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第9話 『出奔』

 月日が流れ、レナが卒業した翌年に私もまた学院を卒業した。

 成績は自慢ではないが主席だ。ろくに遊ばず本ばかり読んでいたのだから当然と言えば当然ではある。

 学院の主席と言うのはそれなりのステータスでもあるので、そのためにずいぶんいろいろな家が私との縁談を考えたようだ。本家の方にはきちん間に人を立てての申し込みが何件かあったと聞いている。その中から母の喪が明けたころに父が適当な相手を選ぶのだろう。

 しかし、遺憾ながら面と向かって私を口説きに来る殿方はついぞ現れなかった。そんなに私は怖いのかといささか凹んだが、ともあれ、残り少ないであろうモラトリアムの季節を過ごすべく、私は本家には戻らず元の屋敷に逆戻りした。


 相変わらず無味乾燥とした屋敷暮らしではあるが、今は当時と違って少しだけ広がった私の世界がある。

 レナやアビゲイルと手紙をやり取りをする日々。

 レナは修道院で仕事を覚えつつも精力的に活動しており、アビゲイルはアビゲイルで毎日が勉強で大変なようだ。もともとアビゲイルは孤児だったそうで、幼児教育の段階でいわゆる貴族的な一般教養を身に着けるための詰め込み教育に悲鳴を上げているようだ。

 彼女らの近況を聞くたびに、思わず表情が綻ぶ。

 それは私が友達だと思う人たちだ。

 『誰かさん』以外の、私の友人たち。

 宝石箱の中のどんな貴重な宝石でも、彼女たちには勝てはしない。




 だが、好事魔多し。異変は唐突に私のもとを訪れた。

 そして、私の人生を一変するほどのインパクトがその異変にはあった。


 ある春の日の夜のことだ。

 風がひどく吹いていた。

 雨は降っていないまでも、春の嵐と呼ぶに相応しい、すごい風音が響く夜のことだ。


 自室で本を読んでいると、使用人が伺いを立てて来た。


「お客様でございます」


 お客の心当たりなど全くないので首を捻ったが、受け取った名刺を見て私は立ち上がった。



 足早に応接室に行くと、そこにいたのは久しぶりに見る二人だった。

 一人はクレア。

 そして、もう一人はアビゲイルだ。

 凛としていたはずのクレアの顔が、信じられないくらいに曇っていた。

 陽だまりのようだったアビゲイルの顔にも、不安が貼りついている。

 思わず息を飲んだ私に、クレアが立ち上がって低く頭を下げた。


「唐突に申し訳ありません殿下」

「久しいな。いささか驚いたぞ」

「先触れもなく押しかけました御無礼、衷心よりお詫び申し上げます。どうか寛恕願いたく」

「気にするな。来てくれて嬉しいと言いたいところだが……軽口を叩く雰囲気ではなさそうだ」

「申し訳ありません。他に頼れるところもなく」

「水臭い話はやめてくれ。卿が理由もなく唐突に訪ねて来るとも思えん。よもや家出をしてきたという訳でもあるまい?」


 クレアに問うと、アビゲイルが間に入って来た。


「ごめんなさいエリカ、クレアは悪くないのです」 


 それについては言われるまでもない。不安げな顔をしているアビゲイルの肩に手を置いて諭す。


「怒ってなどいない。驚いているだけだ。相談に乗ろう、何でも言ってくれ。私にできることなら力になる」


 私の言葉に、アビゲイルの表情が見る見る内に曇った。そして、ぽろぽろと両の目から涙がこぼれだした。

 思わず喉が鳴った。

 幼いとはいえ、聖女が夜半に押しかけて来て泣いている。

 ただ事ではない。それだけでそのことが理解できた。


「……こちらを」


 そう言ってクレアが差し出したのは、一通の手紙だった。

 見覚えのある筆跡で、『エリカへ』と宛名があった。



 嫌な予感がした。

 それはこれまでの人生で、最も当たって欲しくない予感だった。


 震える手で蝋封を剥がし、私は紙面を手に取った。






 親愛なるエリカへ。

 突然のことでごめんなさい。多分貴女は今、すごく戸惑っていると思う。

 恐らくこの手紙はクレアから貴女の手に渡るでしょう。彼女が私が信じた通りの人なら、悩みながらもそうしてくれるはずだと思っている。


 今、貴女の前にはクレアと一緒にアビーがいると思う。

 その理由は、アビーを第二大陸に逃がすため。

 教会に捕まる前にアビーが海を渡れるように、クレアは動いてくれているはず。

 理由は貴女は聞かないほうがいい。それを知っていることが貴女の不利益につながるかも知れないから。でも、アビーの命にかかわることだというのは信じて欲しい。アビーはいい子なの。死んで欲しくない。

 もし、どうしても詳しいことが知りたかったらクレアに訊いてみて。貴女が本当に知りたいと言った時は教えてあげて欲しいと伝えてあるから。でも、訊くときは覚悟を決めてからにして欲しい。

 私は私のできることをやってアビーの脱出のサポートをするつもりだけど、教皇庁にいる身ではどうしてもできることには限界があるの。

 だから、お願い。少しだけでいい、彼女たちが困っていたら助けてあげて下さい。


 本当は私が何とかしなくちゃいけないことなんだけど、多分貴女がこの手紙を読んでいる時には、もう私はこの世界にいないと思う。

 これが私の最後のお願いだと思って少しだけ貴女の力を貸して下さい。

  

 勝手なことばかり言ってごめんなさい。

 貴女に月神の加護がありますように。



 貴女の友人 レナ・オーレリア






「クレア、レナはどうした?」


 手紙を読み終わった直後、我ながら低い声がこぼれた。


「詳細は卿に訊けとある。訊かないほうがいいともあるが、多分レナは私が訊かないわけがないと思っているだろう。話してくれ。レナはどうした?」


 クレアはしばしの沈黙の後で口を開いた。


「……聖下は、入星されました」


 それは聞き慣れない言葉だった。


「『ニュウジョウ』とは何だ?」

「教皇庁の祭祀で、『千年秘祭』と呼ばれるものがあります。その祭祀の中で、聖女は聖地に向かわれるのです。それを入星と言います」


 私はこの国において貴族が普通に弁えるべき常識としての教義しか知らない。細かい祭祀や行事について神学を志す者のように知っているわけではない。まして『秘祭』ともなれば耳にする機会も稀だろう。私程度では知り得る情報ではない。


「聖地とは何だ?」

「この世界の始まりの場所と言われています。詳しくは存じませぬ」

「レナはそこに行ったのか?」

「そう、聞いております」

「そこは戻って来られる場所なのか?」

 

 その質問に、クレアは答えなかった。そして、それ以上の雄弁な答えはなかった。

 この世界にはもういない。レナの手紙にもあった通りの答えを、クレアの沈黙がそう語っていた。


「レナは、生きているのか?」

「分かりませぬ」

「卿は教会の人間だろう。何故分からない?」


 自分の声が徐々に尖り始めたのが自分でも分かった。

 静かに膨張しつつある感情が、理性の軛を引きちぎろうと暴れ出している。

 我ながら怒気を含んだ声に、アビゲイルが反応した。


「エリカ、クレアを怒らないで欲しいのです」


 縋りつくようにアビゲイルが言う。


「クレアは私を助けてくれたのです。姉様が、私を連れて逃げるように言って、それに従ってくれただけなのです。クレアは何も悪くないのです」


 クレアを見ると、俯いたまま何も言おうとしなかった。


「クレア、卿は教皇庁から逃げて来たのだな?」

「……然様でございます」


 その言葉に、私は少なからぬ衝撃を受けた。

 聖騎士は教皇庁の守護者だ。その守護者が教皇庁に反旗を翻したのだ。


「其方、自分がやっていることが分かっているのか?」

「無論」


 ようやく、クレアの斯くも苦悩に満ちた表情の理由が分かった。

 私は一つ大きくため息をついた。


「まとめよう。間違っていたら正してくれ。教会の祭典のため、レナは聖地と言うところに行った。そのレナはアビゲイルを連れて逃げるようにと言った。そして卿はアビゲイルを連れて逃げ、私のところに駆け込んで来た。ここまではいいか?」

「その通りです」

「では、何故アビゲイルは逃げねばならないのだ?」


 その後の沈黙は、やや長かった。


「今回の秘祭の聖女にはレナ様が選ばれました。もしそれが不首尾に終わった時、次は聖下が祭祀に臨まれることになっていたのです」

「祭祀とはどういうものだ?」

「存じません。教皇庁の深奥にある祭壇で行われる儀式です。枢機卿すら立ち入れぬ教皇の専管事項なのです」

「そこに行けばレナを助けることができるのか?」

「聖騎士たちが守護する教皇庁の深部ですので、中に入ることすら叶わぬかと」


 クレアにしてみれば、隙を見て逃げることはできたかも知れない。

 だが、助けに入ることは無理だろう。例え公国の軍を動かしてもレナを救いに行くことはできない。教皇庁に弓を引く馬鹿はそうはいない。血が上った頭でも、それくらいのことは理解できた。


「それに、既に聖下は聖地に向かわれました。今から出来ることは何もありませぬ。私にできることは、聖下のご指示を受けてアビゲイル聖下をお連れして逃げることだけでございました」


 血を吐くようなクレアの言葉に、私の中で荒立っていたものが一気に凪いだ。

 今すべきことは、感情を荒立てることではなく冷静に彼女たちの未来を模索することだ。


「これからどうする? 私は何をすればいい?」

「このまま第二大陸に渡ろうと思います。厚かましいことは承知しておりますが、ほとんど着の身着のままで出て参りました。できましたら多少路銀をご支援いただきたく。あと、叶うことでしたら馬を」

「どうやって海を渡る」

「港に行った後で考えようと思います。船に潜り込めば何とかなると考えております」


 咄嗟の逃避行だったのは理解できる。だが、あまりにも荒い。

 私は瞑目し、そして思考を巡らせた。

 アビゲイルを第二大陸に逃がして欲しいというレナの頼みは、この大陸には彼女の逃げ場はないということだ。どこの王家に身を寄せても、教皇庁には逆らえない。教皇庁に逆らって破門されればその家は社会的に終わってしまう。天秤にかけるまでもない話だ。逆に、うかうかしていたらすべての諸侯に手配書が回り、彼女たちは大陸中を追い回されることになるだろう。


「海を渡って、それでどうする」

「分かりませぬ。渡ってから考えようと思っております」


 予想通りの答えだった。

 修道院から教皇庁に入ったクレアだ。世渡りができるとは思えない。食べていく手段は良くて傭兵か用心棒、最悪で夜鷹というところだろう。

 そんなところに行かせられるのだろうか。この二人を。

 だが、この屋敷で匿うことは不可能だ。どうやっても足跡を辿られれば露見するだろう。

 難しい。八方塞がりだ。


 思考の海に沈んでいた時、クレアが不意に鋭い眼差しでドアを睨んだ。

 止める間もなくドアに駆け寄り、一気に開く。

 そこに、まだ若い女中が立ち尽くしていた。


「其方、聞いていたな?」


 クレアがものすごい形相で女中を睨みつけると、飲まれた女中は青い顔で幾度も頷いた。

 思わず私は怒声を上げた。


「どういうつもりだ。立ち聞きとは捨て置けんぞ」


 家中の恥は主の恥だ。だが、私の問いに女中は蚊の鳴くような声で答えた。


「女中長の御命令で……」



 廊下を走り、私が入ったのは通話室だ。そこは通信球が置かれた部屋で、本家とのやり取りに使用される。

 ノックもせずにドアを開けると、そこに年配の女中長がいた。


「何をしている」


 腹の底から出すような低い声で問うと、既に連絡を終えていたのか女中長は立ち上がり、力のこもった視線を返してきた。


「来客の件をご本家にお伝えさせていただきました」

「……何を考えているんだ、貴様」

「恐れながら」

 

 私の言葉に、女中長は大きな声で答えた。


「私の責務はこの屋敷の事柄を細大漏らさず管理すること。かかる大事を本家にお伝えせずに黙っていることはできません」

「何故私の許しもなくそういうことをする」

「お言葉ではございますが、私の主は公王陛下にございます」


 凛とした声にブレはない。

 確かに、教皇庁から逃げて来たものを匿ったとなれば一大事。例え私が公女でも、教皇庁はそんな威光など何の役にも立たない相手だ。むしろ公女だからこそ、教皇庁に弓を引けば咎は公国そのものに及ぶだろう。家臣として見て見ぬふりをする法はない。

 なるほど、理屈としてどこにも破綻はない。

 だが、それは同時に私にものしかかる選択でもある。

 大公家の立場を取るか、あるいは二人を取るかだ。

 前者であれば、彼女たちをこのまま追い出すか捕縛するかして、本家と教皇庁に連絡を私自ら入れることだ。クイーンズベリーを守るにはそれが正解だ。

 後者を取れば、私はその瞬間に女の細腕でこの大陸そのものを敵に回すことになる。

 だが、その答えは瞬時に出た。

 悩むほどのものではない。私の中の序列はそれくらい明確だった。


 手打ちすら覚悟しているような女中長に、私もまた姿勢を正して告げた。


「役目大儀。父と兄によろしく伝えてくれ」


 それだけ告げ、私はその場を後にした。

 腹が決まれば、後は段取りと行動だ。


「クレア、一緒に来てくれ」


 後ろにいたクレアを引っ張って貯蔵庫に向かう。

 引っ張り出すのは旅に必要な道具類だ。

 鞄類に野営の器材や衣類。ついで厨房に乗り込んで保存食を片っ端からバッグに詰める。衣装室からは宝石類、家令のところに押しかけて金庫から現金もいただいた。

 武器庫からは武装を取り出してクレアに渡し、自室に戻って手持ちの魔晶石を持ち出し、最後は厩舎に出向いて馬車にそれらを押し込んだ。


「何をしておられるのですか?」


 クレアの問いに、私は答えた。


「知れたこと。私も一緒に海を渡る」


 即答した私に、クレアの表情が引きつった。

 

「御戯れを申されては困ります」

「私は至って真面目だ」

「公女のお立場を何とされますか」

「卿が聖騎士の道を捨てる決意に比べれば気楽なものだ」


 難しい選択ではない。

 友達が助けて欲しいと言っている。命がけの願いを私に託している。

 それに応えられないような我が身大事な奴は、もはや私ではない。

 それは私が『エリカ・シャーリー・オブ・クイーンズベリー』ではなく、『エリカ』であるために必要なものだ。

 悩む必要など微塵もない。

 私の誇りは、レナ・オーレリアの友であってこそ成立するのだ。


「準備が済んだらすぐに出るぞ。日が出ぬうちに距離を稼ぎたい」


 恐らくは間を置かずに本家から追っ手がかかるだろう。

 それは教皇庁より早いはずだ。そうでないと公国として教皇庁に対して申し開きができなくなる。


 呆気にとられるクレアとアビゲイルを荷物と一緒に馬車に放り込んで、私は御者台に座って手綱を取った。

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