第7話 『聖女』
「何をしているの?」
唐突にかけられた声に、私は目を開けた。
学院の中庭にある大きな樅の木の幹に背をもたれて、いつも通りに『誰かさん』の声を聞こうとしていた時のことだった。
かけられた声に顔を上げると、不思議そうな顔をした綺麗な顔立ちの女の子が私を覗き込んでいた。
タイの色は上級生。長くて綺麗な金髪が、彼女の首の動きに合わせてさらりと流れた。
世事に疎い私はこの時彼女が誰なのか気づかなかった。
「……樹の声を聴いています」
素直に答えると、件のお姉さんは首を傾げた。
「樹の声?」
「こうして幹に触れていると、樹の中の音が聞こえるのです」
体を離して幹に掌を触れて見せると、お姉さんは興味深そうに手を伸ばして来た。
そして私の隣で目を閉じた。
一分ほど経過し、お姉さんは困った顔した。
「う~ん、ちょっと分からないかしら」
「私は水属性の魔法使いですので、そういう素養が強いからかも知れません」
「なるほどね。そういうことなら仕方がないかも」
そう言ってお姉さんは笑った。
それが私と、聖女レナ・オーレリア・オブ・アルタミラとの出会いだった。
予備という言葉がある。
辞書を引けば、主に使うものに不具合が生じた場合に代わりに使うものという意味で整理されている言葉だ。
私は、この言葉が大嫌いだ。
二〇年前、私がエリカ・シャーリー・オブ・クイーンズベリーの名をもって生まれたのは第一大陸の中央寄り、王都からやや離れたところにあるクイーンズベリーと言う土地だった。
そこは当代の父の所領で、最大勢力を誇る王家に連なる大公国として連合王国の一角を担う名家だった。
王を頂点とした貴族制度が国の体制となっている連合王国においては、私の立場は公女となる。押しも押されぬお姫様だ。
だが、私を姫とか公女と認識している人はいない。
予備。それは一族において、兄の身の何かあった時だけ意味を持つ存在。
それが、物心ついて以来のクイーンズベリー大公家における私の立場だった。
クイーンズベリー大公家は、水系統の魔法の大家だった。
その実力は連合王国において御典医に招かれるほどであり、王の最も傍に侍ることを許された一族だった。当然のことながら御典医になる者にはそれだけの実力が求められるが、それに答え続けて来た一族でもある。
そのような一族の中で、兄は神童と言われるほどの魔法の才をもって生まれた。その実力は諸国にも伝わるほどで、わずか五歳で大人と互角の魔法を使いこなす一族の最高傑作とも言われていたと聞く。
そして、五つ年上の兄に万が一のことがあった時のための予備であることが一族が私に課した役回りだった。
そんな私が本家を追われたのは、物心も怪しい三歳の時だった。
大公家が持つ、幾つもある別邸の中の一つが私にあてがわれた住まいだった。
父と母は主城を持つ宮殿に住み、兄もまたそこに住んでいたが、何故私だけがそのような場所に置かれたのかと言えば、外向きには天災事変に備えた血統保全を目的としたリスク分散のためとされていたが、実際には兄が私を嫌ったためだった。
私の何が彼の勘気に触れたのかは分からないが、男系優位の思想、そして一族にさらなる繁栄をもたらすであろう金の卵である兄の要望をほぼそのまま受け止めるのが常となっていた両親は、あっさりと私を手元から離すことに同意したのだそうだ。
思い返せばもともと薄情な一族でもあったが、貴族と言うのはその辺の家族の情が薄いことは少なくない。愛のない結婚や愛人や不貞の横行のみならず、親の子殺し、子の親殺しとてないわけではないようなご時世なのだから、政略結婚の道具でしかない娘に向ける興味など知れたものではあった。
そのような兄を持つ私の実力がどうだったかと言えば、家庭教師から教わる魔法の腕は一族の中では凡庸だった。一般的な尺度では上の下というあたりにもかかわらず、比較対象が比較対象なせいで半ば出涸らしのように言われ続ける幼少期だった。
そうして移り住んだ広い屋敷の中にいるのは最低限の使用人と衛兵、そして乳母と家庭教師くらいだ。
そのいずれもが、私との距離感において使用人の域を出ない最低限の接触だけを心掛けるようにしていたらしい。将来の旨味がない者に取り入っても労力の無駄だと思うのは自然なことだとは今は思う。
そんな訳で、会話のない生活が私の日常だった。
四歳の頃、無聊を囲っていた私はよく屋敷の庭を散策した。家庭教師がいない時には敷地の塀の隙間を抜けて、屋敷の北方にある森に探索に向かうこともあった。
会話という外的刺激が希薄な生活において、私の魂魄は無意識のうちに屋外に心の活路を求めていた。
前述の『内なる記憶』に出会ったのは、そんな活動の最中の事だった。
誰かの人生の追体験。そこには見も知らぬ情報が抱えきれないほど存在していた。それは私にとって唯一の心の潤いだった。
例えそのことを語って聞かせることができる人がいなくても、その『誰かさん』がいてくれるだけで私は自分の世界を広げられているという実感が持てた。
月日を重ね、一五歳になる時、私の人生に変化が訪れた。
実家から、王都にある王立学院に入学するよう指示が来たのだ。
王立学院は多くの貴族の子弟が学ぶ寄宿生の学校で、言ってしまえば将来の連合王国を支える人材たちが人脈作りのために放り込まれるところだ。
また、貴族の令嬢たちにとっては将来の伴侶探しの狩場でもある。将来有望な殿方を見つけ、家の繁栄のためにその者のところに嫁ぐのは貴族社会においては基本的なテンプレートだ。世代によっては王族も就学することがあるだけに、彼女たちにとっても真剣勝負の場であった。
私もこれでも公女だ。相応に名家の方々も多く在学すると聞いてはいるが、ブランドとしてはさほど引け目を感じるものではない。両親もそれを踏まえて私の利用方法を考えたのだろう。お役に立ったものだと思う。
入学の季節になり、実家からさし回された馬車に乗り込み、形ばかりの見送りを受けて私はまず一〇年ぶりの本宅に向かった。
「ご無沙汰しております、父上、母上、兄上」
リビングに入り、そこにいた面々に紋切り型の挨拶を述べる。
両親は偶に会っていたが、兄とは正直初対面のような感覚だった。
その兄を見た時、私は絶句した。
美しい、と言うのは男性に対して使うには不適切かも知れない。
だが、そう思うくらいに兄の面貌は美しかった。
大公の公子として社交界で名を馳せ、次代の御典医として嘱望された天才魔法使いがそこにいた。
美貌と才覚、そしてライバルたちをねじ伏せる政治的手腕をもって、既に人生と言う名の双六の『アガリ』に片手をかけている人物だ。
しかし、その目は私にとって最悪の一言に尽きた。
私を下賤の者を見るような目で見ているその目は、生理的嫌悪すら垣間見えるそれだ。
何故にそこまで私が気に食わないのかは知らないが、さっさと王国に移住してこの国から消えてもらいたいと素直に思った。
入学式典を終えると、学院の生活は一気に活発化する。
多くのサークル活動が存在する学院ではあるが、私はどこにも所属せずに図書館の本を読んで過ごすことが学院生活の基本形となった。
最初の内はあの兄の妹と言うことで接近してくる殿方も少なからずいたが、かけられた声に丁寧に受け答えすると何故か一様に顔を引きつらせて徐々に距離を取られてしまった。
後で学友に聞いたところでは、あまりに目力が強すぎて近寄りがたいと思われたのだそうだ。
虫除けとしては便利かも知れないが、あの時はそれなりに傷ついた。今ではもう笑い話だが。
斯くして学院では社会を広げることがままならず、主に図書館に籠ることが多くなった。
公開されている蔵書は相応に読みごたえがあるものばかりではあったが、クイーンズベリーの家の蔵書に比して水魔法についてはそこまで希少な研究書があるわけではなかった。
世間に出て初めてクイーンズベリーの蔵書レベルになると上位の研究機関である魔法研究所に行かないと見られないということを知り、改めてクイーンズベリー一族の特殊性を自覚したものだった。
入学して数か月した夏前のことだった。
その日、既に級友からも読書好きの変わり者と言う評判を確立していた私は、昼の行間時間に広い中庭の木陰で本を読もうと思って校舎を出た。
中庭に行くのは読書だけが目的ではない。
その片隅に、周囲を圧倒するような大きな樅の木がそびえていた。
その幹に歩み寄り、そのまま背中をもたれて瞑目する。
樹が内包するマナと感覚が同期し始めると、いつも通りにこぽりこぽりと音が聞こえ始めた。
そして、今日は『誰かさん』は来てくれるだろうか、という期待を持って記憶の断片の降臨を待っていた時だった。
「何をしているの?」
唐突にかけられた声に、私は目を開けた。
振り向くと、そこに不思議そうな顔をした綺麗な顔立ちの女の子が私を興味深げに覗き込んでいた。
それがレナだった。
「……樹の声を聴いています」
素直に答えると、レナは首を傾げた。
「樹の声?」
「こうして幹に触れていると、樹の中の音が聞こえるのです」
体を離して幹に掌を触れて見せると、レナは興味深そうに私に倣って手を伸ばして来た。
そして私の隣で目を閉じた。
一分ほど経過し、レナは眉尻を下げて困った顔した。
「う~ん、ちょっと分からないかな」
「私は水属性の魔法使いですので、そういう素養が強いからかも知れません」
「なるほどね。そういうことなら仕方がないかも」
そう言ってレナは笑った。
「でも、面白いお話だわ。少し練習すれば私にも分かるようになるかしら?」
「えー……それは何とも」
困った顔で苦し紛れにそう答えると、レナはまじまじと私を見つめ、何か面白いものを見つけたような顔で微笑んだ。
「面白い子ね、貴女」
「面白い、ですか?」
後で気付いたことだが、聖女である彼女に対してこういう態度で接する生徒は滅多にいなかったのではないかと思う。そういう意味では確かに私は面白い奴だったかも知らん。
いささか距離感が読めないレナの調子に、人に合わせることがただでさえ苦手な私は対応に四苦八苦だった。
そして笑顔のままレナが切り出してきた。
「私はレナ。見ての通り二年生なの。貴女のお名前は?」
ようやく自分の理解できる展開となり、私は背筋を伸ばした。
「私はクイーンズベリー家の者です。当代フィリップ=エ……」
「そうじゃなくて」
幼少時から指導されてきた挨拶を我ながら感心する完成度で述べかけるや、レナは怒ったような声で私の言葉を遮った。
「私は貴女の名前を訊いたの。今重要なのは、貴女がどこの家の人かじゃないわ」
虚を突かれた指摘に、私は混乱しつつも言葉を紡いだ。
「失礼しました。エリカ・シャーリー・オブ・クイーンズベリーです」
「まだ長い」
「……エリカ、です」
むくれたレナにそう答えると、テストで正解を答えた生徒を見る教員のように大きく頷いて『よろしい』と言って笑った。
その時、予鈴が鳴った。
「残念、今日はここまでか。それじゃ、また今度やり方教えてね」
「……私でよろしければ」
私の答えに満足したように、レナは今一度頷いた。
「またね、エリカ」
それだけ言い残し、足早に去って行った。
その夜、私はベッドの中で眠れないまま夜を過ごした。
何故か、涙が止まらなかった。
嬉しい時に頬を伝う涙が暖かいものだと知ったのも、その時が初めてだった。
名前と言うのは、親が子供にあげる最初の贈り物だと言った人がいる。
私に名前をくれた人が誰かなのかは知らない。恐らくは父か母のどちらかだと思うが聞かされたことはない。
でも、年に一度か二度会う程度の父母から呼ばれる時は『お前』とか『妹の方』と言うばかりで、『エリカ』という名前で呼ばれた記憶はほとんどない。稀に呼ばれた時も、それは名前と言うよりただの表記のような乾燥した響きしか感じられなかった。乳母からでさえ『お嬢様』としか呼ばれてこなかったし、この学校に来てからも『妹君』とか『クイーンズベリー』と言われるばかりだった。
今日、そんな誰も呼んでくれない独りぼっちだった『エリカ』という名前を呼んでくれた人がいた。
私の目を見て、私と言う人間に対して『エリカ』と呼び掛けてくれた人がいた。
そして、『クイーンズベリー家の予備』でしかなかった私を、『エリカ』にしてくれた人がいた。
そのことが、どうしようもないほどに暖かく、そして嬉しかった。