第26話 『千年』
「貴公ならそうするだろうと思ったが……」
渋い顔をするクレアに、私もまた渋面を返す。
「言うな。命のやり取りをしている最中ならともかく、戦闘能力を失った敵となると見殺しにするのは、どうもな」
敵意のない怪我人は、遺憾ながら私の中では患者としてカウントされる。
気が付いて尚も牙を剥いて来る可能性があったとしても、それはその時に考えるべきことだ。
気を失ったエルドリッチを診察し、応急処置を施した。
先ほどの現象について特に外傷はないようだが、斬り飛ばされた手首は接合しておく。リハビリをちゃんとやれば元通りに動くようになるだろう。
限られた器材と治癒魔法頼みの治療が終わったところで、疲労を覚えて大きく息を吐いた。
「大丈夫か、大将?」
そう心配してくれるヴァルターだが、どちらかと言うとただ疲労しているだけの私より彼の方が問題だ。体中切り傷だらけ。腕の傷は強く縛ってあるが、今も出血が続けている。
「問題ない。待たせたな、傷を診よう」
魔法薬で魔力の回復を図り、ヴァルターとクレアの治療を行う。
二人ともひどい状態だった。
ヴェルタ―は大小二桁の切創。
この男にこれほどの傷を負わせるあたり、サイファと言うのはやはりただの狂犬ではなかったのだろう。
聞けば、使い魔の封印を解いてもなお食い下がるだけの実力を奴は有していたのだそうだ。速さと技の冴えはもとより、ダメージを与えても自動回復するような奥の手を持っていたそうだが、最終的に胴に一〇個ほど風穴を開け、動きが止まったところで眉間を貫いて決着がついたとのこと。その代償はヴァルターが負ったこれらの傷だ。お世辞にも浅くはない。幸い、内臓に届く傷はないし神経も無事。この辺はヴァルターの実力のたまものだろう。
クレアの方は挫創がひどい。
あの後もすさまじい数のゴーレムを相手に迎撃戦を続けたのだそうだが、最終的に階段の半ばまで押し込まれたとのこと。
あれだけの数のゴーレムを食い止めたのだからクレアほどの速さ自慢であってもある程度のダメージを受けると予想はしていたが、アーマーがあったとは言っても診てみればやはり状態は酷いものだ。明日には全身青痣だらけになるだろう。
途中でどこかの骨をやられていたら、恐らくクレアはここにいられなかっただろう。
もののついでと言うことで、意外にも生きていた女魔法使いも治療した。割と必殺を狙ったつもりだったが、あれを食らって命があったとは運のいい奴だ。眼窩底や鎖骨をはじめ、いたるところの骨が折れていたが、手を出したのはこいつが先なので気にしない。
意識を取り戻して再度襲ってきたら、その時はリターンマッチに応じよう。
一通り応急手当を終えると、傍らに困ったような顔をしたアビーが立っていた。
最後の患者はこの子だ。
「怪我はないか?」
「大丈夫なのです」
「ひどいことされなかったか?」
「閉じ込められただけだったのです」
泣き出しそうなアビーの頭に手を載せて、私は言った。
「そうか……よく頑張ったな」
その途端に、アビーが私に抱き着いて泣き出した。
「きっと来てくれると思ったのです。でも、少しだけ無理なんじゃないかとも思ったのです。こんな私のために、みんなが助けに来てくれるだろうかと……」
「『こんな私』という言い方はやめろ」
彼女の背中に手を回して私は言った。
「お前が私たちにとってどういう存在なのかを決めるのは私たちだよ」
アビーが泣き止むのを待って、ヴァルターが床に胡坐をかいた。
「すまねえが、ちっとだけ休ませてくれ。小一時間でいい。エンデの助太刀に行かなきゃならねえが、まだ体が言うこと聞かねえ」
そう言ってヴァルターは身を横たえ、秒の単位で眠りに落ちた。
「私もいささかきつい。少しだけ休ませて欲しい」
「私が起きてるから休んでくれ。追加の治癒魔法は適宜継ぎ足しておく」
クレアもまたヴァルターに倣って横になった。
「エリカは大丈夫なのですか?」
「大して働いていないからな」
少しだけ強がりを言って、私も座り込んで非常食を取り出した。
アビーにも渡して軽めのエネルギー補給だ。
ようやく周囲を落ち着いて眺める余裕ができたこともあり、私は地底湖に視線を向けた。
青い湖面は凪いでおり、その光がほのかに空間を照らしている。
その湖面のように、冷静に自分を見つめられる程度に私の精神もフラットになっている。
精神的に余裕ができればあれこれ考えてしまうのは、人間の性だ。
正直、冷静に考えれば、教皇が言うことも少しだけ理解はできる。
真偽のほどは定かではないが、聖女の意思がないと数年で崩壊するという世界。
聖女の命とどちらを取るかと言われれば、彼の立場であれば世界を取らざるを得ないのだろう。
それが教皇と言う者に課された業。
その業と対峙しなければならない立場となった時の彼の苦悩も、想像できないわけではない。
だが、だからと言って友達を差し出すことはできない。彼にもそれがあるように、私にも譲れないものはある。
次善の策を考える、と言っても私なんかが思いつけるくらいなら先達はそこに辿り着いているだろう。
だからこそ、エルドリッチは彼なりに苦しんでいたのだろうと思う。
「……アビー、ちょっとだけ二人を見ていてくれ」
アビーにそれだけ告げ、私は湖畔に足を向けた。
改めて見ても、大きな地底湖だ。
経緯を知ってみると、これまで以上に不思議な気配がする。
レナが溶けているという、マナの泉。
その湖を前に、自問を重ねる。
私の選択は正しかったのだろうか。
エルドリッチが言うように、マナの循環に障害があり、そのために数年で『箱庭』が維持できなくなるのだとしたら、そこが私たちの寿命になるだろう。
『箱庭』は崩壊し、私たちは冷たい宇宙の塵になるのだろう。この『箱庭』の中に住まう、すべての命を道連れにして、だ。
もちろん、私とて命は惜しい。
やりたいことだって、まだ幾つもある。
だが、幾度考えてもアビーを贄にして生き延びるというのはあり得ない話だ。
それが我が身はおろか、この世界のすべての人の命を奪うようなようなものであったとしても、私はアビーを聖女としてこの湖に差し出すことは許さないだろう。
もし彼女を『箱庭』に捧げる時が来るとしたら、その光景を私はあの世で見ることになるだろう。その時は隣にクレアもいるはずだ。
それが今の私の揺るがぬ指針であり、偽らざる本心だ。
その私の結論を、レナはどう思うだろうか。
そう考えて、レナの一部に触れるように感覚を抱きながら湖水に手を触れる。
『聖』属性がなければただの水だと言っていたが、確かに微かな青色の蛍光色をまとった水のようだ。これに人が溶けるというのは、ぱっと見では想像するのは難しい。
手に掬った水を静かに湖面に零して肩の力を抜いた刹那、私の意識がぱちんと弾けた。
見回せば、そこは学院の中庭。
木々には緑が茂り、足元には花が咲き乱れている。
午後の日差しが、暑いくらいに眩しい。
かつて私がそこで過ごした、初夏の中庭だ。
「久しぶりね」
その庭の一角にあるベンチに座った女の子が浮かべているのは、懐かしい笑顔だった。
「レナ……」
私の呼びかけに、レナは嬉しいような困ったような、ちょっと複雑そうな顔で笑う。
「いきなりごめんね。いろいろ話をしたかったから、ちょっと私の『内側』に来てもらったの。座って?」
そういって自分の隣をぽんと叩いた。
勧められるままに座ると、そこにあるのはあの時と同じレナの存在感。
ほのかに香る彼女の香水の匂いも、あの頃と変わらない。
「『内側』、と言うのは?」
私の問いに、レナは言葉を探すように答えた。
「私の意識が創った世界とでも言うのかしらね。今の私はマナに溶けちゃってるから、残っているのは意識だけなのよ。その分、意識の中では大抵のことが可能なの。高い山のてっぺんでも、海の真ん中でも、移動しようと思えばどこでも行ける。だからエリカにそんな私の力を見てもらおうと思ったの」
それはそれでいいのだが、世界中どこでも行けるというのに、何故学院の中庭なのだろう。
そう問うと、レナは胸を張って答えた。
「決まってるじゃない、私が一番楽しい時間を過ごしていた場所だからよ」
そう言って、屈託なく彼女は笑う。
「ただの中庭でしょう」
「ただの、じゃないわよ」
レナが大げさに否定する。
「ここは私にとって一番大事な場所よ。聖女でいなくていい、特別な場所」
「ここがですか?」
「ええ。聖女認定されて以来、友達も、町の人も、両親まで私を『レナ』とは扱ってくれなかったわ。家にいようがどこに行こうが、誰も彼もが聖女様聖女様、ってね。本当に変よね、私は私なのにね。でもね、一人だけ私を聖女様とか言って畏まらない子がいたの。その子とここで過ごす時だけは、私は私でいられたのよ」
気した風もなく語るレナだが、その心情は今の私は手に取るように分かる。
彼女が抱えていた悲しみ。それに気づいてあげられなかったことは一生の不覚だと思う。
でも、気づいていたら、多分自然体では振舞えなかったかもしれない。
どちらが正解だったのかは考えないようにしようと思う。
レナが言う通り、そんなことは大した意味を持たない時間がこの場所には確かにあった。
たった二年ではあったが、恐らくあれは私が死ぬまで色褪せない日々の記憶だ。
「それにしても本当に会うのは久しぶりよね。二年ぶり?」
「手紙はやり取りしてたじゃないですか」
「そんなの、会った内に入らないわよ」
そうして交わす言葉の数々。
汲めども尽きぬ泉のように言葉が湧き出し、あの頃に戻ったように私の顔にも笑みが浮かぶ。
レナが仕事として勤めた修道院の話。
どういう訳か女の子にやけに言い寄られたという話は、レナは嫌がっていても聞いていて面白かった。
お返しに、私のイルミンスールでの暮らしを語って聞かせた。
アビーやクレアを始め、ヴァルターやイーサンのこと。
診療所の仕事のこと。
エンデに脅迫された話についてはレナは大笑いした。
学院時代の思い出話となれば、やはり幾らでも話題が出て来る。
テストのこと。
魔法をしくじって校庭に局地的な大雨を降らせたこと。
真夜中に忍び込んだ屋上で星を見上げたこと。
落ち葉掃除にかこつけて焼き芋をやって、ばれて反省文を書かされたこと。
並ぶのは、綺羅星のような記憶の数々。
ああ、何て楽しい。
何気ないそれらの会話が、こんなにも心を温かくしてくれる。
でも、時間の経過は楽しければ楽しいほどその歩調を早める。
まるで意地悪なランナーのように、私たちを取り巻く時流が加速していく。
そして、人の身でそれに文句を言っても詮無いことだが、どんなものにも始まりがあれば終わりがある。
程なく日が傾き、周囲が茜色に染まっていく。
緑の木々も、咲き誇る花々も、一様に夕日がその赤で染め上げていく。
その夕日もだいぶ地平に迫った時、天使が通ったように話が途切れ、レナは一つため息をついて立ち上がった。
そして私に向き直り、少しだけ影のある笑みを浮かべた。
「そう言えば、まだお礼を言っていなかったわね」
「お礼?」
「アビーを助けてあげて、っていう私のお願い、聞いてくれたでしょ」
「ああ、そのことですか」
「無理を承知でお願いしたんだけど、頑張ってくれたのね。本当にありがとう。感謝してる」
彼女の真摯な言葉に、私は首を振った、
「気にしなくていいですよ。あれくらいならどうと言うこともない」
私の答えに、レナはやや困ったような渋面を作る。
「家を捨てて、しかも追っ手と戦うような経験を『どうと言うこともない』と言うのはないと思うわよ」
「優先順位を考えれば、家のことなど些末なことですよ。レナが困っているのなら、私は自分のできるだけのことはするのです。アビーにもそうだし、クレアにもそうするでしょう。それが私です」
「本当、貴女らしいわ」
その時、初めてレナの表情が曇った。
ここまで必死に取り繕ってきた作り笑顔が、ここに来てその限界を迎えたのだと理解できた。
彼女だけではない。私も似たようなものだった。
「ごめんね、エリカ。私はもう、人の姿には戻れない」
彼女の口から出る重い言葉に、私は俯かざるを得なかった。
「どうにもならないのですか?」
「多分無理ね。それに、教皇が言ったことは嘘ではないの。聖女がいなくなると、この『箱庭』は二年もしないで崩壊してしまう。マナが回らないということはそういうことなの」
「代わりになる魔動器を開発できればいいのでしょうか?」
「かつて、それこそ何万年も昔に開発を試みられたそうだけど、無理だったみたいね」
恐らく、私が思いつくことはすべて先人たちは試みたことだろう。
その上で聖女の用いる今の形があるのだということは分かる。
「だからって、こんな生贄のようなことを……」
「そうね……でも、それでもいいかな、って思うこともあるのよ」
レナの意外な言葉に、私は顔を上げた。
「どうして?」
その問いに対するレナの答えに、迷いの気配はない。
「貴女は私のお願いのために命を懸けてくれた。本当に必死になってアビーを守ってくれたわ。それと同じくらい、私も私の大切な人たちを守りたいと思う。アビーも、クレアも、そして貴女も。私がここからいなくなることで『箱庭』が崩壊すれば、みんな生きてはいられない。だったらそれを守るというのは充分に命を懸ける価値があるものだと思う」
「でも、レナが一人で頑張るというのは、やはり納得できない」
私の言葉に、レナは首を振る。
「それは大丈夫。ここには多くの先輩の聖女たちもいるの。人の身では視たり感じたりは出来ないけど、今の私にはそれが分かるの。教皇は自我が消えたって言ってたけど、それは聖女の意識がマナの縛りから外れて一つ上のステージにシフトしてしまうからなのよ」
「神にでもなるのですか?」
「それに近いと思う。それに、それだけじゃないわ。今の私はマナと同化している。だからこの世界のどこにでも私はいるの。貴女のこともずっと見ていたのよ?」
そう言うレナの足元に、白い猫がひょいと現れる。
霊獣サーベラー。
月神の御使い。
「まさか……」
私の言葉にレナは舌を出した。
「この子、私の一部なのよ。最初はなかなかうまく行かなかったけど、今ではこの子が見たものや感じたものは私も共有できるの。いつも可愛がってくれてありがとうね」
「……それは早く言って欲しかったなあ」
レナがサーベラ―を抱え上げ、私に渡して来る。受け取って胸に抱くと、聞き慣れた声でみゃーと鳴くそれは確かにいつものサーベラ―だった。
「教皇のことは心配しなくていいわ。今も彼とは話を続けてるけど、私たちの母星への旅路の最後の一〇〇〇年、私が最後の聖女としてこの『箱庭』を支える約束をしようと思うの」
話を聞いてちょっとびっくりした。
気絶した教皇の精神はレナのところにあるのか。だとしたら、もしかしたらあの水晶球が砕けたのもレナの仕業なのかも知れない。
「無理やり湖に放り込まれたことは今でもちょっと頭に来てるけど、それはぐっと堪えて勘弁してあげる。その代わり、妖魔を使って人々を虐殺することはやめてもらうし、聖女選定もやめて貰おうと思う。この『聖地』も閉鎖してもらうわ。彼を許す代わりに、それらのことにプラスして、これまでのやり方に代わる『箱庭』の運営方法を彼には考えてもらうことにしようと思うの」
教皇庁が維持してきたそれらの方針の代わりになるものを作り出すのは、恐らく容易なことではないだろう。
だが、レナが『箱庭』を人質にとったからには、教皇の性格を考えると彼は意地でもそれを編み出しそうな気はする。
「だから、そっち方面のことは心配しないで、貴女は貴女の見つけた街で幸せに暮らして欲しい。私はいつも、貴女の傍にいるから」
優しい言葉ではあるが、それは訣別の言葉でもあった。
「レナがいなくなるというのは、どうしても寂しいし、悲しい。ありふれた言葉だけど、この気持ちは多分、貴女より強いと思う」
「ありがとう、そう言ってくれて。その気持ち、本当に嬉しい。でも、もう貴女は先に進んで。私の分も幸せになって欲しいというのが、私の心からの願いだから」
寂し気な、でもどこか満たされたようなレナの笑み。
優しさと、慈愛と、そしてほんの少しだけ悲哀が混ざった笑みだった。
「貴女がこれからお母さんになって、産んだ子が親になって、そうやって未来に向かうのを私は見ていくの。アビーやクレアの未来も見られると思う。そうすれば、一〇〇〇年なんか多分、あっという間のことだと思うの。だから貴女は、悲しまなくていいの」
そう言ってレナは私の掌に何かを乗せた。
「ありがとう、エリカ。貴女に出逢えて、本当によかったと思う」
最後に私の背中に手を回し、少し強く抱きしめてから離れた。
「さようなら、私の親友。そして、これからもよろしくね」
私が言葉を返すより一瞬だけ早く、夕日が地平線に隠れるのと同時に、泣きながら笑うレナの姿が消えた。
「エリカ!」
耳元で聞こえた大声に、私は覚醒した。
見回すと、見覚えのある地底湖。
湖畔に横たわっていた私の傍らで、アビーが心配そうに私を覗き込んでいた。
「大丈夫ですか?」
「ああ、多分」
多分、意識を持っていかれてから何秒も経っていないのだろう。ヴァルターもクレアもさっき見た時の体勢のままだ。
その時、自分の右手が何かを握っていることに気づいた。
手を開いてみれば、それは小さな魔晶石だった。
それは魔晶石にしては歪な形をしていた。
それが何であるかを理解した時、感情の奔流が両目の堰を浚った。
「エリカ?」
魔晶石を見ながら泣き出した私を、アビーが不思議そうに見つめる。
レナと共に過ごした、二年と言う時間。
それは人の短い一生から見ても、長い時間ではない。
だが、そこでレナからもらったものは、仮に永劫の命を得たとしても同じものを手にすることはできないだろう。
貴女に出逢えて、本当に良かった。
それは私も言いたかったことだ。
私をエリカと呼んでくれた、私の初めての友達。
彼女はもういない。
彼女の髪も、声も、仕草も、もう見ることも聞くことも叶わない。
そして、彼女は今もここにいる。
この狭い『箱庭』となって、ここにある。
でも、その距離は触れられるほど近くても、その隔たりは星よりも遠い。
これから一〇〇〇年、私と私たちの子らと共にあると彼女は言った。
この小さな魔晶石が、レナのその想いを形にしたものであるように思える。
それは、できそこないのウサギのような形とでも言えばいいだろうか。
いつかどこかで見たことのある、不格好な猫。
「……猫と言うのは、もっとふわふわした感じで……」
叶うことなら、彼女と共に時を刻んで人生を終えたかった。
彼女が生んだ子を腕に抱き、私が生んだ子を彼女に抱いてもらうような、そんな時間が未来にあって欲しかった。
それはもう、来ることのない未来だ。
どうしても漏れる嗚咽を堪える私の背中に、やさしい手の感触があった。
「悲しいことがあったのですね」
私を抱きしめて、アビーまでもが悲しそうな声で言う。
「悲しい時には、泣いていいのです。エリカはいつだって強がりばかりなのです。たまには弱いエリカでもいいのです」
そのアビーの言葉が、私の中の記憶を呼び起こす。
誰にも顧みてもらえない幼少時を過ごした。
泣いていても、優しい言葉をかけてもらったこともなかった。
その私が、ただ一度だけ、私を大切に思ってくれている人の胸で泣いたことがあった。
あの時感じたレナの鼓動と、今のアビーのそれが同期したように思えた。
私が悲しさに押しつぶされそうな時、こうして手を差し伸べてくれる人がいる。
そのことがまた、泣きたくなるほど嬉しく思えた。




