それは言葉にすると嘘になる
病院。気が付いた時、私がいたのはそこだった。
薄桃色カーテンに仕切られた病室。カーテンの向こう物音が聞こえる。私が今寝ている所はどうやら、大きさ的にも四人部屋の窓際の一角のようだった。前回と同じく。
左手首を見やると、傷口は白いガーゼに覆われていた。これも前回と同じだった。
右手の窓からは病院の白い外壁が見え、その上では空が白い雲で覆い尽くされていた。
曇天ではない。しかしそこに広がる雲の色は、病院の外壁の白色よりも淡白で、時間を感じさせなかった。
しばらくの間、長方形に切り取られた外の景色を眺めていた。眼下を何台かのトラックが出たり入ったりを繰り返した。医療廃棄物を回収していったのか、それとも物資を届けにきたのか。
そんなたわいない事を考えていると、カーテン越しにカラカラとキャスターの転がる音が聞こえてきた。その音は私の足元で止まり、看護師がカーテンの端からひょっこりと顔を見せた。前回も前々回も、前々々回も、前々々……もう何回もお世話になっている人だった。
「おはよう」
彼女は笑みを浮かべて、その横で手を小さく振った。入ってもいいかな? という彼女の無言の質問に対して、私は軽い会釈とおはようございますという挨拶を以って返答する。時間は朝のようだ。
彼女は一旦カーテンの向こうに姿を消すと、ガーゼやテープ、消毒液やらの乗ったトレーを持って入って来た。そして悲しい事に、私は既に無事な右手を動かして、折りたたみ式のサブテーブルを展開していた。彼女は呆れた笑みを見せながらありがとうと一言述べて、銀のトレーをサブテーブルの上に置くと、私の左側に回った。
「ちょいと失礼しますねー」
そう言って看護師はガーゼをとめていたテープを剥がしてゆく。毛並みに沿って剥がしても、やはり何本かの産毛がテープに取られる。あの時よりも痛くはなかった。
瘡蓋がガーゼとくっついている事もなく、すぐにガーゼは取り払われた。露わになった傷口は二本の糸で縫いとめられていた。
看護師は傷口をいくつかの方向から眺め、
「さっすが。若いから治りが早いねー」
と、明るいの調子で言った。
「今日、退院ですか?」
「うん。治りも早いし、今日の午前中に退院。お母さんが迎えに来るみたい」
看護師はサブテーブルのトレーから消毒薬と新たなガーゼを取った。
「染みるけど我慢してねー」
看護師は消毒薬を傷口に吹きかけ、私は痛みに傷から目を背けた。窓の外に広がる雲には一筋の青い切間が走っていた。
(人生は地獄より地獄的である)
不意に浮かんだ有名な警句に釣られてか、あの青い間隙から蜘蛛の糸でも垂れて来ないかなぁ、と私は思った。
「こんな事するほど辛いんなら、学校辞めてもいいんだよ」
彼女は背後から独り言のような口調で言った。この話題を掘り下げるかどうかは私に一任する、というようにも聞こえた。
傷口が再びガーゼに覆われ、丁寧にテープでとめられる。
「一応、選択肢には入れています」
私はなるべく無機質な、感情を込めない口調で返した。
そういう選択肢を、考えた事はあった。学校を辞める。自主退学する。だがそういう時には必ず私の吝嗇な部分が強く現れ、その選択を迷わせるのだ。
「そう」
彼女は処置し終わった左手首にそっと両手を重ねた。そして私の目をジッと見つめて言った。
「あなたの人生はあなたのもの」
触れ合った場所からじんわりと熱が伝わり、自分の手が冷えていたことに気づいた。同時に聞き慣れた靴音を耳が捉える。カツカツとヒールの音がここに近づいて来る。
「あなたには、自分の人生を自分で決める権利がある」
止めなければ。この話題を続けるのを止めないといけない。そう思う一方で、言葉の続きを聞きたいと強く思う自分も居た。
止めない私に彼女は続ける。
「目標を下げる事、勉強をやめて休憩する事、学校を辞める事もその権利に含まれる事を忘れな…
「ちょっとあなた!」
鋭い声が響き、薄桃色のカーテンが勢いよく開いた。
「うちの子に何を吹き込んでくれてるんですか!」
やはり母だった。
「何って、その」
母の剣幕に彼女は言葉を失った。たじろぐ彼女に母は声を荒げる。
「何も知らない赤の他人が人の家庭の事情に口を出さないで下さい!!」
「私はッ」
「処置の方は済みましたよね」
反論の出鼻を挫かれた彼女は葛と藤が絡まったような面持ちで、終わりました、と言った。
「そ。もう先生には話を聞いたし、帰るわよ」
母は私の体にかかっていた掛け布団を引っぺがした。
「あなたも、自分がこれまで色んな時間を犠牲に積み上げてきた物が簡単に放り出せるような物じゃないってことは知ってるでしょう」
「………」
母は知ってか知らずか、私のケチな性を、迷いの根源を突いてくる。
現状に不満がある。しかし私にはそれに取って代わる代案が無かった。絶望的なまでに、なかった。と言ったら嘘になるかもしれない。色々な本を読んで、あれがしたい、これもしてみたい、と思う事はあった。だがそれを言葉にした瞬間、口に出して言った瞬間、それは無理矢理浮かべた笑みのようなぎこちなさを帯びてしまうのだった。私はそのぎこちなさが嫌だった。まるで自分が公然と嘘をついているように感じられて、自分が自分でない誰かにそう言わされているような気がして、私は口をつぐむのだった。
そして今回も何も言えなかった。
自分の思いを告げろと彼女が目で訴えているのに気づいてはいたが、私の口は病院を後にするまで、貝のように固く閉ざしたままだった。
空は相変わらず淡白な白色の雲に覆われ、あの青い切れ間は跡も残さず消えていた。