーフティラインを飛び越えてくるような人間ではない、ということを瑪瑙は知っている。なのにこんな時間に尋ねてきたということは、おそらくそれだけ怖かったのだろう。呆れ返ってしまうようなことではあるが、邪険にするのも良心が痛む。
「……仕方ないなぁ。今日だけだからね」
瑪瑙は立ち上がり、カップをテーブルに置いてから押し入れに向かう。毛布の予備があったと記憶していたからだ。
「本当ですか? いいんですか?」
毛布を引っ張りだしていると、真梨がなぜか驚いたように言う。自分から言っておいて、どうしてそういう反応になるのか瑪瑙には疑問だった。
「ダメって言ってほしいの?」
ちょっとかび臭い毛布を床に放って瑪瑙が言うと、真梨は首を横に振った。その首の運動が終わったあとの彼女の表情は、言うまでもないものだった。犬みたいに尻尾があれば、元気に動いているかもしれない。
「ただし条件として、真梨さんはベッドに寝ること」
「え、それは悪いですよ……」
「明日、具合が悪くなってたり身体が痛くなってたら私が気にする」
「でも、私だってそれは同じです」
「私はよく椅子に座ったまま寝ることもあるし大丈夫」
瑪瑙は続ける。
「これは私からのお願い。聞いてくれるよね?」
真梨は少し迷っているようだったが、不意になにか思いついたように表情を輝かせる。ロクな思いつきではないと、瑪瑙は直感した。
「私、良いことを思いつきました! 一緒にベッドで寝ましょう!」
「嫌だよ」
思った通り、ロクな思いつきではなかった。瑪瑙が即答すると、真梨は悲しそうに眉をひそめる。
「なんでですか? 私、ちゃんとお風呂入りましたよ?」
真梨はそう言って、自身の腕を鼻に近づけていた。
「うん。大丈夫だと思います」
「そいうことじゃなくて、狭いでしょ」
「先輩小っちゃいから大丈夫ですって。私もわりと小柄な方ですし」
「もういいから、ベッドは一人で使って」
「でもぉ」
「でももへちまもない」
「へちま?」
真梨が首を傾げる。
「へちまってなんですか?」
「大きな胡瓜みたいなの。ゴーヤにも似てるかな。知らない?」
「野菜なんですか?」
「うん。小学生のとき、へちまタワシって作らなかった?」
「うーん、覚えはないですねぇ」
「地域で違うのかな」
「そうかもしれないですね」
真梨は頷いた。
「で、さっきのことですけど」
話を戻されたが、瑪瑙はなにも言わずベッドを指さす。これ以上、議論を続ける気はないという意思表示だ。真梨はまだなにか言いたそうだったが、コーヒーを飲み乾し、諦めてそちらに移動した。
「じゃあ、もう寝るから」
「え、もう少しお話しましょうよ」
その提案を無視し、瑪瑙は床にあるリモコンを拾い上げ消灯した。
「無慈悲な先輩だぁ」
「そう。実はこう見えて、私は電気を消すことに躊躇のない女なんだ」
「エコな女ですね。地球に優しい」
「いや、地球は関係ない。人類のエネルギー問題に微々たるを貢献してるだけ」
もちろんそんな貢献意識、瑪瑙にはなかった。
あるのは生きている以上、誰も地球には優しくないという観測だけだ。
毛布に包まり、床に寝転がる。少ししてから暗闇でモゾモゾと動く気配を感じ、真梨も眠る体勢に入ったのだろう。普段の真梨ならばもっと粘りそうだが、今日は多少は負い目があるのかあっさりと引いた。
「先輩の匂いがしますね」
いきなりの理外な発言に、瑪瑙は思わず身体を起こす。ベッドの方を見るが、まだ目が暗さに慣れていないためよく見えない。真梨がクスクスと笑う声は聞こえた。
「先輩、いま起き上がりました?」
「おかしなことを言うからでしょ」
溜息を吐いて、瑪瑙は再び身体を倒す。毛布に入り、こっそり自分の匂いを嗅いでみるが、自分ではよく分からない。お風呂にはちゃんと入っているから、大丈夫だとは思う。
「匂いなんて嗅がないでよ」
「良い匂いですよ、瑪瑙先輩」
「……なんか危ないやつみたいだよ、真梨さん」
「そんなことはないです」
「いや、どうかな」
「明日、お礼に朝ごはん作りますね」
「匂いのお礼?」
「違います」
真梨の声は笑っていた。
「ワガママを聞いてもらったお礼です。おやすみなさい、瑪瑙先輩」
「おやすみ、真梨さん」
基本的に朝ごはんを食べない瑪瑙だったが、それは黙っていた。そんなことを言ったら健康に良くないと騒ぎ、今後は休日の昼食だけではなく、朝食の準備すらもはじめそうだと思ったからだ。
それにしても、誰かに朝食の準備をしてもらうのはいつ以来だろう。もうずっと朝はコーヒー一杯で済ましている。
実家にいるときも、高校くらいからは自分の分は用意しなくて良いと言っていた。
なので随分と久しぶりのことだ。
だからなのか、ほんの少しだけ、朝が来るのが楽しみだと思える瑪瑙がいた。
たまにならイレギュラーだって悪くない。
しかしそれを許容すること自体がイレギュラーとも言える。
雨の音は、いつの間にか聞こえなくなっていた。
明日は晴れるだろうかと、瑪瑙は珍しくそんなことを考えながら眠りについた。