ブルートパーズな歩み
日曜日の午前、甘柿瑪瑙は深森荘の前にいた。
瑪瑙は腕時計に目をやり時刻を確認する。デジタル表記の数字は十時十分を表示しており、彼女はもう十分ほどここにいた。
別に、ぼうっと突っ立ていることが彼女の趣味というわけではない。瑪瑙はいま、同じアパートの住人である真梨柘榴を待っていた。約束の時間は十時だ。
どうして彼女を待っているのかと言えば、発端は二枚のチケットだった。そのチケットは現在上映されている映画の無料招待券であり、瑪瑙の部屋に埋もれていたものだ。
床に散らばっている本の下からそれが出てきたとき、なんでこんなものが自分の部屋にあるのか疑問に思った瑪瑙だが、記憶を辿り、前に姉から送られてきたものだと思い出した。送られてきたが、わざわざ映画館に行くほど映像メディアに関心がないため、そのまま床に放り忘れてしまっていたのだ。
チケットを見つけた瑪瑙は、せっかくだから見に行こう、とは思わなかった。彼女はその種のエコロジー精神を持ち合わせていなかったし、興味のないことに時間を消費するほど、その概念を軽視していなかったからだ。しかも映画のジャンルは恋愛モノらしく、それが余計に瑪瑙の興味を消極的なものへと変えていた。
現実でも創作でも、人の恋愛模様を見ることのどこが面白いのか分からない。それはもしかしたら、自分がそういったことと縁のない人生を送ってきたからなのかもしれないが、だとしてもアサガオの観察をしていた方がずっと有意義だと瑪瑙は思う。
そんなわけでチケットゴミ箱に入れようとした瑪瑙だったが、脳裏にふと真梨の顔が過った。彼女が自分の部屋にくる以外、他にどんなことに興味があるのかは知らなかったが、もしかしたらこういう映画を見るかもしれないと思ったのだ。なんとなく好みそうな雰囲気があると、真梨に対してそういう印象を持っていた瑪瑙は数秒の逡巡ののち、チケットをゴミ箱ではなくテーブルの上に置いた。
前に昼食をごちそうしてくれたお礼として渡そうと考えたのだ。放り出したまま忘れていたもので、我ながら誠意に欠けるとは思った。だがなにもしないよりはマシである、という意見が瑪瑙の脳内会議で可決された。
そして昨日、いつも通り真梨が部屋に来たときに、瑪瑙はチケットをプレゼントした。
予想していた以上に真梨は喜んでくれ、瑪瑙もまんざらではない気持ちになった。一日一善を心掛けた経験はなかったが、自分の行動で誰かが喜んでくれるというは悪くない、と思えたのだ。しかしそんな自己満足も、次に真梨が言った言葉によって吹き飛ぶことになる。
「それじゃあ先輩、さっそく明日、見に行きましょうよ!」
まさに青天の霹靂というべき発言で、瑪瑙はそれが意味することがなんなのか理解するまでに、約四秒ほどの時間を有した。確かにチケットは二枚あったが、そういう意図は全くなく、きっと友達と見に行くだろうと思っていたからだ。しかしどうやら真梨は勘違いしたらしく、瑪瑙の行動をチケットの譲渡ではなく、映画の誘いと認識したようだった。
瑪瑙は言葉足らずであったことを後悔したが、お礼として渡してしまった以上は断り難く、仕方なく頷いた。それに断ったときに真梨がするであろう顔を想像すると、どうにもそういう気にもなれなかった。
嫌なことはしない主義の瑪瑙だったが、真梨柘榴が相手だと判定が甘くなってしまう。つい最近、彼女はそれに気が付いた。なぜだか理由は不明だが、少し前に真梨から自分の行動は迷惑か、というようなことを聞かれたことがあり、その時に自覚したことだ。
もしかしたら真梨みたいなタイプの人間がいままで周りにいなかったから、ファイアウォールが対策し切れていないのかもしれない。
なんにしろそういった経緯があり、瑪瑙はいま真梨を待っていた。
日曜日に誰かと外出するのはいつ振りだろうかと考えながら、また時刻を確認する。時間は人類の決めた定義に従って、さきほどから五分進んでいた。
「すみません! お待たせしました!」
共有玄関から、真梨が走って出てくる。約十五分の遅刻だ。通常の自分ならば、五分過ぎた時点でとっくにここにはいないだろうと瑪瑙は思う。つまり、今日も判定が甘いということだ。しかもとびきりに。
真梨は裾の広がった、薄いピンク色のワンピースを着ていた。よく似合っていると思ったが丈が短く、細い足が露わになっている。どうにも見てはいけない気がして、瑪瑙は静かにそこから視線を逸らす。
客観的に見て、真梨の容姿は人の目を惹くものだろう。子猫を連想する大きな瞳が特に印象的だが、他のパーツも、どうすれば人に好意を抱かせることが出来るのか、それを計算されているかのような造形だ。腰の少し上くらいまで伸びた亜麻色の髪は僅かにウェーブし、片方が耳にかかっていた。ファッションに疎く興味もない瑪瑙だが、その髪型は好きだった。髪を伸ばし、自分でしようとは思わないが。
「随分と時間がかかったね」
言ってから、怒っているように聞こえただろうかと思う。多少は苛立ってはいたが、別に怒ってはない。こういった微妙な感情は、どうやったら上手く伝えることが出来るのだろうか。
「ごめんなさい。本当に申し訳ありません」
「なにかあった? 具合が悪かったとか?」
「いえ、体調は最高です。その、あの、せっかくのお出かけなので、なにを着て行くか迷ってしまって……」
「ああ、服ね」
いつでもパーカーとジーンズの自分には縁遠い迷いだったが、一般的な女の子というのはそうなのかもしれない。しかし彼女くらいの美人ならば何を着ても似合うだろうし、迷う必要なんかなさそうなのにと瑪瑙は思う。
「そういえば、真梨さんが同じ服を着ているのを見たことがないね」
今日のワンピースも初めて見るものだ。しかし今の言い方は嫌味っぽいなと、瑪瑙は後悔する。真梨の反応を伺うと、彼女はなぜか驚いたように目を丸めたあと、僅かに頬を赤くした。
「えっと、そうですか? そんなことはないと思いますけど、はい」
「そう? でも、少なくとも私の部屋にくるときは毎回違う服だ」
「覚えてるんですか?」
「まぁね」
ただ覚えているというよりは、自然と記憶に残ったという方が正しいだろう。いかんせん、瑪瑙が交流のもつ人たちはみな、彼女同様にお洒落というものに興味がない。よほど常軌を逸していなければ、最低限の機能を有していればどんな服でもいいという連中ばかりなのだ。そんな中で真梨は異質であり、結果として忘却されないでいる。灰色の画面に一つ華やかな色が紛れていれば、誰だってその色を忘れはしないだろう。
「いやぁ、なんだか、ちょっと困っちゃいますねぇ」
そう言う真梨は笑っていて、声も困っているようには聴こえない。どちらかというと嬉しそうで、瑪瑙にはどういう感情の動きなのか理解出来なかった。そもそもなんで困るのかも謎だ。
「とりあえず行こうか。映画の時間もあるし」
「あ、はい。行きましょう!」
二人は予定よりも約二十三分ほど遅れて、深森荘を後にする。
目的地は駅前にある映画館で、徒歩で十五分程度の場所にある。映画館は大きなショッピングモールに隣接しており、瑪瑙の記憶では連絡通路を渡り、中からの行き来が可能になっていたはずだ。近くに他の娯楽施設がないため、休日になると多くの人で溢れている。それはつまり、瑪瑙があまり好まない場所であるということだ。
「え、それじゃあ先輩、もうずっと映画館に行ってないんですか?」
歩きながら、最後に映画館に行ったのは小学生のときだという話をすると、真梨は信じられないという反応をした。瑪瑙からするとあんなところに大勢で集まって同じ映像を見る、ということの方が信じられなかったが、それは人それぞれなので口には出さなかった。
「ちなみにそのときに見た映画ってなんですか?」
「うーん、たしか、おもちゃの兵隊が戦うやつだったかな」
「戦うやつですか。瑪瑙先輩って、小さい頃からそういう、男の子っぽい趣味だったんですか?」
「男の子っぽいかな? それに、いまも別にそんな趣味はないと思うけど」
「え? だって先輩、飛行機の模型沢山作ってるじゃないですか」
「ああうん、まぁ、作ってるね」
言われれば、確かに模型は男の子の趣味かもしれないと瑪瑙は思う。意識していなかったが、思い返せば幼い頃に通っていた模型店に同性の姿はなかった気がする。いまはネット通販で済ましているので店には行かないが、当時と変化はないのだろうか。だとすれば真梨の認識が一般的なのかもしれない。
しかし最近では、ごく局地的にではあるが、性別というものがただ分類情報でしかない界隈もある。その視点から見れば、真梨の言う模型は男の子っぽい趣味、という感覚はステレオタイプのものだろう。全体で見ればそう思う人間の方が少数かもしれないが、往々にして多数派というのは、とっくに錆びついた古いなにかに執着している傾向にある。それが一概に悪いことだとは、瑪瑙は思わないが。
「誰かの影響ですか? お兄さんとか、お父さんとか」
「いや、男兄弟はいないし、家族で模型を作るのは私だけ」
瑪瑙は答える。
「きっかけはなんだったかなぁ。思い出せないけど、飛行機の形が好きなんだよね」
「形ですか?」
「綺麗じゃない?」
「うーん」
真梨は手を口の近くにやり、考えるような仕草をする。ちょっとだけ艶っぽくて、瑪瑙は思わず見つめてしまったが、すぐに前を向く。
「飛行機からの景色は綺麗だと思ったことありますけど、飛行機の形ですかぁ」
「女の子はあまり気にしないかな、そういうの」
それは先ほどの真梨に合わせての発言だった。
「どうなんでしょう。ま、でも、私が言ったことではありますが、はっきり言って男の子っぽい女の子っぽいなんて、なんの意味もないレッテルですからね」
真梨は続ける。
「いまのだって結局は、私と瑪瑙先輩の視点みたいなのに違いがあるだけって話で、ただの個人差なんですよね。そういう、性別のらしさを大切にする人もいますけど、ちょっと過剰かなって思うときがあります。そういう考えの全部が悪いとは思いませんけど」
顔には出さなかったが、瑪瑙は驚く。彼女はその意味のないものを気にするタイプだと思っていたからだ。だけどすぐに、それは自分が真梨に張り付けていたレッテルだと気が付く。知る限りもっとも女の子らしい彼女をみて、きっとそういうことを誰よりも意識していると思い込んでいたのだ。真梨について知らないことの方が多いのに、大きな勘違いをしていた。錆びついているのは自分の認識だと瑪瑙は反省する。
「真梨さん、今日はポップコーンをごちそうするね」
瑪瑙が言うと、真梨は不思議そうに小首を傾げた。
「嬉しいですけど、どうしたんですか?」
「そういう気分」
「なんですか、その気分」
真梨はクスッと笑った。
「遅刻した方がごちそうしてもらえるなんて、なんだかアベコベですね」
「遅刻は反省するように。時間は有限だから」
「それに関しては真梨、本当に申し訳ないと思ってます」
足を止めて、真梨はペコリと頭を下げた。瑪瑙も止まる。
「今回は初回サービスで許そう。だけど、次はもう待たないからね」
「え、それってまた一緒に出かけてくれるってことですか!?」
顔を上げて笑顔を輝かせる真梨を見て、瑪瑙はしまったと思う。今年最大の迂闊さだったかもしれない。やはり真梨に対するセキュリティには脆弱さが目立つ。早く原因究明をして修正をかけないと、いつかもっと重大なミスを犯してしまうかもしれない。
「ねぇ先輩、次はどこに行きます? いつにします?」
瑪瑙は聞こえないふりをして歩き出し、真梨も後を追ってくる。
「先輩、聞いてますよね、瑪瑙先輩」
「これから映画を見に行く」
「もう、それは今日の予定じゃないですか。次です、未来です」
「早く行こう。上映時間が迫ってるよ。次を逃すと長く待つことになる」
「先輩とだったら、どれだけ待っても全然いいですよ。先輩と一緒にいるの好きですから」
チラリと真梨を見ると、彼女はニコニコと機嫌が良さそうだった。よくそんなことをあっさりと言えるものだと思いながら、一抹の不安が瑪瑙の頭を過る。もしかしていまみたいなことを誰にでも言っているのではないだろうか。彼女の容姿も相まって、だとしたら危険だ。
「あの、真梨さんさ、いまみたいなの、誰にでも言ってる?」
「へ?」
「もしそうなら、私以外には言わない方がいいと思う」
「なんでですか? あれ? なにかいけないことでした?」
「ああそう、天然か」
「天然?」
「とにかくダメ」
「じゃあ、とりあえずそうしますけど、どうして先輩以外には言っちゃダメなんです?」
「私以外に? そんな言い方した?」
「してました」
「それは、その、なんでだろうね」
「先輩が言い出したんじゃないですか」
「うん、つまりこれが言いだしっぺの法則というやつだ」
「意味分からないですし、違うと思いますよ、それ」
そう言って真梨は笑う。
「おかしな先輩です」
「そうだね」
自分でもなぜ、私以外、なんて言葉を使ったのか理由が分からない。誰かの勘違いを誘発しないようにという警告のつもりだったが、自分以外という規制を設ける必要性なんかない。瑪瑙はその規制の意図を自分の中に問うが、全ての瑪瑙が首を傾げた。あるいはもっと深くにいる、本能みたいなものの近くにいる自分ならば分かるかもしれないが、それ以上は深く思考しないことにする。
なぜ思考を放棄する?
瑪瑙が瑪瑙に言う。
さぁ、分からない。
瑪瑙が瑪瑙に答える。
真梨珊瑚といると、分からないことばかりだ。
もっと話をすれば、分かることも増えるだろうか。
瑪瑙はそう思いながら、無意識に歩く速度を緩めていた。




