第九十八話
しばらくして、芙蓉は牛車にたてられていた几帳の陰から、そっと頭をのぞかせる。
そこには頭中将が、何やら難しい顔をして座っていた。
「お兄さま?」
その声に、頭中将ははじかれたように顔をあげる。
芙蓉と目があうと、「うわあっ」と声をあげてのけぞる。
「どうなさいました?!」
牛車の外から近習が声をかける。
「なんでもない、なんでもない、なんでもない・・・」
冷や汗をぬぐいながら、あわてて誤魔化す。
「な、なんでこんなとこにいるんだ?!」
小声で芙蓉に言う。
「家出しちゃった・・・」
にこっとした芙蓉は、最悪に可愛らしい。
頭中将は、ぶんぶんぶんっと頭を振った。
「女御が家出なんて、するなーーーーっ」
「やはり、どうかされたのでは?」
再び近習から声がかかる。
「大丈夫だ、なんでもないから、大丈夫だから」
うわずった声で否定する。
まるで、自分に言い聞かせているみたいである。
頭中将は、頭をかかえこむ。
「と、とりあえず宮中に・・・」
「やだ。
まだ戻らない。
そうだ!
牡丹宮さまはお元気?
また、お会いしたいわ」
芙蓉は、頭中将の言葉を遮る。
頭中将の扱い方は、昔っからよく知ってる。
だいたい、芙蓉は戻らないとは言っていない。
頭中将は、逡巡する。
「で、では、牡丹宮にお会いしたら、帰るのだな?!」
頭中将は、必死だ。
いくら愛しい従姉妹の姫であったとしても、今は東宮の女御。
家出して行方不明なんてことが公になってしまったら、左大臣家存続の危機である。
「ええ、もちろん」
芙蓉は、にーっこり。
いつ帰るかは、決めてないけど。
牛車は、牡丹宮の住む邸へと進んでいった。