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チャロアイトな邂逅①

 月曜日の午後五時半、大学から帰宅した真梨柘榴は、見知らぬ女性が甘柿瑪瑙の部屋の扉をノックしているところに出くわした。


 甘柿の知人だろうか。柘榴は自分以外の人間が彼女に会いに来ているのを見たことがなかったが、甘柿にだって交友関係はあるはずなので不思議なことではない。しかし彼女のことを知っている人物ならば、平日のこの時間には部屋にいないことを把握していてもよさそうだ。おそらくいまは、大学の研究室にいるはずである。


 甘柿と部屋で会う約束をしている可能性もあるが、彼女が出てくる様子はない。なにか急ぎの用事があるなら、甘柿がおそらく大学にいる、ということを教えてあげたほうが良いだろうか。しかしそういう情報を、本人の許可なしに伝えるのはよくないことだとも思う。それに知人ならば連絡先くらい知っているはずだから、余計なお節介になるだけの場合もある。


 迷っていると、見知らぬ女性は手に持っていたスマホを見て、諦めたように溜息を吐いた。それから身体の向きを右九十度回転させ、柘榴と向き合う形になる。


 柘榴に気が付いた女性は一瞬だけ驚いたような素振りをみせ、しかしすぐに微笑んだ。パラパラ漫画みたいな切り替えの速さだ。


 女性は大きなサングラスをかけているため、しっかりと顔を確認することができない。しかし微笑んだときの口元の形から、きっと美人だろうと柘榴は思った。


 背が高く、スタイルも良い。癖なく真っ直ぐと伸びた髪は艶やかに黒く、雪みたいに白い肌がよりいっそうそれを際立たせている。纏っている雰囲気はどこか神秘的で、このままフッと消えてしまっても、きっとそれほど驚かないだろう。そういった類のズレを、柘榴は彼女に感じた。ただ一つ残念なのは、黒いシャツに薄紫のロングスカートという服装に、大きなサングラスが全く合っていないということだ。


「こんにちわ」

 女性は柘榴がいままで聞いたことのない、上品な声音で言った。声だけでもう、自分とは住んでいる世界が違うと思え、柘榴の身体は緊張で固まってしまう。

「貴方は、こちらにお住みになっている方?」

 お住みになっている、なんて聞かれかた、柘榴は生まれてはじめてされた。なのでどんなふうに答えれば良いか混乱し、言葉に詰まってしまう。

「あの、はい、お住みになってます」

 ようやく出た返答がそれで、柘榴は自身の語彙のなさに嫌になる。そんな言い方があるかと、心の中で自分を諌めた。

 女性がクスクスと笑い、柘榴は一気に恥ずかしくなる。耳が熱くなり、そんな彼女の様子に気が付いてか、女性は笑うのをやめた。

「ああ、別に馬鹿にしたわけじゃないの」

 少し慌てたように女性が言う。

「なんだかとても可愛らしかったから、それでつい、ごめんなさい」


 そう言って女性はサングラスを外す。

 ようやく見ることの出来た彼女は、予想通りの美人だった。優しげな瞳に、右目の下には泣きぼくろがある。たったそれだけの要素が、彼女の印象に言語化できない妖艶さをプラスしていた。


 ふと、柘榴は彼女に見覚えがあるような気がしてくる。ごく最近、どこかで会ったような、会っていないような曖昧な感覚。


 しかし思い出すより先に、女性が柘榴に歩み寄ってきたため、そちらに意識をとられてしまう。距離間が驚くほどに近く、向かい合う二人の間には、二十センチくらいのスペースしかなかった。


 そして女性はいきなり、なんの前触れもなく柘榴の頬に手をやった。

 なにを意味する行動なのか柘榴の頭では処理できず、緊急事態を知らせるサイレンが鳴り響いていた。真っ直ぐと見つめる女性の瞳は黒く澄んでいて、ずっと見ているとなにもかも見透かされそうな光を秘めている。冷たい手と相まって、なんだか全く別の世界の存在のように柘榴には感じた。


「顔がとっても熱いのね」

 女性は手を置いたままだ。

「もしよければ、貴方のお名前を教えてくださらない?」

「ま、真梨、です。真梨柘榴、といいます」

「真梨柘榴さん?」

 名前を聞いて、女性はなぜか驚いたように目を見開いたが、すぐに微笑む。

「そう、真梨さん。真梨さん、貴方、甘柿瑪瑙って子を知っている?」

「え、はい、知ってます。大学の、先輩です」

「あの子、いまどこにいるかしら?」

「多分、大学だと思います」

「そう、大学」


 そういうことは言わない方が良いと思っていた矢先、喋ってしまう。しかしいまの状態で抵抗できる人間がどれくらいいるだろう。柘榴はそんな言い訳を自分にする。


「真梨さん、いまおいくつ?」

「十八です」

「十八かぁ。どうりで」

「どうりで?」

 柘榴は思わず聞き返す。道理で、なんなのだろうか。

「どうりで、触り心地が良いなって」


 女性は目を細め、柔らかく頬を撫でてから、ようやく手を離す。指が離れた瞬間、ゾクリとした感覚が背中を抜けていくのを柘榴は感じた。嫌な感じではなかったが、何度も経験してしまうのは危険なもののように思える。具体的にどう危険なのかは分からないが。


「ああ、ごめんなさい」

 自分の手を背中に隠し、女性が苦笑する。

「ダメね。どうにも歳を追うごとに他人に気安くなっていくわ」

 女性は独り言のように呟き溜息を吐いた。いままでの行動が、はたして気安いというレベルで片付けられるのか、判定はグレーだと柘榴は思う。さっき触れらた頬は、まだフワフワとしている。


 そんなことを考えていると柘榴は急に、女性が誰なのか思い出す。さきほどは会った気がすると思ったが、正しくは会ったのではなく、見たのだ。どこで見たのかといえば先週、甘柿と言った映画館、そのスクリーンの中に彼女はいた。


杏宮真珠あんずみや しんじゅさん!」


 思わず大きな声が出る。目の前にいるのは杏宮真珠という女優で、甘柿と見た映画には主演女優として出演していた。最近ではその宣伝のためにテレビで見る機会も多く、なぜすぐに思い出せなかったのか、柘榴は自分でも不思議だった。おそらくは、こんなところに芸能人はいない、というバイアスによるものだろう。


「あらいまさら? 真梨さん、私のこと知っているでしょう?」

「そ、それはもちろん知ってます! いまやっている映画も見ました、その凄く綺麗で、演技も素敵で」


 柘榴はいままでとは違う意味で緊張する。芸能人を実際に見るのは初めてで、もちろん話すのもはじめてだ。同じ人間なのに、芸能人という肩書がつくだけで、どうしてこうも気持ちが上昇してしまうのだろうか。それだけ自分がミーハーということだと、柘榴は解釈する。証拠に、猛烈な勢いで一緒に写真を撮ってもらいたくなってた。サインもほしい。


「嬉しい。映画、瑪瑙と一緒に見たのでしょう?」

「え、はい。あれ、でも」


 瑪瑙と呼び捨てにしたことも気になったが、それ以上に、どうしてそんなことを知っているのかが気になる。さっきも甘柿のことを聞かれたが、二人は知り合いということなのだろうか。そんな話は聞いたことがない。普通ならば映画を見たときに言いそうだと思ったが、しかし相手は甘柿だ。聞かれもしないことを、わざわざいうタイプではない。仮に聞いたとしても、言わなそうだと柘榴は思う。


「なんで私がそんなこと知ってるか不思議?」

「あの、はい。でも、瑪瑙先輩から聞いたんですよね?」

「ええ、そうです」

 杏宮は頷く。

「まぁ、それしかないものね。この前ね、瑪瑙が自分からメッセージを送ってきたの、それだけでも珍しいのに、後輩と映画を見てきたって書いてあったから、本当に驚いた」


 話す杏宮はとても嬉しそうで、まるで好きな人から手紙をもらった少女みたいに見えた。そんな彼女をよそに、柘榴は甘柿が自分からメッセージを送ったという事実に、小さなショックを受けていた。甘柿とトークアプリのアドレス交換を行っていたが、一度だってはじめの送信元が甘柿になったことはない。一通目は必ず柘榴で、どんなに長文を打っても返ってくる返信内容は概ね、うんとか、そうだねの一言のみだ。


 そんな甘柿が映画に行ったことを、自ら報告したというのだ。


 あの甘柿瑪瑙が、である。


 しかも自分には最高でも四文字に対して、杏宮真珠には、後輩と映画に行ってきた、だけでも十一文字。


 この七文字の差は、親しさの違いなのだろうか。


 あるいは芸能人と一般人の差?


 いや、甘柿は他人に対してそんな差は設けない。


 だとすればやはり、それだけ甘柿が杏宮に心を開いているということになる。


 きっと、自分以上に。


 もちろん、関係ないことだ。


 二人がどれだけ親密でも、自分と甘柿の関係性に影響はない。


 ただ、なんだか寂しいと思ったのは認める。


 だけどそれは、友人に自分よりも親しい友人がいて、それでちょっとだけ、なんともいえない寂しさみたいなもの感じるのと同じだと柘榴は思う。


「どうしたの?」

 なにも言えずにいると、杏宮が心配そうに柘榴の顔を覗き込む。

「顔色が良くないかな? もしかして具合が悪い?」

「いえ、大丈夫です。その、なんだかお腹が空いちゃって」

 もちろん嘘だったが、柘榴は自分のお腹をさすりながら笑顔を作る。上手くできていたかは分からない。杏宮は黙って柘榴を見つめたあと、僅かに首を傾けながら微笑んだ。

「もし真梨さんがよければですけど、これから一緒にご飯を食べにいかない?」

「は、え、ご飯ですか?」

「ごちそうするから。ダメ?」

「いえ、でも」

「やっぱり具合が悪い?」

「そんなことはないですけど……」

「じゃあ決まり」


 結局、半ば押し切られる形で出かけることになった。人生とは奇妙なもので、まさか朝起きたときは、芸能人から食事に誘われるなんて微塵も思っていなかった。否、そんなことを考えて目覚める人もなかなかいないだろう。


 ただ正直に言えば、柘榴はあまり乗り気ではなかった。本当はお腹は空いていなかったし、杏宮となにを話せばいいのかも分からない。きっと甘柿の話題が出てくるという予感はあったが、いまはそれに触れたくないという気持ちが強い。


 近くの駐車場に車を取りに行くという杏宮を、柘榴は深森荘の前で待つことになった。教科書の入ったカバンだけ部屋に置き外に出ると、門のところにはすでに赤いスポーツカーが停まっており、運転席には杏宮の姿がある。左ハンドルなので、外車なのかもしれない。座席が二つしかなく、柘榴はそんな車もあるのかと驚く。車には全部、後部座席があると思っていたからだ。彼女のもつ自動車への知識とはその程度だ。


 助手席に乗り込むと、父親の車に比べてずっと座りやすいシートだった。身体がすっぽりと収まり、心地が良い。


「行きましょうか」

 柘榴がシートベルトを着けると、杏宮はアクセルを踏み車を出す。

「近くにね、良さそうなお店を見つけたの。フレンチなんだけど、真梨さんは嫌いじゃない?」

「はい、食べ物はだいたいなんでも好きです」

 柘榴は答える。

「小さい頃は何でも口に入れるから困ったって、お母さんが言ってたくらいです」

「可愛い」

 ステアリングを操作しながら、杏宮は笑う。

「瑪瑙は逆。小さい頃は好き嫌いが多くて、シリアルだけがお気に入りだったの。野菜なんか絶対に食べなかったもの」

「……あの、そんな小さい頃から瑪瑙先輩をご存じなんですか?」

「え? ええ、もちろん」

 信号が赤になり車が止まると、杏宮は柘榴を見た。

「妹のことですから、それはもう、生まれたときからご存じ」

「妹?」

「もしかして、知らなかった?」

 杏宮は大きく二度ほど瞬きをした。

「あれでもさっき、私のことを知っているって言わなかったかしら?」

「はい、言いました。言ったんですけど」


 それは、芸能人としての杏宮真珠を知っている、という意味だ。甘柿の姉であることを知っている、という意味ではない。普通、前者ではないだろうか。


「でも、苗字が」

「杏宮は芸名なの。本名は甘柿真珠」

 信号が変わり、杏宮は再び前を向いて車を走らせる。

「えっと、あの子、瑪瑙は私のことを話してない?」

「はい。聞いたことないです」

「映画は見に行ったのよね?」

「行きました」

「そのときにも、なにも言わなかった?」

「と、思いますけど」

「チケットは誰にもらったって?」

「特になにも。部屋にあったからって」

「ああ、そう、そうなのね」


 杏宮の表情が少し落ち込んだものに変わり、黙ってしまう。


 柘榴はもう、今日何度目になるか分からない驚きに、多少の疲れを感じていた。つまり、杏宮と甘柿は姉妹であり、親しげに感じたのもそれが要因ということだ。疲れたが、それを思うと、直前まで感じていた寂しさみたいなものが一気に吹き飛んだ気がした。


 ただ、甘柿はなんで教えてくれなかったのだろうという不満が改めて湧き出て来た。交友関係ならいざ知らず、そういう情報くらいなら教えてくれてもいいのではないだろうか。しかも主演している映画を一緒に見ているわけなのだ。聞かれなかったから言わなかっただけだとしても、限度というものがある。


 あるいは、自分が誰かに言いふらすとでも考えたのかもしれない。だが前もって言ってくれればそんなことはしないし、そもそも甘柿がそういうことを嫌いそうなのは理解しているので、わざわざ誰かに教えるなんてことはしない。そんなに口が軽そうに見えるのかと、柘榴はちょっとだけがっかりする。


「あ、でも真梨さん、それならダメじゃない」

 杏宮が突然言う。

「私が瑪瑙の姉だって知らなかったのに、こんな簡単に車に乗って、私が悪い人だったら誘拐されているかもしれない」

「ゆ、誘拐ですか?」

「テレビに出る人だからって、安易について行っちゃダメ。良くないこと考える人というのは、どこにでもいるから」


 確かに彼女の言うとおりかもしれない。芸能人だから着いていったわけではなく、なんとなく断れなかっただけだが、不用心だと言われればそうだ。むしろそっちの方がマズイだろう。あまり考えたことがないが、人に対する警戒心が薄いのだろうかと柘榴は反省する。


「でもびっくりしました。瑪瑙先輩にお姉さんがいたこともですけど、まさかそれが杏宮真珠さんだったなんて」


 言ってから柘榴は、自分の声のトーンがいつも通りになっていることに気が付く。杏宮が姉であると知った瞬間から、落ちていた気分は明らかに浮上している。安心したからだろうか。しかしいったい何に安心したのだろう。


「だけど私が杏宮真珠でも、きっと瑪瑙にはどうでもいいことなんでしょうね」

 杏宮が言う。今度は彼女の声のトーンが落ちていた。

「だから真梨さんにも話していなかった。自慢の姉にはなれていないということなのかしらね」


 思わず、そんなことはないと言いそうになったが、柘榴は言葉を飲む。なんの根拠もない反射的な言葉だったからだ。もしも杏宮が自分の姉であれば、きっと自慢だったと思うが、真梨柘榴は甘柿瑪瑙ではない。こればっかりは、本人に聞くしか答えはないことだった。

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