第六話 凶報、走る 後編
土人、という種族を知っているだろうか。
天族である彼らは山や地下といった鉱物が豊富な場所に住居を作り、物を作ることに長けている。
小柄でがっちりとした体、横幅の広い体型が特徴でエルフとは仲が悪いことは有名である。
性格としては大らかで酒が大好き。悪く言えば大雑把で飲兵衛の多い種族である。
そんな土人族の集落の一つ。
名前をあげるならばジラートコロニー……土人族は名前にあまり拘りが無く、山の名前プラス集落という意味でジラート、コロニーと名づけている。
そのコロニーの中心から外れに外れ、誰も住居を構えないような場所に一軒、建物が建っていた。
鉄が焼けるような匂いと甲高い金属と金属がぶつかり合うような音が建物の中から聞こえる。
知る人が聞けば、すぐにそこが工房なのだと気付くだろう。
どうしてこんな場所にそんなものがあるのかは謎だ。
どう見ても街の中心に近い場所に居を構えるほうが楽である。材料を仕入れる為にも、客が来易いという意味でも。
工房の中に入ればますます音は大きくなる。土人族にとっては慣れ親しんだ音ではある。
彼らにとっての音楽といってもいいかもしれない。
黙々とリズムを刻むのは一人の土人族。
寸胴の体型に顔面の半分以上の面積を占める髭。
カットする気がないのか髪は乱雑に伸びて、一見するともじゃもじゃが動いているだけに見える。
作業服に厚い前掛けをかけて、一心不乱にハンマーを振り上げては叩き込んでいた。
汗が吹き出るような熱気の中、使い込まれた金床の上に赤く熱せられた金属の棒のようなものが置かれていた。
土人族の男はその端の部分を器具で挟み、もう一方の手でそれに向けて勢いよく振り下ろす。
キン、とぶつかり合った直後に甲高い音が響く。その音に気を取られることなく、延々とその土人族は繰り返していった。
時には白熱した炉の中に入れては棒を熱し、赤くなったそれをハンマーでまた叩いては形を整えていく。
叩く度に火花が散っては空気中の温度を上げていく。
灼熱の暑さにも汗を滴らせるだけで男の表情は微塵も変化はしなかった。
「親方っ!」
もう何度目かもわからない鍛造の作業に休むことさえしなかった男の手がその声によってぴたりと止まる。
男は物凄い表情で振り向いた。その顔に宿っているのは怒りだ。
「てめぇ見習いに戻されてぇのか!?俺が仕事をしている時は邪魔をするなとあれほど言っただろうが!!」
重低音を効かせた怒声を浴びた若者は、それだけでひっ、と身を縮こませた。
彼の弟子という立場にいる若者には、目の前の土人族が仕事の邪魔をされるのを何よりも嫌っているのは知っていた。
だからそれを破ってでも彼に伝えなくてはいけないことがあったのだ。
ぐっと体に力を入れながら若者は負けじと大きな声を出した。
「お、親方!それは後で謝りますので聞いてください!ロレンスさんが、ロレンスさんが死んでしまったそうなんです!!」
「…………何ぃ?」
今度こそ完全に男は動きを止める。怒りのあまりにハンマーを投げ出さんばかりでいた腕も、ゆっくりと下ろしていく。
そして若者の言葉に腕を組みながら、何か思案するかように顔を歪ませた。
土人族にとって剣聖の名前は特別な意味がある。
間違っても笑いの種にするようなことでもないし、この若者も嘘をつく為だけに必死な演技をすることもないだろう。
剣聖の死……それは人間種族だけではなく、土人族全体を震撼させるに十分な出来事であった。
剣聖が土人族にとって特別な存在となったのには理由がある。
ジラートコロニーは土人族の住まう集落であるのは前文で言った通りだが、ここだけではなく全てのコロニーは昔、全滅の危機に瀕していた。
原因は魔族の侵攻である。
良質な武器や防具といった物を作りあげることが出来る土人族は真っ先に狙われてしまったのだ。
コロニーの各地を戦力を割きながら同時に襲わせ、救援の手を惑わせる電撃戦。
どうやってコロニーの所在を確かめたか、それさえも不明なまま侵攻は始まってしまった。
まんま策略に引っ掛かったのは天族の中でも最大勢力を誇る人間たちだった。
戦力が少なければ早々にどこかを諦めるのも容易い。勢力として大きすぎる故の弱点を露見させてしまったのだ。
人間たちが混乱している最中、助けがなくとも土人族は勇敢に戦った。
だが元々の相性が悪い。近接戦闘を得意とする土人族に対し、魔族は矢や魔術による遠距離攻撃を仕掛けてきたのだ。
戦力としては土人族が上回っていたが、遠距離から一方的に攻撃されてはどうすることも出来ない。
その際、誰よりも早く助けに駆けつけたのはロレンスだった。
しかし彼は部隊の一員として、そしてその隊を率いる軍が助けに来たのではない。
たった一人。
それもその時にはロレンスは歳にして六十を越えていた。
そんな人物が現れたとして何の希望を抱くことが出来るだろう。
土人族は絶望に顔を曇らせ、魔族は笑いながら彼を指差したという。
一騎当千、という言葉を彼らが思い知ることになるのにそう時間はかからなかった。
嘲笑う声と諦観する視線の間にあるのは障害物も何もない平原。
そんな原っぱに立つのは一人の壮年の男。始め、魔族たちはこの男がどうするのか様子見をしていた。
もしかすると使者としてこちらに来るのかもしれない。
お笑い種である。戦争はすで始まっている。最早、和平や交渉という段階ではない。
わざわざこちらに来るというのなら見せしめとして処刑してやろう。魔族軍の指揮官はそう思っていた。
男が予想外の行動をとったのはまさにその次の瞬間である。
単身、故にロレンスは壁のように待ち構える魔族軍に向かい、地を蹴り風となって平原を疾走する。
あまりの速さに魔族たちは動揺するが、それも一瞬のこと。
どれだけ速かろうが近づかせなければいいだけだ。
指揮官がすぐさま命じると、彼の元に雨のように矢が放たれ波の如く魔術が次々と押し寄せる。
すでに逃げ道はない。矢に全身を貫かれ、魔術に圧殺される未来しか残されていない。
だが果たして風に矢は突き刺さるだろうか?魔術が届くだろうか?
否。風は自由気ままに行き交うだけである。
まずは火の砲弾のような魔術がロレンスの足元に着弾する。
例えあれが直撃しなかったとしても、爆風によるダメージと散り散りに広がった火の粉が追撃をかけるだろう。
もくもくと上がる煙に頭上からは無数の矢が降り注いだ。
矢継ぎ早に後続の魔術である氷の矢、雷撃の嵐が飛び込む。明らかなオーバーキル。
魔族軍の狙いは圧倒的な武力による戦意喪失だった。その為の生贄がロレンス。
だがしかし、魔術による爆風によって立ち起こった煙を一つの影が突き抜けていく。
その手に剣を持った人間、哀れな生贄となるはずだったロレンスであった。
爆心地にいながらもその身は健在。
傷一つ見当たらないロレンスに魔族軍は更なる動揺に陥りながら矢と魔術を放ち続ける。
無意味な行為だった。
彼は矢の嵐の合間をすり抜け、時には剣で払いつつ前進する。
魔術だろうとそれは関係ない。まるで攻撃そのものが彼を避けているかのようだった。
幾千の砲弾の如き雨嵐を掻い潜り、歩みを止めないロレンスに恐慌さえする者が現れる。
魔族軍にとっては悪夢であっただろう。
総力を持ってしてもたった一人の人間を殺せないのだから。
そうして彼は辿り着いた。
けして届くはずがなかった魔族軍の最前線に。
彼の目の前には敵しかいない。
本来、魔族からしてみればちっぽけな人間一人が軍の前に立ちはだかろうとすれば、愚か者と嘲笑して踏み潰すだけだった。
しかし彼の背中側には大地に突き刺さった矢の数々と、魔術によるクレーター。
この惨状を生きながら踏破してしまったのだ。
骸となるはずだった男は、けして死人では宿すことの出来ない強い意志の光を持った瞳で魔族たちを睨みつける。
本能的に彼らは悟る。
この人間は異質だ、人間でありながら人間ではない、と。
歴史の影にその存在を隠していた剣聖が明るみへと出たのはそれが最初である。
不殺を貫く遅咲きの英雄。後世に語り継がれる伝説はその戦いから始まった……。
だから人間種族だけではなく、土人族にとっても彼は英雄的な存在だった。
ジラートコロニーのみならず、他に点在するコロニーさえ救っていったのだから。
途中に王国軍の加勢が入ったとはいえ、土人族を救ったのは間違いなくロレンスであったと彼らは言うだろう。
若者が必死な形相で彼の死を伝えたとしても不思議ではない。
むしろ若者にとっては英雄としてだけではなく知己の存在でもあった。
何せ彼の刀を作り出したのは親方であるこの土人族であるのだから。
だというのに、その土人族はふんっと鼻を鳴らすと、
「仕事がまだ残っておる。お前も手伝え」
と、一言だけ残して鍛造の続きを始めた。
あまりに冷たい態度であり、さすがの若者も何か一言物申したくもなる。
実際に言葉にしたとしてもその土人族は、ただハンマーを無心に振り下ろし続ける。
何を言っても無駄だと悟った若者は親方のそんな姿に落胆しながら、作業を手伝うことにしたのだった。
その日の夜。ジラートコロニーの古めかしい酒場に一人の客が訪れた。
すでに閉店の看板を下ろしていたはず。だがマスターは馴染みの客だったこともあって追い返すことはしなかった。
無言でカウンターの席に座る客に注文を尋ねる。
いつもはアルコール濃度が高いきつい酒を好むその客が、どうしたことか濃度の低い酒を頼んできた。
客は更に不思議な注文をした。コップをもう一つ、と。
そしてそのコップに水を入れて欲しい、と頼んだのだ。
マスターは一つ頷いて、客の注文どおりに酒と水、コップを用意して注ぐ。
酒が入ったコップは客に。そして水が入ったコップはその隣の席に。
マスターはわかっていた。その客が望んでいることが。彼も土人族であり、この客がある人物をつれてたまに飲みにきていたから。
客は黙祷でもするように黙ってコップを傾ける。
あの程度ではいくら飲んだとしても酔うことはないだろう。だがそれでよかったのだ。
彼が唯一惚れ込んだ男に対して捧げる為のものだったのだから。
捧げるのは空白の席の持ち主に。酒に弱くて水しか飲めなかった剣士。
そうして天族屈指の鍛冶屋グーテタークは、静かに杯を掲げたのだった。
始まりはいつも突然で、不幸に対する身構えなんて誰もきっと気にしてはいない。
自分に幸せを願うことはあっても、不幸が訪れて欲しいだなんて思わないように。
人間族の王、エルフの王女、土人族の鍛冶屋。
彼らは人伝でロレンスの死を知る事になった。心構えもろくにないままに。
それは致し方のないこと。それぞれの自分の居場所に彼らはいたのだから。
どんな思いをロレンスに抱いていたとしても、死に目に会うことは出来なかっただろう。
それはロレンスの家族となったあのノエルとカイルでさえ例外ではなかった。
ニコは宿屋にて、ぐったりと体を弛緩させて休んでいた。
ロレンスの元を旅立ってからはや一週間。ニコは彼らのパワーを侮っていたのだと思い知る。
往来の真ん中だというのに隙あらば喧嘩を始めるのなんて序の口。
気付けば自由奔放なカイルはいつの間にかいなくなって、ノエルも怒りながらその後を追ってしまい、一人ぼっちで取り残されて放置。
ある時は料理に厳しいノエルがまずいと酷評してレストランからは追い出される。
夜になっても有り余る力を持て余しているのか、急に特訓だといっては二人で剣を取り出す始末。
その度にニコが周りに謝って取り成しているのだ。
あの家屋にいた頃は二人ともここまでやんちゃではなかった記憶があったのだが、あれは夢だったのだろうか。
思わず現実逃避したくなったが、ニコは慌ててぶるぶると頭を振る。
あの方から二人のことを任されたのだ。自分がしっかりしなくてはどうする!
そうだ、二人とも旅の高揚感で浮かれてしまっているのかもしれない。
親元を離れての旅などおそらく初めてなのだろう。気持ちはわからなくもない。
しかも行く先は王城。王様に会って話を聞きに行くのだ。
自分ならば緊張でカチコチになって食事も喉に通らなくなっているだろう。
もしかすると彼らも、騒ぐことで緊張を隠しているのかもしれない。
「そう思えば可愛い、のかなぁ……」
実際はどうだかわからないが、そう思うことにする。
問題の二人はニコのことを置いていってしまい、街の探索に出かけてしまった。
二人のことを任されている以上ニコもついていこうとはしたのだが……。
ノエルに体調を心配されて、あまつさえカイルにも最近元気がないからなー休んでいなよ、と言われた。
君たちが言うことじゃないよ!心配してくれるなら大人しくしてて!……と言えないのがニコという青年である。
そういうわけで絶賛休憩中だった。
ふかふかのベッドに頭から突っこみ、うつらうつらとまどろみ始めた時、突然部屋の扉が勢いよく開け放たれた。
ニコの意識が急激に覚醒し跳ね起きる。
彼はメッセンジャーとしての役目を担っているが、兵士としての訓練もちゃんと受けている。
無論、急な襲撃を受けた時の対応も心得ていた。
「何奴!?」
……ニコは扉の方ではなく、反対の窓側に顔を向けていた。
そんなボケをかました後、ようやく気付いたニコが慌てて振り返るとそこにいたのは顔見知りの兵士だった。
彼はニコと同じ連絡要員として各地を行き交う同僚である。
それが何故こんな所に?
肩を上下させては汗だくの顔を拭いもしない兵士は、扉に手をつきながらある事をニコに伝えたのだった。
「ハァ、ハァ、ハァ……」
ニコは走っていた。
整備された街路をがむしゃらに、行き交う人々の間をどうにかすり抜けながら走る、走る。
何処だ、何処に行ってしまったんだ。
焦燥感に駆られながら周りを見渡す。彼らは子供で身長が高くないから見落としやすい。
慎重に、かつ急いで探さなければ。
同僚がニコに伝えたのは剣聖がこの世を去った、という信じられないことであった。
僅か一週間前にはあの家屋から自分たちを見送ってくれたというのに、まさか。
そんな思いを抱いていたが、兵士が言伝を預かったのは王から、と聞くと一気に体の力が抜けそうになった。
嘘であると願いたかったが、王の言葉というならばそれは十分信用に値する。
宿を飛び出したのはそれからだった。
この話は実は民衆の間にも広がっていて、すでに大部分の人たちには知れ渡っているらしい。
自分たちにその噂が聞こえてこなかったのはなんという偶然だろうか。
一刻も早くあの子供たちには伝えなければいけない。
(だけど、二人に本当に教えていいのだろうか)
あんなに仲が良かったのだ。受ける衝撃は果てしないだろう。自分だってこんなに悲しいのだ。
いずれ知る事になるとはいえ、これは正しいことなのだろうか。
……いや、見ず知らずの他人から聞かされるより、少しでもあの家族と繋がっていた自分から伝える事の方がきっといい。
でも一体どんな言葉をかければいい。ニコはどうすればいいかわからなかった。
彼らにかける言葉が見つからないまま、走り続ける。
息も絶え絶えに街の中心部に辿り着いた時、騒動でもあったのか人だかりが出来ていた。
嫌な予感がしたニコは息を整える暇もなくその人込みに飛び込んだ。
謝りながら人を押しのけて、そしてその先にいたのは……。
「嘘をつかないでよ!あの方が死ぬわけないじゃない!!」
ノエルだった。
彼女の前には露天商。怒声を浴びて困り顔となっていた。
買い物か冷やかしにでも来たノエルが品物を見ていた時、商人が雑談でも彼女にしてきたのだろう。
その話の内容が今、大きな噂となっている剣聖の死。
商人に悪意など少しもなかっただろう。ノエルのことなんて知らないのだから。
ただの話のネタとしてあげただけなのだ。
最悪の事態にニコの顔の血の気が失せる。
「落ち着けってノエル!」
カイルはノエルを羽交い絞めにしてどうにか落ち着かせようとしていた。いつもとは全く逆の立場である。
怒りが収まらないノエルに、周りもどうすればいいか対応に困っている様子だった。
「ノエルさん!カイルくん!」
ニコはそんな騒動の真ん中に飛び込む。遅かったか、という思いを抱えながら。
まだニコの言葉は届くのか、ノエルは食って掛かりそうだった体を止めて振り返った。
あからさまにほっとする商人に幾分か同情しながら、未だ眉根を吊り上げては怒っているノエルに近づく。
「助かったよ、にいちゃん。ノエルが俺の言葉全然聞かないしさ」
「だってあの商人が変なこと言うからっ!!」
「ま、まぁまぁ。ここは人の目もありますし、移動しませんか」
渋々、といった感じでノエルは頷いた。
普段はカイル以外には大人しい彼女がここまで感情を露にするのは珍しい。
それほどロレンスが大事だということだろう。
気が重い。そんな彼女に一体何と言えばいいのか。
そしてカイルにも。彼は最初から商人の言葉なんて信じていないのか、いつも通りだった。
尚更それが怖い。もしも真実を知ってしまったのならどうなってしまうのだろうか。
ニコは二人を宿に連れ帰る道中、ずっとそんなことを考えていた。
「………………じいちゃんが、死んだ?」
ぼそり、と呟かれた声は今までニコが聞いたことがないほど低くて抑揚のない声だった。
元気の塊のようであった人物が上げた声とはとても思えない。
だがそれは真実、カイルという少年のものであった。
ニコは宿に帰ってからしばらくして、二人に真実を話した。
結局どう言えばいいかわからなくて、時間をかけるだけかけて、そしてありのままを口にした。
始めは二人とも信じなかった。
ノエルはニコさんまで冗談を言って!と激しく怒り、カイルに至っては笑っていた。
だが、何を言われようと黙っているニコを前にして、彼らは少しずつそれが冗談でも何でもないのだと嫌でも理解していったのだ。
少女の怒りは消え去り、代わりに抑えきれない震えを体に抱えながら口元に手をやる。
少年は殊更に無表情で、呟いたあの一言を最後に何も喋らない。
沈黙が重い。これ以上何を話せばいいのか。
慰めの言葉もきっと気休めにしかならない。
彼らは二度、親をなくしてしまったのだ。
顔も覚えていない彼らの産みの親。そして育ての親として色んなことを教えてくれた、かけがえのないロレンスという人物を。
悲しみは計り知れない。
それでもニコは声を振り絞りながら話を続けた。
「……王様からはロレンス様の所に戻ってもいい、と言われているんだよ。だから……君たちが戻りたいなら……」
「戻りたい」
「カイル……」
すでに瞳からは涙を流していたノエルは、一言だけ言葉を洩らして立ち上がったカイルを見上げる。
感情のない顔だった。
少年はニコにまっすぐ視線を向けるだけで、ノエルに視線を向けることはなかった。
数日後。彼らは戻ってきた。
三人で過ごした家屋の麓にある街の教会。そこにロレンスの遺体があるという。
教会の扉を開ければたくさんの人がそこにはいた。
街中の人々が集まっているのか、外には長い行列も出来ている。
皆、沈痛な面持ちで英雄の死を悲しんでいた。
ロレンスの親族として知られていた二人は人々に見送られながら教会の中に入る。二人の後ろにはニコの姿もあった。
粛々とした空気の中、すすり泣くような声も聞こえる。
左右に分かれた人の波をかきわけて、彼らは進んでいく。
一歩、一歩と静かに歩いている途中、ふと、花の芳しい匂いがした。
人が壁となって見えなくなっている先から来ているのか。
彼らが進むと壁は自然となくなって、そして……その先には花園が広がっていた。
たくさんの色とりどりの花が色鮮やかに咲き誇る
白い花や赤い花、花びらの大きなものや花自体がとても小さく可愛らしいもの。
多種多様の花たちが飾られていた。
花に詳しい者がいたらこの光景を見て驚いたかもしれない。この地方ではけして見られないような珍しい花もあったのだから。
それは住民たちが自ら取ってきたものだった。自然を愛していた彼に贈る為に。
そんな花たちの中心に開けられた棺が置かれていた。
「…………」
無言で彼らは足を進める。傍に寄れば棺の中が見えた。
そこにいたのは花の中に埋もれるように永遠の眠りについた老人。彼らの大切な家族だった……ロレンス。
その顔を見た瞬間、ノエルは崩れ落ちた。
今まで我慢をしていたのだろう。口元を押さえながら嗚咽をあげ、抑えきれない涙が次々と流れていく。
「そ、そんな……そんな……」
寸前まで彼女はどこかで信じていなかったのかもしれない。ロレンスの死を。
目の前の残酷な現実がその思いを容易く打ち砕く。
心がバラバラになりそうな痛みを抱く彼女の手を、隣にいたカイルが力強く握った。
少年も心の奥底から悲しいだろうに、泣くこともせずにノエルを支えようとしていた。
……いや、ともすればカイルが支えて欲しかったのかもしれない。
握られた手と手を取りながら二人は安らかに眠るロレンスの姿を、いつまでも、いつまでも見詰めていたのだった。
その夜、三人は主がいなくなった家屋へ泊まる事にした。
思い出が詰まったこの場所ではつらくないか、とニコは尋ねるが二人は頑なに首を振らなかった。
家について間もなくして、泣き疲れたノエルは早々に床についた。
自分の部屋ではなく、ロレンスの寝室に横になったのは彼の残り香を感じていたかったからだろうか。
最期の時をロレンスはこの場所で過ごしたという。
彼を発見したのは麓に住んでいた住人だった。たまに作物などを分けに来ていたのだが、その時はいくら戸を叩いても返事はなく。
仕方なく庭側に周り家の中を覗いてみると机の上に突っ伏した老人の姿。
その時にはすでに事切れており、たくさんの手紙を枕にして眠っていたという。
手紙は然るべき者たちに預けられた。
彼は名前しかその手紙には書き記していなかったが、いずれも有名な人物。調べるまでもない。
ただ中には会いにくい人物もいたが、信頼の置ける彼らならば必ず無事に届けてくれるだろう。
「カイルくんは眠らないのかい」
ニコはノエルがちゃんと眠ったことを確認して縁側へと出た。
声をかけた少年は座ったまま、何も応えてはくれなかった。
黙ったままでいるカイルの横にニコは腰を下ろす。それでもカイルは顔を伏せたままだった。
少年の様子がおかしいのにニコは気付いていた。数日前、ロレンスが死んだと告げてからずっとだ。
本来の奔放で自由気ままな元気さなど隠れてしまい、静かに、静かすぎるほどに大人しい。
ノエルのように表に感情を出せばまだ救いようがある。
その悲痛な姿を見るだけで心が軋むように痛いが、彼女は感情を溜め込んではいない。
涙も流さず、感情さえ見せず。今、少年の心の中はどうなっているのか。
あまりの悲しみに押し潰されそうになっているのではないか。ニコは心配でたまらなかった。
「にいちゃん……」
その時、ようやくニコの存在に気付いたかのように少年は顔を上げる。
ニコはほっ、としたと思ったのも束の間、少年の表情に愕然とした。
なんて顔をしているのだろう……。
絶望。ただただ絶望、という言葉がその顔には張り付いていた。
うつろな瞳に生気はなく、これがまだ子供といえる少年がする顔であろうか。
ロレンスの死が少年とってはそこまでの重みになっていたのだろうか。ニコのその考えは半分当たりであり、半分外れていた。
少年の手元をよくよく見れば、そこには紙束のようなものが。手紙?
もしかすると、それはロレンスがたくさんの人に向けたあの手紙だろうか。
ニコにも手紙は書き残されていた。当然、ノエルとカイルに向けた手紙もあったのだろう。
そんな老人が最期に遺したメッセージを、少年は手元を震わせては握り締めていた。
一体どうして。どうしてそんな顔をして震えているのだろうか。
「じいちゃんは、じいちゃんは……俺たちのせいで、死んだんだ……俺たちのせいで……」
「なっ……」
「だってこの手紙に書いてある。自分の死は誰のせいでもないって、何かを隠すように書いてある。どうしてそんなことを書いたのか不思議に思った。
それで気付いたんだ。俺たちに最後の稽古をつけたせいだ、って……。だって俺たちが旅立ったすぐ後にじいちゃんは……。
その前にしていたことなんてあれぐらいしかない。
俺、俺、なんでじいちゃんが無理してるって気付かなかったんだろ?
なんで何も考えずに、剣技を教えてくれて、直接剣を交えて嬉しいだなんて思ってたんだろ?
馬鹿みたいに喜んで、何にも、何にも知らなかったくせに……」
「カイル……くん……」
訥々と語る少年に、ニコは名前を呼ぶぐらいしか出来なかった。
あまりに少年の顔が思いつめていて、言わせてはならないことを止められなかった。
「俺、ずっとじいちゃんは傍にいてくれると思ってた。今回の魔王のことだって俺たちがどうにかして、それから何もかも無事に終わって……。
この家に帰ってきたら、おかえり、ってじいちゃんが笑顔で迎えてくれるって信じてた。
だってじいちゃん、お土産買ってくるって言ったら、嬉しそうに頷いてくれたから。
……でも本当は苦しんでたんだ。俺たちのせい、俺の……せいでっっ!!」
「違う!カイルくん、それは違う!!」
「何が違うのさ!!」
カイルはニコから離れるように庭先に飛び降りると、今にも零れんばかりに目端に雫を溜めてニコを睨んだ。
少年が初めて見せた涙は悲しみだけではなく、取り返しのつかない後悔という感情も滲ませていた。
自分たちのせいでかけがえのない人を死なせてしまった。
いや、間接的にではあるが、殺してしまった。どうしようもない事実に未熟な少年の心では耐え切れない。
今にも壊れてしまいそうなカイルの姿に、ニコは叫びながら立ち上がりカイルの肩を強く掴んだ。
「ロレンス様が誰のせいでもないと言うのなら、それは本当なんだよ!カイルくんでも……ましてやノエルさんのせいでもない。
確かにあの方は無理をなさったのかもしれない。でもそれは君たちの為にだったんだよ」
「だからそれは同じ意味だろ!」
「違うよ。誰かのせいではなく、誰かの為にするのならば、それは自分の意志によるものだ。したかったから、やりたかったから。
ロレンス様は最後の時を使って教えたかったんだろうね……」
「…………」
「だからカイルくん、自分に責任を感じないで欲しいんだ。ロレンス様は君たちに残り少ない時間を全て費やすことを選んだ。
その意志を、その思いを……どうかわかって欲しい」
彼はきっと望まない。子供たちが罪の意識に苛まれるなど。
あの手紙は全くの逆効果となってしまったが、その文字に刻まれているのは子供たちの未来を案じての思いやりだったはず。
死人に口はない。
もしも、子供たちが自力であんな答えに辿り着いてしまったのなら、そして手紙にそのことについて何も書かれていなかったなら。
子供たちの心は深く傷つき、一生癒されることのない傷跡に苦しめられたかもしれない。
「わからない。俺にはにいちゃんの言ってることがわからない……今も俺のせいだって思っちまう」
「カイルくん、今はわからなくてもいずれわかる時がくるよ」
「そうなればいいね、にいちゃん」
まるで他人事のように言いながら、カイルは笑う。歪にひび割れた人形のように笑う。
届かない。ニコの言葉は届いていない。
隔絶とした壁が二人の間にはあるかのようにニコは感じた。
どうすればいい。どうしたらいい。
辛抱強く語り続ければいいのか、それとも抱き締めればいいのか。
ロレンス様……私はどうすればいいのですか。
確たる拒絶に足止めを余儀なくされ、言葉さえ紡げない。余計なことを言えば更に殻に篭ってしまうとわかっていたが故に。
口を開かないニコに、カイルは背中を向ける。
肩に置かれていた手さえも振りほどかれ、物理的な繋がりさえ希薄となった。
ニコはそれでも手を伸ばそうとしたが、触れる寸前、カイルはぽつりと声を洩らす。
「俺、なるよ」
「え……」
「俺は剣聖になる」
声は小さくもはっきりとニコの耳に届いた。虫も鳴かない静か過ぎる夜だからこそはっきりと。
そして、その声に含まれた感情の一端さえもニコにはわかってしまった。
「代わりになる。俺がじいちゃんの……代わりになる。剣の頂、天族を守る剣になってやる」
あぁ、それは、夢に憧れる少年の声ではなく。
「俺が……じいちゃんになる」
あまりに悲壮で、救いさえも求めていない、罪悪に押し潰された者の声。
裁く者は自分であり、赦しを与える者はすでにいない。
ニコがどれだけ言葉を重ねようと少年の心が変わることはなかった。
ただ一つ。カイルはニコにお願い事をする。
「ノエルにはこのことは秘密にして欲しい」
少年には似合わない苦笑いをしながら、そうニコに頼むのだ。
あれだけ無邪気に楽しそうに、何者にも縛られない自由な顔で笑っていたのに。
罪に囚われた少年のその笑顔に、切なさで胸が締め付けられる。
断ることなど、ニコには出来なかった……。
とある一室に奇妙な人物がいた。
部屋の中だというのに完全装備で、フルフェイスに全身をあますことなく鎧に身を包んだ性別さえ不明の人物。
身を守るその鎧は銀色。羽根のついた兜も同じ色合いであり、ともすれば展示された芸術品のように綺麗な光沢を放っていた。
それは当然、土人族が自ら手がけた鎧であり最高の材料と最高の職人によって完成された至高の品である。
特殊な技法によって作られたその鎧は全身鎧でありながら軽量。
防具同士が干渉しあうようなヘマもなく、可動領域は何もつけていない時とほぼ変わらない。
防御力に至っては冗談のように硬く、魔術にも抵抗できるという究極の鎧であった。
そう、それは戦う為のもの。
天族の中でも最も強い人物にこそ見合うこの鎧。
鎧の主に選ばれたのは勇者……神に選定されし最強の人類。
「勇者様、失礼します。お届け物です」
声と共に扉の下の隙間からすーっと何かを通される。手紙のようであった。
届け人は用はそれだけだったのか、部屋から遠ざかる足音が聞こえた。
勇者に対してあまりに不敬な態度。
しかしそれは何よりも勇者が望んだことである。人との関わりをあまり持ちたくないのか、予めそうするように命令していたのだ。
勇者は座っていた椅子から腰を上げると、扉の前まで行き無造作に手紙を拾った。
差出人はない。ただ勇者へ、と書かれただけである。
不審な手紙に、しかし勇者はその場で封を切った。
「………………」
無言で読むことしばし数秒。手紙の内容自体は少ないようであった。
全て読むのにそれこそ数秒だっただろう。
全部読み終えたのか、勇者は丁寧に手紙を元に戻した。
それから机の横にまで移動すると、その手紙を引き出しに仕舞い込む。
そして勇者は呟く。
中性的な、男とも、女とも取れるような声で忌々しげに。
「戯言を。逝ってからも心配するようでは、誰も浮かばれんわ」
あの兜の向こうにはどんな表情をしているのだろうか。窺い知ることは出来ない。
ふん、と鼻を鳴らしながら手紙はそれっきり。
勇者は窓辺に近寄るとそびえ立つ天然の壁を見上げる。
雲の上にまで突き抜けた山脈。その向こうには魔界、魔族たちが住む世界があるという。
「剣聖よ、貴様は理想を抱いて死んだのだ。さぞかし幸せだろうよ。私はお前とは違う。
お前は夢を見て、私は現実を見ているのだ。魔族は例外なく殺しつくす……」
怨嗟の声はその兜の向こうから。
天族の希望といわれる者としては不釣合いで、しかし勇者という役割としてはあまりにその感情は正しい。
勇者とは天族にあだなす魔族を滅ぼす者。同族からも恐れられようと、執行の刃は振り下ろさなければならない。
例え友好の手を差し伸べようと、勇者は拒絶する。
そうあれと作られたから。
そうあれと、勇者が思っていたから。
最強の人類。神に選ばれた者。
何百年もの間、天族の守護の盾として表舞台に立っている不滅の存在。
勇者として、まさしく、その姿は正しかった――。