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夕陽と寿命  作者: 下折弥生
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水中

 右手に水気の多い食材を多く含んだビニール袋が食い込み、歩く度ばしゃばしゃと音を立てて揺れる。青とオレンジの混ざる空の元、小学生達がランドセルを揺らし歩道を笑い合いながら渡っていく。子供の笑い声がアスファルトとコンクリートに反響し、その残響だけがこもった音として僕の耳に響く。周りの音が聞こえづらくなったのが最近の僕の悩みだった。カラスの鳴き声もカアカアとは聞こえないし、五時を報せるチャイムのメロディーは隣の町で鳴っているように輪部を失って聞こえる。聴覚の不調の所為で、まるで自分が水の中に居るように感じることさえ多くなった。


周りの音を聴くことから意識を逸らすと、全ての音が一緒くたになり遠くでわんわんと響いているような気がした。急激にぼやけだすオレンジ色の世界の中で目に入った白色に、僕は僕が今より子供だった頃、横断歩道の白い線だけを踏んで歩くという遊びを誰かに教わったことを思い出した。僕はそんな遊びをしたことがなかったから、その遊びは初めて知ったという旨を伝えると子供は総じて一度はする筈の遊びだとその人は決まりが悪そうに答えた。僕はその人のことを子供っぽいだとか、そんな風に思ったわけでは無かったのに。こういうところは少し子供っぽい。けれど、勝手に拗ねてむくれてしまうその人の横顔は決して子供のものではない、僕より一回り大きな大人の顔だ。でも、「やっぱり凄く物知りなんですね」と尊敬の意を示してみせれば得意気に「そうでしょう」と返してくれるその人の笑顔はオレンジの光に照らされて、まるで無垢な小学生のようにさえ輝いて見えた。時給がスーパーのロールケーキ二切れのアルバイトなんて可愛らしいお手伝いの先にある、夕陽に映えるこの笑顔が、子供の頃の僕の何よりも大切な宝物だった。


美しい思い出だ。


ばしゃ、ばしゃ、と僕の体の右側で鳴るビニール袋の音だけが鮮明に聞こえる。コンクリート塀に囲まれた視界の中、その音だけが僕の世界を形作っているようにさえ思えてきた。外界から隔てられたような気持ちになってしまう時には、外に意識を向ける努力が大切なんだと自分に言い聞かせて、周りを見回すとそこは見慣れた近所の住宅街だった。カラスの声が少しだけはっきりと聞こえた。不明瞭な喧騒は相変わらず続いていて、その音の発生源であるはずの小学生の姿は見えないのに長く伸びた影だけが僕のすぐ足下を跳ね回っている。太陽を背にしているからだろうか、地面に延びる様々な影は少し前より随分と長くなっていた。夏が終わり、秋が近づいているのだろう。下がり行くであろうこれからの気温に思いを馳せていると、何故やら急に家で待つあの人に会いたくなった。心持ち少し歩を速める。家に帰るため道の角に差し掛かると、まるで化け物のように僕の影が左側の道に伸びた。先まで背後に居たであろう小学生らはいつのまにか居なくなっていた。


 僕の住んでいるアパートからスーパーまでは少し遠く、歩いて二十分程かかる所にある。本当は家の近所にもう一軒だけあるのだが、そこにはあまり行ったことはない。歩くことは別に嫌いではないし、少し位大変でもいつものスーパーで買い物をした方が勝手も分かっているから都合がいい。だから、近所のスーパーには殆ど行ったことが無いのだ。そして週に二、三回程大学の帰りや休日に買い物に出向いている。そして今日は少し涼しかったからそんなに無理もなく買い物に行って帰ってこられるだろうと踏んでいたのだが、誤算だった。アパートの下に帰りつく頃にはかなり汗をかいてしまっていた。袋をばしゃばしゃ言わせながら外付けの階段を一歩一歩上り、部屋の鍵を開ける。ノブを回して部屋に押し込めば、内側から冷気が音も無く溢れ出してきた。

「ただいま帰りました」

ドアを閉めつつ控え目に部屋に呼び掛ける。今日も返ってくる返事は無かったが、特に落胆するでもなく短い廊下を進む。二枚目のドアを開ければそこはリビングで、エアコンの稼働する音が一層大きくなった。汗をかいている体には少しばかり厳しい室温が僕の体を包んだ。栞さんの明るい髪色のまるこい後頭部が背の低いテーブルの脚の向こうに見えた。近づき体に触れると果たして今日も冷たかった。ただ彼女の体のどこも硬くも柔らかくもなっていないことは確かで安堵する。

「毛布着てなかったんですか?」

床に寝かせてある栞さんは毛布を着ていなかった。部屋着のまま左半身を床に付けている。腕はやわらかく曲げてあり、足はテーブルに引っ掛かり片足だけ伸びていた。


僕は二年前から、この小さな部屋で栞さんと同居している。

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