第七話 覚醒の時
この部屋を一目見た者は必ず胸に同じ思いを抱くという。
実に研究者らしい部屋だ、と。
机に積まれた資料の山と実験器具の数々。薄暗い照明は目に悪そうだが、雰囲気はばっちり出ている。
それに付け加え用途不明な怪しげな代物もトッピングされ、部屋の中は混沌の坩堝。
空気中には何ともいえないような匂いが充満し、慣れていない者はすぐさまに退散してしまうだろう。
すでにその匂いは床や壁に染み込む様になっており、もはや部屋の匂いになってしまった、といっても過言ではない。
客を迎えるにはあまりに不適切であるが、部屋の主はそんなことは気にしたことも無い。
至極当然の理由としてここは歓待するような場ではなく、まさしく研究室であるからだ。
「う、んん……」
山のように積まれた資料が寝言のような声を洩らした。
いやそれは女性の声であり、よくよく注視してみれば資料の中に埋もれるようにして眠っている者がいた。
頭の上に大量の紙束を乗せてスヤスヤと寝入っているではないか。
おそらく寝入ってからふとした拍子に資料が倒れこんできたのであろうが、それでも起きなかったのはあまりに眠りが深いせいか。
豪胆なだけである可能性も捨てきれないが、どちらにしても幸せそうに眠っている彼女には関係のない話だ。
彼女以外には物音一つさえ立たない部屋の中に、眠りを邪魔する者は誰もいない。
特別広くは無い室内に人影も見当たらず、隠れている様子もない。
そう、人は、いなかった。
「オラァ!いつまで寝てんだ!そろそろ起きろぃ!」
大きな声が部屋中に響き渡って振動する。男の声だった。
些か不明瞭な声色をしていて、何かガラス越しにでも聞いているような声だった。
耳元で立てられたなら鼓膜が破れそうな大声に、しかし彼女は僅かに身じろぎをするだけだった。
強者である。
例え心の奥底から疲れて熟睡していようと、こんな声を掛けられれば起きようというもの。
そんな眠りのエキスパートが体を動かしたせいで、紙束がばさばさと床に落ちていく。
それに伴って彼女の隠れていた容姿が露となった。
まず目を引くのは銀色。長々とした川の流れのような流線を描く長髪。
暗い部屋の中でも映える銀は美しく、太陽の下にでも出れば輝いて更に魅力を増すことだろう。
なめらかな浅黒い肌は髪とのコントラストを強調して、非常によく噛み合っていた。
机の上で腕枕をしているその姿からでも、均整のとれた体と豊満な女性の象徴は隠せていない。
画家が思わず一枚絵を描こうとする程に芸術的であった。
そのボリュームのある体に反して、顔はどことなくあどけない。
長いまつ毛にふっくらとした唇、目鼻立ちも整って十分に美人といえるだろうが、可愛いという印象も拭いきっていないのだ。
美形と可愛さを併せ持った顔立ちといったらいいのだろうか。
瞳でも開けばもう少し印象が固まるのかもしれないが、未だにその目は閉じたままだった。
「んん。今、大事な研究中だから後にして……」
「夢の中でも研究かよぉ!相当だなおぃぃ!?」
律儀に寝言に対して突っこみを入れる男?だったがその姿は未だに見えない。
声のある方向に視線を向けたとしても壁に立てかけた剣があるだけだ。
いや、実の所、それこそが声の主の正体である。
インテリジェンスソード、俗に言う知能ある剣と呼ばれる代物だ。
声帯もないのに何処から喋っているかは疑問だが、現実にこうして聞こえているのだから納得するしかない。
ともかく、知能ある剣――名をオルファという――は怒鳴り声を上げて女性を叩き起こそうとしていた。
「おめぇもうすぐ昼時だぞ!?さっさとその寝ぼけ頭かち割って起きろってんだぃ!」
「そんな痛い起こし方は嫌だなぁ……。わかったよー。だから殴らないでー」
ふぁぁ、と大きな欠伸を洩らしながら女性は体を起こした。
半覚醒だったのだろう、起きようと思えばすぐに起きれたようだ。
まどろみを楽しみたい気持ちは誰にでも理解は出来るだろうが、いかんせん時間帯がオルファの言うとおり遅すぎる。
寝ぼけ眼を指で擦りながら、銀の髪を持つ女性――テトラ・リリアーノは背筋を伸ばしていた。
無防備にも豊かな胸がそれによって更に強調される。
男性がいなかったのは幸いだろうし、女性であろうと嫉妬に口を噛むであろう光景だった。
「無駄巨乳を晒してんじゃねぇぞ、おぉい?野獣どもが飛びつくから気をつけろってんだい!」
「無駄ってのはひどいけど、オルファは何だかんだ言って優しいよねぇ。お母さん嬉しい。後はその口調をどうにか出来ればなぁ」
「優しいとか体がかゆくならぁ!それにこの喋り方は俺のあいでんてぇ……アイデンティティなんでい!べらぼうめぃ!しゃらくせぇ!」
「うん……噛んだのはわかったし、勢いで誤魔化そうとした努力は認めるよ」
「冷静な突っこみありがてぇありがてぇ。って、やかましいわい!!」
ノリ突っこみをする知能ある剣を前にして、どうしてこんなに変な感じになってしまったのかなぁ、と内心でテトラは首を傾げる。
製作者、つまり生みの親である彼女にもこんな性格になってしまうとは予想外だった。
とはいえ少々騒がしいのと口が悪いのは置いといて、自分を心配してくれるし愉快な剣であることは違いない。
長年一緒にいてくれたし、もはや生活の一部となっているといってもいい。
些細なことは気にしないテトラは、まぁいっか、とすぐに思考を切り替える。
「んー!目が大分ぱっちりしてきた。オルファ、今何時?」
「さっきも言っただろうがっ。おめぇの頭は鳥頭かっ!昼時、十一時五十分を俺が教えますってんだい!」
「あらまぁ」
口を手で抑えながら驚きを示すテトラだった。
さすがに本人も起きる時間にしては遅すぎると気付いたのだろう。
おっとりとした声を上げながらも胸中ではしまったなぁ、と軽く後悔していた。
テトラは昨日から今日の早朝にかけて研究に没頭してしまい、徹夜モードに突入してしまっていた。
普段の彼女の様子からは想像もできないほどの集中力であるが、研究者としてのテトラは大体いつもこんな感じだ。
無駄と思いつつもオルファは注意を喚起したが、彼女の耳に届くはずもなく。
せめて無理をしないようにずっと見守っていたのだが、数時間前に電池が急に切れたようにぱたりと力尽きたのである。
「全く、そんなに熱心になって体壊してもしらねぇぞ!?自重しやがれぃ!」
「うん、そうだね。つい夢中になっちゃった。心配かけちゃってごめんね?」
「ししし心配なんてしてねぇし!あ、いや、心配なんてしてないってんだい!なめんなよ!」
「ふふふ。そうだね、そうだねー」
「微笑みが武器になると知った瞬間!?くっ……まぁいい!それより、おめぇさんがご執心のアレはどうなんだ」
少しだけ声の大きさを抑えてオルファはテトラに聞いた。
彼女が最近、いや、ずっと昔から寝る間も惜しんで続けていることがある。
研究所内の仲間からは無理だ、夢物語だと言われ、貶されることさえある一つの研究。
テトラは背もたれにかけていた白衣を取り出すと、颯爽と羽織る。
机の上に置きっぱなしだった眼鏡を手にとって付ければ、研究者としてのテトラがそこに現れた。
「……魔力回路へのアプローチを変えてみたけど変化はないみたい。生体反応も変わらず。影響は皆無、失敗だね」
「何回アプローチを試みたんだ?おめぇさんのことだから無茶したんじゃないだろうな」
「そんなに多くないよ。数百ぐらいかな」
「多いわっ!シンプルに突っこみするぐらいに多いわっ」
「だって頭に次々に浮かんでくるんだもん。どれが有効かわからないから全部試すしかないよね」
「天才はこれだから……普通の奴はもっと前にその方法さえ思いつかなくて諦めてるだろうよ」
オルファのその言葉にテトラは苦笑する。
自分が天才?そんなわけがない。もしも自分が本物の天才ならば今頃……。
彼女はそんなことを思いながら部屋の奥にある装置を見やった。
大きな試験管を逆さにしたような容器、その周囲を取り囲むように足元に入り組んだ太いコード郡。
容器の隣には測定をする為の装置だろうか、ディスプレイには様々な数字が細かく変動しながら描かれている。
巨大な容器の中に満たされているのは薄く青い培養液。
奥が見通せるほどに透明な液体の中に浮かんでいるのは人だった。
それも少年といえるような幼さ。生まれたままの姿で液体の海を漂っている。
その瞳はきっちりと閉じきっていて、深い眠りに陥っていることは明白だった。
事実、少年はどれだけ時が経とうとも、目を覚ますことは一度としてなかった。
テトラはそんな容器の前に立つと、透明な材質で出来た表面を愛しげに撫でる。
まるでそれは大切な人のように。我が子のように。優しく、優しく撫でるのであった。
「君は……君は絶対に私が目覚めさせてあげるからね。私は諦めたりなんかしない。不可能だなんて言わせない。
どれだけの時間がかかろうとも、もう一度、もう一度会う為に」
「…………」
オルファは口を出すことはしない。
彼女の言葉はそれこそ祈りとでもいうような神聖なものだったのだから。
ずっと傍にいたからこそオルファはテトラの思いの強さを知っている。
自分の時間を費やしては研究に血肉を注ぐ。
普通の幸せを手に入れることも出来ただろう。この美貌なのだから引く手数多だったはず。
だけどテトラはわき目も振らずに自分の信じる道を進んできた。
口さがない周りの人々の言葉に傷つきながら、本当はそんなに強くないくせに、泣くこともせずにここまで歩いてきたのだ。
もう止めろ、だとか言えるはずが無い。
オルファはただ見守るだけだった。知能ある剣として彼が手伝えることはほとんどない。
口やかましく怒鳴るだけで精一杯。体を壊すような無茶だけはさせないようにするだけだった。
「………………」
テトラとオルファが見守る中、漂う少年の目が開かれることはなかった。
いつもの光景であり、それは当たり前だった。
軽く嘆息するテトラも、ただ黙って見守るしかないオルファも、奇跡は起きないのだと改めて痛感するのだった。
果たして彼女たちが望む奇跡は未来永劫に訪れないのだろうか。
否。足音はすでにもう聞こえ始めている。
ぴくりと少年の指の端が動く。長い間、身じろぎ一つしなかった少年の体が。
机に向かって研究資料を漁っているテトラと、その姿を見守っていたオルファはその動きに気付くことはなかった。
奇跡は近くまで迫っている。覚醒の時は後もう少し……。
死後の世界があるというならば、まさしく今この時、ロレンスはその場所にいるのだろう。
気付けば一面は真っ白で何一つ物というものは存在しない。
どれだけ遠くを見ようとも何も無い。境界線が見えない白い世界。
それは近くでも同じことだった。
(僕の体が……ない?)
手を掲げようとしてもその感触はなく、足を動かしたとしても同じこと。
もしかしたら目さえも開けていないのかもしれない。
不安に駆られるような出来事に、しかし不思議とロレンスは恐怖を感じてはいなかった。
胸の内にすとん、と落ちてきたからである。
あぁ、そうか、僕は死んでしまったのか、という事実が。
最期の記憶は何だっただろうか。自分は何をしていただろうか。
そうか、手紙を書いていた。皆に向けての手紙だ。
あれはどこまで書けただろうか。記憶が曖昧となっていてよく思い出せない。
手が震えてしまってうまく書けていなかったが、ちゃんと読めるものになっているだろうか。
それだけが今は不安だった。
(それにしても、これから僕はどうなるんだろう)
ひとしきり現世でのことを思い、それからようやくロレンスは自分のことを考え始めた。
巷では死んでしまった後は神の国に旅立つ、という考えが一般的だった。
なにせ神という存在が実際にいるのだ。夢物語というわけでもないだろう。
すると今いる場所がその神の国というやつだろうか。
イメージとは大分に違う。もっと楽園に近いものを想像していたのだが、ここはあまりに何もなさ過ぎる。
さて、困った、と本格的にロレンスが悩みはじめた時、それは起こった。
『我が愛しき人の子……剣聖と謳われし英雄ロレンスよ。私の声が聞こえますか?』
女性の声が唐突に聞こえてきたのだ。
それは耳から聞き取るというよりも内の中から響くが如く。
厳かでいて全てを優しく包み込むようなその声に、ロレンスは戸惑いながら辺りを見回す。
誰もいない。
だが、さっきまでとは何かが違う。見えないけれど、何かがいるとロレンスは感じ取っていた。
(はい、聞こえています。貴方は誰ですか?)
『私はアレフガルドの人々から神と呼ばれる存在……。女神パンドラ』
(神……様?)
『剣聖ロレンス。貴方にお願いしたいことがあってこうして私は参りました』
神様と会ったことも驚きだが、更にその神から頼み事をされるとはロレンスは夢にも思わなかった。
突然すぎる出来事に自分が死んでいることも一瞬だけ忘れて、はたとして思い出す。
そうだ、自分はもう死んでしまっているのだ。
すでに出来ることなんてもうないのではないだろうか。
それとも神の国とやらで何か仕事を任せられるのだろうか。
死んでからも働かなければならないとは世知辛い話ではあるが、神様のお願いとあれば無碍に断ることなど出来ないだろう。
(お願い事とは一体)
『申し訳ないのですが時間はあまり残されていません。端的に言いましょう。貴方にはもう一度、現世へと舞い戻って貰いたいのです』
(……それは生き返る、ということですか?)
時間があまりないということを考慮して様々な疑問を飲み込みつつ、ロレンスはそれをまず最初に聞くことにした。
淡い期待を抱く。再び皆と会えるのならばどんなに嬉しいことだろう。
しかしその希望は早くも崩れ去る。
神からの更なる驚くべき言葉をぶつけられることによって。
『いいえ、貴方には転生をしていただきます。その際に貴方は代償を支払うことになるでしょう』
(転生……別の人物となって生きろ、ということですか。それに代償とは?)
『本来、転生には浄化が必要です。浄化とは魂の記憶を初めの状態に戻すこと。従って記憶や経験となったものは失われます』
(しかしそうなれば僕は今のことも忘れてしまうのではないでしょうか)
『私の力で貴方は貴方のままで転生することは約束しましょう。しかし、少なからずの記憶は失われるでしょう』
(…………)
記憶とはすなわちその人が生きていた証のようなものである。己の存在を証明するものといってもいいだろう。
ならば記憶を失った者は果たして本人だと言えるのだろうか。
人となりが変わっていなかったとしても、己であるとはっきりと言えるのだろうか。
例えば……ノエルとカイルを忘れてしまったのなら、本当に元の自分だと言えるのか。
そんな自分を想像してしまって、ロレンスはとてつもない恐怖に襲われた。
『……貴方には天族と魔族との架け橋になって欲しいのです』
無言になり躊躇しているロレンスを見かねたのか、女神は懇願するように言った。
それはどういう意味なのかと問う前に言葉は続けられる。
『天族と魔族は長い間、争ってきました。それこそ戦う理由が天族であるから、魔族であるからという理由だけで。
欲から始まるものであれば私は理解したでしょう。例えそれがどんなに醜いものであろうと。
だけれど彼らは最早、原因が何であるのかさえ忘れてしまったのです。そんなものに意味などありますか。
このままでは終わりの無い不毛な争いが続くことになるだけでしょう』
天族であるロレンスとてそれは常々感じていたことだ。
魔族であるから恐れる。嫌う。憎む。殺す。
確かに心の底から悪い魔族だっているだろう。残虐な者だっているだろう。
だがそれは天族だって同じことなのだ。魔族だから、と一辺倒に敵としてみなすのは間違っている。
魔族の中にだってきっといい者はいる。
天族は無論のこと、魔族だって救いたいと彼はいつだって思っていたのだ。
気持ちが傾く。生涯をかけても叶えられなかった望みにもう一度手が伸びるというのだから。
神様からの願いどころか、自分にとってもそうなのだから願ったり叶ったりだ。
ただそれは愛した家族を忘れるというリスクを負ってでも成すべきものか?
いや、子供たちを争いに巻き込まないようにするべく、自分だけ犠牲になればいいだけではないのか。
女神の話はそれだけで終わりではなく、葛藤するロレンスを優しく声色で労わりながら道を示す。
『貴方には残された選択もあります。
一つ目。天界に留まること。
私の手伝いは多少して貰いますが、地上で過ごしてきた以上の暮らしは約束しましょう。
ただ地上と繋がりを持つことは出来ません。見守るだけになるでしょう。
二つ目。従来の転生をすること。
魂の浄化を行っての転生ですから全て忘れることになるでしょう』
全ての話を聞いた後にロレンスは決断する。女神の提示した残りの選択肢は決め手となった。
天界に留まり素晴らしい暮らしが待っていたとしても、そこに大切な人がいないのなら意味はない。
守りたい人を見守るだけだなんて拷問に等しい。
全てを忘れて転生することも望まない。まだその時ではないのだから。
ならば残された選択肢は一つだ。
(僕は……最初の選択肢を選びます、女神様)
『最後に聞きましょう。永い間、終止符が打たれなかった争いを止めるのは苦難の道。
貴方が今思っている以上の困難と苦しみがあるのは間違いありません。
それでも天族の英雄ロレンスよ、貴方はそれに立ち向かうことを選びますか?』
(はい、僕はみんなを救いたいです!)
何をたった一人の人間が綺麗な理想をのたまうのか。
個人が出来ることなど高が知れている。そんなことはロレンスだって十分にわかっている。
だが掲げた理想に近づこうとしなければ、いつまでだって辿り着けない。
到底不可能と思われていることだって、少しずつ近寄ることは出来るのだ。
田舎の村で暮らしていた自分が、いつのまにか天族の英雄とまで呼ばれることになったように。
思いがけない未来を手繰り寄せることだって出来るはずなのだから。
『時も迫ってきたようです。早速ですが、貴方には地上へと戻って貰います。
転生の衝撃で混乱するでしょうが、しばらくすれば体調が戻ります。後に魔王と会うといいでしょう』
(魔王と……?)
はて、そんな簡単に魔王と会えるものだろうか。
確かに魔族のトップと関わりを持つのは両者の関係の修復に役立つことは間違いはないのだが。
その時のロレンスは自分が天族側という意識が抜けきれていなかった。
女神は転生した後の種族が天族とは言っていなかったことに気付いていない。
(あ、れ……なんだか……ぼんやりとして)
疑問は意識にもやが掛かり始めたことによって消えていった。
薄れていく意識の中に女神の声が聞こえる。
その時、何故かぞくりと震えるような感触がロレンスに訪れた。
体もない今の状態にあるといえば魂だけ。魂の奥底から奔る得体の知れない感覚が止まらなかった。
『我が愛しき人の子……貴方の未来を私は祝福しましょう』
それは神からの祝福。信徒であれば咽び泣いて昇天するかもしれない慈愛の言葉。
声だけでも全身を抱擁するような愛がはっきりとわかる。
女神はきっと微笑んでロレンスを見ているのだろう。行く末に幸あれと祈りながら。
感動がもたらした震えなのか、それとも。
ロレンスは最後までその正体がわからないまま転生の儀は成し遂げられ、再びアレフガルドの大地へと返り咲くのだった。
ロレンスが始めに感じたのは母の胎内を連想するようなたゆたう感触。
ずっと浸っていたい安らぎを得て、肉体がその海を感じとりたくて無意識にぴくりと動いた。
水を僅かにかき混ぜるような抵抗があった。そこに至ってようやく自分は何処にいるのだろうという意識に結びつく。
真っ暗でわからない。目をあければわかるだろうか。
生まれたての小鹿が立つまでの時間と同じかそれ以上に時間をかけて、どうにか少しずつ目を開けていく。
海だ。海が見える。
自分は海の中にいるのだろうか。薄い青色でとても綺麗だった。
意識はまだはっきりしていなくて、単純なことしか考えられない。
腕を上げてみよう。体の調子を確かめるように動かし始めれば、突然のアラートが鳴り響く。
何処から音がしているのか。それはロレンスの隣の装置みたいなものからだった。
画面上に数値が激しく変動していて忙しそうだ。彼は横目でぼんやりとそんなことを思っていた。
「――――!?―――――!!」
海の向こうで誰かが慌ててこちらに近寄ってきている。誰だろう。銀色の女性だ。
白い服を着ていて眼鏡をかけていて、驚いた表情をしている。
彼女は装置の前を通り過ぎてこちらに手を伸ばした。
だが透明な壁でもあるような途中でその手は止まってしまう。
自然とロレンスは手を伸ばした。そうしなければいけないような気がした。
合わさる手と手。だがそれはけして触れ合ってはいない。とても残念だ。
「――――、――――!!」
彼女は一瞬だけ息を飲んだように喉を詰まらせて、それから手を離すとさっきのとは逆の位置にあった装置をいじり始めた。
高速で叩き込む指捌きは残像でも見えるかのように速かった。
ロレンスは透明な壁に手をつきながらそんな様子を見守っていた。
そんな時間も長くはなく、彼女がキーを打ち終えるとプシューっという音が響くと同時に壁がなくなる。
それと共に海に浮いていた体が急に重力を感じたかのように重くなる。
いきなりのことに抵抗する間もなく、ロレンスは地面にへたり込んでしまった。
力がよく入らない。考えもまとまらない。ぽたぽたと全身から雫が流れ落ちている。海のかけらだろうか。
僕は…………。
「――――ッ!!」
その時、暖かな感触が全身を包み込んだ。
これは人のぬくもり。誰かに抱かれているという感触。
なんとか意識を留めつつ見れば、肩越しに銀色の髪が見えた。どうやら女性に抱き締められたらしい。
戸惑いは沸かなかった。むしろ安心しているといってもいい。
束の間の抱擁を終えた彼女はそんなロレンスの顔を至近距離から見詰めていた。
目端から雫が流れている。彼女は泣いていたようだ。
それはおそらく嬉しさによるものなのだろう。見詰めている彼女の顔は微笑んでいるのだから。
「――――?」
さっきから言葉を話しているようだが、どうにもロレンスには聞き取れなかった。
まだ体が万全ではないせいかもしれない。申し訳ないが何を喋っているのかわからない。
それでもなんとなくだが、彼女はロレンスの名前を知りたがっているように思えた。
幾分か緊張しながら必死な面持ちの彼女に、彼は応えたいと思った。
「……っ。…………れ、……ん…………」
しかしロレンスも初めて喋った赤ん坊のように言葉はたどたどしくてうまく喋れない。
必死に声を出そうとしても一言も満足に話せなかった。
彼の言葉を見逃さないように耳を立てている彼女にはうまく伝わっているだろうか。
何度も試して無理に頑張った反動だろう。そうしている内に眠気が急に訪れた。
抗いようの無い強さのものですぅーっと意識は遠のいていく。
もっと話をしてみたかったが、これは無理そうだ。
そんな中でも彼女は彼を抱き止めたままでいてくれて、ロレンスは安心しながら眠りに陥ることにしたのだった。