いち。
「おや?今日は帰りが早いね、おかえり」
ドアを開けると、ぬいぐるみが俺のベッドをトランポリンみたいにして遊んでいた。
ぽよんぽよんと跳ねながら、
「もしかして学校サボったの?やるね」なんて言ってくる。しかも無駄に良い声で。
「た、ただいま…。」
思わず返事をしてしまったけど、一体どうなっているのだろう。
まるい耳につぶらな瞳、アーモンドチョコみたいな鼻と生クリームみたいにちょこん、とついたしっぽ。
丁度俺の顔をすっぽり覆い隠せるくらいの抱き心地のいい体に、薄茶色の年季の入った少しごわついた毛。
元気に飛んだり跳ねたりしているこいつは、小学校入学のお祝いにおばあちゃんが買ってくれたクマのぬいぐるみ、くまたん。
くまたんは出会ったときから一緒にいる、というか寝ている大好きな友達だ。
いつか動き出したらいいな、喋ったら良いななんて、夢みたいなことを思いながら、昨日もくまたんを抱いて眠ったんだ。
もしかして、願いが叶ったのだろうか。それとも、夢を見ているのだろうか。
突然の事に呆気に取られている俺に気が付くと、くまたんは跳ねるのを止めてベッドから降りて、嬉しそうにスキップしながら体当たりしてきた。もふっとした感触を足に感じる。
「さあ、なにして遊ぼうか?優太」
愛くるしい姿に似合わない、王子様みたいな声が俺の名前を呼ぶ。
うん、なんで突然動き出したかなんて、考えなくていいや。だって、くまたん凄く可愛いし、理由なんてどうだっていい。
「んー。とりあえず寝よう」
「えー!寝るの!?」
そういえば、意味が分からないほどの眠気に襲われて学校を早退してきたのだ。とりあえず、寝ないことには何も始まらない。
なんでやねん!みたいなポーズで固まっているくまたんを掴んで一緒にベッドへダイブする。
くまたんに顔を押し付けると、嗅ぎ慣れたいい匂いがした。安心する、あったかい匂い。
みるみる瞼が重くなり、くまたんの可愛らしい顔もぼやけてくる。意識を手放す間際、
「腕枕してあげようか?」なんて声が聞えた。
面白すぎる。
▽
高校生になったら、楽しいことがいっぱい待っていると思っていた。
部活と勉強に励み、信じ合える仲間に囲まれて、放課後は可愛い彼女と手を繋ぎながら帰る。
そんな生活が待っていると希望を胸に中学を卒業した。
一人じゃ何もできない、くっついていないと死んでしまうようなカッコ悪い連中とやっとお別れできる。
そして、そんな連中に合わせていたダサい自分ともお別れできる。
俺は、高校生はもう立派な大人だと思っていた。だからそんなアホな期待をしてしまったのだ。
馬鹿みたい。高校生なんて中学生に毛が生えたようなものだ、対して差は無い。今まで通りみんなで群れて、ぎゃあぎゃあ猿みたいに騒いでいる。
高校生になって二カ月、部活には入っていない、勉強もそんなにしていない。彼女もいない。
俺、吉田優太は、中学の時と同じように人に合わせて馬鹿な事したり、時に真面目になったりしながら適当に過ごしている。
本当はこんな自分が大嫌いだけど、俺はこうする以外に友達を作る方法を知らない。
自分を持つとか、自分らしさとか、そういう事が俺にはさっぱり解らないのだ。
でもまあ、人に合わせるというのは楽で、そしてそれなりに楽しいから、今のままで困る事がある訳じゃない。
こんな感じで自分を甘やかして、たまに自己嫌悪に陥りながらも今日まで精一杯頑張ってきた。決して無理をしているつもりは無かったし、楽しんでいるつもりだった。
だけど、最近は学校に行くことがとても億劫に感じる。起きた瞬間から憂鬱になって、学校に近づくにつれてどんどんお腹が痛くなって、さらには、これから友達と喋らなければならないと思うと急激に眠気が襲ってくる。
どういう訳か俺は、もう六月だというのに五月病を患っていしまったらしい。全ての事が面倒臭く感じる。今日は特に怠くて、誰とも喋る気にならなくて、校門で友達の後ろ姿を発見した瞬間、思わずくるっと踵を返してしまった。
つまり学校をサボってしまったのだ。
ああもう、今日は遠足の班を決める大切な日だったのに。あまり仲良くない人と一緒になったらどうしよう。いつも一緒にいるグループで班を作れるだろうか。俺だけ仲間外れにされたらどうしよう。
今更後悔しても仕方がないのに、頭の中から溢れてくる恐ろしい想像は止まってくれない。
やっぱり学校に行けばよかったかな。いやでも、あの時は帰る以外考えられなかったのだから、仕方ないじゃないか。きっとそういう運命だったのだ。もうどうにでもなってしまえばいい。