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第25話 『意思』

「どうかしたかね、顔色がすぐれぬようだが?」

「……こちらの都合だ。気にしないでくれ」


 出し抜けに襲ってきた脱力感に、私は力が抜けそうな膝を必死に鼓舞してエルドリッチの後に続いた。

 唐突にパスが開いて魔力の半分を掻っ攫われた感覚は、例えるなら立ち眩みのそれに近い。

 原因は分かっている。これは間違いなくヴァルターが『奥の手』を使った影響だ。

 遠慮なく使えと言ってあったが、彼ほどの腕利きであればそこまでしなくても大丈夫だろうという思いはあった。

 にもかかわらず使い魔のパスが開いて魔力を持っていかれたということは、戦局が彼自身の力では如何ともし難い状況に陥っているということだ。

 

 ―― 死ぬなよ、ヴァルター。


 そう祈りながら、私は歩みを進めた。



 エルドリッチに導かれて今一度転移した先は、広大な鍾乳洞のような気配漂う空間だった。

 そこにあったのは、差し渡し五〇〇メートルほどの地底湖。天井高は一〇〇メートルほど。

 湖畔に設けられた石造りの舞台のような張り出しには、転移陣が幾つもある。恐らくここは重要な施設なのだろう。

 その湖面に目を向けて、すぐにその湖がただの水たまりではないことが分かった。

 湖水が持つマナの濃度が極端に濃い、というよりまるでマナそのものを液体にしたように青く輝いていた。近くにいるだけですごい力を感じる。


「ここが何か分かるかね?」


 彼の芸風なのか、持って回った言い方をするエルドリッチに私は答えた。


「マナの貯留槽か?」

「近いね。より正確には、こここそがこの『箱庭』のマナを管理している中枢だ。すべてのマナはここを介して『箱庭』に分配され、そしてここに戻る形になっている。君も医学を嗜む者ならば分かるだろうが、肉体で言えば、ここはこの『箱庭』の心臓に当たる場所だ」


 一瞬、そのシステムの構造がイメージできなかった。

 マナと言うのは自然の中に溢れるものだという認識があったが、この『箱庭』ではそれすら教皇庁の管理下だということなのだろうか。


「『箱庭』の大地を今の形に形成するのも、天候を左右するのも、海に彩をもたらすのも、すべてここから流れるマナの作用によるもの。我々はこれを『月神の泉』と呼んでいる」


 御大層なネーミングに思わず苦笑いが漏れた。


「それは結構。それとレナがどう関係がある」

「ここからが聖女と関りがある話になる。この『泉』から『箱庭』にマナを巡らせるためには、あるものが必要でね」

「循環用の魔導器の類か?」

「残念ながら、からくりでは再現できないものがこの世にはあるのだよ」


 あまりに思わせぶりなエルドリッチの物言いに苛立ちが募った。


「もったいぶった言い方はやめてもらおう。レナはどこにいる」


 私の問いにエルドリッチは少し間を置き、何かを宣言するような荘厳な口調で言った。


「目の前に」


 その言葉を嚥下するのに数秒を要した。

 目の前に広がるのは、ただの地底湖だ。幾ら目を凝らしても人影は見えない。


「……どういうことだ」


 堪え切れずに、声が尖った。


「このマナこそが、彼女だ」


 教皇の言葉が鼓膜に入るが、その文字列は前頭葉で形になろうとしなかった。

 何を言っているのだ、この男は。

 混乱する私に対し、教皇は言葉を続けた。


「この大地は自然発生したものではないことは話した通りだが、そのような大地と自然発生した星との間には決定的な違いがあってね。星には『意思』があるのは知っているかね?」


 唐突な出題に、私は首を振った。


「それが精霊の力なのか神の御業なのかは分からないが、自然発生した星ではマナは星の『意思』に沿って流れる。特に何もせずとも、森羅万象はマナに満ち溢れるようになっておるのだ。古くはそれを指して地母神と崇める信仰もあったようだ。だが、この仮初の大地には、そのような『星の意思』と言うべきものが存在しないのだよ」


 普通の星であればマナは自然と流れるが、その紛い物にすぎないこの『箱庭』ではマナは流れないということだろうか。


「『意思』がなければマナは巡らず、マナが巡らなければ『箱庭』はその機能を維持できない。ならば、その『意思』の代わりになるものを用意しなければならない」


 エルドリッチの言葉に寒気を覚える。

 考えたくなことだが、話が読めて来た。

 だが、私の脳が進めるその理解と言う名の演算を、精神が拒絶する。

 それはあまりにもあり得ない、私にとってあってはならない事だからだ。


「言いたいことは分かった。では、その意思をどうやって反映しているのだ?」

「聖女がこの湖に身を沈めれば、それでよい」

「沈めるとどうなる?」

「力なき者にとってはただの水だが、それが聖女であればその魔力と湖水が同調し、肉体と意思は湖水に溶けて世界に拡散していく。そして、聖女はこの『箱庭』と一つとなる」

 

 そして、これまで謎だった言葉をエルドリッチが告げた。


「それを『入星』と呼んでいる」


 ようやく分かった言葉の正体だが、正直聞かなければよかったと思う。

 聖女が溶けた湖。

 それが目の前の水たまりだと、この男は言う。

 それに対し、私は最も肝心な、そして願望が大半を占める質問を告げた。


「その聖女はどうすれば元に戻れる?」


 平静を装いはしたが、どうしても語尾が震える。

 その問いに、エルドリッチは数秒をおいてから答えた。

 私が予想し、そして恐れていた答えを。


「戻れない。『入星』は不可逆だ」


 反射的に、口から自分でも驚くほど重く低い声が溢れた。怒りが自重で自らを押し潰したような、黒い声だ。


「貴様、人を何だと思っている」

「それが聖女に生まれた者の……運命だ」


 私は杖を突き付け、感情のままにエルドリッチを怒鳴りつけた。


「何が運命だ、この外道! そんなにこの『箱庭』が大事なら、まず貴様がその『入星』とやらをすればいいだろう!」

「もちろん、できるものならそうしている」


 憤る私に対して、エルドリッチはぞっとするほど平板な声で返答を返して来た。

 まるで私の憤怒は、既に自分が遥か昔に通って来た場所だと言わぬばかりに。


「それができれば、前途ある年若い娘を神に差し出すようなことをせずとも済んだ。私とて聖職者だ、殉教ということであれば命を惜しむものではない。しかし、それは叶わぬのだ。『入星』においてマナと同化するには、『聖』属性と言うマナとの高い親和性を持った特殊な性質の魔力を生まれ持つ必要があるのだよ」


 淡々と語るエルドリッチの様子に、ようやくこの男の正体が見えた気がした。

 純粋な狂信者と思ったが、それは私の見込み違いだったようだ。

 もしかしたらこの男は、良心をすり潰されて今に至っているのではないだろうか。私に向けられた、その意思の光を失ったような空虚な目を見ているとそんな気がして来る。

 恐らくは教皇となってこの世界の在り方を知って以来、世界そのものを背負うような重圧に押しつぶされ続けて来たのだと感じられるのだ。

 受け入れねばならない、歪んだ正義。それを己の心を殺すことで飲み込んで来たのだろう。


「それが、聖女なのか」

「然様。最初の聖女は『箱庭』を設計した五人であったと言われている。救世を願ったその五人が、それぞれが己の身を核として『箱庭』を創造したとね」


 それは、この『箱庭』が創造された時に遡る話であるらしい。

 滅びに瀕した世界を前に、魔法文明が生み出した唯一の希望。それが世を憂いた五人の女性であったとエルドリッチは言う。

 その時の状況や、その人たちの決意は伺い知ることはできない。

 だが、星の限界という極限の状況においては、人はそのような積極的な自己犠牲すら受け入れることができるのかも知れない。


「当代の聖女が生まれるのは、一〇〇〇年に一度の周期とされている。どういう力が働いて聖女が生まれるのかは分かっていない。そして、その制度の伝承者であるアルタミラ教において、時の聖女を『聖地』に導く義務を追うのが教皇だ」

「それが千年秘祭とやらの正体か」


 私の問いに、エルドリッチが頷く。


「マナに同化した聖女の意思、この場合は魂魄と言うべきだろうか。それにも寿命があってな。それが人の限界なのかも知らぬが、一〇〇〇年もするとその意思が消えてしまうのだ。意思が消えれば、マナは澱む。そのために一〇〇〇年に一度、新たな聖女がこの大地の意思として『入星』する儀式を行う必要がある。それが千年秘祭だよ」


 『箱庭』を維持するための、人身御供を世界に捧げる祭祀。

 だが、どう綺麗ごとを言っても、私にはそれは生贄にしか聞こえない。あるいは世界のための人柱と言うべきだろうか。

 それはどこかの知らない他人ではない。犠牲に選ばれたのは、私にとっては世界と天秤にかけても重さで優る友人なのだ。


「マナの循環が止まれば、数年でこの『箱庭』はその形を維持できずに崩壊する。歴代の聖女は初代と同様、その真実を知ったうえで皆進んで身を捧げて来たそうだ。その事業は、崇高な救世そのものだからね。土壇場まで糾弾の声を上げて泉に投げ込まれたのは、これまでの聖女の中でレナ・オーレリアだけだ。そして、彼女を狂わせたのは……君だよ、エリカ・シャーリー・オブ・クイーンズベリー」


 突然の名指しに私は首を傾げる。どういう意味だろうか。


「君さえいなければ、彼女の対人関係は希薄なままだった。幼少時から親からすら聖女として敬われ、周囲がやや距離を置いて接することで一つ高い位置から社会を睥睨する精神的形質を得る。その方針で彼女の調律は進んでいたのだ」


 聖女に認定された者は、教皇庁の庇護下に入るとは聞いていた。そのことが、同時に聖女としての精神性を刷り込むものだとは思わなかった。

 レナもアビーも、そんな歪んだ教育を受けている気配は微塵も感じなかったが、たまたまその部分に私が気付かなかっただけなのだろうか。


「それなのに、彼女に対してそういう気配を見せず、ただの友人として接した君の言動が彼女の思考に歪みを生じさせた。その余波か、今も『泉』から流れるマナは彼女の憤怒を顕在化したように安定していない。外からの制御も利かぬとあっては、秘祭は失敗と判断せざるを得なかった。当代の聖女に限り、予備がいてくれたことは僥倖だったよ」


 知らず、奥歯が鈍い音を立てた。

 私の形相に、エルドリッチはため息をついた。


「君が怒りを覚えるのは分かる。しかし、聖女の挺身なくしてこの世界は成り立たない。君が友を選ぶのはいい。友情と言うのは美しいものだからね。だが、その結果としてこの世界の滅びることを是とするかね?」


 この男の抱いたであろう苦悩は、理解できるところはある。

 だが、問答無用で贄にしようというのはどうしても受け入れることはできない。

 感情論だと言われたらそれまでだが、理屈だけで飲み込めないものも確かにあるのだ。

 

「アビーはどこにいる」


 私の言葉に、エルドリッチは祭服からリンゴほどの水晶球を取り出した。

 それが光るや転移陣の一つが起動し、そこに膝を抱えてしゃがみ込んだ見知った女の子が出現する。

 絶望した表情を浮かべる彼女は私を見るなり驚愕に目を見開き、そして泣き出した。


「エリカ……」


 私に駆け寄ろうとした彼女の肩を、エルドリッチが抑えた。


「私の話は以上だよ。結論を聞かせてもらいたい。君はこの子はどうすべきだと思うね? このまま世界を見殺しにして君と共にあるか、はたまた世界のために身を捧げて『箱庭』と一つとなるか。聡明な君であれば、私と共にこの子の説得に力を貸してくれると信じている」

「参考までに訊いておくが、前者を選んだらどうなる?」

「私と君とは、決定的に敵同士となる。残念だが、私はアルタミラ教の教皇なのだ」

「結構。よく分かった」

 

 私は腹に力を入れるように、言葉を紡いだ。


「ならば答えよう。私はその子を連れて帰る。力ずくでもな」

「世界がどうなってもいいというのかね?」

「世界の事は家に帰って美味しいものでも食べて、風呂に入って寝る前あたりに考えよう」

「君は未来永劫、滅びの魔女と呼ばれることになるぞ?」

「魔女でも間男でも好きなように呼べ。覚えておくがいい、私は人を指して『予備』と呼ぶ奴が大嫌いだ。そういうことを平気で口にできる奴と、同じ方向を向くことはできない」


 私の言葉にエルドリッチは肩を落とした。


「では仕方がない」

「エリカ、後ろ!」


 エルドリッチの言葉とアビーの言葉が重なった。

 それと同時に私の肩を叩く手があった。

 反射的に振り返ると、そこに怪しく輝く両の眼を持った女魔法使いの顔があった。

 一瞬で私の目を覗き込み、アビーを浚った際に用いたと聞く魔眼を発動させた……らしい。

 次の瞬間に私がやったことは、手にしていた杖を思い切り振り回すことだ。特に何の補正もない樫の杖。それを問答無用で女魔法使いのこめかみにフルスイングで叩きつける。

 割としっかりした杖だったが、それが手元でぽっきり折れたあたり、それなりにダメージはいったはずだ。不意を突いたはずなのにカウンターで殴られた魔法使いの姉さんはさぞ驚いたことだろう。


 生憎と、私のかけている眼鏡にはフリーダ謹製の魔眼・邪眼除けのレンズが入っている。

 冒険者が迷宮内で怪しげな呪詛などを受けた場合、救出後に一次対応する医療スタッフに対してその呪詛を邪眼を通じて拡散する場合があるからだ。


 それでも敵もさる者、苦痛を切り離したような形相で懐に手を入れるが、それはこちらも同様だ。

 投げ合うのは魔晶石。魔法使い同士の戦いのセオリー通りの矢合わせだ。

 『起動』

 短く唱えるルーンが魔晶石に込められた魔法を具現化する。

 敵が投じたのは『呪詛』。こいつが闇の魔法使いなのはクレアの食らったものを見て察しがついていた。

 こちらの魔法は『氷壁』だ。ガードに特化した水魔法の防壁。

 その壁に『呪詛』の霧が阻まれ、壁を破れず霧消していく。

 ガードだけでも頼りになる『氷壁』だが、ただの壁と思ってもらっては困る。私が投じたこの魔法は私なりのとっておきなのだ。


 敵の魔晶石の勢いが止まると同時に、鉄壁となって展開した『氷壁』が轟音を立てて爆ぜた。飛散する氷塊には指向性があり、その行き先はもちろん女魔法使いだ。

 礫となって飛来するリンゴやスイカほどもある氷の塊の連打をまともに食らい、女魔法使いが襤褸切れのように吹っ飛ぶ。

 雨あられと氷塊を食らった彼女は糸の切れた人形のように壁際まで転がっていき、そのままピクリとも動かなくなった。

 哀れな奴だ。何をしようとしたのか知らんが、ケチな真似をせずに初手から私の命を獲りに来ていればそんな目に遭わなかっただろうに。

 

 残心を取りながら、私は胸の内で亡き兄に感謝の言葉を念じた。

 私に向かって兄が使った『氷壁』の魔法。食らった時は両腕を折られた。再現するにはかなりの研究を要したよ。



 流れとは言え、奇襲をかけた魔法使いを一蹴した私にエルドリッチが目を丸くして驚いていた。


「まさかエルザが倒されるとはな……腐ってもクイーンズベリーと言う事か」

「家名は捨てたと言っただろう。その子を返してもらうぞ、エルドリッチ」


 折れた杖を投げ捨て、右手をエルドリッチに向けてルーンを唱える。


「これまでの話を聞いて、私が頷くと思うかエリカ・シャーリー。分かっているだろう、私には教皇としての責務がある」


 そう言ってエルドリッチが今一度水晶球をかざすと、周囲の転移陣がぼやけて妖魔がわらわらと現れる。出て来たのはオークの団体。

 対する私のルーンは、オークたちが出揃うのと同時に完成した。


 The year's at the spring,

 And day's at the morn,

 Morning's at seven, 

 The hill‐side's dew‐pearled,

 The lark's on the wing,

 The snail's on the thorn,

 God's in his heaven - All's right with the world. 

 

 ルーンの結びと共に、私の周囲の空間に広がる無数の青い光点。

 そこから走る、驟雨のような青い光の矢。

 それを受けたオークたちが、次々と絶対零度の洗礼に凍り付いて砕けていく。

 私は冒険者ではないが、機先を制して遠慮なく攻撃魔法を使えばこの程度の妖魔の群れであれば何とでも対応できる。

 五秒もかからず第一陣は全滅したが、その時にはエルドリッチが呼び出す第二陣が出現していた。

 そいつらにも『凍結』の矢を降らせ続けるが、凍り付くそばから新手が召喚されて来る。


 一見すると優勢に見えるかも知れないが、持久戦はまずい。

 不本意な展開に、私は内心で焦りを感じていた。

 ヴァルターに持っていかれたこともあって、魔力の残りが心許ない。

 エルドリッチの力の源が何なのかは分からないが、どちらが先に貯金が尽きるかとなると正直自信がない。

 魔晶石も残り五個。

 そんな状況の中、オークの群れは仲間の氷像を乗り越えて、ひたすら私に迫ろうと進んで来る。


 召喚と殲滅が繰り返される中、アビーがエルドリッチに食って掛かった。


「やめるのです! エリカを傷つけたら許さない!」

「ならば素直に教皇庁に降りたまえ。私には譲れぬものがある。それを妨げる者は敵として排除せねばならん」


 尚も声を荒げようとするアビー。

 彼女もまた、戦おうとしている。

 運命に抗おうとしている。

 サーベラ―が私に見せた映像にあった、強い意志を示すあの人と同じものがそこに感じられる。

 今ならば分かる。

 あれは、レナだったのだろう。

 そのレナと今のアビーの心が、同じ位階にあるように感じられる。

 それが嬉しく、そして頼もしい。


「アビー、私を信じろ」


 更なるルーンを紡ぎ、腹の底に力を入れて私はそう告げた。

 私の一世一代の強がりを聞いて、アビーの視線が私の目を捉えた。

 ハシバミ色の、悪戯っぽくも優しそうな目だ。

 その瞳に、私の黒いそれが映る。

 それだけで、私の想いはすべてが伝わったはずだ。

 私の意思に応じるように、アビーは信念を持って頷いた。

 そしてエルドリッチを睨みつけ、凛とした声で宣言した。


「無駄なことはもうやめるのです教皇。私はもう聖女ではないのです。イルミンスールのアビゲイルなのです。貴方に従うつもりはないのです!」

「……愚かな。ならば言い方を変えよう。この娘の命が惜しくば、聖女としての任を全うすると誓うがいい」


 エルドリッチの水晶球が輝度を増す。

 出現する妖魔たちの勢いが一段と上がり、『凍結』の連打だけでは追い付かなくなって来る。

 やむを得ず虎の子の魔晶石を起動。

 術式は『氷槍』。虚空に生じた鋭利な氷柱が音速でそれらを迎え撃つ。

 だが、このままではじり貧だ。砂時計が落ちるように裡なる魔力が減っていく。

 半歩、また半歩と寄せ手との距離が詰まる。

 一瞬でいい。

 回復薬を口にするだけの、ほんの数秒の時間が欲しい。

 


 その祈りは、何者かに届いた。

 ここは聖地である月。

 神の御許とも言うべき場所だ。

 その場所で、いるかも分からない気まぐれな神様と思しき御方は、その代弁者である教皇ではなく背教者である私に味方した。


 どうやって時間を稼ごうかと脳に鞭を入れていた時、救いの手は出し抜けに現れた。

 勢いを増して襲い掛かって来る妖魔の群れにじりじりと距離を詰められる中、私の前に壁となってそれらを防ぐ背中が割って入った。

 見覚えのある背中だ。

 恐らくは私が知る中で、最も信頼できる男性の背中。 

 その男が手にした槍が疾り、一瞬の攻防でオークたちは眉間を穿たれて息絶えた。

 

「よう、帰りが遅かったんでお迎えに参上したぜ」


 満身創痍と言ってもいいヴァルターが、肩越しに笑いかけて来た。

 どうやって転移を重ねた私を追えたのかは分からない。だが、それでも駆けつけてくれたその頼りがいに溢れた笑顔に、切羽詰まっていた私の中に安堵が広がる。

 守備範囲に入るにはあと一〇年は熟成が必要と思うヴァルターなのに、その私でもクラっと来そうな笑顔だった。


「何者だ」


 エルドリッチの唸り声にヴァルターが威嚇の声を上げる。


「迷宮都市イルミンスールで、ちっとは知られた冒険者ヴァルターとは俺のことよ。てめえか、ドリルエッチとか言う野郎は。俺の身内がずいぶん世話になったようだな」


 槍の切っ先を突き付けるヴァルターにエルドリッチが気圧される。


「まさか、あのサイファを倒して来たのか」

「あの野郎なら先にあっちに行ってあんたを待ってるってよ。最期までしぶてえ野郎だったぜ。それにしても、あんな外道の飼い主だけあるな。ひでえ臭いだぜ、あんた」

「冒険者風情が……」


 そう言って水晶球をかざそうとした時、目の前を走った一陣の風をエルドリッチは感じたことだろう。

 そして、頼みとしていた水晶球がその右手首もろとも宙に舞っていたことに彼が気づくのに数秒を要した。

 床に落ちた手首はその場で湿った音を立てて転がり、水晶球は割れることなくてんてんと泉の波打ち際に転がっていった。


 唖然としたエルドリッチが首を巡らし、ようやく剣を手に傍らに立つ美貌の女冒険者に気づいた。


「き、貴様……」


 かつて信じていた神の代弁者に刃を振るったクレアの表情は、お世辞にも晴れやかではなかった。


「申し訳ありません。私はその子の守役なれば、あらゆる敵からこの子を守る義務があります。貴方も例外ではありません、教皇猊下」


 そう言うとクレアはエルドリッチの腕をアビーから引き剥がした。

 事態の展開が呑み込めずにきょとんとしたアビーの顔に、泣き笑いのような表情が浮かぶ。


「クレア……」

「お待たせいたしまして申し訳ありません、聖……」


 そう言いかけて、クレアは言葉を飲み込んだ。そして、彼女の優しさを形にしたような笑みを浮かべる。


「もとい。待たせたな。助けに来たぞ、アビー」


 アビーはそのままクレアに抱き着いた。

 私たちの伸ばした手がようやくアビーに届いたことを示すように、運命に弄ばれかけた聖女がその守護者の腕の中に帰還した。



 その二人から距離を取り、鮮血が零れる手首を抑えながらエルドリッチが譫言のように唸る。


「守らねばならん……私は、守らねばならんのだ……」


 もはや鬼の形相のエルドリッチだが、大勢は決している。


「勝負あったぞエルドリッチ。降伏するのなら手当くらいはしてやる。今なら飛んだ手首もくっつくだろうが、どうする?」


 私の勧告も、エルドリッチの耳には届かなかったようだ。


「蒙昧なる者たちめが、この『箱庭』に住まう一億の民を破滅に誘うつもりか」


 毒を吐きながら、必死の足取りで水辺に落ちた水晶球に駆け寄る。

 湖水に半ば浸かった水晶球に残った左手を伸ばし、それを掴み取った。

 だが、それを掲げた時、いかなる力が働いたのかエルドリッチの背後で泉全体が微かに輝度を増した。

 それに応じるように、彼の手の中の水晶球が乾いた音を立てて割れ砕けた

 その割れた水晶球から落雷のような閃光が弾け、まるで感電したようにエルドリッチの口から潰れたカエルのような悲鳴が響く。


 呆気に取られる私たちが見つめる先で、白目を剥いて意識を失ったエルドリッチが、朽木のようにその場に崩れ落ちた。

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