第6話 『過去』
夜、寮の洗面所の鏡を見ながら一人、唸る。
自慢にもならない話だが、私はきつい目をしている。
『睨まれると顔に穴が空くような気がするのです』というのはアビーの言葉で、恐らくそれは的を射ている。
自分で言うのも悲しいが、顔立ちはそれほど悪くないはずなのに目力があり過ぎて何だかろくでもない組織の女親分のように見えてしまうのだ。
荒くれ者が多い冒険者と相対してもメンチの切り合いで後れを取ったことはないし、街を歩いていてもやくざ者が私を避けて通る。
これでも未婚の女性なのに、これは殿方との付き合いにおいては明確なハンデになるのは言うまでもあるまい。
瞳の色が黒いのも迫力に一役買っている気がするし、日中は結い上げている背中の中ほどまで伸びたブルネットの髪も、その瞳の色と相乗効果を醸しているように思う。まさに真っ黒だ。
ヴァルターも髪はブルネットだが、彼の瞳の色はブラウンだ。そこまで黒々としているわけではないので私ほど重い感じはしない。精悍な顔立ちでありながら、どこか奇妙な愛嬌があるのはそのためだろう。
そういう意味では、クレアは非常に羨ましいものを持っている。
私と同じように背中まで伸ばした髪は見事なブロンドで、瞳の色は青だ。
これは第一大陸では非常に多くみられる組み合わせで、多く見られるということは着るものや装飾品もそれに合わせたデザインのものが多いということでもある。つまり、似合う服が多いのだ。
とは言え、彼女も目元が涼やかながらも割と鋭い。しかしながらその効能は私のように相手の体に風穴が空くと言うような暴力的なものではなく、少し危険な香りがするというところで踏みとどまっている。
だが、実はそれは違った意味で危険な方向性を持っており、若い娘さんがクレアの流し目を受けるとおかしな方向で精神に変調を来すことがままあるのだ。当人は必死に隠しているが、若い女性から文をしたためられたことは一度や二度ではない。
長身で美人で凛々しくて、しかも乙女殺しの流し目の持ち主となれば市井においてはなかなかの危険人物と認識されると言うもの。そのためギルド側もルーキーに女性がいた場合はできるだけ彼女をガイドに付けること避けるようにしているという話を噂交じりに聞いたことがある。
要するに、彼女なりに望まぬ形での苦労をしている部分もあるということだ。
世の中、何事もうまく行くことばかりではない。
ため息を一つついて、私は髪をまとめ上げて浴室の扉を開けた。
うちのギルドには、自宅通いの者以外のための職員寮が設けられている。
ギルドの裏手に男子寮と女子寮とがそれぞれがあり、私もそこにお世話になっている。築年数は結構経過しているものの中は結構綺麗でそこそこ広く、寮費も良心的なので非常に助かっている。
賄いがついているので食事の心配はないし、何と言っても大きなお風呂は私にとっては何よりの美点だ。
仕事が終わってこうしてゆっくりと湯船につかれば、明日への活力が自然と湧いてくるというものだ。
体を清めて湯船に入ると、日中に気を張っていた部分が徐々にほぐれて来るのを実感できる。思わず、ほうとため息が出る。
座り仕事というのは、これで腰への負担が軽くない。
二十歳。それは人生の一つの一里塚だ。もう一〇代のような無尽蔵なエネルギーが溢れているわけではなく、筋肉痛が二日後にやって来る恐怖も体験済みだ。年齢的に、もう体のケアについて気を配るべき時間帯に入ったのだと自覚した方が良いと私は考えている。
足を伸ばして筋肉の柔軟性を確認すると、思ったより綺麗に足は伸びる。大腿二頭筋から半腱様筋と半膜様筋、大内転筋の柔軟性は腰への負担に直結する。まだまだ一〇代のしなやかさは保てているようだが、この辺が硬くなると血行が阻害されて冷え性になり易くなる等、いろいろトラブルの原因になり得る。
「あ、エリカ。入っていたのですね」
水面から足を出した格好で柔軟性の自己診断をしていると、扉が開いてアビーが入って来た。
むう、健康を絵に描いたような瑞々しいボディラインをしている。少女から大人への脱皮をしようかという年代特有の微妙なバランスは、危うげなように見えながらも生命力に溢れている。私にもああいう時代があったっけか。
「お疲れ様なのです。今日も良く働いたですよ」
身を清めて湯船に入って来ると、私の隣に陣取って私と同じようにほうとため息をつく。
その上気した頬に光る、青春の輝きが今の私には眩しい。
一六歳。四歳の年齢差が私には妙に遠く感じられる。
「ん? どうしたですか?」
私の視線に気づいて、アビーが首を傾げた。
「いや、若いっていいな、と思ってな」
私のつぶやきに、アビーは目を丸くして驚いて見せた。
「何を言っているですか。エリカだって若いです」
「そう思いたいところだが、正直、もう適齢期の最終局面に入ろうかと言う年代になってしまったんだ。いろいろ思うところもあるんだよ」
「そういうものなのですか?」
「そういうものなのだ」
これでも名ばかりとは言え元は貴族の私だ。そして、貴族と言うのは往々にして婚期が早い。
子供の頃から許嫁が決められており、元服と同時に結婚式と言うことも珍しくない。その尺度では、二〇歳と言う年齢はもはや行き遅れと言ってもいいゾーンに入っている。
ここまで売れ残ってしまうと嫁ぎ先は親ほども歳の離れた御仁の後添いだの愛人だのくらいしか椅子が残っていないことを覚悟しないといけないレベルだ。それが嫌なら自分で親が納得する相手を夜会で狩って来なければならない。そういう意味でも女は恋の狩人なのだ。何と世知辛いことだろうか。
そんな私の思惑をよそに、アビーは難しい顔で呟いた。
「なら、特別に若さを幾らか分けてあげてもいいですよ?」
「ほう、それは嬉しいな」
「その代わり、エリカのそれを半分分けてもらいたいです」
アビーが私の胸元にジト目を向けて来た。
「……これは焦らなくても、待っていればそのうち成長して来るものだろう」
確かにアビーの胸部は、山岳部はおろか丘陵部と言うにも程遠い水準ではあるが、まだ悲観する年齢ではないはずだ。私だってアビーくらいの年齢の頃は今よりだいぶ謙虚だった。
だが、私の言葉にアビーは首を振った。
「いいえ、街の同年代の女の子たちを見る限りではかなり望み薄だと思います。そうなると私としては何かを引き換えにしてでも他所から持って来るしかないと思うのです」
「ならば牛乳をたくさん飲んでだな……」
ちなみに牛乳とその辺の発育についてはあまり因果関係がないと牧場育ちのお姉さんが語っていた。そう語る彼女がすごく暗い目をしていたのが印象的だったのだが、淑女の情けとして彼女の胸元はあえて見ないようにした。
それを知ってか知らずか、アビーは今一度首を振った。
「不確実なことに投資をしたくないのです。やはりあるところからもらって来るのが一番手っ取り早くて確実だと思うのです。私、それが水に浮くなんてエリカのを見て初めて知ったのです」
「何を観察しているんだ。だいたい私のは人並み程度だぞ」
得体の知れない身の危険を感じて、私はそれとなく胸を隠した。
アビーは人を牛のように言っているが、私は人並みか、それよりちょっとだけ恵まれている程度だ。謙遜ではなく街を歩けばこれくらい幾らでもいるだろう。
「いいえ、エリカは分かっていないのです。それが人並みなのだとしたら、世界はもう少し違う形になっていたはずなのです。エリカは自己採点が辛すぎるのです」
「アビーのそれだって、それくらいがいいという殿方がいると思うぞ?」
「そんな層の需要など知ったことではないのです!」
何故かアビーはすっかり糾弾モードに入っている。これは私が悪いのだろうか、というかそんなんでいいのか、世界。
そんな益体もない話をしていると、また浴室の扉が開いた。
「楽しそうに何の話をしておるのだ?」
元騎士らしく前を隠さぬ堂々たる姿で現れたのはクレアなのだが、この局面での彼女の登場はあまりにもアビーにとって酷だった。
その裸身を直視してしまったアビーが、放心したように肩を落とした。
気持ちは分からんでもない。正直、私も圧倒される迫力だ。
女神、ギルド女子寮の浴室に降臨す。
それくらいクレアの肢体は美しい。その姿はあたかも彫像のようだとすら思う。
美しいというのは凹凸が激しいという意味ではない。均整、つまりトータルバランスに基づくその絶妙な均衡が圧倒的な美となって、彼女の独自の支配空間をそこに醸し出していた。
鍛え抜かれた筋肉と、必要なところに必要なだけついている脂肪。そして絶妙な骨格のバランスと肌理の揃った肌。正に黄金律。どれを取っても完璧だ。
男性のような硬質のいかつさはなく、かといって女性のように柔らかすぎもしない。
それはまさに戦女神の化身のような神々しさだ。
彼女の持つ凶器は流し目だけではないことを、私は改めて思い知った。
己の未成熟について悩める少女にとって、これはあまりにも残酷な模範解答だろうと私は思う。
「か、完敗なのです……世の中と言うのはどうしてこうも……」
乙女の純情を木っ端みじんに粉砕した己の肢体を気にも留めず、落ち込むアビーの様子にクレアが慈母のように優し気に笑った。
「何が完敗なのですか、聖下?」
その優し気な声音の言葉に、反射的に私は反応した。
「クレア」
私の低く鋭い言葉に、クレアは自分が何を口走ったのか気づいたようで、はっとなって口を噤んだ。
そんなクレアをよそに、アビーは気づかなかったように言葉を続けた。
「クレアは見ているといいです。あと四年……いや、五年待っているのです。私は必ずクレアの域に辿り着いて見せるのです」
訳の分からない決意表明に対してクレアが浮かべたぎこちない笑みが、鈍い痛みを発する棘となって私の中に残った。
夕食が終わり、あとは寝るだけとなった時間。
私は寮の屋上にある物干し台に上がっていた。
二階建ての寮の屋根の上に設置された木製のそこからの眺めは抜群で、座りながらでも月に照らされた遺跡と街の灯、さらには沖の漁火までもが良く見える。
見上げれば、天空にあるのは数多の星々と、それらの主君であるかのような大きな月。
我らの月はどういう公転周期をしているのか、常に頭上にあって夜を照らす。
第一大陸のアルタミラ教は、その月の神アルタミラを崇める宗教だ。
国教と言うこともあって貴族の子弟は幼少時から教義に基づく倫理観を教え込まれ、長じては教会に対して非常に手厚く便宜を図るのが一般的な貴族の姿だった。
思い出しても何一つ楽しかった記憶のない、貴族としての私の時間。
それらすべてが大嫌いで、そして憎かった。
手にしたボトルから手酌でワインを陶製のカップに注ぎ、月を見ながら軽く一杯と思った時だった。
「ここだったか」
振り返ると、そこに私と同じようにボトルとカップを持ったクレアがいた。
「私も一杯やりたくなってな。もう始めておるのか?」
「ちょうど始めようというところだよ。明日も仕事だし、軽く済ませてそこそこ早めに切り上げようかと思ってね」
「賛成だ」
そう言うとクレアは私の隣に座った。
その彼女のカップにボトルを向けると、クレアは黙って酌を受けた。
互いに目を合わせてカップを掲げ、一息に半分ほどを嚥下した。
それに対してクレアはそのまま一気に干すと、深くため息をついた。
「先ほどはすまぬ。失言であった」
不意に低いトーンでクレアが呟いた。それは私に向けたものであるようであり、独り言のようでもあった。
「あの方の朗らかさに触れると、どうしても私の中の時が昔に戻ってしまうのだ。貴公のようにうまく振舞えぬ。情けない限りだ」
「気持ちは分からないでもない。だが、用心するに越したことはない。もう一年の時が経った。されど一年だ。気を緩めるにはまだ時期尚早だと私は思う」
「返す言葉もない」
そう言ってクレアは頭を下げた。
「謝らなくていい。『我らは盟友である』とお前も言っていただろう。エラーがあったらフォローし合えばいいだけのことだ。どこに耳があるか分からない。お互い、改めて気を付けよう」
別に謝罪が欲しいわけではない。ただ、幸せな日々の中、鈍磨させてはいけない感覚まで甘やかなぬくもりの中で錆びさせてはいけないと思うだけのことだ。
それでこの話を終えるべく、私はクレアのカップにワインを足した。
一年前の話だ。
私は生まれ育った第一大陸からこの街に流れて来た。
それは風に吹かれた無頼な旅路ではなく、また家を飛び出した馬鹿な家出娘の自暴自棄でもなかった。
逃避行。
私は第一大陸から『脱出』してこの街にたどり着いたのだ。
それは私だけの旅路ではない。
旅の道連れは、クレアとアビーだ。
何から逃げたか、と言われれば、それはローランの連合王国から、そしてアルタミラ教の勢力圏から私たちは逃れて来たのだ。
アビゲイル・フランセス・オブ・アルタミラ
『聖女』と呼ばれた、その少女を守るために。