8話
私たちは再び電車に乗って家の近くまで戻ってきていた。
「?」
私は何か違和感を感じて周りを見回した。
「どうしたの?」
雪恵さんが不思議そうに言う。
「いえ、よくわからないんですけど、なにかいつもと違うような……」
「そう?」
「えっと、よくわからないんですけど」
私はもう一度周りを見回す。静かだ。あれ? ここってこんなに静かだったっけ? 車の音すら聞こえてこない。
「そういえば、電車の中も周りに人がいなかったような……」
違う。電車の中だけではない。私は首をひねって思い出してみる。たしか、雪恵さんと会ってからだ。それからというもの、私は人を誰一人として見ていない。自分の近所まで戻ってきてやっと違和感に気づいたのだ。
「あ、そのことね」
雪恵さんは微笑むと、上着のポケットの中から紫色の液体が入った小瓶を取り出した。
「これってなんですか? 香水?」
「うん、そんなようなものね。体につけるわけじゃないけどね。少し香りがするでしょう?」
「はい、なにか不思議な匂いだなって思ってました」
「人払いの香りなの。私が自分で作ったんだよ。魔女以外の人に効果があるから、便利なのよ」
つまり、それを持っていれば人が寄ってこなくなるのだろうか? 私が尋ねると、「そのとおり」と、雪恵さんは答えた。
「なんとなく無意識に避けてしまうって感じね。今日はウィッチネットで約束した真理ちゃんと会うから。他の魔女が近くにいたらすぐわかるようにね。大丈夫だとは思うけど、念のために」
「そうなんですか」
そういえば、魔女の中にも悪い人がいるって話は聞いてた。でも、あまりそのことは考えたことがなかった。
「前に悪い魔女がいるって聞きましたけど、そういう魔女の人ってどんなことをするんですか?」
「うーん、基本的にはいたずらかな?」
「いたずら?」
「うん、ちょっと性質の悪いいたずらだね。でもそれを話し出すとちょっと長くなるから」
う、それは困る。今は悪い魔女よりももっと大事なことがあるのだ。
「あ、はい。それならまた今度でお願いします。今は早くコロちゃんをさがしたいです」
少し慌てて言うと、雪恵さんは頷いて、バッグから白いチョークを取り出した。
「さて、それじゃ始めるね」
雪恵さんは一度軽く目をつぶると、真剣な表情でアパートの壁になにかの模様を描き始めた。時折手帳を開いて確認しながら一生懸命に図形を描いていく。
私は、壁に落書きをしてしまって後で怒られないかなぁと少し心配になった。けれど、雪恵さんがものすごく真剣な様子で作業しているので、とても声をかけることはできなかった。
10分ほどすると完成したのか、雪恵さんが手を止める。次にバッグの中から小さなナイフを取り出すと、親指の先を少しだけ傷つける。
私が驚いてばんそうこうを取り出すと、――キャラクターもののかわいやつだ――雪恵さんはありがとうと言って笑ってくれた。
雪恵さんは血が少しにじんだ指を描いた模様の真ん中のあたりに押し付けた。その瞬間、描いた図形がぶるっと揺れたように感じた。目をこすってからもう一度見ると特に何も変化はなかったけれど。
雪恵さんは3秒ぐらいで指を離すと、ばんそうこうを傷口に巻き付ける。
次に雪恵さんはコロの首輪を取り出すと、ポイッと壁に向けて投げる。すると、首輪は壁の手前で空中にぴたっと止まった。
「おー」
私は思わず変な声を出してしまった。近づいて見ても、やっぱり空中に浮いている。すごい。
振り返ると、雪恵さんはコロの写真をじっと見つめていた。眉の間にしわを作ってにらみつけるようにしたり、目をつぶってみたり。しばらくそんなことを続けた後、私のほうを見て、おいでおいでと手招きした。
なんだろうと私が雪恵さんに近寄ると、突然雪恵さんの手の中の写真に火がついた。
「「わっ」」
私と雪恵さんの声が重なった。雪恵さんはあわてて写真から手を離すと、すぐに写真は燃え尽きてしまった。
「…………」
何となく気まずい沈黙が流れる。
「うん、大丈夫大丈夫。問題ないよ」
何事もなかったように雪恵さんが言う。――これってマンガだったら雪恵さんのほっぺたに汗が浮かんでたりするんじゃないかな。もしかして雪恵さんってちょっとお茶目なところがあるのかも?
雪恵さんは杖を手に取ると、空中に浮いた首輪の中に差し込むようにした。そして手を離すと、そのままそこに杖が浮く。杖の頭のところを雪恵さんがとんっと叩いた。押された杖は壁にぶつかり、一瞬だけ青く光った。ポトッと首輪と杖が地面に落ちた。雪恵さんはそれを拾うと、バッグから水の入った小さな瓶を取り出し、壁に振りかけた。すると、チョークで書かれた図形が水のかかった部分から消えていく。
良かった。これなら怒られたりしないね。