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存在感の薄さというものも遺伝するのだろうか。
僕の父さんはどこにでもいるようなサラリーマンだ。趣味らしい趣味もなく、数少ない楽しみは仕事終わりの晩酌と下らないテレビドラマを観ることだけ。
僕には将来の夢というものはなかったけれど、しいてあげるなら、父さんみたいな人間にならないことが目標だった。
高校を卒業した僕はフリーターになった。
アルバイト代のほとんどは、アニメやゲーム、映画や書籍代に消えた。無趣味なことも遺伝するのか、趣味らしい趣味もない僕だったけれど、唯一、物語というものには興味が持てた。もっと正確に言えば、物語が人を惹きつける構造だ。物語を観、読むことで、自分の感情が波打つのを感じるたびに、なぜ虚構の物語がこのような力を持つのか、興味をかきたてられた。
バイトが終わると、夜おそくまでアニメや映画を観る。そんな生活を二、三年ほど続けた。
あるとき、父さんと言い争いになった。
僕がアニメを観ていると、父さんが作品をけなすようなことを言ってきたのだ。前々から父さんは僕がブラブラしていることをよく思っておらず、小言を言ってきた。僕も後ろめたさがあったからいつもは適当に流していたけれどけれど、その時はなぜか無性に頭にきた。
『そんなんじゃろくな人間になれないぞ』
言い争いの中で、父さんがそう言ったことをハッキリと覚えている。
僕はその一言でカッときてしまった。
自分はマトモな人間のつもりなのだろうか。小さな会社で働いて、出世もしているわけでもない。退屈な人生。世間的に見ればマトモなのかもしれないけれど、それなら僕はマトモな人間になるつもりはない。
『お前みたいなつまらない人間が偉そうなことを言えるのかよ』
僕は陳腐なドラマみたいなことを言い放っていた。
それを聞くと、父さんはぐっと言葉に詰まり、何も言わなくなった。その様子を見て、僕は勝ち誇ったような気分になる。ただそれも一時的なもので、あとには苦いものが残った。
それ以降、父さんは僕に小言を言うことはなくなった。しかし、何か決まりの悪さのようなものがあり、僕は家を出ることにした。
そうして、今のアパートに引っ越してきたのが半年ほど前のことだった。
× × ×
「あっ、待て!」
四年のハラダという人が話し終わらないうちに、僕は全速力で逃げ出す。
わき目もふらずに走り続けた僕は人気のない建物の陰に入り込む。
背後を確認し、誰も追ってきていないことを確認すると、座り込んで胸に手を当てた。
「よりにもよってこのタイミングで……」
息を整えようとするが、中々呼吸が落ち着かない。額や背中にとめどなく汗が浮き出てくる。
僕は自分の能天気さを恨めしく思う。いつバレてもおかしくなかったのに、何を能天気に浮かれていたのだろう。
自己嫌悪に陥るが、とにかく逃げることが先決だと気分を切り替える。
どうやって逃げようかと考えていると、人の気配がする。びくりとして身構える僕だったが、姿を現したのは小柄な女の子。部長だった。
何でここが……そう言いかけて気づく。ここは文芸展をやっていた場所だ。構内に不案内なので、無意識のうちにここにやってきてしまったらしい。
「どういうことなの? あなた、うちの学生じゃないの?」
部長は完全に混乱している様子だった。無理もない。学生だと偽ってサークル活動に参加しているなんて、思いもしなかっただろう。
僕は観念して、うつむきながら事情を話す。
「だましてすみません。僕はここの学生じゃないし、ハラダというのもウソの名前です」
「何でそんなことを……内定を取り消すように仕向けたのはあなただと言っていたけれど、あれも本当なの?」
僕は頷く。部長はいよいよ訳が分からない様子だった。無理もない。僕自身、頭がおかしいことをしていると思った。
「あの四年のハラダという人が言っていることは全部本当です。内定が取り消されるように仕向けたのが僕だと気づいて、身元を調べたんでしょう……」
僕は焦りを覚える。僕のやったことは全く言い訳のしようがないのだが、それでも何か言わずにはいられなかった。
「悪いことをしました……でも、物語に興味があったのは本当なんです。サークル活動に参加していたのも、物語の理論を研究するためだったんです。他にやり方がなくて……」
僕は言葉に詰まり、それから絞り出すように
「あ、あの……今度、書籍化するんです」
部長は口をぽかんと開ける。
「インターネットに小説を投稿していたじゃないですか。それで編集者の人に声をかけられたんです。大手の出版社ですよ。僕、作家になるんですよ」
部長は眉間にしわを寄せて、必死に僕の言葉を理解しようとする。しかし、何で今その話をするのか分からなかったようで、首をひねって
「ご、ごめんなさい、それって、今のこの状況になにか関係がある話なの?」
僕は黙り込む。何も関係なかった。自分でも何で今この話をしたのか分からない。
部長は困惑気味に、
「とにかく、このままここにいるのはまずいわ。あの四年のハラダが騒ぎたてて、大学の職員が何人もあなたを探して回っている。下手に逃げずに謝った方が良い」
部長が諭してくれる。
僕はがっくりとうなだれる。部長の言う通りかもしれない。ここで下手に逃げまわらず、素直に謝れば、警察に突き出されるようなこともないんじゃないか。僕は打算的なことを考える。
「そうですね――」
素直に謝ろう。そう思って立ち上がったところで、部長がびくりとして一歩あとずさった。
どうかしたのか? 不思議に思い、周囲を見回すが、他に人はいない。もう一度、部長を見ると、彼女は僕と視線を合わせず、硬い表情をしている。見覚えのある表情。以前、文芸展でサークル以外の人と話している時の顔。
そこでようやく、僕におびえているのだと気づく。
そうだ、今や僕は文芸部員ではない。今、彼女は訳の分からない不審者と二人きりなのだ。
当たり前の話だというのに、ショックを受けている自分に驚く。そして、容易く虚構を信じ込んでしまう人間の不思議な性質を思った。自分自身でついたウソでさえ信じ込んでしまう。いつのまにか、自分はすっかり文芸部員の一員のような気分になっていたようだ。そうじゃない。未来ある大学生なんかではなく、僕はただの底辺の人間だ。
「こ、ここでじっとしていてもどうにもならないよ」
僕は答えず、そのまま立ち尽くす。急にすっと感情が冷えるのが分かった。
部長は相変わらず、おどおどとした様子だったけれど、あまりにも僕が動かないので、訝しげな表情を浮かべる。
「さっきから何を――」
チャイムが鳴り響く。
部長がハッとしたように顔をあげる。授業時間の終りを告げるチャイム。他の棟をうかがうと、授業を終えた学生が一斉に建物内から吐き出されていた。
僕は学生の波とタイミングを合わせて、建物の陰から飛び出す。
「あっ、待ちなさい!」
学生の中に飛び込むと、走るのをやめ、周りの学生に歩調をあわせる。
部長はキョロキョロと周囲をみまわしている。僕の姿は視界に入っているはずだが、僕がいることを認識できないようだ。僕の服装はよくある大学生ファッションで、似たような格好の人はたくさんいる。何より、僕は自分の存在を消すのが得意なのだ。
僕はそのまま人ごみを進み、正門のすぐそばにある地下鉄を目指す。
文芸サークルの人たちには悪いことをした。みんな善良な人だったというのに、だますようなことをしてしまった。脳裏に文芸サークルの部員たちの顔がよぎる。それだけでなく、父さんや、今まで関わってきた様々な人の顔を思い出した。僕は存在感が薄いくせに、なぜか人の心を傷つけることばかりをする。
今は忘れるんだ。自分に言い聞かせる。彼らには悪いことをしたが、おかげで作家デビューというチャンスをつかむことができた。何年もフリーターをして、職歴もない僕はマトモな仕事に就くことはできないだろう。でも、書籍化して、アニメ化まですれば僕は人気作家だ。きっと人の尊敬を集める存在になれる。
僕は輝かしい未来を思い描くことで平静を保とうとする。
正門が見えてくる。地下鉄はすぐそこだ。つい早足になってしまう僕だったが、門柱に寄りかかっている人を見て、足を止める。
その人は待ち合わせでもしていたように、僕の姿を見ると手を挙げる。四年のハラダだった。学生に混じって逃げることを予想していたのだろう。
僕はきびすを返し、慌てて逃げ出そうとする。しかし、彼は貧相な見た目の割に動きが早く、姿勢を低くして、絡みつくようなタックルをされた。僕は地面に倒れて、腕の関節を押さえつけられ、身動きが出来なくなる。
「ゆ、許してください! 本当に悪いと思っているんです! サークルのみんなを騙して……」
「僕が苦労してゲットした内定を台無しにしてくれたな!」
「ツイッターで本名のまま悪口書いたらそりゃバレるよ……」
「うるせえ!」
周囲には人だかりができ始めていた。騒ぎを聞きつけてきたのだろう、視界の隅に大学の職員らしき人たちが見えた。
「こっちです! 来てください!」
ハラダが職員にむかって叫ぶ。彼の注意が僕からそれて隙が生じた。
い、今のうちだ。僕は立ち上がって、彼の拘束を逃れる。
「おい! 待て!」
大学の敷地を出た。地下鉄へと続く階段へと向かう。だが、折りしも電車が到着したばかりのようで、たくさんの乗客が階段からあがってきていた。何かイベントがあったのか、リクルートスーツ姿の学生ばかりだ。僕はその中をかきわけながら進む。
「そいつをつかまえてくれ! 不審者だ!」
ハラダの声だ。人混みで見えないが、追いかけてきているらしい。
就活生の何人かがその声に気付いて僕の逃走を邪魔する。
「不審者をつかまえて社会に貢献すれば就職にも有利だぞ!」
僕は就活生たちの手をふりほどく。かっとなった一人が僕の腹を蹴った。周囲で悲鳴と怒声が入り乱れる。僕がうずくまっていると、就活生たちに脇を抱えられて立たされる。みんなの視線が痛かった。
私たちはちゃんと就職活動しようね。
声が聞こえた。
だれかが言ったのか?
それとも僕の頭の中にだけ聞こえた?
就職しないと、こういうろくでもない人間になるんだね。
また、聞こえた。
僕を遠巻きに見つめているだれかが言ったにちがいない。
だれだ? 僕は周囲の就活生たちを睨みつけた。
ろくでもない人間。
その言葉を聞いて、体が熱くなる。
「就職したところで社会に使い潰されるだけなんだよ!」
僕がさけぶと、みんなが、ぎょっとした顔をして後ずさる。
「僕は何の取り柄もないおまえたちとは違うんだよ! 何の才能も能力もないおまえたちはそういう生き方しかできないんだ!」
僕の脳裏に父さんの姿がよぎる。死んだように感情を動かさなかった父さん。ドラマをみる時だけ感情を豊かにしていた。いい大人がなぜそんな陳腐なドラマにかじりつく? 人生が無意味なものだから、そんなドラマに意味を求めるんじゃないか?
僕は違う。僕は意味のある存在になるんだ。
そのとき、一人だけじっとこちらを見ている就活生がいることに気づいた。
「ハラダ君……」
織本さんが悲しそうな顔でこちらを見ている。
僕は、うつむいて、就活生を突き飛ばし、そのまま逃げだした。