1話。政略結婚
「隊長! 騎士団を辞めるって本当ですか」
マックスが執務室で引き継ぎ書類をしたためていると、副隊長のアレクシアが勢いよく扉を開けた。いつも冷静で的確な指示を飛ばす彼女がノックもせずに部屋に入るなど初めてのことだった。よほど急いできたのか、身だしなみもままならず、普段ではさわやかに流れている金髪がじっとりと汗に濡れていた。
「聞いた通りだ。来週付けで俺は辞める。次の隊長はお前だ」
マックスは書類に目を向けたまま告げた。マックスは先の任務で左眼を失った。常に未知の怪物とやり合う騎士にとって、隻眼は大きなデメリットだ。しかし指揮官ならば直接的な戦闘にかかわらない仕事はいくらでもある。それでもマックスは辞めることになった。経験豊富なマックスが片目を失っただけで完全に職を離れるのは誰が見ても異様なことだった。
「そんなことって……! どうして、どうして辞めるんですか!」
アレクシアはマックスの元へまっすぐ進んできて両手で机をたたいた。マックスはそれでも顔を上げない。机の上にアレクシアの汗が落ちる。
「別に俺個人の理由だ。処罰でも何でもない」
マックスはまるで他人事のように答えた。目の前に怒り心頭なアレクシアがいるというのに書類にサインする手を止めようともしなかった。説明する気はないとでも言いたげに一貫してアレクシアのほうを向かない。
「……政略結婚させられるんですか?」
息を整えて冷静さを取り戻したアレクシアが静かな声で言った。その言葉でようやくマックスは顔を上げた。
「それとこれとは関係ない」
マックスはヘイスティング家との見合いを控えていた。ヘイスティング家は王家の威光が届かない南部の有力貴族だ。南部は徹底して騎士団の介入を拒否しており、それによって魔物による被害が多数報告されていた。
マックスの見合いは南部への地盤固めのための完全な政略結婚だ。マックスはヘイスティングなんて貴族には会ったこともなかった。しかしマックスはそれに同意した。
「ではどうして辞めるのですか?」
マックスの見立てではアレクシアは完全に上の命令からの政略結婚だと思っている。だが彼女の性格上、それを認めると少々問題が起きる。
「俺は自分の意志で辞職を申し出た。そこで団長が相手を紹介してくれたというだけだ。これまでは仕事で忙しかったが、俺もそろそろ身を固めるべき歳だ。他意はない」
マックスは再び書類に目を戻す。しかしその書類をアレクシアが奪い取った。
「質問の答えになっていません」
怒気をはらんだ声でアレクシアが言った。彼女の足は上下に小刻みに震えている。マックスはため息をついた。
「この仕事に嫌気がさしただけだ」
「嘘です!」
アレクシアが鋭く言い返す。
「どうしてですか? 政略結婚なんて断ればいいじゃないですか。隊長が復帰したいといえば後押しする人がたくさんいます。そもそも政略結婚なんて実力もないのに階級だけ持っているような輩に任せればいいじゃないか」
「無能じゃあ情報を集められない」
「やっぱり政略結婚なんじゃないですか! 断ってくださいよ!」
マックスはそれ以上何も話す気はないとばかりに新しい書類に手を伸ばした。しばらく沈黙が流れる。少しして机の上にポタポタと水が落ちた。マックスが顔を上げるとアレクシアは泣いていた。
「どうして私じゃダメなんですか……? どうして私がダメで顔も知らない人はいいんですか……?」
アレクシアが流れ落ちる涙を拭いもせず言った。マックスは過去、アレクシアに告白されたことがあった。しかし身内同士での結婚は騎士にとって禁忌だ。ゆえにマックスは断った。
「アレクシア、君はまだ若い。一時の感情で人生を棒に振ってはいけない」
アレクシアの瞳からぼろぼろと涙が流れ落ちる。マックスは罪悪感で胸が締め付けられた。
「言ってくれたじゃないですか……騎士じゃなかったら結婚していたって……あれは嘘だったんですか……?」
アレクシアの告白を断った夜、アレクシアは浴槽で手首を切った。マックスは何とか彼女の命がすべて流れ落ちる前に救い出した。それはその時にいった言葉だった。
「……すまない」
アレクシアの深緑の瞳から感情の光が消える。アレクシアは振り返り、まっすぐドアに歩いて行った。そして去り際に立ち止まった。
「…………後悔しますからね」
そういってアレクシアはドアを閉めた。マックスは何も言わずにその姿をみとどけた。
※ ※ ※ ※ ※
深い森の中、マックスは馬を走らせていた。先方の希望で一人で来るように指定されたのだ。完全初対面で仲介人のいない見合いなど初めて聞いたが、南部の風習に詳しくないマックスはノーと言えなかった。
ヘイスティング家は森の奥に屋敷があり、地元住民も立て看板と張り紙でしか領主のことを知らないらしい。その上森の奥に迷い込んだ人間は帰ってこないという噂まであった。つい最近も子供が一人消えたらしい。
見合い相手である領主のレイディアス・ヘイスティングは極めて病弱で屋敷から出られない状態であるという。父のエドワードも母のエリザベートも、一人娘であるレイディアスの幼いころに亡くなっており、実質的にお家断絶というわけだ。権威と領地はあるが機能不全を起こしている大貴族。上層部はその点に目を付けたのだろう。
「うん?」
マックスは視線を感じて馬を止めた。森の中を見回してみるが誰もいない。主人の不安を感じ取ったのか馬がそわそわし始める。少ししてマックスが視線を下に向けると一匹の蛇がいた。マックスは鞘に収まったままの剣で蛇を払いのけた。任務で山ほど殺すので仕事でもない理由で無用な殺生は避けたかった。蛇はすぐに森の中に逃げたが、思い直したように途中で振り返りマックスを見つめた。野生の蛇にしては妙な動きだった。マックスはその空間に嫌な予感を覚えて馬を進めた。
マックスが立ち去った後、その姿を何百もの蛇が見守っていた。
たどり着いた屋敷はまるで一国の王の城のように立派なものだった。しかし手入れする庭師がいないのか大量のツタが巻き付いており、絢爛たる王城というよりは打ち捨てられた廃城といったほうが正しかった。鉄門のあたりに進むと使いのメイドがマックスを待っていた。
「お初にお目にかかります、アルドリッジ様。私《わたくし》はヘイスティング家において侍従長を務めております、クローディアと申します。本日は私がアルドリッジ様の身の回りの世話をします。どうかお見知りおきください」
「マクシミリアン・アルドリッジだ。よろしく頼む」
マックスが馬から降りて自己紹介すると、メイドは腰を深く曲げた。メイドは二十代を半ば超えたと思われる風体で、長い黒髪を後ろでまとめていた。鉄芯が入っているかのようなまっすぐ伸びた背筋に仮面をかぶっているかのような徹底した無表情の女性で、冷たいという印象を通り越して実は人形なのではないかという疑念をマックスに抱かせるほどだった。この年の人間が屋敷を束ねる侍従長を任せられているのは珍しい。よほど金のない屋敷なのかあるいは彼女が相当優秀なのかのどちらかだろうとマックスは考えた。
クローディアの案内で屋敷の中を進む。少ししてマックスはその屋敷の異様さに気付いた。大きな屋敷だというのにメイドの一人もいないのだ。どこかの部屋に入っているのではと思うかもしれないが、この屋敷には玄関を除いて一つも部屋を区切るドアがない。ドア枠があるのにドアが外されている。廊下を歩く途中にある部屋はすべて筒抜けになっていた。寝室と思わしき部屋までそうだった。そしてその部屋の中にも人はおろか人がいた形跡すらなかった。
マックスはこの見合いが罠なのではないかと疑い始めていた。誰もいない屋敷、逃げることの困難な森林、一人で来いという要求。どう考えてもただの見合いではない。南部は住民自治を主張し王権に否定的だ。地元の憲兵に解決できない問題であっても騎士団が介入することを嫌う。領主と元騎士が結婚するなど言語道断だろう。あるいは元騎士が南部で死ぬことで騎士団が南部に介入する理由を作ろうと上層部が考えているのかもしれない。どちらにせよマックスは死ぬわけだ。忠誠心はあるが命をささげてでもというわけではない。今すぐにでも逃げ出すべきだろうか……
マックスが考え込んでいるとクローディアが立ち止まった。
「そちらの部屋でレイディアス様がお待ちです。外套と剣をお預かりいたします」
クローディアが指し示す先に他の部屋より一回り大きい部屋の入り口があった。その先は異様な雰囲気を放っている。行ってはならない、そんな予感がマックスの心中を駆け巡った。
「……君は今回の見合いについて何か聞いているか」
「お答えできかねます」
一切の感情が映らないクローディアの顔からは真意を知ることはできない。マックスは諦めてコートと武器をクローディアに渡し、先の部屋を見据えた。ぽっかり空いたドア枠がまるでマックスを飲み込もうとするかのように口を開けて待ち構えていた。