がんばれナリマサ君 ~香炉峰の雪やいかに
カタ、カタ、カタ、カタ、カタ
人気の少ないフロアにキーボードを叩く音だけが静かに響いていた。
季節は冬。
昨日の夜から降り始めた雪はさすがにもう止んでいたが、外を一面見事な銀世界に変えていた。
俺、平野生昌はこんな日に外回りに出ないで済んだ幸運を、暖房のよく効いたフロアでぬくぬくと噛み締めていた。
今、フロアには俺を入れて三人しか居ない。
俺は気付かれないように少し離れた所に座る人物に目をやった。
艶やかな黒髪に切れ長の睫毛。桜色の肌にぷっくりとした紅い唇。そのすべてが地の美しさで、化粧のような人工的なものは微塵も介在しない。
掛け値なしの美人がそこにいた。
俺の勤める一条商事で文句なしに一、二を争う美女である。
名を伏原定子と言う。
いや伏原定子部長と呼ぶべきか。
彼女、定子部長は美しさだけではなく、英語、中国語も堪能な才媛で俺の所属する営業1部の部長、つまりトップだった。
会社随一の美人の配下と言うことで他の部署の同期からは、よく羨ましがられるが、まあ外から見えるほど良くはない。
そもそも意識高い系な定子部長の本命は我社の若き一条社長であり、俺のような底辺社員などはなから眼中にない。故に俺が超高嶺の花である部長を射止めるチャンスなど皆無なわけだ。
そりゃ、仕事の関係上、話を交わすこともある。たまに笑いかけてくれたりもするが、その笑いは犬、猫に向けられるものとあまり変わらない、いや、同じと断言できた。
目の保養になるだろうとにやつく輩には、手に入れる事ができないものを目の前にちらつかされる事の辛さなどいくら話しても分からない。余りに繰り返し言われるので最近は『ああ』とか、『まあな』とか適当な言葉でお茶を濁している。
まあ、定子部長の事はこのぐらいにしておこう。何か虚しくなってきた。
俺はフロアにいるもう一人に視線を移す。
もう一人は俺の対面から左にデスク一つ離れた所に座っている。机に展開された大型液晶ディスプレイにかくれ殆どその姿を見ることはできない。頭の先端、明るい茶色の髪の毛がわずかに見えるだけだった。
その人物の名前は清川元子。前述の定子部長の懐刀と謳われる切れ者にして、営業1部営業2課の課長。すなわち俺の直属の上司だ。
俺は正直、この上司が苦手だ。頭が良いのは認める。頭がよすぎるのだ。何かにつけて馬鹿にされ、悔しい思いをさせられる。俺がこの職場の居心地が悪いと思う7割はこの女史のせいと言えた。
とは言え、今日は実に平和だ。元子課長から小言を言われることもない。
俺はこの昼下がりののどかな時間を他愛もないメールを見て潰していた。
(平和だ……)
俺は心の底から思った。段々と瞼が重くなる。あくびを噛み殺し、懸命に睡魔と戦う。戦うが……
戦うのだ……
負けてはいけ な い……
ダメだ、寝ると し、死ぬ ……
ぐぅ~
ぐっぐぅ~~
「……君 ……生昌君 」
俺ははっと意識を取り戻す。
一体どのくらい自分は意識を失っていたのだろう。気付くと定子部長がこっちを睨んでいた。
「生昌君。
香炉峰の雪やいかならむ?」
「はい?」
部長の問いに俺はすっとんきょうな声を上げた。
「香炉峰の雪やいかならむ?」
部長は再び言った。声は穏やかだったが目が笑っていなかった。俺は反射的に立ち上がり、直立不動の姿勢を取った。
(まずい、まずいぞ。
寝てたのがばれてる。
し、しかし、香炉峰の雪ってなんの暗号だろう……)
俺は猛烈に焦った。ここは気の効いた対応で機嫌を取らねばならない。
(香炉峰の雪……
う~ん、何処かで聞いたことがあるような、ないような。
がんばれ自分!思い出すんだ!!)
俺は脂汗をかきながら記憶を辿る。
「春はあけぼの……」
と元子課長が小声でぼそりと呟いた。
春はあけぼの……
それは枕草子の最初の言葉!
(あ、思い出した!)
枕草子のどこかの段に、中宮か誰かに『香炉峰の雪はいかならむ』と聞かれて、見事に答えて誉められた話があったのを俺は思い出した。あの時、清少納言はどうしたんだっけ?
(ふっ、分かった!)
俺はかっと目を見開くと猛然と窓際に走りより、勢いよく窓を全開にした!
ビューー
冷たい風がフロアに吹き込み、机に置かれていた書類が吹き飛んだ。
「ナリマサくん! なにやってるの!
窓を閉めなさい!!」
ほぼ同時に定子部長の叱責が飛んで来た。
(えっ、ええ (;゜∇゜) )
「だって、部長が窓を開けろって……」
俺は余りの仕打ちにうろたえ、言い訳をしかけたが
「わたくしはそんな事、言ってません!
すぐに散らばった書類を拾い集めなさい!!」
定子部長の怒りに油を注いだだけだった。
「ふぅ」
俺はフロア中に散らばった書類を拾い集め終え、ようやく席に戻った。
全く、えらい目にあった。
「『枕草子 二百八十段 」
元子課長が小声でぼそりと呟いた。背筋をピンと伸ばしたまま、カタカタとキーボードを打つブラインドタッチのスピードはいささかも衰えない。
「『雪のいと高う降りたる』で、清少納言は中宮定子の問いに対して、御簾を開けて雪景色を見せて、誉められた」
「でしょう!
だから俺、窓を開けたんですよ!
そしたら思いっきり怒られた。もう、ワケわかんないですよ」
俺は小声で不平を元子課長にぶちまけた。すると、元子課長は俺をじろりとねめつけた。まるでゴミでも見るような目だった。
「日高睡足猶慵起
小閣重衾不怕寒
遺愛寺鐘欹枕聴
香炉峰雪撥簾看
匡廬便是逃名地
司馬仍為送老官
心泰身寧是帰処
故郷何独在長安」
元子課長はぶつぶつと呟き続け、俺は呆気にとられる。
「な、なんですかその呪文は」
「白居易の漢詩。
枕草子の香炉峰の元ネタよ」
「はぁ、なるほど。
それで、それが何か?」
俺は課長が何が言いたいのかさっぱり分からなかった。
「今回の場合、部長が貴方に言いたかったのは、この漢詩の一番最初の句。
『ひたかくねむりたりて なおおくるにものうし』すなわち、『寝てんじゃねーよ』ってことよ」
俺はあんぐりと口を開ける。
「それが言いたかったの?
そんだけの事?
分からんすよ、普通に言ってくださいって!」
俺の文句に元子課長はやれやれとため息をついた。
「直接言ったら、雅じゃないでしょ」
「雅って…… 凄まじくめんどくせー!」
「ここはそういう職場なのよ。慣れなさい」
頭を抱え、叫ぶ俺に元子課長は眉一つ動かさず、そう言い放った。
カタ、カタ、カタ、カタ、カタ
人気の少ないフロアにキーボードを叩く音だけが静かに静かに響き続ける。
2018/06/20 初稿
2021/01/09 誤記修正