第五十五話
翌朝、芙蓉はご機嫌である。
鼻歌でも歌ってしまいそうなくらいに。
東宮は、あの後すぐに帰ってしまった。
それでも、東宮に会えた。
それだけで、思わず顔がほころんでしまう。
東宮からの使いに渡すための文を書いていても鼻歌がこぼれ落ちてくる。
ご機嫌な芙蓉は、中将からのおこごとも右から左。
東宮が、忍んでやってきたことを知っている中将からしてみれば、なんて現金なんだとあきれるばかり。
芙蓉のお産が近づき仕事が激増している中将からみると、ちょっとうっとおしい。
左大臣邸に不審者が忍び込んでいないか。
呪術のたぐいの痕跡はないか。
産屋の準備は出来ているか。
儀式の準備は出来ているか。
芙蓉の食事に妙な薬が入れられていないか。
左大臣や女房たちと共に、いろんなことを考えなくてはならない。
ここにきても芙蓉の流産あるいは死産を狙っているものたちは、数多いのだ。
芙蓉が死ぬことすら辞さないものもいるかもしれない。
中将たちが、陰で芙蓉を守っているからこそ、芙蓉が呑気に東宮のことだけを考えていることが出来るのだ。
まあ、気分転換になって良かったかしらね。
中将は、頭の中で計算する。
これで、芙蓉も少しは落ち着いてくれるだろう。
黙って東宮の梨壺に忍び込まれでもしたらたまらない。
女房に化けて東宮御所を訪ねる。
それくらいのこと、芙蓉ならやりかねない。
まあ、お腹の大きい女房だなんて、絶対にあやしまれるけど。
芙蓉は、時々息抜きをさせておくに越したことはない。
ほっとくと暴走しやすいのだから。
中将が、そんなことを考えているなんて気づきもしない芙蓉は、ご機嫌なまま。
平和なものだ。