最終話 『月虹』
その日、この地方にしては珍しい時期に一足早い雪が降った。
中庭は白一色となっているが、そこにちょぼちょぼと梅の花のような形をした黒い点が続く。猫の足跡だ。
ベンチの上に座っているのはお馴染みのサーベラー。
寮は生き物を飼えないし、診察室に動物を持ち込むことは論外だ。
結果的に今まで通りの接し方しかないのが残念でならない。
「家でも借りようかなあ。なあレナ、どう思う?」
分かっているのか分かっていないのかよく分からない様子で、後ろ足で耳の後ろを掻き掻きしているサーベラーの隣に座る。
雪に覆われた中庭は、いつもならイーサンとクレアが稽古しているのだが、今日はお休みのようだ。
その二人については少々不穏な未確認情報がある。
「あの二人、ちょっと怪しいのです」
にまにまと笑いながら私に言って来たのはアビーだった。
「何だその顔は、気色悪い」
「いつも二人でお稽古していますが、最近は何だかダンスをしているような雰囲気なのです」
「仲がいいのはいいことじゃないか、と言うよりその顔はやめんか」
「エリカは何とも思わないのですか?」
「本当ならいい話じゃないか。美男美女の取り合わせだ、何があっても不思議じゃないし、イーサンの人柄ならクレアを嫁に出しても心配ないだろう」
私の言葉にアビーは顔が驚愕に染まった。
「お、お嫁さんとは一足飛びなのです」
「イーサンも生真面目だからな。もしクレアに手を出すならそこまでの計画を踏まえてのことだと思うぞ」
「むう、それは内心複雑なのです」
眉根を寄せるアビー。お前はクレアのお父さんか。
「エンデもそろそろ新居を探すと言っているので、何だか疎外感を感じるのです」
「ほう、それは初耳だな」
「あ、これは内緒なのでした、忘れてください」
アビーが慌てるがもう遅い。なるほど、ヴァルターとエンデの方も進展があるらしい。
「そういうお前はどうなんだ?」
「私ですか?」
「若手の冒険者から花束をもらったと聞いたぞ」
そう問うや、アビーは赤くなってもじもじし始めた。客観的に見て非常に可愛らしい。
「いろいろお言葉をいただいているのは三人ほどいるのですが……どうすればいいか悩んでしまうのです」
「……振られたての女が近くにいたら、その人の前でそういう顔はしない方がいいぞ。刺されるからな」
女は愛嬌と言う言葉があるが、その点でアビーはギルド最強と言って良い。
男にだけ媚を売るような女性も世の中にはいるのに対し、この子は男女の隔てなく人当りがいい子なので、その人気も老若男女の別なく総じて高い。
まあ、嫁にできたら一生笑顔溢れる幸せな日々を送れることが間違いない超優良物件だ、言い寄る男共も中々に目が高いことだ。
「エリカは相変わらずおじさん一筋なのですか?」
「おじさんではなくおじさまだ。素敵なミドルの殿方は若人より希少なんだ、そうそう良縁には巡り会えんよ」
「エリカもせっかく美人なのですから、少しは許容範囲を下の方に広げた方がいいのです」
「お世辞でも嬉しいが、世間ではヤクザが避けて通るような目つきをしてる女を美人とは言わんのだ」
そんな益体もない話を思い出しながら小春日和の日差しを見上げ、猫を愛でながら今日を思う。
滔々と流れる時の中、皆、次の一歩を踏み出している。
『もう貴女は先に進んで。私の分も幸せになって欲しいというのが、私の心からの願いだから』
そう彼女には言われている。
だが、私だけが先に進めない。
まるでピンで留めたように、私の足はあの時のあの場所に貼りついたままだ。
泣いていた友達を永劫の監獄に置き去りにして、ただ自分の幸せを考えるということの、何と難しいことか。
人の身で過ごす一〇〇〇年という時間というものは、永遠とあまり変わるものではないだろう。
その見えざる時間の檻の中に、すべてをただ見るだけで、触れることもできない時間を重ねることを強いられた友達のことを忘れたところに、幸せなどありはしないのだ。
常に自分のどこかに刺さっているその棘のようなものに対して知らぬ振りをして、無理に笑って過ごすことが、私にはとてつもなく難しい。
こういう場合に効果のある薬を、私は一つしか知らない。
どんな薬師も作れないその霊薬の名は、時間薬という。
だが、その薬には即効性はない。
忘れられない時を幾重にも重ね、その果てにふとそのことを忘れていることに気づくというその薬効を期待するには、まだ私が重ねた時は短すぎる。
私の残りの寿命をすべて費やしても、その効果を得られるか自信がない。
「元気ないわね!」
膝の上で寝ている猫の肉球をつついていると、これまた元気のある声が降って来た。
顔を上げると、フリーダがいろいろ荷物を抱えて立っていた。
「ずいぶん大荷物だな」
「クエストを頼んだ鉱物なのよ! そんなことより、元気がないわよエリカ! 貴女に元気がないと私も悲しいわ!」
フリーダに比べればどんな奴でも元気がないと思われることだろう。元気の秘訣はやはり過剰なまでのカロリー摂取なのだろうか。
「それにしても幸せそうな顔しているわねこの子は! 何となく苛めてやりたくなるわ!」
「そんなこと言っていると、また引っかかれるぞ」
「まあ怖い! えい、撫でてやる!」
私の警告をフリーダは気にした風もなく、膝の上の猫の頭を撫でる。
乱暴にするでもなく、本当に愛でるように撫でる辺りはきちんと猫の扱いを心得ているのだろう。
その途端、フリーダの気配が一変した。
「この子がレナちゃんなのね」
飛び出してきたとんでもない言葉に、私は言葉を失った。
「……どうして?」
「これでもギルドマスターの信任は厚いのよ」
出所はそこか。確かに彼女はここでは重要な人物だが、まさかそのレベルの最高機密すら共有するとは思わなかった。
「カイエンを怒らないでね。鑑定作業では迷宮の状況はかなり重要な情報になるから、その点に鑑みて私に開示されたの。それに、彼なりに貴女のことは心配なのよ。もうずっと塞ぎ込みっぱなしじゃない。あんなに覇気に溢れていた貴女が、今では淡々と消えてしまいそうですもの。ギルドの中で心配していない人はいないわ。私も含めてね」
「でも、レナのことは……」
「心配しないで、今度は私がお口に封をする番だわ。もっとも、仮に本気で言って回っても正気を疑われて終わりでしょうから安心するといいわ。レナちゃん、私はフリーダよ。改めてよろしくね」
そう言って猫の前足を掴んで握手のように振る。
迷惑そうな猫の様子が印象的だった。
フリーダは笑いながら、私の隣に腰を下ろした。
「世界を一人の女の子が支えるなんてのは正直私も半信半疑だったけど、貴女を見るとそれは本当なんだって分かるわ」
「嘘ならどれだけよかったか」
「同感ね。嘘でないだけに、正直言って不愉快だわ。最悪と言っていいわね」
「どういう意味だ?」
こういう時のフリーダの笑みは恐ろしく複雑なものを内包しているように感じる。深淵と言ってもいい。要するに怖さを覚えるのだ。
「どんな綺麗ごとを並べても、女の子が泣いているところに正義はないものよ。それは人間社会の揺るがぬ真理だわ」
「それは私もそう思うが……」
「同意が得られて嬉しいわね。動機としてはそれで十二分だわ」
ゾッとするような鋭さを感じさせる彼女の物言いに、やや気圧された。
「何を企んでいる?」
「それは見てからのお楽しみ。フリーダさんを怒らせると怖いのよ。それにね……」
ふと、彼女の目から力が抜けた。
そのまま立ち上がり、荷物を抱え直すフリーダ。
「前にも言ったけど、貴女は少しは周囲の人を頼ることを覚えた方がいいわ。何でも一人で抱え込むと、人はその重さのせいで倒れてしまうものよ」
その言葉と謎めいた笑みを残して、フリーダは自分の職場に戻っていった。
☆
比較的寒さが弱い冬が過ぎ、カレンダーの上では春になった。
三寒四温の日々の中、やや寒の戻りが厳しい日のこと。
フリーダが朝一番で診療所に押しかけて来た。
「エリカ、ちょっと来てくれるかしら!」
今日の診察の手筈をエルザと打ち合わせていたところ、乱暴に診察室のドアを叩かれた。
エルザがドアを開けると、そこに迷宮帰りのような仰々しい格好をしたフリーダがいた。
「何事だ?」
「おはよう、エリカ。これから一緒に迷宮に行ってもらうわ! 準備してちょうだい!」
「迷宮?」
「そうよ! エルザ、エリカを一日借りるから留守番よろしくね!」
呆気にとられるエルザを残し、私は引きずられるようにしてフリーダの背中を追うことになった。
「迷宮はいいんだが、ガイドは誰になるんだ?」
「とっておきを頼んであるわ、ほら」
見れば、守衛所のところに幾人かの見知った顔が待っていた。
ヴァルターにイーサン、そしてエンデだ。
「ずいぶん物々しいメンバーだな」
「僭越ながらご案内させてもらうぜ」
からからと笑うヴァルターが先頭に立ち、そのまま迷宮に進む。
月の出来事以降、妖魔の出現に変化があるかと言えばそのようなことはなく、出現と駆除の数は拮抗している。
スタンピードはないと思うが、いきなりゼロにするのは地域経済などへの影響があるから少しずつ調整を入れているのではないかと思う。それでも怪我人がやや減少傾向なこと思うと、脅威度は若干低下しているのかも知れない。
鉄壁のガイドたちに導かれて地下六階まで降りると、そこにちょっと毛色の変わった通路があった。
これまでの石造りの通路と違う、どこかで見たことのある、荘厳な雰囲気の廊下だ。その異常性に、私は思わず足を止めた。
「ヴァルター、これって……」
「正解だ。俺がエンデを見つけた部屋に通じる通路だよ」
「発見できたのか」
「見つけたのはエンデとフリーダだよ。結構苦労してたぜ。壁になってた石がでけえのなんの」
「それはいいんだが、何故ここに?」
首を傾げる私に、ヴァルターは思わせぶりに笑う。隣のイーサンも似たような雰囲気の笑顔だ。
「まあ、この先はフリーダたちに聞いてくれ。俺たち男衆はここまでだとさ」
「ここの警護は我々にお任せを」
そう言ってヴァルターとイーサンは入口のところで足を止め、私とフリーダ、そしてエンデが先に進む。
通路の奥にあった重々しい扉を開けて中に入ると、そこには幾つもの棺のようなものが並んでいた。一つは開いているが、残る棺の蓋は閉ざされたままだ。
これがヴァルターから聞いていたエンデが入っていたという棺だろうか。
怪訝な顔をする私に、エンデが言った。
「これは『勇者』の保管庫」
「勇者?」
突飛な言葉に私は問い返した。
それに対し、エンデが重々しく口を開く。
「詳細を話す前に、先日迷宮の中で話した、何故私が普遍的な知識以外の情報を有しているかを説明しておきたい」
言われて思い出した。『時空間方程式』という意味が分からない単語を口走った彼女の、秘めたる情報を教えてくれるようだ。
「私は人の母体から生まれた生命体ではない。ホムンクルスという例えもできるけど、それも正確ではない」
ホムンクルスとなると、錬金術でも深奥に位置する奥義だ。正直私の学識では及びもつかないレベルの話になる。
「すまんが、錬金術については専門家と言うほど深い造詣はないんだ」
「正確には錬金術ではなく、私は科法と言う術式に基づいて創られた人の近似値」
「科法?」
全く知らない用語に首を傾げた。
「科法とは、現在『魔法』と呼ばれるものの原形となった旧世界の術式体系。この時空、彼らの用語で言う『ソラ』を満たすマナを扱う技術のこと。その術式によって造られた存在、便宜上『勇者』と言われる戦闘体がここに保管されている。そして、私はその稼働体」
思考が追い付かない幾つかの単語に絶句する。
勇者、そして戦闘体という単語はいずれも可憐な彼女の外見とはそぐわない。だが、彼女の実力を考えると確かに驚くほど馴染む気がする。
「妖魔を生み出した者たちは、人口調整の機能体である妖魔が何かのきっかけで制御を逸脱し、人が本当に絶滅しそうになった時に起動するブレーカーとして人類の救済者を作製した。あらゆる妖魔に対して絶対的に優位である存在。それが『勇者』。この世界にあるすべての迷宮には、同じような措置が施されている」
何だか話がやたら突飛で頭がついていかない。
混乱する私をよそに、エンデはおもむろに手近な棺に触れた。
表面に不思議な文様が浮かび、それが合図だったように蓋が持ち上がった。
中を見ると、そこに入っていたのは人ではなく、人を模した人形だった。素材は木のように見えるが樹脂のようでもある。不思議な質感だ。
「これは『素体』と呼ばれるもの。これに『勇者』の精神、古代語で言えば『統合人格プログラム』というものが宿ればこれがヒトの形質を持って活動を開始する」
「その精神というのは、どこから持ってくるものなんだ?」
「このシステムを作った術者が構築したものになる。それが勇者の人格基盤としてその像に保存されていた。数年前、迷宮におけるマナの循環異常に起因するシステムエラーの影響で封印に綻びが生じ、システムの誤作動が発生した。その結果、用意されていたプログラムが素体に入力され、私が起動した」
エンデの視線の先に、名も知らぬ神像があった。
華やかではないが静かで落ち着いた意匠の、仄かな笑みを讃えた女神像だ。
「もし私の肉体が破壊された時、私の精神であるプログラムはこの像に回収されて再度ここにある素体のどれかに入力される。つまり、これらは私の肉体のスペアになる」
「これが全部か?」
棺の数は開いているものを含めて全部で一二個ある。ドラゴンが屈服するような戦闘力を持つエンデをそれほどの回数殺すことは万の軍勢でも難しいだろう。そのことを思うと、そこまでスペアがなくても大丈夫だろうとは思った。
「妖魔をこの世界に解き放つことが決められた時、それくらいの慎重な対策が求められた。でも、もうそれは要らないもの。迷宮の妖魔の暴走の可能性が封じられた以上、私の本来の任務は失効している。だから、私はこのまま人として生き、人として老い、人として死にたいと思っている」
「ヴァルターの花嫁として、か」
「そう。未来に行くのは、私の子供たちだけでいい。生物はそうあるべきだと、私は考えている」
そう言うと、エンデは立てかけてあったハルバードを手に取り、一閃して女神像を破壊した。
滑らかな切り口を見せた女神像はゆっくりと倒れ、床に落ちて鈍い音を立てた。
その様子を見ながら、あまりに壮大な事実に私はため息をついた。
「その志は立派だと思うし、お前とヴァルターの縁はもちろん祝福させてもらう。秘密を共有してもらえたというのも光栄だと思うよ」
驚きのあまり適当な言葉が見つからず、何とかそれだけを告げた私にエンデは頷いた。
「私に係る話は以上。そして、ここからが本題」
エンデの言葉を受けて、フリーダが傍らにあった大きな装置をごろごろと転がしてきた。何だかずいぶん大げさな仕掛けだ。魔導具なのだろうか。
「何のからくりだ?」
私の問いに、フリーダは胸を張って答えた。
「分かりやすく言えば、意識体を魔力変換してその流動性に干渉するためのものよ。どうしてもこれ以上小さくは出来なかったの。苦労したのよ、造るのに半年以上かかったんだから」
個々の単語の意味は分かるが文章となると理解ができない。
「分かりやすく言ってくれたつもりなのだろうが、すまんがよく分からん」
「さらに分かりやすく言えば、その子みたいなものを創る装置なの」
フリーダの言葉に後ろを振り返ると、そこにサーベラ―を抱いたアビーが立っていた。傍らにはクレアもいる。
「……どうしてここに?」
「これは私がエンデとフリーダに相談した事だからなのです」
アビーがサーベラ―を床に置くと、てててと歩いて私の足元にすり寄って来た。
アビーが持ち掛けた、というのはどういうことだろうか。
「レナ姉が聖女として『箱庭』になってしまったのはもちろん悲しいことなのです。でも、それ以上にその事でエリカが苦しんでいるのは見ていてつらいのです」
泣きそうなアビーの表情に、私は己の狭量を恥じた。
この子にまで心配をかけるほど、私は後ろ向きに陥っていたのか。
「そのために、新たに霊獣を創ろうというのか?」
その私の問いに、フリーダが応じた。
「これから召喚を試みようという存在は霊獣に近いのは間違いないけど、それをもう少し発展させてみようと思うのよ。改めて訊くけど、貴女はその子がどういう存在か知ってるわよね?」
フリーダが指し示すのは私の足元にいる猫だ。
それはもちろん知っている。
霊獣サーベラー。
それはこの『箱庭』と一体となった聖女レナ・オーレリアの末端だ。
「この子はこの世界の神と言っていい存在と繋がっている。それを利用して、この魔導機でその子を依代にして現状のラインを太くするの。そうするとどうなるか分かる?」
ラインを太くする、つまり神からの情報の流量を増やすことが可能になるということだろうか。
目の前にあるのはエンデが言う『素体』。
急速に脳内でパズルが組み合わさっていく。
フリーダの言わんとしていることが、数秒で私の中で形を持った。
私の顔色が変わったのを見て、出来のいい生徒を見るような目でフリーダは笑う。
「そう、サーベラーを通じて世界の『意思』と接触して、サーベラ―の形で具現化しているその意思を素体に繋げるバイパスを作るのがこの魔導機よ。ベースが無では猫の形が精一杯の霊獣の姿を、この素体を用いることで人の形を取ることを可能にさせようという試みなのよ。ある意味神を降ろす術式ね。禁呪中の禁呪だわ」
霊獣を手掛かりに『意思』を引き寄せて素体に注ぎ、猫ではなく人として霊的存在を組み上げようというのか。
「そんなことが可能なのか」
「私の見立てではね。でも……」
それだけ言うと、フリーダは表情を曇らせた。
「私はそれが本当にいいことなのか、自信がないのよ」
フリーダが少し悩んだ眼をして傍らのエンデを見る。その意を受けて、エンデが言葉を紡いだ。
「フリーダの言う通り、このやり方には欠点がある」
欠点と言う言葉に、思わず喉が鳴った。
「素体とこの世界の『意思』を同調させて人の形を取ったとしても、聖女の存在がこの世界と一体化していることには変わりはない。人として過ごすことが目的であれば、素体が活動限界を迎えても次の素体に乗り換えることは可能。それぞれの素体の稼働限界が一〇〇年として、すべての素体を使えば一〇〇〇年は人として過ごすことができると思う。でも、その本質は『箱庭』と一体化した精神体であることには変わりはない。素体を失ってもこの世界の『意思』に戻るだけで、人としての死を迎えることはできない。どのような手段を用いても、貴女の友人は貴女と、彼女を取り巻くすべての近しい人たちが自分を残して死んでいくことを傍観することになる」
その言葉に、口の中が乾いたような気がした。
レナは一〇〇〇年存在し続ける。
その一〇〇〇年を意識体として過ごすか生身をもって過ごすか、果たしてどちらが彼女にとって慰めになるのだろうか。
もし生身を持つことを望んだとしたら、それは彼女と共に時を刻むことを願う私の一方的な我儘なのではないだろうかと思う。
フリーダが表情を曇らせたのは、こういう意味だったのだと私はようやく理解した。
「残念ながら、私たちができることはここが限界。それでも貴女達と共に過ごすためにレナ・オーレリアが仮初の肉体を得るべきかどうか、貴女に判断して欲しい」
エンデから投げかけられた決断にとっさに答えられず、少しだけ考え込んで私は足元で私を見上げるサーベラ―の前にしゃがみ込んだ。
「レナ、私はどうすればいいか分からない」
その言葉に、サーベラ―はみゃーと鳴いた。
その鳴き声の中にも、また金色の瞳の中にも、レナの意思を感じることはできない。
でも、この声が彼女の届いていると信じて私は語りかけた。
「私は所詮、命に限りのある人間だ。貴女が過ごす一〇〇〇年の中の、一〇〇年に満たない時間しか一緒にいることはできないと思う。それでも、素直な気持ちを言えば、貴女と同じ時間を刻んでいきたいと思っている。勝手にそう願って、やがては勝手に貴女を一人ぼっちにすることが確定している人間のふざけた物言いだと思う。でも、やはり貴女がいない人生は、常に何かが足りないような気がしてどうにもならない。それが私の本心だ」
そう告げた私の手を一度だけざらりと舐めて、サーベラ―はそのままエンデに向かって歩いて行った。
そして私に向かい、今一度みゃーと鳴いた。
それが彼女の意思なのだと、私は思った。
心を決めるための材料は、それで充分だ。
「結論はそれでいいのね?」
フリーダの問いに、私は頷いた。
「お願いする」
フリーダが頷くと、エンデがサーベラ―を抱えて棺の中に入れ、そのまま蓋を閉めた。
それを受けてフリーダがスイッチを入れると、棺の表面に先ほどとは違う紋様が明滅を繰り返し始めた。
「一〇分ほどで終わると思うわ」
魔導機の様子を注意深く見ながらフリーダが言う。
どういう術式が巡っているのか理解できない私は、その様子を震えて見ていることしかできなかった。
その私の手を、アビーの小さな手が包んだ。
「大丈夫なのですよ、エリカ。レナ姉だって、エリカと一緒に過ごしたいと思っていると思うのです」
「そう思いたいが……さすがに怖いな」
こんな身勝手な願いが、果たしてレナを幸せをもたらすのだろうか。
「今度はエリカが私を信じるのです。レナ姉は、いつだって私たちと一緒にいたいと思ってくれていたのです。一〇〇〇年は長いです。でも、何もないまま過ごす一〇〇〇年より、私たちと過ごした思い出がある一〇〇〇年の方が、きっと幸せだと思うのです。私が知るレナ姉はそういう人だったのです」
そう言って視線を揺らさぬアビーが、今は頼もしかった。
そのアビーの反対側にはクレアがいる。言葉はなくとも、その瞳にはアビーと同じ思いが見て取れた。
長いようで短い時間が過ぎ、フリーダの魔導機が停止した。
「終わったのか?」
「問題なく、ね」
フリーダでも緊張したのか、彼女らしくない深いため息をついた。
「うまく行ったのか?」
「完璧よ」
その言葉を受けて、エンデが棺に手を翳した。
私の心の準備を待つことなく、棺を開く術式を編む。
紋章が光って蓋が開いた時、そこにいたのは見覚えのある女の子だった。
長い金髪が、美しかった。
全体の造作も、最後に会った時より少しだけ大人っぽくなっていた。
そこにいたのは、二一歳のレナだった。
その瞼が開き、彼女の青い瞳に私が映った。
「……レナ?」
瞳孔が動いて焦点を結び、無言のまま数秒が流れる。
ややあって、その顔に朱が差した。
「……ああいう本心を曝け出したお別れをした後で、こうして顔を合わせるのは恥ずかしいものね」
聞き覚えのある声だった。
独特な、すこし鼻にかかったような甘い声。
私が聞きたかった声が、現実のそれとなって鼓膜を振るわせる。
「第一声がそれですか?」
「だって、さすがに……ねえ?」
照れくさそうに体を起こすレナに、フリーダが貫頭衣を差し出す。
礼を言ってそれを身にまとい、居並ぶ面々を見回した。
「クレアとアビー、久しぶりね。貴女はエンデ、そして貴女はフリーダね。皆、私をこの体に呼んでくれてありがとう。感謝するわ」
そう言って立ち上がって棺から床に素足を降ろすと、バランスがまだうまく取れないのか足をもつれさせた。
咄嗟に抑えたのは私とエンデだ。
「ごめんなさい、慣れるのにはまだちょっと時間がかかりそうだわ」
「三日もあれば慣れると思う。分からないことがあったら訊いてくれればいい」
エンデの言葉に、レナは困ったように頷く。
「その時はよろしくね、先輩」
「任せて」
「それじゃエリカ、悪いんだけど肩を貸して?」
身を委ねて来たレナの重さに、ようやく自分の気持ちが現実に追い付いて来たのを感じた。
固まってしまった私の顔を、レナが覗き込んでくる。
「大丈夫?」
困ったことに、私の混乱した気持ちは大丈夫ではない。
「ごめんなさい」
私は素直に謝罪の言葉を述べた。
「レナをこの体に召喚したのは、私のエゴです。この先、きっとレナにはすごく辛い思いをさせると思います」
その私の告解に、レナは笑って応じた。
「そういうのを全部分かったうえで、私はこの招きに応じたのよ。貴女のせいという訳ではないから心配しないで」
「私はもう貴族ではないのです。生活面で苦労をかけるかも知れません」
「小さなことよ。私だって働くから大丈夫」
「私の器量では、私の子供を見せてあげられないかも知れません」
「う~ん、この体を手に入れたからには私も子供を産んでみたいし、それはお互い頑張ろう」
「長く一緒にいると、今は知らない嫌なところも見えてしまうかも知れません」
「それもお互い様。人間なんてそんなものよ」
「私は、貴女を残して先に死ぬでしょう。無責任なことに」
「気にしすぎよ。言ったでしょ、私は貴女と貴女の子供たちを見守っていくって」
「……私は喜んでいいのでしょうか?」
その時、レナが私の背中に手を回してきた。
「当たり前でしょ、私だって嬉しいんだから」
その時、ようやく裡なる混乱が統制され、両の眼から素直な気持ちが零れ落ちた。
夢かも知れないと思った。
眠りが浅く、夢も見られない日々を過ごしていたこと思えば、これが夢でもいいとすら思った。
あの時から止まってしまった私の時間が、ようやく動き出した気がする。
今、私の隣に親友がいてくれる。リアルな彼女の体温が、確かにここにある。
その事が、この世界の何よりも喜ばしい。
嬉しい時にも涙が出ることを教えてくれたのは、他ならぬ彼女だ。その彼女に、また私は泣かされている。
やっと、私は歩き出せる。
これでやっと、次の一歩を踏み出せる。
呪われた聖地の湖畔を離れ、明日に向かう歩みを進めることができる。
泣いているレナを抱え、私も泣きながらそう思った。
~エピローグ~
夢を見た。
そこは不思議なところだった。
丁寧に手入れされた、西洋風の庭園。その傍らにある東屋に私はいた。
鼻をくすぐる香りは紅茶。
籐椅子に座る私の正面にいるのは、一人の女性だ。
会ったことはない、でも、私にとっては一番古い知り合いの女性。
黒い髪と、黒い瞳、そして民族として私たちと違うと分かる独特な顔だち。
「こうして顔を合わせるのは初めてだね」
私の言葉に微笑んで頷く『誰かさん』。
名前は知らない。
でも、彼女の内面はこれ以上ないくらい知っているつもりだ。
彼女が嬉しいと感じること。
彼女が悲しいと感じること。
彼女が困ることも、悩むことも、これまでの半生で具に見て来た。
彼女が誰かなのかは、知らない。
でも、知らなくても何も問題はないと感じる。
彼女が持っているものは、そのまま私が持っているものなのだから。
しばし二人で無言で紅茶を口にする時間が流れていく。
暖かな日差しの中、鳥の鳴き声が穏やかな時間に彩を加える。
ややあって瀟洒なカップをソーサーに戻し、『誰かさん』の口が動いた。優しい視線が、私に静かに向けられた。
『もう、大丈夫だよね?』
彼女が発する音なき言葉は、そう言っているように感じた。
唐突な言葉ではあったが、何がどう大丈夫なのかはすぐに理解できた。
幼少時、砂漠のように潤いの欠片もない場所に放り込まれて以来、数え切れないほどの救いを彼女によって与えられてきた私だ。意思の疎通はそれだけで充分だった。
その言葉に、今の私は胸を張って応じることができる。
今、私がいる場所は無味乾燥とした荒野ではない。
信じられる人がいる。
語り合える仲間がいる。
それは、互いの背中を任せられる人たち。
その人たちが困った時は、私は何ら躊躇うことなく手を伸ばすだろう。そして私が困った時にもその人たちはそうしてくれるのだと信じることができる。
迷宮都市イルミンスール。
そこに住まう私にとって、孤独と言う言葉は、もう書物の中の文字の羅列でしかない。
そこに辿り着けたのは、間違いなく彼女の、『誰かさん』のおかげだ。彼女がいてくれたから、私は私としてここにいられるのだと心から思う。
だから、私は信念を持って頷いた。
「大丈夫だよ。もう、大丈夫」
その答えに『誰かさん』は満足したように微笑み、そして席を立った。
彼女がこれからどこに行くのかは知らない。
でも、知らなくても問題はない。
答えは、もう私の中にある。
『元気でね』
彼女の口がそう動き、手を振る『誰かさん』の姿が淡々と消えていく。
彼女が消え去る直前、私は大きな声で告げた。
「ありがとう」
ありがとう。
貴女のおかげで、私はここに辿り着くことができた。
貴女のおかげで、今日を笑って過ごすことができる。
彼女のように曖昧になって消えてゆく庭の中で、私はありったけの感謝の気持ちをこめて、彼女に向けて今一度心の中で告げた。
ありがとう。
私の中の、もう一人の『私』。
☆
私の朝は、曙光と共に始まる。
窓から差し込む生まれたての光に瞼をこじ開けられ、布団の甘い誘惑を振り切って起床する。
洗顔を済ませ、寝衣を脱ぎ、仕事着である白いブラウスと紺のスカートを身に着ける。
タイの色は水魔法の色である青。
少しだけ癖のあるブルネットの髪は櫛を入れた後でヘアスティックを用いてアップにまとめ、化粧は申し訳程度で済ませるのが普通。
小物は懐中時計に聴診器、加えて魔晶石を幾つか。
魅了・催眠等の魔眼を防ぐフィルターレンズの眼鏡をかけ、そして洗いたての白衣に袖を通すと、また新しい一日が始まる。
「おはようございます、先生」
医務室に行くと、だいぶ仕事に慣れたエルザが今日の仕事の準備を進めていた。
蓋を開けてみれば、外科的治療を除けば私と同じかそれ以上の実力者だった。何でも修道院では奉仕活動としてそれなりに医療現場の経験があったらしい。
緊急時の手術などでも調剤を一任できるので非常に心強い。
迷宮で呪詛を食らった冒険者への対応も手慣れたもので、これでいちいちフリーダの手を煩わせなくてもよくなった辺り、診療所のパフォーマンス向上には非常に有用な人材だと今は思う。
ギルドの受付では今日もアビーが活躍している。
元気いっぱいなその姿は、今日も冒険者の皆からも愛されている。最近では若手の冒険者連中がファンクラブまで結成してお互いを牽制し合っているとも聞いている。
正面から行っても当人は真っ赤になってもじもじするばかりなので、その分搦手を試みようとしている立候補者諸君の水面下の足の引っ張り合いが激しい様子を見るに、もしかしたらこの子は聖女どころか魔性の女なのかも知らん。
ヴァルターとイーサンはこれまで通りにガイドに汗を流している。
最近はそのツートップにクレアが割り込む勢いらしく、互いに切磋琢磨してギルドの経営を盛り立てている。
イーサンとクレアはその後どうかと言うと、どうやらそれなりの言葉の取り交わしはあったようだ。女の勘を舐めてはいけない。同じ時間に両者の姿が見えないとなれば、そういう推測も容易だ。クレアがどういう顔をしてその事を報告をしてくれるのか、今から楽しみでならない。
「いらっしゃい」
昼食を食べに喫茶室に行くと、そこではエプロンドレス姿のレナが女給として働いている。これまではエンデ一人で切り盛りしていたが、そこに女給専門が入ったことによりその料理の味にはさらに磨きがかかっている。
見目がいいレナを目当てに通い出した冒険者も少なくないようで、だいぶ売り上げが上がったと聞いた。
エンデのことは一度だけヴァルターを問いただしたことがある。
「あ~、正式に決まったら大将にはちゃんと報告するつもりだったんだけどな」
そう言って顔を赤らめて鼻を掻き、歯切れの悪い答えが彼の口から出た。
「俺と一緒に歳取って死ぬと言って、自分の退路をぶっ壊しただろ? あそこまでされちまったからには、こっちも誠意ってもんを見せないとかっこつかねえからさ」
何だか早くも尻に敷かれる気配が漂っているが、多分それがこの二人にとって一番幸せな形なのだろう。
「あら! 貴女達もお昼なの!?」
席に座ると、既に席についていたフリーダが、高いパスタの山を切り崩していた。
「フリーダ、まさか三食それなのか?」
「美味しいわよ、貴女も食べる?」
「いや、遠慮しておこう」
三〇女の食べていいものじゃないと思うんだが。次の健康診断では徹底的に検査してやろうと思う。
美味しそうに食べる彼女の日常は相変わらずだ。
切れる頭と無限のバイタリティ、イルミンスールの冒険者ギルドはあと四〇年は鑑定士に困らないだろう。
そんな一日が終わり、夜に物干し台の上でちびちびやっていると、背後に人の気配が揺れた。
「こら、いい女がひとり酒なんてするもんじゃないわよ」
人懐っこい言い方はレナの特長だ。手にしているのはボトルと杯。飲む気満々だ。
「明日もあるのですから、適当なところで切り上げますよ」
「分かってるって。それより、そろそろその話し方やめない?」
「一応、学院の先輩ですから」
「一応でしょ、一応。もう学生じゃないんだから固いこと言わないの」
「善処します」
呆れたように肩を竦めるレナの杯にワインを注ぎ、お互いに軽く合わせて口に含んだ。
安いワインが、いつにもまして芳醇な味わいを舌先に伝えて来るような気がする。
酒の味と言うのは、誰と飲むかによっても違ってくるのだと改めて思う。
「今更だけど、本当にエリカにはお世話になりっぱなしね」
「それについては前にも言いましたが、気にしないでください。私が好きでやったことです」
「もうちょっと恩を着せてもいいのよ?」
「その辺は、私が困った時に取り立てさせてもらいます」
「利息が高そうね」
そう言ってレナは笑う。
「そう言えば、明日からフリーダのところで錬金術を習い始めることにしたわ」
「錬金術を?」
「彼女の勧めでね」
レナが言うには、フリーダは既に次の世代のことを考えているらしい。
『私がいなくなったら、その体の面倒は自分で見るのよ』
そう言ってレナに次の『素体』への移行方法を伝授するつもりらしい。それには当然魔導機の構造やメンテナンスのことを理解していないといけないので、恐らくかなり本格的な講義になるのだろうと思う。
「一〇〇〇年の旅だからね。準備はしっかりやらなくちゃ」
「すみません、私はどう頑張ってもその旅は途中で降りねばなりません」
「大丈夫。貴女の子が親になって、その子が親になって、そういう未来を見ていくつもりだったけど、見るだけじゃなくて、その子たちのおしめを替えることもやってあげられそうじゃない。こんな嬉しいこと、そうはないわよ?」
「問題は私にその相手がいるかどうかですが」
「それよ。エリカ、貴女もうちょっと若い人にも目を向けた方がいいわ。割と隠れた人気があるみたいよ」
「う~ん、そればかりはこちらの好みの問題もありますので」
レナとの会話は基本的に私は守勢に回る。それが昔から変わらない、彼女とのやり取りのスタンスだ。
「やっぱり先に始めていたのです」
そう言って現れたのは寮住まいの同僚たちだ。
皆、手にそれぞれボトルと酒杯を持参している。
アビーにクレア、エルザはともかくエンデまでいるのはちょっと驚いた。ご丁寧につまみとして腸詰の盛り合わせまで持参している。
「もうじき寮を出るから」
ここに来て男を見せたヴァルターによって、エンデは来月華燭の典を挙げる。
制度の関係で残念ながら司祭は呼べないが、そこで名乗りを上げたのはクレアだ。
聖騎士だけあって司祭の資格を有していたこともあり、その辺の段取りは心得ているのだそうだ。聖職者OGのエルザもサポートに回ることを宣言しているのだから、恐らくエンデのことを思うヴァルターが納得する水準の式になるだろう。
レナも参列してくれるので、ある意味その誓いは神へのそれと同義になると思う。
そんな面子と車座になって、月の下で互いに言葉と杯を交わす。
彼女らの顔を見ながら、これまでのことを思う。
本当に、いろいろなことがあった。
時にはくじけそうにもなった。でも、この人たちがいてくれたから、今私はここにいられるのだろう。
多分、この人たちがいてくれればこれからも私はこの街で生きていけると思う。
見上げれば、空の中央には九九〇〇〇年の時を経て今も輝く月がある。
『ここから見えるすべてのものに、愛が満ち溢れていますように』
そう願ったのが誰かは知らない。
でも、その想いと同じものは私の裡にもある。
目の前にいる気の置けない人たちに、溢れんばかりの愛を。
明日のこの街に祝福を。
心の底から、私はそう思う。
愛と憎悪は、光と影のように表裏一体だ。
愛が溢れていたとしても、今日もどこかで諍いが生まれ、誰かが帰らぬ旅に出ることもあるだろう。
その逆に、諍いや争いがあるところにも、確かに愛が存在するのだと信じたい。
そんな人々の営みこそが、この『箱庭』で生きる人々の日常なのだと思う。
喜びも悲しみも、それらすべてを抱えて今もこの閉ざされた世界は母星に向かって星の海を進んでいる。
残る旅路、一〇〇〇年と言う悠久とも言うべき時の中、私もまたその泡沫の一つとして過ごしていくのだろう。
季節は春、その春の朝七時。
丘には朝露が光り、ひばりたちが舞い、かたつむりが枝を這う。
神々は彼の国にあり、世はなべてこともなし。
それは『誰かさん』が教えてくれた、一つの平和の詩。
そのような日常が、確かにここにはある。
そして、私がそれ以上に欲しいものなど何もない。
ここは楽土。
私の心が、己の居場所だと信じる場所だ。
その時、私の隣で程よくアルコールが回ったレナが空を仰いで目を丸くした。
「ねえ、あれ見て!」
レナの声に釣られて、皆が空を仰ぐ。
私もまた倣って空を見上げると、そこに夜空を背景にした虹が出ていた。
「これは見事な……」
クレアの言葉はこの場にいる全員の思いでもある。
月虹。
それは、見た者には幸せが訪れると言われている幻想的な現象と聞く。
夜空の女王のような月がもたらす柔らかい光が、遺跡の上空にその天空の橋を描き出していた。
迷宮都市綺譚 ~冒険者ギルド付属診療所顛末記~ 完




