第16話 『母親』
「何だかふらふらするのです」
異変は朝の洗面所でのアビーのその言葉から始まった。
歯ブラシを持ったままぼーっとしている彼女を見ると、不自然なまでの赤ら顔。目もやけに潤んでいる。
「……おいおい」
私は歯ブラシを咥えたまま、アビーの額に手を当てた。そして掌に感じた不自然な体温に、私は間を置かずに宣告した。
「すぐに部屋に戻ってベッドに入っていなさい」
素直に部屋に戻ったアビーに対し、道具を揃えて今一度診断する。発熱と倦怠感と節々の痛み。舌圧子を使って喉を見てみれば、扁桃腺も腫れている。
絵に描いたような風邪だ。
そう告げた私に、心配そうな顔を隠そうともしないクレアが縋るように問うて来る。
「大丈夫なのか?」
「心配いらんよ。アビー、昨夜風呂から出た後で体を冷やさなかったか?」
「う~、寝る前にエンデといろいろおしゃべりしてたです」
アビーは困ったよう答えた。おしゃべりしたと言うよりエンデにその日のことをしゃべり続けたというところだろう。エンデは口数が少ないが、あれで結構聞き上手なところがある子だ。その二人が揃うと際限なく話が続いてしまうのはいつものことではある。
とは言え、夏に向かうこの季節、気温の変化が激しいだけに体調を崩す人が出るのはやむを得ないことではある。実際、冒険者にも体調を崩す人が少なくない。
「今日は仕事は休みなさい。受付には私から連絡しておこう。一日寝ていれば治ると思うから、大人しく休んでいるように」
流感ではないのでしっかり寝ていれば問題はない。私の言葉にクレアは安堵のため息をついた。
「過度は心配は無用か。貴公のことだ、よく効く薬があろう」
「いや、薬は出さんよ」
「どういうことだ?」
意外そうな顔をするクレアに私は答えた。
「下手に薬を使うと体に抗体ができなくなるのでな。そうすると同じ風邪を何度もひき込むことになる。自然に任せた方が最終的には得策なんだ」
「抗体?」
「風邪に対する体の抵抗力みたいなものだ」
私の説明が分かったのか分からなかったのか、複雑な表情をクレアが浮かべる。
「薬のことは了解した。では氷水は用意した方が良いのか?」
「氷嚢でも作るのか?」
「いや、飲ませるためのものだ」
そう言い切るクレアに、私は一つ疑問が浮かんだ。
「クレア、参考までに訊くが、お前は今まで風邪をひいたらどうしていた?」
「熱がある時は氷水を飲んで熱を冷ましていたぞ。あとは乾布摩擦だ」
その答えに私は思わず唸った。どこの流儀か分からないが、なかなかにワイルドな民間療法だ。
「いや、さすがにそれはお勧めできん」
「おかしいのか?」
「かなりな。そもそも風邪というものは……」
アビーの枕元で、私は風邪と言う病気について簡単に説明を行った。
一口に風邪と言ってもその原因となるウイルスにはいろいろ種類があり、上気道における感染症と言うことではどれも症状は似ているが、細かく分類していくとそれだけで一冊本が書けそうなくらいの多様性がある。『基本にして深遠』というのは何事にもある話だが、風邪と言うのは奥が深い病気なのだ。
「という訳で、体温が上がるのは風邪の原因になっている病原体に対して体が防御態勢に入っているということなんだ。体温が上がるとその温度変化だけでも病原体へのダメージになるし、体の免疫反応も体温が高い方が活発化する。だが、体温を上げるということは体にとっても負担になることだから、こういう場合は体を休め、暖かくしてしてその機能を補助するのが最善策になる」
「氷嚢も要らぬのか?」
「徒に体温を下げるのは言ったとおり逆効果だが、熱が上がり切ったら冷やしても問題ない。その場合、冷やすのは首や脇の下だ。額に当てると気持ちがいいが解熱効果はほぼないぞ。あと、あまり熱が高くなるようならまたその時に対処する」
私の説明にクレアは眉を寄せて唸った。
「いろいろ違うのだな」
「後は水分補充をまめにして、汗をかいたようなら着替えるようにすればいい。食事は消化のいいものが望ましいな」
「それは私が請け負おう」
「いいのか?」
「この子が寝込んでいるのに離れるわけにはいかん」
「クレアがいてくれるのですか?」
熱っぽい顔のアビーが嬉しそうに笑う。
「うむ、今日は仕事は休む。一日傍にいよう」
「ありがとうクレア、嬉しいのです」
クレアの言葉に、アビーは嬉しそうに微笑んだ。
「一緒にいるのはいいが、あまりおしゃべりして体力を消耗しないようにな。眠れるようなら眠るといい」
「嬢ちゃんが風邪とはな」
ギルドの受付では、いつもと違う雰囲気にヴァルターが意外そうな顔で驚いていた。
「昨夜はこの時期にしては気温が下がったからな、どうも体を冷やしたようだ。今のところ大したことはない」
「それならいいけどよ。それにしても、一日いないだけで受付のテンションがいつもより露骨に下がるって辺りはすげえな」
「元気の塊みたいな子だからな」
見れば別のスタッフがアビーの代わりに窓口を行っているが、確かにいつものような朗らかな雰囲気はなりを潜めている。
『あれ、今日はアビーちゃんはいねえのか?』と聞いてくる冒険者は少なくない。
「人にゃ向き不向きってのがあると思うが、あの嬢ちゃんは人に好かれる才能みたいなもんがあるっぽいからな。こういうところの受付ってのは天職なんじゃねえかと思うわ」
「同感だ」
聖女と言われる立場はアルタミラ教の『顔』のようなところもある。そういう資質に絞って考えれば彼女が聖女向きであったとは私も思う。
こうして一日いないだけでギルドの雰囲気すら変わるようなありさまを見ていると、このまま経験を積んでいけばゆくゆくはギルドの『顔』になっていくのではないかとすら思うくらいだ。先行きが非常に楽しみではある。
午前の診察時間が終わり、昼食のついでにアビーの部屋に寄ってみた。
そっと覗き込むと、気づいたクレアが人差し指を立てた。
「ちょうど眠ったところだ」
「具合はどうだ?」
「呼吸が荒いのが気になる」
「これくらいなら問題ないよ」
私の言葉に、クレアが少し不安げな顔をした。
「薬、やっぱりだめなのか」
「さっきも言ったが、ここで回復を施してしまうと同じ風邪を繰り返し引くことになるからな。心配だろうが、我慢してもらうのが正解なんだ」
「それは理解できるのだが……何とも歯がゆくてならぬ」
露骨に心配そうな顔をするクレアに思わず頬が緩んだ。
「何だか母親のようだな」
私の言葉に、クレアは少し赤くなって戸惑ったような顔をした。
「……そう見えるか?」
「見えるな」
「さっきアビーにも言われたよ。何だかお母さんみたいだとな」
自信がなさげなその表示に私は首を傾げた。
「何か気になるのか?」
私の問いに、クレアは眉を寄せてしばし悩んだ。
「いかんせん、私は修道院の出だからな。母が早くに亡くなって物心つく頃からそういう生活をしていたので、母親と言うものはこういう時にどうするものなのかよく分からぬのだ」
その寂しそうな物言いに、私も言葉を紡げなかった。
「修道院にいた頃は、風邪をひいたら修道女同士で助け合うのが普通でな。とは言え、アビーも孤児院育ちだ、『お母さんみたい』と言っても恐らく正確なところは知らぬであろう」
「アビーなりの理想の母親像をクレアの中に見たのではないか?」
「それならそれでいいのだが、正直なところ言われた私自身、そう思われた際にどう反応すればいいのか見当がつかぬのだ」
自信なさげに悩むその様子に、私は何とか笑顔を作って応じた。
「お前がやりたいようにやればいいと思うぞ。それがクレアお母さんなりの愛し方と言うものだろう」
「それでいいのであろうか」
「形が定まっているものでもないだろう。クレアがそうしてやりたいと思う形が、恐らくはこの場における正解だ」
「……どの口で言っているのやら」
午後の診療所で、私の口から自嘲するように呟きが漏れた。
クレアの言葉は、私の中にも小さな棘となって残った。
母親としての愛し方。そんなものは私だって知らない。
物心ついたあたりから別邸に押し込まれ、それ以降の面倒を見てくれたのは他人行儀な乳母だけだったという生い立ちの私だ。
クレアに対して偉そうなことを口走っていながらも、私にも母親と言うものの役を演じる時の最適解など分かるものではない。読み流した書き物の中で描かれている母親像が情報としてせいぜいと言うところ。その程度の曖昧なイメージしかないのが私にとっての母親像だ。
だが、純粋にアビーを心配し、その傍を離れようとしないクレアの姿勢は恐らくは理想の母の振る舞いに近いと思うし、世間の理想もそうであると信じたかった。
アビーとクレアの関係は、恐らく私が思うより深い。
アビーが聖女に認定された時、その守役に抜擢されたのがクレアだったと聞いている。守役と言うのはガーディアンにして指導役、聖女の生活の基本的な部分から係る濃い関係を持つ立場だ。恐らく孤児であったアビーにとって最も家族に近い存在がクレアであったことは疑いようもない。
そして、子犬のように己に懐くアビーに対し、そのクレアも精一杯の愛情を持って接して来たのだろう。そうでなければアビーのために棄教と言う選択まではできはすまい。
絶対的に信じられる人がいる。
レナに会うまで『誰かさん』以外に誰もいてくれなかった我が身を思うと、正直、アビーのことが羨ましくはある。
そこまで考えて自分の人間の小ささに頭を掻き、私は立ち上がった。
こういう時に使える『薬』があることを、その『誰かさん』に教えてもらっていたことを思い出したからだ。
「ボウル?」
喫茶室に出向いてエンデに相談すると、いつも通りに表情の乏しい顔でエンデは首を傾げた。
「すまんが大き目なものと小ぶりなものを貸してもらいたい。あと、攪拌用の器材も」
「問題ない。他には?」
「食材も分けてもらえると助かる。ミルクと砂糖。できれば卵と蜂蜜も」
「何に使うか質問したい」
「薬を作る」
「薬?」
借り出した道具をワゴンに載せてエンデと一緒にアビーの部屋に持ち込むと、起きていたアビーとクレアが何事かと言う顔をした。
「何を始める気だ?」
「風邪薬を処方しようと思ってな」
「薬? 貴公、薬はダメだと言っていたではないか」
「口にしても大丈夫な薬だ。恐らく風邪には一番よく効く薬だと思う」
私が説明をしている傍で、付いてきてくれたエンデが既に準備を始めている。
まずはタネ作り。用意したのはミルクに砂糖と卵、それに蜂蜜。まず卵を砂糖と一緒に攪拌用のボウルに入れて泡だて器で念入りに攪拌する。舌触りを決める大事な作業だ。次に蜂蜜と牛乳を混ぜてさらに攪拌。手首が強いせいか、エンデの手際は機械仕掛けのように早い。蜂蜜は普通は混ぜにくいのだが、有無を言わさず馬力で解決していく素晴らしさだ。
次いで大き目なボウルに氷を入れ、その真ん中に小さいボウルを置いて準備完了。
小さいボウルに攪拌したタネを注ぎ、次いで周囲の氷に塩を振りかける。
塩と言うのは氷を溶かす性質、より正確には凍る温度を変える効果がある。これを『凝固点降下』と言うが、その効果は凍結防止剤に用いられるくらいだ。そして、溶ける時に周囲の熱を奪うのが特徴。これがこの作業の胆だ。
塩の効果で急激に下がった温度の影響で、大小双方のボウルに霜が降り始める。
小さいボウルの中身も当然影響を受け、自然とタネも端から徐々に凍てつき始める。それをヘラでこそぎ落とすように攪拌していく。ちょっとずつそれを繰り返していくため時間がかかるが、手間をかけた分だけ舌触りが良くなる。冷却が足りないところは魔法も使う。
興味深そうに皆が眺める中で作業を続けること一〇分ほど。
程なく出来上がったペーストをガラスの小皿に載せ、スプーンと一緒にアビーに差し出した。
それを受け取り、アビーは不思議そうな顔をした。
「これが風邪薬なのですか?」
「特製のな」
「何だか冷たそうなのです」
「溶けかけのところをちょっとずつ食べるといい。多分思っている以上に冷たいと思うぞ」
そう答え、クレアとエンデにも同じものを差し出す。
「私にもあるのか?」
「うつっていると困るから予防のためだ」
もっともらしい理由を述べる私をよそに、恐る恐ると言う感じにスプーンで一口掬って口に含んだアビーの顔に、花がほころぶように至福の表情が広がる。
「何ですか、これ!? 何ですか、これ!? ものすごく美味しいのです!!」
そのアビーの様子を見ながら複雑な表情で受け取って口に含むや、クレアの顔にも驚きが広がる。
一方でエンデの方はスプーンを咥えたまま時を止めたように動きが止まっている。反応が薄いようにも思えるが、エンデなりに響くものがあったようだ。
「これは凄いな。天上の食べ物のような味わいだ」
クレアの口から洩れる賛辞に、私なりの奇襲攻撃は概ね成功裏に終わったことを確信した。
「風邪の時に最も美味に感じる食べ物の一つだ。栄養もあるから食欲がない時の栄養補給にも向いている。口に合ったかな?」
「素晴らしいとしか言いようがない」
クレアにもらった言葉は、私の感謝を上乗せして『誰かさん』に伝えることにしたいと思った。
「いろいろすまんな。助手までやってもらって助かった」
引き上げる際、隣でワゴンを押すエンデに感謝を述べると、エンデは首を振った。
「問題ない。それより、あの菓子の製法について使用許可をもらいたい」
「好きにしてくれて構わんよ。店で出すのか?」
「特別な時に作るようにしたい。場合によっては魔法の補助も頼みたいと思っている」
「呼んでくれれば手伝いくらいはしよう。もしヴァルターに出すのであれば、蒸留酒を混ぜるような小技もある」
「……興味深い」
「自由度が高い菓子なんだ。果汁や果肉を混ぜても味わいが変わるから、考えるだけでも楽しいぞ」
「今回のはどういう主旨だったの?」
その問いに、私は少し悩んで答えた。
「お母さんの真心、というところかな」
そう答えた時、ワゴンを押すエンデが足を止めた。
「お母さん?」
「子供が病気の時に、お母さんが看病するというのは何だかとても幸せな構図のように思えてな。アビーを気遣うクレアの様子を見ていて、そんな風に思ったんだ。なので、その二人に相応しいであろう差し入れ、という感じだ」
私の言葉をしばし考え、エンデが言った。
「それは、多分貴女も同じだと思う」
「私がか?」
意外な言葉に私は首を傾げた。
「菓子を作っている時の貴女は、すごく優しげに見えた。見ていて、もしかしたらこれが母性と言うものなのかもしれないと私は思っていた」
「母性?」
「貴方の言葉を借りれば、幸せの構図と言うものだと思った。子供のために何かを作ってあげる時のお母さんと言うのは、こういう表情をするのではないかと考えた」
そう言ってエンデは私の目を見た。
「私は母親と言うものを知らない。でも、いつか母親と言うものになりたいと思っている。その時にどのように子供に接すればいいか、考えるたびに疑問が増えていた。それについて、先ほどの貴女を見ていたら、もしかしたらこれが母親というものではないかとイメージした。漠然としたものではあるけど、お母さんと言うのは多分ああいう顔をするものだと今は思う」
「買い被りだ。私とて親になったことがあるわけじゃない」
「でも、子供のために手間をかけてお菓子を作るのは、理想的な母親ではないかと私は思う。私も母親になったら貴女のような態度で子供に接したい。そう考えている」
朴訥なエンデの真正面からの言葉に、私は少し赤面した。
「それは光栄だ」
その夜、いつものように物干し台でワインを口に含んでいると、クレアが酒瓶をもってやって来た。
「アビーは寝たのか?」
「先ほどな。もう熱も下がって来たからな。貴公の見立て通り、恐らく明日には動けるであろう」
「やはり回復が早いな。若いというのは羨ましいことだ」
「我らもまだ老け込むほどではないと信じたいのだが」
「そうは言うが、最近朝が辛くてな」
「言うでない、心当たりがあり過ぎる。と言うより、夜な夜なこうして酒を食らっているのが良くないのではないのか?」
「それはそれ、これはこれ、だ」
そう応じてクレアのカップにもワインを注ぐ。
「それにしても、貴公のかくし芸には驚いたぞ」
「かくし芸?」
「貴族の令嬢と思いきや、あのような小技を心得ているとは予想外であった。学院あたりで覚えたのか?」
「いや、ある人から教わったものだ。それに、製法も薬の調合と同じようなものだしな」
「アビーのあれほど嬉しそうな顔を見るのも久しぶりであったわ」
「それほどでもないだろう。いつも嬉しそうにしてる子だし」
「謙遜するな。今日のところは素直に賞賛を受け取っておくが良い。本当に喜んでいたぞ」
「喜んでもらえたようで何よりだ」
そう答えると、クレアの表情がふと沈んだ。
「本当に、生来ああいう天真爛漫な子だったのだ。それが何の因果で……」
「こら、悪い癖が出ているぞ」
「すまぬ」
聖女と言う肩書は、自然とそれに応じた振る舞いが求められる。
そういった堅苦しい場所と、アビーの相性はお世辞にもよくないものだとは私でも想像がつく。
伸び伸びとしたアビーの行動に枠をはめるようなことは、恐らくクレアにとっても本意ではなかったのだろう。
「今のあの子は、あの子らしくいられているだろうか?」
私の言葉に、クレアは笑みをもって答えた。
「それは私が保証しよう。恐らく、今があの子にとって人生で一番幸せな時間だと思う」
その言葉に、安堵を覚える。
「それは良かった」
見も知らぬ土地で、やったこともない仕事をする日々。ストレスがないとは言えないと思う。
だが、教会にいて聖女らしく振舞うことを求められていた日々に比べて、今がどうなのかは彼女にしか分からないことだ。
その彼女を最もよく知るクレアがそう言ってくれるのなら、恐らく今のアビーは幸せな時間を過ごしてくれているのだろう。
その時、風に乗って笛の音が聞こえた気がした。
ざわついた空気が肌を刺激する中、音の源を探して視線を走らせる。
「街の方だな」
クレアの言葉に視線を向けると、街の方で幾つも灯が動いているのが見える。風に乗って呼笛の音が微かに響く。
「捕り物か?」
物々しい雰囲気がここまで伝わってくるような感じだ。
その夜、笛の音は遅くまで響き続けた。
幸せな日常の終焉を告げるように。




