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第27話 『時流』

 深夜、フリーダは自分の仕事場で冒険者によって持ち込まれたばかりの魔導器を分解していた。刻まれた紋様からは、恐らく妖魔除けの結界を作る類のものであろうと推測していた。冒険者相手に一定の需要があるタイプのものである。

 この種のものは解体すると各パーツの調和が崩れてその能力を失うことがあるので、表面に彫られた紋様や魔力の流れを丁寧に解析して作業を進める必要がある。

 作業用のゴーグル越しに検体を見つめる視線は日頃の彼女の似合わず真剣そのものであった。


 入口の扉が叩かれたのは、日付が変わる少し前のこと。ちょうど作業が佳境に入ったあたりのこと。


「開いてるわよ!」


 視線を動かさずはきはき答えると、ドアが開く気配がした。

 普通ならそこで挨拶の声がかかって来たり人の気配がするなりするものであるが、それらが皆無のまま件の人物はフリーダの傍らに立った。


「貴女が私のところに来るのは珍しいわね!」


 視線を動かさず、フリーダは応じる。


「相談があって来た」


 いつも通りの朴訥な声でフリーダに告げるのはエンデであった。仕事用のエプロンドレスのままである。


「あら! 改まって私にお願いとは重ねて珍しいわね!」

「これは貴女にしか頼めないこと」

「しかも単独指名とは、さすがのフリーダさんもびっくりしちゃうわ!」

「とても大事なお願い」


 エンデの言葉に、フリーダは手を止めた。

 静かに告げたエンデの気配に、ゴーグルの奥の瞳が日頃の彼女のものとは異なる深い色が光った。


「背中で聞いていい話ではなさそうね。ちょっとだけ待ってて。これを片付けたら聞かせてもらうから」


 そう答えて、フリーダは妖艶に笑った。



 季節は夏。


 盛夏ということもあり、診療所は熱中症の患者が少なからず運び込まれてくる。

 迷宮の中は基本的に摂氏で二四度くらいで安定しているので熱中症の心配はないのだが、密林に行ったり広場でトレーニングをしたりしている連中は、たまに羽目を外して暑さにやられるようだ。

 この手の患者はウォークインであればすぐに冷却を施し、しばらく休ませるのが通常の流れだ。ついでに薬液を飲ませてミネラルを補充すれば大事には至らない。

 熱中症は軽く見られることもあるが実は恐ろしいもので、重症化すると死亡することもあるし、また重い後遺症の例もあるので油断がならない。ギルドの受付にもその辺を図解した注意喚起の知らせを貼り出してある。

 それにも関わらず『俺にはそんなの関係ねえ』と本気で思っているやんちゃな奴が多い冒険者ではあるが、何事も体が資本だということだけは理解して欲しい。

 


「いるか?」


 午前中、珍しく患者がいないのでカルテの整理をしていると、ノックに続いてクレアの声が聞こえた。


「開いてるよ」


 ドアが開き、汗だくなクレアが入って来る。


「今日も暑いな」

「麦湯でいいか?」

「すまんな、それが目当てだ」


 薬品用の冷蔵貯蔵庫から瓶に入った茶色い液体を取り出し、茶碗に注ぐ。焙煎した麦で作った茶で、この季節に冷やして飲むと最高に美味しい。

 クレアがそれを一息に飲み干したところで、お代わりを継ぎ足す。


「ずいぶんと熱が入っているようだな」

「イーサンがかなり頑張っているのでな。頼りにされるのは嬉しいのだが、そろそろきつくなって来た」

「お前にそこまで言わせるとは、ずいぶん上達したものだ」


 イーサンへのクレアの指南は続いている。

 退院して以来、先の対人戦で自分なりの課題を見つけたのか、イーサンは一層剣術に入れ込むようになった。律儀に付き合うクレアも彼女にしては珍しく丁寧に指導しているので、その甲斐あってかなかなかの上達ぶりであるようだ。

 半面、クレアもまだその戦術眼についてはイーサンから学ぶものがあるようだ。

 先の戦闘でイーサンが負傷した原因が、クレアの不覚であったことは否定できない。目の前の敵に目を向けると同時に周囲も怠りなく見るのが集団戦の鉄則。それを養うにはやはり場数が物を言うだけに、生粋の冒険者であるイーサンに一日の長がある。


 その時、風が流れ、窓際に吊るした風鈴が涼しげな音を立てた。

 『誰かさん』に教わったものをホーガンに無茶振りして作ってもらったもので、試作品を含め音に満足が行くものができるまで一〇個は作ってもらったという逸品だ。

 そのために編み出した焼き入れの新機軸を新たな商品に反映させている辺り、ホーガンも転んでもただで起きない人物ではある。


 開け放した窓を過ぎる風を感じてクレアがため息をついた。


「ここは涼しくて良いな」

「風が抜けるからな」


 二人で麦湯を口にしながら、風鈴の音に耳を傾ける。

 風の流れは、そのままマナの流れでもある。

 見えはしないその流れではあるが、心のフィルターを有する私はその中にどうしても幻視してしまうものがある。


「早いものだな。もう一月か」

「そうだな」


 クレアのつぶやきに私は頷いて、茶碗の中身を静かに口に含んだ。

 ややあって、クレアが苦い表情をしながら呟くように言った。


「顔色、良くないな」


 茶碗を空にしたクレアが心配そうに私の顔を見つめる。どうやら化粧でごまかしていた目の下の隈を見抜かれたようだ。

 一瞬手を止めて、黙ってクレアの茶碗に追加を注ぐ。


「何だかもう慣れてしまったよ」

「相変わらずダメか?」

「なかなか自然には眠れないな。眠り薬のありがたみが身に染みる」

「……そうか」



 聖地からの脱出は、来た道を戻るだけだったのでそう難しいものではなかった。 

 治療済の教皇と魔法使いの姉さんを冒険者用のブランケットで包んで放置し、私たちはマナの湖畔を後にした。

 そのまま来た道を逆に辿り、迷宮基部までは多少迷った分も含めて二時間の道程だった。


 だいぶ回復したヴァルターがやたら急いでいたのは、やはりエンデが心配だったからだろう。

 医師としては、あのような超常な戦いに今コンディションのヴァルターを投入するのには多少の不安はある。状況によっては魔法を使ってでも参戦を阻止しなければならないと思っていたが、現実は予想を常におかしな方向に上回るものであるらしい。


 宇宙と大地が見える展望台を通って水槽部屋を抜け、転移陣を通って迷宮基部に足を踏み入れると、そこにいたのはハルバードを杖のように構えて仁王立ちしているエンデと、その前で叱られた犬のように低頭した巨大なドラゴンだった。


「あ、早い」


 ヴァルターが現れたのに気付くなり、そう呟いてエンデが駆け寄って来た。


「おかえりなさい」


 そう言ってごろごろと喉を鳴らさんばかりにヴァルターに抱き着いた。


「お、おう。それより……これ、何だ?」


 ヴァルターがドラゴンを見ながら呆気にとられた声を出す。


「降伏したので受諾した。今のこの子は私の隷獣」

「こ、降伏?」


 ヴァルターが怪訝な表情でドラゴンを見つめると、目を開けてヴァルターを睨み、敵意もあらわに低い唸り声をあげた。当然ではあるが、それを看過するエンデではない。


「この人に敵意を向けるとはいい度胸」


 まるで一瞬前までの甘えた姿が違う世界線の出来事だったような恐ろしく冷たい声で言うと、エンデはハルバードを手にしてドラゴンに詰め寄った。傍で見ていると処刑人が罪人に向かって歩いているような感じがした。

 途端にドラゴンは巨体に似合わぬ素早い動きで後ずさりし、鼻声で鳴き始めた。正直、かなり気持ち悪い。


 もはや突っ込みどころしか見つからない展開に、私たちは互いに表情が引きつった顔を見合わせるのが精一杯だった。



 地上に戻ると、既に出発した翌日の昼を回っていた。

 私たちの家出は既に広まっており、アビーを連れて戻った私たちにギルドは輪をかけた大騒ぎになった。


 危機管理において、世間様を騒がせた時の対策で重要なことは二つある。

 一つは迅速な対応、もう一つは真摯な態度だ。これをしくじると社会的信用が時間の経過と共に加速度的に失われていく。

 急いで事務棟に戻ってギルドマスターに事の次第を報告。

 カイエン氏には見聞きしたことはすべて話した。彼もまた、ギルドの構成員と言う他人の命を預かる立場だ。迷宮のことについては正確な情報が伝わらないと、何かのきっかけでそれが人の生き死にに直結することもあるだけに下手に隠さない方がいいだろうと思われた。人として信用できるというのもある。

 そのカイエン氏も、迷宮が月に繋がっていることについては流石に絶句していた。イルミンスールの伝説が根も葉もないこととまでは思っていなかったとはいえ、実際に月へのルートがあったことは彼の中ではやはり予想外の出来事だったのだろう。

 そんな大冒険ではあったが、何をおいてもアビーを連れ帰った成果は大きく、その事実の前では私たちの勇み足も結果オーライでお許しいただけたようだった。


 その後、関係各方面への挨拶と謝罪を済ませ、夜になってようやく寮に戻れた。

 食事と入浴を済ませて皆と別れ、部屋に戻ってベッドに横になり、ようやく緊張しっぱなしだった意識のスイッチをオフにすることができた。

 普通ならこのまま眠れそうなものだが、眠気は一向にやって来なかった。ストレスのせいで、精神がどこかで変調をきたしているのだと思う。

 見慣れた天井が視界に入った途端に頭の中で大きくなるのは、私が受け入れねばならない現実だ。

 誰かを亡くした時、その事実を初めて現実感を持って実感するのは葬儀の後で他の者が全員帰った後だと聞いたことがある。

 素の自分に戻った時に、初めて感じる本当の感情。

 私が体験したのは、そういう類のものだ。

 レナがいない世界。

 天井を見上げた時、その現実が重いリアリティを持って圧し掛かって来るのを感じた。

 それは、いつか死をもって私の意識が消滅するその時まで続く、彼女がいない時間の始まり。

 

 それ以来、眠れない夜が続いている。



 クレアとの一服を済ませると昼になったので喫茶室で昼食を摂る。エンデはいつも通りにてきぱきと仕事をこなしており、愛想は欠片もないものの、出されるものは味がいいので座席はいつものように埋まっている。

 軽いパスタを食べながらギルドの受付の様子を見てみれば、やはりこちらもいつも通りに盛況だ。


 聖地から戻ってすぐに、アビーは受付に復帰した。

 元気いっぱいな応対は相変わらずだが、少しだけ元気がないようにも見える。その辺の理由は語るまでもないだろう。この子に取っても、レナは大切な人だったのだと思う。

 それでも空元気でも元気と言わんばかりに、彼女の持前である子犬のような明るい調子で場の空気を和ませている。

 そんな明るい笑顔の裏で、あの子も自分の感情と戦っているのだろう。

 

 昼休みということで中庭に出ると、いつものベンチはこの季節相応の直射日光をまともに浴びてほかほかになっていた。

 加えて、この時間は海から吹く風のせいで少々湿度が気になることもあり、暑さに辟易したようにベンチの傍らにある樅の木の根元でサーベラ―がぐったりと寝ていた。

 猫は一番涼しい場所を知っているというのは割と知られた話で、木陰になるそこは確かにギルドの敷地内でも比較的涼しい場所だと思う。


 その姿に笑って大きく張り出した樅の根に腰を下ろすと、猫は目を開け、『やっと来たか』と言わんばかりに座る私の膝の上にのそのそと乗って来る。


「こら、暑いぞ」


 苦情を言ってもどこ吹く風で、そのまま丸くなって就寝モード。いい気なものだ。


「お前もこの季節に毛皮では暑かろう」


 背中にファスナーでもついてないかと思いながら下あごを撫でると、ごろごろと喉を鳴らし始めた。

 その仕草を愛でながら、つい言葉が漏れる。


「なあレナ、人の言葉をしゃべってみてくれないか」


 そう呼びかけると、サーベラ―がみゃーと鳴いた。


「……やっぱり難しいか」


 レナの分身と聞いたものの、その行動や所作はどこから見てもただの猫で、聖女や世界の一部と言うような不可思議な気配は欠片もない。

 もしかしたら意思の疎通も図れるかもしれないという期待もあったが、今のこの子は相変わらずどこまでも猫のままだ。

もしかしたら、これがレナの言う『一部』の限界なのかもしれない。

 

 猫を撫でながら、背中を幹に預ける。

 目を閉じて意識を木の中に沈めてみるが、水の音が聞こえるばかりで『誰かさん』の声は聞こえて来ない。

 その代わり、大地から吸い上げた水が維管束を通って葉脈に至り、そして気孔から空に水を霧散させる音はこれまで以上に鮮明だ。

 水の流れは命の流れであり、そしてこれもまたマナの流れでもある。

 ここにも彼女は存在する。

 もしかしたら、『誰かさん』の声が聞こえなくなったのはその辺に理由があるのかもしれないと私は思った。





 暑さも和らぎ、風に秋の気配が漂う頃、中庭で珍しい組み合わせが見えた。

 ヴァルターとイーサン、そしてエンデがそれぞれ得物を持って迷宮に向かって歩いている。これに腕のいい攻撃特化の魔法使いが加われば、うちのギルドの最強チームではないだろうか。


「珍しい取り合わせだな」

「おう、フリーダの依頼でな」

「フリーダの?」

「詳しいことは内緒だそうだから、あとでフリーダに聞いてみてくれ」


 またぞろおかしなものでも掘り当てようとでもいうのだろうか。

 ふと、エンデがこちらに視線を向け、そして妙に照れたような顔をして迷宮に向かって歩いて行った。

 その様子に、昨日エンデと交わした会話を思い出した。


 眠れない夜中に、ふと思い出したものがあった。

 月の展望室で見たおかしな文字。乱暴に彫られた一文だ。

 起き出してデスクに向かい、見たこともない文字で書かれたそれを、覚えている限り紙に書いてみた。

 正直それはそっち方面の学識のない私にとっては暗号の域を出ない。恐らくは有意の文字列だとは思うがどうにも手掛かりがない。デザインとしては額に入れて掲げておいてもちょっと気の利いた前衛芸術のように見えなくもないような、そんな文字だった。

 喫茶室で、その紙片を見ながらフリーダに相談しようかと悩んでいた時のこと。


「『ここから見えるすべてのものに、愛が満ち溢れていますように』」

 

 出し抜けに耳に届いた声は、私の背後から聞こえて来た。

 そこに、私が頼んだお茶を持ったエンデが立っていた。


「その文字の意味。女言葉でそう書いてある」

「……読めるのか?」

「古代語であれば」


 思わぬ収穫に思わず喉が鳴った。

 こんなところに正解の導き手がいたとは思わなかった。

 

「貴重な情報をありがとう。先日乗り込んだ聖域で見つけた文字だったんだ。さすがにこの方面はさっぱり分からなくてな」


 私の感謝に、エンデは俯いて首を振った。


「たまたま読めただけ」


 はにかんだ様子がちょっと可愛い。


 それにしても、ずいぶんスケールの大きい祈りの言葉だと思う。

 あそこから見えるすべてのものとなると、それは『箱庭』全体はもちろん、その周囲を取り巻く宇宙すら含んだ範囲になる。

 誰が書いたものかは分からない。

 だが、かつて誰かがあそこに立ち、私たちが見たあの光景を見ながらそう思った人がいたということだ。

 諍いが絶えないその世界に対し、『そこに愛よあれと』祈った者がいたと言うことには尊敬の念すら胸をよぎる。

 もしかしたら、それはこの『箱庭』を創った人たちの誰かなのかもしれない。


「エリカ」


 珍しくエンデが私に訊いて来た。


「貴女にとって、愛ってどういうもの?」


 飛び出してきたのは恐ろしく哲学的な質問だった。

 愛とは何ぞや。

 簡単にまとめるにはハードルが高い問いだ。少し考え、私は答えた。

 

「どういうものと言われても、なかなか言葉にするのは難しいな。例えて言うなら、お前がヴァルターに抱いている想いがあるだろう。多分それが、世間が愛と呼ぶものだと思うぞ」


 その言葉に、エンデは考え込んだ。


「彼を大切に思う気持ちは自分で分析し、理解している。でも、私のような存在の心に宿ったそれを、本当に愛と言っていいのか自信がない」


 何だか明後日の方向にすっ飛んだ物言いに、私は異を唱えた。


「また馬鹿なことを言う奴だな。出自がどうあれ、人と同等の思考を持っているのなら、それは人だ。その人が誰かを愛おしいと思うなら、そこには確かに愛はある。それに文句を言う奴がいたら私の所に来るように言ってくれて構わん」


 そう答えると、エンデは珍しく私に向かって笑った。


「感謝する」

「感謝なんか要らんよ」


 そう斬り捨てた私に、エンデは首を振る。


「少なくない人が、私を人ならざる者を見る目で見る中で、貴女たちは私をそういう目では見ないし、今のような言葉も言ってもらえる。それらに対する私のこの気持ちを感謝と言う言葉以外で表すことは難しい」


 感謝しているのなら、おかしなやきもちをやめてもらいたい。

 内心でそう思った時、エンデの顔から笑みが消えた。


「でも、それだけに貴女がふさぎ込んでいるのを見ているのはつらい」


 出し抜けなエンデの言葉に完全に虚を突かれた。

 これまで彼女とはこういう踏み込んだ話はしたことがなかったからだ。

 

「貴女の健康状態が少しずつ悪くなっているのは私にも分かる。体を大事にして欲しい」

「ありがとう。私は大丈夫だよ、これでも健康の専門家だからね」


 苦笑いと共にそれだけ応え、私は淹れたてのお茶に口を付けた。





 木々の緑が装いを徐々に赤や黄色に変えつつある季節になった頃、診療所に来客があった。


「ごめんください」


 トラベラーズマントのフードの奥から、やや陰気な気配の声が響く。

 応対に出た私を見て、不思議と安堵したような気配が漂い、件の人物が頭を垂れた。


「ご無沙汰しております」 

「……どちら様で?」


 身に覚えのない来客に首を捻る私の前で、女性がフードを取った。

 こぼれた長い銀髪と、そこに見えた顔には、確かに見覚えがあった。

 異端審問官の女魔法使い。

 確か名前はエルザと言ったと思う。


「その節はどうも」


 やたら腰の低い所作だが、それを鵜呑みにすることはできない。

 私は腕を組んで魔法使いを睨みつけた。


「遠路はるばるご苦労と言いたいところだが、どういう主旨の来訪だ。お前には恨みまではないとは言え、それでもにこやかに『よく来たね』と迎え入れるほど気を許すつもりはないぞ。もしそういうつもりで来たのなら、裏手に手頃な広場があるが?」


 私の言葉にエルザは激しく首を振った。


「いえ、そのようなつもりはありません。さすがに第二大陸まで来たのに、また半殺しにされては敵いませんので」

「ならば何の用だ?」

「それについては、こちらを」


 そう言って懐から手紙を取り出した。

 男の字だった。宛先はエリカ・シャーリー・オブ・クイーンズベリーとある。

 差出人名は予想通りのもので、蝋封にはしっかりと教皇の紋が押されていた。


 エルザを診察室に通して茶を出し、彼女の前で封を開けると、封筒にはずいぶん多くの便箋が収まっていた。

 目を走らせると、文はまずセオリー通りに時候の挨拶から入り、一連の出来事に対する謝罪が書いてあった。

 そして、レナと話したことを素直に受け入れて教皇庁として方針を転換し、迷宮の暴走や人口調整は封印、それに代わる意識改革を教義として人々に説く形の方策を検討している旨の説明が書いてあった。

 丁寧な文面を見るに、教皇はかなり几帳面な性格のようだ。


 レナが言っていた教皇との話し合いは、彼女の期待通りに教皇の中に根付いたようだ。どのように改革が進められるのかは分からないが、組織を動かすというのは難しいものだろう。

 すべては彼の手腕次第となれば外野の身としてはお手並み拝見としか言いようがない。

 

「お怒りを買う物言いかも知れませんが、聖女のことについては猊下もかなり苦しまれておられました。その点だけはご理解賜りたく」

「それは分かっているつもりだよ」


 ほっとしたような顔をしたエルザに、私は告げた。


「レナの願いが通っているのならそれ以上私から言うことはないし、アビーを返してもらったからには教皇庁に弓を引くつもりもない。変にどこかの宗教に取り入るようなことはせず、これまで通りに市井の医者として生きていくつもりだよ」

「そうあっていただけますと、教皇庁としても助かります」

「お互い徒に関わらない方が距離感としてもいいだろう。教皇にはよろしく伝えてくれ。わざわざ第二大陸までご苦労だったね」


 そう言った途端、エルザと言う女性の表情が揺れた。


「それなのですが……」

「まだ何かあるのか?」


 言葉を濁し、少し悩んだ末にエルザは言った。


「厚かましいお願いではあると思うのですが、私をこちらで働かせていただけないでしょうか」


 さすがにきょとんとしてしまった。


「どういうつもりだ?」

「恐れながら、聖地にて、猊下を殺めることなく治療した貴女様の精神性を見習いたく思っております」

「別に人として普通のことだろう」

「いいえ、間違っても普通ではありません」


 よほど強い主張があるのか、エルザはずいと前に出て言う。


「ついさっきまで命のやり取りをしていたような人を治すなど、普通の感覚ではあり得ぬことです。確かに我らの教義では『月の下では人間愛こそ尊し』と言っておりますが、それを実践できる人は滅多におりません」

「それはどうか知らんが……」

「是非ともその貴女様の感性を近くで学ばせていただきたいと思っております。これでも治療師の真似事は出来ますし、薬師としてもそれなりのものという自負がございます。給金も要りません。二心無きことに証を立てる必要があるのならいかなる調べにも応じましょう。どうぞ、お許し賜りますようお願い致します」


 梃子でも動かない。

 表情にはその意思が明確に浮き出ている。

 聞けば教皇庁にもその旨を告げてこちらに渡って来ているのだそうだ。

 こちらの都合を顧みぬ片道切符の押しかけ助手は迷惑ではあるが、たまに迷宮に出張する機会があることを思うと彼女のようなカードが一枚増えることは悪いことではない、教皇の手紙にあった言葉は嘘ではなさそうだし、等といった無数の打算が脳内を行き来した。

 

 その後あれこれとすったもんだがあったが、最終的にギルドマスターの采配により、治療師助手として診療所付で採用することとなった。流石に無給という訳にはいかないので、多少の給金は診療所の運営費から支払うことにした。

 とは言え、流石に曰く付きの相手だ、もしおかしなことをしようとしたらどういう目に遭うかを、居並ぶギルドのおっかない面々を紹介しながら言い含めたことは言うまでもない。




 夜になり、自室で本を読んでいるとドアを叩く音がした。


「開いてるぞ」


 そう応じると、ドアを開けて現れたのはクレアだった。


「今いいか?」

「構わんよ、どうした?」

 

 クレアが無言で差し出したのは、やや大ぶりな酒瓶だった。


「貴公に立会人を頼もうと思ってな」

「立会人?」


 連れて行かれた先は、いつもの物干し台だ。

 そこに行くと、何故かエルザが正座していた。


「立会人とは穏やかじゃないな」

「まあ、そう言わんでくれ」


 自分とエルザ、そして私の手にも杯を握らせ、それぞれになみなみとワインを注ぐ。


「さて、エルザとやら」


 酒瓶を中心に車座になるように腰を下ろすと、クレアはやけに仰々しく口を開いた。


「貴殿には相応に思うところはある。一度は己の命より大切なものを目の前で貴殿に奪われたこと、これは中々に許しがたいことだ。それは理解してもらえよう?」

「はい。その節は……」

「だが、貴殿も教皇庁に仕える身、それ故のことであったとは理解してる。そのことを責め立て、根に持つというのも騎士道に照らして褒められたものではないこともな。そんな訳で、一度ここでけじめをつけておきたい」

「けじめ、ですか?」

「私の望みは、貴殿にここでひとつ誓いを立ててもらうことだ。我らに対して、もうあのような危害は及ぼさぬということを貴殿の神の名において誓ってもらいたい。それがあれば、私も貴殿を許し、同じ職場で働く同僚として遇することができる」


 何が飛び出すかとびくついていたエルザの顔から、一気に緊張が落ちた。


「お安い御用です。月神に誓いましょう。私がこの地でやりたいことはエリカ医師の信念の継承のみ、荒事はもとより望むものではありません」

「承った。では」


 そう言って杯を交わす。


 傍で見ていて、ちょっと笑ってしまった。

 クレアらしい折り合いの付け方だと思う。

 ちょっと暑苦しくて、でも分かりやすい。

 そして、折り合いさえつければ後に引っ張るような人でもない。

 何と言うか、やっぱりクレアはいい奴だ。

 こういう人と友人になれたことは、恐らくすごく幸運なことなのだと思う。

 そう思うと、やけに酒が美味しく感じられた。


 聞けば異端審問官であるエルザの正式な身分は修道女なのだそうで、同じように修道院の出であるクレアとはやけに話が弾んだ。

 教皇庁の裏側を知る人たちのあけすけな話は聞いていて実に面白い。修道院で作っている売り物のワインを密かに失敬している話とか、かなりきわどい内容の大人向けの小説が何冊も院内で代々受け継がれているという話などは教皇庁が知ったらえらいことになりそうではある。

 話が弾めば必然的に酒も進む。

 酒が進めば舌も滑らかになり、さらにあれこれと話題が飛び出すのが酒席の悪循環だ。

 その結果として、翌朝は全員揃って酷い二日酔いに苦しむことになった。





 そんな、何気ない日々が過ぎていく。


 診察室のデスクに座り、訪れる患者に応対していく、ごくありふれた日常。

 窓の外を見れば、空はどこまでも蒼い。


 これからも、私はここで時を積み重ねて、歳を取っていくのだと思う。

 そこにはクレアがいて、ヴァルターがいて、イーサンやフリーダやエンデがいて、そしてアビーもいる賑やかな場所だ。

 でも、肝心な一人はそこにはいない。

 いたとしても、見ることも触れることも叶わない。

 デスクの上に置いてある、猫の形をした魔晶石を指先でつつきながらそのことを思う。

 

『今の私はマナと同化している。だからこの世界のどこにでも私はいるの』


 レナの言葉を思えば、今も彼女はここにいる。

 今は実感できないそれを、いつか受け入れることができる日が来るのだろうか。


 その時、微かな風がカーテンを揺らすように通り過ぎた。

 夏からぶら下げたままだった風鈴の涼やかな音が、誰かの声のように聞こえる。


 レナ、貴女はここにいるのだろうか。


 私のその問い答えるように、デスクの上の魔晶石がコロンと倒れて微かな音を立てた。

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