第8話 『葬儀』
多分それは、私にとって初めての友人だった。
打算なく付き合える他者。
それは人として、すごく貴重な存在だと私は思う。
「これは難しいわね」
私のレクチャーを参考に、中級向けの水魔法を試みつつ眉を寄せながらレナが唸る。
「水魔法は柔軟性が高いのです。さっきの召喚魔法より余程簡単だと思いますよ」
「軽く言わないでよ」
魔法の社会的ステイタスが高い第一大陸において自然なことではあるが、学院のカリキュラムでは各属性の魔法は必修科目になっている。
地水火風の四大属性の他、召喚魔法や死霊術、果ては錬金術のような様々な魔法の基礎から応用までを学年に応じて学んでいくことになるが、個人の資質に応じて得手不得手は自然と出て来る。
その点、レナは属性が他に類を見ない『聖』であるにも関わらず、主な属性においてもかなりの実力を持つ。クイーンズベリーの英才教育を受けて来ただけに水については私の方が上ではあるが、水属性以外はやはりレナの方が一学年分の長があるだけに上を行く。この辺はさすが聖女と言ったところで、入学以来、魔法以外の学科も含めて学年でトップクラスの実力をキープしている。
現在の彼女の興味の焦点は、私の得意とする水属性の魔法。私の見せる上級の魔法に大いに関心を持っていただいている。
レナの生み出した宙に浮いた大きな水の球が彼女のイメージに合わせて形を変え、何故か出来損ないのウサギのように変じていく。
「……これは?」
「猫のつもりなんだけど……」
必死に制御しているが、これは魔法の素養ではなくデッサン力の問題であるらしい。学院では美術は必修ではないが。
「猫と言うのは、もっとこう、ふわふわした感じで……」
レナの魔法に干渉し、ちょっとすました感じの猫をそのイメージに上書きしていく。
「きゃー可愛い、何これ、上手い!」
お気に召したようなので凍結をかけて氷像にし、魔力循環を切ると中庭の中央に音を立てて落ちた。
この時の猫をヒントに学年末の実習の際に体高五メートルの大きな猫の氷像を作成し、最優秀の学長賞を受けたのは余禄だ。
レナと面識を持って以来、昼の中庭で私たちはちょくちょく顔を合わせた。
正確には私がいるところにレナがやって来て、あれこれ話をしていくという感じだ。
勉強の話や魔法の話。将来の話などその話題は多岐にわたる。
最初の内は本を読む時間が無くなることが気になったりもしたが、慣れて来るとレナがいない昼の時間がなんだか落ち着かないような感じになった。
レナの方が何を考えているかと言えば、『貴女と一緒にいると何となく落ち着くのよ』と笑っている。私とて聖女様と一緒にいることは意識しているものの、彼女にとっては凄く自然体に感じるのだそうだ。他の生徒が露骨に距離を取るのに対して私の態度は一学年年長者に対するそれと変わらないらしく、一緒にいて肩が凝らないとのこと。その言葉を聞いた時は私の礼儀作法に問題でもあるのではないだろうかと自省したこともあるが、特にエラーは見いだせずうやむやのまま現在に至る。
魔法はともかく、教会での生活が長かったためかレナはいろんな方面で博識で話題も多く、聞き役に徹していると際限なく面白い話をしてくれた。
中でも興味深かったのは『聖女』のことだ。
聖女とはアルタミラ教において教皇と同列の立場であり、魔法使いの中で滅多に現れることのない『聖』属性が発現した者が確認されると、その段階で教会により認定されて教皇庁に招かれる。大抵の者はそれに応じて出家するのだそうだ。
そこに貴族や庶民の区分はなく、レナのように下級貴族の出身者もいれば庶民から見出される場合もあるのだそうだ。
歴史を見ても珍しいことだが現在教会には聖女は二名いるらしく、もう一人の聖女は一〇歳ちょっと。まだ可愛い年代の彼女は学校ではなく教皇庁内で勉強しているらしい。
月日は流れ、レナは無事に最高学年を修了しようとしていた。
優秀な成績を修めた彼女は留年することもなく、卒業後は修道院に入ってそこでさらなる研鑽を積む予定であるらしい。それは修道院長への就任でもあるようなので、名実ともに聖女様としての活動を始められることになる。
その卒業を控えた秋の日のこと。
「はい、これ。招待状」
差し出されたのは一通のレターだった。
秋に行われる国内最大級の祭典である『天后祭』。
天后祭はえらい昔に収穫祭から発展したものであり、多くの祭事は教皇庁内で神官たちの間で行われるが、教皇の講話と教会の楽団による演奏会は教皇庁の広大な前庭で一般公開の形で行われる。
その際に催される聖歌隊の合唱は特に有名な出し物だ。そして、演奏会の後は聖餅が振舞われるなどして自然と王都を上げての宴に入っていくのが毎年の流れになっている
聖女はそこで最後にソロを任されるのがならわしになっており、その歌声には聖魔法らしく邪を祓い幸せをもたらす効果があるとされている。聴けば寿命が延びると信じているお年寄りもいるそうな。
レナは毎年そのソリストを務めている。
人混みが苦手な私もレナの晴れ舞台と言うことで一般席からその晴れ姿を観ていたが、件の聖女様はそれがお気に召さないらしい。
「これ、最前列じゃないですか」
当たり前のように渡されたプラチナペーパーに、私は一瞬絶句した。
「教会関係者向けの席だから問題なしよ」
特等席の優先順位は、嫌な話だが教会への寄付寄進が多い順になっている。そのため大貴族ほど前の方を占めるというのは自然なことだが、この席は最前列の中央寄りだ。望んで座れるような席ではない。
「何だか場違い感がすごいんですが……」
「心配ないわ。妹分もいるから一緒にいてあげて欲しいの」
「妹分?」
「前に言ったでしょ、もう一人の聖女の話。あの子の座る場所でもあるのよ」
「私なんかが聖女様と一緒でいいんですか?」
「何言ってるの。今だって私と一緒にいるでしょ。聖女と言っても神様じゃないわ。今のままの距離感でいいのよ」
何だかんだで押し切られ、そして迎えた天后祭の当日。
朝から王都はそわついた雰囲気に包まれていた。
頃合いを見て中央に出てみれば、毎年のことながらまあどこから来たのかすごい人出だった。
露店が軒を連ね、子供たちが走り回る。まだ早い時間から出来上がっているようなのもいる。
学院の学生連中も多く繰り出しているようで、私も制服姿でその人並みに紛れた。
夕方になって来るといよいよ雰囲気が盛り上がり始め、教皇庁の周囲は騒がしくなって来る。
教皇庁は白亜の神殿であり、大きさはちょっとした宮殿クラス。
王の居城よりは小さいながらも、恐らくこちらの方が細かいところでお金がかかっていると思う。
その教皇庁前の大きな広場に設けられた仮設の貴賓席は、ざっと見ただけでも三〇〇人分くらいはありそうだ。一般客との間はやや広く取られ、その間を長柄の武器を持った衛兵たちが埋めている。武器の切っ先についているひらひらした布が、秋の風に微かに揺れていたのが印象的だった。
受付で係の兵隊さんに招待状を見せると、学院の制服の御利益か特に胡乱な目もされずに貴賓席のスペースに通された。
既に結構な数の招待客が出て来ており、私でも顔と名前が一致する方も少なからずいた。一応これでも貴族の端くれ、紳士録は淑女の嗜みなので多少のことは分かるのだ。
指定された席に向かって歩いていると、やや離れた辺りにいた祭服姿の女の子が私を見るや、親を見つけた子犬のように走って来た。
茶色い髪の女の子だ。
まっしぐらに私のところに来ると、唐突に声を上げた。
「エリカさんですか!?」
周囲を憚ることのないその声に、皆の視線が私に集まる。大変居心地が悪い。
「そ、そうですけど、失礼ながら貴女は?」
私の問いに、はきはきとした嬉しそうな答えが返って来た。尻尾をぶんぶん振ってる犬みたいな感じの子だ。
「私はアビゲイルなのです。聖女をやっているのです。できればアビーと呼んで欲しいのです」
何が嬉しいのか、はち切れそうな笑顔でアビゲイルと名乗った女の子はまくし立てて来た。
その勢いに気圧されていると、救いの手は彼女の背後から現れた。
「聖下、ご挨拶はきちんとなさいませ」
凛とした声にアビゲイルは首を竦めた。見れば、サーコートを纏った長身の女性が顔をしかめていた。
「ごめんなさい、でもレナ姉のお友達なら、私もお友達になりたいのです」
「お友達であっても初対面の方にはけじめはつかなければなりません。さあ、やり直しです」
女性の言葉に、渋々とアビゲイルは姿勢を正した。
「初めまして。私、アルタミラ教司教の内、『聖女』職に任じられておりますアビゲイル・フランセス・オブ・アルタミラと申します。お見知りおきくださいませ」
立派な口上と必死な表情のギャップが可愛すぎて吹き出しそうになった。
とは言え、名乗りをいただいたからには返さねばなるまい。
「ご丁寧に痛み入ります。改めまして、私はクイーンズベリー家の者でございます。当代フィリップ・エドワード・オブ・クイーンズベリー大公の娘、エリカ・シャーリー・オブ・クイーンズベリーと申します。この度は聖下の御意を得まして光栄に存じます」
挨拶を返すとアビゲイルは露骨に困った顔をした。
「な、長くて覚えられないのです」
「これ、言っているそばから!」
真面目にやっていてもどこかずっこけてしまう二人の様子に、私は堪え切れずに笑ってしまった。
失礼と言って笑いを抑え込んでいると、女性がため息をついて挨拶した。
「失礼いたしました公女殿下。私はクレア・マノン・オブ・サザーランドと申す者。聖騎士団の末席を汚している身です。恐れ多くもアビゲイル聖下の守役を仰せつかっております」
丁寧な名乗りはいいのだが、ずいぶん肩の力の入った人だなあ、と思った。
驚くべきは聖騎士だということ。聖騎士というのは結構なエリートだ。修道院の中から身体強化に秀でた子を取り立てて育て上げ、それらの子たちによって組織された教義のためなら死をも厭わないという精鋭部隊。なるほど、確かに眼差しが強い。
歳も近そうだし、特に根拠はないが何となくこの人とは気が合いそうな気がしたが、この時は将来予想もしないほど濃い付き合いになるとは思っていなかった。
賑やかなアビゲイルたちと一緒に指定された席に着くと、程なく式典が始まった。
皆が起立低頭してお出迎えするのは当代の教皇エルドリッチ・ヴェネディクト・オブ・アルタミラ。
五〇歳くらいだろうか。教皇を務めるにはまだ若い感じの壮年の男性だった。中々に渋めな御仁だが、ペタッとしたオールバックはいただけない。
講話の内容は取り立てて特徴があるものではない。
隣人愛や自然愛と言った概念を大切にするようにとも言葉が並び、最後に月の灯の下で清く正しく平和に生きていきましょうと結ばれた。
主観的にあまりありがたくもない講話が終わると、いよいよ楽団が登場する。
お世辞にも多種多様とは言い難い市民の娯楽において、この演奏会の人気はものすごいものがある。万雷の拍手の中で選りすぐられた楽師の面々が厳しい練習の果てに身に着けた音を奏でていく。
音楽には疎い私でも、これは見事なものだと感心する。優れた演奏は心に響く。どんなものでも、極めた人はすごいのだ。
小一時間の演奏の後、合唱団が登場して聖歌の斉唱。
そしてトリを飾るのが聖女レナによる独唱だ。
祭服姿で登場したレナは、その装飾と化粧に押しつぶされることなく、凛とした佇まいでステージの中央に立った。意志の強さを物語る瞳の美しさには、どんな装飾品も敵うまい。
その繊細な喉から紡がれる、鮮やかな声音。
間近で聴くと、その声楽の才のすさまじさが分かる。
古くは岩の上に座した人魚がその歌声で船人を惑わせて水底に誘ったというが、そんな寓話すら思い出すような美声だった。
「姉様、上手なのです」
魂を奪われた感じで小さくつぶやいたアビゲイルの言葉が、やけに鮮明に私の耳に届いた。
邪なるものを祓い、聴く人に幸福をもたらすという聖者の歌声を聴きながら、私は静かにその歌声に耳を預けた。
聖者の声は幸福を呼ぶ。
そのはずではあったのだが、遺憾ながら現実はそうはいかなかった。
翌年、クイーンズベリーの一族には凶事が続いた。
母方の伯父を皮切りに、幾人かの身内の葬儀が立て続いた。
天寿を全うした者もいれば、若くして事故に倒れた者もいた。水魔法の名門であっても老衰に抗うことはできないし、不慮の事故ともなれば手を施すことが難しい場合もある。
そんな中で、私の身近にも一つの墓標が立った。
母が亡くなったのだ。
急に体調を壊し、薬石効なく、本当にあっという間にやせ細って死んでしまったのだそうだ。
学院にいる私には病状の事前の連絡もなく、いきなり訃報が来て初めて事の次第を知った。
慌てて帰省すると街には半旗が翻り、既に国を挙げて公妃の葬儀の準備は進められていた。
宮殿に入って父と兄に帰参の挨拶をし、家令の案内に従って教会に出向き母と会った。
棺の中の母はやつれ果て、土気色の顔をしていた。
苦しむことはなかったようだが、正直、まだ旅立つには若い。どういう病であったかは教えてもえらえなかったが、既にこうして棺に収まっているからには細かく掘り下げて聞く気も起きなかった。
翌々日、教会で壮大な告別の儀が行われ、多くの参列者の前で母は静かに土中に消えて行った。
肉体はかりそめの衣。その魂はこのまま月に還る。
公妃に相応しい数と立場の弔問客の相手を名ばかりの公女としてこなし、ようやく落ち着くことができたのはもう夜遅くになってからのことだった。
夜、私にあてがわれた客間の窓辺で月を見上げながら、疲労に身を任せて何をするでもなく思索に耽る。
振り返れば、母とは本当に僅かばかりの接点しかなかったと思う。
幼少期に外に出され、それと裏腹に兄については兄以外見えないような溺愛ぶりだった母だ。女親とはそういうものなのかも知れないが、それでも実子たちに対する彼女の態度については思うところもある。
その母を、私が愛していたかと言われたら、恐らく答えは否定的なものになるだろう。
だが、悲しみはないはずなのに、どうしてか重い気持ちが拭えなかった。
その明らかに負の感情と思われる黒いものを、今夜の私は持て余していた。
その時、ドアから伺いの音が聞こえて来た。対応すると、女中が私に来客を告げた。
客間に向かってみれば、果たしてそこには黒いベールを被ったレナがいた。
「わざわざのお運び、恐縮です」
四角四面なことを言いながらも、私の内心は驚愕に揺れていた。聖女が葬儀に出張るというのは王族以外にはありえないからだ。
「夜更けにごめんなさい。告別の儀に伺いたかったんだけど、どうしてもこんな時間になってしまって」
聞けば予定をキャンセルしてまで王国から馬車を走らせて来てくれたようだ。
お悔み申し上げますと申し訳なさげに挨拶をするレナに、私は首を振った。
「お心遣いありがとうございます。教会の方は大丈夫なのですか。聖女となりますと手続きとかも大変だったでしょう」
「今日は聖女ではなく、私人として伺ったのよ。アビーも心配していたわ」
彼女の言葉に丁寧に礼を述べると、レナは私を見て何故か悲しそうな顔をした。
「大丈夫?」
私は短く『ええ』と答えた。
既に気の置けない友人である彼女には、私のこれまでの生い立ちは話してあった。
そこから母と私の距離感については察しを付けてくれていたと思う。
今の私を見ても、何かに打ちひしがれているようには見えることはないだろう。
だが、レナは少し悩んで、私の頭の後ろに腕を回してきた。
そのまま私を胸元に抱き寄せた理由が分からず、私は混乱した。
「こういう時は、我慢しちゃダメよ」
「……我慢とか、特にそういう感情はないんですが」
「その人との思い出を振り返るばかりが悲しみじゃないでしょ。もういないその人のことを思うことには、多分いろんな面があるはずだわ」
その時、レナの言葉が胸にすとんと落ちた。
自分が抱えていたよく分からなかった感情に、初めて名前がついたような気がした。
愛情という思いすら持っていなかった母だった。
だが、それでもあの人は私の母だったのだ。
その母が亡くなった。
それは、この先未来永劫、私の母と言う人が現世にいなくなったということだ。
これまでの関係が幸せなものだったとは言わない。
だが、もしかしたらこれから作れる幸せがあったかもしれない。
その可能性も、今はもうない。
刹那、両の眼の堰が崩れた。
どういう人であっても、それは私にとってただ一人の母だった。
腹を痛めて、私をこの世に生んでくれた人だ。
その母の死が悲しくないことが、私は悲しかったのだ。
私を含めた、誰かが何かを間違った日々を重ねてきた結果としての、今。
それを教えてくれた友人の胸で、彼女の鼓動の音を聞きながら、私はこの世にはそういう悲しみもあることを知った。
自分でも分からない混乱を把握し、そしてそれを私に諭してくれたレナ。
敵わない。素直にそう思う。
そして、この人に出逢わせてくれた神への感謝の念が胸に溢れた。
この時、レナは間違いなく私にとって聖女だった。